2018年05月21日

◆淀川河底に「俳人蕪村の生家」

                         毛馬 一三

                        

江戸時代の俳人与謝蕪村の生家は、淀川の河底に埋没しているのは間違いないのですが、一体河底の何処に埋没させられて仕舞ったのでしょうか。詳しい場所は未だ不明です。

確かに、大阪毛馬の淀川堤防に「蕪村生誕地」と書いた「記念碑」が建立されてはいます。しかし「蕪村生誕し幼少を過ごした生家」は、この場所ではないことははっきりしています。

実は「蕪村の生家」が、冒頭に記したように、淀川堤防から眼下に見える「淀川の川底」に在るのは事実です。なぜ淀川の川底に埋没されたのでしょうか。これは追々。

徳川時代の淀川は、よく手入れが行われていましたが、明治維新後は中々施されていなかったのです。ところが、明治18年に淀川上流の枚方で大水害が起き、下流の大阪で大被害を受けたことをきっかけに、明治政府がやっと淀川の本格的改修に乗り出しました。

その際明治政府は、単なる災害防止ためだけではなく、大阪湾から大型蒸気船を京都伏見まで通わるせる航行で「経済効果」などの多目的工事に専念することを決めました。

そのために淀川の河川周辺の陸地を大幅に埋め立て、それまでの小さな淀川を 大きな河川にする大改修を立案したのです。

これに伴い、旧淀川沿いにあった「蕪村生家」地域は埋め立ての対象となり、すべて「河川改修工事」によって川底に埋められて仕舞いました。

さて、明治政府は関西の大型河川・淀川を大改修するため、オランダから招いた河川設計者・デ・レーケとフランス留学から帰国していた設計士沖野忠雄とを引き合わせ、「淀川大改修」の設計を依頼しました。

明治政府の依頼を受けた2人は、「大改修工事」の設計を創り上げ、明治29年から工事を開始しました。

とにかくこの大型改修設計は、大阪湾に京都の宇治川や桂川、奈良からの木津川を中津川に合流させ、一気に淀川として大阪湾に繫ぐ、巨大な設計でした。

そうすれば貨物蒸気船を大阪湾と京都を結んで航行させることが出来、逆に京都・枚方などで大水害が起きた場合でも大量の水量をさらりと、大阪湾に流すことが出来るのです。二本立ての「効果狙いの設計」でした。

勿論、上流の災害で流出してくる「土砂」が、大阪に被害を与えないため「毛馬閘門」設計も創りました。

これが淀川から大阪市内に分岐させる「毛馬閘門」の設計主旨だったのです。この「毛馬閘門」からは、淀川本流から分岐して大阪市内へ流れる河川を設計しました。その河川の名を「大川」と名付けたのです。

この「大川への分岐設計」で、上流の水害に伴う土砂流失の回避は実現し、大阪の上流からの防災は、今日まで護られているのです。

このように2人による設計書は、世界の河川工事技術水準に準じたもので、明治政府が施工した「河川大改修工事」としては全国的に見ても画期的なものでした。

同工事は、明治29年から明治43年まで行われ、設計通り完成しました。

ここから本題。この「河川大改修工事」によって、与謝蕪村が生まれ、幼少を過ごした大阪市都島区毛馬町(摂津国東成郡毛馬村)は、跡形もなく淀川に埋没させられ、深い川底に沈んで仕舞いました。

明治政府の強制でしたから、当時の住民は仕方なくそれに従ったようですが、川幅も660b(従来の30数倍)となり、浅かった河の深さも5bの巨大河川に変容したのです。

この住居埋没の強制工事で、前述の如く、蕪村の生家(庄屋?)は勿論、お寺、菜の花畑、毛馬胡瓜畑跡などの、当時の地域の様子は皆目全くわかりません。今は淀川の毛馬閘門近郊にある蕪村記念碑から、淀川の眼下に見える川底が「蕪村が幼少を過ごした生家地域」だと想起出来るだけで、寂しい限りです。

淀川近郊の蕪村家(庄屋)の後継者の方といわれる毛馬町の家を訪ね、「家歴」を伺いました。しかし、「地図」も無いし、お寺も埋没して「過去帳」もないために、蕪村生誕地が淀川の河底にありことは間違いないですが、今でもどのあたりの河底にあるのか分かないのです。」という答えが返って来ただけでした。

「蕪村生誕300年記念」を、2016年に迎えました。大阪毛馬町の「蕪村公園」を通り過ぎて、「毛馬閘門」と「蕪村記念碑」ある淀川堤防の上から眼下に流れる「淀川」を見ながら、その河底に蕪村生誕地があることを想いつつ、蕪村が幼少期をここで過ごしたのかと、瞑想することが、よくあります。

ところで本題。淀川近郊の蕪村家(庄屋)は、大阪毛馬町に在る「淀川神社」の氏子でした。このため年間の祭事や祈願の折は、この「淀川神社」に父母と一緒に蕪村「幼名―寅」は、参詣に通ったことが、江戸時代の慣習から推察出来ます。

また蕪村が、毛馬村を出奔し江戸へ下る決意を固めた時、氏子の立場から「淀川神社」に参詣し、将来の生き方を祈願したことは、当然のことと考えられます。

そこで、今の「淀川神社」の境内に、蕪村生誕300年の前年の12月21日、協賛者のお力を頂いて高さ1m60pの銅製の「蕪村銅像」を建立しました。

今年28年1月からは「蕪村生誕300年の年」でした。そこでこの年の1月23日午後1時から大勢の人たちや外国ウクライナの女性も「淀川神社」に集まって、「蕪村銅像建立の除幕式」を行いました。

望郷の念の強い「蕪村」は、この「生誕地参詣神社に銅像が建立する」ことに喜んでくれて帰郷して呉れているでしょう。また「淀川神社」も、「蕪村参詣神社」として、後世に伝承されるでしょう。

どうか「蕪村銅像」の拝観にきて頂くよう心からお願い致します。

取材先:国交省近畿地方整備局淀川河川事務所

2018年05月20日

◆朝鮮半島勢力巡る歴史的闘い

櫻井よしこ


「朝鮮半島勢力巡る歴史的闘いが展開中も日本の野党は政治責任を果た
していない」

北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長の動きが派手派手しい。5月7日から8
日、妹の与正氏と共に中国の大連を訪れた。習近平国家主席と共におさ
まった幾葉もの写真を北朝鮮の「労働新聞」に掲載し、米国に対して「僕
には中国がついているぞ」と訴えるのに懸命である。

懐の窮鳥を庇うように、中国共産党を代弁する国営通信社の新華社は「関
係国が敵視政策と安全への脅威をなくしさえすれば核を持つ必要はない」
と正恩氏が語ったと伝えた。習氏は8日、トランプ米大統領に電話し、
「米国が北朝鮮の合理的な安全保障上の懸念を考慮することを希望する」
と語った。正恩氏を囲い込み、米国の脅威から守ってやるという中国の姿
勢であろう。

9日には北朝鮮の招待でポンペオ米国務長官が平壌を訪れ正恩氏と会談、
北朝鮮に拘束されていた米国人3人は解放されて、ポンペオ氏と共に米東
部時間で10日未明にワシントン郊外のアンドルーズ空軍基地に到着した。

トランプ大統領から早速、安倍晋三首相に電話があった。米国人3人の解
放に祝意を述べた首相の思いは、日本人拉致被害者の上にあったことだろう。

この間の9日、東京では日中韓の首脳会談が開催されたが、日本と中韓の
間にある大きなギャップは埋めきれていない。会談後の記者会見で安倍首
相は朝鮮半島情勢への対応を三首脳で綿密に話し合ったと述べたが、日米
の主張する「完全で検証可能な、不可逆的な核・弾道ミサイルの廃棄」
(CVID)という言葉も、北朝鮮への圧力という表現も三首脳の口から
は出なかった。

拉致について安倍首相は、「早期解決に向けて、両首脳の支援と協力を呼
びかけ、日本の立場に理解を得た」と述べたが、中韓両首脳は拉致には共
同記者発表の席で言及していない。彼らの発言は徹底して自国の国益中心
である。

中国の李克強首相は朝鮮半島の核に関して、「対話の軌道に戻る」ことを
歓迎し、経済に関しては「自由貿易維持」を強調した。北朝鮮の核問題は
時間をかけて、話し合いで折り合うべきだというもので、軍事力行使をチ
ラつかせる米国への牽制である。自由貿易に関する発言も、米国第一で保
護貿易に傾く米政権への対抗姿勢だ。

韓国の文在寅大統領は、日中双方が板門店宣言を歓迎したと語った。拉致
にも慰安婦にも触れずに言及した板門店宣言は、二分されている朝鮮民族
の再統一を前面に押し出したものだ。「北朝鮮の非核化」ではなく、米韓
同盟の消滅をも示唆する「朝鮮半島の非核化」を強調するものでもある。

今回の首脳会談からは3か国が足並みを揃えて懸案を解決する姿勢より
も、同床異夢の様相が浮き彫りにされた。

10日の電話会談でトランプ氏は、北朝鮮問題で「日本はビッグ・プレー
ヤーだ」と述べたという。いま、朝鮮半島勢力を巡って日清戦争前夜と
いってもよい歴史的な闘いが展開中だ。朝鮮半島を中国が握るのか、米国
が握るのか、そのせめぎ合いの最前線に私たちはいる。日本の命運を大き
く揺るがすこの局面で叡知を集め、対策を練り、何としてでも拉致被害者
を取り戻し、北朝鮮の核、ミサイル、生物兵器をなくすべき時だ。日本全
体が団結することなしには達成できない課題である。

だが、国会審議を拒否して半月以上も連休した野党は、国会審議に戻った
かと思えば、まだ、加計学園問題をやっている。立憲民主党の長妻昭氏は
「疑惑は深まったというよりも、予想以上に深刻だ。徹底的に腰を据えて
国会でやらないといけない」と語った。だが、獣医学部新設は既得権益と
岩盤規制を打ち破る闘いで、改革派がそれを打ち破っただけのことだ。長
妻氏の非難は的外れである。朝鮮半島大激変の最中、国民を取り戻し、国
民の命を守るにはどうすべきかを論じ、実行しなければならない。野党の
多くは政治の責任を果たしていない。
『週刊ダイヤモンド』 2018年5月19日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1231 

◆いちごの生産者だった私 

                        石岡 荘十


「頂門の一針」主宰・渡部亮次郎氏が、本誌に掲載した「いちごの話」を読んで思い出したことがある。小学5年生だった一夏、私はいちごの生産者の端っくれだった。

敗戦翌年5月、私たち一家は中国の天津から引揚げ、父親の生家である秋田県・八森村へ落ち着いた。秋田音頭のしょっぱなに出てくる「八森ハタハタ、男鹿でオガブリコ〜」のあの寒村だ。

生家は父が若くして東京に出た後、弟(叔父)が家を継いで百姓をやっていたが、赤紙一枚で徴兵され満洲(中国東北部)の最前線へ。終戦と共に、シベリアへ持って行かれ、留守宅は祖母と叔母が幼い子ども2人を抱えてほそぼそと稲作百姓をやっていた。そこへ、われわれ一家4人が転がり込んだのである。

ご多聞に洩れず、農家も食糧難だった。畑で芋やナス、キュウリ、トマトを作り、山に入って山菜を採り、新米の収穫まで食いつなぐこととなった。

間もなく、生まれて初めての田植えにも駆り出される。父と母は、元を質せば百姓の生まれだから昔取った杵柄、手際はいい。慣れないとはいえ、小学5年生の私と中学生の兄、も立派な労働力だった。

夏。小柄だが目端の利く祖母が、そのころはまだ珍しかったいちごの栽培を始めた。ビニールハウスなどまだない。夜明けと共に、学校へ行く前に畑でいちごを摘む。

取立てのいちごを大きな背負い駕籠いっぱいに入れてこれを担ぎ、学校へ行く途中集荷所まで運ぶのが私の役目だ。集荷所までは子どもの足で小1時間。その日の売り上げを受け取り、空になった駕籠を担いで学校へ行く毎日だった。

草鞋を履くのも初めてなら、駕籠を背負って学校へ行くのも生まれて初めての経験であった。荷は肩に食い込み、草鞋の緒で足の指の間からは血が滲んだ。

何より恥ずかしかった。紺サージの制服にぴかぴかの革靴で学校に通っていた天津での生活は、いまやここでは別世界の出来事だった。そのうえ、学校の行き帰りには、「引揚者、引揚者」と蔑まれ、いじめにもあった。

それでも田植えで泥まみれになり、田の草をとり、秋には稲刈りもした。そうこうしているうちに秋。11月には父の仕事先が群馬。・高崎と決まり、半年過ごした秋田を後にしたのだが、この頃には、ずーずー弁もまあまあ操れるようになり、いじめっ子たちとの間にも友情が芽生えていた。

高台の集落を去る日、その日は日曜日だったが、10人ほどのガキが口々に大声で「まだ、こらんしぇ」(また、来いよ)といつまでも手を振ってわが一家を見送ってくれたのだった。

高校を卒業するまで高崎で過ごした。その後東京へ進学、就職。で、ここまで想い返してみると、報道に関わった日々を含めて、ニュース原稿は腐るほど書いたが、秋田を去った後、モノを生産したことは一度もなかったことに気がつく。

80年余を越える今日まで、形のあるモノを生産した経験はいちご作りだけだった。あの夏、私はいちごの生産者の端くれだった。幼い肩に食い込むいちご駕籠の重みを懐かしく思い出す。

それにしても、いまどきの季節外れの、ビニールハウス育ちのいちごの味の薄いこと。自分が作って売ったあの本物のいちごの味覚に出会うことは二度とないのかもしれない。    

2018年05月19日

◆米朝会談へ神経戦が最高潮

杉浦 正章

米「半年以内の核搬出」要求 北「体制の保障と平和協定」で瀬踏み

6月12日に開催予定のトランプと金正恩の米朝首脳会談に向けて、神経戦
が展開されはじめた。分析すれば米国が、「完全なる非核化」を要求し、
北はこれを拒否した上で体制の保障を求めている構図が浮かび上がる。

米国は北に対して核弾頭や大陸間弾道弾を半年以内に国外に搬出するよう
要求、その代償としてテロ支援国家指定の解除と金正恩体制の存続をちら
つかせているようだ。しかし金正恩が命と守る核兵器を半年以内に搬出す
る可能性はゼロに近く、米提案は駆け引き材料に過ぎまい。溝が埋まるに
はほど遠い。

北朝鮮は16日、米韓空軍の定例合同訓練を理由に、南北閣僚級会談の中
止を一方的に通知し、第1外務次官金桂官が談話を発表した。談話は「大
統領補佐官のボルトンをはじめ、ホワイトハウスと国務省の高位官僚は
『先に核放棄、後に補償』方式を触れ回りながら、リビア核放棄方式だの
『完全かつ検証可能で不可逆的な非核化』だの、『ミサイルの生化学武器
の完全放棄』だのという主張を厚かましく繰り返している」と米国の要求
を批判。

「これは対話を通じて問題を解決しようとするものではなく、本 質にお
いて大国に国を丸ごと任せきりにして、崩壊したリビアやイラクの 運命
を尊厳高い我々に強要しようとする甚だ不純な企てだ」と強調した。 さ
らに金桂官は「一方的に核の放棄だけを強要しようとするならば、首脳
会談に応じるかどうかも再考せざるを得ない」と首脳会談再考も示唆して
いる。

これに対しトランプは「われわれは何の知らせも受けていない。様子を
みてみよう」と述べ、北朝鮮の今後の出方を見極める考えを強調した。さ
らにホワイトハウス報道官のサンダースは、米朝首脳会談について、「重
要な会談だ」と指摘し、準備を進める考えを示す一方で「トランプ大統領
は、困難な交渉には慣れていて、その準備も整っている。

ただ、北朝鮮が 会いたくないのなら、それでもいい。その時は、最大限
の圧力をかけ続け るだけだ」とすごんで見せた。北朝鮮が対話を選ばな
ければ、圧力を強め る考えを示して、けん制したことになる。

しかし、“口撃”の厳しさは半島民族の“特性” であり、隘路を探してい
ることは間違いない。その一つとして、韓国大統領文在寅を通じてトラン
プの説得を要求している可能性が高い。

米韓首脳会談は22日に予定され ており、北朝鮮が米韓合同航空戦闘訓
練『マックスサンダー』を理由に南 北閣僚級会談を一方的に中止したの
は、米韓首脳会談に向けた思惑がある からにほかならない。

その意図は韓国を動かして、米国との首脳会談の際 の北朝鮮の立場をよ
り正確に説明させようとしているのかもしれない。既 に北朝鮮は韓国と
の閣僚級会談を中止することで、F22などの戦略兵器が 朝鮮半島に飛来す
ることを望んでいないという意思を明確に示している。

金正恩は北朝鮮の立場をあらかじめ文在寅を通じてトランプに伝達して
け ん制しているのだろう。

そもそも北朝鮮の狙いは今年早々から明白だ。正月に金正恩は対話攻勢
に転じて、まず米国の同盟国である韓国の取り込みを図ってきた。金正恩
と文在寅の会談で準備段階を終え、いよいよトランプとの会談に向けた総
仕上げ段階に入っているのだろう。

北は体制の保障と平和協定締結を最終 目標としている。また一連の言動
は米朝会談で主張する予定の重要なメッ セージを米側にあらかじめ伝え
て、瀬踏みをしているのだろう。これに対 して米側も半年以内の核搬出
という“高値”をふっかけて、妥協点を模索し ているのが現在の図式だろう。

宮崎正弘

宮崎正弘


平成30年(2018年)5月18日(金曜日)通巻第5703号 

書評 呉座勇一『陰謀の日本中世史』(KADOKAWA)
樋泉克夫のコラ 「読者の声」ほか


書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIE  

 明智光秀の「本能寺の変」の真実は何処にあるのか
  黒幕説、陰謀説を徹底的に冷徹な論理で論破する打撃力

   ♪
呉座勇一『陰謀の日本中世史』(KADOKAWA)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

ベストセラーとなった『応仁の乱』の著者が書き下ろした新作で、従来
の歴史家が謎としてきた歴史の深奥部、アカデミズムからこぼれた人々が
書く陰謀論など、その俗説を次々と切り捨てる意欲的な作品で、こんどは
KADOKAWAが版元である。

6つのテーマに絞り込まれて、「足利尊氏は陰謀家か」「日野富子は悪
女か」「関が原は家康の陰謀だった?」など興味の尽きない話題が並ぶ。
本書の圧巻はなんといっても本能寺の変の重厚な考証である。

なにしろ昨今の歴史論壇も、根拠の薄い「陰謀論」ばやりである。古くは
ユダヤの陰謀論があるから、読書人の多くが、じつはこの類いが好きなの
であろう。しかし大概は真実を見ようともしないで、都合の良い事柄をつ
なぎ合わせて、一方的な想像と妄想で組み立てた論理破綻の類いが多い
(ちなみにユダヤ陰謀論に関しは評者も84年だったか、『ユダヤにこだ
わると世界が見えなくなる』という反論を書いたことがある。いずれ改定
版をだしたいものである)。

 ▼「野望説」と「怨恨説」の間違いは明瞭である

本能寺の変で明智光秀が行ったことは「野望」「怨念」説がこれまでの歴
史学では主流で、前者は高柳光壽、後者は桑田忠親と錚々たる歴史学者が
唱えた。諸説がこんがらがった糸を解きほぐしたのが徳富蘇峰だった。3

呉座氏は、まずこの3つを丁寧に反駁し、否定する。

明智光秀の野心を証拠立てるものがなく、高柳光壽は結局、「愛宕百韻」
が、それだとしたが、評者に言わしめると、「ときはいま、天が下知る五
月かな」の読み違えである。この点で「とき」を「土岐源氏」と読み、土
岐家再興がねらいだったという説もすこぶる怪しい。

怨念説は、桑田説から強力になるが、総じていえるのは光秀の過小評価か
ら、判断を間違えることになったのだろうと思われる。呉座氏も同意見で
ある。

俗説がおびただしくでたのは江戸時代である。第一級資料とはとても言え
ない、しかも事件から百年以上を経過しての歴史書から、適当な推量、妄
想の拡大が、とんでもない説を大量に世に送り出した。

そもそも明智を「主殺し」の裏切り者と決めつける印象操作を行ったのは
秀吉である。そのほうが横から信長政権を簒奪した、極悪人として評価さ
れることを恐れた秀吉が真実をぼやかし、嘘でゆがめる効果があったからだ。

したがって後世の後時江が多い『太閤記』に加えて、『信長紀』『信長公
記』が生まれ、これらによって、じつは信長への過大評価も同時になされ
たのである。

率直に言って織田信長への評価は著しく高い。

信長はそれほどの天才的軍略家でもなく、抜きんでた指導者としては、手
ぬかり、判断の甘さが目立つ武将である。とくに信長への過大評価を生ん
だのはイエズス会の報告書が最近全訳されたことも大きい。

 最近、こうした所論を比較検討しつつも、「いや、そうではない」、
「あれは義挙だ」と言い出したのは井尻千男と、小和田哲男である。
本署では、小和田の「信長非道阻止説」を取り上げて、かなり評価をして
いるが、井尻作品に関しては読んでいる形跡がない。

だから本書は裁判官が高みから所論を裁断したという印象はあるが、たい
した熱情を感じないのは、あまりに論理的で冷徹に走りすぎた観があるか
らだろう。


 ▼黒幕説が盛んなのは光秀の過小評価が原因だ

また黒幕説がこれほどまでに世間をにぎわせたことも珍しい。光秀を陰で
操っていたのは誰か、という推理ゲームの延長である。

黒幕説の嚆矢となったのは、結果的に一番得をしたのが秀吉だから、秀吉
が黒幕だった。ついで家康説がはびこったが、いずれも否定された。証拠
がないばかりか、時系列な事実比較を研究するだけでも、ありえないこと
がわかる。

黒幕説は朝廷説、足利説から、果ては毛利、長宗我部説となり、最近はキ
リスト教布教団、つまりイエズス会の陰謀だったという珍説まで飛び出し
た。いずれも荒唐無稽と切り捨てる。呉座氏は、これらひとつひとつを取
り上げながらも、それぞれを一撃のパンチで退けている。

ならば黒幕はいったい誰か。

いないのである。せいぜいが事前の連絡をほのめかしていた朝廷側近や公
家、武将はいたが本心を打ち明けた様子がない。親友の細川藤孝にさえ事
前の相談をしていない。というよりも、黒幕がいるという論拠は、光秀を
過小評価しているからだ。光秀ごときが、大それたことを単独でできるは
ずがないという推量をもとに論を広げる傾向がある。

政治の本質、その基本を確認すると、諸説の成り立ちに不安定要素が強す
ぎる。

▼檄文はまだ発見されていない。おそらく握りつぶされたのだ

以下は本書ではなく、評者の所論である。

第一に明智がもし天下を狙ったのであるなら、朋輩や仲間への打診、組織
化を怠るはずがない。ところが事前工作を展開した証拠はなにもない。

第二に明智が怨念を晴らした発作的行動だったと断定するには、これまた
証拠が何もなく、後年の江戸自体の資料は「作文」でしかない。

実際に亀岡城をでて京都を目指した光秀に従った主力は丹波兵である。臨
時の混成部隊でしかなかったのだ。

となると、残るは「義挙」という可能性だ。呉座氏はかならずしも、この
立場をとらないが、意外にも理解が深いとみられる。

大塩平八郎は血気に至る訴状を書いていた。それは伊豆代官が握りつぶし
たが、後年発見され、大塩の義挙の理由は判明した。

赤穂浪士の義挙については資料がありすぎて、説明の必要もない。

三島由紀夫は義挙の理由を「檄文」にしたため、当局が握りつぶすことを
おそれて知り合いの記者2人を呼んで、コピィをわたしていたほどに念を
入れた。

この点でいくと、明智は決起に至る理由を準備していない。いや、おそら
く檄文を準備したであろうが、秀吉が握りつぶしたと考えられる。

というわけで、本書の結論は「突発的単独説」であり、評者は、この立場
さえ疑っている。

明智は当時の環境から考えても、ほとんどが憂鬱で邪魔な存在だった信長
を乗り除くという義挙を、誰もが薄々期待し、しかし誰もが日和見主義に
たって、状況を傍観していた。一瞬の隙を捉えて立ち上がった光秀には、
北畠親房以来の天皇を守り抜く、すなわち国体を守るために、信長を仕留
めなければならないという歴史認識に立脚していた。

あくまでも「義挙」であり、それゆえに事前の工作も、事後の組織化もな
く、ライバルの来襲に備える情報網もいい加減に対応していたのである。

事件後の天下の青写真を光秀は描いていなかった。佐賀の乱も、神風連の
乱も、萩の乱も、秋月の乱も、そして西南戦争も、天下取りではなく、邪
な政道への抗議であり、その後にいかなる国家を建設するかというグラン
ドデザインがないという文脈においても、光秀の突発的行動は、どう考え
ても単発的義挙としか言いようがない。

事後の歴史の推移をみても、織田家臣団、遺族を除く周囲の武将で、秀吉
は立場上、悪評をまき散らし続けるが、光秀を恨んだものがほとんどいな
いという事実は何を意味するだろう。

徳川に至っては明智の幹部だった齋藤利三の娘を家光の乳母に採用して
いるし、信長が壊滅させた武田武士団から家康は大量の家臣を採用してい
るように、家康が光秀を恨んだり、あるいは主殺しとして遠ざけた気配が
ないのである。

▼明智光秀は謀反人ではなく義挙をとげた悲劇のヒーローではないのか

ここで、呉座氏が無視した井尻千男『明智光秀 正統を護った武将』
(海竜社)を取り上げる。

井尻は正統とは何か、歴史とは本質的にいかなる存在か。なぜ正統なる価
値観が重要なのかを追求し、歴史と正面から向き合い、国家の自尊をもと
めた。

歴史の正統という価値観に立脚した思考、評価を掘り下げていけば、明智
光秀が英雄であり、本能寺に信長を葬ったのはやはり「義挙」であるとい
うことになる。

戦後、とくに左翼知識人や天皇を否定する進歩的文化人が流布してきた安
易な評価への逆転史観が生まれる。

 となると本能寺の変を「謀反」と位置づけた、浅はかな歴史改ざんをも
ともと行ったのは誰だったのか?

評者(宮崎)は、天下を合法性なく握った秀吉が張本人だと踏んできたの
だが、井尻は秀吉より先に誠仁親王と、その周辺とみる。

そして義挙はいったん成功するが、公家、同胞の日和見主義により、秀吉
の捲土重来的巻き返しの勢いに叶わず、また土壇場で評価が逆転した。こ
の悲劇の武将=明智光秀と2・26の将校らに井尻氏は近似を見いだすので
ある。

豊臣秀吉は棚ぼた式に権力を簒奪し天下人となったが、その『合法性』は
疑わしく、右筆らを動員して、なんとしても明智を『謀反人』と仕立て上
げる必要があった。でなければ天下を収める理由なく、せいぜいが信長軍
団の内紛として片付けてもよいことだった。

他方、明智にはそもそも天下を収める野心がなく、君側の奸を討ち、天下
に正義を訴える目的があった。

 
ともかく天皇を亡き者にしようと企んだ乱暴者、仏教徒を数万人も虐殺
し、よこしまな覇者になろうとした織田信長が、なぜ近代では「法敵」と
いう位置づけから唐突に転換し、英雄視されることになったのか。

井尻の『明智光秀』はその歴史の謎に迫る会心作である。

近代合理主義の陥穽におちた歴史解釈を白日の下にさらし直し、本能寺前
後の朝廷、足利幕府残党、公家の動向を、かろうじて残された古文書、日
記(その記述の改ざん、編集し直しも含め)などから推理を積み重ねて、
事件の本質に迫る。構想じつに20年、井尻千男畢生の著作ができあがった。

 筆動機を井尻氏は次のように言う。

「小泉純一郎総理が皇室典範の改正を決意したと思われた頃、市川海老
蔵演ずる『信長』(新橋演舞場)を観劇していたく感激したということが
メディアで報じられた。そのことを知った瞬間、私は光秀のことを書くべ
き時がきたと心に決めた。思うに人間類型としていえば、戦後政治家のな
かで最も信長的なる人間類型が小泉純一郎氏なのではないか。

言う意味は、改革とニヒリズムがほとんど分かちがたく結びついていると
言うことである。そもそも市場原理主義に基づく改革論がニヒリズムと背
中あわせになっているということに気づくか、気づかないか、そこが保守
たるか否かの分岐点」なのだ。

 ▼合理主義とニヒリズム

第一の例証として井尻氏があげた理由は、「近代史家のほとんどは信長の
比叡山焼き討ちを非難しないばかりか、その愚挙に近代の萌芽をみる」か
らであり、「宗教的呪縛からの自由と楽市楽座という自由経済を高く評価
する」から誤解が生じるのだ。

つまり「啓蒙主義的評価によって、信長の近代性を称賛する」。保守のな
かにも、そういう解釈がまかり通った。『政教分離』の功績をあげた会田
雄次氏もそうだった。中世的迷妄という迷信の世界から、合理主義という
近世を開いたのが信長という維新後の歴史評価は、信長の「底知れぬニヒ
リズムを」見ようとはしない。

南蛮から来たバテレンを活用し、既存宗教に論争をさせた信長は、さもキ
リスト教徒のように振る舞った印象を付帯するが、信長は耶蘇教を巧妙に
利用しただけである。

 安土城跡には2回ほど登ったが、麓の総見寺のご神体は信長である。ま
た安土天守閣は「天主」であり、「天守」ではない。このふたつのことか
らも信長の秘めた野心がほの見えてくるようである。信長の耶蘇教好きは
演技にすぎず、自分が神に代わることを夢見た。

井尻氏はかく言う。

「信長が、キリスト教という一神教に関心と好意を懐いたのは何故か。一
つの仮説は信長が一神教の神学に信仰ではなく、合理主義を発見した、と
いうことである。(中略)その合理性に比べるに、我が国の当時の宗教界
は神仏混淆で、はなはだ合理性を欠いていた。というよりも、そもそも合
理性というものにさしたる価値を見なかったのである。それに室町期に隆
盛した禅宗文化は直感と飛躍と閃きにこそ価値を見いだすのであって、い
わゆる合理性には価値を置かない」のだ。

「神なき合理主義がほとんどニヒリズム(虚無主義)と紙一重だというこ
とに」、日本の哲学者、歴史かの多くが気づかなかった。あるいは意図的
に軽視した。それが信長評価を過度に高めてきたのである。

 かくて正親町天皇に対して不敬にも譲位を迫り、誠仁親王を信長は京の
自邸(二条御所)に囲い、あろうことか征夷大将軍しか許されない東大寺の
「蘭奢待」を切り落として伝統と権威をないがしろにした。

天皇と公家を威圧するために2度にわたる馬揃えを展開し、覇者への野心
を目ざす。これを諫めようとした荒木村重一族を想像を絶する残虐さで虐
殺し、ついに知識人が信長打倒で、ひそかに連合し、光秀をたのみ、とう
とう正統を護るために光秀は義挙に立ったという経過を辿る。

従来の解釈とは、光秀の遺作「ときはいま天が下しる五月かな」の「と
き」は土岐だろうという推定だったが、そうではなく、また『天』は野心
を秘めた光秀の天下取りの「天」ではなく、井尻氏は「天皇が統める
国」、すなわち明智の意図は、正統に戻す、国体を護るための決意をのべ
た句であるとする。

『古今和歌集』の一節に遡及して、「かかるに、いま、天皇の天下しろし
めす」にこそが源流で、「天」は天皇、下は「民草」、しるは「領る」、
ないし「統治」と解釈される。

尊皇保守主義の復権を目指した光秀の行動と重ねると、一切の符帳はあう。 

◆国民の支持が期待できない

櫻井よしこ



「国民の支持が期待できない、国民民主」

民進党代表の大塚耕平氏と希望の党代表の玉木雄一郎氏が「穏健保守から
リベラルまでを包摂する中道改革政党」として、「国民民主党」を結成す
る。私はこの原稿を5月7日の国民民主党設立大会前に書いているのだが、
新党の綱領や政策の一言一句を読まずとも、これまでの経緯から彼らは期
待できない絶望的な存在だと感じている。

今回、新党に参加せず、無所属になった笠浩史衆議院議員(神奈川9区)
は語る。

「昨年10月の衆議院選挙で私が民進党から希望の党に移ったのは、安保政
策と憲法改正について、民進党よりもよほど現実的で、日本の国益に適う
方向で対処しようとする政党だったからです。あの時、希望の党に移った
民進党議員全員が、玉木氏も含めて『政策協定書』に署名しました。希望
の党の公認を受けて衆議院選挙に立候補する条件として、安全保障法制に
ついては、憲法に則り適切に運用する、つまり、安保法制は認めると誓約
した。また憲法改正を支持し、憲法改正論議を幅広く進めることも誓約し
ました。民進党とはおよそ正反対の政策でしたが、私はその方が正しいと
考えた。玉木氏もそう考えたから署名したのでしょう。しかし、玉木氏ら
は事実上、元の政策に戻るわけです。希望の党で私たちは1000万近い比例
票をいただいた。その人たちに一体どう顔向けできるのか。これでは信頼
は失われます」

長島昭久衆議院議員(東京21区)も無所属を選んだ。氏は語る。

「国民民主党結成には三つの『ありき』があります。連合ありき、期限あ
りき、参院選ありきです。連合は、民進や希望の、政党としての理念や政
策よりも、国会における連合の勢力を保つために、とにかく旧民進党勢力
を再結集しようとした。この連合の思惑が非常に強く働きました。しかも
連合は両党合併の方向をメーデーまでに明確にさせたかった。その先にあ
るのは参院選です。労組代表の議席を守りたい連合と、連合の票がどうし
てもほしい議員。後援会組織がしっかりしていない政治家ほど、実際にど
れだけあるかわからなくても連合票に頼ってしまう。こうした事情が国民
民主党結成の背後にあります」

現実に根ざしていない

玉木、大塚両氏を見ていると不思議な気持ちになる。両氏共に優れた頭脳
の持ち主なのに、政治家としてはなぜこんなに定まらない存在なのか。玉
木氏は東大法学部からハーバードの大学院で学んだ。財務省ではエリート
コースの主計局で、主査を最後に、政界に転じた。

大塚氏は早稲田で博士号を取り、日銀に奉じたエリートだ。人間的に嫌味
は全く無い。玉木氏とは異なり、語り口も穏やかだ。

エリートでしかも若い世代の両氏が並んで新党構想を披露しても、一筋の
光さえも感じさせないのはなぜか。両氏の周りにさえ、財務省出身者と日
銀出身者の組み合わせから、政治を統べる能力など生まれるものかと侮る
声がある。しかし、政治史を振り返れば、岸信介の後任は大蔵事務次官を
務めた池田勇人だった。池田から始まる宏池会政治を私は評価しないが、
財務省や日銀出身ゆえに希望が持てないというわけではない。玉木、大塚
両氏に期待できないのは、安全保障、福祉、加計学園に関わる岩盤規制、
憲法改正などおよそ全てにおいて、両氏の議論が現実に根ざしていないか
らである。理念先行の、頭の中での空回りなのだ。

両氏の議論で私が本当に驚いた発言があった。今年1月17日、BSフジの
「プライムニュース」でのそれである。時間にしてみればごく短い発言
だったが、私はこれを聞いて、この人たちのような政治家は真っ平御免だ
と、心底、思ったものだ。以下に再現してみよう。

大塚:あのぜひプライムでもキャンペーン張っていただきたいことがあり
ましてね

反町理キャスター(以下反町):何ですか

大塚:それは憲法改正はね、最後は国民の皆さんが国民投票でお決めにな
ることなので……(後略)

最終的に国民が決めるというのは正論である。だが、氏は続いて次のよう
に語ったのだ。

大塚:ところが、もし国民投票を逐条でやらずに安倍さんお得意のパッ
ケージでマルペケ付けさせられたら、これはね、かなりあのまずいことに
なるし、これは私も厳しく……

反町:あ、そうか。そこはまだルールが決まってないんでしたっけ

玉木:いやあの、国民投票法上は基本的には……

反町:(かぶせるように)ひとつひとつのはずですよね

玉木:あのー……ひとつひとつ……やることが一応、義務づけられていたと思
いますが、ただ、ちょっと、詳細、いま私も忘れてしまったのですが……

大塚:あのー、そこは、確認、しますが、そのとにかくね、逐条であればね

「旧社会党のようになる」

このあと議論は他のテーマに移ったが、傍線(斜体)部分に注目していた
だきたい。どう考えても大塚氏も玉木氏も、憲法改正は「パッケージ」で
などできないということを知らなかった、或いは極めてあやふやな理解
だったとしか思えない。

憲法改正に関しては、第一次安倍内閣で国民投票法が成立し、国会法が改
められた。国会法第六章の二「日本国憲法の改正の発議」の第六十八条の
三に「区分発議」がある。それは、「前条の憲法改正原案の発議に当たっ
ては、内容において関連する事項ごとに区分して行うものとする」と定め
ている。

つまり、項目毎の改正しかできないのである。だからこそ、自民党の改正
案は4項目に絞られているのではないか。野党第一党としての民進党は党
としての改正案もまとめられなかった。右から左まで意見が分かれすぎて
いて政党としてまとまりきれなかったことに加えて、玉木、大塚両氏に見
られるように改正の手続きさえ、よく理解していない、つまり真剣に取り
組むことがなかったという結果ではないのか。

国会法改正から約10年、一括して憲法全体を改正できるとでも思っていた
のか。この数年、憲法改正は日本国にとっての重要課題であり続けてき
た。賛成でも反対でも、その基本ルールも知らずに議論する政治家の主張
や理屈など、信じられるものだろうか。

これ程不見識な彼らの近未来を、長島氏が厳しく語った。

「国民民主党が求心力を高められるとは思いません。行き詰まって、結局
枝野さんの立憲民主党に吸収される人々がふえると思います。そのとき彼
らは旧社会党のようになるのではないでしょうか」

私もそんな気がしてならない。
『週刊新潮』 2018年5月17日号 v 日本ルネッサンス 第802回

◆健康百話 乳がんの治療

小川 佳成(医師)


乳癌の治療法は、病状や進行度、あなたの全身状態を考慮して決まります。治療には主として、手術、放射線治療、抗癌剤(抗ホルモン剤を含む)治療があります。

病状の進んでいる方には抗癌剤治療が優先されますが、通常は手術を行い、その後再発予防のための抗癌剤治療を行います。

【手術】
手術には主として、1.乳房切除、2.乳房温存手術があります。腫瘍の大きさや広がり具合などにより術式を選びます。当大阪市立総合医療センターでは、半数以上の方が乳房温存療法を受けられています。
 
乳癌の手術では転移の有無に関わらず、癌の根治・予防のためにわきの下のリンパ節を全部取り除くこと(リンパ節郭清といいます)が標準的に行われてきましたが、リンパ節郭清をすると術後に腕がむくみやすい等の症状が残ります。

そこでわきの下のリンパ節転移がないと予測される方を対象に術後の症状を軽減するために、センチネルリンパ節生検という方法を用いた、腋窩(わきの下)リンパ節郭清を省略する術式が行われるようになりつつあります。当センターでは6割の方がこの術式を受けられています。

【放射線治療】
乳房温存手術を行った場合には、残った乳腺での再発を抑えるために乳房に対する放射線治療を術後に行っています。治療期間は5〜6週間でこの治療により乳腺内での再発は2〜3%以下に抑えることができると考えられています。

【抗癌剤治療】
切除した癌の性格を詳しく調べて、術後の抗癌剤治療の必要性とその内容を決めます。これらの治療で再発の3〜4割を抑えることができるとされます。抗癌剤治療は充分な副作用対策をして外来にて行っています。

【乳房再建】
乳房切除後の乳房再建は形成外科にて行っています。当センターでは、術後1〜2年を過ぎ、治療が一段落してからの再建をお勧めしています。

乳癌の治療は5〜10年ごとに大きく進歩しています。当センターでは、“あなたがより良く生活していくために治療があるのだ”という想いのもとに、各分野の専門医が協力し合い乳癌の治療に当たっています。  
                      <大阪市立総合医療センター 外科>

2018年05月18日

◆米朝会談へ神経戦が最高潮

杉浦 正章


米「半年以内の核搬出」要求

北「体制の保障と平和協定」で瀬踏み

6月12日に開催予定のトランプと金正恩の米朝首脳会談に向けて、神経戦
が展開されはじめた。分析すれば米国が、「完全なる非核化」を要求し、
北はこれを拒否した上で体制の保障を求めている構図が浮かび上がる。

米国は北に対して核弾頭や大陸間弾道弾を半年以内に国外に搬出するよう
要求、その代償としてテロ支援国家指定の解除と金正恩体制の存続をちら
つかせているようだ。しかし金正恩が命と守る核兵器を半年以内に搬出す
る可能性はゼロに近く、米提案は駆け引き材料に過ぎまい。溝が埋まるに
はほど遠い。

北朝鮮は16日、米韓空軍の定例合同訓練を理由に、南北閣僚級会談の中
止を一方的に通知し、第1外務次官金桂官が談話を発表した。談話は「大
統領補佐官のボルトンをはじめ、ホワイトハウスと国務省の高位官僚は
『先に核放棄、後に補償』方式を触れ回りながら、リビア核放棄方式だの
『完全かつ検証可能で不可逆的な非核化』だの、『ミサイルの生化学武器
の完全放棄』だのという主張を厚かましく繰り返している」と米国の要求
を批判。

「これは対話を通じて問題を解決しようとするものではなく、本 質にお
いて大国に国を丸ごと任せきりにして、崩壊したリビアやイラクの 運命
を尊厳高い我々に強要しようとする甚だ不純な企てだ」と強調した。 さ
らに金桂官は「一方的に核の放棄だけを強要しようとするならば、首脳
会談に応じるかどうかも再考せざるを得ない」と首脳会談再考も示唆して
いる。

これに対しトランプは「われわれは何の知らせも受けていない。様子を
みてみよう」と述べ、北朝鮮の今後の出方を見極める考えを強調した。さ
らにホワイトハウス報道官のサンダースは、米朝首脳会談について、「重
要な会談だ」と指摘し、準備を進める考えを示す一方で「トランプ大統領
は、困難な交渉には慣れていて、その準備も整っている。

ただ、北朝鮮が 会いたくないのなら、それでもいい。その時は、最大限
の圧力をかけ続け るだけだ」とすごんで見せた。北朝鮮が対話を選ばな
ければ、圧力を強め る考えを示して、けん制したことになる。

しかし、“口撃”の厳しさは半島民族の“特性” であり、隘路を探してい
ることは間違いない。その一つとして、韓国大統領文在寅を通じてトラン
プの説得を要求している可能性が高い。

米韓首脳会談は22日に予定され ており、北朝鮮が米韓合同航空戦闘訓
練『マックスサンダー』を理由に南 北閣僚級会談を一方的に中止したの
は、米韓首脳会談に向けた思惑がある からにほかならない。

その意図は韓国を動かして、米国との首脳会談の際 の北朝鮮の立場をよ
り正確に説明させようとしているのかもしれない。既 に北朝鮮は韓国と
の閣僚級会談を中止することで、F22などの戦略兵器が 朝鮮半島に飛来す
ることを望んでいないという意思を明確に示している。

金正恩は北朝鮮の立場をあらかじめ文在寅を通じてトランプに伝達して
け ん制しているのだろう。

そもそも北朝鮮の狙いは今年早々から明白だ。正月に金正恩は対話攻勢
に転じて、まず米国の同盟国である韓国の取り込みを図ってきた。金正恩
と文在寅の会談で準備段階を終え、いよいよトランプとの会談に向けた総
仕上げ段階に入っているのだろう。

北は体制の保障と平和協定締結を最終 目標としている。また一連の言動
は米朝会談で主張する予定の重要なメッ セージを米側にあらかじめ伝え
て、瀬踏みをしているのだろう。これに対 して米側も半年以内の核搬出
という“高値”をふっかけて、妥協点を模索し ているのが現在の図式だろう。



◆「徘徊」は「いいあるき」?

馬場伯明


世界で最も有名な「徘徊(haunt)」は「共産党宣言(1848)」の冒頭で
あろう。「一匹の妖怪がヨーロッパを徘徊している。共産主義という妖怪
が」である。

では、今徘徊とは何か。「どこともなく歩き回ること(広辞苑)」とあ
る。認知症の人(以下、Aさん)が道に迷う状態に徘徊が使われてきた。

2018/3/25の朝日新聞は1・2面で「徘徊」行動を特集し、国・地方・地域
のボランティアによる見守り・支援活動などを紹介した。

記事によれば、散歩に出たAさんは「目的を持って歩いている」というの
だ。「道がわからず怖かったが家に帰らなければと意識していた。徘徊で
はないと思う」と。本人にそう言われば「そうかな・・」とも思う。

Aさんは、自宅を出たときは散歩するという目的を持ち徘徊するつもりな
どなかった。「記憶障害」のために外出した目的を忘れ、「見当識障害」
により自分のいる場所がわからなくなり、「理解・判断力の障害」で、
「道順を尋ねる」という適切な行動がとれなかったのである。

それでも、Aさんは、後で(!)考えたとき、Aさんの状態が他人に徘徊と
言われるのは適切ではないと思っているらしい。それらを受けてか、全国
で徘徊という言葉を使わない事例が増えているという。典型例である東京
都国立市では 徘徊を「いいあるき」と表現している。市報「くにたち」
から転載する(2016.9.5 第1131号)。

《みんなで参加しよう!認知症の人の見守り・SOSネットワーク「いいある
きネットinくにたち」。模擬訓練を実施します。ひとりで外出し道に迷っ
てしまう認知症の方を地域で見守るために「声かけ模擬訓練」を実施しま
す。国立市では、「徘徊」と言わず「いいあるき」➠「迷ってもいい、安
心できる心地よい歩き」と表現しています》。

また、日本認知症本人ワーキンググループ(鳥取市)は「認知症の人の外
出を過剰に危険視して監視や制止をしないで」と訴え、名古屋市の西部い
きいき支援センターは、啓発冊子のタイトルを「認知症『ひとり歩き』さ
ぽーとBOOK」とした(2014)」らしい。

さらに、大牟田市は「安心して徘徊できるまち」から「安心して外出でき
るまち」に変え、状況に応じ「道に迷っている」などと言い換えている。
認知症の本人の声(要望)を尊重したと、ある。

そこで、朝日新聞は宣言する(2018/3/25)。《今後の記事で、認知症の人
の行動を表す際に「徘徊」の言葉を原則として使わず「外出中に道に迷
う」などと表現することにします。今後も認知症の人の思いや人権につい
て、本人の思いを受け止め、様々な側面から読者のみなさんとともに考え
ていきたい》と。また同時に《(徘徊を)使用する立場(の団体や個人)を
批判する趣旨ではない(編集委員・清川卓史)》とも。少し胡散臭い・・。

しかし、ちょっと待ってほしい。それで、ほんとにいいのだろうか?

徘徊では、行動や状態を判定する人(主体)とタイミングに違いがある。
Aさんは「散歩しているうちに道に迷ってしまった」と(あとで)認識を
話し、健常者のBさんは「(彼は今)うろうろと歩き回っている」と(そ
の場で)徘徊していると認識するのである。

Aさんが徘徊状態にあった「そのとき」を(正常に戻った)後で「徘徊で
はないと思う」と言うのは、同情はしたいが、間違いであろう。また、表
で徘徊を「いいあるき」と言い換えても、裏の「悪い歩き」という事実が
透けて見える。いくら言い・書き換えても事実は一つだ。「いいあるき」
は偽善的な表現であると言えよう。

単なる言い換えは事実からの逃避・言葉の遊び・繕いである。王様が裸で
あれば(正確に)裸であると言った子供の方が正しい。事実を隠蔽する目
先の「猫だまし」では解決から遠い。

国立市が徘徊を「いいあるき」と表現するのも、事実と違うので不適切で
ある。おそらく、国立市職員の心の中は「いいあるき:?」ではないかと
私は邪推(!)する。なお「『いい歩き』をめざす会」は問題がない。

朝日新聞の徘徊記事は、本質的な問題提起ではなく、言葉の使い方の問題
である。いわば、朝日得意(!)の「言葉の遊び」だ。「適切な言い換え
表現がない」と書く。ここで、「迷走」は世間でよく使われている。徘徊
は「迷走し、迷い歩くこと」である。徘徊を「迷歩(めいほ←私的造
語)」に換えれば案外うまく行くかもしれない。

ところで、そもそも徘徊の原因症状である「認知症」という言葉も変であ
る。表意文字である漢字の使い方が間違っている。

認知とは、物事を「正しく認識し知る」ことである。だが、認知できない
状態の症状が認知症と定義されている。本来、認知失調症や認知障害症な
ど認知できないという意味の語が必要である。

認知症方式なら、統合失調症は統合症、栄養失調症は栄養症となる。一
方、筋萎縮性側索硬化症(ALS)は病名や症状を表す語で正しく構成され
ている。腸管出血性大腸菌感染症も同様である。

兵庫県のNPO法人播磨オレンジパートナーは「歩く目的あり。徘徊と言わ
ないで!」と「認知症を『ニンチ』と言わないで!」の缶バッジを2つ
作った。ほら見ろ!認知・失調症状を認知症と名付けたために認知(ニン
チ)が真反対の嫌われる語になってしまった。本末転倒である。

本題の徘徊に戻る。徘徊を他の言葉に言い換える人は心が優しく善意の人
が多い気がする。その善意を尊敬する。しかし、善意であるがゆえに徘徊
する人を逆に無意識のうちに傷つけることもある。なぜか。現実は言葉だ
けでは動かないからだ。

徘徊論議が長くなり、何か徘徊状態になってきた。まとめを書く。
1.徘徊を、いいあるき、ひとり歩き、外出などと、偽善的な言葉でごま
かすべきではない。認知症も認知失調症などの正しい表現にすべきだ。

2.「王様は裸だ」という子供に学び偏見に正しく向き合うべきだ。単な
る言い換えでは解決しない。事実と中身が大事。善意や同情を無意識に押
し付ける人もおり、徘徊する人が傷つけられてしまうこともある。 

3.認知症への薬物治療も進展している。徘徊は認知症に伴う行動・心理
症状を表すBPSD (behavioral and psychological symptoms of
dementia)の一つだ。一刻も早い徘徊の治療方法の確立を祈る(*1)。

高齢に向かう健常者の最大の悩みは「認知症になる恐怖」であるという。
膝の痛みや耳が遠くなる症状などより「人間としての自分が失われる」認
知症(認知失調症)の方がより怖い。私もまさにそうだ(*2)。

折しも、中国とロシアの党はC・マルクス生誕200年記念行事で高揚してい
る。朝日新聞は「万国の『徘徊』老人よ、団結せよ!」ではなく「万国の
『いいあるきの』老人よ、団結せよ!」と偽善的な煽動を行なうのだろう
か。(2018.5.15 千葉市在住)

(追記)
(*1)中島京子は小説「長いお別れ(2015)」で、認知症・徘徊の父を我
がことのように、我が腕に抱くように綴った。GPS携帯・携行騒動の悲喜
劇も。「長いお別れ(Long Good Bye)」とは認知症のことである。

(*2)足腰は超元気だが頭は不安な私。明日はわが身かも。「認知症鉄道
事故裁判(高井隆一2018)」を読んだ。認知症の父の線路立入妨害(死亡
事故)の損害賠償裁判でJR東海に最高裁で逆転勝利する8年間の貴重な実
録。しかし、明日!全国各地で100人が線路に入ったら・・・。国の「介
護の社会化」という掛け声が空しく響く。(了)

◆古寺旧跡巡礼・壺阪寺(奈良県高取町)

石田岳彦


昔々、沢市とお里という夫婦が大和の国におりました。

夫の沢市は眼病を患っており、妻のお里は眼病にご利益のある壺阪寺(つぼさかでら)に毎晩お参りにいっていましたが、沢市はお里が他の男のもとに通っていると邪推し、お里を問い詰めたのです。

お里から事情を聞いた沢市は、自らの狭量を恥じ、お里の勧めで、一緒に壺阪寺に篭り、ご本尊の千手観音に祈ることにしました。
 
お篭りの最中、沢市は自分の眼病のために苦労するお里を不憫に思い、自分が死ねば、お里が他の男と再婚できるだろうと考え、谷に身を投げてしまいます。これに気付いたお里は沢市の後を追って、やはり、谷に身を投げました。
 
しかし、互いを想い合う夫婦の愛を嘉(よみ)したもうた千手観音は2人の命を助け、そればかりか、沢市の眼病も直してくださいました。
めでたし。めでたし。

上記の感動的な霊異譚(ご都合主義が過ぎると考える人は心が穢れています。多分。また、沢市が身を投げる前にさっさと眼病を直してやれよという無粋な突っ込みを入れたくなった方は仏罰に気をつけましょう。

物事には話を盛り上げるためのタイミングというものがあり、仏様もそのあたりの空気は当然に読んでいるのです。)で有名な壺阪山南法華寺。通称、壺阪寺は奈良県中部の高市郡高取町にあるお寺です。

壺阪寺は、かの西国33番観音霊場の6番札所で、上でも述べたように、特に眼病についてのご利益で知られています。

創建は、寺伝によると大宝3年(703年)に弁基上人という方が拓いたということになっているそうですが、歴史学的には眉唾みたいです。もっとも、古代寺院の縁起は古事記や日本書紀にでも明記されていない限り、一般的に眉唾にならざるを得ないわけですが。

とはいえ、境内から藤原京(平城京の前の都ですね)時代の古い瓦が発掘されているので(本堂内にレプリカが展示されています。本物は奈良国立博物館です。)、遅くともそのころには寺が存在していたことになります。

近鉄吉野線の壺阪山駅から1時間に1、2本のバスに揺られて10分ちょっと。山の中腹にある終点バス停で降りるとそこは壺阪寺です。

壺阪寺の境内から逸れる形で山頂の方へ更に道が続いており、「高取城(たかとりじょう)はこちら」との立て札が立っていて、バスの同乗者の中には、リュックサックを担いでそちらに歩いていく人の姿も見受けられます。

この高取城は、日本三大山城(他の2つは岐阜県の岩村城と岡山県の備中松山城ということです。)の1つに挙げられているという大規模な山城で、私もそのうち行ってみたいと思っていますが、今回はスルーです。

壺阪寺の境内は、バス停のある駐車場から境内の奥に向かって段状になっており、参拝客は奥にある本堂、三重塔に向かって登っていく形になります。

仁王門の前は桜の並木になっていますが、私が行った際は、ちょうど散りかけのものが多く、あと1週間早く来ていればと惜しまれました。

仁王門をくぐって、まず、眼に入ってくるのは右手に建っている、いや、座られている石製の釈迦四尊(?)像。お釈迦様は本体10m、台座5mとかなり大型です。その手前に控える文殊菩薩と普賢菩薩はそれぞれ本体3m、台座2m。そして、十一面観音像が本体3.3m、台座1.5m。

お寺のホームページによると、文殊菩薩は釈迦如来の「智慧」を、普賢菩薩は「行」、観音菩薩は「慈悲」を表しているとのことです。

文殊菩薩は釈迦如来の「智慧」、普賢菩薩は「慈悲」、そして観音菩薩は阿弥陀様の脇侍というのが一般的な知識で、私もそうだとばかり思っていたのですが、壺阪寺では独自の解釈をとっているのでしょうか。

この壺阪寺はボランティア活動に力を入れているお寺としても有名で、例えば、境内の一角で養護盲老人ホームを運営するのみならず、インド(お釈迦様の母国ということでしょうか)でハンセン病患者の救済事業を行っています。

この釈迦三尊像はそのお礼としてインドから贈られたものの1つだそうで、右手奥の遠方に見えている観音菩薩立像(全長20m)や後述のレリーフもインドから寄贈されたものだそうです。

心が洗われる話ではありますが、これらの石造物群は、壺阪寺の境内を我々が思い描くところの古寺の風景とかなり異質なものともしています。一参拝者の勝手な言い草ですけど。

階段を更に登ると右手に三重塔(重要文化財)、左手に礼堂(重要文化財)と本堂。三重塔の初層(一層目)特別開扉の案内板が立っています。

室町時代に現在の三重塔が再建されて以来、初めての公開ということで、平城遷都1300年祭の関連行事の1つです。

実のところ、今回、私が壺阪寺に十年ぶりに来る気になった理由もこの特別開扉なのですが、実際に一層目の中に入ってみると、中の壁には壁画も無く、柱の前に小ぶりな大日如来像と弘法大師像が1体ずつ置かれているだけという素っ気無さで「これだけ!?」と呆気にとられました。

決して皮肉ではないのですが、確かに、こういう機会(1300年祭)に誘われでもしないと、わざわざ特別公開しようという気にまではならなかったであろうなあ、と納得できてしまいます。ちなみに私が行ったのは春の公開の際ですが、秋も10月1日から12月18日まで公開しているようです。

三重塔の裏側には、これもインドから贈られたお釈迦様の一生を描いた巨大な石製のレリーフが並んでいます。

レリーフの前のところどころに各場面の詳細な解説も設けられているので、お釈迦様の一生を前世(仏教の教えでは、お釈迦様はシャカ族の王子として生まれる前に、何回も転生を繰り返しつつ、善行を積んでいたという設定になっています)から誕生、出家、苦行、悟り、布教、涅槃(死去)まで大画面(?)で追うことが可能です。

ただ、無彩色とはいえ、巨大な石造物ですので、三重塔の背景にこれが来るのは、やはり、かなり違和感がありますが。

お次は礼堂。礼堂は、ご本尊を祀る本堂の手前に設けられた大きめの建物で、壺阪寺の本堂が手狭なため、ご本尊の面前で多数の僧侶の参加する儀式を行うために建てられたようで、奥が本堂と繋がっていました。

礼堂の中には、インドでの慈善活動のための募金箱とインド製のアクセサリー(募金したら、好きなのをもって帰れます。)が置かれていて、募金した参拝者が持ち帰れるようになっています。

本堂は八角円堂という形式で、円堂というと法隆寺の夢殿や興福寺の南北の円堂が有名ですが、壺阪寺の八角円堂は裳階(もこし。飾りの屋根)が付いていて、屋根が二重になっているのが特色です。

去年から今年にかけ、西国33箇所の観音霊場のご本尊特別公開が行われていて、ちょうど壺阪寺でもご本尊の特別拝観が行われていました。ご本尊は千手観音の坐像で、比較的小ぶりです。室町時代に彫られたということで、色彩(全体的に赤く感じます)が比較的鮮やかに残っています。

礼堂を出て、更に奥に進むと沢市とお里が身を投げたという崖です。冒頭の2人の像もここに建てられています。柵から乗り出して下を見ましたが、草木が深くて、いまいち高低差は分かり辛いですね。

巨大な石造仏群については好みが分かれるところかも知れません。天気のよい日にハイキングがてら高取城とセットで回るのが楽しそうです。実行するには体力が問われますが。