2018年09月10日

◆君が世完成記念日

渡部亮次郎


国歌「君が代」は1999(平成11)年に国旗及び国歌に関する法律で公認さ
れる以前の明治時代から国歌として扱われてきた。

この曲は、平安時代に詠まれた和歌を基にした歌詞に、明治時代になって
イギリス歩兵隊の軍楽長ジョン・ウィリアム・フェントンが薩摩琵琶歌
「蓬莱山」から採って作曲を試みたが海軍に不評。

海軍から「天皇を祝うに相応しい楽曲を」と委嘱された宮内省が雅楽課の
林廣守の旋律を採用(曲はイギリスの古い賛美歌から採られた)。

これにドイツ人音楽教師エッケルトが和声をつけて編曲。1880(明治13)
年10月25日に海軍軍楽稽古場で試演された。だから10月25日が「君が代」
完成記念日とされている。

明治2(1869)年に当時薩摩藩兵の将校だった大山巌(後の日本陸軍元帥)
により、国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと言うフェトンの進言をいれ
て、大山の愛唱歌の歌詞の中から採用された。

当時日本の近代化のほとんどは当時世界一の大帝国だったイギリスを模範
に行っていたため、歌詞もイギリスの国歌を手本に選んだとも言われている。

九州王朝の春の祭礼の歌説というものがあり、説得力はある。九州王朝説
を唱えるのは古田武彦氏で、次のように断定している。

<「君が代」の元歌は、「わが君は千代に八千代にさざれ石の、いわおと
なりてこけのむすまで・・・」と詠われる福岡県の志賀島の志賀海神社の
春の祭礼の歌である。

「君が代」の真の誕生地は、糸島・博多湾岸であり、ここで『わがきみ』
と呼ばれているのは、天皇家ではなく、筑紫の君(九州王朝の君主)である。

この事実を知っていたからこそ、紀貫之は敢えてこれを 隠し、「題知ら
ず」「読人知らず」の形での掲載した>

文部省(現在の文部科学省)が編集した『小学唱歌集初編』(明治
21(1881)年発行)に掲載されている歌詞は、現在のものよりも長く、幻
と言われる2番が存在する。

「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで うごきな
く常盤かきはにかぎりもあらじ」

「君が代は千尋の底のさざれ石の鵜のゐる磯とあらはるゝまで かぎりな
き御世の栄をほぎたてまつる」

後半の「さざれ石の巌となりて」は、砂や石が固まって岩が生じるという
考え方と、それを裏付けるかのような細石の存在が知られるようになった
『古今和歌集』編纂当時の知識を反映している。

明治36(1903)年にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、『君が
代』は1等を受賞した。

後は専ら国歌として知られるようになった『君が代』だが、それまでの賀
歌としての位置付けや、天皇が「國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」していた
(明治憲法による)という時代背景から、戦前にはごく自然な国家平安の
歌として親しまれていた。

敗戦で事情は全く変わった。日本国衰退を目指すアメリカ占領軍は。それ
まで聖職者とされてきた教職員に労働者に成り下がって権力に抵抗させる
べく日教組を結成させた。

占領した沖縄では国旗の掲揚と君が代の斉唱を禁止したことでも明確なよ
うに、マッカーサーの本心は日の丸掲揚と君が代斉唱に反対であった。日
本国民が一致団結、再度、アメリカに挑戦することを恐れたのである。

それを組合の統一闘争精神に掲げたのが日教組なのである。いつの間にか
天皇を尊敬する事とか君が代を歌うことが戦争に繋がると論理を摩り替え
て、正論を吐く校長を自殺に追い込んだといわれても反論できないような
状況を招いたのである。

君が代支持の世論を背景に平成8年(1996年)頃から、教育現場で、当時
の文部省の指導により、日章旗(日の丸)の掲揚と同時に『君が代』の斉
唱の通達が強化される。

日本教職員組合(日教組)などの反対派は憲法が保障する思想・良心の自
由に反するとして、旗の掲揚並びに「君が代」斉唱は行わないと主張し
た。先生の癖に論理のすり替えの得意な人が日教組に所属する?

平成11年(1999年)には広島県立世羅高等学校で卒業式当日に校長が自殺
し、君が代斉唱や日章旗掲揚の文部省通達とそれに反対する教職員との板
挟みになっていたことが原因ではないかと言われた。

これを一つのきっかけとして日教組の意図とは反対に『国旗及び国歌に関
する法律』が成立した。法律は国旗国歌の強制にはならないと政府はした
ものの、反対派は法を根拠とした強制が教育現場でされていると主張、斉
唱・掲揚を推進する保守派との対立は続いている。

平成16年(2004年)秋の園遊会に招待された東京都教育委員・米長邦雄
(将棋士)が、(天皇)に声をかけられて「日本の学校において国旗を揚
げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と発言し「やはり、
強制になるということでないことが望ましいですね」と言われている。

なお、天皇が公式の場で君が代を歌ったことは1度もないと言われてい
る。成人前の家庭教師ヴァイニング夫人による何がしかを勘繰る向きがな
いわけではない。08・10.25

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

◆紫式部と蕪村の「和紙」

毛馬 一三


書き出しは、大阪俳人与謝蕪村のことからだ。蕪村(幼名:寅)は、生誕地大阪毛馬村で幼少の頃、母親から手ほどきをうけて高価な「和紙」を使って「絵」を描いて、幼少時期を楽しんでいたことを、最近知った。

寅は、庄屋の子供だったから、高価な「和紙」を父から自在に貰って、絵描きに思いのままに使ったらしい。

その幼少の頃の絵心と嗜みが、苦難を乗り越えて江戸に下り、巴人と遭遇してから本格的な俳人となったのも、この幼少の頃「和紙」に挑んだ「絵心」とが結び付いたらしい。

さて、本題―。

高貴な「和紙」の事を知った時、ジャンルは違うが、紫式部が思い切り使って「和紙」を使って「世界最古の長編小説・源氏物語」を書いたことを思い出した。

そのキッカケは、福井県越前市の「和紙の里」を訪ねてからである。

越前市新在家町にある「越前和紙の里・紙の文化会館」と隣接する「卯立の工芸館」、「パピルス館」を回り、越前和紙の歴史を物語る種々の文献や和紙漉き道具の展示、越前和紙歴史を現す模型や実物パネルなどを見て廻った。

中でも「パピルス館」での紙漉きを行い、汗を掻きかき約20分掛けて自作の和紙を仕上げたのは、今でもその時の感動が飛び出してくる。

流し漉きといって、漉舟(水槽)に、水・紙料(原料)・ネリ(トロロアオイ)を入れてよくかき回したあと、漉簀ですくい上げ、両手で上下左右に巧みに動かしていくと、B5くらいの「和紙」が出来上がる。まさにマジックの世界だ。

ところでこの越前和紙だが、今から約1500年前、越前の岡太川の上流に美しい姫が現れ、村人に紙の漉き方を伝授したという謂れがある。

山間で田畑に乏しかった集落の村人にとり、紙漉きを伝授されたことで、村の営みは豊かになり、以後村人はこの姫を「川上御前」と崇め、岡太神社(大瀧神社)の祭神として祀っている。

<その後大化の改新で、徴税のため全国の戸籍簿が作られることとなり、戸籍や税を記入するために必要となったのが「和紙」である。そのために、越前では大量の紙が漉かれ出したという。

加えて仏教の伝来で写経用として和紙の需要は急増し、紙漉きは越前の地に根ざした産業として大きな発展を遂げてきている>。

さて長編小説「源氏物語」の作者紫式部は、執筆に取り掛かる6年前の24歳の時(996年)、「和紙」の里・越前武生に居住することになり、山ほどの「和紙」に囲まれて、存分に文筆活動に励んだ。

当時、都では「和紙」への大量の需要があったらしく、宮廷人も物書きも喉から手が出る程の「和紙」だったが、手には入らなかった。

ではどうして都にいた紫式部が、遥か離れた「和紙」の里越前の武生に移住してきたのか。それはご当地の国司となった父の藤原為時の“転勤”に関わりがある。文才だけでなく、商才に長けた為時の実像が浮かび上がる。

<為時は、中級の貴族で、国司の中で実際に任地へ赴く“転勤族”だったそうで、996年一旦淡路の国(下国)の国司に任命されるが、当時の権力者・藤原道長に賄賂の手を使って、転勤先を越前の国(上国)の国守に変更してもらっている。はっきり言えば為時は、淡路の国(下国)には赴任したくなかったのだ。何故なのか。

当時、中国や高麗からの貿易船が日本にやってくる場合、海が荒れた時や海流の関係で、同船団が「越前や若狭」の国を母港とすることが多く、このため海外の貴重な特産品が国司のもとに届けられ、実入りは最高のものだったという>。

藤原為時一族は、中級の貴族ながら文才をもって宮中に名をはせ、娘紫式部自身も為時の薫陶よろしく、幼少の頃から当時の女性より優れた才能で漢文を読みこなす程の才女だったといわれる。

これも商才に長けたばかりでなく、父親の愛情として、物書きの娘に書き損じに幾らでも対処できる「和紙」提供の環境を与えたものといわれる。

<この為時の思いは、式部が後に書き始める「源氏物語」の中に、武生での生き様が生かされている。恐らく有り余る「和紙」を使い、後の長編小説「源氏物語」の大筋の筋書きをここで書き綴っていたのではないだろうか。平安時代の歌集で、紫式部の和歌128 首を集めた「紫式部集」の中に、武生の地で詠んだ「雪の歌」が4 首ある。

越前武生の地での経験が、紫式部に将来の行き方に影響を与えたことはまちがいない。と同時に式部は、国司の父親のお陰で結婚資金をたっぷり貯め込むことも成し遂げて、約2年の滞在の後、京都に戻り、27歳になった998年に藤原宣孝と結婚している>。

越前武生の生活は、紫式部にとり「和紙」との出会いを果たして、後の世界最古の長編小説への道を拓くことに繋げた事は、紛れもない事実であろう。

<紫式部の書いた「源氏物語」の原本は現存していない。作者の手元にあった草稿本が、藤原道長の手によって勝手に持ち出され外部に流出するなど、「源氏物語」の本文は当初から非常に複雑な伝幡経路を辿っていたという。

確実に平安時代に作成されたと判断できる写本は、現在のところ一つも見つかっておらず、この時期の写本を元に作成されたと見られる写本も、非常に数が限られているという>。
 
この歴史の事実と筆者の推論を抱きながら、「紫式部公園」に回り、千年前の姿をした高い式部像に対面してきた。

北京五輪の開会式の時、中国の古代4大発明の一つとして「紙」を絵画の絵巻をCGで描き、国威を高らかに示した。

この紙が7〜800年後に日本に渡り、「和紙」となった。その後、「世界最古の長編小説を書いた女性が日本にいた」ということは、中国は勿論諸外国は知らない。

参考:ウィキペディア、: 青表紙証本「夕顔」 宮内庁書陵部蔵 
(加筆再掲) 

2018年09月09日

◆むしろ中国が示した

                        宮崎 正弘


平成30年(2018年)9月7日(金曜日)弐 通巻第5820号  

 「危機管理」の見本は、むしろ中国が示したのではないのか
 台風21号。関空へ特別バスを仕立て、中国人旅行者を選別し輸送した

関空水没、北海道地震による大停電。日本の危機管理が試された。注目
すべきはただちに自衛隊が4000人、救援活動と給水のために出動した こ
と。24時間以内に2万4000名の派遣態勢が組まれたことである。
 
しかし9月10日から予定されていた米海兵隊との共同訓練が中止と なっ
た。国家防衛より、人命救助という日本の戦後のヒューマニズム重視
は、時として国家安全保障の根幹に抵触する。戦後レジュームの宿痾だ。
 
メディアは相変わらず国民の安全保障の優先課題を「ライフラインの確
保」(電気、水道、ガス)においた。メディアも交通アクセス、そして原
発の被災状況報道を優先し、ついで「被災者」の訴え(当然、行政への不
満となる)。自衛隊が真っ先に現場へ行って給水している様子や被災地で
の危険な任務に就いていることなどはあまり報じない。

定番はガソリンスタンド、スーパーに食料や電池、ガスボンベを買い求め
る長い列。物流がとまり、保冷庫も電気が来ないので腐食が始まる。
自然災害は日本が台風の通り道であり、火山列島である以上、避けること
が出来ないが、日頃の危機管理が杜撰な実態がさらけ出された。

関空水没、北海道大停電を、もし「戦争」と仮定して考えてみると、本当
の危機に遭遇したときに、何を一番優先してなさねばならないか、日本の
対応はあべこべのケースが多いことを示した。

デジタル社会の到来では通信の確保、電源の確保が重要である。いみじ
くも、報道では電池切れによる充電器の設置とか、公衆電話の無料開放と
かを大きく報じたが、充電設備と公衆電話が不足していることが分かった。

病院船をもたない日本には「移動する病院」という発想がない。また多
くの病院には自家発電設備が脆弱であり、糖尿患者などは緊急措置が必要
になる。

デジタル文明の下で重要課題は、光ファイバーケーブルの拠点の安全で
ある。日本の海底ケーブルは、一本の基幹ルートに依存し、補完ルートが
ない。ここを攻撃されると、ほぼ全ての日本の通信網が破壊される。

関空のケースでは避難ルートが神戸へ向かう高速船が3隻しかなかっ
た。それも定員が110名。海上の人工島に建てた飛行場は30年で沈没す る
と当初から予想されたのに、抜本的な代替プランはなく、鉄道などの沖
合島へのアクセスは一本の橋梁に頼っていた。
 
滑走路が水没したとき、駐機していた飛行機は僅か3機、これは不幸中
の幸いだった。東北大地震のおり、仙台空港では駐機していた十数機の自
衛隊機が失われた。もし、空港がミサイル攻撃を受けたときに、短時間で
修復工事ができないという、日本の対応力の弱さもやはり深刻な問題である。

北海道地震でも、おどろくなかれ全戸が停電した。電源を1箇所の発電 所
に依拠し、補完の選択肢がない。これは安全保障上の手抜かりだろう。
また原発が停止中であることが問題にならなかった。原発が動いていれば
全戸停電という事態は防げたのではないのか。これを通信に置き換える
と、通信施設の源を襲撃されたら、ほぼ全ての日本の通信が途絶えるとい
うことである。


 ▲空港で夜を明かした旅客の過半が外国人だった

他方、関空には2000人のツーリストが残されていると最初、報じら れた
が、実際には7800名もいたのだ。

メディアは立ち往生した旅客の弁当とか水の配給の画面つくりをしていた
が、被災人数の掌握でできていなかった。そればかりか、非常食のストッ
クがあまりにも少なかった。

脱線だが、6年前に体験した筆者の個人的経験を書く。

北京から成田便に搭乗したところ、「関東方面が嵐のため」とかの理由
で、いきなり関空へ着陸した、空港ロビィでの宿泊を余儀なくされた。後
日判明したのは午後十一時前に成田に着けそうにもなく、途中の関空に着
陸したのだった。その説明を中国の飛行機会社は説明しなかった。

配給されたのは寝袋と1万円の見舞金。そして翌朝の食事券。出発はな
ぜか昼過ぎになるという。ところが、100人近くいた中国人旅客は、早朝
に いなくなっていた。中国人の喧しい抗議に対応できず、別の手だてを
用意 したらしかった。要するに「ゴネ得」なのだ。

今次、関空で何が起きていたか。

実は700人の中国人ツーリスト、250人の台湾からのツーリスト、 そして
70人の香港人(それぞれパスポートが異なる)。1000人以上の旅客 は、
中国系だったのである。


 ▲中国の大阪領事館は迅速に対応した

中国の大阪領事館はただちに行動を取った。バスをチャーターして関空
へ派遣し、中国人ツーリスト選別し、交通アクセスの地点へと運んだの
だ。しかも台湾客には「あなたが中国人であることを認めたら乗せてや
る」と差別した。

これは台湾で問題となって台湾のメディアが騒いだ。

在日台湾機関はこうした措置をとらなかった。このため中国系の台湾メ
ディアが、中国側の差別待遇を攻撃するのでなく、駐日大使の謝長挺が無
能だと、『中国時報』などは、このときとばかりに攻撃した。

幾つか思い出すことがある。

東日本大震災のとき、中国は新潟空港などにチャーター機を飛ばし、十万
人とも言われた在日中国人を中国各地へ手際よく運んだ。在日大使館に司
令塔があるのだ。

リビアでは、カダフィ暗殺、政府壊滅の時に、飛行機、フェリー、バスな
どありとあらゆる交通手段をチャーターして、じつに3万6000名いた
中国人を救出した。

中央アジアの小国キルギスで暴動が発生したおりには、奥地のオシェとい
うキルギス第2の都市に4機のチャーター機を飛ばして、500名いたと
される中国人を救出した。

これが可能となるのは、逆に言えば外国にいる中国人の動向さえ、出先
の外交機関が把握していること、携帯電話の連絡網があること、つまり防
犯カメラを全土に張り巡らせて、携帯電話の会話さえも防諜している国だ
からこそ可能なのだが、基本的に中国人の多くが軍事訓練をうけていて、
危機にいかに対応できるかを、中国では日頃から実践しているからではな
いのだろうか?

デジタル社会、次世代通信機器や半導体開発で、もはや日本の優位はあ
とかたもないという実態が露呈したのである。

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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1785回】                  
――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(10)
徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正7年)

            △

客観的に考えるなら、親日と反日はコインの裏表であるように思う。歴
史的に、あるいは現実的に考えて見るならば、親日だからといって反中、
あるいは売国ではないだろう。たとえば日中戦争のなかで?介石に反旗を
翻し敢えて日本との「同生共死」の道を選んだ汪精衛にしても、反?介石
であり反毛沢東ではあっても、親日の向こう側に『在るべき中国』への熱
い思いが秘められていたはずだ。

むしろ日本との「同生共死」の道を貫くことこそが民族にとっての本来の
姿であるとの信念が、彼の行動を支えていたに違いない。彼の信念からす
れば、国民党も共産党も共に民族の敵であり反中分子であっただろう。

やはり国際政治を親日、反日を基準に即断することは愚というしかない。

閑話休題。

漢口を離れた徳富は長江を下り九江から南昌へ。名勝の廬山に登り、「長
江の激浪」を体験する。蕪湖から南京へ。秦淮の画舫を楽しみ、清凉山の
遊び、金山寺や甘露寺を訪れる。淡烟に煙る揚州で一日を過ごし、やがて
上海へ。

上海では中国人が著した日本論の白眉とされる『日本論』を著した戴天
仇と面談する。どのような会話が交わされたのか。大いに知りたいところ
ではあるが、残念ながら徳富は一切言及していない。ただ「戴氏の日本語
に到りては、天下一品、日本人も恐らくは三舎を避く可し」と。

上海名物の競馬場に向ったが、競馬を見るたけではなく、「競馬を見る
人を見んが爲め」だった。「競馬は露骨に云へば、一種の賭博」だ。「競
馬場は黄海の賭博場」だ。賭博にかけて「英人と、支那人とは、共通嗜好
を有す」が、「英人專ら馬を以て具となし、支馴人專牌を以て具と爲すの
み」。

「夜は日本人倶樂部に於て日支記者の晩餐會あり」。旧知の日本人記者
が「會主として支那語にて、開會の辭を演じた」。

そこで徳富は「日人支那語を習ひ、支那人日語を學び、其れの日常の交
際、應接に於て、通譯を用ひず、互ひに自他の國語を以てせば、情意疎通
に於て、頗る便宜ならむ」と考えた。「支那に於ける商戰、社交戰、勢力
戰に於て最上の利器」は支那語であればこそ、「予は日本に於ける青年諸
君が、切に此點に留意せんことを望む」とした。

ところが、である。

徳富の挨拶に次いで立った「支那側の一人」の記者が起立して「滔々と支
那語の演説を始め、一節了る毎に、又た滔々と日本語して、自から通譯」
し、「一場の喝采を博した」のである。「日人支那語を習ひ、支那人日語
を學」ぶべしという徳富の「希望を實現する者」を眼前にして、「支那人
の語學に於ける、天才に庶幾し、日本人遠く之に及ば」ないことを改めて
思い知る。

「日本人が自から語學に拙なるを以て、一種の誇りなすは、大なる心得違
也」と慨歎し、一転して「今や英人は遲蒔ながら、支那各地に於て、支那
語研究の學校を設け。苟も各會社に於て、支那語に通ずる者は、特別の手
當金を與ふることとなせり」とイギリスの例を紹介しつつ、「我が國民た
るもの、豈に猛省せずして可ならん哉」と結ぶ。「支那各地に於て、支那
語研究の學校を設け」る英国に対し、日本は上海の東亜同文書院のみ。確
かに「我が國民たるもの、豈に猛省せずして可ならん哉」である。

上海から杭州に向い西湖に遊ぶ。

「西湖のみならず、道路の改善せられたるは、支那旅行中隨處皆是にし
て、支那名物の一なる惡道路は、今や殆んど其の跡を失はんとす」。どう
やら徳富は旅行中、「支那名物の一なる惡道路」を見ることはなかったよ
うだ。そこで「吾人は翻つて、之を我が日本の道路に比して、自ら先進國
たるを誇るの、頗る鐵面皮なると思」ったそうである。
     

◆のど自慢に出場したのだ

渡部 亮次郎


1946(昭和21)年のこの日、NHKラジオで「のど自慢素人音楽会」が開始
され、それを記念してNHKが制定した。

第1回の応募者は900人で予選通過者は30人、実に競争率30倍の超難関
だった。

今でも12倍を超える人気長寿番組とか。1946(昭和21)年のこの日、NHK
ラジオで東京)「のど自慢素人音楽会」が開始され、それを記念してNHK
が制定しました。

第1回の応募者は900人で予選通過者は30人、実に競争率30倍の超難関で
した。

今でも12倍を超える人気長寿番組とか。

私も高校生のころ、秋田市での大会に出場、合格した。受験戦争ムードに
反発したもの。歌ったのは「チャペルの鐘」

   作詩:和田隆夫
   作曲:八州秀章

1)なつかしの アカシアの小径は
 白いチャペルに つづく径
 若き愁い 胸に秘めて
 アベ・マリア 夕陽に歌えば
 白いチャペルの ああ
 白いチャペルの 鐘が鳴る

2)嫁ぎゆく あのひとと眺めた
 白いチャペルの 丘の雲
 あわき想い 風に流れ
 アベ・マリア しずかに歌えば
 白いチャペルの ああ
 白いチャペルの 鐘が鳴る

3)忘られぬ 思い出の小径よ
 白いチャペルに つづく径
 若きなやみ 星に告げて
 アベ・マリア 涙に歌えば
 白いチャペルの ああ
 白いチャペルの 鐘が鳴る

この歌を聞くと、なぜか札幌の時計台を連想する。理由は分からない。で
もあれは時計台であってチャペルではない・・・。では「チャペル」とは
何ぞや? 
Wikipediaによると、
「チャペル (Chapel) は、本来クリスチャンが礼拝する場所であるが、日
本では私邸、ホテル、学校、兵舎、客船、空港、病院などに設けられる、
教会の所有ではない礼拝堂を指している。」

とある。どうも教会の礼拝堂はチャペルとは言わないらしい。結婚式場が
チャペルだ。

でもこの歌詞は、何とも淡い恋でいいな〜。(オジサンには縁が無い
が・・・)

白いチャペルか・・・
フト、2年前の今頃、オーストリアに行って教会を見た事を思い出した。
ヨーロッパはどこに行っても教会だ。2年前は2週間掛けてオーストリアを
一周したが、オーストリアでも、どこに行っても尖塔の教会があった。中
でも有名で「これどこかで見た事がある・・」と思った教会が二つあっ
た。ハイリゲンブルートの教会とハルシュタットの教会である。この歌と
はあまり関係ないが、“絵になる”教会の写真を見ながら、岡本敦郎の歌を
聞くもの一興か?

大学を出てNHKで記者になった。

政治部所属に成ってある夜、新宿のスナックで唄っていたら、見知らぬ男
に声をかけられてびっくりした。「うちへ入りませんか」という。名刺に
は「ダニー飯田とパラダイスキング」とあった。「政治記者から歌手へ転
身」というのがおもしろいというのだ。

記者の仕事が面白くてたまらない時期だったこともあって断った。
あれから50年。まったく歌う機会が無いままにすごしたから今では歌は聴
くものと心得ている。2013・10・29

◆リハビリって、再び生きること

向市 眞知(ソーシャルワーカー)


「リハビリ」という用語は訳さなくてもよいくらい、日本語になってしまいました。しかし、この用語がとてもくせものです。皆がこの用語の前向きなところにごまかされ、便利に安易に使ってしまいます。

医師は最後の医療としてリハビリにのぞみをつなげる言い方をします。家族は家にもどるためにはリハビリを頑張ってほしいと期待をかけます。患者様もリハビリを頑張れば元どおりになれると思います。リハビリとは「再び生きる」という用語と聞きました。この概念で考えるととても幅広い概念です。

病院にはリハビリテーション科があり、そのスタッフには理学療法士、作業療法士、言語聴覚訓練士という、国家資格をもった専門技師がそろっています。身体機能回復訓練に携わるスタッフです。医師が「リハビリ」という用語を使う場合にはこのようなリハビリテーション科のスタッフによる訓練をさすだけではなく、「再び生きる」心構えをもちましょう、という意味を含んでいる場合が多いのです。

しかし、患者様、家族様のほうはリハビリは療法士がするものと思い込んでいるケースが多いように思います。よく言われるのに「リハビリが少ない」、「リハビリをしてもらえない」というクレームがあります。療法士がするものだけがリハビリなら、診療報酬上点数がとれるのは一日20分から180分です。

「リハビリを受けさせたいから入院させてほしい」とよく言われますが、一日の何分の1かの時間のリハビリだけで「再び生きる」道のりを前に進むことはむずかしいものです。あとの時間をベッドに寝ているだけでは何の意味もありません。「リハビリのために入院している」というだけの安心感の意味しかありません。

いくら日本一の理学療法士の訓練をうけたといっても、患者本人が「リハビリをする(再び生きる)」心構えになっていなければ、空振りに終わってしまいます。マヒした身体に対して、拘縮してしまわないように理学療法士が外から力を加え訓練をすることはできます。でも、訓練が終わって身体を動かさなければもとのもくあみです。

しかし、言語訓練はそうはいきません。本人が声を出そう、話そうとしなければ訓練になりません。「絶対話すものか!」と口をつぐんでいる患者様に訓練は意味をなしません。まずは声を出してみよう、話してみようという気持ちになるように心理的にリラックスしてもらうことから訓練を始められると聞きました。

このことからわかるように、リハビリは本人次第なのです。そしてやはりリハビリも療法士と患者様の協同作業です。療法士さんの訓練の20分が終われば、患者様自らがもう一度リハビリのメニューをくりかえしてやってみることや、家族が面会時間に療法士に家族ができるリハビリを教えてもらい、リハビリの協力をしてみるなど、何倍にもふくらませていくことがリハビリの道のりなのです。

療法士さんまかせにしないこと、繰り返しやっていくこと、退院しても療法士さんがいなくてもリハビリ、再び生きる道のりは続いていること、それを実行するのは自分であることを忘れないでいてほしいと願っています。2006年4月の診療報酬改定で更にこの認識が重要になってきています。

療法士による機能回復訓練が継続してうけられる回数の上限が疾病により90日〜180日と定められました。これ以上の日数の訓練を続けても保険点数がつかないことになりました。医療機関は保険がきかなくなればリハビリを打ち切らざるをえません。

患者様も10割自費で料金を支払ってまでリハビリを続けることはできないでしょう。リハビリは入院の中でしかできないものではなく、退院しても自宅でもリハビリを続けていくいきごみが大切です。

2018年09月08日

◆トランプ暴露本の波紋広がる

杉浦 正章


マティス国防長官「トランプは、小学5,6年生」

ワシントンポストの著名記者ボブ・ウッドワードが、短気で予測不可能な
トランプを制御しようと苦闘する米政府高官の実態を暴露した。11日に出
版される「Fear(恐怖)」は、米政府高官らの生々しいトランプ批判を報
じている。ウオーターゲート事件以来の内部告発である。内容はトランプ
の愚かさを告発しているが、一種の“舌禍事件”であり、政権にとってはイ
メージダウンになっても致命傷にはなるまい。

ウッドワードは74歳になるが、ウオーターゲート事件でカール・バーンス
タイン記者と共に内部告発者“デイープスロート”から数々のスクープを掲
載、ニクソンを退陣に追い込んだ。筆者はワシントンポスト紙が販売にな
る午前零時過ぎにワシントンの街角で購入、両記者の署名入りの特ダネ記
事を度々転電したものだ。

「Fear(恐怖)」の抜粋を報じたウオールストリートジャーナル紙な ど
によると、トランプ側近らが、いかにトランプを軽蔑しているかが分か
る。抜粋はまずトランプが、今年1月の国家安全保障会議(NSC)で、
在韓米軍の常駐に関し「あの地域にどうして軍事資源を投入する必要があ
るのだ」と疑問を提起。

これに対してマティス国防長官は「我々は第3次 世界大戦を防ぐために
やっている」と米軍のプレゼンスの重要性を説いた が、トランプの退席
後、側近に「行動も理解力も、まるで小学5年生か6 年生だ」と漏らし
たという。

この席でトランプはあきれたことに「我々は 愚かなことをしなければ、
もっと金持ちになれる」など発言して、不満気 であったという。「金持
ち」になることが政権運営の尺度であるとは恐れ 入った。

 トランプはダンフォード統合作戦本部長に対して北朝鮮への先制攻撃計
画を策定するよう指示するという、驚くべき行動もとった。 政権発足当
時から問題になったロシア疑惑に関しても、マーラー特別検察官の事情聴
取を想定して弁護士と打ち合わせたが、事実認識が全くなく、作り上げで
お茶を濁そうとして、弁護士をあきれさせた。

こうしたトランプについて、「Fear(恐怖)」は、トランプの側近や閣
僚からも不満の声が漏れ聞こえるようになっているという。大統領首席補
佐官のジョン・ケリーまでがトランプを「ばか」「錯乱している」「かれ
に何かを理解させるのは無理」と述べたという。

これについてケリーは声 明で、自身がトランプ氏をばか呼ばわりしてい
たというのは事実ではない と打ち消した。「トランプ氏との関係は強固
で率直に何でも言い合える」 とも述べ、不和説の打ち消しに懸命になっ
ている。トランプも4日のツ イッターで「Fear(恐怖)の証言は嘘ばか
りで国民をだますものだ」と憤 りをあらわにした。

 この舌禍事件はトランプ政権の裏側を余すことなく伝えていて興味深い
が、その本質はニクソン政権が倒れたウオーターゲート事件とは天地の違
いがある。ウオーターゲート事件は1972年6月17日にワシントンD.C.の民
主党本部で起きた盗聴侵入事件に始まったアメリカの一大政治スキャンダ
ルである。

盗聴、侵入、司法妨害、証拠隠滅、特別検察官解任、大統領弾 劾発議、
大統領辞任と続いたが、盗聴、侵入は犯罪であり、今回の側近の 不平不
満とは性格を異にする。久しぶりに名前が登場したウッドワード も、老
記者の健在ぶりを示したが、本人が「この本で政権は終わる」と予 言す
るほど簡単には政権は倒れまい。ただ2か月後に控えた議会の中間選 挙
には民主党が下院で過半数を取る可能性が出てきており、そうなればト
ランプの政権運営は苦しくなる。

◆痛飲のあげく帰った「家」は

馬場 伯明


今年も押し迫り忘年会も終わった。酒を飲み過ぎた午前様の夜もあった。
2004年秋、朝日新聞の「声」欄に「酒」のテーマ投稿の募集があり、私の
投稿が採用された。酒の失敗談である。投稿・掲載文は次《  》。

《 「痛飲のあげく帰った『家』は」会社員 馬場伯明(千葉市59歳) 
私が32歳頃のこと。週末の金曜日、あるパーティの裏方作業が終わり、仲
間10人で岡山の街に出た。日本酒やウイスキーを痛飲した。

東京から来た大先輩がどうしてもと言うので、地元に住む上司と共に、大
先輩の宿所に立ち寄り飲み直した。高知のドブロク、冷の茶わん酒、最高
だ。3人で一升瓶1本を空けてしまった。私の記憶は2人でタクシーに乗っ
たところまで。運転手が私たちを団地の我が家まで運んでくれた。

ドアを開け、ずかずかと家に入る。ところがそこは同じ団地、同じ会社の
別の「馬場さん」の家だったのだ。驚く奥さん。タクシーの運転手が苦労
して結局我が家にたどり着けた。翌日は11時頃目が覚めた。「もうここに
は住めない」と泣き叫ぶ妻は、ケーキ持参で馬場さん宅に謝りに行った。

週明け、月曜日の会社。意識不明だった上司は家までさらに40分かかった
という。馬場さんに内線電話を入れて謝ると「やあ、来たらしいね。あの
日は私も午前様。おいしいケーキだった。また来てよ」。飲み過ぎてはい
けないと痛感した一瞬だった》。

1980年頃は岡山県倉敷市で働いていた。私たちが支援する地元のH代議士
のパーティに島根県を遊説中だった長老のT代議士が駆けつけた。「言語
明瞭・意味不明」といわれていたが、長老はご機嫌でホテルの会場を埋め
た支持者に極めて明瞭な言語と正確な意味の挨拶をした。

パーティが終わり裏方の仲間10人で岡山の街へ出た。21:00、当時岡山で
は一流の歓楽街は田町(たまち)だ。札幌はすすきの、東京は銀座、大阪
の北新地、神戸の三宮、広島の流川、博多は東中洲、鹿児島は天文館。私
の故郷長崎なら銅座である。金曜夜の田町はにぎやかだった。カラオケが
流行し始め、クラブのフロアには一夜のダンスペアがあふれていた。

深夜23:30、3人が社有車で倉敷まで帰ってきた。大先輩のNさんが「俺の
宿所に来い」という。単身赴任用の幹部宿所が街の高台にあった。同乗の
O先輩と2人で立ち寄った。宿所には私の部下である年配女性の管理人が深
夜まで待っていた。料理上手の彼女は、深夜なのに、手持ちの食材でつま
みを造り、笑顔でさっと出す。

「俺はカンパリでいく。いい酒があるから、君たちはこれを飲め」と。N
さんの故郷の高知県から届いたどぶろくの一升瓶だ。社内でも有名な酒好
きのOさんは舌なめずり、私も好きな方である。2人の茶碗酒がぐいぐい進
む。う〜ん、うまい。(仕上げの)1升瓶を空けてしまった。

夜中の0:30過ぎ。タクシーを呼んだ。私の家まで3分、先輩の方は5分であ
る。だが、高台から下った途端に2人ともプッツン(意識不明)になった
のであろう。とにかく朝まで記憶喪失状態であった。(以下のことは翌日
以降に知らされたことである)。

タクシーを降り運転手の肩にもたれ自宅の玄関に入り部屋に入る。する
と、♪奥さん出てきてさあ大変!「あれ、どなたですか?」。何と!同じ
団地、同じ会社の、近くに住む別の「馬場さん」の家だったのだ。建物が
似ており深夜は運転手も間違いやすい。おまけに酩酊し朦朧状態の男2人
である。

運転手は宿所の管理人に公衆電話から電話し、管理人が事務の私の部下の
自宅に緊急電話をかけた(1:00)。ようやく妻に電話がつながった。運転
手が私を(玄関に)蹴り降ろすようにしてタクシーは去った(らしい)。

蹴り降ろされた私は翌日太陽が昇っても熟睡している。妻は開店と同時に
デパート天満屋でケーキを買い、私がお邪魔した馬場さん宅に持参し、愚
夫の不始末を詫び、疲れて帰ってきた。

妻は張りつめた心の糸が切れ「もう、ここには住めない。どこへ行くの」
と泣き叫ぶ。宿酔いの私は頭の左端がまだ痛い。土曜の不気味な昼下が
り。2人の無言のにらめっこから果てしない修羅場が続いたのである。

週明けの月曜日の朝。まず先輩のOさんに謝らなきゃと、別の事務室へ頭
を低くして早めに向う。ふと顔を上げたら、こちらへやって来るOさんと
廊下で鉢合わせした。あれっ・・。

「やあ、金曜日は・・・」と2人は同時に言った。事情がわかって大笑
い。だが、笑うた後はやがて悲しき・・なんとやら。2人とも深刻な反省
を余儀なくされたのである。その中身は、タクシー会社の所長が金曜日夜
の担当運転手の「真剣な怒りの報告書」に基づき、私に詳述したものであ
る(タクシー会社の外注の管轄者は私だった)。

私を降ろした後も運転手はOさんの扱いで大変だったという。その日はた
またま家族が旅行中で電話にはだれも出ない。運転手は酔っ払いの妄言ナ
ビゲーターOさんに振り回され、約40分(本来は5分で着く)も家の周辺を
走り、歩きまわった。運転手はもうへとへと。2:00少し前に到着したらし
い。そうか。Oさんもそうだったのか。

こういう話は一瀉千里。あっという間に会社のアナウンサー「役」から各
所へ伝播する。私の部下は深夜電話で1:00にたたき起こされた。「工場で
人身事故発生か」と思っただろうに、酔った上司とは。しかし、彼は(私
の名誉を守り)朝から無言を通してくれていた。その忠誠心に涙する。

「おい、元気、出したらしいな」「いよっ、馬場ちゃん、ご発展」「ええ
加減にしろ、奥さんがかわいそうやないか」などとあちこちの人が無責任
なご教訓を垂れる。あれやこれやで10:30頃まで仕事にならない。

やがて、気を取り直し、気を静め、私が押し入った先輩の馬場さんに内線
電話を入れた。「先日の夜は、どうも・・」と話したところで言葉を遮ら
れた。「やあ、来たらしいね。あの日は私も宴会があり午前様だったん
だ。おいしいケーキだった。また来てよ」という。トホホ、がっくりだ。

聞けば、奥さんは私を馬場さんと同じ宴会の仲間だと本気で思ったらし
い。それが、朦朧とした私が奥の部屋へどんどん進んでいくものだから、
「これは大変」とあわてて細腕で押し戻したそうだ。

酒の飲み過ぎによる大失敗。悲惨な「酒の武勇伝」はこれにてお開きとす
る。ずいぶん昔・・・私が32歳のときのことだ。さて、これを書いた今夜
は、寝酒はやめておこう。(千葉市在住2008/12/25 2018/9/7再掲)

(追記)
1. 投稿が朝日新聞(全国版)に本名で掲載(2004/10/31)されるやいな
や、私に気付いた何人かが遠方からも電話してきた。厳しいお叱りを受
け、また、思い切り「アホ」扱いされた。

2. さて、10年後。2018.9.7の今も、私は365日飲酒している。拙稿の再掲
に際し回想してみた。酒で泥酔し意識不明で帰宅した経験はこれまで2回
だから多くはない。(いや、多いか?笑)。「それならばもう1回はどん
な場なんや?言え、書け」と突っ込まれそうだ:笑)。

40年前、大きなパーティの裏方の仕事から解放され、気を許し、しこたま
飲んだ田町の後での、あの仕上げのどぶろく1升のうち、私は一体どれほ
ど飲んだのだろうか?(了)

◆中国ステルス戦闘機「殲20」は

宮崎 正弘


平成30年(2018年)9月6日(木曜日)通巻第5818号 

 中国ステルス戦闘機「殲20」は米軍F22ラプターに並ぶと豪語
  他方、ロシアの最新鋭機スホイ35も年内に24機を配備

中国人民解放軍の軍拡が急ピッチ。国産空母につづき、こんどは国産のス
テルス戦闘機J20の大量配備だ。

成都航空集団が製造しているJ20(殲20)は、これまでに20機のプロッ
トタイプがお目見えして試験飛行を行い、さらなる改良を加えてきた。年
内に量産体制が稼働し、「近年中に200機の配備を終えるだろう」と鼻息
が荒い。

胡錦涛時代だった。北京でゲイツ国防長官が胡錦涛と会見のおりに、成都
でのステルス戦闘機に言及すると、胡錦涛はそれを知らなかった。

国家主席であり、党総書記であり、軍事委員会主任であるトップが、軍の
情報を把握していないのでアメリカが騒いだ。

中国が自主開発を自称するJ20は、アメリカの最新鋭ジェット戦闘機F22
ラプターと肩を並べる性能を誇り、そのスピード、耐久性、レーダーや電
子機器を搭載してのハイレベルの戦闘能力、その隠密性を豪語した。

しかし西側の専門家は、ステルス性にも問題があり、これは戦闘機という
よりも爆撃機、台湾侵攻が主目的ではないかと見ているようだ。

また米国は11月に最新鋭F35を12機、嘉手納基地に配備し、在韓米軍にも
40機を配備する。

一方で、中国はロシアから最新鋭スホイ35を、24機体制とする。すでに
22011年に25機分、25億ドル支払っており、17年末までに14機が納入され
ている。

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書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評BOOKREVIEW 
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 日米同盟の解体は安部政権の登場によって辛うじて避けられた
  しかし内政は「大きすぎる目標が全てを空虚にしている」印象

  ♪
小川栄太郎『安倍政権の功罪』(悟空出版)
@@@@@@@@@@@@@@@@@

安倍政権の5年半を振り返って、類書には無い「戦略的」な観点から総括
するのが本書である。批判本もたしかに多いけれども書店でもほとんど売
れていない。

安倍評価の本は平積みされている。

なかでも政局の視点から安倍政治を概括し、前向きに評価したのは阿比留
瑠偉氏(『だから安倍晋三政権は強い』)、また内側からは、スピーチラ
イターの谷口智彦氏が、安部の人物像を活写した(『安倍晋三の真実』)。

この2冊はそれなりに面白かった。

小川氏は日本の国家の運命を視座に、安部政治を外交と内政にわけて、外
交を高く評価するという特色を出している。

なによりも他律的でふにゃふにゃで、防衛力も定かではなかった日本の立
ち位置をしっかりと安定させ、安部は「重病人の日本が筋肉質な若者に生
まれ変わった」とまでいうのである。

オバマは親中路線にのめり込み、G2を目指した。

日本の頭越しに米中同盟結成の寸前のところまで突き進んだ。おまけに日
本には唐変木民主党政権が3代続き、米国の日本不信はマージナルな危機
ラインまで落ち込んでいた。

「オバマ政権はアジアへの関与政策を標榜しながらも、中国の海洋進出を
牽制する動きがあまりにも微弱だった。安部が外交始動一年で示した東南
アジア政策は、戦後日本が初めて試みる積極的な安全保障上の関与政策
だった」(60p)

安倍は「民主主義」と「人権」を掲げた。

「近代世界の主導理念である民主主義と人権が、共産党による圧政と情報
統制の国、中国の経済成長=台頭により、力を失いつつある。近代史は自
由民主という政治的イデオロギーと国民の経済的満足度が比例するという
仮説のもとに進展してきたが、ここへ来て、その仮説が崩れつつあるの
だ。価値観が揺らぎ、そのなかで経済的な保護を求めて揺らぐASEANだか
らこそ、日本は自由民主の価値観におけるアジアの大国たることを宣言す
る」(68p)。

この安倍ドクトリンを追いかけるかのように習近平はシルクロード構想を
提唱した。いま、その中国のバラマキと裏の意図を悟って、世界が中国に
警戒心を深めた。

親中路線を大きく修正したのが豪とマレーシアだった。フィリピンにもそ
の兆候がでてきた。日本外交がしっかりしてきたからだ。
 ただし日露関係はプーチンとの個人的な関係を築き上げたものの「前の
めりの憂鬱がある」と釘を刺す。

ともかく安倍外交は「日米同盟の解体は安部の登場によって辛うじて避け
られた」のである。しかし「オバマ政権=日本の民主党政権時代、アメリ
カが大きく親中に梶を切り、日本を捨てつつあったことを決して忘れては
ならない」(116p)

さて国内政治だが、安倍政権スタート直後から、「黒田バズーカ」(異次
元の金融緩和)が炸裂し、株価が吹きあがって景況感に湧いた。そのアベ
ノミクスに疲労かがひたひたと近付いてきた。

功罪の罪の方が内政に目立ち始めたと小川氏は冷静に言う。

「大きすぎる目標が全てを空虚に見せている」(156p)。

第一がGDP600兆円達成目標、第二が子育て支援、希望出生率1・8と
いう数値目標がでた。第三は社会保障、とくわけ介護離職ゼロを打ち出した。

だが、「一億総活躍」も「地方創生」も看板倒れになる怖れがある。まし
てや「クール・ジャパン」は発想そのものが間違っていると手厳しい。
安倍政権の功罪を考える戦略的思考の中間報告である。

◆沖縄基地問題を巡る壮大な矛盾の構図

櫻井よしこ



「沖縄基地問題を巡る壮大な矛盾の構図 『不都合な真実』の予見は説得
力がある」

沖縄県が熱い政治の渦の中にある。翁長雄志知事の死去で、知事選挙が9
月30日に繰り上がった。氏の後継者として小沢一郎氏の同志で、自由党幹
事長の玉城デニー氏が出馬する可能性が濃厚だ。

自民・公明の候補者は普天間飛行場を擁する宜野湾市の前市長、佐喜眞淳
氏である。宜野湾市議、沖縄県議を経て宜野湾市長に至る足跡は、激しく
ぶれた翁長氏の経歴とは対照的だ。

両氏の一騎打ちが予想される中、沖縄では「弔い合戦」「オール沖縄」な
どの言葉が飛び交う。現地紙の「琉球新報」「沖縄タイムス」は、翁長氏
が辺野古の海を守るべく本土政府と鋭く対立し、命懸けで闘ったと熱く報
じ、知事選挙を氏の遺志を継ぐ弔い合戦だと印象づける。2紙は沖縄県人
が一致して「オール沖縄」で本土政府と闘うという形づくりに懸命である。

しかし、「オール沖縄」は本当に保革両勢力を束ねる政治基盤なのか。翁
長氏はかつての自民党県連幹事長で、普天間飛行場の県内移設を容認して
いた。その保守の政治家が共産党主導の革新勢力と手を結んだために保革
両勢力が結集したかのような印象を与えたが、真実はどうか。翁長氏はな
ぜ突如、辺野古移設に反対し始めたのか。

こうしたことを本土側の思い込みで理解しようとすると、必ず間違う。で
はどうしたら沖縄を理解できるのか。

田久保忠衛氏は沖縄返還の前、時事通信那覇支局長だった。氏は沖縄理解
の基本として「沖縄学の父」とも言われる伊波普猷(いはふゆう)を読む
ことだと語る。沖縄・久米島にゆかりのある佐藤優氏も伊波の『おもろさ
うし』を読み通したと、どこかに書いていた。ちなみに伊波は誰も研究す
る人のいなかった時代から琉球の万葉、「おもろ」を研究し『おもろさう
し』をまとめた。

伊波の膨大な著作に加えて、手軽な新潮新書『沖縄の不都合な真実』(大
久保潤、篠原章著)を読めば、かなり沖縄のことがわかる。『不都合な真
実』は現在進行形の事象を中心にしたジャーナリスティックな著述だ。

大部の専門書である伊波の全集と、小振りな新書は沖縄理解の根本におい
て重なっている。両者に通底するのは沖縄へのあたたかな想いと、沖縄の
暗部への深い斬り込みである。

『不都合な真実』は、誰も反論しにくい「沖縄の被害者の立場」を前面に
出した「沖縄民族主義」を冷静に批判し、補助金依存型経済と公務員優位
の社会構造にメスを入れない限り、基地縮小は進まないと断ずる。同批判
は伊波がざっと以下のように指摘した「沖縄人の最大欠点」と本質的に重
なる。

〈日支両国に従属した歴史の中で沖縄人は二股膏薬主義を取らざるを得
ず、生きるために友も師も、場合によっては国も売るという性質を育んだ〉

弱者の立場ゆえに、生存のためにはどっちにも転ぶというのだ。

結論を急げば、翁長氏を支える勢力は「オール沖縄」と称されるようなも
のではない。4年前の知事選挙の得票率は、翁長氏ら辺野古移設反対派が
52.7%、容認派が47.4%だった。実態は「オール沖縄」ではなく「沖縄二
分」なのだ。

『不都合な真実』は翁長氏の突然の変心は「カネと権力」を巡る覇権争い
ゆえだと分析し、本土の私たちのように、翁長氏変心の原因を辺野古移設
を巡る立場の違いに求めるのは「まったく的外れ」だと斬って捨てる。

沖縄問題は難しい。基地縮小の施策はおよそいつも現地の反対で妨げられ
る。同時に、基地負担の見返りに膨大な額の補助金が要求され、政府が応
じる。それが基地縮小へのブレーキとなる。この壮大な矛盾の中で、今
後、沖縄の自衛隊誘致運動が海兵隊の縮小に伴って一大勢力に発展すると
の『不都合な真実』の予見には、十分な説得力がある。表面的な考察での
み沖縄問題を論ずると間違うのである。
『週刊ダイヤモンド』 2018年9月1日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1245

◆毛馬を出奔した蕪村の理由

石岡荘十


インフルエンザというか、「はやり風邪」の記述を歴史の中にたどると、今で言う「新型インフルエンザ」はじつは昔から繰り返し起きていたことがわかる。だからいまさら「新型」というネーミングは「いかがなものか」と首をかしげる感染症や公衆衛生の専門家が少なくない。

南北朝時代を描いた歴史物語、「増鏡」にこんな記述がある。

「ことしはいかなるにか 、しはぶきやみはやりて、ひとおおくうせたまふ」「しはぶき」は咳のことだから「咳をする病で多くの人が死んだ」ということだ。また、「大鏡」には、1006年前の寛弘8年(1011年)6月、一条法皇が「しはぶきやみ」のため死亡したと書かれている。

ずっと時代を下って享保18年(1733年)、大阪市中で33万人が流行性感冒にかかり、2,600人が死亡。

注(蕪村が庄屋を引き継げず、庄屋:問屋・宿屋を売却して、毛馬を出奔した。家族も
身内も、蕪村に家督を継がさせようとしたが、父親が死んだ以上、絵だけに頼って
江戸へ下り、俳人巴人を訪ねて、弟子となった。インフルエンザが人生を変えたI

この流行は江戸へ蔓延し、人々は藁人形で疫病神を作り、鉦(かね)や太鼓を打ち鳴らし、はやし立てながら海辺で疫病神を送った、とある。

これらの出来事は、いずれも6月、7月の暑い季節に起きており、疫学的に証明されたわけではないが、どうも、寒い時期に起きるいわゆる季節性の風邪とは違うようだ。

さらに、江戸時代には天下の横綱・谷風がはやり風邪にかかり本場所を休んで、連勝記録が止まってしまった。世間では「谷風もかかったはやりかぜ」と怖れ、四股名にひっかけて、はやりかぜのことを「たにかぜ」と呼んだそうだ。

天保6年(1835年)の「医療生始」という書物には「印弗魯英撒(いんふりゅえんざ)」の言葉が早くも見える。

そして1918年春から翌年にかけて、第1次世界大戦の最中、海の向こうではアメリカに端を発した史上最悪のインフルエンザ「スペイン風邪」がヨーロッパに持ち込まれて猛威をふるい、やがて全地球に蔓延する。

感染者は当時の全地球人口の三分の一の6億人、いろいろな説があるが死者は5000万人に達したといわれる。日本では、大正7年のことだ。当時の人口5500万人に対し最新の研究では死者は48万人に達していたと推定する説もある。当時の新聞の見出しはこうだ。

「西班牙風邪遂に交通機関に影響(東京朝日新聞 大正7年10月31日)」。「電信事務も大故障(読売新聞 大正8年2月6日)」---。

スペイン風邪については↓。
http://www.melma.com/backnumber_108241_4570052/

これらは明らかに、季節性のインフルエンザとは違った。スペイン風邪の病原体が「新型インフルエンザ」と同じA型インフルエンザH1N1と分かったのは、1933年になってからのことである。

つまり、いま問題になっている新型インフルエンザはじつは「新型」でもなんでもなく、「旧型」のリバイバルなのである。その後1997年、アラスカの凍土の中から発見された4遺体から、肺組織の検体が採取され漸くスペイン風邪の病原体の正体が科学的に裏付けられた。

スペイン風邪だけでなく、6月や7月の湿気の多い梅雨のむし暑い季節に流行った「しはぶきやみ」もじつはいまの新型インフルエンザのご先祖様の仕業だったかもしれない。

「新型インフルエンザは時々現れる。1580年以来10〜13回パンデミック(世界規模の蔓延)が発生している」(国立感染症研究所の岡部信彦情報センター長)のである。

アジア風邪は1956年に中国南西部で発生し、翌年から世界的に流行した。ウイルスはA型のH2N2亜型である。H、Nの詳しい説明は素人には手に負えないのでここでは省くが、新型インフルエンザH1N1の親戚筋、「いとこ」か「はとこ」だ。死者はスペインかぜの1/10以下であったが、抗生物質の普及以降としては重大級の流行であった。

40年ほど前、前回の「パンデミック」である香港風邪(H3N2)が1968年に発生。6月に香港で流行を始め、8月に台湾とシンガポールに、9月には日本に、12月にはアメリカに飛び火する。結局、日本では2,000人、世界では56,000人が死亡したと言われている。日本では3億円事件のあの年である。

10年前、1998年にも香港風邪が流行った。このときはH3N2ウイルスだったが、アジア風邪(H2N2)のフルチェンジだったといわれる。

一昨年2007年に流行ったAソ連型インフルエンザの先祖は、30年前の1977年のソ連風邪(H1N1)だ。因みに、ソ連と名前が付いているが、“原産地”、つまり発祥地は中国だといわれている。1977年5月に中国北西部で流行をはじめ、同年12月にシベリア、西部ロシア、日本へ、さらに翌年1978年6月にはアメリカへと飛び火。

ウイルスがスペイン風邪と同型だったということで、研究室に保存されていたスペイン風邪のウィルスが何かの理由で漏れ出したという憶測もあるくらいよく似ている。

これらスペイン、香港、ソ連の風邪は、いずれも近年も流行を繰り返しているA香港型インフルエンザのご祖先、鳥インフルエンザから変異した新種のウィルスによるものだといわれている。

「新型インフルエンザ」とは、人間はまだ感染したことがない新種のインフルエンザのことを言い、新種のウィルスであるため、人間にとっては免疫が働かないとされているが、じつは中にはリバイバル、ちょっと“化粧直し”をして姿を現すものもあることがわかる。

いま大騒ぎしている新型インフルエンザは英語では‘Swine Flu’という。

‘New Type Influenza’などとは言わない。「新型」とまったく別のインフルエンザのような印象を与えるネーミングをしているのは日本だけのようだ。いま流行っているのはブタ由来のインフルエンザなのだが、死亡率が高く本当に怖いのは鳥由来のインフルエンザ(’Avian Flu’ Bird Flu’)である。

過去にも何度か鳥インフルエンザの“震源地”となった中国大陸の関連情報について業界では、今ひとつマユツバだという見方もある。ことによったら香港風邪のリバイバル型が周辺国を窺っているかもしれない。

軍事的な脅威ばかりが声高に議論されているが、ウイルスに対する警戒を怠ってはならない。