2012年05月19日

◆「青い山脈」の頃

渡部 亮次郎


(再掲)恥かしい話を書く。多分生まれて初めて観た劇映画が「青い山脈」であり、昭和26(1951)年の早春、新制中学を卒業寸前の15歳、教師引率で、町の映画館で観た。

もちろん白黒。公開されて既に2年経っていたらしいが、それは今になって調べて分かった事。町と言いながらド田舎だったのである。

昭和の御世。15歳まで映画も観られなかったとは万事、貧しかった。もっとも戦争中は見ようにも映画が製作されてなかったらしい。

映画「青い山脈」(あおいさんみゃく)は石坂洋次郎原作の日本映画。1949年・1957年・1963年・1975年・1988年の5回製作されたが最も名高いのは1949年の今井正監督作品である。私の観たのがこれだ。

主題歌の『青い山脈』は日本映画界に於いて名曲中の名曲ともいえる作品で、過去の映画を紹介する番組などでは定番ソングともなっている。2007年10月24日のラジオ深夜便で久しぶりに聴いたので映画の事を思い出したのである。

西條八十(やそ)作詞、服部良一作曲の名曲。映画を見たことが無い人でも歌だけは歌える人が多い。また映画ではラブレターで「戀(恋)しい戀しい」というところを「變(変)しい變しい」と誤記してしまうエピソードは大いに笑わせた。

長編小説『青い山脈』は1947年に「朝日新聞」に連載。

東北の港町を舞台に、高校生の男女交際をめぐる騒動をさわやかに描いた青春小説。また、民主主義を啓発させることにも貢献した。

私は新憲法は中学生ながらに全文を読んだが、民主主義の実際については「青い山脈」に教えられた。

1949年に原節子主演で映画化され、大ヒットとなった。その3ヶ月前に発表された同名の主題歌も非常に高い人気を得た。『ウィキペディア』

石坂洋次郎(いしざか ようじろう 1900年1月25日―1986年10月7日)は、青森県弘前市代官町生まれ。戸籍の上では7月25日生まれになっているが、実際は1月25日生まれ。

弘前市立朝陽小学校、青森県立弘前中学校(現在の青森県立弘前高等学校の前身)に学び、慶應義塾大学国文科を卒業。1925年に青森県立弘前高等女学校(現在の青森県立弘前中央高等学校)に勤務。

翌1926年から秋田県立横手高等女学校(現在の秋田県立横手城南高等学校)に勤務。1929年から1938年まで秋田県立横手中学校(現在の秋田県立横手高等学校)に勤務し教職員生活を終える。

『海を見に行く』で注目され、『三田文学』に掲載した『若い人』で三田文学賞を受賞。しかし、右翼団体の圧力をうけ、教員を辞職。戦時中は陸軍報道班員として、フィリピンに派遣された。

戦後は『青い山脈』を『朝日新聞』に連載。映画化され大ブームとなり、「百万人の作家」といわれるほどの流行作家となる。数多くの映画化、ドラマ化作品がある。

他に、『麦死なず』『陽のあたる坂道』『石中先生行状記』『光る海』
など。

「青い山脈」では作者は青森県立弘前高等女学校(現在の青森県立弘前中央高等学校)の教師であった。当時疎開中の女子学生達から聞いた学校生活をこの小説の題材にしたと思われる(「東奥日報」2005年8月15日新聞記事による)。

この記事は間違っている。現在の青森県立弘前中央高等学校の教師であったのは1925年(大正14年)であって「当時疎開中の女子学生達」とは何のためにどこから疎開してきたのか。東奥日報の我田引水もいい加減にしろ。

閑話休題。1949年版映画のスタッフ。監督:今井正、脚本:今井正、井手俊郎、音楽:服部良一。作曲を電車の中で、数字で作曲していたら、折からの闇物資を売買する闇商人に間違えられた、という作り話のようなエピソ−ドがある。

主なキャスト 島崎先生(女学校の教師):原節子、沼田校医:龍崎一郎 、金谷六助(旧制高校生):池部良、寺沢新子(女学生):杉葉子、 ガンちゃん(旧制高校生):伊豆肇、 笹井和子(女学生):若山セツ子、梅太郎(芸者):木暮実千代だった。

2007年、『映画俳優 池部良』が出版される。2007年2月、東京池袋の新文芸座のトークショーにて、その本の編集者から「青い山脈の時に31歳でしたが…」と池部が質問され、

実は1916年生まれで当時33歳なのに『青い山脈』の18歳の高校生の役を渋々受けたことや原節子先輩からガリガリに痩せていたため「豆モヤシ」という迷惑なあだ名をつけられたり、原節子の尻をデカイと本人の目の前で口を滑らせたために 張り手を食らいそうになったりといったエピソードを話している。

「ウィキペディア」による誕生日は1918年2月11日(建国記念の日)89歳 血液型B型となっているが、池袋の新文芸座のトークショーでの「実は1916年生まれ」だとすると92歳(2008年6月現在)になってしまう。映画俳優協会の理事長としてご活躍中ということで不問にしよう。

この作品は藤本プロと東宝の共同作品となっている。著作権の保護期間が終了したと考えられることから現在激安DVDが発売中(但し監督没後38年以内なので発売差し止めを求められる可能性あり)。『ウィキペディア』

この映画を観た当時は大東亜戦争の敗戦から未だ6年。人口数千人の町によく劇場があったものだが、小中学生の映画鑑賞は禁じられていたし、カネも持っていなかったから観たいとも考えなかった。

出来て間もない中学校では野球に夢中。3年になったら主将に指名された。投手で4番打者。校舎の中では生徒会長でもあったから忙しかった。家では教科書を広げる事はなかった。

中学校も間もなく卒業という春、秋田は3月と言っても当時は雪の降る日があった。ゴム長靴にアメリカ軍払い下げのオーバーを着て寒さに耐えながらの映画鑑賞。

生まれて初めて観る映画だったはずだが、あらすじも画面も、未だに思い出せるところをみると興奮はしていなかったようだ。後年、父親を映画に誘ったら「暗くて厭だ」との感想。

明るくとも見える映画といえるテレビがド田舎にも普及したのは「青い山脈」を見てから10年以上経っていた。ましてあの頃、テレビ会社(NHK)に入社(記者)するとは夢にも思わぬことだった。

恥かしくて退屈な思い出話。御退屈様。2007・10・25

なお、池部良さんは2010年10月8日病没された。

2012年05月18日

◆野田、指示連発で「輿石政局」にブレーキ

杉浦 正章

出口なしの消費税制局の中で、首相・野田佳彦から幹事長・輿石東に「指示」の連発だ。元代表・小沢一郎との会談準備と選挙制度改革での野党との調整を求めたのだ。加えて原発再稼働も近く決断するという。幹事長・輿石東の言いたい放題となっている現状を打破して、自らの手にリーダーシップを取り戻そうという反転攻勢に出たのだ。


しかしこの政局打開には最終的に「小沢切り」や問責2閣僚の更迭に直面せざるを得ないとみられるが、野田にその覚悟ができているのだろうか。「暗中模索」が実態なのだろう。
 

久しぶりに「指示」という言葉を聞いた。野田がなぜこの言葉を使ったかと言えば、輿石の“独走”にブレーキをかける必要が生じてきたのだ。幹事長が、首相の専権事項である「衆参同日選挙」や「解散先送り」を言い、首相が「幹事長とは齟齬(そご)はない」と“言い訳”をするといった異常な状態にピリオドを打とうとしたのだ。上下関係を明らかにしておく必要があるというわけだ。逆を言えば「指示」の言葉は輿石が手に負えなくなってきていることを物語る。
 

消費税制局は野田が、解散回避で小沢を立てれば自民党総裁・谷垣禎一が立たず、「小沢切り」を求める谷垣を立てれば小沢が立たずという“ど壺”にはまった形となっている。これに小沢一派の輿石が茶々を入れて混迷し、まるで「輿石政局」の様相ですらある。このまま放置すれば野田は「負けが込んでいる」との印象が強まる一方なのだ。


そこで輿石押さえ込みの意味もあって、指示の連発となったのだが、まず小沢との会談がどうなるかだ。もともと野田・小沢会談は輿石が言い始めたことだ。いみじくも筆者が指摘したとおり、野田も17日 「小沢氏は大局観を持っている方で、消費税増税に絶対反対の立場ではない。」との見方を表明した。


「ただし、いろんな考えがあると思うので、その考えをお聞かせいただきながら、法案を推進をする立場で協力いただきたいということを腹を割ってお伝えをしたい」とも付け加えた。
 

要するに小沢との妥協の道を探りたいということだ。ところが最大の妥協の道は政策にはない。政局だ。小沢にとって何より避けたいのが早期の解散・総選挙だ。これに野田が言質を与えられるかどうかが説得のカギなのだ。野田が小沢の消費税賛成を取り付けるには、早期解散回避を言うかどうかなのだ。


輿石の一連の解散先送り発言も、野田・小沢会談の実現に狙いがあるのだ。しかし野田にとっては「解散権」は政局を運ぶ唯一無二の武器であり、これを小沢の意向通りに手放せば、野党が猛反発する。衆院は賛成多数で消費増税法案を通すことは可能となるが、参院で可決成立しない。小沢・輿石ラインの狙いはここにある。つまり参院段階での「継続審議」だ。輿石の「党内融和」の本質は、小沢の戦略への“迂回接近”に他ならない。
 

しかし野田は、「今国会の成立に政治生命をかける」と言っているとおり、継続審議でも解散で信を問う動きに出るだろう。そうでなくても野党は今国会での解散・総選挙実現を目指して目の色が変わってきている。


自民、公明両党は、16日の党首会談で内閣不信任案や首相問責決議案の提出も視野に終盤国会に臨む方針を確認している。谷垣は17日、両決議案について「ポケットの中にある。政治生命をかけると言ったことが実現できないなら、考えなければならない」と言明している。消費増税法案は成立せず、問責は成立するでは、まさに野田が憲政の常道として伝家の宝刀を抜かざるを得ない局面となる。
 

野田にとっては小沢を取るか消費税を取るかの決断をいずれ迫られる構図に変化はないだろう。ぎりぎりの場面で野田が小沢を取ることは考えられず、小沢との会談の指示は最終的な「小沢切り」に向けてのアリバイ作りにあるかもしれない。


それにつけても民主党幹部や閣僚は間が抜けている。自民党政権では大事を進めようとするときには、あちこちから推進論が出てムードを盛り上げる戦術に出るものだが、他人事のように黙っている。自分の選挙が怖いのかと言いたい。


野田だけに任せず、政権全体が消費増税法案で討ち死にも辞さぬ動きを見せてこそ、野党への説得力が生じ、国民を目覚めさせることができるのだ

<今朝のニュース解説から抜粋>  (政治評論家)

◆芭蕉随行の「曾良」は忍者?

毛馬 一三


〜拙稿「芭蕉終焉(しゅうえん)の地って?」の第2弾〜

もともとの拙稿とは、松尾芭蕉の「終焉の地」が大阪・南御堂向かいにあった花屋仁左衛門の離れ座敷であったことや、辞世の句といわれる「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」が、病の床で亡くなる4日前に詠んだものであることを筆者は不覚にも知らなかった。が、偶然にも知る機会を得たことから、以下思い立って綴った。

芭蕉自身、大阪で死ぬなどとは夢想だにしていない。早く床払いをして長崎に向けて旅を続けたいとの気持であったと、諸文献に記されている。

だが、思いもよらず病(食中毒らしい)は悪化、意に反して終焉を迎えるのだが、見守る弟子たちの顔を眺めながら「死」が迫るのを悟り、幸せな生涯だったと瞑目しつつ、逍遥と死の旅に着いたようだ。

この芭蕉に関して、全国版メルマガ「頂門の一針」主宰の渡部亮次郎氏から、添文を頂いた。

<深川・芭蕉記念館 は拙宅の近くです。徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。江戸の発展とともに新たな市街地、農地が必要となり、土地の開発が始まった。大阪からきていた深川八郎右衛門が新田を開発、慶長元年(1573年)深川村と称したのが始まり。

江戸の下町と言えばなんと言っても深川。出発地は都営新宿線森下駅。駅を出て新大橋通りを浜町方面に5分ほど歩いていくと隅田川にかかる橋が見えてくる。これがこの通りの名前になっている新大橋。橋の手前の十字路を左に曲がりしばらく歩いていくと最初の目的地「芭蕉記念館」がある。

芭蕉は延宝8年(1680年)江戸日本橋から深川の草庵に移り住んだ。元禄2年(1689年)3月、曾良を伴い奥の細道の旅に出発した。「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」で始まる奥の細道。岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅。

「芭蕉記念館」には 当時、芭蕉が着ていた袈裟を初め、芭蕉庵を模したほこら、句碑 などがある。記念館の裏木戸を出るとそこはもう隅田川のほとり。川沿いの道を左に少し歩いていくと史跡庭園があり、芭蕉像や芭蕉庵のレリーフがある。 先日来日した李トウキ前台湾総統もご覧になって行った>。

この添文を読ませて貰った時、芭蕉に纏わる新たな「示唆」が脳裏を駆け巡った。

それは、<徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。(そんな未開発の深川だったが、その深川から)元禄2年3月、「曾良」を伴い奥の細道の旅に出発した。(略)岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅>というくだりである。

江戸から東北、北陸地方を150日間で踏破した2400キロ(600里)の道程を踏破というが、とんでもない距離だ。単純に計算すると1日16キロも歩いたことになる。だが、当時の道筋はそんな生易しいものではない。

江戸時代の元禄期といっても、 江戸から東北、北陸地方には、のんびり歩き通せる平坦な道が整っていた筈はない。ほとんどが山道・峠道であり、山を越えるしかなかった。

余談だが、筆者も数年前江戸時代初期からある福井の「鯖街道」を歩いたことがある。山道の勾配は、天地の差ほどの高低を繰り返し上り下りし、息が途切れる程の険しい街道だった記憶が蘇る。江戸時代当時の道には、橋はほとんどなかったらしい。大雨で河が氾濫、足止めを食うことも日常茶飯事だったろう。

そう思うと、「奥の細道」の道すがらも、大変だったことは間違いない。

この芭蕉に関する拙稿に対して、日本一メルマガ「頂門の一針」主宰の渡部亮次郎氏から玉稿を頂いた。

<深川・芭蕉記念館 は拙宅の近くです。徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。江戸の発展とともに新たな市街地、農地が必要となり、土地の開発が始まった。大阪からきていた深川八郎右衛門が新田を開発、慶長元年(1573年)深川村と称したのが始まり。

江戸の下町と言えばなんと言っても深川。出発地は都営新宿線森下駅。駅を出て新大橋通りを浜町方面に5分ほど歩いていくと隅田川にかかる橋が見えてくる。これがこの通りの名前になっている新大橋。橋の手前の十字路を左に曲がりしばらく歩いていくと最初の目的地「芭蕉記念館」がある。

芭蕉は延宝8年(1680年)江戸日本橋から深川の草庵に移り住んだ。元禄2年(1689年)3月、曾良を伴い奥の細道の旅に出発した。「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」で始まる奥の細道。岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅。

「芭蕉記念館」には 当時、芭蕉が着ていた袈裟を初め、芭蕉庵を模したほこら、句碑 などがある。記念館の裏木戸を出るとそこはもう隅田川のほとり。川沿いの道を左に少し歩いていくと史跡庭園があり、芭蕉像や芭蕉庵のレリーフがある。 先日来日した李トウキ前台湾総統もご覧になって行った>。

この玉稿を読ませて貰った直後、芭蕉に纏わる新たな衝撃が脳裏を駆け巡った。

それは、<徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。(そんな未開発の深川だったが、その深川から)元禄2年3月、曾良を伴い奥の細道の旅に出発した。(略)岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅>というくだりである。

江戸から東北、北陸地方を150日間で踏破した2400キロ(600里)の道程を踏破したと言うが、とんでもない距離だ。単純に計算すると1日16キロ歩いたことになるが。だが当時の旅はそんな生易しいものではない。

江戸時代の元禄期といっても、 江戸から東北、北陸地方には、のんびり歩き通せる平坦な道が整っていた筈はない。ほとんどが山道・峠道であり、山を越えるしか方法はなかった。

筆者も数年前奈良時代からの福井の「鯖街道」を歩いたことがある。山道の勾配は天地の差ほどの高低を幾度となく繰り返して上り下りし、僻々とした記憶がある。昔は山道もない場所は絶壁に張り付くようにして横切るしかなく、ましてや橋はほとんどなかった。大雨で河が氾濫、足止めを食うことも日常茶飯事だったろう。

さて「奥の細道」によると、2人は何と1日に48キロ(12里)を 歩いた日があったという。幾ら昔の人が健脚だったとはいえ、老齢の域の芭蕉(46)と同行者曾良(41)が、そんな長距離を1日で踏破できたと考える方が無理な話だ。

だからここから「第2弾」を書きたくなった。

つまり芭蕉は、こうした異常な歩き方の速さや、伊賀の上野の生まれであることから「忍者」ではなかったかと論じられてきている。それはまた別の機会に譲るとして、ここで書きたいのは、むしろ芭蕉の弟子として名を売り、旅の同伴者であった「曾良」の方だ。

「曾良」のことは、純朴な芭蕉のお供だという印象が強く、「忍者説」はあまり共合わない。

ところが調べてみると、そうではない。
<曾良は、幕府とのつながりが緊密で、当時日光工事普請を巡ってあった伊達藩と日光奉行の対立を探るための調査を、幕府から曾良に命じられたとされている。その目的と行動を隠すため、芭蕉の歌枕の旅を巧みに利用したというのが、一部専門家の間で語られている。

その曾良は、さらに社寺や港の荷役の動きを調べる任務も担っていたらしく、北前舟が立ち寄る日本海沿岸の酒田、瀬波、新潟、直江津、出雲崎、金沢、敦賀の各港の貿易状況を丹念に探索して回っている痕跡がある。

その任務行動が、なんと芭蕉の旅の日程と、見事に重なりことから、この説には真実性が浮かび上がってくる。きっと幕府からの支度金が潤沢だったため、俳句仲間の豪農や商人のお世話や句会の興行収入だけでは食えなかった芭蕉の懐具合に、この「曾良」の任務による稼ぎが手助けをしたという説もあり、納得できる>。

こう見てくると、「曾良」という旅の同伴者は、巧に芭蕉を取り入って芭蕉の弟子を装い、幕府隠密の任務を隠密裡に遂行していた“忍者”だったという説は真実味を帯びてくる。果たして芭蕉の死後、「曾良」は芭蕉の追慕行脚や吟行などは一切行わず、すぐに幕府巡見使九州班員の役職に正式に収まっている。

芭蕉の終焉の時、曾良の姿はそこにいなかった。公務を理由に恩師の葬儀にも参列していない。やはり芭蕉に心酔して傍に連れ添った弟子ではなかったのではないか。               (了)                     参考・ウィキべディア  (再掲)
           

によると、2人は何と1日に48キロ(12里)を 歩いた日があったという。幾ら昔の人が健脚だったとはいえ、老齢の域の芭蕉(46)と同行者曾良(41)が、そんな長距離を1日で踏破できたと考える方が無理な話だ。

だからここから「第2弾」を書きたくなった。つまり芭蕉は、こうした異常な歩き方の速さや、伊賀の上野の生まれであることから「忍者」ではなかったかと論じられてきた。それはまた別の機会に譲るとして、ここで気になるのは、むしろ芭蕉の弟子として名を売り、旅の同伴者であった「曾良」の方だ。

「曾良」のことは、純朴な芭蕉のお供だという印象が強くて、「忍者説」はあまり知られていない。

ところが調べてみると、こんな具合だ。
<曾良は、幕府とのつながりが緊密で、当時日光工事普請を巡ってあった伊達藩と日光奉行の対立を探るための調査を、幕府から曾良に命じられたとされている。その目的と行動を隠すため、芭蕉の歌枕の旅を巧みに利用したというのが、一部専門家の間で語られている。

その曾良は、さらに社寺や港の荷役の動きを調べる任務も担っていたらしく、北前舟が立ち寄る日本海沿岸の酒田、瀬波、新潟、直江津、出雲崎、金沢、敦賀の各港の貿易状況を丹念に探索して回っている痕跡がある。

その任務行動が、なんと芭蕉の旅の日程と、見事に重なりことから、この説には真実性が浮かび上がってくる。きっと幕府からの支度金が潤沢だったため、俳句仲間の豪農や商人のお世話や句会の興行収入だけでは食えなかった芭蕉の懐具合に、この「曾良」の任務による稼ぎが手助けをしたものという説は、納得できる。>。

こう見てくると、「曾良」という旅の同伴者は、巧に芭蕉の弟子を装い、幕府隠密の任務を隠密裡に遂行していた“忍者”だったという説は真実味を帯びてくる。果たして芭蕉の死後、「曾良」は芭蕉の追慕行脚も行わず、すぐに幕府巡見使九州班員に直ぐに収まっている。

芭蕉の終焉の時、曾良の姿は芭蕉の枕元にはいなかった。公務を理由に師匠の葬儀にも参列していない。やはり芭蕉に心酔して傍に連れ添った弟子ではなく、芭蕉を利用して全国を探索して回る「隠密」とみるのが、どうも本当のようだ。  (了)               参考・ウィキべディア  (再掲)
           

2012年05月17日

◆極秘会談失敗で大幅会期延長不可避の流れ

杉浦 正章


不成立に終わった民主党と自民党の第二回極秘党首会談と、実現した極秘幹事長会談の結果から見えてくるものは、終盤国会における消費税政局の展望が全く開けなかったことであろう。消費増税法案の会期内成立は極めて困難となり、大幅会期延長が必至の流れだ。


通常国会の会期延長は国会法の規定に基づき1回しかできないから、短期間では法案不成立の危険がある。ここは昨年と同様に8月までの大幅延長が不可避となりそうだ。それでも成立しない場合は1日だけ開けて臨時国会を召集するという非常手段もあるがまだ未知数だ。
 

2月25日に次ぐ第2回極秘党首会談が成立しなかった過程を見ると、野田の心理状態が浮き彫りになって面白い。野田が自民党総裁・谷垣禎一と元代表・小沢一郎の間で揺れ動いていることが分かる。


会談不成立をスクープした毎日の報道によると、野田からの再会談の打診は消費増税法案に反対する小沢に対して政治資金規正法違反事件の無罪判決が出た4月26日頃のようだ。官房長官・藤村修が自民党副総裁・大島理森に「首相が訪米から戻る連休後半に党首会談をお願いしたい」と5月3〜5日の日程を提示したという。藤村はこの記事について16日「なぜああいうカギかっこ付きの発言にされたのか意味が分からない。抗議している」と怒って見せた。


しかし谷垣が「自民党内で『連休中に首相と会ったらどうか』と言う人がいたが、問責決議が片付いておらず、『談合はできない』と言った記憶がある」と、事実上認めている。いくらばれたからといって藤村はカギかっこが付いていると言って怒るのも大人げない。 


そこで野田の心理状態だが、野田は無罪判決を受けた小沢の党員資格停止処分を解除する幹事長・輿石東の方針を黙認している。しかし、これで小沢がまた嵩(かさ)にかかって反消費税の動きを強めると思ったに違いない。そこで、野田は2月の極秘会談を思い出した。

会談では野田が「話し合い解散」をほのめかした結果、谷垣も上機嫌で成功裏に終わっている。野田はこれを再現しようと思ったか、極秘会談の日程を提案した。しかし両党関係は2閣僚への問責決議可決で冷え切っており、「小沢切り」に出られない野田への不満が自民党側にうっ積していた。2月のようにことは進まないことは最初から分かっているはずだった。


とりわけ谷垣は輿石が小沢の意向を受けて消費増税法案の継続審議を指向していること、これを野田が抑え切れていないことに不満を募らせていた。いくら野田が柳の下の2匹目の“ドジョウ”を狙っても無理があったのだ。
 

一方で、この極秘会談実現失敗を知った輿石は喜んだに違いない。今度はおれの出番だとばかりに、14日に自民党幹事長・石原伸晃と極秘に会談、打開策を見いだそうとした。しかし、谷垣と歩調を合わせる石原が、あわよくば継続審議を狙う輿石と話が合うわけがない。


会談はとても展望が開けるようなものではなかったに違いない。輿石がその後頻繁に解散先送りの発言を繰り返し始めたことからもうかがえる。かくして野田と輿石の自民党との接触は、いずれも終盤国会の展望を切り開けないままに終わった。
 

折から特別委員会における消費増税法案の審議も遅れがちだ。17日から質疑に入るものの、野党質問は21日からとなった。会期末の6月21日まで残りはわずか1か月間。民主党国対委員長の城島光力はかつて、「連日、委員会を運営すれば、6月4日の週あたりに審議の100時間が見えてくるので目安が付く」と述べているが、そうは問屋が卸さない状態となって来た。


懸案は消費増税法案だけでなく、宙ぶらりんの2閣僚問責問題、赤字国債発行法案、定数是正、原子力規制庁設置法案など重要案件がひしめいている。その上に、参院では首相問責決議の上程もささやかれ始めている。
 

野田は消費増税法案の実質審議が始まる前から会期延長の話はないとしているが、ひしめく課題を解決するにはとても時間が足りない状況に立ち至っている。


昨年は首相・菅直人が窮地に追い詰められて6月22日で終わる会期を70日間延長して8月31日までとした。今年は9月には民主党も自民党も党首選挙を控えており、大幅延長と言っても8月いっぱいが限度だろう。いずれにせよ、土俵を広げての勝負にならざるを得ないものとみられる。


<今朝のニュース解説から抜粋>  (政治評論家)

◆せめぎ合う内科と外科

石岡 荘十


医療技術の賞味期限は5年、といわれる。心臓疾患治療の分野もその例外ではない。

心臓の筋肉にエネルギーを送り届ける冠動脈の血管が狭まって血液が流れにくくなるのが狭心症、完全にふさがってしまうのを心筋梗塞という。こんな病状の患者の治療法をめぐって、内科医と外科医の陣取り合戦が繰り広げられている。

とりわけ、心筋梗塞の治療法は、かつては心臓外科医の独壇場だった。手術は胸の胸骨の真ん中を縦に真っ2つ切り離し、肋骨、つまり胸板を持ち上げて心臓を露出し、人工心肺を取り付けて、全身への血液循環を
確保しながら、心臓に張り付いた冠動脈の詰まったところをまたぐように別の血管を吻合(縫い合わせる)し、詰まった部分をまたいでバイパスを作る。

開心手術というが、医者にこんな説明を受けた患者は例外なく衝撃を受ける。だけでなく、その後肉体的にも患者には大きなダメージとリスクを強いる手術が待っている。

そこで、内科医は考える。

「心臓を露出しないで、詰まった血管を開通させる方法はないのか」と。

考え出された治療法が、細い管(カテーテル)を、血管を通して心臓まで挿入する。狭くなった部分にカテーテルが到達すると、そこで先端に仕掛けられたフーセン(風船)をぷっと膨らませて狭くなったところを
広げる。あるいは、先端に仕掛けられたドリルで血管にこびりついたコレステロールを削り取ったり、最近、脳梗塞治療薬として人気が高まったt-PA で血栓を溶かしたりする方法だ。

崖崩れでふさがったトンネルをあきらめてバイパスを作る外科心臓手術か、土砂を取り除いてもともとのトンネルを開通させる内科治療か。

この判断は、まず、最初に患者の診断をする内科医が行なうが、内科医によるトンネル再貫通(カテーテル)方式は、1度貫通しても、かなりの患者の血管がまたふさがる(再狭窄)、何度も手術をしなくてはなら
ない。これが欠点だ。

一方、外科手術は患者に与える精神的な衝撃だけでなく、全身麻酔や人工心肺がもたらす肉体的なダメージやリスクも大きいが、同じ部分が再狭窄するリスクだけは避けられる。

一長一短だ。
そこへ登場したのが内科医によるカテーテル治療の新兵器「ステント」である。

ステントは金網でできた筒。まず、風船で押し広げたところへ、これそっと挿し入れて置き去りにすると、そこは再び狭窄しなくなる。掘ったトンネルを中から強固な金属の管で補強するような治療法だ。

しかし、ステントの金属が血管を傷つけて炎症を起こし、2・3割がまた再狭窄へ向かうという問題が起きる。

これを阻止できないか。
そこへ「薬剤溶出性ステント」が米国で03年4月に登場し、日本でも04年4月から使われるようになった。新型ステントは再狭窄を防ぐ効果のある薬(シロムスリ)が塗ってある。

これが少しずつ溶け出して、再狭窄を防ぐ。再狭窄率は最大5%へと激減した。ほとんどゼロだった。世界の内科医軍団は、もはや心筋梗塞治療で外科医の手を借りることはなくなった、と胸を張った。

外科医によるバイパス手術と内科医によるカテーテルの割合は欧米で1対1だった。日本では1対3から4だったが、それが1対7か8となり、間もなく10人中9人がカテーテルという時代になるのではないか。

しかし、世の中そんないいことばかりあるわけない。問題が起きた。

血管内に異物であるステントを入れると、血栓ができやすくなり、かえって心筋梗塞を起こすリスクが高まる。それを防ぐ薬を使うと、今度は重い肝臓障害などの副作用が出て、死に至るというケースも報告された。
あちら立てればこちらが立たずというわけだ。

一方、外科医も指をくわえてこんな状況を見ていたわけではない。外科手術の分野では、胸は開くが人工心肺も使わず、心臓を動かしたままバイパス手術を行なう手法(心拍動下CABG)や、胸も開かず、胸を6〜7センチ切るだけで、そこから手術器具を挿入、バイパス手術を行なうというすでに評価の定まった“名医”も登場している。

心筋梗塞治療をめぐる内科医と外科医の陣取り合戦はさらに熾烈なものとなるだろう。

ちなみに、治療費である。
・人工心肺を使った冠動脈バイパス術 : 300万〜400万円
・使わないバイパス術: 200万円くらい
・カテーテル治療:技術料などを含めると100万円ほど。

額面の値段では内科方式に分がありそうだが、副作用の問題もある。治療費用は一定額を超えるとほとんどが戻ってくる高額療養費制度もあるし、致命を回避する費用としては、大差ない差額といえそうだ---。

さて、そうなったら、
♪あなたならどうする? (了)

2012年05月16日

◆野田は石原を制して尖閣を購入せよ

杉浦 正章

 

1日3000万円のペースで伸び続けている都知事・石原慎太郎の「尖閣諸島寄付金」が、都のホームページによると15日現在4万5000件で6億円を突破した。石原は欣喜雀躍で小躍りしているが、首相・野田佳彦はこの問題を放置したままでいいのか。


13日の日中首脳会談では、石原の諸島購入構想を背景に激しい応酬が交わされた。石原発言はついに首相・温家宝をして尖閣問題を「中国の核心的利益」とまで表現させてしまったのだ。一自治体の長が「政府にほえ面かかせる」と発言したとおりの事態としてしまったのだ。野田はまるで“暴走族の総長”のいいなりになっているかのように見える。このまま暴走を野放しにして武力衝突にでもなったら一体誰が責任を負うのか。
 

石原への寄付金が続く背景には、国民の間に10年の尖閣漁船衝突事件への民主党政権の対応に不満が根強く残っているのだろう。船長釈放を一地方検事の責任に転嫁して、政府の責任を逃れようとした当面糊塗策は、紛れもなく民主党政権最大の失政であった。その国民の政権への不満を蒸し返して、火をつけるのが石原発言の狙いであろう。一般大衆は政府が何も反応を示さないから、素朴な愛国心もあって寄付行為に出るのだろう。


しかし、石原の行為は一介の自治体の長でありながら国家の専権事項である外交・安保に身を乗り出して、これを蹂躙することを意味する。ノンフィクション作家・佐野眞一が毎日の紙面で「ほえづらをかかせるという言い方は“チンピラ”と同じだと思った」と述べているが、まさにチンピラと言うより暴走族だ。


寄付行為は石原の増長ぶりを促進させ、日中関係にとってマイナスだけの意味しかないことを寄付者たちは知るべきだ。暴走族の総長に暴走行為を繰り返させるだけの意味しかないのだ。
 

それにつけても、野田の無策ぶりには近ごろあきれて物が言えない。原発再稼働への躊躇(ちゅうちょ)、消費増税法案や定数是正を幹事長・輿石東の継続審議の意図を知りつつ放置。輿石が「衆参同日選発言」を繰り返しても、なぜか黙認している。そして尖閣で温家宝からドスを突きつけられて反論をしたものの、石原をたしなめることに思いが及ばない。
 

そもそも石原発言が出た後、政府は尖閣諸島を国が買う方針を鮮明にさせているではないか。官房長官・藤村修が「今は政府が借りているが、必要なら国が購入する発想の下に前に進めることも十分ある」と述べ、国有地化する可能性に言及した。野田も国会で「所有者の真意をよく確認し、あらゆる検討をする」と国有化に前向きな答弁をしている。それにもかかわらず石原が募金を開始しても何らこれを止めようとはしない。
 

石原と野田は4月27日、34分間会談しているが尖閣諸島購入問題については話題にならなかったとしている。しかし石原発言があり、野田が国有化に前向きな発言をしたばかりの時点での会談である。尖閣が話題に上らなかったことはあり得ない。


逆に購入について野田と石原の間で何か“密約”のようなものがあってもおかしくない。石原は会談後「国に譲ってもよい」とも述べている。にもかかわらず石原は寄付金募集をやめようともしない。善意の寄付が宙に浮くようなことを、この男ならやりかねないのだ。
 

いずれにしても暴走族の総長は取り押さえねばなるまい。言うまでもないが、尖閣問題は石原の無責任な大風呂敷で処理できる問題ではない。石原の路線を突っ走れば、武力衝突の事態が発生してもおかしくない。中国をシナと呼び、「日本核武装論」の石原にしてみれば、まさに思うつぼなのだろう。


もちろん中国共産党副主席・トウ小平が「次の世代に任せる」と発言した“棚上げ方式”は、漁船衝突事件が象徴するように中国の海洋進出で既に不可能となっている。しかし日本の実効支配は継続しているのであり、中国は軍事的対応を避けている。石原の暴走でこのバランスを崩してはならない。尖閣問題はすぐれて日本政府が処理すべきことであり、尖閣諸島は政府が地権者から購入して、その責任において処理すべき問題だ。
 

ところが最近の野田はまるで政調会長・前原誠司の「言うだけ番長病」が伝染したかのように思える。二人の首相たちと同様のレベルに見えてきた。何かの1つ覚えのように「消費増税法案に政治生命をかける」と言っていれば、首相としての役割を果たせると思ったら大間違いであることを肝に銘ずるべきだ。


とにかくもう民主党政権の統治能力は十分すぎるほど分かった。早期に解散して国民の信を問うべき時だ。

<<今朝のニュース解説から抜粋>  (政治評論家)

◆最近の風潮に思うこと(その二)

真鍋 峰松


肺炎のため101歳でお亡くなりになった松原泰道師は、私が心から敬愛し、私叔する仏教家のお一人である。

 同 師の説かれるところには、我われ凡人の機微に触れること多く、限りない人間への愛情に満ちた言葉が多い。

それこそ数多ある著書の一つである「迷いを超える法句経」は、真に平明にして、教えられるところの多い本であるが、その中で「こころこそ こころ迷わす こころなれ こころにこころ こころ許すな」との詩句が引用され、愛と憎しみの意(こころ)が理性に勝ち過ぎ、感情が狂うと眼まで曇るものです、と説かれている。
 
そのことを故亀井勝一郎氏は、「言葉は、心の脈拍である」、松原師は「言葉は、心の足跡である」と表現されている。 

真に人間の健康状態は其の人の脈をみれば判るように、其の人の心が病んでいるかどうかは其の人の言葉を聞けばたちどころに判断できる、其の人の言葉を聞いているうちに、次第に其の人の心の足どりが微妙に感じられてくるものだ、との教えである。 

また、同師は、寒山詩からの引用として「心直ければ出づる語も直し、直心に背面なし」と。 

世間は直心からでる直語に反感を持ちやすい。世渡りに賢明な現代人はもちろん直心から出る直言を避ける。しかし、現代最も大切なのは、背面無き直心から発せられる直言の叱責であろう。それが実るには他者に成り切る愛情の涵養である、と説かれる。

私は、これらいずれも、ギスギスした人間の心と感情的な二者択一的な議論ばかりの現在の政治や社会への、惜しくも逝去された恩師からの遺言・直言と受け止めたい。合掌。
(つづく)
                       

2012年05月15日

◆5・15も2・26も知らない

渡部 亮次郎


5・15事件(ご-いち-ご じけん)は、1932(昭和7)年5月15日に起きた大日本帝国海軍の青年将校を中心とする反乱事件。武装した海軍の青年将校たちが首相官邸に乱入し、犬養毅首相を暗殺した。

筆者の生まれる4年前の出来事だから、知らないのは当然か。

5・15といい2・26事件といい、いわば日本軍部が軍事強国を目指し、政党政治を否定し手起こした事件といわざるを得ない。首相の殺害には失敗した2・26事件では首謀者や指導者は銃殺されたが、先立つ5・15事件では精々禁固刑でしかならなかった。

このため2・26の青年将校たちは甘く見て事件を起こした。政界が無力だったという論もあるかもしれないが、武器を持った軍に空手の政治家が立ち向かえるわけが無い。

いずれにしろ、軍部の独走を許した為に日本は滅亡状態となった。経済は復興し、日本再建がなったように評価する向きがあるが、それは勘違い。私の判定は「精神的に絶滅」である。

当時は1929(昭和4年)年の世界恐慌に端を発した大不況、企業倒産が相次ぎ、社会不安が増していた。「大学は出たけれど」という映画が作られたほどの不況・就職難の時代だった。

1931(昭和6)年には関東軍の一部が満洲事変を引き起こしたが、政府はこれを収拾できず、かえって引きずられる形だった。

犬養政権は金輸出再禁止などの不況対策を行うことを公約に1932(昭和7)年2月の総選挙で大勝をおさめたが、一方で満洲事変を黙認し、陸軍との関係も悪くなかった。

しかし、1930(昭和5)年ロンドン海軍軍縮条約を締結した前総理若槻禮次郎に対し不満を持っていた海軍将校は、若槻襲撃の機会を狙っていた。

ところが、立憲民政党(民政党)は大敗、若槻内閣は退陣を余儀なくされた。

これで事なきを得たかに思われたがそうではなかった。計画の中心人物だった藤井斉が「後を頼む」と遺言を残して中国で戦死し、この遺言を知った仲間が事件を起こすことになる。

この事件の計画立案・現場指揮をしたのは海軍中尉・古賀清志で、死亡した藤井斉とは同志的な関係を持っていた。事件は血盟団事件につづく昭和維新の第2弾として決行された。

古賀は昭和維新を唱える海軍青年将校たちを取りまとめるだけでなく、大川周明らから資金と拳銃を引き出した。農本主義者・橘孝三郎を口説いて、主宰する愛郷塾の塾生たちを農民決死隊として組織させた。

時期尚早と言う陸軍側の西田税予備役少尉を繰りかえし説得して、後藤映範ら11名の陸軍士官候補生を引き込んだ。

3月31日、古賀と中村義雄海軍中尉は土浦の下宿で落ち合い、第一次実行計画を策定した。計画は二転三転した後、5月13日、土浦の山水閣で最終の計画が決定した。

具体的な計画としては、参加者を4組に分け、5月15日午後5時30分を期して行動を開始、

第一段として、海軍青年将校率いる第一組は首相官邸を、第二組は内大臣官邸を、第三組は立憲政友会本部を襲撃する。

つづいて昭和維新に共鳴する大学生2人(第四組)が三菱銀行に爆弾を投げる。

第二段として、第四組を除く他の3組は合流して警視庁を襲撃する。

これとは別に農民決死隊を別働隊とし、午後7時頃の日没を期して東京近辺に電力を供給する変電所数ヶ所を襲撃し、東京を暗黒化する。

加えて時期尚早だと反対する西田税を計画実行を妨害するものとして、この機会に暗殺する。

とし、これによって東京を混乱させて戒厳令を施行せざるを得ない状況に陥れ、その間に軍閥内閣を樹立して国家改造を行う、というものであった。

5月15日は日曜日で、犬養は終日官邸にいた。

第一組9人は、三上卓海軍中尉以下5人を表門組、山岸宏海軍中尉以下4人を裏門組として2台の車に分乗して首相官邸に向かい、午後5時27分ごろ官邸に侵入、警備の警察官を銃撃し重傷を負わせた(1名が5月26日に死亡する)。

三上は食堂で犬養を発見すると、ただちに拳銃を犬養に向け引き金を引いたが、たまたま弾が入っていなかったため発射されず、犬養に制止された。

犬養毅自らに応接室に案内され、そこで犬養の考えやこれからの日本の在り方などを聞かされようとしていた。

ところが、裏から突入した黒岩隊が応接室を探し当てて黒岩が犬養の腹部を銃撃、次いで三上が頭部を銃撃し、犬養に重傷を負わせた。襲撃者らはすぐに去った。

それでも犬養はしばらく息があり、すぐに駆け付けた女中のテルに「今の若い者をもう一度呼んで来い、よく話して聞かせる」と強い口調で語ったと言うが、次第に衰弱し、深夜になって死亡した。

首相官邸以外にも、内大臣官邸、立憲政友会本部、警視庁、変電所、三菱銀行などが襲撃されたが、被害は軽微であった。

6月15日、資金と拳銃を提供したとして大川周明が検挙された。7月24日、橘孝三郎がハルビンの憲兵隊に自首して逮捕された。9月18日、拳銃を提供したとして本間憲一郎が検挙され、11月5日には頭山秀三が検挙された。

この事件によりこの後斎藤實、岡田啓介という軍人内閣が成立し、加藤高明内閣以来続いた政党内閣の慣例(憲政の常道)を破る端緒となった。

尤も実態は両内閣共に民政党寄りの内閣であり、なお代議士の入閣も多かった。民政党内閣に不満を持った将校らが政友会の総裁を暗殺した結果、民政党寄りの内閣が誕生するという皮肉な結果になった。

また、犬養の死が満洲国承認問題に影響を与えたという指摘もある。

事件の前日にはイギリスの喜劇俳優のチャールズ・チャップリンが来日し、事件当日に犬養と面会する予定であった。チャップリンが思いつきで相撲観戦に出掛けた為難を逃れたが、「日本に退廃文化を流した元凶」として、首謀者の間でチャップリンの暗殺が画策されていた。

裁判の結果。

実行者

首相官邸襲撃隊 三上卓 - 海軍中尉で「妙高」乗組。反乱罪で有罪(禁錮15年)。昭和13年に出所後、右翼活動家となり、三無事件に関与

山岸宏 - 海軍中尉。禁固10年

村山格之 - 海軍少尉。禁固10年

黒岩勇 - 予備役海軍少尉。反乱罪で有罪(禁錮13年)

野村三郎 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

後藤映範 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

篠原市之助 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

石関栄 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

八木春男 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

内大臣官邸襲撃隊

古賀清志 - 海軍中尉。反乱罪で有罪(禁錮15年)

杉田善一郎 - 海軍少尉。禁固10年

坂元兼一 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

菅勤 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

西川武敏 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

池松武志 - 元陸軍士官学校本科生。禁固4年

立憲政友会本部襲撃隊

中村義雄 - 海軍中尉。禁固10年

中島忠秋 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

金清豊 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

吉原政巳 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

民間人

橘孝三郎 - 「愛郷塾」主宰。刑法犯(爆発物取締罰則違反,殺人及殺人未遂)で有罪(無期懲役)。昭和15年に出所

大川周明 - 反乱罪で有罪(禁錮5年)

本間憲一郎 - 「柴山塾」主宰。禁固4年

頭山秀三 - 玄洋社社員。頭山満の三男.禁固3年。戦後、事故死。

反乱予備罪

伊東亀城 - 海軍少尉。禁固2年、執行猶予5年
大庭春雄 - 海軍少尉。禁固2年、執行猶予5年
林正義 - 海軍中尉。禁固2年、執行猶予5年
塚野道雄 - 海軍大尉。 禁固1年、執行猶予2年

(「ウィキペディア」)

◆野田は、原発再稼働で動け

杉浦 正章
 

〜電力制限令を避け〜

政府から関西電力大飯原子力発電所3、4号機の再稼働同意要請を受けていたおおい町議会は14日、11対1という圧倒的賛成多数で再稼働容認を決めた。おおい町長・時岡忍がこれを受けて再稼働容認に踏み切るのは時間の問題となった。首相・野田佳彦はこの機会を逸してはならない。一気に再稼働へと動くべきだ。


再稼働に動かずに電力使用制限令などを出せば、政権の無責任ぶりを露呈するだけである。憲法が保障する営業の自由、財産権の保障など経済的自由権確保に抵触する。また政府に電力供給を義務づける「エネルギー基本法」を無視する無策内閣として末代までたたるだろう。
 

おおい町議会の論議を聞いて、実に大局観のある論議をしていることが分かった。「日本の活力を取り戻すためにも現行安全基準で再稼働すべきだ」という発言などは、いまだに「原発は過渡的なエネルギーだ。新エネルギーに転換していかなくてはならない」などと机上の空論を唱える民主党元代表・小沢一郎に聞かせてやりたいくらいだ。


独自に安全性を検証してきた福井県の専門家委員会も近く、安全性確認の報告書を提出する。野田は先にワシントンで再稼働の是非について、「あくまで地元の一定の理解があるかどうかだ」と述べて地元の対応を見守る意向を明らかにした。また自分が先頭に立って地元説得に当たる意向も表明している。
 

ここで野田にとって重要なことは、国民への電力供給確保は憲法ばかりでなく、「エネルギー政策基本法」でうたわれた政府の根幹的な義務であることだ。同法は国及び地方公共団体の電力供給確保への責務等を明示するとともに、地方自治体には第六条で「国の施策に準じて施策を講ずる責務を有する」と規定されている。


要するに国は責任を持ってリーダーシップを発揮して電力を確保し、地方自治体を指導しなければならないのだ。自治体は本来「反対」を言える立場にない。一方、電気事業法に基づく電力使用制限令などはあくまで例外中の例外の措置である。大飯原発が再稼働すれば関電の抱える問題のすべてが解決するにもかかわらず、使用制限に動けば政治が自らの立場を放棄するに等しい。
 

したがって、野田政権には再稼働による電力確保の法的義務が課せられているのであり、そもそも地元の意向を最優先すべき問題ではないのだ。しかも地元が賛成に踏み切ったのであり、ここは野田自身が他の周辺自治体を含めて自ら説得に動くべき時であろう。


福井県知事・西川一誠もそれを同意の条件としている。周辺の府県のトップは総じて再稼働に反対である。しかし政府が再稼働を決定したときの激昂型反発は影をひそめてきた。電力危機の実態がようやく分かってきたうえに、地元財界などからの猛反発を受けてトーンダウンしたのだろう。
 

倒閣宣言までした大阪市長・橋下徹も元気がない。発言は相変わらずとんちんかんで「電力制限令をやって電力とはどういうものか身にしみて感じて、どういう供給体制を構築してゆくかだ」と述べた。まるで企業活動の成否や人命に関わる電力制限令を「理科の実験」扱いしている。


滋賀県知事・嘉田由紀子はおおい町議会の決定を「まるで出来レースだ」と茶化したが、自らのマスコミうけポピュリズムを棚に上げている。この種の自治体トップは脱原発と言うより、ポピュリズムに根ざした原発即時破棄論に近く、説得しても翻意はしまい。
 

しかし、これまで再稼働手続きで失敗を重ねてきた野田には、手続き上説得する義務があり、これまでのように副大臣クラスでことを処理すべきではない。自ら「脱原発だ」と公言する経産相・枝野幸男はこの場面においては信用ができないし、説得力にも欠ける。野田が自ら説得に当たり、その手続きを踏んだ上で再稼働に踏み切るべきであろう。
 

民主党政調会長・前原誠司は「再稼働しなかった場合、計画停電を関西地域はやらなければいけなくなる。これは医療機関などでは人の命に関わる」と発言している。確かに、電力制限令で救急救命センターへの電力供給がストップすれば、たちまち人命に関わる。自家発電など電力確保のすべがない中小企業は、倒産の危機に瀕する。


大企業は世界一高い電気料金の日本脱出にますます拍車をかける。失業率は高くなる一方だ。一般家庭は消費増税より一足先に電力料金の値上げという“増税”を食らう。要するに原発再稼働で確保出来る電力供給を放棄して、安易に電力制限令などに動けば、国の活力の根幹を喪失することになるのだ。


野田は消費税に全力投球もいいが、電力確保にちゅうちょしているときではあるまい。それも速い動きが必要だ。再稼働までには準備に1か月かかり、月内に決断しないと、電力需要がピークにさしかかる7月以降に間に合わない。まさに正念場だ。

<<今朝のニュース解説から抜粋>   (政治評論家)

◆これからの子育て支援(その5)

紀ノ本 晶子


〜私を学ばせたエチオピア〜 


日本に戻ってから、私は個人の産婦人科での仕事を始めました。同時に新生児訪問や乳児健診など地域のこどもを相手にする仕事と、保健師として僻地?とでも呼べばいいのか、都市には近いけれども農村部で行政サービスの届きにくいところでの仕事も縁あって始めることになりました。

産むことより育てることのほうが、延々続く悩み多き大変な作業で、地域で困っている人を何とかしたい!という思いが強かったからです。

産婦人科での仕事以外は7年たった今も細く長く続けているところで、結局は「地域での活動が私の好きな仕事」なのだと思っています。

今、日本の個人病院に多いのが「きれいな設備、シャワー・トイレ付個室、お祝いのフレンチフルコース」、というところでしょうか。エチオピア帰りの私には違和感が大きかったです。

日本の出産の流行でしょうか。何人も子供を産むわけではないし、しんどい思いもするし、「自分にご褒美を」という感覚のようです。

実際、子育て中の母にとってご褒美はとても大切なことだと思います。でも、以前から言われていたことかと思いますが、現代人に出産は命がけ、自分で産まなくてはという感覚は、薄れてきているようです。(自分で産むんだという感覚・覚悟を助産師は取り戻せるよう、手伝わなくてはなりません。きっとそれが本当の満足につながると私含め思っている助産師・施設は増えています)。

そんな訳で、私は自分の出産の時に病院で出産するという頭は全くなく、エチオピア人とは事情が少し違うかもしれませんが(少し前までは日本でも自宅出産がほとんどでしたよね)、家で出産するのが自然で当たり前だと思い込んでいました。

ご縁があってその願いも叶い、何とか無事2人の子を家で迎えることができたのでした。いろんな情報があって、いろいろ選択できる日本にいるのですから、出産も自分のこととして産む主体が満足できる方法を選ぶことができたらいいのになと思います。

子育てを始めて、「自分のしている新生児訪問などの地域で生活する親子を支える仕事」というのがとても大切で、なくてはならないと改めて感じ始めました。子どもはとてもかわいいのに、特に赤ちゃんの間はどこにも出ていくにも不自由で、大人と話をしたい、どこかに出ていきたいという思いをずっと抱えていました。

「赤ちゃんの交流会」みたいなものに参加したくて、すぐ応募するのですが、定員オーバーでキャンセル待ち。よく泣くわが子に手いっぱいで家事もままならない。話をしたくても友達もいない、私はどうしたらいいの?夫の帰りが待ち遠しく、それなのに、帰ってきた夫と口論、もういやだ、なんていうこともありました。 (つづく)
(助産師・保健師)