2017年04月24日

◆本当はとっても身近な景品表示法

川原 俊明



 景品表示法と聞いて、一般の人はあまりピンとこないと思いますが、実は、非常に身近な法律なのです。

 消費者が、商品・サービスを購入する際、実際よりもよく見せかけて表示されたり、過大な景品類の提供が行われたりすると、それにつられて、悪質な商品を購入することになり、結果的に不利益を被るおそれがあります。

 そこで、消費者が、正確な情報をえて、良い商品を購入できるようにするため、景品表示法で規制して、一般消費者の利益を保護しようというのです。
 景品表示法は、以下のとおり、大きくわけて、ふたつの規制をしています。

 ひとつは、不当な表示の禁止です。

 具体的には、@「100%果汁」と表示したジュースの果汁成分が、実際には、60%であったり、A「大学合格実績bP」と表示していたが、他校と異なる方法で数値化して、適正な比較ではなかったりなどの不当な表示を禁止しています。

 もうひとつは、過大な景品類の提供の禁止です。

 具体的には、商店街のセールでの福引きで非常に高額な景品を提供したり、商品購入に伴って非常に高額な景品を提供したりすることです。法律上、前者には、30万円までの制限、後者には、1000円以上の取引価格のものについては、取引価格の2割までという制限があります。

 では、これらの規制に違反しているのを見つけたときは、どうすればいいでしょうか?そのときは、消費者庁、または、公正取引委員会へ情報提供すれば、関係官庁が調査し、場合によっては、警告、違反行為の差し止めなど必要に応じた「措置命令」を行ってくれます。

 当事務所の、熱意のこもった接客対応は、口コミやホームページの評判よりもよいので、警告をいただくかもしれません♪

2017年04月23日

◆「措置入院」精神病棟の日々(28)

“シーチン”修一 2.0



女性読者から次のコメントをいただいた。一部紹介する。

「この(夫婦仲の良い上記の)2つの例は、夫が妻より大人で、妻の心理
的欲求を満足させている例ですが、幸せな妻は夫のことも忖度するように
なる率が高いと思います」

小生はカミサンの「デキの悪いわんぱく小僧」みたいなもので、「見捨て
るわけにはいかないし、ホント、困ったクソガキ。でも時々可愛い
し・・・」とカミサンは迷っている感じだ。「♪憎い 恋しい 憎い 恋
しい めぐりめぐって 今は恋しい」、八代亜紀の歌のように。

その次は「憎い」となり、昨日のカミサンは1時間後には「恋しい」とな
り、愛憎相半ばという状態がしばらくは続くのだろう。医者に行った方が
いいと思うが・・・夫婦そろってビョーキというのはよくあることで、ダ
メ夫に愛着があると「♪尽くし足りない私が悪い」と自責の念にかられた
り、他者を恨んだりするようだ。島尾敏雄の奥さんミホも心を壊した。

比翼の鳥、連理の枝・・・仲睦まじい夫婦は1割あるかどうか・・・小生
の周辺では、それは例外的だ。カミサンにミホになられたら困るから、小
生は春琴に仕えた佐吉のように生きる「佐吉主義」で今のところシコシコ
やっているが、小生が再発狂しないためには精神の安定が大事で、それな
りにガス抜きは必要になる。たとえば――

昼食に「肉まん」を食べようと思い、散歩に出かける次女母子に調達を頼
んだが、「どこにも売っていない、店員にも確認した」と言う。がっかり
だ。肉まんはいつの間にか冷やし中華みたいに季節商品になってしまった
のか。

売り場の棚は限られているから売れ行きの良い商品を置くのが原則だろ
う。秋から冬には100個/日売れていたものは春以降は10個になるのか。
「それなら鍋の具材よりもっと売れるもの、行楽の季節だからサンドイッ
チやお握りの品ぞろえを増やそう」とかなって、売れ行きの悪くなった商
品は排除されたりするのだろう。

日本は料理に恵まれている。料理が発達する地域は「飢饉が発生しがち=
カタツムリ、ツバメの巣、クサヤ・・・何でも試してみる」、「絶対的な
王政が敷かれた=王様は宴会好きだから宮廷料理が発達する」、「暑い夏
や寒い冬など明確な季節がある=旬の食材・料理がある」というのが絶対
条件だろう。

この3点を満たしているのは中華料理、フランス料理が双璧で、これに続
くのがイタリア料理、日本料理あたりか。手を伸ばせばバナナがあるよう
な熱帯地では料理はなかなか発達せず“猫まんま”みたいなのが多いよう
だ。(熱帯の○○国を訪れた際にそう思ったのだが、ケナスのもどうかと
思って黙っていた。しかし、数年後に訪れた部下(女性)曰く“○○料理?
 ありゃ猫まんまですよ”。

熱帯地でも寒帯地でも地元の人にとっては「旨い!」というものはあるだ
ろう。米国ではアラスカで食べたカニはとても旨かったが、ビーフステー
キ(硬い!)、フライドチキン(南部ではサザンフライと言っていた)は
味は並だが量に圧倒された。日本の倍はある。

上記の部下は香港観光協会の招待旅行で食べた中華料理(上海料理、広東
料理だろう)の「あまりにもの美味しさに感動して涙が出ちゃいました
よ!」と言っていた(女はすぐに泣くなあ、感動しやすいのだろう)。

「感動」・・・大辞林(第五版)にはこうある。「深く心に感ずること。
感じて起こる急激な精神の興奮」。

精神病患者にとって負の感動、急激な精神の興奮はあまり良くないかもし
れない。気分が落ち込みやすく、家庭不和などによる破滅願望から「死刑
になりたかったので殺した、誰でもよかったが、できるだけ大事件を起こ
して家族や世間を騒がせ、復讐したかった」という症例は昔から多いようだ。

うつ病患者はそういうことをしてしまいかねないという不安を抱えている
のだろう、小生も自分自身が怖い。不満、ストレスが突飛な言動を誘発する。

優れたボクサーであった具志堅用高は試合直前の習慣となっていた「計量
後のアイスクリーム」を周囲から止められたことで戦意を喪失したのか、
世界王座から陥落した。たかがアイス、たかが肉まん、されどアイス、さ
れど肉まん。小生は食パンを利用して肉まんもどきを作り、鬱屈を解消した。

何事もなく感動の薄い穏やかな病棟日記から。

【2016/11/25】学研編「もう一度読みたい『教科書の泣ける名作』再び」
(2014)を読み始める。何しろ病棟でやることと言ったら、読書、作文、
服薬、カウンセリング、作業療法、室内歩行&運動(通路の1往復は150
メートル)、中2日の入浴、食事、多少のおしゃべりくらいしかない。

ナースは「脳を休めることはとても大事」としょっちゅう言うから、病棟
で感動や感涙することはまずない。たまに大声で泣き叫んだり暴れる娘さ
んもいるが、それはただの発狂にすぎない。

10:00から1時間ほどのOT(作業療法)は、数十年ぶりのラヂオ体操第1と
第2、さらに柔軟体操。その後は8人でチームを組んでホッケーゲームに興
じた。わがチームは大逆転され、トップから屈辱の最下位に落ちてしまっ
た。まるで小生の人生そのもので、こういう場面では笑うしかない。

車椅子の45歳ほどの白人も参加していたが、左腕なし、両足は義足で、慢
性期病棟の人のようだ。事故にでもあったのか、電車に飛び込んだのか、
この辺には米軍基地も多いから戦傷なのか・・・人生いろいろだ。(つづ
く)2017/4/22




◆属国憲法では国民の生命は守れない

加瀬 英明



日本を守るB〜属国憲法では国民の生命は守れない

4月15日に米大手テレビが、「トランプ政権が北朝鮮が核実験を行う確証
をえたら、先制攻撃を加えることを決定した」と、報じた。

北朝鮮は「最高指導部が判断した時に、いつでも核実験を実施する」「米
国の先制攻撃に手をこまねず、粉砕する」と反発した。

朝鮮半島は一触即発だ。トランプ大統領と、金正恩朝鮮労働党委員長の予
測不能の2人が、朝鮮半島と日本に戦火を招こうとしている。

3月6日に戻ろう。北朝鮮はミサイル4発を、日本を威嚇するために日本
の沖合へ向けて発射した。そのうち3発を、秋田県のすぐ沖合に撃ち込む
ことに、成功した。

そのうえ、念を押すように、7日後にマレーシア空港で、金委員長の異母
兄の金正男氏を猛毒神経ガスのVXを使って、暗殺した。他の毒物もある
のにX]を用いたのは、大量のVXを貯蔵していることを、誇示したのだ。

北朝鮮はかねてから米国と交渉して、北朝鮮を核保有国として認めさせた
うえで、米朝国交を結び、金王朝体制の存続を保障することを狙ってき
た。それに対して、米国が核開発を放棄しないかぎり話し合わないと、頑
なな態度をとってきたので、日本を脅して、米国に無条件で交渉に応じる
ように哀訴させることを、目論んだものだった。

ところが、3月6、13日以後も、日本の国会は朝鮮半島の危機が刻々と
募っていったのをわきに、与野党ともに属国根性を丸出しにして、何が起
こっても米国に任せておけばよいと、4月に入ってからも、わずらわされ
ることなく、おもしろおかしく森友学園問題に没頭していた。

金正恩委員長は最高幹部一同を前にして、「ソルマ(まさか!)」「イル
ボヌン(日本は)チョンヒョジュクゥムウル・ドゥリョウォハジアンコナ
(よほどの生命知らずか)コプチェンイイゴナ・ドゥルジュンエハナダ
(腑抜けのどちらかにちがいない)!」と、叫んだにちがいない。

5月3日には、日本国憲法が70周年を迎える。米国が70年前に日本を属国
とすることをはかって、押し付けたものだ。

私は「平和“無抵抗”憲法」と、呼んでいる。おそらく護憲派が全国にわ
たって、属国憲法の記念日を祝う集会を催すことになるだろう。

属国根性で国民の生命を守ることは、できない。私は日本国憲法や、森友
学園の籠池夫妻と心中したくない。

◆60周年記念行事 宏池会と語る会

馬場 伯明



2017/4/19(水)18:00〜長崎県の友人に誘われ「60周年記念行事 宏池会
と語る会」に行った。約4,500人の参加者は東京プリンスホテルの鳳凰の
間から溢れ会場は立錐の余地がない大盛況だった。故郷の長崎県選出のの
3人の国会議員が宏池会に所属している。金子原二郎(参)、北村誠吾
(衆)、古賀友一郎(参)の3氏である。

概況を報告する。私は政治評論家ではなく素人の報告と感想である。宏池
会には現在46人の国会議員が所属している(衆:30人、参:16人)。この
夜は何といってもポスト安倍を目指す岸田文雄会長がどういう話をするの
かが注目された。

岸田会長は、生まれ、育ち、そして政治経歴も文句なしの人であり、まさ
にサラブレットである。Wikipediaより。「岸田文雄 (1957年〈昭和32
年〉7月29日 − )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(8
期)、外務大臣(第147・148代)、宏池会会長(第8代)。内閣府特命担
当大臣(沖縄及び北方対策・規制改革・国民生活・再チャレンジ・科学技
術政策)、消費者行政推進担当大臣、宇宙開発担当大臣、自民党国会対策
委員長(第52代)などを歴任。

中小企業庁長官、衆議院議員を務めた岸田文武は父。戦前戦後に衆議院議
員を務めた岸田正記は祖父。参議院議員・経済産業大臣を務めた宮澤洋一
は従兄弟」。会長挨拶の全文(Web)から「さわり」を記す。ただし、
「です、ます」は「である」にし、修飾語の「しっかり」などを省く(馬
場)。

「しかし、いかに安倍総理が卓越したリーダーであったとしても、未来永
劫安倍総理一人に頼り続けることも許されないと考える。『安倍時代』も
いつかは後が巡ってくる訳であり、宏池会はその時に何をするのか、何を
しなければならないのか、これを今から考えておかなければならない」。

「ただ政策を論じるだけでは十分ではないと肝に銘じておかなければなら
ない。宏池会は「お公家集団」と揶揄され、「政局に弱い」とか「戦闘能
力に欠ける」といった指摘を受けたことがあった。こうした批判も謙虚に
受け止め政策を語りながら、政局に立ち向かい、政策を実行する力を蓄え
なければいけない」。

「本日お越しをいただいている多くの政策集団(派閥)の皆さま方とも切
磋琢磨し、連携しながら日本の政治のために汗をかいていきたい。・・・
最後に改めて、日本の政治を今日まで支えてこられた多くの先人の努力に
思いを巡らせ、今を生きる我々宏池会が、一致結束して、国民の期待に応
えるべく精進することを誓い、御礼のご挨拶とさせていただく」

これに対し18:15過ぎ遅れて会場に入った安倍首相は余裕の笑顔で切り返
した。「岸田さんももっと上を目指してほしいが、もうしばらく我慢して
政権を支えていただきたい」と。18:30には首相は会場を出た。

岸田会長の「安倍後を・・考えておく」という発言と安倍首相の「もうし
ばらく我慢して・・」という「切り返し」の発言に対し新聞等はそれぞれ
微妙な反応をしている。

(時事通信):岸田会長発言には「ポスト安倍に意欲をにじませた」:安
倍首相発言には「会場の笑いを誘った」。(以下、同順で記す)。
(朝日新聞デジタル):「(ポスト安倍に言及したが)この日も安全運転
だった」:「冗談交じりに岸田氏を牽制し会場は笑いに包まれた」
(産経ニュース):「将来的な党総裁選出馬への意欲を重ねて示した」:
「笑いを誘った」。

(読売新聞):「意欲をにじませた」:「会場を沸かせた」。

岸田会長の挨拶は常識的な「安全運転」発言に終わり、「笑いを誘った」
安倍首相の優勢に終わったと私には思われた。宏池会は、内部の結束を強
め外部へアピールする設立60周年の記念すべき会なのだから、各政策の違
いを含めもう少し明確に表明してもよかったのでないか。挨拶に立った自
民党の二階幹事長がそんなニュアンスでフォローしていたが・・・。

ところで、「宏池会」の由来は何か。1957(昭和32)年の設立趣意書の冒
頭に「自得する所あって動ぜず、綽々(しゃくしゃく)たる余裕あるを示
す」とある。後漢時代の碩学、馬融の文にある句「高光の榭(うてな)に
休息して宏池(こうち)に臨む」に因(ちな)むらしい。陽明学者(故)
安岡正篤氏の命名によるものであるという。

自民党の他の政策集団(派閥)を代表し、額賀福志郎氏(平成研究会)が
挨拶した。「自分が最年長の故・・」とことわったが、安倍首相への対抗
軸を設定するという意味合いからは(あえて)石破茂氏(水月会)に話し
てもらうという手もあったかもしれない。

なお、額賀氏の挨拶中に、後ろに整列し控えていた山東昭子氏(番町政策
研究所)や石原伸晃氏(近未来政治研究会)が、横を向き私語を交わして
いた。あれはいただけない。

経済界の代表としてキッコーマン(株)の茂木友三郎取締役名誉会長の挨
拶があった。内容は悪くはなかったが、話が長かった。会場から(ほめ殺
し的な)拍手が何回か湧いた。乾杯の音頭をとった古賀誠氏が引き取り、
短く「では、乾杯!」と発した。パーティの料理は豪華なものであった。

2通の祝電披露があった。麻生太郎氏(為公会・国外出張中)とリハビリ
中の谷垣禎一氏(宏池会・先々代表)からであった。谷垣氏の宏池会の未
来を思う切々たる電文が読まれ会場がいっとき静かになった。そのうち、
中締めとなった。

長崎県出身の5人は新橋の「魚や」(03-3431-5282)へ流れた。新鮮な刺
身やぶり(鰤)のカマをつつき焼酎のお湯割りを飲んだ。同行のK氏が
「今夜の会全体を通し自民党の党是である『憲法改正』の四文字が一回も
使われなかった。これではいかん」と興奮して話した。「自分が壇上へ上
ろうかと思った(笑)」と。「即座にSPに引き倒されただろう」と私(笑)。

夜は更け22:00を過ぎ3人が帰り、別店にいたY氏ら3人が合流し、近くの
沖縄の店「美ら海(ちゅらうみ)」(03-3502-0008)で泡盛のロックなど
を飲んだ。この店の海ぶどう、島らっきょう、ゴーヤチャンプルは、別腹
で・・・うまい。この日の帰宅は午前様となった。

これではいけないと思いつつも、私(72歳)の政治への関心は年々薄れて
きている。たまたま派閥の会(宏池会)に参加したからといって世間様に
対し偉そうなことは何も言えない。長崎県出身の国会議員は、とくに、農
業と漁業との振興に、「がまだして」(がんばって)いただきたい。

宏池会は、伝統ある有力な政策集団(派閥)であるのだから、老若男女の
国会議員がともに切磋琢磨し、いい政策と政治を作りあげ国民の期待に応
えてほしい。私の平凡な望みである。(2017/4/21 千葉市在住)



           

◆おらゴム長と織田信長

渡部 亮次郎



「おら(俺の)ゴム長と織田信長」は親戚の秋田芸人大潟八郎の間違え節の一節。その伝で行けば敗戦直後に歌手(故人)の淡谷(あわや)のり子はどこか田舎で「ズロースの女王」と宣伝ビラに書かれたのは間違い節だ。

ズロース drawers 「広辞苑」女性用の下ばき。股間部をおおい、太もも丈のゆったりしたもの。

ブルース(blues)は、米国深南部でアフリカ系アメリカ人の間から発生した音楽のひとつ、またはその楽式。19世紀後半頃に米国深南部で黒人霊歌、フィールドハラー(労働歌)などから発展したものと言われている。

アコースティック・ギターの弾き語りを基本としたデルタ・ブルース、バンド形式に発展したシカゴ・ブルース、ロックと融合したブルース・ロックなど、時を経て多様な展開をしている。

しかし日本の場合「ブルース」というと、前記のブルースに影響を受けた淡谷のり子、青江三奈らに流れを発する、「哀しい雰囲気でムードのある歌謡曲」をさす場合の方が多い。

「別れのブルース」「伊勢佐木町ブルース」といったように、歌謡曲や演歌などでタイトルに「ブルース」がつく曲はおおむね、音楽的にはブルースとは別物である。

マイナーブルースに近い構成のものもあるが、メロディーの音階がブルーノートスケールではなく演歌ペンタトニックスケールなどの違いがある。

これらには歌詞が物悲しいことと、アレンジにサックスを多用しているという共通点しかない。

淡谷のり子が本邦初めてブルースと付く名の「流行歌」を歌ったのは昭和12年の春、ソプラノの声をわざと煙草で潰して唄った「別れのブルース」である。作詞藤浦洸で、作曲の服部良一に無理に頼まれて唄った。

窓を明ければ 港が見える メリケン波止場の 灯が見える
夜風 潮風 恋風のせて 今日の出船は どこへ行く
むせぶ心よ はかない恋よ
踊るブルースの 切なさよ

胸にいかりの 入れずみほって やくざに強い マドロスの
お国言葉は 違っていても 恋には弱い すすり泣き
二度と逢えない 心と心
踊るブルースの 切なさよ

この「別れのブルース」が中国戦線からヒットした。「別れのブルース」は横浜本牧のチャブ屋街をモチーフにし、バンドホテルを舞台にしている。チャブ屋とはいわゆる売春窟である。

淡谷のり子は以後、ブルースと付く何曲も唄い「ブルースの女王」と呼ばれた。

雨のブルース(1938年)
想い出のブルース(1938年)
東京ブルース(1939年)
満州ブルース(1940年)

戦後は

嘆きのブルース(1948年)
君忘れじのブルース(1948年)
遠い日のブルース(1963年)

ところがブルースをブルーズと濁って(正式に)発音したのは1回目の「別れの・・・」時だけで、なぜか以後はすべて濁らずに唄っている。

ブルースの本来の発音はブルーズで、作為的にbluezと綴られる事もある、と解説書にはあるのだから、日本のブルースはブルースでは無いというのは本当だろう。

本当のブルーズが日本では、1970年代にブームが起こった。 1971年、B.B.キングが初来日を果たす。 1973年にスリーピー・ジョン・エスティスの「スリーピー・ジョン・エスティスの伝説(The Legend of SleepyJohn Estes)」がオリコン・チャートに食い込む大ヒットとなる。

1974年、「第1回ブルース・フェスティバル」開催。同フェスティバルは第3回まで開催され、エスティスを始めロバート・ロックウッド・ジュニア&エイセズ、オーティス・ラッシュらの来日が実現した。

日本でも京都、大阪を中心にウェスト・ロード・ブルース・バンド、憂歌団など、ブルース・バンドが登場。日本の独自のブルース・シーンが形成されて行く。

日本のはブルースではないブルース。間違え節の落ちである。
参考:ウィキペディア  誰か昭和を思わざる 
http://www.geocities.jp/showahistory/music/singera01.html
(再掲)


◆公財政を揺るがす「抗し難い圧力」

眞邊 峰松



私は、本欄で、<特に大阪のように本来豊かな税源を持つ地域でも、現行税配分方式ではその多くが中央に吸い上げられ、辛うじて地方交付税の配分で息を繋いでいる情けない実態>と書いた

更に、<大阪の地盤沈下が叫ばれて久しいが、この主原因は在阪企業の利潤中心の東京移転ではなかったのか、果たして府なり大阪市の力でこれら企業の東京移転を阻止できたのか、これら民間企業経営者の本音の意見を聞きたいところだ>とも指摘した。

その上で、<今後日本経済の復元に成功したとしても、結果的には国と東京の一人勝ちとなり、大阪の地盤沈下が一層明白になり、府下の公財政の改善を求められたとしても、制度の抜本的改革なしには、一歩も進まない実態が明らかになると思われる>と警鐘を鳴らした。

そこで、改めて私の考えを述べてみたい。私も、かっての府下公財政のあり方を決して是認するものではない。例えば、平成17年秋以降の大阪市の職員厚遇や第三セクターの相次ぐ破綻処理問題、平成18年春から次々と明らかになってきた同和行政を巡る乱脈経理。あらゆるところに蔓延する談合体質。

これらは明らかに公財政のあり方を根底から揺るがすものだ。 ただ、私の経験から言えるのは、その背景には、自己の利権と集票のみに関心を持つ低劣な議員、政治分野にのみ存在感を誇示し、真の公正妥当な職員福利の増進を無視してきた労働組合、人権擁護を表看板に有形無形の、抗し難い圧力の下に進められてきた諸団体の活動があったことも事実だ。 


当然担当部署は、それらの圧力に屈することなく公務員本来の全体の奉仕者として踏ん張るべきであったろうと思う。そこが社会の指弾の的になっているのだろう。 
 
しかし、その彼らを支えるべき議会・マスコミ・警察権力はどこにあったのか、眼を向けていたか。否、全く無かった。

逆に、寧ろ問題の糊塗を進める要因の一つだった、いうのが実態だったであろう。 梯子を登って後ろを振り返れば、誰も続く者とてなく、猪武者扱いされるのが関の山。 全体として、決して褒められた実態ではなかったと確信している。

果たして行政と公財政を取り巻くこのような複雑怪奇な実態を知らず、地方行政に対する見識・胆識をもお持ちとは些かも思えない特定人物を重宝がること自体が、果たして良いのだろうか、正しいのだろうか、と疑問を持たざるを得ない。 単なるパフォーマンス・綺麗事で終わるなら、長期的・最終的に被害を蒙るのは住民・国民ではないか。

まぁ、そうは言っても、民間でもOBとなられた人物で、企業経営から相当期間離れられ、その後色々な経験を重ねられた上で、大所高所から言われることなら、とは思う。 とりわけ行政の弱点である最小コスト・最大効果という点で民間知識を生かしていくのが効果的だとは考えないことではない。

しかし、正直、それでも長い期間に養われた視野、当該問題に対する現実や関わる裾野まで見渡せる経験・知識という点では、一般的には自治体職員OBの中の優れた人材と比べて、果たしてどうだろうか。

卑近な例でも、大阪府のりんくうタウンや大阪市の大阪湾埋立地の事業への批判。世の非難はその見通しの悪さを批判の的にしている。 これらは明らかに土地神話やバブルの崩壊によるものだ。 

現時点に立てば、これらを第三者の目で批判・非難することは簡単だが、私の目から見れば、これらの埋め立て事業自体は海面から新しい国土を生み出したという意味で、土地投資に対する安易な融資による金融危機と、同列に扱われることに抵抗を感じる。 

もっと長期的に考えれば、無から有を生み出したという評価だって有り得るのではないだろうか。 過去の責任を追及するばかりというのもどうか、と思う。 

大阪市、大阪府に新しい首長があいつで誕生した。今後、将来の大阪のために、思い切った施策や投資を立案し、実行するかどうか疑問が湧いてきて、背筋が寒くなる。

2017年04月22日

◆郷愁を誘う「がめ煮」

毛馬 一三



友人が会合のあと二次会に誘ったところが、大阪梅田界隈のビルの地階にある古い暖簾の「小料理屋」だった。中に入るとコの字型の椅子席はほとんど満席。予約して呉れていたのか、座ることができた。

「小料理屋」では老主人が黙々と「つまみ料理」に専念し、老婦人が注文と配膳に気を配っている。ビールで軽く乾杯したあとは、壁に掛けられた「つまみの品」に自然と目が行き出した。下戸だから、酒を飲むより、旨い料理を食したほうが楽しい。

壁をぐるりと眺めて行くうち、はたと目が停まった。なんと「がめ煮」と書かれた品札がぶら下がっているではないか。「がめ煮」とは、筆者出身の福岡筑後久留米の郷土料理の呼称だが、この名前が品札で出されている店は滅多に無い。

そう言えばこの「がめ煮」は、筑後地方以外では「筑前煮」と呼ばれているが、本当は「がめ煮」と「筑前煮」とは具材の味の深みが違い、「がめ煮」の方が食の玄人向きかも知れない。

早速注文して味を確めたところ、味わってきた郷土味と似ていた。九州出の主人ではないにしては、腕は良いのだろう。

さてその「がめ煮」のことだが、博多の方言で「がめくり込む」(「寄せ集める」などの意)が、その名前の由来だとの説がある。

一方で、豊臣秀吉が朝鮮半島を攻めた文禄の役の時に、朝鮮に出兵した兵士が、当時「どぶがめ」と呼ばれていたスッポンとあり合せの材料を煮込んで食べたのが始まりとの説もある。
どうやらこの亀煮が、「がめ煮」と呼ぶようになったという説が、本当ではないだろうか。

しかしいつ頃からかは分からないが、「がめ煮」にはスッポンは使わず、代わって鶏肉をいれるようになった。この作り方を考え出した筑後地方が自慢の郷土料理に仕上げた訳だ。

子供の頃、「がめ煮」が食卓に出る時は、今とは違ってお正月などの祝い事の時だったので、この味に接すると昔の慶事がいろいろと蘇ってくる。

<さて、作り方だが、一般の「筑前煮」と本場筑後「がめ煮」の一番の違いは、この最初に具材をすべて炒める手順にあるそうだ。まずはだし汁、シイタケの戻し汁、酒、醤油、みりん、砂糖を混ぜて鍋で煮立たせるのから始まる。
そこに、一口大に切った鶏肉を入れてひと煮立ちさせる。その後、里芋、干し椎茸を戻したもの、コンニャク、アクを抜いたゴボウ、レンコン、ニンジン、ナスで筍を一口大に切ったものなどを入れる。
野菜が柔らかくなるまで煮れば、出来上がり。煮あがったところにサヤエンドウにサヤエンドウを加えることもある。>

聞くところによると、福岡筑後の久留米市では2006年10月に作った久留米市食料・農業・農村基本計画で、本来の「がめ煮」を調理することのできる市民の割合を、2014年度までに65%とする目標を立てているという。

きっと「がめ煮」を筑後の伝統料理として後世に残したいためだろう。年に1度郷里久留米の姉の家に寄ると、昔ながらの見事な味の「がめ煮」を作ってくれる。里芋、椎茸、コンニャク、ゴボウ、レンコン、ニンジンの舌触りは、流石に昔ながらの本場の深みのある味だ。

今回の「小料理屋」で食した「がめ煮」の味は、長く離れた郷愁を誘ってくれた。「食べ物」とは底が深い。(了)

参考 フリー百科事典ウィキペディア

◆トウ小平の刺身以後

 渡部 亮次郎



中華人民共和国の人は、肝臓ジストマを恐れて,生の魚は食べないが、ト
ウ小平氏は初来日(1978年)して刺身を食べたかどうか、従(つ)いて来
た外相・黄華さんが1切れ呑み込んだのは現認した。そんな中国が最近は
刺身の美味さを知り、マグロの大消費国になった。

元は琵琶湖に次ぐ大湖沼だった秋田県の八郎潟。今はその殆どが干拓され
て水田になっているが、私の少年時代はこの八郎潟が蛋白質の補給源だった。

鯉、鮒、鯰(なまず)、白魚など。またそこに注ぐ堰で獲れる泥鰌や田螺
(たにし)も懐かしい。但し、これら淡水魚には肝臓ジストマがいて危険
だとは都会に出て来るまで知らなかったが、地元では理由もなしにこれら
淡水魚を生では絶対食わさなかった。

そのせいで私は中年を過ぎても刺身が食べられず、アメリカへ行って日本
食好きのアメリカ人たちに「変な日本人」と言われたものだ。

62歳の時、突如食べられるようになったのは、久しぶりで会った福井の漁
師出身の友人・藤田正行が刺身しかない呑み屋に入ったので、止むを得ず
食べたところ、大いに美味しかった。それが大トロというものだった。そ
れまでは、鮨屋に誘われるのは責め苦だった。

ところで、肝臓ジストマ病は「広辞苑」にちゃんと載っている。「肝臓に
ジストマ(肝吸虫)が寄生することによって起こる病。淡水魚を食べるこ
とによって人に感染し,胆管炎・黄疸・下痢・肝腫大などを起こす。肝吸
虫病」と出ている。

そんな記述より、実話を語った方がよい。九州の話である。著名な街医者
が代議士に立候補を決意した直後、左腕の血管から蚯蚓(みみず)のよう
な生き物が突き出てきた。

びっくりしてよく見たら、これが昔、医学部で習った肝臓ジストマの実物
であった。おれは肝臓ジストマ病か、と悟り立候補を突如、断念した。

「おれは、川魚の生など食べたことはないぞ」と原因をつらつら考えても
心当たりは無かったが、遂につきとめた。熊を撃ちに行って、肉を刺身で
食った。

熊は渓流のザリガニを食っていて、そのザリガニに肝臓ジストマがくっつ
いていたとわかった。しかしもはや手遅れ。体内のジストマを退治する薬
はない(現在の医学ではどうなのかは知らない)。夢は消えた。

中国人は福建省など沿岸部のごく一部の人を除いて、魚は長江(揚子江)
をはじめ多くの川や湖の、つまり淡水魚だけに頼っていて、肝臓ジストマ
の恐ろしさを知っているから、生の魚は絶対、食べなかった。

トウ小平と一緒に来た外相・黄華さんが東京・築地の料亭・新喜楽で鮪の
刺身1切れを死ぬ思いで呑み込んだのは、それが日本政府の公式宴席であ
り、そのメイン・デッシュだったからである。外交儀礼上食べないわけに
いかなかったのである。

後に黄華さんも海魚にはジストマはおらず、従ってあの刺身は安全だった
と知ったことだろうが、恐怖の宴席をセットした外務省の幹部はジストマ
に対する中国人の恐怖を知っていたのか、どうか。

中国残留日本人孤児が集団で親探しに初めて来日したのは昭和56年の早春
だった。成田空港に降り立った彼らに厚生省(当時)の人たちは昼食に寿
司を差し出した。懐かしかろうとの誤った感覚である。

中国人が生魚を食べないのは知っているが、この人たちは日本人だから、
と思ったのかどうか。いずれ「母国でこれほど侮辱されるとは心外だ」と
怒り、とんぼ返りしようと言い出した。

中国の人は冷いご飯も食べない。それなのに母国は冷いメシに生の魚を
乗っけて食えという、何たる虐待か、何たる屈辱かと感じたのである。

最近では、中国からやってきた学生やアルバイトの好きな日本食の一番は
寿司である。ジストマの事情を知ってしまえば、これほど美味しい物はな
いそうだ。催促までする。奢るこちらは勘定で肝を冷やすが。

よく「この世で初めて海鼠(なまこ)を食った奴は偉かった」といわれ
る。それぐらい、何でも初めてそれが毒でないことを確かめた人間は偉
い。だとすれば淡水魚を生で食っちゃいけないと人類が確認するまで、犠
牲者はたくさん出たことだろう。感謝、感謝である。

1972年9月、日中国交正常化のため、田中角栄首相が訪中した時、中国側
が人民大会堂で初めて出してきたメニューは海鼠の醤油煮だった。田中さ
んより前に来たニクソン米大統領にも提供しようとしたのだが、アメリカ
側に事前に断られたと通訳の中国人がこっそり教えてくれた。

以上を書いたのが確か2003年である。あれから中国は驚異的な経済発展を
遂げた。それに応じて食べ物も変化し、都市では今まではメニューに無
かった牛肉が盛んに消費されるようになった。それに伴って過食から来る
糖尿病患者が相当な勢いで増えて━いる。

問題の魚の生食についても2007年3月1日発売(3月8日号)の「週刊文春」57
ページによると中国のマグロ販売量は、中国農業省の調査によると、2006
年上半期だけで50%から60%も伸びている。

経済発展著しい中国が異常なスピードで鮪の消費量を増加させている事実
は意外に知られていない。日本料理店ばかりでなく、北京や上海の高級
スーパーにはパック入りの刺身や寿司が並ぶ、という。

共産主義政治でありながら経済は資本主義。物流が資本主義になれば食べ
物は資本主義になる。肝臓ジストマが居ないと分れば中国人がマグロだけ
でなく生魚を食べるようになるのは当然だ。とう小平の現代化には5つ目
があったのか。(再掲)


◆米原潜佐世保初入港のスクープ

 
毛馬 一三



アメリカの空母を中心とする艦隊が朝鮮半島の周辺海域に向けて航行しているのに合わせて、21日朝、海上自衛隊の護衛艦2隻が長崎県の佐世保基地を出港したと、NHKニュースが伝えた。今後アメリカの空母と合流して共同訓練を行うことが検討されているそうだ。

アメリカのホワイトハウスの報道官は19日の記者会見で、空母カール・ビンソンを中心とする艦隊が朝鮮半島に向けて航行していると説明しているという。

佐世保基地は、昔から日本防衛の海洋入口だった。その佐世保港の事を、強烈に思い出した。

そのことを改めて再掲してみる。

さて、山崎豊子著の「運命の人」(全4巻・文藝春秋)が、ベストセラーになった時がある。山崎豊子フアンの筆者は、先ず同書1巻を買い求め、読み始めた。ところが、「エッ!?」と思う記述が目に飛び込んできた。

その記述とは、第1章の「外交官ナンバー」に書かれている「米原潜日本初入港スクープ」のくだりである。主人公の毎朝新聞政治部の外務省担当が同省審議官から耳打ちされたことがキッカケで、政府公式発表前に米原潜佐世保入港当日の朝刊で「スクープ」したというのだ。

だがその「スクープ」より先に「原潜佐世保入稿」の「特報」を出したのは、NHK福岡放送局からだった。しかも入港より丸1日早い、昭和39年11月11日早朝6時だったのである。

この「特ダネ記事」を書いたのは、当時現地NHK佐世保放送局の新人記者の筆者だった。当時の思いと事実経過を「回想」しながら、綴ってみることにした。経過は追々・・。

そもそも、「米原潜佐世保米軍海軍基地入港」が発表されたのは、昭和38年3月。以来、佐世保では地元社会党系労働組合が「原潜入港反対闘争本部」を立ち上げ、これに市民団体も呼応して、大規模な入港反対闘争がはじまり、佐世保市内は米海軍基地周辺を中心に騒然となり出した。

とりわけ被爆地長崎と隣り合わせの現場佐世保では、米原潜搭載「核」持込みの懸念が市民らを強く刺激し、急遽集結した各地の革新団体や全学連が、デモ行進や集会を繰り広げ、騒動は日増しに激化していった。

その反対闘争の取材担当が、当時NHK佐世保局に赴任して間もない筆者だった。「サツ回り」と兼務だったが、入港反対闘争本部だった当時の佐世保地区労(佐世保地区労働組合会議)本部に夜討ち朝駆けを行い、反対運動の動静を追い続けた。

当時、総評系の佐世保労働組合の中核組織「全駐労」の委員長だった石橋正嗣氏が、衆院議員に転身して社会党書記長に就任していたことなどから、この反対運動は当時野党第一党の社会党と緊密に連携しながら、全国規模の反対運動に発展していった。

筆者は、帰郷する石橋書記長を掴まえ「反対運動」の中央の方針をしつこく聞き取って回ったことから、気難しい石橋書記長から特に目を掛けて貰う間柄となった。

同時に、足元の社会党系「佐世保地区労闘争本部」の早見魁議長、小島亨事務局長、西村暢文本部員らにも気に入られ、極めて親密な関係を築くことが出来た。

この仕事は、歴史の現場を直に目撃できる、当に「記者冥利」に尽きる無上の喜びであった。しかも現場で親交を深めた取材対象の人脈とも、立場を超えた人間同士の触れ合いが出来ることも学んだ。そうした教訓は、駆け出し記者の記者魂を助長してくれた。

そんな折の昭和39年11月10日の夜10時過ぎ、佐世保放送局で当直勤務をしていた筆者に、佐世保地区労の小島事務局次長から電話が入った。

「あなたの家に電話をしたら、当直と聞いたので電話したよ。実はね、上の方からあなただけに伝えなさいと今、指示があったので連絡するんだが・・・」

小島事務局次長はそう言った上で、「米原潜シードラゴンが12日朝、佐世保に入港する」という極秘情報を伝えてきた。筆者は、足が諤諤と振るえ、気は動転し、感謝の意を短く伝えるのがやっとだった。

すぐさま、福岡放送局の報道課長の自宅に架電してその情報を伝えると共に、これから出稿する旨を伝えた。報道課長は直ちに東京政治部の首相官邸キャップに連絡し、政府から確認を取って貰う。「君は、米原潜12日入港の記事を急いで書き、送りなさい」という指示が出た。

11日の2時ごろ、原稿を送ろうとしているところに、報道課長から電話が来た。「官邸キャップが官房長官に確認したが、どうも煮え切らない返事だったようだ。東京政治部では、引き続き政府関係者に当たるが、スクープとして当面は福岡発で流したらどうかと言っている。原稿をすぐ
送ってくれないか」ということだった。

そこで、「米原潜あす佐世保入港・現地では大規模集会やデモ」という原稿にすることを考え、「闘争本部」に裏付け取材をして上、急ぎ福岡局報道課に電話送稿した。「闘争本部」で特に友好の深い西村暢文氏に「他社は気付いていませんよね」と念を押し、確認を取ることを忘れなかった。

これが他社より1日早く福岡局から「原潜あす佐世保入港」のスクープが発せられたいきさつである。NHK東京発の同関連ニュースが放送されたのは、「米原潜」が入港する12日午前6時のニュースからであった。従って小説の毎朝新聞のスクープには、遅れを取っていない。

これを綴るに当たり、先述の西村暢文氏に電話してみた。懐かしい声に接した。西村氏は原潜闘争の後、佐世保市会議員を9期務め、最近引退されたという。「あなたのスクープで、闘争本部が一層盛り上がったことを、時折思い出していたよ」という嬉しい返事だった。

感涙の言葉だった。歴史の現場にいち早く立ち会える記者稼業とは、この上ない幸せ者である。   (了) 2009.07.14



 毛馬 一三
アメリカの空母を中心とする艦隊が朝鮮半島の周辺海域に向けて航行しているのに合わせて、21日朝、海上自衛隊の護衛艦2隻が長崎県の佐世保基地を出港したと、NHKニュースが伝えた。今後アメリカの空母と合流して共同訓練を行うことが検討されているそうだ。

アメリカのホワイトハウスの報道官は19日の記者会見で、空母カール・ビンソンを中心とする艦隊が朝鮮半島に向けて航行していると説明しているという。

佐世保基地は、昔から日本防衛の海洋入口だった。その佐世保港の事を、強烈に思い出した。

そのことを改めて綴ってみる。

山崎豊子著の「運命の人」(全4巻・文藝春秋)が、ベストセラーになった時がある。山崎豊子フアンの筆者は、先ず同書1巻を買い求め、読み始めた。ところが、読み始めたところ、「エッ!?」と思う記述が目に飛び込んできた。

その記述とは、第1章の「外交官ナンバー」に書かれている「米原潜日本初入港スクープ」のくだりである。主人公の毎朝新聞政治部の外務省担当が同省審議官から耳打ちされたことがキッカケで、政府公式発表前に米原潜佐世保入港当日の朝刊で「スクープ」したというのだ。

だがその「スクープ」より先に「原潜佐世保入稿」の「特報」を出したのは、NHK福岡放送局からだった。しかも入港より丸1日早い、昭和39年11月11日早朝6時だったのである。

この「特ダネ記事」を書いたのは、当時現地NHK佐世保放送局の新人記者の筆者だった。当時の思いと事実経過を「回想」しながら、綴ってみることにした。経過は追々・・。

そもそも、「米原潜佐世保米軍海軍基地入港」が発表されたのは、昭和38年3月。以来、佐世保では地元社会党系労働組合が「原潜入港反対闘争本部」を立ち上げ、これに市民団体も呼応して、大規模な入港反対闘争がはじまり、佐世保市内は米海軍基地周辺を中心に騒然となり出した。

とりわけ被爆地長崎と隣り合わせの現場佐世保では、米原潜搭載「核」持込みの懸念が市民らを強く刺激し、急遽集結した各地の革新団体や全学連が、デモ行進や集会を繰り広げ、騒動は日増しに激化していった。

その反対闘争の取材担当が、当時NHK佐世保局に赴任して間もない筆者だった。「サツ回り」と兼務だったが、入港反対闘争本部だった当時の佐世保地区労(佐世保地区労働組合会議)本部に夜討ち朝駆けを行い、反対運動の動静を追い続けた。

当時、総評系の佐世保労働組合の中核組織「全駐労」の委員長だった石橋正嗣氏が、衆院議員に転身して社会党書記長に就任していたことなどから、この反対運動は当時野党第一党の社会党と緊密に連携しながら、全国規模の反対運動に発展していった。

筆者は、帰郷する石橋書記長を掴まえ「反対運動」の中央の方針をしつこく聞き取って回ったことから、気難しい石橋書記長から特に目を掛けて貰う間柄となった。

同時に、足元の社会党系「佐世保地区労闘争本部」の早見魁議長、小島亨事務局長、西村暢文本部員らにも気に入られ、極めて親密な関係を築くことが出来た。

この仕事は、歴史の現場を直に目撃できる、当に「記者冥利」に尽きる無上の喜びであった。しかも現場で親交を深めた取材対象の人脈とも、立場を超えた人間同士の触れ合いが出来ることも学んだ。そうした教訓は、駆け出し記者の記者魂を助長してくれた。

そんな折の昭和39年11月10日の夜10時過ぎ、佐世保放送局で当直勤務をしていた筆者に、佐世保地区労の小島事務局次長から電話が入った。

「あなたの家に電話をしたら、当直と聞いたので電話したよ。実はね、上の方からあなただけに伝えなさいと今、指示があったので連絡するんだが・・・」

小島事務局次長はそう言った上で、「米原潜シードラゴンが12日朝、佐世保に入港する」という極秘情報を伝えてきた。筆者は、足が諤諤と振るえ、気は動転し、感謝の意を短く伝えるのがやっとだった。

すぐさま、福岡放送局の報道課長の自宅に架電してその情報を伝えると共に、これから出稿する旨を伝えた。報道課長は直ちに東京政治部の首相官邸キャップに連絡し、政府から確認を取って貰う。「君は、米原潜12日入港の記事を急いで書き、送りなさい」という指示が出た。

11日の2時ごろ、原稿を送ろうとしているところに、報道課長から電話が来た。「官邸キャップが官房長官に確認したが、どうも煮え切らない返事だったようだ。東京政治部では、引き続き政府関係者に当たるが、スクープとして当面は福岡発で流したらどうかと言っている。原稿をすぐ
送ってくれないか」ということだった。

そこで、「米原潜あす佐世保入港・現地では大規模集会やデモ」という原稿にすることを考え、「闘争本部」に裏付け取材をして上、急ぎ福岡局報道課に電話送稿した。「闘争本部」で特に友好の深い西村暢文氏に「他社は気付いていませんよね」と念を押し、確認を取ることを忘れなかった。

これが他社より1日早く福岡局から「原潜あす佐世保入港」のスクープが発せられたいきさつである。NHK東京発の同関連ニュースが放送されたのは、「米原潜」が入港する12日午前6時のニュースからであった。従って小説の毎朝新聞のスクープには、遅れを取っていない。

これを綴るに当たり、先述の西村暢文氏に電話してみた。懐かしい声に接した。西村氏は原潜闘争の後、佐世保市会議員を9期務め、最近引退されたという。「あなたのスクープで、闘争本部が一層盛り上がったことを、時折思い出していたよ」という嬉しい返事だった。

感涙の言葉だった。歴史の現場にいち早く立ち会える記者稼業とは、この上ない幸せ者である。   (了) 

2017年04月21日

◆「措置入院」精神病棟の日々(27)

“シーチン”修一 2.0



昼食に「肉まん」を食べようと思い、散歩に出かける次女母子に調達を頼
んだが、「どこにも売っていない、店員にも確認した」と言う。がっかり
だ。肉まんはいつの間にか冷やし中華みたいに季節商品になってしまった
のか。

売り場の棚は限られているから売れ行きの良い商品を置くのが原則だろ
う。秋から冬には100個/日売れていたものは春以降は10個になるのか。
「それなら鍋の具材よりもっと売れるもの、行楽の季節だからサンドイッ
チやお握りの品ぞろえを増やそう」とかなって、売れ行きの悪くなった商
品は排除されたりするのだろう。

日本は料理に恵まれている。料理が発達する地域は「飢饉が発生しがち=
カタツムリ、ツバメの巣、クサヤ・・・何でも試してみる」、「絶対的な
王政が敷かれた=王様は宴会好きだから宮廷料理が発達する」、「暑い夏
や寒い冬など明確な季節がある=旬の食材・料理がある」というのが絶対
条件だろう。

この3点を満たしているのは中華料理、フランス料理が双璧で、これに続
くのがイタリア料理、日本料理あたりか。手を伸ばせばバナナがあるよう
な熱帯地では料理はなかなか発達せず“猫まんま”みたいなのが多いよう
だ。(熱帯の○○国を訪れた際にそう思ったのだが、ケナスのもどうかと
思って黙っていた。しかし、数年後に訪れた部下(女性)曰く“○○料理?
 ありゃ猫まんまですよ”。

熱帯地でも寒帯地でも地元の人にとっては「旨い!」というものはあるだ
ろう。米国ではアラスカで食べたカニはとても旨かったが、ビーフステー
キ(硬い!)、フライドチキン(南部ではサザンフライと言っていた)は
味は並だが量に圧倒された。日本の倍はある。

上記の部下は香港観光協会の招待旅行で食べた中華料理(上海料理、広東
料理だろう)の「あまりにもの美味しさに感動して涙が出ちゃいました
よ!」と言っていた(女はすぐに泣くなあ、感動しやすいのだろう)。

「感動」・・・大辞林(第五版)にはこうある。「深く心に感ずること。
感じて起こる急激な精神の興奮」。

精神病患者にとって負の感動、急激な精神の興奮はあまり良くないかもし
れない。気分が落ち込みやすく、家庭不和などによる破滅願望から「死刑
になりたかったので殺した、誰でもよかったが、できるだけ大事件を起こ
して家族や世間を騒がせ、復讐したかった」という症例は昔から多いようだ。

うつ病患者はそういうことをしてしまいかねないという不安を抱えている
のだろう、小生も自分自身が怖い。不満、ストレスが突飛な言動を誘発する。

優れたボクサーであった具志堅用高は試合直前の習慣となっていた「計量
後のアイスクリーム」を周囲から止められたことで戦意を喪失したのか、
世界王座から陥落した。たかがアイス、たかが肉まん、されどアイス、さ
れど肉まん。小生は食パンを利用して肉まんもどきを作り、鬱屈を解消した。

何事もなく感動の薄い穏やかな病棟日記から。

【2016/11/25】学研編「もう一度読みたい『教科書の泣ける名作』再び」
(2014)を読み始める。何しろ病棟でやることと言ったら、読書、作文、
服薬、カウンセリング、作業療法、室内歩行&運動(通路の1往復は150
メートル)、中2日の入浴、食事、多少のおしゃべりくらいしかない。

ナースは「脳を休めることはとても大事」としょっちゅう言うから、病棟
で感動や感涙することはまずない。たまに大声で泣き叫んだり暴れる娘さ
んもいるが、それはただの発狂にすぎない。

10:00から1時間ほどのOT(作業療法)は、数十年ぶりのラヂオ体操第1と
第2、さらに柔軟体操。その後は8人でチームを組んでホッケーゲームに興
じた。わがチームは大逆転され、トップから屈辱の最下位に落ちてしまっ
た。まるで小生の人生そのもので、こういう場面では笑うしかない。

車椅子の45歳ほどの白人も参加していたが、左腕なし、両足は義足で、慢
性期病棟の人のようだ。事故にでもあったのか、電車に飛び込んだのか、
この辺には米軍基地も多いから戦傷なのか・・・人生いろいろだ。

昨日カウンセラーから「奥様の良いところ、感謝することを書いてみた
ら」とアドバイスを受けたので、ホールで「カミサンの良いところ、感謝
すること――あるいは小生の半生記/反省記/自省録」を書いた。

*ロクデナシを拾ってくれた

小生の青春は概ね悲惨だった。公安事件で長期裁判を抱えており、法的身
分は「保釈中」だった。大学も除籍処分になったが、それ以前に内ゲバが
激しく、大学に戻れる状況ではなかった。戻れば殺されていたろう。

経歴を糊塗するために、鳶職で学資を貯めて専門学校で学び、1975年、24
歳でどうにか海外旅行関係の出版社にもぐりこんだ。

当時、B747ジャンボ機の就航で運賃が下がり、海外旅行は大ブームになり
つつあった。旅行会社は海外事情などの情報を求めていたが、特に上り坂
の業界では「先んずれば人を制す」で、とても情報に敏感だった。

小生は週刊業界紙の記者・編集者として読者に現地情報、市場動向、マー
ケティング戦略、政治・行政の動き、業界動向などを伝えるのが仕事で、
当初は保釈中のためにパスポートを取得できないという障害もあったが、
なんとかクリアし、やがて編集デスクになった。

その後、月刊の海外旅行雑誌を立ち上げることになり、小生は事実上、そ
の編集長になったが、広告・販売ともに低調で休刊、小生は週刊業界紙に
戻されたものの、なんとなく“窓際”のようだった。年収もがくんと減って
意気消沈していたものである。

そんな時に出会ったのがカミサンで、小生がフィリピン出張でコレラにな
り、3週間隔離された際に毎日のように見舞いに来てくれた。30メートル
ほど離れた別棟の内線電話から顔を見せ手を振りながら会話するのだ。

フィリピンから帰国した足で会社、印刷所、寿司屋、そしてカミサンのア
パートへ行ったが、すべて消毒され、接触した人は検便させられた。会社
からは始末書を取られた。

こういう孤立無援の中で、カミサンの見舞いは何よりもありがたかった。
「この人を世界中で一番幸せにしよう」と心に決めた。

結婚すると“青春の鬱屈”はきれいに晴れて、仕事も上手くいき、29歳で週
刊業界紙の編集長(部長待遇)に昇進。良き先輩、同僚のおかげでもある。

家庭も仕事も絶好調で、勢いに乗って日刊紙と旅行業界年鑑も創刊し、生
まれて初めて表彰された。

そんな折、カミサンに「なんで俺みたいに見栄えのしない奴を選んだの
か」と問うと、「あなたと一緒なら一生退屈しないと思ったの」と答えて
いた。確かに退屈はしなかっただろうが、今は心配ばかりかけているから
心苦しい。

小生はカミサンに拾ってもらったおかげで、まずまず人並みの幸福な人生
を得たと感謝している(カミサンはどう思っているのだろうか・・・聞く
のが怖い)。

*起業を支援してくれた

3人目の子(男)が生まれた1984年、33歳の時にスピンアウトし、編集プ
ロダクションを起業、同時に自宅を新築し、不動産賃貸事業も始めた。長
女4歳、次女3歳の春だった。

計算外だったこともある。起業後に仕事はきたが、納品から入金まで最低
3か月、中には6か月の約束手形払いもあって、カミサンに十分な金を渡せ
ない。

このためカミサンは再びナースとして働き始め、小生の仕事を支えてくれ
た。幸いにも病院の育児室で0歳児を預かってもらえ、その後は近所の公
立保育園に預けることもできた。

空前絶後のバブル景気(1986〜2002年頃)の追い風もあり、事業は軌道に
乗り、カミサンの支援、踏ん張りもあって子供3人を無事育て上げること
ができた。

*自殺未遂、蘇生、そしてがん手術

2000年8月、大阪出張から疲れ果てて帰宅した夜、酔った小生は首吊り自
殺を試みた。アッと思う間もなく気が遠くなり、夢を見るように黄色い花
畑の中を歩いていた・・・遠くからカミサンの声がし、やがて「生きて!
生きて!」という声で目覚めた、というか蘇生した。

カミサン「アンタ、飲み過ぎよ!」
小生は喉が壊れたシワガレ声で「長生きし過ぎた」。

カミサン「命を救ったのは私だからね、アンタはこれから私のものだから」
なんのことやら小生には分からなかったが・・・

2003年4月、胃潰瘍から胃がんになり、胃のほとんどを摘出した。退院し
た夕方、酒を飲んでいるとカミサンが激怒し、「アンタって人は!」と蹴
飛ばしはじめた。小生は抜糸して間もない腹を蹴られないようにするのが
精いっぱいだった。

カミサンは懲りずに酒を飲む小生に、「私がとても心配しているの
に・・・コイツは許せない!」と怒り心頭に達したのだろう。

愛する者、自分の飼い犬に裏切られた思いだったに違いない。

*キッチンドリンカー、発狂、措置入院へ

胃がん手術で小生のQOL(quality of life、生活の質)は著しく低下し、
ダンピング症、低血糖、下痢、嘔吐、こむら返り、さらに抗がん剤の副作
用で「生きながら死んでいる」ようなフラフラ状態になり、仕事を再開す
るまでに1年かかってしまった。

仕事をしていれば飲酒は夜からだから問題ないし、2009年、58歳でリタイ
アし、家事と、呆け始めた母(89歳)の介護を担当したからおのずと酒量
は限られる。カミサンの協力もあって母は92歳、自宅で大往生した。

介護が終わってから、飲み始めは午後4時になった。家には誰もいないか
らブレーキが利かない。キッチンドリンカーへの道だ。その頃(2011年)
から飲酒や生活に対するカミサンの苦情、説教、干渉が増えていった。

当時はもっぱら焼酎を飲んでいたが、体調が悪化し、肝機能低下、前立腺
肥大、脳機能劣化を招き、2013年には半年間断酒、再開後は焼酎をやめて
赤ワイン主体にしたところ、体調はかなり改善された。

ところが2016年5月頃からウイスキーも飲み始め、9月末の発狂事件の10日
ほど前からは風邪で体調が悪く、元気をつけるため、と朝から飲むように
なってしまった。

当然、カミサンは苦情を言い、小生は「干渉するな、話しかけるな、ほっ
といて、Leave me alone!」と反発する。小生はついに酒乱となり、発狂
したのだった。

古人曰く「後悔先に立たず」、今さら元には戻れない。戻りたいのなら
「君子危うきに近寄らず」で断酒すべきなのだし、「今度しくじったらお
しまいだ」「カミサンを世界一幸せにするという結婚時の誓いを反故にす
るな」とは分かっている。

それでも未練たらしく「節酒で上手くいくかもしれない」などと悩ましい
日々が続いていたが、1か月の入院治療でようやく吹っ切れた。哲学者曰く――

「君は心の中に葛藤を抱えている。今のままではダメだ、自分を変えた
い、変わりたい、という思いがある一方で、変わろうとしない頑固な自分
もいる。頑固な自分に打ち克つことが、本来の“あるべき自分”を活かすこ
とになるだろう」

“あるべき自分”とは何か? 冷静沈着、知行合一、良き夫、良き父、良き
生活者だろう。それが酒乱では誰からも相手にはされない。先達の言、
もって銘すべし。

余生は短く、十分な報恩はできないかもしれないが、カミサンや娘たちの
受けた傷はあまりにも深く、大きく、どんな言葉も癒しにはならないかも
しれない。それならなおさらのこと、行動で反省、改悛を示すべきだろ
う。(つづく)2017/4/19