2017年02月22日

◆自民は、特例法で早期に退位を実現せよ

杉浦 正章
 


民共は「皇室典範」で“引き延ばし”をするな
 

天皇退位問題はまさに船頭多くして船山に登るがごとき状態に立ち至った。新聞を読んでも誰も分からないその構図を分かりやすく説明すれば、自民党政権プラス読売Vs民主・共産両党プラス朝日の構図が浮き出てくる。焦点も自公維が特例法による一時的措置を目指しているのに対して、民共は皇室典範による永久的な対応を主張していおり180°異なる。背景には政権与党のすることは何でも反対の社会党に先祖返りしたような民進党と、「天皇制」そのものを綱領で否定する共産党の連合による自民党政権との対決の姿勢がある。


民共は退位を支持しながらも、その実は難癖を付けて「引き延ばし作戦」を展開しているとしか思えない。ここは国民の選挙によって「船頭」と決まった、自民党が主導して特例法を軸として、ちょっとだけ民主党の顔を立てつつ今国会中の法案成立を図るしかない。ご高齢の天皇のお言葉に添うにはこれしかない。
 

まず、皇室典範の改正がなぜ難しいかといえば陛下の82歳というご高齢にある。皇室典範改正の迷路に立ち入れば、10年たっても決着のつく話ではない。民間なら「オレも年じゃで家督をせがれに譲る」で済む話だが、ことは天皇の存在そのものを規定する憲法と皇室典範の解釈の問題が絡む。


そもそも人間の「引退」の要件を恒久立法で規定することは極めて困難だ。なぜなら、時代によって変化するからだ。高齢者の定義一つとっても江戸時代は50にもなれば高齢だが、今は「40,50は、はなたれ小僧」で後期高齢は75だ。職務遂行能力にしても、会社なら上司が部下の能力を判断すれば済むことだが、天皇の場合その理由を法律に書くことが可能かということになる。このような議論を延々と始めることは昨年8月に「第二の人間宣言」をされた、天皇の引退表明の意向に背くことになるのだ。
 

反対論を唱える民主党幹事長野田佳彦が自信ありげな理由はどこにあるかと考えていたが、どうも朝日とツーカーである感じが濃厚となった。朝日の“教育的指導”を受けているとすら思いたくなる。朝日は社説で「天皇の退位の意思と皇室会議などの議決を併せて必要とすれば、進退を天皇の自由な判断に委ねることにはならず、憲法の趣旨に反するとは思えない。」と主張しているがこれは民進党の主張と全く同じである。


皇室会議は、日本の皇室に関する重要な事項を合議する国の機関である。皇族、衆参議長、首相、最高裁判事などで構成されるが、問題は天皇のご意思と会議の議決が相反した結果となったらどうするかということだ。退位という極めて人間的、個人的な意思を会議で決められるものだろうか。天皇の退位の意思は会議とは別格なのだ。
 

さらに朝日の社説は特例法に対して「一代限りの退位に道を開けば、この先、政権や多数党の意向で天皇の地位が左右される恐れが生まれ、禍根を残すことになる」と反対している。これも意味不明である。一代限りは一代限りのことで、将来への禍根とならないのではないか。


例えば100年後に今回の例のように天皇が退位したいとの意思を表明すれば、そのときの状況に応じて対処すればよいことであり、制度化して縛る必要はない。それに100年後には今回の例を先例としてスムーズな退位が実現するかもしれない。第一自民党が100年後に多数党であるかどうかは予知できることではない。この主張には民進党が多数党になった場合ならその意向を反映してもよいのだという、政党のエゴイズムが垣間見える。


一方で読売は社説で「仮に、天皇の意思を退位要件とすると、『天皇は国政に関する権能を有しない』と定めた憲法4条に違反しかねない。こうした理由で、制度化に否定的な自民党の姿勢には、うなずける」として、自民党案支持だ。
 

問題は民進党が明らかに引き延ばし戦術を取ろうとしていることだ。同党の長浜博行はテレビで「各党の国会議員はもう一度象徴天皇制の意義とか、憲法とか、皇室典範とかに真正面から取り組んで議論する必要がある」と主張しているが、このような基礎的な問題からとりかかっていては、再び「船山に登る」のは必定である。議員立法による処理も主張しているが、事は天皇の退位問題であり、政府の責任において法案を作成し、国会の議決を経て実施に移すのが憲政の常道だ。
 

こうした中で日本維新の会幹事長の馬場伸行は「皇室典範そのものを改正するのではなく、『特例法を設けて決める』旨を皇室典範の付則として付ければよい」と提案している。皇室典範はいじらないが付則で処理するという案は筆者もかねてから指摘していたが、民進党のメンツも立つのではないか。


ことは自公維で軽く3分の2を超える勢力が推進する問題であり、民共も突っ張ったり、引き延ばししたりする場面ではない。そもそも民共朝による“共闘の構図”は過去の例を見ても概ね失敗に終わるのが政治の宿命だ。

       <今朝のニュース解説から抜粋>   (政治評論家)  

◆アンティグア・バーブーダ

宮崎 正弘 

<平成29年(2017)2月21日(火曜日)通算第5195号  

〜アンティグア・バーブーダってカリブ海の国を知ってますか?
何故か、この国の無任所大使を中国人実業家が担っていたのだ〜


アンティグア・バーブーダは歴とした独立国家。ドミニカの北方、カリブ
海東部の小アンティル諸島に位置するアンティグア島、バーブーダ島、レ
ドンダ島からなる島嶼国家で首都はセント・ジョンズ。面積は我が国の種
子島くらいしかない。
 
コロンブスが発見したが、スペイン統治のあと、イギリス連邦加盟国とな
り、大英連邦の一員ではあるものの、米軍のレーダー基地がある。

兵力はと言えば陸軍が125名、沿岸警備隊が45名。これで1個の独立国家
とよんでよいのか、どうか。人口は9万2000人。主要産業はサトウキビと
ラム酒、そして観光業しかない。

このアンティグア・バーブータに目を付けたのは、いうまでもなく中国で
ある。タックスヘブンとして何処まで利用できるか?

2014年8月、この国のブラウン首相が北京へ旅発ち、習近平主席と李克強
首相に面会した。

といっても、この国への最大援助国は米国でも英国でもない。日本であ
る。合計60億円近い無償援助をしている。

実は、この国の外交官パスポートを持ち歩き、「無任所大使」として任命
されていた外国人がふたりいる。

ひとりは有名なハリウッドスターのロバート・デニーロで、おそらく名誉
大使か、観光大使として、同国の観光宣伝にひとやく買ったのだろう。ス
ティーブン・セガールだってロシアの名誉領事ですからね。

さてもう1人の人物とは肖建華である。

そう、あの悪名高き香港財閥。現在行方不明。おそらく中国に拉致され
た。香港の最高級ホテル「ファー・シーズンズ・ホテル」に長期滞在して
いた。

妖しげなインサイダー取引の元締めとして知られ、太子党のファンドに深
く絡む。


 ▼周近平は本気で江沢民にとどめを刺すのか?

この肖建華事件は、これから北京中南海を激甚に揺らすこととなるだろう。

華字紙を総合すると、肖のバックは江沢民、曽慶紅、賈慶林ら江沢民政権
の大物がすらーりと並んでいる。

習近平は、どうやら本気で江沢民一派の退治に向かうようで、ということ
は大権力闘争のどろどろが展開される。これまでの薄煕来、徐才厚、郭泊
雄、周永康らの失脚は、小さな事件だったと総括されるようになるかも知
れない。

肖建華が大使の公用パスポートを保持していたのは2014年8月8日から2
年間で、英語名「XIAO JIAN HUA」と写真入りのコピィがサ
ウスチャイナ・モーニングポスト紙にすっぱ抜かれた(2月20日)。

このパスポートの発行直後にアンティグア・バーブーダの首相が北京を訪
問したのだった。
      

◆ポピュリズムに突き進むトランプ大統領

櫻井よしこ



「 ポピュリズムに突き進むトランプ大統領 求められる民主主義の「内
なる敵」への正対 」

自由の旗手であるはずの米国大統領、ドナルド・トランプ氏が「保護主義
は国益に資する」と就任演説で語り、市場経済を政治の道具にする中国の
習近平主席が「自由な市場経済こそが繁栄のもと」と、ダボス会議で世界
に訴える。
 
悪い冗談のような倒錯が、日を追うごとに具体的な政策として私たちに突
き付けられる。トランプ大統領はホワイトハウス入り直後の1月23日、環
太平洋経済連携協定(TPP)「永久離脱」の大統領令に署名した。25日
にはメキシコとの国境の壁建設にも署名する。
 
「アメリカファースト」は「ワールドセカンド」であり、メキシコや日本
はサードやフォースだ。保護主義も孤立主義も米国の経済成長や繁栄につ
ながらないと警告する専門家を尻目に、ニューヨーク株式市場は史上初め
て2万ドルの大台を突破した。新大統領への支持率としては史上最低の
45%で出発したトランプ氏への期待が、逆にいま高まっているのか。
 
バラク・オバマ前米大統領が苦心して議会を説得した保険制度、オバマケ
アの見直しもすでに指示済みだ。米国を含む12カ国が苦労の末に合意した
TPPも前述のように「永久離脱」となった。個々の政策の是非や意義を
ここで問うつもりはない。

ただトランプ的手法は民主主義体制の根幹である議会での合意形成のプロ
セスを無視したもので、それを米国民が好感し、史上最高値の株価を付け
たことの意味と、ポピュリズムに向き合う時代に私たちが立ったことは、
はっきり認識しなければならない。
 
自身を大統領職に押し上げたポピュリズムに、トランプ氏はますます依
拠するだろう。民衆の意思を吸い上げ多数決で決する民主主義がその究極
の地平であるポピュリズム、大衆迎合に到着したことを愚かな選択だとか
不合理だと論難することは当たらない。嘆息するばかりでも何も解決され
ない。
 
英国のEU(欧州連合)離脱、米国大統領選挙に典型的に示された大衆迎
合政治が世の中を変え続けるいま、千葉大学法政経学部教授の水島治郎氏
の『ポピュリズムとは何か』(中公新書)が参考になる。
 
水島氏は英国と米国、グローバル経済の先頭を走る両国で「虐待されたプ
ロレタリア」の反乱が起きたと、フランスの歴史人口学者、エマニュエ
ル・トッド氏の言葉を引用する。水島氏はトランプ支持者と、英国のEU
離脱支持者の共通性を以下のようにまとめた。

・EU離脱支持者は、英国の地方の荒廃した旧工業地帯や産炭地域の白人
労働者層だった。米国のトランプ支持者は「さびついた工業地帯」の白人
労働者だった

・国際都市ロンドンに集うグローバルエリートの対極にある英国人と、米
国の東、または西海岸の都市部の政治経済エリートや有力メディアから置
き去りにされた米国人

・労働者の味方であるはずの政党が、自国の労働者を置き去りにして国際
社会にばかり目を向けるとして、両国の人々が既成政党への失望を深めた
 
米英両国に政治勢力の大変化をもたらした人々には、右の点も含めて濃密
な幾つもの共通項があった。また現在のポピュリズムは、かつての極右
的、反民主的な勢力とは異なり、他の政党同様、民主政治の通常の政治勢
力としての地位を確保したと、水島氏はみる。
 
彼らは民主政治を支える価値観に基づきつつ、国民投票等の民主政治の手
段を用いて、移民・難民の排除などの「私が最優先」の政策を手にする。
デモクラシーのこの「内なる敵」の論理を批判するのは容易ではなく、あ
くまでも正対すべき新しい傾向だというのが水島氏の結論だ。日本とてポ
ピュリズムの例外ではあり得ないいま、私たちは国民のための政治とは何
かということを、より真剣に模索するしかない。

『週刊ダイヤモンド』 2017年2月4日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1168

◆「お富さん」で大学生

渡部 亮次郎



まだカラオケなどない昭和29(1954)年、「お富さん」の明るく小気味よいテンポは、手拍子だけで歌えるということもあって、会社帰りの一杯飲み屋、酒宴の席では必ずといっていいほど歌われ、「宴会ソング」の定番として広く庶民に浸透していった。

その勢いは子ども達にも波及し、「♪いきなくろべえ〜 みこしのまあ〜つに」と意味もわからず歌っていたものだ。

このことは、その歌詞の内容から「子どもが歌うには問題がある」として、教育委員会やPTAから異論があがり、小学生が歌う事を禁止する自治体も出るなどちょっとした社会問題にまで発展した。

もっとも、子ども達にとっては意味などわかるはずもなく、いや、大人でさえも、この歌舞伎を題材に求めた歌は歌舞伎ファンでない限りは理解できなかった。

とにもかくにも、作曲者の渡久地(とくち)政信氏は「みんなで楽しく飲んで歌える歌をつくりたかった」と述懐しているので、その狙いは見事的中したのである。

この年の4月、上京して大学入学。なかなか下宿が見つからず、親戚で不愉快な思いをしたもの。遂に絶縁状態となって今日に至っている。冨さんは苦い歌である。

お富さん

歌 春日 八郎
作詩 山崎 正  作曲 渡久地政信

昭和29年

1 粋な黒塀 見越しの松に
  仇な姿の 洗い髪
  死んだ筈だよ お富さん
  生きていたとは お釈迦さまでも
  知らぬ仏の お富さん
  エーサオー 玄治店(げんやだな)


2 過ぎた昔を 恨むじゃないが
  風も沁みるよ 傷の跡
  久しぶりだな お富さん
  今じゃ呼び名も 切られの与三(よさ)よ
  これで一分じゃ お富さん
  エーサオー すまされめえ


3 かけちゃいけない 他人の花に
  情かけたが 身のさだめ
  愚痴はよそうぜ お富さん
  せめて今夜は さしつさされつ
  飲んで明かそよ お富さん
  エーサオー 茶わん酒


4 逢えばなつかし 語るも夢さ
  誰が弾くやら 明烏(あけがらす)
  ついてくる気か お富さん
  命みじかく 渡る浮世は
  雨もつらいぜ お富さん
  エーサオー 地獄雨

「お富さん」は春日八郎のために作られた歌ではない。作曲者である渡久地政信はこの曲を岡晴夫のために用意していた。ところがその岡晴夫はキングとの専属契約を解消してフリーになってしまったのだ。そこで社内で代替歌手を検討した結果、春日八郎でということに決まった。

春日八郎は苦労の末、ようやく2年前に「赤いランプの終列車」をヒットさせ、その後もそこそこの売上げを上げてはいたものの、まだ社内では絶対的な立場ではない、いわば新人歌手同様の扱いであった。

急遽、自分に回ってきた「お富さん」はもともとは他人の歌。しかも普段馴染のない歌舞伎がテーマということもあって、とまどいは隠せなかったが、逆にそれが功を奏したのか、変な思い入れもなく、肩の力が抜けたその歌声は軽快なテンポと妙に噛み合っていた。

テスト盤の社内での評価は上々で、手応えを感じ取ったキングはキャンペーンにも力を入れた。代替歌手ということを逆手にとって、歌手名と曲名を発表しないまま、ラジオや街頭宣伝をするなどのアイデアで徐々にリスナーの興味を引いていったのだ。

当時の世相ともマッチて空前の大ヒット。下積み生活の長かった春日八郎はこの時すでに29歳、だが、回ってきたお鉢は運まで運んできたのであろうか、この曲によって押しも押されもせぬ人気歌手となった春日八郎は、その後もヒットを続け、昭和を代表する歌手となったのはご存じの通り。

この歌の歌詞は、歌舞伎の有名な演目である「与話情浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし)の一場面「源氏店」(げんじだな)から題材を得ている。それまでの春日八郎の歌の傾向からすれば、いや、というより、バラエティに富んだ流行歌が数多く存在した歌謡曲全体を見渡しても非常に珍しいテーマであった。

この芝居で最大の見せ場が「源氏店」の場で、他人の妾であったお富さんと許されぬ恋に落ちた与三郎は相手の男にばれてメッタ切りにあい、お富さんは海に落ちた。九死に一生を得た与三郎は3年後、松の木が見える黒塗りの塀の家で死んだはずのお富さんと出会うというシーン。

そこで与三郎の「しがねえ恋の情けが仇」の名セリフが出てくるわけだが、山崎正の歌詞はこの部分を実にうまくメロディにはめ込んでいる。

尚、歌舞伎では「源氏店」(げんじだな)となっているが、これは実際にあった江戸の地名「玄治店」(げんやだな)(現在の東京都中央区日本橋人形町あたり)の漢字読みに当字をしたものだ。

前年の昭和28年あたりから、久保幸江、榎本美佐江などによって芽を吹きはじめていた「お座敷歌謡」「宴会ソング」は、この「お富さん」によって見事に昇華し、後に登場する三波春夫の「チャンチキおけさ」、五月みどりの「一週間に十日来い」などに結実するのである。

渡久地政信は奄美大島の出身。あのイントロの独特のリズムは琉球音楽を取り入れたもの。永く愛され続けた「お富さん」は、そのアイデア溢れるオリジナリティで春日八郎の歌として定着し、スタンダードとしてリズムとサウンドは残っても、今、あえて歌舞伎を意識する人は少ない
だろう。

春日八郎

●本名:渡部 実

●大正13年10月9日生まれ 1991年10月22日没
●福島県・会津出身

旧制中学を中退し13歳で歌手を目指して上京。東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)声楽科に学び、新宿「ムーラン・ルージュ」などでアルバイトしながら歌手活動を始めたが、太平洋戦争に突入。兵役を経て戦後再び上京。

長い長い苦闘の末に昭和23年、キングレコード新人歌謡コンクールに合格。作曲家、江口夜詩に師事し、昭和24年正式にキングレコードの専属歌手となる。

最初の芸名は歌川俊。ようやくプロ歌手としてスタートしたものの、先輩歌手の前座ばかり、相変らず鳴かず飛ばずの下積み暮しが続き、いたずらに年月だけが過ぎていくだけかに思えた昭和27年、「赤いランプの終列車」がヒットした。

「雨降る街角」「街の灯台」とスマッシュ・ヒットを続け、昭和29年の「お富さん」の大ヒットで人気が定着。三橋美智也、若原一郎とならんで「キング三人衆」と呼ばれた。続く昭和30年には「別れの一本杉」がまたまた大ヒットしてその地位はゆるぎないものとなった。

玄治店は幕府の典医であった岡本玄冶法印(おかもとげんやほういん)の屋敷の事で、現在の東京都中央区日本橋人形町あたり、そのことからこの周辺を玄治店(げんやだな)と呼ぶようになった。なお、この地域には芝居関係者も多く住んでいた。人形町3丁目交差点には「玄治店由来碑」が建立されている。

◆毛馬を出奔した蕪村の理由

石岡 荘十



インフルエンザというか、「はやり風邪」の記述を歴史の中にたどると、今で言う「新型インフルエンザ」はじつは昔から繰り返し起きていたことがわかる。だからいまさら「新型」というネーミングは「いかがなものか」と首をかしげる感染症や公衆衛生の専門家が少なくない。

南北朝時代を描いた歴史物語、「増鏡」にこんな記述がある。

「ことしはいかなるにか 、しはぶきやみはやりて、ひとおおくうせたまふ」「しはぶき」は咳のことだから「咳をする病で多くの人が死んだ」ということだ。また、「大鏡」には、1006年前の寛弘8年(1011年)6月、一条法皇が「しはぶきやみ」のため死亡したと書かれている。

ずっと時代を下って享保18年(1733年)、大阪市中で33万人が流行性感冒にかかり、2,600人が死亡。

注(蕪村が庄屋を引き継げず、庄屋:問屋・宿屋を売却して、毛馬を出奔した。家族も
身内も、蕪村に家督を継ぐがさせようとしたが、父親が死んだ以上、絵だけに頼って
江戸へ下り、俳人巴人を訪ねて、弟子となった。インフルエンザが人生を変えたI

この流行は江戸へ蔓延し、人々は藁人形で疫病神を作り、鉦(かね)や太鼓を打ち鳴らし、はやし立てながら海辺で疫病神を送った、とある。

これらの出来事は、いずれも6月、7月の暑い季節に起きており、疫学的に証明されたわけではないが、どうも、寒い時期に起きるいわゆる季節性の風邪とは違うようだ。

さらに、江戸時代には天下の横綱・谷風がはやり風邪にかかり本場所を休んで、連勝記録が止まってしまった。世間では「谷風もかかったはやりかぜ」と怖れ、四股名にひっかけて、はやりかぜのことを「たにかぜ」と呼んだそうだ。

天保6年(1835年)の「医療生始」という書物には「印弗魯英撒(いんふりゅえんざ)」の言葉が早くも見える。

そして1918年春から翌年にかけて、第1次世界大戦の最中、海の向こうではアメリカに端を発した史上最悪のインフルエンザ「スペイン風邪」がヨーロッパに持ち込まれて猛威をふるい、やがて全地球に蔓延する。

感染者は当時の全地球人口の三分の一の6億人、いろいろな説があるが死者は5000万人に達したといわれる。日本では、大正7年のことだ。当時の人口5500万人に対し最新の研究では死者は48万人に達していたと推定する説もある。当時の新聞の見出しはこうだ。

「西班牙風邪遂に交通機関に影響(東京朝日新聞 大正7年10月31日)」。「電信事務も大故障(読売新聞 大正8年2月6日)」---。

スペイン風邪については↓。
http://www.melma.com/backnumber_108241_4570052/

これらは明らかに、季節性のインフルエンザとは違った。スペイン風邪の病原体が「新型インフルエンザ」と同じA型インフルエンザH1N1と分かったのは、1933年になってからのことである。

つまり、いま問題になっている新型インフルエンザはじつは「新型」でもなんでもなく、「旧型」のリバイバルなのである。その後1997年、アラスカの凍土の中から発見された4遺体から、肺組織の検体が採取され漸くスペイン風邪の病原体の正体が科学的に裏付けられた。

スペイン風邪だけでなく、6月や7月の湿気の多い梅雨のむし暑い季節に流行った「しはぶきやみ」もじつはいまの新型インフルエンザのご先祖様の仕業だったかもしれない。

「新型インフルエンザは時々現れる。1580年以来10〜13回パンデミック(世界規模の蔓延)が発生している」(国立感染症研究所の岡部信彦情報センター長)のである。

アジア風邪は1956年に中国南西部で発生し、翌年から世界的に流行した。ウイルスはA型のH2N2亜型である。H、Nの詳しい説明は素人には手に負えないのでここでは省くが、新型インフルエンザH1N1の親戚筋、「いとこ」か「はとこ」だ。死者はスペインかぜの1/10以下であったが、抗生物質の普及以降としては重大級の流行であった。

40年ほど前、前回の「パンデミック」である香港風邪(H3N2)が1968年に発生。6月に香港で流行を始め、8月に台湾とシンガポールに、9月には日本に、12月にはアメリカに飛び火する。結局、日本では2,000人、世界では56,000人が死亡したと言われている。日本では3億円事件のあの年である。

10年前、1998年にも香港風邪が流行った。このときはH3N2ウイルスだったが、アジア風邪(H2N2)のフルチェンジだったといわれる。

一昨年2007年に流行ったAソ連型インフルエンザの先祖は、30年前の1977年のソ連風邪(H1N1)だ。因みに、ソ連と名前が付いているが、“原産地”、つまり発祥地は中国だといわれている。1977年5月に中国北西部で流行をはじめ、同年12月にシベリア、西部ロシア、日本へ、さらに翌年1978年6月にはアメリカへと飛び火。

ウイルスがスペイン風邪と同型だったということで、研究室に保存されていたスペイン風邪のウィルスが何かの理由で漏れ出したという憶測もあるくらいよく似ている。

これらスペイン、香港、ソ連の風邪は、いずれも近年も流行を繰り返しているA香港型インフルエンザのご祖先、鳥インフルエンザから変異した新種のウィルスによるものだといわれている。

「新型インフルエンザ」とは、人間はまだ感染したことがない新種のインフルエンザのことを言い、新種のウィルスであるため、人間にとっては免疫が働かないとされているが、じつは中にはリバイバル、ちょっと“化粧直し”をして姿を現すものもあることがわかる。

いま大騒ぎしている新型インフルエンザは英語では‘Swine Flu’という。

‘New Type Influenza’などとは言わない。「新型」とまったく別のインフルエンザのような印象を与えるネーミングをしているのは日本だけのようだ。いま流行っているのはブタ由来のインフルエンザなのだが、死亡率が高く本当に怖いのは鳥由来のインフルエンザ(’Avian Flu’ Bird Flu’)である。

過去にも何度か鳥インフルエンザの“震源地”となった中国大陸の関連情報について業界では、今ひとつマユツバだという見方もある。ことによったら香港風邪のリバイバル型が周辺国を窺っているかもしれない。

軍事的な脅威ばかりが声高に議論されているが、ウイルスに対する警戒を怠ってはならない。

2017年02月21日

◆ベルディムハマドフ大統領が3選

宮崎 正弘 



<平成29年(2017)2月20日(月曜日)弐 通算第5194号   

〜「中央アジアの北朝鮮」と言われるトルクメニスタンで
   97%の得票率でベルディムハマドフ大統領が3選〜


2月12日に行われたトルクメニスタンの大統領選挙は、97%という得票率
で、現職ベルディムハマドフ大統領が3選された。同時に大統領の任期は
5年から7年に延長された。

ベルディムハマドフ大統領は元歯科医。医学大学の学長からニヤゾフ前大
統領の急死をうけて臨時大統領に。そのまま権力のトップに居座った。ニ
ヤゾフ大統領の庶子と言われる所以である。

トルクメニスタンは鎖国をしている不思議の国、全土に金ピカの大統領像
を建立し、街を睥睨しているが、銅像を破壊する動きもなく、やっぱり
「中央アジアの北朝鮮」と呼ばれても、そうなんだと納得できる。
 葡萄と果物が意外に豊かで、国民生活は貧窮していない。

豊富なガスが出るので、中国へ累計8000キロのパイプラインを敷設して、
およそ生産の80%、残りをロシアとイランへ輸出し、将来はアフガニスタ
ン経由でインドとパキスタンの港から、世界市場を狙う。

旧ソビエト連邦の一員だが、独立後、永世中立国を宣言し、国連に認めら
れた。

それ以後、ロシアの言うことをまったく聞かない独自外交と国内的には独
裁政治を展開したため、つむじを曲げたプーチン大統領は、トルクメニス
タンからガスを買うことを止めた。

その余量が中国へ向かうというわけだ。

財政が豊かなので、国民の不満がなく、砂漠の酋長は、選挙ではなく村長
が撰んできたのであり、投票箱民主主義システムは単にジェスチャーだけ。

一応、大統領選挙は九人の候補が揃ったが、テレビを独占している与党
は、悠然としていた

昨秋、筆者はトルクメニスタンに団体ツアーに紛れ込んで、各地を見てき
たが、首都は摩天楼が林立しているのに居住民が殆ど居ない。ゴーストタ
ウンだった。大理石の建物なので、美しい外見である。国民は、政治が何
を行っているのか殆ど興味がない。

テレビの報道番組を見ていて笑ったのは延々と閣議の模様を放送している
が、大統領と視線を合わせないように、閣僚がメモを懸命に採っていて、
どこかの国と似ていると思った(拙著『日本が全体主義に陥る日』(ビジ
ネス社)を参照)。

バザールに行っても売店には新聞がなく、絵本がちらほら。文房具の質が
悪いうえ、中国製だった。それなのに、国民の多くはスマホを駆使していた。

ますます不思議の国である。

      

◆トランプ政権の未来

櫻井よしこ



「友を退け敵をつくるトランプ政権の未来は孤立化と衰退の道」

邦字紙は無論、英字紙の外信、経済、政治のどの面も、連日、ドナルド・
トランプ米大統領関連の記事で埋まっている。米大統領選挙期間中、米国
のメディアはトランプ旋風で視聴率が上がり、収益が改善したと、悪い冗
談のようにいわれている。大統領になればなったで、次々と繰り出す刺激
的な大統領令で、氏はメディアの主役を張り続ける。
 
トランプ政権に比較的好意的なメディアにも、しかし、次のような懸念の
声は少なくない。

「(外交分野の問題で)彼には衝動はあるが、経験はない。一時的(思い
付き)発言にはハラハラする」(就任演説を受けての米「ウォールスト
リート・ジャーナル〈WSJ〉」紙社説)
 
TPP(環太平洋経済連携協定)を永久離脱した米国は、アジア諸国を中
国に接近させ、「膨張する中国抑止で米国が協力を申し出ても、アジア諸
国は応じそうにない」。結果、「米国は再び中国を偉大な国にする」(米
「ブルームバーグ」マイケル・シューマン氏)。
 
メディアを敵に回し続けるトランプ氏の姿勢から見て当然だが、もっと激
しい批判は米「ニューヨーク・タイムズ」紙などには洪水のように溢れて
いる。激しい攻撃と対立姿勢故に米国民の支持を得たトランプ氏は、これ
までのどの大統領よりも、強引な政権運営に傾きつつある。シリア難民の
受け入れ停止とイスラム教国七カ国の国民へのビザ発給の一時停止を定め
た大統領令発令から、トランプ流独走の形が浮かび上がる。
 
1月27日金曜日、同大統領令が出されるや否や、激しい反発が起きた。日
曜日になって、ホワイトハウスはビザ発給停止は選挙戦での公約で、大統
領は公約を迅速に実現したにすぎず、その措置は「(イスラム教徒を狙っ
た)宗教問題ではなく、米国の安全、テロリスト対策だ」などのコメント
を出した。月曜日夜には、大統領令は合法なのかと疑問視したサリー・
イェイツ司法長官代行を解任した。
 
同大統領令発令に至る内情を報じたWSJの記事が興味深い。大統領令は
発令直前のギリギリまで推敲され、その過程で、例えば30日間のビザ発給
停止が90日間に延長されるなど、より強硬になったという。
 
また、同大統領令には限られたインナーサークルの人々だけが関わってお
り、肝心の国務省は蚊帳の外だったこと、移民局や税関局などの現場職員
も同様で、新規則をいつから実行すべきなのかについてさえ、指示はな
かったことなどが暴露されている。同大統領令発令から48時間後に国土安
全省がグリーンカード(永住権)保持者は入国自由だと発表したことにも
その混乱ぶりが表れていた。
 
同大統領令は発表直前まで極秘にされ、その結果、法的整合性について
の検討さえ十分にはできなかったわけだ。理由として、内容が事前に知ら
れてしまえばテロリストたちは急いで米国に入国してしまう、そうなれば
彼らを捜し出して取り締まることは困難を極めるからだというインナー
サークルの声が報じられている。ここには、ビザ問題がいかに重要で、深
刻な影響を国家戦略に及ぼすかについての理解と慎重さが見られない。
 
トランプ政権にはジェイムズ・マティス国防長官ら優れた閣僚がそろって
いるかもしれない。しかし、政策を決めるのはホワイトハウスである。今
回の件はトランプ氏という人物の独断に伴う危うさを浮き彫りにした。
 
米国はテロリストとの戦いで、穏健なイスラム教徒の助力を必要としてい
る。だからこそ、従来の米国政府はよきイスラム教徒をテロリストと同一
視する愚行を避けてきた。トランプ氏とそのインナーサークルの人々には
明らかにその配慮が不足している。友を退け敵をつくるトランプ政権の未
来は孤立化と衰退の道だと思われてならない。

『週刊ダイヤモンド』 2017年2月11日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1169


◆日中国交正常化余聞

渡部 亮次郎



1972(昭和47)年9月20日田中角栄首相らを乗せた全日空特別機は、北京
を目指して羽田を飛び立った。同乗して同行するNHK代表の私にとって
は、沖縄(本土復帰前)に次ぐ2度目の海外取材だった。

数年後、私が猛烈な高所恐怖症であることを自ら発見するが、今も飛行機
に乗るのは平気である。故迫水久恒経済企画庁長官は、当時の池田勇人首
相に訪米同行を命じられ、恐怖の為一睡もできず、ワシントンまで下を向
いたままだったと私に回想したことがある。

わが田中首相は畿内で数十分眠った。大平正芳外相と二階堂官房長官は眠
らなかった。特に外相は中国側との会談の手順を考えたら眠るどころの話
ではなかったらしい。

空港から北京市内まで、並木の根本から地上1mぐらいの高さまで白い石
灰のようなもので消毒してあるのが珍しかったが、バスの中では尋ねる人
とて無い。

割り当てられホテルは人民大会堂に近い確か民族飯店460号室だったが、
洋服箪笥の背が高く往生した。シャワーも同様。後で調べたら建国直後に
招いたソビエト技術者が自分たちの感覚で設計したものだった。

中国との国交正常化とは世界情勢上、どう位置するかとか、国益にとって
のプラス、マイナスなど考えたことも無い。中国へ来たいなどと思ったこ
とも無い。私は海外取材ならまず、アメリカへ行きたかった。(アメリカ
初訪問はNHK退職後の1973年だった)。

当然、中国語は全く知らない。それでも部屋を出たり入ったりするので部
屋番号だけは係りに聞いた。「スールーリン」。あれから40年以上。いま
だに「トウフーリャンツラン渡部亮次郎」とともに覚えている。韓国では
「ドーブー」になる。

話は前に戻る。出発に先立って外務省報道課から注意があった。「新中国
の人々はチップを受け取りませんから絶対出さないように」。
ところがバスを降りて運転手に西日本新聞の記者が金貼りのライターを差
し出した。

運転手きょろきょろ周りを見たあと奪い取りようにしてポケットにしまっ
た。約2万円の損害である。いまさら冗談だった、返せと言えないからで
ある。日本外務省の「取材」の浅さは今も昔も変わっていない。

到着2日目に各社から1人が選ばれて、田中首相の宿舎「迎賓館」に招かれ
て入った。小学校しか出ていない角さん、よせばいいのに漢詩を色紙に書
いていた。あとで専門家から大いに貶された。

日中首脳会談の中身について二階堂官房長官の発表は連日、「発表できる
事はありません」。支那事変と満洲事変で日本が中国に与えた被害につい
て「迷惑をかけた」と言った。

周恩来が怒って「それは道路で撒いていた水が女性のスカートに掛かって
謝った程度の意味」と抗議して大平がその夜はメシも喉を通らなかったこ
となどは北京にいるうちは丸秘だったのだ。

それに対して角栄首相が「気にしなさんナ、対策は明日考えればいい。だ
からインテリは使い物にならんのだ」と嘆いたことは帰国後分かったに過
ぎない。

交渉はほぼ詰まったらしく、角さんらが万里の長城へ登ることになった。
朝起きが早すぎたので460のベッドにひっくり返ったら眠ったらしい。

慌てて下へ降りたらバスは出発済み。タクシーたって当時は1台も走って
いない時代。怪しげなフランス語で交渉したら共産党の指示でガタガタの
車が迎えに来た。

どんなに急ごうとしても時速40キロしか出ない。北京郊外を出ようとした
ら下肥を担いだ男に逢った、日本人一行が行きすぎたと思って安心してで
てきたら、まだ日本人がいたというわけ。中国農業のレベルを知らされた。

万里の長城にはなんとか間に合った。NHKには各首脳に半径2m
まで近づける「近距離記者」は私しかいないのだからあわておってきたわ
けさ。


◆安倍は敵基地攻撃能力保持を決断する時だ

杉浦 正章



狂気の北指導者の前に躊躇している時ではない
 

「疾きこと風の如く」は、今金正恩のお家芸だ。ミサイルと核兵器の開発で孫子の兵法を実践しつつある。叔父殺しに次いで異母兄を殺りくして、狂気の独裁者の本性を現し、ミサイルと原爆小型化は佳境に入った。これに対して日本の防御態勢は整いつつあるものの、同時多発の飽和攻撃に耐えられるのか。一発でも撃ち漏らせば確かに金正恩が公言するごとく東京は火の海だ。その一発が致命傷となるにもかかわらず、日本はいまだに平和は天から降ってくるとばかりに、米国に敵基地攻撃を全面的に頼っていてよいのか。敵基地を殲滅(せんめつ)しない限り、極東の平和は維持出来ない。


専門家によれば敵基地攻撃能力の環境は既に8割方機が熟しており、憲法上可能との見解も61年前から確立している。後は首相・安倍晋三の判断に委ねられているのが実態だ。金正恩に日本攻撃を断念させるためにも早期実施による抑止の確立に踏み切るべきだ。もう国連決議など、北を支える中国がある限り何度繰り返してもムダだ。
 

政府は国民に迅速に情報を伝える体制を整えるため、23日と24日に、都道府県の担当者らを対象にした説明会を開く。説明会では、ミサイルが日本の領土・領海に落下するおそれがある場合、Jアラート=全国瞬時警報システムなどを使って、推定される落下地点などの情報を発信することを説明し、機器の取り扱い方法を確認するよう要請することにしている。国民の尊い命を守るためには必要な措置であるが、なにやら狂った野良犬を放置して、かまれたらどうするを説くようで情けなく感ずる。
 

問題は金正恩が核ミサイルを発射する場合、日本を最優先する可能性があるだろうかということだ。おそらく、対韓攻撃が先行する可能性が大きいが、日米韓を同時に攻撃する可能性もないわけではない。韓国は防ぎようがないから自分で守ってもらうしかないが、日本到達までには最短で約7〜8分とみられ韓国よりは余裕がある。迎撃ミサイルSM-3搭載のイージス艦は、防衛庁の公表資料によると、これまでの試験で20発の迎撃ミサイルのうち16発が命中した。しかしこの確率でいくと、単純計算では200発の日本向けのノドンが発射された場合、40発が到達することになる。
 

また肝心なのは米国が日本を完璧に守ろうとするだろうかということだ。まず本国へ向かうICBMを処理するのに専念し、日本は二の次になる可能性も否定出来ない。一発ぐらいの日本への着弾は仕方がないと考えないだろうか。しかし、日本にとってはその一発が致命傷なのである。国家としてはたった1人でも日本国民から北ミサイルの犠牲者を出してはならないことは、国の有りようの鉄則である。飽和攻撃の際にそれが可能かと言うことだ。おそらく自信のある専門家は皆無であろう。
 

これでは対北ミサイル戦略は成り立たない。ほぼ完全にブロック出来る態勢が確立するのは早くても5年はかかるといわれる。昨年6月のムスダン発射は、通常軌道に比べ高高度に打ち上げ、短い距離に着弾させる「ロフテッド軌道」で発射された。ロフテッド軌道だと落下速度がさらに増すため、迎撃が非常に困難になる。専門家は「現在の自衛隊の装備では撃破は難しい」としている。また昨年9月にはノドン3発を同時に発射し、日本の防空識別圏内に400キロ以上入って日本海に落下したという。まさに飽和攻撃の予行演習を誇示したことになる。
 

こうして傍若無人の核戦略は指導者と同様に増長の一途をたどる。技術は日進月歩だが、矛と盾の原理があって、盾を突き通す矛は常に製造可能と見なければなるまい。そこで誰が考えても必要なのは、矛そのものを殲滅させる戦略であろう。それには敵基地攻撃能力を日本自らが身につけるしかないのだ。もちろん専守防衛の方針は逸脱するが、いまどき専守防衛の空理にしがみつく国は日本以外にない。攻撃こそ防御なのだ。


よく「やられたらやりかえす」(元外相前原誠司)というが、この戦略は核ミサイル時代には成り立たない。「やられる前にやる」しか、国家が生き延びる道はないのである。ただし「やられた」が韓国や米国を指すなら、やがては日本にも発射されるから「やられたらやりかえす」概念は成り立つ。
 

元首相中曽根康弘が会長の世界平和研究所が1月12日に発表した提言は、敵基地攻撃能力の保有を政府に求めており注目される。日本が第三国から武力攻撃を受けた場合、「さらなる攻撃を防ぎ、反撃するため、巡航ミサイルなどを保有し、もって日本独自の抑止力を持つべきだ」と提唱した。


同報告書の発表を主導した東京大学名誉教授北岡伸一は安倍の外交・安保分野の「家庭教師」と呼ばれる人物であり、政府とはツーカーの報告書であろう。もともと政府は、自衛のための敵基地攻撃能力の保有について、憲法上は容認されているとの立場だ。1956年には国会で首相鳩山一郎が「わが国に対して急迫不正の侵害が行われ、その侵害の手段としてわが国土に対し誘導弾等による攻撃が行われた場合、座して自滅を待つべしというのが憲法の趣旨とは、どうしても考えられない。他に手段がないと認められる限り、誘導弾等の基地をたたくことは、法理的には自衛の範囲に含まれ、可能である」との統一見解を示している。


なんと61年前からこの見解があるにもかかわらず、社会、共産両党などの反対で実施に踏み切れなかったのだ。敵基地攻撃には弾道ミサイル、巡航ミサイル、ステルス性のある戦闘機F35と空対地ミサイルなどが必要だ。加えて、敵基地を特定できる人工衛星などの情報や、戦闘機の長距離飛行を支援できる空中給油機、これらのすべての作業をコントロールする早期警戒管制機(AWACS)などの装備体系が必要となる。高い金を出してF35を配備する以上、敵基地攻撃能力を備えるべきだ。でないと宝の持ち腐れになる。


これらの装備を備えるには防衛予算を対GDP比1%の上限を突破させる必要があるが、中曽根研究所は「当面はGDP比1.2%を追求すべきだ」としている。米国は北大西洋条約機構(NATO)に2%目標の早期達成を促したが、これをテコにやがて日本にも要求してくる可能性がある。先手を打って1%を突破する方がよい。マスコミの論調も読売と産経が敵基地攻撃能力保持論であり、政党も維新が積極的だ。自民維新で推進すれば、公明党の山口那津男や民進党の一部は後から付いてくるだろう。場合によては安倍は夏に解散・総選挙を断行し、民意を問えばよい。自民党は圧勝するだろう。

          <今朝のニュース解説から抜粋>  (政治評論家)

◆いちごの生産者だった私 

石岡 荘十



小学5年生だった一夏、私はいちごの生産者の端っくれだった。

敗戦翌年5月、私たち一家は中国の天津から引揚げ、父親の生家である秋田県・八森村へ落ち着いた。秋田音頭のしょっぱなに出てくる「八森ハタハタ、男鹿でオガブリコ〜」のあの寒村だ。

生家は父が若くして東京に出た後、弟(叔父)が家を継いで百姓をやっていたが、赤紙一枚で徴兵され満洲(中国東北部)の最前線へ。終戦と共に、シベリアへ持って行かれ、留守宅は祖母と叔母が幼い子ども2人を抱えてほそぼそと稲作百姓をやっていた。そこへ、われわれ一家4人が転がり込んだのである。

ご多聞に洩れず、農家も食糧難だった。畑で芋やナス、キュウリ、トマトを作り、山に入って山菜を採り、新米の収穫まで食いつなぐこととなった。

間もなく、生まれて初めての田植えにも駆り出される。父と母は、元を質せば百姓の生まれだから昔取った杵柄、手際はいい。慣れないとはいえ、小学5年生の私と中学生の兄、も立派な労働力だった。

夏。小柄だが目端の利く祖母が、そのころはまだ珍しかったいちごの栽培を始めた。ビニールハウスなどまだない。夜明けと共に、学校へ行く前に畑でいちごを摘む。

取立てのいちごを大きな背負い駕籠いっぱいに入れてこれを担ぎ、学校へ行く途中集荷所まで運ぶのが私の役目だ。集荷所までは子どもの足で小1時間。その日の売り上げを受け取り、空になった駕籠を担いで学校へ行く毎日だった。

草鞋を履くのも初めてなら、駕籠を背負って学校へ行くのも生まれて初めての経験であった。荷は肩に食い込み、草鞋の緒で足の指の間からは血が滲んだ。

何より恥ずかしかった。紺サージの制服にぴかぴかの革靴で学校に通っていた天津での生活は、いまやここでは別世界の出来事だった。そのうえ、学校の行き帰りには、「引揚者、引揚者」と蔑まれ、いじめにもあった。

それでも田植えで泥まみれになり、田の草をとり、秋には稲刈りもした。そうこうしているうちに秋。11月には父の仕事先が群馬。・高崎と決まり、半年過ごした秋田を後にしたのだが、この頃には、ずーずー弁もまあまあ操れるようになり、いじめっ子たちとの間にも友情が芽生えていた。

高台の集落を去る日、その日は日曜日だったが、10人ほどのガキが口々に大声で「まだ、こらんしぇ」(また、来いよ)といつまでも手を振ってわが一家を見送ってくれたのだった。

高校を卒業するまで高崎で過ごした。その後東京へ進学、就職。で、ここまで想い返してみると、報道に関わった日々を含めて、ニュース原稿は腐るほど書いたが、秋田を去った後、モノを生産したことは一度もなかったことに気がつく。

80年を越える今日まで、形のあるモノを生産した経験はいちご作りだけだった。あの夏、私はいちごの生産者の端くれだった。幼い肩に食い込むいちご駕籠の重みを懐かしく思い出す。

それにしても、いまどきの季節外れの、ビニールハウス育ちのいちごの味の薄いこと。自分が作って売ったあの本物のいちごの味覚に出会うことは二度とないのかもしれない。