2018年10月15日

◆柴山発言、どこが「バカ」か反応

阿比留 瑠比


子供の頃、友人らと「バカと言う者がバカだ」と言い合った覚えがある人
は少なくないだろう。共産党の宮本岳志衆院議員が3日、自身のフェイス
ブックに書き込んだこんな言葉を見てふと記憶がよみがえった。

「またバカが文部科学大臣になった。教育勅語(ちょくご)を研究もせず
に教育勅語を語るな!」

これは、柴山昌彦文科相が2日の就任後の記者会見で、明治天皇が人が生
きていく上で心がけるべき徳目を簡潔に示した教育勅語に関し、次のよう
に述べたことへの反応である。

「アレンジした形で、今の例えば道徳などに使える分野が十分にあるとい
う意味では、普遍性を持っている部分がある」

「同胞を大切にするとか、国際的協調を重んじるといった基本的な記載内
容について、現代的にアレンジして教えていこうと検討する動きがあると
聞いており、検討に値する」

宮本氏がどれほど深く教育勅語を研究してきたのかは寡聞にして知らない
が、この柴山氏の発言がどう子供じみた「バカ」という悪口と結びつくの
だろうか。

 政府は平成29年3月の閣議では、教育勅語を「憲法や教育基本法に反
しないような形で教材として用いることまでは否定されていない」とする
答弁書を決定している。

新閣僚を「欠陥商品」

また、現在は安倍政権を激しく批判している前川喜平元文科事務次官も、
初等中等教育局長当時の26年4月の参院文教科学委員会でこう答弁して
いる。

「教育勅語の中には今日でも通用するような内容も含まれており、これら
の点に着目して活用することは考えられる」

当時の下村博文文科相も「教育勅語の内容そのものについては、今日でも
通用する普遍的なものがある」と述べており、柴山氏の発言は従来の政府
見解と特段異なるわけではない。

宮本氏は、2日のフェイスブックでも第4次安倍改造内閣の顔ぶれについ
てこう「口撃」していた。

「在庫期間が長すぎて埃(ほこり)の被った商品や、すでに欠陥が明らか
になった商品ばかりの品揃(しなぞろ)え」

閣僚たちを「埃の被った商品」「欠陥商品」と決めつけるのも品がなくど
うかと思う。ともあれ、宮本氏は以前から過激な物言いを続けてきた。

6月1日のフェイスブックには、先の通常国会を延長する政府・与党の方
針について「さあ、(予算委を)開くがいい、『この世の地獄』というも
のを体験させてあげよう」とおどろおどろしく記していた。きっと地獄に
ついても真摯に(しんし)研究を重ねてきたのだろう。


新閣僚を「欠陥商品」

 また、現在は安倍政権を激しく批判している前川喜平元文科事務次官
も、初等中等教育局長当時の26年4月の参院文教科学委員会でこう答弁
している。

 「教育勅語の中には今日でも通用するような内容も含まれており、これ
らの点に着目して活用することは考えられる」

 当時の下村博文文科相も「教育勅語の内容そのものについては、今日で
も通用する普遍的なものがある」と述べており、柴山氏の発言は従来の政
府見解と特段異なるわけではない。

 宮本氏は、2日のフェイスブックでも第4次安倍改造内閣の顔ぶれにつ
いてこう「口撃」していた。

 「在庫期間が長すぎて埃(ほこり)の被った商品や、すでに欠陥が明ら
かになった商品ばかりの品揃(しなぞろ)え」

 閣僚たちを「埃の被った商品」「欠陥商品」と決めつけるのも品がなく
どうかと思う。ともあれ、宮本氏は以前から過激な物言いを続けてきた。

 6月16日のフェイスブックには、先の通常国会を延長する政府・与党
の方針について「さあ、(予算委を)開くがいい、『この世の地獄』とい
うものを体験させてあげよう」とおどろおどろしく記していた。きっと地
獄についても真摯に(しんし)研究を重ねてきたのだろう。


共産党議員の道徳観

 宮本氏だけではない。共産党では28年6月のNHK番組で、当時の藤
野保史(やすふみ)政策委員長が防衛費について「人を殺すための予算」
と発言し、事実上更迭されたこともある。吉良佳子(よしこ)参院議員は
26年10月、ヒトラーのちょびひげを施した安倍晋三首相の写真をツ
イッターに投稿していた。

 「国家権力が国民に特定の価値観を押し付けることは、憲法の定める思
想良心の自由を侵すことにほかなりません」

 「(道徳は)さまざまなことを経験し学習することによって、自主的判
断で選び、形成していくもの」

 共産党はこう主張し、小中学校における道徳の教科化に反対している。
だが、「自主的判断」で独自の道徳観を形成したらしい共産党議員の今日
の言動をみると、より教育勅語の精神や道徳の教科化が重要だと思えてく
る。(論説委員兼政治部編集委員)
産経ニュース【阿比留瑠比の極言御免】 .


◆マレーシア政府、逃亡ウィグル人を

宮崎 正弘


平成30年(2018年)10月13日(土曜日)弐 通巻第5856号    

(速報)
  マレーシア政府、逃亡ウィグル人をトルコへ送り出した
   中国の強圧をはねのけて人道尊重。トルコも受け入れ歓迎

 過酷な弾圧を逃れてウィグル族の若者らが決死の逃避行を続けている。
すでに数千、数万のウィグル人はカザフ経由などでトルコ入りした。過激
派はイラク、シリアのISキャンプに志願した。

2014年以来、ウィグルから雲南省など山道、けものみちを越え、別のルー
トと辿ってタイにたどり着いた数百のウィグル人はタイの収容所に暮ら
し、国際社会は一日も早いトルコへの帰還を呼びかけてきた。

ラビア・カディール女史が率いる「世界ウィグル会議」も様々な機会を通
じて、国際機関に必死に訴えてきたが、タイ政府は2015年に、このうちの
200人を中国へ強制送還した。

タイの無慈悲な行為に国際社会は批判をやめず、最近はロヒンギャを弾圧
したスーチーと並べて批判してきた。

タイの収容所から11人のウィグル族が脱走し、マレーシアへ入国していた。

マレーシア政府はこれらの亡命希望者をトルコ政府と秘密交渉のすえに、
トルコへ送り届けたことが10月12日までに分かった。

 マハティール新政権は、いかなる中国からの恐喝や強要をも無視して、
人道主義に基づく決断をなしたことは、高く評価される。

◆バラ色に描く韓国の悲劇

櫻井よしこ


「南北協力の道をバラ色に描く韓国の悲劇 偏向報道が目に余る日本の韓
国化も心配だ」

韓国の著名な言論人、趙甲濟氏がこんなことを呟いた。「韓国人の考える
能力、理解力が低下しています。わが国が直面する危機について、どれだ
け発信してもわかってもらえない」。

趙氏は昭和20年、日本で生まれたが、家族と共に韓国に引き揚げた。私は
折に触れ、氏と対談をしたり意見交換したりしてきたが、氏が生まれ故郷
の日本に対して、好意とわだかまりを混在させていると感ずることがある。

日本へのわだかまりは、韓国への思いの深さと朝鮮民族としての誇りと背
中合わせなのだと感ずる。その趙氏が、韓国人の考える能力が劣化してい
ると、日本人の私に語ったことに、痛ましさを感じずにはいられなかった。

なぜ、彼はそのように言うのか。それは彼らの祖国、大韓民国を消滅に追
いやってしまうかもしれない政策を文在寅大統領が次々に実施しているに
も拘わらず、韓国民がそのことに気づかないからだ。言論人として、趙氏
がどれだけ警告を発しようが、韓国民はそんなことにお構いなく、文氏に
高い支持を与え続けているからでもある。

文氏の支持率は、氏が南北朝鮮首脳会談を行い、北朝鮮の金正恩朝鮮労働
党委員長との親密な関係を宣伝する度に上がってきた。まるで北朝鮮のメ
ディアであるかのような韓国のテレビ局や新聞社は金、文両氏の笑顔と抱
擁を大きく報じ、南北協力の道をバラ色に描き、民族統一の夢を抱かせ
る。しかし、二度行われた首脳会談の合意、「板門店宣言」(4月27日)
も「平壌共同宣言」(9月19日)も決してバラ色ではない。むしろ一方的
に北朝鮮に有利で、韓国の悲劇を招く内容だと断じてよいだろう。

4月の板門店宣言をより具体化し、強調したのが9月の平壌共同宣言だが、
その中で最も重要視されているのが、南北間の軍事的敵対関係の解消であ
る。そのために彼らは軍事分野に関する合意文書を別に作成し、10月1
日、早くも実施に移したのだ。

なんと、非武装地帯(DMZ)や板門店の共同警備区域(JSA)で地雷
の除去を始めたのだ。20日以内にすべての地雷を取り除き、それから5日
以内に監視所や火力兵器を撤収し、10月末までに完全に非武装化する。さ
らに11月からは軍事境界線の上空を飛行禁止区域とし、この一帯での軍事
演習はすべて取りやめるともいう。

朝鮮問題専門家である西岡力氏が警告した。

「韓国側が一方的に武装解除するのに対して、北朝鮮側はミサイルも核も
基本的に保有したままです。北朝鮮は軍事境界線に沿ってすくなくとも長
距離砲340門を配備済みです。首都ソウルは十分射程の範囲内です。これ
まで韓国軍は情報監視能力を備えた哨戒機を飛ばし、北朝鮮側の不穏な動
きをキャッチしてきました。

必要なら精密打撃能力を誇るミサイルで攻撃可能な態勢が整っていまし
た。しかし哨戒機の飛行をやめるわけですから、万が一、北朝鮮が攻撃を
かけてきても分かりませんから、防ぎようもありません。北朝鮮には哨戒
能力はまったくないのですから、一方的に韓国側が譲って、ソウルを明け
渡すわけです」

こんな状況が眼前に出現しているのに、なぜ韓国の国民はおかしいと思わ
ないのかと、趙氏は嘆くわけだ。氏は韓国人の考える能力を問題視した
が、実は韓国メディアの発信する情報の偏りこそが問題だ。韓国のメディ
ア界は偏向報道の見本のような状況に陥っている。正恩氏が恰も心優しい
優れた指導者であるかのような報道しかしない。北朝鮮の脅威も伝えない
ために、韓国人は事実を認識できないのだ。

私は韓国情勢を心配しながら、日本の現状についても同様の危惧を抱く。
日本のメディアの目に余る偏った報道で日本が韓国化しつつあるのではな
いかと、心底心配だ。

『週刊ダイヤモンド』 2018年10月13日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1251

◆奈良木津川だより 壬申の乱(3)

               白井繁夫


壬申の乱の戦はこれまで河内.飛鳥方面の戦況を先行し、近江路方面は後述に分けました。

672年7月3日大海人軍の大伴吹負(フケイ)将軍は、「木津川」を越え攻め寄せて来る大友軍に対する布陣を、乃楽山(奈良山)に完了し、麾下の荒田尾赤間呂の奇策を倭古京(飛鳥の古い都)に採りました。大野果安(ハタヤス)将軍が率いる近江朝軍に備える作戦でした。

その翌日、果安軍の大軍が来襲し、簡単に布陣を突破され、怒涛の勢いで天香具山(天香久山:奈良県橿原市)の八口まで攻め込まれましたが、そこで吹負軍の奇策(大軍の存在を示す大量の楯等)を試みて戸惑わせました。そして目前までやすやすと占領で来た飛鳥京に、果安軍の全軍を一時後退させました。
「高市県主 許梅(コメ)の託宣(生霊神の言):果安長蛇を逸す。と」

大海人軍の吹負は命拾いしたのですが、逃げる途中に置始連兎(オキソメノムラジウサギ)の騎兵隊(先遣隊)と墨坂(宇陀市榛原)で合流して力を付け、金綱井(かなづなのい:橿原市今井町)に逆襲したのです。


一方、近江朝の壱岐韓国(カラクニ)将軍が率いる河内方面軍も河内衛我河で坂本財を破りますが、その時、国司来目塩籠の背反問題が発生して進軍できません。再度軍勢を立て直して飛鳥を目指しましたが、当麻の衢(ちまた)、葦池付近(奈良県葛城市当麻町)で、大伴吹負麾下の勇士来目(タケキヒトクメ)と置始騎兵隊の凄まじい突撃を受けたのです。

ところが、近江朝の大軍団の中の歩兵連隊の横腹を目指して、精鋭の騎馬隊が決死の覚悟で猛然と突撃した戦いで、さしもの韓国大軍も乱れ、兵は逃惑い、韓国軍の指揮命令系統が機能せず、総司令官(韓国)が、矢を受けて、必死で逃亡して行きました。

この7日の戦いで大海人軍は西方(大坂.河内方面)の脅威を無くしたのです。

当麻の戦いも4日の総攻撃日と同様、大友軍は河内方面軍と近江の倭古京方面軍の連携が機能していなかったと思われます。その間に大海人軍の大倭方面派遣軍の本隊(紀臣阿閉麻呂:キノオミアヘマロ:率いる数万の兵)が大伴吹負軍に参陣しました。

倭古京(飛鳥京)と乃楽(奈良)を結ぶ3本の南北道は東から上ツ道、中ツ道、下ツ道と称され東の上、中ツ道は木津へ奈良街道となって繋がり「木津川」の右岸を通り菟道(宇治)へ、西の下ツ道は木津の歌姫街道へと、「木津川左岸」を通って山陰道などに繋がります。

近江朝の将軍大野果安率いる倭古京方面軍は、大和の北(木津)を経て乃楽から上記3本(上.中.下ツ道)の道に部隊を分けて飛鳥を目指して攻めたのです。
これに対して、紀阿閉麻呂率いる大海人軍の本隊は、7月7日から8日にかけて続々と集まりだしたのです。同本隊の大伴吹負は、この大軍を3道に合わせて上中下陣に分けました。つまり、麾下の三輪高市麻呂は彼の地盤である上ツ道、吹負は中ツ道(自身の百済の家:橿原市百済)、援軍の精鋭部隊(主力部隊)は上ツ道に配置したのです。

ところが、戦闘は上ツ道と中ツ道ほぼ同時に起き、中ツ道の近江の将軍(犬養五十君イキミ)の別動隊(廬井鯨イホイノクジラが率いる精鋭部隊)が少数で守る吹負の陣営を襲い、またまた吹負は苦戦を強いられて仕舞い、必死に防戦しました。

上ツ道沿いの箸陵(はしはか:桜井市)での戦闘は三輪高市麻呂(大倭の豪族)と大海人軍本隊の精鋭部隊(置始兎)が共同で近江朝軍を迎撃、撃退し、更に追跡して、中ツ道の近江軍本隊を攻撃し、廬井鯨の背後を衝いたのです。

これで大友軍の大和の戦闘は、完全に敗北となったのです。

大海人軍の将軍吹負は何度も近江軍と戦い負けても、再度挑み続ける闘志でした。一方、近江軍の兵士の方は、庚午年籍に基づく徴兵であり、将軍も大海人皇子に内応する者も出てきていたため、大事なところで勝機を逃していたのです。

この結果が、飛鳥路方面の戦闘も、大海人軍の勝利に結び付いたことになります。

そこで、大海人軍の将軍大伴吹負は即刻難波へ赴き、西国の国宰から正倉.兵倉の鑰(かぎ)を献上させました。また大海人軍の大倭救援軍本隊は北の乃楽山から木津を経て山前(やまさき:桂川、宇治川、木津川との合流地南:八幡市男山近辺)へ進軍して行きました。これが歴史上の山場と見るべきでしょう。

ここで、大和.飛鳥路方面から近江路方面の戦闘へ話題を戻します。

672年6月に近江朝は、東国へ徴兵督促のため派遣した国宰(くにのみこともち)書薬(フミノクスリ)などが、26日に大海人軍に「不破道(関ヶ原)」で囚われの身になった。との報告に接し即刻臨戦態勢を取り、27日に大津宮より近江路方面軍を発進させました。

近江朝軍の陣営は王族(山部王)、大夫氏族(高級官僚:蘇我果安ハタヤス、巨勢比等コセノヒト)、などの将軍(指揮官)と中小中央豪族、近江地方の豪族、羽田矢国(ヤクニ)将軍を含めて、数万の兵(近江朝正規軍+近江の兵など)からなる大軍団でした。

大友皇子は不破道の大海人軍を、この際一気に粉砕できると、信じて出発させたと思われます。

(話題が前後しますが、この時点で、近江朝には飛鳥の状況も、大海人皇子が野上行宮に入った情報も、更に、尾張の国司小子部鉏鈎:チイサコベノサヒチ:が2万の兵を率い大海人軍に帰服した27日の重大な情報なども、近江朝には全く届いていなかったのです。決定的な手抜かりでした。)

この結果、大友皇子には、6月29日になって、ようやく大伴吹負が倭古京で蜂起し、飛鳥の大友軍営を占領した戦況が伝わったのです。これを機に大友皇子と大海人皇子の両陣営が本格的戦闘態勢を採ることになるのです。

7月2日に大海人皇子は「和蹔:わざみ」(不破郡関ケ原町)の全軍に進撃命令を出しました。紀阿閉麻呂率いる大倭救援軍は前回記述した如く置始兎の騎兵隊を先遣し、飛鳥まで伸びる戦線の腹部防護のため多品治を「莿萩野:たらの」(伊賀市)に、田中足麻呂を「倉歴道:くらふのみち」(甲賀市)に配備しました。

大海人軍の近江路方面進攻軍は総司令官村国男依(オヨリ)将軍、書根麻呂(フミネノマロ)将軍.和珥部君手(ワニベノキミテ).胆香瓦安部(イカゴノアヘ)ら地方豪族で整え、この方面軍も数万の兵士に赤布や旗を備えた赤色軍にしています。

近江路軍の最大特徴は総司令官を除き、指揮を執る各将軍は大友皇子を始めとして近江朝廷の高官とは面識ないのが地方の各豪族です。ただこの地方の土地勘や地縁.血縁を持っているだけです。ですから、戦闘に突入した時、各指揮官が個々に部隊を指揮、命令しました。謂わば総司令官の指揮ではなかったのです。

余談ながら、後世の江戸幕府軍が「錦の御旗」に恐れをなしたのも、大海人皇子と同じ様な巧みな戦略.指揮.監督をしたと思われます。

さて、大海人軍の飛鳥救援軍は即刻先遣部隊を急派し、同時に鈴鹿道.伊賀路の防衛を固めて出発しました。そして近江路進攻軍は大和.飛鳥方面のその後の戦闘情勢と大津京への進軍途上で戦闘に際し非常に重要である各地の豪族:息長氏(オキナガシ:米原市)を始めとし、坂田氏、秦氏、羽田氏などの状況を把握して行ったのです。

これに対して、近江朝廷軍は東国の徴兵と西国(中国.九州)の徴兵が時間的に間に合わないため、朝廷の常備軍と畿内で徴集した兵をもって、飛鳥と不破に兵力を分散さす状況となりました。飛鳥京と大海人本営の攻撃と両方面とも、近江朝は重要と判断したのでしょう。

しかし、近江朝廷の大友皇子は当初は大海人皇子に必勝すると信じて、思い戦闘に入りましたが、「白村江の戦」が尾を引いて軍備が遅れ:武器や兵力不足の悪状況も伴ったのです。

ですから不破への進撃途上に通過する地域の豪族兵を味方に(羽田氏など)加えながら、息長氏(オキナガ)などの近江の豪族をどれだけ味方に出来るかが勝敗を大きく左右すると思うようになっていたでしょう。

一方、大海人皇子は前述の如く、大和飛鳥路戦へは戦術に長ける中央の豪族を指揮官にして近江朝に不満を持つ豪族(国宰や古い渡来人)、東国へ脱出途上大海人軍に加わった兵(美濃.尾張の2万、大倭や伊賀の軍勢)を得て、半年間、吉野で推考した作戦以上の好精華で状況は進展していました。「戦には天が味方してくれている」と思ったに違いありません。

近江路における両軍正規軍の勝敗を決する戦闘と、その顛末は、次回につづけます。

参考資料: 壬申の乱   中央公論社    遠山美都男著
      戦争の日本史2 壬申の乱  吉川弘文館  倉本一宏著


2018年10月14日

◆マレーシア政府、逃亡ウィグル人を

宮崎 正弘


平成30年(2018年)10月13日(土曜日)弐 通巻第5856号    
<前日発行>

(速報)
  マレーシア政府、逃亡ウィグル人をトルコへ送り出した
   中国の強圧をはねのけて人道尊重。トルコも受け入れ歓迎

過酷な弾圧を逃れてウィグル族の若者らが決死の逃避行を続けている。
すでに数千、数万のウィグル人はカザフ経由などでトルコ入りした。過激
派はイラク、シリアのISキャンプに志願した。

2014年以来、ウィグルから雲南省など山道、けものみちを越え、別のルー
トと辿ってタイにたどり着いた数百のウィグル人はタイの収容所に暮ら
し、国際社会は一日も早いトルコへの帰還を呼びかけてきた。

ラビア・カディール女史が率いる「世界ウィグル会議」も様々な機会を通
じて、国際機関に必死に訴えてきたが、タイ政府は2015年に、このう
ちの200人を中国へ強制送還した。

タイの無慈悲な行為に国際社会は批判をやめず、最近はロヒンギャを弾圧
したスーチーと並べて批判してきた。

タイの収容所から11人のウィグル族が脱走し、マレーシアへ入国していた。

マレーシア政府はこれらの亡命希望者をトルコ政府と秘密交渉のすえに、
トルコへ送り届けたことが10月12日までに分かった。

 マハティール新政権は、いかなる中国からの恐喝や強要をも無視して、
人道主義に基づく決断をなしたことは、高く評価される。

◆これほどの大物が居た

渡部 亮次郎


名古屋市には、その中心に、100m道路がある。道幅100mの道路が東西南北
に走っている。もちろんその100mの道幅そのものが、自動車の走行の為の
道幅ではない。道幅100mの間には、公園もあれば、テレビ塔もある。

名古屋も戦後直後は、空襲でこの辺りも焼野原となった。戦後の混乱の時
期に、市の幹部は、まず道路を設定した。その時に、未来に備えての道幅
100mの道路を設定したのである。

さて、なぜ道幅100mの道路を名古屋の中心に東西南北に走らせたか?である。

戦後の焼野原を見ながら、どんな火災が起きても、延焼を食い止め、名古
屋全域が焦土と化さないように名古屋の中心のタテヨコに幅100mの空間
(道路)を作ったのである。

一方、将来来るはずの自動車社会を見越して東京中心部の設計をしたのが
岩手県人後藤新平(ごとう しんぺい)綽名大風呂敷である。関東大震災
後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案した。

特に道路建設に当たっては、東京から放射状に伸びる道路と、環状道路の
双方の必要性を強く主張し、計画縮小をされながらも実際に建設した。

当初の案では、その幅員は広い歩道を含め70mから90mで、中央または車・
歩間に緑地帯を持つと言う遠大なもので、自動車が普及する以前の当時の
時代では受け入れられなかったのも無理はない。

現在、それに近い形で建設された姿を和田倉門、馬場先門など皇居外苑付
近に見ることができる。上野と新橋を結ぶ昭和通りもそうである。日比谷
公園は計画は現在の何倍もあったそうだ。

また、文京区内の植物園前 、播磨坂桜並木、小石川5丁目間の広い並木道
もこの計画の名残りであり、先行して供用された部分が孤立したまま現在
に至っている。現在の東京の幹線道路網の大きな部分は後藤に負っている
といって良い。

関東大震災。1923(大正12)年9月1日午前11時58分に発生した、相模トラフ
沿いの断層を震源とするマグニチュード7・9による大災害。南関東で震度
6 被害は死者99,000人、行方不明43,000人、負傷者10万人を超え、被害
世帯も69万に及び、京浜地帯は壊滅的打撃を受けた。(以下略)「この項の
み広辞苑」

新平は関東大震災の直後に組閣された第2次山本内閣では、内務大臣兼帝
都復興院総裁として震災復興計画を立案した。それは大規模な区画整理と
公園・幹線道路の整備を伴うもので、30億円という当時としては巨額の予
算(国家予算の約2年分)。

ために財界などからの猛反対に遭い、当初計画を縮小せざるを得なくなっ
た。議会に承認された予算は、3億4000万円。それでも現在の東京の都市
骨格を形作り、公園や公共施設の整備に力を尽くした後藤の治績は概ね評
価されている。11%!に削られながら。

三島通陽の「スカウト十話」によれば、後藤が脳溢血で倒れる日に三島に
残した言葉は、「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ
者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」であったという。

後藤新平(ごとう しんぺい、安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4
年(1929年)4月13日)は明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家。
台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東
京市(現・東京都)第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京
放送局(のちのNHK)初代総裁。拓殖大学第3代学長。

陸奥国胆沢郡塩釜村(現・岩手県奥州市水沢区吉小路)出身。後藤実崇の
長男。江戸時代後期の蘭学者・高野長英は後藤の親族に当たり、甥(義理)
に政治家の椎名悦三郎、娘婿に政治家の鶴見祐輔、孫に社会学者の鶴見和
子、哲学者の鶴見俊輔をもつ。椎名さんは新平の姉の婚家先に養子に入った。

母方の大伯父である高野長英の影響もあって医者を志すようになり、17歳
で須賀川医学校に入学。同校を卒業後、安場が愛知県令をつとめていた愛
知県の愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)で医者となる。

ここで彼はめざましく昇進し、24歳で学校長兼病院長となり、病院に関わ
る事務に当たっている。この間、岐阜で遊説中に暴漢に刺され負傷した板
垣退助を治療している。後藤の診察を受けた後、板垣は「彼を政治家にで
きないのが残念だ」と口にしたという。

1882年(明治15)2月、愛知県医学校での実績を認められて内務省衛生局
に入り、医者としてよりも、病院・衛生に関する行政に従事することと
なった。

1890年(明治23)、ドイツに留学。西洋文明の優れた一面を強く認識する
一方で、同時に強いコンプレックスを抱くことになったという。帰国後、
留学中の研究の成果を認められて医学博士号を与えられ、1892年(明治
25)12月には長与専斎の推薦で内務省衛生局長に就任した。

1893年(明治26)、相馬事件に巻き込まれて5ヶ月間にわたって収監さ
れ、最終的には無罪となったものの衛生局長を非職となり、一時逼塞する
破目となった。

1883年(明治16年)に起こった相馬事件は 突発性躁暴狂(妄想型統合失
調症と考えられる)にかかり 自宅に監禁されさらに加藤癲狂院(てん
きょういん)や東京府癲狂院に 入院していた奥州旧中村藩主 相馬誠胤
(そうまともたね)のことについて

忠臣の錦織剛清(にしごおりたけきよ)が 「うちの殿様は精神病者では
ない。悪者たちにはかられて病院に監禁された。」 と、告訴したことに
始まった。結局この騒ぎは1895年(明治28年)に 錦織が有罪となって終
結すること になった。


1898年(明治31)3月、台湾総督となった兒玉源太郎の抜擢により、台湾
総督府民政長官となる。そこで彼は、徹底した調査事業を行って現地の状
況を知悉した上で、経済改革とインフラ建設を進めた。こういった手法
を、後藤は自ら「生物学の原則」に則ったものであると説明している。

それは、社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生
したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって、現地
を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきであるというもので
あった。

また当時、中国本土同様に台湾でもアヘンの吸引が庶民の間で常習となっ
ており、大きな社会問題となっていた。これに対し後藤は、アヘンの性急
に禁止する方法はとらなかった。

まずアヘンに高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに、吸引を免許
制として次第に吸引者を減らしていく方法を採用した。この方法は成功
し、アヘン患者は徐々に減少した。

総督府によると、1900年(明治33年)には16万9千人であったアヘン中毒
者は、1917年(大正6)には6万2千人となり、1928年(昭和3)には2万6千
人となった。

なお、台湾は1945年(昭和20)にアヘン吸引免許の発行を全面停止した。
これにより後藤の施策実行から50年近くかけて、台湾はアヘンの根絶に成
功したのである(阿片漸禁策)。

こうして彼は台湾の植民地支配体制の確立を遂行した。台湾においては、
その慰撫政策から後藤は台湾の発展に大きな貢献を果たした日本人とし
て、新渡戸稲造、八田與一等とともに高く評価する声が大きい。

1906年、後藤は南満洲鉄道初代総裁に就任し、大連を拠点に満洲経営に活
躍した。ここでも後藤は中村是公や岡松参太郎ら、台湾時代の人材を多く
起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、満鉄のインフ
ラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。

また、満洲でも「生物学的開発」のために調査事業が不可欠と考え、満鉄
内に調査部を発足させている。東京の都市計画を指導するのはこの後である。

その後、第13代第2次桂内閣の元で逓信大臣・初代内閣鉄道院総裁(1908
年7月14日-1911年8月30日)、第18代寺内内閣の元で内務大臣(1916年10
月9日-1918年4月23日)、外務大臣(1918年4月23日-1918年9月28日)。

しばし国政から離れて東京市長(1920年12月17日-1923年4月20日)、第22
代第2次山本内閣の元で再び内務大臣(1923年9月2日-1924年1月7日)など
を歴任した。

鉄道院総裁の時代には、職員人事の大幅な刷新を行った。これに対しては
内外から批判も強く「汽車がゴトゴト(後藤)してシンペイ(新平)でた
まらない」と揶揄された。しかし、今日のJR九州の肥薩線に、その名前を
取った「しんぺい」号が走っている。

1941年(昭和16)7月10日、本土(下関市彦島)と九州(当時、門司市小森江)
をむすぶ、念願の日本ではじめての海底トンネルが貫通した。この日貫通
したのは本坑道で、それより先39年4月19日には試掘坑が貫通している。

新聞はこの貫通を祝っているが、関門海峡の海底をほって海底トンネルを
つくる構想ははやくも1896年(明治29)ころからあり、当時夢物語のような
この話を実現化へ向けて進言したのは、鉄道院総裁の後藤新平だったとつ
たえている。[出典]『中外商業新報』1941年(昭和16)7月10日

晩年は政治の倫理化を唱え各地を遊説した。1929年、遊説で岡山に向かう
途中列車内で脳溢血で倒れ、京都の病院で4月13日死去。72歳。

虎ノ門事件(摂政宮裕仁親王狙撃事件)の責任を取らされ内務省を辞めた正
力松太郎が読売新聞の経営に乗り出したとき、上司(内務大臣)だった後
藤は自宅を抵当に入れて資金を調達し何も言わずに貸した。

その後、事業は成功し、借金を返そうとしたが、もうすでに後藤は他界し
ていた。そこで、正力はその恩返しとして、新平の故郷である水沢町(当
時)に、新平から借りた金の2倍近い金を寄付した。この資金を使って、
1941年に日本初の公民館が建設された。今は
記念館になっているようだ。

後藤は日本のボーイスカウト活動に深い関わりを持ち、ボーイスカウト日
本連盟の初代総長を勤めている。後藤はスカウト運動の普及のために自ら
10万円の大金を日本連盟に寄付し、さらに全国巡回講演会を数多く実施した。

彼がボーイスカウトの半ズボンの制服姿をした写真が現在も残っている。
制服姿の後藤が集会に現れると、彼を慕うスカウトたちから「僕らの好き
な総長は、白いお髭に鼻眼鏡、団服つけて杖もって、いつも元気でニコニ
コ」と歌声が上がったという。

後藤はシチズン時計の名付け親でもある(彼と親交のあった社長から新作
懐中時計の命名を頼まれ、「市民から愛されるように」とCITIZENの名を
贈った)。 (再掲載)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

◆要は翁長氏の陰に隠れた

櫻井よしこ


当欄の原稿執筆中の9月30日、沖縄では県知事選挙の投票が続いている。
大型の強い台風24号が通りすぎ、それはいま、本土を襲っているのだが、
沖縄もまだ台風の余波の中だ。

28日の金曜日には、インターネット配信の言論テレビに、沖縄の我那覇真
子氏をゲストに迎えた。

「知事選は事実上、佐喜眞淳氏と玉城デニー氏の一騎打ちですが、おかし
なことに佐喜眞対翁長雄志の戦いになったのです。玉城氏は翁長氏の弔い
合戦を意識して、専ら、翁長氏の遺志を継ぐと訴え続けました。政策はあ
まり語らず、要は翁長氏の陰に隠れたのです」

死去した翁長氏を前面に立てて、選挙を弔い合戦にする。このような場
合、有権者は亡くなった人物とその遺志を継ぐ人物に同情しがちである。
玉城氏は選挙を、自民党が恐れた戦いのパターンに持ち込んだ。琉球新報
と沖縄タイムスがその路線に乗って玉城氏の応援部隊となった。我那覇氏
が琉球新報と沖縄タイムスの両紙意見広告を見せた。

まん中に翁長氏の、癌でやせた写真が印刷され、その上に「あなたの遺志
は私たち県民が継ぐ」と書かれている。手書きの書体で「翁長知事ありが
とう」という言葉も目につく。玉城氏の写真は隅の方に小さく印刷されて
いるだけだ。

我那覇氏が目を丸くして語った。

「一体誰の選挙ポスターかと一瞬、思います。それ程、翁長氏のイメージ
に頼っている。沖縄には翁長氏の遺影が溢れているのです。車で走ってい
ても、大きく引き伸ばした翁長氏の写真をポスターにして通り過ぎる車に
見せている人達がいます。如何にも活動家という感じの人達ですが、一日
中、沿道で頑張っているのです」

玉城氏は政策論を戦わせるのではなく、有権者の情に訴える戦法に徹した
が、それでも政策論争から逃げることはできない。再び我那覇氏の説明だ。

「玉城・佐喜眞両氏の公開討論は2回行われました。いずれも佐喜眞氏圧
勝といえる内容で、玉城支持の人々も、それは認めざるを得ませんでし
た。そもそも玉城氏の掲げる政策そのものがおかしいのです。矛盾だらけ
です」

夢見るドリーマー

玉城氏は、知事選挙の争点は辺野古への普天間飛行場の移設問題であり、
移設を認めるか否かだとしている。明らかに認めないという立場だ。

沖縄の島々への自衛隊の配備にも、反対だ。理由は、島の住民たちの合意
もなく、地域に分断を持ち込む強硬配備だからだというものだ。

だが、辺野古移転も自衛隊配備も認めないのであれば、日米安保体制も自
衛隊も十分には機能できない事態に陥るだろう。そのとき、尖閣諸島はど
のようにして守るのか。氏は外交と国際法で解決すると公約している。

軍事力の裏づけがない話し合いや外交が国際社会で通じないのは、南シナ
海における中国の行動を見れば明らかだ。常設仲裁裁判所は、南シナ海で
中国がフィリピンから島々を奪ったのは明確な国際法違反だという判決を
下した。その判決文を中国は紙クズだとして否定し、横暴にも島々の軍事
要塞化を進めている。外交手段も国際法も、中国には何の効果もない。に
も拘わらず、玉城氏は夢見るドリーマーのような政策しか掲げていない。

我那覇氏が声を強めて言った。

「玉城氏はとんでもないことを言っているのです。尖閣諸島問題を外交で
解決するということは、相手との話し合いの席につくということです。で
も、尖閣諸島はそもそも日本の領土です。領土問題など存在しないのです
から、話し合いなんて必要ない。あんた、何言ってるので終わる話です。
それなのに、外交で話し合って決めるというのは、国の政策とも合わな
い。相手の土俵に易々と乗ることで、それ自体、大きな敗北です。国会議
員だったにも拘わらず、基礎の基礎がわかっていないんです」

彼女は、玉城氏が4回も選挙に勝ってずっと国会議員を務めていたことが
信じられないという。

玉城氏に較べて佐喜眞氏の政策の方が説得力がある。氏は経済政策を真っ
正面に掲げているが、それでも沖縄の島々に中国の脅威が迫ってくる場
合、島々を守る力を保有しておくことが大事だと主張する。自衛隊の配備
も辺野古への移転も全て現実を見て対処するということだ。尖閣諸島につ
いても、領海を脅かす行為には断固抗議すると表明したのは当然でまとも
である。

玉城氏についてはもっとおかしなことがある、と我那覇氏は言う。

「9月23日付けの八重山日報が報じたのですが、玉城氏が『日米から沖縄
を取り戻す』と演説したのです。日本と沖縄は別々の主体で、沖縄は日本
の一部ではないというわけです。翁長氏も沖縄の自己決定権という言葉を
使っていました。この主張は琉球独立論につながります」

沖縄自身の責任放棄

沖縄には「構造的沖縄差別」という表現がある。『沖縄の不都合な真実』
(新潮新書)に篠原章氏らが書いているのだが、「沖縄人」と「日本人」
を対置し、「日本人」が沖縄における米軍基地の本土移転を拒絶している
のは、「日本人」の「沖縄人」に対する歴史的な差別意識が背景にあると
して、日本政府だけでなく、日本国民全体を批判する考え方だという。

米軍基地が沖縄に集中しているのは事実だが、そこには地理的、政治的、
歴史的な背景もあり、差別意識だけに原因を求めるのには無理がある。基
地縮小を政府が進めようとすると、反対論が沖縄の側から起きるという事
実にも見られるように、基地の偏在は沖縄の経済体質や社会構造の問題と
も密接に結びついている。

従って、米軍基地の偏在の責任を、「日本人」にのみ求めるのは、沖縄自
身の責任放棄である。

篠原氏らは差別についても、沖縄自身が重層的に考えなければならないと
問題提起している。「日本」による沖縄差別を問題視するのであれば、沖
縄本島による奄美・宮古・八重山地方に対する差別と収奪の歴史にも「落
とし前」をつけよとして、構造的沖縄差別論、または日本批判はむしろ沖
縄内部の問題点や矛盾を覆い隠すための議論だと指摘する。

さてこの原稿を書いている内に、知事選の結果が少しずつ、見えてきた。
午後8時すぎ、投票を終えて暫くしてから、NHKが当確ではないが、玉
城氏優勢を伝えた。

当選が確定されれば、沖縄は翁長氏に続いて、構造的沖縄差別を言い立て
る人物を知事に選んだことになる。外交と国際法の力を以て日本の領土で
ある尖閣諸島を守るというドリーマーだ。沖縄問題での迷走が、また、4
年間続くのだろうか。

『週刊新潮』 2018年10月11日号 日本ルネッサンス 第822号


◆木津川だより 壬申の乱A

白井 繁夫


大海人皇子は、天武元年(672)5月、美濃国へ赴いた舎人朴井連雄君(エノイノムラジオキミ)から「天智天皇の陵を造営するためと称して、東国の農民を徴集し武器を持たせている云々」との報告を受けたのです。

この情勢こそ、近江朝が戦いを挑むことになると推察し、吉野宮の脱出を決意し吉野においての半年間推考を重ねた作戦に基づき、6月24日に東国(美濃)を目指して出陣しました。

大変きつい強行路を経て、「桑名群家」に辿り着き、「鈴鹿の山道」や「不破道:関ヶ原」の閉塞にも成功を治め、みずからは「野上行宮」に入りました。このことは、大海人皇子側から見れば、内乱突入直前の状況だったのです。(前回記述)

ところで今回は、大友皇子側から見た「壬申の乱」に至るまでの状況を見てみます。

大海人皇子一行が、671年10月19日、大津宮を去る折、菟道(宇治橋)まで見送りに行った近江朝の重臣3名(左右大臣と御史大夫)の内の一人が、こう云いました。

<「虎に翼を着けて放つ」と云ったといわれているように、叔父の大海人皇子は有力な皇位継承者である為、皇位を継承するには大友皇子が、大海人皇子を排除すべき人物なのです。>

虎は鋭い牙と爪を持っているのに、その上に翼まで着けて放ったのだから、大海人皇子を監視するために、近江から倭古京(やまとのふるきみや:飛鳥京)までの要所(宇治橋の橋守に命じて、美濃の大海人の支配地などから武器や食糧などの物資が運搬されるか、「木津川の泉津」(木津の港)から同様に吉野へ届けられるかなど、飛鳥京の留守司などで監視する体制を敷きました。(大海人皇子の勢力を剥ぐための兵糧攻め作戦)

「対新羅戦用」と称して、全国へ国宰(くにのみこともち)を派遣して、「徴兵」(各郡司などを通じて農民兵の動員)に着手しました。

特に大海人に影響を与える地域、畿内(山背.大和.摂津.河内.和泉)と、東国の美濃や尾張(美濃の安八磨郷あはちまのこほり、湯沐邑ゆのむらなど)からの「徴兵」に傾注したのです。(作戦の狙いは、大海人皇子と関係がある地区に楔を打ち込む目的)。

大友皇子は、近江朝の政権の中心であり、大海人皇子が(吉野)隠遁している間に、勢力を剥ぎ、大友に対抗出来なくしようとした計画的な行動を取りました。

ただ、天智の殯(もがり)の期間、いろいろと公式行事があるうえに、筑紫の唐使「郭務悰:カクムソウ」の応対にも忙殺されることのもありました。

古代も現代も戦争に備えるには情報戦略が非常に重要な要素です。近江朝は軍備力や権勢力などで絶対的な自信を持ち過ぎて、少々油断があったのではないかと思われます。

大海人皇子は、誼を持つ舎人を通じて各地の豪族と絆を結び、近江朝の動静などの情報を逐一得ていました。もちろん、近江や飛鳥の官人とも連絡は密だったのです。

両軍が戦闘に入ったとき、大友軍は情報不足により有利になるはずの戦況を、思わぬところで不利にすることが出てしまいました。

重要な歴史書:『日本書紀』は日本最古の正史ですが、舎人親王(天武の皇子)が編纂の総裁者となり養老4年(720年)に編纂され、天武嫡流の皇子に関係した藤原不比等も介在した?と思われる書籍です。

これから記述する「壬申の乱」の戦闘の描写も、勝者側の見方(大海人が正当な皇位継承者)が大きく出るかもと思います。

近江朝は、庚午年籍(こうごねんじゃく:天智天皇の時代に編纂された日本最古の戸籍制度)に基づく徴兵を急がすため、東国へ派遣した国宰書薬(フミノクスリ)ら3名のうち2名が、6月26日に「不破道」で大海人軍に捕えられたのを目の当たりにして、国宰韋那磐鍬(イナノイワスキ)は、大津宮へ逃げ帰ってきました。

近江朝軍は、翌27日臨戦態勢に入り、近江路方面軍と飛鳥方面軍と大きく2方面に軍を分けて、最初に近江路方面軍が「不破道:関ヶ原」を突破して、大海人本営を襲撃する作戦を立て、近江朝正規軍に西国の徴兵や近江の豪族の兵を加えた数万の軍を、大津宮から出発させました。

最初の戦火は、6月29日に大海人軍の大伴吹負(オオトモフケイ)によって大倭飛鳥で開始されました。だから、最初に出発した近江路軍の戦闘は後述するとして、大倭.河内方面の戦いの方を先行します。

(飛鳥京)朝廷側の留守司(トドマリマモル司)は、高坂王.稚狭王(ワカサ).坂上熊毛ですが、大伴吹負とは内応?していたと思われ、実情は近江朝の使者(穂積臣百足等ホヅミノオミモモタリ)が、27日に軍営を設立したばかりの状態でした。

天智10年に亡命百済人を実務官僚に組織した体制に対する反発が、古くから飛鳥などに居住する渡来人(東漢系氏族:坂上熊毛)、同じく山背国に渡来していた氏族(秦熊)など、倭古京の居住者にありました。

大伴吹負は奇策を持って、僅か10余の騎馬兵で高市皇子が攻めて来たと叫び、飛鳥寺の西の軍営を奇襲し、飛鳥京を制圧しました。留守司高坂王らは帰服し、近江朝の軍営にいた物部日向.五百枝兄弟も帰順したので味方に加え、穂積百足のみが最初の戦死者となりました。

大伴吹負の飛鳥京制圧の報は大倭各地に伝わり、三輪君高市麻呂.鴨君蝦夷等の豪族が大伴吹負軍に加わり、その情報は大海人皇子をはじめ、近江朝にも伝わったのです。

7月1日:近江朝の大倭方面軍は大野果安(ハタヤス).犬養五十君(イキミ).廬井鯨(イオイノクジラ)が、近江朝正規軍と西国の徴兵を率い、飛鳥京奪還を目指して大津宮を発進しました。

果安は大伴吹負の軍を度々破り敗走させましたが(後述しますが)、紀臣阿閉麻呂(キノオミアヘマロ)軍の先遣した騎兵隊が伊賀から駆けつけて、吹負の窮地を救ったのです。

庚午年籍に基づき、摂津.河内で徴兵した兵を率いた河内方面軍の将壱岐韓国(イキノカラクニ:渡来氏族)と、国宰来目塩籠(クメノシオコ)は同日、河内.大倭の国境を突破して飛鳥京奪還を目指して河内を出発しました。
(大伴吹負は乃楽山(なら:奈良山)を目指し進発(木津川市と奈良市の国境の丘陵地)。

大海人皇子は、7月2日和蹔(わざみ)の全軍に進撃命令を出し、全軍の兵に赤い布を着用させて、大友軍とはっきり区別させました。

飛鳥方面軍の総大将紀臣阿閉麻呂は、数万の軍勢を率い倭古京守備隊の増援に向かわせ、置始連兎(オキソメノムラジウサギ)の精鋭な騎兵隊は本隊を離れ、飛鳥へ急行させたのです。

多臣品治(オオノオミホムチ)は3千の兵で伊賀の莿萩野(たらの)を防衛、田中臣足麻呂は倉歴道(くらふのみち)の守備につきました。
(近江路方面の村国男依らの数万の軍勢の進撃は次回にします。)

乃楽山(なら:平城山)は、古代崇神天皇の時代:武埴安彦の反乱の舞台となった要衝。

山背と大和の国境の丘陵地であり、北側の平野に木津川が流れ、南は大和平野が広がる両軍にとって戦略上重要な拠点です。(四道将軍の大彦命と和爾氏の祖彦国葺が乃楽山の本陣から北側の山背の武埴安彦軍を木津川の戦いで殲滅し、西の大坂より攻めて来た埴安彦の妻(吾田媛軍)を吉備津彦命が討った。古戦場。)

(吹負はその拠点を固めに行く途上「大和郡山市稗田」で、西方「大坂:河内」から大友軍が進軍してきた情報を捉えたのです。)

吹負は、坂本臣財(サカモトノオミタカラ).長尾直真墨(ナガオノアタイマスミ)等に兵三百を授けて龍田道を防衛させ、佐味君少麻呂(サミノキミスクナマロ)に百余の兵で、大坂道(穴虫峠:二上山の北:大坂側道)を、鴨君蝦夷は百余の兵で石手道(イワテノミチ:竹の内峠:二上山の南:大和側道)の守りに就きました。

坂本財は、龍田付近で斥候が近江朝の高安城(白村江の戦に対処した山城ヤマジロで税倉チカラクラ:穀物の保管倉庫)が手薄との情報を得て、財が襲撃した時、大軍が来たと勘違いして城(穀物倉庫群)を焼き逃走しました。大海人軍の兵は無傷で高安城を占領したのです。

大伴吹負は飛鳥京を7月1日出発して、(3日)乃楽山に布陣が完了まで長時間移動を要したのは、6月29日以来続々と集まる兵を各部署に配置しながら進軍したからです。

7月3日朝霧が晴れ、坂本財は高安城から眼下の大坂平野を見ると大津道:長尾街道(堺市→河内美陵町→生駒王寺町)と、丹比道:竹内街道(堺市→羽曳野古市→飛鳥当麻寺)から整然と隊列を組み、大友軍が東へ進みました。大津道は将軍壱岐史韓国の軍ですが、高安城は黙殺して(武田信玄が家康を無視した様)行軍して行きました。

坂本財は、全軍僅か300人ですが、下山して衛我河(エガガワ:大和川付近藤井寺市道明寺)で挑ませますが一蹴され、懼坂道カシコサカミチの守衛紀臣大音(同族)まで退却しました。

しかも、この戦いで、国宰来目臣塩籠が大海人軍に内応しているのが発覚。大友軍の進軍は一時停止したのです。来目臣が大友の命により河内で徴兵した兵を持って、韓国将軍の下に入ったので、全軍が大きく動揺したためです。

(坂本財の悲壮な突撃戦は後の大坂夏の陣と同じ戦場「道明寺」で東軍水野.伊達軍2万3千に対し西軍の後藤基次軍3千弱の突撃の様と同様でした。だから軍規や軍の再編のため、韓国軍も進軍が遅れ、4日の大友軍全軍の総攻撃日に参加できなかったのです。)

大津宮を1日に出発した大野果安(はたやす)率いる倭飛鳥方面軍が、「木津川」を越え乃楽の大伴吹負が築く堅固な陣を突破し(吹負は数騎で逃れる)、怒涛の進軍で飛鳥京の手前:天香久山(あまのかぐやま)の八口まで来た時、斥候から「飛鳥の各街道の要所に大量の楯などが並び伏兵が潜んでいる」との報告。

大野果安が高所から遠望すると大軍を隠し、吹負軍が罠を仕掛けて簡単に退いたとも取れ、味方の壱岐韓国軍が4日なのに姿.音沙汰ともに無いのは、大海人軍の正規軍が来ていると思い込み、全軍に退却して陣容をかまへ直すよう命じました。(飛鳥京には大海人軍未着)

倭古京(飛鳥の古い都)への戦闘は、大友軍の河内方面軍も飛鳥方面軍もともに簡単に飛鳥京を占領できる機会だったのをともに逸して、後から来る大海人軍の正規軍と戦うことになるのです。

大和路戦の結末と近江路戦については次回に続けます。    (郷土愛好家)

参考資料:戦争の日本史2  壬申の乱   吉川弘文館  倉本一宏著
     壬申の乱     中央公論社  遠山美都男著
     木津町史     本文篇    木津町

2018年10月13日

◆太めの女性がいい

馬場 伯明


英国のミス・ワールド英国予選・イングランド大会で、体重80kgの太っ
た娘、クローイ・マーシャルさん(17)が2位に入賞したという。近年ま
れに見る快挙である。

《「美しさにサイズや形は関係がないことを証明したかった」と笑顔の彼
女。3月、南東部サリー州の予選でスリムな出場者7人を押しのけ選ばれ
た。身長178cm。「背が高く瞳が美しい」と評価された。過酷なダイエッ
トで急激に痩せたこともあるが「骨と皮だけ、私じゃないみたい」と思い
直し、よく食べ、ジムで体をよく動かして健康を保った。

白い水着で堂々とステージを歩いた。「ミス・イングランドはスラッとし
て細いという固定観念を打破したかった。綺麗になるためにダイエットは
必要ではありません」という。(2008/7/19朝日新聞:要約)》そういえ
ば、英国のサラ・ブラウン首相夫人も相当なグラマーだったなあ。

痩せた女性がもてはやされるようになったのはいつ頃からであろう。昔、
長崎県の田舎では、痩せた女性を、栄養を摂っていない(栄養を摂る経済
力がない)という意味を込め「ギメ(イナゴ)」と蔑称していた。反対
に、太っていることを「体格のよか」とほめ言葉で表現し、背が高いこと
も「太か(大きい)」といった。この「太か」は今も残る。

私は太めの女性の方が好きだ。友人たちに尋ねたことがある。彼らの共通
の本音は、見た目は細めがよく寝室では太めがいいということであった。
「着痩せする太目の女性」という二兎を追う偽善者である。

最近世間は(喫煙者と同じく)太った者(男女)に辛く当る。「メタボ
リック・シンドローム(metabolic syndrome代謝症候群、メタボ)」とい
うややこしい言葉で太った者を一方的に非難し攻撃する。

《メタボとは「内臓脂肪型肥満に高血糖・高血圧・高脂血症のうちの2つ以
上を合併した状態」という。日本肥満学会(JASSO)の診断基準(2005)
は具体的には次のとおりである。

腹囲85cm、女性90cm以上が必須、かつ(1)血圧130/85mmHg以上 (2)中
性脂肪150mg/dL以上またはHDLc40mg/dl未満(3)血糖値110mg/dL以上の
3項目中2項目以上が該当。(Wikipediaによる)》

太っているとメタボになり病気になるからだという。昔は「風邪は万病の
もと」であったが、今は「肥満が万病のもと」になってしまった。太った
ままで悠々と死んでもいいではないか。不帰の床につく前に「(覚悟の)
リビング・ウィル」を宣言し、他人に迷惑をかけず、すっきりバイバイす
ればよいだけだ(私はそうする)。

そもそも、太った人が活躍している分野は多岐にわたっている。歌手も多
い。オペラ歌手の森公美子、「珍島物語」の天童よしみ、「帰らんちゃよ
か」の島津亜矢らは太目で、声量があり、実力がある歌手である。

太った歌手は声が身体に共鳴する。余裕を持って楽に歌っているので、聞
く方は癒される。天童よしみの顔はジャガイモのようで窪みにかわいい目
(芽)もある。見た目ではなく中身で勝負せざるを得ないということで、
彼女の優れた歌唱力が逆に実証されている。

一方、痩せた歌手は概ね声量が小さい。細身のアイドル歌手が口にマイク
をくっつけ、口先で歌っているのは見苦しい。坂本冬美も病気を克服した
けれども、残念ながら痩せて声がすこし細くなってしまった。

痩せれば豊かな胸も「痩せと共に去りぬ」状態になる。パッドではなくシ
リコンなどでの増量が必要になり、偽装の美に追い込まれた女性もいる。
また、無理なダイエットは便秘、肌荒れや吹き出物の原因となる。

歴史上痩せた美人が高く評価された時代は少ない(と思う)。たとえば絵
画。ルノワールが描いたふっくらとした女性のおおらかな裸体画は日本人
をも魅了した。棟方志功の太めの女人菩薩「沢瀉妃(おもだかひ)の柵」
は母のような慈愛に満ちている。モジリアニは太っていたモデル(恋人・
妻)をわざわざ逆説的に細面・痩身に描いた。

フランスのルーブル美術館やオルセー美術館には、数多くの豊満な女性た
ちが、あきらかな三段腹を惜しげもなく晒し、ゆったりと横たわってい
る。眺めていれば心が和む。

ミロのビーナスが日本に初上陸した1964(昭和39)年、京都国立美術館に
殺到した群集の中で、私はその肢体を見て、感動し、その場に立ち尽くし
た。端正な顔はともかく、美しく大きい腹、腰、臀部、太腿、脚に圧倒さ
れた。美容ダイエットなどによる「痩せ女」なんか、断じて女体美の原点
ではない。

春画にも豊かな女性が多い。歌麿の着物を着た(表向きの)女性には柳腰
美人が多いが、(裏の)春画では趣きを変える。さらに、北斉や栄里の春
画には太めの身体の女性が多く、開放的であっけらかんと事に及んでい
る。その極みは「小柴垣草子」だ。若い姫と武士がくり広げる物語風の巻
絵は、豚の雌雄の絡みのような滑稽さもあるが、その時代の肉体の賛歌と
もいえる。

かつて、ある上司が私の部下の22歳の女性(細めの美人)について、私に
そっと言ったことがある。「きれいな娘(こ)やけどねえ・・、胸がもう
ちょっと、ね。それに、あれでは、あのとき、下の○骨があたるので、よ
くないやろ」と(○はタ行の一字)。 

「えっ、まさか、見たんじゃないでしょうね?」と私は思わず聞き返し
た。彼は審美眼があり想像力が豊かな人であったが、女性については「花
より団子」の現実派であった。

「痩せた女性」といえば、痩せてしまった浅丘ルリ子にはショックを受け
た。夫の石坂浩二に(心から)同情した。でも、宮沢りえは痩せたために
過去の写真集(ヌード)の価格が上昇しているらしい。古本屋から消えな
いうちに買いだめするか(笑)。

「人は見た目が9割(竹内一郎)」という本がベストセラーになったが、
すでに店頭にはない。著者はじつは「表現すべき中身が大事」と言ってい
る。バカどもが表題に飛びついた。「『表題』は見た目が9割」だったの
である。女性も見た目がスリムなだけではダメだ。

先日千葉市稲毛駅で電車に乗り込んできた女子高校生の集団は総じてころ
ころと太っていた。変な痩せ女を礼賛する世間の風潮に流されず、痩せさ
せて儲けをたくらむ悪徳業者にだまされず、太めの健康な女性にそのまま
成長してほしい。

ところで、ここまで来れば「おいおい!あれこれ講釈を言うとるが、あん
たはどうなんや?」と、おそらく矢がこっちへ向いてくるだろう。私は身
長176cm、体重80〜82kg(BMI:Body Mass Index:肥満度25.8〜26.4)体
脂肪率18〜22%。少し太めである。

腹囲の90cmも基準を超えているが、幸い、血圧・中性脂肪・血糖の3数値
は十分基準内だ。何の薬も飲まずサプリメント類も摂っていない。健康で
強い身体をもらった両親と先祖に感謝し、メタボに怯まず、メタボを恐れ
ず、酒も毎日やり、自然体で勝手に暮らしていきたい。

そこで、「太めの女がいいらしいが、あんたの奥さんは?」とさらに二の
矢が飛んで来るだろう。しかし、人生のすべてが自分の思いどおりなるわ
けではない。万事自然の成り行きまかせるしかない。だから「(それは)
聞かぬが、または、言わぬが『花』」というものであろう。

「切れ上がった小股」よりも「豊かな太腿」の方がいいという私見と持論
により、見かけ至上主義の軽薄な人たちを説得し納得させることは、なか
なか困難なことである。(了)(2008/7/29千葉市在住)(2018/10/12)


◆ジャメール・カショギ、って誰?

宮崎 正弘


平成30年(2018年)10月12日(金曜日)通巻第5854号  

ジャメール・カショギ、って誰? サウジのジャーナリストが行方不明に
  「アラブの春」から「アラブの冬」が到来していた

チュニジアから始まった「アラブの春」は、まずチュニジアで独裁者ベ
ン・アリが国外へ逃亡、リビアでカダフィ大佐が殺害された。つぎにエジ
プトへ飛び火し、ムバラク政権が崩壊し、一時的に「イスラム同胞団」の
原理主義的政権が誕生したが、やがて軍部によるクーデターで「民主化」
の夢はついえた。


「アラブの春」の勢いはここまでだった。

シリアに飛び火した「アラブの春」運動は反動を促し、残酷な戦闘、悲壮
な内戦をもたらして、米、NATO、ロシアが、トルコが介入して泥沼と
なった。

シリアの国土は廃墟と化けた。この空隙にISが入り込み、テロ,荒廃、
すさまじき死体の山に難民の大量発生、この難民が欧州へ押し寄せ、独仏
伊ほかで、ナショナリズムが高まり、EU、ユーロ危機へとつながる「想
定外」の結果を運んだ。

ウクライナの反ロシア派の蜂起は、米国の中途半端な介入によってむしろ
混沌が増大し、プーチンの権力基盤を固めさせてしまった。

ウクライナ東部は事実上ロシア傘下にはいり、欧米は冷戦時代のように、
ロシアを軍事大国として脅威視するまでに逆戻りした。

さてサウジアラビアである。

サルマン皇太子による専制恐怖政治は、有力王子らを監禁して財産を吐き
出させる一方、「女性の運転」を認めるジェスチャーで民主化を装いなが
ら、イエーメンに軍事介入して500億ドル余もの軍事費を費消し、アラム
コの上場は見送り、次世代経済計画はほとんど白紙に戻りつつあり、そし
て、カショギ事件だ。

カショギはサウジアラビアの反体制ジャーナリストだが、ワシントンポス
トへ寄稿者として知られ、トルコのサウジ総領事館へ入ったところまでが
確認された。

以後、消息を絶って、「消された」と欧米メディアが騒ぎ、トルコは総領
事館への立ち入り捜査を要求した。

この一連の出来事で、ホワイトハウス内部が揺れた。

クシュナーが主導した中東外交が、サウジ王家の専制政治と国際非難の余
波を受けて、崩れかけているからだ。

同時にサウジアラビア政治は思わぬ国際的非難と反撃を前に立ち往生とな
り、サルマン皇太子の政治力に大きな陰りが出た。ということは安定性を
欠く状況がくると同義語であり、次の懸念は石油輸出の継続が可能か、ど
うか。

イランの代理兵としてイエーメンに潜伏する武装集団は、紅海を航行する
石油タンカーへミサイル攻撃をしている。サウジはイランへの敵愾心を燃
やし、現在の危機的状況を打開、もしくはすり替えるために、軍事行動に
でる可能性は否定できない。

つまり「アラブの春」は皮肉にも、「アラブの冬」となった。

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 書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評BOOKREVIE 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜  統合ドクトリンは、米軍ばかりか、ビジネス世界でも有益なテキスト
  なぜ米軍は世界一強い上に、作戦が卓越しているのか

  ♪
堂下哲郎『作戦司令部の意思決定  米軍「統合ドクトリン」で勝利す
る』(並木書房)
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本書は「つねに想定外の出来事に対処するか」。「不確実性との戦いに勝
つ」というテキストで、なにも軍隊だけに適用されるのではなく、ビジネ
スリーダーこそが、読むべき指導書となっている。

著者は海上自衛隊艦隊司令部、米軍中央軍司令部をはじめ、統合司令部の
現場で多くの作戦計画と実践を経験してきた。横須賀方面総監を最後に退
官した。

最初に『戦略』『作戦』『戦術』の定義を説かれ、作戦アプローチを導
き、完成させ、次に作戦計画を完成させ実行するというプロセスに従って
統合ドクトリンでの勝利を演繹される。

最終章は「意思決定を阻害する落とし穴」と題しての教訓が述べられている。

その「落とし穴」とは具体的に何か?

第一のカテゴリィは「個人に起因する要因」であり、まず論理上の誤りが
指摘されている。情勢が緊迫している状況で、兵力の展開や増強が、果た
して『抑止』になるのか、『挑発』となって戦闘の拡大に到るか。一般的
には連鎖反応を怖れ、反論を封じ、あるいは恐怖に訴えることや、過度の
単純化などが誤謬となる。

情勢判断に期待は禁物だが、既存の判断を補強する解釈に流れやすい。こ
れが「追認バイアス」で、重要な情報を過小評価しやすく、都合の良い解
釈で作戦を続行する過ちに陥りがちとなる。

また情勢が変化しているのに、基底の方針で突進すれば、非論理的行動と
なり、投資で言えば損切りが出来ない。これが「埋没費用バイアス」と呼
ばれる。同時に「隠れた前提バイアス」とは、「無意識的な前提、歴史的
類推、思考の枠組み」から生じる「分析、計画作業で意図しないかたちで
姿をあらわす可能性がある」落とし穴である。

第二のカテゴリィは「ミラーイメージング」と「自文化中心主義」による
間違いである。とくに「属する文化、民族を基準としてほかの文化を否定
的に判断したり、低く評価してしまい、結果として、敵の能力を過小評価
し、根拠のない自信過剰に陥り判断を誤る」ことが往々にして発生する。
 くわえて政策バイアス、専門性パラドックスの誤謬は日本の官僚機構に
顕著な省益優先や、机上の空論が好きな「有識者会議」の失敗で顕著な例
が山となる。

もうひとつ大きな要素は心理である。

自信過剰と過度の悲観であり、また「時間的制約」がもたらす情報過多、
視野狭窄、便宜解決、追加情報期待、そして「過度に一つの情報に引きづ
られてしまう失敗」、弁舌の優勢などが「落とし穴」である。

米軍の統合ドクトリンには、この個人原因に加えて「組織、集団」の落と
し穴とレッドチームの存在が述べられているのだが、いずれも組織、組織
における個人、そしてリーダーの個性、属性など、軍隊のみならず、広く
政府、官庁、会社、民間団体そのほかに現代的に科学的に適用可能な指導
要領が並んでいる。あらゆる分野において、リーダーには参考になるだろう。