2017年04月07日

◆名所旧跡めぐり 那須国造碑(栃木県大田原市)

石田 岳彦

 

さて、以前にもお話しましたが、日本人は「三大○○」というのが好きでして、「日本三景」、「日本三大がっかり名所」のようなメジャーなものから、「石の宝殿」の回で取り上げた「日本三奇」のようなマイナーなものまで、枚挙に暇がありません。

今回は、その中でもかなりマイナーかつマニアックな「日本三碑」の1つ那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)のお話をさせていただきます。
 
なお、今回の話は、私が司法修習を終えるころという、今から十年以上前の話であり、現状とはかなり異なっているところもあろうかと思いますので、現地に向かわれる際にはくれぐれも最新の情報をご確認ください。

日本三碑というのは、日本に古代から残る3つの代表的な石碑のことで、一般的には、宮城県多賀城跡の多賀城碑(重要文化財)、群馬県高崎市の多胡碑(特別史跡)、そして栃木県大田原市の那須国造碑(国宝)を指します。

ちなみに考古学や歴史学ではなく、書道史上の概念だそうです。書道的に見て、素晴らしい字ということなのでしょうか。

なお、どうでもよいことですが、多賀城碑は重要文化財、那須国造碑は国宝という「物」扱いなのに、多胡碑だけ特別史跡という「場所」扱いなのは何故でしょうか。石碑が突っ立っていて、その周囲が覆い屋で覆われているという構造まで一緒なわけですが。

司法試験に合格した後の司法修習の期間が1年間になった今では考え難いことですが、修習期間が2年間だった我々52期修習生までは、二回試験(司法修習の最後、法律家としての資格を得るために受ける最終試験のことです。)の後、結果発表までの間、2週間近い「春休み」が存在し、その間を利用して長期の海外旅行に行く修習生も少なくありませんでした。

金の無い私は、大阪に就職が決まっていたこともあり、「司法研修所を宿代わりに関東地方の各地を安く見て廻る最後のチャンス」と考え、この期間を利用し、関東の方々を廻ることにしました。

その目的地の1つが那須国造碑でした。
 
那須塩原駅で東北新幹線を降り(同駅にとまる列車自体が結構少なかったと記憶しています。)、バス停に行ったところ、次のバスは2時間後。泣く泣くタクシーに乗り込み(5000円以上かかりました。)、那須国造碑のある笠石神社へ。

那須国造碑は笠石神社のご神体なのです。

笠石神社では、那須国造碑を予約制で公開しており、当然、私も予約したうえで赴いたわけですが、私は不安を感じていました。

というのも、ご神体というものは基本的に非公開であり(山がご神体といった場合はまた話が別ですが、ご神像、剣、鏡等のような、本殿の中に収まるようなサイズのものの場合には、非公開がほとんどのようです。)、ご神体が国宝に指定されているからといって、それを見せて欲しいという見学希望者の存在は、神社側にとって、実のところ迷惑なのではないだろうか、招かれざる客ではなかろうかと、小心者の私は、考えても仕方のないことをあれこれと考えてしまうのです。

それでも「あちらにとって迷惑でも、やはり見たいものを見せてくれるなら見たい」という結論になるのが、文化財マニアの業というものでしょうか。

タクシーを降り、社務所に向かいました。笠石神社は、道路に沿った畑の中、そこだけ林になった狭い境内の中に、いかにも「村の鎮守の神様」という雰囲気で鎮座されていました。
社務所の前には、何故かパイプ椅子が2列ほど並べられており、簡易な屋根までついています。

出てこられた神主さんから渡されたのは那須国造碑と笠石神社に関する詳細な資料一式。もしかして「見学者大歓迎」ですか。早速、神主さんからのレクチャーが始まります。参拝客は私だけです。

神主さんのお話によると、那須国造碑は西暦700年ころ、那須の国造(大和朝廷の支配下に入った地方豪族に与えられた称号)で那須郡の高位の役人になった人物を、その亡き後、息子らが顕彰するために建てた石碑だったそうです。石碑の上に笠状の石が乗せられており、そのため「笠石」さまと呼ばれたとのこと。

もっとも、土台となった石が小さく、バランスが悪かったためか、建立されて、それほど経たないうちに倒れてしまいましたが、その際、碑面が下になったため、碑文が保存されたそうです。

その後、何故か「祟り石」という評判が立ってしまい、数百年間にわたり、放置されていたところ、江戸時代になって円順という旅の僧侶(物好きだったのでしょう)が笠石様を調べて碑文の存在に気付き、それを在郷の学者(郷土史家の走りというものでしょうか。)が本にしました。

そこに現れたのが、徳川光圀公、いわゆる水戸黄門様ですね。自ら大日本史という大歴史書の編纂作業に着手するほどの歴史好きだった黄門様は、笠石様について書かれた書物を献上され(言い忘れましたが、那須国造碑の所在地は水戸藩領でした。)、那須国造碑に強い興味を持ちます。

早速、水戸藩の学者に碑文の解読を命じるとともに、倒れていた碑を建て直し(土台の石をより大きなものにし、元の土台石をその中に収めたそうです。)、これをご神体とした笠石神社を建立しました。

神社のご神体という形をとったのは、「文化財の保護」という概念のない当時において、那須国造碑を永続的に保管するという目的を達成するためには、それが一番簡便であったということでしょう。都合のよいことに、笠石様として既に一定の宗教的権威をもっていましたし。

また、このような笠石神社の由来を知れば、同神社が、ご神体であるはずの那須国造碑の公開に積極的なのも理解できます。

この神社は単なる神社ではなく、貴重な歴史的遺産の保存、研究者への公開をも使命とする文化的施設でもあったわけですから。

そして、黄門様は笠石神社の創建にとどまらず、近くにあった古墳を那須国造碑に顕彰された国造とその息子(建立者)のものではないかと考え、古墳を発掘させ、発掘品をその姿を絵画として記録したうえで、箱に入れて埋め戻させ、更に樹木を植えて古墳が崩れないように指示を出したそうです。

感動しました。江戸時代初期の人間が、文化財・遺跡の保護、遺跡の学術的発掘といった現在に通じる考えを既に持っていたということですね。
何と先進的な。さすがに黄門様です。全国を漫遊しているのがテレビ時代劇の作り話に過ぎないとしても、やはり偉大な人物でした。

感動を胸に抱きながら、神主さんに連れられて本殿へ。耐火性の、祠というよりも大き目の金庫という印象の本殿の扉を開くと、中に笠石様が鎮座していらっしゃいました。

碑面は説明で聞いたとおり、保存状態が良く、文字もはっきりと残っています。綺麗な整った形の字という印象です。

書道に詳しい人ならば、もう少し気の利いた表現で、「那須国造碑の味わい方」を説明することが可能なのでしょうが、当時の(おそらく現在も)私としては、この程度の感想がせいぜいでした。高校の書道の時間にもう少し真面目に授業を受けておくべきだったでしょうか。

とはいえ、1300年も昔の石碑がほぼ完全に近い形で現在に残っており、今、自分の前に立っているという事実はそれ自体、感慨を抱かせるものです。

この石碑を巡る黄門様の逸話を聞いた後となれば、尚更のこと。私と同じように、かつて黄門様もこの石碑に向かい、その碑文を一文字、一文字眺めたことでしょう。

(おそらく今も)公共交通機関が不便なので、自動車免許のある方ならば、駅からはレンタカーの利用が望ましいと思います。付近(というにはかなり離れていますが)には、九尾の狐伝説で有名な殺生石もありますので、時間があれば、そちらも御覧になられてください。

                     (弁護士)

◆おらゴム長と織田信長

渡部 亮次郎




「おら(俺の)ゴム長と織田信長」は親戚の秋田芸人大潟八郎の間違え節の一節。その伝で行けば敗戦直後に歌手(故人)の淡谷(あわや)のり子はどこか田舎で「ズロースの女王」と宣伝ビラに書かれたのは間違い節だ。

ズロース drawers 「広辞苑」女性用の下ばき。股間部をおおい、太もも丈のゆったりしたもの。

ブルース(blues)は、米国深南部でアフリカ系アメリカ人の間から発生した音楽のひとつ、またはその楽式。19世紀後半頃に米国深南部で黒人霊歌、フィールドハラー(労働歌)などから発展したものと言われている。

アコースティック・ギターの弾き語りを基本としたデルタ・ブルース、バンド形式に発展したシカゴ・ブルース、ロックと融合したブルース・ロックなど、時を経て多様な展開をしている。

しかし日本の場合「ブルース」というと、前記のブルースに影響を受けた淡谷のり子、青江三奈らに流れを発する、「哀しい雰囲気でムードのある歌謡曲」をさす場合の方が多い。

「別れのブルース」「伊勢佐木町ブルース」といったように、歌謡曲や演歌などでタイトルに「ブルース」がつく曲はおおむね、音楽的にはブルースとは別物である。

マイナーブルースに近い構成のものもあるが、メロディーの音階がブルーノートスケールではなく演歌ペンタトニックスケールなどの違いがある。

これらには歌詞が物悲しいことと、アレンジにサックスを多用しているという共通点しかない。

淡谷のり子が本邦初めてブルースと付く名の「流行歌」を歌ったのは昭和12年の春、ソプラノの声をわざと煙草で潰して唄った「別れのブルース」である。作詞藤浦洸で、作曲の服部良一に無理に頼まれて唄った。

窓を明ければ 港が見える メリケン波止場の 灯が見える
夜風 潮風 恋風のせて 今日の出船は どこへ行く
むせぶ心よ はかない恋よ
踊るブルースの 切なさよ

胸にいかりの 入れずみほって やくざに強い マドロスの
お国言葉は 違っていても 恋には弱い すすり泣き
二度と逢えない 心と心
踊るブルースの 切なさよ

この「別れのブルース」が中国戦線からヒットした。「別れのブルース」は横浜本牧のチャブ屋街をモチーフにし、バンドホテルを舞台にしている。チャブ屋とはいわゆる売春窟である。

淡谷のり子は以後、ブルースと付く何曲も唄い「ブルースの女王」と呼ばれた。

雨のブルース(1938年)
想い出のブルース(1938年)
東京ブルース(1939年)
満州ブルース(1940年)

戦後は

嘆きのブルース(1948年)
君忘れじのブルース(1948年)
遠い日のブルース(1963年)

ところがブルースをブルーズと濁って(正式に)発音したのは1回目の「別れの・・・」時だけで、なぜか以後はすべて濁らずに唄っている。

ブルースの本来の発音はブルーズで、作為的にbluezと綴られる事もある、と解説書にはあるのだから、日本のブルースはブルースでは無いというのは本当だろう。

本当のブルーズが日本では、1970年代にブームが起こった。 1971年、B.B.キングが初来日を果たす。 1973年にスリーピー・ジョン・エスティスの「スリーピー・ジョン・エスティスの伝説(The Legend of SleepyJohn Estes)」がオリコン・チャートに食い込む大ヒットとなる。

1974年、「第1回ブルース・フェスティバル」開催。同フェスティバルは第3回まで開催され、エスティスを始めロバート・ロックウッド・ジュニア&エイセズ、オーティス・ラッシュらの来日が実現した。

日本でも京都、大阪を中心にウェスト・ロード・ブルース・バンド、憂歌団など、ブルース・バンドが登場。日本の独自のブルース・シーンが形成されて行く。

日本のはブルースではないブルース。間違え節の落ちである。
参考:ウィキペディア  誰か昭和を思わざる 
http://www.geocities.jp/showahistory/music/singera01.html
(再掲)


◆いつまでも残る「教え」(前)

眞鍋 峰松
   


最近、マスコミに登場する方々を拝見していると、どうも物事を斜めに見て論じる人が多いように感じられてならない。多分、論じておられるご本人は、それが正しいと信じ切っておられるのだろう。 

これは何も最近になって起こった現象とは限らない事なのかも知れないが、まさにマスコミ好みの人種ということなのだろう。

例えば、靖国神社参拝問題についても、国のために尊い命を捧げた旧日本軍将兵の御霊に感謝の念を表すことは大事な筈だが、その方々はこれに対して、「中国・韓国の国民感情に配慮し外交関係・国益を考えるべし」とおっしゃる。それでは、どうするのか。

物事を斜めに見ると、その二本の線はそれぞれが独立した線の衝突の側面しか見えない。 

A級戦犯合祀の問題も含め、人により立場により色々な考え方があるのだろうが、私には真正面から考えると、この二つの命題はそもそも両立できないことではないと思える。 

歴史的な経緯があるにせよ、また諸外国から如何に言われようが、日本国にとっては本来一方が他方を排除したり、相容れない事柄ではないはずだ。 

それより戦後60年間以上もこれまで避けられてきた国内論議の決着の方が先決だろう、と思える。だからこそ、外交面では未来志向型の解決しかないのだろうという気がする。
   
過去を振り返ると、私の学校時代の教員にも、物事を斜めに見る性癖のある人達が結構多かった。

とりわけ「己を高く持する人物」に多々見られる事柄でもある。それはそれ、その御仁の生き方・信条そのものの問題だから、他人である私が、眼を三角にしてトヤカク言う必要のないことではある。 

ところが、教員という職業に就いている人間がそういう性癖を持ち、日頃児童・生徒に接しているとしたら、そうはいかない。
   
私の経験でも、「物事を斜めに見る性癖のタイプ」の教員が結構多かった。

結論から言えば、そういうタイプの教員は教育現場では有害無益な人間と言わざるを得ないのではないか。
  
実社会においても一番扱いの難しいのが、こういうタイプの人間だろうし、往々にして周辺の人間からも嫌われてもいる。 

多情多感な青少年にとって、こういうタイプの先生に教えられることには「百害あって一利なし」である。
   
教育の本質はむしろ逆で、もっと「真正面からの言葉・教えほど尊い」と 私の体験からも、そう思える。
<後編へ> 

2017年04月06日

◆日本古来の家族の美風を破壊している

加瀬 英明



現憲法は、日本古来の家族の美風を破壊している

現行の日本国憲法は、読めば読むほど、おかしい。

家族が社会と国家をつくっている、もっとも基本的な単位であることに
は、誰も異論がないと思う。

「いや、そんなことありません。夫婦が社会のもっとも基本的な単位です
よ」と、誰かが反論したとすれば、読者は「夫婦のほうが家族よりも、大
切なんですか?」といって、その人物を奇異な目で見るにちがいない。

私たち日本人は2000年以上も、家族を何よりも大切にしてきた。夫婦は家
族の一部だった。

 だが、日本国憲法では第24条が家族について、次のように規定してい
る。この他に現行憲法に、家族を取りあげている条項はない。

 「第24条【家族生活における個人の尊厳と両性の平等】
 @婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有する
ことを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

 A配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族
に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平
等に立脚して、制定されなければならない。」

 この条項は、「家族生活における個人の尊厳と両性の平等」と、題され
ている。睦みあう家族のあいだで、「個人の尊厳」が求められるというの
は、寒々しい。日本の家族の姿になじまない。

 「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」すると定めているが、親や兄
弟の意見を求める必要がないと、説いている。「両性の合意のみに基い
て」と述べているが、「両性の合意」のあとに「のみ」が入っているの
は、祖父母、親兄弟が、孫、子、兄弟姉妹の婚姻について、干渉してはな
らないとしか読めない。

 この条項は、日本古来の伝統となってきた美風である家族制度を、破壊
するものである。アメリカは日本兵が南や北の海の孤島において玉砕する
まで、勇敢に戦ったのが、愛国心と家族愛から発していたことに震えあ
がって、日本人を家族から切り離して、個人主義を植えつけようとはかった。

 ドナルド・キーン博士は日本文学の優れた研究者、訳者として、文化勲
章を受章しているが、日本に帰化した。私はアメリカに留学した時から、
親しくさせてもらってきた。

 キーン博士は先の大戦中、語学将校として日本兵捕虜の訊問や、戦死者
から日記などを回収して、情報蒐集にあたった。

 キーン博士は著書で、「ガダルカナルを餓島と呼んだ日本軍の兵士たち
の耐えた困苦は、圧倒的な感動を呼び起した。アメリカ軍の兵士の手紙に
は何の理想もなく、ただ元の生活に戻りたいとだけ書かれていた」

「大義のために滅私奉公する日本人と、帰郷以外のことにはまったく関心
を持たない大部分のアメリカ人。日本の兵に対しては賛嘆を禁じえなかっ
た。そして結局、日本人こそ勝利に値するのではないかと信じるように
なった」(『日本との出会い』学生社)と、述べている。

 Aでは、何とおぞましいことに、「離婚並びに婚姻」といって、離婚が
結婚よりも先にでてくる。

 こんな憲法は一日も早く捨てよう。

◆「農奴」と違った江戸時代の「農民」

MoMotarou



欧州の「農奴」と違った江戸時代の「農民」

この意識(西洋優越)を根底から挫くために本書を書いた。同時に日本の
歴史水準に対する再認識を迫るためである。ーー『驕れる白人と闘うため
の日本近代史』 松原久子著

                 ☆彡

 <鎖国日本には革命も戦争もなかった。250年の平和を保ちつつ、欧米
とは正反対の立地条件のもと、正反対の思想に基づいて高度な知的水準を
もった文明を築いていた。>(同書)

■「便利」と「正邪」

進歩主義的考えに浸ってしますと、古いものは悪かったという自虐的な考
えに染まっていくような気がします。明治は古い封建的な江戸時代より
「全部良い」という考え方もある。

「西洋」は「アジア」より優れている、白人は有色人種より“凄い!”とい
う考え方もある。恐らく前の戦争に敗れてから、更に激しくなってきたの
でしょう。所謂占領政策に寄って。英国首相のチャーチルが米国の占領政
策を見て「百年は影響が残るだろう」と言ったそうです。

■「勝った方が正しく、負けた方は邪(よこしま)」

ウエストファリア条約(1648)でしたか、「戦勝国は敗戦国の憲法を変え
てはならない」という規定があったとか。それならGHQマッカーサー等の
やったことはこの規定に反する事になります。しかし、この条約などが、
所謂「白人」間だけに適用するとすれば、有色人種である日本は「適用
外」となります。なるほど!

そこら辺を鋭く突いているのが『驕れる白人と闘うための日本近代史(松
原久子著)』でしょう。昭和天皇が最初の記者会見で述べた「戦争の原
因」も人種問題に触れられました。

■欧米と組んだ「シナ・朝鮮」

ところで「江戸の日本」は「その他世界」から見て「悪」であり「遅れ
て」いたのでしょうか。ここら辺が最近私が疑問に思ってきたことであり
ます。「人種的偏見」の点から見れば有色人種である日本人は常に「下位
に」置かれます。また中華思想の点から見れば、我が国はシナや朝鮮の
「属国的周辺国」になります。 

 ”日本を見下す”という点から考えれば、中国朝鮮と白人社会は共闘でき
るのであります。先の戦争で、シナの蒋介石や毛沢東が「欧米」に付いて
日本と“敵対”したのも納得できます。

誤算は、負けた我が国が“何故か”彼らを凌(しの)いで、所謂「大国」に
“再び”なったかという事でしょう。「アヘン戦争」でコテンパンにやられ
たシナは白人との「一戦」には戸惑いがある。この心理は現代でも生きて
いる。

■地球が逆回転し出した日1853 其の9日目

「農奴」の欧州・「農民」の日本 (2)

(転載 長文失礼)『驕れる白人と闘うための日本近代史』 松原久子著
より タイトルは小生

<<それでは、鎖国時代の日本の農民の状況はどうだったのだろうか。

 彼らもまた、数からいえば日本社会の最大の集団であった。3000万の人
間を養う食糧を確保するためには、多くの人手が必要であった。日本の農
民も当然村に住み、田畑を耕した。ここまではヨーロッパの農民と同じで
ある。

◆「農民」の地位・身分

しかし日本の農民は、庄屋や地主の横暴の犠牲になる心配はほとんどな
かった。それどころか、彼らは自立していたのである。これはヨーロッパ
の農民には生涯体験できなかったことである。

大切な食糧の生産者である農民には、日本では確固たる地位が与えられて
いた。当時の日本の社会は、士農工商という四つの階級に分かれていた
が、農民は武士に次いで2番目の地位にあったのである。

◆丁髷(ちょんまげ)だが自立した村落共同体

日本のいたるところに自立した村落共同体が作られた。どの村にも議会で
ある「寄り合い」があった。寄り合いでは、メンバーの中から代表者一人
と、二人の委員が選ばれた。彼らの役目は対外的に村を代表することだった。

特に年貢、つまり納税の問題について、村の人々の意見を代弁するのが彼
らの任務であった。税の額は、米で計算され、脱穀し俵に詰めた米が納め
られた。これは村ごとに毎年異なり、作柄に応じ、収穫を基準にして定め
たので、同じ領内の隣り合わせた村でも異なり、年々の豊作凶作により加
減された。

◆最大限の公正を期した「税体系の整備」

税の問題はどの社会においても核心的な問題である。国には行政という仕
事があり、それを遂行していくために、税といったものが必要であるとい
うことは、どの社会でも、原則的には納得している。しかしその税の額が
いつも厳しい対決の火種となる。国が要求する額と住民が納得のいく額と
を調停することは決して容易なことではない。

日本では、最大限の公正を期した税体系の整備が試みられた。土地の地
味、日光の当たり具合、灌漑の効率などを考慮して全ての水田が測量され
た。米による納税額の査定基準の公正と公平が保たれるよう知恵がしぼら
れた。

◆協議の対照だった「税額」

ここで特に強調したい重要なことがある。それは日本では、税の額は決し
て農民の頭越しにお上によって一方的に決定されたのではない、というこ
とである。納税額を決める際に、農民は村の代表者を通して協議・決定に
参加する権利を持っていたのである。

このあたりのことを、私は児玉幸多氏の『近世農民生活史 新稿版』(一
九五七年 吉川弘文館刊)および大石憤三郎氏の『近世村落の構造と家制
度』〈一九六八年 御茶の水書房刊)から学んだのだが、日本の全住民を
養っていくために必要な米は一年に大体600万トンであった。

                ☆彡

戦後GHQによってやられた「洗脳」や日本人によって成された「東京裁判
史観」の定着。欧米化した日本人の「脳」には、欧米人向けに書かれた本
の方が、“思い込みの壁”を乗り越えやすいかも知れない。

『驕れる白人と闘うための日本近代史』の著者松原久子さんは現在八十才
代(米国在住)と思われます。お生まれは京都の織田信長公を祭った神
社。この情熱的活動もその影響があるのでしょう。原著の副題は「真実と
挑戦」(書名は『宇宙船日本』1989 ドイツ語)であります。インター
ネットが発達した現代、回線を使って何とかお声を聴きたいですね。チャ
ネル桜かDHCシアター辺りには挑戦して欲しい。

<<欧米人の優越感を覆すためにドイツ語で出版された本書が、今度は日
本人の劣等感を打ち破るために日本語に翻訳された。(後書より)>>


   

◆心筋梗塞は予知できる

石岡 荘十

まず、死因について。

私の父親も死因は「心不全」とされていたが、長い間、この死亡診断書に何の疑問も感じなかった。しかし、よく考えてみれば「心不全」というのは単に「心臓が動かなくなった」という意味であるから、病気の「結果」そのものであり、死のトリガー、「原因」ではない。

<最初は背中が痛いと言われたと報じられていた。亡くなった後では容易に心筋梗塞だったとは解らないのではないか。誰でも経験して学習し教訓に出来る病ではないので、発症した場合の対処は困難だろう>、これこそが「死因」となった心筋梗塞を疑わせる症状だ。

私も大動脈弁がうまく開閉しなくなり、10数年前人工の弁に置き換える手術を受けているが、そこに至る症状として<背中が痛い>を何年にもわたって、何度も経験している。

心臓の血流が途絶えると、背中が重苦しくなる。痛いと感じる人もいる。この苦しさは、血流が滞った程度(狭心症)の場合は、15分程度で回復する。不整脈のひとつ心房細動の時もそうだ。

私が何度も経験したが、それ以上自覚症状が長く、30分とか続くのは血管(冠動脈)が完全に詰まっている(心筋梗塞)だと考えた方がいい。ほっておけば死に至る。

胸が痛くなるという症状だと、「心臓がおかしいのではないか」と分かりやすいが、心筋梗塞になると左の奥歯がうずいたり痛くなったり、肩が凝ったりすることもある。歯医者や整形外科に駆け込む人もいるが、これは心筋梗塞の症状のひとつなのである。

歯医者で鎮痛剤をもらって「一丁上がり」となるが、じつは心筋梗塞の症状だ。こういうのを「放散痛」という。

不幸にして、こんな知識がなく死んでしまった後、患者を解剖すると死因が心筋梗塞であったことは明らかになる。

<発症した場合の対処は困難だろう>といっておられるが、心臓疾患の9割は、対処の仕方を誤らなければ、決して「死に至る病」ではないのである。

本誌常連の前田正晶さんが書いておられる記事が見事にそのポイントを突いている。
その要点をまとめると、

<失神するほどの、激痛と胸部に圧迫感があった。自分で119番に電話して症状を説明していた>

<放っておけば治るとかとは思ったが、何故かこれは「一過性の痛みではない」と判断した>

<救急患者を受付けてくれる大病院が多いこと、救急車が搬送してくれた先が国立国際医療センターだったこと、最も偉い先生が日曜日の当直だった>

<心筋梗塞に対応する準備が整っていたのだった。処置も素早かった>

<その判断が正しかったと後で解るのだが、私の場合は幸運の連続だった>

つまり、前田さまのケースは<幸運が重なった>結果であり、誰でもがこううまくいくわけではない。

年間の死者5千人を切る交通事故死にあの大騒ぎで安全運動を展開している。なのに、心臓疾患で年間15万人以上が死ぬ。なぜか。前田さんのような幸運の女神の恩寵に浴する人はそんなに多くない、それだけ啓蒙が行きわたっていないということだ。

<時間との争いであるなどとは知る由もないだろう。知識は皆無だった>とおっしゃるが、そんな人に幸運が訪れることは滅多にない。

この歳になったら、天下国家の危機を憂うる高邁な論議をする前に、わが身の危機管理に少しのエネルギーを注ぐべきだというのが私からのアドバイスだ。心臓病は<誰でも経験して学習し教訓に出来る病>なのである。

http://www.melma.com/backnumber_108241_4024688/

2017年04月05日

◆中国の対外「新幹線輸出」

宮崎 正弘 



<平成29年(2017)4月4日(火曜日)通算第5253号>   

 〜中国の対外「新幹線輸出」はなぜ挫折しているのか?
  唯一の成功例はアンカラ ー イスタンブールだが、初日から遅延だった〜

 過剰設備投資、過剰在庫。鉄鋼、板ガラス、アルミニウム。。。。
 次は新幹線プロジェクトの余剰エネルギーを「一帯一路」(シルクロー
ド)に引っかけて、世界に輸出することだった。

 すでに中国国内の所謂「新幹線」(中国語は「高速鉄道」)は、22、
000キロを突破し、2020年に総延長が30、000キロに達すると豪語している。

日本の新幹線をイメージしがちだが、250キロのスピードがでるのは、北
京―上海と北京―天津、広州―武漢など主要幹線だけで、あとは200キロ前後
である。試験的には370キロを出したこともあったが、北京―上海の幹線で
途中の温洲で事故があった。その後、自粛規制をなしており、沿海部の橋
梁部では150キロ前後に速度を落としている。

中国国内は長距離バスもあるが、新幹線に乗る人が増え、ことしの春節
(旧正月)を挟む40日間に16億人を運んだと運輸省統計は伝えている。高
速鉄道を含めて、中国の鉄道営キロは220、000キロである。

しかし海外プロジェクトは連続して挫折しており、唯一の成功はトルコの
首都アンカラとイスタンブールを結ぶ高速鉄道だけが開通した。その開通
式にはエルドアン大統領も試乗したが、30分間、列車は動かなかった。 

頓挫第1号はメキシコだった。
 
メキシコ大統領は訪中する前日に、中国の新幹線導入を中止するとした。

挫折第2号はラスベガス ー ロスアンジェルスだった。車両ならびに部
品はアメリカ製品を使うという規制をクリアできないと理由付けがなされた。
 
とくに米国の場合、工事費がキロあたり5600万ドルと見積もられ、欧州の
3900万ドルよりも高い(中国国内でも工事費はキロあたり1700−2500万ド
ルの間と世界銀行は分析している)。

頓挫第3号はインドネシアのジャカルト ー バンドン150キロのプロ
ジェクトだった。

小誌既報のとおり、日本から横取りしたプロジェクトだが「土地の買収が
進まない」ことを理由に挙げて、工事を中断した。

真実は中国開発銀行が、低金利融資を渋ったからだ。対外資本流失を中国
は、昨秋から資本規制をかけ、5000万ドル以上の海外投資は当分見合わせ
る決定をしたことに絡んでいる。インドネシア新幹線の総工費は51億ドル。

というわけで「アルゼンチンからアンデス山脈をトンネルで繋ぎ、チリと
の間に新幹線を」などと李克強首相が昨年の南米訪問時に打ち上げたが、
大風呂敷だった。

チベットのラサからネパールのカトマンズへ、エベレスト山脈にトンネル
を掘って繋げるなどという風呂敷は幻想か、蜃気楼で終わる。

なせ、こうした海外への新幹線プロジェクトが連続して蹉跌しているか
は、中国の技術的未成熟とファイナンス体制の未整備にある。

相手国も政権担当者が汚職容疑に巻き込まれるのを厭がって中国からのオ
ファーに尻込みし始めたことも大きい。

◆「措置入院」精神病棟の日々(22)

“シーチン”修一 2.0



4/2(日)朝、散歩に出かけたら桜が六分咲きになっていた。ここ2日間ほ
ど氷雨が続いたので開花はしないだろうと思っていたから、うれしい誤算
だった。

結構な人出で、町会の甘酒サービスや農協の花市場、お囃子連による笛太
鼓なども花見を盛り上げ、飲食店やコンビニなどの食品店は店頭にビール
などの飲み物や鶏唐揚げなどのつまみを並べている。ああ、雨天順延で今
日が街の「桜祭り」なのだ。

花見客は年々お行儀がよくなっている。ブルーシートを敷くにも、いつの
間にか暗黙のルールができたようで、歩行者の邪魔にならないように配慮
している。日本はいい国だ。

小生のような現役バリバリのキチ○イもしっかり保護され、高額医療費の
還付はあるし、医療費の本人負担はナント1割に下がった。喜ぶべきか、
悲しむべきか・・・支える人から支えられる人になったのだ。

(理性的に考えれば皆そうなるものなのだが・・・そうなってから皆「ま
さか!?」と愕然とする。体験しないと分からないことばかりで、死んで
からも死を受け入れられないで迷う霊魂は少なくないようだ)

小生など“社会のお荷物”ばかりの集う病棟日記から。

【2016/11/17】ホールでシコシコ日記を書いていたら、これからOT(作業
療法)に出かける40歳ほどの女性が「書くのがお好きなんですねえ」と声
をかけてきた。

「はい、趣味です。一日中書いています。でもカミサンとはほとんど話さ
ないので、意思の疎通に欠けてしまいます。ですからボクのOTの目標は、
『人付き合いの練習をする』です。今、おしゃべりを訓練中です」

こう答えたものの、饒舌、滑舌になったら俺が俺でなくなりそうだ。

10:30〜11:10、「心理検査」。アルツハイマーとか呆けの検査のよう
だ。単純な内容だが、慣れていないので疲れる。14:00、Dr.来、検査結
果は「まったく問題なし」とのこと。明日はナント2時間の心理検査があ
る。何をするのだろう。

読書で感動した個所を筆写するが、コピーがあれば10分で済むところを1
週間もかかってしまった。その分、熟読できたから、「ま、良しとしよ
う」と思うものの、いかにも生産性が低すぎる。

15:45〜16:30、カウンセラーの“ピーコック”による「心理面接」。Dr.
同様、「断酒するしかない」と言い、ナース2人も「断酒して悪いことは
一つもない」と追撃してくる。

「お、お、俺の楽しみは何なんだ、どうしてくれる!」と叫びたいが、い
かんせん多勢に無勢、孤立無援だ。「世界の片隅で飲酒を叫ぶ」・・・つ
いに我は屈するのか。悩ましいことこの上ない。

ホールでは40代の男3人がAKB48のカタログを見ながらアーダコーダと品評
会をしていた。まるで花魁の品定めみたい。反社会的なキチ○イの小生が
言う資格はないが、ほとんど中2レベル。多くの仕事は中卒、あるいは必
要に応じて「+専門学校 or 職業訓練所」でいいのではないか。

【11/18】10:15〜12:05、心理検査でぐったり。理系というか算数の問
題を口頭で言われ、暗算で答えるのはとても苦手、苦労した。鉛筆と紙が
あればさっさと解答できるのだが、メモリーが劣化しているのでどうしよ
うもない。

憔悴しきってホールへ戻るとカミサンが待っていた。お菓子の差し入れな
ど。ひも付きのスニーカーはひもで自殺しかねないから差し入れ不可だっ
たという。

小生の経験では、首を吊るための素材はタオルなど軟らかいものを選ぶべ
きだ。まったく痛みを感じることなくスーッと気が遠くなる。万一、運悪
く(運良く?)早期に発見され、蘇生した場合、タオルでさえ喉が痛んで
出血し、1週間はまともにはしゃべられないのだが、ひものような細いも
のだと回復までに数週間はかかるだろう。

生き恥をさらさないように手引する「終活・自死・安楽死コンサルタン
ト」という仕事は必要ではないか。藩にもよるのだろうが、武士は子供の
頃から切腹の作法を教えられたという。しっかり学んでいないと腸がド
バっとはみ出して現場はとても汚くなるという目撃レポートを読んだこと
がある。

練炭を囲んで「みんなで渡れば怖くない」というのも、なんか邪道だし、
硫化水素も他者に迷惑をかけるから格好よくない。まあ、首吊りも失禁す
るから・・・美しく死ぬのはなかなか難しい。「大義に殉じる」など美し
く散りたいが、なかなかそういう機会はあるものではないし。凡夫は病院
ベッドで死ぬしかないか。

明日はDr.面談なので、資料として「男は辛いよ(2)男は黙って諦める」
を作成した。(つづく)2017/4/3



◆罪にならない

室 佳之



結論から言えば「罰する規定がないので罪にならない」

刑事法の大原則に「罪刑法定主義」というものがあります。

刑罰を科すことは(事前の捜査も含めて)ある意味最大級の人権侵害とも
言えます。なので、何をすれば捕まるのか、何が犯罪となるかはあらかじ
め法律で明らかにしなければなりません。

昨年6月3日に公布、施行されたヘイトスピーチ規制法には罰則規定があ
りません。そのため、発言者を罰するのであれば、その発言が刑法など他
の処罰規定に触れる必要があります。

今回の「モンゴルに帰れ」は、脅迫罪(刑法222条1項)の「身体等への害悪
の告知」や、侮辱罪(同231条)の「侮辱」(バカだとか間抜けだとか、外部
的な名誉を害する内容の発言)には当たらないので、犯罪不成立。罰する
なら、事前に立法化する必要があるということ。

ついでに言うと、その前の「はっ倒すぞぉ、こらぁ!!』は、@本人に声
が届いていない可能性があり、身体に対する害悪の「告知」と言えるかど
うか微妙、

A酔っ払いの冗談なのは明らかなので「故意」に欠ける点で不成立。
ただし、脅迫罪は相手を畏怖させる(怖がらせる)つもりで言葉を発すれ
ば、たまたま相手が豪胆な人で、効果がなくても成立する犯罪なので、ご
注意を。

◆派遣労働者の保護を図っていく時代

川原 俊明(弁護士)


 
労働者派遣法は、昭和60年に制定されて以降、時代の流れに沿って、度々、改正されてきました。

 労働者派遣法第40条の2もそのひとつで、同条は、「派遣先は、同一の業務で派遣可能期間(最長3年)を超える期間、継続して派遣労働者を使用してはならない」と規定しており、これに関連して、派遣先が講ずべき措置に関する指針第14項は、「派遣期間終了後3か月を超えない場合には継続して労働者派遣の役務の提供を受けているものとみなす」と規定しています。

 これによって、3年の派遣契約期間終了後、3か月間のクーリング期間をおくことで派遣労働者の使用をできないようにして派遣労働者による常用労働者の代替防止の確保を図っていました。

 ところが、これらの規制をうまくかいくぐるように、派遣契約期間終了後、すぐに3か月間を超える期間(3年と1日)の直接雇用契約をし、その契約終了後、再度、派遣契約をして、実態として、3年超える期間、派遣労働者の継続使用する会社が現れました。

 これは、上記指針の3か月間というクーリング期間を利用して、再度、派遣契約を締結し、これによって、派遣労働者を使用し続けるというものでした。

 これについては、元派遣労働者の派遣先での直接雇用を認めていく方向での判決がなされ、この判決を契機に、派遣労働者の保護を図る以下のような労働者派遣法の改正が行われ、平成27年10月1日に施行されます。

 派遣先が違法派遣を知りながら派遣労働者を受け入れている場合、違法状態が発生した時点において、派遣先が派遣労働者に対して労働契約の申し込み(直接雇用の申し込み)をしたものとみなされるという労働契約申込みみなし制度です。

 今回の法改正で、派遣労働者の地位の改善が少しはなされたかと思いますが、まだまだ不十分かもしれません。会社に都合のいいように利用されがちな派遣労働者の地位の向上を図っていくためには、現場にいる派遣労働者の声が裁判所、国会に届けなければなりません。

 上記判決、今回の法改正は、それを実感させるものでした。