2017年05月02日

◆童話に教えられること

真鍋 峰松


まず、この話をお読み頂きたい。
 

「オオカミが羊の群れを襲う機会をうかがっていたが、犬が見張っていて手を出すことができないので、目的を達するために策略を用いることにした。オオカミは羊に使者を遣って犬を引き離すように求めた。
 

自分と羊とのあいだの反目の原因は犬であり、犬を引き渡しさえすれば、羊とのあいだに平和が永遠に続くだろうとオオカミは言った。何が起こるのかを予見できない羊は犬を引き渡した。


いまや絶対的優位に立ったオオカミは、もはや守る者のいなくなった群れをほしいままに食い荒らした。」(「新訳イソップの寓話集」塚崎幹夫訳 中公文庫)。


以前、読んだ童話の中の話である。日本の昔話や童話の中では、子ども向けに最後の下りがメデタシ、メデタシ、そして二人で幸せに暮らしました風、或いは勧善懲悪の教訓話が多い。
 

だが、西洋の有名なイソップやグリム兄弟の童話集にはハッピー・エンドばかりではなく、相当にアンハッピー・エンド、残酷な結末で終わる話が多いという。
 

これは、欧米系人と日本人との民族性の違い、とりわけ日本人の現世肯定の現実主義と、子供には夢と希望をという一種の理想主義とが合体したところから生じたのであろうか。


童話の専門家でもない私が、このことを詳しく述べるのは本題ではない。


私がこの話から直ちに連想したのは、昨今の米軍基地の移転問題。いつしか日本近海でキナ臭い話が充満する昨今、基地をどこか国外に移転しろと言うのは、果たして如何なる外国の、或いは宇宙人の策略なのかどうか、私には専門外の話。


だが、この童話、如何にも当て擦り的な寓話のように思えてならない。明らかに分かるのは、昨今の米軍基地問題を巡る議論では、どこか基本的な問題が抜け落ちているのではないのか、ということ。
 
つまり、この寓話での犬の果たす役割〜国の安全保障体制の問題である。 


最近の鳩山首相の発言の中にあった、色々と勉強している中で、仰止力のためには米軍基地の分散化には一定の限界があるとの発言に、びっくり仰天するしかなかった。
 

一体、この人物は何年の間、国会議員を勤めて来たのだろうか。それなのに一番大事な国の安全保障について、首相になってから勉強とは。 しかも、この後に及んで仰止力について初めて理解したというのか。惟、唖然とするしかない。
 

国の果たすべき役割の最たるものの代表例は防衛・外交、司法。 戦後の防衛・外交の中心的役割を担ってきたのが日米安全保障条約。それ位は誰でも簡単に解ること。


片務的契約だの、何だのという議論はさて置き、明白なのは、現在の日本自身の防衛力だけでは、近代戦闘では非常に心もとない。
 

米国の軍事力を背景にしなければ、とてもじゃないが周辺の好戦的・反日的な国に太刀打ちできるものではない、ということ。


この件に限らず、今後一体、この国はどこを向いて動いて行くのだろうか。確たる方向性があり、操舵手はいるのだろうか。
        

政治と童話と言えば、イソップ童話の北風と太陽の話。言うまでも無く、これは隣国韓国の対北朝鮮政策の話。
 

三代前の大統領 金大中氏及び後継者盧武鉉氏と、現在の李明博氏の対照的な政策を表現することは、夙に有名である。
 

現時点でも最終判断は保留状態のようだが、これらの政策の行き着いた先が、最近の北朝鮮軍による韓国艦艇への攻撃と数十人の戦死と多数の負傷兵員の発生とすれば、私には自ずと優劣の差も判明したようにも思える。


が、これも鶏が先か卵が先か、どちらが原因で結果なのか、素人眼には結論を出し難い面もある。


最後に、もう一つ。


「兎が獣の会議に出かけてゆき、これからどうしても万獣平等の世にならなければならぬと、むきになって論じ立てた。獅子の大王はこれを聞いてニコニコ笑いながら、兎どん、お前の言うのは尤もだの。だがそれには、まず儂どもと同じに、立派な爪と歯を揃えてからやって来るがいい、と言った。」 

2017年05月01日

◆北朝鮮のミサイル発射は「自爆」

宮崎 正弘 



<平成29年(2017)4月30日(日曜日)通算第5273号 >  

 〜北朝鮮のミサイル発射は「自爆」という結果だったが
  日韓は当然ながらロシア極東軍も警戒態勢を取っていた〜

 北朝鮮は4月29日、早朝にミサイル発射実験を行った。
 平壌の北東、北倉から発射された中距離弾道ミサイルは「KN17」と
米軍はみており、これは失敗したとはいえ、空母キラーという異名をとる。

折しも米空母カールビンゾンが、対馬沖から日本海へ入った、そのタイミ
ングを狙っており、そのうえ格別に留意すべきは、ミサイルは北東へむ
かって発射されたことである。米軍筋は、ミサイルは44キロ飛翔し、北
朝鮮領内に落下したと分析した。

4月にはいって、5日、16日、今回は3回目だが、いずれも失敗した。

失敗は北朝鮮の技術的貧困、あるいはミサイルの欠陥からくるものか、あ
るいは意図的に失敗させてはいるが、ある目的のために一連の実験ではな
いのかとする見方もある。

すでにオバマ政権の時代に、ミサイルを電波妨害で破壊する研究が開始さ
れているが、その研究成果の報告はまだ出ておらず、北のミサイル失敗は
米軍が妨害電波を出したからという観測もあるが、ミサイル内部の電子命
令系統は、外側から隔絶された設計になっている。

従って米軍の電波妨害が成功しているとは考えにくいのではないか。

むしろ北東へ飛ばすと、その先は日本海ではなく、ロシアである。

ロシアへ向かわせ、途中で自爆させているのだ。つまり技術力が格段に向
上していることを北朝鮮は見せつけ、米国、韓国、中国ばかりか、ロシア
に示威したとい解釈も成り立つ。

折からNYの国連では安保理事会が開催され、ティラーソン国務長官は
「深刻な危機」と分析し、ロシアや中国との論戦の最中だった。

中国の王毅外相は「問題解決の鍵は中国にはない」と盛んに逃げをうっ
た。ティラーソンは「話し合いは意味がない。過去に何回も騙されてい
る」という意味の発言をした。

この直後に、北のミサイル実験のニュースが飛びこんで、中国が主張して
いた「平和的解決」も国連安保理事会の緊急会合では虚しく聞こえた。

ロシア代表はガジノフ外務次官で、「もし米軍が先制攻撃を行えば、破局
を迎える」と横やりを入れていた。

またロシアは中国とともに「六者協議」を再開して話し合いを続けるべき
と主張したが、安倍首相は訪問先のロンドンの記者会見で「六者協議再開
という環境にはない」と、楽観的観測を否定した。


 ▼日本では警戒、監視態勢つよまったが

「この状況は戦後最悪の危機である」と有力政治家の発言が続く。

日本ではミサイル発射ニュースの直後から、「安全確認」を目的に東京
の地下鉄は10分間、停車した。

ほかに北陸新幹線も停車して、被害を避ける準備に入った。

すでに秋田県男鹿半島などでは避難訓練が行われており、日頃の平和ぼけ
から防御への頭に切り替えが行われつつある。

地下鉄の場合は、地下シェルターとしての態勢がとれるか、どうか。いや
地下鉄の構造に、そういう能力があるのか。鉄道にしても、ミサイル被害
がもしでた場合、いかなる措置を必要とされるか、政府は具体的検討に
入った。

ミサイルは失敗しても、その自爆あるいは自壊場所によって、残骸が墜落
する危険性を伴い、あるいは日本海であってもイカ漁船などが操業中の海
域に落ちれば被害が出る。

陸続きの朝鮮半島から中国、ロシアの国境付近も、落下の危険性の潜在的
ポイントとして加えておくべきだろう。

じつは4月29日の北朝鮮ミサイルは失敗したが、落下を警戒してロシア極
東では警戒態勢が取られていたのだ。

極東防空識別圏内で「アラート」が発せられ、東部軍区(ハバロフスク)
ではS400対空ミサイルシステムが稼働した。

「ミサイルの残骸が露西亜領内に落下する危険性に備えた」とビクター・
オゼロフ(ロシア連邦上院軍事委員長)が発言した(アジアタイムズ、4
月30日)。

一連の北朝鮮擁護発言をくりかえしてきたロシアとて、政治的思惑と世界
政治の攪乱、アメリカ主導への当てつけ、トランプ外交への妨害などが目
的で、計算づくでなされた政治発言はロシアの地位回復を企図した政治的
ジェスチャーである。

矛盾するかのように極東ハバロフスク軍区の警戒態勢入りがなされている。

        
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  ◆樋泉克夫のコラム 
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【知道中国 1563回】        
――「正邪の標準なくして、利害の打算あり」――(?富2)
   ?富猪一郎『七十八日遊記』(民友社 明治39年)

            ▽

趙爾巽(1844年~1927年)は漢人八旗の出身。清末民初の政治家で、東三
省総督時代に遭遇した辛亥革命に際しては満州において革命勢力を押さえ
込み、革命の余波が満州に及ぶことを防いだ。清朝が崩壊し中華民国が成
立するや、漢人官僚の代表で中華民国の実権を握った袁世凱や後継者と
なった段祺瑞の幕下に馳せ参じ、清朝の歴史を記した『清史稿』の編纂を
主幹した。

徳富を前に趙爾巽が「頻に日本の新聞か、自分を誤解し居る」と“不満”を
口にしたということは、趙が自分を軽んずる日本に不満を持っていたとい
うことであり、日本は趙の政治家として実力を見限っていたということだ
ろう。

奉天にある清朝の王宮へ足を向けた。「宮殿の内部、寶物、及ひ4大書庫
の一なる文溯閣を見物」している。「宮殿は朝鮮も、支那も、其の荒廢は
同樣也。目下修繕中の由にて候得共、それも覺束なく存し候」。宝物は数
あるが、やはり乾隆帝が勅命で編纂を命じ、清朝の総力を傾け、400人を
超える学者を総動員して全土に残された書籍を網羅した四庫全書を納めた
「文溯閣の戴籍」を目にしては、さすがに「快心洞目」せざるをえなかった。

とはいえ文溯閣には長期にわたって人の出入りがなかったらしく、貴重な
書籍には塵が堆く積もっていた。「塵埃の積る寸餘なるには閉口致し」て
いるが、ここで一転して、「支那にては、流石に4億餘の人口ある故に
や、人間程廉價のものは、此れなく」と呟く。それというのも「斯る寶物
庫や何やを見物するにも、役人やら油虫やら、ぞろぞろと左右前後より取
り捲き、?々喋々の奇聲を發し、且つ名状す可らさる奇臭の包圍攻?には、
閉口中の大閉口にて有之候」と。

何にもまして繁文縟礼を旨とするだけに、清朝の役人が多くのお供を従
えて案内したことだろう。態度物腰は慇懃のうえに慇懃ではあるが、ベ
チャクチャと喧しい限り。加えて彼らに入浴の習慣もなく、油の沁み込ん
だような厚手の衣裳を纏っている。「名状す可らさる奇臭の包圍攻?」に
は、神州高潔の民を任じていたはずの徳富ならずとも「閉口中の大閉口」
と呟かざるをえなかったはず。
 
次に向かったのが、清朝2代目皇帝ホンタイジ(漢字で皇太極)を祀る昭
陵だった。
 
奉天の城門を出る。「支那詩人の所謂る一坏土たる、土饅頭の墳墓と、且
つ糞塊の堆をなす間を、用捨なく排進し、渺々たる廣原を過ぎ、鬱然たる
森林中に入」ると、その先に昭陵が構えていた。「塲所と云ひ、結構と云
ひ、奉天第一の見物」ではあるが、ここでも「支那の役人、若しくは小价
等か、左右に附き纏ひ、大聲にて何やら分らぬ言を喋舌するには、聊か五
月蠅からさるにあらす候」。案内する役人やらお供の下役の振る舞いが、
よほど気に入らなかったに違いない。それにしても「糞塊の堆をなす間
を、用捨なく排進」とは、想像するだけでもクサそうだ。

 18万の人口を称する「奉天は、流石に(中略)滿洲中の都會也」。「日
本人の居住する者2千人、其の在留者は、概して6千人内外、軍人は其外
に候由に候」。ということは、日本人滞在者は長期が2000人で、短期が
6000人ということか。これに駐留軍人が加わっていたわけだから、やはり
当時の奉天では日本人は一大勢力だったと考えられる。

日露戦争が終わったとはいえ、「戰後の情態は、未た全く恢復したりと
は、申し難かる可く候」。それは、「物價の格外なる不廉にて、明白に
候」。物価の高止まりが「此儘にて永續するは、甚た面白からす候」。だ
から日清協同事業の声が挙がるのは判らないわけではないが、満州におけ
る日清両国民の信用と好意とが容易に得られない以上、「言ふ可きも、决
して容易に行ふ可らさるかと察せられ候」ということになる。
次なる目的地は大連。
《QED》

◆国際共産主義はグローバル資本が生み育てた

伊勢 雅臣



■1.「ロシア革命はユダヤ革命」

世界でおよそ1億人を殺害したと言われる共産主義の幕開けは、今から
ちょうど100年前、1917年に始まったロシア革命だった。その末裔である
シナや北朝鮮が今もわが国の安全を脅かし、国内でも日本共産党が存在感
を示していることを考えると、過ぎ去った過去の1ページと片付けるわけ
にはいかない。

実は、ヨーロッパでは「ロシア革命はユダヤ革命」と言われている。ロシ
アで迫害されていたユダヤ人が自らを解放するための革命だった、という
のである。[1, 646/2084]

一見、眉唾物の陰謀史観に見えるが、元ウクライナ大使の馬渕睦夫氏の著
作から共産主義とユダヤ財閥との関連を見ていくと、本誌でも取り上げ
た、その後の第二次大戦、シナの国共内戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争な
ど、国際共産主義が絡んだ戦争にまつわる数々の謎が解けていく。

馬渕氏の論説は現代のグローバリズムにまで及んでいるが、本稿ではまず
ソ連の関わったこれらの戦争の舞台裏を、馬渕氏の著作から見てみたい。


■2.日露戦争で日本を助けたユダヤ資本

事の発端は、ロシアで行われていたユダヤ人弾圧である。18世紀末、ポー
ランドはロシア、プロイセン、オーストリアなどに分割され、ロシアは同
国にいた多くのユダヤ人を帝国内に抱えることになった。

ところが、ユダヤ人はロシアに同化せずに独自の生活様式に固執しました。

また、商才を発揮して無知なロシア農民を搾取したことから、ロシア農民
の間にユダヤ商人に対する反感が強まり、それが高じて集団でユダヤ人を
襲うようになっていったのです。

ロシア帝国はユダヤ人排斥主義をとっており、ポグロムと呼ばれるユダヤ
人殺戮を繰り返していました。[1, 828/2084]


ロシア革命前の1904-5年に勃発した日露戦争では、アメリカの国際銀行
クーン・ロープ商会のヤコブ・シフが大量に日本の国債を買って支援し
た。シフはユダヤ人で、同胞の資本を集めて、日本に戦費を供給してくれ
たのである。[a]

その資金を使って、日本陸軍の明石元二郎大佐はレーニンなどの共産主義
勢力に膨大な援助をして革命運動を煽り、ロシアを背後から動揺させた。
この工作が日露戦争の勝因の一つとなった。[b]


■3.ユダヤ財閥が支援したマルクスの共産主義研究

ロシア革命を主導したレーニンはユダヤ人の血が四分の一入っている。大
学生の時代からカール・マルクスの『資本論』などの著作を読みふけり、
共産主義に傾倒するようになった。

そのマルクスもユダヤ人で、研究を支援していたのが、これまたユダヤ財
閥ロスチャイルドだった。資本家が共産主義の研究を支援するというの
は、一見、矛盾しているが、ロスチャイルドが国際資本家であることを考
えれば、共通点が見えてくる。

ロスチャイルドの基礎を築いたマイアー・アムシェル・ロートシルト(こ
の英語読みがロスチャイルド)は18世紀後半、フランクフルトのゲットー
(ユダヤ人隔離居住区)出身で、銀行家として成功し、5人の息子をフラ
ンクフルト、ウィーン、ロンドン、ナポリ、パリの5箇所に分散させて、
銀行業を国際的に拡大させた。

彼らには祖国はなく、ある国家の弾圧を受けても生き延びられるよう各国
に事業を分散させたのである。カール・マルクスもプロイセン(現ドイ
ツ)に生まれたが、共産主義活動で各国政府から追放されたり、弾圧から
逃れたりしながら、パリ、ブリュッセル、ケルンと放浪した。その後、ロ
ンドンに移り住んで『資本論』を書き上げたのである。

ユダヤ人が世界に離散して住むことを「ディアスポラ」と呼ぶ。国民国家
とはある民族の共同体として作られているが、自らの民族国家を持たない
ユダヤ人はどこに行っても少数民族で、いつ弾圧されるか分からない。そ
ういう状況で生き延びるためには、国際金融で成功して国家を超えた力を
持つか、国際共産主義で国家を滅ぼすしかない。

国家を否定し、国家を超えた力を持とうとするところに、ロスチャイルド
とマルクスの共通項があった。しかも革命によって実現した共産主義社会
は、エリートによる独裁と大衆支配、宗教や道徳を否定する唯物的思考と
いう点で、グローバル資本主義社会と瓜二つだった。


■4.ユダヤ人によるユダヤ人のためのロシア革命

革命が勃発すると、イギリスのロスチャイルドとアメリカのヤコブ・シフ
はスイスに亡命していたレーニンを支援して、ロシアに戻した。同じくユ
ダヤ人でアメリカにいたトロッキーは、米政府から支給されたパスポート
をもってロシアに戻り、革命指導者となった。一緒にニューヨークの金融
街ウォール・ストリートなどで働いていたロシア系ユダヤ人を引き連れて
行った。

2人以外にも、カーメネフ、ジノヴィェフ、ラデック、スヴェルドルフ、
リトヴィノフなど、当時の革命指導者の8割以上がユダヤ人だった。

革命と共に、ニコライ2世とその家族は銃殺され、数百万人から一千万人
と言われるロシア民衆の粛清が行われた。ロシア革命はロシア皇帝の圧政
に立ち上がったロシア民衆によるものというのが定説だが、それならなぜ
こんな大規模な粛清が必要だったのか、説明がつかない。ユダヤ革命に反
発するロシア民衆を弾圧した、と考えると納得がいく。

トロッキーが政権をとって最初に行ったことは、人民から金(ゴールド)
を供出させることだった。共産主義国家では金の私有は禁止される、とい
うのが表向きの理由だったが、ロマノフ王朝から取り上げた財宝と共に、
革命に資金援助をしたユダヤ財閥への返済に使われたのだった。

ロシア系ユダヤ人で、アメリカのオクシデンタル石油会長のアマンド・ハ
マーもロシア革命を支援し、革命成功後にはすぐにレーニンを訪ねてアメ
リカの穀物やトラクターなどを売りつけ、ビジネスを始めている[2,
p35]。革命や戦争はユダヤ資本にとっては、絶好の収益機会なのである。


■5.ルーズベルトの親ソ政策

革命後のソ連とアメリカの奇妙な友好関係は、国際ユダヤ資本という共通
項に着目すると謎が解けてくる。アメリカのフランクリン・デラノ・ルー
ズベルト民主党政権は1933年にソ連を承認した。それまでの4代の大統領
は、共産主義がアメリカに浸透することを恐れて承認を拒否していたのだ
が、それを覆したのである。

ルーズベルトの家系もユダヤ系と言われている。母親の実家デラノ家は19
世紀にシナにアヘンを売り込んで世界的な大富豪にのし上がった。また、
夫人のエレノアは社会主義者だった。

ルーズベルトは大恐慌に際して、ニューディール政策で経済のてこ入れを
図った。この政策自体が政府の大規模公共投資という社会主義的な性格を
持っていた。この時も、政府に資金を貸し付けて大儲けしたのは国際資本
だった。

ルーズベルト政権に多くの共産主義者が入り込み、その政策を親ソ反日に
ねじ曲げていった様子が、近年公開されたアメリカの機密資料・ベノナ文
書などで明らかにされている。当時、日本はソ連と敵対していた反共国家
だった。日露戦争の時に反露親日だった米国は、ロシア革命を機に親ソ反
日に転換したのである。

独ソ戦が始まると、ルーズベルト政権はソ連に対して凄まじい軍事支援を
行った。航空機1万4千7百機(零戦の全生産量に匹敵)、戦車7千両、
装甲車6千3百両、トラック37万5千台、ジープ5万2千台という規模で
あった[c]。これも単なる親ソ政策というだけでなく、これだけの生産を
して儲けたのが誰かを考えれば、十分納得がいく。

ルーズベルト政権は、欧州での対ドイツ戦に絶対に参戦しないという公約
で再選されたのだが、その公約を破らずに参戦するために、日本を追いつ
め、真珠湾攻撃を仕掛けさせて、米国民を戦争に引きずり込んだのである。

当時の米共和党下院リーダー・ハミルトン・フィッシュ議員は、「ルーズ
ベルトは、われわれをだまし、いわば裏口からわれわれをドイツとの戦争
にまきこんだ」と著書で公言している。[d]


■6.シナ大陸をソ連陣営にプレゼントしたトルーマン民主党政権

アメリカの共産主義陣営への奇妙な肩入れは、その後も続く。大東亜戦争
の末期に、もうソ連の肩入れなど必要ないのに満洲・樺太・千島列島侵攻
を許した。ヤルタ会談ではソ連に満洲での利権を与えるという約束が秘密
裏になされ、蒋介石はショックで打ちのめされた。

またシナ大陸で国民党と共産党との国共内戦が始まると、ルーズベルトの
後をついだトルーマン民主党政権が送った特使マーシャルは、国民党軍が
優勢になる都度、停戦をもちかけて、その勝利を妨害した。蒋介石への軍
事支援は止められ、アメリカからソ連への軍事援助が一部シナ共産党軍に
流れても見て見ぬふりをしていた。

米議会が国民党軍への軍事支援を求めると、国民党軍が「共産主義に敗れ
る恐れはない」と制止し、2年後に共産党軍が優勢となった頃には、支援
は手遅れだと否定した。

それでも議会が2億75百万ドルの経済支援と1億25百万ドルの軍事支援
を行う案を議決すると、8ヶ月も実施を遅らせ、最初の船積みが行われた
時にはシナ共産党が大勢を決して、中華人民共和国の建国を宣言してい
た。[e, 3, p36]

アメリカが本来の国力を使って蒋介石を支援していれば、シナ大陸は蒋介
石の国民党が統治し、ソ連に対する防壁となったはずである。ルーズベル
トの後をついだトルーマン政権はわざわざシナ大陸をそっくりソ連の陣営
にプレゼントしたのである。なぜ、そんな事をしたのかは、その後の歴史
を辿ると見えてくる。


■7.仕掛けられた朝鮮戦争

1950年1月12日、マーシャルの後任、アチソン国務長官は「アメリカのア
ジア地域の防衛線には南朝鮮を含めない」と演説した。いわゆるアチソ
ン・ラインである。これは共産主義勢力に南朝鮮が侵略されてもアメリカ
は関与しない、というゴー・サインであるととられても仕方のない発言で
あった。

北朝鮮はこの発言を承けて、半年後の6月25日に38度線を越えて韓国侵攻
を開始した。朝鮮戦争の始まりである。

国連軍の編成には安全保障理事会の承認が必要だった。ソ連の外相グロム
イコは当然、拒否権を発動すべきとスターリンに進言したのだが、スター
リンは「私の考えでは、ソ連代表は安保理事会に出席すべきではないな」
と述べた。ソ連の意図的な欠席により、国連軍が出動できたのである。

北朝鮮軍は半島南端の釜山まで韓国軍を追いつめていたが、ここでマッ
カーサー指揮する国連軍が巻き返しを図り、北朝鮮軍を押し返して、シナ
国境まで追いつめた。

マッカーサーは中共軍が満洲から北朝鮮に入ってくるのを防ぐために、鴨
緑江(おうりょくこう)にかかる橋を爆撃する作戦を立てたが、国防長官
になっていたマーシャルに拒否された。積極的攻勢をとろうとするマッ
カーサーは解任され、後を継いだクラーク将軍も「私には勝利するために
必要な権限も武器・兵員も与えられなかった」と自著のなかで書いてい
る。[2, p184]
 
朝鮮戦争は3年も続いたが、こうした民主党政権の介入で米軍は手足を縛
られ、結局、開戦前とほとんど変わらないラインで休戦協定が調印され
た。戦場となった朝鮮半島と、戦い合った米軍とシナ軍は多大な損害を受
けたが、得をしたのはシナの台頭を防いだソ連と、膨大な軍備・軍需物資
を売ったグローバル資本だった。


■8.作られたベトナム戦争

1961年5月に、ケネディ民主党政権が「軍事顧問団」という名の特殊作戦
部隊600名を送り込んで始まったベトナム戦争も、その裏での奇妙な米ソ
結託があったという点で、朝鮮戦争とよく似ている。

1966年10月、ベトナム戦争が最も激しさを増した時、ジョンソン民主党政
権はソ連などに総額3百億ドルを融資し、ソ連などはこの資金を使って、
アメリカから「非戦略物資」の輸入にあてた。その「非戦略物資」には、
石油、航空機部品、レーダー、コンピューター、トラック車両などが含ま
れていた。ソ連はこれらを北ベトナムへの支援に使った。

このタイミングでのソ連支援は、結局、ベトナム戦争を長引かせる効果し
かなかった。ジョンソン政権が本当にベトナム戦争の勝利を欲したなら、
こんな支援をするはずがない。結局、ジョンソン政権の狙いは、戦争を長
引かせ、軍備・軍需物資を大量に消費させて、グローバル資本が儲け続け
る点にあったと考えざるを得ない。

こうしてベトナム戦争は1973年に、ニクソン共和党政権がベトナムから米
軍を撤退させるまで10余年に渡って続いた。米国内では反戦運動が激化
し、それまでアメリカ社会の主流を握っていたWASP(白人で、かつア
ングロサクソン、プロテスタント)の権威が一気に凋落した。

 カーター政権で国家安全保証を担当していたブレジンスキー大統領補佐
官は「WASPの没落のあとに、アメリカ社会で支配的エリートになった
のはユダヤ社会である」と述べている。[2, p132]

 アメリカ社会を支配したグローバル資本は、東西冷戦の敵役として使っ
てきたソ連の役割は終えたとして、ソ連を打倒して、その天然資源を手中
にした。ソ連の国営・公営企業を民営化して、7つの新興財閥が産まれた
が、そのうち6つがユダヤ系だった。一方、天然資源はないが、安価なで
豊富な労働力があるシナは共産主義体制を温存させたまま「世界の工場」
と化した。

 こうして東西冷戦は幕を閉じ、戦後は第二幕を迎えた。その後の混沌と
した世界情勢もグローバル資本の動きから見ると、よく理解できる。これ
については、稿を改めよう。



■リンク■

a. JOG(291) 高橋是清 〜 日露戦争を支えた外債募集
 莫大な戦費の不足を補うために欧米市場で資金を調達する、との使命を
帯びて、是清は出発した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h15/jog291.html

b. JOG(176) 明石元二郎〜帝政ロシアからの解放者
 レーニンは「日本の明石大佐には、感謝状を出したいほどだ」と言った。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h13/jog176.html

c. JOG(951) ルーズベルト大統領が播いた「竜の歯」 〜 日米戦争、冷
戦、そして共産中国
 共産主義者に操られたルーズベルト大統領が、日本を開戦に追い込み、
ソ連を護り育て、世界に戦争の危機をばらまいた。
http://blog.jog-net.jp/201605/article_4.html

d. JOG(096) ルーズベルトの愚行
 対独参戦のために、米国を日本との戦争に巻き込んだ。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h11_2/jog096.html

e. JOG(441) 中国をスターリンに献上した男
 なぜ米国は、やすやすと中国を共産党の手に渡 してしまったのか?
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h18/jog441.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 馬渕睦夫『世界を操るグローバリズムの洗脳を解く』(Kindle
版)★★★、悟空出版、H27
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4908117144/japanontheg01-22/

2. 馬渕睦夫『「反日中韓」を操るのは、じつは同盟国・アメリカだっ
た!』★★★、WAC BUNKO、H26
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3.馬渕睦夫『[新装版]国難の正体』★★★、ビジネス社、H26
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◆「措置入院」精神病棟の日々(31)

“シーチン”修一 2.0



哲学とは何か。諸説あるだろうが、畢竟「人間とは何か、生きる意味は何
か、いかに生きるべきか、いかに死ぬか」を探る学問だと思う。この問題
の「解」があってもいいし、なくてもいい、「探る行為自体に価値があ
る」と小生は思っているが、小生は「生きることは、大義に殉じるための
手段であり、生きること自体は目的ではない」と、老境を迎えた5年ほど
前に自分なりの結論にはたどり着いた。

それでどうなのか、というと、それは別に新説ではないし、新渡戸稲造の
「武士道」や佐賀藩の「葉隠」の亜流なのかもしれない。結論自体が、ご
く個人的なもので、「そうすべきだ」などとは言う気さえない。己が納得
すればいいのであり、一定の結論(のようなもの)にたどり着くまであち
こちを逍遥するから、その逍遥、探索が哲学であり、意味があるのだと思う。

山本夏彦翁は「人は2種類に分類することもできる、たとえば『捕まる
人』と『捕まえる人』とか。私はもちろん前者だが」と書いていたが、小
生も記憶しているだけで4回捕まっているからまごうことなく前者だ。
(交通違反、拾得物横領も犯罪だからほとんどの人は犯罪者で、運が悪い
(?)ごく一部が捕まって下獄するだけという見方もある)

精神病は誰でもなり得る病気だから、患者は世間の縮図だ。精神病棟の患
者40人を3か月間観察して、以下のような感想を持った。

人間を2種類に分類するとなれば、次のようにも分けられるかもしれない。

享楽派 VS 学習派
流行派 VS 個性派
右脳派 VS 左脳派
感情派 VS 理論派
散財派 VS 倹約派
映像派 VS 文字派
饒舌派 VS 寡黙派
受動派 VS 能動派
フォロワー/追従派 VS リーダー/牽引派

人間を社会的有用性から評価すると、上、並、不可の3種類に分類できる
かもしれない。

上:シェア20%。“できる奴”だ。同期や先輩を追い越して出世するような
人。(国際線旅客機のビジネスクラスは全席の30%で、“できる奴”と金や
地位のある人がこのクラスを利用しているのだろう。「上」が20%という
のは実態に近いのではないか)

その「上」を凌駕する特上は千人、万人に1人いるかどうかで、数字には
表れないだろうが、いることはいる。ゲイツとかジョブズのような人だ。

並:40%。社会/組織が期待する能力がそこそこあり、合格ラインはクリ
アする仕事をするが、何年勤めていても大手企業なら課長にはなれないタ
イプ。「仕事はできて当たり前」の世界であり、抜きんでるためには「口
八丁、手八丁」というスネ夫のような狡猾さや、匠のような技量、あるい
は創意工夫/チャレンジ精神/イノベーションといった「プラスαの能力」
が必要なのだが、「並」はそれに欠ける。

不可:40%。この層は監督と支援が必要な“できない坊主”30%、箸にも棒
にもかからない“足を引っ張るお邪魔虫”10%の合計だ。

上記の2種類分類で、「上」は右側の人々、「並、不可」は左側の人々が
多いと思ってまず間違いはないだろう。「上、並」で合わせて60%と過半
数を超えている国はまず安泰で、G7の先進国しかないのではないか。

知識と思考力という知的レベルでは、「上」は高2レベル以上、それ以外
の「並、不可」、すなわち全人口の80%は中2レベル以下である。NHK放送
文化研究所によると、テレビ番組は中2でも分かる内容にしているそうだ
から、彼らはテレビをよく見るし、「並」なら新聞も読んでいるかもしれ
ない。つまり「並、不可」の人々はCMや広告をよく見てくれる層であり、
消費欲も旺盛だろう。

「並、不可」の人々をどう呼ぶべきか。大衆とか庶民、普通の市民、国
民、生活者とかになるのか。ここでは善男善女と呼ぼう。

善男善女は基本的に身近な事柄にしか関心はない。あれを買いたい、これ
を食べたい、あそこへ行きたい、とかで、間違っても「人間とは何か、ど
う生きるべきか、どうすれば理想的な社会を実現できるのか」などはまず
考えてみたこともないだろう。それがいいことなのかどうかは知らない
が、「上」には絶対になれないだろうとは言えるのではないか。

ま、「上」になったところで「禍福は糾(あざな)える縄の如し」で、い
いことばかりではないし、絶叫マシンとか地獄のような日々もある
し・・・面白おかしく暮らしたいのなら「並、不可」でいいというのも賢
い選択だが、知的興奮が大好きな小生にはまったく向かないだろう。

知的興奮があまりない病棟日記から。

【2016/11/28】*今朝の産経は、人間魚雷特攻隊員で奄美に待機していた
島尾敏雄と奄美生まれの妻との葛藤を描いた作品、梯(かけはし)久美子
著「狂うひと」島尾ミホの評伝」を紹介していた。ずいぶんおどろおどろ
しい夫婦関係で、夫の愛人も登場するというオマケ付き。

島尾の作品は「出発は遂に訪れず」と「島へ」くらいしか読んでいない
が、戦後に奄美の図書館長にもなった人でもあり、それなりの人格者と
思っていたが、「実は・・・」という話。

女王様「春琴」に対する下僕「佐吉」ということで島尾夫妻は折り合いを
つけたようだが、小生もそんな風になりそうだ。

いずれにせよ、物事、出来事の真実はなかなか見えないものだ。蛇足なが
ら島尾敏雄の名を知っている島民はせいぜい10%ほどの読書階級であり、
全国的にもそんなものだろう。

*10:00〜11:15、作業療法でクワガタを完成させ、木製のオートバイ組
み立て開始。100ピース以上あり、かなり難しそうだ。週1回だから4週は
かかるのではないか。

*3Fの38歳の女性“パニック”がようやく2Fへ移ってきたので挨拶。ずいぶ
ん顔色が良くなっていた。「(3Fで小生に話しかけてきた)あの頃は薬の
副作用で一番苦しかった」とのこと。3Fには“バスケ”などの顔見知りもい
るから上手く過ごせるだろう。

*13:15、カミサン来、スニーカー風の靴、おやつ、ノート、ボールペン
などを差し入れてくれた。ありがたい。長女の5歳男児と3歳女児の七五三
は、26日(土)に筑波山の五合目あたりにある江戸屋で祝い膳、翌27日は
その近くの立派な筑波神社で感謝と成長祈願をしたそうで、スマホでその
模様を見せてくれた。

*15:00、Dr.面談。入院当初は小生の体は急性肝炎の一歩手前だった
が、予想以上に早く回復しているとのこと。11/25に書いた「自省録」に
目を通してもらったが、「まず奥さんに謝ること。それをしないと自省録
を見せたところで反発するだけだ」と諭された。Dr.はカミサンとも面談
するという。

小生の治療は「3か月コース」確定で、退院は早くて1月末か。

*15:15、両親が迎えに来て“ボス”が退院。女性4人と小生が「お大事
に」「お元気で」と見送ったが、数日後には他の病院へ行くのだろう。
“転院人生”・・・残酷なものである。小生は“ボス”の席を占拠した。(つ
づく)2017/4/28


◆紫式部と蕪村の「和紙」

毛馬 一三



書き出しは、大阪俳人与謝蕪村のことからだ。蕪村(幼名:寅)は、生誕地大阪毛馬村で幼少の頃、母親から手ほどきをうけて高価な「和紙」を使って「絵」を描いて、幼少時期を楽しんでいたことを、最近知った。

寅は、庄屋の子供だったから、高価な「和紙」を父から自在に貰って、絵描きに思いのままに使ったらしい。

その幼少の頃の絵心と嗜みが、苦難を乗り越えて江戸に下り、巴人と遭遇してから本格的な俳人となったのも、この幼少の頃「和紙」に挑んだ「絵心」とが結び付いたらしい。

さて、本題―。

高貴な「和紙」の事を知った時、ジャンルは違うが、紫式部が思い切り使って「和紙」を使って「世界最古の長編小説・源氏物語」を書いたことを思い出した。

そのキッカケは、福井県越前市の「和紙の里」を訪ねてからである。

越前市新在家町にある「越前和紙の里・紙の文化会館」と隣接する「卯立の工芸館」、「パピルス館」を回り、越前和紙の歴史を物語る種々の文献や和紙漉き道具の展示、越前和紙歴史を現す模型や実物パネルなどを見て廻った。

中でも「パピルス館」での紙漉きを行い、汗を掻きかき約20分掛けて自作の和紙を仕上げたのは、今でもその時の感動が飛び出してくる。

流し漉きといって、漉舟(水槽)に、水・紙料(原料)・ネリ(トロロアオイ)を入れてよくかき回したあと、漉簀ですくい上げ、両手で上下左右に巧みに動かしていくと、B5くらいの「和紙」が出来上がる。まさにマジックの世界だ。

ところでこの越前和紙だが、今から約1500年前、越前の岡太川の上流に美しい姫が現れ、村人に紙の漉き方を伝授したという謂れがある。

山間で田畑に乏しかった集落の村人にとり、紙漉きを伝授されたことで、村の営みは豊かになり、以後村人はこの姫を「川上御前」と崇め、岡太神社(大瀧神社)の祭神として祀っている。

<その後大化の改新で、徴税のため全国の戸籍簿が作られることとなり、戸籍や税を記入するために必要となったのが「和紙」である。そのために、越前では大量の紙が漉かれ出したという。

加えて仏教の伝来で写経用として和紙の需要は急増し、紙漉きは越前の地に根ざした産業として大きな発展を遂げてきている>。

さて長編小説「源氏物語」の作者紫式部は、執筆に取り掛かる6年前の24歳の時(996年)、「和紙」の里・越前武生に居住することになり、山ほどの「和紙」に囲まれて、存分に文筆活動に励んだ。

当時、都では「和紙」への大量の需要があったらしく、宮廷人も物書きも喉から手が出る程の「和紙」だったが、手には入らなかった。

ではどうして都にいた紫式部が、遥か離れた「和紙」の里越前の武生に移住してきたのか。それはご当地の国司となった父の藤原為時の“転勤”に関わりがある。文才だけでなく、商才に長けた為時の実像が浮かび上がる。

<為時は、中級の貴族で、国司の中で実際に任地へ赴く“転勤族”だったそうで、996年一旦淡路の国(下国)の国司に任命されるが、当時の権力者・藤原道長に賄賂の手を使って、転勤先を越前の国(上国)の国守に変更してもらっている。はっきり言えば為時は、淡路の国(下国)には赴任したくなかったのだ。何故なのか。

当時、中国や高麗からの貿易船が日本にやってくる場合、海が荒れた時や海流の関係で、同船団が「越前や若狭」の国を母港とすることが多く、このため海外の貴重な特産品が国司のもとに届けられ、実入りは最高のものだったという>。

藤原為時一族は、中級の貴族ながら文才をもって宮中に名をはせ、娘紫式部自身も為時の薫陶よろしく、幼少の頃から当時の女性より優れた才能で漢文を読みこなす程の才女だったといわれる。

これも商才に長けたばかりでなく、父親の愛情として、物書きの娘に書き損じに幾らでも対処できる「和紙」提供の環境を与えたものといわれる。

<この為時の思いは、式部が後に書き始める「源氏物語」の中に、武生での生き様が生かされている。恐らく有り余る「和紙」を使い、後の長編小説「源氏物語」の大筋の筋書きをここで書き綴っていたのではないだろうか。平安時代の歌集で、紫式部の和歌128 首を集めた「紫式部集」の中に、武生の地で詠んだ「雪の歌」が4 首ある。

越前武生の地での経験が、紫式部に将来の行き方に影響を与えたことはまちがいない。と同時に式部は、国司の父親のお陰で結婚資金をたっぷり貯め込むことも成し遂げて、約2年の滞在の後、京都に戻り、27歳になった998年に藤原宣孝と結婚している>。

越前武生の生活は、紫式部にとり「和紙」との出会いを果たして、後の世界最古の長編小説への道を拓くことに繋げた事は、紛れもない事実であろう。

<紫式部の書いた「源氏物語」の原本は現存していない。作者の手元にあった草稿本が、藤原道長の手によって勝手に持ち出され外部に流出するなど、「源氏物語」の本文は当初から非常に複雑な伝幡経路を辿っていたという。

確実に平安時代に作成されたと判断できる写本は、現在のところ一つも見つかっておらず、この時期の写本を元に作成されたと見られる写本も、非常に数が限られているという>。
 
この歴史の事実と筆者の推論を抱きながら、「紫式部公園」に回り、千年前の姿をした高い式部像に対面してきた。

北京五輪の開会式の時、中国の古代4大発明の一つとして「紙」を絵画の絵巻をCGで描き、国威を高らかに示した。

この紙が7〜800年後に日本に渡り、「和紙」となった。その後、「世界最古の長編小説を書いた女性が日本にいた」ということは、中国は勿論諸外国は知らない。

参考:ウィキペディア、: 青表紙証本「夕顔」 宮内庁書陵部蔵 
(加筆再掲)