2017年09月24日

◆バノン、北京で王岐山と秘密会談

宮崎 正弘

<平成29年(2017) 9月23日(土曜日)通巻第5443号  


(速報)
 バノン、北京で王岐山と秘密会談

 フィナンシャルタイムズ、サウスチャイナモーニングポストなどが報じ
ている。
 ステーブ・バノン(前米大統領上級顧問。主席戦略官)は香港で講演の
後、ひそかに北京入りし、中南海の共産党施設で、王岐山と会談した。
 会談は90分間で、中国のメディアは沈黙を守っている。

 観測筋によると、会談の内容は腐敗退治キャンペーンではなく、経済問
題だったという。王岐山は勇退説が有力だが、むしろ経済政策に辣腕をふ
るうために、李克強首相と全人代議長に横滑りさせ、王岐山が本来の
フィールドである経済再建のため、首相になると予測している。
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◆加齢疾病連発に悩まされた夏

石岡 荘十



今日書こう、明日こそはと思いながら、胸や背中を孫の手で掻くのに忙し
くて今日に至ってしまった。何の話か。すでに畏友毛馬一三氏が本誌で報
告しているように帯状疱疹“事件”の経緯についてである。

夏は、典型的な加齢疾病といわれる病につぎつぎと襲われ、悪戦苦闘した
3ヶ月だった。この間、私を襲ったのは帯状疱疹。発症から3ヶ月、やっと
終息にこぎつけたと思ったら今度は、加齢黄班変性といわれる眼球の疾病
である。これについては今なお加療の真っ只中であり、別稿で報告したい。

帯状疱疹の兆しが現れたのは6月の末のことだった。「夏バテ」というの
は夏だけの症状だと思われがちだが、気候の変化が激しい梅雨時や初夏に
も起こりやすい。

気温の乱高下に老体がついていけず、何もする気がしない。全身がともか
くけだるい。にもかかわらず梅雨明けの7月、以前からの約束もあって、
猛暑の中、秩父盆地のど真ん中にあるゴルフ場に出陣。疲労困憊、這うよ
うにして帰宅した。完全に体力を消耗していた。これが祟った。

思い返すと、その数日前すでに左胸の皮膚に違和感があり肋骨のあたりに
ピリピリ感があった。間もなく胸から左肩甲骨下にかけて赤い斑点がぽつ
ぽつ。ゴルフの後から左側の神経に沿って激痛が走るようになった。

にもかかわらず、まだ帯状疱疹とは気がつかず、市販のかゆみ止め軟膏
(レスタミン)を塗ったり、サロンパスの湿布を患部に張ったりして凌ご
うと試みていた。無知は恐ろしい。

そうこうしているうちに、赤い斑点は水ぶくれとなり、夜はベッドの上で
転々。背中を孫の手で掻きまくったものだから水ぶくれが破れ、かさぶた
へと変わったがかゆみと痛みは治まらなかった。

遂にたまらず、行きつけの病院の皮膚科に駆け込んだのはゴルフから3週
間を過ぎていた。

「帯状疱疹です。ずいぶん我慢強い方ですねぇ。もうかさぶたになり始め
ていますから、ペインクリニックに行きなさい」という。

帯状疱疹は、幼児に経験した水ぼうそうのウイルスが原因だ。ウイルスは
長い間体内の神経節に潜んでいて、加齢(50歳代〜70歳代)やストレス、
過労などが引き金となってウイルスに対する免疫力が低下すると、潜んで
いたウイルスが再び活動を始める。ウイルスは神経を伝わって皮膚に達
し、帯状疱疹として発症するとされている。

東京女子医大の統計によると、発疹する部位は、一番多いのが私のケー
ス。上肢〜胸背部(31.2%)、次いで腹背部(19.6%)、そして怖いのは
頭部〜顔面(17.6%)などとなっており、高校の友人が右顔面に発症。何
年か前のことだが、今でも顔面の筋肉がこわばっている。

最悪、失明をしたケースも報告されている。頚部〜上肢にも発症する。い
ずれの場合も体の左右どちらか一方に現れるのが特徴だ。

発症してすぐ気づき、すぐ適切な治療を受けた場合でも3週間は皮膚の痛
みや痒みが続く。痛みがやや治まってからも神経の痛みは容易に治まらな
い。数年間、痛みが消えなかったと言う症例もある厄介な加齢疾病である。

まして、私のケースは、初期治療のタイミングを逸した。その祟りで、い
まだにときどき、肋間や背中にピリピリと痛みが走る。

さて治療法である。皮膚科では坑ヘルペスウイルス薬を処方する。ウイル
スの増殖を抑える飲み薬で初期の痛みや痒みを抑える効果があるが、私は
そのチャンスを逃し、我慢強く無為に苦しんだ。

ペインクリニックでは、飲み薬と塗り薬を処方される。

【飲み薬】、

・鎮痛剤リリカプセル:今年4月、保健が適用されることとなった帯状疱
疹の最新特効薬だ。

・セレコックス:リリカカプセルが効かない場合に飲む頓服錠剤。炎症に
よる腫れや痛みを和らげる。
・メチコバール:末梢神経のしびれ、麻痺、痛みを改善する。

【塗り薬】、

・強力レスタミンコーチゾンコーワ(軟膏)

ペインクリニックでの治療5週間。月初旬にくすりの処方が終わった。発
症から3ヶ月の闘病であった。この間体力をつけようと金に糸目をつけず
美食に走った結果、太ってしまった。

毛馬一三氏が先日レポートしたとおりで、初動がこの病気治療の決め手で
ある。他山の石とされたい。




◆アルゼンチンの牛肉

渡部 亮次郎



日本アルゼンチン協会報を見ていたら、飛行機で二十何時間も掛かるアルゼンチンから日本への資本進出が行なわれ、鉄鋼大手の「シデルカ」とNKK(日本鋼管)の合併企業「NKK−t」の資本比率は51対49だという。あのパンパス(草原)の国に、そんな強力な鉄鋼会社があったのか。

「つい最近まで世界に冠たる鉄鋼メーカーであり、油田用パイプの最大供給源であった日本の鉄鋼会社がなぜアルゼンチンの傘下に入らざるを得なくなったのか。

「それは独り鉄鋼だけの問題ではなく、モノ造りを続け、貿易立国でしか生存できない日本にとっての深刻な課題といえよう」と協会の専務理事野村秀隆氏が警鐘を鳴らしている。

アルゼンチンの企業は、いち早く規制緩和を進め、民営化に徹した。いち早く世界規模でのマーケット戦略を展開してきた。

これに対して日本は国内マーケットに固執し、グローバルなマーケット動向を見失った、だから国際競争力を失っているのだとも野村氏は言っている。

日本から南米への移民はアルゼンチンにも多い。特に沖縄からの移民が多い。ヨーロッパからのそれはイタリアからも多いが、上層をなしているのはドイツからの移民である。だから第2次大戦後、ナチの残党の多く逃げ込んだ国がアルゼンチンだった。

アルゼンチンを私たちは太平洋の向かいの国と考えがちだが、大西洋を挟んではアルゼンチンはドイツの隣国なのである。

行けども行けども草原の国である。そこに肉牛が放し飼いされている。景色は何処まで行っても同じである。「ですから遠足をやっても意味が無いのです、と日本人学校の先生が笑っていた。

そのパンパスの中でたらふく牛肉を食べてみようとなって草原の中のレストランに入ってみた。やがて出てきた牛肉はやたら大きくて皿からはみ出していた。

だが、がっかり。さっぱり美味しく無い。調味料は塩だけ。どうにも筋っぽくて残してしまった。

日本大使が語るように米国と豪州の牛は少しはトウモロコシなど穀類を食べるがアルゼンチンのは牧草だけの放牧飼育。筋っぽいわけである。

日本の牛肉は草と穀物による人工飼育だから脂っぽく柔らかい。これに慣れて育った日本人はアルゼンチンの牛肉に慣れるのは手間が掛かるだろう。

江戸にやってきたアメリカの黒船が幕府に牛の差し入れを求めた時、えっ、アメリカ人は船の中で農作業をするのかと思ったと伝えられている。殺して食べるなんて想像もできなかった。

その日本人が表向き四足を食べるようになったのは、明治天皇が食した明治4年以降である。それも精々すき焼き。ステーキはもっともっと後である。アルゼンチンの牛肉にはまだ遠い。


◆奈良 木津川だより 高麗寺跡 B

白井 繁夫



飛鳥時代に創建されたと云われている古代寺院の「高麗寺跡こまでら跡」について、@では寺名が「高麗寺:こまでら」となった由来や時代の背景について、高麗寺跡Aでは発掘調査の出土品の中で、出土遺物の数量などが多くて年代を文様などから比較的に区分しやすい瓦(軒丸瓦.軒平瓦)から高麗寺について記述しました。

今回Bでは、昭和13年の第T期発掘調査の結果、国の史跡と認定された高麗寺跡の伽藍配置や瓦以外の出土品を精査して、V期調査まで(平成22年の第10次発掘調査まで)の間に確認された概要を下述します。

★高麗寺の創建は7世紀初頭、伽藍整備は7世紀後半、伽藍配置は法起寺式
  
 主要堂塔が東に仏舎利を祀る塔、西に本尊仏を祀る金堂を並置して、それを囲む回廊
が北の講堂、南で中門に接続している様式(南北回廊200尺:59.4m、東西201尺:
59.7mのほぼ正方形)
 高麗寺の伽藍配置は川原寺式から変化して法起寺式へと移行の初例と思われます。

★南門.中門.金堂が南面して一直線に並び、講堂の基壇が荘厳で特異な伽藍配置

川原寺式伽藍配置から法起寺式への変化の途上か?(添付の「各寺院の伽藍配置」参照)
高麗寺は西金堂の正面が南面し中門.南門と直線状に並びます。川原寺は北講堂.中金堂.中門.南大門は一直線状ですが西金堂は正面が東塔に対面しています。

(仏舎利を納めた塔より仏像を祀る金堂を重視する考え方か?
飛鳥時代から天平時代へと伽藍配置が変化する過程の先駆けではと思われます。)

高麗寺の講堂の基壇は三層構造の豪華さで、丁度川原寺の中金堂と同じ位置にあります。
高麗寺の初期設計時には講堂の場所に中金堂を予定していたのか?と思われるほど
基壇は荘厳な造りでした。
  
飛鳥時代、高麗寺が創建された時期には七堂伽藍を完備した寺院は飛鳥寺が国内では
唯一の寺院でした。その他の寺は一.二堂程度の草堂段階?(捨宅寺院?)であったと考えられています。

★高麗寺の南門の屋根には鴟尾があり、最古の築地塀が原形の状態で検出されました。

  南門跡は桁行20尺(5.94m)x 梁間12尺(3.56m)、屋根は切妻造りで鴟尾を
置いた八脚門、南門に接続する築地塀が南辺築地跡から原形を留めた、極めて良好な
状態で検出されました。

7世紀に築地塀が構築された例はいまだ検出されていません。8世紀の奈良時代になって  寺院の外画施設とする築地塀が一般的に用いられるようになったのです。

高麗寺の築地塀は7世紀後半のものであり、検出遺物は国内最古の出土物の例です。
白鳳時代の築地塀が残っていた事だけでも極めて珍しいのに、ラッキーにも壊れ方が建物の内側で原形を留めていたことです。

 (飛鳥寺南辺、川原寺南辺、東辺にも築地塀の存在説がありますが、現在も出土例は有りません。)

★高麗寺の終焉時期の推測

  文献上では廃絶が不明の寺院ですが、出土遺物の中から、平安時代の土器である灰釉陶器が見つかりました。この陶器から平安時代の末期頃(12世紀末から13世紀初)まで存続していたのではないかと云われています。

天武天皇は壬申の乱で功績のあった狛氏一族の氏寺の創建を認め、白鳳時代から奈良時代にかけて全盛期を迎えた高麗寺の状況ですが、聖武天皇が高麗寺の東方約3kmの瓶原(みかのはら)に恭仁宮を造営して、恭仁京(木津川市)へ遷都した頃(天平12年)、木津川の船上から見える高麗寺は南門の屋根には鴟尾が在り、当時は珍しい築地塀越に東塔が聳え西の輝く金堂など、当時の人々はこの大寺院を畏敬の念で仰ぎ見たことと思われます。

参考資料: 山城町史  本文篇  山城町
   南山城の寺院.都城 第106回 埋蔵文化財セミナー資料 京都府教育委員会
   木津川市埋蔵文化財調査報告書 第3.第4.第8集   木津川市教育委員会

2017年09月23日

◆家事事件手続法 @

川原 俊明 (弁護士
)         


  平成25年1月1日、家事事件の手続が大きく変わります。家事事件
 手続法の制定です。

  家事事件手続法は、家事審判に関する事件と家事調停に関する事件の
 手続を定めるものです。改正の趣旨は、大きく分けて、当事者の手続保
 障と、子の利益(福祉)の実現にあるとされています。

  このうち、後者は、特に目を引く改正点です。家庭裁判所は、親子の
 問題、親権、未成年後見など、子どもが主人公となる事件を多く取り扱
 っています。

  しかし、これまで、子ども自身が手続に参加することはもちろん、家
 庭裁判所調査官が子どもの意向を調査する以外、子どもの意向を聞いた
 り、結果に反映させたりする方法がありませんでした。

例えば、両親が離婚する際の親権や、離婚後の非監護親との面会交流など、基本的には、親同士の問    題 として扱われているのが現状です。

  そこで、家事事件手続法は、一定の事件について、未成年者である子
 について手続行為能力を認め(ただし意思能力は必要)、手続への利害
 関係参加を可能としています。さらに、裁判長は、弁護士を子どもの手
 続代理人に選任することもできるようになります。

  これにより、子の福祉に一段と配慮した運用がなされることが期待さ
 れています。

  ☆ 家事事件の手続について法律相談を希望される方は、
こちらからどうぞ。    
    http://www.e-bengo.com/mail_it.html


◆角栄に追いつけなかった

渡部 亮次郎



私はNHK記者は20年弱しかつとめていない。その間担当した政治家は河野一郎、園田直、重宗雄三、福田赳夫である。福田を担当するとき本当は政治部長は田中を担当させる心算だったが、飯島副部長の主張で福田になった、と後で聞かされた。

飯島副部長は「角福戦争」は福田の勝利と読み「渡部にも主流派担当の味を味わわせてやりたい」との親心だったそうだ。しかし、結果は福田の惨敗。1年も経たずに田中派の要求で大阪に左遷。

3年後、自分で「工作」して東京に戻ったが、この組織での私の将来は無いと判断。誘いに応じて福田内閣の外務大臣園田直の秘書官となりNHKを離れた。

したがって記者時代に角栄とじかに話をしたことは無い。記者会見でも質問したことも無かった。そのうちに角栄は1993(平成5)年12月16日、75歳で死亡してしまった。糖尿病の合併症としての脳梗塞の末の死だった。

角栄は汗っかきでバセドウ病を自称していたが、後になって分かった事は元々かなり重度の2型糖尿病だったのだ。だから早くにインシュリンを毎日注射していれば、あんなに早く脳梗塞になるはずは無かった。

斯く言う私も48歳で2型糖尿病を発症したがインスリンの注射でピンピンし、やがて77歳ではないか。なお糖尿病の2型とは中年を過ぎて発症する糖尿病。1型は出生時既に発症しているもののこと。

さて、角栄の死から既に20年が過ぎ世間は角栄を話題にする事は少なくなった。話題にするとすれば、あれほどの政治的天才からどうしてあんな馬鹿な娘真紀子が生まれたのかと貶す度だ。しかしその真紀子もとうとうと言おうか、やはりと言おうか落選してしまった。

そうした折、大阪で共に働いたいうか毎晩のようにミナミで一緒した呑み友達の城取俊昭から贈られた本「田中角栄」を読んだ。朝日新聞で角栄を一番良く知っていた早野 透が最近書いた中公新書2186である。

何故かサブタイトルが「戦後日本の悲しき自画像」となっている。
このタイトルはおかしい。殆どは早野による褒め言葉ばかりだからである。

私も田中と言うよりも「番頭」格の竹下登(後首相)からの指令で大阪に左遷されたから角栄を恨むのが筋だが、恨んではいない。今となっては、むしろその政治的天才ぶりに敬服しているぐらいだ。

小学校高等科卒だけの学歴だが、頭脳は抜きん出てよかったらしいし、すべてにチャンス(戦機)をつかむ能力が天才的だったようだ。

16歳で単身、上京したのは理化学研究所の大河内正敏を頼ってのことだったが手違いで会えず東京での手づるを失ってしまった。しかし挫けなかった。

大河内とやっと出会えたのは2年後だったが田中はその時すでに中央工学校を卒業し建築事務所に勤務していた。大河内は密かにその努力と頭の良さに注目したらしい。

25歳で田中土建を設立した時は既に田中に大きな土建工事を発注していた。田中はここで大いに財をなす。その金をバックに政界に乗り出し、2回目、29歳で衆院議員に地元新潟3区から初当選した。

はじめは民主党系を走っていたが、いつの間にか自由党系に転じ、吉田茂の周辺者となり「保守本流」の有資格者となった。これはその後の出世に格別役立った。親分佐藤栄作や首相池田勇人につながるからである。

余談だが園田直も30代で衆院議員になったが親分河野一郎が長く主流派を維持できなかったこともあって出世が遅れ、初入閣は当選9回を過ぎていた。

角栄が佐藤にどれぐらい献金していたか、早野の記述では触れられていないが、角栄は佐藤派に所属しながら大平正芳を通じて池田に可愛がられたのが出世の糸口となった。

池田政権下で池田と対立する佐藤派に属しながら自民党三役の政調会長に引き立てられ、更に大蔵大臣に出世したからである。これで権力の味を占め、「ひょっとして総理大臣」を目指すことを決意する。

とにかく「戦機」を見出し掴むことに天才的な能力があった。加えて気配りに長じ、カネを散ずることを惜しまなかった。やがて政権が池田から佐藤に移ると幹事長に「出世」した。

それまでに既に神楽坂の芸者を妾とし、2人の男の子をなしていた他、若いときから秘書にしていた女性にも女の子を生ませていた。
本妻は当然知っていた。但し女の子は認知していない。

私が記者として角栄を知ったのは自民党幹事長としての角栄であり「番」ではないから私邸まで押しかけた事は無かった。

そのうちにポスト佐藤を争う「角福戦争」になったので益々角栄を取材するチャンスを失くした。早野のように毎日そばで角栄を見ていれば角栄の勝利は初めから判っていただろう。党内の隅々までの気配りとカネ配りを重ね合わせれば判って当然だったろう。

グタグタと書き続けてもしょうがないから止めるが、要するに自民党内には政治能力において角栄に追いつき追い越せる有能者はまだ現れてはいない。

(文中敬称略)2013・1・1

◆奈良木津川だより 高麗寺跡 A

白井 繁夫



「史跡 高麗寺(こまでら)跡」は木津川の右岸の棚田の中(山城町上狛)で、建物がないためか、観光客も少なく、飛鳥時代に創建された国内最古の仏教寺院「飛鳥寺」と同笵の瓦が出土した国の史跡の古代寺院跡と思われずに千年の時が経って来たのです。

この高麗寺跡の第T期発掘調査(昭和13年)から第V期(平成22年度の第10次発掘調査)までの調査で出土した遺物や伽藍跡から皆様と高麗寺の建立の様子や歴史を観て行こうと思います。

高麗寺は渡来氏族の狛氏の氏寺として7世紀初(610年頃)には存在していただろうが、出土遺物などから、12世紀末から13世紀初期ごろに消滅したと推察されています。

高麗寺跡の出土遺物には金銅製の破風(はふ)拝み金具、円盤等の建造物の装飾金具、南
門の屋根の鴟尾や最古の築地塀などがあり、更に各時代を現す文様の瓦や三層基壇の講堂など高麗寺の伽藍は驚嘆するような荘厳さで、文明の先端を行く寺院と推察されます。

最初に年代を調べるために、高麗寺の出土遺物で数量が多くて比較的に年代を決めやすい文様瓦(軒丸瓦.軒平瓦)を中心に4期に分けた瓦から始めます。

T期の瓦 飛鳥時代の瓦(軒丸瓦:十葉素弁蓮華文じゅうようそべんれんげもん)
   
  日本最古の寺院「飛鳥寺」の創建時の瓦と同じ型で作られている。京都府下では当然
  最古の瓦ですが、高麗寺から4点しか出土していません。(飛鳥時代に瓦葺の建物が確実に存在していたのか?堂宇は萱葺だったのか?)

U期の瓦 白鳳時代の瓦(軒丸瓦:八葉複弁ふくべん蓮華文、軒平瓦:重弧じゅうこ文)
     川原寺式の瓦と同笵でもあり出土量が圧倒的に多種大量です。

  川原寺式の瓦:古代瓦では最も文様が華麗で日本各地に普及した。地域文化の指標にもなった瓦ですが、高麗寺の瓦は原初的な川原寺創建時と同じ型の瓦から始まり、さらに発展した瓦など多種類が出土しています。(高麗寺は660年頃本格的に造営された伽藍建築の寺院となったのです。)

(川原寺は天智天皇が母(斉明天皇)の冥福を祈るため建立した寺で、飛鳥4大寺の一つ、
 壬申の乱で勝利した天武天皇が崇敬していた寺院であり、天武天皇に味方した各地の豪
族に恩賜として瓦の使用許可が与えられました。山城国では南山城に集中しており、地方では尾張、美濃、伊勢などが特に多い。)

南山城:木津川市の古代寺院では高麗寺と蟹満寺が有名です。
(前代の古墳時代:各豪族は氏族の権威の象徴として大古墳を築きましたが、飛鳥時代以降は氏族の権威となるモニュメントが大寺院の建立に変化しました。)

壬申の乱では渡来氏族の狛氏一族が大海人皇子に味方して大変貢献したため、高麗寺が
最初に川原寺の創建時の瓦(同笵瓦)の使用許可を得たのです。その後、川原寺式瓦は
高麗寺を核として南山城の3郡にも広がりました。

「蟹満寺:国宝の白鳳仏が有名」から川原寺式瓦の破片が出土したことから、白鳳時代
末期(7世紀末から8世紀初)に創建されたと云われているのです。
蟹満寺は前代に平尾城山古墳.稲荷山古墳を築いた豪族の後裔氏族が建立したのでは?と云われています。

V期の瓦 奈良時代の瓦(軒丸瓦:蓮華文、軒平瓦:均整唐草文)平城宮式瓦や「中臣」
   と文字がある平瓦、恭仁宮式軒瓦など恭仁京造営時に製造した瓦も出土しました
が多種少量のため、高麗寺の修理用として八世紀に使用した瓦と思われます。

W期の瓦 平安時代前期の瓦(軒丸瓦:蓮華文、軒平瓦:唐草文)修理用に高麗寺独特の瓦が少量作られた。(この時代以降の瓦は出土していないので、高麗寺の大伽藍は平安時代以降修理など出来ずに荒廃にまかされたか? 法蓮寺の棟札では金堂などが室町時代まで存在していたようですが?)

高麗寺を軒瓦から観た場合、飛鳥時代(610年頃)萱葺の堂?が創建され、白鳳時代、
川原寺式に準じた七堂伽藍の本格的寺院の造営(7世紀後半)が施工され、法起寺式伽
藍建築へ繋がって行きました。

奈良時代(8世紀)に聖武天皇が恭仁京(木津川市)へ遷都(740年)して都城の造営
時には高麗寺も独特の瓦を作り、他寺院にも供給しました。

しかし、平安時代初期の修理用の瓦の出土が最後でそれ以降の瓦の出土は有りません。
瓦から調べた高麗寺の創建時期の推測や隆盛時代は分りますが、歴史(終焉)は何世紀
か判断は困難です。

瓦以外の出土遺物や伽藍跡の発掘調査、昭和13年の第T期からV期(平成22年の10
次調査)まで、から高麗寺の概要を視ようと思います。(つづく)

参考資料:山城町史 本文篇 山城町、
南山城の寺院.都城 京理セミナー資料No.0106−327
史跡 高麗寺跡 第10次発掘調査概報 木津川市教育委員会
   

at 05:00 | Comment(0) | 白井繁夫

2017年09月22日

◆子宮頸がんワクチン適齢期

石岡 荘十



欧米先進国では女の子どもが11歳になると親はまず、子宮頸がんから守るためのワクチン打つ。

11歳は、肉体的に成長の早い欧米ではセックスを始めて体験する“セックス・デビュー”の年齢だと考えられている。「うちの子に限って---」と考えたいところだが、現実は、そうはいかない。11歳は子宮頸がんワクチンを打つ“適齢期”であり、このタイミングでワクチンを打つのが、多くの先進国では常識となっている。

子宮頸がんはすべての女性の80パーセントが一生に一度は感染しているという。子宮の入り口である頸部に発生する上皮性の悪性腫瘍であり、世界では年間約50万人が子宮頸がんを発症し、約27万人が死亡していると推計されている。

2分間に1人が子宮頸がんで命を落としている計算になる。日本では毎年約1万5000人の女性が子宮頸がんを発症し、約3500人が死亡している。

原因は、ほぼ100パーセントが性交渉、つまり皮膚と皮膚の粘膜の接触でヒトパピローマウイルス(HPV)というありふれたウイルスの感染することによることが1983年、明らかになっている。パピローマウイルスを発見した独がん研究センターのハラルド・ツア・ハウゼン名誉教授には、2008年度ノーベル生理学医学賞が授与されている。この研究成果をもとに予防ワクチンが開発され、現在、世界100カ国以上で使われている。

子宮頸がんはいろいろながんの中でも例外的に原因が特定されているだけでなく、ワクチンによる予防法が確立されている。アメリカでは2006年ワクチンの使用を承認、昨年10月には日本でも使用が承認されたものだ。

成人になって、検診を受けずワクチンの接種もしない場合、がんは進行し、子宮をすべて摘出する手術が必要になることもある。

妊娠、出産の可能性を失い、女性だけでなく家族にとっても心身ともに大きな痛手となる。また、子宮のまわりの臓器にがんが広がっている場合には、卵巣やリンパ節などの臓器もいっしょに摘出しなければならなくなり、命にかかわる。


ワクチン普及のためのシンポジウムで、「子宮頸がんは予防ができるがんです。また、定期的に検診を受けることで、がんになる前に発見し、子宮を失わずに治療もできます。そのことを知らなかった私は、こどもを産むどころか妊娠することも出来ない体になってしまいました。死ぬではないかとこわかった。1人でも多く女性がワクチンを打ってください」と切々と訴えた。

子宮頸がんは、初期には全く症状がないことがほとんどで、自分で気づくことはほとんどない。このため、不正出血やおりものの増加、性交のときの出血などに気がついたときには、がんが進行しているということも少なくない。

進行するにつれ性交時の出血などの異常がみられ、さらには悪臭を伴う膿血性の不正性器出血、下腹痛や発熱などが認められるようになるという。

子宮頸がんは遺伝などに関係なく、性交経験がある女性なら誰でもなる可能性のある病気である。近年では20代後半から30代に急増、若い女性の発症率が増加傾向にある。子宮頸がんは、がんによる死亡原因の第3位、女性特有のがんの中では乳がんに次いで第2位を占めており、特に20代から30代の女性では、発症するすべてのがんの中で第1位となっている。

一度ワクチンを接種しておけば、その効果が20年は持つといわれる。だから、11歳という“適齢期“にワクチンを打った上で、定期的に検診を受け、早期に発見・手術を受ければ、術後に妊娠・出産が可能だという。

85パーセントに女性がワクチンを打っていれば、95パーセントの女性が助かるという研究報告もある。

ワクチンは3回に分けて打つ。初回、2回目がその1ヶ月後、さらに6ヶ月後に3回目。問題は費用が高額なことだ。

セックス・デビュー前の“適齢期“の女の子(11〜14歳)全員に公費でワクチンを打っても、費用はわずか200億円ほどと計算されている。今のまま放置しておくと、いずれこれを上回る医療費がかかる計算もあり、充分に元は取れるという。

地方自治体では、「健康・医療・福祉都市構想」を掲げ、在住の小学校6年生〜中学校3年生(12〜15歳)を対象に5〜6万円を補助することを決めている所もある。このワクチン接種費用が高額なことを解消するために、地方自治体は急ぎ対応を期すべきだろう。

◆1匹も獲れぬロシア流サンマ漁

渡部 亮次郎



昔、ソビエト(現ロシア)漁船が三陸沖へサンマを獲りに来たことがあった。そりゃ珍しいというので、態々見物に行った友人の話でる。。

貨物船みたいな大きな船である。

船上ところどころに、でっかいおっぱいをした中年女性が乗り組んでいる。日本では漁船に女は乗せないと聞いている。

それよりも驚いたのは、サンマの捕り方である。直径2メートルもある蛇腹を海中に突っ込んで盛んに海水を吸い上げている。何をしているのだろう、最初は理解できなかった。

暫くして分かった。サンマを海水ごと吸い上げようとしているのである。魚を食べたことも捕った事も無いから魚の習性を知らないのである。

魚は流れに乗って流されてくる餌を食うように、流れに逆らって泳ぐ。ソビエト船が海水を汲めば汲むほどサンマは逃げてゆく。だからサンマは1匹も捕れなかった。

近くに日本漁船がいても言葉が通じないから致し方ない。2,3日して空しく帰って行った。何年もしてから、今度は網で捕り始めたそうだ。

もともとロシア人は魚を食わなかった。それなのに食うようになったのは、ソビエトの崩壊寸前、家畜にやる餌が不足し始めたからである。しかし、北欧の海では各国から締め出され、止むを得ず北洋や三陸沖にやってきたものである。

しからばロシア人は如何にして魚を食べているのだろうか。焼くといっても道具は無いだろう。干物にする技術もあるまい。矢張り煮るしかないのだろうか。

後年、モスクワを訪問して分かった。煮るしかないのである。モスクワのスーパーでは20センチ角の塊が冷蔵庫に入って売られている。それがどんな魚のどの部位かは自宅に帰って冷凍が融けてみないとわからないのだ。

モノの本によれば、1Kgの肉を得るのに必要な飼料は鶏の場合は2Kg、豚の場合は4Kg、牛の場合は8Kgがそれぞれ必要なのだそうだ。

だとすると既に崩壊寸前だったソビエトでは、農業生産もあまり上手く行ってなかったから、餌が不足。人間も牛肉よりは豚肉、それよりは鶏肉と我慢してきたのだろうが、遂に餌の必要のない海の魚に目をつけたのであった。

これと逆なのが、最近の中国だと言われる。中華料理のメニューに出てくる肉は殆どが鶏か精々豚だった。それが経済の開放改革で豊かになり、ステーキやマグロといった高カロリーのものを食べるようになった。その結果、糖尿病患者が物凄い勢いで増え、其の方面の医者が足りなくなっているそうだ。


     

◆奈良木津川だより 高麗寺跡 @ 

白井 繁夫



古代の仏教寺院「高麗寺(こまでら)」の創建は不明ですが、「高麗寺跡」の発掘調査から飛鳥時代に創建された日本最古の寺院「飛鳥寺(法興寺)」と同笵の軒丸瓦(十葉素弁蓮華文:じゅうようそべんれんげもん)が発掘されました。

飛鳥寺と同笵の瓦の出土は、この寺院跡「高麗寺跡」は蘇我氏創建の飛鳥寺(日本最古の本格的仏教寺院)と同時期頃の創建か?と歴史的な注目を集めました。

「高麗寺跡」は木津川市山城町上狛高麗、JR奈良線上狛駅より東へ約600m、木津川の右岸の棚田の中に位置しています。

「高麗寺跡」は昭和13年(1938)から本格的な発掘調査(第T期調査)が行われ、回廊に囲まれた主要な堂塔(塔跡、金堂跡、講堂跡)など含む伽藍の一部が75年前の昭和15年(1940)8月30日、国の史跡に認定されました。

(高麗寺は飛鳥時代に創建され白鳳時代に最盛期をむかえ平安時代の末期(12世紀)頃まで存続していた国内最古の寺院の一つ(京都府内では最古の寺院)と推察されています。)

「史跡高麗寺跡」の発掘調査はその後、第V期調査(平成22年度の第10次調査)まで実施され、平成22年史跡地の追加指定を受け、現在は20100m2の指定地です。調査内容については後述しますが、まず寺名(高麗寺)の「由来」からスタートします。

朝鮮半島と日本列島の九州は距離的にみると近畿と九州の数分の一であり、古代、5世紀の初めごろまではあまり強い国家意識を持たずに朝鮮半島南部の百済.新羅.加羅から渡来人が来ました。渡来氏族では漢氏(あやし)や秦氏(はたし)の氏族が優勢でした。

5世紀半ば過ぎからは北部の高句麗が強大化し南部の百済.新羅が戦場化し、戦火を逃れて日本列島に渡る人々が増加しました。

5世紀の後半は日本の古代国家形成にとって重要な時期であり、大王権力を拡大し、畿内政権を支える官司制の構成員として渡来人を採用し、彼等の文筆を持って官吏に執りたて、国家組織の整備や先進的技術の導入に役立てようとしました。

山城国への渡来人:秦氏は北部に多くの史跡を持ち、氏寺は京都の広隆寺(秦河勝が聖徳太子から下賜された仏像:弥勒菩薩半跏思惟像が有名です。)その他、商売の神様、稲荷神社(稲荷大社)、酒の神様、松尾神社(松尾大社)や嵐山の桂川周辺(大堰川)など。

山城国の南部では高句麗系の渡来氏族高麗(狛)氏が相楽.綴喜の南部2郡に集中しています。高麗寺は地名にもなっている高麗(狛)氏の氏寺です。しかし、南部以外でも有名な八坂神社の「祇園さん」(京都市東山区)は高句麗系渡来人の八坂氏の氏神です。

朝鮮半島からの渡来ルートは一般的には九州へ渡り、瀬戸内海を経て難波に来るルートを採りますが、高句麗から北西の季節風を利用して日本列島に渡るルートもありました。
古代の交通は主として水路を利用した結果、大和は木津川と深く関わりました。

木津川市は大阪市内から直径30kmの圏内です。

古代の水路の場合は、難波から淀川を遡上して八幡市(宇治川、木津川、桂川が合流)を経由する約60kmの道程です。別途、日本海の敦賀から近江の琵琶湖北岸に達し、水路で大津から宇治川経由木津に到着し、大和へ向うルートもありました。

『古事記』の仁徳天皇条、皇后石之日売命が天皇の浮気に嫉妬して難波高津宮から木津川の舟旅で出身地(大和の葛城)への途次の詩に「山代河:木津川」が詠まれています。

6世紀継体天皇が樟葉宮から弟国宮(おとくに)へ遷宮(518年)の頃、朝鮮諸国と畿内政権とは関係が緊張状態でした。
欽明天皇31年(570)条、高句麗の使節のため、南山城に高楲館(こまひのむろつみ)や相楽館(さがらかのむろつみ)を設けた。(木津川沿いに渡来人が多く居住していた。)

6世紀末、廃仏派の物部守屋が敗れ、用明天皇2年(587)、蘇我馬子が飛鳥寺(法興寺)の建立発願。飛鳥寺は日本最古の本格的仏教寺院であり、創建は6世紀末〜7世紀初、蘇我氏の氏寺、本尊は重文の飛鳥大仏(釈迦如来)です。

「高麗寺跡」の発掘調査から、南側土檀で仏舎利を祀る塔跡は東側、本尊仏を祀る金堂跡は西側、伽藍は南面しており、北側の土檀が講堂跡の伽藍配置です。

出土した瓦は年代の古い順から第1期は飛鳥寺と同笵の瓦、第2期は天武天皇が崇敬した寺、川原寺式瓦「種類.数量が最多」白鳳時代、第3期は平城宮式瓦、8世紀の修理、「多種.少量」、第4期は高麗寺独特の修理用瓦「少量」、平安時代前期と4時代の瓦でした。

出土品から高麗寺は新興勢力狛氏の氏寺として飛鳥時代(7世紀前半)に創建され、白鳳時代(7世紀後半)に本格的な造営が成されたが、都が平安京に遷都後は平安時代前期の修理が最後で12世紀末から13世紀初期まで高麗寺は存続していたと思われます。


<国の史跡「高麗寺跡」に付いては、新しい想いを込めて、新規に続編を掲載致します。
筆者の「木津川だより」にご関心を頂き、有り難う御座います。これからは以前の本編を、折を見て再掲させて頂きます。>

参考資料:山城町史 本文篇 山城町、
史跡 高麗寺跡 第V期(第8−10次発掘調査)発掘調査報告 木津川市教育委員会