2018年09月28日

◆インスリンに思う

渡部亮次郎


日本の政界に糖尿病が登場するのは確かに1945年の敗戦後である。「オラ
が大将」の子息で山口県知事もした田中龍夫元文部大臣は公務の合間を
縫って日に何度も注射のため医者に通っていた。

田中角栄、大平正芳、伊東正義、園田直、田中六助。皆糖尿病が元で死ん
だ。脳梗塞、心筋梗塞、腎不全、網膜症、癌を併発するのが 糖尿病患者
の末路だからである。

1921年7月30日にインスリンが発見され、人類に測り知れない恩恵をもた
らした。欧米ではすぐに患者自身が自己注射が始まった。だが日本では
「危険」を理由に医者の反対で厚生省が許可しなかった。患者の中には日
に3度も医者通いを余儀なくされる人がいた。

仮に自己注射が許可されていれば、医療器具業者は競って注射器の簡略化
や注射針の改良に取り組んだ筈である。だが厚生省(当時)の役人たちは
日本医師会に立ち向かおうとはしなかった。

わたしが秘書官となって厚生大臣として乗り込んだ園田直は1981年、敢然
として自己注射を許可した。その結果、注射器はペン型となり、針も世界
一細い0・2ミリになって殆ど無痛になった。

だがとき既に遅し。園田本人は自分の決断の恩恵に浴することなく腎不全
に陥り、僅か70歳で死んだ。1984年4月2日の朝だった。

糖尿病は多尿が特徴なので、長い間、腎臓が原因と考えられていた。糖尿
病最古の文献はB.C1500年のエジプトのパピルスに見られる記述だ。日本
で記録のある最も古い患者は藤原道長である。

「この世をばわが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」と詠
んだ、平安時代中期の公卿である。康保3年(966年)―万寿4年12月4日
(1028年1月3日))62歳薨去した。

当時としては意外な長生きである。糖尿病を放置した場合、実際より10年
は短命になるとされているから、当時としては大変な長命というべきだろ
う。それにしても満月のような権勢も病には勝てなかった。

昔から糖尿病の尿は甘く糖分を含んでいる事は良く知られていたが膵臓が
どのような働きをしているか、どれほど重要な臓器か不明の時代が長く続
いた。

突如、1869年にLanngerhans島が発見された。それから20年たった1889
年、ドイツ人のMeringとMinkowskiは史上初めて、犬の膵臓を摘出したあ
と、高血糖と尿糖が出現することを発見し、やっと膵臓と糖尿病が切って
も切れない関係にあることを証明した。

その後ジョンズホプキンズ大学のOpie博士が、このランゲルハンス島は
内分泌器官であり、糖尿病が関係することを明らかにした。

膵臓のランゲルハンス島から出ているのがインスリン。それが少ないと
か、全く出ないのが糖尿病と判りだしたのだ。

そこからインスリン発見の物語は更に後である。

人類に測り知れない恩恵をもたらしたインスリンの発見物語の主人公は
Banting &Bestの2人のカナダ人である。苦しい実験を重ねてインスリン
を発見したのだがこの2人は当時全くの無名だった。

Frederick Bantingは1891年、カナダの農家に生まれ、1916年トロント大
学医学部を卒業し医者になった。

ある日彼は「膵臓結石で膵管が完全に閉ざされた症例」ー膵臓の腺細胞は
萎縮しているのにランゲルハンス島だけは健全であったーという論文を読
んだ。

それなら結石の代わりに手術で膵管を縛ってしまえばよいと彼は考えた。

膵管を縛るという考えは天才的な閃きだった。彼は自分のアイディアを実
行すべく、トロント大学の生理学者 Macleod教授を訪ねた。
このとき、助手として学生のC.H.Bestを推薦された。

早速実験が始められた。膵管結縛の手術は難しく、内分泌を抽出するのは
さらに難しい。

彼らは1921年7月30日に初めて抽出エキスを犬に静脈注射してみた。効果
は覿面だった。そこで彼らはこの物質をインスリンと命名した。

しかしこのBantingとBestの苦心の作も、まだまだ不純物が多く、実用に
は耐えなかった。その後安全に血糖を下げることが可能になったのは生化
学者 Collips博士が、粗雑な抽出物を人間の使用に耐えるように精製した
結果だった。

1923年のノーベル生理、医学賞はBantingと教授Macleodに決定した。

2005年の国際糖尿病連合の発表によると、アメリカ人のなんと20%が糖尿
病の疑いありで、60歳以上の老人に限れば20%強が糖尿病に罹患している。

アメリカに住む白人種に限っても糖尿病患者は確実に8%を越え増加の一
途を辿っている。

21世紀が進行し始めるとヨーロッパとアメリカという、今までは罹患率が
極めて少ないと言われていたコーカソイド人種全体に糖尿病が一気に蔓延
しはじめた。

これはアメリカの高脂肪、高蔗糖、高エネルギー食がグローバル化し、
ヨーロッパもその例外でない事を示している。

19世紀末までコーカソイドである白人種たちは国によって糖尿病発症率が
低かった。しかしこれから20年以内にはヨーロッパもアメリカも糖尿病激
増で悲鳴をあげるだろうといわれている。

1000年はおろか数百年前にDNA の中に眠っていた遺伝子が社会環境の激変
で目覚めたのである。さらに遺伝子とは関係なく運動不足も大いに影響し
ている。

2004年、アメリカでゲノム研究者が2型糖尿病(中年に発症)の遺伝子を
発見したことが報じられた。これは飢餓遺伝子とは関係ないと考えられて
いる。

日本人の場合、江戸も中期以降になると、庶民の間でも1日3食の食習慣
が成立したが、明治維新までウシも豚も常食として食べる習慣が全くな
かった。つまり高血糖の原因となる高カロリー、高タンパク、高脂肪食と
は無縁な栄養学的にはかなり貧困な食生活が300年以上続いたのである。

一方、1850年ごろからヨ−ローパ人は大量生産方式の牧畜蚕業勃興と発展
により肉食が一般市民階級に広く普及した。日本人が反射的に頭に思い描
くヨーロッパ風の肉中心の食事スタイルの成立だ。

それでも当時ですら日本人に比べるとヨーロッパ人の体格は立派であった
のだから、その後の食生活の100年が生み出した肉体的格差は想像以上の
結果を生んだのだ。

日本では第2次大戦後、それも戦後20年たって、やっと高エネルギーと高
脂肪食をとりいれた結果、糖尿病が急上昇で増加した。わずか30年から40
年の食生活の変化だ。

日本人の中に眠っていた飢餓遺伝子が飽和脂肪の刺激を受けて目覚めた結
果である。世界中の人類に共通の現象で別段、驚くべきことではない。経
済の高度成長と糖尿病患者の趨勢は同一だ。

だから中国では物凄い勢いで糖尿病患者が増えている。精々鶏を食べてい
たものが、1切れでその何倍ものカロリーのある牛肉を食えば、報いは当
然、肥満と糖尿病など生活習慣病である。毛沢東語録にはない。

出典:さいたま市大島内科クリニック「インスリン発見物語」
http://members.jcom.home.ne.jp/3220398001/discovary/index.html  
 文中敬称略 2007・10・03名所旧跡だより 太宰府天満宮(福岡県)

◆健康百話・ノロウイルス食中毒の予防

                 柴谷 涼子(感染管理認定看護師)
 
老人保健施設などでノロウイルスの集団発生が報じられておりますが、ノロウイルスについて正しく理解し、ご自身も感染しないよう予防しましょう。

★ノロウイルス感染症とは・・・
 ノロウイルスが人の小腸で増殖して引き起こされる急性胃腸炎です。@カキや貝類を十分に加熱せず食べた場合A生ガキや貝類で汚染された調理器具で調理した生野菜などを食べた場合Bウイルスに感染したヒトの便や吐物に触れた手で調理をした場合・・・などに感染する可能性があります。

★症状
  年齢に関係なく感染は起こりますが、高齢者や抵抗力の弱ったヒトでは重症化する例もあります。嘔気・嘔吐・下痢が主症状です。
 腹痛、頭痛、発熱、悪寒、筋痛、咽頭痛などを伴うこともあります。 高齢者の場合、症状が出て、水分摂取ができなくなるとすぐに脱水症状を起す可能性がありますので、早めに病院の診察を受けて下さい。

★予防
生のカキや貝類は内部まで十分に加熱してから食べるようにしましょう。
カキの処理に使用したまな板などは、よく水洗いし、熱湯消毒をしてから使用しましょう。

★冬場はこのノロウイルスに限らず、様々な感染症が流行します。感染予防としてもっとも重要なのは、普段からの手洗いやうがいです。
外から帰ったあとは必ず手洗いとうがいをする習慣をつけましょう。

 <参考文献;>

1.国立感染症研究所 感染症情報センター感染症発生動向調査週報 感染症の話
 http://idsc.nih.go.jp/idwr/kansen/k04/k04_11.html
2.大阪府食の安全推進科    http://www.pref.osaka.jp/shokuhin/noro/
3.厚生労働省ノロウイルス食中毒の予防に関するQ&A
http://www.mhlw.go.jp/topics/syokuchu/kanren/tobou/040204-1.html
          (大阪厚生年金病院 看護部 看護ケア推進室 )

2018年09月27日

◆旧ソ連と同じ道を歩むか

加瀬 英明


旧ソ連と同じ道を歩むか 中国の「一帯一路」計画の成否

トランプ大統領が、習近平国家主席に関税戦争という、強烈な足払いをか
けている。

習主席は中国経済がアメリカ市場という脚のうえに立っているために、大
きく蹌踉(よろめ)いている。

だが、それだけではない。中国は今世紀に入ってから、かつてのソ連と同
じように、自壊への道を、ひたすら驀進するようになっている。

ソ連は1991年に瓦解した。効率が悪い計画経済によって病んでいたという
のに、シベリア沿海州の開発に国力を浪費するかたわら、東ヨーロッパの
衛星諸国という重荷をかかえ、第3世界に進出するために力を注ぐうえ
に、アメリカとの大規模な軍備競争に耐えることができなくなって、無様
(ぶざま)に崩壊した。

クレムリンの最高指導者は、マルクス・レーニン主義の予言に従って、ソ
連が世界を支配するという使命感にとらわれて、身の程を知らずに世界制
覇を急いだために、墓穴を掘ってしまった。

習主席も、「偉大なる5000年の中華文明の復興」という掛け声に、自ら陶
酔して、身の程を知らない、見せかけが壮大な「一帯一路」計画と、大海
軍の建設を中心とした軍拡を強行しているのを見ると、第2次大戦後にソ
連が進んでいた道程に、何とよく似ているだろうかと、思わざるをえない。

中国は分離独立闘争を恐れて、新疆ウィグル自治区や、チベットをはじめ
とする西域や、中部、北部に、巨額の投資を行っている。

「一帯一路」計画は、アジアからヨーロッパまで、70ヶ国近くを“幻想
の中華圏”に取り込もうとする、野心的というよりも、ぞんざいきわまり
ない大計画だが、すでにマレーシア、ミャンマー、パキスタンなどの多く
の諸国で、破綻するようになっている。

ソ連は1950年代から、60年代にかけて、日本についで経済成長率が高かった。

私はソ連が1957年に、アメリカに先駆けて、人工衛星『スプートニ
ク』を軌道に乗せた時に20歳だった。その4年後に、世界最初の有人衛
星飛行を行って、アメリカの朝野を狼狽させたことを、よく覚えている。

中国では、少子高齢化が進むようになって、往年の旺盛な高度成長を支え
た、豊富だった安い労働力が、失われるようになっている。ソ連では1970
年代に入ってから、同じことが起こっている。

私はかねてから、中国人は昔から「ツー(吃――食事)」、「フー(喝――飲
酒)」、「ピャオ(嫖――淫らな遊女)」、「トゥ(賭――博打(ばく
ち))」、「チーティンシ(大聴戯――京劇)」の5つを、生き甲斐にして
いると、説いてきた。清朝の歴代の皇帝も、毛沢東、周恩来、江青夫人
も、江沢民元主席もみな京劇マニアだった。

京劇は甲高い声に、耳を聾するけたたましい音曲と、大袈裟な所作による
演劇で、誇大妄想を煽るものだ。習主席が好む軍事パレードや、急拵(こ
しら)えの航空母艦を中心とする大海軍や、絵に描いた餅のような「一帯
一路」は、京劇の舞台装置を思わせる。

現在、中国海軍は艦艇数だけなら317隻で、アメリカ海軍の283隻を上回る。

今春、中国最初の国産空母が進水して、艤装中だが、西太后が日清戦争の
前夜に、北京西郊の頤和園の湖水の岸に、巨額の国費を投じて建造した、
大理石の巨船の“21世紀版”だ。西太后もやはり、京劇マニアだった。

◆秦郁彦著『慰安婦と戦場の性』の翻訳本

宮崎 正弘


平成30年(2018年)9月26日(水曜日)弐 通巻第5835号   

秦郁彦著『慰安婦と戦場の性』の翻訳本
『Comfort Women and Sex in the Battle Zone』by Ikuhiko Hata

産経新聞の英文サイト「JAPAN Forward」にJune Teufel Dreyer教授の書
評が掲載されました。
http://japan-forward.com/book-review-comfort-women-and-sex-in-the-battle-zone-by-ikuhiko-hata/
『 Comfort Women and Sex in the Battle Zone 』
著者:Ikuhiko Hata
 翻訳:Jason Morgan
 出版社:Hamilton Books 
 定 価:11,571円(Amazon参考価格) 

●詳細は下記JFSSホームページをご覧くださいませ。
http://www.jfss.gr.jp/home/index/article/id/754
http://www.jfss.gr.jp/Uploads/professor/2018-09-06/5b90b3011a090.jpg

当フォーラムでは、2016年8月に「対外発信助成会」を設立し、信頼のお
ける註のついた書物を、外国の出版社から外国語訳で出版できるよう活動
を開始致しました。
 これは海外において悪質な反日プロパガンダがかなり広く組織的に行な
われていることに鑑み、相手の言葉を用いて上手に説得できるよう学術的
にバランスのとれた書物を選択し出版することで、わが国から正確な情報
を外国向けに発信する運動を進めるものであります。
 第一作目は、秦郁彦著『慰安婦と戦場の性』(新潮選書)に致しました。

英訳はジェイソン・モーガン氏(歴史学博士)、
 出版社は米ハミルトンブックスより『Comfort Women and Sex in the
Battle Zone』としてこの9月、出版の運びとなりました。

この度、無事に出版に至りましたのも「対外発信助成会」の趣旨にご賛同
いただきました皆様からのご支援、ご協力のおかげと心より厚く御礼申し
上げます。
 本書は日本初の「慰安婦」についての専門書となります。国際社会の中
で多くの方々にお読み頂ければ幸甚に存じます。
(一般社団法人 日本戦略研究フォーラム)

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BOOKREVIEW 書評BOOKREVIEW
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 テロ時代の総合対策はサイコ型テロへの徹底対応にあり
  ホームグローン・テロリストとインターネットの個人情報管理

吉川圭一『サイコ型テロへの処方箋』(近代消防社)
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この分野でおそらく初めての試みではないか。

「サイコ型テロ」とは、そもそも何なのか?

イスラム過激派によるテロ事件はあとを絶たず、西側先進国は対策に余念
がない。ところがイスラム教のくにぐにあっても、過激派のテロ、それも
毎日のように自爆テロがアフガニスタンで、イラクで、あちこちで繰り返
されている。

ISの場合は、インターネットで若者に呼びかけ、まるで催眠術にかかっ
たように数万の若者が、それもキリスト教圏からも、あの中国からもIS
戦士に参加した。穏健なインドネシア、マレーシアからも、海の孤島モル
ディブからも、トルコ経由でシリアの最前線基地は駆けつけた。インター
ネットは魔法のランプ?

くわえてネットの発言に共鳴したホームグローン・テロリストの発生。い
まやインターネットの個人情報管理の矛盾が露呈しているが、グーグルや
フェイスブックは情報データの提供を渋る。そうこうしている間に日本の
年金情報から大学の研究情報まで、根こそぎ中国のハッカーに盗まれた。
 他方、秋葉原でトラックの暴走で多数が死傷するという新型のテロがお
こり、2016年7月には相模原にある知的障害福祉施設で、元職員が入所患
者19人を殺害するという大量殺人事件が発生した。
著者の吉川氏は、一般的なテロと、後者の無差別殺人を区別する必要はな
く、「同じように悩める現代社会の若者等の、心の問題として対処して行
かなければな」成らないのではない」「現代における心の闇から起きる犯
罪として一括して考えるべき」と提言する。カウンセリングの徹底にも言
及している。

したがって吉川氏は、「この両者を包摂する概念として『サイコ型テロ』
という呼び名を考え」たのだと言う。

テロリストに従来の警報では対応できないことは明らかであり、すでにシ
ンガポール、マレーシアなどでは令状内で呼ぼう検束出来る強力な法律が
ある。日本は、この類の法律制定は難しいのである。
      
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 書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW 
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 渡辺京二『バテレンンの世紀』(新潮社)
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                        評 奥山篤信

大航海時代、日本もまたグローバルプレーヤーだった。世界が海で繋がっ
た世紀を、ポルトガル海上帝国の構築、イエズス会の積極的布教、信長・
秀吉・家康や諸大名ら権力者の反応、個性的な宣教師、禁教、弾圧、島原
の乱、鎖国というキリスト教伝来をめぐる出来事を軸に、壮大な文明史的
視点で振り返る「渡辺史学」の到達点!〜

渡辺京二氏は、あの故西部邁先生が『逝きし世の面影』について「渡辺京
二さんが『逝きし世の面影』にて幕末から明治にかけて日本を訪れたヨー
ロッパ人たちの手紙、論文、エッセイその他を膨大に渉猟して、当時の西
洋人が見た日本の姿――いまや失われてしまった、逝きし世の面影――を浮か
び上がらせているのです。多くのヨーロッパ人たちが、この美しき真珠の
ような国が壊されようとしていると書き残してる。」と評した。僕は渡辺
氏は今どき日本で数少ない一次資料から緻密な分析をする歴史家と見てい
るが、同氏は1948年日本共産党に入党し、1956年のハンガリー動乱で共産
主義に幻滅し脱党した青年時代がある。

僕の尊敬する宮崎正弘氏がこの本の書評を多くのスペースを使い、評価し
ていることがわかるが、その中で 「イエズス会が20世紀の共産主義政党
と性格、手法において一致していることはおどろくほどである。実現すべ
き目的の超越的絶対性、組織の大目的への献身、そのための自己改造、目
的のためには強弁も嘘も辞さぬ点において、イエズス会は共産主義前衛党
のまぎれもない先蹤(せんしょう)といわねばならぬ」が本書の著者の言
いたいことだろうと締めくくっている。

さらに書評のタイトルの上に<イエズス会は軍事組織であり、マルクス主
義前衛党に、いやISに似ている>とまで言っているのが痛快だ。

別に僕に限らないが、共産主義とキリスト教はお互い犬猿だが、根っこは
同じと僕のどっかの書に書いたことがある。その美しい幻想の理想郷と現
実の惨たらしい殺戮と拷問と思い上がりは、まさに共産主義社会と神の国
の綺麗事のユートピアの幻想である。共産主義は高々100年の人類に対す
る被害だがキリスト教はそれが2000年である。そんな意味でもこの渡辺氏
の緻密な調査と分析は実に興味深い。

さてこの本での僕の疑問は:

1582年に九州のキリシタン大名、大友宗麟・ 大村純忠・有馬晴信の名代
としてローマへ派遣された四名の少年を中心とした使節団で、イ エズス
会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案したもの。 ヴァリニャーノ
は自身の手紙の中で、使節の目的をこう説明している。

第一はローマ教皇とスペイン・ポルトガル両王に日本宣教の経 済的・精
神的援助を依頼すること。

第二は日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後に
その栄光、偉大さを少年達自ら語らせることにより、布教に役立てたいと
いうことであった。使節の少年たちは有馬晴信が日野江城下に建てたセミ
ナリヨで学ぶ生徒の中から選ばれ た。派遣当時の年齢は13~14歳であっ
た。 その四人は ・伊東マンショ(主席正使)大友宗麟の名代。宗麟の血
縁。日向国主伊東義祐の孫。後年、 司祭に叙階される。1612年長崎で死去。

・千々石ミゲル(正使)大村純忠の名代。純忠の甥で有馬晴信の従兄弟。後
に棄教。
・中浦ジュリアン(副使)後年、司祭に叙階。
・原マルティノ(副使)後年、司祭に叙階。
なぜ渡辺氏が『天正遣欧使節記』にあるローマへの少年派遣団の一員で
あった千々石ミゲルの棄教について語っているものの、実際彼らの「見聞
録」の中で書かれている下記を敢えて書いていない点だ。

<我々の旅行の先々で、売られて奴隷の境遇に落ちた日本人を 身近で見
たときには、こ んな安い値で小家畜か駄獣(牛や馬)の様に(同胞の日本人
を)手放す我が民族への激しい 怒りに燃え立たざるを得なかった。......

全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男 女やら童男・童女が、世
界中のあれほど様々な地域へ、あんなに安い値で掠って行かれ 売りさば
かれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐 憫の情を催さない者があろうか。>

まさに性奴隷の生娘を含む日本人奴隷たちの記述がないのだ。

宣教師のうわべの綺麗事の目的とは裏腹にまさにあくどい主な目的である
奴隷貿易への記載が見当たらないのだ。ちなみに1607年に南米 ペルーの
リマでおこなわれた人口調査によれば、当時の人口 25454人のうち、日本
人の奴隷として男9名と女11名がいたことが記載され ている。

そんな重要な事実こそが1587年豊臣秀吉をして宣教師追放令を発布させた
のだが、その理由はポルトガル人が キリスト教の布教を熱心におこない
神の恵み、慈悲を説きながら、その一方で南蛮貿易において多数の日本人
を奴隷として叩き買い、船に連行し、海外に売り飛ば す事実を知ったか
らだ。まさに口先の偽善と欺瞞に怒りを爆発させた秀吉の賞賛すべき施策
であった(拙著 <キリスト教を世に問う>)。

次にそれと関係するのだが、キリスト教弾圧の功績者は秀吉と僕は考えて
いるが、渡辺氏が描く秀吉は何か思いつきとか助言でコロコロ変わるいわ
ばピエロ的存在で矮小化されていることが気になった。渡辺氏によると:
むしろ弾圧の実質的な確信犯は徳川家康からつながる徳川政権の施策を強
調している節がある。

家康は秀吉のバテレン追放令を踏襲して、治世の当初から日本を神仏国家
として、キリスト教を拒否する姿勢であったが、彼の海外情勢に対する的
確な認識があり、海外に向かう知識の窓口であったからこれを利用せねば
損だと思っていた(これは織田信長と同様)ので、西洋諸国が交易と布教
を切り離して、宣教を抑制してくれているなら、ある程度のキリスト教の
存在を黙認する用意はあった。

しかしそんな黙認につけあがったキリスト教は日本において最盛期を迎え
信者が37万人まで増えたのだった。その交易と布教を分離しないスペイ
ン・ポルトガルへの苛立ちが募り、家康をしてついに全面禁教とさせたの
だった。まさに<みだりに邪法を弘めて正宗を惑わし、もって城中の政号
(政体、国柄)を改めて己が有となさんと欲す>である。実際、家康は日
本の軍事力に自信をもっていたので彼らの現実の武力侵略は恐れていな
かった、彼が恐れていたのはキリスト教の文化的侵略だったのだ。

つまり秀吉の奴隷貿易に対する<人道的怒り>よりも家康の<冷静沈着な
危機感>こそが、まさに知的な慧眼だった。

芥川龍之介の僕は未読だが<神神の微笑>がまさに遠藤周作の愚作<沈
黙>との類似性、例えば芥川がキリスト教は日本の霊の力には絶対に勝て
ない、つまり日本の風土になじまないことを書いているのだが、まさに遠
藤の<沼地>論は、そのまま芥川を踏襲しているとしか思えない点が新発
見だ。

さらに僕がこの時代にと感動した最終的無神論者となった棄教者フェレイ
ラのキリスト教を攻撃する『顕疑録』は参考文献にないが、この名著の解
説も欲しかった点はあるが、極めて僕のキリスト教批判論に大いに役立っ
たことは確かだ。

オススメの書である。キリスト教信者も含め言っているのだ。むしろ渡辺
氏はキリスト教への尊敬の念もあるようで、だからこそ奴隷貿易やローマ
見聞録などをあえて書かなかった、いわば同じ穴の狢として共産主義者か
らの転向隠れキリシタンではないかと思ったほどだ。 
 
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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1793回】        
――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(18)
  徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正7年)


 ■「(九)言語の共通」 

反日論者が往々にして「支那留學生上がりの者に多き」点を考えれば問題
はあるが、「日本にして、若し將來支那に於て、又は支那に向て事を爲す
なからんと欲」するなら、「日本人自らが進んで、支那語の學習に從ふと
同時に、支那人に向て、日本語の普及を計らざる可からず」。にもかかわ
らず「今や支那留學生は、從前の三分一乃至四分一に減少したり」。「支
那に於ける日本語の前途は、實に現状の儘ならば、悲觀」するしかない。

そこで徳富は「我が朝野の識者に警告」し、どうすれば「より多くの支那
留學生を、日本に招致する可き乎」「如何にして支那に於て、日本語を?
授するの學校を新設し」、あるいは既設の教育機関をテコ入れすべきか」
と訴える。


 
だが、「我が朝野の識者」が外国人に対する日本語教育が対外戦略(ソフ
ト・パワー)の核になるという認識を持ち合わせているとは思えない以
上、徳富の「警告」に余り意味があるとは思えない。

であればこそ、現在、我が政府が進める「クール・ジャパン」の悲喜劇が
繰り返されているのではないか。

■「(十)難有迷惑」

日支親善を思う者も思わない者も、それを口にする。「特に辭令に巧なる
支那人としては、云ふ丈にて損なき文句なれば、固より言葉に於て、日支
親善の大安賣を爲すも決して偶然にはあらず」。だが「親善の文句の裏に
は、不親善の事實ありと知る可し」である。

かつて「子々孫々までの日中友好」の空念仏が聞かれたが、今にして思え
ば確かに「親善の文句の裏には、不親善の事實ありと知る可し」であった。

そんな「子々孫々までの日中友好」の大合唱のうちに日中平和条約が結ば
れて、今年は40周年である。10月になると安倍首相も参加して北京で大々
的に40周年記念式典が華々しく挙行されることだろうが、であったとして
も、いやであればこそ徳富の「親善の文句の裏には、不親善の事實ありと
知る可し」との警句を、日本人は拳々服膺すべきだと痛感するのだが。

さて徳富に戻る。

「支那の獨立も」「支那の平和も」「支那の進歩も」、すべて日本の支え
があってのことであり、これこそ日本の立場からする「親善の實」という
ものだ。これは「支那たりとて、若し?心平氣に考へたらば」認めるとこ
ろだろう。だが現実的に彼らは日本の支えを「難有しとも、忝かなしとも
思はざる也」。「露骨に云へば、日本人が自ら恩に著する程、支那人は恩
に著ざる」だけではなく、甚だしきは「(日本からの)恩を仇として考へ
居る者も、少なからざる可し」である。

では、なぜ彼らは恩を仇と見做すのか。それは「己が流儀を他に彊ふる
は、必ずしも欲する所を施す」ことにはならないからだ。かくして「兎角
日本人が、支那を解せず、支那人を解せず、又た解」しようともせずに、
「唯だ短慮一徹に、我が思ふ所を、遠慮會釋もなく、之を支那及び支那人
に施し、而して是れ則ち親善なりと云ふに到りては」、彼らからすれば
「難有迷惑」でしかない。

徳富の記すところから判断して、当時の日本からする「日支親善」は独
りよがりでしかなく、反発を招きこそすれ、彼らの賛同は得られなかった
ということのようだ。

■「(一一)文明中毒國」

「支那人の缺點を指摘」するなら、「蒙昧野蠻なるが爲め」ではなく「餘
りに文明なるにあり」。彼らの文明が古今東西に優れた点は「世に處する
智巧」にこそある。
《QED》 

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もう一本
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【知道中国 1794回】            
――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(19)
  徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)

              ▽

「人に對し、世に處する智巧に於ては」、「世界の田舎漢たりし日本人」
は「現時の支那人」にさえ「及ぶ所にあらず」。「支那人の策略を弄する
は、殆ど先天的の性格」のようなものであり、そんな「支那人に向て、兎
角の智術を逞うせんとするは、恐らく彼を知り、己を知るものと云ふ可ら
ざらむ」。

「要するに支那人は、寧ろ文明に食傷したる人種也。支那は文明中毒國
也」。そんな「國柄、人柄」に対し「嗜好、趣味、感情、思惑を無視し
て、一氣呵成に、我意を貫徹せんと」して「淺薄なる小策を逞」しくした
ところで、まったくの無意味である。

以上を言い換えるなら、紀元前の春秋戦国の時代から現在に延々と続く
“人たらし”の天才である彼らを前にしては、我がオモテナシは余り意味を
なさないということだ。

 ■(一二)一片の空證文」

「若し眞に日支親善を實行せんと欲」するならば、「(第一)は力也、
(第二)は利?也、(第三)は思想及び感情也」という「三個の要素を具
備」する必要がある。

「(第一)力とは」、「支那を極東の國際政局に於て、支持する」だけ
の「決心と實力」であり、それを「支那人に向て會得、貫徹せしむる」も
のでなければならない。「日支親善の前提として、我が軍備の充實は、片
時も油斷あらざる可らざる也」。

「(第二)利?とは」、「日本が、支那より利?を取る」だけではな
く、「支那に向つて利?を與ふる」ものでなければならない。要するに官
民ともに利益を共通することであり、「彼我利?の分配を意味するもの」
である。

「(第三)思想及び感情とは」、「今日の同文同種抔と、互ひに紋切形
の世辭を、交換するに止らず、眞に兩國民の思想、感情の上に於て、互ひ
に相依り、相倚るの紐帶を出來せしむる」ことを指す。

かくして徳富は、「現時間の日支親善を語る者」に対し、「力に於て」
「利?に就て」「思想及び感情」において、「遺憾ながら、甚だ其の不徹
底を認めざるを得」ないではないかと問い掛けた後、「如上の三要素を控
除しての親善ならば、是れ唯だ一片の空證文のみ」と断言した。

だが、この徳富の考えは明らかに間違っている。徳富の言葉を借りて説明
するなら、我らは「世界の田舎漢たりし日本人」である。だから彼らに対
しても「文明中毒國」の「嗜好、趣味、感情、思惑を無視して、一氣呵成
に、我意を貫徹せんと」する。つまりバカ正直に軍事的に彼らを守り、
「双?」「互利互恵」に邁進し、甚だしきは「兩國民の間に、共響、同鳴
の點を見出」そうと努める。

だが「文明中毒國」の彼らである。「人に對し、世に處する智巧に於て
は」、「世界の田舎漢たりし日本人」なんぞを相手にするのは赤子の手を
ヒネるようなものだろう。であればこそ我らが「三個の要素を具備」する
なんぞ、まったく骨折り損の草臥れ儲けというものでしかない。
 触らぬ神に祟りなしの格言に倣うなら、やはり触らぬ疫病神に祟りな
し、である。

 ■「(一三)信頼と安堵」

「力は支那人の最も缺乏する」もの。「故に最も必要とする所也」。「力
の福音は、支那感化の第一義」ではあるが、一朝有事の際には「日本單獨
の力」で「支那の安危存亡の衝に膺」る覚悟が必要だ。

「最近の事實に就て」考えれば、大隈内閣における21カ条要求が好例だ
が、日本の対応は間違っている。彼らは「事大主義者」であり、「有力な
る威勢に對しては、無抵抗者」だが、「此の威勢を利用するに於て、抜目
なき實利者也」。その点を弁えたうえで十分な「力」と「決心」を以て徹
底して対する――これしかないようだ。

    

◆アリババ集団マー会長退任の背後に

櫻井よしこ


「アリババ集団マー会長退任の背後に金持ち排除を進める習近平主席の影」

中国電子商取引(EC)最大手、アリババ集団のジャック・マー会長が五
四歳の誕生日、9月10日を期し会長職を退くと米「ニューヨーク・タイム
ズ」紙が報じた。

3日後、アリババ集団は、退任は今年ではなく、来年の9月10日だと発表し
た。マー氏が株主に宛てて公開した書簡には「大好きな教育分野に戻りた
い。世界は大きく、私はまだ若く、新しいことに挑戦したい」と書かれて
おり、時期は1年ずれたが、会長退任は間違いなさそうだ。

そこで誰しも思うだろう。マー氏はアリババ集団を一代で時価総額約4000
億ドル(約44兆円)企業に育て上げた。スマホ決済で一気にキャッシュレ
ス社会を出現させ、昨年の決済総額1377兆円の約半分を自社のアリペイが
占めた程の成功もおさめた。その彼が何故、いま、退くのか、と。

中国共産党の下で人々はいかにして富と権力を得るのか、権力の一部とな
ればなったでどれ程の火傷を負い失脚するのかを思えば、マー氏退任の背
景に影を見るのは当然だ。「産経新聞」外信部次長の矢板明夫氏が語る。

「習近平国家主席の基本方針は毛沢東路線への回帰です。その特徴のひと
つが金持ち潰しです。毛沢東は全権力を中国共産党に集中させ、その上に
立つ自身の存在を核心と位置づけました。習氏も同じようにしたい。核心
はひとり、中心軸はひとつ。その一本軸の縦構造に並列して、兆円単位の
資産を動かす民間の大金持ちが生まれると、そこにも求心力が動く。核心
は2つは不要、そこで金持ち排除に走るのです」

習政権下で大富豪が次々に逮捕され、消されるケースが続いている。今年
5月にも中国保険業界の一角を占めていた安邦保険集団の元会長、呉小暉
氏が懲役18年の刑を科され失脚した。

呉氏はトランプ米大統領の娘婿、ジャレッド・クシュナー氏と非常に近い
関係にあった。2016年の米大統領選挙でトランプ氏の勝利が確定した直
後、クシュナー氏が最初に会食した相手が呉氏だった。

呉氏は中国共産党とのコネをばねにのし上がった。若き日に浙江省杭州市
長の娘と結婚し、自動車販売の利権で財を成し、次に元上海市長の息子の
コネを活用して〓小平(とう・しょうへい)一家に接近、妻と離婚して〓
(とう)の孫娘と再婚した。より大きな共産党へのコネを手に、呉氏は保
険業界に進出、短期間に巨万の富を築いてニューヨークの名門ホテル
「ウォルドルフ・アストリア」を買収した。

だが、米政権に深く食い込み影響力を発揮するような存在を、共産党が許
容し続けることはないのである。当局の調査が始まり、保険監督局が安邦
保険集団を公的管理下に置いたのが今年2月、3月には裁判開始、5月10日
には先述の判決が下された。〓(とう)の孫娘の夫といえども冷酷に切り
捨てられた。

大富豪が得意の絶頂で逮捕、投獄され、あるいは自殺に追い込まれる事例
など掃いて捨てる程あるのが中国だ。矢板氏は中国人大富豪の「寿命」は
10年単位で見るのが妥当だと言う。

「中国共産党の権力にくっついて利権を手にする大富豪は権力者が交替し
て新しい権力層が生まれるときが危機なのです。前任者の人脈や利権はこ
とごとく剥奪されるからです。それが種々の逮捕や自殺事件につながります」

どれ程頑張っても中国人の個人的栄華は10年が目途、20年はもたないとい
うのだ。マー氏は通貨の意味を変える程の大変化を巻き起こし、資本主義
経済の新たな波を中国に起こしたかに見える。しかし、共産党支配の論理
の下では、長続きさせてもらえない。

マー氏はビル・ゲイツ氏のように社会貢献に力を注ぎたいと発言した。果
たして習氏がそれを諒とするのか、まだわからない。少なくとも、このま
ま「盛大な成功」を続ければ、己の命運が尽きるとの自覚が退任予告につ
ながったと見てよいだろう。
『週刊ダイヤモンド』2018年9月29日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1248

◆京都 「山科ゆかりの歌人」

渡邊 好造


”百人一首”など古来の和歌には、「山科」が数多く登場する。

”百人一首”は、鎌倉時代の歌人・藤原定家が100首を選んだ歌集のことで、京都小倉山で編纂されたので通称”小倉百人一首”ともいう。主に古今集(平安時代)、新古今集(鎌倉時代)から選んでいる。"小倉"があるなら他にもあるのかとなるが、確かに"源氏""女房""後撰""武家"が頭につく”百人一首”もあるにはある。

その何れもが、制作年や編者が明確でなく、小倉で洩れた歌人を補っただけのものもあり、”百人一首”といえば"小倉"を指すとみてよい。今回の"山科だより"は、この”百人一首”に登場する「山科ゆかりの歌人」を紹介する。

山科の地名、駅名にも名前が残る有名歌人といえば「小野小町」である。"小野御霊町"にある”随心院(真言宗)”は、小野一族の邸宅跡に正暦2(991)年=平安時代=「僧・仁海」が創建した。「小野小町」は仁寿2(852)年=平安時代=に宮廷を辞した後、40年間当院内の遺跡”小町の井戸”辺りに住んでいたという。

「小野小町」が詠んだ和歌のうち、”百人一首”(原典・古今集=以下同じ)にとりあげられ、とくによく知られているのはこの一首で、境内に歌碑がある。

『花の色は移りにけりないたずらに 我が身世にふるながめせしまに』(桜の花の色はスッカリ褪せた。私の美しかった姿も衰えた。むなしく世を過ごし物思いにふけっている間に)。

"北花山河原町"の”元慶寺(天台宗)”は、「僧・遍昭」が貞観11(869)年=平安時代=に創建し、”百人一首”(古今集)に詠まれた彼の和歌の碑がある。

碑には『天津風雲の通ひ路吹きとぢよ をとめの姿しばしとどめむ』(空に吹く風よ、天への雲の通り道をふさいでしまってくれ。美しい舞姫の姿をもうしばらくの間ひきとめておきたいのだ)とある。

"四ノ宮泉水町"に天文19(1556)年=室町時代=に開創された”山科地蔵徳林庵(臨済宗)”には、町名の語源となる「四之宮人康」(さねやす=第54代仁明天皇第4皇子)と、歌人「蝉丸」(せみまる=正式呼称はせみまろ)の2人の供養塔がある。

両人とも平安時代(9世紀)に生きた歌人だが、「蝉丸」は"四ノ宮"から約2キロほど東の滋賀県大津市に入った峠"逢坂の関"に庵を構え、近くには”蝉丸神社”もある。なぜ山科に「蝉丸」の供養塔があるのか、「人康」との関係は、交流は、など明確ではない。その共通点は両人とも琵琶の名手であったことのようである。
 
 ”百人一首”(後撰集)にある「蝉丸」の歌、『これやこの行くも帰るも分かれては 知るも知らぬも逢坂の関』(ここから行く人帰る人、それを見送る人、知合いの人とそうでない人も、ここで出逢いを繰返す。これがこの逢坂の関なのだ)がよく知られている。

 ”百人一首”に登場する地名でもっとも多いのが"逢坂(の関)"("難波"と同数)で、行政エリアは滋賀県大津市だが京都市山科区との境界線上の峠である。

ついでながら、全国46都道府県のうち県庁所在都市がピッタリ接しているのは、この京都府京都市(山科区)と滋賀県大津市の他は、東北の山形県山形市と宮城県仙台市しかない。

「清少納言」(枕草子で知られる平安時代女流作家)は、”百人一首”(後拾遺集)で『夜をこめて鳥の空音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ』(夜の明けないうちに鶏の鳴き真似をして、夜が明けたように見せかけた中国・函国関の故事まがいの騙しの手をつかっても、私とあなたの間にある関所は開けませんよ)と詠んでいる。

「三条右大臣藤原定方」(平安時代公家・歌人)は、”百人一首”(後撰和歌集)で悩ましく、意味深な歌を披露している。

『名にしおはば 逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな』(「逢坂山」だから"逢える"、「さ寝」だから"一緒に寝られる(さは接頭語)"、名前通りの「かづら=葛・つるくさ」ならそのツタを手繰り寄せると、人に知られずあなたの家で逢いそして一緒に寝る、そんなことが出来ればいいのに)。

”百人一首”に登場する「山科ゆかりの歌人」が詠む和歌には、平安・鎌倉貴族のなんとも優雅で、他に心配事はないのかと言いたくなるお気楽な宮廷生活が滲みでている。そんな宮廷生活を歴史書以上に現代に語り継いでいるのが、和歌なのだろう。(完)   再掲

◆切らずに治せるがん治療

田中 正博(医師)



がん治療の3本柱といえば、手術、化学療法(抗がん剤)と放射線療法です。副作用なく完治する治療法が理想ですが、現実にはどの治療法も多かれ少なかれ副作用があります。

がんの発生した部位と広がりにより手術が得意(第一選択)であったり、化学療法がよかったりします。
 
また病気が小さければ、負担の少ない内視鏡手術で治ることもあります。 放射線療法は手術と化学療法の中間の治療法と考えられています。 手術よりも広い範囲を治療できますし、化学療法よりも強力です。

昔から放射線療法は耳鼻咽喉科のがん(手術すると声が出なくなったり、食事が飲み込みにくくなる、など後遺症が強い。)や子宮頚がん(手術と同じ程度の治療成績)は得意でした。 

最近は抗がん剤と放射線療法を同時に併用することで、副作用は少し強くなりますが、治療成績が随分と向上しています。

食道がんでは手術と同程度の生存率といわれるようになってきました。手術不可能な進行したがんでも治癒する症例がでてきました。

また、手術と放射線療法を組み合わせることもしばしば行われています。 最新鋭の高精度放射線療法装置や粒子線治療装置を用いれば、副作用が少なく、T期の肺がん、肝臓がん、前立腺がんなどは本当に切らずに治るようになってきました。

また、残念ながら病気が進行していたり、手術後の再発や転移のため、今の医学では完治が難しいがんでも、放射線療法を受けることで、延命効果が期待できたり、痛みや呼吸困難などの症状が楽になることが知られています。

放射線療法以外の治療が一番いいがんも沢山ありますので、この短い文章だけで放射線療法がよいと判断することは危険ですが、がん治療=手術と決めつけずに、主治医の先生とよく相談されて、必要に応じてセカンドオピニオン(他病院での専門医の意見)を受けられて、納得できる治療を受けられることをお勧めします。      
          大阪市立総合医療センター 中央放射線部

2018年09月26日

◆モスクやキリスト地下教会が

宮崎 正弘


平成30年(2018年)9月11日(火曜日)弐 通巻第5824号  

 モスクやキリスト地下教会が弾圧される傍らで
  崇山少林寺(禅宗)は五星紅旗を高く掲げた政治宗教集団化

河南省開封から南へバスで2時間強。宏大な山のなかに出現するのは霊験
あらたかなる霊山。崇山少林寺の本山は世界遺産でもある。

いまでは観光客がうじゃうじゃと雲海をバックに写真を撮る景勝地でもあ
るが、禅宗の本山でもあり、この少林寺のボス=釈永信は中国共産党公認
の仏教界の副代表を務める。

だから釈は「少林寺CEO」という渾名もあるが、「政治和尚」とも言わ
れる。

正式に崇山少林寺は朝夕の儀式で五星紅旗を掲げた。

1500年の同寺の歴史始まった以来である。宗教弾圧を強める習近平政権の
顔色を読んでのことだろう。しかし、これは「宗教の自由」が建前上保証
されている憲法に抵触し、多くの中国人からみれば、失望であろう。
ネットには「釈迦とマルクスが握手? まさか」という意見が見られる。

他方で、新彊ウィグル自治区のムスリム弾圧は、世界からいかに非難を浴
びようと、「あれ(強制収容所)は職業訓練所だ」と詭弁を弄し、その弾圧
は青海省から陝西省、寧夏回族自治区のモスクにも及んでいる。

弾圧は都市部のキリスト教の教会にも及んできた。

北京の朝暘区にある巨大なキリスト教地下教会が閉鎖される危機に直面し
ている。「不法な印刷物が配布されている。活動は非合法だ」と当局は監
視を強化してきた。

許可の無い集会は禁止されている(ミサに多数が集まるのも禁止)、「新教
の自由はどこへいった?」と信者が騒ぎ出した。

地下教会などと言っても、おおっぴらにミサは行われてきたが、六年前の
週近平政権発足と同時に規制が強まり、多くの信者はいまでは地下教会に
も通わず「家庭教会」で祈りを捧げているという(南華早報、9月10日)。

      
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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1787回】                
――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(12)
徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正7年)

              △

上海から鉄路で向った蘇州では「俗惡」としかいいようのない寒山寺を見
物した後、留園に向う。

園主の盛宜懷は「李鴻章の門下の一人にして、夙に經濟事業に着眼し、招
商局の如き、漢冶萍の如き、船舶に礦山に、若しくは製鐵、紡績の類、一
として手を出さゞるなし。其の富を致したる一因は、蓋し日本人との、妥
協の結果とも云ふを得可し」。

「盛宜懷氏逝きて、上海に殯する一年」の後、その「柩は、上海より著
し、方さに明日を以て、本葬式を行はんとする」。そこで徳富は、盛宜懷
が贅を尽くして造りあげた留園散策がてら葬式見物に出かけた。先ずは
「名刺を出して、案内を請」いて会場へ。

「群衆雜踏、一大祭日の如く、飲食物の屋臺店さへ設けられ、老幼男女、
貴賤貧富の往來織るが如し。予等は新設せられたる大牌門を過ぎ、幄舎の
中を奏樂にて練り行き。賓席にて喫茶し。更らに僧侶團を貫きて、靈位の
前に香を奠せり」。その瞬間、徳富の背後から楽の音に合わせて「號泣の
掛聲をなす者ありて、予等の哀情を、挑發せんとする」ようだ。「所謂泣
男泣女の類なる可し」。

蘇州から浦口へ。浦口を発ち江蘇省と山東省とを貫き天津に至る津浦鉄道
で鳳陽、宿、徐州と北上し曲阜、泰山へ。

 「支那旅行中、最も不愉快なる一は、汽車、汽船の昇降の場合也」。そ
れというのも苦力は五月蠅く係員は不親切で、「癪に障らぬものはなし」
だからだ。

たとえば船に乗った場合、「船の周圍には、乞食船群がり、予等の鼻先に
棒を突き出し、其端に袋をぶら下げ、頻りに金錢を投ず可く、強請しつゝ
あり」。「一船去れば、一船來る。小供あり、老嫗あり、或は若者あり、
壮婦あり」。だが「乞食商賈も、一種の營業と見れば、致方なし」という
ものだ。

「支那旅行に當惑は、南京蟲と乞食」だが、「予は寧ろ南京蟲を以て、忍
び得可しとなす也」。いいかえるならば、乞食は南京蟲以下ということだ。

津浦鉄道の一等車での出来事である。「支那乘客の一人、車中の喫烟室
にて、硝子窓を明窓と誤り認め、無遠慮に頭を突き出し、落花微塵に硝子
を破り、併せて其の面を破りたる抔。彼是笑止の事件」に遭遇した。
「支那乘客の一人」はガラスを知らなかったのか。

曲阜では孔子廟へ。

「秋艸枯れは果てゝ、滿目凄凉、唯空しく『大成至聖文宜王墓』の墓碑の
立つを見るのみ」だった。「孔子を以て國家の主となしつゝある支那人
が、孔子に對して、何等の神明的敬虔なく、英雄崇拝の熱情なきは、意外
と云はん乎、意中と云はん乎」。

ここでも「何れの靈地、名所」と同じく番人が「参詣者に五月蠅く案内料
を要求し、貪りて?くを知ら」ず。こういったことは「頗る孔子に對し
て、赤面の至り」だろうが、そんなことは平気の平左の日常茶飯事だ。

「孔子の墳墓や、其の子孫の墳墓や、其の宏大巍々たる亨殿や?代の石碑
や、毫も吾人の心を動かすに足らず」。ただ不思議なのは、「革命毎に一
切を破壞する支那に、此の如き遺物あるは、是亦た孔子の恩惠たらずんば
あらざる也」。

次いで泰山に登った。「泰山には名物多し」。「第一は石也、全山皆石な
れば也」。「第二は牛糞」で、「第三は乞食也。然も乞食は、泰山の身の
專有ならざれば、或は廣く支那の名物と稱するも可ならむ」。

泰山を離れ済南へ。同地は「山東省の首都にして、人口20萬と稱す。獨
逸山東經營に就いては、其の要衝たりしや論なし」。日本が青島占領後、
済南と鉄道沿線に5千人ほどの日本人が入った模様だが、その過半は「支
那人に受けの惡しきこと勿論」とか。

     

◆アリババ集団マー会長退任の背後に

櫻井よしこ


「アリババ集団マー会長退任の背後に金持ち排除を進める習近平主席の影」

中国電子商取引(EC)最大手、アリババ集団のジャック・マー会長が五
四歳の誕生日、9月10日を期し会長職を退くと米「ニューヨーク・タイム
ズ」紙が報じた。

3日後、アリババ集団は、退任は今年ではなく、来年の9月10日だと発表し
た。マー氏が株主に宛てて公開した書簡には「大好きな教育分野に戻りた
い。世界は大きく、私はまだ若く、新しいことに挑戦したい」と書かれて
おり、時期は1年ずれたが、会長退任は間違いなさそうだ。

そこで誰しも思うだろう。マー氏はアリババ集団を一代で時価総額約4000
億ドル(約44兆円)企業に育て上げた。スマホ決済で一気にキャッシュレ
ス社会を出現させ、昨年の決済総額1377兆円の約半分を自社のアリペイが
占めた程の成功もおさめた。その彼が何故、いま、退くのか、と。

中国共産党の下で人々はいかにして富と権力を得るのか、権力の一部とな
ればなったでどれ程の火傷を負い失脚するのかを思えば、マー氏退任の背
景に影を見るのは当然だ。「産経新聞」外信部次長の矢板明夫氏が語る。

「習近平国家主席の基本方針は毛沢東路線への回帰です。その特徴のひと
つが金持ち潰しです。毛沢東は全権力を中国共産党に集中させ、その上に
立つ自身の存在を核心と位置づけました。習氏も同じようにしたい。核心
はひとり、中心軸はひとつ。その一本軸の縦構造に並列して、兆円単位の
資産を動かす民間の大金持ちが生まれると、そこにも求心力が動く。核心
は2つは不要、そこで金持ち排除に走るのです」

習政権下で大富豪が次々に逮捕され、消されるケースが続いている。今年
5月にも中国保険業界の一角を占めていた安邦保険集団の元会長、呉小暉
氏が懲役18年の刑を科され失脚した。

呉氏はトランプ米大統領の娘婿、ジャレッド・クシュナー氏と非常に近い
関係にあった。2016年の米大統領選挙でトランプ氏の勝利が確定した直
後、クシュナー氏が最初に会食した相手が呉氏だった。

呉氏は中国共産党とのコネをばねにのし上がった。若き日に浙江省杭州市
長の娘と結婚し、自動車販売の利権で財を成し、次に元上海市長の息子の
コネを活用して〓小平(とう・しょうへい)一家に接近、妻と離婚して〓
(とう)の孫娘と再婚した。より大きな共産党へのコネを手に、呉氏は保
険業界に進出、短期間に巨万の富を築いてニューヨークの名門ホテル
「ウォルドルフ・アストリア」を買収した。

だが、米政権に深く食い込み影響力を発揮するような存在を、共産党が許
容し続けることはないのである。当局の調査が始まり、保険監督局が安邦
保険集団を公的管理下に置いたのが今年2月、3月には裁判開始、5月10日
には先述の判決が下された。〓(とう)の孫娘の夫といえども冷酷に切り
捨てられた。

大富豪が得意の絶頂で逮捕、投獄され、あるいは自殺に追い込まれる事例
など掃いて捨てる程あるのが中国だ。矢板氏は中国人大富豪の「寿命」は
10年単位で見るのが妥当だと言う。

「中国共産党の権力にくっついて利権を手にする大富豪は権力者が交替し
て新しい権力層が生まれるときが危機なのです。前任者の人脈や利権はこ
とごとく剥奪されるからです。それが種々の逮捕や自殺事件につながります」

どれ程頑張っても中国人の個人的栄華は10年が目途、20年はもたないとい
うのだ。マー氏は通貨の意味を変える程の大変化を巻き起こし、資本主義
経済の新たな波を中国に起こしたかに見える。しかし、共産党支配の論理
の下では、長続きさせてもらえない。

マー氏はビル・ゲイツ氏のように社会貢献に力を注ぎたいと発言した。果
たして習氏がそれを諒とするのか、まだわからない。少なくとも、このま
ま「盛大な成功」を続ければ、己の命運が尽きるとの自覚が退任予告につ
ながったと見てよいだろう。

『週刊ダイヤモンド』2018年9月29日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1248

◆奈良木津川だより 壬申の乱(4)

白井繁夫


「壬申の乱の戦」は672年7月に入ると、近江朝廷の大友皇子軍と、不破の大海人軍の両軍が正面からの全面戦争に突入、近江路において雌雄を決する死闘が始まりました。

近江朝の近江路方面軍は、不破(関ヶ原)への進軍途上、近江の豪族、羽田氏や秦氏を味方の軍に取り込みましたが、関ヶ原と彦根市の中間地域を支配している息長氏(オキナガ)の旗幟が不明のため、息長氏の支配地の手前の犬上川畔まで進み陣を構えました。

7月2日に大友皇子の近江路方面軍の山部王将軍は、心ならずも総司令官的立場に担ぎ挙げられましが、大海人皇子に帰参を願っていることが発覚して、将蘇我臣果安.将巨勢臣比等に殺害されました。

この事件は近江朝軍にとって、大きな動揺と内部混乱の起因となりました。

近江朝軍の指揮官の人材不足?による軍の乱れ、(蘇我果安将軍は大津へ帰り、自責の念に駆られてか?自殺する。近江の豪族羽田矢国と子の大人(フシ)一族が息長氏の支配地を通り大海人軍に帰参)の結果、中立的立場だった息長氏を始めとする近江の豪族は、大海人側に加担するようになるのです。

(息長氏が中立を保ち旗幟を鮮明にしなかったので、大海人皇子は彼の本拠地近くの不破に野上行宮を置いていたのです。)

7月5日大津を出発した田辺小隅(オスミ)の少数精鋭の別動隊が、倉歴道から鈴鹿道を抜けて裏面から不破の挟撃を目指し、大海人軍の田中足麻呂が守る倉歴(くらふ:柘植町)を夜襲し守備隊を破りました。

翌日の深夜、莿萩野(たらの:旧上野市)の多品治将軍が守る陣に夜襲をかけますが、今度は田辺小隅軍が敗れて敗走しました。(この勇猛な作戦は非常に良い策でしたが、少数兵では大海人軍に勝てず敗れ去ったのです。)

大海人軍には琵琶湖の東岸の羽田氏、息長氏、北岸の坂田氏などの豪族が加わり、大海人皇子は羽田矢国を、北近江.越方面別動軍の将軍に起用して、北陸方面の要衝(愛発:あらち:高島市.旧マキノ町)の守りに就かせました。(かつて、大友軍の精鋭が夜襲をかけた「玉倉部邑:たまくらべむら」を防げたのも、息長氏の地盤近くで起きたから大海人軍の出雲狛が援助を受けて?防戦できた。とも云われています。)

大海人軍の村国男依が率いる近江路進攻軍(本隊)は7日に出撃し、大友軍の主力部隊と
息長の横河(米原市醒井付近)で主力軍同士が激突し、朝廷軍が敗れ去り、将軍境部連薬は捕えられ斬殺されました。

大海人軍は追撃して、9日に鳥籠山(とこやま:彦根市大堀町)の将軍秦友足率いる大友軍も破ります。(鳥籠山は息長氏と羽田氏の本拠地の中間、両戦闘で大海人軍は琵琶湖の東岸「東山道」を完全に制圧できました。)

大海人軍は更に南下して進軍し、13日には近江最大の川「安河畔」(守山市:野洲川畔)
に達して、2度目の主力戦を大友軍の将軍社戸臣大口(コソベノオミオオグチ)と戦い、撃破して彼を捕虜にしました。

17日には栗太(くるもと:栗東市)の大友軍の陣営も破り、瀬田川の東岸にある官衙まで、あと少しの処まで迫りました。

ここからは近江朝廷本営の主力軍との真剣勝負になるため、進軍を停止して、大海人軍は斥候を出し、大友皇子の正規軍の陣容.伏兵の有無などの状況と朝廷軍の情報収集を開始し主力戦に備へました。

その上で、672年7月22日は、村国男依将軍が率いる大海人軍の各諸将が、大友軍の総力を挙げた起死回生の決戦に挑むのです。

◆大海人軍の斥候の報告:
『大友軍は瀬田橋の西側に整然と布陣しているが伏兵は見受けられない。しかし、驚くことがある。それは大友皇子御本人が御出座されており、左大臣蘇我臣赤兄(ソガオミアカエ)、右大臣中臣連金(ナカトミノムラジカネ)の左右大臣も布陣する、朝廷の最高位の人々が前線に出るなど』と、想定外の出来事でした。

(後世でも家康との最後の決戦となる大坂夏の陣で、外堀も内堀も埋められ、まる裸となった大阪城での戦いを鼓舞するため、真田幸村ら諸将が豊臣秀頼の御出陣を依頼したが叶わなかったことは、ご承知ですね。)

朝廷軍は大津宮防衛のため、瀬田橋を大海人軍には絶対に渡らせない強い決意でした。

むしろ大海人軍の各諸将は前回記述した如く、近江朝の高官とも面識がなく、まして大友皇子の御出座も意に介せず、特大の獲物を狙う獣狼の様な地方の豪族達でした。

大海人軍の各部隊の兵は競って橋を突破しようとしますが、橋を目がけて雨霰の如く矢が降り注ぐ集中攻撃を受け、前進を阻まれました。それをも突破して半ばまで進むと、次は仕掛けが有り、兵は川に落ち流され溺れ死させられました。

(大友軍の将「智尊:チソン:渡来人の知恵者」が橋の中程に長板を置き、綱を引くと板が外れる仕掛けをしていたのです。)

この時大海人軍の兵士に動揺が起きました。前進する士気が薄れそうになったとき、大津皇子の舎人:大分君稚臣(オオキダノキミワカミ)は矢が射込まれても耐えられるように挂甲を重ね着して、踊り出、雄叫びをあげながら抜刀して橋上を疾駆すると、無数の矢が突き刺さりました。が、彼は怯まず橋を駆け抜けました。

西側に整列して矢を射ていた大友軍の兵は、眼前に獣の様な形相の稚臣を見て恐怖に駆られ逃げる余裕もなく斬られて逝きました。男依はこの機を捉へ、全軍に総攻撃を命じ、橋の西側へ攻め込みました。

智尊は必死で奮戦しますが、捕らえられ、男依に知略と武勇は称えながらも、定めにより斬殺されました。(大友皇子の本陣が静かに退くのが、遠望された、と云われています。)

同日、琵琶湖北岸の大海人軍の別動隊(羽田矢国.大人父子と出雲狛)は、西岸道を守る三尾城(みおき:滋賀県高島町)を攻撃して、落城させました。また、大和飛鳥から上ツ道、中ツ道、下ツ道の三道を北上した紀臣の大海人軍は、淀川の山前(京都府大山崎町)に到着して布陣を完了しました。

翌日(23日)瀬田の戦で大勝利した村国男依の大海人軍は、橋を渡り粟津岡(大津市膳所)に全軍集結しました。

一方、敗走した大友軍は左右大臣等の姿はなく、大友皇子はわずかの供を従えるだけとなり、全ての退路は大海人軍に断たれてしまったのです。

大友皇子は最後まで付き添った舎人(物部連麻呂)を大海人軍に遣わしました。村国男依将軍は大友皇子の名誉ある死のため、全軍に攻撃を一時中止させました。

物部麻呂が大海人軍の前に再び現れ、皇子の最後の様子を涙ながら報告し、皇子の首を差し出しましたが、流石に誰も正視する者がいなかったと云われています。

壬申の乱後、大海人皇子の裁きです。重罪は8名で、特に大友皇子の帷幕(いばく)として作戦を立案し、実権を握っていた中臣金は極刑、大友皇子擁立の盟約を結んだ者も処罰して政権から排除しました。その他の人々は寛刑で済ませました。

大海人皇子は、天武2年(673)正月、飛鳥淨御原宮で即位し、天武天皇となり、大臣を置かず皇族や皇親を中心とする皇親政治を採り、律令体制の国家を目指しました。

天武天皇は現体制の有能な官僚を温存して活用し、新国家建設を計り、新しい藤原京の建設を立案するのです。

大規模な造営計画の藤原京の京域は約25平方キロ(平城京:約24平方キロ)あり唐風の都城:礎石建築で瓦を葺いた建物、史上初の条坊制を布いた本格的な都城:を目指すのです。(造営プランは天武13年3月に決定されました。)

この皇位継承をめぐる大戦は、天武天皇妃の鸕野皇女(後の持統天皇)にとっては、我が子草壁皇子へつなぐ天武系統体制を確立する戦いであり、大友皇子擁立の盟約者を完全に排除出来ればそれでよかったのです。

大和.飛鳥の玄関港:泉津(木津の港)へは藤原京造営用の大量の檜材が、近江の田上山(たなかみやま:大津市大神山の峰々)から瀬田川→宇治川→「木津川」へと筏に組んで運ばれ、石材や瓦などの重量物も瀬戸内→淀川→「木津川」と水運を利用して運ばれました。

「木津から大和.飛鳥へ上ツ道、中ツ道、下ツ道の3道を利用するルート」があり、泉津は藤原京から平城京へと繁栄が続いて行くのです。(完)

参考資料:壬申の乱    中央公論社      遠山美都男著
     戦争の日本史2  壬申の乱  吉川弘文館  倉本一宏著
     木津町史    本文篇      木津町 
at 05:00 | Comment(0) | 白井繁夫