2018年02月28日

◆眞子内親王殿下と秋篠宮家の蹉跌

加瀬 英明


      憲法第24条に従って

宮内庁が2月6日に、秋篠宮家の長女の眞子内親王殿下と、小室圭氏の婚
儀を2020年に延期すると唐突に発表して、国民を驚かせた時に、私は「や
はり、そうなったのか」と、思った。

眞子内親王殿下と小室氏の一般なら結納に当たる「納采(のうさい)の儀」
が、1ヶ月にみたない翌月の4日に、予定されていた。まさに、悲喜劇
だった。

私は眞子内親王殿下が、小室氏と2人で昨年9月3日に記者会見を行われ
た時に、日本と皇室の将来が危ふいと思って、暗然として、言葉を失った。

眞子内親王殿下が「婚約が内定いたしましたことを、誠にうれしく思って
おります。(略)プロポーズは、その場でお受けしました」と述べられ、
小室氏が悪びれることなく、「2013年12月に、私から宮さまに『将来結婚
しましよう』というように申し上げました」と補足した時に、私は一瞬、
テレビの映像を信じることができなかった。

眞子内親王殿下と小室氏は、秋篠宮殿下にも、宮内庁にもはかることな
く、あきらかに2人だけのあいだで、結婚を決めたのだった。

ひと昔、4、50年前だったとしたら、2人が駆け落ちしたのだった。

私はあってはならないことが、起ったと思って、強い衝撃を受けた。

現行憲法の第24条「【家族生活における個人の尊厳と両性の平等】」は、
第1項で「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」(傍点筆者)と、規
定している。

内親王殿下と小室氏の若い2人は、憲法第24条に従って、行動したのだった。

これは、アメリカ占領軍が、家族制度が日本の危険な国家主義の基礎と
なっていると信じて、日本の伝統社会をつくり変えようとして、家族制度
を破壊するために、定めたものだった。

私は昨年9月に、2人の記者会見の中で、小室氏が「(私の)好きな言葉
は、”Let it be”です」と述べたのにも、唖然とした。

英語で「レット・イット・ビー」というと、「なるように、なれ」とい
う、自暴自棄な態度を意味している。

もっとも、小室氏の英語の能力が低く、英語がよく分からないことを、祈
りたい。

それに、メディアの報道によれば、小室氏は法律事務所の下働きをしてお
り、年収が250万円というが、それに近いのだろう。真剣になって、皇 女
に求婚したととうてい思えない。

もっとも、今日、国民のあいだでも、家族の絆が弱まって、「家」の観念
が失われるようになっている。

やはり、天皇家も時代の高波によって、侵蝕されるようになっているのだ
ろうか。

 家族の解体

皇室といえば、『君が代』を連想しよう。 

和歌君が代は、おそらく世界のなかで、今日まで歌い継がれている、もっ
とも古い祝い歌であろう。

『君が代』の歌詞は、1000首以上を収録している、『古今和歌集』(西暦
905年)に載っているが、もとの歌は「わが君は千代に八千代に‥‥」と
始まっており、庶民を含めて、婚礼をはじめとする祝賀の宴で、祝われる
者の長寿を願って、朗唱されてきた。

明治に入って、西洋に倣って、国歌が制定されると、「わが君」を「君が
代」に置き換えた。

同じ寿歌(ほぎうた)が1100年以上にもわたって、唄い続けられている国
は、世界のなかで日本しかない。古い伝統を大事にしてきた国柄を、示し
ている。

おそらく人類の祝い事のなかで、世界のどこにおいても、結婚がもっとも
寿(ことほ)がれるものだろう。

結婚するから、家――あるいは家族(ファミリー)が絶えることなく、人類が
存続でき、未来を確かなものにすることができることを、理屈抜きで、
知っているからだろう。

ところが、今日では結婚は、男女2人の一過性の快楽を求めるために行わ
れる、ごく軽い結びつきに、変わってしまっている。

現行憲法の規定によれば、親や兄弟や、一族は、2人の結婚とかかわりが
なく、2人の結婚に干渉してはならないことと、されている。

2人が家を継いでゆくために、結ばれることが、なくなってしまった。

だが、家族(ファミリー)が解体してしまったら、国も崩壊してしまう。

もっとも、家族の解体は、日本だけの現象ではない。

同じ立憲君主制度をとっているイギリスの王室も、同じような状況に陥っ
ている。

昨年11月に、イギリスのヘンリー王子(イギリスでは、ハリー王子の愛称
で呼ばれる)と、美しいアメリカ女優のメーガン・マークルさんの婚約が
発表され、日本のマスコミも騒がした。

マークルさんはカトリック(旧)教徒だが、2人の婚約はイギリスで王族
がカトリック教徒と結婚することを禁じた王位継承法が、5年前の2013年
に改正されたことによって、可能になった。イギリス国教会は中世にカト
リック教会から独立して以来、激しく敵対していた。

マークルさんには、1回、離婚経験があり、前夫のハリウッド映画プロ
デューサーが健在であることも、妨げにならなかった。

また、マークルさんの母親がアフリカ系の黒人であることも、ハリー王子
との婚約の障害にならなかった。だが、5、60年前のイギリスであった
ら、考えられなかったことだった。

チャーチル元首相をはじめ、国民のほぼ全員が、白人の有色人種に対する
絶対的な優位を確信して、有色人種を動物のように見て、植民地支配を
行っていたことを、正当化していた。

日本が先の大戦によって、まずアジアを解放し、その高い波がアフリカ大
陸まで洗ったことによって、今日の人種平等が常識となった世界が、もた
らされたのだった。

ハリー王子とマークルさんの2人の幸せを、祈りたい。

 王家の尊厳

私はイギリス発祥の『ブリタニカ(大英)百科事典』の最初の外国語版と
なった、日本語版の初代編集長をつとめていたことから、エリザベス女王
の妹君のマーガレット王女が来日された時に、大使館主催の歓迎パーティ
で、お話する役目を割り振られたことがあった。

だが、マークル妃と会っても、同じように敬意を払えないと思う。

エリザベス女王がフィリップ殿下と結婚された時には、王族が結婚できる
ファミリーは、200あまりしかなかったろうが、この40年ほどのあいだ
に、社会の大衆化が進んだことによって、社会規範が大きく変わった。

ハリー王子の父君のチャーチル皇太子が、ダイアナ妃と結婚したのは、
1981年だったが、ダイアナ妃は下級の貴族の出身だったから、国民を驚か
せ、イギリス社会を“シンデレラ・ストーリー”として、沸かせた。

開かれた王室は、大衆の手の届くところに降りてくるから、大衆化して、
王室らしくなくなる。

王家という家を基準とせずに、自分本位の自由恋愛によって、配偶者を選
ぶことになると、王家を支える尊厳が失われてしまう。

その家にふさわしい配偶者ではなく、自分本位に自由に相手を選ぶことに
よって、結婚と家が切り離された。

それに、ついこのあいだまで、世界はどこへ行っても、貧しかった。

そのために、家族や地域社会の人々が、生活を支え合った。

ところが、物質的な豊かさが、急速にもたらされたことによって、人類に
とって当然のことだった、家族をはじめとする絆を弱めて、破壊してし
まった。

子育て支援や、生活保護などの福祉制度も、このような傾向を助長している。

世界のどこへ行っても、結婚は今日のように一時的な快楽ではなく、家
や、社会に対する務めであって、神聖な行為だった。

結婚は責任をともない、自制と節度を必要とした。もちろん、人類を存続
させるためという、暗黙の了解があったにちがいない。

 皇室も、社会の一部だから、皇室が社会のなかで、孤立しているわけで
はない。

 皇室も、王室も、その時々の社会のありかたを映す、鏡である。

 どの国も、皇太子をその時の男性の理想像に合わせて、教育する。

 昭和天皇はご幼少のころから、明治時代の日本の男性の理想像に合わせ
た教育を、受けられた。そのために、ご生涯を通じて、国民の憧れの対象
となり、国民が熱い崇敬の念を捧げた。

 今上陛下も、東宮殿下も、日本国民がその時々にいだいていた、男性の
理想像を体現されていらっしゃる。

 眞子内親王殿下も、今日の日本国民の姿を映す鏡となって、いられるのだ。

 すると、いったい、私たちに眞子内親王殿下を批判する資格が、あるの
だろうか。



◆安邦保険を中国政府が救済

宮崎 正弘


平成30年(2018)2月27日(火曜日)通巻第5620号 

 安邦保険を中国政府が救済。CEOの呉小輝は監獄へ
  トウ小平一家の運命は、これからどうなる?

トウ小平は遺言に「墓を造るな」とした。

海に遺灰を播いて、遺族の他に立ち会ったのは胡錦涛だった。後世の報復
を恐れたからで、中国では墓を暴くのは伝統である。

トウ小平の孫娘と再婚したのは、昇竜の勢いを見せていた温洲商人の呉小
暉だった。彼は温洲市の共産党委員会幹部に取り入って、地方閥として蓄
財し、2004年に資本金五億元の保険会社を立ち上げた。

当時の状況は、中国の存在しなかった生命保険という金融商品に人々の関
心が高まり、われもわれもと有利な保険を捜していた時期と重なる。だか
らビジネスは当たった。

安邦保険は2016年までに7回も増資を繰り返し、2014年には投資家も注
目、一度の増資に500億元が集まったこともある。 

呉小暉はまたたくまに企業を肥大化させ、強気の海外企業の買収に乗り出す。

あげくはNYのウォルドルフアストリアホテルを買収し、トランプ一家に
食い入り、ニュージャージーに建設中だったトランプタワー分譲をまとめ
買いした。

「政治的コネ」の強さを見せつけ、米国の永住権取得に有利だというの
が、クシュナーの親族が唱った宣伝文句だった。

 「大きすぎて潰せない」。

日本でも過去に山一救済があり、ダイエーは救済買収がなされた。官主導
でも、業界の再編が起こり、鉄鋼、造船ばかりか銀行、保険、証券業界も
完璧に再編された。

債務超過による安邦保険の経営危機は以前から言われた。

並んで噂されるのが王岐山のコネが深いとされる「海航集団」と、習近平
一族との関連が言われる「万達集団」だ。

いずれも天文学的な債務超過、有利子負債が12兆円から15兆円、孫正義率
いるソフトバンクのそれもおよそ同レベルである。

2月23日、安邦保険倒産の危機を回避させるため、とうとう中国政府が救
済に乗り出した。呉小暉は2017年6月9日に逮捕拘束され、現在は監獄で
裁判を待つ身、容疑は中国保険法違反だとか。

同社は米国との関連が深いため、ウォールストリートジャーナルなど米国
のメジャーなメディアは大書して報道している。
        
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書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIE 
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朝日の内側にいた人々が朝日批判の先頭に乗り出した

 朝日新聞は偽善と欺瞞の伏魔殿、その正体はいったい何か

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長谷川煕『偽りの報道』(ワック)
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評者(宮崎)は朝日新聞を読んでいない。かれこれ40年以上になる。
学生時代は毎日読んでいたし、そもそも評者は朝夕、朝日新聞を配達し、
集金し、拡張まで行って学資を得ていた。文芸時評は林房雄が書いていた
し、左傾していたとはいえ、まだ良心があった。

大学入試に朝日からの出典が多いと聞いていたので、日本でいちばん良い
新聞と思っていたが、だんだん論調への疑問が生じ、いつのまにか「何を
書いているのだろう?この新聞は」と憤る日々が続いた。3年後に、同紙
が日本でいちばん悪質な新聞と分かり、それからしばらくは朝日新聞批判
も展開していた。

しかし批判も心臓に悪いうえ、精神衛生上、良くない。だから突然、朝日
購読を止めた。別に朝日新聞を読まなくても、何を書いているかは産経を
読んでいれば大枠が掴めるし、毎週の『週刊新潮』のコラムで高山正之氏
の朝日批判や『正論』『WILL』『hanada』を読んでいれば、ま
とめて朝日の遣り方が了解できる。

今起きていることも小川榮太?氏らの健筆ぶりを見ていると了解できるこ
とである。

以前の朝日批判の急先鋒と言えば、『諸君!』と『週刊文春』だったが、
前者は休刊、後者は朝日と共闘を組むようになって昔の面影はない。

 朝日新聞を毎日読まなくても、朝日の先行きは予測できる。

同紙は社内クーデターでも起こって、いきなり保守に転向し、産経の右を
走るか、それが出来なければ倒産するしかないだろう。いや、外国資本に
買収されるかもしれない。アメリカの主要メディアを豪のルパート・マー
ドックや、中国系資産家や、メキシコの財閥が代理人を駆使して買収した
ように。

そこで評者は、『朝日新聞のなくなる日』(2009年11月、ワック)を書い
た。よく売れたけれども、もう絶版になった。

言いたいことはSNSの発達が、一方的な、身勝手な主張伝達という大所
高所のメディアの在り方を変質させ、異なった意見が、主要メディアをバ
イパスして世論を形成してゆくだろうという予測だった。

事実、その通りになった。

米国ではトランプが当選し、欧州のほぼ全域でリベラルメディアの主張と
反対の政治的動きが主流となりつつある。

さて本書である。

著者の長谷川氏は朝日の内側にいた人で、永栄潔氏と同様に朝日批判の先
頭に乗り出した。その偽善と欺瞞の伏魔殿、その正体はいったい何かを内
側から鋭利に抉ったのが本書で、「安倍疑惑事件は冤罪」「安倍首相は報
道被害者」「夜郎自大の自画自賛」「陥穽に嵌った朝日記者の盲点」
「キャンペーンの歪曲性」など、小見出しを見ただけでも、その批判の激
しさが伝わってくる。        
 

◆予測できない金兄妹の韓国呑み込み作戦

櫻井よしこ

「予測できない金兄妹の韓国呑み込み作戦 日本は憲法改正の一日も早い
発議を」

北朝鮮の独裁専制君主、金正恩氏の妹の金与正氏は「氷のような女性」
だった。アゴを上向きにし、人を見下すような目線が目立った。金王朝支
配の死臭の漂うような北朝鮮では、人々は高官も含めて、一人の若い女性
のこのような目線に怯えるのであろうか。

2月9日の韓国入りから滞在3日間で、彼女は文在寅韓国大統領の心を
ぎゅっと鷲掴みにしたと見てよいだろう。なんと言っても文氏は3日間に4
回も与正氏に会った。初日からの映像を時系列で見ると、与正氏の表情に
余裕が生まれている。

文大統領も韓国世論も彼女の微笑外交に屈しつつある感触を得たからであ
ろう。韓国紙には与正氏の力を、「微笑の核爆弾」と形容した記事もあっ
た。マイク・ペンス米副大統領は「北朝鮮が平昌五輪をハイジャックしよ
うとしている」と警告、微笑攻勢で北朝鮮の残虐さが覆い隠されてはなら
ないと語った。オットー・ワームビア氏の父親を平昌に招き、現地で脱北
者らと会うなど北朝鮮の非人道的行為は許さないとの米国の姿勢を強調した。

しかし、蓋を開けてみれば、与正氏は韓国メディアに大きく報じられ、美
女軍団には無数の人が群がり、文大統領は締まりの無い顔で平壌に行きた
くて仕方ない心を見透かされた。

史上最悪の政治五輪になったが、近未来の光景も見えてくる。南北朝鮮が
北朝鮮を盟主とするような形で会談し、日米が対応を誤ればその先に北朝
鮮主導の連邦政府が生まれるだろう。

今回、なぜ、90歳の金永南氏が韓国を訪れたのか。2000年6月の金大中大
統領平壌訪問を思い出せば、疑問は解ける。大中氏は4.5億ドル(約500億
円)の秘密資金を金正日総書記に送金して南北首脳会談を開催してもらっ
た。6月13日、平壌に到着したとき正日氏が出迎えた。思いがけない主役
の出現に、韓国国民は熱狂した。

だがその後、北朝鮮側の主役は正日氏から、一応国家元首の永南氏に交替
した。当日の晩餐会は永南氏が主催し正日氏は姿を見せなかった。2日目
の晩餐会は大中氏が答礼で主催したが、このときも正日氏は現れなかった。

客観的に見れば、北朝鮮元首の永南氏と韓国元首の大中氏が外交儀礼に基
づいて接遇しているのであり、形は整っている。

では、正日氏はどうしたか。大中氏訪問3日目の昼食会を主催し大中氏と
永南氏の両方を招いたのだ。中国共産党が中華人民共和国政府の上位にあ
るように、北朝鮮労働党も北朝鮮政府の上にある。永南氏は正日氏には平
身低頭する存在だ。大中氏はその人物と、同列に位置づけられた上で、正
日氏に招待された。

正日氏は永南氏の上に立つのと同様の形で、大中氏の上にも立ったという
ことだ。こうして正日氏は南北両朝鮮の代表の上に立つ形を世界に示し
た。文氏の北朝鮮訪問も、同じ形に嵌まるだろう。このような事態を見越
して、正恩氏は永南氏を訪韓させたと見てよいのではないか。

北朝鮮に前のめりの文大統領とは対照的に、安倍晋三首相は日本の立場を
永南氏にはっきり伝えた。ペンス氏が五分しかとどまらなかった文大統領
主催の歓迎宴に、安倍首相は最後までとどまった。終わり近くにさっと永
南氏に接近して要求した。拉致被害者全員の早期帰国を日本政府は強く求
めると、強い口調で述べたのだ。

永南氏は儀礼上の元首であり、決定する権利はないのであるから、返事な
ど問題ではない。大事なことは永南氏に日本国政府の固い意思を伝えたと
いうことだ。それを氏は忠実に正恩氏に伝えるであろう。

正恩、与正兄妹が韓国呑み込み作戦に成功するのかは、予測できない。日
本は米国と共に韓国の対北宥和策を牽制し国防力の強化を急ぎ、憲法改正
を一日も早く発議することだ。
『週刊ダイヤモンド』 2018年2月24日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1220 

◆金正恩は“国宝”核ミサイルを手放さない

                    杉浦 正章

「ICBM発射凍結」の欺瞞(ぎまん)性

韓国大統領文在寅の対北融和姿勢がもたらすものは、はっきり言って金正
恩による“やらずぶったくり” に遭遇するだけだろう。国連の経済制裁が
効き始めたのか金正恩は、苦し紛れに南北首脳会談という呼び水をまい
て、9月の建国70周年に向けて、核・ミサイルの完成を喧伝、経済の悪化を
回避したいのだ。

まさに北の手の内で踊らされているのが文在寅だ。一方で米国が文のペー
スに乗って、大陸間弾道弾(ICBM)実験凍結と引き換えに妥協路線に移行
すれば、ノドン200発を向けられている日本は置いてけぼりを食らう可能
性がある。

日本を離反させて米極東戦略は成り立たない。金正恩みずからが苦し紛れ
に重要な戦略的な転換をしようとしているかに見えるが、その実は父親と
同様にいつか来た道、すなわち国際社会を欺く路線を歩むだけだろう。

しかし、米国がそこを読んでいないはずはない。トランプの長女イバンカ
は文在寅との晩餐会の席上、融和ムードにクギを刺している。「朝鮮半島
が非核化されるまで最大限の圧力をかけ続けることを改めて確認したい」
と文に迫ったのだ。文は「非核化と南北対話を別々に進めることはない。

2つの対話は並行して進めなければならない」と約束した。どうも文とい
う人物は両方に“いい顔”をする癖が抜けないようだが、その真の狙いは南
北首脳会談の実現にあり、北のペースにはまりかねない姿勢と言える。

 北の外交は一見巧みに見えるが、常に馬脚が現れる。妹金与正を派遣し
たことは、肉親を外交に使わなければならない切羽詰まった状況を反映し
たものだろう。なぜなら、北は文に“本気度”を示す必要に迫られたから
だ。与正のほほえみ外交の影に“氷のような微笑”を感ずるのは筆者だけで
はあるまい。文を手玉に取った与正は帰国して金正恩に報告。金正恩は、
南北関係をさらに発展させるための具体的な方途を指示したとみられている。

 その内容の一つが「ICBM発射凍結」のカードだ。日本上空を飛ぶICBM実
験を中止して、国際社会の関心を呼び、アメリカを乗せようとしているの
だ。もちろん国内向けにはミサイル開発を放棄しないし、開発はどんどん
進めることができる。

こうした北の“疑似”緊張緩和攻勢の背景には国連による制裁決議の影響が
徐々に生じ始めている実情がある。政府は、東シナ海の公海上で北朝鮮船
籍のタンカーとドミニカ船籍のタンカーによる積み荷の受け渡し「瀬取
り」を確認している。

苦し紛れに抜け道の対応が始まっているのであり、国連決議の影響は今年
後半にはもっと鮮鋭に生じることが予想される。

 しかし金正恩は、この影響をなんとしてでも回避したいのだ。最重要行
事である9月9日の建国70周年に向けて、経済の困窮は、自身の権威維持の
上で最も得策でないことなのだ。このためのとっかかりが文の融和姿勢に
あるのだ。

おそらく北の狙いは70周年に先だって、南北首脳会談を実現して、経済支
援を取り付けたいのであろう。最終的には米朝接触を実現するところにあ
るのは言うまでもない。すでに韓国は統一省報道官が「適切な機会に北朝
鮮と米国が建設的な話し合いに入ることを期待する」と、なりふり構わず
米朝対話を推進しようとしている。

日米はこの金正恩が掘った蟻地獄に文在寅がはまりつつあることを、傍観
することは出来まい。

 北朝鮮との交渉は歴史的に見て、ワンパターンである。約束をして経済
援助を獲得すれば、臆面もなく反故にする。2012年に、米朝間で合意した
核兵器と長距離弾道ミサイルの実験の凍結、国際監視下での寧辺(ヨン
ビョン)核関連施設におけるウラン濃縮の一時停止という約束はとっくに
反故にされており、何かの一つ覚えのごとく同じ手口を今回も通用させよ
うとしているかに見える。

全ての問題は北が核ミサイル開発を放棄するかどうかに絞られる。放棄し
なければ極東情勢は“気違いに刃物”の状況にさらされ続ける。しかし、北
がこの核ミサイル開発を放棄することはあり得ないだろう。

従って米朝会談が実現しても、妥協の構図は描けないのが実情だ。妥協ど
ころか物別れの連続となるのは必至だろう。なぜなら金正恩にとって核ミ
サイルは、珠玉の“国宝”そのものであり、手放せばそれこそ体制崩壊につ
ながりかねないからである。文在寅が開けられた日米韓連携弱体化の穴
を、日米が協調して塞ぐ方向へ持って行かなければなるまい。
   

◆木津川だより 壬申の乱(4)

白井繁夫


「壬申の乱の戦」は672年7月に入ると、近江朝廷の大友皇子軍と、不破の大海人軍の両軍が正面からの全面戦争に突入、近江路において雌雄を決する死闘が始まりました。

近江朝の近江路方面軍は、不破(関ヶ原)への進軍途上、近江の豪族、羽田氏や秦氏を味方の軍に取り込みましたが、関ヶ原と彦根市の中間地域を支配している息長氏(オキナガ)の旗幟が不明のため、息長氏の支配地の手前の犬上川畔まで進み陣を構えました。

7月2日に大友皇子の近江路方面軍の山部王将軍は、心ならずも総司令官的立場に担ぎ挙げられましが、大海人皇子に帰参を願っていることが発覚して、将蘇我臣果安.将巨勢臣比等に殺害されました。

この事件は近江朝軍にとって、大きな動揺と内部混乱の起因となりました。

近江朝軍の指揮官の人材不足?による軍の乱れ、(蘇我果安将軍は大津へ帰り、自責の念に駆られてか?自殺する。近江の豪族羽田矢国と子の大人(フシ)一族が息長氏の支配地を通り大海人軍に帰参)の結果、中立的立場だった息長氏を始めとする近江の豪族は、大海人側に加担するようになるのです。

(息長氏が中立を保ち旗幟を鮮明にしなかったので、大海人皇子は彼の本拠地近くの不破に野上行宮を置いていたのです。)

7月5日大津を出発した田辺小隅(オスミ)の少数精鋭の別動隊が、倉歴道から鈴鹿道を抜けて裏面から不破の挟撃を目指し、大海人軍の田中足麻呂が守る倉歴(くらふ:柘植町)を夜襲し守備隊を破りました。

翌日の深夜、莿萩野(たらの:旧上野市)の多品治将軍が守る陣に夜襲をかけますが、今度は田辺小隅軍が敗れて敗走しました。(この勇猛な作戦は非常に良い策でしたが、少数兵では大海人軍に勝てず敗れ去ったのです。)

大海人軍には琵琶湖の東岸の羽田氏、息長氏、北岸の坂田氏などの豪族が加わり、大海人皇子は羽田矢国を、北近江.越方面別動軍の将軍に起用して、北陸方面の要衝(愛発:あらち:高島市.旧マキノ町)の守りに就かせました。(かつて、大友軍の精鋭が夜襲をかけた「玉倉部邑:たまくらべむら」を防げたのも、息長氏の地盤近くで起きたから大海人軍の出雲狛が援助を受けて?防戦できた。とも云われています。)

大海人軍の村国男依が率いる近江路進攻軍(本隊)は7日に出撃し、大友軍の主力部隊と
息長の横河(米原市醒井付近)で主力軍同士が激突し、朝廷軍が敗れ去り、将軍境部連薬は捕えられ斬殺されました。

大海人軍は追撃して、9日に鳥籠山(とこやま:彦根市大堀町)の将軍秦友足率いる大友軍も破ります。(鳥籠山は息長氏と羽田氏の本拠地の中間、両戦闘で大海人軍は琵琶湖の東岸「東山道」を完全に制圧できました。)

大海人軍は更に南下して進軍し、13日には近江最大の川「安河畔」(守山市:野洲川畔)
に達して、2度目の主力戦を大友軍の将軍社戸臣大口(コソベノオミオオグチ)と戦い、撃破して彼を捕虜にしました。

17日には栗太(くるもと:栗東市)の大友軍の陣営も破り、瀬田川の東岸にある官衙まで、あと少しの処まで迫りました。

ここからは近江朝廷本営の主力軍との真剣勝負になるため、進軍を停止して、大海人軍は斥候を出し、大友皇子の正規軍の陣容.伏兵の有無などの状況と朝廷軍の情報収集を開始し主力戦に備へました。

その上で、672年7月22日は、村国男依将軍が率いる大海人軍の各諸将が、大友軍の総力を挙げた起死回生の決戦に挑むのです。

◆大海人軍の斥候の報告:
『大友軍は瀬田橋の西側に整然と布陣しているが伏兵は見受けられない。しかし、驚くことがある。それは大友皇子御本人が御出座されており、左大臣蘇我臣赤兄(ソガオミアカエ)、右大臣中臣連金(ナカトミノムラジカネ)の左右大臣も布陣する、朝廷の最高位の人々が前線に出るなど』と、想定外の出来事でした。

(後世でも家康との最後の決戦となる大坂夏の陣で、外堀も内堀も埋められ、まる裸となった大阪城での戦いを鼓舞するため、真田幸村ら諸将が豊臣秀頼の御出陣を依頼したが叶わなかったことは、ご承知ですね。)

朝廷軍は大津宮防衛のため、瀬田橋を大海人軍には絶対に渡らせない強い決意でした。

むしろ大海人軍の各諸将は前回記述した如く、近江朝の高官とも面識がなく、まして大友皇子の御出座も意に介せず、特大の獲物を狙う獣狼の様な地方の豪族達でした。

大海人軍の各部隊の兵は競って橋を突破しようとしますが、橋を目がけて雨霰の如く矢が降り注ぐ集中攻撃を受け、前進を阻まれました。それをも突破して半ばまで進むと、次は仕掛けが有り、兵は川に落ち流され溺れ死させられました。

(大友軍の将「智尊:チソン:渡来人の知恵者」が橋の中程に長板を置き、綱を引くと板が外れる仕掛けをしていたのです。)

この時大海人軍の兵士に動揺が起きました。前進する士気が薄れそうになったとき、大津皇子の舎人:大分君稚臣(オオキダノキミワカミ)は矢が射込まれても耐えられるように挂甲を重ね着して、踊り出、雄叫びをあげながら抜刀して橋上を疾駆すると、無数の矢が突き刺さりました。が、彼は怯まず橋を駆け抜けました。

西側に整列して矢を射ていた大友軍の兵は、眼前に獣の様な形相の稚臣を見て恐怖に駆られ逃げる余裕もなく斬られて逝きました。男依はこの機を捉へ、全軍に総攻撃を命じ、橋の西側へ攻め込みました。

智尊は必死で奮戦しますが、捕らえられ、男依に知略と武勇は称えながらも、定めにより斬殺されました。(大友皇子の本陣が静かに退くのが、遠望された、と云われています。)

同日、琵琶湖北岸の大海人軍の別動隊(羽田矢国.大人父子と出雲狛)は、西岸道を守る三尾城(みおき:滋賀県高島町)を攻撃して、落城させました。また、大和飛鳥から上ツ道、中ツ道、下ツ道の三道を北上した紀臣の大海人軍は、淀川の山前(京都府大山崎町)に到着して布陣を完了しました。

翌日(23日)瀬田の戦で大勝利した村国男依の大海人軍は、橋を渡り粟津岡(大津市膳所)に全軍集結しました。

一方、敗走した大友軍は左右大臣等の姿はなく、大友皇子はわずかの供を従えるだけとなり、全ての退路は大海人軍に断たれてしまったのです。

大友皇子は最後まで付き添った舎人(物部連麻呂)を大海人軍に遣わしました。村国男依将軍は大友皇子の名誉ある死のため、全軍に攻撃を一時中止させました。

物部麻呂が大海人軍の前に再び現れ、皇子の最後の様子を涙ながら報告し、皇子の首を差し出しましたが、流石に誰も正視する者がいなかったと云われています。

壬申の乱後、大海人皇子の裁きです。重罪は8名で、特に大友皇子の帷幕(いばく)として作戦を立案し、実権を握っていた中臣金は極刑、大友皇子擁立の盟約を結んだ者も処罰して政権から排除しました。その他の人々は寛刑で済ませました。

大海人皇子は、天武2年(673)正月、飛鳥淨御原宮で即位し、天武天皇となり、大臣を置かず皇族や皇親を中心とする皇親政治を採り、律令体制の国家を目指しました。

天武天皇は現体制の有能な官僚を温存して活用し、新国家建設を計り、新しい藤原京の建設を立案するのです。

大規模な造営計画の藤原京の京域は約25平方キロ(平城京:約24平方キロ)あり唐風の都城:礎石建築で瓦を葺いた建物、史上初の条坊制を布いた本格的な都城:を目指すのです。(造営プランは天武13年3月に決定されました。)

この皇位継承をめぐる大戦は、天武天皇妃の鸕野皇女(後の持統天皇)にとっては、我が子草壁皇子へつなぐ天武系統体制を確立する戦いであり、大友皇子擁立の盟約者を完全に排除出来ればそれでよかったのです。

大和.飛鳥の玄関港:泉津(木津の港)へは藤原京造営用の大量の檜材が、近江の田上山(たなかみやま:大津市大神山の峰々)から瀬田川→宇治川→「木津川」へと筏に組んで運ばれ、石材や瓦などの重量物も瀬戸内→淀川→「木津川」と水運を利用して運ばれました。

「木津から大和.飛鳥へ上ツ道、中ツ道、下ツ道の3道を利用するルート」があり、泉津は藤原京から平城京へと繁栄が続いて行くのです。(完)

参考資料:壬申の乱    中央公論社      遠山美都男著
     戦争の日本史2  壬申の乱  吉川弘文館  倉本一宏著
at 05:00 | Comment(0) | 白井繁夫

2018年02月27日

◆「拉致:朝鮮半島の闇、日本の闇」 第7章

                   “シーチン”修一 2.0


【措置入院」精神病棟の日々(98)】早朝のゴミ出しのついでに用水路沿
いの桜堤を散歩していたら、カワウとシラサギ、ダイサギ(大鷺)がエサ
の小魚を獲っていた。目の前でカワウは3匹、生まれて初めて見るダイサ
ギは1匹を捕食した。ダイサギは真っ白で、嘴は黄色い。体長は90cmほど
で「日本ではアオサギと並ぶ最大級のサギ」だという。結構迫力がある。

観察していたらコバルトブルーのカワセミがすごいスピードで3羽の上を
飛んで行った。まるでF1とかスーパーカー、ブルーインパルスだ。カワセ
ミは美しいが、不愛想。もう少し愛嬌があるといいのだが・・・「この媚
びない、群れないところがまたいいんだ」というファンもいるだろうが。

ソメイヨシノが植林から60年経って、年に何本かは朽ちる。朽ちると役所
と契約している園芸業者が撤去、あるいは桜堤保存会の人たちが切り倒し
て神社の隅の置き場で乾燥させ、正月3が日やどんど焼きのたき火に活用
する。

桜を切った後は保存会の人たちがヤマザクラ、シダレザクラなどを移植す
るが、幹は細いけれど開花しているのが1本あり、「河津桜」の札が付い
ていた。早咲きの桜として有名で、昔、伊豆半島一周のドライブの際に
寄ってみたが、時期がちょっと遅かったのかパッとしなかった。花も紅葉
も女も男もベストの時期は短くてあれこれ混雑するが、それを逃すと「ま
あまあだな」に評価が下がる。

アルゼンチンは戦後の一時期、世界で最も豊かな国だった。が、花盛りは
あっという間に終わってしまった。

♪いのち短し 恋せよ乙女 あかき唇 あせぬ間に 黒髪の色 褪せぬ間
に 心のほのお 消えぬ間に 今日はふたたび 来ぬものを

これを作詞した歌人の吉井勇(いさむ)は薩摩の志士、吉井友実(伯爵)
の子孫。ヒルトン・インターナショナルの幹部だった吉井功(いさお)氏
は「バロン(男爵)・吉井」と呼ばれていた。

ご先祖様は友実だ。吉井功 氏は紳士で、小生も大いに可愛がってもらっ
た。低音の美声、渋い系ハン サム、知的、上流階級、国際企業の幹
部・・・女はあかき唇であろうとな かろうと「放っておかないタイプ」
だった。争奪戦。

ま、小生とは真逆。くやしまぎれに「モテすぎるのも大変だなあ」とは
思ったものだが・・・

老い先短いとはいえ春への期待が高まる今日この頃、春が来たら第2展望
台を完成させるのだ。楽しみだ。(ジャンプ台になったりして・・・笑い
ながら書きつつ、不安になる・・・やっぱビョーキやな)

確定申告の作業は終えた・・・結局はいつものように税理士にメモと資料
を郵送しただけなのだが、今回の作業では思うことがいっぱいあり、こん
な歌を創ってみた。

納税の 申告用紙は まだかいな 調べてみれば 「e-Taxにしろ」

ICTの 日進月歩に 追い付かず 老いた脳ミソ 容量不足

商学部 入ってみたら まずは簿記 わては苦手や 大学中退

生まれつきなのだろう、カネの計算が好きではない、ほとんどカネに興味
がない、物欲もない(これは修業して身に着けた、「欲少なく足るを知
る、足るを知りて分に安んずる」)、起業してもトコトンどんぶり勘定、
「カネが足りん? そなら割が悪うても売上を伸ばそ、自転車操業やが、
倒れるよりはええ、そのうち旨い仕事が来るやろ」、呆れるほどのアバウト。

それでも3か月先の入金額はいつも気にしていたからどうにかもったが、
現金だと思っていたら3か月手形で予定が狂い、割引に日数とカネがか
かって往生したり、「この際、借金するしかない」と悩みに悩んでいた
ら、預金残高が結構あって助かったり・・・ま、ドンブリながら沈没しな
かったのは運が良かったわけだ。酒と女にも夢中になったが、酒友は仕事
をくれるし、女友はアゲマン、みんなのお陰もあった。

戦後の日本人は、日の丸を振って忠君愛国に(熱心に、潔く、あるいは仕
方なしに)励んだものだが、戦後はGHQの検閲、指導、洗脳もあって、戦
前否定、赤旗を振って共産主義、例えばソ連、東欧、北、キューバなどの
共産圏への親和性、憧れ、敬意、それをオブラートに包んだ岩波(戦後、
日共に乗っ取られた)的リベラルの受容、同情、要するにリベラル≒アカ
モドキは新バージョンとして拡散した。

小生の「第2の父」とも言うべき寿司屋のオヤジは週刊新潮と文藝春秋を
愛読していたが、常連客の勧誘をムゲにはできないから赤旗日曜版と聖教
新聞日曜版もとっていた。高校入学の頃も小生は寿司屋で手伝ったり遊ん
だりしていたが、そこで客の日共党員(多分)と親しくなり、家に呼ばれ
もした。狭い部屋に本がぎっしりあり、動ける場所は2畳もなかった。今
でも会話を覚えている。

「なんで合理化はダメなの?」
「労働者のクビを切るからね」

小生は反論はできないけれど、「なんかなー、そうかなー」とは思った。

やがて高校の民青が複数でアプローチしてきた。「いい若い者がいる、
引っ張るべし」と指令が飛んだのだろうが、応援団長が「修一にはあまり
近づくな」と言ってくれたので民青は来なくなった。

ただ、日共や民青には大学入学後も親近感はあった。1970年、大学2年の
春、「とりあえず民青かベ平連の集会を覗いてみよう」と、その二つの集
会を見ていたら、民青の方は吉永小百合風の美形を(ネズミそっくりとい
う人もいる)、ベ平連は可愛いテニス女子を用意していた。民青は黄色の
ヘルメットやライトブルーのハチマキ、ベ平連は緑のヘルメットに白いタ
オル製マフラー・・・小生はテニス女子の方に決めた。

大体、両者の主義思想の違いなんて分からないのだから、カッコイイ、可
愛い方になびくのは当然だろう。料理店のサンプルが美味そうな店とナン
カナーという店、実際の味は分からないけれど、未経験者は大体、前者を
選ぶだろう。そんな感じ。(経験則では、汚いとか不愛想でもいい店は
いっぱいあるが)

当時、大学では全共闘系=新左翼と日共・民青=旧左翼が縄張り争いをし
ており、ベ平連も末席ながらなんとなく全共闘系で、「自治会館を私物化
している民青を追い出そう」となり、なんとなくそれに同調し、横浜市大
と近所の関東学院大(関学)の新左翼系が合同して夜明け前の薄明の頃に
民青を追い出して体育館に軟禁、議論した。多勢に無勢の民青は抵抗しな
いし、新左翼系も殴ったりはしなかった。

何となく“戦争ごっこ”で、朝7時頃に関学の全共闘と2人でキャンパスを抜
け出し、愉快な気分で関学へ向かっていたら、白のハイエースが猛スピー
ドで来て5、6人の男が全共闘をボコボコにした。民青だった。小生は日共
への反感はなかったし、日共が人目のないところでは平気で暴力を行使す
るという現場を見て、ほとんど茫然自失、全共闘の顔は腫れ、鼻と口、目
の端から血が流れていた。

その制裁を小生が止めたのか、あるいは民青が「これ以上はヤバイ」と止
めたのか、茫然としていたので記憶が曖昧だが、「商学部2年の○○修一
だ」と名乗ったことで解放された(翌日、民青の配ったビラに小生の名前
が出ていたという、多分「○○修一らが学生自治会の学友を拉致し乱暴し
た」とでも書いてあったのだろう)。

全共闘に肩を貸して関学まで送ったが、全共闘は「なぜ一緒に戦わなかっ
たのか」と詰った。当然だ。いま考えるとまるで「コペル君」だが、小生
は「まさか日共が殴りかかってくる、暴力を振るうなんてまったく想像し
てなかった、予想もしていなかった、びっくりしてすくんでしまった」と
弁明した。

山村工作隊などで鍛えた日共の組織力、機動力、戦闘力は全共闘にとって
も予想以上だったのだろう、彼はそれ以上は何も言わなかったが、小生は
「日共の暴力性」に大ショックを受けて「マルクス主義、共産主義、日
共、社会党、新左翼とは何だろうと」勉強し始めた。

中核派に同調するようになったのは友人に「集会に行ってみよう」と誘わ
れたからだ。新教だろうが旧教だろうが、シェイク教だろうがアーミッ
シュだろうが、真言宗だろうが日蓮宗だろうが、勉強してしっかり比較し
て入信する人はいない。伴侶を選ぶのに相手の身体検査、心理検査をしな
いのと同じだ。運命やら人と人の縁で人生は決まる部分が多いのではないか。

戦後の日本人のマインドをザックリ言えば「日共や過激派はダメ、社会党
や岩波的リベラル≒アカモドキはまあ推奨モード、自民党は米国の言いな
りでズブズブ利権にはまっているみたいだけど、まあ安定している
し・・・安泰がいいのなら推奨できるけれど、変化を求めるとなると、ど
うもイマイチの感じ」あたりだったろう。民主党政権に懲りるまではそれ
が続いていたと思う。

共産主義を標榜する国に対してリベラル≒アカモドキは大なり小なり好意
的で、保守派も「どうなんかなあ」と思いつつも反感や敵意ほとんどな
かったろう。実態はほとんど分からなかったが、中共やキューバを訪れた
知識人などは「貧しい面はあるけれど、みんな明るくて、未来を信じてい
た」などと好感していたものだ。

「みんな」とは党の指名した役者で、台本を読んでいるだけという現実を
誰も知らなかった。「いや実際は共産圏は地獄だ、国民はひどい目に遭っ
ている、食うのもやっと、自由なんてまったくない、共産主義は残虐な独
裁体制だ」などと発言したら、反発どころか完全に無視されたというのが
真実ではないか。今でもマスコミは自分にとって「不都合な真実」は報じ
ない。一種のフェイク報道だ。

子・孫10人勢ぞろいでキッチンヂイヂはダウン寸前、発狂亭“地獄突き”雀
庵の病棟日記から。もしかしたら小生の誕生日を祝ってくれるのかなとち
らっと思っていたが、太宰治の箴言「いい予感はすべて外れ、悪い予感は
すべて当たる」、トホホホホ・・・

【2016/12/16】金曜、快晴。*産経、藤本貴之・東洋大情報学部准教授
「情報の『万引と転売』ウェブメディアの罪」によるとDeNAの10のサイト
が閉鎖になったとか。サイト情報の引用=コピペは今や当たり前だが、そ
れを売るという商行為はインモラルで、著作権法に抵触するだろう。『万
引と転売』、うまいことを言うが、こそ泥だ。

小生の場合はWSJやBBCを含む「とりあえず信頼できそうな」報道サイトを
引用し、称賛したり、批判したり、論理を裏付けたりするために利用す
る。基本的に出典は明記しているが、これは最低限のルールだろう。

<今回の騒動は、ウェブメディアと既存メディアの関係にとっては、いわ
ば「健全化」の第一歩のように感じる。ウェブメディアのビジネスモデル
に大きな変換が迫られ、産業構造自体の転換点にもなるだろう>

パクリ、コピペはいいのか悪いのか、境界があいまいなグレーゾーンだ。
ソープ嬢は「売春ではない、自由恋愛だ」ということになっているが、あ
いまいな部分がないと、この世は息苦しくなる。

言論はもともと拡散されることを好むから、著者は自分の作品が版元の依
頼で書いた売文であろうと、ネットなどで転載されることはウェルカムだ
ろう。少なくとも小生は、いい評価であれ悪い評価であれ、自分の考えが
拡散されるとうれしい。

DeNAはこそ泥を放任し過ぎた。ライターが則(のり)を越えてしまい、常
習化してしまったのだが、メディアもライターも当面は自粛するだろう。
しかし「喉元過ぎれば熱さ忘れる」が世の常だから、藤本氏の言うような
「産業構造の転換」にはならないだろう。タンポポの種子が飛ばないよう
に押さえ込むのは無理だ。

*山田吉章・東海大教授「正論 重要離島の『防人』配備急げ」。以前か
ら対中の島嶼防衛の重要性は指摘されているが、カネがかかっても票には
ならないから蝸牛の歩みだ。

小生の関心は半径1.5万キロで、大西洋、北極、南極以外の地域の動きを
知りたいと思う。アフリカについては「中共の安物攻勢で軽工業の発展さ
えも覚束ないでいる」くらいしか知らず、マスコミもテロ、クーデター、
内戦といったニュースばかりで、人々がどんな暮らしをしているのか、ど
んなことを思っているのか、ほとんど報じられない。残念だ。

大多数の日本人の関心は半径100メートルで、病棟の患者を身近に見てい
ると、天気、食事、テレビ、事件、事故、生活(ファッションなど)に興
味はもつが、天下国家のことなどにはまったく関心がないようだ。「治ま
る世」とはこういうものか。

*「円急落 一時118円台 東証、6日連続で年初来高値」。米の利上げ観
測によるそうで、株は1万9273円。給料が上がれば消費も上向くのだが、
経営者は慎重だから、なかなか動かない。円は120円前後だと快調快便に
なる。日本はFRB次第のような感じだが、いずこの国も投資家は米国の一
挙手一投足に動かされている。パワーが落ちているとはいえ超大国だから
影響は依然として大きい。(つづく)2018/2/25

◆君が世完成記念日

渡部 亮次郎


国歌「君が代」は1999(平成11)年に国旗及び国歌に関する法律で公認さ
れる以前の明治時代から国歌として扱われてきた。

この曲は、平安時代に詠まれた和歌を基にした歌詞に、明治時代になって
イギリス歩兵隊の軍楽長ジョン・ウィリアム・フェントンが薩摩琵琶歌
「蓬莱山」から採って作曲を試みたが海軍に不評。

海軍から「天皇を祝うに相応しい楽曲を」と委嘱された宮内省が雅楽課の
林廣守の旋律を採用(曲はイギリスの古い賛美歌から採られた)。

これにドイツ人音楽教師エッケルトが和声をつけて編曲。1880(明治13)
年10月25日に海軍軍楽稽古場で試演された。だから10月25日が「君が代」
完成記念日とされている。

明治2(1869)年に当時薩摩藩兵の将校だった大山巌(後の日本陸軍元帥)
により、国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと言うフェトンの進言をいれ
て、大山の愛唱歌の歌詞の中から採用された。

当時日本の近代化のほとんどは当時世界一の大帝国だったイギリスを模範
に行っていたため、歌詞もイギリスの国歌を手本に選んだとも言われている。

九州王朝の春の祭礼の歌説というものがあり、説得力はある。九州王朝説
を唱えるのは古田武彦氏で、次のように断定している。

<「君が代」の元歌は、「わが君は千代に八千代にさざれ石の、いわおと
なりてこけのむすまで・・・」と詠われる福岡県の志賀島の志賀海神社の
春の祭礼の歌である。

「君が代」の真の誕生地は、糸島・博多湾岸であり、ここで『わがきみ』
と呼ばれているのは、天皇家ではなく、筑紫の君(九州王朝の君主)である。

この事実を知っていたからこそ、紀貫之は敢えてこれを 隠し、「題知ら
ず」「読人知らず」の形での掲載した>

文部省(現在の文部科学省)が編集した『小学唱歌集初編』(明治
21(1881)年発行)に掲載されている歌詞は、現在のものよりも長く、幻
と言われる2番が存在する。

「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで うごきな
く常盤かきはにかぎりもあらじ」

「君が代は千尋の底のさざれ石の鵜のゐる磯とあらはるゝまで かぎりな
き御世の栄をほぎたてまつる」

後半の「さざれ石の巌となりて」は、砂や石が固まって岩が生じるという
考え方と、それを裏付けるかのような細石の存在が知られるようになった
『古今和歌集』編纂当時の知識を反映している。

明治36(1903)年にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、『君が
代』は1等を受賞した。

後は専ら国歌として知られるようになった『君が代』だが、それまでの賀
歌としての位置付けや、天皇が「國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」していた
(明治憲法による)という時代背景から、戦前にはごく自然な国家平安の
歌として親しまれていた。

敗戦で事情は全く変わった。日本国衰退を目指すアメリカ占領軍は。それ
まで聖職者とされてきた教職員に労働者に成り下がって権力に抵抗させる
べく日教組を結成させた。

占領した沖縄では国旗の掲揚と君が代の斉唱を禁止したことでも明確なよ
うに、マッカーサーの本心は日の丸掲揚と君が代斉唱に反対であった。日
本国民が一致団結、再度、アメリカに挑戦することを恐れたのである。

それを組合の統一闘争精神に掲げたのが日教組なのである。いつの間にか
天皇を尊敬する事とか君が代を歌うことが戦争に繋がると論理を摩り替え
て、正論を吐く校長を自殺に追い込んだといわれても反論できないような
状況を招いたのである。

君が代支持の世論を背景に平成8年(1996年)頃から、教育現場で、当時
の文部省の指導により、日章旗(日の丸)の掲揚と同時に『君が代』の斉
唱の通達が強化される。

日本教職員組合(日教組)などの反対派は憲法が保障する思想・良心の自
由に反するとして、旗の掲揚並びに「君が代」斉唱は行わないと主張し
た。先生の癖に論理のすり替えの得意な人が日教組に所属する?

平成11年(1999年)には広島県立世羅高等学校で卒業式当日に校長が自殺
し、君が代斉唱や日章旗掲揚の文部省通達とそれに反対する教職員との板
挟みになっていたことが原因ではないかと言われた。

これを一つのきっかけとして日教組の意図とは反対に『国旗及び国歌に関
する法律』が成立した。法律は国旗国歌の強制にはならないと政府はした
ものの、反対派は法を根拠とした強制が教育現場でされていると主張、斉
唱・掲揚を推進する保守派との対立は続いている。

平成16年(2004年)秋の園遊会に招待された東京都教育委員・米長邦雄
(将棋士)が、(天皇)に声をかけられて「日本の学校において国旗を揚
げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と発言し「やはり、
強制になるということでないことが望ましいですね」と言われている。

なお、天皇が公式の場で君が代を歌ったことは1度もないと言われてい
る。成人前の家庭教師ヴァイニング夫人による何がしかを勘繰る向きがな
いわけではない。08・10.25

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


            

◆お邪魔虫共産党

                    渡部 亮次郎


中国では幹部でも汚職がばれれば死刑になる。それでも幹部の
汚職が引きもきらない。いくら共産主義に共鳴しても、私欲とは人間の本
能に等しいものだからである。

こうした目で中国を見ていれば、共産党が政権を掌握している限り
人権尊重や政治の民主化なぞは絶対実現しないと思うのが普通だが、経済
の改革開放が進むのに比例して民主化が進むはずだと考える人々がいる。
特にアメリカの人たちに多い。

中国が何故、共産革命に成功したか。それは国家権力を手中にしようとし
た毛沢東の策謀が成功したからである。国家の形態は何でも良かったが、
とりあえず貧民が国民の大多数だったので、「金持ちの財産を分捕り、皆
で平等に分配しよう」と言う呼びかけに合致したのが共産主義だった。

共産主義政府の樹立が毛沢東の望みではなかった。真意は権力の奪取だっ
た。日中戦争の終結で、日本軍の放棄して行った近代兵器を手中にして蒋
介石と国内戦争を続けた結果、蒋介石は台湾に逃亡した。毛沢東は昭和
24(1949)年10月1日、中華人民共和国建国を宣言した。

人民も共和も中国語には無い。日本語だ。畏友加瀬英明氏の説明だと、中
国語には人民とか共和と言う概念が無いのだそうだ。北朝鮮はそれに民主
主義が加わって嘘が深化している。

権力は掌握したが、人民への約束を果たす手段が無い。とりあえず人民公
社と大躍進政策が当時のソ連をモデルに実施されたが、農民は生産意欲の
低下とサボタージュで抵抗。

結果として食糧不足に陥って各地で飢饉が発生。餓死者は1500万人から
4000万人と推定されている(「岩波現代中国事典」P696)。

毛沢東の死(1976年)後2年、失脚から3度目の復活を遂げていたトウ小平が
経済の開放改革を断行。開放とは日本など外国資本の流入を認め、改革と
は資本主義制度への転換を意味した。

4つの近代化を掲げたのだ。工業、農業、国防、科学技術の近代化であ
る。今のところ実現に近付いているのは軍事の近代化である。

トウ小平は政治の近代化だけは断乎として拒否した。肥大化した経済が政
治(共産政府)を圧倒する危険を回避したのである。だから第2天安門事件
には反革命の匂いを嗅ぎ、断乎、弾圧した。

しかし発展する資本主義にとって共産党政府による様々な統制は邪魔以外
の何物でも無い。工場用地の確保一つとってみても、土地すべての国有は
障害でしかないが、自由にならない以上、共産党幹部を「買収」する以外
に方法が無い。

したがって多発する共産党幹部による汚職事件はいわば構造的なことで
あって、客観的にみれば「事件」ではなく「日常茶飯事」に過ぎない。

しかも冒頭に述べたように「私欲」は本能のようなものだ。所有を否定す
るのが共産主義の思想でも「本能」には勝てっこない。つまり共産主義体
制化で経済だけを改革開放すれば汚職簸自動的に起きるし、共産党幹部に
すれば、現状を変更するメリットは全く無いわけだ。

汚職は時たましか発覚しない。摘発で死刑になるのは不運な奴で政府の知
るところではないのだ。かくて中華人民共和国政府は汚職にデンと腰を下
ろした政権。民主化を抑え、人権無視の批判など絶対耳に留めない。耳が
左右に付いているのは右から聞いたら左から逃す為にあるのだ。2010・12・5


◆木津川だより 壬申の乱(3)

白井繁夫

壬申の乱の戦はこれまで河内.飛鳥方面の戦況を先行し、近江路方面は後述に分けました。

672年7月3日大海人軍の大伴吹負(フケイ)将軍は、「木津川」を越え攻め寄せて来る大友軍に対する布陣を、乃楽山(奈良山)に完了し、麾下の荒田尾赤間呂の奇策を倭古京(飛鳥の古い都)に採りました。大野果安(ハタヤス)将軍が率いる近江朝軍に備える作戦でした。

その翌日、果安軍の大軍が来襲し、簡単に布陣を突破され、怒涛の勢いで天香具山(天香久山:奈良県橿原市)の八口まで攻め込まれましたが、そこで吹負軍の奇策(大軍の存在を示す大量の楯等)を試みて戸惑わせました。そして目前までやすやすと占領で来た飛鳥京に、果安軍の全軍を一時後退させました。
「高市県主 許梅(コメ)の託宣(生霊神の言):果安長蛇を逸す。と」

大海人軍の吹負は命拾いしたのですが、逃げる途中に置始連兎(オキソメノムラジウサギ)の騎兵隊(先遣隊)と墨坂(宇陀市榛原)で合流して力を付け、金綱井(かなづなのい:橿原市今井町)に逆襲したのです。


一方、近江朝の壱岐韓国(カラクニ)将軍が率いる河内方面軍も河内衛我河で坂本財を破りますが、その時、国司来目塩籠の背反問題が発生して進軍できません。再度軍勢を立て直して飛鳥を目指しましたが、当麻の衢(ちまた)、葦池付近(奈良県葛城市当麻町)で、大伴吹負麾下の勇士来目(タケキヒトクメ)と置始騎兵隊の凄まじい突撃を受けたのです。

ところが、近江朝の大軍団の中の歩兵連隊の横腹を目指して、精鋭の騎馬隊が決死の覚悟で猛然と突撃した戦いで、さしもの韓国大軍も乱れ、兵は逃惑い、韓国軍の指揮命令系統が機能せず、総司令官(韓国)が、矢を受けて、必死で逃亡して行きました。

この7日の戦いで大海人軍は西方(大坂.河内方面)の脅威を無くしたのです。

当麻の戦いも4日の総攻撃日と同様、大友軍は河内方面軍と近江の倭古京方面軍の連携が機能していなかったと思われます。その間に大海人軍の大倭方面派遣軍の本隊(紀臣阿閉麻呂:キノオミアヘマロ:率いる数万の兵)が大伴吹負軍に参陣しました。

倭古京(飛鳥京)と乃楽(奈良)を結ぶ3本の南北道は東から上ツ道、中ツ道、下ツ道と称され東の上、中ツ道は木津へ奈良街道となって繋がり「木津川」の右岸を通り菟道(宇治)へ、西の下ツ道は木津の歌姫街道へと、「木津川左岸」を通って山陰道などに繋がります。

近江朝の将軍大野果安率いる倭古京方面軍は、大和の北(木津)を経て乃楽から上記3本(上.中.下ツ道)の道に部隊を分けて飛鳥を目指して攻めたのです。
これに対して、紀阿閉麻呂率いる大海人軍の本隊は、7月7日から8日にかけて続々と集まりだしたのです。同本隊の大伴吹負は、この大軍を3道に合わせて上中下陣に分けました。つまり、麾下の三輪高市麻呂は彼の地盤である上ツ道、吹負は中ツ道(自身の百済の家:橿原市百済)、援軍の精鋭部隊(主力部隊)は上ツ道に配置したのです。

ところが、戦闘は上ツ道と中ツ道ほぼ同時に起き、中ツ道の近江の将軍(犬養五十君イキミ)の別動隊(廬井鯨イホイノクジラが率いる精鋭部隊)が少数で守る吹負の陣営を襲い、またまた吹負は苦戦を強いられて仕舞い、必死に防戦しました。

上ツ道沿いの箸陵(はしはか:桜井市)での戦闘は三輪高市麻呂(大倭の豪族)と大海人軍本隊の精鋭部隊(置始兎)が共同で近江朝軍を迎撃、撃退し、更に追跡して、中ツ道の近江軍本隊を攻撃し、廬井鯨の背後を衝いたのです。

これで大友軍の大和の戦闘は、完全に敗北となったのです。

大海人軍の将軍吹負は何度も近江軍と戦い負けても、再度挑み続ける闘志でした。一方、近江軍の兵士の方は、庚午年籍に基づく徴兵であり、将軍も大海人皇子に内応する者も出てきていたため、大事なところで勝機を逃していたのです。

この結果が、飛鳥路方面の戦闘も、大海人軍の勝利に結び付いたことになります。

そこで、大海人軍の将軍大伴吹負は即刻難波へ赴き、西国の国宰から正倉.兵倉の鑰(かぎ)を献上させました。また大海人軍の大倭救援軍本隊は北の乃楽山から木津を経て山前(やまさき:桂川、宇治川、木津川との合流地南:八幡市男山近辺)へ進軍して行きました。これが歴史上の山場と見るべきでしょう。

ここで、大和.飛鳥路方面から近江路方面の戦闘へ話題を戻します。

672年6月に近江朝は、東国へ徴兵督促のため派遣した国宰(くにのみこともち)書薬(フミノクスリ)などが、26日に大海人軍に「不破道(関ヶ原)」で囚われの身になった。との報告に接し即刻臨戦態勢を取り、27日に大津宮より近江路方面軍を発進させました。

近江朝軍の陣営は王族(山部王)、大夫氏族(高級官僚:蘇我果安ハタヤス、巨勢比等コセノヒト)、などの将軍(指揮官)と中小中央豪族、近江地方の豪族、羽田矢国(ヤクニ)将軍を含めて、数万の兵(近江朝正規軍+近江の兵など)からなる大軍団でした。

大友皇子は不破道の大海人軍を、この際一気に粉砕できると、信じて出発させたと思われます。

(話題が前後しますが、この時点で、近江朝には飛鳥の状況も、大海人皇子が野上行宮に入った情報も、更に、尾張の国司小子部鉏鈎:チイサコベノサヒチ:が2万の兵を率い大海人軍に帰服した27日の重大な情報なども、近江朝には全く届いていなかったのです。決定的な手抜かりでした。)

この結果、大友皇子には、6月29日になって、ようやく大伴吹負が倭古京で蜂起し、飛鳥の大友軍営を占領した戦況が伝わったのです。これを機に大友皇子と大海人皇子の両陣営が本格的戦闘態勢を採ることになるのです。

7月2日に大海人皇子は「和蹔:わざみ」(不破郡関ケ原町)の全軍に進撃命令を出しました。紀阿閉麻呂率いる大倭救援軍は前回記述した如く置始兎の騎兵隊を先遣し、飛鳥まで伸びる戦線の腹部防護のため多品治を「莿萩野:たらの」(伊賀市)に、田中足麻呂を「倉歴道:くらふのみち」(甲賀市)に配備しました。

大海人軍の近江路方面進攻軍は総司令官村国男依(オヨリ)将軍、書根麻呂(フミネノマロ)将軍.和珥部君手(ワニベノキミテ).胆香瓦安部(イカゴノアヘ)ら地方豪族で整え、この方面軍も数万の兵士に赤布や旗を備えた赤色軍にしています。

近江路軍の最大特徴は総司令官を除き、指揮を執る各将軍は大友皇子を始めとして近江朝廷の高官とは面識ないのが地方の各豪族です。ただこの地方の土地勘や地縁.血縁を持っているだけです。ですから、戦闘に突入した時、各指揮官が個々に部隊を指揮、命令しました。謂わば総司令官の指揮ではなかったのです。

余談ながら、後世の江戸幕府軍が「錦の御旗」に恐れをなしたのも、大海人皇子と同じ様な巧みな戦略.指揮.監督をしたと思われます。

さて、大海人軍の飛鳥救援軍は即刻先遣部隊を急派し、同時に鈴鹿道.伊賀路の防衛を固めて出発しました。そして近江路進攻軍は大和.飛鳥方面のその後の戦闘情勢と大津京への進軍途上で戦闘に際し非常に重要である各地の豪族:息長氏(オキナガシ:米原市)を始めとし、坂田氏、秦氏、羽田氏などの状況を把握して行ったのです。

これに対して、近江朝廷軍は東国の徴兵と西国(中国.九州)の徴兵が時間的に間に合わないため、朝廷の常備軍と畿内で徴集した兵をもって、飛鳥と不破に兵力を分散さす状況となりました。飛鳥京と大海人本営の攻撃と両方面とも、近江朝は重要と判断したのでしょう。

しかし、近江朝廷の大友皇子は当初は大海人皇子に必勝すると信じて、思い戦闘に入りましたが、「白村江の戦」が尾を引いて軍備が遅れ:武器や兵力不足の悪状況も伴ったのです。

ですから不破への進撃途上に通過する地域の豪族兵を味方に(羽田氏など)加えながら、息長氏(オキナガ)などの近江の豪族をどれだけ味方に出来るかが勝敗を大きく左右すると思うようになっていたでしょう。

一方、大海人皇子は前述の如く、大和飛鳥路戦へは戦術に長ける中央の豪族を指揮官にして近江朝に不満を持つ豪族(国宰や古い渡来人)、東国へ脱出途上大海人軍に加わった兵(美濃.尾張の2万、大倭や伊賀の軍勢)を得て、半年間、吉野で推考した作戦以上の好精華で状況は進展していました。「戦には天が味方してくれている」と思ったに違いありません。

近江路における両軍正規軍の勝敗を決する戦闘と、その顛末は、次回につづけます。

参考資料: 壬申の乱   中央公論社    遠山美都男著
      戦争の日本史2 壬申の乱  吉川弘文館  倉本一宏著

2018年02月26日

◆予測できない金兄妹の韓国呑み込み作戦

櫻井よしこ

「予測できない金兄妹の韓国呑み込み作戦 日本は憲法改正の一日も早い
発議を」


北朝鮮の独裁専制君主、金正恩氏の妹の金与正氏は「氷のような女性」
だった。アゴを上向きにし、人を見下すような目線が目立った。金王朝支
配の死臭の漂うような北朝鮮では、人々は高官も含めて、一人の若い女性
のこのような目線に怯えるのであろうか。

2月9日の韓国入りから滞在3日間で、彼女は文在寅韓国大統領の心を
ぎゅっと鷲掴みにしたと見てよいだろう。なんと言っても文氏は3日間に4
回も与正氏に会った。初日からの映像を時系列で見ると、与正氏の表情に
余裕が生まれている。

文大統領も韓国世論も彼女の微笑外交に屈しつつある感触を得たからであ
ろう。韓国紙には与正氏の力を、「微笑の核爆弾」と形容した記事もあっ
た。マイク・ペンス米副大統領は「北朝鮮が平昌五輪をハイジャックしよ
うとしている」と警告、微笑攻勢で北朝鮮の残虐さが覆い隠されてはなら
ないと語った。オットー・ワームビア氏の父親を平昌に招き、現地で脱北
者らと会うなど北朝鮮の非人道的行為は許さないとの米国の姿勢を強調した。

しかし、蓋を開けてみれば、与正氏は韓国メディアに大きく報じられ、美
女軍団には無数の人が群がり、文大統領は締まりの無い顔で平壌に行きた
くて仕方ない心を見透かされた。

史上最悪の政治五輪になったが、近未来の光景も見えてくる。南北朝鮮が
北朝鮮を盟主とするような形で会談し、日米が対応を誤ればその先に北朝
鮮主導の連邦政府が生まれるだろう。

今回、なぜ、90歳の金永南氏が韓国を訪れたのか。2000年6月の金大中大
統領平壌訪問を思い出せば、疑問は解ける。大中氏は4.5億ドル(約500億
円)の秘密資金を金正日総書記に送金して南北首脳会談を開催してもらっ
た。6月13日、平壌に到着したとき正日氏が出迎えた。思いがけない主役
の出現に、韓国国民は熱狂した。

だがその後、北朝鮮側の主役は正日氏から、一応国家元首の永南氏に交替
した。当日の晩餐会は永南氏が主催し正日氏は姿を見せなかった。2日目
の晩餐会は大中氏が答礼で主催したが、このときも正日氏は現れなかった。

客観的に見れば、北朝鮮元首の永南氏と韓国元首の大中氏が外交儀礼に基
づいて接遇しているのであり、形は整っている。

では、正日氏はどうしたか。大中氏訪問3日目の昼食会を主催し大中氏と
永南氏の両方を招いたのだ。中国共産党が中華人民共和国政府の上位にあ
るように、北朝鮮労働党も北朝鮮政府の上にある。永南氏は正日氏には平
身低頭する存在だ。大中氏はその人物と、同列に位置づけられた上で、正
日氏に招待された。

正日氏は永南氏の上に立つのと同様の形で、大中氏の上にも立ったという
ことだ。こうして正日氏は南北両朝鮮の代表の上に立つ形を世界に示し
た。文氏の北朝鮮訪問も、同じ形に嵌まるだろう。このような事態を見越
して、正恩氏は永南氏を訪韓させたと見てよいのではないか。

北朝鮮に前のめりの文大統領とは対照的に、安倍晋三首相は日本の立場を
永南氏にはっきり伝えた。ペンス氏が五分しかとどまらなかった文大統領
主催の歓迎宴に、安倍首相は最後までとどまった。終わり近くにさっと永
南氏に接近して要求した。拉致被害者全員の早期帰国を日本政府は強く求
めると、強い口調で述べたのだ。

永南氏は儀礼上の元首であり、決定する権利はないのであるから、返事な
ど問題ではない。大事なことは永南氏に日本国政府の固い意思を伝えたと
いうことだ。それを氏は忠実に正恩氏に伝えるであろう。

正恩、与正兄妹が韓国呑み込み作戦に成功するのかは、予測できない。日
本は米国と共に韓国の対北宥和策を牽制し国防力の強化を急ぎ、憲法改正
を一日も早く発議することだ。

『週刊ダイヤモンド』 2018年2月24日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1220