2017年05月22日

◆カープ快進撃Burn it up!

馬場 伯明



「真赤激(まっかげき)Burn it up」はカープの2016年キャッチフレーズ
だ。今年のプロ野球セパ交流戦で一人の若い選手が真赤激!にBurn it
up!した。カープの鈴木誠也である。二松学舎高卒、2012年ドラフト2位
入団、21歳、181cm、85kg。外野手(高校時代は素質ある投手)。

オリックス戦で本塁打を3試合連発、交流戦3位(11勝6敗1分)に貢献。第
1戦で延長12回3x:2のサヨナラ本塁打、第2戦も9回5x:4サヨナラ本塁
打、第3戦は4:4の8回5:4となる決勝本塁打を打った。

6/18のヒーロー・インタビューで鈴木は「最高です!」と8回も絶叫し
た。緒方監督は「神がかっている。今どきの言葉で言うなら『神ってる』
よな」と賞賛した。(「神がかっている」と「持っている」との造語)。

私は60年来の古いカープファンである。小さな大投手・長谷川良平さん
(167cm)を知っている。1970〜80年代金山次郎さんのRCCのアンチ・巨人
の爽快な毒舌解説も懐かしいなあ。(「カープ女子」には無縁だが)。

カープは25年間リーグ優勝から遠ざかるが今年は違う。交流戦を3位で通
過し真赤激!Burn it upの快進撃中である。6/24からのリーグ戦に戻って
も、6/24・25阪神戦に連勝し通算15年ぶりの8連勝、貯金は13個、巨人は3
位に沈み2位Denaに8ゲームの差でトップを独走中だ。

でも「カープ25年ぶりに優勝だ」と先走るとあとが怖い。しかし、今書か
ないと書くときがないかもしれない。余裕を持ち大きく構えたいが不安で
ある。だが、この不安感こそ本物のファンの真実の心理なのである。

「今年は違う」と書いた。73試合を消化した2016/6/25現在のリーグ成績
を示す。42勝29敗2分、勝率0.592、2位Denaに8ゲーム差。チーム打率
0.269(1位)、得点342(1位)、本塁打70(1位)、打撃トップ10位まで
に3人。20位までに6人(1位)。盗塁数も66(1位)である。

投手陣も頑張っている。失点269(2位)チーム防御率3.43(2位)、個人
成績では、ジョンソン2.10(2位)、野村2.41(4位)、黒田2.84(7位)
とトップ10に3人。野村の勝ち数8と勝率0.800はリーグ1位だ。

奇跡的な勝利や幸運(ツキ)もあった。6/14の西武戦では、捕手が三塁走
者を妨害したとして、いわゆる「コリジョンルール(衝突ルール)」が適
用され、アウトから一転3x:2でサヨナラ勝ちとなった。

6/17から連夜の驚異的な粘りと胸がすくような逆転劇、鈴木の2試合連続
のサヨナラ本塁打と6/19の決勝本塁打。こうなれば(鈴木の)ツキも実力
のうちとなる。素質豊かな21歳の鈴木は完全に脱皮した。

2016年は去年と何が変わったのか?マエケンが大リーグへ行き選手が危機
感を持ったこともある。しかし、何よりも球団と選手が「カープ魂」を強
く発揮し、ファンがそれを「カープ愛」で支えているからだと思う。

2015/10/20、北別府学(59歳)が渾身の「カープ魂 優勝するために必要
なこと」を出版した。北別府は通算213勝、リーグ優勝5回日本一3回の
カープの黄金時代を支えた。2012年津田恒美とともに野球殿堂入り。

本書で北別府はあえて厳しく叱咤した。「選手は揃っている。あと何が足
りない?なぜ優勝できないのか?」。「誰もが知りたい。私は『カープ
魂』が失われているからだと考える」。(『魂』とは)「チームに誇りを
持って一丸となって優勝へ向かっていける強い志だと私は定義している」
(5p)

「カープファンの皆さんのモヤモヤが少しでも吹っ飛ぶことを願って」
(7p)、「選手は『カープ魂』を受け継いで常勝チームへ」(p177)、
「(辛口も)選手は激励と受け止めてもらいたい」(p178)と本の最後を
締めた。

本書を丁寧に読み直した。北別府の熱い想いが胸を打つ。球団と選手は志
「カープ魂」を貫き、ファンは「カープ愛」で選手と球団を一途に支え
る。目指すは25年ぶりのリーグ優勝と日本一である。あの栄光と興奮をぜ
ひとも体感したい。

かつて、優勝の翌夕から、古葉監督のお姉さん経営の新橋近くの小料理屋
の前に「カープを優勝させる会」の佐々木久子さん(雑誌「酒」編集長)
たちが樽酒を積み上げた。ファンをはじめ通行人にも振る舞われた。

カープファンは誇り高い。一方、勝てば穴から頭を出す隠れ巨人ファンや
付和雷同の野球評論人がいる。自由な(勝手な)講釈や評論をする。立ち
位置が定まらない講釈や評論などは信用できない。本人も面白くなく、血
も沸かず肉も踊らないだろう。

じつは、カープには1996年の「悪夢」がある。カープは前半戦終了時で本
命巨人に11.5ゲームの大差をつけ首位を独走した。しかし、後半戦で勢い
が止まり長嶋監督の造語「メーク・ドラマ」に敗北した。

緒方孝市監督は当時7番でライトだった。球団と選手はあの轍を絶対に踏
んではならない。驕らず、焦らず、一丸となり「カープ魂」で一戦一戦を
確実に戦う。「今年のカープは違う」ことを他球団に見せつけるのだ。

1975年夏に新球団歌「それ行けカープ 若き鯉たち」が披露されカープは
悲願の初優勝。1991年には山本浩二監督の下で6回目のリーグ優勝を果た
した。あの時から雌伏25年、今年こそリーグ優勝と日本一を取り戻し、
「それ行けカープ」をみんなで高らかに歌おうではないか。

空を泳げと 天もまた胸を開く
今日のこの時を 確かに戦い
はるかに高く  はるかに高く
栄光の旗を立てよ
 
♪カープ カープ カープ 
広島 広島カープ  (以下、略)

作詞・有馬三恵子、作曲・宮崎尚志。(2016/6/25 千葉市在住)


◆戦後70年を経て再演された「海道東征」

櫻井よしこ



「戦後70年を経て再演された「海道東征」と根源的な自然の力宿す高千
穂の巡り合わせ 」

過日、偶然が重なって日本をお創りになった神々の世界に触れることがで
きた。感動の重なりで心が充たされる経験だった。
 
4月19日、東京で「産経新聞」主催のコンサートがあり、初めて「海道東
征(かいどうとうせい)」を聴いた。周囲の人たちに尋ねても海道東征の
ことを知っている人は多くはなかった。私とて詳しいわけでは、全くない。
 
これは昭和15年に日本建国2600年を祝って北原白秋作詞、信時(のぶと
き)潔の作曲で作られた交声曲だ。
 
しかし、日本が敗戦すると、この作品は軍国主義に結びつけられ、全く演
奏されなくなった。戦後、海道東征が再び演じられたのは、戦後70年が過
ぎた大阪でのことである。今回は、従って関東では戦後初めての演奏だ。

『古事記』は、日本国の誕生を、伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美(いざ
なみ)の国生みから始まり、天照大御神の孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこ
と)が地上に降り立つ物語として伝えている。
 
神々の住む天上の世界、高天原(たかまのはら)から日向の国の高千穂
の峰に降り立った瓊瓊杵尊のひ孫の神様たちが、高千穂の山を後にし、東
に進んで大和朝廷を開いた。それが日本の皇室の始まりであり、初代天皇
が神武天皇である。海道東征はこの日本誕生、民族生成の物語を描いている。
 
海道東征を堪能した3日後、私は高千穂に出かけた。1年以上前から決
まっていた日程である。それにしてもなんという偶然だろうか。朝一番の
便で熊本空港に飛び、そこから2時間、車で走った。途中、阿蘇連山を見
ながら平野を走り、幾つも山を越え、里を過ぎ、川を渡った。街道沿いに
水仙が咲き乱れ、芝桜が色鮮やかに広がる。八重桜は満開だった。山々は
萌え出る若緑におおわれ笑っていた。その山々の新緑を駆け抜ける道中
だった。
 
そして辿り着いた所が、まさに海道東征の起点、日本の神々の故郷だっ
た。瓊瓊杵尊は天上の世界を離れ「群臣を率いて八重にたなびく雲を押し
わけ、威風堂々と日向の高千穂の二上(ふたがみ)の峰にお降りになっ
た」と『日向国風土記』は伝えている。
 
高千穂神社の宮司、後藤俊彦氏の案内で同神社を参拝した。後藤氏は二
上山に加えて、もうひとつ、「記紀」が伝える降臨の地に「槵触(くじふ
る)岳」があると説明した。高千穂神社は二上山と槵触(くじふる)の峰
を結ぶ中間に位置するそうだ。
 
この神社は、瓊瓊杵尊をはじめ、神武天皇までの神々を御祭神とし、天照
大御神を祭る伊勢神宮と同時代に建てられたという。ということは約1700
年前のことである。
 
高千穂神社は長い長い時を経て、清らかな姿で建っていた。山の上の平
地、即ち山頂であるために境内は決して広くはない。そこに樹齢800年の
杉の大木がどっしりと立っている。思わず木肌に触れてみた。あたたか
い。ずっと日本を見詰め、守ってきてくれた、神宿る大木のあたたかさで
ある。
 
高千穂神社を戴く峰を下って、すぐ隣りの峰といってよい所に槵触(く
じふる)岳がある。登ると、地上に降り立った神々が、高天原を仰ぎ見た
という「高天原遥拝」の地もある。
 
高千穂の街を歩けば、至る所に神話が満ちている。深い山々はそれ自体
が神々の存在を実感させる。清らかな水の湧き出る様子は、人も里も神々
に抱かれていることを感じさせる。
 
高千穂はそれ自体が根源的な自然の力を宿す場所だ。神々の生きた世を
現在に伝える地でもある。敢えて言葉にせずとも、自然と共にある日本の
国柄を実感させてくれる地である。どの人にもぜひ一度ゆっくりと訪ねて
みてほしいと思う。
 
海道東征の鑑賞と高千穂行きが同時に起きたこの巡り合わせは、日本を
お創りになった神々が、もっと深く日本を知りなさい、感じなさいと、励
まし配慮して下さっているからだろうと、私は深く感じ入っている。
『週刊ダイヤモンド』 2017年5月13日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1181


◆いもち病(稲熱病)の怖さ

渡部 亮次郎

「蓑(みの)着て笠(かさ)着て鍬(くわ)持って お百姓さんご苦労さ
ん」という童謡がNHK第1放送から流れていた時代がある。明治でも大正で
もない、昭和も敗戦直後、1947、8年ごろだった。食糧難の時代、国民みん
なして百姓にゴマをすったのである。

蓑や笠を着る百姓は今やどこにも存在しない。すべて機械化して田圃から
は女性が姿を消した。田植えも稲刈りも機械がやるし、除草は農薬が解決
してくれた。結果、農村からは猫背、蟹股、腰曲がりが居なくなって久しい。

しかし、その代わり、田圃から女性と共に居なくなったのが泥鰌(どじょ
う)とトンボである。稲作の大敵「いもち病」を防除すべく禁じ手「水銀
系農薬」を使ったからである。「いもち」はそれほど恐ろしい。今でも恐
ろしい。

「いもち」とはイネに対する最も普通の病気で,穂,葉,茎などに発生し
て大害を与える。とくに山間,北部地域では,いもち病との闘いが稲作の
大きな課題であった。この事情を反映して,日本植物病理学の分野では最
も多く,また深く研究されてきた病害である。

穂に発生すると発病部位から先の方は実らないので、「穂首いもち」は被
害が深刻である。「葉いもち」、穂いもちとも同じ菌によって起こるが、
発生の様相としては、比較的葉いもちが多くて穂いもちの少ない南日本型
と、逆に葉いもちよりも穂いもちの多い北日本型がある。

若いイネに激発すると株全体が萎縮して枯れてしまう。この病状を「ずり
込みいもち」という。防除に失敗すれば収穫ゼロ。

防除薬剤としては,戦前はボルドー液万能であったが,戦後一時期有機水
銀剤が脚光を浴び目覚ましい効果を挙げた。これが禁じ手と気付いて止め
たものの遅かりし。泥鰌は死滅した。

現在では抗生物質剤(ブラストサイジンS、カスガマイシンなど)や有機リ
ン粒剤などが使われている。

いもちは一般に,日照不足,多雨,低温のときに病気が多く,またイネの
体内に遊離の窒素成分が多く,ケイ酸が少ないときに発生が多い。

いもち病の発生程度は年次によっても異なり,ほぼ10年周期で大発生が記
録されている。昭和年代に入ってからは,1934(昭和9)年の稲作冷害が
有名で,東北地方では娘の身売など深刻な社会問題が発生した。

陸軍のクーデター「2・26事件(1936年)」の背景であるが、この不作には純
冷害のほかにいもち病による被害が大きかった。

戦後では,53(昭和28)年,63(38)年,74(49)年に大発生をみている。

的確な防除を行うには発生を予察することが肝要である。以前から気象条
件,イネの体質,胞子の飛散などを知って穂いもち病の発生を予測してい
たが,近年コンピューター導入で,大量のデータからの予察も試みられて
いる。

日本ではじめてこの病気が記録されたのは,1679年(延宝7)の《永禄以来当
院記録年鑑》(広積院祐栄書)とされるが,その後の《耕稼春秋》(1707ごろ)
の記載が人口に膾炙(かいしや)している。

イネ品種によってかなり抵抗性に違いがみられる。外国イネには強度の抵
抗性のものがあるが,日本在来の品種は概してかかりやすい。

従って日本にいける稲の品種改良は、収穫量、食味の追及とともにいもち
など稲の病害虫に対する抵抗力の研究に重点が置かれてきた。

最近は外国イネの強い抵抗性因子を導入した品種も育成されている。しか
しせっかく抵抗性品種ができても突然ひどく罹病してしまうことがある。
これはレース新生のためであることが多い。

レースrace とは形態が同じでありながら病原性の異なる菌で,日本には
今16以上のイネいもち病菌レースが知られている。

ここ数年 Pyricularia属菌の菌学的な研究が進み,イネいもち病菌とシコ
クビエいもち病菌の交配によって有性胞子が形成され,またイネいもち病
菌がタケに寄生性のあることが知られるなどして,菌の所属について検討
される時機にある。資料 世界大百科事典(C)株式会社日立システムアン
ドサービス 2008・07・07





◆心筋梗塞は予知できる

石岡 荘十



まず、死因について。

私の父親も死因は「心不全」とされていたが、長い間、この死亡診断書に何の疑問も感じなかった。しかし、よく考えてみれば「心不全」というのは単に「心臓が動かなくなった」という意味であるから、病気の「結果」そのものであり、死のトリガー、「原因」ではない。

<最初は背中が痛いと言われたと報じられていた。亡くなった後では容易に心筋梗塞だったとは解らないのではないか。誰でも経験して学習し教訓に出来る病ではないので、発症した場合の対処は困難だろう>、これこそが「死因」となった心筋梗塞を疑わせる症状だ。

私も大動脈弁がうまく開閉しなくなり、10数年前人工の弁に置き換える手術を受けているが、そこに至る症状として<背中が痛い>を何年にもわたって、何度も経験している。

心臓の血流が途絶えると、背中が重苦しくなる。痛いと感じる人もいる。この苦しさは、血流が滞った程度(狭心症)の場合は、15分程度で回復する。不整脈のひとつ心房細動の時もそうだ。

私が何度も経験したが、それ以上自覚症状が長く、30分とか続くのは血管(冠動脈)が完全に詰まっている(心筋梗塞)だと考えた方がいい。ほっておけば死に至る。

胸が痛くなるという症状だと、「心臓がおかしいのではないか」と分かりやすいが、心筋梗塞になると左の奥歯がうずいたり痛くなったり、肩が凝ったりすることもある。歯医者や整形外科に駆け込む人もいるが、これは心筋梗塞の症状のひとつなのである。

歯医者で鎮痛剤をもらって「一丁上がり」となるが、じつは心筋梗塞の症状だ。こういうのを「放散痛」という。

不幸にして、こんな知識がなく死んでしまった後、患者を解剖すると死因が心筋梗塞であったことは明らかになる。

<発症した場合の対処は困難だろう>といっておられるが、心臓疾患の9割は、対処の仕方を誤らなければ、決して「死に至る病」ではないのである。

本誌常連の前田正晶さんが書いておられる記事が見事にそのポイントを突いている。
その要点をまとめると、

<失神するほどの、激痛と胸部に圧迫感があった。自分で119番に電話して症状を説明していた>

<放っておけば治るとかとは思ったが、何故かこれは「一過性の痛みではない」と判断した>

<救急患者を受付けてくれる大病院が多いこと、救急車が搬送してくれた先が国立国際医療センターだったこと、最も偉い先生が日曜日の当直だった>

<心筋梗塞に対応する準備が整っていたのだった。処置も素早かった>

<その判断が正しかったと後で解るのだが、私の場合は幸運の連続だった>

つまり、前田さまのケースは<幸運が重なった>結果であり、誰でもがこううまくいくわけではない。

年間の死者5千人を切る交通事故死にあの大騒ぎで安全運動を展開している。なのに、心臓疾患で年間15万人以上が死ぬ。なぜか。前田さんのような幸運の女神の恩寵に浴する人はそんなに多くない、それだけ啓蒙が行きわたっていないということだ。

<時間との争いであるなどとは知る由もないだろう。知識は皆無だった>とおっしゃるが、そんな人に幸運が訪れることは滅多にない。

この歳になったら、天下国家の危機を憂うる高邁な論議をする前に、わが身の危機管理に少しのエネルギーを注ぐべきだというのが私からのアドバイスだ。心臓病は<誰でも経験して学習し教訓に出来る病>なのである。

http://www.melma.com/backnumber_108241_4024688/

2017年05月21日

◆「措置入院」精神病棟の日々(41)

“シーチン”修一 2.0



外国旅行の一番の楽しみは「エーッ、こんなのありかよ!?」といった
(カルチャー)ショックだろう。歳をとると「ふーん、まあこんなもん
か」とセンサーが劣化してあまり感激しなくなるから、外国旅行は若いう
ちにした方がいい、ロバが馬になるのは稀だけれど。

小生は旅行業界の記者だったから外国旅行の機会が結構多かった。忙し
かったので外国取材はできるだけ避けたが、行かざるを得ないことは年に
何回かはある。今でも覚えているショックは――

*米国:中西部アリゾナ州の原野(dessert)では視界の360度が地平線
だった。丘もないし山もない。ウワーッ・・・なんという広さだ、と思わ
ず大地にひれ伏した。

西海岸のセレブの街ビバリーヒルズ。一歩裏通りはゴミだらけ。false
front (建物を立派に見せるための見せかけの正面外観)とはこのことか、
自治体の金欠病と住民のモラルの低さに辟易した。

「人はきれいなところにゴミは捨てない、汚いところに捨てる(だからい
つもきれいにしている)」とディズニーランドの広報担当者が言っていた
ことは本当だ。「破れ窓理論」と今では言うそうで、破れ窓を放置すると
街がどんどん汚くなるのだ。

*フランス:パリジェンヌのファッションは十人十色どころか100人100色
で、「どうだ!」と個性を競っている。さすがに個人主義の国だと驚いた。

日本の女性は流行を追いかけるから100人1色。今は正月の酢だこのような
真っ赤な口紅をして、鉄筋工のような太いズボンをはいている。個性では
なく同調が好きなのだ、「あまり目立ちたくない」と。

*スペイン:強烈な陽射しと強烈な陰影に圧倒される。変哲もない真昼の
道を犬が歩いている、犬と路面と建物が浴びている日射し、そしてその
真っ黒な影・・・それは小生にとって初めての体験であり、芸術そのもの
だった。

ガウディ、ピカソ、ミロ、ダリといった型破りな芸術家が生まれるのもう
なづける。

ピカソはわが街の近くに生まれた岡本かの子の長男、太郎にも強烈な影響
を与え、太郎は「ピカソを超える」を目標としていた。「俺の父親は一平
だ、絶対一平だ」と悩みっぱなしだった可哀そうな太郎は確かに「超え
た」。悩んだ分超えすぎて陰影が濃くなったのは、小生にとっては残念
だ。かの子は罪作り。

*台湾:南部を旅行すると、そこには小生が幼かったころの日本の農村の
原風景があった。台湾は日本だったのである。郷愁たっぷり。人に「もう
一度行きたい国は?」と問われると、迷わずに「台湾」と答えたものだっ
たが、それから40年、都市化は進んでいるだろうから、あの原風景はもう
ないのだろう、淋しいことだ。

こんなことを思ったのは「シュリーマン旅行記 清国・日本」を読んだか
らだ。彼は日本に強烈なショックを覚え、それをしっかりと記している。
幕末の江戸の「生」を、生々しく記録している。そこには茫然自失してい
る生のシュリーマンがいて、小生もその場にタイムスリップした思いだった。

訳者の石井和子氏の恩師、木村尚三郎・東大名誉教授の解説も大変優れて
いる(木村先生は小生の師でもある)。

<「現代のシナと日本」という本書の原題通り、本書は幕末から明治に向
かおうとする転換期日本、黎明期近代日本と同時代の中国についての、生
き証人による記録である。世の中が明治に変わる三年前、一九六五年六月
一日から七月四日までの一ヵ月間が、シュリーマンの日本滞在期間であった。

短期間にもかかわらずというより、短期間だからこそ彼は天才的な理解力
とともに、日本の社会の本質、時代の特質を鋭く見据え、抉り出すことが
できたといえよう>

確かに小生がアリゾナの荒蕪地に1か月もいたら360度の地平線を気に掛け
ることもなくなり、「デザートの生き物たち」とかいった記事を書くため
に毎日サソリやヘビの採集のために地面ばかりを見つめていたろう。大地
にひれ伏すような感動は小生がごく短期の「通りすがりの異邦人」だった
からだ。

シュリーマンが一番驚き、目まいするほどショックを受けたのは、信仰の
場、礼拝の場である神社仏閣と周囲が「観光地」、テーマパークになって
おり、しかも娼婦(花魁)の絵が飾られ、千社札がいっぱい貼られ、拝ま
れていることだった。茫然自失・・・キリスト教的価値観からすれば「イ
ンクレダブル!何なんだ、これは」と絶句するしかない。

今の小生は「当時、花魁は国民的大スター、憧れの的、落語の『紺屋高
尾』などが今でも当時の人気を伝えている」と知っているが、それを知ら
ないから彼は混浴でビックリし、浅草寺で凄まじいカルチャーショックを
受け、とどめを刺されたのだ。

「シュリーマンは、ある国の言葉を覚え、書き、話すのに六週間もあれば
十分だった」と石井氏は解説しているが、この語学の天才はビジネスの天
才でもあり考古学の天才でもあった。シュリーマンの日本評は「キリスト
教的価値観からすれば遅れているが、日本には蒸気機関以外は何でもあ
り、工芸品は世界最高レベルだ」というものだった、そう、不思議の国に
はナンデモアリス。

小生がよく言う「知的好奇心」「知的興奮」とは以上のようなこと。日本
はこの世の楽園(に一番近い国)で、プリンセス真子様、昭恵夫人、小生
のカミサンまでも咲き乱れておるで、小生のように矩を超えて発狂したよ
うなキチ○イでも退屈はしないし、大事にされる。まったくいい国である。

今朝は措置入院の還付金があるそうなので生まれて初めて個人番号カード
を使い、ドキドキウロウロしながらコンビニで住民票を取得した。還付金
といい、優しいオネエサンが忙しいのに操作を手伝ってくれるなんぞ、も
しかしたら小生は知らないうちに天国まで昇っちゃったのではないか。

精神病棟での小生の心理検査「SCT/文章完成法テスト」の続きから小生の
妄言(「 」内)を今日も座興にお届けします。

16:金「はほどほどあればいい。『欲少なく足るを知りて分に安んずる』
まずは物欲を削ぎ落とすことだ」

17:私の野心「というか妄想は中華独裁帝国を倒し、7つ以上からなる自
由主義連邦共和国にすることだ」

18:妻「は物静かな方がいい。私が読書をしている側で妻は編み物をし、
『いい一日だったな』『本当にいい日よりでした』それでいい」

19:私の気持「は概ね理解されない。エジソン、ワット、ゲイツ、ジョブ
ズ・・・変人からイノベーションは生まれる」

20:私の健康「は50代から劣化が進んでいる。60歳までにやるべきことは
やったから、長生きに興味はない。医者にはいかない」

21:私が残念なのは「『連帯を求めるも孤立を恐れず』の気概であっても
同志がいないことだ。奇人変人と思われているのだろう」

22:大部分の時間を「書き物、読書、家にいるときは+家事で過ごしてい
る。まあ私にとって最良の晩年だ」

23:結婚「しない生涯未婚は男50%、女40%あたりだ。戦後に家制度が壊
され、家、家庭への執着が希薄になった」

24:調子のよい時「は頭が躁状態になり、不調の時はネタ探しで読書した
り散歩したり。刺激を与えると脳が活性化する」

25:どうしても私は「『話す人』ではなく『書く人』『聞く人』である。
25年間の記者生活でそうなった。今さら変えられない」

26:家の人は「健常者で女だから、やたらと話しかけるが、私は挨拶以外
は苦手だ。寡黙は悪になってしまったのか?」

27:私が羨ましいのは「トト(愛犬、2015年末に17歳で逝く)で、家族の
誰からも愛され、癒しを提供してくれた。間もなく3回忌だ」

28:年をとった時「、つまりリタイア後、何をして過ごすかを40代の頃に
書いたが、手術後の体力の衰えをまったく予想していなかった」

29:私が努力しているのは「『一日一歩前進』。半歩でも10センチでも、
たとえ1センチでもいい。一日一善みたいな小さなことだけれど」

30:私が忘れられないのは「皇軍兵士だった父の忍耐強さだ。寒い、暑
い、痛い、苦しい・・・泣き言を一言も口にしなかった」
        ・・・
以上で検査結果報告は終わりだが、心理検査が終わったところで病気が
治ったわけではない。悩ましい日々は続くのである。一度発狂、一生発
狂・・・5月は東京場所か、ハッキヨイ・・・発狂用意と言われているよ
うな・・・(つづく)2017/5/20

    

◆経済政策の具体論見えない共産党

櫻井よしこ



「経済政策の具体論見えない共産党 共闘の民進党ともに描けぬ明るい
展望」

連休中に読んだ『共産主義の誤謬』(福冨健一著、中央公論新社)がため
になった。民進党が日本共産党と選挙協力を深めようとするいま、共産党
が一体どんな政策を実現しようとしているのか、知っていればきっと役に
立つ。
 
皇室については「一人の個人が世襲で『国民統合』の象徴となるという
現制度は民主主義および人間の平等の原則と両立するものではない」とし
て、否定する。
 
自衛隊については「憲法9条の完全実施(自衛隊の解消)に向かっての
前進をはかる」としている。
 
ちなみに( )内の自衛隊の解消という注釈は私がつけたのではなく、共
産党綱領に書いてあるものだ。
 
引用した皇室、自衛隊に関する記述は2004年綱領に明記された内容その
ままだ。同綱領は現在も維持されていることから、皇室も自衛隊もいずれ
廃止する政党が共産党である。
 
では次に共産党の経済政策はどうか。福冨氏は04年綱領には経済成長のた
めのマクロ経済政策が欠落していると指摘する。経済の大枠を示すことな
く、個々の政策だけを示しても余り意味はない。ロシア経済が破綻しそう
なのも、中国経済が矛盾と問題だらけなのも明らかな中、共産党は綱領に
「旧ソ連の誤りは、絶対に再現させてはならない」と明記するが、共産党
の経済政策とは具体的には何か。
 
その前に彼らがどんな国の形を目指しているのかも知っておきたい。共産
党綱領は、日本の課題は、「資本主義を乗り越え、社会主義・共産主義の
社会への前進をはかる社会主義的変革」を行うことだとしている。
 
社会主義的変革とは、「主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手
に移す生産手段の社会化」だそうで、「社会主義的改革」を推進するに
は、「計画性と市場経済とを結合させた弾力的で効率的な経済運営」が重
要だと結論づけている。
 
こうした文言を読んでも、しかし、具体的な経済政策のイメージは湧いて
こない。福冨氏は「中国で行っているような改革・解放の経済運営なの
か、判然としない」と論評するが、そのとおりだ。氏は、コミンテルン
(共産主義インターナショナル)の日本支部として日本共産党が設立され
た1922年の綱領から04年の綱領まで、全部で7つの綱領(時にテーゼ、或
いは文書、などと表現される)を読んだうえで、共産党が全ての綱領で
「経済の統制を掲げている」ことを指摘する。
 
その一方で、共産党綱領には統制経済の全面的な否定や、私有財産の保障
なども明記されていて、分かりにくい。
 
04年綱領には「主要な生産手段の社会化」が、94年綱領には「大企業の生
産手段の社会化」が謳われているが、具体的にどういうことか。福冨氏
は、共産党幹部会委員長の志位和夫氏が「共産党の統一戦線の対象者」か
ら外す人として「資本金十億円以上の(企業の)役員」と語っているのを
参考に、次のように警告する。

「綱領に具体的記述はないが、仮に資本金10億円以上の企業の国有化を行
えば、株価の暴落、金利の高騰、グローバル企業の撤退、企業の国際競争
力の破綻など、日本経済は壊滅的打撃を受ける危険性がある」
 
共産党は国民に手厚い福祉を保障し、国民が主役の国を目指すと標榜す
る。こうした政策の実現にはしっかりした経済基盤が必要だ。しかし、健
全で成長する経済をどのように実現するのかという点になると、さっぱ
り、展望が見えてこないのが、共産党の問題だ。
 
世界の先進国の中で、共産主義勢力が伸びているのは日本だけだが、理
由として、そのイデオロギーに加えて共産主義経済ではうまくいかないか
らではないか。とまれ、民進党は共産党と共闘するという。私は両党の未
来に全く明るい展望を抱けないでいる。


『週刊ダイヤモンド』 2017年5月20日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1182

◆トウ小平の刺身以後

渡部 亮次郎



中華人民共和国の人は、肝臓ジストマを恐れて,生の魚は食べないが、ト
ウ小平氏は初来日(1978年)して刺身を食べたかどうか、従(つ)いて来
た外相・黄華さんが1切れ呑み込んだのは現認した。そんな中国が最近は
刺身の美味さを知り、マグロの大消費国になった。

元は琵琶湖に次ぐ大湖沼だった秋田県の八郎潟。今はその殆どが干拓され
て水田になっているが、私の少年時代はこの八郎潟が蛋白質の補給源だった。

鯉、鮒、鯰(なまず)、白魚など。またそこに注ぐ堰で獲れる泥鰌や田螺
(たにし)も懐かしい。但し、これら淡水魚には肝臓ジストマがいて危険
だとは都会に出て来るまで知らなかったが、地元では理由もなしにこれら
淡水魚を生では絶対食わさなかった。

そのせいで私は中年を過ぎても刺身が食べられず、アメリカへ行って日本
食好きのアメリカ人たちに「変な日本人」と言われたものだ。

62歳の時、突如食べられるようになったのは、久しぶりで会った福井の漁
師出身の友人・藤田正行が刺身しかない呑み屋に入ったので、止むを得ず
食べたところ、大いに美味しかった。それが大トロというものだった。そ
れまでは、鮨屋に誘われるのは責め苦だった。

ところで、肝臓ジストマ病は「広辞苑」にちゃんと載っている。「肝臓に
ジストマ(肝吸虫)が寄生することによって起こる病。淡水魚を食べるこ
とによって人に感染し,胆管炎・黄疸・下痢・肝腫大などを起こす。肝吸
虫病」と出ている。

そんな記述より、実話を語った方がよい。九州の話である。著名な街医者
が代議士に立候補を決意した直後、左腕の血管から蚯蚓(みみず)のよう
な生き物が突き出てきた。

びっくりしてよく見たら、これが昔、医学部で習った肝臓ジストマの実物
であった。おれは肝臓ジストマ病か、と悟り立候補を突如、断念した。

「おれは、川魚の生など食べたことはないぞ」と原因をつらつら考えても
心当たりは無かったが、遂につきとめた。熊を撃ちに行って、肉を刺身で
食った。

熊は渓流のザリガニを食っていて、そのザリガニに肝臓ジストマがくっつ
いていたとわかった。しかしもはや手遅れ。体内のジストマを退治する薬
はない(現在の医学ではどうなのかは知らない)。夢は消えた。

中国人は福建省など沿岸部のごく一部の人を除いて、魚は長江(揚子江)
をはじめ多くの川や湖の、つまり淡水魚だけに頼っていて、肝臓ジストマ
の恐ろしさを知っているから、生の魚は絶対、食べなかった。

トウ小平と一緒に来た外相・黄華さんが東京・築地の料亭・新喜楽で鮪の
刺身1切れを死ぬ思いで呑み込んだのは、それが日本政府の公式宴席であ
り、そのメイン・デッシュだったからである。外交儀礼上食べないわけに
いかなかったのである。

後に黄華さんも海魚にはジストマはおらず、従ってあの刺身は安全だった
と知ったことだろうが、恐怖の宴席をセットした外務省の幹部はジストマ
に対する中国人の恐怖を知っていたのか、どうか。

中国残留日本人孤児が集団で親探しに初めて来日したのは昭和56年の早春
だった。成田空港に降り立った彼らに厚生省(当時)の人たちは昼食に寿
司を差し出した。懐かしかろうとの誤った感覚である。

中国人が生魚を食べないのは知っているが、この人たちは日本人だから、
と思ったのかどうか。いずれ「母国でこれほど侮辱されるとは心外だ」と
怒り、とんぼ返りしようと言い出した。

中国の人は冷いご飯も食べない。それなのに母国は冷いメシに生の魚を
乗っけて食えという、何たる虐待か、何たる屈辱かと感じたのである。

最近では、中国からやってきた学生やアルバイトの好きな日本食の一番は
寿司である。ジストマの事情を知ってしまえば、これほど美味しい物はな
いそうだ。催促までする。奢るこちらは勘定で肝を冷やすが。

よく「この世で初めて海鼠(なまこ)を食った奴は偉かった」といわれ
る。それぐらい、何でも初めてそれが毒でないことを確かめた人間は偉
い。だとすれば淡水魚を生で食っちゃいけないと人類が確認するまで、犠
牲者はたくさん出たことだろう。感謝、感謝である。

1972年9月、日中国交正常化のため、田中角栄首相が訪中した時、中国側
が人民大会堂で初めて出してきたメニューは海鼠の醤油煮だった。田中さ
んより前に来たニクソン米大統領にも提供しようとしたのだが、アメリカ
側に事前に断られたと通訳の中国人女性がこっそり教えてくれた。

以上を書いたのが確か2003年である。あれから中国は驚異的な経済発展を
遂げた。それに応じて食べ物も変化し、都市では今まではメニューに無
かった牛肉が盛んに消費されるようになった。それに伴って過食から来る
糖尿病患者が相当な勢いで増えて━いる。

問題の魚の生食についても2007年3月1日発売(3月8日号)の「週刊文春」57
ページによると中国のマグロ販売量は、中国農業省の調査によると、2006
年上半期だけで50%から60%も伸びている。

経済発展著しい中国が異常なスピードで鮪の消費量を増加させている事実
は意外に知られていない。日本料理店ばかりでなく、北京や上海の高級
スーパーにはパック入りの刺身や寿司が並ぶ、という。

共産主義政治でありながら経済は資本主義。物流が資本主義になれば食べ
物は資本主義になる。肝臓ジストマが居ないと分れば中国人がマグロだけ
でなく生魚を食べるようになるのは当然だ。とう小平の現代化には5つ目
があったのか。2007.03.06


◆八軒家浜船着場から熊野街道へ

毛馬 一三



大阪「淀川」から毛馬閘門を通り、1級河川「大川」(旧淀川)を少し下って、大阪三大橋の「天神橋」を抜けると、「八軒家浜船着場」に辿り着く。

この「八軒家浜」は、古代から京都と結ぶ水上交通の拠点だった。江戸時代ではこの浜の船着場周辺に、八軒の船宿があったことから「八軒家浜」と呼ばれたらしい。その「記念碑」が、阪神電鉄天神橋駅前の老舗・昆布屋門前に立っている。

この「碑」の先の坂を上ると、江戸時代の西洋医学者・緒方洪庵の塾屋敷跡がある。ここに集まる弟子たちも、この「八軒家浜船着場」を常時利用した。坂本竜馬も、西郷隆盛も、ここの船着き場から近郊にある「薩摩屋敷」に通っている。

この「八軒家浜船着場」は、京都から屋形船でやって来た人々が、この船着場から「熊野詣」に赴く道筋として利用していた。今になって、ここ「八軒家浜船着場」が、世界遺産となった「熊野街道」の起点となっているのだが、意外にもそれが知られていない。

さて、その「熊野街道」に触れておこう。

<この「八軒家浜」を起点に、四天王寺(大阪市天王寺区)、住吉大社(大阪市住吉区)、堺、和歌山などを通り、紀州田辺を経て、中辺路または大辺路によって熊野三山へと向かう道筋。

この熊野街道を経て参台する「熊野詣」は、平安時代中期ごろ、熊野三山が阿弥陀信仰の聖地として信仰を集めるようになったのに伴い、法皇・上皇などの皇族、女院らや貴族の参詣が、相次ぐようになったのが始まりだった。

室町時代以降は、武士や庶民の参詣が盛んになった。その様子は、蟻の行列に例えて、「蟻の熊野詣」と言われるほどの賑わいだったそうだ。江戸時代になると伊勢詣とも重なり、庶民も数多く詣でたため、賑わいは浪速で最高だったといわれる。ただ明治以降は、鉄道や道路の整備により参拝者は少なくなる>。
参考―フリー百科事典『ウィキペディア

このように霊場熊野三山まで橋渡しする歴史的街道の起点の「八軒家浜船着場」は、これを賑わいのある水都大阪再生拠点にしようと、民官協働で、京阪電車天満橋駅の北側の大川沿いに幅約10メートル、長さ約50メートルの3層からなる鋼鉄製の巨大な「船着場」が建設された。

同船着場では、ゆったりとしたスペースがある水上バス(アクアライナー)や大型遊覧船が、ここから発進し水都大阪の川辺に広がる眺望とクルージングを楽しむことができる。

遊覧船に乗って身を乗り出して、目上に広がる大阪のまちの姿を眺めると、立体的な水都の形が顕れ、両岸のまちなみが覆い被さるような3次元都市を実感させてくれる。実にマジックな風景の出現であり、感動そのものだ。これは体験してみないと絶対に分からない。

大阪大手企業本社の東京一局集中や、大手企業工場の他府県や外国への移籍が目立つなど、大阪の経済基盤の沈下に歯止めが掛からない中で、この「八軒家浜」を観光名所として再起させることが出来れば、集客効果は抜群だろう。

しかも「緒方洪庵の塾屋敷跡」、皇族をはじめ秀吉も通った「八軒家浜」から「熊野詣」への新観光ルートを創りだし、歴史の歩きの楽しみを味合わせる事業が始まれば、大阪への集客に繋がることは間違いない。

「八軒家浜」祭りだけで終わって仕舞う行事だけではあまりにも単純な気がして、実に勿体ない。しかも、「熊野街道」の起点となっている「八軒家浜船着場」の歴史的価値をなえがしにしてきた大阪市文化行政の手抜かりも情けない。

今からでも遅くない。「八軒家浜船着場」から世界遺産となった「熊野詣で」を複活させるイベントや実際の「歩き会」を実施すべきだ

そう思うだけでも「八軒家浜船着場」碑が、老舗「昆布屋)門前にポッンと立っているだけで、寂しく見えて仕方がない。(了)

2017年05月20日

◆韓国の方が歴史問題を直視せよ

阿比留 瑠比



韓国の方が歴史問題を直視せよ 次は徴用工問題…日本は事実を主張し続けよ

実は産経は、これらについて少なくとも過去3回報じてきたが、せっかく
なのでおさらいしたい。

朝日の記事は「大半、自由意思で居住 外務省、在日朝鮮人で発表」「戦
時徴用は245人」との見出しで、外務省の報道発表に基づき、こう記して
いる。

「韓国側などで『在日朝鮮人の大半は戦時中に日本政府が強制労働をさせ
るためにつれてきたもので、いまでは不要になったため送還するのだ』と
の趣旨の中傷を行っている」

「在日朝鮮人の総数は約61万人だが、このうち戦時中に徴用労務者として
日本に来た者は245人にすぎないとされている」

また、高市氏は外務省が当初は「そんなに古い資料はもうない」としてい
た記事の元資料を探させて、質問を行ったものである。

資料は、当時登録されていた在日朝鮮人約61万人について「いちいち渡
来の事情を調査した」結果をまとめたもので、次のように明確に指摘して
いる。

「第2次大戦中内地に渡来した朝鮮人、現在日本に居住している朝鮮人の
大部分は、日本政府が強制的に労働させるためにつれてきたものであると
いうような誤解や中傷が世間の一部に行われているが、右は事実に反する」

「(在日朝鮮人で)国民徴用令により導入されたいわゆる徴用労務者の数
はごく少部分である。かれらに対しては、当時、所定の賃金等が支払われ
ている」

現在、ソウルの日本大使館前や釜山の日本総領事館前と光州駅前に徴用工
の像を設置しようと計画する韓国の民間団体は、必ずしも在日の元徴用労
務者を想定しているわけではない。

ただ、韓国人徴用工問題は、在日韓国・朝鮮人は強制連行された人たちの
子孫だとする「強制連行神話」と無縁ではない。

韓国人は無理やり日本に連れてこられ、無給で奴隷労働を強いられた−な
どと、事実と異なる被害イメージを勝手に膨らませている韓国側に、「歴
史問題を直視」させる必要がある。そのためにも、資料にあるような事実
は主張し続けなければならない。

(論説委員兼政治部編集委員) 
産経ニュース【阿比留瑠比の極言御免】2017・5・19


◆小畑実 (歌手)は北朝鮮出身

渡部 亮次郎



NHKがラヂオ深夜便で戦中・戦後の人気歌手だった小畑実を特集したえい
た。そこで以下、ー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
をのぞいてみた。

<小畑 実(おばた みのる、1923年4月30日 - 1979年4月24日)は、朝鮮
平壌出身の歌手である。本名は、康永普i강영철 / カン・ヨンチョル)
1937(昭和12)年、同胞のテノール歌手永田絃次郎(戦後北に帰国後、消
息不明)に憧れて日本に渡り、日本音楽学校に入学。苦学しながら声楽を
学び卒業後、作曲家江口夜詩の門下となる。

このころ、秋田県大館出身の小畑イクに面倒を見てもらったのが小畑姓と
秋田出身を称した理由とされる。なお、イクの息子小畑達夫はいわゆる共
産党リンチ事件で殺されている。

デビューは1941(昭和16)年2月、ポリドールレコードからで『成吉思
汗』であった。ただし、朝鮮半島出身を隠して出身地を秋田県としていた。

のちにビクターに移籍。1942(昭和17)年の『湯島の白梅』が出世作とな
る。翌年に『勘太郎月夜唄』をヒットさせ新進気鋭の歌手として注目を浴
びるが、本格的な活躍は終戦後であった。

テイチク・キング・コロムビア・古巣のビクターと所属会社を転々としな
がらも、甘いクルーナー唱法で『小判鮫の唄』・『薔薇を召しませ』・
『アメリカ通いの白い船』・『長崎のザボン売り』・『ロンドンの街角
で』・『高原の駅よさようなら』などのヒット曲を飛ばした。

特に『星影の小径』はフランスのシャンソンをベースにしたロマンチック
な旋律と「アイ・ラブ・ユー」という英語を歌詞に用いた斬新さに加え、
彼の歌唱の特徴が生かされた傑作である。NHK紅白歌合戦に3回出場している。

1957(昭和32)年、第8回NHK紅白歌合戦出場を最後に一度引退。一時期実
業界に移り、歌謡界から遠ざかっていたが、1969(昭和44)年頃、折から
の懐メロブームもあって『勘太郎いつ帰る』で復帰。韓国にもしばしば渡
り、本名で活躍する。

1977(昭和52)年には『湯の町しぐれ』をヒットさせ気を吐いた。その
後、ステージ活動や刑務所の慰問、後進の指導にあたるなど精力的に活動
していた矢先、千葉県野田市のゴルフ場でプレイ中に倒れ、急性心不全の
ため55歳で亡くなる。