2018年09月25日

◆トランプ 中国に第3次制裁関税発動

宮崎 正弘


平成30年(2018年)9月19日(水曜日)通巻第5835「号   

トランプ、中国に第3次制裁関税発動。なのに株価は上昇した
  EU企業の5・4%が中国から撤退、若しくは撤退中

9月18日、トランプ政権は「2000億ドル分の中国からの輸入品に対して
10%の制裁関税をかける。24日から実施する」とした。7月の160億ド
ル、8月の340億ドル。そして9月の2000億ドル、合計2500億ドルの中国か
らの輸入品に高関税を課すことになる。

さぞや市場はおののくかと思いきや、不思議なことに株価は上昇に転じ
た。主な理由は予想されて25%ではなく、10%という税率だったからだ。

中国はただちに報復にでた。米国からの輸入品600億ドル分に関税をかけ
る、と。

しかし税率は明らかにされず、これから品目の選定がなされるようである。

「中国の経済政策のトップは完全に混沌状態」(NYタイムズ、9月18日)
だれが何をどう決めて良いのか、経済政策の実権を国務院から取り上げ
て、習近平の側近等に任せた結果が、これである。

在中国のアメリカ企業は「ここで生産して米国へ輸出している関係上、深
刻な悪影響が出るし、高関税を理由に米国へ工場を復帰するという考えは
ない」とアンケートに答えた企業が過半だという。

他方、在中EU商工会議所は「米中関税戦争に巻き込まれて、相当の影響
がでている。世界的なサプライチェーンが機能しなくなる」と事実を認め
つつ、「すでに5・4%の中国で生産、販売してきたEU企業が、中国か
ら撤退したか、撤退を準備中である」とした(サウスチャイナ・モーニン
グポスト、9月19日)。
     
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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1791回】                    
 ――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(16)
徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正7年)

               △

とはいえ「場所によりては隨分支那流の無頓着、不親切、抛擲主義を見た
ることなきにあらず」。さはされど、「多少にても、改善の兆の認む可き
もの」がある。

かくして「予は支那の變化を見るにつけても、日本の進歩の、甚だ緩慢な
るを慚悔せざるを得ず」。

 ■「(六)日本?師の退去と日本語の驅逐」

じつは徳富は前回の旅行の際、北京のみならず地方都市でも教鞭を執って
いた「若干の日本人?師」の案内によって「有?にして、興味饒き觀察を
遂げ得たりしことを記憶せり」。だが今回は違った。
官吏、会社員、「支那の税關、若しくは鹽務所に奉職」する者はいるが、
「日本人の?師は、絶無にあらざるも殆ど之を見出すに苦まり」。
旅先で日本人教師を見掛けないということは、「支那人が日本人教師を
必要とせざるに到りた」からであり、それを「支那人の一の進歩と、見做
す」こともできる。

だが、もし「日本人教師の退去と同時に、日本語は、殆んど支那の?育
界より放逐せられつゝあ」るならば、やはり由々しき問題だ。日本人教師
の退去と日本語教育の退潮の間には必ずしも関係はなさそうだが、「事實
は事實也」。

一般に「支那に於ては、英語、若しくは獨逸語は、必要語として、場所に
よりては、殆んど強制的に?授せられつゝあるに拘らず。日本語に至りて
は、殆んど之を眼中に措かざるものに似たり。而して英米人、獨逸人等
は、自から率先して、支那人の?育事業に努力しつゝあるに拘らず、我が
官民を擧げて、唯滿鐵の滿洲に於ける施設を除けば、何人も關心せざるも
のゝ如し」。将来を考えるなら憂慮せざるをえない。どうやら日本では官
民ともに外国における日本語教育の持つ戦略性に昔も今も――ということは
将来に亘っても――余り関心がないようだ。

 ■「(七)同文書院の効果」

徳富が2回目の旅行をした大正6年は「如何なるめ運り合せの歳にや、日本
より支那へ巡禮したる者、近來未曾有とも云ふ可き數に上」たらしい。

多くの「支那漫遊客の最も愉快の一は」、「支那にある日本人中に、支那
語を解する者多きが如く、支那人中に、日本語を解する者少からざれば也」。

主な役所、主な官吏はもとより、徳富が面談を希望するような人物なら
誰でも、必ず身辺に「一名乃至數名の、日本語に堪能なる支那人なきはな
し」。僻遠の地にあっても、片言の日本語を話せる留学生上がりの官吏が
いる。

「日本人にしても、支那語に通ずる人士」は少なくない。その柱は荒尾精
が上海に創立した東亜同文書院卒業生であり、「同文書院が、如何に多大
の貢献をなし、且つ爲しつゝあるかを、特筆せざらん」。
であればこそ同文書院の拡大すべきだ。

「凡そ教育の上に於て、此の如き的面の効果を収め得るものは、他に比
類罕なる可し」と、ベタ誉めである。

 ■「(八)日本語の閑却乎日本の閑却乎」

これまで「支那の朝野を擧げて」「日本語を解する者多きは」、両国朝野
の長年の努力の結果だ。

だが、「日本?師の退去と日本語の驅逐」という「現時の趨勢にて推し行
かば、今より十年ならずして、支那人中に、日本語を解する者は、或は今
日の半數に減ずるやも、未だ知る可らず」。

それというのも「今や支那を擧げて留學をすれば、米國に赴き、外國語を
學べば、英語を學ぶの情態なれば也」。このまま手を拱いているならば
「支那に於ける日本語は、或は地を拂ふに到らんやも」知れない。
どうやら「支那人が、日本語を閑却しつゝあるは、日本語を閑却したりと
云はんよりも、寧ろ日本を閑却したるにあらざるなき乎」。
     

◆いもち病(稲熱病)の怖さ

渡部 亮次郎


「蓑(みの)着て笠(かさ)着て鍬(くわ)持って お百姓さんご苦労さ
ん」という童謡がNHK第1放送から流れていた時代がある。明治でも大正で
もない、昭和も敗戦直後、1947、8年ごろだった。食糧難の時代、国民みん
なして百姓にゴマをすったのである。

蓑や笠を着る百姓は今やどこにも存在しない。すべて機械化して田圃から
は女性が姿を消した。田植えも稲刈りも機械がやるし、除草は農薬が解決
してくれた。結果、農村からは猫背、蟹股、腰曲がりが居なくなって久しい。

しかし、その代わり、田圃から女性と共に居なくなったのが泥鰌(どじょ
う)とトンボである。稲作の大敵「いもち病」を防除すべく禁じ手「水銀
系農薬」を使ったからである。「いもち」はそれほど恐ろしい。今でも恐
ろしい。

「いもち」とはイネに対する最も普通の病気で,穂,葉,茎などに発生し
て大害を与える。とくに山間,北部地域では,いもち病との闘いが稲作の
大きな課題であった。この事情を反映して,日本植物病理学の分野では最
も多く,また深く研究されてきた病害である。

穂に発生すると発病部位から先の方は実らないので、「穂首いもち」は被
害が深刻である。「葉いもち」、穂いもちとも同じ菌によって起こるが、
発生の様相としては、比較的葉いもちが多くて穂いもちの少ない南日本型
と、逆に葉いもちよりも穂いもちの多い北日本型がある。

若いイネに激発すると株全体が萎縮して枯れてしまう。この病状を「ずり
込みいもち」という。防除に失敗すれば収穫ゼロ。

防除薬剤としては,戦前はボルドー液万能であったが,戦後一時期有機水
銀剤が脚光を浴び目覚ましい効果を挙げた。これが禁じ手と気付いて止め
たものの遅かりし。泥鰌は死滅した。

現在では抗生物質剤(ブラストサイジンS、カスガマイシンなど)や有機リ
ン粒剤などが使われている。

いもちは一般に,日照不足,多雨,低温のときに病気が多く,またイネの
体内に遊離の窒素成分が多く,ケイ酸が少ないときに発生が多い。

いもち病の発生程度は年次によっても異なり,ほぼ10年周期で大発生が記
録されている。昭和年代に入ってからは,1934(昭和9)年の稲作冷害が
有名で,東北地方では娘の身売など深刻な社会問題が発生した。

陸軍のクーデター「2・26事件(1936年)」の背景であるが、この不作には純
冷害のほかにいもち病による被害が大きかった。

戦後では,53(昭和28)年,63(38)年,74(49)年に大発生をみている。

的確な防除を行うには発生を予察することが肝要である。以前から気象条
件,イネの体質,胞子の飛散などを知って穂いもち病の発生を予測してい
たが,近年コンピューター導入で,大量のデータからの予察も試みられて
いる。

日本ではじめてこの病気が記録されたのは,1679年(延宝7)の《永禄以来当
院記録年鑑》(広積院祐栄書)とされるが,その後の《耕稼春秋》(1707ごろ)
の記載が人口に膾炙(かいしや)している。

イネ品種によってかなり抵抗性に違いがみられる。外国イネには強度の抵
抗性のものがあるが,日本在来の品種は概してかかりやすい。

従って日本にいける稲の品種改良は、収穫量、食味の追及とともにいもち
など稲の病害虫に対する抵抗力の研究に重点が置かれてきた。

最近は外国イネの強い抵抗性因子を導入した品種も育成されている。しか
しせっかく抵抗性品種ができても突然ひどく罹病してしまうことがある。
これはレース新生のためであることが多い。

レースrace とは形態が同じでありながら病原性の異なる菌で,日本には
今16以上のイネいもち病菌レースが知られている。

ここ数年 Pyricularia属菌の菌学的な研究が進み,イネいもち病菌とシコ
クビエいもち病菌の交配によって有性胞子が形成され,またイネいもち病
菌がタケに寄生性のあることが知られるなどして,菌の所属について検討
される時機にある。資料 世界大百科事典(C)株式会社日立システムアン
ドサービス 2008・07・07


◆アリババ集団マー会長退任の背後に

櫻井よしこ


「アリババ集団マー会長退任の背後に金持ち排除を進める習近平主席の影」

中国電子商取引(EC)最大手、アリババ集団のジャック・マー会長が五
四歳の誕生日、9月10日を期し会長職を退くと米「ニューヨーク・タイム
ズ」紙が報じた。

3日後、アリババ集団は、退任は今年ではなく、来年の9月10日だと発表し
た。マー氏が株主に宛てて公開した書簡には「大好きな教育分野に戻りた
い。世界は大きく、私はまだ若く、新しいことに挑戦したい」と書かれて
おり、時期は1年ずれたが、会長退任は間違いなさそうだ。

そこで誰しも思うだろう。マー氏はアリババ集団を一代で時価総額約4000
億ドル(約44兆円)企業に育て上げた。スマホ決済で一気にキャッシュレ
ス社会を出現させ、昨年の決済総額1377兆円の約半分を自社のアリペイが
占めた程の成功もおさめた。その彼が何故、いま、退くのか、と。

中国共産党の下で人々はいかにして富と権力を得るのか、権力の一部とな
ればなったでどれ程の火傷を負い失脚するのかを思えば、マー氏退任の背
景に影を見るのは当然だ。「産経新聞」外信部次長の矢板明夫氏が語る。

「習近平国家主席の基本方針は毛沢東路線への回帰です。その特徴のひと
つが金持ち潰しです。毛沢東は全権力を中国共産党に集中させ、その上に
立つ自身の存在を核心と位置づけました。習氏も同じようにしたい。核心
はひとり、中心軸はひとつ。その一本軸の縦構造に並列して、兆円単位の
資産を動かす民間の大金持ちが生まれると、そこにも求心力が動く。核心
は2つは不要、そこで金持ち排除に走るのです」

習政権下で大富豪が次々に逮捕され、消されるケースが続いている。今年
5月にも中国保険業界の一角を占めていた安邦保険集団の元会長、呉小暉
氏が懲役18年の刑を科され失脚した。

呉氏はトランプ米大統領の娘婿、ジャレッド・クシュナー氏と非常に近い
関係にあった。2016年の米大統領選挙でトランプ氏の勝利が確定した直
後、クシュナー氏が最初に会食した相手が呉氏だった。

呉氏は中国共産党とのコネをばねにのし上がった。若き日に浙江省杭州市
長の娘と結婚し、自動車販売の利権で財を成し、次に元上海市長の息子の
コネを活用して〓小平(とう・しょうへい)一家に接近、妻と離婚して〓
(とう)の孫娘と再婚した。より大きな共産党へのコネを手に、呉氏は保
険業界に進出、短期間に巨万の富を築いてニューヨークの名門ホテル
「ウォルドルフ・アストリア」を買収した。

だが、米政権に深く食い込み影響力を発揮するような存在を、共産党が許
容し続けることはないのである。当局の調査が始まり、保険監督局が安邦
保険集団を公的管理下に置いたのが今年2月、3月には裁判開始、5月10日
には先述の判決が下された。〓(とう)の孫娘の夫といえども冷酷に切り
捨てられた。

大富豪が得意の絶頂で逮捕、投獄され、あるいは自殺に追い込まれる事例
など掃いて捨てる程あるのが中国だ。矢板氏は中国人大富豪の「寿命」は
10年単位で見るのが妥当だと言う。

「中国共産党の権力にくっついて利権を手にする大富豪は権力者が交替し
て新しい権力層が生まれるときが危機なのです。前任者の人脈や利権はこ
とごとく剥奪されるからです。それが種々の逮捕や自殺事件につながります」

どれ程頑張っても中国人の個人的栄華は10年が目途、20年はもたないとい
うのだ。マー氏は通貨の意味を変える程の大変化を巻き起こし、資本主義
経済の新たな波を中国に起こしたかに見える。しかし、共産党支配の論理
の下では、長続きさせてもらえない。

マー氏はビル・ゲイツ氏のように社会貢献に力を注ぎたいと発言した。果
たして習氏がそれを諒とするのか、まだわからない。少なくとも、このま
ま「盛大な成功」を続ければ、己の命運が尽きるとの自覚が退任予告につ
ながったと見てよいだろう。

『週刊ダイヤモンド』2018年9月29日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1248

◆国民投票をクリアする唯一の9条改正

安保政策研究会理事長 浅野勝人


戦い終えて日は暮れて、憲法改正をめぐる齟齬(そご)だけが残りました。
なんとも収穫の乏しい戦でした。
安倍3選首相としては、9条を改正する発議をしないわけにはまいらないでしょう。国会は数の力でパスしても、国民投票で敗れたら退陣するのが憲政の常道です。

現行9条、1項、2項を手づかずにして、新たに3項を設けて自衛隊を加憲する「安倍案」は、無難だが安逸に過ぎます。

☆自衛隊が違憲だと思っている人は、1割もいません。従って、自衛隊の存在を憲法に明記することに反対する世論は10%以下と推定されます。公明党の加憲方式を尊重して3項を追加する手法は、確かに妙案のひとつです。1項、2項を残して平和主義を貫き、その上で自衛隊の存在を明記するのですから、国民投票で圧倒的に支持されるはずです。ところが、なんとも予測困難で、際どい結果になりそうだというのが私の見立てです。

☆2項に「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とあります。
これをそのままにして、3項で「自衛隊を明記」したら、自衛隊は戦力ではないという自己撞着を憲法で表明することになります。自衛隊は、核武装、他国を攻撃する足の長い兵器を所有していないだけで、アメリカ、ロシア、中国に伍して世界有数の戦力を保有している軍隊です。どのような詭弁を弄しても「陸海空軍は保持しない」と矛盾します。後項優位の原則を振りかざしても、整合性の説明はつきません。あなた、孫に何と言って取り繕いますか。お爺ちゃんの信用を失うだけです。

こんな幼稚な事柄を先刻承知の上で「3項、自衛隊、加憲」を提議したと国民は容易に判断します。悪くすると愚弄していると受け取られかねません。小学生でもわかる矛盾に目を瞑(つむ)って自衛隊の必要性を優先してくれるかどうか。これが過半数の支持に疑問を抱く私の素朴な疑念です。


『 浅野試案 』は、改正を機に、理屈をこねないで、あっさりと簡単明瞭に、この根幹的矛盾の解消を試みています。
第2章 戦争の放棄
1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2項 前項の目的を達するため、国の交戦権はこれを認めない。
但し、わが国の存立を危うくする明白な事態に対処するため、必要最小限度の戦力は保持する。

☆1項は現状のまま残して、平和主義の根幹を堅持する。
1項の担保として、ことさら2項の「国の交戦権は認めない」を残す。その上で、「国を防衛するための戦力は保持する」と述べて、自衛隊の存在、維持、継続を明記する。
☆「戦力不所持」を削除して、実存する自衛隊との整合性をはかる。
☆必要最小限度の戦力とは、存亡危急に面したわが国の領域を守るに足る戦力を指し、他国を攻撃する目的の戦力は含まない。
これは集団的自衛権を一部認めた安保法制と矛盾しない。

素直に、国情および現下の国際情勢に合致する、わかり易い表現と組み立てが望ましいと考えた試案です。

― 幼児のいがみ合い
「なにが善戦だ」「党員の45%が私に投票したことをどう考えるかだ」 これは麻生太郎財務相と石破茂候補のいがみ合いです。
勝負が決まっている八百長相撲を見る気がしないのと同じで、まるで興味の湧かない総裁選挙でした。相も変らぬ派閥の合従連合による談合試合だからです。

6つある派閥のうち、頭数の多い順に1位から5位まで組めば勝つに決まっています。自民党国会議員(有権者)402人のうち安倍晋三を支持する出陣式に出席した332人にカツカレーをふるまったところ、得票数は329票だったから、3人食い逃げしたヤツがいる勘定になります。3人漏れたとみるか、3人しか漏れなかったとみるか、派閥の締め付けは中選挙区時代より、むしろ厳しくなっているように私には映ります。そうだとしたら小選挙区制のせいでしょう。あとは地方票がどんな配分に割れるか、わずかに興味を残すだけでした。

こんな政治環境の中ですから、総数807票のうち250票取ったら石破の目標達成。200票に届かなかったら石破の政治生命は危ういと見ていました。下限の200票は、国会議員の票は50そこそこ、安倍批判の多い地方票が150前後と踏んだ最低ラインです。
結果は、国会議員票73(18%)、地方票181(45%)= 254票(31%)


石破は「ひとり旅の合格点に達した。よくやった」と慰労できますが、個人的評価はポスト安倍に待つしかありません。緊急な課題は地方票の結果を自民党がどのように受け止めるかが肝要です。

はっきり言えることは、自民党員でさえ真っ二つに割れている政治意識を引きずったまま、来年の参議院選挙を迎える現実を直視して、なににどう対応するが真剣に分析、対処する必要を感じます。

それでも、戦後政治史の中で野党不在の稀有な政治情勢が続く限り、安倍自民党は勝利します。しかし、32ある1人区で野党が1本にまとまって統一候補を立てたら、情況は一変します。野党勢力が「オリーブの木」に結集して勝利した例がイタリアにあります。

政府・自民党は今回の総裁選挙の教訓を生かす努力を 即刻 始めることが肝要です。いがみ合っている暇などありません。(元内閣官房副長官)



at 06:58 | Comment(0) | 浅野勝人

◆奈良木津川だより 壬申の乱(3)

              白井繁夫

壬申の乱の戦はこれまで河内.飛鳥方面の戦況を先行し、近江路方面は後述に分けました。

672年7月3日大海人軍の大伴吹負(フケイ)将軍は、「木津川」を越え攻め寄せて来る大友軍に対する布陣を、乃楽山(奈良山)に完了し、麾下の荒田尾赤間呂の奇策を倭古京(飛鳥の古い都)に採りました。大野果安(ハタヤス)将軍が率いる近江朝軍に備える作戦でした。

その翌日、果安軍の大軍が来襲し、簡単に布陣を突破され、怒涛の勢いで天香具山(天香久山:奈良県橿原市)の八口まで攻め込まれましたが、そこで吹負軍の奇策(大軍の存在を示す大量の楯等)を試みて戸惑わせました。そして目前までやすやすと占領で来た飛鳥京に、果安軍の全軍を一時後退させました。
「高市県主 許梅(コメ)の託宣(生霊神の言):果安長蛇を逸す。と」

大海人軍の吹負は命拾いしたのですが、逃げる途中に置始連兎(オキソメノムラジウサギ)の騎兵隊(先遣隊)と墨坂(宇陀市榛原)で合流して力を付け、金綱井(かなづなのい:橿原市今井町)に逆襲したのです。


一方、近江朝の壱岐韓国(カラクニ)将軍が率いる河内方面軍も河内衛我河で坂本財を破りますが、その時、国司来目塩籠の背反問題が発生して進軍できません。再度軍勢を立て直して飛鳥を目指しましたが、当麻の衢(ちまた)、葦池付近(奈良県葛城市当麻町)で、大伴吹負麾下の勇士来目(タケキヒトクメ)と置始騎兵隊の凄まじい突撃を受けたのです。

ところが、近江朝の大軍団の中の歩兵連隊の横腹を目指して、精鋭の騎馬隊が決死の覚悟で猛然と突撃した戦いで、さしもの韓国大軍も乱れ、兵は逃惑い、韓国軍の指揮命令系統が機能せず、総司令官(韓国)が、矢を受けて、必死で逃亡して行きました。

この7日の戦いで大海人軍は西方(大坂.河内方面)の脅威を無くしたのです。

当麻の戦いも4日の総攻撃日と同様、大友軍は河内方面軍と近江の倭古京方面軍の連携が機能していなかったと思われます。その間に大海人軍の大倭方面派遣軍の本隊(紀臣阿閉麻呂:キノオミアヘマロ:率いる数万の兵)が大伴吹負軍に参陣しました。

倭古京(飛鳥京)と乃楽(奈良)を結ぶ3本の南北道は東から上ツ道、中ツ道、下ツ道と称され東の上、中ツ道は木津へ奈良街道となって繋がり「木津川」の右岸を通り菟道(宇治)へ、西の下ツ道は木津の歌姫街道へと、「木津川左岸」を通って山陰道などに繋がります。

近江朝の将軍大野果安率いる倭古京方面軍は、大和の北(木津)を経て乃楽から上記3本(上.中.下ツ道)の道に部隊を分けて飛鳥を目指して攻めたのです。
これに対して、紀阿閉麻呂率いる大海人軍の本隊は、7月7日から8日にかけて続々と集まりだしたのです。同本隊の大伴吹負は、この大軍を3道に合わせて上中下陣に分けました。つまり、麾下の三輪高市麻呂は彼の地盤である上ツ道、吹負は中ツ道(自身の百済の家:橿原市百済)、援軍の精鋭部隊(主力部隊)は上ツ道に配置したのです。

ところが、戦闘は上ツ道と中ツ道ほぼ同時に起き、中ツ道の近江の将軍(犬養五十君イキミ)の別動隊(廬井鯨イホイノクジラが率いる精鋭部隊)が少数で守る吹負の陣営を襲い、またまた吹負は苦戦を強いられて仕舞い、必死に防戦しました。

上ツ道沿いの箸陵(はしはか:桜井市)での戦闘は三輪高市麻呂(大倭の豪族)と大海人軍本隊の精鋭部隊(置始兎)が共同で近江朝軍を迎撃、撃退し、更に追跡して、中ツ道の近江軍本隊を攻撃し、廬井鯨の背後を衝いたのです。

これで大友軍の大和の戦闘は、完全に敗北となったのです。

大海人軍の将軍吹負は何度も近江軍と戦い負けても、再度挑み続ける闘志でした。一方、近江軍の兵士の方は、庚午年籍に基づく徴兵であり、将軍も大海人皇子に内応する者も出てきていたため、大事なところで勝機を逃していたのです。

この結果が、飛鳥路方面の戦闘も、大海人軍の勝利に結び付いたことになります。

そこで、大海人軍の将軍大伴吹負は即刻難波へ赴き、西国の国宰から正倉.兵倉の鑰(かぎ)を献上させました。また大海人軍の大倭救援軍本隊は北の乃楽山から木津を経て山前(やまさき:桂川、宇治川、木津川との合流地南:八幡市男山近辺)へ進軍して行きました。これが歴史上の山場と見るべきでしょう。

ここで、大和.飛鳥路方面から近江路方面の戦闘へ話題を戻します。

672年6月に近江朝は、東国へ徴兵督促のため派遣した国宰(くにのみこともち)書薬(フミノクスリ)などが、26日に大海人軍に「不破道(関ヶ原)」で囚われの身になった。との報告に接し即刻臨戦態勢を取り、27日に大津宮より近江路方面軍を発進させました。

近江朝軍の陣営は王族(山部王)、大夫氏族(高級官僚:蘇我果安ハタヤス、巨勢比等コセノヒト)、などの将軍(指揮官)と中小中央豪族、近江地方の豪族、羽田矢国(ヤクニ)将軍を含めて、数万の兵(近江朝正規軍+近江の兵など)からなる大軍団でした。

大友皇子は不破道の大海人軍を、この際一気に粉砕できると、信じて出発させたと思われます。

(話題が前後しますが、この時点で、近江朝には飛鳥の状況も、大海人皇子が野上行宮に入った情報も、更に、尾張の国司小子部鉏鈎:チイサコベノサヒチ:が2万の兵を率い大海人軍に帰服した27日の重大な情報なども、近江朝には全く届いていなかったのです。決定的な手抜かりでした。)

この結果、大友皇子には、6月29日になって、ようやく大伴吹負が倭古京で蜂起し、飛鳥の大友軍営を占領した戦況が伝わったのです。これを機に大友皇子と大海人皇子の両陣営が本格的戦闘態勢を採ることになるのです。

7月2日に大海人皇子は「和蹔:わざみ」(不破郡関ケ原町)の全軍に進撃命令を出しました。紀阿閉麻呂率いる大倭救援軍は前回記述した如く置始兎の騎兵隊を先遣し、飛鳥まで伸びる戦線の腹部防護のため多品治を「莿萩野:たらの」(伊賀市)に、田中足麻呂を「倉歴道:くらふのみち」(甲賀市)に配備しました。

大海人軍の近江路方面進攻軍は総司令官村国男依(オヨリ)将軍、書根麻呂(フミネノマロ)将軍.和珥部君手(ワニベノキミテ).胆香瓦安部(イカゴノアヘ)ら地方豪族で整え、この方面軍も数万の兵士に赤布や旗を備えた赤色軍にしています。

近江路軍の最大特徴は総司令官を除き、指揮を執る各将軍は大友皇子を始めとして近江朝廷の高官とは面識ないのが地方の各豪族です。ただこの地方の土地勘や地縁.血縁を持っているだけです。ですから、戦闘に突入した時、各指揮官が個々に部隊を指揮、命令しました。謂わば総司令官の指揮ではなかったのです。

余談ながら、後世の江戸幕府軍が「錦の御旗」に恐れをなしたのも、大海人皇子と同じ様な巧みな戦略.指揮.監督をしたと思われます。

さて、大海人軍の飛鳥救援軍は即刻先遣部隊を急派し、同時に鈴鹿道.伊賀路の防衛を固めて出発しました。そして近江路進攻軍は大和.飛鳥方面のその後の戦闘情勢と大津京への進軍途上で戦闘に際し非常に重要である各地の豪族:息長氏(オキナガシ:米原市)を始めとし、坂田氏、秦氏、羽田氏などの状況を把握して行ったのです。

これに対して、近江朝廷軍は東国の徴兵と西国(中国.九州)の徴兵が時間的に間に合わないため、朝廷の常備軍と畿内で徴集した兵をもって、飛鳥と不破に兵力を分散さす状況となりました。飛鳥京と大海人本営の攻撃と両方面とも、近江朝は重要と判断したのでしょう。

しかし、近江朝廷の大友皇子は当初は大海人皇子に必勝すると信じて、思い戦闘に入りましたが、「白村江の戦」が尾を引いて軍備が遅れ:武器や兵力不足の悪状況も伴ったのです。

ですから不破への進撃途上に通過する地域の豪族兵を味方に(羽田氏など)加えながら、息長氏(オキナガ)などの近江の豪族をどれだけ味方に出来るかが勝敗を大きく左右すると思うようになっていたでしょう。

一方、大海人皇子は前述の如く、大和飛鳥路戦へは戦術に長ける中央の豪族を指揮官にして近江朝に不満を持つ豪族(国宰や古い渡来人)、東国へ脱出途上大海人軍に加わった兵(美濃.尾張の2万、大倭や伊賀の軍勢)を得て、半年間、吉野で推考した作戦以上の好精華で状況は進展していました。「戦には天が味方してくれている」と思ったに違いありません。

近江路における両軍正規軍の勝敗を決する戦闘と、その顛末は、次回につづけます。

参考資料: 壬申の乱   中央公論社    遠山美都男著
      戦争の日本史2 壬申の乱  吉川弘文館  倉本一宏著


2018年09月24日

◆トランプ 中国に第3次制裁関税発動

宮崎 正弘


平成30年(2018年)9月19日(水曜日)通巻第5835「号   

トランプ、中国に第3次制裁関税発動。なのに株価は上昇した
  EU企業の5・4%が中国から撤退、若しくは撤退中

9月18日、トランプ政権は「2000億ドル分の中国からの輸入品に対して
10%の制裁関税をかける。24日から実施する」とした。7月の160億ド
ル、8月の340億ドル。そして9月の2000億ドル、合計2500億ドルの中国か
らの輸入品に高関税を課すことになる。

さぞや市場はおののくかと思いきや、不思議なことに株価は上昇に転じ
た。主な理由は予想されて25%ではなく、10%という税率だったからだ。

中国はただちに報復にでた。米国からの輸入品600億ドル分に関税をかけ
る、と。

しかし税率は明らかにされず、これから品目の選定がなされるようである。

「中国の経済政策のトップは完全に混沌状態」(NYタイムズ、9月18日)
だれが何をどう決めて良いのか、経済政策の実権を国務院から取り上げ
て、習近平の側近等に任せた結果が、これである。

在中国のアメリカ企業は「ここで生産して米国へ輸出している関係上、深
刻な悪影響が出るし、高関税を理由に米国へ工場を復帰するという考えは
ない」とアンケートに答えた企業が過半だという。

他方、在中EU商工会議所は「米中関税戦争に巻き込まれて、相当の影響
がでている。世界的なサプライチェーンが機能しなくなる」と事実を認め
つつ、「すでに5・4%の中国で生産、販売してきたEU企業が、中国か
ら撤退したか、撤退を準備中である」とした(サウスチャイナ・モーニン
グポスト、9月19日)。
     
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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1791回】                    
 ――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(16)
徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正7年)

               △
とはいえ「場所によりては隨分支那流の無頓着、不親切、抛擲主義を見た
ることなきにあらず」。さはされど、「多少にても、改善の兆の認む可き
もの」がある。

かくして「予は支那の變化を見るにつけても、日本の進歩の、甚だ緩慢な
るを慚悔せざるを得ず」。

 ■「(六)日本?師の退去と日本語の驅逐」

じつは徳富は前回の旅行の際、北京のみならず地方都市でも教鞭を執って
いた「若干の日本人?師」の案内によって「有?にして、興味饒き觀察を
遂げ得たりしことを記憶せり」。だが今回は違った。
官吏、会社員、「支那の税關、若しくは鹽務所に奉職」する者はいるが、
「日本人の?師は、絶無にあらざるも殆ど之を見出すに苦まり」。
旅先で日本人教師を見掛けないということは、「支那人が日本人?師を
必要とせざるに到りた」からであり、それを「支那人の一の進歩と、見做
す」こともできる。

だが、もし「日本人?師の退去と同時に、日本語は、殆んど支那の?育
界より放逐せられつゝあ」るならば、やはり由々しき問題だ。日本人教師
の退去と日本語教育の退潮の間には必ずしも関係はなさそうだが、「事實
は事實也」。

一般に「支那に於ては、英語、若しくは獨逸語は、必要語として、場所に
よりては、殆んど強制的に?授せられつゝあるに拘らず。日本語に至りて
は、殆んど之を眼中に措かざるものに似たり。而して英米人、獨逸人等
は、自から率先して、支那人の?育事業に努力しつゝあるに拘らず、我が
官民を擧げて、唯滿鐵の滿洲に於ける施設を除けば、何人も關心せざるも
のゝ如し」。将来を考えるなら憂慮せざるをえない。どうやら日本では官
民ともに外国における日本語教育の持つ戦略性に昔も今も――ということは
将来に亘っても――余り関心がないようだ。

 ■「(七)同文書院の効果」

徳富が2回目の旅行をした大正6年は「如何なるめ運り合せの歳にや、日本
より支那へ巡禮したる者、近來未曾有とも云ふ可き數に上」たらしい。
多くの「支那漫遊客の最も愉快の一は」、「支那にある日本人中に、支那
語を解する者多きが如く、支那人中に、日本語を解する者少からざれば也」。

主な役所、主な官吏はもとより、徳富が面談を希望するような人物なら
誰でも、必ず身辺に「一名乃至數名の、日本語に堪能なる支那人なきはな
し」。僻遠の地にあっても、片言の日本語を話せる留学生上がりの官吏が
いる。
「日本人にしても、支那語に通ずる人士」は少なくない。その柱は荒尾精
が上海に創立した東亜同文書院卒業生であり、「同文書院が、如何に多大
の貢献をなし、且つ爲しつゝあるかを、特筆せざらん」。
であればこそ同文書院の拡大すべきだ。

「凡そ教育の上に於て、此の如き的面の効果を収め得るものは、他に比
類罕なる可し」と、ベタ誉めである。

 ■「(八)日本語の閑却乎日本の閑却乎」

これまで「支那の朝野を擧げて」「日本語を解する者多きは」、両国朝野
の長年の努力の結果だ。

だが、「日本?師の退去と日本語の驅逐」という「現時の趨勢にて推し行
かば、今より十年ならずして、支那人中に、日本語を解する者は、或は今
日の半數に減ずるやも、未だ知る可らず」。

それというのも「今や支那を擧げて留學をすれば、米國に赴き、外國語を
學べば、英語を學ぶの情態なれば也」。このまま手を拱いているならば
「支那に於ける日本語は、或は地を拂ふに到らんやも」知れない。
どうやら「支那人が、日本語を閑却しつゝあるは、日本語を閑却したりと
云はんよりも、寧ろ日本を閑却したるにあらざるなき乎」。
     

◆いもち病(稲熱病)の怖さ

渡部 亮次郎


「蓑(みの)着て笠(かさ)着て鍬(くわ)持って お百姓さんご苦労さ
ん」という童謡がNHK第1放送から流れていた時代がある。明治でも大正で
もない、昭和も敗戦直後、1947、8年ごろだった。食糧難の時代、国民みん
なして百姓にゴマをすったのである。

蓑や笠を着る百姓は今やどこにも存在しない。すべて機械化して田圃から
は女性が姿を消した。田植えも稲刈りも機械がやるし、除草は農薬が解決
してくれた。結果、農村からは猫背、蟹股、腰曲がりが居なくなって久しい。

しかし、その代わり、田圃から女性と共に居なくなったのが泥鰌(どじょ
う)とトンボである。稲作の大敵「いもち病」を防除すべく禁じ手「水銀
系農薬」を使ったからである。「いもち」はそれほど恐ろしい。今でも恐
ろしい。

「いもち」とはイネに対する最も普通の病気で,穂,葉,茎などに発生し
て大害を与える。とくに山間,北部地域では,いもち病との闘いが稲作の
大きな課題であった。この事情を反映して,日本植物病理学の分野では最
も多く,また深く研究されてきた病害である。

穂に発生すると発病部位から先の方は実らないので、「穂首いもち」は被
害が深刻である。「葉いもち」、穂いもちとも同じ菌によって起こるが、
発生の様相としては、比較的葉いもちが多くて穂いもちの少ない南日本型
と、逆に葉いもちよりも穂いもちの多い北日本型がある。

若いイネに激発すると株全体が萎縮して枯れてしまう。この病状を「ずり
込みいもち」という。防除に失敗すれば収穫ゼロ。

防除薬剤としては,戦前はボルドー液万能であったが,戦後一時期有機水
銀剤が脚光を浴び目覚ましい効果を挙げた。これが禁じ手と気付いて止め
たものの遅かりし。泥鰌は死滅した。

現在では抗生物質剤(ブラストサイジンS、カスガマイシンなど)や有機リ
ン粒剤などが使われている。

いもちは一般に,日照不足,多雨,低温のときに病気が多く,またイネの
体内に遊離の窒素成分が多く,ケイ酸が少ないときに発生が多い。

いもち病の発生程度は年次によっても異なり,ほぼ10年周期で大発生が記
録されている。昭和年代に入ってからは,1934(昭和9)年の稲作冷害が
有名で,東北地方では娘の身売など深刻な社会問題が発生した。

陸軍のクーデター「2・26事件(1936年)」の背景であるが、この不作には純
冷害のほかにいもち病による被害が大きかった。

戦後では,53(昭和28)年,63(38)年,74(49)年に大発生をみている。

的確な防除を行うには発生を予察することが肝要である。以前から気象条
件,イネの体質,胞子の飛散などを知って穂いもち病の発生を予測してい
たが,近年コンピューター導入で,大量のデータからの予察も試みられて
いる。

日本ではじめてこの病気が記録されたのは,1679年(延宝7)の《永禄以来当
院記録年鑑》(広積院祐栄書)とされるが,その後の《耕稼春秋》(1707ごろ)
の記載が人口に膾炙(かいしや)している。

イネ品種によってかなり抵抗性に違いがみられる。外国イネには強度の抵
抗性のものがあるが,日本在来の品種は概してかかりやすい。

従って日本にいける稲の品種改良は、収穫量、食味の追及とともにいもち
など稲の病害虫に対する抵抗力の研究に重点が置かれてきた。

最近は外国イネの強い抵抗性因子を導入した品種も育成されている。しか
しせっかく抵抗性品種ができても突然ひどく罹病してしまうことがある。
これはレース新生のためであることが多い。

レースrace とは形態が同じでありながら病原性の異なる菌で,日本には
今16以上のイネいもち病菌レースが知られている。

ここ数年 Pyricularia属菌の菌学的な研究が進み,イネいもち病菌とシコ
クビエいもち病菌の交配によって有性胞子が形成され,またイネいもち病
菌がタケに寄生性のあることが知られるなどして,菌の所属について検討
される時機にある。資料 世界大百科事典(C)株式会社日立システムアン
ドサービス 2008・07・07

◆アリババ集団マー会長退任の背後に

櫻井よしこ


「アリババ集団マー会長退任の背後に金持ち排除を進める習近平主席の影」

中国電子商取引(EC)最大手、アリババ集団のジャック・マー会長が五
四歳の誕生日、9月10日を期し会長職を退くと米「ニューヨーク・タイム
ズ」紙が報じた。

3日後、アリババ集団は、退任は今年ではなく、来年の9月10日だと発表し
た。マー氏が株主に宛てて公開した書簡には「大好きな教育分野に戻りた
い。世界は大きく、私はまだ若く、新しいことに挑戦したい」と書かれて
おり、時期は1年ずれたが、会長退任は間違いなさそうだ。

そこで誰しも思うだろう。マー氏はアリババ集団を一代で時価総額約4000
億ドル(約44兆円)企業に育て上げた。スマホ決済で一気にキャッシュレ
ス社会を出現させ、昨年の決済総額1377兆円の約半分を自社のアリペイが
占めた程の成功もおさめた。その彼が何故、いま、退くのか、と。

中国共産党の下で人々はいかにして富と権力を得るのか、権力の一部とな
ればなったでどれ程の火傷を負い失脚するのかを思えば、マー氏退任の背
景に影を見るのは当然だ。「産経新聞」外信部次長の矢板明夫氏が語る。

「習近平国家主席の基本方針は毛沢東路線への回帰です。その特徴のひと
つが金持ち潰しです。毛沢東は全権力を中国共産党に集中させ、その上に
立つ自身の存在を核心と位置づけました。習氏も同じようにしたい。核心
はひとり、中心軸はひとつ。その一本軸の縦構造に並列して、兆円単位の
資産を動かす民間の大金持ちが生まれると、そこにも求心力が動く。核心
は2つは不要、そこで金持ち排除に走るのです」

習政権下で大富豪が次々に逮捕され、消されるケースが続いている。今年
5月にも中国保険業界の一角を占めていた安邦保険集団の元会長、呉小暉
氏が懲役18年の刑を科され失脚した。

呉氏はトランプ米大統領の娘婿、ジャレッド・クシュナー氏と非常に近い
関係にあった。2016年の米大統領選挙でトランプ氏の勝利が確定した直
後、クシュナー氏が最初に会食した相手が呉氏だった。

呉氏は中国共産党とのコネをばねにのし上がった。若き日に浙江省杭州市
長の娘と結婚し、自動車販売の利権で財を成し、次に元上海市長の息子の
コネを活用して〓小平(とう・しょうへい)一家に接近、妻と離婚して〓
(とう)の孫娘と再婚した。より大きな共産党へのコネを手に、呉氏は保
険業界に進出、短期間に巨万の富を築いてニューヨークの名門ホテル
「ウォルドルフ・アストリア」を買収した。

だが、米政権に深く食い込み影響力を発揮するような存在を、共産党が許
容し続けることはないのである。当局の調査が始まり、保険監督局が安邦
保険集団を公的管理下に置いたのが今年2月、3月には裁判開始、5月10日
には先述の判決が下された。〓(とう)の孫娘の夫といえども冷酷に切り
捨てられた。

大富豪が得意の絶頂で逮捕、投獄され、あるいは自殺に追い込まれる事例
など掃いて捨てる程あるのが中国だ。矢板氏は中国人大富豪の「寿命」は
10年単位で見るのが妥当だと言う。

「中国共産党の権力にくっついて利権を手にする大富豪は権力者が交替し
て新しい権力層が生まれるときが危機なのです。前任者の人脈や利権はこ
とごとく剥奪されるからです。それが種々の逮捕や自殺事件につながります」

どれ程頑張っても中国人の個人的栄華は10年が目途、20年はもたないとい
うのだ。マー氏は通貨の意味を変える程の大変化を巻き起こし、資本主義
経済の新たな波を中国に起こしたかに見える。しかし、共産党支配の論理
の下では、長続きさせてもらえない。

マー氏はビル・ゲイツ氏のように社会貢献に力を注ぎたいと発言した。果
たして習氏がそれを諒とするのか、まだわからない。少なくとも、このま
ま「盛大な成功」を続ければ、己の命運が尽きるとの自覚が退任予告につ
ながったと見てよいだろう。

『週刊ダイヤモンド』2018年9月29日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1248

◆奈良木津川だより 壬申の乱A

白井繁夫


大海人皇子は、天武元年(672)5月、美濃国へ赴いた舎人朴井連雄君(エノイノムラジオキミ)から「天智天皇の陵を造営するためと称して、東国の農民を徴集し武器を持たせている云々」との報告を受けたのです。

この情勢こそ、近江朝が戦いを挑むことになると推察し、吉野宮の脱出を決意し吉野においての半年間推考を重ねた作戦に基づき、6月24日に東国(美濃)を目指して出陣しました。

大変きつい強行路を経て、「桑名群家」に辿り着き、「鈴鹿の山道」や「不破道:関ヶ原」の閉塞にも成功を治め、みずからは「野上行宮」に入りました。このことは、大海人皇子側から見れば、内乱突入直前の状況だったのです。(前回記述)

ところで今回は、大友皇子側から見た「壬申の乱」に至るまでの状況を見てみます。

大海人皇子一行が、671年10月19日、大津宮を去る折、菟道(宇治橋)まで見送りに行った近江朝の重臣3名(左右大臣と御史大夫)の内の一人が、こう云いました。

<「虎に翼を着けて放つ」と云ったといわれているように、叔父の大海人皇子は有力な皇位継承者である為、皇位を継承するには大友皇子が、大海人皇子を排除すべき人物なのです。>

虎は鋭い牙と爪を持っているのに、その上に翼まで着けて放ったのだから、大海人皇子を監視するために、近江から倭古京(やまとのふるきみや:飛鳥京)までの要所(宇治橋の橋守に命じて、美濃の大海人の支配地などから武器や食糧などの物資が運搬されるか、「木津川の泉津」(木津の港)から同様に吉野へ届けられるかなど、飛鳥京の留守司などで監視する体制を敷きました。(大海人皇子の勢力を剥ぐための兵糧攻め作戦)

「対新羅戦用」と称して、全国へ国宰(くにのみこともち)を派遣して、「徴兵」(各郡司などを通じて農民兵の動員)に着手しました。

特に大海人に影響を与える地域、畿内(山背.大和.摂津.河内.和泉)と、東国の美濃や尾張(美濃の安八磨郷あはちまのこほり、湯沐邑ゆのむらなど)からの「徴兵」に傾注したのです。(作戦の狙いは、大海人皇子と関係がある地区に楔を打ち込む目的)。

大友皇子は、近江朝の政権の中心であり、大海人皇子が(吉野)隠遁している間に、勢力を剥ぎ、大友に対抗出来なくしようとした計画的な行動を取りました。

ただ、天智の殯(もがり)の期間、いろいろと公式行事があるうえに、筑紫の唐使「郭務悰:カクムソウ」の応対にも忙殺されることのもありました。

古代も現代も戦争に備えるには情報戦略が非常に重要な要素です。近江朝は軍備力や権勢力などで絶対的な自信を持ち過ぎて、少々油断があったのではないかと思われます。

大海人皇子は、誼を持つ舎人を通じて各地の豪族と絆を結び、近江朝の動静などの情報を逐一得ていました。もちろん、近江や飛鳥の官人とも連絡は密だったのです。

両軍が戦闘に入ったとき、大友軍は情報不足により有利になるはずの戦況を、思わぬところで不利にすることが出てしまいました。

重要な歴史書:『日本書紀』は日本最古の正史ですが、舎人親王(天武の皇子)が編纂の総裁者となり養老4年(720年)に編纂され、天武嫡流の皇子に関係した藤原不比等も介在した?と思われる書籍です。

これから記述する「壬申の乱」の戦闘の描写も、勝者側の見方(大海人が正当な皇位継承者)が大きく出るかもと思います。

近江朝は、庚午年籍(こうごねんじゃく:天智天皇の時代に編纂された日本最古の戸籍制度)に基づく徴兵を急がすため、東国へ派遣した国宰書薬(フミノクスリ)ら3名のうち2名が、6月26日に「不破道」で大海人軍に捕えられたのを目の当たりにして、国宰韋那磐鍬(イナノイワスキ)は、大津宮へ逃げ帰ってきました。

近江朝軍は、翌27日臨戦態勢に入り、近江路方面軍と飛鳥方面軍と大きく2方面に軍を分けて、最初に近江路方面軍が「不破道:関ヶ原」を突破して、大海人本営を襲撃する作戦を立て、近江朝正規軍に西国の徴兵や近江の豪族の兵を加えた数万の軍を、大津宮から出発させました。

最初の戦火は、6月29日に大海人軍の大伴吹負(オオトモフケイ)によって大倭飛鳥で開始されました。だから、最初に出発した近江路軍の戦闘は後述するとして、大倭.河内方面の戦いの方を先行します。

(飛鳥京)朝廷側の留守司(トドマリマモル司)は、高坂王.稚狭王(ワカサ).坂上熊毛ですが、大伴吹負とは内応?していたと思われ、実情は近江朝の使者(穂積臣百足等ホヅミノオミモモタリ)が、27日に軍営を設立したばかりの状態でした。

天智10年に亡命百済人を実務官僚に組織した体制に対する反発が、古くから飛鳥などに居住する渡来人(東漢系氏族:坂上熊毛)、同じく山背国に渡来していた氏族(秦熊)など、倭古京の居住者にありました。

大伴吹負は奇策を持って、僅か10余の騎馬兵で高市皇子が攻めて来たと叫び、飛鳥寺の西の軍営を奇襲し、飛鳥京を制圧しました。留守司高坂王らは帰服し、近江朝の軍営にいた物部日向.五百枝兄弟も帰順したので味方に加え、穂積百足のみが最初の戦死者となりました。

大伴吹負の飛鳥京制圧の報は大倭各地に伝わり、三輪君高市麻呂.鴨君蝦夷等の豪族が大伴吹負軍に加わり、その情報は大海人皇子をはじめ、近江朝にも伝わったのです。

7月1日:近江朝の大倭方面軍は大野果安(ハタヤス).犬養五十君(イキミ).廬井鯨(イオイノクジラ)が、近江朝正規軍と西国の徴兵を率い、飛鳥京奪還を目指して大津宮を発進しました。

果安は大伴吹負の軍を度々破り敗走させましたが(後述しますが)、紀臣阿閉麻呂(キノオミアヘマロ)軍の先遣した騎兵隊が伊賀から駆けつけて、吹負の窮地を救ったのです。

庚午年籍に基づき、摂津.河内で徴兵した兵を率いた河内方面軍の将壱岐韓国(イキノカラクニ:渡来氏族)と、国宰来目塩籠(クメノシオコ)は同日、河内.大倭の国境を突破して飛鳥京奪還を目指して河内を出発しました。
(大伴吹負は乃楽山(なら:奈良山)を目指し進発(木津川市と奈良市の国境の丘陵地)。

大海人皇子は、7月2日和蹔(わざみ)の全軍に進撃命令を出し、全軍の兵に赤い布を着用させて、大友軍とはっきり区別させました。

飛鳥方面軍の総大将紀臣阿閉麻呂は、数万の軍勢を率い倭古京守備隊の増援に向かわせ、置始連兎(オキソメノムラジウサギ)の精鋭な騎兵隊は本隊を離れ、飛鳥へ急行させたのです。

多臣品治(オオノオミホムチ)は3千の兵で伊賀の莿萩野(たらの)を防衛、田中臣足麻呂は倉歴道(くらふのみち)の守備につきました。
(近江路方面の村国男依らの数万の軍勢の進撃は次回にします。)

乃楽山(なら:平城山)は、古代崇神天皇の時代:武埴安彦の反乱の舞台となった要衝。

山背と大和の国境の丘陵地であり、北側の平野に木津川が流れ、南は大和平野が広がる両軍にとって戦略上重要な拠点です。(四道将軍の大彦命と和爾氏の祖彦国葺が乃楽山の本陣から北側の山背の武埴安彦軍を木津川の戦いで殲滅し、西の大坂より攻めて来た埴安彦の妻(吾田媛軍)を吉備津彦命が討った。古戦場。)

(吹負はその拠点を固めに行く途上「大和郡山市稗田」で、西方「大坂:河内」から大友軍が進軍してきた情報を捉えたのです。)

吹負は、坂本臣財(サカモトノオミタカラ).長尾直真墨(ナガオノアタイマスミ)等に兵三百を授けて龍田道を防衛させ、佐味君少麻呂(サミノキミスクナマロ)に百余の兵で、大坂道(穴虫峠:二上山の北:大坂側道)を、鴨君蝦夷は百余の兵で石手道(イワテノミチ:竹の内峠:二上山の南:大和側道)の守りに就きました。

坂本財は、龍田付近で斥候が近江朝の高安城(白村江の戦に対処した山城ヤマジロで税倉チカラクラ:穀物の保管倉庫)が手薄との情報を得て、財が襲撃した時、大軍が来たと勘違いして城(穀物倉庫群)を焼き逃走しました。大海人軍の兵は無傷で高安城を占領したのです。

大伴吹負は飛鳥京を7月1日出発して、(3日)乃楽山に布陣が完了まで長時間移動を要したのは、6月29日以来続々と集まる兵を各部署に配置しながら進軍したからです。

7月3日朝霧が晴れ、坂本財は高安城から眼下の大坂平野を見ると大津道:長尾街道(堺市→河内美陵町→生駒王寺町)と、丹比道:竹内街道(堺市→羽曳野古市→飛鳥当麻寺)から整然と隊列を組み、大友軍が東へ進みました。大津道は将軍壱岐史韓国の軍ですが、高安城は黙殺して(武田信玄が家康を無視した様)行軍して行きました。

坂本財は、全軍僅か300人ですが、下山して衛我河(エガガワ:大和川付近藤井寺市道明寺)で挑ませますが一蹴され、懼坂道カシコサカミチの守衛紀臣大音(同族)まで退却しました。

しかも、この戦いで、国宰来目臣塩籠が大海人軍に内応しているのが発覚。大友軍の進軍は一時停止したのです。来目臣が大友の命により河内で徴兵した兵を持って、韓国将軍の下に入ったので、全軍が大きく動揺したためです。

(坂本財の悲壮な突撃戦は後の大坂夏の陣と同じ戦場「道明寺」で東軍水野.伊達軍2万3千に対し西軍の後藤基次軍3千弱の突撃の様と同様でした。だから軍規や軍の再編のため、韓国軍も進軍が遅れ、4日の大友軍全軍の総攻撃日に参加できなかったのです。)

大津宮を1日に出発した大野果安(はたやす)率いる倭飛鳥方面軍が、「木津川」を越え乃楽の大伴吹負が築く堅固な陣を突破し(吹負は数騎で逃れる)、怒涛の進軍で飛鳥京の手前:天香久山(あまのかぐやま)の八口まで来た時、斥候から「飛鳥の各街道の要所に大量の楯などが並び伏兵が潜んでいる」との報告。

大野果安が高所から遠望すると大軍を隠し、吹負軍が罠を仕掛けて簡単に退いたとも取れ、味方の壱岐韓国軍が4日なのに姿.音沙汰ともに無いのは、大海人軍の正規軍が来ていると思い込み、全軍に退却して陣容をかまへ直すよう命じました。(飛鳥京には大海人軍未着)

倭古京(飛鳥の古い都)への戦闘は、大友軍の河内方面軍も飛鳥方面軍もともに簡単に飛鳥京を占領できる機会だったのをともに逸して、後から来る大海人軍の正規軍と戦うことになるのです。

大和路戦の結末と近江路戦については次回に続けます。    (郷土愛好家)

参考資料:戦争の日本史2  壬申の乱   吉川弘文館  倉本一宏著
     壬申の乱     中央公論社  遠山美都男著
     木津町史     本文篇    木津町


2018年09月23日

◆アリババ集団マー会長退任

櫻井よしこ


「アリババ集団マー会長退任の背後に金持ち排除を進める習近平主席の影」

中国電子商取引(EC)最大手、アリババ集団のジャック・マー会長が五
四歳の誕生日、9月10日を期し会長職を退くと米「ニューヨーク・タイム
ズ」紙が報じた。

3日後、アリババ集団は、退任は今年ではなく、来年の9月10日だと発表し
た。マー氏が株主に宛てて公開した書簡には「大好きな教育分野に戻りた
い。世界は大きく、私はまだ若く、新しいことに挑戦したい」と書かれて
おり、時期は1年ずれたが、会長退任は間違いなさそうだ。

そこで誰しも思うだろう。マー氏はアリババ集団を一代で時価総額約4000
億ドル(約44兆円)企業に育て上げた。スマホ決済で一気にキャッシュレ
ス社会を出現させ、昨年の決済総額1377兆円の約半分を自社のアリペイが
占めた程の成功もおさめた。その彼が何故、いま、退くのか、と。

中国共産党の下で人々はいかにして富と権力を得るのか、権力の一部とな
ればなったでどれ程の火傷を負い失脚するのかを思えば、マー氏退任の背
景に影を見るのは当然だ。「産経新聞」外信部次長の矢板明夫氏が語る。

「習近平国家主席の基本方針は毛沢東路線への回帰です。その特徴のひと
つが金持ち潰しです。毛沢東は全権力を中国共産党に集中させ、その上に
立つ自身の存在を核心と位置づけました。習氏も同じようにしたい。核心
はひとり、中心軸はひとつ。その一本軸の縦構造に並列して、兆円単位の
資産を動かす民間の大金持ちが生まれると、そこにも求心力が動く。核心
は2つは不要、そこで金持ち排除に走るのです」

習政権下で大富豪が次々に逮捕され、消されるケースが続いている。今年
5月にも中国保険業界の一角を占めていた安邦保険集団の元会長、呉小暉
氏が懲役18年の刑を科され失脚した。

呉氏はトランプ米大統領の娘婿、ジャレッド・クシュナー氏と非常に近い
関係にあった。2016年の米大統領選挙でトランプ氏の勝利が確定した直
後、クシュナー氏が最初に会食した相手が呉氏だった。

呉氏は中国共産党とのコネをばねにのし上がった。若き日に浙江省杭州市
長の娘と結婚し、自動車販売の利権で財を成し、次に元上海市長の息子の
コネを活用して〓小平(とう・しょうへい)一家に接近、妻と離婚して〓
(とう)の孫娘と再婚した。より大きな共産党へのコネを手に、呉氏は保
険業界に進出、短期間に巨万の富を築いてニューヨークの名門ホテル
「ウォルドルフ・アストリア」を買収した。

だが、米政権に深く食い込み影響力を発揮するような存在を、共産党が許
容し続けることはないのである。当局の調査が始まり、保険監督局が安邦
保険集団を公的管理下に置いたのが今年2月、3月には裁判開始、5月10日
には先述の判決が下された。〓(とう)の孫娘の夫といえども冷酷に切り
捨てられた。

大富豪が得意の絶頂で逮捕、投獄され、あるいは自殺に追い込まれる事例
など掃いて捨てる程あるのが中国だ。矢板氏は中国人大富豪の「寿命」は
10年単位で見るのが妥当だと言う。

「中国共産党の権力にくっついて利権を手にする大富豪は権力者が交替し
て新しい権力層が生まれるときが危機なのです。前任者の人脈や利権はこ
とごとく剥奪されるからです。それが種々の逮捕や自殺事件につながります」

どれ程頑張っても中国人の個人的栄華は10年が目途、20年はもたないとい
うのだ。マー氏は通貨の意味を変える程の大変化を巻き起こし、資本主義
経済の新たな波を中国に起こしたかに見える。しかし、共産党支配の論理
の下では、長続きさせてもらえない。

マー氏はビル・ゲイツ氏のように社会貢献に力を注ぎたいと発言した。果
たして習氏がそれを諒とするのか、まだわからない。少なくとも、このま
ま「盛大な成功」を続ければ、己の命運が尽きるとの自覚が退任予告につ
ながったと見てよいだろう。
『週刊ダイヤモンド』2018年9月29日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1248