2009年07月06日

◆李承晩ラインがあった



         渡部亮次郎

李承晩(イ・スンマン、1875年3月26日―1965年7月19日)は、朝鮮の独立運動家で、大韓民国の初代大統領(在任1948年―1960年)。われわれは「り・しょうばん」と言い習わしていた。
だから見出しは「りしょうばんライン」である。

1911年(明治44年)、寺内正毅総督暗殺計画に連座して投獄される。

1934年(昭和9年)滞米中、オーストリア人のフランチェスカ・ドナーと結婚。1941年『日本の内幕記』を著し日本の対米宣戦を予告。1945年(昭和20年)10月、アメリカより帰国。

1946年2月大韓独立促進国民会を結成、総裁に就任。

1948年(昭和23年)8月13日、アメリカの梃入れにより大韓民国成立、初代大統領に就任。以後、「反共」を掲げるも圧倒的な「独裁」を12年間貫いた。

李承晩は、朝鮮の独立運動に関わっていたという経歴から分かる通り、日本を激しく嫌った。

代表的な対日政策の一つに1952年の一方的な海洋主権宣言、いわゆる「李承晩ラインの設定」がある。日本官憲による投獄中、生爪はがしの拷問を受けたため、憎悪の念は激しかった。

李承晩ラインは、1952(昭和27)年1月18日、大統領・李承晩の海洋主権宣言に基づき韓国側が一方的に設定した軍事境界線。韓国では「平和線」と宣言された。

海洋資源の保護のため、韓国付近の公海での漁業を韓国籍以外の漁船で行うことを禁止したものとされたがが、本当の狙いは韓国で獨島(「独島」)と呼ばれている竹島と対馬の領有を主張するためであるとする説がある。

これに違反したとされる日本漁船は以後韓国側による臨検・拿捕の対象となり、銃撃され殺害される事件が起こった(第1大邦丸事件など)。西日本の漁民は塗炭の苦しみを味わった。

国際法上の慣例を無視した措置として日米側は強く抗議したが、このラインの廃止は1965年(昭和40年)の日韓漁業協定の成立まで待たなくてはならなかった。

私はこの頃既にNHKの政治記者であり、たまたま衆議院担当だった。問題の日韓漁業協定を含む日韓条約の国会批准にあたって日本社会党と共産党が反対した。北朝鮮びいきだったからだ。

このため、自民党は衆参両院とも本会議で強硬採決を断行した。特に衆議院本会議は1960年の安保改訂国会以来の乱闘となり、野党が議長席占拠のため駆け上がるため起きた地鳴りは44年経った今も耳に残っている。

協定が成立するまでの13年間に、韓国による日本人抑留者は3,929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えた。

李承晩ラインの問題を解決するにあたり、日本政府は韓国政府の要求に応じて、日本人抑留者の返還と引き換えに、常習的犯罪者あるいは重大犯罪者として収監されていた在日韓国・朝鮮人472人を収容所より放免して在留特別許可を与えた。

領土問題に関しては、他にも「対馬も韓国領土」「沖縄は韓国固有の領土である」などと発言したり、朝鮮戦争の際にも「釜山が陥落したら、福岡に亡命政府を置く」などと主張して、幾度となくマッカーサーから叱咤を受けていたほど、日本を占領したいとも発言している。

また、日本の大衆文化を「公序良俗に反する表現」として規制した。その結果、日本の大衆文化を剽窃したものや海賊版などが横行する事態に陥った。

のちに韓国でも著作権の概念が浸透し、また金大中政権以降、段階的に日本の大衆文化の開放が行われるようにはなったこともあってしだいに改善されてきている。

李承晩政権は日本との国交正常化には消極的で、結果的に日本からの公の経済援助を得る機会を大幅に遅らせることになった。交易拡大についても消極的で、外貨流出や北送事業(北朝鮮帰国運動)への抗議を理由に、1955年8月〜1956年1月、1959年6月〜1960年4月に日本と通商断交している。

また、1959年8月には「日本は人道主義の名の下に北朝鮮傀儡政権の共産主義建設を助けようとしている」と非難し、予定されていた日韓会談の中止を指示した。

後の朴正煕政権は日本との妥協点を模索し、日韓基本条約を交わした。日本からの多額の無償経済援助や借款を得るとともに、対日貿易が経済発展の唯一の方法として積極的に推進した。

このような朴正煕政権の政策と対比して、李承晩政権の対日政策と1950年代の経済低迷との因果関係が指摘されている。

1960年、李承晩が4選を狙った大統領選挙に際して、3月15日、大統領李承晩、副大統領李起鵬の当選が報じられると、反対デモが頻発。8人死亡50人以上が怪我という馬山事件になった。

馬山事件に抗議するデモは瞬く間に韓国中に飛び火し、4月18日には高麗大学とソウル市立大学の学生が国会前で座り込み、翌4月19日にはソウルで数万人規模のデモが行われた。各主要都市でも学生と警察隊が衝突し、186人の死者を出した(4・19学生革命)。

国会は、大統領の即時辞任を要求する決議が全会一致で採択した。このことを受けて午前中に、李承晩はラジオで「国民が望むなら大統領職を辞任する」と宣言し、下野した。12年間続いた独裁体制はようやく崩壊することになった。

副大統領の李起鵬は4月28日に一家心中し、大統領の李承晩は1960年5月29日に夫人を引き連れ、アメリカハワイに亡命した。それから5年後の1965年7月19日、その地で90年の生涯に幕を閉じた。

因みに、フランチェスカ夫人は夫の没後、故郷であるオーストリアを経て、1970年5月16日に韓国へ戻り、1992年3月19日にソウルにおいて92歳で死去している。2009・06・21
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

◆九十翁の「台湾の青春」




平井修一

戦後、GHQの走狗となったNHKや朝日新聞など容共左派のマスコミは、三つ子の魂百までもで、未だに「戦前の日本=侵略者」、いわゆる自虐史観にしがみついている。

左巻きではNHKの師匠である朝日も「上手の手から水が漏れ」たのだろう、「甲子園球児=純真無垢」を強調したかったのだろうか、「人・脈・記」(070703)でぽろっと「台湾の真実」を書いてしまった。

<甲子園アルバム 台湾の青春「球は霊なり」

台湾のチームが甲子園で準優勝したことがある。1931年、満州事変がおきた年に海を船でこえてきた嘉義農林である。その中堅手だった蘇正生はいま94歳。台湾・高雄の介護施設に訪ねると、ユニホーム姿で車いすに乗ってあらわれた。 

「はじめて甲子園運に入ったら、みな草色。ランニングしたら広かった。グラウンドは砂のごとく平ら。台湾は石ころがゴロゴロ。もういっぺん、行ってみたい」

とつとつと日本語をつむぐ。涙があふれ、鼻水がたれる。それでも話しつづける。蘇にとって甲子園こそ青春そのものなのだ。  

台湾は日清戦争で日本に割譲された。野球は日本人といっしょにやってきた。嘉義農林の監督になったのは近藤兵太郎。愛媛の松山商で監督をしていた人だ。「球は霊なり」と蘇らを鍛えあげた。

「近藤先生は、正しい野球、強い野球を教えてくれた、差別、ひとつもありませんでした」

レギュラ−9人のうち3人は日本人、蘇ら2人は「本島人」と呼ばれ、4人は先住民族「高砂族」だった。甲子園のグラウンドをはだしで駆ける者もいた。

決勝で中京商に4一10で敗れる。作家菊池寛は観戦記に書いた。「日本人、本島人、高砂族という変わった人種が同じ目的のため共同し努力しているということが、何となく涙ぐましい感じを起こさせる」

日本敗戦後、台湾は中華民国のものとなる。大陸からきた国民党軍による反対派弾圧事件で2万ともいわれる死者が出た。蘇のチームメートだった陳耕元らは混乱をさけて田舎に帰り、先住民のために学校をつくって野球を教えた。

そのすそのから育ったのが中日ドラゴンズの投手になる郭源治(50)だ。農家に生まれ、7人兄弟の3番目。先住民族の一家は貧しく、野草を煮て食べた。男の子たちの楽しみは野球だ。

「うちのおやじは日本語ペラペラ。日本が好きでした。逆に僕が教育されたころは、戦争のことなどがあって日本のことが嫌いというところはあったんです」>

蘇正生や郭源治の父親は日本の統治が台湾のためであったことに感謝と郷愁を覚えている。この事実をまるで逆に描いたNHK「JAPANデビュー」は犯罪的である。

読者各位

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http://www.shomei.tv/project-1030.html

2009年07月05日

◆ホルモン料理は明治から



                渡部亮次郎

日本で朝鮮料理の普及は中華よりもやや遅く、李人稙が1905(明治38)年に上野に韓山楼という店を開いているが、客のほとんどは朝鮮人であり、李が間もなく朝鮮に帰国してからは消滅した。

日本併合後には日本に来る朝鮮人が増加し、1938(昭和13)年の東京市には朝鮮料理店が37軒出来ていた。そこで出されたのは戦後の焼肉を中心とするものではなく、伝統的朝鮮料理だった。

「焼肉」が「韓国料理」だと最近の韓国人は力むが、嘘だ。韓国で焼肉を食っていたのは併合時代の日本人だけで、日本人は朝鮮人に焼肉(牛肉)も砂糖は絶対食べさせなかった。このことは私が昭和48(1973)年6月、日本担当相の招きで韓国を訪問した際、同相から聞かされた。

滞在中、実はそろそろ韓国料理に飽きが来た頃を見計ったように「明日は大和焼きにしましょう」という。大和焼きなんて日本では聞いたことがなかったからいずれ日本的な料理だろうと期待した。

ところが、当日行って見ると「焼肉」ではないか。驚く私に大臣が説明したのが「日本併合当時、我々には牛肉も砂糖も食わさなかった日本人。牛肉に砂糖醤油をまぶして食べていた」という。

「だから焼肉は朝鮮料理ではなく大和焼き。恨みのこもった料理ですよ。解放(独立)直後、大韓民国の1人当りの砂糖消費量は世界一になったものです」。

確かに敗戦後、大阪の闇市で残留韓国人の始めたのが焼き肉やホルモン(放るもん)焼きだったから、焼肉は韓国料理説が定着した
感じがあるが、真相の一端は以上の通り。

さて、ホルモン料理の歴史は明治時代に遡る。

明治期の神戸の牛屠畜従事者の回顧によれば、屠畜場に残された内臓肉は彼らの重要な副収入源であった。

1906(明治39)年の「神戸新聞」には屠畜場周辺地域で、粗末な大鍋で切り刻んだ臓物を煮込んだものが1皿1銭という格安で出されており、店の前を通っただけで異臭がした。だが、夕方からは千客万来であった。

やがて内臓肉は専門業者を通して流通するようになり、都市部では屠畜場周辺以外にも低価格の肉料理として広がりはじめるが、決して一般的ではなかった。

1920年代には一時的にだが「精力が増進する料理」という意味の「ホルモン料理」の店が出来、卵、納豆、山芋などと並んで動物の内臓を出す店が出来た。

1930年代になると、一般向けにも広まった。例えば大阪難波の店「北極星」を営む北橋茂男は1936年(昭和11年)頃に牛の内臓をフランス風の洋食「ホルモン料理」として提供し、1937(昭和12)年には「北ホルモン」の名で商標登録を出願している。

当時を知る人によると北橋は石川県出身。その縁で大政治家永井柳太郎と親しかった。大阪に出て大衆食堂「パン屋の食堂」で当て,難波にビルを建設、永井の命名で洋食「北極星」を開店、成功を収めた。

「ホルモン」についてはまた、女性向け雑誌『料理の友』には1936(昭和11)年から年1度のペースで内臓料理が「ホルモン料理」として特集された。1940(昭和15)年2月号では牛や鶏の内臓のバター焼きなどの調理法が掲載されている。

また、1936(昭和11)年には日本赤十字社主催で「ホルモン・ビタミン展覧会」として講演や料理実演が行われている[。また、1920年代には東京で豚の内臓を串に刺してタレで焼いた「やきとり」が売られ始め、1940年頃には労働大衆の食として人気を博した。
出典:『ウィキペディア』2009・07・04


◆巴里だより チュイルリー公園のかき氷



岩本宏紀(在仏)


チュイルリー公園はホモが多いのでずっと敬遠していた。

土曜日の夕方、サン・ロック通りの中華料理屋で旨いオマールと
坦々麺を腹一杯食べたので、腹ごなしに久しぶりにこの公園に入ってみた。

傾いた太陽が芝生の緑をより鮮やかにし、
ルーブル美術館のベージュの壁をより立体的に見せていた。

観覧車や回転するぶらんこ、おなじみの回転木馬などの移動遊園地
も設置されていて、家族連れや若者で賑わっていた。

コンコルド広場とルーブルの間にある、この公園、この時期お勧めです。
しかも入場無料。

渡辺淳一の「シャトー・ルージュ」で、主人公の医者が
性愛の調教が終わった妻と再会するは、この公園だった。

蒼いリンゴのかき氷をストローで吸うと、気持ち良さを通り越して
頭が痛くなった。
日本の夏をちょっと思い出した巴里の夕暮れでした。

添付画像 2009年6月27日巴里 チュイルリー公園
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2009年07月04日

◆なぜ高い日本の医療機器



                 石岡 荘十

薬事法上、医療機器はそのリスクに応じて3つに分類されている。まず、高度管理医療機器。 副作用や機能に障害が起きたとき、まかり間違えば人の命や健康に重大な影響を与える恐れがあるもの。

例えば、透析器、人工骨、人工呼吸器、PTCAカテーテル、ペースメーカなど(PTCAカテーテルは、狭心症や心筋梗塞を治療するための管)。

次に管理療養機器。前項以外の機器で、やはり副作用や機能に障害が起きたとき、それほどではないが患者の命や健康に重大な影響を与える恐れがあるもの。

たとえば、MRI、腹腔鏡、電子式血圧計など。MRIは、日本語では「磁気共鳴画像診断装置」といわれ、強力な磁場や電波で脳や体を輪切りにした画像を撮影する大型の検査機器。

よく似た機能を持つものにCTがあるが、MRIはCTに比べタテ・ヨコ・ナナメなど断面を自由に設定できるなどの利点がある)。

さらに、一般医療機器。副作用や障害が起きても直ちに人命や健康に影響を与える恐れのないもの(聴診器など体外診断用機器、X線フィルムなど)。

これらの機器のうち、ペースメーカ、PTCAカテーテル、MRI、腹腔鏡の4つについて、公正取引委員会が05年12月、詳細な実態調査を行なっている。

それによると、まずペースメーカは100パーセント輸入。メーカーは欧米の10社程度で、04年の日本国内での販売個数は47,460個。その市場規模は465億円だった。

ペースメーカは機能的には8つに区分され、国内価格は、116万円から185.2万円となっている。

ところが、たとえば国内で133万円のものがアメリカでは83万円余と、日本の価格はアメリカの1.6倍である。日本で148万円のものはアメリカで95万円、これまた1.6倍という価格差となっている。

実態調査報告書の翌年06年、保険適用が承認された最新型InSync3マーキー(419万円)の価格差は多少圧縮されて1.27といわれている。それでもこの比率で換算すると、アメリカでは330万円で売られている計算になる。その価格差は90万円である。

ことほど左様にPTCAカテーテルの場合の内外価格差はさらに大きく、2倍以上。

ペースメーカとカテーテルの価格差が大きいのは、国内の多すぎる医療機関の数に関係があるといわれている。

ペースメーカの植込み治療を行なっている病院は、人口比でいうと日本はアメリカの4倍。アメリカは大型集約型、日本は中小分散型で、日本では膨大な流通経費がかかる。

その差は5600億円(05年)と試算されている。これが機器の価格、ひいては医療費に上乗せされている。

ところが、である。

MRIの平均販売価格の対アメリカ比は0.75と、日本のほうが安いのだ。これはどうしたわけか。理由は2つ。

・国産のMRIのシェアが大きいこと

・販売台数の6割はメーカーが直接、医療機関に納品するため流通経費がかからないこと

普及率は60パーセントで世界一。海外でも売れている。メーカーによる売り込み競争は熾烈で、値崩れが起きている。業界では「半値の8掛け」といわれている。

そんなに優れた技術力があるのなら、技術的には遥かに簡単なペースメーカやカテーテルくらい国産で賄ったらよさそうなものだと思うかもしれないが、ほとんどが輸入品である。なぜか。

長年、医療機器の営業に携わっているセールスマン(ME:MedicalEngineerという)はこう言う。

「国民性ですかねぇ。医療機器の中でも、副作用や故障が起きたとき直接患者の命にかかわる高度管理医療機器については、いざというときには膨大な賠償や製品のリコールを覚悟しなくてはならない。

MRIやCTは検査機器ですから、まず命に関わるようなことは考えられないので、複数のメーカーが作っています。ペースメーカやカテーテルは1歩間違うと、訴えられて会社がつぶれてしまいます。

欧米のメーカーはそのリスクを乗り越えて、開発にしのぎを削っています。医療機器の内外価格差は、リスク回避の代償といえます」

「危ないことはごめん」

自分では作らないが危ないところは他所さんにお願いする。技術力があっても自分では作らないのは核と航空機と医療機器だ。

アメリカの核の傘で守られ、カネだけは出すという構図にどこか似てないか。

2009年07月03日

◆壊された麻生人形


     渡部亮次郎

麻生首相は1日、自民党役員人事断念したので内外に「迷走」の印象を与え、低下していた求心力のさらなる低下を招いた。有体にいえば麻生総理は壊れてしまった。いや、森喜朗に壊されてしまったのである。

今後は衆院解散に踏み切る時期が焦点となる。首相は東京都議選直後を模索するが、都議選の結果に加え、内閣支持率、「麻生降ろし」の動向などのハードルが立ちはだかる。壊れた人形はもはや動けない。

<「何回も聞けば、俺がぽろっとしゃべると期待してるのかね。『靴は脱いだらそろえなさいよ』と何回も言わないと分からない子供と同じ程度に扱わないで」

首相は1日夜、記者団が「自民党役員人事は行わないのか」と質問すると、いら立ちをあらわにした。「私の口から(党人事を)やると聞いた人はいない」と繰り返した首相だが、周辺によると、実は前日の6月30日の時点で、なお党役員人事の断行にこだわっていたという。>(読売 2日)まるで子どもだね。

壊れ始めたのは日本郵政の西川善文社長続投問題に伴う鳩山邦夫・前総務相の更迭であった。本質は麻生首相に分があったのだが「運び」の拙さから鳩山が正義の英雄、首相が「ゴリ押し」の図式になって支持率が急落。

このあたりの政局運営は、実に素人っぽく、外野からでも見ていられなかった。筆者は「未熟政治家」と評した。政治の才能はDNAとして遺伝しない事を正確に実証して見せたような拙劣さだった。

岸信介の孫、安倍元首相ですら、心もとないと思ったのだろう。6月24日夜、単独で総理公邸を訪ね会談した。これを承けて麻生首相はあわせて菅義偉選挙対策副委員長らの進言を受け、党役員の刷新と閣僚補充人事で態勢立て直しを図る考えを固めた。

だが自民党内派閥領袖の反発を計算していなかったところが「未熟」である証拠。2007年の参院選惨敗を招いた安倍氏への反発や、衆院当選4回ながら首相の側近として影響力を持つ菅氏への反発も多かった。首相にとっては誤算だった。

30日夕方までに盟友の大島理森国会対策委員長が首相に電話して「静岡県知事選や都議選で一生懸命やっている時に、人事でゴタゴタするのは困ります」といさめたが、首相は党三役を交代させても理解を得られるとの考えを示したという。

<だが、安倍氏の公邸入りの様子を民放のカメラが撮影していたのは思わぬ落とし穴があった。

25日、党内はハチの巣を突いたような騒ぎになった。「安倍が内閣改造をそそのかしたに違いない!」。安倍氏が早期解散論者だと知られていたこともあり、「7月2日に電撃解散」とのうわさが駆けめぐった。

この「7・2解散説」に選挙基盤が脆弱な若手・中堅は震撼した。反麻生勢力のリーダーである中川秀直元幹事長が公然と首相退陣を説き、「総裁選前倒し」の動きが加速したのは、実は「解散阻止」が主たる目的だった。>(産経 2日)

ダメ押しに例によって森 喜朗が登場した。元気付けでは無い。「説得」とは名ばかり。これが「引導」渡しに生るとも気づかずに。
町村派の相談役に退いている事も忘れたかのように30日夜ホテル・オークラで約1時間半もの直談判。

「ここまで来て役員人事をやるべきではない。細田幹事長らはこれまで『政局より景気だ』と一生懸命やってきた。衆院選はこのメンバーで国民に訴えるべきだ」と説いた。

森に背けば党内大多数を敵に回すことになる。首相もうなずくしかなかった。森は伊吹文明・元幹事長は1日夜、都内の料理屋で新党大地の鈴木宗男代表を交えて会談し、党役員人事がなくなったことについて「無駄なエネルギーを使わないことで求心力を保った」との見方で一致した。

派閥の幹部は結束しても、そのことが自民党の総裁を壊し、内閣を死に体にしてしまった事に気付いてはいないようだ。森は政局が混乱しかかるとしゃしゃり出て「穏便」に収拾してみせるのだが、収集にはなっていない。結果、毒を盛っただけである。自民党終焉史が書かれれば森は太字で残るだろう。

<役員人事が不発に終わり、首相周辺の一人は「閣僚補充では内閣支持率が1%も上がらず、これでは選挙はできない」と、首相への不満をぶちまけた。

ただ、党役員人事の断念により、求心力の回復効果は薄まり、繰り上げになったようだ。>(読売2日)(文中敬称略)2009・07・02

2009年07月02日

◆「水際作戦」に傾倒した理由



石岡荘十

新型インフルエンザ襲来に、まず政府がとった対応策は水際作戦だった。なぜか。

かねてから、新型インフルエンザには潜伏期間があって、帰国したときにはまだ症状が出ていない人が多いはずなのに、なぜあんなに水際作戦オンリーの対策にこだわったのか不思議に思っていたが、その謎が解けた。理由は

「国として何もしないわけにはいかないでしょう」だった。尾身茂・新型インフルエンザ対策政府専門家諮問委員会委員長(自治医大教授、もとWHO西太平洋事務局長)にじかに話を聞く機会があって、筆者の質問に彼はそう答えた。

新型インフルエンザを迎え撃つ行動計画(ガイドライン)は2月、すでに出来ていたのだが、いざそれが現実となると、「さてどうするか、とりあえず検疫だ」と迷いながら行動を開始したと受け取れるのである。

「検疫」とは、具体的には「水際作戦」のことで、検疫法に基づいて、厚労省が行う行政行為である。

目的は、検疫法の第一条に「国内に常在しない感染症の病原体が船舶又は航空機を介して国内に進入することと防止する」と明記されている。公衆衛生や感染症の専門家としては、この検疫法をまず思い浮かべたに違いない。

この法律は昭和26年に制定され、平成18年に改正されているが、その原型は戦前に遡り、「国家権力が病人を隔離することにより、伝染病の蔓延を防ぐ」という規範意識に立脚するという。検疫法では、検疫所長に強い権限が与えられ、患者を見つけ次第、病院に隔離することができる。

また、機内で患者と濃厚に接触した者を「停留」することができる。検疫所長の指示に従わなければ、罰則を受ける。検疫法35条に、「隔離又は停留の処分を受け、その処分の継続中に逃げた者は、1年以下の懲役又は100万円以下の罰金」と記されている。

振返ってみると、宇宙服のような防護服に身を固めた検疫官が成田で開始したのは4/28のことだった。

メキシコ、カナダ、米国本土からの便の機内検疫を始めた。はじめの360人ほどの検疫官では対応できず、厚労省は5月末までに防衛省や国立病院など15機関から実に延べ2450人の医師や看護師をかき集めた。その様子は連日テレビニュースのトップで報じられ、国民の危機感をいやがうえにも煽った。

この検疫で捕捉した患者は5人。この人たちと接触した人(濃厚接触者)は10日間、ホテルに缶詰、隔離・軟禁される事態となった。ホテル周辺には逃亡阻止のための警察官配置し、「軟禁状態」にした。厚労省相が節目でもないのに会見をして大見得を切った。

この風景は、アメリカのメディアを通じて、広く世界に報道された。こうなると国際的な疑問符に耳を傾ける余裕などなくなっている。ひたすら、検疫法で決められた通りの対策に突っ走ったのだった。機内検疫を中止したのは5月22日だった。

水際作戦については当初から水際作戦はナンセンスであるという批判が、WHOはじめ、あちこちから聞こえてきていた。
http://www.melma.com/backnumber_108241_4480925/

要するに、水際検疫を有効と評価した学術論文はなく、WHOも「歴史的にも成功した例はない」と発表したのである。

これに対して尾身委員長は、参議院予算委員会(5/28)で「国内感染を遅らせる一定の効果はあった」と国の水際作戦を擁護した。2500人を動員し、10万人を越える旅行者のスクリーニングの結果、5人の“容疑者”を見つけたに過ぎない初動策を、評価できると言い張った。

成田ですり抜けた感染者が国内で見つかった。この点を質すと尾身委員長は、「水際作戦に力を入れすぎた結果、国内での防疫対策に抜かりがあったかもしれない」と今になって、水際作戦の行き過ぎをしぶしぶ認めている。

成田で、発熱した患者を見つけるためにサーモグラフィー300台(1台の通常価格100数十万円)を倍以上の300万円で緊急調達している。それで発見したのは5人に過ぎなかった。費用対効果の点でも水際作戦が失敗だったことが明らかになった。

空港で監視を強化し、新型ウイルスが侵入しないよう徹底した防疫網を張って水際作戦を実行したのは、世界中で日本と北朝鮮だけだった。世界が奇異な目で見るはずだ。

検疫騒動は「政府は一生懸命やっています」という政治的なパフォーマンスに過ぎなかったのだ。

新型インフルエンザ蔓延の勢いは、日本では一服している。が、これから冬を迎えるオーストラリアをはじめとする南半球では毎日100人以上が感染している。間もなくこの勢いは、北半球に戻ってくる、第二波の襲来が懸念されている。

厚労省は6/26、第二波を控えた行動計画を大きく転換し、都道府県に基本的な運用方針を事務連絡した。新型インフルエンザ発生以来、これが86通目の事務連絡である。これらは事実上の命令であり、逆らうと後の仕返しが怖い。

連絡文書作成を検討する前段での担当者による会議録が手に入った。その文書の中で、興味深い何行(発言の一部)かを発見した。

・「基本的な考え方(哲学)として重傷者をなるべく減らすこと、個人はなるべく感染しないようにすること」
これが運用哲学だそうだ。ばかばかしくて笑ってしまう。
・「(感染の)封じ込めは現実的でないこと」
・「流行の『防止』はパーフェクトであることを求められるので、『縮小』等の語を用いた方がよい」
さすが官僚作文。面目躍如たるものがある。

尾身委員長。
「妊婦が死んだりすると、社会的なインパクトは大変だから、基礎疾患のある人で重症化しやすい患者を重点的に診ていくことになる」そうだ。あとは知らない、とでも言いたげだ。

感染予防法により、国内患者の感染予防・治療対策は、「地方自治体の責任」が謳われている。要するに、国はお手上げ。皆さん頑張ってというメッセージである。
頑張りましょう!

2009年07月01日

◆不法就労天国ニッポン



平井修一

「上に政策あれば、下に対策あり」は中国人の知恵だが、指紋を偽装までしても中国人や韓国人は日本に入国したいというのだから、よほど日本はおいしいのだろう。まるでシコメの深情けみたいに日本は好かれている。

<指紋“切除”で不法入国が続発 生体認証すり抜け狙い

入国審査時に指紋を読み取り、過去に強制退去処分を受けた外国人らのリストと照合する「生体情報認証システム」をすり抜けるため、指紋の一部を切除するなど改変し、成田空港から不法入国を図るケースが相次いでいることが29日、入管当局などへの取材で分かった。

昨年、不法残留で強制退去処分となった韓国人の女が特殊テープを指に張り付け、同システムをすり抜けて青森空港から再入国していたことが判明。警戒を強める中での新たな手口の登場に、関係機関も対策に追われている。

入管当局は今年から、青森空港事件などを受けて認証システム頼りの審査を見直し、指紋読み取り機が異常を察知した場合は逐一、入国者の指紋を直接肉眼で厳重チェックする方法に改めた。

この結果、成田空港では1月以降、指紋の一部を切除した後に縫い合わせたり、やすりのようなもので指紋を削った中国人の男女計4人を相次いで発見。千葉県警が、この4人を入管難民法違反容疑で逮捕し、いきさつを詳しく調べた。

県警によると「中国で、5千元(約7万円)で医者に手術してもらった」などの供述を得ており、中国側の密航あっせん組織が関与している可能性もあるとみて、動向を注視している>(2009/06/29 共同通信)

それまでしても日本に来たい理由は当然ながら「金」である。法務省によると平成20年に摘発した不法就労者3万2471人の報酬日額は、「5千円を超え7千円以下」が1万4829人と最も多く、次いで「7千円を超え1万円以下」が1万273人だ。中にはホステスやホスト、売春婦だろうか「3万円以上」という“猛者”もいる。

日銭1万円というのは中国人にとって魅力である。上海の大卒初任給は4万円、年収48万円であり、これで結構なエリートなのだ。日本で2ヶ月も働けばエリートの年収が稼げるのである。

1万円がいかに大金か。物価水準から言えば、彼らにとってそれは8万円に相当する。指を手術しても十分にペイするのだ。

彼らの受け皿が整備されているのだろう、うまく日本社会あるいは闇社会に潜り込めば摘発を免れて何年間も仕事にありつける。就労期間別で見ると、なんと5年を超える者が1万262人で、不法就労者全体に占める割合が31.6%と最も多いのだ。

今年は不況で製造業などが打撃を受けているために工員の仕事がないだろうから不法入国、不法就労は減るだろうが、景気が上向けばどっと押し寄せるのではないか。ご用心ご用心。

2009年06月30日

◆ハインツ・キッシンガー



        渡部亮次郎

政治記者の先輩・古澤 襄(ふるさわ のぼる 元共同通信社常務理事)さんが、<キッシンジャーはかつて1971年の米中秘密会談で、周恩来に「日米安保条約は日本に核武装させない便法である」と言明した。

そのキッシンジャーは「日本は2050年までに核武装国家になる」と繰り返し警告を発している。どちらもキッシンジャー得意の外交技術とみていい>と「キッシンジャーの言葉の武器』を自らのブログで書かれたので、キッシンジャー嫌いだったわが師故園田直とともにキッシンジャーに思いが及んだ。
杜父魚ブログ http://blog.kajika.net/

外務大臣3期を通じて秘書官を私が務めた園田直(そのだ すなお)は福田赳夫内閣の官房長官当時から「キッシンジャーは反日だ」ときめつけていた。生涯を通して面談しようとはしなかった。

おそらく、官房長官当時、外務省幹部の誰かから、相当強く吹き込まれたものと思われる。キッシンジャーもまた日本への認識を改めたフシはない。

ヘンリー・アルフレッド・キッシンジャー(Henry Alfred Kissinger,1923年5月27日―)は、アメリカのニクソン政権およびフォード政権期の国家安全保障問題担当大統領補佐官、国務長官。国際政治学者。

ノーベル平和賞受賞者 (1973年) 受賞理由: ベトナム戦争の和平交渉 。

1923年に、ドイツ・ヴァイマル共和国のフュルトに生まれる。本来の姓名はHeinz Alfred Kissinger(ハインツ・アルフレート・キッシンガー)で、苗字はバート・キッシンゲン(Bad Kissingen)に由来。

父ルイス・キッシンガーは女子高で歴史と地理を教え、母パウラ(旧姓シュテルン)はアンスバッハ近郊ロイタースハウゼン出身の富裕な家畜業者の娘。両親ともにドイツ系ユダヤ人である。

1933年に、ヒトラー支配のもと反ユダヤ人政策を推し進めるナチスが政権を掌握したため一家はナチスを嫌って1938年にアメリカへ移住。第2次世界大戦中の 1943年に同国に帰化。だからアメリカで大統領は望めない。

ハインツ少年の頭には反ナチが刷り込まれており、そのナチと組んでアメリカに刃向かった日本に対して親密感を持ち得ないのは当然といわざるを得ない。

ニューヨーク市立大学シティカレッジを卒業後、第2次世界大戦にはアメリカ軍情報部の士官として参戦し、戦後母国ドイツに駐留し多くの戦犯の処遇にあたった。

さらにハーバード大学で学び、教授となる。大統領リチャード・ニクソンから直々のスカウトを受け、政権誕生とともに国家安全保障問題担当大統領補佐官として政権中枢に入り、外交全般を取り仕切る。

冷戦政策の再構築を意図したニクソン政権期の外交の中で、キッシンジャーは重要な位置と役割を果たした。

1971年にはニクソンの「密使」として、当時ソ連との関係悪化が進んでいた中華人民共和国を極秘に2度訪問、周恩来と直接会談を行ない、米中和解への道筋をつける。この「神没鬼没」ぶりで世界に名を売った。

当時、日本は佐藤栄作政権下。対中関係を頭越しで遣られた政権は弱体化した。これが次の田中角栄首相をして日中国交回復の拙速をを招いた。

一方でキッシンジャーは、中国との和解を交渉カードとしてソ連とも第1次戦略兵器制限条約(SALT1)を締結するなどデタント政策を推進した。但し日本の頭越しを遣ったはずの米中国交正常化は日本に遅れること6年だった。

日本が台湾をそれこそ弊履の如く斬って捨てたのにアメリカは工夫をこらし、台湾を捨てなかった。そのために6年も掛けたのである。

私に言わせれば「外交役者」とも言えた。世界注目の場に美女を伴って現れるなど「たいした役者ぶり」だった。ニクソンの頭越しにノーベル平和賞を受賞スルナド、ニクソンは面白くなかったに違いない。

ニクソンとは、個人的には決して親しい友人ではなかった。ニクソンが他の側近の前でキッシンジャーのことをその出自を背景に侮蔑的に呼んだことが数回確認されており、キッシンジャー自身も「1度として2人きりで食事を摂ったことはなかった」と語っている。

現在は「現代外交の生き字引的存在」として多くの著書を持つほか、世界各国で講演活動を行っている。また、ニクソン以降のアメリカの歴代大統領をはじめとする世界各国の指導層と親交を持っており、国務長官退任から30年以上たった現在でもその国際的影響力は大きいと評価されている。

最近では、ジョージ・W・ブッシュ政権において指南役として活躍した。ブッシュはキッシンジャーとは定期的に会談の機会を設けており、政権外で最も信頼する外交アドバイザーであった。キッシンジャーはブッシュ政権下で行われているイラク戦争も基本的に支持していた。

日本ではテレビ東京の番組「日高義樹(元NHKアメリカ総局長)のワシントン・リポート 」に年1回出演し1月に放送されるのが恒例。読売新聞への寄稿は屡々。

日本については、経済大国である以上政治・安全保障両面でも大国として台頭しようとする欲求を持つだろうとの見方を一貫して示している。

特に、1971年の周恩来との会談で日米安全保障条約に基づく在日米軍の駐留が日本の「軍国主義」回帰を抑えており、同盟関係を解消すれば日本は手に負えない行動を取り始めると警戒感を示した「瓶の蓋」論は有名である。

冷戦後間もない時期の著書である『外交』でも将来日本が政治的に台頭するとの予測を示した。

2008年1月の「日高義樹のワシントン・レポート」でも変わらず、「日本は10年後に強力な軍隊を保有しているだろう」と述べ、日本の憲法改正や核武装については「日本が決めることだ」と発言している。(文中敬称略)2009・06・28

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



2009年06月29日

◆無国籍者のアイデンティティー




                          石岡 荘十

横浜中華街西門から徒歩数分ほどのところに、古い中華料理店がある。店の経営者、陳福坡(チョン・フウプー)氏は無国籍者である。身長183センチの堂々たる威丈夫で今年米寿。中華街の華僑、最長老だ。

彼は中国・牡丹江生まれで第二次大戦末期、八路軍に追われ蒋介石に従って台湾(中華民国)へ渡った。そこから日本の大学へ留学、同じ台湾の女性と結婚、中華街で商売を始めた。ところが中国大陸では、毛沢東率いる中華人民共和国(中共)が生まれ、1972年、日本は中共を唯一合法的な政府であるとする日中共同声明。

台湾政府(中華民国)のパスポートで日本に来ていた陳氏は国籍を失った。日本と国交のない台湾国籍は失効した。つまり無国籍者となってしまった。

このような場合、国籍はどうなるのか、採るべき選択肢は3つ。

1.改めて、中華人民共和国の国籍をとる
2.日本に帰化する
3.無国籍のままでいる

陳氏は、中華民国(台湾)国民であり続けることに強くこだわった。1.の中華人民共和国の国籍も、まして、2.の日本帰化の道も選ばなかった。つまり台湾人としての主体性、アイデンティティーをしっかりと持ち続ける決意をしたのだった。

無国籍、つまり日本人でも外国人でもないという宙ぶらりんの状態の住民は、住民ではない。従って、選挙権はない、健康保険に入れない、パスポートが取れない、つまり自由に海外旅行ができないなど、日本人、あるいは、国交のある国のパスポートを持っている人には当然与えられる権利も認められず、日常生活でさまざまな差別を受ける。

「そんな意地を張らず、帰化すればいいじゃないか、いやなら荷物をまとめて出て行け」という“国粋主義者”もいるが、陳氏にとっては日常生活の不自由と引き換えに、台湾人としてのアイデンティティーを放棄することはできなかった。

陳天璽(CHEN Tien-shi)はそんな福坡氏の6番目の子(三女)として、1971年、中華街で産まれた。中華街の路地が彼女の遊び場だった。

小中はアメリカンスクール、高校は地元の公立高校、そこから筑波大学に入学して修士課程へ進み、在学中にハーバード大学客員研究員、母校で博士号を取った。

北京語、英語、日本語を自由に話すトリリンガルの才媛である。が、アヒルの子は所詮アヒル。アメリカなどでは、出生地の国籍を自動的に取得する生地主義だが、日本ではそうはいかない。この国は血統主義を採っているからだ。つまり日本では無国籍の子は無国籍の頸木から逃れることができず、無国籍だった。

この間に経験したさまざまな無国籍であるが故の差別、特に海外の無国籍者調査のため出入国のたびに強いられる、煩雑な手続きにはうんざりした。だがこのことが却って、彼女を「国家と個人の関係」「世界の無国籍者はなぜ?」の研究に駆り立てた。

古くは、アンネ・フランク、スタルヒンら白系ロシア人たち、最近では沖縄の無国籍児(アメラジアン)、フジ子・ヘミング、赤軍派重信房子の娘、メイさん、そして華僑も皆無国籍だった。

なぜ? 世界に足を伸ばし、研究を効果的に行うために、親の考えに逆らって日本に帰化、赤い表紙のパスポートを取得した。しかし戸籍登録手続きの中で、係員の勧めにもかかわらず、台湾人としてのアイデンティティー、陳天璽という親からもらった名前の改名には強く抵抗し、残した。

女優池上季実子に似た彼女は、話し相手から視線をそらさずじっと聞き取る。

現在、国立民俗学博物館准教授。研究を通して国家とは何か、ユニークな視点から彼女は研究生活をつづけている。家族、個人、国家、自らの生い立ちから、20カ国に及ぶこれまでの調査・研究の一部が、ノンフィクションの形で著作にまとめられている。

『無国籍』(新潮社 2005年1月)

http://www.amazon.co.jp/%E7%84%A1%E5%9B%BD%E7%B1%8D-%E9%99%B3-%E5%A4%A9%E7%92%BD/dp/4104740012

「無国籍者こそコスモポリタンだ」と彼女は思っている。

子供にアメリカ国籍を持たせたいと、ハワイへ行って出産するバカ女が相次ぐ時代である。

国籍の重みを再認識するためにも、一読をお薦めする。

なお、中国人で初めて芥川賞(「時が滲(にじ)む朝」)を受賞した楊逸(ヤンイー)さんは、彼女の従姉妹に当たる。2009.06.23