2017年06月25日

◆民進党こそが政局に動き良識を捨てた 

櫻井よしこ



「テロ等準備罪の成立へ強硬に反対した民進党こそが政局に動き良識を捨
てた」

この原稿を執筆中の6月15日未明、国会ではまだ、与野党が「テロ等準備
罪」を巡って攻防を続けている。14日夜、参議院では自民党議員らが本会
議場に入ろうとするのを、福島みずほ氏ら野党議員が廊下に立ち塞がる形
で妨げようとしていた。複数の民進党議員らが、テレビカメラを意識して
か、強硬な反対の意思を厳しい表情に表していた。

民進党の未来を担うこれら若手政治家の、テロ等準備罪に反対して仁王立
ちになっている姿を見るのは本当に残念だ。本欄でも取り上げたことがあ
るが、11年前、民主党(現民進党)は、現在の法案の素となった「共謀
罪」に次に示すような厳しい注文をつけた。

(1)対象となる犯罪を政府案の619から306に絞りこむこと、(2)取り
締まる対象を単なる「団体」から「組織的犯罪集団」に改めること、
(3)犯罪実行のための「予備行為」を処罰の要件とすること、の3点で
ある。

私は当時、右の民主党修正案を評価し、自民党に丸ごと受け入れるよう求
めた。今日15日に成立する「テロ等準備罪」は民主党修正案をほぼそのま
ま受け入れている。にもかかわらず、彼らはいまも、戦前の治安維持法を
引き合いに出し、「普通の人々が監視され、次々と引っ張られた。同じ事
を繰り返してはならない」などと極論で世論を煽る。或いは与党の手法が
強引だと論難する。

私たちはここで、約2年前の「平和安全法制」を巡る議論を思い返すべき
だ。民主党ら野党は国会の外に飛び出し、デモ隊と一緒に「戦争法案だ」
「人殺しの法案だ」と叫んだ。

法案は成立して法となった。いま、北朝鮮有事が起きたと仮定すれば、自
衛隊は同法に基づいて横田めぐみさんら拉致されている人々の救出に向か
う。だが、断言してもよい。実際には自衛隊は何もできないだろう。

なぜか。まず、自衛隊が救出に向かうには、当該国政府の同意が必要とい
う条件がつけられている。北朝鮮は何十年も拉致被害者を拘束してきたに
もかかわらず、拉致被害者はもういない、或いは死亡してしまったと主張
している。自衛隊が拉致被害者救出のために北朝鮮に入ることを彼らが了
承することなどあり得ないだろう。従ってこの条件は決して満たされず、
自衛隊は動けない。

条件の第2点は、「当該国」つまり北朝鮮の治安が維持されていて自衛隊
が戦闘に巻き込まれないことが保証されなければならないという点だ。

自衛隊出動の可能性があるのは北朝鮮の現体制が大きく揺らぐときだ。韓
国軍、或いは米軍も中国軍もすでに展開中かもしれず、戦争状態だろう。
だからこそ、日本人救出には自衛隊が行かなければならない。にもかかわ
らず、北朝鮮の治安が維持されていない限り、自衛隊の展開は許されない
というのであれば、自衛隊は動けない。

第3の条件はもっと噴飯ものだ。自衛隊の展開には当該国(北朝鮮)の国
軍や警察との連携が必要だというのだ。

参議院議員の青山繁晴氏が語った。

「自衛隊の出動は韓米軍が北朝鮮と戦争状態になっているなど、尋常では
ない状況下ですよ。米軍と戦っている北朝鮮の軍や警察と、日本の自衛隊
がどうやって連携できるのか。こんな非現実な酷い条件がつけられている
のが安保法制です」

ここまで自衛隊を縛る条件付きでも民進党は「人殺し法案」だと反対し
た。拉致被害者とその家族に思いを致さないのか。

午前六時、まもなくテロ等準備罪の成立だと、テレビのニュースが伝えて
いる。「参議院は良識の府としての良識を捨てた」と蓮舫氏が批判してい
た。加計学園問題を材料に、それとは本質的に無関係の重要法案阻止で政
局に動いた民進党こそ、良識を捨てたのではないのか。

『週刊ダイヤモンド』 2017年6月24日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1187


◆君が世完成記念日

渡部 亮次郎



国歌「君が代」は1999(平成11)年に国旗及び国歌に関する法律で公認さ
れる以前の明治時代から国歌として扱われてきた。

この曲は、平安時代に詠まれた和歌を基にした歌詞に、明治時代になって
イギリス歩兵隊の軍楽長ジョン・ウィリアム・フェントンが薩摩琵琶歌
「蓬莱山」から採って作曲を試みたが海軍に不評。

海軍から「天皇を祝うに相応しい楽曲を」と委嘱された宮内省が雅楽課の
林廣守の旋律を採用(曲はイギリスの古い賛美歌から採られた)。

これにドイツ人音楽教師エッケルトが和声をつけて編曲。1880(明治13)
年10月25日に海軍軍楽稽古場で試演された。だから10月25日が「君が代」
完成記念日とされている。

明治2(1869)年に当時薩摩藩兵の将校だった大山巌(後の日本陸軍元帥)
により、国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと言うフェトンの進言をいれ
て、大山の愛唱歌の歌詞の中から採用された。

当時日本の近代化のほとんどは当時世界一の大帝国だったイギリスを模範
に行っていたため、歌詞もイギリスの国歌を手本に選んだとも言われている。

九州王朝の春の祭礼の歌説というものがあり、説得力はある。九州王朝説
を唱えるのは古田武彦氏で、次のように断定している。

<「君が代」の元歌は、「わが君は千代に八千代にさざれ石の、いわおと
なりてこけのむすまで・・・」と詠われる福岡県の志賀島の志賀海神社の
春の祭礼の歌である。

「君が代」の真の誕生地は、糸島・博多湾岸であり、ここで『わがきみ』
と呼ばれているのは、天皇家ではなく、筑紫の君(九州王朝の君主)である。

この事実を知っていたからこそ、紀貫之は敢えてこれを 隠し、「題知ら
ず」「読人知らず」の形での掲載した>

文部省(現在の文部科学省)が編集した『小学唱歌集初編』(明治
21(1881)年発行)に掲載されている歌詞は、現在のものよりも長く、幻
と言われる2番が存在する。

「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで うごきな
く常盤かきはにかぎりもあらじ」

「君が代は千尋の底のさざれ石の鵜のゐる磯とあらはるゝまで かぎりな
き御世の栄をほぎたてまつる」

後半の「さざれ石の巌となりて」は、砂や石が固まって岩が生じるという
考え方と、それを裏付けるかのような細石の存在が知られるようになった
『古今和歌集』編纂当時の知識を反映している。

明治36(1903)年にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、『君が
代』は1等を受賞した。

後は専ら国歌として知られるようになった『君が代』だが、それまでの賀
歌としての位置付けや、天皇が「國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」していた
(明治憲法による)という時代背景から、戦前にはごく自然な国家平安の
歌として親しまれていた。

敗戦で事情は全く変わった。日本国衰退を目指すアメリカ占領軍は。それ
まで聖職者とされてきた教職員に労働者に成り下がって権力に抵抗させる
べく日教組を結成させた。

占領した沖縄では国旗の掲揚と君が代の斉唱を禁止したことでも明確なよ
うに、マッカーサーの本心は日の丸掲揚と君が代斉唱に反対であった。日
本国民が一致団結、再度、アメリカに挑戦することを恐れたのである。

それを組合の統一闘争精神に掲げたのが日教組なのである。いつの間にか
天皇を尊敬する事とか君が代を歌うことが戦争に繋がると論理を摩り替え
て、正論を吐く校長を自殺に追い込んだといわれても反論できないような
状況を招いたのである。

君が代支持の世論を背景に平成8年(1996年)頃から、教育現場で、当時
の文部省の指導により、日章旗(日の丸)の掲揚と同時に『君が代』の斉
唱の通達が強化される。

日本教職員組合(日教組)などの反対派は憲法が保障する思想・良心の自
由に反するとして、旗の掲揚並びに「君が代」斉唱は行わないと主張し
た。先生の癖に論理のすり替えの得意な人が日教組に所属する?

平成11年(1999年)には広島県立世羅高等学校で卒業式当日に校長が自殺
し、君が代斉唱や日章旗掲揚の文部省通達とそれに反対する教職員との板
挟みになっていたことが原因ではないかと言われた。

これを一つのきっかけとして日教組の意図とは反対に『国旗及び国歌に関
する法律』が成立した。法律は国旗国歌の強制にはならないと政府はした
ものの、反対派は法を根拠とした強制が教育現場でされていると主張、斉
唱・掲揚を推進する保守派との対立は続いている。

平成16年(2004年)秋の園遊会に招待された東京都教育委員・米長邦雄
(将棋士)が、(天皇)に声をかけられて「日本の学校において国旗を揚
げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と発言し「やはり、
強制になるということでないことが望ましいですね」と言われている。

なお、天皇が公式の場で君が代を歌ったことは1度もないと言われてい
る。成人前の家庭教師ヴァイニング夫人による何がしかを勘繰る向きがな
いわけではない。08・10.25

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

◆「痰の話」で思い出す支那

石岡 荘十(ジャーナリスト)



‘35京都で生まれ、そのすぐ後から敗戦2年後まで中国(当時は支那)に
留め置かれた。幼い頃の記憶はもちろんないが、物心ついて以降、見聞
きしたかの国の“文化”といまの日本のギャップを、本メルマガの反響
欄が思い起こさせた。 

幼い頃の記憶はこうだ。

その1。

夏の日、父の仕事が休みのある日、「支那人と犬入るべからず」という
立て札が入り口にある公園に家族そろって出かけ、公園の中の、支那人
以外のためのプールで家族で泳ぐ。ある日、帰りに天津市内でも最高級
の中華料理店でそろって子豚の丸焼きを食った。

糞をしたくなって、用を足そうと便所へ行くと便器のはるか暗い、深い
底にうごめく動物がいて、驚いて下を見ると、数匹の豚が新鮮な私の排
泄物をむさぼっていた。今思えばここでは完璧な“食の循環”が実現し
ている。

だが、これで私は完全に食欲を失った。これがトラウマになって、決し
て宗教上の理由ではなく、長い間、私はブタが食えなかった。

その2。

小学校の同級生に、当時の天津領事の息子(小山田あきら?)がいて、
放課後、いつも領事館へ遊びにいっていた。ほとんどは広大な領事公邸
の中で遊んでいたが、ある日、門の外に来る物売りの声に誘われて外に
出た。

天秤にかけた台に切り分けた瓜が載っていた。それが喰いたくて「どれ
がうまい?」と私たちに付き添ってきた領事館の守衛に聞いた。守衛は
「ツエーガ(これだよ)」と指差したのは、ハエが一番多く群がってい
る瓜だった。

“動物学的”に言ってそれはそうだろうと納得したのはずっと後のこと
だが、ハエがたかっているのは汚いという考え方は彼らにはないらしい。

いつだったか大分昔、多分、日中国交回復の頃、「中国にいまや1匹の
ハエもいなくなった」という提灯記事をどこかの新聞で読んだ記憶があ
るが、決して信じなかった。私の幼い頃の確かな記憶が記事のウソを見
破った。

その3。

父が勤めていた会社の管理職住宅は鉄筋コンクリートの一戸建ての“豪
邸”で、玄関を入ったところに、日本流で言うと、女中部屋があった。
女は阿媽(アマ)と私たちが呼んでいた纏足の小柄な女だったが、時々、
旦那が小さな女の子を連れて泊まりに来ていた。

女中部屋は6畳ほどの小さな部屋だったが、遊びに行くと、部屋の隅に
花瓶のような形の壷が置いてあって、そこに時々、「ペッ」と痰を吐く、
というか飛ばす。

それがまた結構遠くから正確に痰壷のど真ん中に命中するのを、何の不
思議もなく見ていたのを思い出した。ホールインワンどころではない。
アルバトロス級である。北京オリンピックで「痰飛投」などという種目
が出来たら間違いなく金だろう。

人前での屁は慎むが、食事中、げっぷは割と平気でやる。屁は平気だけ
ど、げっぷは禁忌という国もあると聞く。生活習慣がそんなに違う民が
十数億人もすぐそこにいる。

痰。さてどうするか。

話題はそれますが、昭和18・9年当時、幼馴染の父、小山田天津領事
とその家族の消息を知りたいと思っています。その頃、いつもアイスキ
ャンディーを作ってくれた、髪の長い、美しいお姉さまがいました。確
か、「たえ」さんでした。

2017年06月24日

◆鰻なんて食い物はな・・・

加瀬 英明



柴又の寅さん、男はつらいよ  鰻なんて食い物はな・・・

4月なかばに春寒(はるざむ)も終わって、新緑が眩しくなると、旬の葉菜
を味わうのが楽しい。

中島兄哥(あにい)と姐さんを、赤坂の小料理屋のTに誘って、一献傾けた。

兄貴に会うたびに、千軍万馬(せんぐんばんば)――あまたの戦場に臨む――の
半生を送ってこられただけに、学ぶことが多い。知恵は経験から涌くこと
を、教えられる。

兄貴と姐さんはいつも睦み合って、理想の夫婦(めおと)、いや婦夫(めお
と)だ。

古文では、夫婦(めおと)は女男(めおと)、妻夫(めおと)と書かれたもの
だった。今でも和船に使われる、両端が尖って打ち合わせる釘は、女男
(めおと)釘(くぎ)と書かれる。

夫が妻に向って、妻が良人(おっと)に向って心の礼を重んじる。男女のあ
いだでは、形の礼よりも、心の礼が大切である。

兄貴と姐さんは、日の本のよき妻夫(めおと)だ。伊(い)奘(ざな)諾(ぎ)と
伊邪冉(いざなみ)の風(なぎ)と波(なみ)の男女の二神が、戯れあっている
うちに、恋におちて、麗しい日本が生まれた神話を、目の当たりにするよ
うだ。

それにしても、某省政務官のように、道義をまったく心得ない政治屋がい
るが、不徳の輩が絶えないのは、残念なことだ。

明治の新聞小説の第一人者だった村井弦斎が、「結婚した後は酒道楽や女
道楽勝手次第、自分の妻や子に対して一片の温情がない人も沢山いる。自
分の一家を斉(ととの)える事も出来ない人が、一国の政治を論議するなん
ぞ大(おおき)な顔をしているし、自分の家庭を神聖にする事も出来ない
で、青年を教育すると威張る先生もある」と、慨嘆している。

私は母方の祖母と母親から「男は台所に入ってはならない」「何でも感謝
して食べて、美味しい不味いといってはならない」と厳しく躾けられたの
で、美食を蔑むように育った。

祖母は会津の武家の血を、ひいていた。それに戦時中、占領下で、食糧事
情が悪かった時代の子供だったので、食事といえば腹を充たせばよく、舌
で味わうよりも、口で味わうのが、いまだに癖となっている。

柴又の寅次郎『男はつらいよ』シリーズのなかで、おいちゃんが宇野重吉
が扮する男に、「鰻(うなぎ)なんて食い物はな、額に汗して働く人間に
は、1年に2度かそこらか、何かよほど芽出度(めでた)いことがあった時
に、今日は蒲焼でも食べようかって、大騒ぎして食うもんだ」と、意見す
る場があったのに、大いに共感したものだった。

幕末生れの祖母と、明治生れの父親の影響なのだろうか。

それでも、仕事で料亭で御馳走になるうちに、和食を好むようになった。
Tには40年も馴染みの客となっているが、酒道楽はしたことがあっても、
女道楽をしたことがないから、赤坂の艶(えん)として鳴らした名妓だった
女将に、岡惚れしたからではない。

私たち日本の精神文化の最大の特徴を、ひとことでいうと、清浄感だ。

和食は淡白で、できるかぎり自然をそのまま取り入れている。素材の味を
損なわずに、山や森や、川や海の霊気が宿っており、季節と自然の恵みを
楽しむ。

和食では何よりも季節を大切にするが、Tでも座敷に季節ごとに合う掛け
軸がかけられている。

欧米で高級レストランに招かれると、壁にいつも同じ高価な油絵が掛けら
れていて、季節によって替えないから、興がそがれる。

中華や、フランス料理はさまざまな素材を用いて、もとの素材にない味を
つくりだす。化学の実験のようだから、なじまない。

日本人の美意識は、雅(みやび)にある。派手なものや、金銀のように光る
ものを嫌ってきた。雅(みやび)の語源は、平安朝の「宮び」からきている
が、そこはかとない、ほのかな美しさや、香りを尊んだ。

『源氏物語』は雅(みやび)の文学だが、「風涼しくてそこはかとない虫の
声が聞こえ」(帚木)というように、抑えられた美である。和食も、そこ
はかとない隠し味を、楽しむ。

自然は自分をそのまま、見せる。誇張することがない。

兄貴の姐さんが匂(にほ)やかに微笑むたびに、座が和(なご)む。兄貴夫婦
は明るさを春の空と、分かち合っているようで、気風(きっぷ)がよい。

始終愚痴をぶつけ合っている夫婦が多いのに、お2人は毎日、天上で生活
しているような、心持ちでおられるのだろう。

Tの女将も、姐さんも、深水の絵から抜け出たように美しい。床の間に美
女の精が宿ったような、一茎の花が飾られていたが、3輪の花が競ってい
た。小生にとって、まさに一生一夢だった。

式部が『源氏物語』の「雨夜のさだめ」のなかで、美女が少ないことを嘆
いているが、もしこの場にいたら、筆運びが変わったはずだ。

それにしても、今の日本では、女らしくない女ほど悦ばれる世相なのか、
娘となっては淑女、嫁いだら良妻がいなくなった。惣菜1つ作ることがで
きず、衣服も縫えないのに、心掛けだけが生意気なのだから、煮ても焼い
ても、食えない。どこを見ても、偽造の女ばかりだ。

女は料理に長けていなければ、程(ほど)と加減を知らないから、夫婦関係
も、男女関係もすぐに破綻する。

そこへゆくと、愚妻は式部に「雨夜のさだめ」を書き直す労をとらせるこ
とがないが、夫の餌づけ――料理となると、得意だ。

兄貴が別れぎわに、京都のとれたての見事な筍を、贈ってくれた。

わが家に戻ってから、待っていた愚妻としばし見惚れた。一瞬、兄貴と姐
さんのように、夫婦は竹藪のように根がしっかりと繁っていることを教え
るために、筍を選んでくれたのだろうかと、思った。

藪医者にもなっていない、未熟な駆け出しの医者を筍医者という。まさ
か、私が筍評論家だというお叱りでは、なかっただろう。

(中島繁治氏は日大OB誌『熟年ニュース』主宰者)



◆お邪魔虫共産党

渡部 亮次郎



中国では幹部でも汚職がばれれば死刑になる。それでも幹部の汚職が引き
もきらない。いくら共産主義に共鳴しても、私欲とは人間の本能に等しい
ものだからである。

こうした目で中国を見ていれば、共産党が政権を掌握している限り人権尊
重や政治の民主化なぞは絶対実現しないと思うのが普通だが、経済の改革
開放が進むのに比例して民主化が進むはずだと考える人々がいる。特にア
メリカの人たちに多い。

中国が何故、共産革命に成功したか。それは国家権力を手中にしようとし
た毛沢東の策謀が成功したからである。国家の形態は何でも良かったが、
とりあえず貧民が国民の大多数だったので、「金持ちの財産を分捕り、皆
で平等に分配しよう」と言う呼びかけに合致したのが共産主義だった。

共産主義政府の樹立が毛沢東の望みではなかった。真意は権力の奪取だっ
た。日中戦争の終結で、日本軍の放棄して行った近代兵器を手中にして蒋
介石と国内戦争を続けた結果、蒋介石は台湾に逃亡した。毛沢東は昭和
24(1949)年10月1日、中華人民共和国建国を宣言した。

人民も共和も中国語には無い。日本語だ。畏友加瀬英明氏の説明だと、中
国語には人民とか共和と言う概念が無いのだそうだ。北朝鮮はそれに民主
主義が加わって嘘が深化している。

権力は掌握したが、人民への約束を果たす手段が無い。とりあえず人民公
社と大躍進政策が当時のソ連をモデルに実施されたが、農民は生産意欲の
低下とサボタージュで抵抗。

結果として食糧不足に陥って各地で飢饉が発生。餓死者は1500万人から
4000万人と推定されている(「岩波現代中国事典」P696)。

毛沢東の死(1976年)後2年、失脚から3度目の復活を遂げていたトウ小平が
経済の開放改革を断行。開放とは日本など外国資本の流入を認め、改革と
は資本主義制度への転換を意味した。

4つの近代化を掲げたのだ。工業、農業、国防、科学技術の近代化であ
る。今のところ実現に近付いているのは軍事の近代化である。

トウ小平は政治の近代化だけは断乎として拒否した。肥大化した経済が政
治(共産政府)を圧倒する危険を回避したのである。だから第2天安門事件
には反革命の匂いを嗅ぎ、断乎、弾圧した。

しかし発展する資本主義にとって共産党政府による様々な統制は邪魔以外
の何物でも無い。工場用地の確保一つとってみても、土地すべての国有は
障害でしかないが、自由にならない以上、共産党幹部を「買収」する以外
に方法が無い。

したがって多発する共産党幹部による汚職事件はいわば構造的なことで
あって、客観的にみれば「事件」ではなく「日常茶飯事」に過ぎない。

しかも冒頭に述べたように「私欲」は本能のようなものだ。所有を否定す
るのが共産主義の思想でも「本能」には勝てっこない。つまり共産主義体
制化で経済だけを改革開放すれば汚職簸自動的に起きるし、共産党幹部に
すれば、現状を変更するメリットは全く無いわけだ。

汚職は時たましか発覚しない。摘発で死刑になるのは不運な奴で政府の知
るところではないのだ。かくて中華人民共和国政府は汚職にデンと腰を下
ろした政権。民主化を抑え、人権無視の批判など絶対耳に留めない。耳が
左右に付いているのは右から聞いたら左から逃す為にあるのだ。2010・12・5


  

◆健康百話 乳がんの治療

小川 佳成(医師)



乳癌の治療法は、病状や進行度、あなたの全身状態を考慮して決まります。治療には主として、手術、放射線治療、抗癌剤(抗ホルモン剤を含む)治療があります。

病状の進んでいる方には抗癌剤治療が優先されますが、通常は手術を行い、その後再発予防のための抗癌剤治療を行います。

【手術】
手術には主として、1.乳房切除、2.乳房温存手術があります。腫瘍の大きさや広がり具合などにより術式を選びます。当大阪市立総合医療センターでは、半数以上の方が乳房温存療法を受けられています。
 
乳癌の手術では転移の有無に関わらず、癌の根治・予防のためにわきの下のリンパ節を全部取り除くこと(リンパ節郭清といいます)が標準的に行われてきましたが、リンパ節郭清をすると術後に腕がむくみやすい等の症状が残ります。

そこでわきの下のリンパ節転移がないと予測される方を対象に術後の症状を軽減するために、センチネルリンパ節生検という方法を用いた、腋窩(わきの下)リンパ節郭清を省略する術式が行われるようになりつつあります。当センターでは6割の方がこの術式を受けられています。

【放射線治療】
乳房温存手術を行った場合には、残った乳腺での再発を抑えるために乳房に対する放射線治療を術後に行っています。治療期間は5〜6週間でこの治療により乳腺内での再発は2〜3%以下に抑えることができると考えられています。

【抗癌剤治療】
切除した癌の性格を詳しく調べて、術後の抗癌剤治療の必要性とその内容を決めます。これらの治療で再発の3〜4割を抑えることができるとされます。抗癌剤治療は充分な副作用対策をして外来にて行っています。

【乳房再建】
乳房切除後の乳房再建は形成外科にて行っています。当センターでは、術後1〜2年を過ぎ、治療が一段落してからの再建をお勧めしています。

乳癌の治療は5〜10年ごとに大きく進歩しています。当センターでは、“あなたがより良く生活していくために治療があるのだ”という想いのもとに、各分野の専門医が協力し合い乳癌の治療に当たっています。  
<大阪市立総合医療センター 外科>
               

2017年06月23日

◆朝日新聞のスクープ記事もなぜか不自然

阿比留 瑠比



記事は、加計学園の獣医学部新設計画について、文部科学省が「内閣府か
ら『官邸の最高レベルが言っている』『総理のご意向だと聞いている』な
どと言われたとする記録を文書にしていたことがわかった」というスクー
プだった。

それはいいが、記事に添えられた「大臣ご確認事項に対する内閣府の回
答」と題された文章の写真が不可解である。写真はなぜか下側が暗く文字
がよく読めないが、文科省が15日に発表した同様の文書をみると、その
部分にはこうある。

「『国家戦略特区諮問会議決定』という形にすれば、総理が議長なの
で、総理からの指示に見えるのではないか」

つまり、安倍首相の指示だと取り繕ってはどうかという話であり、逆に
首相の指示などないことを示している。

ところが、そこが朝日の写真では不自然に隠された形となっている。こ
れでは「印象操作」と言われても仕方があるまい。

真実は不確実

「安倍政権に批判的な記者の一人」であり、安倍政権が掲げる政治目標
に「ほとんど賛同できない」という立場の元朝日記者でジャーナリストの
烏賀陽弘道氏は、新著『フェイクニュースの見分け方』でさまざまな情報
を検証している。

その上で、(1)日本会議=安倍政権の黒幕説を首肯できる事実は見い
だせない(2)(安倍政権の言論統制を非難する記事や出版物の)「報道
に介入した」「圧力を加えた」「統制した」と主張する根拠がわからない
(3)(高市早苗総務相の放送法関連答弁について)民主党時代と同じ発
言を根拠にした「安倍政権は報道の自由を恫喝している」という非難は不
思議−などと結論付けており、うなずける。

記事は、加計学園の獣医学部新設計画について、文部科学省が「内閣府か
ら『官邸の最高レベルが言っている』『総理のご意向だと聞いている』な
どと言われたとする記録を文書にしていたことがわかった」というスクー
プだった。

それはいいが、記事に添えられた「大臣ご確認事項に対する内閣府の回
答」と題された文章の写真が不可解である。写真はなぜか下側が暗く文字
がよく読めないが、文科省が15日に発表した同様の文書をみると、その
部分にはこうある。

「『国家戦略特区諮問会議決定』という形にすれば、総理が議長なの
で、総理からの指示に見えるのではないか」

つまり、安倍首相の指示だと取り繕ってはどうかという話であり、逆に
首相の指示などないことを示している。

ところが、そこが朝日の写真では不自然に隠された形となっている。こ
れでは「印象操作」と言われても仕方があるまい。

真実は不確実

「安倍政権に批判的な記者の一人」であり、安倍政権が掲げる政治目標
に「ほとんど賛同できない」という立場の元朝日記者でジャーナリストの
烏賀陽弘道氏は、新著『フェイクニュースの見分け方』でさまざまな情報
を検証している。

その上で、(1)日本会議=安倍政権の黒幕説を首肯できる事実は見い
だせない(2)(安倍政権の言論統制を非難する記事や出版物の)「報道
に介入した」「圧力を加えた」「統制した」と主張する根拠がわからない
(3)(高市早苗総務相の放送法関連答弁について)民主党時代と同じ発
言を根拠にした「安倍政権は報道の自由を恫喝している」という非難は不
思議−などと結論付けており、うなずける。

米国の著名なジャーナリスト、リップマンは1922年刊行の著書『世
論』で、ジャーナリストの仕事についてこう訴えている。

 「人びとの意見形成のもととなるいわゆる真実といわれるものが不確実
な性格のものであることを人びとに納得させること」

フェイクニュースが蔓延しているならば、なおさらだろう。
(論説委員兼政治部編集委員)
23日産経ニュース



◆米国防総省の報告に見る中国の脅威

櫻井よしこ



米国防総省が6月6日、「中国の軍事情勢」に関する年次報告書を発表し
た。海洋、宇宙、核、サイバー空間の4分野を軍事戦略の要として、中国
が世界最強の国を目指して歩み続ける姿を描き、警告を発している。
 
報告書は、中国の目標が米国優位の現状を打ち砕くことだと分析し、その
ために中国は、サイバー攻撃によって、軍事技術をはじめ自国で必要とす
る広範な技術の窃取を行い、知的財産盗取を目的とする外国企業への投資
や、中国人による民間企業での技術の盗み取りなどを続けていると、驚く
ほど率直に告発している。
 
この件に関して興味深い統計がある。中国政府は長年、経済発展を支える
イノベーション重視政策を掲げてきた。2001年から複数回の5か年計画を
策定し、研究開発費をGDP比で20年までに2・5%に引き上げようとして
きた。だが、目標は一度も達成されていない。理由は、彼らが必要な知的
財産を常に他国から盗み取ることで目的を達成してきたために、自ら研究
開発する風土がないからだとされている。
 
ただ、どのような手段で技術を入手したかは別にして、中国が尋常ならざ
る戦力を構築しているのは明らかだ。中国は世界で初めて宇宙軍を創設し
た国だ。米国家情報長官のダニエル・コーツ氏は今年5月、「世界の脅威
評価」で、ロシアと中国はアメリカの衛星を標的とする兵器システム構築
を宇宙戦争時代の重要戦略とするだろうと報告している。
 
15年末に、中国は「戦略支援部隊」を創設したが、それはサイバー空間と
宇宙とにおける中国の軍事的優位を勝ち取るための部隊だと分析されている。
 
国防総省の報告書は、中国を宇宙全体の支配者へと押し上げかねない量
子衛星の打ち上げに関しても言及しているのだ。

大中華帝国の創造

昨年、中国は宇宙ロケットを22回打ち上げ、21回成功した。そのひとつ
が世界初の量子科学実験衛星の打ち上げだった。量子通信は盗聴や暗号の
解読がほぼ困難な極めて高い安全性が保証される通信である。「仮に通信
傍受を試みたり、通信内容を書き換えようとすると、通信内容自体が崩
壊≠キる。理論的にハッキングはまず不可能」(産経ニュース16年9月3
日)だと解説されている。
 
量子衛星打ち上げの成功で、地球を包み込んでいる広大な宇宙を舞台にし
た交信では、どの国も中国の通信を傍受できないのである。
 
中国は07年に地上発射のミサイルで高度860`の自国の古い気象衛星を破
壊してみせた。攻撃能力を世界に知らしめたのだ。衛星破壊をはじめとす
る中国の攻撃の狙いは、「敵の目と耳を利かなくする」こと。違法なハッ
キングで世界中の技術を盗んできた中国が、選りに選って絶対にハッキン
グされない技術を持てば、世界を支配する危険性さえ現実化する。
 
中国は現在独自の宇宙ステーションを構築中だが、来年には主要なモ
ジュールの打ち上げが続く見込みだ。東京五輪の2年後には、中国だけの
宇宙ステーションが完成すると見られる。さらに、中国は月に基地をつく
る計画で、月基地の完成は27年頃と発表されている。習近平氏の「中国の
夢」は、21世紀の中華思想の確立であり、宇宙にまで版図を広げる大中華
帝国の創造ではないのか。
 
中国の遠大な野望の第一歩は、台湾の併合である。その台湾に、国防総省
報告は多くの頁を割いた。「台湾有事のための戦力近代化」(Force
Modernization for a Taiwan Contingency)という章題自体が、十分注目
に値する強いタイトルだ。付録として中国と台湾の戦力比較が3頁も続い
ている。
 
台湾と中国の軍事力は比較にならない。中国の優位は明らかであり、将来
も楽観できない。たとえば現在、台湾は21万5000人規模の軍隊を有する
が、2年後には全員志願兵からなる17万5000人規模の軍隊を目指してい
る。しかし、この縮小した規模も志願兵不足で達成できないだろうと見ら
れている。他方、中国は台湾海峡だけで19万人の軍を配備しており、人民
解放軍全体で見れば230万人の大軍隊である。
 
台湾、南シナ海、そして東シナ海を念頭に、中国は非軍事分野での戦力、
具体的にはコーストガード(海警局)や海上民兵隊の増強にも力を入れて
きた。
 
10年以降、中国のコーストガードは1000d以上の大型船を60隻から130隻
に増やした。新造船はすべて大型化し、1万dを優に超える船が少なくと
も10隻ある。大型船はヘリ搭載機能、高圧放水銃、30_から76_砲を備え
ており、軍艦並みの機能を有し、長期間の海上展開にも耐えられる。
 
ちなみに1000d以上の大型船を130隻も持つコーストガードは世界で中国
だけだと、国防総省報告は指摘する。海警局は、もはや海軍そのものだ。

ローテクの海上民兵隊
 
海警局とは別に海上民兵隊も能力と規模の強化・拡大を続けている。事態
を戦争にまで悪化させずに、軍隊と同じ効果を発揮して、海や島を奪うの
が海上民兵隊である。
 
彼らは人民解放軍海軍と一体化して、ベトナムやフィリピンを恫喝する。
16年夏には日本の尖閣諸島周辺にまで押し寄せた。国防総省報告は、この
海上民兵隊に重要な変化が表れていることを指摘する。かつて海上民兵隊
は漁民や船会社から船を賃借していた。それがいま、南シナ海に面する海
南省が、84隻にも上る大型船を海上民兵隊用として発注した。独自の船を
大量に建造しているのだ。
 
海上民兵隊は南シナ海を越えて尖閣諸島や東シナ海、さらには小笠原諸
島、太平洋海域にも侵出してくる。
 
宇宙軍と量子衛星、そして海上民兵隊。ハイテク戦力とローテク戦力を併
せ持つ中国が世界を睥睨しているのである。サイバー時代においては、先
に攻撃する側が100%勝つのである。その時代に、専守防衛では日本は自
国を守れないであろう。
 
日米同盟はいまや、責任分担論が強調される。アメリカはかつてのアメリ
カとは異なる。国家基本問題研究所の太田文雄氏が問うた。

「仮にアメリカのトランプ政権が、ハイテクの宇宙・サイバー空間にお
ける脅威はアメリカが対処する。そこで責任分担で、ローテクの海上民兵
隊には日本が対応してほしい≠ニ言ってきたら、わが国はどうするので
しょうか」
 
日本を守る力は結局、日本が持っていなければ、国民も国土も守りきれな
い。そのような事態が近い将来起きることは十分にあり得るのだ。
 
折りしも安倍晋三首相が自民党総裁として憲法改正論議に一石を投じた。
この機会をとらえて、危機にまともに対処できる国に生れかわるべきだ。

『週刊新潮』 2017年6月22日号 日本ルネッサンス 第758回


◆脳卒中予防のために

渡部 亮次郎



脳梗塞や心筋梗塞は血栓(血の塊)が動脈に詰まって、血液が必要な場所
に行けなくなることから起きる。しかし、現在の医学はかなり進歩して、
新薬もできている。

それなのに街や公園では卒中による半身不随患者を沢山見かける。
先日電車で見かけた20歳代の男性は「若いオレが脳梗塞になるとは思えな
いから病院に掛かるのが遅れちゃった」と残念がっていた。

脳卒中は、昭和26(1951)年から昭和55年までの30年間、日本人の死亡原因
の1位を占めていた。現在でも富山県では死因の第2位であり、全国的に
も昭和40年代後半から死亡率は減少しているが、
その内訳をみると、この40年間で脳卒中の主流は脳内出血から脳梗塞へと
変化してきている。

死亡率が減少している反面、患者数はむしろ増加していることから、今
後、発症予防や発症した後のリハビリテーションの推進がますます重要に
なる。

脳卒中の種類(この場合の「脳卒中」は、国際疾病傷害死因分類における
「脳血管疾患」にあたる。)

脳内出血
脳の血管が破れて出血をおこすもので、多くの場合深い昏睡とともに半身
のマヒが起こる。誘因として疲労、精神不安、寒冷刺激などが多く、また
活動中にも起こることが多い。鳩山一郎、石橋湛山氏ら。

くも膜下出血
脳は、くも膜という膜でおおわれているが、くも膜と脳の表面との間にあ
る小さな動脈にこぶ(動脈瘤)があると、血圧が上がった時などに破れて
出血(脳動脈瘤破裂)し、くも膜下出血になる。

頭痛がひどく悪心、嘔吐があり意識が混濁するが、四肢のマヒは通 常お
こらない 。

脳梗塞
動脈硬化などのために動脈が狭くなったり、あるいは動脈や心臓内に出来
た血の固まりが脳の動脈に流れ込み、詰まってしまうために起こるもの。
長嶋茂雄氏など。私も軽い症状を体験した。

その血管によって栄養を受けている部分の脳組織に、血液がいかなくなり
破壊されて、脳の軟化を起す。田中角栄氏など

突然、発症するもの、段階的に増悪するものなど、病型により様々だが、
多くの場合、前駆症状としてめまい、頭痛、舌のもつれ、手足のしびれ、
半身マヒや昏睡などになる。

一過性虚血
脳の血液循環が一時的に悪くなり、めまい、失神、発作などをひき起こし
ます。少し横になっていれば治りますが、脳梗塞の前駆症状と考えられて
おり、高齢者では十分な注意が必要。数年前に私が体験、入院・加療した。

73歳の朝、起きて暫くしても、左手小指の先の痺れが治らない。心臓手術
がきっかけで医療に詳しくなったNHKの同僚 石岡荘十さんに電話で相
談。「脳梗塞かもしれないよ」という。

そこでかかりつけの病院に行って申し出たら「脳梗塞患者が歩いてこれる
わけが無い」と取り合ってくれなかったが、「念の為」と言って撮った
CTで右の頚動脈の詰まっているのが判って即入院。1週間加療した。

後に石岡さんの助言に従ってかかった東京女子医大神経内科の内山真一郎
教授によると、このときに念を入れて加療してもらったのが大変よかった
そうだ。

なぜならこれを脳梗塞の前兆と見ないで放っておくと、直後に本格的に脳
梗塞を起こしてしまうからとのことだった。爾来、内山教授の患者になっ
ている。

高血圧性脳症
高血圧がかなりひどくなると、脳の内部にむくみが起こる。このため、頭
痛、嘔吐、手足のけいれんなどが見られ、目が見えなくなることもある。

これらに共通するものは、コレステロールに拠る動脈硬化。理屈からすれ
ば、血管内にこびりついたコレステをそぎ落とせばいいようなものだが、
今のところ医学界にそういう薬は存在しない。

いまのところ世界が束になって取り組んでいるのが、血液をさらさらにし
て詰まりにくくする方法であり、そのための薬が「ワーファリン」である。

2011年になって新薬「プラザキサ」が許可になった。2012年4月から処方
期間が延びたのでこれに替えた。納豆を食えるようになった。

それでも卒中になったらどうするか。私の場合はプラザキサを服用中のた
め使用禁止だが、そうでない患者が発症3時間以内に担ぎこまれたら助か
る薬がある。「tPA」だ。

血管を塞いだ血栓を溶かす薬だ。長嶋さんは、発見された時、すでに3時
間を過ぎていたからtPAを注射しても無駄だった。右手と言葉に後遺症
が残ってしまった。

とにかく脳卒中の症状が出たらどこの病院に担ぎこんでもらうかを予め決
めておけば、死ぬことは勿論、後遺症すら残らない時代に既になってい
る。私の場合は石岡荘十さんの助言に従って決めた。

私の場合はかかりつけの東京女子医大病院か近くの都立墨東病院に決めて
いる。2012・7・19執筆


◆淀川河底に沈んだままの「蕪村の生家」

毛馬 一三 
                    


江戸時代の俳人与謝蕪村の生家は、淀川の河底に埋没しているのは間違いないのですが、一体河底の何処に埋没させられて仕舞ったのでしょうか。詳しい場所は未だ不明です。

確かに、大阪毛馬の淀川堤防に「蕪村生誕地」と書いた「記念碑」が建立されてはいます。しかし「蕪村生誕し幼少を過ごした生家」は、この場所ではないことははっきりしています。

実は「蕪村の生家」が、冒頭に記したように、淀川堤防から眼下に見える「淀川の川底」に在るのは事実です。なぜ淀川の川底に埋没されたのでしょうか。これは追々。

徳川時代の淀川は、よく手入れが行われていましたが、明治維新後は中々施されていなかったのです。ところが、明治18年に淀川上流の枚方で大水害が起き、下流の大阪で大被害を受けたことをきっかけに、明治政府がやっと淀川の本格的改修に乗り出しました。

その際明治政府は、単なる災害防止ためだけではなく、大阪湾から大型蒸気船を京都伏見まで通わるせる航行で「経済効果」などの多目的工事に専念することを決めました。

そのために淀川の河川周辺の陸地を大幅に埋め立て、それまでの小さな淀川を 大きな河川にする大改修を立案したのです。

これに伴い、旧淀川沿いにあった「蕪村生家」地域は埋め立ての対象となり、すべて「河川改修工事」によって川底に埋められて仕舞いました。

さて、明治政府は関西の大型河川・淀川を大改修するため、オランダから招いた河川設計者・デ・レーケとフランス留学から帰国していた設計士沖野忠雄とを引き合わせ、「淀川大改修」の設計を依頼しました。

明治政府の依頼を受けた2人は、「大改修工事」の設計を創り上げ、明治29年から工事を開始しました。

とにかくこの大型改修設計は、大阪湾に京都の宇治川や桂川、奈良からの木津川を中津川に合流させ、一気に淀川として大阪湾に繫ぐ、巨大な設計でした。

そうすれば貨物蒸気船を大阪湾と京都を結んで航行させることが出来、逆に京都・枚方などで大水害が起きた場合でも大量の水量をさらりと、大阪湾に流すことが出来るのです。二本立ての「効果狙いの設計」でした。

勿論、上流の災害で流出してくる「土砂」が、大阪に被害を与えないため「毛馬閘門」設計も創りました。

これが淀川から大阪市内に分岐させる「毛馬閘門」の設計主旨だったのです。この「毛馬閘門」からは、淀川本流から分岐して大阪市内へ流れる河川を設計しました。その河川の名を「大川」と名付けたのです。

この「大川への分岐設計」で、上流の水害に伴う土砂流失の回避は実現し、大阪の上流からの防災は、今日まで護られているのです。

このように2人による設計書は、世界の河川工事技術水準に準じたもので、明治政府が施工した「河川大改修工事」としては全国的に見ても画期的なものでした。

同工事は、明治29年から明治43年まで行われ、設計通り完成しました。

ここから本題。この「河川大改修工事」によって、与謝蕪村が生まれ、幼少を過ごした大阪市都島区毛馬町(摂津国東成郡毛馬村)は、跡形もなく淀川に埋没させられ、深い川底に沈んで仕舞いました。

明治政府の強制でしたから、当時の住民は仕方なくそれに従ったようですが、川幅も660b(従来の30数倍)となり、浅かった河の深さも5bの巨大河川に変容したのです。

この住居埋没の強制工事で、前述の如く、蕪村の生家(庄屋?)は勿論、お寺、菜の花畑、毛馬胡瓜畑跡などの、当時の地域の様子は皆目全くわかりません。今は淀川の毛馬閘門近郊にある蕪村記念碑から、淀川の眼下に見える川底が「蕪村が幼少を過ごした生家地域」だと想起出来るだけで、寂しい限りです。

淀川近郊の蕪村家(庄屋)の後継者の方といわれる毛馬町の家を訪ね、「家歴」を伺いました。しかし、「地図」も無いし、お寺も埋没して「過去帳」もないために、蕪村生誕地が淀川の河底にありことは間違いないですが、今でもどのあたりの河底にあるのか分かないのです。」という答えが返って来ただけでした。

「蕪村生誕300年記念」を過ごし、大阪毛馬町の「蕪村公園」と通り過ぎて、「毛馬閘門」と「蕪村記念碑」ある淀川堤防の上から眼下に流れる「淀川」を見ながら、その河底に蕪村生誕地があることを想いつつ、蕪村が幼少期をここで過ごしたのかと、ゆったりと瞑想して欲しいですね。

ところで本題。淀川近郊の蕪村家(庄屋)は、大阪毛馬町に在る「淀川神社」の氏子でした。このため年間の祭事や祈願の折は、この「淀川神社」に父母と一緒に蕪村「幼名―寅」は、参詣に通ったことが、江戸時代の慣習から推察出来ます。

また蕪村が、毛馬村を出奔し江戸へ下る決意を固めた時、氏子の立場から毛馬町の「淀川神社」に心底参詣し、将来の生き方を祈願したことは、当然のことと考えられます。

そこで、今の毛馬町「淀川神社」の境内に、蕪村生誕300年の前年の12月21日、協賛者のお力を頂いて高さ1m60pの銅製の「蕪村銅像」を建立しました。

望郷の念の強い「蕪村」は、この「生誕地参詣神社に銅像が建立したくれた」ことに喜んでくれて、これから自ら進んでここに帰郷して呉れるでしょう。また「淀川神社」も、「蕪村参詣神社」として、後世に伝承されるでしょう。

蕪村生誕300年を終え、これからは芭蕉・一茶に肩を並べるような「蕪村生誕祭」を進めて行く私たちの決意です。どうか与謝蕪村に厚意を寄せられる方は、この「蕪村生誕祭」の運営を進める私たちにお力を貸してください。お願い致します。

取材先:国交省近畿地方整備局淀川河川事務所