2017年04月26日

◆日本に及ぼすこの上なき深刻な脅威

櫻井よしこ



「トランプのシリア攻撃で複雑化した中東情勢が日本に及ぼすこの上なき
深刻な脅威」

ドナルド・トランプ米大統領はシリアの化学兵器使用にも手を打たないの
か。そう考えて、先週、本欄で批判した。ところがその直後の4月7日(日
本時間)、米国は断固たるシリア攻撃に踏み切った。
 
180度の方針転換。それを受けて異例のスピードで展開されたシリア攻撃
は、短時間の準備であったにも拘わらず極めて周到になされており、米国
の力を見せつけた。
 
シリアで化学兵器使用の第一報が入った4日、トランプ氏は、「許せな
い」と発表したものの、シリアやロシアではなく、オバマ前米大統領の
「弱腰」を非難した。その声明には戦略もなければ犠牲になったシリア国
民への同情の言葉もなかったが、その直後、トランプ氏は豹変し、53時間
後には攻撃を開始したのである。
 
断固たる攻撃で、トランプ政権は、力の行使を回避し続けたオバマ外交
と訣別した。この変化を引き起こしたのが、化学兵器で苦しみ、死亡した
犠牲者たちの映像だったという。

「女性や子供、かわいい赤ちゃんたちまで殺害された」「その悲劇が私の
アサド政権への考えを根本的に変えた」と、トランプ氏は語っている。
 
この真っ当な怒りが米国の国家意思となって、実質2日強という極めて短
時間に、59発の巡航ミサイルの発射につながった。類例のない短期決戦に
関しては、国連決議も得ていない。米国単独で断行した軍事作戦に関して
は、軍事作戦が終了する頃に、マイク・ペンス副大統領らが、米議会要人
や外国の首脳らに、事後報告を行った。

それでも、共和・民主両党が、さらにはほとんどの国が理解し支持した。
強い米国、行動する米国の復活を米国自身も世界も望んでいたのである。
 
米国は短期的には、揺らいでいた信頼性と強制力をある程度、取り戻し
た。だが問題はこれからだ。

「ウォールストリート・ジャーナル」紙は、攻撃直後の4月7日の社説で
「全ての軍事行動にはリスクがつきまとう。しかし今回のシリア攻撃は、
もし、トランプ氏が攻撃後、力強い外交を展開するなら政治的、戦略的に
大きな国益につながる」と書いた。
 
力強い外交とは具体的に何か。シリアの化学兵器使用を容認しないとい
う意思を軍事行動で示したものの、中東情勢はもはや単純な「力強い外
交」でおさまる状況ではない。
 
かつては「アサド対反政府勢力」の二者対立の構図だった。しかし、シリ
ア内戦の激化をうけて、状況は非常に複雑化している。アサド政権の背後
にはいまや、ロシア、イランが存在する。レバノンのイスラム過激派ヒズ
ボラもアサド大統領の側に立つ。イスラム国(ISIS)は力を失いつつ
あるものの、この間にアルカイダが勢力を盛り返している。
 
一方で米国は、シリア攻撃は北朝鮮への警告だとも語っている。北朝鮮
の核・ミサイル開発抑止に関しては、中国の協力が得られない場合、「中
国抜きで解決する」とトランプ氏は発信した。
 
4月9日には空母、カールビンソンが朝鮮半島周辺海域に向かった。また、
米韓合同演習が史上最大規模で4月末まで続く。トランプ氏の言う「中国
抜きの解決」とは何か。北朝鮮にさらなる制裁を科し、中国の制裁破りを
許さないために、中国銀行に的を絞って制裁を科す可能性さえある。ブッ
シュ政権当時はバンコ・デルタ・アジアという小さい金融機関を標的にし
たが、今回、中国銀行が標的になれば、その影響は非常に大きい。
 
もしくは、北朝鮮の豊渓里核実験基地や、東西両海岸にあるICBM(大
陸間弾道ミサイル)の発射基地への攻撃も考えられる。ロシア、中国の反
応を見ながらの外交・安保政策は、展望が見通しにくい。確かなことは、
日本に迫る脅威はこの上なく深刻だということだ。

『週刊ダイヤモンド』 2017年4月22日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1178

◆日露首脳は「半島非核化」で合意せよ

杉浦 正章



対北で「日露協調」を目指すべきだ
 

G7に対露制裁で食い違い
 

金正恩が米空母艦隊の攻撃を恐れ核実験もICBM実験もちゅうちょし始めたなかで、首相・安倍晋三は明日27日からロシア、イギリス訪問に出発する。17回目のプーチンとの会談では北方領土問題が主議題になるが、安倍は25日「少しでも前進させたい」と発言した。これは、既に合意した「4島での共同経済活動」を平和条約締結に向けての一里塚と位置づけて、現地調査の実施などでの合意を目指す構えだろう。ただ極東の極度の緊張を反映した北朝鮮問題や、欧州に「制裁疲れ」が見え始めた対露制裁問題も協議の対象となる公算が高い。


筆者は北朝鮮問題では日露首脳が「朝鮮半島非核化」では一致し得る環境が整いつつあると思う。一致すれば北は日米露中に非核化を迫られる形となり、金正恩が聞くかどうかは分からないが、外交的には大きな成果となろう。
 

ロシアは日米韓と中国が対北圧力を強める中で、ロシアは対日密輸や工作員の潜入で悪名高きマンギョンボン号の定期航路での運航を決めた。月6回にわたり北朝鮮北東部の羅津港とウラジオストク間を往復するが、ロシア側は国連安保理決議の制裁品目を輸出はしないとしており、日用品が中心となるようだ。北朝鮮が四面楚歌の中でのロシアが融和策とも受け取れる行為に出たのはなぜか。


筆者は背後にプーチンの狡猾なる戦略があるものとみる。それは金正恩を“手なずけ”て、最終的にはロシアの影響力を世界に示そうというものだろう。核実験を諦めさせるための迂回作戦ではないか。
 

ロシアのドミトリー・ビリチェーフスキー駐日公使は民放番組で「ロシアは北朝鮮の核武装を支援することはない」と明言するとともに、北とは次官級の会談を行い、核実験やICBM実験を抑える動きをしていることを明らかにしている。


一方中国は朝鮮半島問題特別代表武大偉が韓国を訪問して「中国はいかなる場合でも北朝鮮を核保有国として認めない」と発言している。武大偉は25日来日、4日間滞在して外務省アジア大洋州局長の金杉憲治と会談する。半島非核化を主張するものとみられる。こうした中での安倍訪露は、朝鮮半島非核化合意に向けての大きなチャンスとなるだろう。安倍はプーチンに金正恩説得を勧めるのもよいかもしれない。ロシアはまだ金正恩との首脳会談を行っていない。接触は次官クラスにとどまっている。
 

対露制裁に関してEUでは、昨年末に制裁を半年延長することを決めた。しかし、EUの中では、期限切れを控えて変化ともみられる流れが生じている。もともと欧州はイギリスが対露強硬論であるものの、ドイツ、フランス、イタリアは柔軟姿勢をとりつつある。中でも注目すべきはドイツ首相メルケルのロシア訪問だ。


既にメルケルは2015年5月にモスクワでの対独戦勝70周年記念式典に欧米諸国首脳でただ1人出席している。ウクライナ情勢を巡ってロシアと対立する欧米諸国の首脳らは出席を見送った。今回のメルケルのロシア訪問は5月2日に予定されている。
 

これまでのところ欧州による対ロ制裁が解除される見通しは立っていない。ただ、メルケルはロシア訪問で、プーチンと制裁問題を協議する用意があるようだ。メルケルの訪問に先だった安倍のロシア訪問で制裁解除問題が話し合われるかどうかだ。しかし、日本の対露制裁はもともと欧米との協調に主眼が置かれたものであり、日本が主体的に解除することは難しい。とりわけイギリス首相のメイが強硬論を維持している。


メイは1月の演説でトランプに対し「プーチン大統領と関わるのはいいが、注意すべきだ」と警告している。これに対して在英ロシア大使館はツイッターで「冷戦はずっと前に終わったはず」と不快感を示した。英国とロシアの対立が一番厳しいようだ。安倍はメイとの会談で欧州連合離脱に際して、在英日系企業が不利益を受けないよう配慮を要請することになるが、対露関係是正のアドバイスをしてもおかしくない。米露関係もトランプの選挙公約とはうらはらに、大統領補佐官マクマスター、国務長官ティラーソン、国防長官マティスらによって伝統的な対露警戒路線に回帰してきている。
 

こうした状況から、5月26、27日に開かれるシチリア・サミットは対露制裁をめぐってG7内部が割れる危険性を帯びている。とりわけ米、英、仏、伊が初参加であり、出席通算6回目の安倍と、12回目のメルケルが果たす役割は大きい。またプーチンが安倍やメルケルを利用して分断の動きに出るかもしれない。警戒はしなければなるまい。


いずれにしても朝鮮半島の緊張感を解除するためにはサミットの団結は不可欠であり、安倍の“橋渡し”と“調整”が極めて重要になる。G7とロシア、中国が足並みをそろえて、北に核開発の中止を迫る構図は日本にとっても極めて重要であろう。

       <今朝のニュース解説から抜粋>  (政治評論家) 

◆本当はとっても身近な景品表示法

川原 俊明(弁護士)



 景品表示法と聞いて、一般の人はあまりピンとこないと思いますが、実は、非常に身近な法律なのです。

 消費者が、商品・サービスを購入する際、実際よりもよく見せかけて表示されたり、過大な景品類の提供が行われたりすると、それにつられて、悪質な商品を購入することになり、結果的に不利益を被るおそれがあります。

 そこで、消費者が、正確な情報をえて、良い商品を購入できるようにするため、景品表示法で規制して、一般消費者の利益を保護しようというのです。
 景品表示法は、以下のとおり、大きくわけて、ふたつの規制をしています。

 ひとつは、不当な表示の禁止です。

 具体的には、@「100%果汁」と表示したジュースの果汁成分が、実際には、60%であったり、A「大学合格実績bP」と表示していたが、他校と異なる方法で数値化して、適正な比較ではなかったりなどの不当な表示を禁止しています。

 もうひとつは、過大な景品類の提供の禁止です。

 具体的には、商店街のセールでの福引きで非常に高額な景品を提供したり、商品購入に伴って非常に高額な景品を提供したりすることです。法律上、前者には、30万円までの制限、後者には、1000円以上の取引価格のものについては、取引価格の2割までという制限があります。

 では、これらの規制に違反しているのを見つけたときは、どうすればいいでしょうか?そのときは、消費者庁、または、公正取引委員会へ情報提供すれば、関係官庁が調査し、場合によっては、警告、違反行為の差し止めなど必要に応じた「措置命令」を行ってくれます。

 当事務所の、熱意のこもった接客対応は、口コミやホームページの評判よりもよいので、警告をいただくかもしれません♪

2017年04月25日

◆「リベンジ」という使い方

室 佳之



4332号渡邊好造さんの片仮名の話は、確かに、なるほど、そうだそうだと
思い読みました。小生も『リベンジ』という使い方は、どうにも好きにな
れません。

ヘルパーをやっていた数年前、別のヘルパーがとある利用者宅で色々と拒
否に会い『次こそリベンジ!』と発したので、『それって本来の意味から
すると、復讐しに行くって意味だからおかしいぞ』と指摘したことがあり
ます。

ところで、文末に『ハングル文字』と書いていますが、ハングル自体に文
字の意味が含まれていますから、『文字』をつけるのは不自然です。加え
て、中国は漢字を簡略化したかも知れませんが、日本も戦後間もなく、簡
略にして今に至っていますから、他所様のことを云える立場でもないとい
うのが小生の考えです。

韓国も漢字は消えかかっているものの、使う時は旧漢字を使ってます。


◆ベトナム独立運動を扶けた日本人

伊勢 雅臣



ベトナム独立に共鳴する日本人の支援を受けて、300人に及ぶ留学生が日
本で学んだ。

■1.両陛下を大歓迎したベトナム国民

本年2月28日から3月6日にわたって、両陛下が初めてベトナムを訪問さ
れた。

ベトナム・フエでは空港から約16キロの宿舎までの間、ほぼ途切れること
なく沿道で地元住民が両陛下を出迎え、日本国内各地へのご訪問と遜色な
い光景が見られた。[1]

両陛下はフエで独立運動家ファン・ボイ・チャウの記念館を訪問された。
ベトナムで日本語・日本文化を教えていた田中孜(つとむ)ホンバン大学
名誉教授はこの人物を次のように紹介している。

ヴェトナムでは、潘佩珠(JOG注: ファン・ボイ・チャウ)のことを知ら
ない人はいません。「ヴェトナム民族の独立と解放運動の最も著名な指導
者」として、教科書にも取り上げられています。また、潘佩珠の名前は学
校や道路にもつけられています。[2, p236]

このファン・ボイ・チャウはフランスからの独立を目指して、日露戦争に
勝利した日本に学ぶ「東遊(ドンズー)運動」を始め、一時は300人もの
留学生を日本に呼び寄せて独立の志士として育てた人物である。その過程
で朝野の日本人が親身になって彼らの世話をし、運動を支援した。

ベトナムの人々がこれほどまでに両陛下を歓待したのも、そういう日越の
歴史的な繋がりも一役買っているだろう。本号ではファン・ボイ・チャウ
と彼を助けた日本人たちの足跡を辿ってみたい。


■2.「全生涯をかけて革命運動にこの身を捧げる」

見なれない1隻の船が『浅羽病院』のある海岸に着いた。(中略)船に
は、大きな魚樽(だる)が乗っていた。中から風采(ふうさい)ただなら
ぬ人物が出てきた(注… この海岸は、神奈川県前羽村町屋<現在は神奈川
県小田原市の一部> の海岸)。集まってきた漁師たちは話しかけても通じ
ない。筆談もだめ。『この村でいちばん偉いのは浅羽先生だ。先生の所へ
行けば何とかなるだろう』と。[2, p78]

静岡県浅羽町の『町史』の一節である。ファン・ボイ・チャウが日本に上
陸した経路については諸説あるが、この記述が信憑性が高いと田中氏は指
摘はしている。

ファンは1867年、日本の明治維新の前年にベトナム中部の旧首都フエの郊
外で生まれた。父は貧しい寺子屋を営んでいた。その父に厳しく躾けられ
て、ファンは神童と呼ばれた。父はファンが学者として育ってくれる事を
期待したが、当人は祖国ベトナムがフランスのもとで植民地化されていく
現状を悲憤慷慨し、シナ古典の勉強では飽き足らなくなっていった。

フランスのベトナム侵略は、1802年にベトナムを統一した阮(グエン)朝
がキリスト教宣教師とフランス人傭兵部隊の力を借りた時点から始まって
いる。キリスト教の浸透が徐々に進み、フランス人の影響力も強まって
いった。フランスは軍艦を送って、ベトナム支配を徐々に広げ、1884年に
はベトナム全土がフランスの保護下に置かれた。

抵抗したベトナム人は逮捕され、処刑された。1902〜3年の間に2万4380
人が収監され、1万2千人がギロチンで処刑されている。ファンは20歳の
時に、「不法侵略者フランス軍から祖国の独立と同胞の自由を奪還するの
には革命以外には道はない」と考え、「全生涯をかけて革命運動にこの身
を捧げる」と決意した。


■3.「ベトナムは日本に学ぶべき」

ファンは、フランスの傀儡となっていた阮朝13代のバオ・ダイ帝を見限
り、阮朝初代からの直系であるクオン・デ侯を盟主として、立憲君主国を
建てることを目指した。同志を集めつつ、国際情勢を研究して、日本に着
目した。

日本は若い志士たちが力を合わせて、明治天皇を中心とする新政府を樹立
し、急速な近代化を進めていた。ロシアと戦争になりかけているが、必ず
日本は大国ロシアに勝利するであろう。ベトナムは日本に学び、かつ独立
のための武器援助を受けるべきだ、とファンは考えた。

1904年、ロシアのバルチック艦隊がベトナムのカムラン湾に寄港し、その
威容を見た人々は「こんな凄い艦隊を日本がやっつけることができるわけ
がない」と、ファンを疑った。しかし日本海海戦で日本が大勝利を上げる
と、ベトナム人同志たちは日本の力を再認識し、ファンへの評価と信頼も
一気に高まった。

1905(明治38)年1月20日、ファンはシナ人に変装して、ベトナムを脱出、
香港、上海を経由して、4月下旬、日本に上陸したのである。


■4.東遊(ドンズー、日本に学べ)運動の発端

言葉も分からず、知人とていないファンを世話したのが、医師・浅羽佐喜
太郎だった。朝羽邸の近くに大隈重信(おおくま・しげのぶ)の別邸があ
り、朝羽はファンを紹介したようだ。大隈はすでに日本初の政党内閣を組
閣した元勲であり、この時点では野党・憲政本党の党首で、腹心として犬
養毅(いぬかい・つよし)がいた。

浅羽とともに、大隈・犬養と会ったホァンは筆談で、革命への援助を要請
した。しかし、犬養は「日本政府が武力をもって他国の革命運動に参加す
ることは国際法上不可能であるが、政党としてなら我々は貴下の計画を支
援する用意がある」と答えた。そして大隈はこう提案した。

愛国の青少年の海外脱出の勇気とこれを激励する指導者なくしては、救国
運動は不成功になるに決まっている。貴下のなすべき急務とはまさにこの
ことである。貴下の党の勢力が増加傾向にあるのであれば、思い切ってこ
の際、同志来日を勧誘したらどうであろうか。愛国心に富む我々日本人
は、貴下およびその同志達を礼をもって迎える。[2, p86]

ファンは感激し、大隈に丁寧に一礼した。さらに犬養は、クオン・デ殿下
の来日を促し、将来の立憲君主国の君主としての見聞を日本で広めること
を勧めた。これが東遊(ドンズー、日本に学べ)運動の発端となった。


■5.300人ものベトナム留学生

ファンは7月上旬、ベトナムに舞い戻り、日本での状況を説明した上で、
9月末に横浜に再上陸した。この時は3名の学生を連れていた。また一行
の後を追って、さらに6人が来日した。

一同は浅羽医師の病院に住み込み、日本語などの勉学に打ち込んだ。犬養
は3名を振武学校に、1名を東京同文書院に入学させ、給費生として学費
も支給されるようにした。振武学校は陸軍士官学校入学を目指すシナ人の
ための学校で、蒋介石もここで学んでいる。東京同文書院もシナ人留学生
のために創設された学校である。

明治40(1907)年3月には、クオン・デ侯もベトナムを脱出して、横浜に辿
り着いた。生まれながらの地位も名誉も捨て、妻と幼い子供たちを残して
の来日だった。振武学校はクオン・デを受け入れたが、フランスの了解が
ないため、貴賓としてではなく一介の留学生として受け入れざるを得な
かった。

ベトナム人留学生たちは、日本で懸命に勉強し、心身を鍛えた。その様子
がベトナムに伝えられると、留学希望者が殺到し、明治40年には約200人
に達して、さらに増える勢いだった。学生の急増で東亜同文書院の教室が
足りなくなると、同校の役員たちは私財を投じて、5つの教室を増築した。

ベトナムの志ある人々は、一人でも有為な青年を日本に送ろうと高額の旅
費を工面し、フランス官憲の厳重な警戒をくぐり抜けて留学生を送り出し
た。やがて留学生は300人もの規模に達した。

 
■6.ドンズー運動の終焉

ファンはドンズー運動を拡大するために、檄を書いては、母国に一時帰国
する留学生に持たせて、配布させた。『全国父老に敬告する』では学生の
留学費用の援助を呼びかけ、『海外血書』では、「東洋の大国日本」にお
いては「仁義あふれる対応」をしてもらえるのに、祖国ベトナムにおいて
は「牛馬鶏豚の家畜類」と同類に扱われていると、フランスの統治を厳し
く攻撃した。

フランス総督府はこれらの印刷物を入手し、証拠物件として日本政府に抗
議をしてきた。しかし日本政府は「該当するようなベトナム人はいない」
と突っぱねた。こういう時のために、ベトナム人留学生の国籍を清国とし
ていたのである。

明治41(1908)年、フランス総督府は一計を案じて、ファンに「有志から集
めた大金を渡したいので、受取の者を送られたい」とのニセの手紙を出し
た。二人の留学生が金を受け取りに帰国した所を逮捕され、機密書類は没
収され、2人は三年の禁固刑を言い渡された。

 ここに至っては、日本政府もフランス総督府の要求を断り切れなくな
り、学生たちに直ちに帰国する旨の手紙を自宅宛に書くことを要求し、こ
れを拒む者はフランス大使館に引き渡すと申し渡した。

 フランス総督府は、逮捕していた留学生の父兄に「お前が帰国してくれ
れば、私たち家族は解放されて無罪となり、お前の罪も問われないから」
と返事を書かせた。多くの親思いのベトナム留学生たちがその報せを受け
て、次々と帰国していった。

 フランス総督府はファンとクオン・デ侯の逮捕・引き渡しも要求した
が、日本政府はこちらは断固拒否した。大隈と犬養の強い反対があったよ
うだ。しかし、帰国旅費を工面できない大勢の留学生を見て、ファンは途
方に暮れた。

 犬養はファンに「一年くらい隠れていれば、かならず我々が元通りす
る」と約束し、日本郵船から「横浜−香港」間の乗船券100枚もの寄付
を取り付けてくれた。さらに自身のポケットマネーで2千円(現在価値で
約5千万円)を渡した。

 これで多くの留学生は帰国できたが、なおもファンと志を共にして、秘
かに日本に留まった者が百数十名いた。彼らは早稲田大学や東京帝国大学
などを卒業し、後に独立戦争の将校や地域の指導者、事業家として活躍す
るのである。


■7.浅羽佐喜太郎の義挙

 この前年、留学生の一人が街頭で行き倒れになっているのを、通りがか
りの人が見つけ、応急手当をしたうえに、かなりの金額を手渡して、名も
告げずに立ち去った、という新聞報道があった。この紳士が浅羽佐喜太郎
であり、助けられた留学生グエン・タイ・バットは、この縁で浅羽家に書
生として住み込み、同文書院に通った。

 グエンはファンの窮状を知って、朝羽に金銭的援助を求めては、と勧め
た。ファンは浅羽には来日以来、大勢の学生がお世話になっているのに、
これ以上、多額の援助を受けるのは忍びないと、少額の援助を申し込む手
紙を書いた。

 ところが、その手紙を受けとった朝羽は、家中の金をかき集めて、グエ
ンを通じて、ホァンに渡した。1700円(現在価値で約4千万円以上)
の大金だった。浅羽はかねてから医学の研究にドイツ留学を考えており、
そのための貯えを渡したようだ。

 ファンはこの義挙に驚き、感涙にむせんだ。そしてこの資金を使って、
独立のためのパンフレット作成や、活動費、旅費などに充てた。しかし、
明治42(1909)年、ついに日本政府はクオン・デ侯とファンに国外退去命
令を受けた。


■8.浅羽佐喜太郎の顕彰碑

 その後、ファンは大隅の紹介で、タイの王室の支援を受けてバンコク郊
外に農場を作り、留学生たちを呼び集めて、独立運動の拠点とした。さら
に1912年の孫文による辛亥革命の成功に刺激を受けて、在シナのベトナム
人を集めてベトナム革命軍を組織するが、袁世凱が権力を握ると逮捕され
て、4年間も監禁された。

 その後、ベトナムに戻ったファンはしばらく積極的な活動は控え、多く
の著書を著した。1918(大正7)年には秘密裏に日本を訪れた。日本に残留
している留学生たちと情報交換し、また大隈、犬養と会って、今後の活動
の助言を受けることが目的だった。さらに浅羽佐喜太郎へのお礼に向かっ
たが、浅羽はすでに亡くなっていた。

 ファンは驚き悲嘆にくれたが、浅羽から受けた大恩を思うと、このまま
では帰るに帰れないと、浅羽を顕彰する記念碑の建立を思い立つ。しか
し、資金が足りない。村長の岡本節太郎に挨拶に立ち寄って顕彰碑の話を
すると、村長は大いに感激して、費用の不足分は村民で運搬や据え付けな
どをやって、なんとか実現しようと皆に訴えた。

 こうして、わずか1週間後には、高さ2.7メートルの立派な石碑が建
てられた。碑文はファンが次の内容の漢文を書いた。

われらは国難(べトナム独立運動)のため扶桑(ふそう、日本)に亡命し
た。公は我らの志を憐あわれんで無償で援助して下さった。思うに古今に
たぐいなき義侠のお方である。ああ今や公はいない。蒼茫(そうぼう)た
る天を仰ぎ海をみつめて、われらの気持ちを、どのように、誰に、訴えた
らいいのか。ここにその情を石に刻む。[2, 161]

 1925年、フランス官憲に逮捕されたファンは、終身刑の判決を受けた
が、日本で学んだ留学生を先頭に、学生や市民が総督府、裁判所、刑務所
を幾重にも囲んで、減刑を求めた。その凄まじいエネルギーを恐れた総督
は、「今後は活動しない」という条件で釈放し、ファンはその後、フエで
軟禁生活を送った。

1940年10月25日、ファン・ボイ・チャウは75歳の生涯を閉じた。 その
1ヶ月前に日本軍がベトナム北部に進駐し、ベトナム独立の歴史は新 た
なページに入っていた。



■リンク■

a. JOG(338) 大東亜会議 〜 独立志士たちの宴
 昭和18年末の東京、独立を目指すアジア諸国のリーダー達が史上初め
て一堂に会した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h16/jog338.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 産経ニュース、H29.03.06「日本の足跡、再発見の旅 両陛下ベトナ
ム、タイご訪問」
http://www.sankei.com/life/news/170306/lif1703060030-n1.html

2. 田中孜『日越ドンズーの華―ヴェトナム独立秘史 潘佩珠(ファンボイ
チョウ)の東遊(ドンズー)(=日本に学べ)運動と浅羽佐喜太郎』★★★、明成
社 、H22
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4944219903/japanontheg01-22/



◆どこまで続く、トランプの世界貢献

櫻井よしこ



月7日(日本時間)のアメリカ軍によるシリア攻撃は驚きだった。
 
シリアで化学兵器が使用されたとの第一報が入った4日(現地時間、以下
同)、トランプ氏は声明で、「許せない」とし、シリアや後ろ盾のロシア
ではなく、オバマ前大統領の「弱腰」を非難した。

声明には犠牲になったシリア国民への特別な同情の言葉は全くなかった。
ところがそれから53時間後にトランプ氏は豹変し、シリア攻撃命令を下し
たのだ。「女性や子供、かわいい赤ちゃんたちまで殺害された」「その悲
劇が私のアサド政権への考えを根本的に変えた」と、氏は怒った。
 
真っ当な怒りである。この怒りはこれからどこまで続き、どこまで広がる
のか。この怒りで、アメリカは再び世界の秩序を守り立てる国となるのだ
ろうか。
 
シリア攻撃のニュースはトランプ氏の豪華な別荘に招かれていた中国国家
主席・習近平氏にとって、驚きを超える屈辱だったのではないか。
 
両首脳は確かに和やかな話し合いの印象づくりに心を砕いた。トランプ氏
は東シナ海及び南シナ海問題では国際規範の順守や、かつて習主席が軍事
拠点を作らないと約束したことを守るよう要求した。
 
スプラトリー諸島に作った滑走路についてトランプ大統領は厳しく質した
が、習主席は「居住用の滑走路だ」と答えたと、政府要人は語る。
 
トランプ氏は、もし中国が北朝鮮の核・ミサイル開発阻止に協調しないの
なら、アメリカ単独で行う用意があるとすごんだが、中国は明確には反応
しない。一方で台湾、チベット、南シナ海問題では中国の原則的立場を強
調した。「高高度防衛ミサイル」(THAAD)システムの韓国配備にも
重ねて反対した。
 
米中間の懸案に見てとれる決定的な溝は全く埋めきれていないのである。
そうした中、友好関係を演出してにこやかに会談してみせたものの、その
間にアメリカはシリアを空爆していたのだ。アメリカ単独で断行した攻撃
は、明らかに北朝鮮及びその背後の中国への警告である。こうしたことを
習主席はディナーの終わりに告げられたのだ。

自国民に化学兵器を使用
 
ホワイトハウスの報道官、スパイサー氏の説明を聞くと、アメリカ側が周
到に用意していたことが伝わってくる。トランプ大統領が攻撃命令を下し
たのが、6日午後4時だった。それから3時間40分後には、地中海東部に展
開中の駆逐艦2隻から59発のトマホーク(巡航ミサイル)が発射された。
ミサイルは8時30分から40分にかけて着弾、59発のミサイルは10分程で発
射されたわけだ。
 
この頃、副大統領のマイク・ペンス氏を筆頭にレックス・ティラーソン国
務長官、ジェームズ・マティス国防長官、ハーバート・マクマスター国家
安全保障問題担当大統領補佐官らが米議会の主要指導部や外国首脳らに説
明の電話をかけ始めた。
 
すると、国連決議もなく、アメリカ単独で断行した軍事作戦を、殆どの国
が理解し支持した。強いアメリカ、行動するアメリカの復活を世界が望ん
でいる証左であろう。
 
一方、7時頃には、トランプ、習両首脳らのディナーが始まっていた。ス
パイサー氏は、食事もデザートも終わった段階でトランプ氏が習氏にシリ
ア爆撃について報告したと説明し、ティラーソン氏が習氏の反応を具体的
に語った。
 
トランプ氏は、アメリカ軍がシリアをミサイル攻撃したこと、理由は、ア
サド大統領が国際合意に反して自国民に化学兵器を使用し、女性、子供、
赤ちゃんたちを含む多くの命を奪ったからだと、説明したそうだ。
 
習氏はトランプ氏に、報告してくれたことと理由の説明に謝意を示し、
「子供たちまで殺しているのであればそのような対応は必要だ、理解す
る」と語ったという。
 
トランプ氏の気勢に呑まれたかのような位負けした反応は、南シナ海の軍
事用の滑走路を居住用だと強弁するイメージとは全く異なる。
 
翌日開催された国連安全保障理事会で、中国の劉結一大使はアメリカを
名指しはしなかったが、「軍事行動は状況を複雑化し、混乱させる」と批
判した。だが、なんと言っても国家主席が「理解する」と言ってしまって
いるのである。国連大使の批判はどうしても迫力を欠く。
 
首脳会談開催前は、中国が周到な準備で臨む一方、トランプ政権は幹部
ポストも空席が目立ち準備不十分で、中国がアメリカを交渉で圧倒するの
ではないかと危惧されていた。それ故に、首脳会談開催は早すぎるとも言
われていた。しかし、劇的なシリア攻撃によって状況はアメリカ有利に激
変した。

電光石火の決断
 
プーチン大統領も気勢を殺がれたのではないか。ロシア国防省は7日に
なって、目標地点に着弾したのは59発中半数以下の23発でミサイルの性能
は「非常に低い」と強調したが、7日の記者会見でティラーソン氏は全て
のミサイルが目標を正確に捕えたこと、作戦は大成功だったことを強調し
ている。
 
シンクタンク「国家基本問題研究所(国基研)」の太田文雄氏は「ロシア
も中国も同様のミサイルを保有していますが、中国は実戦の経験がありま
せん。全ミサイルが正確に目標を捕えていることは、中露にとっては相当
の脅威でしょう」と語る。
 
だが、アメリカはロシアを敵に回さないよう十分に注意している。地中海
東部で発射されたミサイルは南方向に進んでイスラエル上空から北西方向
に進路を取り、ロシアの海・空軍が使用している地中海に面したラタキア
近郊の基地を避けるため迂回して、内陸部にあるシャイラート空軍基地を
叩いた。
 
この基地からシリア政府軍は飛び立ち化学兵器の攻撃を実施したとされて
いる。アメリカはロシアが使用する空港には触れていないのだ。攻撃も2
時間前に通告した。ロシアとの対決を回避する姿勢である。
 
そのようなアメリカに対し、プーチン大統領は関係悪化を避けようとする
のではないか。国基研の田久保忠衛氏が語る。

「プーチン氏の足下では深刻な危機が発生し続けています。3月26日には
モスクワで3万人規模、サンクトペテルブルクで約1万人が反プーチン・反
政府デモに参加しました。4月3日にはサンクトペテルブルクで地下鉄爆破
テロも発生しました。問題山積のプーチン大統領は、強い軍事力をもっ
て、前例のない程の電光石火の決断で攻勢に出たアメリカと、結局、協力
せざるを得ないのではないでしょうか」
 
9日、アメリカ政府は原子力空母カールビンソンを朝鮮半島近海に向かわ
せた。北朝鮮情勢は非常に厳しく何が起きても驚かない。行動するアメリ
カが世界秩序を作れるか、まだ、不明だ。

『週刊新潮』 2017年4月20日号 日本ルネッサンス 第750回

◆民共は国際的「テロ戦争」に目を向けよ

杉浦 正章



法相の首など狙っているときか
 

「草」とは忍者で敵地に住み込み、敵地の住民と同化して、2代、3代に渡って破壊テロのチャンスを狙う者を指す。その北朝鮮の「草」が、いざ朝鮮動乱ともなれば新幹線や原発を狙って大がかりなテロを行いかねない時である。


ところが民進、共産両党は、これを未然に防止するテロ等準備罪法案の国会審議で、法相ごときの“斬首作戦”を展開している。この国の野党の国際感覚のなさは今に始まったことではないが、すぐそこにある危機ですら見えない。野党は戦前の治安維持法による監視社会に戻ると言うが、もし、オリンピックで未曾有のテロが成功すれば、日本は間違いなく監視社会に逆戻りする。


極右が台頭して、警察国家になるかもしれない。それこそ本当の危機ではないのか。大義は政府・与党にある。テロ法案は早期に成立を図るべき時だ。
 

共産党の田村智子は「国会周辺を歩くことが花見なのか、組織犯罪のための下見なのかどうして分かる」と質問した。愚問の最たるものだ。狙いは平和に花見をする一般国民が捜査の対象になるとこじつけたいのだろうが、花見の国民1億2千万人を捜査するほど警察は暇ではない。花見であろうが何であろうがテロリストが集まれば、捜査当局が動くのは当然だ。


そのような捜査は江戸時代からあった。由井正雪によるテロ未遂事件だ。歌舞伎では丸橋忠弥が千代田城のお堀の深さを小石を投げて図ろうとしているのを、松平伊豆守が見とがめて、忠弥の“内心”を読みとった。その場の逮捕ではないが捜査を進めて一網打尽にした。皇居や周辺の花見で刑事が勘を働かせて、怪しいとわかれば逮捕につなげる。これは捜査の常識ではないか。内心が読み取れなければ、敏腕な刑事とは言えない。
 

民進党は「保安林でキノコを採る行為を処罰することがテロ対策なのか」と、これまた愚問を提示した。277本の対象法案には、森林法の森林窃盗罪が含まれることを「理由が分からない」と鬼の首を取ったように追及するが、日本は憲法31条の罪刑法定主義をとっていることすら理解していないのか。人を犯罪者として処罰するためには、法律によって、 あらかじめ罪(構成要件)と罰を明確にしておかなければならないという原則だ。これがなければ、逮捕も起訴も出来ないのだ。なぜ森林法かと言えば、仮に松茸を3000本盗めば、十分テロ資金になる。ましてや鉱物資源などを盗めばテロ資金は潤沢だ。
 

自民党政調会長茂木敏充はNHKで「犯罪組織が水道水に毒物を混入した場合、その毒物を準備しても現行法体系では処罰できない」と述べた。テロ等準備罪法案の端的、明快なる説明である。野党は、早くも地下鉄サリン事件を忘れたのかと言いたい。犯罪組織オウムがサリンを製造し保有しているのをキャッチしておりながら、それだけでは逮捕に踏み切れなかった結果が死者13人、負傷者多数という未曾有の事件になったのだ。
 

野党による政府追及の手本となるのが、テロ法案を「共謀罪法案」と誤報し続ける朝日の社説だが、この社説も法相が愚鈍だから法案を通してはならないという、驚くべき反対論を展開している。4月22日の社説では「法相が自分の言葉で説得力のある説明をし、国民の理解を得る。それが法案に責任を持つ立場としての責務だ。それができないなら閣僚の資格はないし、法案は通してはならない。」と主張している。


朝日は法案の中身ではなく、1法相の資質で、法案の可否を決めるのか。社説子は、自ら議会制民主主義を否定していることが分かっていない。さらに社説は「野党の反対を押し切り、刑事局長を政府参考人として出席させることを委員長の職権で採決し、賛成多数で決めた。参考人の出席は全会一致で決めるのが慣例で、それを踏みにじったのは現行制度で初めてだ。」とも批判した。


しかし朝日は出先記者の原稿をデスクが直さないのだろうか。専門性が要求される法案においては、専門家である刑事局長の答弁が当然必要とされる。その方が質問者と答弁者が「知らぬ同士のチャンチキおけさ」にならなくて審議がスムーズに進むではないか。本末転倒の社説とはまさにこのことだ。
 

世論調査を見ても朝日の“偏り”が際立っている。朝日が15、16日に実施した世論調査では「テロ法案」に対する賛否が賛成35%、反対33%と拮抗(きっこう)した。しかし、読売のほぼ同じ時期の調査では、賛成が58%で、反対25%を大きく上回った。産経・FNNでも法案に賛成57・2%、反対32・9%だった。毎日の調査では賛成49%が、反対30%を上回った。明らかに聞き方や質問者の態度による違いが生じている。
 

今は間違いなく「テロ戦争」の時代だ。幸いにも日本にはISやアルカイダによるテロは発生していない。しかし、これらの組織が存在する限り、オリンピックは絶好のチャンスである。現にISは日本名指しでテロ実行を宣言している。国際的なテロの高まりに対して米欧は警察力の強化によって社会秩序を守るべきとする思想が台頭している。これはややもすると、社会の安全のためにはプライバシーの自由や個人の権利を制約されても仕方がないという動きに直結しかねない。


フランスでは極右のルペン支持者が増え、米国では移民の入国を制限するトランプイズムが多くの国民に支持されている。全てがテロ戦争対策である。野党は目先の重箱の隅を突っつく前に、この世界情勢に目を向け、テロ法案反対を撤回すべきである。国民への風評戦術が秘密保護法や安保法制で大失敗して、支持率が低迷している原因となっていることを想起すべきである。

       <今朝のニュース解説から抜粋>  (政治評論家)

◆巴里だより「さっぽろラーメン」

岩本 宏紀(在仏)



巴里の中心にサンタンヌ( Sainte Anne)という、バス1台がやっと通
れる一方通行の道がある。両側に日本食レストラン、ラーメン屋、うど
ん屋、すし屋、カラオケスナックが並んでいる。日本語の看板の下を日
本人が行き交う光景を眺めていると、まるで日本かと錯覚してしまう。

サンタンヌから一本入った道に、赤ちょうちんがぶらさがった「ラーメ
ン屋」がある。店員は中国人だが、ここの「さっぽろラーメン」は美味
い。ぼくがいつも注文するのは塩ラーメン餃子セットとハイネケン。ボ
リュームのあるどんぶりに胃も心も満たされる。

すっかり日本人気分で店を出るのだが5メートルも歩くと、ここは巴里
だったと我にかえる。百年は経っている石造りのアパルトマンと、それ
よりも古そうな重厚な国立図書館。そのあいだの小さな四角い空間が、
公園になっているのだ。

まわりを大きな樹に囲まれ、中央に女性の立像でできた噴水がある。女
性はセーヌとかロワールとかフランスの大きな川の名前の入った台座の
うえに立っており、その頭上の円盤から水が溢れ落ちるという趣向だ。

もうひとつ感心するのは色遣いだ。ベンチも街頭も深い緑色に統一され
ている。注意書きの立て札まで同じ色という徹底ぶりだ。樹との折り合
いがいい。この色のおかげで、淡いピンク色の女性の像が映える。

噴水を眺めるように数個のベンチが据えてあり、天気のいい日は読書を
するひと、お昼のサンドウィッチを頬張るひと、ぼんやりと時間を潰す
浮浪者を見かける。巴里の財政がどうなっているのかは調べていないが、
こんなふうに税金を使うのも悪くない。(了)

2017年04月24日

◆北は何を求めているのか

加瀬 英明



日本を守るA〜半島危機 北は何を求めているのか〜

朝鮮半島で戦争が始まる可能性が、高まった。日本は戦後で最大の窮地
に、立たされるようになっている。

トランプ大統領は、オバマ政権が中国という暴れ龍を仕付けることを怠
り、北朝鮮の核・ミサイル開発を放置していたツケを、支払うことを強い
られている。

私はトランプが大統領選に勝ったのを、手放しで喜んだ。もし、ヒラリー
が勝ったら、オバマ政権の8年間の対外政策の無策が続くことになって、
世界がいっそう安定を失うことになったろう。

私はトランプと「オポチュニティ」(機会)を合成して「トランポチュニ
ティ」(Trumpportunity)と呼んだが、トランプが予測不能だから期待し
た。それに選挙中、事務所にレーガン大統領とジョン・ウェインの等身大
の写真を飾って、「メイク・アメリカ・グレイト・アゲイン」と叫んでい
たが、「メイク・アメリカ・タフ・アゲイン」と聞えた。

トランプ大統領は、北朝鮮がアメリカまで届く核ミサイルを完成すること
を、「絶対に許さない」と、いっている。北朝鮮が6回目の核実験を強行
する場合には、核施設や、ミサイル基地を攻撃するか、中国に北朝鮮への
石油の供給を、完全に停めることを求めよう。

いったい、北朝鮮は何を求めているのだろうか?

北朝鮮は何よりもアメリカと交渉して、アメリカが北朝鮮を核保有国とし
て認めたうえで、米朝間に国交関係を結ぶことによって、金王朝の存続を
保証することを強く望んでいる。

ところが、ティラーソン国務長官は米中首脳会談が終わってから、「北朝
鮮が核開発を放棄しないかぎり、話し合いに応じない」と、言明した。

3月6日に、北朝鮮が4発のミサイルを発射して、3発が秋田県沖合に弾
着した。その直後に、北朝鮮は「在日米軍基地を狙った演習だった」と声
明した。日本の沖合に4発とも落すつもりだったが、1発が外れたにちが
いない。

4発のミサイル発射は、北朝鮮のアメリカへの熱烈な“ラブコール”だった。

7日後にマレーシア空港で、異母兄の金正男氏を、VXガスを用いて暗殺
した。なぜ、他の毒物を使わなかったのか。VXガスを大量に貯蔵してい
ることを、示したかったのだ。

おそらく、安倍首相がアメリカの袖に縋って、北朝鮮と話し合うように哀
願することを、期待したにちがいない。



◆「浜辺の歌」であわや

渡部 亮次郎



歌謡歌手の岩崎宏美が1日未明、深夜便で「浜辺の歌」を歌った。この時間
には「琵琶湖周航の歌」を舟木一夫が、「浜千鳥」を森繁久弥が歌ってい
た。「歌謡歌手の歌う叙情歌」だった。

その中の一曲「浜辺の歌」の取材であわや一命を取り落とすところだった
22歳の秋を思い出した。

私は大学を出てNHK秋田放送局に就職。1968年だった。6月からは大館
駐在の記者として、市役所前の下宿を根城に秋田県北部全体のニュースを
カバーしていた。

そうしたある日、米内沢(よないざわ)で作曲家、故成田為三の記念音楽
祭がある、と聞いた。まだテレビが地方まで普及していない時代。音楽祭
というのはどんなのか知らないがラジオにとってはうってつけの素材だろう。

ところが下宿で調べると録音テープが底をついているではないか。早速秋
田の局へ電話して、客車便で送ってもらう手配をした。夜9時ごろの奥羽
線下り急行で大館駅に到着することになった。

大学を出てまだ1年目とはいえ、既にいっぱしの酔客になっていた。急行
が到着するまで時間がある。一杯飲み屋で日本酒を飲み始めた。

銚子で2−3本は確かに飲んだ(酔った)。

時計を見て、自転車に跨った。坂道を下って駅を目指した。間もなくタク
シーにはねられて道端に吹っ飛んだ。新品の自転車はくちゃくちゃ。そこ
は坂下の十字路。確かに即死しても可笑しくなかったが、起き上がってみ
たら、額に小さな瘤ができているだけで亮次郎はちゃんと生きていた。

多分、酔っていたために無抵抗だったのがよかったのだろう。翌日は汽車
で米内沢をめざし、音楽祭の一部始終を録音して事無きを得たのであっ
た。デスクには秘匿した。老齢になって初めて人に語る真実である。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、成田 為三
(なりた ためぞう)は1893(明治26)年12月15日―1945(昭和20)年10月
29日)秋田県出身の作曲家。

秋田県北秋田郡米内沢町(現在の北秋田市米内沢)の役場職員の息子とし
て生まれる。1909(明治42)年、鷹巣准教員準備場を卒業、秋田県師範に
入学。同校を卒業後、鹿角郡毛馬内小学校で教鞭を1年間執る。

1914(大正3)年、上野にある東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に入
学。在学中、ドイツから帰国したばかりだった在野の山田耕筰に教えを受
けた。1916年(大正5年)頃、『はまべ(浜辺の歌)』を作曲。

1917(大正6)年に同校を卒業。卒業後は九州の佐賀師範学校の義務教生
をつとめたが、作曲活動を続けるため東京市の赤坂小学校の訓導となる。
同時期に『赤い鳥』の主宰者鈴木三重吉と交流するようになり、同誌に多
くの作品を発表する。

1922(大正11)年にドイツに留学。留学中は当時ドイツ作曲界の元老と言
われるロベルト・カーンに師事、和声学、対位法、作曲法を学ぶ。

1926(大正15)年に帰国後、身に付けた対位法の技術をもとにした理論書
などを著すとともに、当時の日本にはなかった初等音楽教育での輪唱の普
及を提唱し、輪唱曲集なども発行した。

1928(昭和3)年に川村女学院講師、東洋音楽学校の講師も兼ねた。
1942(昭和17)年に国立(くにたち)音楽学校の教授となる。1944(昭和
19)年に空襲で自宅が罹災、米内沢の実兄宅に疎開する。生家は阿仁川へ
りにあったが1959(昭和34)年に護岸工事で無くなっている。

実家で1年の疎開生活を送った後、1945(昭和20)年10月28日に再び上京
するが、翌日脳溢血で53歳の生涯を閉じる。葬儀は玉川学園の講堂で行わ
れ、国立音楽学校と玉川学園の生徒によって「浜辺の歌」が捧げられた。

遺骨は故郷の竜淵寺に納骨された。故郷の米内沢には顕彰碑が建てられ、
「浜辺の歌音楽館」で為三の業績を紹介している。

「浜辺の歌」や「かなりや」など歌曲・童謡の作曲家、という印象が強い
が、多くの管弦楽曲やピアノ曲などを作曲している。しかし、ほとんどが
空襲で失われたこともあり、音楽理論に長けた本格的な作曲家であったこ
とはあまり知られていない。

愛弟子だった岡本敏明をはじめ研究者の調査では、作品数はこれまでに
300曲以上が確認されており、日本の音楽界で果たした役割の大きさが再
認識されつつある。2012・5・1