2018年10月24日

◆6〜7世紀「木津川流域」

白井 繁夫


『古事記.日本書紀』の古墳時代に登場した物語:「武埴安彦の反乱、忍熊王の謀反」と云う2度にわたる木津川流域の戦いに大和政権が勝利した結果、「木津」は大和盆地からの北の出入口となり、大和政権の拡大した支配領域の重要な結節点にもなったのです。

6世紀に入ると、大和政権は仁徳系の王統を継承する皇子(25代武烈天皇後の皇子)が絶えかける状況になり、大伴金村大連(おおともかねむらのおおむらじ)が、近江の息長(おきなが)氏の系統:応神天皇五世の孫:男大迹王(おほどのみこ)の擁立をはかります。



<上記イラストは6世紀初頭、継体天皇が遷都した三つの宮:★楠葉宮(北河内)→★筒城宮(綴喜)→★弟国宮(乙訓)です。>

大和、河内の一部の「男大迹王」を快く思わない勢力が丹波の別の王を推すのに対して、前述の2度の戦いで敗れた樟葉、綴喜の子孫や、近江の息長氏、母方(越前三国の振媛)や木津川流域の人々の強い支援もあり、更に前王統の手白香皇女(たしらかのひめみこ:仁賢天皇の皇女)と結ばれ、「男大迹王」は河内北部の楠葉宮で即位し、「継体天皇」になりました。

しかし、大和への入国を阻止しようとする反対勢力により、即位5年後、山背(やましろ)の筒城宮(つつき:京田辺市普賢寺)に遷都し、さらに、7年後の12月3日に弟国宮(おとくに:乙訓:長岡京市今里)へ遷都しました。

「継体天皇」が大和(磐余玉穂宮:いわれたまほのみや:桜井市池之内)に入り名実ともに大王となるのには、楠葉宮を出てから20年の歳月を要しました。

この間、近江、越前、尾張などをはじめ木津川、淀川水系の諸豪族(息長、和珥、茨田氏:まんだ)の地道な支援と、前王統の皇女との婚姻などで、継体政権は安定したのです。
(日本書紀は継体の直系の子孫:天武天皇によって編纂されており、古事記の記述と異なるところもあります。)

「木津川流域」は「継体天皇」以降の大和にとっては更に重要度が増し、海外からの渡来人も木津川市内に多く住むようになりました。

6世紀半ばを過ぎると、朝鮮半島の戦乱をさけて北九州の筑紫に到着した人達も、高麗人(こまひと)も上狛(かみこま).下狛(しもこま)など木津川地域に定着しだしました。(南部2郡:相楽、綴喜は「高麗(狛)氏」、山城北部:京都盆地は「秦氏」が集中していました。)

朝鮮半島の百済と倭国は非常に親密な関係であり、欽明天皇13年には百済の聖明王から仏像や経論が贈られ、文字や土木技術も伝えられました。

欽明天皇31年(570年)に、国交を開く目的で来日した高句麗使の一行の船が難破して北陸沿岸に漂着したのを、現地の道君(みちのきみ)が隠していると奏上あり、天皇は山城国相楽郡に館を建て、使者を安置するよう命じました。

「木津川の港」(泉津)、木津の相楽神社近隣に外交館舎「相楽館:さがらかのむろつみ」を建てて、一行を出迎えました。しかし、上表文と献物を差し出せないうちに、天皇が病死していまい、使者はいたずらに滞在が長引いていました。
(相楽館は高楲こまひ館とも呼ばれたことから木津川北岸の上狛との説もありますが外交館舎は後の難波館同様港の近く相楽:サガナカに在ったと思われます。)

次に即位した敏達天皇は、長く使者が逗留していることを知り、大いに憐れみ、即刻臣下を派遣して上表文などを受け取らせて、(572年5月)帰国の途に就かせました。
(大和朝廷は百済との外交が基本であり、物部氏らは高句麗との新しい外交に反対していました。政界のニュウリーダー大臣蘇我馬子の決断によったと云われています。)

任務を終えて帰国途中の一行は、蘇我氏に反対する者たちによって、暗殺されてしまったと云われています。当時の日本の一部には、大陸から伝来した仏教文化を受け入れずに神道をもって国教とすべきという信念を抱く反対勢力があったのです。

6世紀後半以降、外交使節は大和川を遡上しその支流なども利用して大和盆地の南部にある「宮」へ行く水運利用や、難波から大和にむけて敷設された陸路も利用していました。
しかし、木材や石材などの物資輸送に関する「木津川の重要度」にはなんの変化もありません。

朝鮮半島では3世紀(220年)、後漢の滅亡により、中国の影響から離れて、3国時代に入り、それぞれの国は発展し、文化的にも儒教から仏教に変化し、百済は4世紀が最も栄えていたと云われています。高句麗も鴨緑江から満州へ領土を徐々に拡大して行きました。

6世紀末から7世紀にかけて、朝鮮半島が再び、中国の隋、唐の侵略戦争の被害を受けていた時代、倭国では蘇我氏が皇族との婚姻を結び、絶大な勢力を得ることにより、大伴、物部の各氏を廃絶し、無力化してしまいました。

蘇我馬子は592年11月には東漢駒(やまとのあやのこま)に命じて、崇峻天皇をも弑逆(しいぎゃく:臣下が君主を暗殺)しましたが、(根回しの効果か?)、他豪族からのクレームもでなかったと云われています。

30代敏達天皇の皇后(33代推古天皇)は蘇我馬子に請われ即位しました。日本史上、初の女帝が誕生したのです。(593年)推古天皇は甥の厩戸皇子(うまやどのおうじ:聖徳太子)を皇太子として政治を補佐させました。

7世紀に入ると、大化の改新、壬申の乱、白村江の戦いなど木津川流域にもまた動乱があり、大津京、飛鳥京から藤原京へと移り行くのです。

参考資料: 木津町史  本文篇  木津町

2018年10月23日

◆故仙谷由人氏に言うのはやぼだが…

阿比留 瑠比


菅直人内閣で官房長官を務め、11日に死去した仙谷由人氏は毀誉褒貶
(きよほうへん)が相半ばし、特にその発言が物議を醸した人物だった。
言わずもがなのことを言って相手を挑発し、黒を白と言い張る。めったに
誤りを認めない…。そんな姿勢は傲慢そのものに見えた。

ただ、仙谷氏の後任だった立憲民主党の枝野幸男代表が官房長官当時、
こう評していたのが強く印象に残っている。

「彼はピュア(純粋)だから…」

自分はそうではないからもっと老獪(ろうかい)に振る舞うという含み
かどうかは分からないが、確かに仙谷氏にそういう部分はあったろう。東
大の学友で、菅内閣では内閣官房参与だった評論家の松本健一氏(故人)
も平成22年、産経新聞の取材に対し、こう語っていた。

「仙谷はナイーブ(無邪気)でシャイ(恥ずかしがり屋)だ」

仙谷氏は「(私は)本当は気の小さい男だ」と述べたこともある。それ
ゆえに悪ぶってみせたり、強弁で押し通そうとしたりする癖があったのか
もしれない。

とはいえ、たとえそうだったとしても、22年9月の尖閣諸島(沖縄県 石
垣市)沖での中国漁船衝突事件と中国人船長の超法規的釈放に関して
は、もっと素直に反省し、経緯を明らかにしてほしかった。仙谷氏の死去
に関する菅氏のこんなコメントを聞き、痛感した。

「軍事的衝突に発展しかねない場面もあった。最悪の事態は避けること
ができたのは仙谷氏の力だった」

だが、事実関係を知る外務官僚は「この発言は根本的に間違っている」
と断言する。菅氏は大変な事態だったと強調したかったのだろうが当時、
中国の人民解放軍は何ら動きを見せておらず、当然ながら日本政府も自衛
隊を出動させることなど考えていなかった。

この問題では、菅氏も仙谷氏もずっと、釈放は那覇地検独自の判断だと虚
偽答弁を続けていたが、仙谷氏自身が25年になって菅氏の意向を受けて
船長釈放を法務・検察当局に働きかけたことを認めた。

「中国の圧力にベタ折れした菅氏が釈放を指示し、それを仙谷氏が全部
かぶって処分保留での釈放などと理論武装した」

 外務省幹部は当時、筆者にこう証言している。こんなこともあった。

「外務省は一体何をやっているんだ。早く問題を解決しろ。中国に人脈
だってあるんだろう」

事件解決を焦った菅氏が休日の首相公邸に仙谷氏を含む関係閣僚と関係
者らを集め、外務省側に罵声を浴びせ続けたのだった。これに、たまりか
ねた外務省側が反論した。

「鳩山由紀夫内閣が前年、外務省や宮内庁の反対を押し切り、『1カ月
ルール』を破って天皇陛下を無理やり、習近平国家副主席(現主席)に会
わせたから、日本は中国に足元を見られているんですよ」

菅氏はしばらく沈黙した後、「忸怩(じくじ)たる思いはある」と答え
たという。だが結局、外交判断などするはずもない那覇地検に責任を押し
つけ、さらに中国に譲歩を重ねることになる中国人船長釈放を選んだ。

この事件で菅内閣が国民の目から隠した漁船の体当たり映像をインター
ネット上に流出させ、仙谷氏から犯罪者呼ばわりされた元海上保安官、一
色正春氏は16日、筆者のフェイスブックにこうコメントしていた。

「仏さん(仙谷氏)に何だかんだというのは野暮(やぼ)ってもんです」

 もっともだと思いはしたが、やぼを承知で書いた。(論説委員兼政治部
編集委員)

産経ニュース阿比留瑠比の極言御免

◆患者自己注射物語

渡部 亮次郎


日本で糖尿病患者が治療薬「インスリン」を患者自身で注射して良いと決
断した厚生大臣は園田直(そのだ すなお)である。インスリンの発見か
ら既に60年経っていた。逆に言えば患者たちの悲願を歴代厚生大臣が60年
も拒否するという残虐行為をしてきたのである。

園田自身も実は重篤な糖尿病患者であった。しかしインスリンの注射から
逃れていたために大臣在任中、合併症としての腎臓病に罹り、1週間ほど
緊急入院したくらい。大変な痛がり屋。引きかえに命を落とした。

政治家にとって入院は命取り。大臣秘書官として事実を伏せるために余計
な苦労をしたものである。にも拘らず園田はそれから僅か3年後、人工透
析を途中で拒否したため、腎不全により70歳で死亡した。昭和59(1984)年
4月2日のことだった。

その直後、私が糖尿病を発症した。全く予期せざる事態に仰天した。糖尿
病は現時点の医学では絶対治らない病気、いうなれば不治の病というから
業病(ごうびょう)ではないか。絶望的になった。

検査などの結果、私の母方の家系に糖尿病のDNA(かかりやすい遺伝子)が
有り、弟は発症しないできたが、上2人の男兄弟は暴飲暴食による肥満が
契機となって発症したものと分かった。

しかし、あれから30年以上、私は毎朝、ペン型をしたインスリン注射を繰
り返すことによって血糖値を維持し、今のところ合併症状も全く無い。普
通の生活をしていて主治医からも「文句の付けようがありません」と褒め
られている。お陰で園田の年を超えた。

これの大きな理由は注射針が極細(0・18mm)になって殆ど痛みを感じなく
なったからである。あの時、園田が自己注射を決断したお陰で医療器具
メーカーが、患者のためと自社の利益をもちろん考え、針を細くし、簡単
に注射できるよう研鑽を積んでくれたからである。

逆に言えば、厚生省が自己注射を許可しないものだから、医療器具メー
カーは、それまで全く研鑽を積まないできてしまったのである。自己注射
で注射器や針がどんどん売れるとなって初めて研鑽を積む価値があるとい
うものだ。

つまり役人や医者の頭が「安全」だけに固まっている限り医療器具は1歩
たりとも前進しないわけだ。患者たちを60年も苦しめてきた厚生省と日本
医師会の罪こそは万死に値するといっても過言ではない。

そこで常日頃、昭和56年までの糖尿病患者たちの苦しみを追ってきたが、
最近、やっとそれらしい記事をインターネット上で発見した。

「インスリン自己注射への長い道のり」(2001/05/28 月曜日)と題するも
ので、とある。
http://www.geocities.jp/y_not_dm/insurin2.html


東京女子医科大学名誉教授 福岡白十字病院顧問 平田 行正氏へのイン
タビュー記事「インスリン自己注射の保険適用から15周年を迎えて…」よ
り抜粋と要約

<インスリンが発見されたのは、1921年(大正10年)です。欧米では供給
のメドがつくとすぐに患者の自己注射が認められました。しかし、日本で
は60年もの間、自己注射が認められず、また、保険の適用もありませんで
した。

当時の日本では、医療は医師の占有物だとする古い考え方が根強く、医師
会はもちろん、厚生省の役人の中にも、何もインスリン注射をしなくとも
飲み薬があるではないか、と平気で発言する人もありました。

インスリン注射が必要不可欠な糖尿病患者は、インスリンを自費で購入
し、自ら注射するという違法行為でもって、生命をつないでいました。

インスリン発見50周年にあたる昭和46年、糖尿病協会は全国的な署名運動
を行い、3ヶ月足らずで11万4,000名の署名を集めましたが、厚生省から
は、「国としては、正面きってこれを取り上げるのは難しい」という回答
が繰り返されました。(佐藤内閣で厚生大臣は内田常雄に続いて齋藤昇)。

中央官庁の理解が得られず、困り果てた医療側や自治体はあの手この手で
知恵を絞り、自己注射公認まで持ちこたえました。

昭和56年(厚生大臣 園田)、各種の努力によりインスリンの自己注射が
公認され、その5年後には血糖値の自己測定が公認されました。保険適用。

医療は医師だけのものではなく、患者と共に手を携えて行うべきものだと
いうことが公認された、医療史上最初の出来事です。

インスリン自己注射公認までの悪戦苦闘

長野県・浅間病院と県の衛生課や医師会などが協議して、生み出した苦肉
の策。患者の来院時にインスリンを1本処方し、その一部を注射して、残
りを渡して自己注射する。毎月1〜2回患者から直接電話で報告を受ける
ことで、電話再診料として保険請求した。

新聞が長野方式として報じたため、厚生省から中止命令。

バイアル1本を処方して、注射後捨てたものを患者が拾って使用した、と
いう言い逃れ。来院時に400単位を1度に注射したことにして、1〜2週
間は効いている形にした>。


1986年、研究のスタートから10年目、
血糖自己測定が健保適用に  (2003年9月)

 血糖自己測定を導入した糖尿病の自己管理がスタートした頃(1976
年〜)、今では誰もがあたりまえと思っているインスリン自己注射は、医
師法に違反するという非合法のもとで行なわれていた。

日本医事新報(1971年)の読者質問欄ではインスリン自己注射の正当性に
ついて、当時の厚生省担当官は「自己注射は全く不可であり、代わりに経
口血糖降下剤の使用があるではないか」と回答している。

これが1970年代の実態だったのである。このような状況に対して、当時の
「日本糖尿病協会」は、インスリン発見50年を迎えて、なおインスリン自
己注射が認められない現状を打破すべく10万人の署名を集めた。そして厚
生大臣をはじめ関係各方面に、インスリン自己注射の公認と健保給付を陳
情したが全く受け入れられなかった。

正当化されたインスリンの自己注射(1981年)

このような状況だったため、インスリンの自己注射容認と、インスリン自
己注射に関わる諸費用の健保適用までには、なお多くの人の尽力と歳月を
要した。そして結果が出たのは1981年(昭和56年)。この年ようやくイン
スリン自己注射の正当性の認知とこれの健保適用が得られた。

その内容は当時行なわれていた慢性疾患指導料200点に、もう200点加算す
るというものであった。これはその後の医療のあり方に大きな影響をもた
らし、血糖自己測定も含め、患者を中心にした医療の実践の必要性と有用
性の実証へと繋げられていった。


<血糖自己測定の健保適用(1986年)(園田死して2年後)

C:\Documents and Settings\Owner\My Documents\血糖自己測定25年.htm

インスリン自己注射の健保適用から5年後、私たちが血糖自己測定研究を
スタートさせてから10年目、大方の予想を上回る速さで血糖自己測定の健
保適用がなされた。これはインスリン自己注射指導料に加算する形で設定
された。

以後、何度かの改定を経て、保険点数には血糖自己測定に必要な簡易血糖
測定機器、試験紙(センサー)、穿刺用器具、穿刺針、消毒用アルコール
綿など必要な機器や備品の全ても含まれるようになっている>。

1人の政治家の柔軟な頭脳による1秒の決断が日本の歴史を変えたといって
もいい決断だった。この事実を厚生省は大げさに発表しなかったが、元秘
書官として責任をもって報告する。(文中敬称略)2007・05・24

◆米中対立は中長期にわたり本格化する

櫻井よしこ


「米中対立は中長期にわたり本格化する 日米の連携を一層強めていくの
がよい」
米国が遂に中国の本性に気づいた──。10月4日、マイク・ペンス米副大統
領が有力シンクタンク「ハドソン研究所」で行った演説のメッセージがこ
れだった。

米国の「覚醒」は遅すぎるとも思えるが、それでも彼らが中国の長期的国
家戦略の意図を正しく認識するのは日本にとって歓迎すべきことだ。

ペンス氏は約1時間、およそ全分野にわたって中国批判を展開した。不公
正貿易、知的財産の窃盗、弱小国への債務の罠、狡猾な米中間選挙への介
入、豊富な資金による米言論機関、シンクタンク、大学、研究者への影響
力行使、米国世論を動かす中国メディアの一方的情報、さらに、南シナ
海、インド洋、太平洋での軍事的席巻など、ペンス氏は果てしなく具体例
を挙げた。

諸外国だけでなく自国民にも苛烈な圧力を中国共産党は加え2020年までに
ジョージ・オーウェル的社会の実現を目論んでいるとも非難した。

この一連の異常な中国の行動を見逃す時代はもはや終わりだと、トランプ
政権の決意を、ペンス氏は語ったのだ。米国はいまや対中新冷戦に突入し
たと考えてよいだろう。

とりわけ印象深いのは、演説でペンス氏がマイケル・ピルズベリーという
名前に二度、言及したことだ。現在ハドソン研究所の中国戦略センター所
長を務めるピルズベリー氏は1969年、大学院生のときにCIA(米中央情
報局)にスカウトされ、以来、CIA要員として中国問題に関わってきた。

親中派の中の親中派を自任する氏は三年前、ベストセラーとなった
『China 2049』を書いて、自分は中国に騙されていたと告白し、氏
がそのほぼ一生を費やして研究した中国人の考え方を詳述した。中国人
は、米国を横暴な暴君ととらえ、中国の最終決戦の相手だと認識している
が、米国はそのことをほとんど理解しておらず、むしろ中国は米国のよう
な国になりたいと憧れていると勝手に思い込み、結果として騙され続けて
きたというのだ。

一例として氏は米中接近の事例を示している。私たちは、米中接近はニク
ソン大統領が旧ソ連を孤立させるために中国を取り込んだ大戦略だと理解
してきた。しかしピルズベリー氏の見方は異なる。60年代末に中国は国境
を巡ってソ連と対立、新疆国境でソ連軍と大規模な衝突を起こした。軍の
タカ派の元帥らはソ連に対して米国カードを使うべきだ、台湾問題を不問
にしても米国に接近すべきだと毛沢東に進言、毛はそれを受け入れたという。

ニクソン大統領の訪中で、米中関係は劇的に改善されたが、それは中国が
支援と保護を必要とする無力な嘆願者を装い、武器装備をはじめ、中国が
対立していたインドやソ連の情報まで、世界が驚く程の貴重な支援を米国
から手に入れた構図だったと、ピルズベリー氏は明かしている。

明らかに中国は米国の力を借りて力をつけた。それは彼らが日本から膨大
な額のODA(政府開発援助)をせしめ、鉄鋼をはじめとする基幹産業技
術を移転してもらって力をつけたのと同じ構図だ。

ピルズベリー氏はさらに中ソ関係も分析した。中国はソ連に対しても米国
に対するのと同様に弱い国を演じて最大限の援助を受け、力をつけ、最終
的に米国の側につくことでソ連と訣別し、ソ連を潰したというのだ。

そしていま、中国は米国に対しても覇権を目指す意図を隠さなくなった。
米国がもはや太刀打ちできないところまで、状況は中国有利に変化したと
中国が判断した結果だというのだ。ペンス氏もそのピルズベリー氏の分析
を共有しているのであろう。それがハドソン研究所でのスピーチではない
か。米中の対立は中・長期にわたり本格化していくと考えるひとつの理由
である。導き出される結論は日米連携を一層強めるのが日本の国益だとい
うことだ。

週刊ダイヤモンド 2018年10月20日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1252

◆彼岸の風景

石岡 荘十



多分、彼岸はこんなところではないかと思わせる風景を垣間見る機会があった。といっても、自ら望んで体験をしたわけではない。

少年の頃のリウマチ熱が原因で、全身に血液を送り出す心臓(左心室)の出口の、扉ともいえる大動脈弁がうまく開閉しなくなった。

このため、1999年2月、開心手術、つまり胸を切り開いて、ナマの大動脈弁を切り取り、代わりにチタンとカーボンで出来た人工の弁を縫い付ける手術(大動脈弁置換手術)を強いられた。

64歳だったがまだ死にたくなかった。怖かった。幸い、手術は成功し、集中治療室(ICU)から三日ぶりに一般病棟に還ったのはいいが、その翌朝、突然、激しい不整脈に襲われる。

こんなときに一発で不整脈をしゃんとさせる方法は一つしかない。「ドカン!」である。

後でわかったことだが、ドカンというのは業界スラングで心臓に電気ショックを与える治療のことだ。ストレッチャーに乗せられて別室につれ込まれ麻酔注射をブスッ。記憶はここまでで、全身麻酔をかけられた後の、見た風景は------。

地下室のような真っ暗なところに私はいる。見上げると長い階段があって「うんうん」言いながら這い上っていくと、そこに一条の光と川の流れ-----花園。うっとりしていると、女の声。
「石岡さん、石岡さん、わかりますか」
別の女の呼びかけ。
「お父さん!」
「おやじ聞こえるかっ」
 薄目を開けてみると、家族の顔があった。
 
あれは、よく言われる「臨死体験」ではなかったか。死に臨む、つまり彼岸直前の風景ではなかったか。研究者によると、こんな話は腐るほどあって、数多くの体験者からの聞き取りを統計的に分析すると、二つの特徴がある。

その一つは「体外離脱」。英語ではOut of Body Experience。直訳すると「肉体の外の体験」である。

手術台とか布団に寝ている自分を家族や医者が取り囲んで嘆き悲しんでいる風景を、肉体から離れたもう一人の自分が高いところから見ている状態をいう。

ある体験者は祖母が隠し通していたハゲが頭のてっぺんにあることをそのとき初めて見つける。生還した後そのことを祖母に言うと「いつ見たんだ」と不機嫌に問い詰められたという。

こうしてみると、肉体から離れたもう一人の自分こそ本当の自分であり、肉体はただの抜け殻ということになる。

もう一つの特徴は、私が体験した「他界経験」。英語でいうとNear Death Experience。これには次のような共通の特徴がある。

(1)トンネル体験
(2)光の世界

暗いトンネル体験の後、光が近づいてくるか、自分が光に近づいていく。そこは、花、水、鳥------楽園が現出する。

(3)亡くなった身内に会う
(4)バリア体験

バリアは障害物、例えば川があって向こう岸に渡ってしまうと生還の可能性は少なくなる。生還した大概の人が渡る直前、家族に名前を呼ばれて引き返している。

私の場合は、亡くなった身内には会わなかったがそのほかの体験は合致する。

このような体験談は科学的、神経生理学的にはどのように説明されているか。有力な説は、脳の酸素欠乏説だ。

事故であれ不整脈であれ、最後の瞬間には、心臓が働かなくなって脳に十分な酸素が供給されなくなり、脳は低酸素状態になる。

すると、脳は広い範囲で無秩序に興奮し、正常な機能がマヒして幻覚が生じる、と説明する。しかし、なぜ「暗黒と光」がつきものなのか、学説は分かれていて、なるほどと思わせる説にはまだぶつかっていない。

それより興味深いのは、ほとんどの体験者が、いまわの際には至福、恍惚、安らぎを感じていることだ。清らかな水の流れ、花が咲き乱れ鳥が囀る楽園を見たという人もいる。

その意味で私の見た風景は、臨死としては“完璧”なものではないが、不整脈で一時的に脳に酸素が行き渡らなくなった可能性はある。

夏目漱石も体験者の一人である。43歳のとき胃潰瘍で大量の喀血をして、あやうく彼岸へ渡るところだった。そのときの感じを作品(『思ひ出す事など』)のなかで「縹渺とでも形容して可い気分------」と表現している。

この歓喜に満ちた恍惚感を生み出すのはエンドルフィンだという説が有力である。エンドルフィンは脳内麻薬物質といわれ、死に瀕して脳内が低酸素状態になると、脳内で活発に生産されるホルモンの一種であることが確認されている。

その作用はモルヒネと同じ、あるいは十数倍強烈で、これが脳の深いところでドーパミンという覚醒剤に似た物質を分泌させる。

その結果、瀕死の苦痛は次第に恍惚感に変わっていく、と説明されている。脳の酸素欠乏による幻覚に過ぎないという説もある。

「最後は安らかな表情でした」

 長い闘病の末、愛する身内を看取った家族がこういう感想を漏らすことがよくある。その時、瀕死の身内は脳内に分泌した物質のおかげで恍惚の中にいるからだという説もある。

「死ぬのは怖い、間際では苦しい思いをする」という思い込みは、とんでもない誤解かもしれない。

臨死、そして死、来世の光景はどうも『蜘蛛の糸』(芥川龍之介)に描かれた地獄絵巻とはまったく異なる、恍惚の世界である可能性があることを、研究者は報告している。

命の灯がまさに消えようとするとき、皮肉なことに本人はやっとの思いでたどり着いた楽園をうっとりと彼岸に向けて逍遥しているらしいのだ。

ここでだれも名前を呼ぶものがいないと彼岸へと渡っていく。

脳梗塞で死に掛った大学時代の友人は、川岸でなくなった母親に会い、追い返されたと体験を語ってくれた。

「三途の川」というのは作り話だと思っていたが、「案外、創造主はそこまでお見通しで設計・創造しているのかもしれない」と手術後は、半分信じるようになっている。

恐るべし、創造主の叡智。


本文は拙著『心臓手術〜私の生還記〜』執筆の際書いて、都合で所載で出来なかった部分を補・加筆しました。なお執筆に際しては「臨死体験 立花隆 文春文庫 上下」他数冊を参考・引用にしました。


2018年10月22日

◆現代韓国政治の本流を歩んだ金鍾泌

室 佳之

現代韓国の代表的な政治家の一人である金鍾泌(キムジョンピル)が本
年6月に92歳で亡くなった。日本語世代の政治家としては最後の一人だっ
ただろう。亡くなって調べてみたら、自身の証言録が日本語でも出ていた
(「金鍾泌証言録」新潮社)。800ページにも及ぶ内容だったが、この2ヶ
月少しずつ読み進めて、先日やっと読み終えた。

三金政治」の一人で、唯一大統領になれなかったが、以前から小生は、
金泳三(キムヨンサム)、金大中(キムデジュン)の両元大統領よりも金
鍾泌に興味があった。それも、ただただ3人の中で最も日本語が流暢だっ
たからという単純な理由だ。

しかし、証言録を読んで、新たに驚いたのは、両元大統領よりも、金鍾
泌の韓国政治における影響力は断然に大きく、まさに本流を歩んだ政治家
だったと感じられた。

戦後の韓国を世界最貧国から経済大国までに押し上げる礎を築いたの
は、クーデターで権力を握った朴正煕の時代であることは誰しもが認める
ところだろう。

しかし、そのクーデターを設計したのは、35歳の金鍾泌で、1961年5月16
日の革命公約は、自身で書き上げ、朴正煕が確認して、実行に移された。
クーデター後の政権運営においても陰に陽に金鍾泌の影響力があり、朴正
煕自身が金鍾泌の存在を警戒するほどであった。

日本にとっての金鍾泌は、何といっても日韓条約締結のための経済協力金
交渉だろう。建国後、李承晩政権期から遅々として進まない交渉を、約15
年後に「金・大平メモ」という形で見事交渉妥結に導いた。50代の老政治
家大平外相に対して、30代の金鍾泌が強気に交渉を進めたようだ。

埒が開かない緊張した場面で、若き金鍾泌は大平外相に対して、信長、秀
吉、家康のホトトギスの話を引き合いに出し、自分たちの交渉を秀吉の
「鳴かせてみようホトトギス」の気持ちで進めようと主張し、大平外相を
驚かせたという逸話を証言している。

また、時の池田総理からは、「明治の志士を見ているようだ」と褒められ
たそうな。

青少年期に、日本語で教育を受け、読書に耽っていた金鍾泌は、晩年でも
幼少期に覚えたドイツの詩人カール・ブッセ(Carl H.Buses)の「山のあ
なた」を日本語で諳んじていたという。一夜一巻読破主義で、大変な読書
家だった。

そんな金鍾泌は、親日的とか知日派などと評されてきてはいるものの、小
生は違うと思う。例えば、台湾の李登輝元総統をはじめとした、いわゆる
「親日」「知日」というイメージとは、相当異なるタイプである。

確かに、長らく日韓議連を主導して、例えば中曽根元首相だったり、読売
新聞の渡辺会長と知己を得ていたようだ。しかし、我が国の近代史に対す
る見方は、一般的な韓国人とさして変わらないと云って良い。

慰安婦問題について云えば、自身の妹が日本軍に連れ去られたのを見たと
証言し、読売新聞に乗り込んで渡辺会長以下へ慰安婦関連の記事に抗議し
たと回想している。

また、終戦直前の教師なり立ての時に、日本人校長を殴りかかったとか、
植民地時代の日本は全くの悪者として捉えている。日本が原爆を落とされ
たことも、日本にとっては当然というような主張で被爆者を逆なでするよ
うな発言もある。

自身でも述べているが、金鍾泌の対日観は、「親日」でなく、「用日」と
いう、あくまで日本を利用して韓国政治を動かしていくという立ち位置
だった。だから、証言録を読んでいても、どこか上から目線で日本を見て
いる調子に聞こえる。ちなみに、そういう対日スタンスは、現在の韓国政
治やメディアがそっくり真似ているようで、時に虚しく感じてしまう。

結果的に、用日という意気込みで立ち向かってきた金鍾泌に対して、我が
国の外交は、半島に対しての負い目からなのか、ほとんど金鍾泌の主張の
ままに押し切られた対韓外交だったという感が否めない。

800ページにも及ぶ証言録は、韓国の中央日報社が毎週末にインタビュー
形式で進めていった。証言録の前書きで、「回想録」の執筆には自分を正
当化してしまうという理由から気乗りしなかったと綴られていた。しか
し、感じた事実だけを証言したかったとのことで、結果証言録が完成し
た。しかし、全編読めば読むほど、どこか自身の正当化に終始した感が
あった。元々、回想録や証言録なるものは、そういうものなのかも知れない。

証言録の韓国での原題は「笑而不答(笑って答えず)」となっており、こ
れは金鍾泌の政治信条である。政治家には口に出来ないこと
が多々あるから言い訳せず笑みを浮かべるのみというスタンスなのだろ
う。にもかかわらず、克明詳細に自身の半生を回想された金鍾泌には脱帽
である。
晩年は脳梗塞後遺症による半身麻痺で車椅子生活を送られたが、頭脳だけ
は明晰だったようだ。

大統領になれなかったにしても、現代韓国政治の本流を歩んだことは十
二分に伝わる証言録だった。激動の韓国近現代史を生き抜いた金鍾泌に合掌。

at 09:00 | Comment(0) | 室 佳之

◆膨大な負債を残し姿を消した

宮崎 正弘


平成30年(2018年)10月20日(土曜日)弐 通巻第5866号 

 李勇鴻(前「AC・ミラン」のオーナー)。膨大な負債を残し姿を消した
  もっとも怪しげな「実業家」が破産、中国バブル崩壊の前触れか

イタリアのサッカー1部リーグ「ACミラン」を2017年に、前の持ち主
だったベルルスコーニ元首相から4億4000万ドルで買い取り、一躍、李勇
鴻の名前は世界に知られた。

だが、この男、大典型の詐欺師だった。買収資金の殆どを支払っておら
ず、最近になって米国のファンドが買収した。彼はバブル期にあらわれる
山師、詐欺師、ペテン師のたぐいだったのだ。

中国湖北省の地方裁判所は、10月18日、李を債務不履行、借金踏み倒しに
より起訴した。

李は、湖北省のほうぼうの金持ちや企業に儲け話を持ちかけ、合計100億
元をだまし取った容疑がもたれている。しかし李勇鴻の所在は掴めておら
ず、雲隠れしたままの起訴となった。

パスポートが手配され出国禁止の措置、さらにクレジットカード無効、全
土の豪華ホテルにもブラックリスト掲載の通知を出した。

香港の証券界も激しいスキャンダルに震撼している。

香港証券取引委員会は、10月18日、インサイダー取引、不法送金などで10
名の詐欺の大物を「手配」を公表した。このうち3名が企業CEO、2名
が元取締役。そして残り5名のうちの3人がインサイダー取引の容疑。と
くに服飾大手「福建ヌオギ」のデン・フイ(音訳不明)前CEOは2014年7
月から所在不明となっており、不法に持ち出した金は2億3200万元。

このほか2018年9月までに、会社倒産、閉鎖、事業停止などで訴追された
件数は60件。香港の当局は、上記に加えて20名を近く訴追するという。

バブル末期の特徴的現象は、企業活動に見切りをつけて、社内留保を勝手
に持ち出し、行方をくらますという典型の遣り方である。

かくして広東ではバブル破綻の前兆がそこかしこで発生しているが、その
最中、習近平は広東省の珠海、深せんの視察に出る。

とくに「開通式」を予定している港珠奧大橋(香港、マカオ、珠海を?ぐ
大橋。人工島の2ケ所と海底トンネル)のセレモニーに出席する予定という。

小誌が前に指摘したように、この橋はトンネル部分が浸水し、また人工島
が沈下しており、開通ははやくても、2年後とされる。

だが、「待ってはおられない」とばかり、取り繕って部分開通を「オープ
ン・セレモニー」とし、国威発揚、「中国の夢」の実現成果だと政治プロ
パガンダに利用するようだ。

◆米中対立は中長期に及ぶ

櫻井よしこ


「米中対立は中長期にわたり本格化する 日米の連携を一層強めていくの
がよい」
米国が遂に中国の本性に気づいた──。10月4日、マイク・ペンス米副大統
領が有力シンクタンク「ハドソン研究所」で行った演説のメッセージがこ
れだった。

米国の「覚醒」は遅すぎるとも思えるが、それでも彼らが中国の長期的国
家戦略の意図を正しく認識するのは日本にとって歓迎すべきことだ。

ペンス氏は約1時間、およそ全分野にわたって中国批判を展開した。不公
正貿易、知的財産の窃盗、弱小国への債務の罠、狡猾な米中間選挙への介
入、豊富な資金による米言論機関、シンクタンク、大学、研究者への影響
力行使、米国世論を動かす中国メディアの一方的情報、さらに、南シナ
海、インド洋、太平洋での軍事的席巻など、ペンス氏は果てしなく具体例
を挙げた。

諸外国だけでなく自国民にも苛烈な圧力を中国共産党は加え2020年までに
ジョージ・オーウェル的社会の実現を目論んでいるとも非難した。

この一連の異常な中国の行動を見逃す時代はもはや終わりだと、トランプ
政権の決意を、ペンス氏は語ったのだ。米国はいまや対中新冷戦に突入し
たと考えてよいだろう。

とりわけ印象深いのは、演説でペンス氏がマイケル・ピルズベリーという
名前に二度、言及したことだ。現在ハドソン研究所の中国戦略センター所
長を務めるピルズベリー氏は1969年、大学院生のときにCIA(米中央情
報局)にスカウトされ、以来、CIA要員として中国問題に関わってきた。

親中派の中の親中派を自任する氏は三年前、ベストセラーとなった
『China 2049』を書いて、自分は中国に騙されていたと告白
し、氏がそのほぼ一生を費やして研究した中国人の考え方を詳述した。中
国人は、米国を横暴な暴君ととらえ、中国の最終決戦の相手だと認識して
いるが、米国はそのことをほとんど理解しておらず、むしろ中国は米国の
ような国になりたいと憧れていると勝手に思い込み、結果として騙され続
けてきたというのだ。

一例として氏は米中接近の事例を示している。私たちは、米中接近はニク
ソン大統領が旧ソ連を孤立させるために中国を取り込んだ大戦略だと理解
してきた。しかしピルズベリー氏の見方は異なる。60年代末に中国は国境
を巡ってソ連と対立、新疆国境でソ連軍と大規模な衝突を起こした。軍の
タカ派の元帥らはソ連に対して米国カードを使うべきだ、台湾問題を不問
にしても米国に接近すべきだと毛沢東に進言、毛はそれを受け入れたという。

ニクソン大統領の訪中で、米中関係は劇的に改善されたが、それは中国が
支援と保護を必要とする無力な嘆願者を装い、武器装備をはじめ、中国が
対立していたインドやソ連の情報まで、世界が驚く程の貴重な支援を米国
から手に入れた構図だったと、ピルズベリー氏は明かしている。

明らかに中国は米国の力を借りて力をつけた。それは彼らが日本から膨大
な額のODA(政府開発援助)をせしめ、鉄鋼をはじめとする基幹産業技
術を移転してもらって力をつけたのと同じ構図だ。

ピルズベリー氏はさらに中ソ関係も分析した。中国はソ連に対しても米国
に対するのと同様に弱い国を演じて最大限の援助を受け、力をつけ、最終
的に米国の側につくことでソ連と訣別し、ソ連を潰したというのだ。

そしていま、中国は米国に対しても覇権を目指す意図を隠さなくなった。
米国がもはや太刀打ちできないところまで、状況は中国有利に変化したと
中国が判断した結果だというのだ。ペンス氏もそのピルズベリー氏の分析
を共有しているのであろう。それがハドソン研究所でのスピーチではない
か。米中の対立は中・長期にわたり本格化していくと考えるひとつの理由
である。導き出される結論は日米連携を一層強めるのが日本の国益だとい
うことだ。
週刊ダイヤモンド 2018年10月20日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1252

◆言論自由から暴力肯定へ

Andy Chang


あと17日で投票日である。選挙運動が活発になって最近では街頭デモ
が暴力沙汰に発展してきた。民主主義とは自由平等だと言っていたが、
言論の自由だと言って共和党の候補者に詰め寄り、罵詈雑言を浴びせ、
レストランから追い出すような暴力沙汰が何度も起きた。

言論の自由が言論暴力の自由と変化したのである。これらの暴力沙汰
はすべて民主党の支持者が共和党議員に対して起こした事件で、共和
党側が起こした暴力沙汰は一つもない。

ミネソタ州のSteve Scalise共和党候補者が暴徒に殴られた事件があっ
たが、カバノー氏の最高裁判事の任命で賛成票を投じたメイン州のコ
リンズ上院議員のオフイスに郵便で猛毒リシン(Ricin)の粉を送り付
けた事件が起きた。

暴力を肯定する講演をしたのは民主党議員やヒラリーである。

ヒラリー・クリントンは「我われの信じていることを破壊するような
政党に対して礼節を守る必要はない。我われが政権を取り戻すことが
出来たら、その時に礼節を最出発させられる」と述べた。

トランプ罷免を宣伝する民主党のMaxine Waters議員は街頭演説で民衆
に対し、「レストランやデパート、ガソリンスタンドなどで政府の閣僚
を見つけたら、すぐに群集を呼び集め、彼を押し返し、お前がここに
居ることを歓迎しないと言え」と述べた。

もう一人すごいのが居る。カバノー氏の最高裁判事の任命に反対した
ミシシッピー大学のJames Thomas准教授は、州の共和党上院議員がカ
バノー氏に賛成票を投じたことに対しツイッターで、「彼らの食べてい
るサラダに指を何本も突っ込め。彼のアプリを取り上げて傍で食事を
している人にあげてしまえ。食べものを取り上げて箱に詰めて誰かに
あげてしまえ」とツイートした。これが大学で社会学を教えている准
教授である。

選挙が街頭デモとなり、街頭デモが暴力化してしまった。言論の自由
が自己主張オンリーに変化して自分の言論は自由で他人の言論を拒絶
するだけでなく相手の言論発表の自由さえも拒絶する。相手を怒鳴り
つける、野次る、衆を恃んで相手を圧倒し暴力化する過程が進化して
民主国家が暴力国家となり下がったのである。民主党の政治家が若者
を使嗾して全国各地で街頭デモが頻発している。これが今のアメリカ
である。

2年前の選挙はヒラリーが大統領になるはずだった。トランプが当選
する可能性は百万分の一もないと思って得意になっていた。ヒラリー
が落選した事実を受け付けない。トランプが就任した後もウソの証拠
でロシアゲートの調査を続けている。

中間選挙で民主党が勝利すればトランプを罷免すると言う。たとえ罷
免できなくても次の二年間はトランプ反対を続け、政治を停頓させて
二年後の大統領選挙に持ち込むと言う。これが民主党の政治目標であ
る。ラリーが言うように政権を取るまで礼節は尊重しない、権力を握
るためにはどんな破廉恥なことでもやるのだ。

反対党の政治家がレストランで食事することさえも反対し阻止する政
党、その名が民主党である。サヨクが勝ったらアメリカはどうなる
だろうか。

トランプ政権はこの2年間で経済、外交、失業率などで目覚ましい結
果を上げている。平気で数多の法を犯したヒラリーが大統領になって
いたらアメリカはどうなっていただろうか。それでも国民は民主党に
投票するつもりか。

at 09:00 | Comment(0) | Andy Chang

◆相続前サポート 法律コラム

  川原 俊明


相続は非相続にが亡くなってから。そう思っていませんか?

結論としまして、それでは遅いと言わざるを得ません。

この場合、遺産分割で揉めてしまうことが非常に多いといえるでしょう。
(相続は「争続」とよく揶揄されます。)

相続前にできる相続サポートをすることにより、紛争の未然防止に役立つことになります。

具体的にはどのようなことをしておくべきでしょうか。

@ 相続人調査
亡くなってから行うことが多いですが、事前に行っておくことも有用です。問題を提起してきそうな人物を抽出したり、未然に合意書を交わすことなど、
相続人調査を行うことで可能となります。

A 相続財産調査
資産の管理については、わかっている部分につきましては、ある程度まとめておいた方が良いでしょう。どの不動産や動産(物)に価値があって、実際に揉める可能性があるのかなど、ある程度、把握しておけば問題の未然防止になります。

公正証書の作成
これを一番オススメする理由は、問題を未然に防止することが目的です。
後々の問題を「法的に」予防することが可能です。
揉めそうな動産・不動産について被相続人を含め、相続人間で決めておけば、
紛争の防止に役立ちます。

以上@、A、Bは、弁護士でなければなかなか出来ることではありません。

相続前にでも、弁護士が入るメリットが多いという点を
ご理解いただければ幸いです。