2017年05月15日

◆若い世代へ贈る、「海道東征」と「海ゆかば」

櫻井よしこ




4月19日、池袋の東京芸術劇場で、関東では戦後初めて、「海道東征(か
いどうとうせい)」が歌われた。大阪では「産経新聞」の主催でこれまで
に2度、演奏されているが、残念乍ら私は聴く機会がなかった。
 
今回も主催は産経。東京公演だというので早速申し込んで驚いた。2000席
分の切符が完売だそうだ。そんなに多くのファンがいるのか。私は張り
切って、私より一世代若い女性たちにも声を掛けた。

「海道東征」は、日本建国の神話を交声曲で描いた名曲である。昭和15年
に「皇紀2600年奉祝行事」のために書かれた。詩は北原白秋、曲は信時
(のぶとき)潔である。
 
民族生成の美しい歌でありながら、昭和20年の敗戦で、軍国主義などに結
びつけられて長年葬り去られていた。作品は、戦後全くと言ってよい程、
世に出ることがなかったのであるから、私もそうだが、声を掛けた70年
代、80年代生まれの若い人たちが「海道東征」について知らないのも当然
である。

なんといっても、米軍の占領が終わって独立を回復してから、日本では、
社会でも学校でも家庭でも、わが国の歴史や神話、民族の成り立ちなど、
ほとんど教えてこなかったのだから。
 
コンサートは、結論から言えば、本当にすばらしかった。堪能した。
 
プログラムの前半で「管弦楽のための『神話』〜天の岩屋戸の物語によ
る〜」が演奏された。
 
天照大御神が天岩屋戸の中にお隠れになり、世界が闇に閉ざされてしま
う。ちなみに古事記にはこのとき、天上も地上も共に闇に包まれたと書か
れている。天照大御神は両方の世界を照らしておられるのだ。神々は大い
に困り、何とか天照にお出になっていただきたいと工夫を凝らす。
 
ここでナガナキドリが一声、高く大きく鳴くのである。それをトランペッ
トが巧みに表現していた。

日本の始まり
 
伊勢神宮の20年毎のご遷宮では、古いお社から新しいお社に神様がお移り
になるとき、まず、鳥が一声、鳴く。ご遷宮ではその場面は「カケコー」
と声を発することで表現されるが、コンサートでは、トランペットだっ
た。神様と鳥はご縁が深い。
 
さて、鳥の声を合図に神々が肌も露わに踊り始め、賑やかな宴が始まる。
岩の向こう側から楽し気な笑いさざめく声が聞こえる。岩屋戸の中にお隠
れだった天照大御神は何事かと好奇心をそそられ、思わず、ちょっとだけ
岩屋戸を押し開け、覗いてしまうのだ。
 
その瞬間に、力持ちの神、天手力男神(あめのたぢからおのかみ)が岩の
隙間に手を差し込んで天照大御神が戻らないように腕をとり、もう一度、
お出ましを願う。すると陽光は戻り、天上も地上も、世の中は再び明るく
なる。天照は機嫌をなおし、心優しい日本の神々と共に、この大和の国を
再びお見守りになるのだが、演奏にはこの場面でボンゴなどが使われていた。
 
天照大御神が戻って下さったうれしさに神様たちが喜んで歌い踊る場面
が、絵になって浮かんでくるような楽しい演奏だった。
 
第2部が、いよいよ、「海道東征」である。神々がおわす天上の国、高天
原(たかまがはら)から、天照大御神の孫の神様、瓊瓊杵尊(ににぎのみ
こと)が日向の国の高千穂の峰に降臨なさった。
 
北原白秋はこの日本の始まりを「海道東征」の第1章とし、「高千穂」と
題した。格調高く、バリトンの原田圭氏が、瓊瓊杵尊の高千穂の峰への降
臨を歌い上げた。
 
第2章は「大和思慕」である。
 
「大和は国のまほろば、
たたなづく青垣山。
東(ひむがし)や国の中央(もなか)、
とりよろふ青垣山」
 
その旋律に心が引き込まれる。
 
第3章は「御船出」である。瓊瓊杵尊から数えて3代目、4人の皇子が日向
を発って大和平定の旅に出た場面である。
 
「日はのぼる、旗雲(はたぐも)の豊(とよ)の茜(あかね)に、
いざ御船出(みふねい)でませや、
うまし美々津(みみつ)を」
 
光の中に船出する皇子たちの姿が目に浮かぶ。東へ向かう途中で荒ぶる
神々との戦いがあり、嵐があり、4人の皇子の3人までもが命を落とす。
末っ子の神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)が大和に到
達し、東征の事業を成し遂げるが、この神様が日本国の初代天皇、神武天
皇になられた。
 
こうして「海道東征」は第8章まで続く。時に美しく、時に力強く、清く
澄みきった喜びに満ちた交声曲である。「海道東征」について何も知らな
かった若い女性たちも、楽しんでいた。彼女たちはきっと、これから日本
の神話や歴史に、また新たな角度から興味を抱くのではないかと、私はう
れしく感じたことだ。

先人たちの言葉
 
最後にアンコール曲として「海ゆかば」が演奏された。大伴家持の詩に信
時が曲をつけた。多くの人が立ち上がり、合唱した。私の隣りの方は朗々
と歌った。

「海ゆかば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山ゆかば 草むす屍
大君の辺(へ)にこそ死なめ
かえりみはせじ」
 
教育勅語は、天皇のために死なせる教育だという的外れな批判が生まれる
いま、「海ゆかば」の詩に、スンナリ入っていけない人も多いかもしれな
い。山折哲雄氏が『「海ゆかば」の昭和』(イプシロン出版企画)で「屍
とは何か」と題して書いている。
 
掻い摘まんで言えば、万葉集の挽歌でわかるように、死者の屍とは「たん
なる魂の抜け殻」だというのだ。人はひとたび死ねば、その魂は亡骸から
離脱し、山の頂や海の彼方、空行く魂となって、この国の行方を静かに見
守ってくれる。あとに残された屍には何の執着も見せない。それがかつて
の日本人の、人の最期をみとるときの愛情であり、たしなみであった、と。
 
同書で谷川俊太郎氏は「子どもの私はそれまでも音楽がきらいではなかっ
たが、音楽にほんとうにこころとからだを揺さぶられたのは、『海ゆか
ば』が最初だった」「私が愛聴したのが北原白秋詩・信時潔曲の『海道東
征』だ」と書いた。
 
私の友人でもあった松本健一氏は、同書で、演出家で作家の久世光彦氏の
文章を紹介している。

「『海ゆかば』を目をつむって聴いてみるといい。これを聴いていったい
誰が好戦的な気持ちになるだろう。・・・私は『海ゆかば』の彼方に日本の
山河を見る。・・・美しい私たちの山河を護るために、死んでいった従兄た
ちの面影を見る」
 
松本氏も、久世氏も、亡くなってしまった。けれど、彼らの言葉はどれも
みんな、私の心に沁みる。コンサートホール一杯に広がった「海ゆかば」
の合唱に、静かに感動した。
 
若い女性の友人たちは、「海ゆかば」にとっつきにくいようだった。だか
らこうした先人たちの言葉を、私は彼女たちにそっと捧げてみたい。

『週刊新潮』 2017年5月4・11日合併号 日本ルネッサンス 第752回


◆角さんは糖尿病だった

渡部 亮次郎



肩書きを言うより「角さん」で通っていた田中角栄氏。脳梗塞により75歳
で逝去した。若いころからの汗っかきは「バセドウ病」のためと周囲に説
明していたが、実は糖尿病持ちだったことは隠していた。だから脳梗塞を
まねいたのだ。

彼が自民党幹事長だったころ私も彼を担当したが、糖尿病で医者通いをし
た事実はなかった。ところが、彼が首相を辞めた後会ったところ「あん時
は血糖値が400にもなった」としゃべりだした。

「文春で立花隆に書かれたことには堪えなかったが児玉に書かれた佐藤昭
(あき)とのとを連日真紀子(娘)にわーわーいわれて参っちゃった。血
糖値も400まで上がるしな」と糖尿病を発症していたことをうっかり告白
してしまった。

おなじく糖尿病から「合併症」としての心筋梗塞で死亡した政治家に大平
正芳がいる。同じく首相を務めて死んだが年下の角栄を「兄貴」と呼んで
政治的にすがっていた。大平は甘党だったが、糖尿病と真剣にむきあって
はいなかった。

ちゃんとインスリン注射をしていれば総理在任中70の若さで死ぬことはな
かったはずだ。もっとも当時は今と違ってインスリン注射を患者自身がす
ることは厚生省(当時)の「省令」で禁止されていたから多忙な政治家が
連日医者通いをすることは無理だった。

この大平の無二の親友だった伊東正義も糖尿病だった。外務大臣当時は政
務秘書官も糖尿病だった。伊東はしかし医者通いをちゃんとしていたから
80まで生きたき。インスリン注射を怠ると寿命を10年は縮めるといわれて
いる。

糖尿病にともなう網膜症のため国会の代表演説の原稿を大きすぎる字で書
いてきて有名になった田中六助は心筋梗塞で死んだが、まだ62歳と若すぎ
た。医者通いをしていなかったのではないか。まず眼底出血して網膜をや
られ、最後に若くして死んだことがそういう推測を招く。

日本で糖尿病患者のインスリン自己注射を許可したのは昭和56年厚生大臣
園田直がはじめてである。それまでは日本医師会の反対を歴代厚生大臣が
おしきれなかったためである。

このときの園田氏はすでに1回目の厚生大臣の後、官房長官、外務大臣2期
の末という実力者に成長していたためか日本医師会も抵抗はしなかった。
禁止の「省令」は廃止された。

結果、「テルモ」など医療器具メーカーの競争が活発になり、たとえば注
射器が小型化してボールペン型になった。針も極細になり、
いまでは0・18mmと世界一の細さになった。また血糖値の事故測定器の
小型のものが発明されて便利になっている。

これらはすべて園田さんの決断の賜物だが、その園田さん自身は若いころ
からの患者であり、患者の苦しみを知るが故に自己注射許可の決断をした
のだった。わたしは秘書官として側にいたからよく見ている。

患者によっては医者に一日3回も注射のため医者に通わなければならない
人もいた。1日に医者に3回!!仕事ができない。自覚症状としては何もな
い病気とあれば医者通いをやめて早死にをずる不幸をまねく例もおおかった。

そうなのだ。大決断をした園田さん自身はその恩恵に浴することなく70の
若さで死んだ。そう武道の達人も注射の痛さを嫌いインスリンから逃げて
いたのだ。腎臓が機能しなくなり「腎不全」で死んだ。(2013・7・13)






◆歳は足に来る(続)

石岡 荘十



数十メートル歩くと左足がだるくなって歩行困難になる。で、数分立ち止まって休むとまた歩けるようにはなるが、またすぐだるくなる。


このような症状を専門的には「間欠性跛行」という。「跛行」はビッコを引くという意味だ。こうなった経緯については前回述べた。今回はその続編である。


先般、閉塞した足の大動脈にステントを入れる治療を受け、ビッコは解消し、元通り颯爽と歩けるようになった。


はじめ、「これはてっきり腰をやられた」思い込んで、近所の接骨院に駆け込んだら、「典型的な脊柱管狭窄症の症状だ」と断言する。つまり神経の管が腰のところで狭まっている疑いがあるとのことで、電気治療、針を数回やってもらったが、はかばかしくない。


血流が詰まる動脈硬化は典型的な加齢疾病だ。脳の血管が詰まれば脳梗塞になるし、心臓の血管(冠動脈)が狭くなると狭心症、詰まると心筋梗塞になる。私の場合は足にきたというわけである。

造影剤を使ったCTで診ると、左足付け根から動脈を15センチほど遡ったところで90パーセント狭窄していることが確認できた。左足へは最大、通常の7割ほどしか血が流れていない。これではビッコになるわけだ。

治療法は、脳梗塞や心臓梗塞と同じだ。血管の狭くなったところにカテーテルを挿し込んでフーセンで拡げるとか、バイパスを作るとか、etc。

8/23、心臓カテーテル室でカテーテル台に横になると、若くて美形の看護婦さんが何の躊躇もなくパラリとT字帯をはずし、左足の付け根周辺の陰毛を電気かみそりで刈る(剃毛という)。慣れたものだ。

局所麻酔の後、この治療では実績も多い腕利きの医師が、モニター画面を見ながらカテーテルを挿入。先端には、中心部に細くすぼめたバルーンを仕込んだステントがある。ステントはステンレスで出来た金網のチューブである。

これを狭窄部分まで持っていってバルーンを膨らますと、すぼめてあったステントの内径も同時に拡がって、狭窄した血管を見事に押し広げた。

ステントは内径8ミリ、長さ40ミリ。心筋梗塞の治療に使うステントは内径2ミリほどだから、それに較べると大型だ。治療時間は1時間ほど、治療費86万円、自己負担9万円ほどだった。

心筋梗塞でステントを使う治療法はよく知られているが、足の大動脈狭窄にステントを使うケースはまだそれほど多くない。

治療を受けた東京女子医大では、ステントを使った心筋梗塞治療が今年すでに数百件に上るのに対して、足に使った症例は筆者でまだ56件目だという。

下肢(足)へ行く動脈が詰まると、下肢が腐ってしまい、痛いだけでなく、命にかかわるケースもある。そうなると「命には代えられない」とやむを得ず下肢を切断しなければならなくなる。日本では毎年1万人以上が足を切断されているという報告もある。高齢化で症例は増えている。

足にもステントを入れるという治療法は、循環器内科ならどこでもやっているわけではない。リスクもある。医師の選択には慎重でありたい。

元京都大学心臓血管外科部長・米田正始(こめだまさし)医師を中心とする研究グループは新しい血管を作って下肢切断を救う「血管再生法」という試みを行なっていて、再生医学のひとつとして注目されている。が、成功症例はまだそれほど多くない。

「なんとなく足の先が冷たい」

これが、アラームだ。接骨院では治らない。歳は足にくる。専門の医師を選んで、治療を受ける必要がある。 (再掲)

2017年05月14日

◆矛盾する岩井克己朝日新聞記者の記事

斎藤 吉久



──ねじ曲げられた前侍従長の「私見」 3


以下は、拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれ
た側近たちの謀叛』からの転載です。一部に加筆修正があります。


第1章 いつ、だれが、何のために言い出したのか?

第3節 ねじ曲げられた前侍従長の「私見」──岩井克己朝日新聞記者の
「内親王家」創設論


▽3 矛盾する岩井克己朝日新聞記者の記事

岩井記者の記事は、渡邉允前侍従長(いまでは元職)の文章を引用しつ
つ、その「私見」について。次のように説明しています。

「私が侍従長としてお仕えしていた期間のほとんどは、皇位継承をめぐる
問題がつねに緊迫した課題として存在し続けていました。天皇陛下は、10
年以上にわたって、この問題で深刻に悩み続けられました」

「それが現在では、現行の皇室典範の下で、皇太子さま、秋篠宮さま、秋
篠宮家の悠仁さまが、次の次の世代まで皇位を継承なさることで落ち着い
た状況になっています。私はこの段階では、それでいいのだと思います」

「いずれにせよ我々の世代は、皇位継承の問題について、一端、国論が分
裂する事態を招いて、国民皆が納得する結論を得ることに失敗したわけで
す。従って、この問題は、将来の世代の人たちに、それぞれの時代の状況
に応じて対応してもらうことに期待する以外にあり得ないと思っています」

 以上の引用のあと、岩井記者は、

「そのうえで、皇室典範の男系男子主義の規定はそのままにして、眞子さ
ま、佳子さま、愛子さまら内親王方が結婚しても新宮家を創設して皇室に
残ってもらう『女性宮家』案をあらためて提起している」

と説明しています。この記事を読むと、前侍従長の「女性宮家」創設提案
は皇位継承問題と直結しているように見えます。

しかも、岩井記者は、「女性宮家」創設案は前侍従長が数年前から「私
案」としてたびたび公言してきたことで、「週刊朝日」誌上の対談(渡邉
前侍従長インタビュー「渡邉允前侍従長に聞いた天皇陛下喜寿の胸の
内」=同誌平成22年12月31日号)でも表明されてきたと指摘しています。

さらに岩井記者は、

「長くもっとも身近に仕えてきた人だけに、両陛下のお気持ちを忖度して
の発言だろう。今回、浮上している女性宮家問題も、こうした脈絡で見る
べきだろう」

と付け加えていますが、どうでしょうか?

もしそうだとしたら、前侍従長らが推し進めた祭祀簡略化も「陛下のお気
持ちを忖度」したうえでのことになりますが、即位以来、祭り主の伝統を
重んじてこられた陛下にとって、それはあり得ないでしょう。

私にはむしろ陛下と側近との意見の相違の方が強く感じられます。

「女性宮家」創設論議についていえば、創設の検討を「陛下のご意向」と
することを羽毛田長官が「強く否定」している、とする岩井記者自身の記
事とも矛盾します。


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加
筆修正があります


◇ 筆者のプロフィール ◇

斎藤吉久(さいとう・よしひさ) 昭和31年、第32代崇峻天皇の后・小手
姫(おてひめ)が里人に養蚕と機織りを教えたとの物語が伝えられる福島
県・小手郷(おてごう)に生まれる。子供のころ遊んだ女神川は姫の故事
に由来する。弘前大学、学習院大学を卒業後、総合情報誌編集記者、宗教
専門紙編集長代行などを経て、現在はフリー。著書に『天皇の祭りはなぜ
簡略化されたか』など。過去の発表記事は斎藤吉久のブログで読める。
「戦後唯一の神道思想家」葦津珍彦(あしづ・うずひこ)の「没後の門
人」といわれる


◆これほどの大物が居た

渡部 亮次郎



名古屋市には、その中心に、100m道路がある。道幅100mの道路が東西南北
に走っている。もちろんその100mの道幅そのものが、自動車の走行の為の
道幅ではない。道幅100mの間には、公園もあれば、テレビ塔もある。

名古屋も戦後直後は、空襲でこの辺りも焼野原となった。戦後の混乱の時
期に、市の幹部は、まず道路を設定した。その時に、未来に備えての道幅
100mの道路を設定したのである。

さて、なぜ道幅100mの道路を名古屋の中心に東西南北に走らせたか?である。

戦後の焼野原を見ながら、どんな火災が起きても、延焼を食い止め、名古
屋全域が焦土と化さないように名古屋の中心のタテヨコに幅100mの空間
(道路)を作ったのである。

一方、将来来るはずの自動車社会を見越して東京中心部の設計をしたのが
岩手県人後藤新平(ごとう しんぺい)綽名大風呂敷である。関東大震災
後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案した。

特に道路建設に当たっては、東京から放射状に伸びる道路と、環状道路の
双方の必要性を強く主張し、計画縮小をされながらも実際に建設した。

当初の案では、その幅員は広い歩道を含め70mから90mで、中央または車・
歩間に緑地帯を持つと言う遠大なもので、自動車が普及する以前の当時の
時代では受け入れられなかったのも無理はない。

現在、それに近い形で建設された姿を和田倉門、馬場先門など皇居外苑付
近に見ることができる。上野と新橋を結ぶ昭和通りもそうである。日比谷
公園は計画は現在の何倍もあったそうだ。

また、文京区内の植物園前 、播磨坂桜並木、小石川5丁目間の広い並木道
もこの計画の名残りであり、先行して供用された部分が孤立したまま現在
に至っている。現在の東京の幹線道路網の大きな部分は後藤に負っている
といって良い。

関東大震災。1923(大正12)年9月1日午前11時58分に発生した、相模トラフ
沿いの断層を震源とするマグニチュード7・9による大災害。南関東で震度
6 被害は死者99,000人、行方不明43,000人、負傷者10万人を超え、被害
世帯も69万に及び、京浜地帯は壊滅的打撃を受けた。(以下略)「この項の
み広辞苑」

新平は関東大震災の直後に組閣された第2次山本内閣では、内務大臣兼帝
都復興院総裁として震災復興計画を立案した。それは大規模な区画整理と
公園・幹線道路の整備を伴うもので、30億円という当時としては巨額の予
算(国家予算の約2年分)。

ために財界などからの猛反対に遭い、当初計画を縮小せざるを得なくなっ
た。議会に承認された予算は、3億4000万円。それでも現在の東京の都市
骨格を形作り、公園や公共施設の整備に力を尽くした後藤の治績は概ね評
価されている。11%!に削られながら。

三島通陽の「スカウト十話」によれば、後藤が脳溢血で倒れる日に三島に
残した言葉は、「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ
者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」であったという。

後藤新平(ごとう しんぺい、安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4
年(1929年)4月13日)は明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家。
台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東
京市(現・東京都)第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京
放送局(のちのNHK)初代総裁。拓殖大学第3代学長。

陸奥国胆沢郡塩釜村(現・岩手県奥州市水沢区吉小路)出身。後藤実崇の
長男。江戸時代後期の蘭学者・高野長英は後藤の親族に当たり、甥(義理)
に政治家の椎名悦三郎、娘婿に政治家の鶴見祐輔、孫に社会学者の鶴見和
子、哲学者の鶴見俊輔をもつ。椎名さんは新平の姉の婚家先に養子に入った。

母方の大伯父である高野長英の影響もあって医者を志すようになり、17歳
で須賀川医学校に入学。同校を卒業後、安場が愛知県令をつとめていた愛
知県の愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)で医者となる。

ここで彼はめざましく昇進し、24歳で学校長兼病院長となり、病院に関わ
る事務に当たっている。この間、岐阜で遊説中に暴漢に刺され負傷した板
垣退助を治療している。後藤の診察を受けた後、板垣は「彼を政治家にで
きないのが残念だ」と口にしたという。

1882年(明治15)2月、愛知県医学校での実績を認められて内務省衛生局
に入り、医者としてよりも、病院・衛生に関する行政に従事することと
なった。

1890年(明治23)、ドイツに留学。西洋文明の優れた一面を強く認識する
一方で、同時に強いコンプレックスを抱くことになったという。帰国後、
留学中の研究の成果を認められて医学博士号を与えられ、1892年(明治
25)12月には長与専斎の推薦で内務省衛生局長に就任した。

1893年(明治26)、相馬事件に巻き込まれて5ヶ月間にわたって収監さ
れ、最終的には無罪となったものの衛生局長を非職となり、一時逼塞する
破目となった。

1883年(明治16年)に起こった相馬事件は 突発性躁暴狂(妄想型統合失
調症と考えられる)にかかり 自宅に監禁されさらに加藤癲狂院(てん
きょういん)や東京府癲狂院に 入院していた奥州旧中村藩主 相馬誠胤
(そうまともたね)のことについて

忠臣の錦織剛清(にしごおりたけきよ)が 「うちの殿様は精神病者では
ない。

悪者たちにはかられて病院に監禁された。」 と、告訴したことに始まった。

結局この騒ぎは1895年(明治28年)に 錦織が有罪となって終結すること
になった。

1898年(明治31)3月、台湾総督となった兒玉源太郎の抜擢により、台湾
総督府民政長官となる。そこで彼は、徹底した調査事業を行って現地の状
況を知悉した上で、経済改革とインフラ建設を進めた。こういった手法
を、後藤は自ら「生物学の原則」に則ったものであると説明している。

それは、社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生
したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって、現地
を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきであるというもので
あった。

また当時、中国本土同様に台湾でもアヘンの吸引が庶民の間で常習となっ
ており、大きな社会問題となっていた。これに対し後藤は、アヘンの性急
に禁止する方法はとらなかった。

まずアヘンに高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに、吸引を免許
制として次第に吸引者を減らしていく方法を採用した。この方法は成功
し、アヘン患者は徐々に減少した。

総督府によると、1900年(明治33年)には16万9千人であったアヘン中毒
者は、1917年(大正6)には6万2千人となり、1928年(昭和3)には2万6千
人となった。

なお、台湾は1945年(昭和20)にアヘン吸引免許の発行を全面停止した。
これにより後藤の施策実行から50年近くかけて、台湾はアヘンの根絶に成
功したのである(阿片漸禁策)。

こうして彼は台湾の植民地支配体制の確立を遂行した。台湾においては、
その慰撫政策から後藤は台湾の発展に大きな貢献を果たした日本人とし
て、新渡戸稲造、八田與一等とともに高く評価する声が大きい。

1906年、後藤は南満洲鉄道初代総裁に就任し、大連を拠点に満洲経営に活
躍した。ここでも後藤は中村是公や岡松参太郎ら、台湾時代の人材を多く
起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、満鉄のインフ
ラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。

また、満洲でも「生物学的開発」のために調査事業が不可欠と考え、満鉄
内に調査部を発足させている。東京の都市計画を指導するのはこの後である。

その後、第13代第2次桂内閣の元で逓信大臣・初代内閣鉄道院総裁(1908
年7月14日-1911年8月30日)、第18代寺内内閣の元で内務大臣(1916年10
月9日-1918年4月23日)、外務大臣(1918年4月23日-1918年9月28日)。

しばし国政から離れて東京市長(1920年12月17日-1923年4月20日)、第22
代第2次山本内閣の元で再び内務大臣(1923年9月2日-1924年1月7日)など
を歴任した。

鉄道院総裁の時代には、職員人事の大幅な刷新を行った。これに対しては
内外から批判も強く「汽車がゴトゴト(後藤)してシンペイ(新平)でた
まらない」と揶揄された。しかし、今日のJR九州の肥薩線に、その名前を
取った「しんぺい」号が走っている。

1941年(昭和16)7月10日、本土(下関市彦島)と九州(当時、門司市小森江)
をむすぶ、念願の日本ではじめての海底トンネルが貫通した。この日貫通
したのは本坑道で、それより先39年4月19日には試掘坑が貫通している。

新聞はこの貫通を祝っているが、関門海峡の海底をほって海底トンネルを
つくる構想ははやくも1896年(明治29)ころからあり、当時夢物語のような
この話を実現化へ向けて進言したのは、鉄道院総裁の後藤新平だったとつ
たえている。[出典]『中外商業新報』1941年(昭和16)7月10日

晩年は政治の倫理化を唱え各地を遊説した。1929年、遊説で岡山に向かう
途中列車内で脳溢血で倒れ、京都の病院で4月13日死去。72歳。

虎ノ門事件(摂政宮裕仁親王狙撃事件)の責任を取らされ内務省を辞めた正
力松太郎が読売新聞の経営に乗り出したとき、上司(内務大臣)だった後
藤は自宅を抵当に入れて資金を調達し何も言わずに貸した。

その後、事業は成功し、借金を返そうとしたが、もうすでに後藤は他界し
ていた。そこで、正力はその恩返しとして、新平の故郷である水沢町(当
時)に、新平から借りた金の2倍近い金を寄付した。この資金を使って、
1941年に日本初の公民館が建設された。今は
記念館になっているようだ。

後藤は日本のボーイスカウト活動に深い関わりを持ち、ボーイスカウト日
本連盟の初代総長を勤めている。後藤はスカウト運動の普及のために自ら
10万円の大金を日本連盟に寄付し、さらに全国巡回講演会を数多く実施した。

彼がボーイスカウトの半ズボンの制服姿をした写真が現在も残っている。
制服姿の後藤が集会に現れると、彼を慕うスカウトたちから「僕らの好き
な総長は、白いお髭に鼻眼鏡、団服つけて杖もって、いつも元気でニコニ
コ」と歌声が上がったという。

後藤はシチズン時計の名付け親でもある(彼と親交のあった社長から新作
懐中時計の命名を頼まれ、「市民から愛されるように」とCITIZENの名を
贈った)。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

◆「措置入院」精神病棟の日々(38)

“シーチン”修一 2.0



大学時代からの友人“Sam”は、小生が緊急措置入院で音信不通になると心
配してわが家まで足を運んでくれた。He is a good guy.ありがたいことだ。

Samは懐メロのGSやロックなどのレコードコレクターでもあり、2年ほど前
だろうか、神奈川新聞でも紹介されていた。愛着があれば古いものでも大
切にする嗜好、傾向があり、一時期はクラシックな乗用車やオートバイを
楽しそうに運転していたが、維持費がとてもかさむので(多分奥様のコン
プレインもあって)、この趣味というか道楽は諦めたようだ。

男は諦観、断念の人生、女は幾つになっても18歳、夢見る乙女は少年のま
まの男のロマンなんて忖度しないだろうな。

そのSamからメールが届いた。要約すると――

<毎号愛読していますが「頂門の一針」2017/5/8の記事は大いに疑問です。

そもそもテレビというメディアは、好むと好まざるにかかわらず、通信イ
ンフラでほとんどライフラインです。革命家はまずここを占拠しますよ
ね。世捨て人ならいざ知らず、頂門の一針たらんとし「中共殲滅」を志す
人は、逃げないでください。
 
「一億総白痴化」(大宅壮一)というのも当時の番組コンテンツのくだら
なさを指したもので、必ずしもテレビという媒体を否定したわけではな
かったですか?

「読書派とテレビ派」というのも無理筋、酒派と飯派みたいな分け方で
しょう。両方たしなむのが当たり前ではないかしら。

映像というものの重要さは、元ジャーナリストの方は十分ご存じではない
ですか?だからチャイナは人民に視聴の自由を与えないわけでしょう。

テレビというメディアが有効とされるからこそ、教育番組や放送大学があ
るのでは?

活字媒体だけでどうやって、例えば古典芸能、例えば新車情報を表しますか?

ただ放送の最大の欠点は、我々の都合に関係なく(試験期間であれ夕餉の
団欒時であれ)、一方的に番組が送られて来ることで、このことを指して
山本夏彦は「切れ」といったのだと思う。しかし当時と違って今は録画機
械が普及し、テレビの見方が変わってきたという話は知りませんか?

例えば西部邁ゼミナールでも一度騙されたと思って、見てみてください。
そのうえでコンテンツ論をお願いします。確かに大半の番組は中2以下レ
ベルですが、そればかりではないはずです(人間には「人には言えない
話」が必要と個人的に考えますが、それは措いといて)。

中共殲滅をテーマにした映像を作りユーチューブに流すなんて、どうです
か?川崎のゲッペルス、期待しています。

くどいようですが、論ずべきは器のあり方というよりも、その器の料理だ
と思いますが、いかがでしょう>(以上)

ゲッペルスって、確かナチスの宣伝担当相だったが、小生は蟷螂の斧、し
がない瓦版屋、ゲ(ッペル)ス記者に過ぎない。

テレビは1960年前後から急速に世界に普及していったが、テレポリティク
/telepoliticsは「テレビを意識した政治活動」で、それを活用してのし
上がったのがJFK=ケネディだった(小生にとって彼はインチキ淫乱ゲス
野郎でイルカ大使の親父に過ぎないが)。「1994年版 時代感覚用語」から。

<テレポリティックス :「テレビ政治」「メディア選挙」。テレビとい
うマスメディアが政治のあり様に大きなインパクトを与えるようになった
最初の予兆は、1960年に行われた「ニクソン対ケネディ」のアメリカ大統
領選挙であった。

2期8年間も副大統領をつとめたリチャード・M・ニクソン (共和党) と、
当時ほとんど無名だった若き上院議員ジョン・F・ケネディ (民主党) の
一騎打ちだから、みんな「ニクソンの楽勝」と思い込んでいた。

しかし(テレビで生中継された)“大討論”の際、ニクソンはテレビカメラ
の前にほとんど化粧っ気のないペイル・フェース (青白い顔) をさらけ出
してしまったため、メディア利用のうまいケネディにまんまとやられてし
まった>

今はネットも利用した「E・テレポリティクス」になっているようだ。

Samは「テレビというメディアではなく、その内容=料理=コンテンツこ
そが問われるべきだ」と言っているのだが・・・その通りだが、昔から
「まじめな話は暗くなる」からジャンクフードのようなゲス番組がほとん
どなのではないか。

ビデオリサーチ2017年4月24日(月) 〜 4月30日(日) によると、視聴率
トップ10入りしたNHKEテレは「アニメ」部門で9位「アニメおさるの
ジョージ」4/29(土) 3.5%、10位「アニメひつじのショーン」同3.1%だ
けだった。

放送大学はネットなどでも見ることができるが、視聴率は1%あるのかど
うか。「現在は放送大学本部に収録スタジオを保有していることから
NHK、テレビ朝日(修一:両者とも偏向報道で有名)との関係はなくなっ
たもののNHKの子会社で教育テレビの番組制作を手掛けるNHKエデュケー
ショナルが番組制作協力にあたっている」(ウィキ)そうだ。

悪貨は良貨を駆逐する、真面目な番組を創ったところで視聴率は稼げな
い。書籍も同様で、今や「売れる本」が良書になった。

ところで西部邁。ブント系全学連の中央執行委員として60年安保に参加し
たそうだが、逮捕歴ゼロって・・・まるでカンカラ菅直人、中核派ながら
おめおめと白ヘルを捨てた猪瀬直樹と一緒で、「アジは上手いが逃げるの
も上手い」(佐々淳行氏)? 西部は今はテレビでメシを食っているよう
だが、総合視聴率は「おさる」や「ひつじ」をはるかに下回っているだろう。

イギリス生まれのジャーナリスト、コリン・ジョイス氏(ニューズウィー
ク元東京支局長)によると、英国では今でも厳然とした階級があり、小生
思うにそれは知的階級(頭脳労働、大卒以上、セレブ、読書派、保守党支
持、有事にあっては将校)と労働階級(肉体労働、高卒止まり、庶民、テ
レビ派、労働党支持、有事にあっては兵士)で、氏は仕事柄、労働階級の
知人友人と交流するのだが、知的階級からはほとんど変人のように思われ
ていると書いていた。

つまり2大階級は口さえ利かないのだ。分家の米国も似たようなものでは
ないか。

Samは「一億総白痴化というのも当時の番組コンテンツのくだらなさを指
したもの」というが、大宅はこう書いている。

<テレビに至っては、紙芝居同様、否、紙芝居以下の白痴組が毎日ずらり
と列んでいる。ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によっ
て、『一億白痴化運動』が展開されていると言って好い(「週刊東京」
1957/2/2)>

それから60年経っても白痴番組が主流なのではないか。5/12/金のゴール
デンタイム(19〜22時)の番組は――

NHK:1300年前の飛鳥美人像に秘められた暗号、NHKEテレ:年を取るほど
美しく 辛口娘ブログで大変身、日テレ:テレビに一瞬映った美女は
誰?、テレ朝:話題のアニメ映画SING、TBS:梅沢富美男 バレた浮気80
回、テレ東:釣りバカ日誌2、フジ:さよなら!おばさんデカ

60年前が「くだらない番組」なら今は「思いっきりくだらないゲス番組」
の全面開花ではないのか。

読書階級(高2レベル以上)2割、テレビ階級(中2レベル以下)8割。1票
は1票だから為政者は8割の方に顔を向ける、昔から。

1934年、ヒトラーがどん底、絶望、自殺願望を繰り返しながら首相に這い
上がり、「最後の自由な選挙」を前にしたゲッペルスはほとんど躁状態
だった。2/3の日記にこう書いた(「第三帝国の興亡」)。

「今度は戦いを進めるのがやさしいだろう。我々は国家資源のすべてを投
入できる。ラジオも新聞も我々の自由になる。我々は宣伝の傑作を上演す
るだろう。今度は無論、金に困ることはない」

所詮マスコミ、民衆はそんなもの・・・ナチスが政権を握る100年前に
ゲーテはこう書いている、「私は、個人としてあれほど尊敬に値するの
に、全体としてはあれほど浅ましいドイツ民族のことを考え、しばし悲痛
な思いをする」(同)。

「もっと正気を」か。

正気で冷徹なリアリストのマキャベリ曰く――

<「民衆ほど軽薄で首尾一貫とは程遠いものはない」とはリヴィウスの評
価ではあるが、他の多くの歴史家もこれと同じことを書いている。「卑屈
な奴隷か、さもなければ傲慢な主人か、これが民衆の本質である」とも。

(非難覚悟で)あえて弁護するが、歴史家たちが民衆の欠点として糾弾す
るこの性格は、実は人間全体、その中でも特に指導者たちに向けられるべ
きものだと言いたい。

なぜなら、法に反する行為をする者は誰であれ、秩序なき民衆と同じ誤り
を犯すものだからである。

後先のことを考えないで暴走するという民衆の性格は、指導者のそれより
も罪が深いわけではない。両者いずれとも、思慮に欠ける人ならば誰でも
この誤りは同じように犯しているのだ。(修一:まるで小生そっくり)

それ故に、この場合での理にかなった議論としては、階級で分けずに、人
間全体に共通する欠点への糾弾という形でなされるべきだと思う。

「民の声は神の声」と言われるのも、まんざら理由のないことではない。
何しろ世論というものは不可思議なる力を発揮して、未来の予測までして
しまうことがある。

また判断力ということでも、民衆のそれは意外に正確だ。二つの対立する
意見を並べて提供してやりさえすれば、世論はほとんどの場合、正しい方
に味方する>

まあSamの意見には八分の道理、小生の意見もそんなものだろう。ただ、
マスコミは「二つの対立する意見を並べて提供」なんてまずしない。まと
もな新聞は産経、読売、日経くらいで、シェアは20%、多くはフェイク新
聞、フェイクテレビではないのかと・・・

久し振りに興奮して記事が長くなったので、精神病棟における発狂老人の
心理検査は次回に。(つづく)2017/5/13


  

◆歳は足にくる(前)

石岡 荘十



学生時代から体育会系で足腰には自信があるつもりだったが、古希を過ぎる頃から歳が足にきた。

ことの始まりは、高校の友人と花見がてら玉川浄水伝いの小道を小金井公園まで数キロ歩いたときだった。暫く歩くと左足がだるく、重くなって思うように歩けない。しばらく(数分)休むと回復してまた歩けるようになるのだが、また、だるく重くなる。

こういうのを間欠性跛行(かんけつせいはこう)といい、腰部脊柱管狭窄症の典型的な症状だとされている。跛行とはビッコを引くということだ。

人間の脊椎骨は上から頚椎(7個)、胸椎(12個)、腰椎(5個)、仙骨(1個)、それに数個の尾骨から成っている。脊椎骨の中心を走る脊柱管の中に神経の柱がある。

一つひとつの脊椎と脊椎の骨の間には椎間板というクッションの役割を果たす軟骨組織がある。そしてさらにこれらは靭帯や背筋などの筋肉で支えられている。

ところが、40代後半になってデスクワークが増えたせいか、足に痺れや傷みが来た。背筋が脊椎を支えきれなくなって5番目の腰椎がずれていると診断された。それから、少なくとも一キロ/週、泳ぐ習慣をつけて今日に至っているので、重い足を引きずってビッコを引くようになろうとは思いもしなかった。

脊柱管狭窄症、つまり神経の管が腰のところで狭まっている疑いがあるとのことで、腰のレントゲン、さらにMRIを撮ってみると、確かに、5番目の腰椎がずれている。が、神経には触っていないことが確認できた。脊柱管はどこも狭くなっているところはない。

しかし、MRIをよく見ると、3番目と4番目、4番目と5番目の間の椎間板がほかの椎間板より白く写っていて、炎症を起こしていると認められ、そのせいでごくわずか椎間板がはみ出して、脊柱管を押している。

治療法としては、腰椎を引っ張る、固定装具を使う、消炎鎮痛剤や飲み薬を使う、重症でそれでもダメなら外科手術をするということになる。みのもんたさんは手術をしたといわれるが、そこまでひどい症状は患者の一割程度だそうだ。

私の場合は軽症で、椎間板の炎症は飲み薬でなおる、ビッコの原因はほかにあるというのが整形外科医の診断だった。

では、ビッコの原因は何か。

考えられるのは、足に血液を供給する血管、動脈がどこかで狭くなっていて、栄養補給が足の筋肉の運動量に追いつかない動脈硬化ではないかと循環器内科の医師は考えた。

これを立証するのが、「血圧波検査」だ。両腕、両足に幅広のベルトを巻いて一斉に血圧を測定する検査法である。この検査をすると、動脈の詰まり具合と動脈の硬さ(柔軟性)がわかる。

結果は、左足だけが標準値に達していない、(専門的には「閉塞性病変の疑い」という)左足の血流は右足の7割しかないことが分かった。左足へ行く動脈のどこかが詰まっていた。

血流が詰まる動脈硬化は典型的な加齢疾病だ。脳の血管が詰まれば脳梗塞になるし、心臓の血管(冠動脈)が狭くなると、狭心症や心筋梗塞になる。私の場合は足にきたというわけである。

治療法は、脳梗塞や心臓梗塞と同じだ。血管の狭くなったところにカテーテルを入れ込んでフーセンで拡げるとか、バイパスを作るとか、などなど。

診療科の選択は大事だ。教訓は、大雑把に言うと、足が「痛むとき」は腰の神経になにかが触っているのだから、整形外科へ、「だるい・重いとき」は循環器内科へ、である。

多くの病気は、原因が分かり適切な治療が行なわれれば治るし、治療が適切でなければ治るものも治らない。癌の多くが治らないのは、原因が分かっていない。原因はわかっても治療法がそこまでいっていないか、誤った治療法がまかり通っているためだ、と私は思っている。

いわゆる「難病」といわれるものは、原因が明らかでなく、従って治療法もわからないものをいう。

と、考えると、足がだるくなる間欠性跛行は難病ではない。脳や心臓の梗塞と同じ加齢疾病だと考えればいい。治療法はあり、医師を選び抜けば高い確率で治る。調べてみて“悲観”は飛んだ。

ただ、このような治療法は対症療法に過ぎない。創造主に逆らって老いを押しとどめる智恵はヒトにもない。例外はない。

ガキは頭にくる、なにかというとキレるらしいが、歳は足にくる。(続く)

2017年05月13日

◆お助け橋・「新」大橋

渡部 亮次郎



今住んでいる東京・江東区から車で隣の中央区(銀座や東京駅)に行くには両国橋か新大橋で隅田川を渡るしかない。電車だと錦糸町から地下へ潜る総武快速線で東京駅までたった8分。但し東京駅で地上に出るまで5分はかかる。

車だと2Km走って新大橋で隅田川を渡れば日本橋と銀座だ。

最近のマスコミは江東区も墨田区も「下町(したまち)」と呼ぶが、戦前(古いネ)要するに60年以上前の東京で下町とは日本橋、京橋、神田、下谷、浅草までで、墨田、江東は括って「墨東(ぼくとう)」と呼ばれ、陰では「川向こう」と蔑まれていた。

余談だが「川向こう」には韓国という意味もある。日本海を川に見立てるからである。

確かに江東区には猿江、墨田区には押上(お仕上げ)、向島(むこうじま)など、この地域が大昔は海だったことを裏付ける地名が残っている。低層の湿地帯だったものを徳川家康が運河を開鑿したり土盛りをしたりして住宅地に仕立てた。

時代がぐっと下って、バブルがはじけたあたりから墨東には高層マンションが林立するようになった。とくに錦糸町駅周辺の変貌は目覚しい。時計精工舎の工場跡地には45階のマンションが2006年に完成した。

また錦糸町駅周辺の再開発も進んでマンションや高層ビルが建った結果、両国の花火は我が家からは見えなくなって久しい。

東京中のゴミを棄てているのが江東区地先の東京湾。そのあたりにもマンションが林立し、戦後わずか25,000だった江東区の人口はいまや 48万人。少子化が叫ばれる中で臨海地に小学校が新たに開設される始末。

都心に極く近い割に土地代の安いところに建った高層マンションだから若いカップルが殺到するように江東区へ移転してくるからこうなった。こちとら老人は被害者、所得税の3倍の住民税をとられている。

話を橋に戻す。隅田川に多くの橋が架かっているが、新大橋はなんで「新」なのか、旧がどこにも見当たらないが。それが田舎者。すぐ上流にかかっている両国橋がもとはただの「大橋」だった。だから1つ下流は新大橋。

新大橋(しんおおはし)は、東京都道・千葉県道50号東京市川線(新大橋通り)を通す。西岸は中央区日本橋浜町2丁目・3丁目、東岸は江東区新大橋1丁目(元安宅町)。付近地下に都営地下鉄新宿線が通る。

最初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年(1693年)12月7日である、隅田川3番目の橋で、「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられた。

江戸幕府5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院が、橋が少なく不便を強いられていた江戸市民のために、架橋を将軍に勧めたという説がある。

当時の橋は現在の位置よりもやや下流側であり、西岸の水戸藩御用邸の敷地と、東岸の幕府御用船の係留地をそれぞれ埋め立てて橋詰とした。

橋が完成していく様子を、当時東岸の深川に芭蕉庵を構えていた松尾芭蕉が句に詠んでいる。


「初雪やかけかかりたる橋の上」
「ありがたやいただいて踏むはしの霜」

新大橋は急流のため何度も破損、流出、焼落が多く、その回数は20回を超えた。幕府財政が窮地に立った享保年間に幕府は橋の維持管理をあきらめ、廃橋を決めるが、

町民衆の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に永享元年(1744年)には存続を許された。

そこで、維持のために橋詰にて市場を開いたり、寄付などを集めるほかに、橋が傷まないように当時は橋のたもとに高札が掲げられ、

「此橋の上においては昼夜に限らず往来の輩(やすら)うべからず、商人物もらひ等とどまり居るべからず、車の類一切引き渡るべからず(渡るものは休んだりせず渡れ、商人も物乞いもとどまるな、荷車は禁止)」とされた。

その後、明治18(1885)年に新しい西洋式の木橋として架け替えられ、明治45(1912)年7月19日にはピントラス式の鉄橋として現在の位置に生まれ変わった。

この時の設計監理には東京市の技術陣が当たったが、鉄材は全てアメリカのカーネギー社の製品が使われている。これは、明治の末においても未だ我が国の鉄材の生産量が乏しかったためと考えられる。
http://www.meijimura.com/visit/s55.asp

竣工後間もなく市電が開通し、アールヌーボー風の高欄に白い花崗岩の親柱など、特色あるデザインが見られた。そのため貴重な建築物として、現在愛知県犬山市の博物館明治村に中央区側にあたる全体の8分の1、約25mほどが部分的に移築されて保存されている。

戦後、修理補強を行いながら使われていたものの、橋台の沈下が甚だしく、橋の晩年には大型車の通行が禁止され、4t以下の重量制限が設けられていた。昭和52年に現在の橋に架け替えられた。

現在の橋の概要 構造形式 2径間連続斜張橋  橋長 170.0m幅員 24.0m  着工 昭和51年  竣工 昭和52年3月27日 施工主体 東京都  設計 中央技術コンサルタンツ 施工 石川島播磨重工業

歌川広重がその最晩年に描いた名所江戸百景の中に、新大橋は「大はし あたけの夕立」として登場する。ゴッホが特に影響を受けたとされるこの絵は、日本橋側から対岸を望んだ構図である。

「あたけ」というのはこの新大橋の河岸にあった幕府の御用船係留場にその巨体ゆえに係留されたままになっていた史上最大の安宅船でもある御座船安宅丸(あたけまる)にちなんで、新大橋付近が俗にそう呼ばれていたからである。

また斎藤月岑の江戸名所図会には「新大橋、三また」として描かれている。「三また(三股、三派)」とは神田川、隅田川、堅川の合流点のことで、新大橋のすぐ上流側であるが、この中州部分は月見、花見、夕涼み、花火見物の名所であり、全盛期には江戸一番の繁盛を見せたといわれる場所である。

新大橋は関東大震災や東京大空襲の際にも隅田川の橋がことごとく焼け落ちる中でも唯一被災せず、避難の道として多数の人命を救ったため、「人助け橋(お助け橋)」と称される。

現在でも橋の西詰にある久松警察署浜町交番敷地裏に「大震火災記念碑」、および「人助け橋の由来碑」があり、付近にある水天宮の御神体もこの橋に避難して難を逃れたと言われている。2007・04・07

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
それ以外の参考資料:
http://www.asahi-net.or.jp/~zr8t-iskw/shinoohashi.htm

◆韓国、最悪のシナリオに急傾斜?

宮崎 正弘
 


<平成29年(2017)5月12日(金曜日)通算第5289号>  

  〜韓国、最悪のシナリオに急傾斜しつつあるのではないのか
   米朝交渉、非公開で開始。米国はロシアに仲介を求めた形跡あり〜

韓国に親北大統領が誕生したことにより、北朝鮮は熟柿が落ちるのを待て
ば良いと考えているようだ。

韓国の未来は「最悪のシナリオ」に急傾斜しつつあるのではないか。

「一国家、一言語、両制度」という南北朝鮮の統一構想はもともと金日成
が言い出した二段階革命論に則っており、韓国は戦後冷戦期の「反共」の
国是を既に捨て去り、北が呼びかける「民族主義」のもと、反米に急傾斜
している。

なにしろ在韓米軍はもはや邪魔であり、THAAD配備で中国を怒らせた
のは、米国が悪いからだという北朝鮮の洗脳、情宣工作に引っかかって、
従北派の大統領を選んでしまった。

いまは「皆の大統領になる」などと、ありきたりのことしか発言していな
いが、統一へ向けて文政権は暴走を始めるだろう。

しかもやっかいなことに米国は韓国を見限りつつあり、空母を派遣してい
るのは非公開交渉をにらんでの武力威嚇戦術と北朝鮮は捉えている。
 
盧武鉉の亡霊が復活した韓国は、まず中国へのご機嫌取りをはじめ、米国
とは相当投げやりな外交関係に移行するだろう。

日本にとっては極左の反日、反米、親中、従北政権がとなりに誕生したわ
けで、未曾有の軍事的危機にいずれ直面することになる。

米国は日本の安全保障より自国に届かないミサイル開発を凍結させれば、
そのまま北と妥協する可能性が日々濃くなってきたように見える。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ◆ 樋泉克夫のコラム  
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
  
【知道中国 1569回】     
――「正邪の標準なくして、利害の打算あり」――(徳富8)
 徳富猪一郎『七十八日遊記』(民友社 明治39年)

                ▽
徳富は「国民捐」を「先つ以て殊勝と可申歟」と好意的に捉える一方で、
「排外熱」を「一面清國人の側より見れば、斯る運動に出つるも、決して
理由なきにあらさる可し。但た之を達し得るの實力を養はすして、實力を
有せすして、直ちに其の目的を達せんとするは、大早計にあらさるなき
乎」と疑問を呈した。そう急いでは、できることもできないではないか。
急いては事を仕損じるというもの。それも「實力を有せすして」では、で
ある。

次いで軽挙妄動気味の社会の指導者を「清國の高襟先生達」と皮肉りな
がら、「予は清國の高襟先生達か、餘りに天下の事を、輕易に考へ居るこ
とを遺憾とするものに候。彼等は世の中の事は、理屈の一天張りにて、立
て通すと申す事を知りて、之を達するには、其の順序、方法、實力、熟練
を要することに氣附かさるか如し」と批判し、「過日面會の折に、サー、
ロバート、ハート氏は、如何に支那か急遽に恢復せんとするも、當分は、
其の境遇、現状を維持するの外、致し方なかる可しと申し居り候」と。当
面は現状維持が最善策か。

ここに登場した「サー、ロバート、ハート氏」は1835年にアイルランドで
生まれた初代准男爵。1854年に渡った香港で中国語を学び、広州で連合軍
軍政庁書記官(1858年)、広東海関副税務司(1859年)を経て1863年に総
税務司に就任し、清国関税業務を司った。1900年の義和団の乱に際しては
外交交渉に動いている。1908年に清朝皇帝から賜暇を許され帰国し、総政
務司在職のまま1911年に死去。前後40年ほどに亘って関税業務の元締めと
して、危機的状況を続けるばかりの清国財政に多大な影響を与えた。ここ
にも支那通がいた。やはり支那通は日本だけの専売特許ではないことを牢
記しておきたい。

どうやら「ドクトル、モリソン氏」と「サー、ロバート、ハート氏」の両
人の見解は、「順序、方法、實力、熟練」を欠いたままの「排外熱」は清
国にとっては百害あって一利なし。当分は現状維持の外に良策なし――この
考えで共通していたようだ。

この考えに同意する徳富は、さらに一歩を進めて「此の利權恢復運動か、
何處迄に底止す可き乎。此れか若し下流社會の排外運動を、合體する場合
には如何なる情態を來たす可き乎。果してさる心配は、杞憂なる乎。吾人
は杞憂たらんことを祈る者に候」と、運動の将来に思いを馳せた。

「此の利權恢復運動」が「清國の高襟先生達」の自己満足、あるいは高踏
なる政治遊戯に終始しているうちはまだしも、これが「下流社會の排外運
動と、合體する場合には如何なる情態を來たす可」とは、確かに卓見、い
や不気味なる予言だ。時の流れを辿ってみれば、たしかに「此の利權恢復
運動」は徐々ながら「下流社會の排外運動と、合體」し、やがては辛亥革
命、孫文による国民党結党、北伐、共産党結党、国共合作等を経て毛沢東
による1949年の共産党政権成立に繋がったように思える。

徳富が毛沢東のような指導者の出現まで見通していたとは思えないが、
「其の順序、方法、實力、熟練」を欠いた「清國の高襟先生達」の運動で
はなく、逸早く「下流社會の排外運動」に着目した徳富の眼力には、やは
り注目しておきたい。

徳富は、北京の姿が良くも悪くも清国の現状を象徴していると見做す。
「要するに清國は、目下、過渡の期にあり。其の靜的情態にあらすして、
動的情態にあることは、斷々乎として、疑ふべからす」。全土を挙げて
「國民的統一をなし、國民的精神の發揮と與に、文明諸國共通の生活思想
に加入し。茲に一大強國となるを得可き乎、否乎」と問い、「そは多くの
疑問中にて、最も大なる疑問ならむ。之を解釋するの責任は、固より清國
人士の上に在る也」と結んでいる。

社会の動きを追った徳富の考察の目は、転じて「荒廢せる古蹟」に向った。
《QED》
    

◆加齢疾病連発に悩まされた夏

石岡 荘十



今日書こう、明日こそはと思いながら、胸や背中を孫の手で掻くのに忙し
くて今日に至ってしまった。何の話か。すでに畏友毛馬一三氏が本誌で報
告しているように帯状疱疹“事件”の経緯についてである。

夏は、典型的な加齢疾病といわれる病につぎつぎと襲われ、悪戦苦闘した
3ヶ月だった。この間、私を襲ったのは帯状疱疹。発症から3ヶ月、やっと
終息にこぎつけたと思ったら今度は、加齢黄班変性といわれる眼球の疾病
である。これについては今なお加療の真っ只中であり、別稿で報告したい。

帯状疱疹の兆しが現れたのは6月の末のことだった。「夏バテ」というの
は夏だけの症状だと思われがちだが、気候の変化が激しい梅雨時や初夏に
も起こりやすい。

気温の乱高下に老体がついていけず、何もする気がしない。全身がともか
くけだるい。にもかかわらず梅雨明けの7月、以前からの約束もあって、
猛暑の中、秩父盆地のど真ん中にあるゴルフ場に出陣。疲労困憊、這うよ
うにして帰宅した。完全に体力を消耗していた。これが祟った。

思い返すと、その数日前すでに左胸の皮膚に違和感があり肋骨のあたりに
ピリピリ感があった。間もなく胸から左肩甲骨下にかけて赤い斑点がぽつ
ぽつ。ゴルフの後から左側の神経に沿って激痛が走るようになった。

にもかかわらず、まだ帯状疱疹とは気がつかず、市販のかゆみ止め軟膏
(レスタミン)を塗ったり、サロンパスの湿布を患部に張ったりして凌ご
うと試みていた。無知は恐ろしい。

そうこうしているうちに、赤い斑点は水ぶくれとなり、夜はベッドの上で
転々。背中を孫の手で掻きまくったものだから水ぶくれが破れ、かさぶた
へと変わったがかゆみと痛みは治まらなかった。

遂にたまらず、行きつけの病院の皮膚科に駆け込んだのはゴルフから3週
間を過ぎていた。

「帯状疱疹です。ずいぶん我慢強い方ですねぇ。もうかさぶたになり始め
ていますから、ペインクリニックに行きなさい」という。

帯状疱疹は、幼児に経験した水ぼうそうのウイルスが原因だ。ウイルスは
長い間体内の神経節に潜んでいて、加齢(50歳代〜70歳代)やストレス、
過労などが引き金となってウイルスに対する免疫力が低下すると、潜んで
いたウイルスが再び活動を始める。ウイルスは神経を伝わって皮膚に達
し、帯状疱疹として発症するとされている。

東京女子医大の統計によると、発疹する部位は、一番多いのが私のケー
ス。上肢〜胸背部(31.2%)、次いで腹背部(19.6%)、そして怖いのは
頭部〜顔面(17.6%)などとなっており、高校の友人が右顔面に発症。何
年か前のことだが、今でも顔面の筋肉がこわばっている。

最悪、失明をしたケースも報告されている。頚部〜上肢にも発症する。い
ずれの場合も体の左右どちらか一方に現れるのが特徴だ。

発症してすぐ気づき、すぐ適切な治療を受けた場合でも3週間は皮膚の痛
みや痒みが続く。痛みがやや治まってからも神経の痛みは容易に治まらな
い。数年間、痛みが消えなかったと言う症例もある厄介な加齢疾病である。

まして、私のケースは、初期治療のタイミングを逸した。その祟りで、い
まだにときどき、肋間や背中にピリピリと痛みが走る。

さて治療法である。皮膚科では坑ヘルペスウイルス薬を処方する。ウイル
スの増殖を抑える飲み薬で初期の痛みや痒みを抑える効果があるが、私は
そのチャンスを逃し、我慢強く無為に苦しんだ。

ペインクリニックでは、飲み薬と塗り薬を処方される。

【飲み薬】、

・鎮痛剤リリカプセル:今年4月、保健が適用されることとなった帯状疱
疹の最新特効薬だ。

・セレコックス:リリカカプセルが効かない場合に飲む頓服錠剤。炎症に
よる腫れや痛みを和らげる。
・メチコバール:末梢神経のしびれ、麻痺、痛みを改善する。

【塗り薬】、

・強力レスタミンコーチゾンコーワ(軟膏)

ペインクリニックでの治療5週間。月初旬にくすりの処方が終わった。発
症から3ヶ月の闘病であった。この間体力をつけようと金に糸目をつけず
美食に走った結果、太ってしまった。

毛馬一三氏が先日レポートしたとおりで、初動がこの病気治療の決め手で
ある。他山の石とされたい。