2017年06月22日

◆もう一つの「一帯一路」の目玉でも、もたつき

宮崎 正弘



<平成29年(2017)6月20日(火曜日)通算第5331号> 
  
〜 もう一つの「一帯一路」の目玉=ミャンマーでも、もたつきが目立ち始めた
クンサ(麻薬王)も国民党残党も消滅したが、カチン、シャン、ワ族が武装
を捨てず〜


 パキスタンのCPECプロジェクト(グアダール港から新彊ウィグルま
でガス、石油のパイプライン、ハイウエイ、鉄道、光ファイバーを繋ぐ回
廊)がシルクロート(一帯一路)の目玉プロジェクトであるとすれば、
ミャンマーへのテコ入れも、もう一つの習近平の目玉だ。

ミャンマー沖合の海底油田からガスと石油の770キロのパイプラインは
ミャンマーを縦断して、すでに繋がっている。

中国の「戦略的友好国」であり、隣国であるパキスタンとミャンマーは、
しかしながら中国の工業心臓部からはあまりにも遠い。マラッカ海峡を経
由しないオールタナティブとしてのルート確保が中国の戦略的目標である
ことは言うまでもない。

パキスタンの一帯一路関連プロジェクトの総額は55億ドル。「そんな巨額
を投じる価値があるのか?」と議論が中国国内でも急拡大している。

最大の理由は先週、誘拐されていた中国人教師ふたりがISによって殺害
されたからで、中国のSNSでは「ISに補償金を要求せよ。ISとの戦
争も辞せず」などの書き込みが散見される。

パキスタン重視は以前からで、6月17日からはホルムズ海峡近辺で、中国
海軍がイラン海軍との共同軍事訓練を開始した。中国海軍は駆逐艦弐隻と
補給艦、いずれもパキスタンのカラチ港から出航し、イラン側は駆逐艦に
700名の軍人が乗っているという(サウスチャイナ・モーニングポスト、6
月19日)。

中国の歴史学の御用学者がいうには紀元前3世紀の秦の始皇帝時代から
「南のシルクロード」は南アジア諸国と繋がっていたと言い張る。ちょっ
と待った。紀元前三世紀に雲南省も四川省も漢族とは無縁の国家であり、
当時は氏、キョウ、月氏、鎮(さんずい)などの豪族が統治していた。
ミャンマーもパキスタンも別の国だった。

2204キロのおよぶミャンマーの国境地帯は、嘗てビルマ共産党が支配して
いて、税金を勝手に住民から徴収し、中央政府の統治は及ばない地区だった。

このビルマ共産党を支援していたのが中国、しかも一帯の麻薬地帯はクン
サが支配し、国民党残党がいた。ややこしく輻輳していた。

このため国境貿易が可能だったのは北のシャン族支配区だけだったのである。

歳月が流れ、ビルマ共産党も国民党残党も高齢化、組織はほぼ消滅した。
前者は四つに分裂したが、いまも武力を誇るのはワ族の武装ゲリラだけで
ある。

ワ族は独自の武装組織を堅持している。

しかし西側の制裁にあって鎖国を強いられ国際的に孤立していたミャン
マーを支援し、武器を供給していたのは中国で、この間に14億ドルの武器
をあたえ、他方では秘密裏にワ族武装組織も支援していた。

親中路線いがいの選択肢はなく、ミャンマー政府はアンダマン海の島嶼の
大島(グレート・ココ)に軍のレーダー基地を設けたが、これも全面的な
中国の支援だった。
」インドは、これを脅威として国際世論に訴えたが、中国の監視所という
裏の役割をミャンマー政府は否定した。

インドが中国の一帯一路に極めつきに冷淡な理由はこのあたりにある。


 ▲中国一辺倒の政治経済状況は激変した

さらに時代は移り、ミャンマーの親中派だったキン・ニュン政権が2004年
に汚職容疑で失脚した後、親中派路線を修正し、中国と距離を取り始め
た。ティン・セイン前政権は、中国が支援した水力発電所の工事を中断した。

「イラワジ河は中国のものではない」とする抗議デモが公然とヤンゴンや
マンダレーで行われるようになる。

メディアにも中国批判が掲載されるようになり、華僑と中国資本が支配す
る第2の都市マンダレーでも反中感情の高まりが見られるようになった。

マンダレーは嘗てビルマの首都、王宮が残り、翡翠、色石、タベストリー
の産地として世界的に有名である。だが、流通、貿易、金融を握るのは華
僑ならびに中国からの移民の商人である(四年ほど前、宿泊したマンダ
レーのホテルで朝から飲んでいたのは中国人ビジネスマンだったことを思
い出した)。

ヤンゴンのチャイナタウンも活況はからわず、華字紙も発行されるなど言
論の自由が守られるようになり、自由選挙を実施するや、アウンサンスー
チが「大統領より偉い」政治ポジションを得た。

このスーチーを支持しているのは都会のビルマ族が中心で、地方ならびに
少数民族地区へ行くとスーチーは嫌われている。

オバマ政権でミャンマー政策が緩和され、政策がグローバルに傾くと、
どっと西側資本がミャンマーに投入され始めた。日本は工業団地をヤンゴ
ン郊外に造成し、市内には高層ビルも建設し、台湾やインドも参入してき
た。カチンもシャンもカレンも、山を下りてきた。

中国はこれではまずいとばかりにミャンマーの政治家、ジャーナリストに
北京への招待旅行攻勢をかける。一方で、武装を解かないワ族ゲリラへの
密かな武器支援は中止せず、2枚舌を続けている。

西側がミャンマー政府を非難するロヒンジャ弾圧に対して、事実上、スー
チー政権は解決策も見いだせない無能ぶりを見せた。スーチーは親中路線
に転換した様子がうかがえる。

したがって、ミャンマーの少数民族弾圧非難決議が国連に上程されると、
反対に回るのが中国という構図になっている。

恩を売りつけ、反中感情を抑え込むことに躍起なのである。


 ▲あの親中国家ラオスでも中国人殺人事件が続発している

2017年6月16日、ラオスにある中国大使館は在留中国人に「身の安全を確
保し、身辺に気を配れ」と警告を発した。これはラオスのサイソンブーン
県で、中国人が何者かに銃殺されたからである。

問い合わせに対して大使館は具体的な情報をだしていない。

サイソンブーン県はラオスの首都ビエンチャンから北東へ100キロほど。
モン族など少数民族が暮らす地帯で、嘗ては付近に米軍が空爆に利用した
基地があった。いまは大きな公園になっている。

2016年1月には中国人が開発する鉱山付近で2人の中国人が爆殺され、同
年3月にはルアンパパン県で一人が殺害され、7人の中国人が負傷するテ
ロ事件も起きた。
 
このように一帯一路の先々で中国人は「歓迎」されていないのである。

◆「軍事同盟」で退陣した内閣

渡部 亮次郎



若い頃、NHK記者として4年間駐在した岩手県には、後に総理大臣になる
鈴木善幸(ぜんこう)のほか小沢佐重喜(さえき)、椎名悦三郎ら、錚々
たる政治家がいた。言うまでも無く佐重喜は小沢一郎の父、椎名は副総裁
として田中角栄の後継首相に三木武夫を推して大失敗した。

そうした中で目立つようで目立たなかった男が鈴木善幸だった。三陸沿岸
の漁民の出。はじめは日本社会党から代議士になったが、間違いに気付い
て保守党に鞍替え、とうとう自民党総裁、総理大臣になった。

だが日米安保条約の何たるかも知らずに過ごし、自民党内のバランスに
のっていただけだったので総理大臣にまつり上げられたものの、「能力不
足」を晒して途中退陣した。

日本大百科全書(小学館)にはこう書かれている。

<国内では自民党の絶対多数を背景に、軍事力増強、実質的な靖国(やす
くに)神社公式参拝、参議院の比例代表制導入、人事院勧告凍結を実現し
た>。


鈴木善幸内閣]は1980(昭和55)年7月成立した。前任の大平正芳が総選挙
中、糖尿病の合併症たる心筋梗塞で急死したところ、「闇将軍」といわれ
て評判の悪かった田中角栄が裏で動いて、突如、鈴木善幸を後任として指
名した。私はその現場に居合わせた。

昭和55(1980)年6月12日未明、大平が死んだ。それに先立って、ホテルに
いた私に園田直(当時は無役)から電話。「大平さんが亡くなったらしい、
調べてくれ」で確認。弔問の為、虎ノ門病院で落ち合う。

彼も当時、糖尿病が悪化。減量の為服用していた利尿剤が効き過ぎてゲッ
ソリしていたので、マスコミの目を引いたことを覚えている。
病室から出てきた園田。車に乗ると「ナベしゃん、これからどうした方が
いいかな」。すかさず「目白へ行きましょう」「そうだワシもそう考えて
いた」。

角栄は先に弔問から戻っていたが、客は園田がその朝は初めてだった。約
1時間して出てきた園田。車中「善幸に決まった」と。「それは妥当なと
ころでしょう。大平派の後継者でもあるし」と私。

大平の死で有権者の同情は自民党に集まって総選挙は、大勝。分裂寸前
だった自民党を結束させ、抗争なしで鈴木政権は成立したのだった。

<「増税なき財政再建」を公約とし、1981年3月には臨時行政調査会を設
置し行政改革を最大の課題とした>。(同)

9月になって厚生大臣齋藤邦吉の不正献金がばれて辞職。その後任に園田
が推されたのは、多分に角栄の押しがあったと思われた。

<1981年1月鈴木首相が東南アジア諸国を歴訪、5月には日米首脳会談を開
き日米「同盟関係」を明記し、西側陣営の一員としてアメリカの対ソ戦略
に協力していく姿勢を明らかにした>。

しかし鈴木首相は首脳会談では、そんなことは話題にならなかったと一旦
は否定。共同声明から軍事同盟云々を消そうとした。日米の首脳が会談す
るという事は要するに日米安保体制を確認し、軍事同盟を再確認する事だ
という外交上の初歩的知識に首相は欠けていたのだ。

この混乱で鈴木首相は党内で孤立感を深めた。同一派閥であった外相伊東
正義が辞任した後を埋めるのに、厚生大臣のピンチヒッターだった園田を
またピンチヒッターにした。

しかし、園田は糖尿病が悪化。外遊しても飛行機から車まで歩けない場面
がしばしばとなった。マニラではとうとう日米首脳会談の共同声明なんて
どうでもいい軽い問題でしかない、といった趣旨の問題発言をして政権の
足を引っ張った。

事後になって鈴木は日米首脳会談について「オレは踊り(外交)の素人なん
だから、手ぶり身振りの最後まで教えないと踊れないよ。教えない外務省
が悪い」といった。外務省側は「初歩知識をお教えするのは失礼に当る
か、と」。

政治における知識や情報の扱い方はビジネスの世界とまるで異なる。ビジ
ネス界は「儲け」で一丸となっているが、政治の世界では役人と政治家の
間に抗争が隠されていたり、遠慮がはさまれたりして要は単純ではない。

しかし1982年6月2兆円以上の歳入欠陥が明らかとなって「増税なき財政再
建」は破綻し、行政改革も自民党・官僚の抵抗で後退を余儀なくされた。

さらに日米経済摩擦、日韓経済協力、教科書記述に対するアジア各国から
の批判といった難問を適切に処理できず、内外ともに手詰まりの状態のな
か、1982年10月12日突如退陣を表明した。

鈴木政治は難問を先送りにして解決を図るといった消極的姿勢を特徴とし
ていた。また党幹事長に二階堂進を起用するなど田中角栄の影響力を強く
受け「角影内閣」との異名をとった。>
日本大百科全書(小学館) (文中敬称略) 2010・4・4

◆木津川だより 高麗寺跡 B

白井 繁夫



飛鳥時代に創建されたと云われている古代寺院の「高麗寺跡こまでら跡」について、@では寺名が「高麗寺:こまでら」となった由来や時代の背景について、高麗寺跡Aでは発掘調査の出土品の中で、出土遺物の数量などが多くて年代を文様などから比較的に区分しやすい瓦(軒丸瓦.軒平瓦)から高麗寺について記述しました。

今回Bでは、昭和13年の第T期発掘調査の結果、国の史跡と認定された高麗寺跡の伽藍配置や瓦以外の出土品を精査して、V期調査まで(平成22年の第10次発掘調査まで)の間に確認された概要を下述します。

★高麗寺の創建は7世紀初頭、伽藍整備は7世紀後半、伽藍配置は法起寺式
  
 主要堂塔が東に仏舎利を祀る塔、西に本尊仏を祀る金堂を並置して、それを囲む回廊
が北の講堂、南で中門に接続している様式(南北回廊200尺:59.4m、東西201尺:
59.7mのほぼ正方形)
 高麗寺の伽藍配置は川原寺式から変化して法起寺式へと移行の初例と思われます。

★南門.中門.金堂が南面して一直線に並び、講堂の基壇が荘厳で特異な伽藍配置

川原寺式伽藍配置から法起寺式への変化の途上か?(添付の「各寺院の伽藍配置」参照)
高麗寺は西金堂の正面が南面し中門.南門と直線状に並びます。川原寺は北講堂.中金堂.中門.南大門は一直線状ですが西金堂は正面が東塔に対面しています。

(仏舎利を納めた塔より仏像を祀る金堂を重視する考え方か?
飛鳥時代から天平時代へと伽藍配置が変化する過程の先駆けではと思われます。)

高麗寺の講堂の基壇は三層構造の豪華さで、丁度川原寺の中金堂と同じ位置にあります。
高麗寺の初期設計時には講堂の場所に中金堂を予定していたのか?と思われるほど
基壇は荘厳な造りでした。
  
飛鳥時代、高麗寺が創建された時期には七堂伽藍を完備した寺院は飛鳥寺が国内では
唯一の寺院でした。その他の寺は一.二堂程度の草堂段階?(捨宅寺院?)であったと考えられています。

★高麗寺の南門の屋根には鴟尾があり、最古の築地塀が原形の状態で検出されました。

  南門跡は桁行20尺(5.94m)x 梁間12尺(3.56m)、屋根は切妻造りで鴟尾を
置いた八脚門、南門に接続する築地塀が南辺築地跡から原形を留めた、極めて良好な
状態で検出されました。

7世紀に築地塀が構築された例はいまだ検出されていません。8世紀の奈良時代になって  寺院の外画施設とする築地塀が一般的に用いられるようになったのです。

高麗寺の築地塀は7世紀後半のものであり、検出遺物は国内最古の出土物の例です。
白鳳時代の築地塀が残っていた事だけでも極めて珍しいのに、ラッキーにも壊れ方が建物の内側で原形を留めていたことです。

 (飛鳥寺南辺、川原寺南辺、東辺にも築地塀の存在説がありますが、現在も出土例は有りません。)

★高麗寺の終焉時期の推測

  文献上では廃絶が不明の寺院ですが、出土遺物の中から、平安時代の土器である灰釉陶器が見つかりました。この陶器から平安時代の末期頃(12世紀末から13世紀初)まで存続していたのではないかと云われています。

天武天皇は壬申の乱で功績のあった狛氏一族の氏寺の創建を認め、白鳳時代から奈良時代にかけて全盛期を迎えた高麗寺の状況ですが、聖武天皇が高麗寺の東方約3kmの瓶原(みかのはら)に恭仁宮を造営して、恭仁京(木津川市)へ遷都した頃(天平12年)、木津川の船上から見える高麗寺は南門の屋根には鴟尾が在り、当時は珍しい築地塀越に東塔が聳え西の輝く金堂など、当時の人々はこの大寺院を畏敬の念で仰ぎ見たことと思われます。(完)

参考資料: 山城町史  本文篇  山城町
   南山城の寺院.都城 第106回 埋蔵文化財セミナー資料 京都府教育委員会
   木津川市埋蔵文化財調査報告書 第3.第4.第8集   木津川市教育委員会

2017年06月21日

◆世界の安定剤、マティス長官の安全観

櫻井よしこ



毎年シンガポールで開催される「アジア安全保障会議(シャングリラ・ダ
イアローグ)」は、世界の安全保障戦略で何が一番の問題になっているか
を知り、大国の思惑がどのように交錯しているかを知る、極めて有意義な
場である。今年は米国防長官、ジェームズ・マティス氏が演説を行った。
 
トランプ大統領が、ロシア問題で追及され、身内のジャレッド・クシュ
ナー大統領上級顧問までもが疑惑を取り沙汰されている。そうした中、軍
人として培った揺るぎない安全保障観を披露したマティス国防長官は、国
際社会の安定装置として機能しているかのようだ。
 
6月3日に行われた氏の演説の内容は予想を超える率直さだった。敢えてポ
イントを2つに絞れば、➀アジアの同盟諸国への固い絆の再確認、➁中国に
は断固たる姿勢を取る、ということになるだろう。
 
まず、アジアの安全保障についてマティス氏は、アメリカが如何に国際法
順守を重視しているかを強調した。
 
アジアの安全保障が国際法に基づいて担保されるべきだとの考えは、世界
恐慌とそれに続く第二次世界大戦の凄まじい体験から学びとった教訓だ
と、マティス氏は強調する。氏は演説で人類の戦いの歴史にさり気なく触
れたが、蔵書6000冊を有し、その大半が戦史に関する著作だといわれる氏
の、国家と国家の摩擦としての戦いや、その対処の原理についての、奥深
い理解を感じさせる。
 
氏は語っている。国の大小、その貧富に拘らず、国際法は公平に適用され
るべし、と。海の交通路は全ての国々に常に開かれ、航行及び飛行の自由
が保たれるべきだという価値観は、時代を通して守られてきたとマティス
氏は語る。その自由で開かれた世界を、アメリカはこれからも担保するの
だと。
 
同じ趣旨を、表現を変えながら、マティス氏は繰り返した。講演録を読む
と、国際法の重要性を説いた段落が幾つも続いている。

「航行の自由」作戦
 
それらの発言が中国に向けられているのは明らかである。マティス氏がこ
れ程、或る意味で執拗に、国際法や航行の自由について語ったのは、アメ
リカは北朝鮮問題で中国に協力を求めても、南シナ海、東シナ海、台湾な
どの他の重要な地域問題で従来の基本的立場を譲るつもりは全くないと示
しているのである。マティス氏は、中国について前向きに丁寧に言及しな
がらも、要所要所で釘をさしている。

「トランプ政権は、朝鮮半島の非核化に向けての国際社会の努力に中国が
コミットメントを再確認したことに安堵している」「(4月の米中首脳会
談で)習近平主席は、全ての関係国が各々の責任を果たせば、朝鮮半島の
核の問題は解決されるはずだと語った」と、紹介したうえで、マティス氏
は述べた。

「自分は習近平主席に全く同意する。大事なのは、そうした言葉は行動に
よって本物であることが確認されなくてはならないということだ」
 
中国に強い口調で迫っているのである。中国よ、言葉はもういい。実行に
よって証明せよ、制裁を強化せよと要求しているのである。
 
約30分の演説の中で、マティス氏は南シナ海の問題についても、中国の
建設した人工島を批判しながら言及した。主旨は、➀中国の行動は国際社
会の利益を侵し、ルールに基づく秩序を揺るがすもので、受け入れること
はできない。➁人工島の建設とその軍事化は地域の安定を損ねる。
 
氏の一連の発言に、質疑応答で、多くの質問者が率直な謝意を表した。国
防長官の発言は「希望をもたらす」とまでコメントした人がいた。膨張す
る中国が恐れられ、嫌われているのとは対照的に、強いアメリカが望まれ
ているということだ。
 
トランプ政権発足以来約4か月が過ぎた5月下旬、ようやく南シナ海で「航
行の自由」作戦を行った。北朝鮮問題で中国に配慮して南シナ海とバー
ターするのではないかという懸念の声さえささやかれていたときに行われ
た「航行の自由」作戦は、オバマ政権のときには見られなかったアメリカ
の断固たる意志を示すものだった。
 
スプラトリー諸島のミスチーフ礁に建設された人工島の近く、中国が自国
の領海だと主張している12カイリ内の海で、「航行の自由」作戦は、中国
への「事前通告」なしに行われた。オバマ政権時代に4回行われた「航行
の自由」作戦と、今回のそれには全く異なる意味があった。今回は、通常
は公海で行う海難救助訓練を行ったのだ。

「米中接近」はない
 
中国の主張など全く認めないという姿勢を示したのだが、この訓練には中
国も反対しづらい。なぜなら、それは「人道的な」海難救助だったからだ。
 
非常に慎重に考え抜かれた緻密な作戦を決行したことでアメリカは、人工
島を建設しても中国は領海を拡大することはできないと示したのだ。アメ
リカの考えは、まさに常設仲裁裁判所がフィリピン政府の訴えに対して出
した答えと同じものだった。
 
もうひとつ、非常に大きな意味を持っているのが、マティス氏がパート
ナー国との関係を継続していくとする中で、インド、ベトナムなどに続い
て台湾に触れたことだ。

「国防総省は台湾及びその民主的な政府との揺るぎない協力を継続し、台
湾関係法の義務に基づいて、台湾に必要な防衛装備を提供する」と、マ
ティス氏は語った。
 
トランプ大統領が北朝鮮の核及びミサイル問題で中国に配慮する余り、南
シナ海や台湾への配慮が薄れて、台湾も事実上見捨てられるのではないか
という懸念さえ、生れていた。そのような疑念をマティス氏の発言はさっ
と拭い去った。
 
米国防長官としては異例のこの発言と、それを支える戦略的思考が、ト
ランプ政権の主軸である限り、台湾や日本にとっての悪夢、「米中接近」
はないと見てよいだろう。
 
会場の中国軍人が直ちに質問した。「中国はひとつ」という米中間の合
意を覆すのかと。マティス氏は「ひとつの中国」政策に変更はないと答え
たが、蔡英文総統は独立志向が高いと見て、台湾に軍事的圧力を強めるよ
うなことは、アメリカが許さないという強いメッセージを送ったというこ
とだ。
 
アメリカの政策は読み取りにくい。マティス発言に喜び、トランプ発言に
不安を抱く。トランプ氏は基本的にマティス氏らの進言を受け入れている
かに見えるが、究極のところはわからない。だが、マティス氏ら手練れの
兵(つわもの)が政権中枢にいる間に、わが国は急いで憲法改正などを通
して、国の在り方を変えなければならないと、心から思う。

『週刊新潮』 2017年6月15日号  日本ルネッサンス 第757回



◆「浜辺の歌」であわや

渡部 亮次郎



歌謡歌手の岩崎宏美がNHKラヂオ深夜便で「浜辺の歌」を歌った。この時間
には「琵琶湖周航の歌」を舟木一夫が、「浜千鳥」を森繁久弥が歌ってい
た。「歌謡歌手の歌う叙情歌」だった。

その中の一曲「浜辺の歌」の取材であわや一命を取り落とすところだった
22歳の秋を思い出した。

私は大学を出てNHK秋田放送局に就職。1968年だった。6月からは大館
駐在の記者として、市役所前の下宿を根城に秋田県北部全体のニュースを
カバーしていた。

そうしたある日、米内沢(よないざわ)で作曲家、故成田為三の記念音楽
祭がある、と聞いた。まだテレビが地方まで普及していない時代。音楽祭
というのはどんなのか知らないがラジオにとってはうってつけの素材だろう。

ところが下宿で調べると録音テープが底をついているではないか。早速秋
田の局へ電話して、客車便で送ってもらう手配をした。夜9時ごろの奥羽
線下り急行で大館駅に到着することになった。

大学を出てまだ1年目とはいえ、既にいっぱしの酔客になっていた。急行
が到着するまで時間がある。一杯飲み屋で日本酒を飲み始めた。銚子で
2−3本は確かに飲んだ(酔った)。

時計を見て、自転車に跨った。坂道を下って駅を目指した。間もなくタク
シーにはねられて道端に吹っ飛んだ。新品の自転車はくちゃくちゃ。そこ
は坂下の十字路。確かに即死しても可笑しくなかったが、起き上がってみ
たら、額に小さな瘤ができているだけで亮次郎はちゃんと生きていた。

多分、酔っていたために無抵抗だったのがよかったのだろう。翌日は汽車
で米内沢をめざし、音楽祭の一部始終を録音して事無きを得たのであっ
た。デスクには秘匿した。老齢になって初めて人に語る真実である。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、成田 為三
(なりた ためぞう)は1893(明治26)年12月15日―1945(昭和20)年10月
29日)秋田県出身の作曲家。

秋田県北秋田郡米内沢町(現在の北秋田市米内沢)の役場職員の息子とし
て生まれる。1909(明治42)年、鷹巣准教員準備場を卒業、秋田県師範に
入学。同校を卒業後鹿角郡毛馬内小学校で教鞭を1年間執る。

1914(大正3)年、上野にある東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に入
学。在学中、ドイツから帰国したばかりだった在野の山田耕筰に教えを受
けた。1916年(大正5年)頃、『はまべ(浜辺の歌)』を作曲。

1917(大正6)年に同校を卒業。卒業後は九州の佐賀師範学校の義務教生
をつとめたが、作曲活動を続けるため東京市の赤坂小学校の訓導となる。
同時期に『赤い鳥』の主宰者鈴木三重吉と交流するようになり、同誌に多
くの作品を発表する。

1922(大正11)年にドイツに留学。留学中は当時ドイツ作曲界の元老と言
われるロベルト・カーンに師事、和声学、対位法、作曲法を学ぶ。

1926(大正15)年に帰国後、身に付けた対位法の技術をもとにした理論書
などを著すとともに、当時の日本にはなかった初等音楽教育での輪唱の普
及を提唱し、輪唱曲集なども発行した。

1928(昭和3)年に川村女学院講師、東洋音楽学校の講師も兼ねた。
1942(昭和17)年に国立(くにたち)音楽学校の教授となる。1944(昭和
19)年に空襲で自宅が罹災、米内沢の実兄宅に疎開する。生家は阿仁川へ
りにあったが1959(昭和34)年に護岸工事で無くなっている。

実家で1年の疎開生活を送った後、1945(昭和20)年10月28日に再び上京
するが、翌日脳溢血で53歳の生涯を閉じる。葬儀は玉川学園の講堂で行わ
れ、国立音楽学校と玉川学園の生徒によって「浜辺の歌」が捧げられた。

遺骨は故郷の竜淵寺に納骨された。故郷の米内沢には顕彰碑が建てられ、
「浜辺の歌音楽館」で為三の業績を紹介している。

「浜辺の歌」や「かなりや」など歌曲・童謡の作曲家、という印象が強い
が、多くの管弦楽曲やピアノ曲などを作曲している。しかし、ほとんどが
空襲で失われたこともあり、音楽理論に長けた本格的な作曲家であったこ
とはあまり知られていない。

愛弟子だった岡本敏明をはじめ研究者の調査では、作品数はこれまでに
300曲以上が確認されており、日本の音楽界で果たした役割の大きさが再
認識されつつある。

◆『一隅を照らす』― 理性と良識を守る

浅野勝人 (安保政策研究会理事長)




ここに「一隅を照らす」 理性と良識を守って――河野謙三 著
“ 浅野大兄 恵友 謙三 ”と筆の署名があります。
参議院議長・河野謙三 書き下ろしの42年前の著書です。

参議院改革を旗印に議長になった河野謙三は、与野党伯仲の困難な国会運営に臨み、「七 三 の構え」を宣言して政府・自民党をけん制しました。

河野謙三は、著書の中で、
「法案審議に野党七、与党三の比重をかけていこうという“七三の構え”の提唱に対して、与党側からそれでは不公平だという声が出ている。“七三の構え”をとる私が第1党を軽視している、との非難である。
政府・与党は寛容と忍耐の精神で議場にのぞみ、野党に法案を質す機会と時間を十分与え、“親切にお答えしましょう”という態度が望ましい。そして、審議の過程で聞くべき意見があれば、思い切って原案の修正に応じる。野党には、ただ絶対反対だけではなくて、具体的、建設的な意見・創意を出す責任がある。そうゆう腹の太さが必要だろう。この平凡なルールが守られるようになったら与野党対決法案は、もっと容易に、しかもよりよい解決の道が見いだせるものと思う。“七三の構え”とはそうゆう意味に過ぎない。
私は議長就任の際、『野党と結託した』とずいぶん非難された。そのとき私はあえて『オレは世論と結託したんだ』と反論した。
このことは今でも変わりはない」

フランスの総選挙でマクロン大統領(39)の新党「共和国前進」が議席を6割獲得して圧勝。既存の二大政党、中道右派(共和党など)と中道左派(社会党など)は惨敗しました。

日本に当てはめてみると、「新党・前進」が2/3近い議席を獲って、自民党と民進党が惨敗して図です。

細かい分析結果は、パリ特派員に任せますが、マクロンの発言は「潔い」(いさぎよい)。アメリカのトランプ大統領に対しても、イギリスのメイ首相に対しても、異なるフランスの立場を自らのことばではっきり主張して引かない。しかも物言いが悪印象を与えない。「野党との対話」を重視して、世論と結託している政治姿勢がすがすがしく映っています。
河野謙三が生きていたら、合格点、しかも高得点の採点をしたに相違ありません。

通常国会が終わって、6月17日、18日に実施された世論調査が一斉に発表されました。厳しい数字を選んでみますと(これが世論の本音とみられますが・・・)
毎日新聞:内閣支持率―36%(5月調査から10ポイント下落)、不支持率―44%(9ポイント上昇)

共同通信:内閣支持率―44・9%(10・5ポイント急落)、不支持率―43・9%(8・8ポイント上昇)

朝日新聞:内閣支持率―41%(6ポイント下落)、不支持率―37%(6ポイント上昇)
特に気になるのは、調査対象全体の半数を占める無党派層の支持率が2割を割って、不支持率が49%に達している点です。支持・不支持がダブルスコア―です。さらに、予想されたこととはいえ、「加計学園」をめぐる安倍首相の説明に「納得できない」66%、内閣不支持層に限ると93%に達していることです。


私は、内閣支持率は一定の目安ではありますが、最重視はしていません。政局を展望するうえで重要な分岐点は、支持率と不支持率が明確に逆転する政治情況を判断のポイントと考えています。その意味では、「1強」のターニングポイントが危険水域にさしかかっているように見受けます。特に、大型選挙の帰趨を左右する無党派層の過半数が不支持というデータは、明らかに危険信号です。この数字は東京都議会議員選挙に「マクロン現象」となって端的に表れると私は予測しています。

但し、国政に関しては、従来と全く見解を異にするのは、「野党不在」の稀有な時代が続いている背景の存在です。だから内閣支持率の急変が自民党の支持率にさして影響していません。

現役の官僚が「役人の命に係わる人事を人質にするシステムをつくって脅すやり方には恐怖で身が縮(ちぢ)む。だからと言ってアレ(民主党政権)に戻るのだけはごめんだ。悩ましいんです!」と本音を語っています。
官邸の主たちが、野党不在に“安住”していると、市井の地盤に溜まっているマグマが破裂しないとも限りません。

9月の閣僚改造人事が立て直しのキィです。
今なら間に合う終列車!
(2017/6月20日 元内閣官房副長官)


2017年06月20日

◆いったん「鳩化」しても改憲で「鷹」に

杉浦 正章



変幻自在の安倍政治を展望する 


支持率は数か月で回復基調へ


 
俳句の季語に「鷹化して鳩となる」がある。奇妙な季語だが、春の季語で、「殺気ある鷹でも春には温和な鳩に変わる」という中国の伝承を受け継いだものだ。一茶は「新鳩よ鷹気を出して憎まれな」とユーモアたっぷりの句を残している。変わり身が早いさまを変幻自在というが、首相・安倍晋三の記者会見はまさにその「変わり身」を前面に打ち出して「鳩」になったものだ。支持率が軒並みマイナス10ポイント前後の大幅減のなかで、長期政権維持への“危機感”を強く感じた結果の変身術であろう。

安倍は、国家戦略特区での獣医学部新設をめぐって、国会答弁で強い口調で反論したみずからの姿勢を反省するとしたうえで、国民の不信を招いたことを認め、加計問題への対処を陳謝した。「『印象操作』のような議論に対して、つい強い口調で反論してしまう。そうした私の姿勢が結果として政策論争以外の話を盛り上げてしまった。深く反省している」と述べたのだ。
 

過去に1人の首相が自らの発意で、その政治姿勢を大転換した例はまれである。政権を交代して自民党そのものが変身を成し遂げた例はある。そのもっとも顕著な例は安倍の祖父岸信介による60年の安保条約改定の強行とその後の党内抗争が、政権交代に直結した例だ。自民党に対する国民の大きなイメージダウンをもたらし、岸は退陣せざるを得なかった。後を継いだ池田は野党の要求する早期解散には応ぜず、総選挙までの4ヶ月間、「国民所得倍増計画」という新経済政策と「寛容と忍耐」という新たな政治路線を打ち出したのだ。


このアイデアは側近大平正芳と宮沢喜一という知恵者が一緒に作ったものだ。回顧録で宮沢は「大平さんが池田さんに、とにかくここは"忍耐"しかないですね、と言ってそんなことから"忍耐"を一つスローガンにする。もうひとつ私が、ジョン・スチュアート・ミルがよく"tolerance"ということを言っていたから"寛容"というのはどうですか、と私が言って、それでスタートした」と延べている。
  

安倍の場合の方針大転換は、自らの政治判断においてなされた色彩が濃厚のようだ。それではその転換を早期に国民の間に印象づけることが可能かというと、少なくとも今月23日告示、7月2日投票の都議選に間に合わせることは難しいだろう。あまりに接近しすぎている。しかし、数か月単位での「変身の定着」は可能であろう。定着と共に支持率も回復基調となる可能性が高い。その最大の理由は内閣支持率が急落したものの自民党の支持率は変化がないからだ。


NHKの調査でも自民党は37.5 %から 36.4 %に微減しただけであり、民進党も7.3 %から7.9 %への微増にとどまっている。民進党支持率にいたっては時事の調査では、なんと過去3か月で最低の4.2%にとどまっている。これが意味するものは、民新、共産挙げての“加計疑惑”追及が得点につながっていないことを意味する。過去にも安倍政権は10%前後の急落を2回経験している。2013年の特定秘密保護法と2015年の安保法制だ。


しかし、政権の基盤である自民党支持率に変化がなく、これが内閣支持率の挽回につながっている。安保法制の際の日経の調査の例を挙げれば成立前の支持率46%が成立後に40%に落ちたが3か月後に48%に回復している。他社も同様の傾向を示している。安倍の支持率回復の軸は外交・安保、経済政策に置かれるだろう。安倍は記者会見で来月7〜8日にドイツのハンブルグで開かれるG20サミットについて、「主要国の首脳が集まるこの機会を活用して、積極的な首脳外交を展開したい。挑発をエスカレートさせる北朝鮮問題について、日米韓のがっちりとしたスクラムを確認したい。


そして、来たるべき日中韓サミットの開催に向けて、準備を本格化していく」と述べている。これが最初のとっかかりとなるだろう。北朝鮮の存在は常に支持率を上向かせる方向で働く。
 

短期的には夏の内閣改造で体制を整えることになる。長期展望では来年9月の総裁選がヤマ場となるが、安倍の唱える憲法9条への自衛隊条項の加憲をめぐって党内論議も活発化するだろう。元幹事長・石破茂が安倍改憲に異を唱え始めているが、党内の大勢は安倍支持の傾向が強い。石破は党内野党化する公算が高いが、国会議員の間では人気が高まる可能性は少ないものの、地方票の集票が得意であり、油断は出来まい。


改憲は急げば来年の通常国会末にも、衆参3分の2以上の賛成で発議することとなろう。その後最短60日で国民投票となる。従って国民投票は衆院議員の任期切れが来年末だから、総選挙とのダブル選挙になる公算がある。


安倍はやがて改憲の“錦の御旗”をかかげて政局をリードすることになるが、今回の柔軟路線への転換は9条改憲が主要テーマとなる以上、保革の対決が再浮上する可能性を帯びている。従っていったん鳩に変身したものの、再び鷹の本性を現さざるを得ないのだろう。

◎俳談

【意味不明の季語】

◆鷹化して鳩となる日の朝寝かな 杉の子
 俳句で訳の分からない3大季語は「鷹化して鳩と為る」「亀鳴く」「雁(がん)風呂」だろう。いずれも春の季語だ。

◆新鳩よ鷹気を出して憎まれな 一茶
は季語を崩して使ったものだ。一茶らしく人間にも当てはまる風刺に満ちている。亀は鳴かないが、俳人には春になると亀の鳴く声が聞こえるのだ。聞こえなければ俳人とは言えない。拙者にも聞こえた。だから作った。

◆この昼は四天王寺の亀鳴けり 毎日俳談2席

「雁風呂」の由来はややこしいが哀愁のある話だ。
青森県では日本に秋に飛来する雁は、木片を口にくわえ、または足でつかんで運んでくると信じられていた。渡りの途中、海上で水面に木片を浮かべ、その上で休息するためであるという。日本の海岸まで来ると海上で休息する必要はなくなるため、不要となった木片はそこで一旦落とされる。

 そして春になると、再び落としておいた木片をくわえて海を渡って帰っていくのだと考えられていた。旅立ちの季節が終わりもう雁が来なくなっても海岸にまだ残っている木片があると、それは日本で死んだ雁のものであるとして、供養のために、旅人などに流木で焚いた風呂を振る舞ったという。

◆雁風呂や海あるる日はたかぬなり 高浜虚子

<今朝のニュース解説から抜粋>    (政治評論家)



◆「南シナ海」の次はインド洋から東アフリカ沿岸だ

宮崎 正弘



<平成29年(2017)6月19日(月曜日)通算第5330号> 

 〜「南シナ海」の次はインド洋から東アフリカ沿岸だ
   中国の軍事野心、すでに次のフェイズに突入している〜

インド洋から東アフリカにかけて島嶼国家が点在している。

南インド洋に群礁を広く点在させるのがモルディブ、絶海の孤島の群れか
らなるセイシェルズ、そしてコモ群島、モーリシャス等々。共通するのは
天然資源に恵まれないことである。

嘗て7つの海を支配した英国が、これらの島々に旗を立てた。

その1つが米軍基地のあるディエゴ・ガルシア。米海軍の空母基地であ
り、ここからアフガニスタン、イラクへの出撃も行われ、現在も中東を睨
む戦略基地である。

これらの島嶼国家が生き延びるために第一の目標は観光立国である。

モルディブは、観光地として名を馳せ、日本からも新婚旅行先として意外
に人気がある。しかし年間120万人の観光客のうち、36万人が中国人であ
る。日本人観光客は年間1万人を超えるか、超えないか。

インドの真南に位置するだけに安全保障上の危惧が広がる。

第2にカリブ海や西インド諸島などに替わってタックスヘブンとして活用
されることが、島嶼国家の経済目標になった。

おなじ島嶼国家とじて大西洋から西インド諸島のケイマン、マン、ヴァー
ジン諸島がタックスヘブンとして大いに活用されてきたが、「パナマ文
書」で資金洗浄や不正送金、汚職資金の隠匿地などと暴露されて以来、世
界の投資家の目が、新天地、金融ハブの処女地としてインド洋に浮かぶ島
嶼国家に向けられるようになったのだ。

距離的に列強の影響下からは遠く、したがって逆に穴場として活用される
利点があるが、同時に金融の安全保障では脆弱となりがち、金融ハブが悪
用されると世界全体の金融システムの安全保障を脅かしかねないリスクも
ある。

ダーティな拠点化としてモルディブの例があげられる。ミャンマーの闇市
から流れ出した石油取引でシンガポールのダミー企業が活用し、8億ドル
の取引があったとされる。

最も怪しいのは中国である。チャイナタウンの建設はすでに知られている
が、2014年に習近平が、このモルディブを訪問している。

一方で貧困が蔓延し、モルディブからISに走った若者がおよそ800名と
見積もられている。


 ▲インド洋に国際政治の津波が押し寄せていた

1975年にフランスから独立したコモロは、海外の悪徳商社らと結びついて
のクーデター事件がすでに20回以上も発生している。

モーリシャス諸島はかつて「インド洋の真珠」といわれたが、いまでは首
都のポート・ルイスに高層ビルが建ち並び、豪華マンション、別荘も建っ
て、外国からの投資が目立つようになった。

最初に上陸したのはポルトガル、ついでオランド、フランスと宗主国がう
つり、最後は英国が支配した。この諸島のひとつが米軍に貸与している
ディエゴ・ガルシアである。つまりインド洋を扼する戦略的要衝である。

めざとい中国が、このモーリシャス諸島に目を付けた。
 
すでに40のプロジェクトを展開し、海水浴などで賑わうリゾート地には
中国人の観光客が目立つようになった。空港の新ターミナル建設では資金
を中国が融資した。
 
ほかにも7億ドルを投資して特別輸出工業区をつくると豪語しているそうな。

セイシェルズ諸島はフレデリック・フォーサイスが『戦争の犬』のモデル
にしたように、クーデターが繰り返された。2004年に旧ソ連寄りの政権が
崩壊して以後は観光立国に路線を切り替えてきたので、ここもまた新婚旅
行のメッカとなった。

ところがセイシェルズ諸島のタックスヘブンとして悪用してきたのがカザ
フ政府の幹部の不正資金隠匿、ナイジェリアの汚職資金が流れ込み、欧米
の監視が始まる。

中国がしゃしゃり出た。
 
2007年に胡錦涛がセイシェルズを公式訪問し、いきなり40の貿易経済協
力協定を締結し、2011年には梁光烈国防相が500名の軍人を率いて訪 問
し、中国の軍事基地建設の話し合いに入った。

米国、英国、そしてインドが、この中国の軍事的野心に神経をとがらせる。

     
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書評 しょひょう BOOKREVIEW 
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 清新なイメージで「小池劇場」を売り込んだのはたいした度胸だが
  『悪代官』を退治するなんて印象操作の化けの皮が剥がれてきた

  ♪
片山善博 v 郷原信郎『小池百合子 偽りの都民ファースト』(ワック)
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都民ファーストと叫んではいるが、実質は『自分ファースト』じゃないの
か。というのが、本書の骨格をなす基調のトーンだ。

「詭弁」と「先送り」が得意技。

真髄の政治信条は不明。結局、この女性知事は「地方自治を弄んでいる」
と舌鋒鋭く、小池都政の欺瞞に迫るのが本書だ。

最近、やたらと増えた小池都政バッシングだが、この本の著者をみれば、
前の鳥取県知事と元検事。いってみれば地方自治の専門家である。

彼女は『敵』と連続的に造りだして、メディアを逆利用して、『悪党』と
対決するポピュリストを演じているが、それに自ら酔ってしまった。しか
も、その酩酊度はリスキーな段階に来ている。

「都民ファースト」なんておこがましく『自分ファースト』で自爆の道を
驀進しているのではないのかと迫る片山元知事は現在大学教授だが、日頃
の言説を聞いているとリベラル色が強い。決して保守でない。
 その片山氏が言うのだ。

都民は「クリーンな政治を求めて」、彼女を撰んだが、「小池知事の政治
姿勢に対して疑問の声」が強くなり、とどのつまり「肝腎の情報公開にし
ても『見せる化』には熱心でも、真の『見える化』からはほど遠い」ので
はないかと強く疑念を呈している。

しかし、彼女を撰んだ本当の理由は対立候補が「バカとアカ」しかいな
かったから他の選択肢がなかったからじゃないの?

一方、郷原氏は「都民にとって小池知事に期待する部分が大きいものの、
豊洲移転問題を政争の具にすることに違和感を覚え始めた」のが都民の大
多数であり、都民ファーストが実際の選挙では票に結びつかないだろうと
示唆する。

片山氏曰く。「重責を担う都知事が、スター性に酔ってはいけない。政党
を立ち上げ、都議会選挙に臨む時間など本来ないはずだ」
 
そして郷原氏曰く。

「『安全』を『安心』の問題にすり替え、暴走する小池都知事。このまま
では東京都の『地方自治』は遠からず崩壊する」と。

小池劇場批判の先陣を切ったのは桜井よしこ氏と有本香氏だが、この都政
批判の出版ブームはまだまだ収まりそうにない。『新潮45』など、ほとん
どが小池百合子都知事批判である。

こうなると、本選挙で何割の都民が投票に行くのかな?
   
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◆樋泉克夫のコラム 
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【知道中国 1586回】  
――「正邪の標準なくして、利害の打算あり」――(徳富25)
  徳富猪一郎『七十八日遊記』(民友社 明治39年)

徳富は続ける。

「支那人に於ては、言と行とは、丸るて氷炭相容れさる慣習」であり、
「彼等には兩樣の世界」がある。1つは「形式の世界」であり、そこに
「彼等の假我」が存在する。残る1つが「彼等の眞我」を宿す「實地の世
界」だ。彼らは自らの体内に「假我」と「眞我」とを同居させているか
ら、矛盾する言動であっても「罪惡とも感せす」、また「毛頭其の自覺
か」ない。

その姿はまるで「墮落僧か、法衣を著け、佛壇に向ては、殊勝に念佛し。
扨て其の法衣を脱すれは、乍ち修羅道の人間に化するか如く」である。

かくして「形式の上には、孔言、堯語、禹歩、舜趨、洵に立派な樣なれ
とも、其の眞我を發露するに至りては、利得一遍の俗物に外ならす」。

つまり彼らはなんの罪悪感もなく「假我」と「眞我」とを使い分ける「利
得一遍の俗物」ということ。だから共産党幹部になって不正蓄財をしよ
う、である。つまり言行不一致のどこが悪いのだ、ですね。

 (44)【受身の強身】=彼らが「萬事に、悠々不迫、平氣の平左衞
門」であり、「呑氣」「無頓着」「無遠慮」であることには、「腹の立
程、感心致し候」。たとえば「日本人は、栗の剌殼を剥かねは安心」でき
ないが、「支那人は、自ら發けて、栗實かころけ落つるを、拾ふ者に候」。
つまりは「自然の成行を待」つ。一見すれば受け身のようではあるが、そ
れが結局は「強身」となる。これを言い換えるなら、忖度抜きの面従腹背
ということ。

 (45)【時間を無視して、時間を利用す】=政治であれ経済であれ、凡
そ一切の交渉・取引において彼らが持つ最も有力で効果的な武器は、「呑
氣の一事に候」。時間の観念が無いからこそ、交渉相手が焦ろうが怒ろう
が全く無頓着でいられる。時はカネなりという格言は、彼らにとっては全
くの無意味。時はカネであることを理解しようとしない彼らだが、「之を
利用するの道を、殆んと先天的に解し」ている。それゆえに「?巧なる獨
逸人さへも、彼等には往々氣根負けすること」がある。

ここで時間を無視して時間を利用した例を示しておきたい。

先ずは共産党が革命の聖地と喧伝する延安でのこと。1930年代後半から毛
沢東らは同地で劣勢挽回を目指したわけだが、当時の極貧の延安で腕時計
を持っているのは限られた共産党幹部だけ。いわば幹部は時計によって延
安の時間を支配していた。
まさに人民の時間を無視し、自らが設定した時間を利用することで、支配
地域を広げていった。

毛沢東は昼夜反対の生活を好んだらしい。深夜に起床して、劉少奇だろ
うが周恩来だろうが、勝手気ままに呼びつける。
この生活ぶりは建国以後も変わらなかった。まさに他人の時間を無視し
て、自らの時間を利用することで権力を強化させたのである。

50年代末から60年代中期まで続いた「中ソ論争」は、中国側の公式見解
では中国の圧勝に終わっている。
毛沢東によってモスクワに送り込まれた?小平が、ソ連共産党の理論指導
者のスースロフを完膚なきまでに論破したからだ。だが、あるいはヒョッ
として、スースロフが仕掛ける論争を「呑氣の一事」で柳に風と受け流す。
!)小平の「呑氣の一事」にスースロフが「氣根負け」したからではなかろ
うか。いや、キッとそうだ。

そういえば明治29(1896)年に故郷・熊本の貧乏百姓を引き連れ入植の
ためにシャムに赴いた宮崎滔天は、バンコクでの体験を「一気呵成の業は
我人民の得意ならんなれども、此熱帯国にて、急がず、噪がず、子ツツリ
子ツツリ遣て除ける支那人の氣根には中々及ぶ可からず」と綴っていたっけ。

尖閣問題、南シナ海問題、一帯一路、AIIB・・・「呑氣の一事」には注意
の上にも要注意。目には目を、歯には歯を、多弁には多弁を、無駄口には
無駄口を、ヘリクツにはヘリクツを、そして何よりも無頓着には無頓着
を、デス。
《QED》

◆情報機関の調査機能の一掃を目論む韓国

櫻井よしこ

 

「情報機関の調査機能の一掃を目論む韓国の現状を日本は注視すべき」

46年前の1971年に、東京・渋谷で沖縄返還協定反対デモがあり、警備に当
たった新潟県警の中村恒雄警部補、当時21歳が殺害された。「渋谷暴動事
件」である。その犯人と思われる大坂正明容疑者が6月7日、逮捕された。
実に46年間も逃げ続けていたのだ。
 
人々が忘れ去っても、ずっと事件を追い続けた公安と警察の働きがあって
初めて、大坂容疑者の逮捕となった。国や社会の安全は、このような地道
な息の長い努力によって守られていることを改めて認識する。
 
いま、欧州、中東、南アジアなどではテロが続発し、国内治安を守るのは
容易でない。国内の不穏な動きを厳しく監視できなければ、安全な国民生
活は守りきれないといってよい。
 
とりわけ南北に分断されている朝鮮半島では、韓国は北朝鮮の対南工作に
晒されてきた。他のどの国と較べても、国内治安維持のための監視体制が
必要な国だ。ところが、文在寅氏が大統領に就任して日も浅い6月1日、早
くも非常に憂うべき決定が下された。
 
国家情報院(国情院)を「改変」するというのだ。第一報を、私は6月5
日付の「産経新聞」櫻井紀雄記者による、ソウル発の記事によって知っ
た。国情院は北朝鮮の独裁政権から韓国を守るために、あらゆる謀略工作
に目を光らせる機関である。国家保安法を執行する、日本でいえば公安調
査庁と警察を合わせたような組織だ。

その国情院院長に就任した徐薫氏が、これまで、国情院のみならず各種の
機関で情報収集に当たってきた国内情報担当官(IO)制度の廃止を指示
したという。もし、実行されれば、日本でいえば公安調査庁、警察を筆頭
とする全情報機関の調査機能が一掃される事態が生ずる。

「統一日報」論説主幹の洪熒(ホン・ヒョン)氏が語る。

「もし、そのようなことを実行したら、スパイ捜査もできなくなります。
全ての公安関係の組織活動が根底から切り崩されます。果たしてそんなこ
とができるのか、疑問です」
 
実は、金大中、盧武鉉、金泳三各氏ら歴代の左翼系大統領は皆同じ提案を
した。しかし、流石に国家の基盤である情報組織を解体することはできな
かった。今回も同じ展開になるのではないかと、洪氏は見る。
 
一方で懸念すべきは、これまで北朝鮮の工作員など韓国に害をなすと思わ
れる勢力に向けられていた情報機関の活動が、逆に国民の方に、とりわ
け、保守勢力に向けられてくるのではないかということだ。洪氏の解説で
ある。

「日本からでは韓国の実態はわかりにくいかもしれません。朴槿恵前大統
領があっという間に弾劾、逮捕され、収監された背景を頭に入れておく必
要があります。民労総(全国民主労働組合総連盟)や全教組(全国教職員
労働組合)などの勢力が反朴運動を支えましたが、これらは日本の自治労
や日教組をもっとずっと激しい極左にしたような組織です。彼らの支持の
上に現在の文政権があるのです」
 
彼らは文氏も含めて、北朝鮮の破綻が明らかな現在も、金日成氏の主体思
想を信奉する人々である。
 
文氏は盧政権下の秘書室長(官房長官)だった。盧大統領は事実上、国
情院によって、北朝鮮に従う余り韓国を裏切ることになった行動を暴露さ
れている。今回の措置は、文氏が盧氏の失敗に学んで、まず、韓国内の情
報機関の潰滅を狙った可能性も考えられる。隣国の状況の深刻さが窺える。
 
こんなときこそ、日本国内の状況への目配りが重要だ。沖縄での反米軍基
地運動をはじめ、慰安婦問題で政府を追及する会合などが、日本各地で驚
くような頻度で開催されている。少なからぬ朝鮮半島の人々や中国人が参
加している。外国籍の運動家の、日本における政治活動の実態の危険度に
注視し、日本は韓国の現状から学びとるべきではないか。

『週刊ダイヤモンド』 2017年6月17日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1186
  

◆本質を見抜けぬ人々

渡部 亮次郎



50・8対43・2。「右」と言われる産経・フジの世論調査でさえこれであ
る。「日本の政治家は核保有について議論すべきですか」と言う問いに対
し「はい」が50・8%、「いいえ」が43・2%にも達したのである。

朝日新聞や読売新聞がしたらどうなるだろう。

日本が核を持つことが良いか悪いかを論議するだけで中国が震え上がり、
北朝鮮も動揺したと言うのに、読者は43.2%もの人がその仕掛けに気づか
ない。なんと言うことだろうか。

「はい50・8%で安心」という意見もある。2006年11月7日付の「産経抄」で
ある。

< 日曜日のNHK討論番組での、自民党の二階俊博国対委員長の発言に
は仰天した。中川昭一政調会長や麻生太郎外相が提起した核論議に対し
て、「任命権者の責任を問われる事態になりかねない」と、安倍晋三首相
まで持ち出して“封殺”するかまえだ。

 ▼北朝鮮の核の脅威が現実のものとなり、海外では、日本の核武装の可
能性が取りざたされているのに、国内では論議さえ許されない。この
ギャップはどこからくるのか。比較文化論が専門だった鯖田豊之さんは、
かねて欧米諸国と日本の「平和観、戦争観のくいちがい」を指摘していた。

 ▼鯖田さんは、鎖国を例にとって説明する。徳川幕府は、イスパニア船
やポルトガル船の来航を禁止すると同時に、国内で大船の建造を禁止し
た。本来なら海軍力を増強して、これらの船に備えなければならないはず
なのに。

 ▼「相手がどうでるか考えないで、一方的宣言だけでことがかたづくと
するこのような発想は、欧米諸国にはとうていみられないのではあるまい
か」(『日本人の戦争観はなぜ「特異」なのか』主婦の友社)。なるほど
「非核三原則」は、その最たるものだ。

 ▼日本の「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」の政策を、核保有
国が見習ってくれる。こんな幻想を持つ国は、確かに国際社会では、「特
異」に違いない。夕刊フジの4コマ漫画「ヘナチョコおやじ」で、作者の
しりあがり寿さんは先週、「核を論議しない」を加えて、もはや「非核4
原則」だと風刺していた。

 ▼笑い事ではないが、幸いにも、きのうの小紙に載っていた世論調査に
よれば、「政治家は議論すべきか」の問いに50・8%が「はい」答えて
いる。国民の多くは、現実的な安全保障論議を求めているのだ。平成
18(2006)年11月7日[火]>

時を同じくして『週刊新潮』の11月9日号で文芸評論家野口武彦氏は連載
「幕末バトル・ロワイヤル」の59回目で「安政内憂録14 ストレスに死
す」と題して老中阿部正弘 39歳の癌死を取り上げている。

これらを併せて読むと、現在の日本が遭遇している状態はまさに「国難」
であり、事態の真髄を理解しているものは政治家にも少なく、民主党など
は開国を装った攘夷派という複雑怪奇な存在と理解できる。

尤も、核問題に関して民主党(当時)では西村真悟氏のような「所有」を主
張するものから旧社会党の残滓まで様々であって、安全保障政策全般につ
いて統一した見解を出せないままだ。そうした状況から幹事長(当時)鳩山
氏の支離滅裂な発言で党を売り込もうとする売国行動が出るのだろう。

それにしても開国に至る過程での阿部正弘の苦悩は大変なものだった。私
の日本史履修はここまで来ないうちに高校卒業となってしまったため、こ
の時期についての理解は小説のみに依存していた。

阿部 正弘(あべ まさひろ)は江戸時代末期の大名、江戸幕府閣僚で老中
首座(総理大臣)を務めた。備後福山藩(現在の広島県福山市)7代藩主。

幕末の動乱期にあって『安政の改革』を断行した。阿部にとってはこれら
のすべてが今で言うストレスとなり、消化器系癌の進行を早めたという見
方である。

文政2(1819)年に5代藩主阿部正精の6男として江戸に生まれた。天保
7(1836)年に7代藩主に就任。翌年(1837年)に正弘は福山(広島県福山
市)へのお国入りを行った(正弘が国許へ帰ったのはこの1度のみである)。

正弘は天保14(1843)年に25歳で老中(閣僚)となり、同年、老中首座で
あった水野忠邦が天保の改革の挫折により失脚したため、老中首座とな
る。第12代将軍徳川家慶、第13代徳川家定の時代に幕政を統括する。

また、薩摩藩の島津斉彬や水戸藩の徳川斉昭など諸大名から幅広く意見を
求め、筒井政憲、戸田氏栄、川路聖謨、井上清直、水野忠徳、江川英龍、
ジョン万次郎、岩瀬忠震、ら大胆な人事登用を行った。

嘉永元(1848)年、アメリカ合衆国の東インド艦隊が相模国浦賀(神
奈川県)へ来航して通商を求めると、正弘は鎖国を理由に拒絶したが、嘉
永6(1853)年に再びマシュー・ペリー率いる東インド艦隊がアメリカ大
統領フィルモアの親書を携えて浦賀へ来航した。

同年7月には長崎にロシアのエフィム・プチャーチン艦隊も来航して通商
を求めた。 この国難を乗り切るため正弘は朝廷を始め外様大名を含む諸
大名や市井からも意見を募ったが結局有効な対策を打ち出せず時間だけが
経過していった。

こうして正弘は積極的な展望を見出せないまま、事態を穏便に纏めるかた
ちで安政元(1854)年日米和親条約を締結させることになり、約200年間
続いた鎖国政策は終わりを告げる。

ところが、安政2(1855)年、攘夷派である徳川斉昭の圧力により開国派
の老中松平乗全、松平忠優の2名を8月4日に罷免したことが、開国派で
あった井伊直弼らの怒りを買う。

孤立を恐れた正弘は同年10月、開国派の堀田正睦を老中に起用して老中首
座を譲り、両派の融和を図ることを余儀なくされた。こうした中、正弘は
江川英龍(江川太郎左衛門)、勝海舟、大久保忠寛、永井尚志、高島秋帆
らを登用して海防の強化に努め、講武所や洋楽所、長崎海軍伝習所などを
創設した。

また、西洋砲術の推進、大船建造の禁の緩和、など幕政改革(安政の改
革)に取り組んだ。しかし、安政4(1857)年正弘は老中在任のまま急死
する。享年39。

ちなみに、正弘は蘭学の導入に積極的であったが、自らは蘭方医を最後ま
で拒んだという。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2006・11・10