2016年05月31日

◆その場にいるような臨場感、中国皇帝の野心と挫折

宮崎 正弘
 


<平成28年(2016)5月30日(月曜日)通算第4911号 >

 まるでその場にいるような臨場感、中国皇帝の野心と挫折
  習近平皇帝の行状を外交戦略の始動から米国との激突まで緻密に解剖
すると

  ♪
近藤大介『パックス・チャイナ 中華帝国の野望』(講談社新書)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

 北京に複数の深い情報源をもつ近藤さん、ちょっと見落としがちだった
中国政界を人物集団という側面から、紫禁城の皇帝とその側近達の内部、
その凄まじい権力闘争のどろどろな実態、そして毛沢東にあやかろうとし
て、衣服や立ち居振る舞い、言葉の選び方まで真似ている習近平の姿を浮
き彫りにする。

 骨子は『アジアの新皇帝』たらんとする習近平の涙ぐましいまでの背伸
び外交、その浦にはあからさまな「日本潰し」にあると見ている。
 そして南シナ海の珊瑚礁を片っ端から埋立て、「太平洋に万里の上場を
築け」という、潜在的な至上命令があるとする。

 そのうえで対応する外交方面の野心があちこちの国々との齟齬とあり、
想定外の衝突をもたらしているのだが、オバマ、安部ばかりか朴、アキ
ノ、ナジブ、モディなどとの主導権争い、そのブレーン達の世界各地を舞
台としての、八面六腑などがスリルに富む小説の描写のように、克明に描
かれている。

 この物語は時系列で、習近平にとって「東方の二人の敵」とは安倍首相
と金正恩であり、皇帝に「即位」した2012年から13年が序幕となる。
 第一幕は2013年の「外交始動時期」、第二幕が翌2014年にかけ
ての「東アジアの緊迫状況」を克明に追い、第三幕が2014年発から秋
にかけての「日米離間工作」だったとする。

 第四幕は「オバマの屈服」(2014年後半)、第五幕が「日本外し」
(2015)、第六幕が「ワシントンの屈辱」(2015年秋)、そして
終幕が「米中対立」(2016年)と、長くて、起伏に富んだ外交上の人
物確執史となる。

 清朝末期の凋落からアヘン戦争に直面し、英国に敗北した中国は、習王
朝以後の特徴として、「時計の巻き戻し論」がでてきた。


 ▼オバマの融和策の間に南シナ海を掠め取れ

パックス・チャイナをアジアに確立し、日本を蹴落として、アジアの覇者
を目指すのが習近平の狙いであり、外交ブレーンは王?寧、楊潔チ、王毅
であると説く。

もっとも重要なのは習夫人で、彼女は同時に軍属歌手であり、軍の少将で
もあるが、本書には意外や意外、習近平の最初の妻となった女性が、英国
へわたり、英国籍をとり、ロンドンに暮らしているのだが、深センでふた
りは偶会していた。そればかりか、習の訪英時にもふたりは密かにあった
ことが報告されているのだ。
この秘話は知らなかった。

また軍における習近平の「軍師」は呉勝利だとする近藤氏は、いささか、
他のチャイナウォッチャーとは違う分析を披露している。

昨師走に引退に追い込まれた劉源(劉少奇の息子)の名前は一カ所も出て
こないし、軍の反・習近平の動きも軽視されている。
 もうひとつ意外な観測は重慶市書記の孫政才が胡錦涛、李克強らの派閥
ではなく、習の子飼いと認定していることだ。

これは多くのチャイナウォッチャーが、むしろ孫を団派の代表として胡春
華と並んで次のリーダーを踏んでいる分析とは意見を異にする。

評者(宮崎)に言わしめれば、習は反腐敗キャンペーンで敵をつくりすぎ
たため、上海派と団派の挟撃にあって、権力基盤は明らかに脆弱化してい
るとみているが、近藤氏は反対の立場のようだ。

さらにもう一つある。
 経済問題である。経済政策の主導権を習近平は李克強首相が率いる国務
院から取り上げ、常務委員会でも張?江、劉雲山、愈正声、張高麗の四人
が江沢民人事によるものであるために遠ざけ、閑なポストしか与えていな
いが、団派への冷遇も露骨である。

 近藤さんはこう書く。
 経済政策のブレーンとして、習近平は「北京101中学」の同級生で、
経済学者の劉?を抜擢した。

劉?は「ハーバード大学に留学。帰国後は社会主義計画経済の司令塔だっ
た国家計画委員会に勤務した」けれども、胡錦涛時代がおわるまで「日の
当たらない傍流を歩んでいた」人物である。

 その彼を習は「党中央財経指導小組弁公室主任に抜擢した」。
つまり劉?が「経済指導部のトップ」に躍進し、国務院の役割を希釈化さ
せ、ついで団派の影響力を削いだのだ。

 ついで副主任に楊偉民をあて、「このコンビ」の特徴は「日本との縁が
深く、日本のモデルに学ぶことの意義を説き、楊副主任にいたっては日本
留学で、傍流から主流に飛び出したのも「アメリカ留学を誇るグループが
圧倒的に主流を占める中国の経済学界では、非主流派グループに属してい
た」のだった。

ともかく本書で近藤さんの筆致は、まるで現場にいるような臨場感にとら
われ、習近平という現代中国の皇帝の野心と挫折を描いた傑作となった。
習近平皇帝の行状を外交戦略の始動から米国との激突までを緻密に解剖
し、読ませる物語をつくりあげた。
   □○△◇○○

◆ヒズ・マスターズ・ボイス

石岡 荘十


蓄音機から飛び出したラッパのような形をした大きなスピーカーの前に、きちんとお座りをして、ちょっと首をかしげた犬が音楽に聞き入っている。この図は、最近はあまり見かけなくなったが、歴史のある音響メーカー「ビィクター」のトレードマークである。

http://www.jvc-victor.co.jp/company/profile/nipper.html

昭和21年、群馬県新町(現・高崎市)に紡績工場があり、わが一家は中国から引揚げてきたばかりで、その社宅に住んでいた。木造平屋の粗末な建物だったが、その居間に、小型冷蔵庫ほどの大きさの電蓄がでーんと居座っていた。

クラシック好きの父親がどこでどう工面してきたのか、戦後間もない食うや食わずの時代にいかにも似つかわしくない“贅沢品”であった。

おまけに、唯一のレコード、これがすごかった。羊の皮表紙の12枚組みのアルバムで、その表紙の真ん中には「ヒズ・マスターズ・ボイス」が刻印されている。収蔵された曲は---

1.A&B パガニーニ作曲 「狂想曲イ短調」 ハイフェッツ
2A&B  ヘンデル作曲 「ピアノ組曲ニ短調」 フィッシャー
3.A&B  ヴェルディー作曲  歌劇「トラヴィアータ 第一幕、
(あヽ、そは彼の人か)」 ソプラノ独唱 アイデ・ノレナ

4.A&B  ヨハン・シュトラウス作曲 管弦楽 歌劇「蝙蝠 序曲」 
ミネアポリス交響楽団 
5.クラヴサン独奏 ランドルフスカヤ
A「燕・愉しき夢」
B シャコンヌ 円舞曲」

6. A&B  ハイドン作曲 「弦楽四重奏曲ヘ長調」 プロ・アルト弦
楽四重奏楽団
7.バス独唱 シャリアピン ムソルグスキー作曲 
A  ヴォルガの舟歌
B 蚤の歌

8. チェロ独奏 ピアティゴルスキー
 A ウエーバー作曲「アダヂオとロンド」
  B フランクール作曲「ラルゴーとヴィヴォ」
9. A&B 管弦楽 バッハ作曲 「トッカータとフーガ」 フィラデル
フィア管弦楽団 

10. A&B ベルリン独唱者連盟
  A バリトン独唱 ベートーベン作曲 「自然に顕はる神の栄光」
  B ソプラノ独唱 ヴェルディー作曲
     「アヴェ・マリア」
11. A&B  ヴァイオリン独奏 ヴェラチーニ作曲 「奏鳴曲ホ短調」
(ティボー)
12. A&B  管弦楽 ワグナー作曲 歌劇「ローエングリン」(第一幕
への前奏曲) ニューヨーク愛好家協会 

どうです、この見事な選曲と演奏者の顔ぶれ。珍品はシャリアピン本人のサイン入りのレコードだ。一つしかないこのアルバムを小学校の高学年から高校を卒業して家を出るまで繰り返し繰り返し聴いているうちに、全曲、鼻歌を歌うように何気なくハミングできるように刷り込まれてしまった。

その一方で、ラヂオから流れるハリー・ベラフォンテ、高校のときには、高崎市に本拠を置く群馬フィルハーモニーオーケストラ」(群響)合唱団でロシア民謡から第九まであらゆるジャンルの楽曲を歌い続けた。

群響はあの映画「ここに泉あり」(昭和30年 監督今井正、音楽団伊玖磨、出演岸恵子・小林桂樹)で知られた市民オーケストラで、当時大学生であった小沢政爾もしばしば指揮をとった。

この映画のストーリどおり、夏休みには県内の田舎の中学校を群響と一緒に巡回して移動音楽教室を開き、歌った。

当時、シルクを生産していた鐘紡では、年に1回、当時有名な歌手を工場に呼んで、社員の慰労演芸会を開いていた。高峰三枝子、林伊佐緒、奈良光枝、灰田勝彦・晴彦----ナマの流行歌手を目の前にして、ジャンルを問わない音楽にのめりこんだ。

音に対するこんな思い入れのきっかけとなったのが、「ヒズ・マスターズ・ボイス」だった。この出会いがなければ、この歳で、クラシックからカントリー、演歌まで、数百曲をパソコンに取り込んで、一日中BGMに濫読ならぬ“濫聴”する生活をエンジョイすることにはならなかっただろう。

1889年にイギリスの画家フランシス・バラウドによって画かれビクターの商標となった原画は、フランシスの兄マークが亡くなるまで可愛がっていた愛犬のフォックス・テリア「ニッパー」が、兄のマークの生前、蓄音機に吹き込んだ声に聞き入っている姿を描いたものだそうだ。

愛犬ニッパーがラッパの前でけげんそうに耳を傾けて、なつかしい主人の声に聞き入っている姿だとビクターのHPにある。つまりHisMaster's Voiceに耳を傾ける姿なのである。

そこで話は飛ぶが---、

政権に関わる者は、この国の主である国民の声に耳を傾けるニッパーを見習ってもらいたいものである。        

◆内閣不信任案の牽強付会は著しい

杉浦 正章



出す前から空前の支持率が“否決”している
 

仲がいいのに首相・安倍晋三に真っ向から解散を求めるのは、財務相・麻生太郎の“大芝居”と思っていたが、やはりそうであった。本当に解散を求めたのではなく財務官僚に向けて怒って見せたのだ。いくら財務官僚が政治に疎いからと言って、たった3日で消費増税再延期にゴーのサインを出すとは思わなかっただろう。


まったく芝居がうまいが、すぐにばれる政権だ。それにつけても、財務省には悪いが、消費増税路線は極めて厳しい状況となった。2年半後に実現するかと言えば、安倍がやっていれば実現を迫られるが、18年9月の任期でやめてしまえば、次の首相が就任早々でやれるわけがない。実体は事実上凍結なのだ。
 

その芝居がうまい政権に野党が不信任決議案を上程する。不信任案となれば否決でも可決でも解散に直結し得るが、民進党代表・岡田克也はおそるおそる「解散せよ」と言いながら、どうか解散でダブル選挙になりませんようにと必死に祈っていたのが本音だろう。


それにつけても今回の野党の不信任案ほど牽強付会なものを知らない。アベノミクスの失敗、国民の声に耳を傾けない強権的な政治、憲法改悪の3点が提出の理由であるということだが、果たして核心のアベノミクスは本当に失敗したのだろうか。野党は朝日新聞に踊らされているだけではないのか。
 

アベノミクスと言えば、政権の根幹をなす最重要政策であり、この失敗は政権の全否定につながる。となれば、まず内閣支持率が竹下内閣のように3%まで落ち込まなければならない。しかし日経による直近の支持率は上昇して56%だ。史上最高の支持率を確保している首相が国民によって全否定されているのだろうか。されているわけがない。


なぜなら多くの国民は、「財源などは何処でもある」と国民を欺いた民主党政権の3年3か月こそが、欺瞞(まん)であると思っているのだ。有効求人倍率、失業率、企業の利益がそれぞれかってない好調な状況にあるのは、紛れもなくアベノミクスのもたらした効果でなくて何であろうか。
 

朝日と野党は国内総生産(GDP)の低さを指摘するが、国民はGDPなどどうでもいいのだ。はっきり言って求人が潤沢で嬉しい悲鳴なのだ。求人がなかった民主党政権より、働く場が文句さえ言わなければ潤沢な安倍政権の方がいいのだ。


GDPが低いからアベノミクスは破たんしたという岡田の主張は、まさに木を見て森を見ないかつての社会主義政党丸出しだ。大企業は史上最高の利益を上げている。その利益が中小企業にもおよび始めているのが最近の傾向だ。トリクルダウンがないと言ってケチをつけてきた野党の主張はここでも破たんする。大企業と中小企業が好調ならば、やがて消費意欲にも波及してGDPが上昇に転ずることは目に見えている。
 

さらに野党は朝日の社説「首相と消費税、世界経済は危機前夜か」に踊らされている。安倍のサミット議長としての運営に独善的なクレームをつけたものだ。社説は「世界の需要が一気に消失したリーマン時と、米シェール革命など原油の劇的な供給増加が背景にある最近の動きは、構造が決定的に違う」と主張している。さすがに朝日の影響力は大きく、テレビに出る経済評論家も恥ずかしげもなく、これをおうむ返しに請け売りしている。
 

しかし、安倍は構造的に同じだなどとは言っていない。現に危機がそこにあると言っているだけだ。政府の会合でノーベル経済学賞受賞者のジョセフ・ スティグリッツ・米コロンビア大教授が世界経済の状況を「大低迷」と形容したとおり、G7の多くの国々では恒常的に多くの失業が発生しており、日本ほどの人手不足は考えられない状況にある。


朝日は全く触れていないが中国発の不況をどうとらえているのだろうか。この世界的な経済の不振は中国のバブル崩壊に端を発して、なをも影響が続いている事に言及していない。石油安に直面した産油国の不振にも言及していない。社説はご都合主義の批判のための批判を展開しているのだ。
 

こうした危機感があったからこそG7の宣言は「世界経済に対する下方リスクがある。我々は重大な危機に陥ることを回避するために適時にすべての政策を行うことにより対応する」と述べているのである。メルケルが「危機ではない」と述べているのは、あくまで現状が危機ではないと言っているのであって、将来については言及していない。


むしろ危機感を共有しているからこそ“リスク宣言”がまとまったのだ。だいいちメルケルは会議終了後に「サミットは成功であった」と述べているではないか。将来の危機感を共有しなかったら成功とは言わない。
 

サミットは矜恃を持った世界のトップリーダーの集まりであり、日本の都合で、増税回避のための誘導など出来るわけがないのである。これを主張する岡田は副総理までやったのにサミットの在りようを理解していない。中国の危機がいつ世界経済に悪影響を及ぼすかは、全く予断を許さないのであって、政治家として先を見据えた警鐘を鳴らすことは、まさに「先見の明」なのである。これを批判するのは「不明の到り」でなくて何であろうか。


朝日も野党も議長を務めた安倍の働きぶりについて日経の調査は62%が「評価する」と答えているのをどう見るのか。評価する国民を衆愚とみなすのか。その独りよがりが発行部数を減少させ、野党の支持率はあってなきが如き状況にいたらしめるのだ。
 

要するにアベノミクスの失敗を指摘する野党の内閣不信任案はあまりにもこじつけが目立つと言わざるを得ない。参院選でも野党は不信任案の主張を繰り返すと見られるが国民の共感は得られない。こうして消費増税は延期の方向が確定したが、2年半と言えば安倍の任期を越えている。


しかし、安倍が次の衆院選挙で勝った場合には、当然任期の延長問題が浮上する。したがって消費増税は安倍政権なら可能だが、政権が代わった場合は全く分からない。2度あることは3度在ると思っていた方がいい。その代わり、税収増が絶好調であり、消費増税でこの流れを塞ぐことこそ、今の経済状況にマッチしないのだ。


       <今朝のニュース解説から抜粋>  (政治評論家)

◆私の「身辺雑記」(348)

平井 修一



■5月27日(金)、朝4:00は室温24度、中雨、散歩不可。

「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる
雲の細くたなびきたる。

夏は夜。月のころはさらなり、闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。ま
た、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光て行くもをかし。雨など降るもを
かし」

初夏、久しぶりの雨など降るもをかし。アジサイが満開だ。結構なことだ
が、これから1か月は洗濯ヂイヂを悩ます梅雨だな。

宮古島に愛人と逃避移住した知人が「住めばミヤコと島の人は皆言うけれ
ど、押入れがカビだらけになる」と嘆いていた。気温の高い南国の梅雨は
“カビ天国”なのだろう。

地面からの湿気をできるだけ避けようという高倉や高床ロングハウスは南
国の知恵だ。奄美では高倉の下で昼寝していたとカミサンが言っていた。↓
http://oki-park.jp/kaiyohaku/inst/85/103

ちなみに、すさまじく雨が降るためもあって、小学生時代のカミサンはハ
ダシで過ごしたそうだ。台風も猛烈なので、奄美の住宅のコンクリート率
は多分、今でも日本一だろう。

それは、木材が採れないことにもよるだろう。島民は森林や草むらを本能
的に避けるのだ。ハブが奄美の自然を守っていることになる。

土建会社を経営していた義父はジャリンコチエのお父さんそっくり。命知
らずの無鉄砲な“島っちゅ”はイノシシ狩りをしている(その息子=義弟は
スクーバで魚や貝を採っていた)。イノシシの頭蓋骨を玄関脇にいっぱい
飾っていた義父は、酔っぱらって天井に猟銃をぶっ放すこともあったそうだ。

カミサンがムショ帰りの小生を平気で受け入れたのは、時にお巡りさんを
追っかけまわすほどの乱暴者=村対抗の運動会のヒーローの義父が大好き
だったこともある。ヤクザに魅かれる女は多い。

さてさて、夕べは久し振りにルンバで掃除。ルンバは可愛くてよく働く
が、よく働いてもらうために床上の障害物を片づけなくてなくてはならない。

わが家のDKには椅子だけで9脚ある。ひとつ5キロほど、すこぶる重い。こ
れを卓上に片づけるのには「ヨッシャーッ」という気合、覚悟、体力、諦
観が必要で、カミサンがルンバをあまり使わないのはそれが嫌、苦痛だか
らだ。

「みんなそれが悩みみたい」とカミサン。ルンバを買った奥さん連中はそ
う思っているのだ。

ルンバは家具と家具の間など隅っこを掃除できない不便さもある。IoT
で、天井に複数のセンサーをつけ、細かいところはヘビ状のチビルンバが
掃除するというようにしたらいいと思うが。

今日はカミサン公休。夕食はシャリアピン風トンテキなど、旨かった。

■5月28日(土)、朝3:00は室温22度、曇、ちょっと肌寒い。ハーフ散歩。

5:00に奇妙な集団、20人ほどが街を清掃していた。初めて見た。老人が
少ないので日共ではない。それならナンミョー池田教かと思ったが、聖教
新聞配達人が知らんぷりしていたから、それも違う。彼らの多くは自転車
で帰って行ったからエリアの集団なのだろう。

エホバは毎週土曜日に集まる。奉仕活動として周辺の町の清掃を始めたの
かもしれない。エホバは2人以上の集団で動く。暴行や下半身トラブルな
どを予防するためらしい。単独行動した高齢女性信者は昨年、「殺してみ
たかった」という女子大生に殺された。

女性信者は純粋無垢、警戒心ゼロ、初心、上部はオロオロ、「せめて2人
以上で活動しなさい」と教えているのだろうが・・・

<Q:セックスをするようにとみんなが言ってきますが、どうしたらいい
でしょうか

A:あなたの体はとても大切なものです。安売りしてはいけません。結婚前
に セックスはしないようにという神のおきてに従おうと決意しましょ
う。将来、結婚すれば、セックスができるようになります。結婚前にセッ
クスをする 人のように不安や後悔に悩まされることなく、十分楽しめる
のです>

もう完璧な乙女。小生のようなワルは「どーだい、おじさんと苦労してみ
ないか。性書第一章第一節のオマタイ正上位から学んでいこう」とちょっ
かいを出したくなる。

ちょっかいを出したがるのは男の本能だ。国基研企画委員・福井県立大学
教授の島田洋一氏の論考5/23「安倍政権の植民地的パフォーマンス」から。

<米大統領が主要閣僚をホワイトハウスに招集し、増税を含む経済政策に
ついて日本の首相ブレーンから教えを請い、その姿をメディアに大きく報
じさせるなどというのは、およそあり得ない光景だろう。ところが日本で
はそうではない。

5月19日、オバマ政権下で経済諮問委員長を務めたクリスティーナ・ロー
マー教授(カリフォルニア大学バークレー校)の夫妻が首相官邸に招か
れ、安倍晋三首相と主要閣僚に意見を述べる様子がニュース画面に大きく
映し出された。

*日本は外国の権威に弱い国?

この「国際金融経済分析会合」は計7回を数えたが、内容はすべて非公
開。第3回のゲストでノーベル経済学賞受賞者のポール・クルーグマン教
授(ニューヨーク市立大学)が討議内容を外部に漏らして以来、情報統制
はより強化されたようだ。

非公開のため、広く議論を喚起する効用もないこの会合は、海外有識者の
権威を借りて世論を誘導する仕組みと思われても仕方がない。首相以下、
主要閣僚がテレビカメラの前に居並んで外国の学者の講義を拝聴する国な
ど、およそ先進国中にはない。

日本は「外国」や「ノーベル賞」の権威に動かされやすい国、との誤解が
海外に広まる恐れもある。表現は悪いが、権威に弱い植民地根性という言
葉すら思い浮かぶ。

*首相は使命の再確認を

この「勉強会」を起案した官僚を、なぜ安倍首相は「みっともないことを
させるな」と一喝しなかったのか。閣僚についてもしかり。「首相に恥を
かかせるのか。日本に恥をかかせるのか」と官邸にかみつく閣僚が1人ぐ
らい出てもよかったはずだ。

40代の若手議員の時代から、党幹部の権威や意向に臆することなく、日本
政治の正常化と日本国の名誉回復のために闘ってきた安倍首相は、およそ
植民地的価値観とは対極にある政治家である。

その安倍政権が、何故こうした、あえて言えば失態を演じたのか。立派な
理念を持ちながら、一部官僚に時として引きずられる安倍首相の姿を象徴
的に見る思いだ。

優秀であっても官僚の中には、驚くほど日本国の名誉に鈍感な人々がい
る。安倍政権の使命は、アベノミクスによる経済活性化と構造改革を実現
し、諸外国が争って日本にレクチャーを請うような状況を作り出すことだ
ろう。外国の経済学者の講義を聴くパフォーマンスに税金を浪費してはな
らない>(以上)

島田先生はかなり頭にきているようだが、内外の識者から提言をもらうこ
とは悪いことではないと思うが。

そもそも日本にまともな教授がいるのか。「一度教授、一生教授」で、高
給をもらいながら学閥の中でぬくぬくしており、憲法学者を見ても大半は
アカモドキだ。岩波「世界」村の住人や築地町民が多いのではないか。教
条的で現実が見えないという発達障碍者ばかりのような気がする。違うか。

国益を考え、国家百年の計に資する論を展開できる学者、論者は島田先生
を含めてせいぜい50人、その論を聞いたら次には外国の学者の論も聞いて
みようとなってもおかしくはない。

日本は植民地ではないが、未だにGHQ憲法という米国占領政策下にあり、
51番目の州に近い、軍事、外交はDCの連邦政府に従属しており、独立国と
は言えないと小生は思っている。安部氏は次の勉強会では島田教授を招い
て、この辺の話を聞いたらいい。

昨日駅前にオープンした「ばいばすけっと」を覗いたらすごい人出。主婦
向けの品揃えで大助かりだ。キッチンヂイヂの小生にはコンビニは
inconvenient である。

■5月29日(日)、朝7:00は室温23度、快晴、涼風。昨日は湿度が高くて洗
濯物がパリッと乾かなかったので、今朝もう一度ベランダに干す。ハーフ
散歩。

外務省は「事なかれ主義」で、とにもかくにも外交で波風が起きることを
避け、日々国益を損なっていると小生は思っているが、プロから見ても
「どうしようもないバカ」なのだという。

外交評論家「加瀬英明のコラム」メルマガ5/26 「トランプ現象にはやく
もオタオタ」から。

<私は日本を守るために、外務省を解体して、建て直したほうがよいと思う。

この2月に、日本人が委員長をつとめる国連女性差別撤廃委員会が、日本
が十数万人のアジアの無辜の娘たちを拉致して、性奴隷となることを強い
たという、怪しげな報告書を発表した。

報告書は皇位の男系による継承も、差別として非難していたが、さすがに
外務省が強く反発したために、削除された。

日本が女狩りして性奴隷としたという誹謗は、1992年の河野官房長官談話
に端を発しているが、外国政府や、国際機関が繰り返すごとに、日本が非
道な国だというイメージが、世界に定着してきた。

これは、由々しいことだ。日本が万一、危機に陥ることがあった場合に、
国際社会から援けてもらわねばならないが、日本がおぞましい国だとなっ
たら、誰も救おうとしないだろう。

この国連委員会の委員長は、福田康夫内閣の時に外務省が国連に推選して
送り込んだ女性活動家で、それまでは政府の男女共同参画社会の推進役を
つとめていた。

あるいは、国連人権関連委員会が2008年から14年まで、4回にわたって、
沖縄住民が日本における少数民族であり、日本民族から迫害を蒙って、人
権、言葉、文化などを奪われてきたという報告書を発表して、是正するよ
うに勧告してきた。外務省は一度も反論せず、撤回を要求することもな
かった。

中国は沖縄を奪おうと狙って、中国国内に琉球共和国(憲法、国旗も発
表)政府が置かれ、沖縄住民が中華民族であると唱えてきた。このような
国連委員会の勧告は、中国を力づけるものだ。

沖縄住民は疑いもなく、日本人だ。沖縄方言は、さらに本島南部、北部、
宮古、八重山、南奄美、北奄美など、多くの方言に分かれるが、日本語で
ある。

この突飛だとしかいえない、国連委員会の勧告のもとをつくったのは、日
本人グループであって、外務省の多年の御用(ペット)学者の武者小路公秀
氏が理事長をつとめる、「反差別国際運動」が中心となった。

武者小路氏は金日成主席以来、北朝鮮を礼讃してきたことによっても知ら
れるが、1976年には外務省の推薦によって、東京の国連大学副学長に就任
している。

今年4月に、沖縄選出の宮崎政久議員(自民党)が衆院内閣委員会で、こ
の国連委員会の勧告について質問し、木原誠二外務副大臣が政府として撤
回するように働きかけることを、はじめて約束した。

*相手国の代弁者たち

このような例は、枚挙にいとまがない。外務省は多年にわたって、日本を
深く傷つけてきた。

日本とアメリカの外務省と国務省には、奇妙な共通点がある。日本の外務
省は、別名「霞ヶ関」と呼ばれる。

国務省はホワイトハウスと、ポトマック川のあいだにある。ワシントンは
アメリカが独立した直後の1800年に、湿気がひどい泥地に建設されたが、
国務省がつくられたところは、とくに霧が立ち籠めるために、「フォ
ギー・ボトム」(霧の底)と呼ばれてきた。

もう一つの共通点は、両国とも外交官が他の省庁から嫌われていることだ。

霞も霧も、大気中に漂う微細な水滴であって、視界を曇らせる。アメリカ
でも、国務省のキャリアの外交官は、外国贔屓となって国益を忘れやすい
といって、胡散臭い眼で見られている。

外交官の宿痾か、職業病だろうが、ある外国を専門とすると、その国に魅
せられてしまうことだ。その国の代弁者になる罠に、落ちる。

 もし、私がある南洋の新興国の文化と言語に打ち込んで、外交官となっ
たら、きっと首狩り習俗や、食人習慣まで含めて、その国に強い親近感を
いだくことになろう。その国に気触(かぶ)れてしまい、日本の国益を二の
次にするようになる。

わが外務省にも気の毒なことに、国籍不明になった犠牲者が多い。

もっとも、日本の外務省のほうが、病いが重い。日本が犯罪国家だという
幻想にとらわれて、謝罪することが、外交官のつとめであると思い込んで
いる。

中国、韓国を増長させて、日中、日韓関係を悪化させてきた。責任は外務
省にある。

外務省員の多くの者が、日本に誇りをいだくことが、まったくない。外交
研修所における教育が悪いからだろう。

1992年8月に、宮沢内閣が天皇ご訪中について、有識者から首相官邸にお
いて個別に意見を聴取したが、私はその1人として招かれた。

私は「陛下が外国に行幸されるのは、日本を代表してその国を祝福される
ためにお出かけになられるものだが、中国のように国内で人権を蹂躙して
いる国はふさわしくない」と、反対意見を述べた。

その前月に、外務省の樽井澄夫中国課長が、私の事務所にやってきた。
「私は官費で、中国に留学しました。その時から、日中友好に生涯を捧げ
ることを誓ってきました。官邸にお出掛けになる時には、天皇御訪中に反
対なさらないで下さい」と懇願した。

私が中国の人権抑圧問題を尋ねると、「中国に人権なんてありません」と
悪びれずに言ってのけ、水爆実験をめぐる問題についても、「軍部が中央
の言うことを聞かずにやったことです」と答えた。

私が「あなたが日中友好に生涯を捧げるというのは個人的なことで、日本
の国益とまったく関わりがないことです。私は御訪中に反対します」とい
うと、悄然として帰っていった。

外国の代弁者になってしまう、不幸な例だった。

*理路整然たるバカ

私は41歳のときに、福田赳夫内閣が発足して、第1回福田・カーター会談
を控えて、最後の詰めを行うことを頼まれた。首相特別顧問の肩書きを
貰って、ワシントンに入った。

私はカーター大統領の後見役だった、民主党の元副大統領のハンフリー上
院議員や、カーター政権の国家安全会議(NSC)特別補佐官となったブレ
ジンスキ教授と親しかった。

内閣発足後に、園田直官房長官から日米首脳会談に当たって、共同声明の
“目玉”になるものがないか、相談を受けた。

私は園田官房長官に“秘策”を授けた。日本はこの時に、すでに経済大国と
なっていたが、日本のマスコミが毎年「一人当たり所得ではベネズエラ以
下」と報じていた。

私は日米共同声明でカーター大統領に「日本は国連安保理事会常任理事国
となる資格があり、支持するといわせることができる」といった。総理も
「それだ」ということになった。

そのうえで、山崎敏夫アメリカ局長と会った。すると「そのようなこと
が、できるはずがありません」と冷やかにあしらわれた。私は首脳会談へ
向けて、両国が打ち合わせた記録――トーキング・ペーパーを見せてほしい
と求めたが、峻拒された。

「役割分担でゆきましよう」と促したが、木で鼻を括(くく)ったような態
度で終始した。

トーキング・ペーパーのほうは、発つ前に鳩山威一郎外相に見せてもらっ
て、凌(しの)いだ。

私は総理一行がワシントン入りした前日に着いて、ホワイトハウス、国務
省、国防省などをまわった。出発前に電話で話をまとめていたから、念押
しのようなものだった。

翌日、ホワイトハウスの前にある迎賓館(ブレアハウス)で、総理一行と合
流して、首尾よくいったことを報告した。

福田カーター会談の共同声明では、私の献策が目玉になった。

私は2つの内閣で、園田外相の顧問として、アメリカにたびたびお伴し
た。園田外相は“ハト派”で、私は“タカ派”だったが、妙に気が合った。園
田氏は外務官僚を「理路整然たるバカ」と呼んだ。

*占領以来の大罪

最後に首相特別顧問の肩書きを貰ったのは、中曽根内閣だった。私の外務
省とのおつきあいは、長い。

外務省には、日本が占領下にあった時代から、大罪がある。

今日でも「国連憲章」は、外務省による正訳によれば、「われら連合国の
人民は‥‥」と始まっている。原文は「ウィー・ザ・ピープルズ・オブ・
ジ・ユナイテッド・ネーションズ‥‥」だが、「連合国」と正しく訳されて
いる。

ところが、「ザ・チャーター・オブ・ジ・ユナイテッド・ネーションズ」
を「国際連合憲章」と訳している。同じ言葉であるのに、奇妙だ。

「ジ・ユナイテッド・ネーションズ」の正しい名称は「連合国」なのだ。

*ヒラリー頼みの外務省

「ジ・ユナイテッド・ネーションズ」という呼称が、連合国を指す言葉と
して採用されたのは、日本が真珠湾を攻撃した翌月の1月1日のことだっ
た。この日、日本、ドイツ、イタリアなどと戦っていた26ヶ国の代表がワ
シントンに集まって「連合国宣言」を発した。

ルーズベルト大統領がこの会議で演説し、日本やドイツと戦っている同盟
諸国を「ジ・ユナイテッド・ネーションズ」と呼ぼうと、提案したことに
よった。

日本は3年8ヶ月にわたって「ジ・ユナイテッド・ネーションズ」、連合国
を敵として戦ったのだった。日本の都市に国際法を踏躙して絨毯爆撃を加
えて、非戦闘員を大量に殺戮し、広島、長崎に原爆を投下したのも「ジ・
ユナイテッド・ネーションズ」の空軍だった。今日、日本で定着している
国連という名称を用いるなら、国連の空軍が非人道きわまる爆撃を加えた
のだった。

“国連”が結成された時に憲章によって、加盟資格について「すべての平和
愛好国」と規定されたが、日本、ドイツなどの枢軸国に対して宣戦布告し
ていることが求められた。そのために、今日でも“国連憲章”に「敵国条
項」がある。

外務省も、朝日新聞をはじめとする新聞も、敗戦後の昭和20年10月までは
“国連”を「聯合国」と正訳していた。「国際聯合」にすり替えたのは、
「聯合國」だと、国民が占領軍に敵意をいだきかねないために、戦前の
「國際聯盟」をもじって、そう呼び替えたのだった。

都心の青山通りに面して、外務省が多額の国税を投入して誘致した「国連
大学」が聳えている。だが、「連合国大学」であったとしたら、誘致した
ものだろうか。

「国際連合」と呼んできたために“国連”を「平和の殿堂」のように崇めて
いる者が多い。日本国憲法と国連に対する崇拝は、1つのものである。も
し、正しく「連合国」と訳してきたとしたら、日本において国連信仰がひ
ろまることがなかったはずだ。

私は2005年から9年まで、朝日新聞のアメリカ総局長をつとめたK氏と、親
しくしているが、ワシントンを訪れると、ホテルにたずねてくれて、朝食
をとりながら情報を交換した。朝日新聞社の奢りだった。

ある時、K氏が「日本から来る人で、あなたぐらい、ワシントンで会いた
いという者に、誰でも会える人はいない」といった。

私はいまでも年2回、ワシントンに通っている。

ところが、日本の外務省出身の大使館員は、ワシントンでごく狭い社会の
なかで生活している。国務省ばかりを相手にしているから、他に人脈が
まったくない。

霞ヶ関の外務省では毎朝、省員が登庁すると、全員が跪いて、ヒラリー夫
人の勝利を祈っているという。ヒラリー夫人はオバマ政権の国務長官を務
めたから、日本国憲法が日本に課している特殊な制約を、よく知ってくれ
ているはずだからだ。

夫人のアジア外交のアドバイザーは、日本担当の国務次官補だったロバー
ト・キャンベルだが、外務省が飼い馴らしてきたから、安心できる。

外務省は“トランプ現象”のようなことが起ると、対応することができず
に、狼狽えるほかない。

もっとも、外務省を解体すべきだといっても、できることではない。そこ
で、国民が外務省に対して向こう20年か、30年にわたって、保護観察官
か、保護司となって、目を光らせて、補導するほかあるまい>(以上)

79歳翁とは思えない鋭い分析だ。すごいなあ、とても勉強になる。

「西郷南洲先生遺訓」から。

<正道を踏み国を以て斃(たお)るるの精神無くば、外国交際は全かる可
からず。彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に従順する時
は、軽侮を招き、好親却(かえっ)て破れ、終に彼の制を受くるに至らん。

談(だん)国事に及びし時、慨然として申されけるは、国の凌辱せらるる
に当たりては、縦令(たとえ)国を以て斃る共、正道を践(ふ)み、義を
尽すは政府の本務也。

然るに平日金穀理財の事を議するを聞けば、如何なる英雄豪傑かと見ゆれ
共、血の出る事に臨めば、頭を一処に集め、唯目前の苟安(こうあん)を
謀るのみ、戦の一字を恐れ、政府の本務を墜(おと)しなば、商法支配所
と申すものにて更に政府には非ざる也>

「苟安」とは一時的な安楽をむさぼることだ。日本の国益ではなく相手国
の利益のために働く外務省官僚の言動は、まさに利敵行為、売国奴そのも
のである。解体的再生が必要だ。(2016/5/29)

◆この秋蕪村公園で、初の「蕪村祭」を実施

毛馬 一三
 


与謝蕪村は、松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ江戸俳諧を代表する俳人だが、その蕪村の生誕地がどこかということになると、あまりご存じない人が多い。

蕪村は、紛れも無く大阪市都島区毛馬橋東詰(摂津東成郡毛馬村)で生誕している。それを顕彰する「蕪村記念碑」が、淀川毛馬閘門側の堤防に立っている。かの有名な蕪村の代表作・「春風や堤長うして家遠し」の句も、この記念碑に刻んである。

この他の顕彰物は、毛馬閘門内に「記念碑」がある。更にはそこからから流れる大川(旧淀川)を南へ500mほど下った所の橋の名だ「春風橋」で、蕪村直筆文字の「春風橋」が刻まれている。ところが、有名な蕪村でありながら、生誕地周辺で蕪村を顕彰する記念碑は、この3件しかなかった。ここに「蕪村公園」が誕生したのだ。このことは追々。

さて蕪村は、享保元年(1716)に毛馬村の裕福な農家(庄屋・問屋・宿屋)で生まれた。母親は奉公人で、謂わば庄屋主との間に生まれた子供で、家系を引き継げない「私生児」だった。

幼くして両親を失った不運が重なり、私生児扱いの蕪村は艱難辛苦重ね、結局生誕家には居られなくなった。このため、18歳〜20歳の頃、毛馬村を出奔、江戸に向かった。

途中京都で俳人早野巴人知り合い、俳諧の修行に勤しんだあと、早野巴人と江戸に行き、弟子となった。運命の出会いだったのだ。巴人師匠から俳諧を学び出したが、26歳の時、巴人師匠が没した。師匠死後、芭蕉への思いの強かった蕪村は、芭蕉の跡を慕って奧羽地方を放浪。その後、宝暦元年(1751)、京に移って俳諧に励む一方、南宋画家にも取り組み、池大雅と並ぶ名声を得ている。

京で68歳の生涯を閉じたが、終生大阪には何度も吟行に来たものの、故郷毛馬村には一歩も足を踏み入れていない。しかし生誕地への郷愁は人一倍強くて、「春風馬堤曲」を書き、「生誕地が毛馬であり、子供の頃楽しく遊んだこと想いながら綴ったものだ」と、弟子への手紙に記している。

このように大阪とは縁を絶ち切った蕪村だったから、いまだに大阪には蕪村に関する伝承文献が殆ど無ければ、生誕地に関する資料すら皆無だ。これ迄の長い間、大阪で「蕪村生誕祭」が開催出来ず、蕪村を顕彰する「資料館」すら、作ることにも想い付かなかった主理由だった。

しかし、10年頃前から都島区内を中心に、地元俳聖蕪村を大々的に顕彰しようという関係者の運動が活発になりだした。筆者も足並みを揃えて、大阪市長や助役らと協議しながら運動をおこなった。

こうした動きに応じて、大阪市が18年度から2年計画で、前述の「記念碑」と「春風橋」の中間にある市有地1.1hrの土地に、約2億5千万円をかけて「蕪村公園」を整備した。

同「蕪村公園」の整備には、当初、蕪村の俳句や絵を紹介する「東屋」を建てるほか、公園内に大きな広場、その周辺には蕪村の句の石碑や蕪村句に因んだ花木植栽をするよう要請した。

そうすれば大阪が蕪村生誕地であることが知れ渡り、蕪村への集客に繋がることによって、都島区名所に成る筈だと申し入れ続けた。しかし、蕪村公園のシンボルの「東屋」は、浮浪者の溜まり場となり、管理運営上難しいとの判断から、「同屋」の建設は見送られた。

序で乍ら、出来上がった同公園は、全国的に知られた大阪桜の名所・「毛馬桜の宮公園」の最北端に位置し、市の中心地中之島に通じる大川沿いの桜回廊の出発点に位置する。また学生レガッタ練習や「花見遊覧船」の折り返し地点となっており、近くには国の重要文化財「毛馬閘門」がある。

いまは公園植栽も進み、公園整備はしっかり進められ「桜回廊」と同じ華やかさを見せており、顕彰されている蕪村本人も満足ではないだろうか。

私が主宰するNPO法人近畿フォーラム21講座「蕪村顕彰俳句大学」は、受講生の「入賞作品プレート碑」を既に10基(2015年春現在)建立。「蕪村句」に登場する樹木の記念植栽を支援しており、2016年の秋には蕪村としては初めて、ここ蕪村公園で「蕪村生誕記念祭」を実施する。

是非、「蕪村公園」をご覧になり、「蕪村望郷の念」を察して頂きたい。(了)

2016年05月30日

◆広島原爆投下を眼下に見た紫電改操縦士がいた!

〜「これは戦争じゃない。虐殺だ…」 〜
久保田康夫



国会議員に読ませたい敗戦秘話」(産経新聞出版)

■原爆は戦争ではない。虐殺だ。

 1945(昭和20)年8月6日午前7時45分、22歳だった第343海軍航空隊(通称・剣部隊)少尉、本田稔は、兵庫県姫路市の川西航空機(現新明和工業)で真新しい戦闘機「紫電改」を受け取り、海軍大村基地(長崎県大村市)に向けて飛び立った。

 高度5千メートル。抜けるような青空が広がり、眼下には広島市の街並み、そして国宝・広島城が見えた。
 その瞬間だった。猛烈な衝撃にドーンと突き上げられたかと思うと紫電改は吹き飛ばされた。操縦桿は全く利かない。必死に機体を立て直しながら地上を見て驚いた。

 「街がない!」
 広島の街が丸ごと消えていた。傾いた電柱が6本ほど見えるだけで後はすべて瓦礫。炎も煙もなかった。
 やがて市中心部に真っ白な煙が上がり、その中心は赤黒く見えた。白い煙は猛烈な勢いで上昇し、巨大なきのこ雲になった。

「弾薬庫か何かが大爆発したのか?」
 そう思った本田は大村基地に到着後、司令部に事実をありのまま報告したが、司令部も何が起きたのか、分からない状態だった。

 正体は原子爆弾だった。
 米軍B29爆撃機「エノラゲイ」は高度9600メートルからウラン型原爆「リトルボーイ」を投下、急旋回して逃げ去った。

 午前8時15分、リトルボーイは地上600メートルで炸裂した。閃光、熱線に続き、超音速の爆風が発生した。
 本田が見たのは、この爆風で廃虚と化した広島の街だった。この後、大火災が発生し、この世の地獄と化した。
 本田が、広島に米軍の新型爆弾が投下されたことを知ったのは2日後の8月8日だった。翌9日、大村基地から大村湾を隔てて15キロ南西の長崎市で再び悲劇が起きた。

 9日午前11時2分、B29「ボックスカー」はプルトニウム型原爆「ファットマン」を長崎市に投下した。第1目標は小倉(現北九州市)だったが、視界不良のため長崎市に変更したのだ。

 広島と同様、空襲警報は発令されず、大村基地にも「敵機接近」との情報はもたらされなかった。
 本田は食堂で早めの昼食を食べていた。突如、食堂の天幕が激しく揺れ、基地内は大騒ぎとなった。
 まもなく上官が本田らにこう命じた。
 「長崎に猛烈な爆弾が落とされて病院はすべてダメになった。収容できない被害者を貨車で送るから大村海軍病院に運んでほしい」

 本田は手の空いている隊員20人を率いて海軍病院に向かった。
 海軍病院前にはすでに貨車が到着していた。扉を開けると数十人が横たわっていた。だが、体は真っ黒で髪もなく、服も着ていない。男女の区別どころか、顔の輪郭も分からない。息をしているかどうかも分からない。
 「とにかく病院に運ぼう」
 そう思い、担架に乗せようと1人の両腕を持ち上げるとズルッと肉が骨から抜け落ちた。

 甲種飛行予科練習生(予科練)を経て海軍に入った本田は41年の日米開戦以来、インドネシア、トラック諸島、ラバウルなど各地で零式艦上戦闘機(零戦)の操縦桿を握り続けた。ガダルカナル島攻防では、盲腸の手術直後に出撃し、腹からはみ出した腸を押さえながら空戦したこともある。本土防衛の精鋭として剣部隊に配属後も、空が真っ黒になるほどのB29の大編隊を迎え撃ち、何機も撃墜した。この間に何人もの戦友を失った。
 そんな百戦錬磨の本田も原爆の惨状に腰を抜かした。
 「地獄とはこういうものか…」

 剣部隊司令で海軍大佐の源田実(後の航空幕僚長、参院議員)は本田にこう語った。
「もし今度、新型爆弾に対する情報が入ったら俺が体当たりしてでも阻止する。その時は一緒に出撃してくれるか」
 本田は「喜んで出撃します」と返答したが、その機会は訪れることなく8月15日に終戦を迎えた。

 戦後、本田は航空自衛隊や三菱重工に勤め、テストパイロットとして操縦桿を握り続けた。90歳を越えた今も広島、長崎の悲劇を忘れることはない。そして原爆搭載機に向かって出撃できなかった無念もなお晴れることはない。

 「長崎の人たちには本当に申し訳ないと思っています。本土防衛の役目を担った私たちがあんなに近くにいたにもかかわらず…」
 本田は涙をにじませ、こう続けた。
 「戦争というのは軍人と軍人の戦いのはずだ。だから原爆は戦争じゃない。非戦闘員の真上で爆発させるんですから。虐殺ですよ」
     ×     ×     ×
 1945年7月26日、第33代米大統領のハリー・トルーマンは、英首相のウィンストン・チャーチル、中国国民政府主席の蒋介石と連名で、日本政府にポツダム宣言を突きつけた。宣言は13章あるが、その趣旨は最終章に集約されている。

 「われわれは日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、その行動を十分保障することを求める。これ以外の選択は迅速かつ完全なる壊滅あるのみ」
 これは単なる脅しではなかった。米国は7月16日にニューメキシコ州のアラモゴード実験場で初の原爆実験を成功させた。「完全なる壊滅」とは原爆投下を意味したのだ。

 トルーマンのこの時期の言動を追うと、日本への「原爆投下ありき」で動いていたことが分かる。
 トルーマンは、知日派の国務長官代理、ジョセフ・グルーの進言を通じて「国体護持」(天皇の地位保全)さえ保証すれば、日本が降伏すると踏んでいた。にもかかわらず、陸軍長官、ヘンリー・スティムソンが作成したポツダム宣言の草案から「天皇の地位保全」条項を削ってしまった。日本があっさりと降伏すれば、原爆投下のチャンスが失われると考えたからだとみるのが自然だろう。

 ポツダム宣言は、7月17日〜8月2日にベルリン郊外のポツダムで行われたトルーマン、チャーチル、ソ連共産党書記長のヨシフ・スターリンとの会談の最中に発表された。

 すでにソ連は対日参戦に向け、着々と準備を進めていたが、スターリンは名を連ねていない。当時、日本外務省と在ソ大使館の暗号電文は解読されており、日本が日ソ中立条約を信じてソ連に和平の仲介役を求めてくることが分かっていたからだ。トルーマンも、その方が原爆投下まで時間を稼げると考えたようだ。
 第32代米大統領、フランクリン・ルーズベルトが、軍と科学者を総動員して原爆製造の「マンハッタン計画」をスタートさせたのは42年8月だった。当初はドイツへの使用を想定していたが、44年9月には日本に変更した。

 秘密主義者のルーズベルトは、副大統領だったトルーマンにも計画を教えなかった。45年4月12日にルーズベルトが死亡し、後を継いだトルーマンはスティムソンから計画を聞かされ、さぞ驚いたに違いない。

 すでに原爆は完成間近で4月27日の目標検討委員会の第1回会合では、日本の17都市を「研究対象」に選定した。5月11日の第2回会合では、京都、広島、横浜、小倉の4カ所を目標に選んだ。原爆の効果を正確に測定するため、4都市への空襲は禁止された。

 7月に入ると、B29爆撃機による投下訓練が始まり、ファットマンとほぼ同一形状、同一重量の爆弾「パンプキン」が目標都市周辺に次々と投下された。

 米公文書によると、米軍内で広島、小倉、新潟、長崎のいずれかに原爆を投じるよう命令書が出たのは7月25日だった。ということは、トルーマンはポツダム宣言発表前に原爆投下を命じていたことになる。
 トルーマンはなぜこれほど日本への原爆投下にこだわったのか。

 ポツダム宣言発表時、海軍の戦艦、空母など主力部隊は壊滅に近く、制空権、制海権はほぼ失われ、日本陸海軍は戦闘機による特攻などでわずかな抵抗を続けているにすぎなかった。

 B29爆撃機はほぼ連日空襲を続け、ほとんどの都市は焼け野原と化し、首都・東京も市街地の5割強が焼失。原爆を使用せずとも降伏は時間の問題だった。

 米政府内でもスティムソンやグルー、海軍長官のジェームズ・フォレスタル、陸軍参謀総長のジョージ・マーシャルらは原爆投下に反対していた。太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツや、太平洋陸軍総司令官のダグラス・マッカーサーは原爆の存在さえ知らなかった。トルーマンに同調したのは国務長官のジェームズ・バーンズだけといってもよい。

 それでもトルーマンを原爆投下に突き進ませたのは、ルーズベルトが45年2月にスターリンと結んだヤルタ密約の存在が大きい。

 スターリンは、ルーズベルトに対し、ドイツ降伏後3カ月以内にソ連が日ソ中立条約を破棄して対日参戦に踏み切ることを約束。見返りとして南樺太や千島列島の引き渡しや、満州の鉄道・港湾権益を要求した。
 そもそも日米が開戦に至る対立は満州・中国での権益争いに始まったことを考えると本末転倒だといえるが、すでに病が悪化していたルーズベルトはスターリンにまんまと乗せられた。

 トルーマンは大統領就任後、金庫から出てきたヤルタ密約を見て驚愕したという。ポーランドやドイツの統治をめぐってもソ連との対立はすでに顕在化していた。トルーマンは「戦後のソ連との覇権争いで優位に立つには原爆しかない」と考えたとみられる。

 こうして8月6日、広島に原爆が投下された。慌てたソ連は8日に日本に宣戦布告。9日には長崎に原爆が投下され、2都市で計21万人の尊い命が失われた。日本政府は、昭和天皇の聖断により、14日深夜にポツダム宣言を受諾した。

 広島への原爆投下をマニラで知ったマッカーサーは記者にこう語った。
 「これであらゆる戦争は終わった。戦争はもはや勇気や判断にかかわる問題ではなくなり、科学者の手に委ねられた。もう戦争は起こらないのだ」

 トルーマンは死ぬまで自らの行為を正当化し続けた。58年2月、米テレビで原爆投下についてこう語った。
「日本への上陸作戦には150万人の兵力が必要で25万人が戦死すると推定された。だから強力な新兵器を使用するのに何ら良心の呵責を感じなかった。夜もぐっすり眠れた…」
      ×      ×     ×
※この記事は、好評発売中の「国会議員に読ませたい敗戦秘話」(産経新聞出版)から抜粋しました。 「敗戦」という国家存亡の危機から復興し、国際社会で名誉ある地位を築くまでになった日本。その重要な節目節目で歴史の歯車を回し続けたのは、声高に無責任な主張を繰り返す人々ではなく、ごく少数のリアリストたちでした。彼らが東アジアのちっぽけな島国の独立自尊を保つべく奔走してきた事実を埋もれさせてなりません。
 安倍晋三首相は、憲法改正について「私の在任中に成し遂げたい」と明言しています。つまり在任中に衆参両院で改憲勢力が3分の2以上を占める情勢になれば、米軍占領下の1947年5月に施行以来、指一本触れることができなかった「平和憲法」の是非を国民一人一人に問いたいと考えているわけです。

 決断の時は迫りつつあります。国会議員が与野党を問わず、戦後の真の歴史を知らずして、その時を迎えるとしたら、日本国民としてこれほど不幸なことはありません。

 国会議員よ、歴史から目をそむけまい。本書にはこんなメッセージがこめられています。

◆「お富さん」で大学生

渡部 亮次郎



まだカラオケなどない昭和29(1954)年、「お富さん」の明るく小気味よいテンポは、手拍子だけで歌えるということもあって、会社帰りの一杯飲み屋、酒宴の席では必ずといっていいほど歌われ、「宴会ソング」の定番として広く庶民に浸透していった。

その勢いは子ども達にも波及し、「♪いきなくろべえ〜 みこしのまあ〜つに」と意味もわからず歌っていたものだ。

このことは、その歌詞の内容から「子どもが歌うには問題がある」として、教育委員会やPTAから異論があがり、小学生が歌う事を禁止する自治体も出るなどちょっとした社会問題にまで発展した。

もっとも、子ども達にとっては意味などわかるはずもなく、いや、大人でさえも、この歌舞伎を題材に求めた歌は歌舞伎ファンでない限りは理解できなかった。

とにもかくにも、作曲者の渡久地(とくち)政信氏は「みんなで楽しく飲んで歌える歌をつくりたかった」と述懐しているので、その狙いは見事的中したのである。

この年の4月、上京して大学入学。なかなか下宿が見つからず、親戚で不愉快な思いをしたもの。遂に絶縁状態となって今日に至っている。冨さんは苦い歌である。

お富さん

歌 春日 八郎
作詩 山崎 正  作曲 渡久地政信

昭和29年

1 粋な黒塀 見越しの松に
  仇な姿の 洗い髪
  死んだ筈だよ お富さん
  生きていたとは お釈迦さまでも
  知らぬ仏の お富さん
  エーサオー 玄治店(げんやだな)


2 過ぎた昔を 恨むじゃないが
  風も沁みるよ 傷の跡
  久しぶりだな お富さん
  今じゃ呼び名も 切られの与三(よさ)よ
  これで一分じゃ お富さん
  エーサオー すまされめえ


3 かけちゃいけない 他人の花に
  情かけたが 身のさだめ
  愚痴はよそうぜ お富さん
  せめて今夜は さしつさされつ
  飲んで明かそよ お富さん
  エーサオー 茶わん酒


4 逢えばなつかし 語るも夢さ
  誰が弾くやら 明烏(あけがらす)
  ついてくる気か お富さん
  命みじかく 渡る浮世は
  雨もつらいぜ お富さん
  エーサオー 地獄雨

「お富さん」は春日八郎のために作られた歌ではない。作曲者である渡久地政信はこの曲を岡晴夫のために用意していた。ところがその岡晴夫はキングとの専属契約を解消してフリーになってしまったのだ。そこで社内で代替歌手を検討した結果、春日八郎でということに決まった。

春日八郎は苦労の末、ようやく2年前に「赤いランプの終列車」をヒットさせ、その後もそこそこの売上げを上げてはいたものの、まだ社内では絶対的な立場ではない、いわば新人歌手同様の扱いであった。

急遽、自分に回ってきた「お富さん」はもともとは他人の歌。しかも普段馴染のない歌舞伎がテーマということもあって、とまどいは隠せなかったが、逆にそれが功を奏したのか、変な思い入れもなく、肩の力が抜けたその歌声は軽快なテンポと妙に噛み合っていた。

テスト盤の社内での評価は上々で、手応えを感じ取ったキングはキャンペーンにも力を入れた。代替歌手ということを逆手にとって、歌手名と曲名を発表しないまま、ラジオや街頭宣伝をするなどのアイデアで徐々にリスナーの興味を引いていったのだ。

当時の世相ともマッチて空前の大ヒット。下積み生活の長かった春日八郎はこの時すでに29歳、だが、回ってきたお鉢は運まで運んできたのであろうか、この曲によって押しも押されもせぬ人気歌手となった春日八郎は、その後もヒットを続け、昭和を代表する歌手となったのはご存じの通り。

この歌の歌詞は、歌舞伎の有名な演目である「与話情浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし)の一場面「源氏店」(げんじだな)から題材を得ている。それまでの春日八郎の歌の傾向からすれば、いや、というより、バラエティに富んだ流行歌が数多く存在した歌謡曲全体を見渡しても非常に珍しいテーマであった。

この芝居で最大の見せ場が「源氏店」の場で、他人の妾であったお富さんと許されぬ恋に落ちた与三郎は相手の男にばれてメッタ切りにあい、お富さんは海に落ちた。九死に一生を得た与三郎は3年後、松の木が見える黒塗りの塀の家で死んだはずのお富さんと出会うというシーン。

そこで与三郎の「しがねえ恋の情けが仇」の名セリフが出てくるわけだが、山崎正の歌詞はこの部分を実にうまくメロディにはめ込んでいる。

尚、歌舞伎では「源氏店」(げんじだな)となっているが、これは実際にあった江戸の地名「玄治店」(げんやだな)(現在の東京都中央区日本橋人形町あたり)の漢字読みに当字をしたものだ。

前年の昭和28年あたりから、久保幸江、榎本美佐江などによって芽を吹きはじめていた「お座敷歌謡」「宴会ソング」は、この「お富さん」によって見事に昇華し、後に登場する三波春夫の「チャンチキおけさ」、五月みどりの「一週間に十日来い」などに結実するのである。

渡久地政信は奄美大島の出身。あのイントロの独特のリズムは琉球音楽を取り入れたもの。永く愛され続けた「お富さん」は、そのアイデア溢れるオリジナリティで春日八郎の歌として定着し、スタンダードとしてリズムとサウンドは残っても、今、あえて歌舞伎を意識する人は少ない
だろう。

春日八郎

●本名:渡部 実

●大正13年10月9日生まれ 1991年10月22日没
●福島県・会津出身

旧制中学を中退し13歳で歌手を目指して上京。東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)声楽科に学び、新宿「ムーラン・ルージュ」などでアルバイトしながら歌手活動を始めたが、太平洋戦争に突入。兵役を経て戦後再び上京。

長い長い苦闘の末に昭和23年、キングレコード新人歌謡コンクールに合格。作曲家、江口夜詩に師事し、昭和24年正式にキングレコードの専属歌手となる。

最初の芸名は歌川俊。ようやくプロ歌手としてスタートしたものの、先輩歌手の前座ばかり、相変らず鳴かず飛ばずの下積み暮しが続き、いたずらに年月だけが過ぎていくだけかに思えた昭和27年、「赤いランプの終列車」がヒットした。

「雨降る街角」「街の灯台」とスマッシュ・ヒットを続け、昭和29年の「お富さん」の大ヒットで人気が定着。三橋美智也、若原一郎とならんで「キング三人衆」と呼ばれた。続く昭和30年には「別れの一本杉」がまたまた大ヒットしてその地位はゆるぎないものとなった。

玄治店は幕府の典医であった岡本玄冶法印(おかもとげんやほういん)の屋敷の事で、現在の東京都中央区日本橋人形町あたり、そのことからこの周辺を玄治店(げんやだな)と呼ぶようになった。なお、この地域には芝居関係者も多く住んでいた。人形町3丁目交差点には「玄治店由来碑」が建立されている。

◆蕪村生誕地はいま淀川の河底

毛馬 一三



生誕日は分かりませんが、与謝蕪村が生まれたのは江戸時代の享保元年の1716年で、300年前の今年です。その与謝蕪村生れ育った家は、一体何処に在ったのか、これも正確には知られておりません。

確かに、大阪毛馬の淀川堤防の上に「蕪村生誕地」と書いた「記念碑」が建立されてはいます。しかし「蕪村生誕し幼少を過ごした生家」は、ここではないのです。

実は「蕪村生家」は、この堤防から眼下に見える「淀川の川底」に在ったのです。なぜ淀川の川底にあったのか、これには実は明治政府の「淀川河川改修工事」に係っています。

徳川時代の淀川は、よく手入れが行われていましたが、明治維新後は中々施されていなかったのです。ところが、明治18年に淀川上流の枚方で大水害が起き、下流の大阪で大被害を受けたことをきっかけに、明治政府がやっと本格的淀川改修に乗り出しました。

その際明治政府は、改修工事に当り単なる災害防止ためだけではなく、大阪湾から大型蒸気船を京都伏見まで通わ航行による「経済効果」などの多目的工事に専念することを決めました。そのために淀川の河川周辺の陸地を埋め立て、それまでの小さな淀川を 大きな河川にする大改修を立案したのです。

これに伴い、旧淀川沿いにあった「蕪村生家」地域は、埋め立ての対象となり、すべて「河川改修工事」によって川底に埋められて仕舞いました。これについては追々。

さて、明治政府は関西の大型河川・淀川を大改修するため、オランダから招いた河川設計者・デ・レーケとフランス留学から帰国していた設計士沖野忠雄とを合わせ、「淀川大改修」の設計を依頼しました。(→リンク先の写真参照)。

明治政府の依頼を受けた2人は、「大改修工事」の設計を創り上げ、明治29年から工事を開始しました。

とにかくこの大型改修設計は、大阪湾に京都の宇治川や桂川、奈良からの木津川を中津川に合流させ、一気に淀川として大阪湾に繫ぐ、巨大な設計でした。そうすれば貨物蒸気船を大阪湾と京都を結んで航行させることが出来、逆に京都・枚方などで大水害が起きた場合でも大量の水量をさらりと、大阪湾に流すことが出来るのです。二本立ての「効果狙い設計」です。

勿論、上流の災害で流出してくる「土砂」が、大阪に被害を与えないような「毛馬閘門」設計も創りました。

これが淀川から大阪市内に分岐させる「毛馬閘門」の設計主旨だったのです。ここから分岐した河川は「大川」と名付けられ、「水害に伴う上流からの土砂」の回避は実現し、大阪の上流からの水害から今日まで護られているのです。

このように2人による設計書は、世界の河川工事技術水準に準じたもので、明治政府が施工した「河川大改修工事」としては全国的に見ても画期的なものでした。同工事は、明治43年に完成したのです。

ここから本題。この「河川大改修工事」によって、与謝蕪村が生まれ、幼少を過ごした大阪市都島区毛馬町(摂津国東成郡毛馬村)は、跡形もなく淀川に埋没し、深い川底に沈んで仕舞いました。

役所の指示でしたから、当時の住民は仕方なくそれに従ったようですが、川幅も660b(従来の10数倍)となり、浅かった河の深さも5bの巨大河川に変容したのです。

この住居埋没の強制工事で、前述の如く、蕪村生家(庄屋?)は勿論、お寺、菜の花畑、毛馬胡瓜畑跡などの位置も皆目全くわかりません。今は淀川の毛馬閘門近郊にある蕪村記念碑から、淀川の眼下に見える川底を想起すだけで、寂しい限りです。

淀川近郊の蕪村生誕家(庄屋?)の後継者の方といわれる家を訪ね、「家歴」を伺いましたが、結局、「お寺も埋没し「過去帳」もないために、蕪村生誕地は「川底」にあると信じているだけ」という答えが返って来ただけでした。

「蕪村生誕300年記念の年」は2016年、今年に迎えました。どうか大阪毛馬町の「蕪村公園」と通り過ぎて、「毛馬閘門」と「蕪村記念碑」ある淀川堤防から下に流れる「淀川」を見ながら、その河底に蕪村生誕地があることを想いつつ、蕪村が幼少期をここで過ごしたのかと、眺めて頂きたく存じます。

2016年05月29日

◆原爆を正当化する「神話」

平井 修一



産経5/27「オバマ大統領広島演説」から。

<71年前の雲一つない明るい朝、空から死が舞い降り、世界は変わった。
閃光と火柱が都市を破壊し、人類は自ら破壊する手段を手にすることを示
した。

われわれはなぜ広島に来たのか。そう遠くない過去に解き放たれた残虐な
力に思いをめぐらせるためだ。われわれは命を落とした10万人を超える日
本の男女、子供、何千人もの朝鮮半島出身者、十数人の米国人捕虜を悼む。

無言の泣き声に耳を澄ませる。われわれはあの恐ろしい戦争やその前の戦
争、その後に起きた戦争で殺された全ての罪なき人々に思いをはせる。

単なる言葉でその苦しみを表すことはできない。しかし、われわれは歴史
を直視し、そのような苦しみを繰り返さないために何をしなければならな
いかを問う共通の責任がある。

いつの日か、生き証人たちの声は聞こえなくなるだろう。しかし1945年8
月6日の朝の記憶は決して風化させてはならない。記憶はわれわれの想像
力を養い、われわれを変えさせてくれる。

広島と長崎の将来は、核戦争の夜明けとしてでなく、道徳的な目覚めの契
機の場として知られるようになるだろう。そうした未来をわれわれは選び
取る>(以上)

広島・長崎はWW2での唯一の無差別大量虐殺、ホロコーストだった。ト
ルーマンは自信たっぷり、意気軒高だった。「アメリカ大統領演説:1945
年8月6日ハリー・S・トルーマン(枯葉訳)」から。

<16時間前、アメリカの航空機が広島という日本軍の重要拠点に一発の爆
弾を投下した。この爆弾の威力はTNT二万トンを上回るものだ。これまで
の戦争の歴史において使用された最大の爆弾、イギリスの「グランドスラ
ム」と比べても、二千倍の破壊力がある。

日本はこの戦争を、パールハーバーの空襲からはじめた。かれらはすでに
何倍もの報いを受けてきている。であるのに、いまだ戦争は終わらない。

この爆弾により、われわれの軍隊が有する大きくなりゆく戦力を補うもの
として、新しく、革命的な規模の破壊を、いま、付け足したのだ。現行の
ものはすでに生産体制に入っている上、さらに強力なものの開発も行われ
ている。

つまり原子爆弾だ。宇宙の根源的な力を利用したものである。太陽の力の
源となる力、それが、極東に戦闘をもたらした者たちの上に解き放たれた
のだ。

1939年以前から、科学者たちの間では原子力の利用が理論的には可能とさ
れてきた。が、その現実的なやりかたはだれにも分からなかった。1942年
までには状況が変わり、われわれの承知のとおり、ドイツは、軍事的エネ
ルギーとして原子力を登用する方法を精力的に探していた。それに、かれ
らは全世界を奴隷化するという希望をかけたのだ。

ドイツ人たちがV−1やV−2を手にしたときはすでに手遅れだったこと、及
び、原子爆弾に至ってはまったく手にすることができなかったこと。われ
われはこの点、神の思し召しに感謝すべきかもしれない・・・>

「革命的な規模の破壊」による「報復」を喜んでいる。下品な言い方にす
れば「ジャップめ、ざまーみろ」あたりだ。

Peter Van Buren氏の論考「広島『原爆神話』、米国はどう海外攻撃を正
当化したか」から。

氏は、米国務省に24年間勤務。著書にイラク再建の失策を取り上げた「We
Meant Well: How I Helped Lose the Battle for the Hearts and Minds
of the Iraqi People」などがある。

<[5/25ロイター]オバマ米大統領が、現役の米大統領として初めて、世
界初の原爆被爆地となった広島の平和記念碑を訪問する。写真映えのする
訪問となりそうだが、この訪問は、この地が持つ真の歴史的な意味への認
識を避けるものとなるかもしれない。

ケリー国務長官が4月に平和記念碑を訪問し、それ以前にも2人の米国駐日
大使が訪れているが、彼ら同様、オバマ大統領も原爆投下をめぐる主要な
問題には触れない方針だ。ローズ大統領副補佐官(国家安全保障担当)は
以前、大統領は「原爆投下の決定について立ち返ることはない」と述べて
いる。

まれな例外を除き、原爆投下が第2次世界大戦を終結されるために必要
だったかどうかについての深い議論は、米学界の安全圏内でのみ行われて
いる。

つまり、原爆投下がなくとも地上侵攻は避けられたのか。さらなる外交努
力によって、2つの都市を破壊することなく、同じ目的を達成することが
できたのか。無人島での原爆実験で日本人を説得することはできなかった
か。広島原爆投下の2日後、そして、長崎での投下1日前に、歴史上の偶然
によって、旧ソ連が太平洋戦争に参戦したが、日本の降伏は主にこのこと
で引き起こされたものではなかったか。

しかし、議論が避けられてきたのは、その決定にまつわる歴史そのものだ
けではない。破壊行為の向こう側に横たわるのは、原爆の神話である。つ
まり、実際に起きなかったことを大衆が記憶するという戦後の創造物だ。

世間一般の意識に浸透している原爆神話は、簡単に言えば、原爆投下は復
讐や悪意によるものではなく、軍事的な必要性からしぶしぶ決定されたと
いうものだ。その結果、原爆投下は、道徳性についての深い自己反省や国
家的な考察を呼び起こすことはなかった。

「神話」という言葉の使用は適切である。

当時のトルーマン大統領は1945年の広島への原爆投下を伝える演説で、復
讐と、米国だけが持つ新しくて並外れた力を強調。軍事的に必要だったと
いう議論はその後、原爆投下を擁護する1947年の論文によって生まれた。

この論文は、ヘンリー・スティムソン元陸軍長官の名前によって執筆され
たが、実際は、ベトナム戦争の政策立案者のマクジョージ・バンディと原
爆建造に関わった科学者のジェームズ・コナントが草稿を用意した。コナ
ントは、冷戦開始時に発表された論文の目的について、「未来に向かって
多くを準備する前に、過去を整理する必要がある」と述べている。

スティムソンの論文は、ジャーナリストのジョン・ハーシーが執筆した広
島で被爆した人々の惨状を描いた記事に対する回答だった。この記事は
1946年にニューヨーカー誌に初掲載され、後に出版された。

戦時中の検閲のため、米国人は原爆戦争がもたらした地上の真実をほとん
ど知らずにいた。

この記事が人々に与えた衝撃は、米政府が公式な回答をせざるを得なくな
るほど大きいものだった。

自らを良識ある人々とみなすアメリカ人の一般感覚は、米国の名の下で行
われた過去と折り合いをつける必要があった。スティムソンの論文は文字
通り、広島の神話誕生の瞬間だった。

原爆投下には道徳上の問題はなく、それゆえに考察も自己反省もいらない
との国家的な信仰は、今日まで繰り返されているものである。「そして、
長崎も」と、長崎への原爆投下を歴史的な補足として軽率に扱う方法もそ
のことを痛感させる。

新たな「パールハーバー」とも称される、9・11の米同時多発攻撃によっ
て、たとえ破壊的で不完全であっても、殺害によって人々の命を守るとい
う道徳的要請に応じた一連の不道徳的な行為が始まった。

米国が下した戦争や拷問、容疑者の他国への引き渡し、さらには無期限拘
留などの決定は、性善な者が性悪な者と向き合う上で、不快だが必要な行
動だと、多くの人々に受け止められている。

広島は「自分たちがやるなら、正しい」という圧倒的な国家的概念を始動
させた。

こうしたことを踏まえれば、広島での破壊や、イラクのアブグレイブ刑務
所内で起きた「衝撃と畏怖」の恐怖から距離を置くことは、単に程度の差
である。

こうした神話は、たとえわずかな数でも民間人が痛ましく斬首されたこと
を受けて、世界で最も強力な国が被害国として、戦争に突入することを可
能にした。

一方で、ドローンが結婚式に参加していた子供たちを殺害しても、それは
不運ではあるが、国際的なテロリズムを打ち負かすという目的達成のため
の単なる巻き添え被害だとみなされている。

それは、単に誰がナイフを持っていたかによって暴力行為を分析し、一部
に対し道徳的な正当性を認める気味の悪い計算である。

実際、私たちはアフガニスタン人の一部を殺害することによって、アフガ
ニスタンの国民に善い行いを施していると考えているかもしれない。それ
は第2次世界大戦を終わらせるため、日本本土への地上侵攻が実施されて
いたならば、命を無くしたであろう何万人のために善い行いをしたと信じ
ていることと同じである。

「テロとの戦い」をめぐる議論はほとんど起きない。なぜなら議論そのも
のが多分に不必要だからだ。

広島の神話は、ご都合主義の幻想が道徳的懸念を拭い去ってしまうことを
物語っている。それは私たちの良心の中に巧妙にしまい込まれ、次はどこ
を攻撃するか考えることを残すのみだ。

日本もまた、戦時中の自身の戦争行為を深く検証できないという罪を犯し
ている。それでも、第2次世界大戦中とそれ以降の驚くべき残虐行為の
数々と比較しても、世界で唯一となる核兵器使用は、不名誉なものとして
なおも重大な位置を占めている。

犠牲となった多数の罪のない民間人を日本政府に見せて降伏に追い込むこ
と(1945年当時はこの計画がうまく行くかは誰にも分からなかったが)。
そして、さらに多くの爆弾を投下すると脅し、無防備な都市に対する将来
的な連続攻撃に対して、日本という国を人質に取ること。これらはかつて
見たことがないほどの残酷さを物語っている。

オバマ大統領が、こうした不幸な人命の損失の理由について、それらがあ
たかも自然災害だったかのように、考察することなく広島を訪れること
は、過去71年間、どの米国大統領もこの被害都市を訪問することの重要性
を特に感じていなかった点と、悲劇的に合致している。

20世紀の最も重大な出来事の1つに対する米国の自己反省の欠如は、21世
紀への影響も伴って、今も続いている>(以上)

広島・長崎の悲惨な実態が漏れ始めると、後付けで「これ以上の米兵の損
害を防ぐために投下した」という原爆神話を捏造したのだ。神話創造。そ
れは米国人にとって口当たりがいいから、瞬く間に広まり、今ではそれを
否定すると恐らく「ウソツキ野郎」と罵られ追放されるに違いない。

「日本もまた、戦時中の自身の戦争行為を深く検証できないという罪を犯
している」と論者は言うが、日米戦争を仕掛けたのが米国であり、日本の
罪は「負けたこと」だけであることを論者は知らない。

日米のあいだに残る戦争のわだかまりは永遠に消えないが、そういうもの
なのだろう。しかしバックミラーを見ていたら事故るだけだ。

我にも正義、彼にも正義。戦争はルールのない正義と正義のぶつかり合
い。しかし「戦時にあっては敵、平時にあっては友」だ。昔のことは棚上
げにして、前に進むしかない。(2016/5/28)


◆憲法前文の精神に浸る人々の幻想

櫻井よし子



『週刊新潮』 2016年5月26日号 日本ルネッサンス 第705回

5月13日、米国防総省が「中国の軍事動向」に関する年次報告書を発表し
た。報告書
は、中国は共産党創設100周年の2021年までに「適度に豊かな社会」を目
指し、中華
人民共和国創立100周年の49年までに「近代的社会主義国となり、繁栄す
る強国、民
主主義的、文化的で高度に進んだ和を基調とする国を作る」ことを目指し
ていると報
告した。
 
しかし、習近平政権は毛沢東時代に逆戻りしたかのような凄まじい言論弾
圧を行って
いる。前政権の政治犯は10年間で66人だったが、習政権は発足以来3年余
りですでに
600人もの政治犯を拘束、拷問している。和を基調とする国作りは絵空事
である。
 
年次報告はまた中国の海軍力増強に関して強い警戒感も示した。中国はソ
連崩壊後、
2度にわたって軍改革を断行、江沢民政権は93年、湾岸戦争でアメリカの
ハイテク兵
器を駆使した戦い振りに驚嘆して、ハイテク化に乗り出した。
 
胡錦濤政権は04年に、通信手段を高度化し全軍が情報を共有して効率的な
展開を可能
にする情報化戦争に向けた改革に踏み切った。
 
2月の大規模な機構改革によって中国人民解放軍(PLA)は新しい段階
に入った
が、それによって中国共産党(CCP)のPLAに対する掌握力が強ま
り、中国大陸
から離れた遠方地域での短期集中型戦争に勝利する統合運用能力は高まる
と見られ
る。
 
米国防総省の報告からわが国に関する記述を拾えば、中国は尖閣諸島問題
で対日摩擦
を引き起こすとしても、アメリカを決定的に怒らせないレベルにとどめつ
つ、自国の
利益を拡大していく戦術だとの分析がある。領土要求を満たすために、中
国は厳しい
緊張の中で米国を刺激しすぎることなく、かといって諦めることもなく、
戦いを続け
ているというのだ。

「戦えば必ず勝つ軍隊」
 
中国の深謀遠慮について、アメリカ側は彼らはアメリカと同じような軍隊
を創るつも
りはないと分析する。アメリカ海軍大学教授のトシ・ヨシハラ氏とジェイ
ムズ・R・
ホームズ氏の共著『太平洋の赤い星』(山形浩生訳、バジリコ)の指摘が
興味深い。
中国人は制海権を手にするために、大日本帝国海軍を研究しているという
のだ。その
心は小であっても大を制し得るということだ。
 
習主席は、PLAは「戦えば必ず勝つ軍隊」でなければならないと檄を飛
ばす。勝つ
ためには軍艦をはじめとする装備が重要だが、勝利するか否かに決定的な
意味を持つ
のは軍人の質である。
 
PLAの力量については、中越国境紛争以来30年以上も大規模な戦争を
戦っていない
こと、中国海軍に至っては一度も実戦経験がないことなどが注目され、彼
らの実力は
低く評価されがちである。ならば日本の足跡はどう説明できるのかとヨシ
ハラ氏らは
問うている。
 
明治維新まで日本には海軍さえなかった。それが明治27年には、物量で
劣っていたに
も拘わらず、清朝の艦隊に圧勝した。10年後の日露戦争では、さらに大規
模海軍を有
していたロシアにも勝利した。
 
その歴史をいま中国人が振り返っている。習主席の唱える「中国の夢」は
史上最大規
模を誇る清朝時代の版図を取り戻すことだ。そのために清朝を打ち破った
大日本帝国
海軍の強さを学びとろうとする中国人を軽く見てはならないだろう。
 
軍事的強さの研究だけでなく、彼らは国際社会の行方を先取りしようとし
ている。中
国は昨年11月3日に「強軍目標」を発表し、「軍事闘争準備や新型作戦力
建設を強化
し、国防・軍隊改革を加速させる」「海洋権益を守り、海洋強国を構築す
る」「深
海、極地、宇宙、サイバーなど新領域の国際ルール制定に積極的に関与す
る」と明ら
かにした。
 
国境が未確定の海や宇宙空間において中国に有利な条件を確定すること
が、近未来の
中国の力を高めると、彼らは理解し、行動しているのである。中国問題に
詳しい拓殖
大学教授の富坂聰氏が語る。

「中国は一旦掲げた旗は絶対に降ろさないでしょう。台湾も南シナ海も東
シナ海も尖
閣も諦めないと思います」
 
中国の要求は、中国の主張を国際社会が丸ごと受け入れることである。南
シナ海問題
を国際問題にしてはならないと彼らは言うが、真意は、彼らが核心的利益
と定めたも
のは、そのまま受け入れよ、ということだ。
 
日本をはじめとする自由諸国にとって、それは受け入れ難い帝国主義的要
求である。
それでも中国は主張を押し通すために死力を尽くす。ASEAN諸国を南
シナ海沿岸
国とカンボジア、ミャンマー、タイなどの非沿岸国に分断して非沿岸国組
を中国の味
方に引き入れようとする。フィリピンのアキノ大統領が中国の行動を常設
仲裁裁判所
に提訴したが、中国は国際裁判自体を認めないと言う。
 
国際法無視の蛮行を押し通そうとする不条理の前で、しかし、国際社会の
中国包囲網
とでも呼ぶべき体制を崩しかねない不確定要素が生じてきた。中国ともう
まくやれる
かもしれないと言うアメリカのドナルド・トランプ氏や、祖父は中国人
だった、中国
と相互利益のために協力するなどと述べるフィリピンの次期大統領、ロド
リゴ・ドゥ
テルテ氏らの存在である。
 
中国の脅威は日本にとりわけ厳しく向かってくる可能性がある。だが、日
本は殆んど
対応できないのではないかと思わせられる驚くべき世論調査があった。

米軍に守ってもらえばよい

「AERA」(5月16日号)が11都府県の700人に行った対面調査結果であ
る。「自衛
のためなら戦争を認めるか」「自衛のためでも認めないか」との問いに、
女性はどの
世代も全て、認めないと回答していた。
 
それでは「他国や武装組織の日本攻撃にはどうすべきか」と問うと、「日
本には攻め
てこないと思う」「外交の力で攻撃されないようにすればよい」「日本は
戦争しない
で米軍に戦ってもらえばいい」などの答えが並んだのだ。
 
このように答えた人たちは、中国が日本を念頭に軍事的脅威を高めている
との米国防
総省の分析や、南シナ海における中国の蛮行に目をつぶるのだろうか。ア
メリカ人の
税金で日本を守るのは真っ平だと主張するトランプ氏と、氏を支える幾千
万人の米国
人に向かって「米軍に守ってもらえばよい」と本気で言えるのか。

「日本には攻めてこない」などと言う人は諸国民の公正と信義に縋るとい
う憲法前文
の精神に染まっているのであろう。いまどきこんな考えにどっぷり浸って
いれば、ト
ランプ氏やドゥテルテ氏同様、中国には歓迎されるであろうが、それは思
考停止以外
の何ものでもない。