2018年10月18日

◆大きすぎて潰せないが

宮崎 正弘


平成30年(2018年)10月17日(水曜日)通巻第5861号   

 ギリシアに比べると「大きすぎて潰せないが、救済もできない」
  イタリア政府、EUと対立激化。次のEU最大の課題に

 10月14日、EU委員会はイタリアに「EUの決めたルールに従え」と勧
告した。イタリアの財政赤字目標はEU水準の3倍。なにごとも楽天的な
イタリアとて、すべてEUの基本方針に逆らっているわけではなく、利用
すべき所はちゃんと利用している。BREXITとは、異なり、そう簡単
にEU離脱というわけにはいかない。

ギリシアに比べると「大きすぎて潰せないが、救済もできない」。イタリ
アの債務はGDPの131%、失業率はつねに10%を超えている。

 しかもイタリアではEUに反感を覚える愛国的なポピュリズム運動がま
すます勢いを増大させており、移民排斥の「5つ星運動」が第一党となっ
た。同党は過半数には達しなかったが、「頑張れイタリア」(ベルルス
コーニ元首相系)と「同盟」(旧「北部同盟」)と保守連立政権を担って
いる。

イタリア政界で左翼は大幅に退潮した。コンテ政権は、左翼リベラルの多
いEU主流(ドイツ、仏蘭西)とイタリアの政治的スタンスは明らかに違
う。とくにサルビーニ副首相は、公然とEUに反旗を翻してきた。

難民受け入れはドイツが積極的だったが、それが裏目に出てバイエルン州
という左翼の牙城でメルケル与党が敗北を喫し(10月14日)、保守党の
「ドイツのための選択肢」がはじめて議席を得た。ドイツの姿勢も変わり
つつあるが動きが緩慢である。

イタリアは半島の東西から難民が押し寄せる。

東海岸は冷戦終結後に、アドリア海からアルバニア難民が、西はシチリア
などを経由してリビア、チュニジア、アルジェリアからどんどんやってくる。

シリア難民がピークだった時期はギリシアの島々に漂着し、先進国はかれ
らを救援せざるを得なかった。イタリアも又、アフリカからの難民を手厚
く救援しなければならず、政治の大きな課題となっていた。

それまでは中国人の不法移民対策に予算とエネルギーが割かれたが、中国
人はイタリアで自給自足的であり、問題は学校と公共サービルの分野に限
られた。

北アフリカからの難民はテント、医療から再教育、給食と、なにからなに
まで面倒を見なければならず、財政赤字が拡大し、肝腎のイタリア人が公
共福祉の恩恵にあずかれないではないかとする不満が昂じていたのだ。

◆最近の泌尿器科腹腔鏡手術

                                   坂本 亘 医師



最近の泌尿器科領域の腹腔鏡手術をご説明します。腹腔鏡手術とは、1cmぐらいの小さな穴をお腹に数箇所あけて、ガスで膨らませたお腹のなかを、小さな穴から挿入した内視鏡を使ってテレビ画面に写し、テレビ画面を見ながら、別の小さな穴から挿入した鉗子やはさみを使って行われる手術です。
 
最大のメリットは、小さな傷で手術が行われるため、術後の痛みが少ないこと、早期離床や早期退院が可能です。 問題は、手術は難しく一定の技術が必ず要求されることです。
 
泌尿器科で初めて主な腹腔鏡手術がなされたのは1991年の腹腔鏡下の腎摘出術ですが、その後、十数年の間に瞬く間に世界中に広まり、現在では、多くの施設で、さまざまな泌尿器科手術が、腹腔鏡で行われるようになっています。

 例を挙げますと、悪性腎腫瘍に対する腎全摘出術、腎部分切除術、腎尿管全摘除術、副腎腫瘍摘除術、睾丸腫瘍に対する後腹膜リンパ節郭清術、前立腺癌に対する前立腺全摘除、小児領域では腹腔内停留睾丸、水腎症に対する腎盂形成術、膀胱尿管新吻合術などがあります。
前立腺全摘除、腎部分切除、腎盂形成術など、腹腔鏡では特に難しいとされてきた縫合操作を必要とする手術も、普及してきています。

 最近の話題としては、2004年に泌尿器科腹腔鏡手術の技術認定制度が発足したことがあげられます。 この制度は、認定を希望するものは、自ら執刀した腹腔鏡手術をビデオに撮影し、そのビデオを数名の審査員が全行程を審査し、この手術技術が妥当か否かを判定するというものです。 一定基準をクリアーしなければ、技術認定を受けることはできません。

 技術認定者は、日本内視鏡外科学会のインターネット上で公開されています。泌尿器科では、初年度は約160人が応募し、約60%が技術認定を授与されています。

 このように、腹腔鏡手術が持つ多くのメリットを損なうことなく、安全かつ確実で患者さんの体に優しい負担の少ない腹腔鏡手術が多くの施設で行われるようになってきているのが最近の泌尿器科手術の傾向です。     大阪市立総合医療センター  泌尿器科・小児泌尿器科

2018年10月17日

◆バラ色に描く韓国の悲劇

櫻井よしこ


「南北協力の道をバラ色に描く韓国の悲劇 偏向報道が目に余る日本の韓
国化も心配だ」

韓国の著名な言論人、趙甲濟氏がこんなことを呟いた。「韓国人の考える
能力、理解力が低下しています。わが国が直面する危機について、どれだ
け発信してもわかってもらえない」。

趙氏は昭和20年、日本で生まれたが、家族と共に韓国に引き揚げた。私は
折に触れ、氏と対談をしたり意見交換したりしてきたが、氏が生まれ故郷
の日本に対して、好意とわだかまりを混在させていると感ずることがある。

日本へのわだかまりは、韓国への思いの深さと朝鮮民族としての誇りと背
中合わせなのだと感ずる。その趙氏が、韓国人の考える能力が劣化してい
ると、日本人の私に語ったことに、痛ましさを感じずにはいられなかった。

なぜ、彼はそのように言うのか。それは彼らの祖国、大韓民国を消滅に追
いやってしまうかもしれない政策を文在寅大統領が次々に実施しているに
も拘わらず、韓国民がそのことに気づかないからだ。言論人として、趙氏
がどれだけ警告を発しようが、韓国民はそんなことにお構いなく、文氏に
高い支持を与え続けているからでもある。

文氏の支持率は、氏が南北朝鮮首脳会談を行い、北朝鮮の金正恩朝鮮労働
党委員長との親密な関係を宣伝する度に上がってきた。まるで北朝鮮のメ
ディアであるかのような韓国のテレビ局や新聞社は金、文両氏の笑顔と抱
擁を大きく報じ、南北協力の道をバラ色に描き、民族統一の夢を抱かせ
る。しかし、2度行われた首脳会談の合意、「板門店宣言」(4月27日)
も「平壌共同宣言」(9月19日)も決してバラ色ではない。むしろ一方的
に北朝鮮に有利で、韓国の悲劇を招く内容だと断じてよいだろう。

4月の板門店宣言をより具体化し、強調したのが9月の平壌共同宣言だが、
その中で最も重要視されているのが、南北間の軍事的敵対関係の解消であ
る。そのために彼らは軍事分野に関する合意文書を別に作成し、10月1
日、早くも実施に移したのだ。

なんと、非武装地帯(DMZ)や板門店の共同警備区域(JSA)で地雷
の除去を始めたのだ。20日以内にすべての地雷を取り除き、それから5日
以内に監視所や火力兵器を撤収し、10月末までに完全に非武装化する。さ
らに11月からは軍事境界線の上空を飛行禁止区域とし、この一帯での軍事
演習はすべて取りやめるともいう。

朝鮮問題専門家である西岡力氏が警告した。

「韓国側が一方的に武装解除するのに対して、北朝鮮側はミサイルも核も
基本的に保有したままです。北朝鮮は軍事境界線に沿ってすくなくとも長
距離砲340門を配備済みです。首都ソウルは十分射程の範囲内です。これ
まで韓国軍は情報監視能力を備えた哨戒機を飛ばし、北朝鮮側の不穏な動
きをキャッチしてきました。必要なら精密打撃能力を誇るミサイルで攻撃
可能な態勢が整っていました。

しかし哨戒機の飛行をやめるわけですから、万が一、北朝鮮が攻撃をかけ
てきても分かりませんから、防ぎようもありません。北朝鮮には哨戒能力
はまったくないのですから、一方的に韓国側が譲って、ソウルを明け渡す
わけです」

こんな状況が眼前に出現しているのに、なぜ韓国の国民はおかしいと思わ
ないのかと、趙氏は嘆くわけだ。氏は韓国人の考える能力を問題視した
が、実は韓国メディアの発信する情報の偏りこそが問題だ。韓国のメディ
ア界は偏向報道の見本のような状況に陥っている。正恩氏が恰も心優しい
優れた指導者であるかのような報道しかしない。北朝鮮の脅威も伝えない
ために、韓国人は事実を認識できないのだ。

私は韓国情勢を心配しながら、日本の現状についても同様の危惧を抱く。
日本のメディアの目に余る偏った報道で日本が韓国化しつつあるのではな
いかと、心底心配だ。

『週刊ダイヤモンド』 2018年10月13日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1251 

◆君が世完成記念日

渡部 亮次郎


国歌「君が代」は1999(平成11)年に国旗及び国歌に関する法律で公認さ
れる以前の明治時代から国歌として扱われてきた。

この曲は、平安時代に詠まれた和歌を基にした歌詞に、明治時代になって
イギリス歩兵隊の軍楽長ジョン・ウィリアム・フェントンが薩摩琵琶歌
「蓬莱山」から採って作曲を試みたが海軍に不評。

海軍から「天皇を祝うに相応しい楽曲を」と委嘱された宮内省が雅楽課の
林廣守の旋律を採用(曲はイギリスの古い賛美歌から採られた)。

これにドイツ人音楽教師エッケルトが和声をつけて編曲。1880(明治13)
年10月25日に海軍軍楽稽古場で試演された。だから10月25日が「君が代」
完成記念日とされている。

明治2(1869)年に当時薩摩藩兵の将校だった大山巌(後の日本陸軍元帥)
により、国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと言うフェトンの進言をいれ
て、大山の愛唱歌の歌詞の中から採用された。

当時日本の近代化のほとんどは当時世界一の大帝国だったイギリスを模範
に行っていたため、歌詞もイギリスの国歌を手本に選んだとも言われている。

九州王朝の春の祭礼の歌説というものがあり、説得力はある。九州王朝説
を唱えるのは古田武彦氏で、次のように断定している。

<「君が代」の元歌は、「わが君は千代に八千代にさざれ石の、いわおと
なりてこけのむすまで・・・」と詠われる福岡県の志賀島の志賀海神社の
春の祭礼の歌である。

「君が代」の真の誕生地は、糸島・博多湾岸であり、ここで『わがきみ』
と呼ばれているのは、天皇家ではなく、筑紫の君(九州王朝の君主)である。

この事実を知っていたからこそ、紀貫之は敢えてこれを 隠し、「題知ら
ず」「読人知らず」の形での掲載した>

文部省(現在の文部科学省)が編集した『小学唱歌集初編』(明治
21(1881)年発行)に掲載されている歌詞は、現在のものよりも長く、幻
と言われる2番が存在する。

「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで うごきな
く常盤かきはにかぎりもあらじ」

「君が代は千尋の底のさざれ石の鵜のゐる磯とあらはるゝまで かぎりな
き御世の栄をほぎたてまつる」

後半の「さざれ石の巌となりて」は、砂や石が固まって岩が生じるという
考え方と、それを裏付けるかのような細石の存在が知られるようになった
『古今和歌集』編纂当時の知識を反映している。

明治36(1903)年にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、『君が
代』は1等を受賞した。

後は専ら国歌として知られるようになった『君が代』だが、それまでの賀
歌としての位置付けや、天皇が「國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」していた
(明治憲法による)という時代背景から、戦前にはごく自然な国家平安の
歌として親しまれていた。

敗戦で事情は全く変わった。日本国衰退を目指すアメリカ占領軍は。それ
まで聖職者とされてきた教職員に労働者に成り下がって権力に抵抗させる
べく日教組を結成させた。

占領した沖縄では国旗の掲揚と君が代の斉唱を禁止したことでも明確なよ
うに、マッカーサーの本心は日の丸掲揚と君が代斉唱に反対であった。日
本国民が一致団結、再度、アメリカに挑戦することを恐れたのである。

それを組合の統一闘争精神に掲げたのが日教組なのである。いつの間にか
天皇を尊敬する事とか君が代を歌うことが戦争に繋がると論理を摩り替え
て、正論を吐く校長を自殺に追い込んだといわれても反論できないような
状況を招いたのである。

君が代支持の世論を背景に平成8年(1996年)頃から、教育現場で、当時
の文部省の指導により、日章旗(日の丸)の掲揚と同時に『君が代』の斉
唱の通達が強化される。

日本教職員組合(日教組)などの反対派は憲法が保障する思想・良心の自
由に反するとして、旗の掲揚並びに「君が代」斉唱は行わないと主張し
た。先生の癖に論理のすり替えの得意な人が日教組に所属する?

平成11年(1999年)には広島県立世羅高等学校で卒業式当日に校長が自殺
し、君が代斉唱や日章旗掲揚の文部省通達とそれに反対する教職員との板
挟みになっていたことが原因ではないかと言われた。

これを一つのきっかけとして日教組の意図とは反対に『国旗及び国歌に関
する法律』が成立した。法律は国旗国歌の強制にはならないと政府はした
ものの、反対派は法を根拠とした強制が教育現場でされていると主張、斉
唱・掲揚を推進する保守派との対立は続いている。

平成16年(2004年)秋の園遊会に招待された東京都教育委員・米長邦雄
(将棋士)が、(天皇)に声をかけられて「日本の学校において国旗を揚
げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と発言し「やはり、
強制になるということでないことが望ましいですね」と言われている。

なお、天皇が公式の場で君が代を歌ったことは1度もないと言われてい
る。成人前の家庭教師ヴァイニング夫人による何がしかを勘繰る向きがな
いわけではない。08・10.25

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

◆大嘗祭は国事として行うべきである

加瀬 英明


1年以内に、新天皇が即位され、御代(みよ)が替わる。

前号で、私は天皇陛下が来年4月30日に退位され、皇太子殿下が翌日、第
126代の天皇として即位されるのに当たって、もっとも重要な祭祀である
大嘗祭(だいじょうさい)を寸描した。

120代も続いてきた天皇が、日本を日本たらしめてきた。

天皇は日本にとって、何ものによっても替えられない尊い存在であり、日
本国民にとって、もっとも重要な文化財である。

大嘗祭は来年11に、皇居において催される。大嘗祭は法律的にすでに皇位
につかれておられるが、天皇を天皇たらしめてきた民族信仰である惟神
(かむながら)の道――神道によれば、まだ、皇太子であられる皇嗣(こうし)
(お世継ぎ)が、それをもって天皇となられる。聖なる秘儀である。

私は前号で大嘗祭に当たって、皇太子が横たわれ、しばし、衾(ふすま)
(古語で、夜具)に、身をくるまられると、述べた。

これは、天照大御神の皇孫に当たる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、「豊葦
原(とよあしはら)の瑞穂(みずほ)の国(くに)を治めよ」という神勅に従っ
て、赤兒として夜具にくるまれて、天孫降臨されたことから、皇太子が身
を衾に包む所作を再演されることによって、瓊々杵尊に化身されるもので
ある。

今上天皇が今年の新年に宮中参賀のために二重橋を渡った、13万人をこえ
る善男善女に、皇后、皇太子、皇太子妃、皇族とともに会釈され、お言葉
を述べられたが、天皇はモーニングを召された瓊瓊杵尊であられた。

天皇は皇位をただ尊い血統によって、継がれるのではない。

日本では、日本神話が今日も生きている。神話は諸外国では、遠い昔の過
去のものであって、ただの物語でしかない。日本は時空を超えて、永遠に
新しい国なのだ。

歴代の天皇は、日本を代表して神々に謙虚に祈られることによって、徳の
源泉として、国民を統(す)べて、日本に時代を超えて安定(まとまり)をも
たらしてきた。

神道は、人知を超えた自然の力に、感謝する。世界のなかで、もっとも素
朴な信仰である。

教義も、教典ない。人がまだ文字を知らなかった時代に発しているから、
信仰というより、直感か、生活態度というべきだろう。

神道は、人が文字を用いるようになってから、生まれた宗教ではない。感
性による信仰だから、どの宗教とも競合しない。

宗教法人法によれば、宗教法人は教義を広め、信者を教化する団体とし
て、規定している。神道は布教しないし、もし宗教であれば、「信者」と
呼ばれる人々も、存在しない。

アメリカ占領軍は、自国では国家行事や、地方自治体の式典が、キリスト
教によって行なわれていたのにもかかわらず、まったくの無知から神道
を、キリスト教と相容れない宗教だと信じて敵視して、日本に「政教分
離」を強制した。当時のアメリカは、日本を野蛮国とみなしていたのだった。

政府は日本が独立を回復した後にも、現行憲法下で、天皇を天皇たらしめ
ている宮中祭祀を、皇室の「私事」として扱ってきた。

私はかねてから、宮中祭祀は国民の信仰の自由を浸すことがないし、日本
国民にとって何より重要な無形文化財であると、主張してきた。

大嘗祭は、国事として行うべきだ。現行憲法は皇室と日本の姿を、歪め
ている。

◆首相は為政者の義務感から決断ー消費税10%

                                   杉浦 正章

オリンピックで景気持ち直しか

 残る任期3年を前にして最大級の決断である。為政者は誰も国民に嫌われる増税などしたくはあるまい。首相・安倍晋三の消費増税10%の決断には為政者としての義務感が濃厚に存在する。タイミングとしても絶妙であった。リーマンショック級の事態がない限り、実施は確実だ。来春の統一地方選挙や夏の参院選挙への影響を最小限に食い止めるにはこの時期を選ぶしかあるまい。

 来年10月の引き上げを1年前に公表する狙いについて、選挙への影響を最小限にとどめることを挙げる論調が多い。しかし、ことはそう簡単ではあるまい。新聞や民放はおそらく参院選を来年秋の増税に向けての選択選挙と位置づけ、絶好の反自民キャンペーンを張るだろう。従ってボーダーラインの自民党候補は落選の危機にあるとみるのが正しいだろう。野党にとっては久しぶりの追い風となる。参院選は“負け”をどこまで食い止めるかの選挙となろう。

 安倍の決断について新聞は「財務省に押し切られた」との見方が強い。確かに、財務省には来年引き上げる以上、来年度予算案の準備のためにも首相の早期表明が不可欠との見方が強かった。消費税は景気に左右されにくく、年5・6兆円の税収増は大きい。ただ一省庁の思惑で一国の首相が不人気の源となる大きな政治決断をするだろうか。これは、疑問である。

むしろ、冒頭指摘したように為政者としての義務感がそうさせたのであろう。もともと2017年の総選挙の公約は「保育・幼児教育の無償化」であり、当時からそのための財源には消費税を充てるしかないと指摘されていた。

 消費税の税率10%への引き上げについては、過去2回延期してきている。当初は15年10月に引き上げられる予定を1年半延ばした。次に17年4月に予定されていたが、2年半先送りされた。今回は3度目の正直ということになる。

 景気への影響については、今後駆け込み需要が生じるが、先が1年間と長いため分散傾向を見せるだろう。19年の税率アップで景気は一時的には下降するが、2020年の東京オリンピックは持ち直しのきっかけとなることが予想される。おそらく政府も経済界も暗雲を断ち切るためにオリンピックという明るい舞台をフルに活用することになろう。

もちろんオリンピックが終われば不況感が漂う可能性も否定出来まい。五輪特需の終了で雇用が減り、建築・不動産バブルが弾け、五輪までに目いっぱい売った商品が市場にあふれて飽和状態になる恐れがあるからだ。官房長官・菅義偉は「リーマンショックのようなものがない限り引き上げる」と不退転の決意を表明している。経済危機が来ない限り引き上げはうごかないだろう。

 各党は公明党が事実上賛成の立場だ。1日の首相との会談で代表山口那津男は増税を支持する姿勢を示し、安倍も「必ず実行する」と約束した経緯がある。その他の野党はおおむね反対で。与野党対決ムードは高まろう。

◆加齢疾病連発に悩まされた夏

石岡 荘十


今日書こう、明日こそはと思いながら、胸や背中を孫の手で掻くのに忙し
くて今日に至ってしまった。

夏は、典型的な加齢疾病といわれる病につぎつぎと襲われ、悪戦苦闘した
3ヶ月だった。この間、私を襲ったのは帯状疱疹。発症から3ヶ月、やっと
終息にこぎつけたと思ったら今度は、加齢黄班変性といわれる眼球の疾病
である。これについては今なお加療の真っ只中であり、別稿で報告したい。

帯状疱疹の兆しが現れたのは6月の末のことだった。「夏バテ」というの
は夏だけの症状だと思われがちだが、気候の変化が激しい梅雨時や初夏に
も起こりやすい。

気温の乱高下に老体がついていけず、何もする気がしない。全身がともか
くけだるい。にもかかわらず梅雨明けの7月、以前からの約束もあって、
猛暑の中、秩父盆地のど真ん中にあるゴルフ場に出陣。疲労困憊、這うよ
うにして帰宅した。完全に体力を消耗していた。これが祟った。

思い返すと、その数日前すでに左胸の皮膚に違和感があり肋骨のあたりに
ピリピリ感があった。間もなく胸から左肩甲骨下にかけて赤い斑点がぽつ
ぽつ。ゴルフの後から左側の神経に沿って激痛が走るようになった。

にもかかわらず、まだ帯状疱疹とは気がつかず、市販のかゆみ止め軟膏
(レスタミン)を塗ったり、サロンパスの湿布を患部に張ったりして凌ご
うと試みていた。無知は恐ろしい。

そうこうしているうちに、赤い斑点は水ぶくれとなり、夜はベッドの上で
転々。背中を孫の手で掻きまくったものだから水ぶくれが破れ、かさぶた
へと変わったがかゆみと痛みは治まらなかった。

遂にたまらず、行きつけの病院の皮膚科に駆け込んだのはゴルフから3週
間を過ぎていた。

「帯状疱疹です。ずいぶん我慢強い方ですねぇ。もうかさぶたになり始め
ていますから、ペインクリニックに行きなさい」という。

帯状疱疹は、幼児に経験した水ぼうそうのウイルスが原因だ。ウイルスは
長い間体内の神経節に潜んでいて、加齢(50歳代〜70歳代)やストレス、
過労などが引き金となってウイルスに対する免疫力が低下すると、潜んで
いたウイルスが再び活動を始める。ウイルスは神経を伝わって皮膚に達
し、帯状疱疹として発症するとされている。

東京女子医大の統計によると、発疹する部位は、一番多いのが私のケー
ス。上肢〜胸背部(31.2%)、次いで腹背部(19.6%)、そして怖いのは
頭部〜顔面(17.6%)などとなっており、高校の友人が右顔面に発症。何
年か前のことだが、今でも顔面の筋肉がこわばっている。

最悪、失明をしたケースも報告されている。頚部〜上肢にも発症する。い
ずれの場合も体の左右どちらか一方に現れるのが特徴だ。

発症してすぐ気づき、すぐ適切な治療を受けた場合でも3週間は皮膚の痛
みや痒みが続く。痛みがやや治まってからも神経の痛みは容易に治まらな
い。数年間、痛みが消えなかったと言う症例もある厄介な加齢疾病である。

まして、私のケースは、初期治療のタイミングを逸した。その祟りで、い
まだにときどき、肋間や背中にピリピリと痛みが走る。

さて治療法である。皮膚科では坑ヘルペスウイルス薬を処方する。ウイル
スの増殖を抑える飲み薬で初期の痛みや痒みを抑える効果があるが、私は
そのチャンスを逃し、我慢強く無為に苦しんだ。

ペインクリニックでは、飲み薬と塗り薬を処方される。

【飲み薬】、

・鎮痛剤リリカプセル:今年4月、保健が適用されることとなった帯状疱
疹の最新特効薬だ。

・セレコックス:リリカカプセルが効かない場合に飲む頓服錠剤。炎症に
よる腫れや痛みを和らげる。
・メチコバール:末梢神経のしびれ、麻痺、痛みを改善する。

【塗り薬】、

・強力レスタミンコーチゾンコーワ(軟膏)

ペインクリニックでの治療5週間。月初旬にくすりの処方が終わった。発
症から3ヶ月の闘病であった。この間体力をつけようと金に糸目をつけず
美食に走った結果、太ってしまった。

初動がこの病気治療の決め手である。他山の石とされたい。





2018年10月16日

◆マティス国防長官、近く辞任観測

宮崎 正弘


平成30年(2018年)10月15日(月曜日)通巻第5858号   

 マティス国防長官、近く辞任観測
  ロシア政策でボルトン補佐官と対立、トランプの暴走発言にも嫌気

かねてから辞任の観測が燻っていたが、中間選挙を前に政権が内部で揺れ
ることは得策ではないとマティス国防長官 vs ボルトン大統領補佐官
の対立は表面化していなかった。

ボルトンは、もっとも強硬なタカ派イメージだが、その基底にあるのは戦
略的原則を守ることにあって、原理を代えないという姿勢だ。それゆえ全
米の保守陣営からは信頼されている。

一方、マティスも「狂犬」というニックネームは別にして、軍人出身者に
は珍しい読書家であり、歴史を語れる。自宅には7000冊の蔵書、独身。軍
のエリートは、米国ではやはりエリート。相当の知識人でもある。なによ
りも重視するのは秩序、そして軍人は何事にも慎重である。

ボルトンは「イランとの核合意」に一貫して反対してきた。

またブリーフィングも簡潔で分かりやすく、くどくど説明されることが嫌
いで、苛立ちを隠さず、長い長い演説のような情勢解説をしたマクマス
ター補佐官を馘首して、ボルトンに代えた経緯がある。

トランプはボルトンを信頼しているが、ふたりの意見が食い違うのはロシ
アへの姿勢で、なんとかロシアを反中国陣営に引き入れようとするトラン
プと、核戦略政策における確執からロシアとは距離を置くべきとするボル
トンの差違。しかしボルトンは20年も歴代政権から干されていた経歴か
ら、譲るところは譲り、もっとも大統領に影響力を行使できる立場を確保
しようとしている。

ボルトンは周知のように沖縄に駐留している米国海兵隊を台湾に移動せよ
と主張する台湾擁護派のトップでもあり、日本に関しても拉致問題にもっ
とも関心がある政治家だから、その動向に注目している。

ところでドイツのメルケルの牙城バイエルンで、メルケル与党が大敗北を
喫した。

これは「番狂わせ」というよりメルケル時代の終わりを告げる選挙結果だ。

中間選挙まで3週間となって米国でも、反トランプ陣営の旗手、民主党応
援団長格のジョージ・ソロスが、中間選挙では「民主党はまた敗北するだ
ろう」と予測していることが分かった。
     
☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆書評 しょひょう 
BOOKREVIEW 書評BOOKREVIEW
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「西尾幹二流・ツァラトゥストラ」。LIBERTY と 
FREEDOMの差違。

自由な精神世界に、私たちは本当に生きているのだろうか?  

  ♪
西尾幹二『あなたは自由か』(ちくま新書)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@

意表を突かれた、この題名に。

これまで「自由」と思ってきた概念も、状況も、じつは自由ではない。本
当の自由から、わたしたちは不自由な世界にいるのか、いやそれとも異次
元の自由世界に身を置いているのだろうか?

議論はまず、自由はLivertyか、Freedomか、から始まり、
「自由」と「平等」の差違をギリシアの歴史にまで遡及する。本書は随筆
ではなく、やさしい哲学の書である。

冒頭から3分の1あたりまで読み進むうちに、まず評者(宮崎)の脳裏を
去来したことは、「日本人が変わってしまった」という不思議な感覚だった。
 自由が際限なく拡大解釈され、平等は無限の政治的力を発揮し、そして
日本という存在そのものを脅かしている。

「平等」の誤認が{Me#Too}とか、外国人留学生特待とか、少数派
が強く、何でも予算化されるという政治風土を培っている。

その上「新自由主義」とかいう、つかみ所のない、空恐ろしい市場原理主
義の暴走を一方に見ながら、人間本来のもつ、規律が壊れていくのを日々
目撃している。

道徳的に言えば、戦後日本人から徐々に失われてしまった倫理観。著者の
西尾氏は終戦時にはっきりと自意識に目覚めていた世代だから、伝統的な
道徳の喪失、価値観の転換、人間の変節を目の当たりに目撃し、体験して
きた世代である。

評者は戦後生まれだから、その倫理観、道徳観にちょっとした感覚的差違
があることは自然なこととしても、これは「世代感覚の違い」という範疇
で説明できる。

評者は、日教組教育の直撃的な洗脳を受けてしまった世代だが、それでも
「蛍の光」、「仰げば尊し」を唱って、涙した。

小学校の校庭か玄関にはかならず二宮金次郎の像が置かれていた。


 ▼自由を律する「神の見えざる手」は不在になった

「三歩さがって師の影を踏まず」という道徳律を教わって、それが当然の
道徳、行動規範だと思ってきた。大学へ入って最初の衝撃は学生が先生に
噛みつき、ぼろくそに批判し、殴りかかっていたことだった。道徳、倫理
がそこにはなかった。

日本の何かが崩壊している!

現代の若者を見ていると、これらの価値観をみごとに失っている。卒業式
で蛍の光も仰げば尊しも唱わない。歴史を何も知らないから赤穂浪士の蹶
起の意味が分からない。平気で「太平洋戦争」とか「天皇制度」とかコミ
ンテルンやGHQボキャブラリーを使う。先輩・後輩の秩序を重視するの
は体育会系くらいで、年長者を敬うという感覚はほとんど喪失している。

象徴的なのは電車やバスで年寄りに席を譲る若者が殆ど居ないことだ。

自由をはき違えている結果である。弱者が平等をいい、それを擁護拡大し
たのがオバマだったが、自由とは激烈な競争のことを意味すると古代から
の原則を主張したのがトランプだった。アメリカは両者の価値観がせめぎ
合う、と西尾氏は言う。

そうこう思索しながら読み進んでいくとハンナ・アーレントや、ソルジェ
ニーツィンの箴言を考察していくチャプターに行き当たり、なるほどこの
本は帯に書かれているように、「西尾幹二流・ツァラトゥストラ」であ
る。ということは西尾氏の思索の原点はニーチェなのである。

唐突に評者は或る不思議な感覚に囚われた。

三島由紀夫の4部作『豊饒の海』の第3巻『暁の寺』のなかで、インドの
ベナレスの描写に衝撃を受け、評者が最初の海外旅行先をインドに決めた
のはおよそ半世紀近く前のことだった。

三島は「さるにても恐るべきインドだった」と書いた。聖なるガンジスで
沐浴し、歯を磨き、排便をする人々と、その隣で遺体を燃やし、遺灰をガ
ンジス河に散布する無常な光景を三島由紀夫は活写した。ベナレスでは聖
と俗、崇高と卑猥、あらゆる森羅万象が「聖なる河」に溶け込んで流れ、
去る。なんという巨大なるニヒリズム!

いや、ここでこそヒンズー教徒は社会的束縛からも宗教的ドグマからも離
れて「自由」になるのだ。

ベナレスを死地と決めて、インドの津々浦々からやってくる人々の列があ
り、かと言って市井の日常生活にはヒンズーの神々の小祠が辻々にかざさ
れているが、ほかに取り立てての特異性もなく、早朝、日の出の僥倖に与
ろうと、夜明け前にゲートに集まる人たちが引きも切らない。

評者も、太陽の輝く瞬間をガンジスの河に浮かべた船の上から見ようと、
小型のボートを雇い、河の中央から望遠レンズを向けて、大いなる虚無と
崇高と卑猥と猥雑を撮影し、灯籠流しの小型模型を買い求め、願いを込め
て流した。

まさにこの光景は、文明から隔絶した、宗教の死生観を基礎としての営為
だが、そこには一篇の合理主義もなければ科学的客観性などという近代文
明の病理からも解放された空間が、古代から永遠にそうであったように時
間を超えてベナレスに存在していた。ベナレスに、輪廻転生はたしかに存
在する。

永劫回帰、そうか、ニーチェの思想の原点は、この人間の永遠の営みか
ら、絞り出された思考なのか。そう思いながら、ホテルに戻って、旅行鞄
から携行してきた、ニーチェを論じた西尾幹二氏の新書本を開いたのだった。

 ▼「自由は光とともに闇だ」

前置きが長くなった。

「自由は光とともに闇です」と西尾氏は言う。

この場合、「光」と「闇」は自由と不自由の比喩的な意味であり、「自由
は量的概念ではもとよりなく、質と量の対立概念でもありません。光と闇
も同じことで、両者は重なっているのです。光は同時に闇なのです」
(255p)。

「現代人はとかく何かを主張するのに、何か別のものに依存するのではま
だ真の自由ではないなどと言いたがる。(中略)完全な自由などというも
のは空虚で危険な概念です。素っ裸の自由はありえない。私は生涯かけて
そう言い続けてきました。『個人』が自律的であるのは『社会』からの解
放や自由や独立を意味してはいません」(204−205p)

この議論は繰り返されて説かれる。

「自由と平等というのはある種の相反概念です。と同時に相関概念でもあ
ります。自由というのは単独では成り立たないからです。しかし、平等は
自由の反対概念ではありません。自由の反対概念は必然、または宿命で
す。自由と平等は相互に対応する対概念です」

西尾幹二氏は、『自由は物狂いの思想』であり、平等は『狂気の思想』で
ある、と言われる(124p)。

現代は自由を律した『神の見えざる手』を失なくした。

「ベルリンの壁の崩落のあと、西側は自己規律を失ったのです。果てしな
い『自由』の拡大を目指して暴走し始めた。東側も釣られるようにその後
を追った」

「開かれた自由は社会、物質の量と情報の速度が果てしなく拡大していく
われわれの現代社会は、自由が自己崩壊に面していることを告知していま
す」(99p)

深刻な精神の危機に現代日本人は直面している。

◆インスリンに思う

渡部 亮次郎


日本の政界に糖尿病が登場するのは確かに1945年の敗戦後である。「オラ
が大将」の子息で山口県知事もした田中龍夫元文部大臣は公務の合間を
縫って日に何度も注射のため医者に通っていた。

田中角栄、大平正芳、伊東正義、園田直、田中六助皆糖尿病が元で死ん
だ。脳梗塞、心筋梗塞、腎不全、網膜症、癌を併発するのが 糖尿病患者
の末路だからである。

1921年7月30日にインスリンが発見され、人類に測り知れない恩恵をもた
らした。欧米ではすぐに患者自身が自己注射が始まった。だが日本では
「危険」を理由に医者の反対で厚生省が許可しなかった。患者の中には日
に3度も医者通いを余儀なくされる人がいた。

仮に自己注射が許可されていれば、医療器具業者は競って注射器の簡略化
や注射針の改良に取り組んだ筈である。だが厚生省(当時)の役人たちは
日本医師会に立ち向かおうとはしなかった。

わたしが秘書官となって厚生大臣として乗り込んだ園田直は1981年、敢然
として自己注射を許可した。その結果、注射器はペン型となり、針も世界
一細い0・2ミリになって殆ど無痛になった。

だがとき既に遅し。園田本人は自分の決断の恩恵に浴することなく腎不全
に陥り、僅か70歳で死んだ。1984年4月2日の朝だった。

糖尿病は多尿が特徴なので、長い間、腎臓が原因と考えられていた。糖尿
病最古の文献はB.C1500年のエジプトのパピルスに見られる記述だ。日本
で記録のある最も古い患者は藤原道長である。

「この世をばわが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」と詠
んだ、平安時代中期の公卿である。康保3年(966年)―万寿4年12月4日
(1028年1月3日))62歳薨去した。

当時としては意外な長生きである。糖尿病を放置した場合、実際より10年
は短命になるとされているから、当時としては大変な長命というべきだろ
う。それにしても満月のような権勢も病には勝てなかった。

昔から糖尿病の尿は甘く糖分を含んでいる事は良く知られていたが膵臓が
どのような働きをしているか、どれほど重要な臓器か不明の時代が長く続
いた。

突如、1869年にLanngerhans島が発見された。それから20年たった1889
年、ドイツ人のMeringとMinkowskiは史上初めて、犬の膵臓を摘出したあ
と、高血糖と尿糖が出現することを発見し、やっと膵臓と糖尿病が切って
も切れない関係にあることを証明した。

その後ジョンズホプキンズ大学のOpie博士が、このランゲルハンス島は
内分泌器官であり、糖尿病が関係することを明らかにした。
膵臓のランゲルハンス島から出ているのがインスリン。それが少ないと
か、全く出ないのが糖尿病と判りだしたのだ。

そこからインスリン発見の物語は更に後である。

人類に測り知れない恩恵をもたらしたインスリンの発見物語の主人公は
Banting &Bestの2人のカナダ人である。苦しい実験を重ねてインスリン
を発見したのだがこの2人は当時全くの無名だった。

Frederick Bantingは1891年、カナダの農家に生まれ、1916年トロント大
学医学部を卒業し医者になった。

ある日彼は「膵臓結石で膵管が完全に閉ざされた症例」ー膵臓の腺細胞は
萎縮しているのにランゲルハンス島だけは健全であったーという論文を読
んだ。

それなら結石の代わりに手術で膵管を縛ってしまえばよいと彼は考えた。

膵管を縛るという考えは天才的な閃きだった。彼は自分のアイディアを実
行すべく、トロント大学の生理学者 Macleod教授を訪ねた。
このとき、助手として学生のC.H.Bestを推薦された。

早速実験が始められた。膵管結縛の手術は難しく、内分泌を抽出するのは
さらに難しい。

彼らは1921年7月30日に初めて抽出エキスを犬に静脈注射してみた。効果
は覿面だった。そこで彼らはこの物質をインスリンと命名した。

しかしこのBantingとBestの苦心の作も、まだまだ不純物が多く、実用に
は耐えなかった。その後安全に血糖を下げることが可能になったのは生化
学者 Collips博士が、粗雑な抽出物を人間の使用に耐えるように精製した
結果だった。

1923年のノーベル生理、医学賞はBantingと教授Macleodに決定した。

2005年の国際糖尿病連合の発表によると、アメリカ人のなんと20%が糖尿
病の疑いありで、60歳以上の老人に限れば20%強が糖尿病に罹患している。

アメリカに住む白人種に限っても糖尿病患者は確実に8%を越え増加の一
途を辿っている。

21世紀が進行し始めるとヨーロッパとアメリカという、今までは罹患率が
極めて少ないと言われていたコーカソイド人種全体に糖尿病が一気に蔓延
しはじめた。

これはアメリカの高脂肪、高蔗糖、高エネルギー食がグローバル化し、
ヨーロッパもその例外でない事を示している。

19世紀末までコーカソイドである白人種たちは国によって糖尿病発症率が
低かった。しかしこれから20年以内にはヨーロッパもアメリカも糖尿病激
増で悲鳴をあげるだろうといわれている。

1000年はおろか数百年前にDNA の中に眠っていた遺伝子が社会環境の激変
で目覚めたのである。さらに遺伝子とは関係なく運動不足も大いに影響し
ている。

2004年、アメリカでゲノム研究者が2型糖尿病(中年に発症)の遺伝子を
発見したことが報じられた。これは飢餓遺伝子とは関係ないと考えられて
いる。

日本人の場合、江戸も中期以降になると、庶民の間でも1日3食の食習慣
が成立したが、明治維新までウシも豚も常食として食べる習慣が全くな
かった。つまり高血糖の原因となる高カロリー、高タンパク、高脂肪食と
は無縁な栄養学的にはかなり貧困な食生活が300年以上続いたのである。

一方、1850年ごろからヨ−ローパ人は大量生産方式の牧畜蚕業勃興と発展
により肉食が一般市民階級に広く普及した。日本人が反射的に頭に思い描
くヨーロッパ風の肉中心の食事スタイルの成立だ。

それでも当時ですら日本人に比べるとヨーロッパ人の体格は立派であった
のだから、その後の食生活の100年が生み出した肉体的格差は想像以上の
結果を生んだのだ。

日本では第2次大戦後、それも戦後20年たって、やっと高エネルギーと高
脂肪食をとりいれた結果、糖尿病が急上昇で増加した。わずか30年から40
年の食生活の変化だ。

日本人の中に眠っていた飢餓遺伝子が飽和脂肪の刺激を受けて目覚めた結
果である。世界中の人類に共通の現象で別段、驚くべきことではない。経
済の高度成長と糖尿病患者の趨勢は同一だ。

だから中国では物凄い勢いで糖尿病患者が増えている。精々鶏を食べてい
たものが、1切れでその何倍ものカロリーのある牛肉を食えば、報いは当
然、肥満と糖尿病など生活習慣病である。毛沢東語録にはない。

出典:さいたま市大島内科クリニック「インスリン発見物語」


◆奈良木津川だより 壬申の乱(4)

白井 繁夫


「壬申の乱の戦」は672年7月に入ると、近江朝廷の大友皇子軍と、不破の大海人軍の両軍が正面からの全面戦争に突入、近江路において雌雄を決する死闘が始まりました。

近江朝の近江路方面軍は、不破(関ヶ原)への進軍途上、近江の豪族、羽田氏や秦氏を味方の軍に取り込みましたが、関ヶ原と彦根市の中間地域を支配している息長氏(オキナガ)の旗幟が不明のため、息長氏の支配地の手前の犬上川畔まで進み陣を構えました。

7月2日に大友皇子の近江路方面軍の山部王将軍は、心ならずも総司令官的立場に担ぎ挙げられましが、大海人皇子に帰参を願っていることが発覚して、将蘇我臣果安.将巨勢臣比等に殺害されました。

この事件は近江朝軍にとって、大きな動揺と内部混乱の起因となりました。

近江朝軍の指揮官の人材不足?による軍の乱れ、(蘇我果安将軍は大津へ帰り、自責の念に駆られてか?自殺する。近江の豪族羽田矢国と子の大人(フシ)一族が息長氏の支配地を通り大海人軍に帰参)の結果、中立的立場だった息長氏を始めとする近江の豪族は、大海人側に加担するようになるのです。

(息長氏が中立を保ち旗幟を鮮明にしなかったので、大海人皇子は彼の本拠地近くの不破に野上行宮を置いていたのです。)

7月5日大津を出発した田辺小隅(オスミ)の少数精鋭の別動隊が、倉歴道から鈴鹿道を抜けて裏面から不破の挟撃を目指し、大海人軍の田中足麻呂が守る倉歴(くらふ:柘植町)を夜襲し守備隊を破りました。

翌日の深夜、莿萩野(たらの:旧上野市)の多品治将軍が守る陣に夜襲をかけますが、今度は田辺小隅軍が敗れて敗走しました。(この勇猛な作戦は非常に良い策でしたが、少数兵では大海人軍に勝てず敗れ去ったのです。)

大海人軍には琵琶湖の東岸の羽田氏、息長氏、北岸の坂田氏などの豪族が加わり、大海人皇子は羽田矢国を、北近江.越方面別動軍の将軍に起用して、北陸方面の要衝(愛発:あらち:高島市.旧マキノ町)の守りに就かせました。(かつて、大友軍の精鋭が夜襲をかけた「玉倉部邑:たまくらべむら」を防げたのも、息長氏の地盤近くで起きたから大海人軍の出雲狛が援助を受けて?防戦できた。とも云われています。)

大海人軍の村国男依が率いる近江路進攻軍(本隊)は7日に出撃し、大友軍の主力部隊と
息長の横河(米原市醒井付近)で主力軍同士が激突し、朝廷軍が敗れ去り、将軍境部連薬は捕えられ斬殺されました。

大海人軍は追撃して、9日に鳥籠山(とこやま:彦根市大堀町)の将軍秦友足率いる大友軍も破ります。(鳥籠山は息長氏と羽田氏の本拠地の中間、両戦闘で大海人軍は琵琶湖の東岸「東山道」を完全に制圧できました。)

大海人軍は更に南下して進軍し、13日には近江最大の川「安河畔」(守山市:野洲川畔)
に達して、2度目の主力戦を大友軍の将軍社戸臣大口(コソベノオミオオグチ)と戦い、撃破して彼を捕虜にしました。

17日には栗太(くるもと:栗東市)の大友軍の陣営も破り、瀬田川の東岸にある官衙まで、あと少しの処まで迫りました。

ここからは近江朝廷本営の主力軍との真剣勝負になるため、進軍を停止して、大海人軍は斥候を出し、大友皇子の正規軍の陣容.伏兵の有無などの状況と朝廷軍の情報収集を開始し主力戦に備へました。

その上で、672年7月22日は、村国男依将軍が率いる大海人軍の各諸将が、大友軍の総力を挙げた起死回生の決戦に挑むのです。

◆大海人軍の斥候の報告:
『大友軍は瀬田橋の西側に整然と布陣しているが伏兵は見受けられない。しかし、驚くことがある。それは大友皇子御本人が御出座されており、左大臣蘇我臣赤兄(ソガオミアカエ)、右大臣中臣連金(ナカトミノムラジカネ)の左右大臣も布陣する、朝廷の最高位の人々が前線に出るなど』と、想定外の出来事でした。

(後世でも家康との最後の決戦となる大坂夏の陣で、外堀も内堀も埋められ、まる裸となった大阪城での戦いを鼓舞するため、真田幸村ら諸将が豊臣秀頼の御出陣を依頼したが叶わなかったことは、ご承知ですね。)

朝廷軍は大津宮防衛のため、瀬田橋を大海人軍には絶対に渡らせない強い決意でした。

むしろ大海人軍の各諸将は前回記述した如く、近江朝の高官とも面識がなく、まして大友皇子の御出座も意に介せず、特大の獲物を狙う獣狼の様な地方の豪族達でした。

大海人軍の各部隊の兵は競って橋を突破しようとしますが、橋を目がけて雨霰の如く矢が降り注ぐ集中攻撃を受け、前進を阻まれました。それをも突破して半ばまで進むと、次は仕掛けが有り、兵は川に落ち流され溺れ死させられました。

(大友軍の将「智尊:チソン:渡来人の知恵者」が橋の中程に長板を置き、綱を引くと板が外れる仕掛けをしていたのです。)

この時大海人軍の兵士に動揺が起きました。前進する士気が薄れそうになったとき、大津皇子の舎人:大分君稚臣(オオキダノキミワカミ)は矢が射込まれても耐えられるように挂甲を重ね着して、踊り出、雄叫びをあげながら抜刀して橋上を疾駆すると、無数の矢が突き刺さりました。が、彼は怯まず橋を駆け抜けました。

西側に整列して矢を射ていた大友軍の兵は、眼前に獣の様な形相の稚臣を見て恐怖に駆られ逃げる余裕もなく斬られて逝きました。男依はこの機を捉へ、全軍に総攻撃を命じ、橋の西側へ攻め込みました。

智尊は必死で奮戦しますが、捕らえられ、男依に知略と武勇は称えながらも、定めにより斬殺されました。(大友皇子の本陣が静かに退くのが、遠望された、と云われています。)

同日、琵琶湖北岸の大海人軍の別動隊(羽田矢国.大人父子と出雲狛)は、西岸道を守る三尾城(みおき:滋賀県高島町)を攻撃して、落城させました。また、大和飛鳥から上ツ道、中ツ道、下ツ道の三道を北上した紀臣の大海人軍は、淀川の山前(京都府大山崎町)に到着して布陣を完了しました。

翌日(23日)瀬田の戦で大勝利した村国男依の大海人軍は、橋を渡り粟津岡(大津市膳所)に全軍集結しました。

一方、敗走した大友軍は左右大臣等の姿はなく、大友皇子はわずかの供を従えるだけとなり、全ての退路は大海人軍に断たれてしまったのです。

大友皇子は最後まで付き添った舎人(物部連麻呂)を大海人軍に遣わしました。村国男依将軍は大友皇子の名誉ある死のため、全軍に攻撃を一時中止させました。

物部麻呂が大海人軍の前に再び現れ、皇子の最後の様子を涙ながら報告し、皇子の首を差し出しましたが、流石に誰も正視する者がいなかったと云われています。

壬申の乱後、大海人皇子の裁きです。重罪は8名で、特に大友皇子の帷幕(いばく)として作戦を立案し、実権を握っていた中臣金は極刑、大友皇子擁立の盟約を結んだ者も処罰して政権から排除しました。その他の人々は寛刑で済ませました。

大海人皇子は、天武2年(673)正月、飛鳥淨御原宮で即位し、天武天皇となり、大臣を置かず皇族や皇親を中心とする皇親政治を採り、律令体制の国家を目指しました。

天武天皇は現体制の有能な官僚を温存して活用し、新国家建設を計り、新しい藤原京の建設を立案するのです。

大規模な造営計画の藤原京の京域は約25平方キロ(平城京:約24平方キロ)あり唐風の都城:礎石建築で瓦を葺いた建物、史上初の条坊制を布いた本格的な都城:を目指すのです。(造営プランは天武13年3月に決定されました。)

この皇位継承をめぐる大戦は、天武天皇妃の鸕野皇女(後の持統天皇)にとっては、我が子草壁皇子へつなぐ天武系統体制を確立する戦いであり、大友皇子擁立の盟約者を完全に排除出来ればそれでよかったのです。

大和.飛鳥の玄関港:泉津(木津の港)へは藤原京造営用の大量の檜材が、近江の田上山(たなかみやま:大津市大神山の峰々)から瀬田川→宇治川→「木津川」へと筏に組んで運ばれ、石材や瓦などの重量物も瀬戸内→淀川→「木津川」と水運を利用して運ばれました。

「木津から大和.飛鳥へ上ツ道、中ツ道、下ツ道の3道を利用するルート」があり、泉津は藤原京から平城京へと繁栄が続いて行くのです。(完)

参考資料:壬申の乱    中央公論社      遠山美都男著
     戦争の日本史2  壬申の乱  吉川弘文館  倉本一宏著
     木津町史    本文篇      木津町