2017年04月02日

◆中国市場の代替にベトナムとの関係強化

宮崎 正弘 



<平成29年(2017)4月1日(土曜日)弐 通算第5250号> 

 〜韓国、失われる中国市場の代替にベトナムとの関係強化
  290億ドルの投資を2020年に700億ドルへ〜

韓国はベトナムとの修好25b周年をひかえ、THAAD配備で失いつつ
ある中国市場の代替としてベトナムへの大々的な投資、経済関係の強化を
めざす。

すでに両国の間にはFTAが締結されており、2015年第3四半期だけでも
韓国とベトナムの貿易は56億ドル、ベトナムのあちこちにはロッテデ
パート、ロッテマートが建ち、現代ホテルも盛業中だ。

2009年に韓国とベトナムは「戦略的パートナー」を宣言しており、共同軍
事演習、軍事的な協力も視野に入れているという(亜細亜タイムズ、3月
31日)。すでにベトナムに駐在している韓国人は10万人を超えている。ハ
ノイやホーチミンにはコリアンタウンがある。

韓国のベトナムへの急傾斜は中国の苛めにより、有望と思いこんだ中国市
場を縮小せざるを得なくなったことで、便宜的にも輸出を伸ばすにはベト
ナムとの関係強化が都合が良いという計算がある。

ベトナムは南シナ海、パラセル諸島で中国とは政治軍事的に対立が続いて
おり、パートナーを増やしたい。

しかしベトナム国民は共産党独裁の政権が一方的に韓国の投資を歓迎して
も、あの戦争中の猛虎部隊といわれた韓国軍のベトナムでの蛮行は決して
忘れてはいない。韓国軍の民間人虐殺を追悼する記念碑も、ベトナム各地
に建てられている。韓国は謝罪も補償もしておらず、対日賠償要求とは
うってかわって知らぬ半兵衛を決め込んだ。

韓国軍人等がベトナム女性との間にできた混血児(ライタイハン)は最大
五万人とも言われているが、社会的に差別されたまま。韓国からの保障は
ないまま。

この国民感情を抑制してきたのがベトナム共産党である。
      

◆薬を飲んだら、排泄物の中に白いものが?

大阪厚生年金病院 薬剤部
 


Q、薬を飲んだら、排泄物の中に白いものがありました。これは何ですか?

A、徐放剤という薬を飲むと便の中に白いものが混じることがあります。この白いものは薬の残骸です。徐放剤というのは1日1〜2回飲めば薬の効果が出るように設計された薬です。

スポンジの中に薬の成分が収められているのをイメージしてください。これを飲むと、胃や腸の中でゆっくりと薬の成分が溶け出し効果を発揮します。薬の成分が溶けだしてしまったスポンジは残骸として身体の外に排出され、便の中に白いものとして混じるのです。

ですから白いものが混じっていても少しも心配いりません。安心して薬を飲んでください。

便に白いものが混じっていることを発見された方は自分の健康に特に気をつけておられるのですね。自分の排泄物で健康を見ておられるのだと思います。そのとき発見されたのではないですか?

 このような「スポンジの中に薬の成分が収まった」形をした徐放剤は薬が長く効くために工夫した製剤のひとつです。種類は多くなく、持続性を必要とする薬に採用されており、例えば喘息薬のテオドールG20%の顆粒や抗てんかん薬のデパケンR錠などにみられます。

病院や薬局で薬をもらうとき「薬の説明書」も一緒に渡されます。徐放剤を飲むと便に白いもの含まれ、患者様はびっくりされるので「薬の説明書」の注意事項に記載されています。もらった薬の説明書をゴミと思わず、よく読んでいただければと思います。

薬を飲んで便に白いものが混じっていることは薬をちゃんと飲んでいる証拠、薬もちゃんと効いていると思います。

2017年04月01日

◆チベットの現状と今後の運動展開(1)

宮崎 正弘 



<平成29年(2017)3月23日(木曜日)弐 通算第5233号>   

   ♪
「チベットの現状と今後の運動展開」(その1)
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アジア自由民主連帯協議会 会長 ペマ・ギャルポ氏

   ▽
五十数年間、私たちは毎年この時期に、来年、ラサで乾杯しようと言い続
けてきました。きょうの題は「現状と今後の活動展開」ということです
が、まず何よりも言わなければならないのは、これから話すことはすべて
私個人の責任であるということです。

もちろん、かつては政府の一員としてやってきましたが、特に政府、また
は活動している人たちを代表して話しているのではないことを前置きした
いと思います。

日本で50年間生活をして、本来であればそろそろきょうの演説あたりで独
立に向けてとか、あるいはこういう国をつくりたいというようなビジョン
があれば一番いいのではないかと思いますが、残念ながら60年近くなって
も、チベット問題は悪化することがあってもあまりよくなってはいないと
思います。

もし、何か評価できるものがあるとすれば、チベット問題が世界的に一応
分かるようになった。これは評価できることだと思います。

ただ残念ながら、なぜそもそもチベット問題なのかということを考える
と、やや喜べない部分もあります。

なぜかというと、いまチベット問題で一生懸命にやってくださっている
方々は、環境問題や人権問題を一生懸命にやっています。もちろん、これ
も大切な問題です。しかし、そもそもチベット問題とは何かというと、一
国の独立国家が他の国に侵略された。そして、その独立をもう一回取り戻
そうというのが本来のチベットの目的であり、またそれが目標であるべき
だと思います。

そういう意味では今もう1度、われわれも考えなければならない時期に来
ているのではないか。

幸いにしてというか、今の北京政府、一見、非常に強く見えますが、総合
的に見ると、そろそろ自らのさまざまな矛盾から崩壊する可能性もないわ
けではない。かつて私の恩師の倉前先生が、ソビエトが崩壊することを
おっしゃってご本にも書きました。そのときに周りから、そんなことはあ
なたの推測にすぎない、小説だと言われ、いろいろと批判を受けました。

しかし、先生はもう1度ご本の中で、中華人民共和国という帝国も滅び
る、そういう日が必ず来るとおっしゃっていましたが、残念ながら先生が
健在のときにはそういうことが起きなかった。しかし、私はその予測が当
たるだろうと信じています。

 ▼チベットは決して非文明国家ではなかった

今のダライ・ラマ法王の時代になり、初めて私たちはある意味で統一した
国家になりました。それまでは中央政界がありましたが、世界中同じよう
に、私たちも中世から近代に入るのに少し出遅れました。

中華人民共和国という国がチベットを侵略したときは、まだチベット自身
が本当に近代国家としての形があったかというと、必ずしもあったとは言
い切れない部分があります。

それから、日本が1860年代に明治維新を行いましたが、それまではたぶ
ん、文化の面において、歴史の面において、あるいは民族の特有性におい
て、どう考えても日本に負けないぐらいの国家としてチベットは存在した
と思います。

中国は、野蛮で非文明国家のチベットに文明の光を照らした。そのために
チベットを封建社会から解放したと言っていましたが、たとえ封建制が
あったとしても、文明の面においては、ポタラ宮殿をご覧になっていただ
いても、あれだけの技術があの時代にあった。

チベット医学、あるいはチベットの占星術。あるいはチベットの歴史、特
にチベットの歴史の場合には宗教を中心とした歴史ではあるけれども、す
ばらしい書物がたくさんありました。インドの仏教の教えも、世界で一番
多く翻訳されているのがチベットです。普通、私たちはお釈迦様の教えは
8万4000あると言いますが、少なくともチベットで約4000が翻訳されてい
ます。

中国では2000ぐらい翻訳され、日本には200ぐらいしか来ていないわけで
す。そういう意味で、チベットは決して非文明国家ではなかったというこ
とです。

しかし、残念ながらチベットは、世界中が近代化して近代国家として中央
集権国家をつくったときに、私たちはヒマラヤの奥地で自分たちだけの平
和な生活をし、そして鎖国政治を約400年取りました。

この鎖国政治により、私たちは自分たちの文化文明を発達させるには大い
に役に立ったと思います。しかし、近代国家としては出遅れました。これ
がたぶん、私たちがいま直面している運命の原因です。

1949年に中華人民共和国ができ、すぐ毛沢東は、この革命は本来わが祖
国、これは中国的なわが祖国ですが、わが祖国の領土を全部開放するまで
はこの革命は終わらない。そして、それはもちろん、チベット、東パキス
タン、南モンゴル、あるいは日本の尖閣諸島、琉球、沖縄も含めてのこと
です。彼らが直接的、間接的に一度でも影響力を及ぼしたり、あるいはか
つて朝貢を受けた国はすべて中国の一部であるという考え方に基づいてい
ます。

1950年、一番近く、一番武装していない、お坊さんが27万から30万人ぐら
いいても軍隊は2万人しかいない国、まさにどうぞ侵してくださいという
ような環境にあったチベットに入ってきました。

1951年に17条条約を結びました。

17条条約を結んでから約8年間、1959年3月まで、残念ながらチベットは中
国の一部でした。これは認めざるを得ません。なぜならば1954年、中国は
憲法をつくりました。1949年に独立したけれども、中国は憲法ができたの
は1954年です。

このときにはダライ・ラマ法王もパンチェン・ラマ尊師も、あるいはその
ほかチベットのそうそうたる方々が人民大会に参加して1票を投じていま
す。給料ももらっています。しかし1959年、ダライ・ラマ法王がインドに
亡命してから、テスブというところで3月に、もうあの条約は無効である
ことを発表しました。

 ▼チベット分裂を企図したパンチェン・ラマという仕組み

私の考えでは、あの瞬間からチベットは占領下の国家です。私たちはまだ
国家であるはずです。

なぜならばチベット人の自発的な、あるいはチベット人の同意を得て、い
ま中国がチベットを支配しているのではありません。彼らは約束をことご
とく破りました。あの条約の中では少なくともチベットの外交、防衛以外
のことに対しては尊重することを書いています。

それまで、本来であればダライ・ラマ法王は私たちの宗教、政治でも最高
の地位ですが、パンチェン・ラマ尊師はダライ・ラマ法王の先生であり、
決して副大統領みたいではないです。

副王様でもない。中国はわざとチベットの中で分裂をつくるために意図的
に法王、そしてパンチェン・ラマというような仕組みをつくり、そして中
国はダライ・ラマ法王を中国とチベットが一つになるための準備委員会、
つまり自治区の準備委員会の主席、副主席に任命しました。

この状況においては、残念ながらまだ東チベット、そして今の青海省、ア
ムド地方、この辺に関してもあまり明確なチベットとしての立場を明記し
ていません。むしろ多くの東チベットの人たち、あるいはアムド地方の人
たちも、長い間、中央集権に対し権威として存在したけれども、近代国家
としての権力ではなかったと思います。ですから、東チベットで1957年、
最初の決起が起きても、中国政府はこれという手を打つことができなかった。

しかし、インドに来て1963年、チベットの各種族、各宗派のトップ、みん
なが初めてダライ・ラマ法王を頂点とする、自分たちの、日本で言ったら
藩の権限を当時、中央に返上したような形でインドのブッダガヤで誓いを
立てました。そして、その誓いとは、最後の1滴の血まで祖国の独立のた
めに使うということでした。

さらにその後、1972年までゲリラ活動をしていました。

ゲリラ活動に関してはアメリカの支援もありました。インドは当初、あま
り積極的ではなかった。インドとしては、特にネルー首相としては、でき
ればチベットを不干渉地帯として中華人民共和国と直接ぶつからないため
に残したほうがいい。

そこにアメリカとか、あるいはヨーロッパの国々が、もう一回、チベット
を助けるような意味で入ってきたら、せっかく日本の先の戦争の結果、独
立したアジアの国々、アジアにもう1回、西洋の勢力が帰ってくる。その
ようなことは、ネルーは望まなかった。したがって、インドも最初はゲリ
ラ活動、あるいはアメリカが関わることについては必ずしも積極的ではな
かったのです。

▼インドはチベット支援に最初は積極的ではなかった

インド自身が中国と友好条約がありました。インドと中国は1960年代まで
はインド人の売買、バンドン会議においてネルー首相と周恩来、特にネ
ルー首相の発想で平和五原則、パンチャシラを。

パンチャシラはサンスクリット語で、中国語ではありません。日本の学者
によっては、これは周恩来の哲学だと言っているが、周恩来の哲学ではな
いことは名前から言っても分かります。つまり、平和五原則の最も大切な
ことは、お互いの内政を干渉しない。他の国を侵略しない。主権を尊重する。

ネルーは非常に理想主義的な要素がありました。

例えば1957年、法王がインドをいったん訪問してそのまま残ろうとしたと
きも、周恩来が来てネルーを説得し、帰ってください、あとはわれわれが
仲介して、チベット問題は平和裏に何とかしましょうというようなことを
言っていました。

しかし、1962年、インドそのものが突然中国に侵略されました。ネルーは
ショックを受けました。サッダ・パティルはじめ当時のインドの国民会議
派の世間で言う右派、この人たちからも、「言ったじゃないか!」。

なぜかというと、サッダ・パティルは1951年にもう既に武力を使ってもチ
ベットを支援したほうがいいということを提言しています。しかしネルー
は、いや、これは平和的に解決できる、周恩来と私の人間関係がある、な
どと言い、パティルさんとか、そういう人たちの意見は聞かなかった。

ですから当然、インドは第1回の中国との戦争では負けました。

なぜ負けたかというと、インドは戦争するつもりがなかった。中国はチャ
ンスがあればという準備をしていました。しかし、その中国の準備も当時
はまだ不十分です。一つは、まだ道路がない。軍は簡単に入れない。

それから、高山病にかかる。中国人自身はチベットへ戦いに来ても、高山
病にかかる。だからモンゴル人とか、高地で戦える人たちを使って来まし
たが、その人たちは積極的に喜んで兄弟たちを殺すようなことはしませ
ん。彼らはインドのアルナーチャル州から、2〜3週間ぐらいで結局撤退し
ました。

一昨年、僕はアルナーチャルへ行きました。

そのとき、アルナーチャルの人たちが言うのは、決してその後もインド政
府が力ずくで中国と戦い、あるいはインド政府が政治力で中国を説得して
撤退したわけではない。何かというと、中国人が来て現地の人たちに、あ
なたたちは私たちと同じ顔だ、兄弟だ。あなたたちを助けに来たと言って
も、彼らは兄弟ではない。

中国は今のようにロジスティクスがないです。彼らは協力しなかった。食
べ物でさえ協力しなかった。そして、冬になりました。そうすると中国は
撤退せざるを得なかったのです。その後、ネルーの娘のインディラ・ガン
ジーは2度も中国と戦争したけど、勝った。それはインドも学ぶことが
あった。

1962、63年になり、インドは初めてダライ・ラマ法王をインド国内にお
いて国家元首並みの扱いをするようになりました。

ネルーは法王に対し、長期戦になるかもしれない。だから私たちインド政
府はあなたの国の人たちをいろいろな学校に入れたり、インド社会に受け
入れるのは簡単だけれども、そうではなく、自分たちの学校をつくりなさ
い。

チベットの学校をつくると、そこは私立の学校ですから、インドのカ リ
キュラムをやらなくてもいい。そこでチベット語を教える。チベットの
歴史を教える。チベットの文化を維持する。チベットの音楽を教える。そ
して、チベットの坊さんが一人、必ず学校に精神指導としていました。そ
ういう配慮をするようになったのです。

そのおかげで今日も、僕はときどき人民解放軍のカーキ色の軍人と、私た
ちの赤い色のお坊さんの軍人、どちらが勝っているというけど、世界的に
は私たちが勝っているだろう。なぜかというと、幸いにして1960年代、ベ
トナム戦争などもあり、アメリカを中心として、世界中のある意味で精神
的な空白がありました。

そこでビートルズやインドの聖者、聖マヘーシュ・ヨーギーとか、そうい
う人たちが出てきて、それと一緒にチベットの聖者ミラレパが最初に注目
されました。それがきっかけで『チベットの死者の書』が外国の資料にな
りました。

それから、チベットのお坊さん、最初に外に出て活躍したのは、スコット
ランドにいらした先生2人、それからのちに1人が交通事故に遭い、アメ
リカへ行ったのです。あれも偶然ではなく、本人が帰ろうと思ったときに
車の事故に遭ったのです。

たまたま運転していたのがアメリカの金持ちの女の人で、その人がアメリ
カに招待した。その人を通してアメリカで教えるようになりました。

その次がカルマパ。カルマパに対しては中国人の香港にいる人が協力しま
した。それから、日本人でアメリカ人と結婚した龍村さんの妹さん。そう
いう人たちが少しずつチベットのお坊さんたちを西側に呼ぶようになった。

最初はどちらかといえばカル・リンポチェやチベットの学者よりも行者の
人たち、それからアメリカにおいてはアメリカンインディアン、特にホビ
の人たち。彼らの伝説の中に、いずれ東から赤い衣を着ているお坊さんが
来る、聖者が来るというようなことがあった。そういうことで、最初はそ
ういう人たちが私たちに関心を持ちました。

日本でも、東大をはじめとしてインド哲学の延長線でチベット仏教があ
りましたが、残念ながら、それはあくまでもインド哲学の延長線でしかな
かった。チベット仏教について研究している人はなかった。むしろ最初に
関心を持ってくださったのが、いまホビット村にいる当時の日本のヒッ
ピーたちでした。この人たちがチベットに関心を持ってくれました。世界
全体が似たようなことだったと思います。

正直言って、最近はチベットの支援者は外国でも金持ちがたくさんいま
すが、最初にチベットに関心を持ってくれたのは、どちらかというとヒッ
ピーでした。何となくインドへ行き、そこで麻薬でもやり、そして人生を
考える余裕のある人というか、そういう人たちがチベット仏教に関心を
持ってくれたのです。そのおかげでチベットは知られるようになりました。

 ▼アメリカ人富豪らの支援はチベット仏教への関心からだった

そうこうしているうちに、1972年、中華人民共和国はアメリカと関係がで
き、アメリカは私たちに対し、あと6カ月でゲリラに対する援助を打ち切
ると言いました。そのとき、ネパール政府に対し中国、アメリカ、両方か
ら圧力がかかりました。

ネパールのマヘンドラ国王は最後の最後までチ ベットの人たちに対し、
非常に親切でした。ムスタンを基地にして、われ われが中国と戦ってい
ます。

そこで最後にゲリラの人たちは結局、ネパールからも追い出さなければな
らない。中国は向こうから追ってくる。法王は、少なくとも他の民族の地
を私たちのために犠牲にしてはならない、ネパールと戦ってはならない。
ですから、ネパール軍に降伏するということをおっしゃいました。最初何
名かいて法王のそういう言葉を伝えていたけど、ゲリラの人たちはみんな
あまり信じません。

中には友達と。独立のために最後まで戦うと誓い、その友達が死んでし
まっている。だから、その友達のためにも自分は戦わなければならないと
いう人もいました。

最後に法王の義理のお兄さんが法王のテープを持っていき、そのテープ
をゲリラに聞かせたのです。それでも一部の人たちは中国、あるいはネ
パール軍に降伏するのだったら自殺したほうがいいと言い、自分自身に鉄
砲の銃口を付けて死んだ人もいます。

もしかしたら僕の代わりに来る予定の人もいました。学校にいるときは何
となく競争相手ですから、僕はその人のことを尊敬もしていなかったし好
きでもなかった。しかし、僕が日本に来て数週間後に彼はゲリラに入っ
た。そして、数年後に彼は死にました。

そのとき、僕は彼に負けたような気がしました。

それまで憎たらしいと思った人が急に恋しくなり、そして偉いと思うよう
になったのです。だから、その後の僕の日本での活動は、常に彼のことが
頭の中にあります。もし私の代わりに彼が来ていたら、彼は何をやっただ
ろうか。確かに、彼は生きているとき、命を懸けていたことに対し報われ
ることはなかった。

しかし、その尊い命を大きな目的のために捧げることができた。それを私
はいまできていない。だから永遠に彼は、少なくとも私にとってはヒー
ローです。

どこの国でも、最後においしいときはヒーローがたくさん出てきますが、
歴史の中で名前も残らないヒーローが本当はたくさんいます。

私たちと一緒になって戦ってくれた、アムドキャシという中国人もいま
す。彼はもともと中国の人民解放軍でした。しかし、途中から、中国の
やっていることはよくないということで、われわれと仲間になってくれ
た。そして、一緒に戦ってくれました。恐らく彼のことも、チベットの歴
史にも、中国の歴史にも載らないかもしれない。いずれにしても、この
1970年代は私たちにとっては非常に大きな転換期でした。
   (つづく、3回連載です)

       
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◆お邪魔虫共産党

渡部 亮次郎



中国では幹部でも汚職がばれれば死刑になる。それでも幹部の
汚職が引きもきらない。いくら共産主義に共鳴しても、私欲とは人間の本
能に等しいものだからである。

こうした目で中国を見ていれば、共産党が政権を掌握している限り
人権尊重や政治の民主化なぞは絶対実現しないと思うのが普通だが、経済
の改革開放が進むのに比例して民主化が進むはずだと考える人々がいる。
特にアメリカの人たちに多い。

中国が何故、共産革命に成功したか。それは国家権力を手中にしようとし
た毛沢東の策謀が成功したからである。国家の形態は何でも良かったが、
とりあえず貧民が国民の大多数だったので、「金持ちの財産を分捕り、皆
で平等に分配しよう」と言う呼びかけに合致したのが共産主義だった。

共産主義政府の樹立が毛沢東の望みではなかった。真意は権力の奪取だっ
た。日中戦争の終結で、日本軍の放棄して行った近代兵器を手中にして蒋
介石と国内戦争を続けた結果、蒋介石は台湾に逃亡した。毛沢東は昭和
24(1949)年10月1日、中華人民共和国建国を宣言した。

人民も共和も中国語には無い。日本語だ。畏友加瀬英明氏の説明だと、中
国語には人民とか共和と言う概念が無いのだそうだ。北朝鮮はそれに民主
主義が加わって嘘が深化している。

権力は掌握したが、人民への約束を果たす手段が無い。とりあえず人民公
社と大躍進政策が当時のソ連をモデルに実施されたが、農民は生産意欲の
低下とサボタージュで抵抗。

結果として食糧不足に陥って各地で飢饉が発生。餓死者は1500万人から
4000万人と推定されている(「岩波現代中国事典」P696)。

毛沢東の死(1976年)後2年、失脚から3度目の復活を遂げていたトウ小平が
経済の開放改革を断行。開放とは日本など外国資本の流入を認め、改革と
は資本主義制度への転換を意味した。

4つの近代化を掲げたのだ。工業、農業、国防、科学技術の近代化であ
る。今のところ実現に近付いているのは軍事の近代化である。

トウ小平は政治の近代化だけは断乎として拒否した。肥大化した経済が政
治(共産政府)を圧倒する危険を回避したのである。だから第2天安門事件
には反革命の匂いを嗅ぎ、断乎、弾圧した。

しかし発展する資本主義にとって共産党政府による様々な統制は邪魔以外
の何物でも無い。工場用地の確保一つとってみても、土地すべての国有は
障害でしかないが、自由にならない以上、共産党幹部を「買収」する以外
に方法が無い。

したがって多発する共産党幹部による汚職事件はいわば構造的なことで
あって、客観的にみれば「事件」ではなく「日常茶飯事」に過ぎない。

しかも冒頭に述べたように「私欲」は本能のようなものだ。所有を否定す
るのが共産主義の思想でも「本能」には勝てっこない。つまり共産主義体
制化で経済だけを改革開放すれば汚職簸自動的に起きるし、共産党幹部に
すれば、現状を変更するメリットは全く無いわけだ。

汚職は時たましか発覚しない。摘発で死刑になるのは不運な奴で政府の知
るところではないのだ。かくて中華人民共和国政府は汚職にデンと腰を下
ろした政権。民主化を抑え、人権無視の批判など絶対耳に留めない。耳が
左右に付いているのは右から聞いたら左から逃す為にあるのだ。2010・12・5



◆今より大きかった「太閤大阪城」

毛馬 一三

このところ大阪城は、桜で満開になり出した。大阪美景の象徴な場所だ。

ところで、国の特別史跡に指定されている大阪城が、実は「太閤秀吉築城の大阪城」ではなく、総てが「徳川大阪城」だと知る人は、意外に少ないのではないか。

では秀吉が、織田信長から引継ぎ築城した元々の「大阪城」は一体どこに姿を消したのか。

橋下徹前大阪府知事が、先般、大阪南港の元WTC高層ビルへの府庁舎全面移転を断念したことから、大阪本庁舎が元のまま活かされることになったため、本庁目の前の「大阪城」の歴史的価値とからんであらためてこの話題が持ち上がりだした。

そう言えば、大阪城を巡って様々な話題がある。

「聳える天守閣は昭和初期に再建され、城の堀は徳川方によって埋められたことは承知していたが、だからと言って秀吉大阪城の城跡が些かも無いとは全く知らなかった」云々である。

大阪城への朝の散歩を日課とする人々や大阪府庁の知人らからも、異口同音に同様の返事が返ってくる。

大阪城真近の天満橋から大手前、森の宮、新鴨野橋と城郭を一周する道筋からは、「大阪城の高い石垣と深い堀」が、雨滴の葉が陽光を跳ね返す樹林の間からと、大きく広がる視界の中から歴史の威容を誇らしげに見せ付ける。特に大手前周辺の高さ32mもある幾重もの「反りの石垣」には、当時の石垣構築技術の進歩の姿を覗かせる。

大阪夏の陣で豊臣家を滅亡させた徳川家康は、同戦いの2年後(1616)死ぬが、家康遺命を受けた秀忠が、元和6年(1620)から寛永6年(1629)までの10年3期にわたり大阪城を大改築する。その時徳川の威令を示すために、「太閤大阪城」の二の丸、三の丸を壊し、総ての「堀」は埋め、「石垣」は地下に埋め尽して、豊臣の痕跡をことごとく消し去ったとされている。

眺める大阪城は、総て「徳川の手になる城郭」だったのだ。では「太閤大阪城」は、どうなったのか。

「大阪城石垣群シンポジウム実行委員会」の論文をみると、そこに「太閤大阪城」が地下に埋められたままになっていた遺跡の一部を発掘した調査記録が下記のように書かれている。

<地下に埋蔵された「太閤大阪城」の石垣を最初に見つけたのは、大阪城総合学術調査の一環として大阪城本丸広場で行われたボーリング調査だった。昭和34年(1959)のことである。天守閣跡の南西にあたる地下8m から「石垣」が見つかった。

4m以上も積まれた石垣で、花崗岩だけでなく、様々な石を積み上げた「野面積み」だった。「野面積み」は、石の大小に規格がなく、積み方にも一定の法則が認められないもの。当時城郭作りの先駆者だった織田信長が手掛けた安土城の「野面積み」工法と同じだったことから、秀吉がその工法を導入して築いた「石垣」と断定された。

それから25年後の昭和61年(1986)になって、再び天守閣跡の南東部の地表1mの深さから地下7mまで、高さ6mの「石垣」が発見されている。

この石垣も「野面積み」だったうえ、その周辺で17世紀初頭の中国製の陶磁器が火災に遭って粉々の状態で見つかったことから、大阪夏の陣で被災した「太閤城」の「石垣」であると断定される2回目の発見となったのである。

両「石垣」の発見場所の位置と構造を頼りに、残された絵図と照合していくと、この「石垣」は本丸の中で最も重要な天守や、秀吉の家族が居住していた奥御殿のある「詰め丸」と呼ばれる曲輪(くるわ)の南東角にあたることが明らかになったのである。

地下に消えた「石垣」は、切り石が少なく、自然石や転用石を沢山積み上げたもので、傾斜が比較的ゆるい、「徳川城」とは異なる「反り」の無い直線だった>。

第3の発見は偶然が幸いした。現在の「大阪城・西外堀」の外側の大阪城北西で、平成4年に大阪府立女性総合センター(ドーンセンター)建設の際の発掘調査で、地下から長さ25m に亘る「太閤大阪城の石垣」が出現した。同石垣は、いま同センターの北の道沿いに移築復元されている。

何よりもこの発掘の価値が大きかったのは、今の大阪城郭からかなり離れた外側で「石垣」が現れたことだ。それは徳川の「城」よりも「太閤城」の方が遥かに規模が大きかったことの証ということになる。

しかも、上記ドーンセンターに隣接する学校法人追手門学院の校庭に「太閤大阪城」の石垣が、今も大切に保存されていることを、私は見た。

非公開なので、許可なしでは見ることができないが、ドーンセンターの石垣と同様、大阪城の外堀からかなり離れたところにあるため、あらためて「太閤大阪城」がいかに大きかったか確かめられる。出来れば学院に公開を求めたい。

地下に眠る遺跡の発掘調査は、エジプトやイタリアなど文明発祥地でブームになっているが、現在進められている大阪市の大阪城発掘調査で、「天下の台所」の基礎を築いた「太閤大阪城」の遺跡が、今の城郭の外側でさらに発見かることを期待したい。(了)(再掲)

◆日本初の産業用水力発電所

渡邊 好造



山科区にある京都市最大の施設は”琵琶湖疎水(山科疎水)”である。

明治維新後、首都が東京に移ったことで人口の3分の1が流出し、このままだと京都は沈没するのではないか、そんな危機感もあって産業振興の狙いから手がけられたのが琵琶湖の水をひく疎水建設で、京都のあせりが生み出した産物といえる。

疎水は滋賀県大津市の観音寺、三井寺辺りを基点にして山科区北部の山の斜面に沿って、左京区蹴上までの約11キロメートルにわたる水路である。

明治18年(1885年)に日本人技師のみで着工した最初の大工事で110年前の明治23年(1890年)に完成した。日本初の"産業用"水力発電所建設が最大目的で、これにより蹴上発電所が翌明治24年(1891年)に稼動(現在も無人で運転中)、明治28年(1895年)この電力により国内初の市電が京都市内で運行された。

なお、最初の水力発電所は明治21年(1888年)の仙台市三居沢(さんきょざわ)発電所で、国指定有形文化財として今も残されている。

疎水建設の当初予算は60万円だったのが、明治政府の意向もあって、最終的には125万円に倍化され、当時の京都府年間予算の2倍に相当した(資料・京都市上下水道局)。

使用したレンガは1370万個、地下鉄・御陵駅の近くにレンガ工場跡の記念碑がある。現在の水路は、何回もセメントを吹付けて改修されているので、表面にレンガはない。

疎水は、大津・京都間の船による輸送手段としても活用され、昭和23年(1948年)まで利用された。そうした船便の名残りが、”蹴上インクライン(台車を使って船を引張り上げる線路)”の遺跡である。疎水は山科日ノ岡までの傾斜は緩いが、ここから蹴上へは急な下り坂となるので、このインクラインが利用された。

また、疎水の水路北側に沿って、上水用として第2疎水建設工事が明治41年(1908年)に着工され、明治45年(1912年)に完成した。こちらは全て暗渠となっているため山科の住民でも知らない人が多い。

筆者宅から疎水までの距離は約100メートル。ちょうどそこには3つ目の疎水トンネル(トンネルは全部で4つ)の入口があり、明治時代の政治家・井上 馨の揮豪による偏額(門戸等に掲げる横に長い額)が、当時のまま埋めこんである。

偏額には『仁呂山悦智為水歓』(じんはやまをもってよろこび ちはみずのためによろこぶ = 仁者は動かない山によろこび 智者は流れゆく水によろこぶ)の8文字が彫られている。京都あげての力の入れようが、ここにも残る。
 
京都はお寺中心の古都の印象が強いが、明治維新後は産業面でなんとか振興をはかろうと、日本の最先端技術を駆使して走り始めていた。
 
疎水に関しては、平成元年(1989年)8月に完成した左京区「琵琶湖疎水記念館」(地下鉄東西線・蹴上駅下車)に詳しい。
 
ところで、京都市左京区の南禅寺境内には、ヨーロッパ遺跡に似た赤レンガ造りの「水路閣」(疎水の水をひく水道橋)が残されているが、建設当時は京都の景観を損ねるとして大反対運動が展開されたらしい。

そんな反対運動の心意気が在ったのなら、何故あの悪名高い「京都タワー」建設時(昭和39年=1964年)にどうして発揮されなかったのだろうか。当時の京都市の人口131万人にあわせて高さ131メートルの灯台を模したコンクリート・タワーが古都京都にふさわしいと考えた連中がいたとは、とても解せない。

京都市は新景観条例を制定し、建物の高さ(最高31メートル)や看板の色・デザインを規制強化し、将来は市電の復活、電線電柱の地下化を目指す、といった百年河清を待つような方針が今頃になって出始めている。

NHK京都放送局のTVニュース番組の放送終了時、京都市内の夜景の画面中央にライトアップされた不釣合いな京都タワーが突き出しているのをみるたびに腹立たしい思いにさせられる。(完)