2017年08月19日

◆蔡政権の現状萎縮

Andy Chang



私が東南アジア平和連盟(PASEA)を提唱した(AC通信No.357)のは2011
年7月だった。それから一年後に安倍首相がダイアモンド構想(Asia’s
Democratic Security Diamond)を発表したので心強く思ったものだが、
これと言った発展はない。

平和構想もダイアモンド構想も日本が主体となるべきだが、私の提案は台
湾が主体となって南アジア諸国と外交を展開すべきだとしていた。当時の
台湾は馬英九政権で中国一辺倒だったから、民間の台湾人が主体となるこ
とを期待したが何も起こらなかった。

去年の選挙で蔡英文が総統に当選し、国会も民進黨が過半数を占めて完全
執政と言われた。蔡英文は南進政策を提唱したが、この1年半は現状維持
どころか外交、内政みんな停頓したままだ。現状維持ではなく現状萎縮で
ある。

蔡英文は中国の要求する「92共識」を無視して現状維持を続けているが、
中国の爆撃機の編隊や空母群が台湾の周囲を航行するようになったのに
台湾側は抗議せず沈黙している。現状維持ではなく萎縮が顕著になっただ
けである。

●アメリカの曖昧政策は間違い

アメリカは台湾がアジアの平和に最も重要であることを理解している。し
かしアメリカの歴代大統領は誰一人として台湾の領土問題を解決せず、曖
昧な態度を取り続けてきた。

台湾は中国の領土ではないからアメリカが台湾国を承認すれば解決する問
題を糊塗し続けてきた。中国の恫喝に反対する態度を取れないからである。

一部の台湾人はアメリカが台湾の主権問題に決定権があるように思ってい
るがそうではない。台湾は米国の領土でも中国の領土でもない。台湾の現
政権が「中華民国」を維持すれば2つの中国となり、アメリカは曖昧にな
らざるを得ない。

米国の国会が通した台湾関係法は中華民国を認めないが「台湾の現政権」
と関係を維持するだけの曖昧さを守ってきた。現政権は中華民国で、これ
は台湾政府が主張する名称である。アメリカは台湾独立を支持しない、と
レーガン6か条に書いてある。中国は台湾が独立すれば攻撃すると威嚇し
ているが台湾の主権に干渉する権利はない。

このジレンマを解決するにはアメリカが台湾の現政権を台湾と呼べばよ
い。しかしアメリカにとっては台湾が中華民国ではなくて台湾であると声
明しなければ台湾と呼べない。蔡英文は委縮している時ではないのだ。民
間には公民投票法案を通してから国民投票で正名運動を始める計画がある。

●国民党こそ諸悪の根源

2大政党は民主政治の理想的形態だと言うが台湾では通用しない。台湾
には民進黨と國民黨の2大政党があり、国民党は中国との統一を主張して
いるにも拘らず、民進黨は独立を主張しない。これこそ民進黨政権が萎縮
している原因である。出来ないのではない、やらないのだ。

民進黨政権は発足してから転型正義を唱え、司法改革、年金改革、国民党
の違法取得財産調査など、重要案件は山ほどあるのに進展しない。国会で
投票に持ち込む度に国民党と乱闘になる。今でも退役将軍が中国で講演
し、軍の機密漏洩、銀行の違法送金、造船汚職などが起きている。行政院
長、外交部長、3軍総司令などはみな外省人である。

台湾が中華民国を脱却しなければいつまでも中国の圧力を受けて現状維
持と呼ぶ萎縮を続けることになる。諸悪の根源は国民党の統一派だが、蔡
英文政権が無力で国民党の勢力に押されているのが現状である。

●蔡英文は陳水扁の冤罪を晴らせ

民進黨が台湾人民の支持を失った原因の一つは陳水扁の冤罪を解決しな
いことである。馬英九がでっち上げの罪で陳水扁を監獄に入れて虐待した
結果、陳水扁はひどく健康を害して今では車椅子に乗って行動するように
なった。陳水扁が起訴された3つの罪は全て国民党のでっち上げで、当時
の証人がみな国民党に脅迫されて偽証したと述べた。それなのに彼はまだ
無罪判決を得ていない。

民進黨が政権を取ったあと人民は蔡英文に陳水扁の冤罪を晴らせと何度も
要求したが、民進黨は陳水扁の冤罪を晴らすことに反対し、蔡英文総統の
特赦もない。これでは台湾の転型正義は絵に描いた餅である。民進黨が嘗
ての党首陳水扁を敵視する理由がどうであれ、これは正義と人道に反する
行為であり、人民が民進黨を唾棄する原因である。

民進黨がどのような政治的利害関係で陳水扁無罪に反対するのかは知ら
ないが、蔡英文は全台湾人の総統である。民進黨の内情よりも台湾の正義
のためにも早急に陳水扁の無罪を晴らすべきだ。

●現状維持は自己束縛ではない

現状維持はアメリカが台湾に「勝手な行動で中国を刺激するな」と要求し
たことは一般の知るところである。でもアメリカは台湾を束縛する権利は
ない。

台湾が自己束縛する必要はない。アメリカも自己束縛を要求していない。

中国を無視して日本と東南アジア諸国との外交を活発にする、これこそ
PASEA外交である。中国の戦闘機や軍艦が台湾の周囲を航行するなら
アメリカの空海軍に台湾の軍事基地の使用を許可すればよい。

現状とは「台湾は台湾人のものだ」と言うことだ。蔡英文は現在の無為無
策から脱却すべきである。外交と同じように大切なのは内政である。2党
政治よりも国民党を排除して台湾人の政党を援助し、閣僚、軍部上層部、
財政部の改革、汚職追放、官商癒着など、外省人が台湾を食い物にしてい
る現状を一掃することである。(在米台湾人地球物理学者)


◆戦略も価値観も失くした米政権

櫻井よしこ



アメリカ共和党のジョン・マケイン上院議員が7月19日、脳腫瘍を患って
いると発表した。同情報をアメリカ各紙は大きく報じ続けている。その詳
細な報道振りから、改めてマケイン氏の政治的影響力の程を認識した。

氏はベトナム戦争で負傷し、北ベトナムの捕虜として5年間拘束された。
解放の機会は幾度かあったが、同僚の軍人たちを残しての解放には応じら
れないとして最後まで頑張り通した。このような経歴に加えて、共和党員
でありながら、共和党に対してさえも言うべきことは言う正論の人として
の姿勢が、党派を超えて高く評価されている。

マケイン氏が6月18日の「ウォール・ストリート・ジャーナル」
(WSJ)紙のインタビューにこう語っている。

「もし我々が人権についての主張を放棄すれば、我々は歴史において興亡
を繰り返す(そしてやがて滅びていく)その辺の国と何ら変わらない」

「人間を変えることはできない。人間は自由を求める存在である。世界の
人々はロールモデルとして、精神的支柱として、我々を見ている」

氏が念頭に置いているのはドナルド・トランプ大統領である。トランプ氏
は最初の外遊先に中東を選んだ。その中で、女性の人権について非常に問
題のある国だとされているサウジアラビアでの会談で、人権問題に全く触
れなかった。その点に関して、マケイン氏はこう述べた。

「アメリカはユニークな国家だ。我々は失敗や間違いも犯したが、人々の
ために立ち上がった。信ずるところに従って立ち上がらなければ、我々は
他の国と同じになる」

アメリカのメディアはこれをトランプ氏への「痛烈な批判」と報じた。だ
が、トランプ氏はその後も各国の人権状況には殆ど無頓着であり続けてい
る。中国共産党政権下で拘束されていた劉暁波氏が死去した7月13日、ト
ランプ氏はパリでマクロン仏大統領と首脳会談を行った。ここでもトラン
プ氏には人権という概念が全く欠落していると思わせる発言があった。

プーチン大統領を称賛

共同記者会見で中国について問われ、トランプ氏は習近平国家主席を「偉
大な指導者だ。才能に溢れた好人物だ」と称賛したのである。習政権に
よって逮捕、拘留され、まさに死に追いやられた民主化運動の精神的支
柱、劉暁波氏には、一言も触れなかったのである。

このような姿勢への批判が高まり、ホワイトハウスは5時間後、大統領の
コメントを発信する羽目に陥った。だが、それはごく通常の「お悔やみ」
の言葉にすぎず、抑圧された人々の自由と権利のために、アメリカの影響
力を最大限行使する気概は全く見てとれなかった。

マケイン氏が指摘するように、アメリカを大国たらしめ、国際社会の中心
軸たらしめた要因は、単に世界一の軍事力と経済力だけではない。「アメ
リカが己の信条に忠実に、人類普遍の価値観を守ろうとし続けたから」で
ある。

アメリカの歴史を振りかえると、大国への道程のひとつが1861年から4年
間続いた南北戦争だといえる。その戦いの軸のひとつは、黒人奴隷の解放
という、人権、普遍的価値観を巡る信念だった。北部諸州の勝利はアメリ
カが普遍的価値観に目覚め始めたことを意味する。そのときから約150
年、さらに第一次世界大戦から約100年、アメリカは経済、軍事の双方に
おいて大英帝国を凌駕し、世界最強国への階段を駆け上がり続けた。

第二次世界大戦直後には、ギリシャ及びトルコ防衛、つまり地中海を旧ソ
連の脅威から守るために北大西洋条約機構(NATO)を創設し、第二次
世界大戦で疲弊した欧州及びアジアの再生を促すべくマーシャル・プラン
を実施した。

アメリカは「自由世界」の盟主として、民主主義、人間の自由、弱者救済
など、誰もが賛成せざるを得ない普遍的価値観を基盤にして共産主義、社
会主義陣営と戦った。

アメリカの政策を具体的に見れば、たとえば対日占領政策に関しては、日
本人としては大いなる不満がある。欺瞞も指摘しなければならない。それ
でも、当時、世界が直面していたソビエトの共産主義・社会主義に対峙す
べく、あらゆる力をもって備えようとしたアメリカの戦略は正しかったと
思う。

アメリカを「偉大な国」の地位に押し上げた要因は、この大戦略を持って
いたこと、人類普遍の価値観を基盤としたことの二つであろう。

しかしいま、戦略、価値観共に揺らいでいる。戦略が欠落している結果、
トランプ氏はNATOを「時代遅れ」と呼び、年来アメリカの敵と位置づ
けられてきた独裁専制政治を実践するロシアのプーチン大統領を称賛する
のである。

眼前の利益

7月24日付の「タイム」誌の表紙を飾ったのはトランプ大統領の長男の
ジュニア氏だった。氏を真正面からとらえた顔写真の上に、氏が公表した
eメールの文面を重ねた表紙で、「Red Handed」(赤い手に捕われて)と
いう鮮やかな黄色文字で書かれた特集タイトルが目を引いた。

大統領選挙の最中、クリントン氏に不利な情報、従ってトランプ氏に有利
な情報を提供できると称するロシア側の連絡を受けて、ジュニア氏は、そ
の人物にトランプタワーで会った。ジュニア氏は、「会ってみたら何も役
立つ情報はなかった」「一刻も早く面談を打ち切りたいと思った」と弁明
するが、タイム誌が指摘するまでもなく、大統領選挙に勝つために、ロシ
アと力を合わせようとしたこと自体が問題である。

ロシアの協力を得て目的を達成しようと考えたこと、実際にそのような機
会が申し入れられたとき、それに乗ろうとしたこと自体が問題だというの
は常識だが、トランプ氏も、氏の身内も、この点を明確に認識していると
は思えない。

タイム誌は、「結局大金持ちを(大統領に)選ぶということはこういうこ
となのだ」と書いたが、それは誰が敵か誰が味方かを判断できず、眼前の
利益だけを追い求める人物を指導者に戴く危険を指してもいるだろう。

トランプ氏を大統領に据えて漂流しかねない国に、日本は無二の同盟国と
して大きく依存している。国家としての足場の危うさを感じざるを得ない。

そうしたいま、わが国は加計学園問題に時間を費やしている。天下りの既
得権益を侵された官僚の、安倍晋三首相に対する挑戦であり、憲法改正に
向かいつつある首相の動きを阻止したい大方のメディアの挑戦であるの
が、加計学園問題の本質だ。不条理な反安倍の猛烈な逆風の中でも、私た
ちは、厳しい世界情勢を乗り切るために安倍首相の下で憲法改正を実現す
るしかないと思う。日本にこそ、戦略と価値観の軸が必要なのだ。そのこ
とになぜ気づかないのかと思う。
『週刊新潮』 2017年8月3日号  日本ルネッサンス 第764回

◆次期中央軍事委員会副主任に李作成将軍が有力

宮崎 正弘



<平成29年(2017)8月18日(金曜日)通巻第5397号> 

(速報)
 〜次期中央軍事委員会副主任に李作成将軍が有力
  中越戦争で戦歴、陸軍大将(64歳)、氾長龍退任と交替へ〜

サウスチャイナモーニングポスト(8月17日)が伝えた。次期中央軍事委
員会副主任に前「成都軍管区」司令、陸軍大将の李作成(64歳)が最有
力と報じた。

李は安徽省出身で、1979年の中越戦争を指揮して戦果を上げた功績を習近
平が評価し、また汚職とは無縁と判断された。

しかし事情通によれば、さきに失脚した徐才厚、郭伯雄の人脈に重ならな
いばかりか、彼らが副主任時代に軍隊で冷遇された過去を、習近平が気に
入ったという。
 
来月に引退が予定される氾長龍副主任のポストの後任となる。副主任は事
実上の軍最高位のポスト。

党大会前に軍人トップの交代が行われることは、習の主導権がやや固まっ
た観がある。
     
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 中国が米国債保有高で、ふたたび世界一に返り咲いたが
   ロシアは60億ドル売り越し、1029億ドルを保有。世界14位。
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米財務省統計により米国の赤字国債保有高は、中国がふたたび日本を抜い
て、第1位に返り咲き、1ヶ月で443億ドルを増やしていた。

他方、ロシアは同期間に60億ドルを売却し、保有高は1029億ドルとなった。
 
これは米国赤字国債保有ランキングで世界第14位である。

ロシアは来年の大統領選挙を控え、経済的困窮状況の克服が優先課題と
なっているため、プーチン大統領は政治的に米国に対抗するポーズを示す
必要がある。だから全額の売却を控えるのだ。
 
しかし、米国との競合に明け暮れ、2022年には米国を凌駕するなどと豪語
している中国が、しかも16年10月にはIMFのSDR通貨に参入したにも
かかわらず、なぜ米国債の保有高を増やす必要があるのか。

人民元経済圏を膨張させるのではなかったのか。あるいは政治的判断か経
済的事由より重要だったのだろうか?

モスクワ大学の経済学のアレキサンドル・ブズガリエ教授は『プラウダ』
(英文版、8月16日)に答え、「中国はドルが必要だからさ」と単純明快
に背景を説明した。

人民元の決裁権を増やすとはいえ、中国の輸出先はアメリカであり、しか
も、多くの国々との決済はドルであり、通貨スワップを行っている香港、
マカオ、マレーシアなどでも人民元建ての貿易は少ない。

豪語していることと矛盾しているが、中国はドル基軸態勢の中で、経済活
動を維持せざるを得ないという自国通貨の脆弱性を自ら認識できているの
である。
         
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◆書評 しょひょう BOOKREVIEW 
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 明代の公文書「皇明実録」を読み解くと、尖閣は琉球に属し、「明の領
土ではない」
と明記されているばかりか「台湾の付属島嶼でもない」と書かれていた。

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石平 vs いしゐのぞむ『中国が反論できない真実の尖閣史』(扶桑社)
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 世の中には熱血漢がいるものである。
 尖閣諸島は日本固有の領土だが、あれは「歴史的に中国のもの」と難癖
をつけて、日本が隙を見せたら日本から奪おうとしている中国にとって
は、南シナ海の岩礁を勝手に埋立て人口島とし、軍事施設を建造して「昔
から中国領だ。文句あっか」と開き直ったパターンを繰り返そうとしてい
るのである。

次にインドに楯突き、シッキム、ブータンの領土を強奪して既成事実化せ
んと軍を派遣し、いまインドとにらみ合っている。ここにバングラデシュ
に通じる回廊をつくり、インドの東西分断を図ろうという長期計画がある
のだろう。

もしインドが隙を見せたら電光石火、中国はあそこを盗むだろう。なぜ、
このタイミングを撰んでいるのかと言えば、米国がいま北朝鮮問題で忙し
く、インド国境の問題に介入する余裕がない。インドもそれを望んでいない。

ましてスカボロー礁を中国がフィリピンから盗取したが、米艦隊は「航行
の自由作戦」と称して、付近の海域を駆逐艦が通り抜けるだけ。中国に
とってまととないチャンスだからだ。

中国共産党は天下を盗んだ革命後、南モンゴルを侵略して内蒙古自治区だ
と言い張り、東トルキスタンに侵略して新彊ウィグル自治区だと獅子吼
し、そしてチベットを全部凌奪している。

尖閣諸島ばかりか、琉球回収(つまり沖縄奪還)と叫び、台湾まで「中国
の不可分の領土だ」と言い張っているのだから、その歴史意識に客観性を
求めるのは徒労でもある。

リアルポリティックスの見地に立てば、軍事戦略を行使して、相手を踏み
にじっても自己の主張を達成するという弱肉強食の論理にしたがっている
だけである。

さて世の中に熱血漢がいるものである、と冒頭にのべたのも、共著者のい
しゐのぞむ氏のことである。

氏は中国の古文書、歴史文献の研究者だが、すでに2012年7月17日の産
経新聞が一面トップで報じたように「明代に皇帝から琉球へ派遣された使
節」が残した「上奏分」に「尖閣諸島から琉球がはじまる」と書いてある
ことが判明し、中国の主張が崩壊していることを突き止めた。

 尖閣で領海侵犯した中国人漁師を民主党政権下で日本はさっさと釈放し
た。日本は法治国家ではなかった。国際社会に恥を晒した。
 この体たらくに怒髪天をついたいしゐ氏は、中国語でかかれた古い文献
を収集し、そこに書かれた中国語を読解したのだ。しかし骨董的な古文書
は高価である。それを自費で購入し、誰の支援も、国の推奨金もなくやり
遂げた。

 とりわけ明代の公文書「皇明実録」を読み解くと、尖閣は琉球に属し、
「明の領土ではない」と明記されているばかりか「台湾の付属島嶼でもな
い」と書かれていた。

 清朝になると「琉球紀行は次第に詳しくなり、琉球人が水先案内をする
海域も明確化されてくる。それはなんと大陸のすぐ近くの馬祖列島からな
のである」(47p)。
 つまり琉球の水先案内人(向導)がいないと「琉球へ出航さえできな
い」のだから、尖閣諸島を領有している筈がない。
 
 本書ではほかにも膨大な尖閣史料と世界航海地図を読み解き、石平氏と
徹底的に解題したのが本書である。
 石平氏が言うように「中国人にとって歴史はニセモノの骨董品」であ
り、嘘放送に左右されず、我が国は断固として固有領土を守り抜かなけれ
ばならない。
 でなければ推薦の百田尚樹氏が言うように「尖閣を奪取されたら日本は
おしまい」である。

◆指導者としての資質を考える

眞鍋 峰松



最近の中国やロシア、さらに北朝鮮などのニュースに接する度に思うことがある。

どうも日本の優秀と言われる人物とりわけ政権中枢にいる方々の、不測事態へ対応する能力が本当に大丈夫なのか、不足しているのではないか、という危惧である。また、幾ら事前の準備に怠りがなくても、肝心の決断力がなくてはどうにもならない。
 
これに関連し、思い出すのが昔、昔の話。 阪神・淡路大震災の経験から、毎年恒例として行われる地震災害へ備えた、防災訓練について、である。 

地方自治体や国の出先機関などの行政を始め地元自治会など幅広い方面を巻き込んで大々的に実施されてきた。
 
だが、毎年恒例の行事として行われる故もあってか、災害発生時の住民への避難誘導や救急医療体制の初動活動などが中心で、その当時からマンネリ化の懸念を感じていた。

仄聞するところでは、アメリカでのこの種の訓練では、対策本部における非常事態へのギリギリの判断。例えば、A地点とB地点とに危機が迫っている場合に、如何に防災力を適正分散するべきか、最悪の場合にはどちらか一方に優先して防災力を振り向け、どちらか一方を犠牲にするかなど、指揮を執る人物の決断力が試されるようなケースまで想定し訓練しているとのことだった。
 
最近ようやく我が国においても、この実例として、負傷者多数の場合における負傷程度による治療優先順位の決定問題が、ギリギリの決断訓練の一つとして採り上げられている。

ところが、である。過去に一度、ある都道府県で、このアメリカの方式を採り入れて、水防訓練の中で破壊的水量を抑制するために人為的に堤防決壊させ、水量分散を計るというギリギリの決断を想定したことがある。
 
決壊した場所では、当然なにがしかの被害が発生するのだが、その時、当時の知事は激怒し、そのシュミレーションの場を立ち去ってしまったというのである。要は、彼は逃げたのである。だが、このような決断力こそが、本来のトップ・リーダーに求められる能力、不測事態への対応能力である。              
以前読んだ書物の中に「孤独は全ての優れた人物に課せられた運命」との表題で、

@トップには同僚がいない 
A最終意思決定には誰の助力を求められない 
B自由に意思の伝達がし難い 
C正しい情報を得ることが稀である 
Dしかも、なお、最終的な責任を負っている、
と記述されていたのを思い出す。
 
まさに、これがトップ・リーダーに課せられた運命なのだろう。また、これは、塩野七生氏の著書「日本へ 〜国家と歴史篇」からの引用だが、人間の優秀さについての記述で、その一つが、色々な事態に対し、原則を変えずに、如何に例外を設け、さらにその例外事項を他に類を及ぼさないようにするか。
 
さらにもう一つ。日本的秀才は、予期していた事態への対処は上手いが、予期していなかった事態への対処は、下手なのが特質であるらしい。

しかし、予め分かっている質問に答えるのに、人並み優れた頭脳は必要ない。真正面から答えるか、それともすり抜けるかの違いはあっても、予期していなかった質問に対処して初めて、頭脳の良し悪しが計れるのである、というである。

私が思うに、前半の部分は、むしろ上級公務員の優劣の判断基準に向いおり、後半の部分は政治家を始めとする、組織のトップの資質の判断基準に向いているように思われる。
 
要は、決断するのは難しい作業である。決断に際して、十分に情報を集め、徹底して分析したから万全だ、ということは絶対にない。考える材料が全部そろい、やるべきことが自ずと分るのなら、リーダーは何もしなくてよい。つまり、決断するための情報収集と分析は程度問題である。
 
信頼を繋ぎ止めたるためなら、「ここまでは考えたけれど、これ以上は運を天に任せる」と踏み切るのがリーダーの役割だ。
 
それを検討会議や関係閣僚会議の設置ばかりで逃げてばかりではどうにもなるまい、と思う。日本語で上手い表現があるではないか。“腹をくくる”と。
 
少々穏当でない言い方だが、それこそ、判断を過てば腹を切ればよい、ではないか。

 塩野 七生氏は言う。「たとえ自分は地獄に落ちようと国民は天国に行かせる、と考えるような人でなくてはならない。その覚悟のない指導者は、リーダーの名にも値しないし、エリートでもない」と。これができないなら潔く職を辞するしかあるまい。(つずく)
                

2017年08月18日

◆ビタミンB1を思う

渡部 亮次郎



1882(明治15)年12月、日本海軍のある軍艦は軍人397名を乗せて、東京
湾からニュージーランドに向け、272日の遠洋航海に出航した。

ところがこの航海中、誰一人として予想もしなかった大事件が降ってわい
た。なんと169名が「脚気」にかかり、うち25名が死んでしまったのだ。

この、洋上の大集団死亡という大事件は、当時の日本列島を震撼させた。
屈強な海の男達の死。なぜだ。この不慮の大事件が、ビタミンB1の欠乏に
よるものだとは、この時点ではまだ誰も気づいた人はいなかった。

ビタミンB1の存在が発見され、栄養学的、学術的な解明がなされたのは、
このあと28年間をまたなければならなかった。

しかし、かねてから軍人達の脚気の原因は、毎日食べる食事の内容にあり
とにらんでいた人に、高木兼寛という人物がいた。彼は当時、海軍にあっ
て「軍医大監」という要職にいた。

高木兼寛(たかぎ かねひろ)

宮崎県高岡町穆佐(むかさ)に生まれ、イギリスに留学し帰国後、難病と
いわれた脚気病の予防法の発見を始めとして日本の医学会に多大な貢献を
した研究の人。

慈恵会医科大学の創設、日本初の看護学校の創設、さらには宮崎神宮の大
造営などの数々の偉業を成しとげた。

<白米食から麦飯に替えて海軍の脚気を追放。1888(明治21)年、日本で
初の医学博士号を受ける。>(1849-1920)(広辞苑)

高木軍医大監は、この事件をつぶさに調査した結果、次の航海で軍艦乗組
員を対象に大規模な "栄養実験" を行うことによって、脚気の正体を見極
めようと決意した。

脚気による集団死亡事件から2年後の1884(明治17)年、こんどは軍艦
「筑波」を使って、事件が起こった軍艦と同一コースをたどった実験が始
まった。

高木大監自らもその軍艦に乗りこみ、兵士達と起居、食事を共にした。高
木まず、乗組員の毎日の食事に大幅な改善を加えた。これまでの艦の食事
は、どちらかというと栄養のバランスというものを考える余地がなく、た
だ食べればよいといった貧しい「和食」だった。

高木は思い切って「洋食」に近いものに切り替えた。牛乳やたんぱく質、
野菜の多いメニューだ。よい結果が明らかに出てきた。287日の航海の間
に、おそれていた脚気患者はわずか14名出たのみで、それも軽症の者ばか
り。死者は1人も出なかったのだ。

高木軍医大監は快哉を叫んだ。「オレの考えは間違っていなかった」と。
以上の実験的事実に基づいて、日本海軍は、そののち「兵食」を改革した。

内容は白い米飯を減らし、かわりにパンと牛乳を加え、たんぱく質と野菜
を必ず食事に採り入れることで、全軍の脚気患者の発生率を激減させるこ
とに成功した。

一躍、高木軍医大監の名が世間に知れ渡った。脚気という病気はこのよう
に、明治の中期頃までは、大きな国家的な命題でもあったわけ。皇后陛下
も脚気を患って困っておられたが、高木説に従われて快癒された。明治天
皇は高木を信頼され、何度も陪食された。

この頃、陸軍軍医総監森林太郎(鴎外)はドイツのパスツール説に従い
「脚気細菌説」を唱え続けたばかりか、高木を理論不足と非難し続けた。

脚気にならないためには、たんぱく質や野菜を食事に取り入れることが有
効であることはわかったけれど、それらの食品の含有する栄養素の正体に
ついては、ほとんど解明されていなかった。これは前にも触れた通り。

栄養学の研究は、ヨーロッパでは19世紀の半ば頃から盛んに行われ、たん
ぱく質のほか、糖質、脂質、それに塩類などを加えて動物に食べさせる、
飼育試験が行われていた。

だが、完全な形で栄養を供給するには、動物であれ人間であれ、「何かが
足りない」 というところまでがようやくわかってきたにすぎなかった。
その何かとは、今日の近代栄養学ではあまりにも当たり前すぎる「ビタミ
ン」「ミネラル」のこと。当時はしかし、その存在すらつかめていなかっ
た。

日本でビタミン学者といえば、鈴木梅太郎博士。米ぬかの研究でスタート
した鈴木博士が、苦心の研究を経てビタミンB1を発見したのは1910年、明
治43年のこと。陸軍兵士が脚気で大量に死んだ日露戦争から5年が経って
いた。高木海軍軍医大監の快挙から、実に28年もかかっていた。

鈴木梅太郎博士は最初は「アベリ酸」として発表し、2年後に「オリザニ
ン」と名付けた。このネーミングは、稲の学名オリザ・サティウァからつ
けたものと伝えられている。

しかし世の中は皮肉なもので、鈴木博士の発見より1年遅い1911年、ポー
ランドのC・フンクという化学者が鈴木博士と同様の研究をしていて、米
ぬかのエキスを化学的に分析、「鳥の白米病に対する有効物質を分離し
た」と報告、これをビタミンと名付けてしまった。

ビタミンB1の発見者のさきがけとして鈴木梅太郎の名は不滅だが、発見し
た物質のネーミングは、あとからきたヨーロッパの学者に横取りされたよ
うな形になってしまった。

それにしても、言い方を換えれば、明治15年、洋上で脚気のため命を落と
した25名の兵士の死が、28年を経て、大切な微量栄養素の一つ、ビタミン
B1の発見につながったと言うべきで、その意味では彼らは尊い犠牲者とい
うべきだ。 (以上は栄養研究家 菅原明子さんのエッセーを参照)

私が思うには、日本人が宗教上などの理由から、4つ足動物を食べる習慣
の無かったことも原因にある。特に豚肉はビタミンB1が豊富だが、日本
人は明治天皇が牛肉を食べて見せるまでは絶対に4つ足を食さなかった

2002年3月、2Ch上で、脚気をめぐって、時ならぬ森鴎外論争がおこっ
たことがある。

<日露戦争は1905年。 ビタミンBが初めて発見されたのは1910年。欧米の
学会で細菌説が否定されたのはもっと後。 高木兼寛が、日露戦争以前に
玄米を食することにより脚気が防げると 発見したのはすばらしいことで
あるが、具体的理論に乏しかったのである。>

<でも、明治前期から「具体的事例」は山ほど出てたよ。 明治天皇も玄
米の効用には気付いていた。「別に毒でもないんだし、効用があるなら食
べさせておこうか。 理由は後で追及しよう」という姿勢をとらずプライ
ドのために自分達の頭の中での学説を優先させたし高木らを誹謗した。森
一派は有罪。>

<海軍がらみの病気と言えば、ビタミンC欠乏で起こる壊血病が有名です
が、ビタミン Cの発見はビタ ミンB1より後です。 これは、原因は不明な
がらも、野菜や果実ないしこれらの絞り汁で予防・治療が可能だとわかっ
て いたのと、壊血病を起こす動物が限られている事などの理由で、実験
ができなかったことが影響しているそうです。(治療法が確立していたた
め、「学術的興味」のための人体実験などはできなかった。)

「具体的理論」などにこだわって治療法の確立を遅らせるのは、本末転倒
でしょう。 海軍の軍医として、食餌の不良が壊血病のように致命的な疾
病の原因になりうるという認識を持って いた高木氏が、「栄養上の問
題」という仮説を立てたのは、ごく自然な事に思えます。

このときに「不足している」と仮定したもの(タンパク質だったか?)
は、結果的には誤りだった訳 ですが、何の仮説もなく闇雲に行動してい
た訳ではない。

そもそも「細菌説否定」もなにも、細菌が原因であるという事自体が、確
たる根拠を持たない一仮説 に過ぎないわけです。 当時、日本人医師達と
の対談で、コッホが「細菌が原因かどうかという検討の前に、診断法を確
立し て、『どういう状態なら脚気なのか』を確定するのが先ではない
か」というようなアドバイスをした と聞きます。

これも、確たる根拠のないまま、「とにかく細菌が原因」という思込
みで突っ走るの を危惧したためでしょう。>

渡部註:日本でしか罹患しない脚気だったが、江戸時代から「江戸わずら
い」と言われたように、脚気は東京の風土病と疑われた時期もあった。

<脚気に麦飯や玄米が有効だという知見そのものは、高木氏の 独創では
ないです。 高木氏の功績は、多数の患者を出した航海の記録などから、
「栄養不良ではないか」という仮説を立てるとともに、具体的な給食改革
案を提示し実証したところだと思います。

それはともかく、森林太郎という人が非難されているのは、彼が自力で脚
気の 治療法を確立できなかったからではない。>

<日露戦争時といえば、海軍から脚気が消えてから久しくたっており、陸
軍でも 地方では独自に麦飯給食などをしていたそうです。

経験的にとはいえ予防法が一応認められていた時期に、敢えてそれを否定
する がごとき方針を押し通し、多数の病者を出したというのは、とても
「ミス」な どというレベルではない、「未必の故意」による犯罪行為で
しょう。 >

<1905年当時は、ビタミンのような希少栄養素という概念が無かった。近
代的な医学というのは、まだ始まったばっかりで コッホとパスツール
が、細菌の発見→純粋培養による特定という 手法を編み出し、初めて病気
に対して、近代的なアプローチが、とられるようになったばかりだ。

だから、当時の医学では病気というのは病原菌が元で発生するもの以外に
対する ものに対しては全く無力。 当時は、癌でさえ、寄生虫か病原菌で
発生するものだとまじめに考えられていた時代であった。

いまでも、何の根拠も無い民間療法で完治してしまう人がいるように 統
計的に明らかな改善があったからといって そのやり方が正しいとは一概
に言えないのが医学。

統計結果を基に効果を推測するには、プラシーボ効果をかんがみた上で
その影響を除去して考えなければならない。 然るにプラシーボ効果に対
する実証的な研究がなされたのは1954年以降のこと。 それまで、医学で
は統計的なアプローチというのはあまり当てにならないものとされてい
た。>2006.05.07


◆モルディブは地政学的要衝

宮崎 正弘



<平成29年(2017)8月17日(木曜日)弐 通巻第5396号> 

 〜インドの南西を扼するモルディブは地政学的要衝
  中国がインド洋シーレーンの覇権確立に必要な港湾建設を狙う〜

2014年に習近平国家主席がモルディブを訪問し、ヤミーン大統領と会談し
ている。そのとき、中国が提示した一帯一路の「海のシルクロード」で両
国は協力を謳った。すかさず中国は首都マレと空港がある島を結ぶ橋の建
設へ資金援助を表明した。
 
小さな島嶼国家、人口僅か32万人の小国を習近平が訪問すること自体、異
常なのである。なぜそこまで重視するかは南アジアのグレートゲームの一
環であり、インド洋を扼するシーレーンをめぐるインドとの地政学上の駆
け引きである。

中国の国家戦略はすでに「南シナ海は貰った」とでも言いたげに、こんと
は白昼堂々とブータンの国土を侵略して道路を建設したためインドと対
立、そのインドを南西から扼するモルディブを地政学的見地から活用する
ために、港湾整備を支援し、関係を強化しようとするのである。

モルディブは日本の若者にとってはハネムーンの行き先というより、ダイ
ピング、サーフィンなど海のスポーツ、水上コテージが売り物のリゾート
地で一時の「天国にいちばん近い島」といわれたニューカレドニアより人
気がある。

イスラム教を奉じる宗教国家でもあるモルディブを外交的に放置しておく
と、同じイスラム国家で、インドの宿敵パキスタンの影響下に入ってしま
う怖れがある。

過去を振り返っても中国はモルディブ外務省の庁舎を建設して寄付し、つ
いで2010年には730万ドルの無償援助を与えるとした。しかし援助とは名
ばかりで、1500戸の住宅を建設し、しかもその契約者は中国機械設備進出
口総公司だった。

2016年には中国がモルディブで港湾を整備するという情報が流れ、さぁ
チャイナタウンだ、侵略の橋頭堡にする心算だとインドのメディアが騒いだ。

ラーム環礁での港湾整備を許可するとされたが、結局、アジア開発銀行
(ADB)が、モルディブのクルドゥフシ港湾整備・拡張を支援することと
なった。9600万ドルの規模で、2019年12月の完工を目指す。

というのも、モルディブ現地では中国人の評判が滅法悪いからだ。

ホテルの宿泊客はダイビングのマナーが悪いばかりか、水上コテージでも
レストランを利用せず、カップ麺しか食べないので、室内のポットを撤去
した。カップ麺のプラスチック容器を綺麗な海になげすてる等、観光業界
からも抗議の声があがった。
       
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

◆改正労働契約法

川原 俊明 (弁護士) 

    

アベノミクスといっても、まだまだ不況続きの世の中。パートタ
   イム労働者や派遣労働者などの「有期労働契約」で働く人たちにと
   って、契約期間の満了は、死活問題です。

    有期労働契約者がかかえる、このような雇い止めの不安を解消し、
   安心して働き続けることができるよう、労働契約法が改正されまし
   た。

改正の結果、平成25年4月1日以降に開始する有期労働契約
   に関し、同一使用者との間で、有期労働契約が通算で5年を超えて
   繰り返し更新されたときは、労働者が希望すれば、期間の定めのな
   い労働契約(無期労働契約)に転換できることになりました。

無期労働契約転換後の労働条件は、別段の定めがない限り、直前の働
   契約と同一です。

    もっとも、5年のうちに6か月以上契約がない期間があったり、
   使用者が同一でなければ、改正労働契約法の適用はありません。

また、無用のトラブルを防ぐためには、転換の意思表示は書面等で明
   確にしておくべきですし、転換後の労働条件等についても具体的な
   協議をしておく必要があるでしょう。

    したがって、無期労働契約への転換を希望する場合には、当事務
   所にご相談いただき、適切に対応されることをお勧めします。
   
         530-0047 大阪市北区西天満2丁目10番2号 幸田ビル8階  
弁護士法人 川原総合法律事務所      
弁護士 川 原 俊 明 




2017年08月17日

◆いもち病(稲熱病)の怖さ

渡部 亮次郎



「蓑(みの)着て笠(かさ)着て鍬(くわ)持って お百姓さんご苦労さ
ん」という童謡がNHK第1放送から流れていた時代がある。明治でも大正で
もない、昭和も敗戦直後、1947、8年ごろだった。食糧難の時代、国民みん
なして百姓にゴマをすったのである。

蓑や笠を着る百姓は今やどこにも存在しない。すべて機械化して田圃から
は女性が姿を消した。田植えも稲刈りも機械がやるし、除草は農薬が解決
してくれた。結果、農村からは猫背、蟹股、腰曲がりが居なくなって久しい。

しかし、その代わり、田圃から女性と共に居なくなったのが泥鰌(どじょ
う)とトンボである。稲作の大敵「いもち病」を防除すべく禁じ手「水銀
系農薬」を使ったからである。「いもち」はそれほど恐ろしい。今でも恐
ろしい。

「いもち」とはイネに対する最も普通の病気で,穂,葉,茎などに発生し
て大害を与える。とくに山間,北部地域では,いもち病との闘いが稲作の
大きな課題であった。この事情を反映して,日本植物病理学の分野では最
も多く,また深く研究されてきた病害である。

穂に発生すると発病部位から先の方は実らないので、「穂首いもち」は被
害が深刻である。「葉いもち」、穂いもちとも同じ菌によって起こるが、
発生の様相としては、比較的葉いもちが多くて穂いもちの少ない南日本型
と、逆に葉いもちよりも穂いもちの多い北日本型がある。

若いイネに激発すると株全体が萎縮して枯れてしまう。この病状を「ずり
込みいもち」という。防除に失敗すれば収穫ゼロ。

防除薬剤としては,戦前はボルドー液万能であったが,戦後一時期有機水
銀剤が脚光を浴び目覚ましい効果を挙げた。これが禁じ手と気付いて止め
たものの遅かりし。泥鰌は死滅した。

現在では抗生物質剤(ブラストサイジンS、カスガマイシンなど)や有機リ
ン粒剤などが使われている。

いもちは一般に,日照不足,多雨,低温のときに病気が多く,またイネの
体内に遊離の窒素成分が多く,ケイ酸が少ないときに発生が多い。

いもち病の発生程度は年次によっても異なり,ほぼ10年周期で大発生が記
録されている。昭和年代に入ってからは,1934(昭和9)年の稲作冷害が
有名で,東北地方では娘の身売など深刻な社会問題が発生した。

陸軍のクーデター「2・26事件(1936年)」の背景であるが、この不作には純
冷害のほかにいもち病による被害が大きかった。

戦後では,53(昭和28)年,63(38)年,74(49)年に大発生をみている。

的確な防除を行うには発生を予察することが肝要である。以前から気象条
件,イネの体質,胞子の飛散などを知って穂いもち病の発生を予測してい
たが,近年コンピューター導入で,大量のデータからの予察も試みられて
いる。

日本ではじめてこの病気が記録されたのは,1679年(延宝7)の《永禄以来当
院記録年鑑》(広積院祐栄書)とされるが,その後の《耕稼春秋》(1707ごろ)
の記載が人口に膾炙(かいしや)している。

イネ品種によってかなり抵抗性に違いがみられる。外国イネには強度の抵
抗性のものがあるが,日本在来の品種は概してかかりやすい。

従って日本にいける稲の品種改良は、収穫量、食味の追及とともにいもち
など稲の病害虫に対する抵抗力の研究に重点が置かれてきた。

最近は外国イネの強い抵抗性因子を導入した品種も育成されている。しか
しせっかく抵抗性品種ができても突然ひどく罹病してしまうことがある。
これはレース新生のためであることが多い。

レースrace とは形態が同じでありながら病原性の異なる菌で,日本には
今16以上のイネいもち病菌レースが知られている。

ここ数年 Pyricularia属菌の菌学的な研究が進み,イネいもち病菌とシコ
クビエいもち病菌の交配によって有性胞子が形成され,またイネいもち病
菌がタケに寄生性のあることが知られるなどして,菌の所属について検討
される時機にある。資料 世界大百科事典(C)株式会社日立システムアン
ドサービス 2008・07・07




◆気がつけば40万人のチャイナタウン

宮崎 正弘



<平成29年(2017)8月16日(水曜日)
        通巻第5394号>  

〜気がつけば40万人のチャイナタウンが出来ていた
  ベネズエラ暴動で、数万人が既に逃亡、中国は鉄道建設を放棄へ〜

 ベネズエラの政情不安、超猛烈インフレ率が1600%、ブラジルなど へ
海外移民、暴動の凶悪化。マオイスト国家=ベネズエラは末期的症状だ。

日本のメディアはあまり採り上げないが、米国のメディアをみている
と、ベネズエラ問題はキューバ問題同様に、強い関心があって、率直に言
えば米国の地政学からすれば、北朝鮮より身近な危機です。

それもこれも原油代金暴落がもたらした悲劇だが、チャベス前大統領以来
のポピュリズム政策の惨めな破綻、同時に強気強気とベネズエラ石油鉱区
に果敢に投資し、鉄道建設もしていた中国の思惑が、ばっさりと外れた。

気がつけば、ベネズエラの首都カラカスには40万人もの中国人コミュ ニ
ティが出来上がっていた。

20世紀初頭からの移民で、現地人と混血し地付きの人間となった中国人
ファミリーも多い。そのうえに新移民が重なった。

なにしろ中国開発銀行(CDB)一行だけでベネズエラに370億ドル を貸
与した(ほかの中国の銀行を含めると、推計で450億ドル)。ベネ ズエラ
の債務は650億ドル。最大の債権者は中国、デフォルトをやらか すと最大
の金融災禍が中国の金融界を襲うだろう。しかもデフォルトは時間の問題だ。

経済沸騰の頃、ベネズエラ全土で不動産開発、ビルラッシュが続き、建
機、健材、セメント、トラックなどを中国が輸出し、しかもカラカスの輸
入業者は中国人ときている。

これらの華僑は集中的に広東省の珠海デルタに位置する開平、江門などか
らやって来た同郷人で、カラカスだけで5万人もいた。開平、江門は苦力
時代から労働者輸出の本場として知られる。2016年にあらかたの華僑 は
広東へ逃げ帰った。

中国が自慢の「新幹線」プロジェクトもベネズエラでも進んでいた。総
額75億ドル、総延長462キロの鉄道建設だったが、2016年に放棄された。
 
ベネズエラの通貨は2007年に100ドル=4600ボリバスだった。いまは1100
ドルが80000、闇市では120000だ。珈琲が一杯2000000ボリバス。誰も
が喫茶の愉しみを失った。

原油高騰時代、高価なワインショップを開店した華僑もいた。ウハウハ笑
いの止まらなかった時代は終わった。治安は悪化し、暴徒は商店を襲い、
品物をあらいざらい奪い、火をつけ、中国人とみたら殴りかかる暴徒もい
る。カラカスから80キロ離れたマラケイ市ではことし6月に68の華僑の店
が襲われた。


 ▲負の連鎖

ベネズエラ政府は暴徒鎮圧のために、放水、催涙ガス装備の装甲車を中国
から緊急に輸入したが、すでに暴動で40人以上が死んだあとだった。マ
ドゥロ大統領は、強権発動に踏み切り、住民投票で強引に改憲に突き進
み、思案維持のために独裁政治を敷いた。この非民主的な遣り方に米国は
経済制裁強化で応じた。

連鎖は広がっている。すでにニカラグア運河は中国企業が着工し、突然、
資金繰りが悪くなって工事は中断されている。

リビアでカダフィ政権が潰えたとき、中国人労働者3万6000人が逃げ帰っ
た。100近い中国主導のプロジェクトは砂漠で置き去りにされ、後始末の
交渉さえ始められていない。リビアは依然として無政府状態だ。

同様にベネズエラの二の舞をやらかすのはアルジェリアとアンゴラである
と予測される。いずれも中国企業が食い入っている。とくにアンゴラには
五万人の中国人移民のチャイナタウンがある。
       
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◆書評 しょひょう BOOKREVIEW 
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 この話は本当か。大ヒット曲が誕生した舞台裏の涙の物語り
  「ドレミの歌」誕生の切っ掛けが、かの三島由紀夫だったとは

  ♪
門田隆将『奇跡の歌 戦争と望郷とペギー葉山』(小学館)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

 およそ歌と言えば、演歌と軍歌と小学校唱歌しか知らない評者にとっ
て、少年時代にラジオで聞いた「南国土佐をあとにして」は衝撃的だっ
た。それまでジャズ歌手としてバター臭い、「ペギー」などという芸名か
ら、縁の遠い歌手でしかなかった。

ラジオ全盛の時代、流れてくる歌の多くが情緒的で浪花節敵でもあり、豊
かな情操を伴った。歌姫は美空ひばり、島倉千代子、そして男の歌手は三
橋三智也、春日八郎。。。。。。

ペギー葉山の歌った「南国土佐を後にして」は日本人の感性と情緒を揺さ
ぶり、涙腺を刺激してあまりあった。

昭和34年、空前の大ヒットとなり、日活で映画になって小林旭が主演だっ
た。ペギー葉山はクラブで歌う場面で出演していた。中学生の頃、この映
画を見た記憶が蘇った。

あらゆる成功譚には、因縁、えにし、人脈、そして運命があり、それが輻
輳してある時、合体を産むと、奇跡が起こる。

まさに「南国土佐をあとにして」は奇跡の運命から誕生した。前編はその
舞台裏の物語である。門田氏は、この物語を感動的に書き上げた。

戦争中、歩兵第236連隊という勇猛果敢、別名「鯨部隊」と呼ばれた兵団
があった。土佐出身者の部隊である。鯨は古き昔から高知の漁民が捕っ
た。いまでこそ鰹の一本釣りだが、土佐料理につきもの。

はりまや橋は、地名こそ有名だが、小さな橋である。行ってみて驚くほど
小振りで、拍子抜けがする。そこで坊主がかんざしを買うというのは替え歌。

もともとはこの鯨部隊の兵士が戦地で作詞作曲し、大いに歌われ、流布し
ていた。戦後も兵隊の引き上げによって歌い継がれたが作者不明という状
態がつづいた。ちょうど吉田正の「異国の丘」と同様である。吉田はシベ
リア抑留から引き上げて、自分の歌が大流行していることに驚いた。

ジャズ歌手の道を歩んでいたペギーに白羽の矢を立てたのは音楽の才能が
あるNHKのプロデューサだった。「男の歌を女の歌に変えていた」の
だ。女性のアルトが良い、として誰がよいかを捜すとペギーしかいなかった。

「アトラクションで良いから」としぶとく口説き、ようやく了解したペ
ギーも、いざ高知の生番組の会場へ行くと、本番の台本を渡され、驚くし
かなかった。
 
練習を積んでいたので、おちついて歌い出すと場内はしーんとしている。
「あ、やはり失敗だ」と歌いながら思ったそうである。

ところが、最後まで歌うとどよめきに似た大喝采の嵐となった。

「異様に熱い何かが、まるで波が打ち寄せてくるように何度も何度も私に
迫って来ました」とペキーは語った。

「この歌の歴史は、ある名もない一兵士が、あの過酷な戦場でつくったと
ころから始まります。そして、郷土出身、鯨部隊の兵士たちが曠野で歌い
継ぎ、戦後、武政英策先生が補作編曲し、昭和34年、われらがペギー葉山
さんが大ヒットを飛ばし、全国的に有名になった」と「南国土佐の歌碑を
建てる会」の臼井会長に語らせる。

次の大ヒットは国民的歌謡となった「ドレミの歌」だった。

翌年、ペギーは米国の公演を引き受けロスアンジェルスへ単身で飛んだ。
 直前に、「運命を変えるともいうべき邂逅があった。35歳の作家、三島
由紀夫との対談である。

ペギーはこのとき、まだ26歳。深川の料亭で催されたその対談は、思いも
寄らぬ方向へ向かった」(306p)

三島はニューヨークへも足を延ばせと強く進めるので理由を問うと、「そ
りゃ、ミュージカルが花盛りだからさ」。

ウエストサイド、マイフェアレディ、サウンドオブミュージ。。。。。。
 
「絶対見てこいよ、って。私は『ええーっ』て言ったんですよ。とにかく
ぎょろぎょろしたあの眼で、三島さんがいろんなことを次々と」

ペギーは決断しロスからニューヨークへは重い荷物に着物姿の一人旅。ロ
スからのチケットも自分で手配した。まるっきりひとり。

見た。サウンドオブミュージックを。そして感動したペギーはロビーでス
コア(譜面)とLPレコードを買い求めた。
 
「これを日本語で歌ったら素晴らしいって思った」
 
生前にインタビューした門田氏にペギー本人が回想するのだった。

ペギーはドレミの歌の日本語訳を自分で、自分の感性でなした。翻訳をお
えるとニューヨークは朝になっていた。

「『南国土佐をあとにして』を歌いに来て欲しい」と。そんなロサンゼル
スの日系人の要請から始まったペギー葉山のアメリカン・ジャーニーは、
これまた日本の歌謡史に特筆される大ヒットを残すことになる」(318p)。

ペギー葉山と三島由紀夫、これもまた奇跡の出会いだったわけだ。

◆大阪俳人与謝蕪村名を広めよう

毛馬 一三



江戸時代の三大俳人の内、松尾芭蕉と小林一茶の生誕地は、江戸時代当時から知れ渡っていたが、与謝蕪村の生誕地だけが大阪毛馬村(大阪市都島区毛馬町)だと「定説」になったのが、戦後直後の事である。これにつて追々。
この事を教えてくれたのは、蕪村研究第一人者の関西大学文学部の藤田真一教授であった。

奈良県でこれに纏わる「蕪村直筆の書簡」が見つかったのが、キッカケだったという。藤田教授の話によると、下記のようなことだった。

(蕪村は、自分の生誕地のことは、俳人・画人として活躍の舞台だった江戸・京都でも、何故か余り触れたがらず、主宰の「夜半亭」の弟子たちにも語ったという「記録」すら残されていないという。このため、蕪村の生誕地を確知していた者は、誰もいなかったのではないかという。

ところが蕪村は、安永六年(1491)に発刊した冊子「夜半楽」(二十頁ほど)の冒頭に、「春風馬堤曲」を書き、毛馬村側の淀川の馬堤に触れ、十八首の俳句を添えている。しかしこの時残念なことにその舞台となる淀川毛馬馬堤近が、肝腎の自分の「生誕地」だとは一切触れていない。

しかし、その後願ってもないことが起きた。

蕪村は、この「夜半楽」冊子を贈呈した大阪在住弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」の中に、自分の生誕地が「毛馬村」だと、下記のように初めて綴ったのだ。これが生誕地解明の歴史的契機となった。

「春風馬堤曲―馬堤は毛馬塘(けまのつつみ)也。即、余が故園(注釈・ふるさと)也。余幼童之(の)時、春色清和の日ニは、必(かならず)ともどちと此(この)堤上ニのぼりて遊び候。水ニハ上下の船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ」。

それなら、これが物証となって、江戸時代から毛馬村が生誕地だと定説になっても良かったのだろうが、そうならなかったのには理由がある。

というのは、江戸時代の発刊諸本には複製本が多く、勝手に削除・加筆されることが多々あった。このため「夜半楽」の弟子への添え状ですら、複製なのか、それとも蕪村直筆のものか判定出来ず、結局「蕪村生誕地複数説」を加速させる結果を招き、生誕地説は宙に浮いたままの状態だった。

ところが、終戦直後、奈良県で終戦直後偶然見つかった先述の弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」が、公式に「蕪村直筆」だと「認定」されたのである。

これによって「毛馬生誕地」説が確定した。終戦直後の認定だから、遅きに失したと言わざるを得ない。しかしこれは「蕪村生誕地複数説」を破棄し、毛馬村を生誕地とする歴史的且つ画期的「決め手」となったことになる。

しかも「春風馬堤曲」冒頭の記述に淀川風景の描写や添付十八首と、柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きへの想いを結びつけて考えると、「毛馬村への切ない郷愁」を浮き彫りとなる。

以後、生誕地が毛馬村であることを不動のものになった。この経過を考えると、蕪村生誕地を定めた一通の「蕪村直筆書簡」の存在は、実に大きかった。

これが「認定」されていなかったら、蕪村が大阪俳人として登場することも無かったことになるだろう。)

こうして、蕪村が大阪生誕俳人と称されるようになってから、七十余年しか経たない。そのため蕪村は、芭蕉や一茶とは異なり、江戸時代以来、生誕地大阪で「蕪村生誕顕彰」が疎かにされ、それを知る人が少なかったことに繋がっており、誠に慙愧に絶えない。

実は、与謝蕪村の生誕地毛馬村の庄屋の家屋や宿屋の遺跡は、明治29年に明治政府の「淀川改修工事」で、国の河川淀川の川底に埋没させられ、今でも何処に生誕地の生家があたったかも判然としない。

現在、淀川堤防の毛馬に「蕪村生誕地碑」があるが、この碑の場所が生誕地ではなく、その碑の眼下に流れる「淀川川底の何処かの場所」が生誕地ということになる。

このために、今でも地元大阪ですら「蕪村生誕地が毛馬村」であることを知らない市民は多い。次世代を担う児童生徒の教科書にも掲載されていないことを考えると、生誕地のことを知らない人が多いことはことも当然のことだろう。残念で仕方がない。

余談ながら、筆者は藤田教授に下記の質問をした。

「蕪村は、淀川を下って源八橋から船を降り、浪速の弟子の下に苦吟の往き来きしていましたが、「春風馬堤曲」に記述しているように、それほど生誕地の毛馬に郷愁があったのであれば、源八橋の極く近郊にあった毛馬村生家に立ち寄ってはいないとの噂ですが、何故でしょうか?その学説はありませんか?」

藤田教授の答えは次のようだった。(それを証明する「学説」はありませんね。恐らく立ち寄ってはいないでしょう。深い郷愁にも拘わらず立ち寄れ無かったのには、それ超える事情があったのかもしれませんね)ということだった。

となれば、生誕地への郷愁は人一倍あったのに、立ち寄りたくない感慨があったのだろうという推察が浮上してくる。

恐らく奉公人だった母と実家の父が亡くなってから、私生児だった蕪村は、庄屋の家も引き付けず、家人たちからも極めつけの「いじめ」を受けただろう。そのために十七・八歳で家を出家せざるを得なかったのではないか。

そのことが「ひと一倍の郷愁はあっても、いじめが再来する生家には生涯立ち寄りたくなかった」のではないだろうか。

最後になりましたが、どうか、大阪俳人蕪村名を、芭蕉・一茶と同じ様に「生誕祭を生誕地でお祝いするカーニバル」を開催したいのが、人生のお願いで、今準備を進めている。 皆様のご賛同とご支援を伏してお願い申し上げます。(了)