2018年06月03日

◆今月の法律コラム

川原 敏明 (弁護士)

スポーツと法


日本大学アメリカンフットボール部の選手による悪質な反則が、波紋
を投げかけています。

スポーツは基本的にからだを動かすことを目的としているので、スポ
ーツ中に自らが怪我をしたり、他人に怪我をさせるという危険はほぼ不
可避的に伴います。

ここで、スポーツ、とくに格闘技との関係でみてみると、格闘技を行
っている競技者は、暴行罪や傷害罪の要件に該当することになりますが、
それではすべて処罰されるかというとそうではありません。その理論的
根拠としては、違法性が阻却されるからであると解されているのです。

ただし、すべての行為が違法性阻却されるわけではありません。
裁判例も、スポーツ行為が正当化される条件として、
@スポーツを行う目的で、
Aルールを守って行われ、
B相手方の同意の範囲内で行われる
ことを挙げています(大阪地裁平成4年7月20日判決判例時報1456号159頁)。

以上のように、スポーツと法律は縁遠いようで、実は密接に関わり合う関係にあります。

屋外スポーツにはちょうどいい日よりが多い季節ですので、ルールを守って安全にスポーツを楽しみたいものです。 

2018年06月02日

◆4人目の金日成

渡部 亮次郎


金日成が偽者だったこと、金正日の生地が実は白頭山なんかで無い事は、はたして定説化しているといえるか。いや、初耳だと言う人のほうが圧倒的に多いのではなかろうか。嘘は何時までも繰り返すと真実になってしまうのだから。

ある日本の外務大臣経験者が、生前、口癖のように言っていた。北朝鮮の今の金日成というのは別人じゃないのかね、本物はとっくの昔に死んでいるはずだよ、と。

この人は、日華事変から大東亜戦争に掛けて11年間もアジア各地で戦っていたという猛者で特に満洲(今の中国東北部)での戦歴が長かった。

彼によると、金日成は昭和10年代に既に50代であったはず。激しい抗日戦を仕掛けてきていたが、1945年8月15日までには死んだとされていた。

ところが1948年9月9日に成立した朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)の初代首相として登場したのが死んだはずの金日成だったので偽者だとピンときたというのである。

日本外務省外交資料館などの編集による「日本外交史辞典」の金日成の項では「この人の経歴については、不明な部分がおおく、いわゆる4人目の金日成といわれるが・・・」と逃げを打ちながら「普通に言われる経歴に従って」として「まとめて」いる。

ところが、ここに大変なことを経験してきたライター萩原遼(ペンネーム)が登場する。昭和12年、高知県生まれの日本共産党員。長じて朝鮮語に通じ、日本共産党の機関紙「赤旗」の平壌特派員となるが、国外追放処分に遭った後、退職。

その後米国ワシントンに滞在、国立公文書館に秘蔵されている北朝鮮の文書160万ページを3年がかりで読破した。その結果を「朝鮮戦争―金日成とマッカーサーの陰謀」(文芸春秋)として刊行。

この中では朝鮮動乱はやはり北が仕掛けたものだったこと、マッカーサーはそれを事前に知っていたが、韓国には知らせなかったことを明らかにした。

更に改題した「朝鮮戦争と私 旅のノート」(文芸春秋文庫)で偽者金日成の経緯を明らかにしているのである。

ソ連(当時)軍幹部らによると、金日成の本名は金成柱。名乗っていた仮名が金一星(キムイルソン)と発音が金日成将軍と一緒なだけ。日本軍に追われてソ連のハバロフスクに逃げ、息子金正日もそこで生まれた。

多くの生き証人がいる。特に金正日に母乳を与えていた女性は北京に健在である(200年4月10日現在)という。

それなのに金星一を金日成将軍だと偽って北朝鮮建国の日に平壌に連れて行ったのはソ連である。

だが50歳以上のはずが壇上の首相は僅か33歳の若造だったので「偽者だ!」と人々は叫んで帰りかけたものだという。また息子をわざわざ生地をハバロフスクではなく白頭山としたのは、そこが聖地であり、将来の後継者として権威付けるためだったという。

2018年06月01日

◆志の人・伊能忠敬没後200年

加瀬 英明


志の人・伊能忠敬没後200年と、明治維新150周年

今年4月21日、東京千代田区神田の学士会館で、『忠敬没後200年記念・
伊能測量協力者顕彰大会』が催された。

忠敬は寛政12(1800)年に深川・富岡八幡宮に成功祈願を行ったうえで、
徒歩による全国海岸線の実測に出発したが、17年後の文政元(1818)年
に、測量続行中に、73歳で病没し、その3年後に、門弟たちによって、
『大日本沿岸輿地全図』が完成した。

 伊能図協力者子孫への感謝状

学士会館のホールには、伊能忠敬研究会の努力によって、全国にわたって
忠敬の測量に協力した、名主や、庄屋、本陣、代官、目付などの子孫が特
定されて、そのなかの76人が、研究会、イノペディアをつくる会、伊能
忠敬子孫一同から、「功績感謝状」が贈られた。

忠敬の測量は、蝦夷地から始まり、伊豆七島まで9次にわたった。忠敬の
『日本全図』は「伊能図」とも呼ばれるが、今日、埋め立てによって海岸
線が大きく変わっているものの、誤差がほとんどなく、きわめて正確なも
のだった。

協力者の子孫の名が呼ばれるたびに、「駿河国沼津領野村名主」とか、
「陸奥国」、「出羽国」、「越後国」、「遠江国」、「佐渡国」、「播磨
国」、「若狭国」、「豊後国」というように、当時の地名が用いられたの
で、そのあいだ、江戸時代に生きているような錯覚にとらわれた。

 忠敬の子孫の代表

忠敬の多くの子孫が招かれたが、私を含む5人が代表して登壇した。

私は忠敬の孫の孫の子である玄孫(やしゃご)に当たるが、忠敬の次女のし
のが、銚子の隣にある旭村(現・旭市)の加瀬佐兵衛に嫁いだことによる。

忠敬は九十九里浜の貧しい漁村に生まれ、幼年時代は恵まれなかったが、
向学心が高く、漁具を収める浜小屋の番をしながら、勉学に励んだ。佐原
の家運が傾いた庄屋の伊能家に、養子として迎えられたことが、人生の転
機となった。酒造業を建て直すかたわら、暦学、和算、天文学、測量学を
学んだ。

今年は、明治維新150年に当たる。日本は明治に入ると、近代化に短時間
で成功し、西洋列強と肩を並べるようになったが、これは江戸期の庶民の
力によるものだった。私は庶民の血を受け継いでいることに、大きな誇り
をいだいている。

忠敬の測量に協力した人々は、大部分が庶民だった。幕府から藩に、忠敬
の測量隊がいつ到着するか連絡があると、藩から村へ伝えられ、村民が総
出で測量に協力した。

 明治3年の初の国勢調査 

武家は明治3年に初めて行われた、国勢調査によれば、人口の8%弱にし
か、当たらなかった。人口の90%が民庶とも呼ばれた、庶民だった。

江戸時代は近代日本を創った、輝かしい助走期だった。日本は世界に誇る
べき社会を、形成していた。

今年は、政府が「明治維新150年」を祝う式典を行うことになっている。

50年前に100周年が巡ってきたが、当時の政府は「維新」という言葉を省
いて、「明治100年記念式典」を催した。

時の佐藤栄作首相が挨拶したが、「維新」という言葉に触れることが、
まったくなかった。維新を語らずに、明治100年を語っても意味がない。

 昭和天皇のお言葉「明治維新以来の先人の英知と勇気」

この時の式典に、昭和天皇の御幸を仰いだが、お言葉のなかで、「明治維
新以来の先人が、英知と勇気で成し遂げた業績」と、仰せられた。

明治維新が「革命」だったと、物識り顔をしていう学者がいるが、まった
く筋違いだ。「革命」は断絶をもたらす。維新は古来の日本へ復古する、
御一新だった。

今年の「明治維新150年記念式典」において、今上天皇から聡明なお言葉
を賜ることになるが、朝鮮半島危機が募るなかで、明治維新を称讃され
て、国民をお励まし下さることと思う。

だが、日本国民がどうして150年前と較べて劣化して、かつての気概 を失
い、不甲斐なくなってしまったのだろうか。

幕末から明治にかけた日本国民は、「英知と勇気」が汪溢していた。今
日の日本人のような、意気地(いくじじ)なしではなかった。

 伊能忠敬の偉業は日本の社会の力そのもの

それにしても、忠敬が全国を徒歩によって実測した、17年間の日本の 社
会が安定し、豊かで、よくまとまっていたことに、感心せざるをえな
い。それでなければ、忠敬の偉業が多くの人々によって支えられて、成し
遂げられることがなかった。

忠敬が測量のために、全国を巡っていた時に、対岸の朝鮮王国では、国
王純祖(スンゾ)(在位1800年〜39年)の代に当たった。

悪政のために、飢饉、悪疫、天災によって、農民や、奴婢(奴隷)の流
亡と、不平両班(ヤンバン)や、農民、奴婢による反乱が、各地であいつい
だ。なかでも、純祖11(1812)年に起った、平安道の洪景来(ホン
ギョンレ)の乱が大きなものだった。

 当時の韓国の状況

そのわきで、朝廷では士禍(サファ)と呼ばれたが、儒教の些細な礼法な
どをめぐって、凄惨な党争(ダンチョン)に明け暮れ、国の態(てい)をなし
ていなかった。

権力者が王権を代行して、政治を専横する勢道政治(セドチョンチ)のも
とで、役人の綱紀が乱れ、下級官吏まで賄賂が横行した。朝鮮王国は、亡
国が避けられなかった。

今日、朝鮮半島で危機的な状況が続いているのをよそに、日本で国会が
モリトモ問題、セクハラを巡って党派抗争に耽って、空転しているのと、
よく似ている。

今日の日韓関係に目を転じると、韓国の文在寅(ムンジェイン)大統領が
北に秋波を送るかたわら、ことあるごとに日本を蔑んで、足蹴にするのに
忙しい。

そのために、日本では嫌韓感情が日増しに強まっている。いまや、全国
民が韓国を蔑み、哀れむようになっている。

だが、私たちにいったい、韓国を蔑む資格があるものだろうか。

韓国は日本統治が終わって、すでに73年になるのに、いまでも「日帝 時
代」が悪かったと非難して、自立できないでいる。日韓併合は73年の 半
分の、36年でしかなかった。

日本でも、アメリカによる占領が65年前に終わったというのに、東京 裁
判をはじめ、アメリカの占領政策が悪かったからといって、占領時代を
非難するのに忙しく、いまだに自立することができない。韓国によく似て
いると思う。

韓国では、李氏朝鮮が日韓併合まで、500年にわたって続いた。李朝 は高
麗朝の将軍だった李成桂(イ・ソンゲ)が、クーデターによって高麗朝 を
倒して、自らの王朝をたてた。

李朝は、軍がクーデターを起す危険な存在だとして嫌って、軍を軽ん
じ、国防に役に立たない必要最小限の兵備しか、持たなかった。宗主国の
中国による保護に依存して、外敵の侵略を蒙るたびに、中国に救援を求め
た。そのために、国土が何回にもわたって、蹂躙された。

今日の日本は、中国をアメリカに置き換えると、李氏朝鮮と変わらない。

日本の国会議員や、大手のマスコミ人、学者たちには、朝鮮服が似合う
のではないかと思う。

 明治新政府の開港の決断こそ、日本を救った

明治維新に戻ると、幕府が開港に傾いたのに対して、国学者や武士の大
多数が、日本が神国であると唱え、攘夷を頑くなに主張した。もし、攘夷
を貫いていたとすれば、西洋列強の侵略を蒙って、本土決戦が戦われたこ
とだった。

 明治新政府が開港に踏み切ったことによって、日本が救われた。

今日、「平和憲法」を「神国思想」にいい替えて、神聖視する護憲派
は、幕末の狂信的な「攘夷派」に当たる。「専守防衛」を頑くなに主張し
ているが、敵が国土を侵すまで戦えないのだから、焦土をもたらす本土決
戦を望んでいるにちがいない。


◆米国はリビア方式を貫けるか

        櫻井よしこ


約3週間後に予定されている米朝首脳会談を前に、朝鮮労働党委員長の金
正恩氏が、またもや恫喝外交を展開中だ。北朝鮮の得意とする脅しとすか
しの戦術に落ち込んだが最後、トランプ大統領はこれまでのブッシュ、オ
バマ両政権同様失敗するだろう。

いま大事なことは2つである。国家安全保障問題担当大統領補佐官、ジョ
ン・ボルトン氏のいわゆる「リビアモデル」の解決策を貫くことと、「制
裁解除のタイミングを誤れば対北交渉は失敗する」という安倍晋三首相の
助言を忘れないことだ。

北朝鮮の恫喝は米中貿易摩擦に関する協議が行われるタイミングで発信さ
れた。5月16日、北朝鮮第一外務次官の金桂冠氏が、米国が一方的な核放
棄を強要するなら、米朝首脳会談開催は再考せざるを得ないと言い、ボル
トン氏を、「我々は彼に対する嫌悪感を隠しはしない」と名指しで批判し
た。ボルトン氏はホワイトハウス内の対北朝鮮最強硬派と位置づけられて
いる。

翌日、トランプ氏は大統領執務室でこう反応した。

「北朝鮮の核廃棄についてのディール(取引)ができれば、金氏はその地
位にとどまることができるだろう。そうでなければ、『完全崩壊』の運命
を覚悟すべきだ」

同時に、ホワイトハウスのサンダース大統領報道官もトランプ氏も、リビ
ア方式は考えていないとのメッセージを発信した。サンダース氏は、「リ
ビアモデルではなくトランプモデルだ」とも語った。

ここで見逃せないのは、「リビアモデル」という言葉を用いながらも、そ
の正確な意味をトランプ氏が理解していないと思われることだ。トランプ
氏は北朝鮮へのリビア方式の適用は考えていないとして、次のように語っ
ている。

「米国は(リビアの)カダフィを存続させるなどというディールはしな
かった。しかし、米朝で合意が成立すれば、金氏は米国による安全の確約
と十分な保護を得て彼の国を統治し続けるだろう。彼の国はとても豊かに
なるだろう」

日朝会談にも負の影響

この他にもトランプ氏は、米軍はカダフィを滅ぼすためにリビア入りし
た、などとも語っている。しかしカダフィ氏は核を廃棄したから殺害され
たのではない。反対に、彼は核廃棄によってクビをつないだのだ。8年間
生き延びた果てに2011年に、リビア国民に殺害されたのである。

ここは大事な点だ。この点の理解なくしては米朝会談にも、いずれ開かれ
るであろう日朝会談にも負の影響が及ぶだろう。

03年12月、地下の穴蔵に潜んでいたイラクのサダム・フセイン大統領が米
軍に発見された。それを見てカダフィ氏は震え上がった。3日後、カダ
フィ氏は英国政府経由で米国政府に「これまで行ってきた核開発をすべて
止める」と伝えた。

米英両国は中央情報局(CIA)と秘密情報部(MI6)の要員を直ちに
リビアに送り込んで、秘密の核開発施設など全ての拠点を開示させた。そ
の上で翌年1月に米空軍がリビア入りし、濃縮ウラニウムやミサイルの制
御装置などを米国に運び出した。3月には艦船を送り、遠心分離機をはじ
め核開発に関する装置のすべてを搬出したのである。

一連の作業は3か月で終了した。すべてが終わった時点で初めて米国はリ
ビアに見返りを与え始めた。米国とリビアの国交正常化は06年5月。カダ
フィ氏は核放棄を伝えてから8年後に殺害されたが、これは核放棄とは無
関係だ。

10年から中東に吹き荒れた民主化運動、「アラブの春」がカダフィ氏の惨
めな死の直接的な原因である。リビア国民が民主化運動に触発されて、長
年続いたカダフィ家による専制支配に抗して立ち上がったのだ。その結
果、カダフィ氏も子息達も、殺害された。これが11年10月だった。

日本でも、ボルトン氏の主張するリビア方式と、アラブの春での殺害を混
同してとらえる向きがある。しかし両者は無関係である。トランプ氏の先
述の発言は、氏がその違いを理解していないことを示している。

理解していなければ、トランプ氏は正恩氏に、「米国は北朝鮮の体制転換
を考えているわけではない。従ってリビアモデルはとらない」と言い続け
るだろう。そこに浮上するのが、「段階的核廃棄と、段階ごとにそれに見
合う経済援助を北朝鮮に与える」という方式だ。これこそ北朝鮮と中国が
主張する方式で、元の木阿弥である。アメリカは失敗し、トランプ氏が日
本のために発言し続けている拉致問題も解決されないだろう。だからこ
そ、03年からのリビア方式による核問題解決と、11年のカダフィ氏殺害の
背景の相違をまずトランプ氏に、次に正恩氏に認識させることが非常に大
事なのである。

対北政策で微妙な違い

トランプ氏の下で、米国の北朝鮮政策を担っているのがボルトン氏とマイ
ク・ポンペオ国務長官である。両氏の間には対北政策で微妙な違いが見て
とれる。5月9日、2度目の平壌訪問で米国人3人の身柄を取り戻してワ
シントンに連れ帰ったポンペオ氏は、その直後の11日、「正しい道を選べ
ば北朝鮮には繁栄があるだろう」と語った。非核化の成果が何も見えてい
ないにも拘わらず、制裁緩和に言及するのは早すぎる。同じ日、ボルトン
氏は対照的な発言をした。

「完全、検証可能、不可逆的な核廃棄(CVID)だけでなく、ミサイ
ル、生物化学兵器の廃棄が実行され、日本人と韓国人の拉致被害者問題も
解決されなければならない」と語ったのだ。

北朝鮮との交渉でどちらの方針が失敗するか、過去の事例から、ポンペオ
氏の方針であることが明らかだ。成功はボルトン方式の中にしかない。

トランプ氏はこうも語っている。「中朝首脳の2回目の会談以降、(正恩
氏の側に)大きな変化が起きた」「習(近平)主席が金正恩に影響を与え
ている」と。そのとおりである。

北朝鮮の態度の豹変は米中貿易摩擦を巡る高官級協議の時期に重なる。中
国が有利な条件を勝ちとるために北朝鮮を取り引き材料に使おうとしたの
が見てとれる。

そうした中、トランプ氏は「自分のように強い貿易圧力を中国に加えた大
統領はいない」とも語っている。中国に対米貿易黒字を1年で約20兆円も
削減せよと迫り、それができなければ大幅に関税を引き上げるという強硬
策を突きつけたことを誇っているのだ。

圧力には圧力を、力には力を以て対抗するという姿勢である。そうでなけ
れば、中国も北朝鮮も動かない。その点で揺るがなかったからこそ、トラ
ンプ外交はここまで辿り着けたといえる。

しかし、リビア方式についての誤解に見られるように、トランプ外交には
危うさがつきまとう。その危うさを修正するのが安倍首相であろう。

『週刊新潮』 2018年5月31日 日本ルネッサンス 第804回


◆痰の話で思い出す支那

石岡 荘十(ジャーナリスト)


‘35京都で生まれ、そのすぐ後から敗戦2年後まで中国(当時は支那)に
留め置かれた。幼い頃の記憶はもちろんないが、物心ついて以降、見聞
きしたかの国の“文化”といまの日本のギャップを、本メルマガの反響
欄が思い起こさせた。 

幼い頃の記憶はこうだ。

その1。

夏の日、父の仕事が休みのある日、「支那人と犬入るべからず」という
立て札が入り口にある公園に家族そろって出かけ、公園の中の、支那人
以外のためのプールで家族で泳ぐ。ある日、帰りに天津市内でも最高級
の中華料理店でそろって子豚の丸焼きを食った。

糞をしたくなって、用を足そうと便所へ行くと便器のはるか暗い、深い
底にうごめく動物がいて、驚いて下を見ると、数匹の豚が新鮮な私の排
泄物をむさぼっていた。今思えばここでは完璧な“食の循環”が実現し
ている。

だが、これで私は完全に食欲を失った。これがトラウマになって、決し
て宗教上の理由ではなく、長い間、私はブタが食えなかった。

その2。

小学校の同級生に、当時の天津領事の息子(小山田あきら?)がいて、
放課後、いつも領事館へ遊びにいっていた。ほとんどは広大な領事公邸
の中で遊んでいたが、ある日、門の外に来る物売りの声に誘われて外に
出た。

天秤にかけた台に切り分けた瓜が載っていた。それが喰いたくて「どれ
がうまい?」と私たちに付き添ってきた領事館の守衛に聞いた。守衛は
「ツエーガ(これだよ)」と指差したのは、ハエが一番多く群がってい
る瓜だった。

“動物学的”に言ってそれはそうだろうと納得したのはずっと後のこと
だが、ハエがたかっているのは汚いという考え方は彼らにはないらしい。

いつだったか大分昔、多分、日中国交回復の頃、「中国にいまや1匹の
ハエもいなくなった」という提灯記事をどこかの新聞で読んだ記憶があ
るが、決して信じなかった。私の幼い頃の確かな記憶が記事のウソを見
破った。

その3。

父が勤めていた会社の管理職住宅は鉄筋コンクリートの一戸建ての“豪
邸”で、玄関を入ったところに、日本流で言うと、女中部屋があった。
女は阿媽(アマ)と私たちが呼んでいた纏足の小柄な女だったが、時々、
旦那が小さな女の子を連れて泊まりに来ていた。

女中部屋は6畳ほどの小さな部屋だったが、遊びに行くと、部屋の隅に
花瓶のような形の壷が置いてあって、そこに時々、「ペッ」と痰を吐く、
というか飛ばす。

それがまた結構遠くから正確に痰壷のど真ん中に命中するのを、何の不
思議もなく見ていたのを思い出した。ホールインワンどころではない。
アルバトロス級である。北京オリンピックで「痰飛投」などという種目
が出来たら間違いなく金だろう。

人前での屁は慎むが、食事中、げっぷは割と平気でやる。屁は平気だけ
ど、げっぷは禁忌という国もあると聞く。生活習慣がそんなに違う民が
十数億人もすぐそこにいる。

痰。さてどうするか。

話題はそれますが、昭和18・9年当時、幼馴染の父、小山田天津領事
とその家族の消息を知りたいと思っています。その頃、いつもアイスキ
ャンディーを作ってくれた、髪の長い、美しいお姉さまがいました。確
か、「たえ」さんでした。