2017年04月16日

◆「措置入院」精神病棟の日々(25)

“シーチン”修一 2.0



桜の花びらが風に運ばれて、少しばかり開けておいた小生の部屋の窓から
ひとひら入ってきた。窓を開けて外を見ると、花びらがいくつか舞ってい
る。桜の季節は終わりつつあるが、南の多摩丘陵を眺めると新緑で覆わ
れ、二回りほど山容が大きくなり、そこに桜がいくつか咲き残っている。

美しい季節、今日は初夏の日射しだった。

ここ数日は無理しないように家事を控えているが、昨日で浴室の修繕は終
わり、今日からは小生が包丁でぶすぶす穴を開けた木製ドアの補修を始め
た。穴を開けた後の記憶がなく、気づいた(正気を取り戻した)時は警察
署の保護室だった。

補修をしながら、「カミサンはずいぶん怖かったろうなあ」とか、出所、
じゃない、退院後も小生をどう受け入れるかで揺らいでいたカミサンの心
も最近は落ち着いてきてずいぶん明るくなったなあ、などと思っていた。

向田邦子が「あ・うん」の中で「へそ下の病気よりへそ上の病気の方が上
等に見える」というようなことを書いていたが、確かに満都の子女の紅涙
を誘った徳富蘆花のベストセラー「不如帰」の浪子の病気が肺結核だから
サマになるのであって、それが痔疾だったらかなりまずいだろう。

それではアタマの病気、小生のような発狂はどうなのかというと、誰も同
情しないし、反対に嫌われる、恐れられる、あるいは敬して遠ざけるべし
となるだろう。

「精神病? うつ病? なんてことないよ、誰でもなるし・・・20年ほど
前は米国では憧れの病気で、心理カウンセリングを受けるのがセレブのス
テータスシンボルの一つになっていたしね、ま、病気自慢」

そんな風に思っているから小生は持病を恥じてはいないが、カミサンや娘
は「表沙汰にはできない病気」と(世間の人と同様に)思っている。ま
あ、多少は恥じた方がいいのかなあ、などと思わないわけではないが、
「それならお前だってイカレテル。人のことを言えるのかよ」と反発した
くなる。

狂気というマグマは誰もが抱えている。発狂、噴火するかどうかは予知も
できない。It's your turn、今度は君の番・・・病棟日記から。

【2016/11/23】下痢は続くは、歯茎は腫れるや、ろくなこともないけれど
虜囚の身、俎板の上の鯉だから、こんなものだろう。気晴らしに「漢字ク
ロスワードパズル」で遊んでみたが、とても難しくて困惑するし、自信も
なくす。

支那王朝は世界に類を見ないモノ、ソフトを創ったが、漢字はその筆頭だ
ろう。10万字もあるそうだが、日本では3万字ほどが流通し、現在は1万字
ほどに絞られ、日常的に使われるのは当用漢字(後の常用漢字)を含めて
3000字ほどか。それでも新字体と旧字体(斉藤、斎藤、三沢、三澤とか)
もあるし、二つ以上の組み合わせで意味をなす言葉(参画、幼稚園、優勝
劣敗、無我夢中とか)もあるから実に多彩だ。

アルファベットは大文字小文字で52文字。この組み合わせで単語を作るか
ら、意味を知らなくても一応は発音できるのだろう。

しかし漢字は老人の小生でも意味不明、発音不明が多いし、たとえ読めて
も書けない難字も実に多い(魑魅魍魎、虎視眈々とか)。それでも漢字は
一文字でもおおよそ意味が分かる(例えば「偽」なら、嘘とか偽物)から
とても便利だ。

戦後、日本ではGHQの政策で漢字を大幅に制限した。GHQ占領政策としての
文化大革命だ。それまで新聞は漢字にルビをふっていた(このため紙面は
真っ黒だったが、子供でも読めた。

一方、インテリ向きの新聞はルビがなく真っ白だったそうだ)が、当用漢
字として2000字ほどに制限すればルビの手間はほとんど要らなくなるから
コスト削減になり、この漢字制限に新聞社は大賛成、これに出版社、印刷
会社も追随したから、あっという間に漢字狩りは成った。

かくして漢字を読めない、書けない大学生に象徴されるように浮薄は普及
し、白痴化は進んでいったのだ。

中共は革命戦争に勝利すると簡体字を導入したが、日本と同様に文化、伝
統破壊につながった。朝鮮は漢字を追放してハングルのみにしたから、古
文書を理解できる人は年々少なくなっている。韓国では漢字復活を希望す
る人は少なくない。

支那のビックリ発明品の二番手は火薬かもしれないが、これは門外なので
書きようがないから「纏足/てんそく」にする。女性の足を童女のように
小さくしておくものだった。奇習としか言いようがないが、何のためだっ
たのかは諸説ある。纏足しない女は女とは認知されなかったというから凄
まじい。

「宦官」もそれに劣らず凄まじい。皇帝が政務する場と、私的生活の場で
ある後宮を分離し、政務に後宮が介入しないようにしたのだという、表向
きは。

後宮は女ばかりだから間違いがないように男は去勢が義務付けられ、男で
も女でもない役人が取り仕切っていた。表の政務に参与する官僚と、裏の
後宮を運営する宦官は一切の接触を禁じられ、それを犯せば厳罰に処せら
れたという、表向きは。

それでも宦官のなり手が多かったのは食が一生保障されたこと、出世すれ
ば袖の下も期待できたためだろう。

「督戦隊」というのも実にユニークだ。戦闘中に逃げる味方の将兵を殺す
のが仕事で、将兵は戦線にとどまって戦うしかないわけだ。戦えば戦死す
る、それを避けるために戦線離脱すれば殺される。台湾人の林建良氏
(「台湾の声」代表)によると「戦闘中に唯一生き残る可能性は、武器を
捨てて両手を上げ、あるいは白旗を掲げて敵陣に走ることだった」そうだ。

以上のほかにも「出世のために妻を貸す」「騙された方が悪い」「事件事
故を目撃してもかかわるな」などなどあり、支那流は無尽蔵だろう。友達
にはなりたくない人々が多いだろう。

13:10、ナースによる病識調査。「カミサンと上手くやれるのだろうか、
どうしたらいいのか悩んでいる」などと伝えた。

漢字パズルは手に負えず、時間ばかり食うのでギブアップした。小生は月
刊誌にクロスワードパズルを寄稿していたが、作るのは意外に簡単だっ
た。解くのはちょっと手間取る。

20:00、眠剤を飲み寝つく。この真空地帯では何事もなく毎日が過ぎてい
く。(つづく)2017/4/14


◆ミネラル(宝物)不足 を考える

永冶ベックマン啓子



「全ての病気を追及すると、全てがミネラルの欠乏に辿りつく」と言う言
葉は、天才生物化学者のライナス ポーリングの言葉です。

ミネラルと言えば、金属元素の周期表を思い出しますが、全118種類の総
称のことです。人体はおよそ70%が水分ですが、30 %が固形物です。人体
の95%を構成します主要元素は、酸素、炭素、水素、窒素ですが、残りの
5%が無機質の微量元素、つまりミネラル(灰分)です。

従来必須ミネラル(灰分)は13種類とされていましたが、現在はもつと多
くなり、主要ミネラルは7種(カルシュム、マグネシュム、カリウム、ナ
トリウム、リン、塩素, 硫黄)です。

微量ミネラルは12種(鉄、銅、亜鉛、コバルト、セレン、クロム、マンガ
ン,臭素、フッ素、ケイ素、ヨウ素、モリブデン)です。

更に10種類(ルビジウム、アルミニウム、鉛、カドミウム、ホウ素、バナ
ジウム,ヒ素、錫、ニッケル、リチオウム)が加えられ、これらの29種類
が必須ミネラルと分子整合栄養学ではされていまして、そのバランスが大
切になります。

しかし最近の研究では、その29種類ではまだ足りなく、アメリカの国立科
学財団の研究では、「人間の健康維持には少なくとも45種類のミネラルが
必要」とされています。問題は農産物を育てる土壌からミネラルが様々な
原因で減少していることです。

太古のめずらしい植物層から見つけられたミネラルや海水には何70〜100
種類位ものミネラルが含まれていまして、西洋医学で難病と診断された人
達が、物質の最小単位のこれらのミネラルを多く取る事で見事に元気にな
られている症例も沢山有ります。

これらの人体の元素の割合は、汚染されていない昔の海や大地と成分が大
変よく似ています。フランス語では海と母の事は発音がよく似てラ・メー
ル、ドイツ語で海はメアーです。38億年前に地球での最初の生命は、多く
のミネラルが存在した太古の海で生まれたそうです。しかし、現代の海は
汚染されてしまいました。

人の血液は0,9%,海水は、3,8%と濃度は異なりますが、含まれるミネ
ラルの構成や比率は大変よく似ています。そして、母親の子宮内の胎児が
育つ環境の羊水が、海水のミネラルバランスにまた大変近いという分析が
ありますが、海水と同様羊水も汚染されているようです。。

ミネラルは人の体内で合成する事が出来ませんので、食事から取る必要が
有ります。ミネラルの人体の中での最も重要な働きは、現在は約20,000種
以上ともいわれます酵素の反応に、補酵素として関わっていることです。
食べたものを消化、吸収、運搬、代謝、全ての生命活動に関与しています。

船瀬俊介氏からの引用ですが、1907年 フランスの生理学者René
Quinton/ルネ・カントン は、血液の濃度に薄めた海水を2匹の犬の血液
を殆ど抜いた後、輸血替わりに犬に注入して,見事犬は健康回復してこの
実験は成功に至りました。

他の様々な動物でも成功となり、海水こそが生命を生かす源であり、細胞
は完全な状態で生きることが可能だという証明された事を彼は確信しました。

1910 から30年間で70のクリニックを開き、コレラ、チフス、リンパ腫肺
結核、消化不良、皮膚病、婦人病、精神障害、神経症、急性中毒、筋無力
症、肝硬変、遺伝病、うつ病、不眠症、老化、拒食症、貧血症、骨粗そう
症、自殺未遂者、小児疾患などの病気を、薄めた海水を点滴注射する事で
健康回復させ、3年間で50万人の命を助ける事ができたそうです。

ところが、ただの海水で病気が治ってしまうと困る人達もいました。当時
ワクチンを用いて治療する方法で医学会で注目を集めていたルイ・パス
ツールをロックフェラー家がサポートし、現代の薬物療法に到ると言うわ
けです。

自然界にある物だけを体に入れ、個体にあわせてバランスが取れれば健康
になるという事ですね。ミネラル無しでは生命が輝かないというわけで
す。現代人はどうやら大変なミネラル不足も明らかのようです。 
 ミュンヘン在住  永冶  ベックマン啓子            
                    4.2017


◆「軍事同盟」で退陣した内閣

渡部 亮次郎



若い頃、NHK記者として4年間駐在した岩手県には、後に総理大臣になる
鈴木善幸(ぜんこう)のほか小沢佐重喜(さえき)、椎名悦三郎ら、錚々
たる政治家がいた。言うまでも無く佐重喜は小沢一郎の父、椎名は副総裁
として田中角栄の後継首相に三木武夫を推して大失敗した。

そうした中で目立つようで目立たなかった男が鈴木善幸だった。三陸沿岸
の漁民の出。はじめは日本社会党から代議士になったが、間違いに気付い
て保守党に鞍替え、とうとう自民党総裁、総理大臣になった。

だが日米安保条約の何たるかも知らずに過ごし、自民党内のバランスに
のっていただけだったので総理大臣にまつり上げられたものの、「能力不
足」を晒して途中退陣した。

日本大百科全書(小学館)にはこう書かれている。

<国内では自民党の絶対多数を背景に、軍事力増強、実質的な靖国(やす
くに)神社公式参拝、参議院の比例代表制導入、人事院勧告凍結を実現し
た>。


鈴木善幸内閣]は1980(昭和55)年7月成立した。前任の大平正芳が総選挙
中、糖尿病の合併症たる心筋梗塞で急死したところ、「闇将軍」といわれ
て評判の悪かった田中角栄が裏で動いて、突如、鈴木善幸を後任として指
名した。私はその現場に居合わせた。

昭和55(1980)年6月12日未明、大平が死んだ。それに先立って、ホテルに
いた私に園田直(当時は無役)から電話。「大平さんが亡くなったらしい、
調べてくれ」で確認。弔問の為、虎ノ門病院で落ち合う。

彼も当時、糖尿病が悪化。減量の為服用していた利尿剤が効き過ぎてゲッ
ソリしていたので、マスコミの目を引いたことを覚えている。

病室から出てきた園田。車に乗ると「ナベしゃん、これからどうした方が
いいかな」。すかさず「目白へ行きましょう」「そうだワシもそう考えて
いた」。

角栄は先に弔問から戻っていたが、客は園田がその朝は初めてだった。約
1時間して出てきた園田。車中「善幸に決まった」と。「それは妥当なと
ころでしょう。大平派の後継者でもあるし」と私。

大平の死で有権者の同情は自民党に集まって総選挙は、大勝。分裂寸前
だった自民党を結束させ、抗争なしで鈴木政権は成立したのだった。

<「増税なき財政再建」を公約とし、1981年3月には臨時行政調査会を設
置し行政改革を最大の課題とした>。(同)

9月になって厚生大臣齋藤邦吉の不正献金がばれて辞職。その後任に園田
が推されたのは、多分に角栄の押しがあったと思われた。

<1981年1月鈴木首相が東南アジア諸国を歴訪、5月には日米首脳会談を開
き日米「同盟関係」を明記し、西側陣営の一員としてアメリカの対ソ戦略
に協力していく姿勢を明らかにした>。

しかし鈴木首相は首脳会談では、そんなことは話題にならなかったと一旦
は否定。共同声明から軍事同盟云々を消そうとした。日米の首脳が会談す
るという事は要するに日米安保体制を確認し、軍事同盟を再確認する事だ
という外交上の初歩的知識に首相は欠けていたのだ。

この混乱で鈴木首相は党内で孤立感を深めた。同一派閥であった外相伊東
正義が辞任した後を埋めるのに、厚生大臣のピンチヒッターだった園田を
またピンチヒッターにした。

しかし、園田は糖尿病が悪化。外遊しても飛行機から車まで歩けない場面
がしばしばとなった。マニラではとうとう日米首脳会談の共同声明なんて
どうでもいい軽い問題でしかない、といった趣旨の問題発言をして政権の
足を引っ張った。

事後になって鈴木は日米首脳会談について「オレは踊り(外交)の素人なん
だから、手ぶり身振りの最後まで教えないと踊れないよ。教えない外務省
が悪い」といった。外務省側は「初歩知識をお教えするのは失礼に当る
か、と」。

政治における知識や情報の扱い方はビジネスの世界とまるで異なる。ビジ
ネス界は「儲け」で一丸となっているが、政治の世界では役人と政治家の
間に抗争が隠されていたり、遠慮がはさまれたりして要は単純ではない。

しかし1982年6月2兆円以上の歳入欠陥が明らかとなって「増税なき財政
再建」は破綻し、行政改革も自民党・官僚の抵抗で後退を余儀なくされた。

さらに日米経済摩擦、日韓経済協力、教科書記述に対するアジア各国から
の批判といった難問を適切に処理できず、内外ともに手詰まりの状態のな
か、1982年10月12日突如退陣を表明した。

鈴木政治は難問を先送りにして解決を図るといった消極的姿勢を特徴とし
ていた。また党幹事長に二階堂進を起用するなど田中角栄の影響力を強く
受け「角影内閣」との異名をとった。>
日本大百科全書(小学館) (文中敬称略) 2010・4・4

◆桜の季節〜日本人の心

真鍋 峰松



この季節、日本各地で見事に咲いた桜の花が見られる。 私なども毎年見るたびに“よくぞ日本に生まれけり”という気持になる。 それほどに日本人の心の奥深く刻まれ、古来から詩歌にも読まれてきた。 

ところで、桜の開花予想はニュースとして報じられるが、その開花基準になるのが「休眠打破」だと言われる。 

桜の花芽は前年の夏に形成され、それ以上生成されることなく晩秋から「休眠」状態になり、冬にかけて一定期間、低温に曝されることで眠りから覚め、開花の準備を始める。 これを「休眠打破」と言うのだそうで、さらに温度が上がるにつれて、花芽が成長生成し、気が熟して開花に至る。 

この故に、桜は四季のある日本で進化した植物と言われる。これほどに時間をかけ開花に至る桜だが、咲き誇るのはほんの僅かの期間。日本人はその桜の花の華麗さとは裏腹の、儚さにも強く惹かれ、その魂の、あたかも象徴の如くに看做してきた。

その典型が、本居宣長の歌「 しきしまの やまと心を ひととはば 朝日ににほふ やま桜はな 」なのであろう。 

また、西行法師には、「 春風の 花を散らすと 見る夢は さめても胸の さわぐなりけり 」と、その出家の秘密を封じた悲恋の歌があり、さらには、「 願はくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの  望月の頃 」、「 散る花も 根にかへりてぞ  または咲く 老こそ果ては  行方しられね 」という死生観を桜の花に寄せる歌まである。
     
欄漫と咲き誇る桜の花に寄せる心象の一方、そこには日本特有の無常観を底辺に置いた「わび」「さび」「もののあわれ」と言った“ものの見方”も発達してきた。

兼好法師の徒然草第百三十七段「 花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。 雨にむかひて月をこひ、たれこめて春の行方知らぬも、なほ哀に情ふかし。 咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見所おほけれ 」

これこそが日本人特有の美意識そのものと思っていたのだが、意外にも、古くから日本で読まれてきた中国古典、明末の洪 自誠の「采 根 譚」の中に、「花は半ば開くを看、酒は微かに酔うを飲む。此の中に大いに佳趣有り。若し爛漫氈陶(らんまんもうとう)に至らば、便ち悪境を成す。盈満(えいまん)を履む者、宜しく之を思うべし 」と記されている。

その大意は「 花は五分咲きを見、酒はほろ酔いぐらいに飲む。その中にこの上もなくすばらしい趣がある。 もし、花は満開しているのを見、酒は泥酔するに至るまで飲んだのでは、その後はかえっていやな環境になってしまう。 

満ち足りた世界にいる人は、よくよくこの点を考えるようにしなさい 」とのことだが、徒然草の言葉とは同じようなことを言っているようにも思えるが、どこか微妙に違っているように思える。

いずれにしても私には、この季節、一年で最も温暖・快適であり、日本人の心に触れる事柄が多い時期を迎えているように思う。(完)

2017年04月15日

◆デュポンの始めは爆弾屋

渡部 亮次郎



1990年代はビジネスその他で盛んにアメリカを訪れた。ワシントンと
ニューヨークが多かったが、或る時、ニューヨークからワシントンへ列車
で向かう途中、フィラデルフェアで下車した。アメリカ人の友人一家を訪
ねるためである。

NYから山中の一軒家に越してきた友人の仕事は経済評論家だが、コン
ピューターを駆使すればNYになんか居なくても平気だというので、当時は
仰天したが、今となってみれば至極真っ当な話だった。窓の外を狐がヒョ
コヒョコ駆け下りていった。

翌朝、デュポンの邸だったところを案内すると言う。デュポンってライ
ターの会社かと聞いたらいや爆弾屋だという。まぁ後学の為だ、行ってみ
よう。

ニューヨークとワシントンDCのちょうど中間あたりにあるデラウエア州の
Brandywine Valleyと呼ばれる地域だった。広大な庭園に囲まれた邸宅・
ウィンタートゥア(Winterthur)があった。園内は日本の皇居ぐらいの広さ
だ。案内のバスが定期的に走っている。

ここは、デュポン(Du Pont)社の創業一族が3世代にわたって住んだ邸宅
で、その名称は一族に関係するスイスの地名からとられたという。

現在では、美術館として公開(有料)されており、建物自体ももちろんだ
が、その中に展示されている米国家具や陶磁器・銀器などの装飾美術品で
知られている。

邸宅本体には、何と175もの部屋があり、ガイド付きツアーで見て回る仕
組みになっている。ダイニング・ルームのテーブルの上、食器棚の中、暖
炉の上、展示用のガラスケースなどに、多くの陶磁器が展示されているの
を見ることができる。しかしこっちは興味ないからあまり中は見なかった。

ギフト・ショップもあった。ビジターセンター内にある店は書籍中心だっ
た。柱時計が売っていた。1時間ごとに鳥が啼く仕掛けで、庭園内にすみ
ついている鳥とか。少なくとも12種類はいると言うことだ。

邸宅、ギャラリー、庭園、(さらには図書館も)と回っていると、1日が
かりになってしまう。何かのついでに、というわけにはいかない」。
http://www2.gol.com/users/emakigu/MuseumWinterthur.htm

私が訪問したのはGW中で、あの時は躑躅がいたるところで満開だった。

説明によれば、デュポン家の別荘には競馬場が2つあるとか。そんな金持
ちなのに、当主については不名誉な事件が起きていたらしいが確認できな
いから書かない。いずれカネの下敷きになったと言うところだ。

一体、デュポンとは何者なのか。デュポン(Du Pont、NYSE:DD)は、世界
第2の化学会社である(世界最大はダウケミカル)。

米国法人である E. I. du Pont de Nemours and Company (イー・アイ・
デュポン・ドゥ・ヌムール・アンド・カンパニー)はデラウェア州ウィル
ミントン市にある。創業は1802年。

資本金は7,935,000,000ドル。創業者はフランス出身のエルテール・イレ
ネー・デュポン。メロン財閥、ロックフェラー財閥と並ぶアメリカの3大
財閥と称される。

フランス革命を避けて一家で移住したエルテールは、アントワーヌ・ラ
ヴォアジエに師事した後、黒色火薬工場としてデュポン社を設立。

徹底的な品質管理と安全対策、高品質によりアメリカ政府の信頼を勝ち取
り、やがて20世紀に入りダイナマイトや無煙火薬などを製造するように
なった。

南北戦争期や西部開拓時代に成長し、アメリカ最大の火薬メーカーとなる。

第1次世界大戦・第2次世界大戦では火薬や爆弾を供給したほか、マン
ハッタン計画(原爆開発)に参加し、テネシー州のオークリッジ国立研究所
でウラニウムやプルトニウムを製造するなどアメリカの戦争を支えた。

また草創期の自動車産業に着目し、1914年にはピエール・S・デュポンは
1908年に創業したゼネラルモーターズ(GM)に出資した。後に彼は社長に
就任し、彼の指揮とデュポン社の支援の下、ゼネラルモーターズは全米一
の自動車会社へと成長した。

また、GM支援とは別に、1919年から1931年にかけては、自社での自動車製
作も行った。エンジンは主にコンチネンタル社製を使用した。

しかしシャーマン・アンチトラスト法によって1912年には火薬市場の独占
が、1950年代にはGM株の保有が問題視され、火薬事業の分割やGM株放出な
どを強いられている。

1912(大正元)反トラスト判決によって3社に分割。1915(大正 4)デュポ
ン・ド・ヌムール社、設立。

1920年代以降は化学分野に力を注ぎ、1928年には重合体(ポリマー)の研
究のためにウォーレス・カロザースを雇い、彼のもとで合成ゴムやナイロ
ンなどを発明した。

1931(昭和 6)ネオプレン(合成ゴム)、1935(昭和10)ナイロン、1944(昭和
19)テフロン(フッ素樹脂)などを開発。

さらにテフロンRなどの合成繊維、合成樹脂や農薬、塗料なども研究・開
発し取り扱うようになった。2世紀にわたる歴史の中で、M&Aを繰りかえす
典型的なアメリカのコングロマリット企業といえる。

デュポン社は化学製品の開発を通じてアポロ計画の成功にも寄与し、その
研究開発の熱心さや新素材開発への貢献は高く評価されている。

しかし過去には火薬やナイロン製品などを大量に軍へ納入しているほか、
化学兵器や核兵器開発に関与するなど、戦争ビジネスで財を築いた死の商
人としての側面もある。

また環境問題でもデュポン社の製品が問題になったことがある。例えばテ
フロン製造に伴い使用されるペルフルオロオクタン酸(C-8)の健康への
危険性(発がん性など)を隠して作業員などに健康被害を起こしたことで
合衆国の環境保護庁(EPA)に訴訟を起こされた。

また、ゼネラルモーターズとともにフロン類(クロロフルオロカーボン、
CFC)の発明・製造を行い、長年にわたって市場シェアの多くを占めてきた。

オゾン層破壊と温室効果が問題になった1980年代末になってデュポンは
CFCの製造販売からの段階的退出を表明したが、1990年代半ばまで製造を
続けていた。

その後はハイドロクロロフルオロカーボン(HCFC)、ハイドロフルオロ
カーボン(HFC)などの代替フロン開発を進めCFCからの置き換えのリー
ダーシップをとっているが、HCFCやHFCにも高い温室効果があることが問
題視されている。出典: フリー百科事典『ウィキペディア
(Wikipedia)』2007.04.18


◆6〜7世紀「木津川流域」

白井 繁夫

『古事記.日本書紀』の古墳時代に登場した物語:「武埴安彦の反乱、忍熊王の謀反」と云う2度にわたる木津川流域の戦いに大和政権が勝利した結果、「木津」は大和盆地からの北の出入口となり、大和政権の拡大した支配領域の重要な結節点にもなったのです。

6世紀に入ると、大和政権は仁徳系の王統を継承する皇子(25代武烈天皇後の皇子)が絶えかける状況になり、大伴金村大連(おおともかねむらのおおむらじ)が、近江の息長(おきなが)氏の系統:応神天皇五世の孫:男大迹王(おほどのみこ)の擁立をはかります。

大和、河内の一部の「男大迹王」を快く思わない勢力が丹波の別の王を推すのに対して、前述の2度の戦いで敗れた樟葉、綴喜の子孫や、近江の息長氏、母方(越前三国の振媛)や木津川流域の人々の強い支援もあり、更に前王統の手白香皇女(たしらかのひめみこ:仁賢天皇の皇女)と結ばれ、「男大迹王」は河内北部の楠葉宮で即位し、「継体天皇」になりました。

しかし、大和への入国を阻止しようとする反対勢力により、即位5年後、山背(やましろ)の筒城宮(つつき:京田辺市普賢寺)に遷都し、さらに、7年後の12月3日に弟国宮(おとくに:乙訓:長岡京市今里)へ遷都しました。

「継体天皇」が大和(磐余玉穂宮:いわれたまほのみや:桜井市池之内)に入り名実ともに大王となるのには、楠葉宮を出てから20年の歳月を要しました。

この間、近江、越前、尾張などをはじめ木津川、淀川水系の諸豪族(息長、和珥、茨田氏:まんだ)の地道な支援と、前王統の皇女との婚姻などで、継体政権は安定したのです。
(日本書紀は継体の直系の子孫:天武天皇によって編纂されており、古事記の記述と異なるところもあります。)

「木津川流域」は「継体天皇」以降の大和にとっては更に重要度が増し、海外からの渡来人も木津川市内に多く住むようになりました。

6世紀半ばを過ぎると、朝鮮半島の戦乱をさけて北九州の筑紫に到着した人達も、高麗人(こまひと)も上狛(かみこま).下狛(しもこま)など木津川地域に定着しだしました。(南部2郡:相楽、綴喜は「高麗(狛)氏」、山城北部:京都盆地は「秦氏」が集中していました。)

朝鮮半島の百済と倭国は非常に親密な関係であり、欽明天皇13年には百済の聖明王から仏像や経論が贈られ、文字や土木技術も伝えられました。

欽明天皇31年(570年)に、国交を開く目的で来日した高句麗使の一行の船が難破して北陸沿岸に漂着したのを、現地の道君(みちのきみ)が隠していると奏上あり、天皇は山城国相楽郡に館を建て、使者を安置するよう命じました。

「木津川の港」(泉津)、木津の相楽神社近隣に外交館舎「相楽館:さがらかのむろつみ」を建てて、一行を出迎えました。しかし、上表文と献物を差し出せないうちに、天皇が病死していまい、使者はいたずらに滞在が長引いていました。
(相楽館は高楲こまひ館とも呼ばれたことから木津川北岸の上狛との説もありますが外交館舎は後の難波館同様港の近く相楽:サガナカに在ったと思われます。)

次に即位した敏達天皇は、長く使者が逗留していることを知り、大いに憐れみ、即刻臣下を派遣して上表文などを受け取らせて、(572年5月)帰国の途に就かせました。
(大和朝廷は百済との外交が基本であり、物部氏らは高句麗との新しい外交に反対していました。政界のニュウリーダー大臣蘇我馬子の決断によったと云われています。)

任務を終えて帰国途中の一行は、蘇我氏に反対する者たちによって、暗殺されてしまったと云われています。当時の日本の一部には、大陸から伝来した仏教文化を受け入れずに神道をもって国教とすべきという信念を抱く反対勢力があったのです。

6世紀後半以降、外交使節は大和川を遡上しその支流なども利用して大和盆地の南部にある「宮」へ行く水運利用や、難波から大和にむけて敷設された陸路も利用していました。
しかし、木材や石材などの物資輸送に関する「木津川の重要度」にはなんの変化もありません。

朝鮮半島では3世紀(220年)、後漢の滅亡により、中国の影響から離れて、3国時代に入り、それぞれの国は発展し、文化的にも儒教から仏教に変化し、百済は4世紀が最も栄えていたと云われています。高句麗も鴨緑江から満州へ領土を徐々に拡大して行きました。

6世紀末から7世紀にかけて、朝鮮半島が再び、中国の隋、唐の侵略戦争の被害を受けていた時代、倭国では蘇我氏が皇族との婚姻を結び、絶大な勢力を得ることにより、大伴、物部の各氏を廃絶し、無力化してしまいました。

蘇我馬子は592年11月には東漢駒(やまとのあやのこま)に命じて、崇峻天皇をも弑逆(しいぎゃく:臣下が君主を暗殺)しましたが、(根回しの効果か?)、他豪族からのクレームもでなかったと云われています。

30代敏達天皇の皇后(33代推古天皇)は蘇我馬子に請われ即位しました。日本史上、初の女帝が誕生したのです。(593年)推古天皇は甥の厩戸皇子(うまやどのおうじ:聖徳太子)を皇太子として政治を補佐させました。

7世紀に入ると、大化の改新、壬申の乱、白村江の戦いなど木津川流域にもまた動乱があり、大津京、飛鳥京から藤原京へと移り行くのです。

参考資料: 木津町史  本文篇  木津町

◆“カチンと来る言い方をする奴”

渡邊 好造



約40年間のサラリーマン時代を振り返ると、研修や会議などの顧問やアドバイザ-として招請した大学の先生、コンサルタント会社の講師、そして上司や同僚で上から目線の”カチンとくる言い方をする奴”がいて腹立たしい思いをしたことが何回もあった。

この稿執筆にあたっては、"新 将命(あたらしまさみ/国際ビジネスブレイン社長)"氏が20数年前に雑誌「ボイス」に掲載した「イヤミなタイプ」の痛快な文章を思い出した。

そこで同氏が挙げた4つの(?)「イヤミなタイプ」に付加え、表題のように言換えて羅列すると、、、。(*印は、原文がなく、筆者の記憶にある新氏の指摘)。

1)「質問の意味が不明だ。もう一度分かるように説明してくれ」(質問に質問で返し、その間に答えを考える奴)

2)「いい質問です。今の質問はこれまでのなかで一番素晴らしい」(何様の積もりか、一番偉いと思っている奴*)

3)「それは、こう言換えたらよく分るんじゃないかな」(勝手に言換える奴)

4)「どっかで聞いたような話だな。まあいいや進めてくれ」(話の腰を折る奴)

5)「そんなところで結論となりそうだが、私の視点はまったく違うな」(まとまりかけているのに振出しに戻す奴*)

6)「だからさっきから言ってるだろ。同じことを何回も言わすなよ」(説明の仕方が悪いことに気付かない奴)

7)「こんな言い方したら怒るかもしれないけど、、」(と言いながらわざと怒らせる言い方をする奴)

8)「言い分はよく分った。要するにこういうことか。」(勝手に要約する奴)

9)「これまで出た意見を整理してみると、こういうことになるな、、」(自分の意見を言わずまとめ役だけをする奴)

10)「うっかり寝てしまいそうになったが、こんなふうに考えたらどうだ、、。」(寝たふりしていていきなり喋りだす奴)

11)「どうしてそんなに国際感覚に乏しいんだ。それに語学力もない」(自分だけが別格の選民と思っている奴*)

12)「この意見には最近お会いした著名な○○さんも賛成してくれたが、、」(著名人の威光にすがる奴*)

13)「議論するならあらかじめもっと勉強してこいよ」(知ったかぶりをする奴)

14)「自分が何を言おうとしているのか分っているのか」(見解の違いを押さえつける奴)

15)「よくそんないい加減なことばかり言ってられるな」(いい加減と勝手に決めつける奴)

16)「真面目に議論したらそんな結論になる筈がない」(初めから結論を用意し押付ける奴)

17)「それで相手が納得すると思うか、よく考えろ」(自分の意見と違えば納得しない奴)

18)「またその話か、何回も同じ話を繰り返すなよ」(初めて聞く人もいると思わない奴)

19)「活発に議論しているようにみえるが、的外れもいいとこだ。」(何か文句をつけようと待っている奴)

20)「意見はいろいろだったな。よくわかった。今日はこれまで」(なにも発言せずあとで自説として引用する奴)

補足すると、「”カチンとくる言い方をする奴”は、あんた自身じゃなかったのか?」。(「反省してま〜す」、「チツ、うるせ〜な」)
                                   <完>

2017年04月14日

◆結社の自由と秘密結社

大江 洋三


朝日、毎日系で「日本会議」が標的になる事が多い。保守自民党を影で
操っているという。まるで秘密結社扱いである。

確かに、日本会議は保守政党を支えている結社である事に間違いはない。
結社あるいは団体形成の自由は憲法でも認められている行為で、共産党や
自民党も結社の一つである。

このように、理念も組織も明瞭であれば秘密結社ではない。

従って、結社が結社であるためには、組織あるいは責任者が明らかでなく
てはならない。そうでなければ、秘密結社である。

日本会議・議長の田久保忠衛氏は、自身の所属と職責を明らかに上で、各
所で言論活動をされている。このように、非常にオープンな存在が、秘密
結社扱いされるとは奇妙である。

同じような意味で、民進党など革新系の支持母体の日本労働組合総連合会
も秘密結社ではない。

原発反対も基地反対も、思想信条の自由があるから構わない。しかし、講
演会や集会やデモなどのように団体行動をする限りは、責任者や組織を明
らかにしなくてはならない。講演者は責任者ではないし、少なくともメ
ディアが明らかにする事はない。

俗に「市民グループ」という。この種こそ、秘密結社と称して構わないの
ではないか。

日本会議在籍の友人に「市民グループ」という名の抗議文が届いた事がある。

内容を見せてもらったが、どこに反論したらいいか皆目見当のつかない代
物で、卑怯極まりない行為である。平素から表に出たら困る事をしている
人達に違いない。

暴力団という名の結社ですら、組長という責任者がいる。
市民グループとは暴力団以下の結社ではなかろうか。
冗談と思うなかれ。対処可能の意味では、闇に潜む者の方が、表に出てい
る者よりも何倍も怖い。

順調にいけば、5月にはテロ対策特別措置法に、共同謀議まで備わったテ
ロ等準備罪が加わる事になる。
責任者不在にして潜ろうとする秘密結社には、怖い法律である。

◆ある筈ない民主化中国

渡部 亮次郎



中国の「漁民」が尖閣諸島に攻めてきて以来「経済の改革があったのだから政治も改革、民主化になぜなら無いのか」と良く質問される。それに対する私の答えは「カネが溜まっただけ人民に対する統制はきつくなり、比例して民主化は遠くなります」。

経済の開放(外資導入)と改革はトウ小平の若い時からの夢だった。しかし経済の改革開放をやれば政治の改革開放が不可避であり、それは共産党独裁の否定に繋がるから古い指導者たちはこぞってトウを避けようと
した。

トウの三度に及ぶ失脚は、それぞれに理由は別だがそのそこで共通しているのは改革開放思想。「黒猫でも白猫でも鼠を良く捕る猫がいい猫」思想である。

三度目の失脚のときは既に老齢でもあったが、毛沢東がやがて死ねば自分が天下を取り、改革開放路線を実現する事は夢では無いことを信じて自らを鼓舞していた。幸い周恩来の変わらざる支援により命永らえ奇跡の復活を遂げた時、毛沢東は既にこの世になかった。

田中角栄内閣で締結を公約しながら、田中内閣は勿論、三木内閣でも実現しなかった日中平和友好条約の締結について中国の動きが俄然、積極的になってきたのは、この頃である。

福田内閣で官房長官から外務大臣に横滑りした園田直(すなお)はNHK記者だった私を秘書官に起用する一方、剣道の弟子で中国で育った民間人を「使者」として北京にしばしば派遣、旧知の廖承志周辺の動きを探った。

その結果、復活した?小平が党の主導権をとり経済の改革開放に舵を切り替えつつあることを確認できた。日中平和友好条約締結への積極姿勢も、ここに鍵のあることを確認できた。

以後、中国は日本の外資導入を梃子とし、経済の改革開放政策により、今や日本を抜いて世界第二位の経済大国になありつつある。だからアメリカを初めとする西側の政治、経済学者は今度は政治面での民主化を予想したいところだが、これは絶対望みは無い。

民主化すれば経済原則上、不要な共産党は否定される。彼らは排除され抹殺されること必定である。彼らが人民にしてきたことを今度はそのまま適用される。だから中国共産党は政治の民主化は絶対行なわない。

経済の改革開放にとって共産党は邪魔以外の何物でもないから政治に対して賄賂で打開する以外に無い。したがって共産党は損じする限り賄賂が自動的に転がり込む。構造的賄賂の舞い込む天国を捨てる共産党「皇帝」などいない。民主化は反革命の成就後だ。

◆トランプ、対中改善に大きく前進

杉浦正章



対露関係は機熟さず「史上最悪」
 

安倍訪露は好機か
 

日本や西欧など同盟国との関係を構築した米大統領トランプは、オバマが悪化させたロシア、中国との関係再構築に取りかかっている。しかし、対中関係改善が大きく先行したのに対して、対露関係は自ら「史上最悪」と言い切るほど好転していない。トランプは選挙中にロシアに大接近したものの、その先兵となったマイケル・フリンを国家安全保障補佐官から外した。


大統領就任前にロシア大使と接触した疑惑が理由である。代わりに就任させたマクマスターらに主導権が移りシリア攻撃など、ロシアの神経逆なでの行動に出た。米政権内部の主導権争いも作用したのだ。国務長官ティラーソンをモスクワに派遣したがシリアをめぐる亀裂だけが際立った。
 

トランプと習近平との関係は驚くほど好転している。習近平がトランプに気軽に電話するような関係になったのだ。おまけに12日の電話会談の中身たるや、出来るだけ早期の訪中を望む習近平に、トランプは快く応ずるという蜜月ぶりだ。会談でもっとも注目されるのはトランプが習近平に国連安保理におけるアサドの化学兵器使用を非難する決議への配慮を求めたことにどのような対応をするかであった。


これに対して、習近平は「棄権」という対応に出たのだ。拒否権を行使したロシアは完全に孤立した。6年にわたるシリア内戦中にロシアが拒否権を行使したのは8回目。同じく常任理事国で過去に6回拒否権を行使している中国が棄権、ロシアに同調しなかった事は外交上大きな意味を持つ。トランプは「素晴らしい。だが棄権したことに驚きはない」と得意げに自らの根回しをほのめかしている。「習近平氏とはケミストリーが合う」とまで言いきっている
 

しかし対中関係も北朝鮮の核ミサイル開発問題をめぐっては、さらなる制裁を求めるトランプに対して、習が石油の供給制限などドラスティックな対応をするかどうかの問題もありまだ予断を許さない。こうしたトランプ外交も身内の進言に左右されることが分かって来た。 夫ジャレッド・クシュナーとともにその絶大な影響力からトランプの「秘密兵器」とも呼ばれているイバンカは、シリアへのミサイル攻撃にまで影響を及ぼしている。


実弟エリック・トランプは英テレグラフ紙に「イバンカは3人の子供を持つ母親で、大きな影響力を持っている。彼女はきっと『聞いてお父さん、こんなのひどすぎる』という具合に言ったと思う。父(トランプ)は、そういう時には動く人だ」と証言している。
 

こうした内情が反映して中国とは対照的に、対露関係は「険悪」ともいう事態になっている。しかし、筆者はシリアへの一回限りの攻撃で関係悪化が長期に継続するとは思えない。ティラーソンが外相ラブロフと5時間、トランプと2時間も会談したことの意味は、両者がそうとう突っ込んで様々な問題を語り合ったことを物語っている。両外相は冷戦後最悪と言われるほど悪化した米ロ関係の改善に取り組む必要性では一致している。


加えてプーチンは、アメリカ軍による空爆が過激派組織ISなどのテロ組織を対象にする場合、いったん閉鎖した連絡窓口の運用を再開する用意があることを確認している。就任後初めてロシアを訪れたティラーソンに対し、ISとの戦いでは、トランプ政権と協力していく姿勢を示して、花を持たせたものとして注目される。報道官ペスコフも「非常に建設的な会談だった。さまざまな問題の解決策を探るため、対話を維持することが必要だという指摘があった」と述べている。
 

米露会談で重要な点は対露制裁問題が話し合われたかどうかだ。合計7時間もの会談の中で、すくなくともロシア側が言及しないことはあるまい。ウクライナ問題に端を発して対露制裁措置を講じている主要国は米国と欧州連合(EU)であり、カナダ、豪州、日本は独自の制裁を発動している。トランプは政権に就く前は対露制裁解除に前向きであった。更迭されたフリンはその意を受けて駐米ロシア大使と対露制裁について協議していたのであろう。


EUは昨年末の首脳会議で対露経済制裁を1月の期限から半年延長することで合意した。欧州諸国はイギリスが強硬論であるのに対して、ドイツ、フランス、イタリアなどには「制裁疲れの様子」が見え始めているようだ。5月のシチリア・サミットでも話し合われる公算が強いが、問題の焦点はやはりトランプがどう動くかに絞られよう。
 

こうした情勢の中で首相・安倍晋三の訪露は4月下旬行われる予定だ。安倍はロシアとの共同経済活動を先行させて領土問題につなげるという大きな方針転換を行った。この経済活動によって日露の信頼関係を深め、主権の問題を解決しようという試みは、世界的に見ても前例のないアプローチである。四面楚歌のプーチンに対して譲歩を迫る好機とも言える。一方で、るる述べてきたような激動する世界情勢を大局的な見地から話し合うこともまた重要だろう。

     <今朝のニュース解説から抜粋>  (政治評論家)