2018年10月13日

◆波高し、沖縄新知事の行く末

櫻井よしこ


当欄の原稿執筆中の9月30日、沖縄では県知事選挙の投票が続いている。
大型の強い台風24号が通りすぎ、それはいま、本土を襲っているのだが、
沖縄もまだ台風の余波の中だ。

28日の金曜日には、インターネット配信の言論テレビに、沖縄の我那覇真
子氏をゲストに迎えた。

「知事選は事実上、佐喜眞淳氏と玉城デニー氏の一騎打ちですが、おかし
なことに佐喜眞対翁長雄志の戦いになったのです。玉城氏は翁長氏の弔い
合戦を意識して、専ら、翁長氏の遺志を継ぐと訴え続けました。政策はあ
まり語らず、要は翁長氏の陰に隠れたのです」

死去した翁長氏を前面に立てて、選挙を弔い合戦にする。このような場
合、有権者は亡くなった人物とその遺志を継ぐ人物に同情しがちである。
玉城氏は選挙を、自民党が恐れた戦いのパターンに持ち込んだ。琉球新報
と沖縄タイムスがその路線に乗って玉城氏の応援部隊となった。我那覇氏
が琉球新報と沖縄タイムスの両紙意見広告を見せた。

まん中に翁長氏の、癌でやせた写真が印刷され、その上に「あなたの遺志
は私たち県民が継ぐ」と書かれている。手書きの書体で「翁長知事ありが
とう」という言葉も目につく。玉城氏の写真は隅の方に小さく印刷されて
いるだけだ。

我那覇氏が目を丸くして語った。

「一体誰の選挙ポスターかと一瞬、思います。それ程、翁長氏のイメージ
に頼っている。沖縄には翁長氏の遺影が溢れているのです。車で走ってい
ても、大きく引き伸ばした翁長氏の写真をポスターにして通り過ぎる車に
見せている人達がいます。如何にも活動家という感じの人達ですが、一日
中、沿道で頑張っているのです」

玉城氏は政策論を戦わせるのではなく、有権者の情に訴える戦法に徹した
が、それでも政策論争から逃げることはできない。再び我那覇氏の説明だ。

「玉城・佐喜眞両氏の公開討論は2回行われました。いずれも佐喜眞氏圧
勝といえる内容で、玉城支持の人々も、それは認めざるを得ませんでし
た。そもそも玉城氏の掲げる政策そのものがおかしいのです。矛盾だらけ
です」

夢見るドリーマー

玉城氏は、知事選挙の争点は辺野古への普天間飛行場の移設問題であり、
移設を認めるか否かだとしている。明らかに認めないという立場だ。

沖縄の島々への自衛隊の配備にも、反対だ。理由は、島の住民たちの合意
もなく、地域に分断を持ち込む強硬配備だからだというものだ。

だが、辺野古移転も自衛隊配備も認めないのであれば、日米安保体制も自
衛隊も十分には機能できない事態に陥るだろう。そのとき、尖閣諸島はど
のようにして守るのか。氏は外交と国際法で解決すると公約している。

軍事力の裏づけがない話し合いや外交が国際社会で通じないのは、南シナ
海における中国の行動を見れば明らかだ。常設仲裁裁判所は、南シナ海で
中国がフィリピンから島々を奪ったのは明確な国際法違反だという判決を
下した。その判決文を中国は紙クズだとして否定し、横暴にも島々の軍事
要塞化を進めている。外交手段も国際法も、中国には何の効果もない。に
も拘わらず、玉城氏は夢見るドリーマーのような政策しか掲げていない。

我那覇氏が声を強めて言った。

「玉城氏はとんでもないことを言っているのです。尖閣諸島問題を外交で
解決するということは、相手との話し合いの席につくということです。で
も、尖閣諸島はそもそも日本の領土です。領土問題など存在しないのです
から、話し合いなんて必要ない。あんた、何言ってるので終わる話です。
それなのに、外交で話し合って決めるというのは、国の政策とも合わな
い。相手の土俵に易々と乗ることで、それ自体、大きな敗北です。国会議
員だったにも拘わらず、基礎の基礎がわかっていないんです」

彼女は、玉城氏が4回も選挙に勝ってずっと国会議員を務めていたことが
信じられないという。

玉城氏に較べて佐喜眞氏の政策の方が説得力がある。氏は経済政策を真っ
正面に掲げているが、それでも沖縄の島々に中国の脅威が迫ってくる場
合、島々を守る力を保有しておくことが大事だと主張する。自衛隊の配備
も辺野古への移転も全て現実を見て対処するということだ。尖閣諸島につ
いても、領海を脅かす行為には断固抗議すると表明したのは当然でまとも
である。

玉城氏についてはもっとおかしなことがある、と我那覇氏は言う。

「9月23日付けの八重山日報が報じたのですが、玉城氏が『日米から沖縄
を取り戻す』と演説したのです。日本と沖縄は別々の主体で、沖縄は日本
の一部ではないというわけです。翁長氏も沖縄の自己決定権という言葉を
使っていました。この主張は琉球独立論につながります」

沖縄自身の責任放棄

沖縄には「構造的沖縄差別」という表現がある。『沖縄の不都合な真実』
(新潮新書)に篠原章氏らが書いているのだが、「沖縄人」と「日本人」
を対置し、「日本人」が沖縄における米軍基地の本土移転を拒絶している
のは、「日本人」の「沖縄人」に対する歴史的な差別意識が背景にあると
して、日本政府だけでなく、日本国民全体を批判する考え方だという。

米軍基地が沖縄に集中しているのは事実だが、そこには地理的、政治的、
歴史的な背景もあり、差別意識だけに原因を求めるのには無理がある。基
地縮小を政府が進めようとすると、反対論が沖縄の側から起きるという事
実にも見られるように、基地の偏在は沖縄の経済体質や社会構造の問題と
も密接に結びついている。

従って、米軍基地の偏在の責任を、「日本人」にのみ求めるのは、沖縄自
身の責任放棄である。

篠原氏らは差別についても、沖縄自身が重層的に考えなければならないと
問題提起している。「日本」による沖縄差別を問題視するのであれば、沖
縄本島による奄美・宮古・八重山地方に対する差別と収奪の歴史にも「落
とし前」をつけよとして、構造的沖縄差別論、または日本批判はむしろ沖
縄内部の問題点や矛盾を覆い隠すための議論だと指摘する。

さてこの原稿を書いている内に、知事選の結果が少しずつ、見えてきた。
午後8時すぎ、投票を終えて暫くしてから、NHKが当確ではないが、玉
城氏優勢を伝えた。

当選が確定されれば、沖縄は翁長氏に続いて、構造的沖縄差別を言い立て
る人物を知事に選んだことになる。外交と国際法の力を以て日本の領土で
ある尖閣諸島を守るというドリーマーだ。沖縄問題での迷走が、また、4
年間続くのだろうか。

『週刊新潮』 2018年10月11日号 日本ルネッサンス 第822号


◆木津川だより 壬申の乱@

白井繁夫


本誌読者の皆様は、日本の歴史上有名な「壬申の乱」のことは良くご存じのはずです。しかし、私が長く書き続けている本題「木津川だより」の流れの中で、この「壬申の乱」を避けて通る訳にはなれません。

長文になりますが、大海人皇子の侵略心理、巧妙な戦略、天運などにつて、思いのままに詳しく綴ってみようと思います。「壬申の乱」の歴史の流れは、これから追々。

さて、(672年)天武元年6月24日大海人皇子が東国を目指してひそかに吉野を脱出した時は、大海人に従った者は妃の鸕野皇女と草壁.忍壁両皇子、舎人20余人に女孺(にょじゅ:鸕野皇女などに仕えた女官)わずか10余人の人数でした。

しかも、初日は約70kmの山道を進む、(道中には大友皇子の生母の出身地があると云う)超ハードのスケジュールです。(出家して吉野を目指して早朝より大津宮を出た日の距離の飛鳥「島宮」までとほぼ同距離を進みますが、その日の道中「山城道」は全体的に平坦な平野でした。)

大海人皇子が約半年間推考して戦略を練り、吉野脱出を決断した「壬申の乱」の大きな要素ともみなされるのは、「親の子に対する愛」がそうさせたと 私は思うのです。

天智天皇の晩年、生母が「卑母」である大友皇子を「皇位継承者」にと願い今までのしきたりを無視する行為を取る、強い愛と同じで、大海人皇子の妃の鸕野皇女は天智天皇の皇女.むすめであり、夫は天智の実弟です。

だから大海人皇子は有力な「皇位継承者」でもありました。而も二人の間の子(草壁皇子)は由緒正しい皇孫です。親(鸕野)の愛も非常に強いものだったと思います。

吉野脱出に先立ち6月22日には、前回本誌に掲載した如く、東国(湯沐令 多品治)に向けて発進した3名の大海人の使者(村国男依ほか2名)が、吉野.大倭.伊賀.伊勢.美濃へ至る行軍ルートの総てにわたる計画が周知され、準備を整えられるように派遣されたのです。

脱出ルートは吉野へ来た泉津.乃楽山.飛鳥の平坦地を避けて、吉野から吉野川沿いに上流に向かい、矢治峠を越える山道から「菟田(ウダ)の吾城:奈良県宇陀市」を抜け、「名墾(名張市)の横河」(名張川と宇陀川の合流点:畿内と外国の境)を経て「伊賀の中山」(三重県上野市)へ出るという、険しいルートでした。

菟田の吾城で屯田司(ミタノツカサ:近江朝の食料供御を行う司)土師馬手が食事を奉る。
(先遣使者よりの言で舎人土師氏は大海人皇子の行幸?と思ったか、大海人一行は、初日70余kmの行軍中、この時食事したのが最初で、何と初日は宿泊地まで食事なしで進む。)

飛鳥京の留守司高坂王への使者は3名が当日(24日)に発遣され、「駅鈴:ウマヤノスズ」を乞わせました。(美濃までの「駅家:ウマヤ」において大海人一行の馬の確保依頼:実際は独自で手を打っていました。高坂王は大海人皇子に好意を持っており、快応していたかも?)

使者3名の役割です。

大分恵尺(オオキダノエサカ)は、近江へ急行して大津.高市両皇子に大海人皇子の吉野脱出報告とその後の合流(予定戦略)など、黄書大伴(キフミノオオトモ)は大倭の「百済の家」に結集して兄の大伴馬来田と共に菟田で合流、逢志摩(オオノシマ)は近江朝からの追手がすぐ来ぬように近江に伝わらぬよう留守司に頼みて帰還など。

また「菟田郡家」(現宇陀市榛原区萩原)で湯沐の米運搬の駄馬ニオイウマ50頭(湯沐令多品治オオノホンジの手配の馬)を大海人皇子が得る。吉野から32kmの大野(室生)で日没、これより夜間行軍で「隠駅家:なばりのうまや」に着き、その家を焼いて人夫を求めてみたが真夜中では烽火(のろし)の役目だけで終わる。

「伊賀の中山」は大友皇子の生母の出身氏族(竹原氏)の本拠地へ東北東約8kmの至近距離です。

ところが、そこへ着くと「郡司」が数百の兵を率いて一行に合流してきました。伊賀国の北部の阿閉氏と南部の伊賀氏がともに大海人軍の味方に付いてくれたのです。
(対新羅戦用に近江朝が徴発した徴兵が100余人大海人軍に加わったのです。)

東海道ルートを外れ美濃への最短ルートを採り、「伊賀駅家」:上野市を流れる木津川を挟む古郡フルゴオリ:から「莿萩野」(タラノ:伊賀市佐那具町)へ25日の夜明け前に着きました。

吉野を出て70余km、20時間の進軍を終えてやっと休息、2回目の食事を取ることが出来たのです。
(飛鳥から近江朝へは高坂王の情報統制が有り、まだ気づかれずに進みました。)

25日の未明に近江と伊勢の交通の要所「積殖(つむえ)の山口」:三重県伊賀町柘植(大和と東国を結ぶ道が合流)に大海人一行は到着し、そこへ高市皇子の騎馬隊が舎人達と「鹿深」(カフカ:滋賀県甲賀郡)を越えて合流して来ました。

大海人一行は、伊賀と伊勢の国境の「加太(かぶと)峠」を越えて「鈴鹿郡:すずかのこおり」に入り(東国に入り)脱出が、ひと先ず成功しました。(近江からの高市の舎人は民大火.赤染徳足.大蔵広隅.坂上国麻呂.古市黒麻呂.竹田大徳.胆香瓦安倍:イカゴノアヘです。)

伊勢の「鈴鹿郡家こおりのみや」(鈴鹿郡関町金場付近)では国宰の三宅石床(イワトコ:駄馬50頭送付者)と、三輪子首(コビト)、湯沐令(ユノウナガシ)の田中足麻呂(タリマロ)と高田新宅(ニイノミ:祖父の高田足人が、私馬を大海人に美濃.尾張まで提供)などが出迎え、大量軍が集結しました。

伊勢の国宰三宅連石床は大海人皇子の下で、伊勢軍の統率者となり500の兵を率いて「鈴鹿の山道」を25日中に塞ぎました。三輪子首の軍は後日大和(飛鳥)進攻軍に編入されました。

25日の夕方、「川曲(かわわ)の坂下」(鈴鹿市木田町)に着き、「三重郡家」(四日市市東坂町)には夜になって到着して休息しました。

6月26日早朝:大海人皇子や草壁.高市などの一行は「朝明郡(あさけのこほり)の迹太川(とほかわ)の辺」に到着して、天照大神を遥拝しました。(戦勝祈願)。

「朝明郡家」(四日市市大矢知町)の大海人軍の処に、高坂王の一行が「鈴鹿山道」に来たと連絡あり、路益人を派遣したら、大津皇子の一行と近江へ派遣した大分恵尺等が留められていました。

(大津皇子幼少のため、馬でなく加太峠越えを「輿」で越えたから遅れた。)
ようやく大津皇子の一行は両親に合流できたのです。(大津の舎人の中には後の瀬田橋の攻防で先鋒となった大分稚臣(オオキダノワカオミ)や舎人の戦死者も多数でました。)

他方では、22日に先遣していた舎人の村国男依(オヨリ)が「安八磨郡(あはちまのこほり)の兵」3000人を率いて、「不破道の閉塞」(岐阜県関ケ原町)に成功した、との吉報を得ました。

夕方吉野から145kmの「桑名郡家」に着き、大海人一行は留まりました。
(大海人皇子は東海軍(尾張.三河)、東山軍(信濃.甲斐)を徴発する使者を派遣する。)

27日は妃の鸕野と草壁.大津を桑名に残して、野上(美濃の野上郡:現関ケ原町野上)へ大海人は行き、高市は「和蹔:わざみ」(関ヶ原町関ヶ原)から出迎え。ここが吉野を出て4日間(186km)の行軍の終着地とし、「野上行宮かりみや」としました。

多品治と村国男依が塞いでいた「不破道」で、尾張国司守:小子部連鉏鉤(チイサコベノサイチ)が2万の兵を率いて配下に入りました。

こんな中で、同じ26日の夕方近江朝の東国への使者「書薬フミノクスリと忍坂大摩侶」が捕捉され、少し遅れて来た韋那磐鍬(イナノイワスキ)がこれを見て大津宮へ逃げ帰った結果、27日には近江朝が「事の重大性」に気づいたのです。

「不破道」の封鎖が1日遅れていたら、2万の兵は近江朝軍の支配下になり、尚且つ、東国へ近江の使者が入っていたことでしょう。天運は大海人皇子に味方した、と思います。

「和蹔」に大海人軍の主力部隊を集め、全軍の最高司令官として高市皇子を任命して、
6月28日には全軍を検軍し、高市の下で指揮命令するなどの軍事訓練を行いました。

近江朝は、罠に嵌ったのです。

遅れ馳せながら、やっと戦闘準備に入り、西国へも徴兵を急がす使者の派遣、近江路と大和飛鳥の2方面への戦闘軍の編成に入りました。

しかし、大友皇子は唐からの使者「郭務悰カクムソウ」の応対に忙殺されていたため、迂闊にもこの時点まで、大海人皇子の動静を把握していなかったのです。

だから、大海人皇子が既に東国に入り、対新羅戦用に徴兵した兵2万余が大海人軍に加わったと云う情報も得ていなかったのです。大友皇子は後手後手に回ったのです。

近江路と大和飛鳥で「壬申の乱」の戦闘の口火がいよいよ切られます。(次回につづけます。)

参考資料: 戦争の日本史2  壬申の乱  倉本一宏 著
      木津町史  本文篇   木津町 
      壬申の乱   中公新書    遠山美都男著 

2018年10月12日

◆自壊へと誘う覇権主義の幻想

加瀬 英明


トランプ政権が発足してから、もうすぐ2年になる。

トランプ政権は異端だといわれる。このあいだに、アメリカと世界のあり
かたが、何と大きく変わったことだろうか。

日本をとれば、戦後、アメリカを日本を守ってくれる親鳥だと見做してき
たが、はじめて外国として見るようになった。

いったい国家が幻想によって、動かされるものだろうか?

アメリカは第2次大戦後、世界のためにアメリカが世界の覇権を握るべき
だという、幻想にとらわれてきた。アメリカはこの幻想から、世界に軍事
基地網を張りめぐらせ、アメリカに従う諸国の国防を肩代わりしてきた。

このもとで、グローバリズムという幻想が世界に撒き散らされたが、世界
をアメリカの経済的覇権のもとに置くという、身勝手な欲望と一体になっ
ていた。

アメリカの大企業はこの幻想に乗じて、製造部門を中国を頭とする人件費
が安い海外へ移すかたわら、安い製品を輸入して、国内の労働者の犠牲の
うえに、懐(ふところ)を富ませてきた。

トランプ大統領は「アメリカ・ファースト」(アメリカの国益を第一にす
る)を唱えて、この幻想を吹き払う世直し一揆の先頭に立っているため
に、グローバリズムの利得者であってきた民主党幹部、大企業、大手マス
コミ、著名シンクタンクから袋叩きにあっている。

トランプ大統領は共和党にとっても、部外者だった。そのために、異端者
の烙印を押されている。

トランプ大統領が習近平国家主席に関税戦争という、強烈な足払いをかけ
ている。 

習主席は中国経済がアメリカ市場という脚のうえに立っているために、大
きく蹌踉(よろめ)いている。

中国は今世紀に入ってから、かつてのソ連と同じように自壊への道を、ひ
たすら驀進するようになっている。

習主席は「偉大なる5000年の中華文明の復興」という幻想に酔って、身の
程を知らずに、見せかけが壮大な「一帯一路」計画と、大海軍の建設を中
心とする軍拡を強行している。

そのかたわら、分離独立闘争を恐れて、新疆ウィグル自治区や、チベット
の西域や、中部、北部に、巨額の投資を行っている。

「一帯一路」計画はアジアからヨーロッパまで、70ヶ国近くを“幻想の中
華圏”に取り込もうとする、野心的というより杜撰(ずさん)な大計画だ
が、すでに多くのアジア諸国で、破綻するようになっている。

ソ連は1991年に瓦解した。計画経済によって病んでいたのに、シベリア沿
海州の開発に浪費するかたわら、東ヨーロッパの衛星諸国という重荷をか
かえ、第3世界に進出するために力を注いだうえに、アメリカとの大規模
な軍備競争に耐えることができなくなって、無様(ぶざま)に崩壊してし
まった。

ソ連は1950年代から60年代にかけて、日本についで経済成長率が高かった。

私はソ連が1957年に、アメリカに先駆けて、人工衛星『スプートニク』を
軌道に乗せた時に、20歳だった。その4年後に、世界最初の有人衛星飛行
を行って、アメリカの朝野を狼狽させたことを、よく覚えている。

ソ連では1970年代に入ってから、少子高齢化が進むようになり、往年の旺
盛な高度成長を支えた、豊富だった労働力が失われた。いま、中国で同じ
ことが起こっている。

クレムリンの最高指導者も、マルクス主義の予言に従って、世界を支配す
るという使命を負っているという幻想にとらわれて、世界制覇を急いだた
めに、墓穴を掘った。

日本は占領下でアメリカによって下賜された「平和憲法」があるかぎり、
アメリカが日本を子々孫々に至るまで、守ってくれるという幻想に、安全
を託している。

護憲主義者は日本国憲法とともに、滅びる道を選びたいのだろうか。


◆ニッキー・ヘイリー国連大使は

宮崎 正弘


平成30年(2018年)10月11日(木曜日)通巻第5852号  

 ニッキー・ヘイリー国連大使は2024年大統領選に照準
  2020年は上院議員か、或いは副大統領を目指すだろう

 ニッキー・ヘイリー国連大使は1972年にサウス・カロライナ洲バンバー
グ群で生まれた。両親はインド人、それもシーク教徒である。

母親は衣料品店を経営していた。ちなみに1972年といえば、ニクソン大統
領が再選された年であり、隣のノウス・カロライナ州では、のちに「レー
ガンの朋友」となるジェシー・ヘルムズが上院議員に初当選した年でもあ
る。もうひとつ「ちなみに」、このヘルムズ上院議員の補佐官をしていた
のがジョン・ボルトン(元国連大使、現大統領補佐官)だった。

当時のアメリカでは、リベラルの台頭が凄まじく、反戦運動が吹き荒れ、
ベトナム戦争の疲れ、ヒッピー文化、秩序の崩壊、モラルの乱れが目立っ
た。「法の回復」が叫ばれた。

サウス・カロライナ州は、保守的な地方として知られ、インド系アメリカ
人としてのニッキーは少数民族への差別を受けて育った。この体験が女性
蔑視社会を嫌悪し、ジェンダー・ギャップには激しく抵抗し、フェミニズ
ムに寛容である。彼女は美貌だが、地元のミス・コンテスト応募に、「少
数民族」という理由で参加を拒否された経験もある。

彼女は政治へ志す目的を「CAN‘T IT IS NOT AN 
OPTION」(出来ないなんて選択肢にはない)。同タイトルの自伝を
出している。
https://www.amazon.com/Cant-Not-Option-American-Story/dp/1595230858

ニッキー・ヘイリーのフルネームはニムラタ・ニッキー・ランドハワ・ヘ
イリーで、最後のファミリーネームは夫の姓。ふたりの間には2人の子供
がある。結婚と共に彼女はシーク教徒からメソジストに改宗している。

俄然、へーリーは政治に目覚め、下院議員に挑んだ。泡沫候補扱いされた
が、おりからのサラ・ペーリン、エリザベス・ドールなど女性政治家が応
援に駆けつけ、逆転当選を果たした。

その後、下院議員に3期連続で当選した。ついで、ニッキー・ヘイリーは
サウス・カロライナ州知事に挑んだ。最年少の、しかも初の女性知事とし
て注目され、同州知事を2期務めた(2期途中で国連大使に指名された)。


▼ヘイリーはトランプ批判の急先鋒だった

2016年の大統領選挙では最初に保守本流の最有力候補と言われたマルコ・
ルビオ(フロリダ州上院議員)、ルビオが予備選から撤退すると、次に茶
会系のテッド・クルーズを応援した。

保守のタカ派、それも強硬路線を主張する政治信条に共鳴し、異端児だっ
たドナルド・トランプを激しく批判した。

へイリーのトランプ批判は、イスラム教徒の入国制限が少数派への差別に
基づくとする視点からだった。だから、トランプが当選後、いきなり批判
の急先鋒だったヘイリーを国連大使に指名したとき、ワシントンには驚き
が走ったのだ。

さて国連大使としての活躍は言うまでもないが、イラン、露西亜批判はト
ランプより強硬であり、かつベネズエラ、北朝鮮への批判も一貫してい
て、国連ではアメリカ・フォーストの旗幟鮮明。イスラエルの大使館移転
問題でも最前衛だった。トランプの政治路線に共鳴していた。

このニッキー・ヘイリー国連大使が年内に辞任するという衝撃は、各界を
揺らしたが、明らかに彼女は「次の次」、すなわち2024年の大統領選
挙に照準を当てている。これを目標に共和党内の人脈、全米での資金集
め、政治的影響力の拡大をなす動きをしめることになり、共和党を大きく
揺らすだろう。

2020年は人事刷新によるイメージアップという文脈では、ペンスにかわっ
て副大統領という強運に恵まれるかも知れないが、おそらくは上院議員を
狙うだろう。

第1に「資質」について言えば、十分な政治才能を持つうえ、女性政治家
の少ない共和党においては重宝される。かつてのフェラーロ、サラ・ペー
リン、エリザベス・ドールといった女性副大統領候補や上院議員のように
活躍できる才能に恵まれている。

第2に資格を問うなら、下院議員3期、州知事2期、そして閣僚級の大使
と、輝ける経歴を誇り、知名度も抜群である。

州知事から大統領となった例はカーター、レーガン、ビル・クリントン、
ブッシュ・ジュニアと枚挙に暇がなく、また上院銀から大統領となったの
はJFK、LBJ(ジョンソン)、ニクソン、そしてオバマという前例が
ある。

第3にアメリカの人口動態と意識の変化から押して、ヒラリーまで残存し
た「ガラスの天井」(女性政治家の限界)は雲散霧消し、女性だからと
言って問題視する雰囲気は消えているだろう。いや、逆に女性こそが望ま
しいとする社会的土壌に変貌しているかも知れない。

ましてやオバマ大統領という初の黒人大統領を経験したアメリカでは、イ
ンド系という少数民族出身を、どうこう議論する政治的風土も稀薄になっ
ているだろう。

2024年、アメリカは初めての女性大統領出現という時代を迎える可能性が
高まった。

◆波高し、沖縄新知事のゆくすえ

櫻井よしこ


当欄の原稿執筆中の9月30日、沖縄では県知事選挙の投票が続いてい
る。大型の強い台風24号が通りすぎ、それはいま、本土を襲っているのだ
が、沖縄もまだ台風の余波の中だ。

28日の金曜日には、インターネット配信の言論テレビに、沖縄の我那覇真
子氏をゲストに迎えた。

「知事選は事実上、佐喜眞淳氏と玉城デニー氏の一騎打ちですが、おかし
なことに佐喜眞対翁長雄志の戦いになったのです。玉城氏は翁長氏の弔い
合戦を意識して、専ら、翁長氏の遺志を継ぐと訴え続けました。政策はあ
まり語らず、要は翁長氏の陰に隠れたのです」

死去した翁長氏を前面に立てて、選挙を弔い合戦にする。このような場
合、有権者は亡くなった人物とその遺志を継ぐ人物に同情しがちである。
玉城氏は選挙を、自民党が恐れた戦いのパターンに持ち込んだ。琉球新報
と沖縄タイムスがその路線に乗って玉城氏の応援部隊となった。我那覇氏
が琉球新報と沖縄タイムスの両紙意見広告を見せた。

まん中に翁長氏の、癌でやせた写真が印刷され、その上に「あなたの遺志
は私たち県民が継ぐ」と書かれている。手書きの書体で「翁長知事ありが
とう」という言葉も目につく。玉城氏の写真は隅の方に小さく印刷されて
いるだけだ。

我那覇氏が目を丸くして語った。

「一体誰の選挙ポスターかと一瞬、思います。それ程、翁長氏のイメージ
に頼っている。沖縄には翁長氏の遺影が溢れているのです。車で走ってい
ても、大きく引き伸ばした翁長氏の写真をポスターにして通り過ぎる車に
見せている人達がいます。如何にも活動家という感じの人達ですが、一日
中、沿道で頑張っているのです」

玉城氏は政策論を戦わせるのではなく、有権者の情に訴える戦法に徹した
が、それでも政策論争から逃げることはできない。再び我那覇氏の説明だ。

「玉城・佐喜眞両氏の公開討論は2回行われました。いずれも佐喜眞氏圧
勝といえる内容で、玉城支持の人々も、それは認めざるを得ませんでし
た。そもそも玉城氏の掲げる政策そのものがおかしいのです。矛盾だらけ
です」

夢見るドリーマー

玉城氏は、知事選挙の争点は辺野古への普天間飛行場の移設問題であり、
移設を認めるか否かだとしている。明らかに認めないという立場だ。

沖縄の島々への自衛隊の配備にも、反対だ。理由は、島の住民たちの合意
もなく、地域に分断を持ち込む強硬配備だからだというものだ。

だが、辺野古移転も自衛隊配備も認めないのであれば、日米安保体制も自
衛隊も十分には機能できない事態に陥るだろう。そのとき、尖閣諸島はど
のようにして守るのか。氏は外交と国際法で解決すると公約している。

軍事力の裏づけがない話し合いや外交が国際社会で通じないのは、南シナ
海における中国の行動を見れば明らかだ。常設仲裁裁判所は、南シナ海で
中国がフィリピンから島々を奪ったのは明確な国際法違反だという判決を
下した。その判決文を中国は紙クズだとして否定し、横暴にも島々の軍事
要塞化を進めている。外交手段も国際法も、中国には何の効果もない。に
も拘わらず、玉城氏は夢見るドリーマーのような政策しか掲げていない。

我那覇氏が声を強めて言った。

「玉城氏はとんでもないことを言っているのです。尖閣諸島問題を外交で
解決するということは、相手との話し合いの席につくということです。で
も、尖閣諸島はそもそも日本の領土です。領土問題など存在しないのです
から、話し合いなんて必要ない。あんた、何言ってるので終わる話です。
それなのに、外交で話し合って決めるというのは、国の政策とも合わな
い。相手の土俵に易々と乗ることで、それ自体、大きな敗北です。国会議
員だったにも拘わらず、基礎の基礎がわかっていないんです」

彼女は、玉城氏が4回も選挙に勝ってずっと国会議員を務めていたことが
信じられないという。

玉城氏に較べて佐喜眞氏の政策の方が説得力がある。氏は経済政策を真っ
正面に掲げているが、それでも沖縄の島々に中国の脅威が迫ってくる場
合、島々を守る力を保有しておくことが大事だと主張する。自衛隊の配備
も辺野古への移転も全て現実を見て対処するということだ。尖閣諸島につ
いても、領海を脅かす行為には断固抗議すると表明したのは当然でまとも
である。

玉城氏についてはもっとおかしなことがある、と我那覇氏は言う。

「9月23日付けの八重山日報が報じたのですが、玉城氏が『日米から沖縄
を取り戻す』と演説したのです。日本と沖縄は別々の主体で、沖縄は日本
の一部ではないというわけです。翁長氏も沖縄の自己決定権という言葉を
使っていました。この主張は琉球独立論につながります」

沖縄自身の責任放棄

沖縄には「構造的沖縄差別」という表現がある。『沖縄の不都合な真実』
(新潮新書)に篠原章氏らが書いているのだが、「沖縄人」と「日本人」
を対置し、「日本人」が沖縄における米軍基地の本土移転を拒絶している
のは、「日本人」の「沖縄人」に対する歴史的な差別意識が背景にあると
して、日本政府だけでなく、日本国民全体を批判する考え方だという。

米軍基地が沖縄に集中しているのは事実だが、そこには地理的、政治的、
歴史的な背景もあり、差別意識だけに原因を求めるのには無理がある。基
地縮小を政府が進めようとすると、反対論が沖縄の側から起きるという事
実にも見られるように、基地の偏在は沖縄の経済体質や社会構造の問題と
も密接に結びついている。

従って、米軍基地の偏在の責任を、「日本人」にのみ求めるのは、沖縄自
身の責任放棄である。

篠原氏らは差別についても、沖縄自身が重層的に考えなければならないと
問題提起している。「日本」による沖縄差別を問題視するのであれば、沖
縄本島による奄美・宮古・八重山地方に対する差別と収奪の歴史にも「落
とし前」をつけよとして、構造的沖縄差別論、または日本批判はむしろ沖
縄内部の問題点や矛盾を覆い隠すための議論だと指摘する。

さてこの原稿を書いている内に、知事選の結果が少しずつ、見えてきた。
午後8時すぎ、投票を終えて暫くしてから、NHKが当確ではないが、玉
城氏優勢を伝えた。

当選が確定されれば、沖縄は翁長氏に続いて、構造的沖縄差別を言い立て
る人物を知事に選んだことになる。外交と国際法の力を以て日本の領土で
ある尖閣諸島を守るというドリーマーだ。沖縄問題での迷走が、また、4
年間続くのだろうか。

『週刊新潮』 2018年10月11日号 日本ルネッサンス 第822号

◆納豆と相性の悪いくすりの話 

大阪厚生年金病院 薬剤部


  〜ワルファリンカリウムという血栓予防薬を服用中の方へ〜

 地震や津波、洪水など突然襲ってくる甚大な自然災害は、水道やガス、電気などのライフラインを寸断し人々の生活を麻痺させてしまいますが、人の健康もある日突然血管が詰まると健康維持に必要な栄養や酸素などのライフラインが寸断されその先の機能が止まってしまいます。
 
突然意識を失いその場に倒れてしまった経験のある方で、医師から「脳梗塞」と診断された方もおられるかと思います。 脳の血管を血液の塊(かたまり)が塞いでしまってその先に血液が流れなくなってしまったのです。
 
これを予防し血液をサラサラにするくすりのひとつに「ワルファリンカリウム」という薬があります。 服用されている方も多いかと思います。

もともと人間の身体は怪我や手術などで出血したとき、血液を固めて出血を止める仕組みがありますが、その仕組みの一つに「ビタミンK」が関与する部分があります。
 
ワルファリンカリウムはこの「ビタミンK」が関与する部分を阻害することによって血液が固まるのを予防します。
 

さて、ここで納豆の登場です。 納豆の納豆菌は腸の中で「ビタミンK」を作り出します。「ビタミンK」は血液を固まらせる時に必要なビタミンですから多く生産されると、ワルファリンカリウムの効果を弱めてしまいます。
 
そのため、くすりの説明書には「納豆はワルファリンカリウム
の作用を減弱するので避けることが望ましい」と書かれている
のです。
 
納豆は栄養もあって健康に良い食品ですが、飲んでいるくすりによっては食べないほうが良いこともあります。 好きなものを我慢するのは“なっと〜くできない”向きもあるかと思いますが、ワルファリンカリウムを服用中の方にとって納豆は危険因子ですのでご注意ください。
 
納豆のほかにも、ビタミンKの多い「クロレラ食品」や「青汁」などもひかえましょう。

 追記: ワルファリンカリウムのくすりには「ワーファリン錠」
や「ワルファリンカリウム錠」他があります。

2018年10月11日

◆孟宏偉(インターポール総裁)の拘束

宮崎 正弘


平成30年(2018年)10月9日(火曜日)弐 通巻第5850号  

孟宏偉(インターポール総裁)の拘束は「第2の王立軍」を想起
中国公安部の高層部、すべて入れ換えていた事態が意味するもの

「孟宏偉の収賄嫌疑は疑わしく、本質は周永康派残党の一掃にある」と香
港筋が分析している。

「これは第二の王立軍ではないか」とする観測家によれば、すでに、かつ
ての周永康時代の副部長だった李東生、楊換寧と政治部主任だった夏崇源
らが「周永康の余毒だ」として失職している。

とくに李東生の場合は早くも2013年に拘束されている。

汚職の罪状が理由だったが、江沢民派の大幹部だった事由によるとされ、
周永康失脚の序曲となった。楊換寧の拘束は2017年5月、また夏崇源は同
年10月に「重大な規律違反」として職を解かれた。つまり孟は周りを囲ま
れていたのだ。

「王立軍事件」とは2012年2月、成都のアメリカ領事館に政治的保護を求
めて王立軍が重慶から車を飛ばして駆け込んだことにより露呈した薄煕来
夫人の英国人殺人事件の暴露だった。

これによって習近平最大のライバルだった薄護来の失脚に繋がった。王立
軍は薄の右腕として、重慶の公安局長に招かれ、マフィア退治で辣腕を振
るったが、薄の機密を握ったことで逆恨みされ、身の危険を察知、アメリ
カへの亡命を希求した。

ところが、オバマ政権は決断が出来ず、中国の反発を怖れて王立軍の身柄
を中国当局に引き渡す。

孟宏偉(インターポール総裁)の事件はいくつかの重要な意味を持つ。イ
ンターボールは世界的な捜査協力、とくにテロリスト、資金洗浄、國際犯
罪組織、麻薬武器密輸の取り締まりが目的であり、中国は海外へ逃亡した
およそ百名の逮捕を目的としていた。

第一にかりにもインターポールは百年の歴史(1923年設立)を持ち、
190の国が参加する国際機構である。その長として、中国の名声を確保
した「国際的権威」というイメージが中国共産党自らが國際スキャンダル
を引き起こし、損傷した。

だが中国側の反論たるや、詭弁に満ちている。

「西側メディアは行方不明とか、連絡が取れないとか、おかしな語彙で騒
いでいるが、中国は厳正に法律に基づいた措置をとっているのであって、
とやかく言われる筋合いはない。

嘗てIMFのストラス・カーン専務理事がホテルのメイドへの性的暴行で
逮捕されたとき、いかなる高位の人物であれ、法を犯したので逮捕したよ
うに、孟宏偉も、法を犯したから拘束したまでのことだ」(環球時報、10
月8日)。

第二に国家の公安部副部長(日本で言えば副大臣。ただし中国の副部長格
は五、六人いる)という高位にある人間を拘束するからには、共産党最高
幹部の承認があったことを意味する。

つまり孟が周永康派の生き残りであり、周永康はかつて公安系を牛耳り、
薄煕来と組んで、クーデターを試みたと噂されたため習近平がもっとも怖
れてきた存在だった。

したがって、機密を持ち、党に爆弾となるような行動を取るか、或いはフ
ランスへ亡命するなどとなれば、中国共産党にとって不名誉この上なく、
巧妙に北京におびき寄せて拘束師、口を封じたことになる。それが孟が夫
人宛の最後のメッセージで身の危険を十分に認識してナイフの写真を送信
していたことが歴然と証明している。

     
☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆書評 しょひょう 
BOOKREVIEW 書評BOOKREVIEW
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稀有な環境の下、日中混血の著者に降りかかった悲運の連続
日本に帰国しても、楽な人生は何ひとつなかった

  ♪
小泉秋江『中国と日本 2つの祖国を生きて』(集広舎)
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著者は帰国子女の範疇にはいるが、「大躍進」という名の飢餓状況時代に
まだ五歳だった。両親が不在という空間で奇跡的に生き抜いた。

父親は中国人軍医、母親が日本人教師で満州に赴任しており、著者が生ま
れたのは共産党政権成立以後の1953年だった。

なぜ戦後に? 日本に絶望していた著者の母親が(女子師範卒だった)上
役の勧めで満州の奉天の教職を得たからだった。

 両親も著者も兄妹も、嵐の「文革」で凄まじいいじめを体験し、そして
下放され、あまりの惨めさ、過酷さに睡眠薬自殺を図ったが、生還した。
下放先では暴行、監禁、強制労働という「生き地獄」を歯を食いしばって
生き抜いてきた。

母親の里帰りの付き添いという名目で、兄と3人で帰国した。

日本に帰国後、夜間中学に通って日本語を覚え、貿易会社に勤める傍らで
添乗員としてもアルバイト。ようやく会社を立ち上げたところ病魔に襲わ
れて失明寸前という地獄の連続だった。

帰国子女の苦労譚は数多く、本書もその一冊に加わるだろう。

ただし気になったのは歴史認識が間違っていることである。満州国がでっ
ち上げとか、満州陣を追い出して農地を手にしたとか、廬講橋事件で日本
の侵略戦争が始まったとか、中国でうけた洗脳教育の残滓がところどころ
記述されている。それが間違いであり、満州国は国際的に承認されていた
し、入植者の土地は「かれらが」売りに来たこと、廬講橋事件は共産党が
しかけた謀略だった歴史の真実はスルーされている。しかし、その点は帰
国子女の受けた教育空間の過ちであって著者の過ちではない。

いまも、著者は悪夢に悩まされるというほうが深刻な問題である。

「大きな声にびっくりして目が覚めました。自分の声でした。全身汗をか
き、のどがカラカラになっています。またあの悪夢を見たのです」

 それは「何者か、黒い敵に追いかけられ、けんめいに逃げるのですが、
逃げても、逃げても、追いかけてくる。隠れたり、高い崖から飛び降りた
りしても、なお追いかけてくる悪魔! つかまったら殺される! ついに
袋小路に追い詰められ、もはやこれまで! というところで目が覚めます」

こういう人生を送らざるを得なかった著者の不幸を思う。
            
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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1801回】            
――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(26)
徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正7年)

■「(32)家族と世界」

「支那は一國と云はんよりも、寧ろ一世界也」。これに対し「日本は一國
と云はんよりも、寧ろ一家族也」。しかも皇室が「開國以來、否な寧ろ開
國以前よりの綱紀」であり続いている。だから武家政治が廃れようとも、
国の大本は一貫している。だが「試みに支那に向て之を見よ、中央集權の
基礎」はもちろん、「中央集權の訓練」すらない。

古来、「地方分權抔」を掲げているが、「其實は全然放任政治」というも
の。「支那の政治の亂雜なるも、此が爲め」である。だが、その一方で
「其の亂雜ながらも、分裂なくして、兎も角も國土の統一を失はざりし
も」、「放任政治」の故であった。つまり「四千年來、支那は國として
も、中央集權」であったことはなく、「民としても、中央集權の政治に服
したることなし」。だから「直に日本的中央集權の政治を、支那に?行」
しようとしたところで、「其の不成功や、必然の數也、理也、勢也」。

■「(33)翻譯政治の失敗」

とどのつまり「支那の失敗は、翻譯政治の失敗」であり、自らが備えた諸
条件に対する深刻な考察を経ることなく他国の成功例を持ち込んだところ
で成功する訳がない。「日本の先例は、日本にのみ用ふ可くして、支那に
用ふ」ることは不可能だ。

「要するに皇帝を稱するにせよ、大總統と稱するにせよ」、「支那に向
て、日本型の中央集權の政治を行はんと」するは、元より無理な相談だ。
なぜなら「中央集權の政治は、支那四千年の?史に背違し、支那の國民
性」とは相容れないからだ。

ともかくも「?龍江邊より、土耳其斯坦の沙漠迄、蒙古の曠原より海南嶋
迄、一律に律し盡さんとす」ることそれ自体、無理なのである。

■「(34)袁世凱の幽靈」

清末以降の政治を振り返るに、その大本の流れは袁世凱が導いたといって
いい。袁世凱は死んだが、彼は「支那政治の中樞」に影響を与え続ける。
「概觀すれば、支那現在の政局は、死せる袁世凱、活ける支那を攪亂し
つゝありと謂ふも、決して誣言」ではない。それというのも、「今日の支
那は何れも袁の兒分共が、互ひに鎬を削りつゝ」あるからだ。

子分共の振る舞いをみても、やはり袁世凱は「一身若しくは一家の事」に
のみ強い関心を示したが、「一国の事」などに関心を示すことはなかっ
た。その結果、現在では「幾多の小袁世凱」が蠢き合っているだけで、
「支那の前途も亦た悲觀」するしかない。

■「(35)3個の要件」

「日本さへも一氣呵成に、維新の大業を成就」できたのだから、我われに
できないわけがないと考えているようだが、「凡そ中央集權を施すに
は」、「國是の確立」でもある「國民の精神的統一」。中央政府の下で兵
力を統一的に管理する「兵權の統一」。「全國財賦の權」を中央政府が一
元的に管轄する「財權の統一」――以上の「3箇の要件」が絶対的に必要だ。

「顧みて之を支那の現状に徴」してみるなら、「3箇の要件」のうちのど
の1つも見当たらない。辛亥革命は成功したが、そこに結集した勢力は清
朝=満州族王朝の破壊という一点で一致してはいたものの、それぞれの勢
力が「建設的國是」を持っていたわけではない。多大の犠牲を払いながら
幕末維新の混乱期を乗り越え得たわけは、幸いにも日本は「萬世一系の皇
統」を保持し、「皇室中心主義」で貫かれていたからだ。

翻って見ると、「支那には之に代はる可き何物」もないし、「不幸にして
支那には國論の統一なく、又た之を統一す可き精神的標的」すらない。だ
から未来は暗澹・・。

    

◆パイナップルも無かった

渡部 亮次郎


朝と昼の食事のあとは果物を必ず食べる。だから秋は楽しい。果物の種類
が豊富だからだ。冬が近付くとみかんに混じってときどき供されるのがパ
イナップルだ。

南国の果物だから生まれ育った秋田では子ども時代はお目にかからなかっ
た。敗戦後、缶詰を初めて食べて美味しかった。しかし生を食べたのは大
人になって上京後である。

アメリカから返還される前に特派員として渡った沖縄では畑に植わってい
るのを沢山見たが、なぜか食べなかった。今、東京のデパートで売られて
いるのは100%フィリピン産である。

「ウィキペディア」によれば、パイナップルの原産地はブラジル、パラナ
川とパラグアイ川の流域地方。この地でトゥピ語族のグアラニー語を用い
る先住民により、果物として栽培化されたものである。

15世紀末、ヨーロッパ人が新大陸へ到達した時は、既に新世界の各地に伝
播、栽培されていた。 クリストファー・コロンブスの第2次探検隊が1493
年11月4日、西インド諸島のグアドループ島で発見してからは急速に他の
大陸に伝わった。

1513年には早くもスペインにもたらされ、次いで当時発見されたインド航
路に乗り、たちまちアフリカ、アジアの熱帯地方へ伝わった。

当時海外の布教に力を注いでいたイエズス会の修道士たちは、この新しい
果物を、時のインド皇帝アクバルへの貢物として贈ったと伝えられる。

次いでフィリピンへは1558年、ジャワでは1599年に伝わり広く普及して
行った。そして1605年にはマカオに伝わり、福建を経て、1650年ごろ台湾
に導入された。

日本には1830年東京の小笠原諸島・父島に初めて植えられたが、1845年に
オランダ船が長崎へもたらした記録もある。

パイナップル(レユニオン)は植付け後15〜18か月で収穫が始まる。自然
下の主収穫期は、たとえば沖縄では7〜9月と11〜翌年2月である。

1年を通した生産面の労働力の分配や缶詰工場の平準化を図り、植物ホル
モンであるエチレンやアセチレン(カーバイドに水を加えて発生させ
る)、エスレル(2-クロロエチルホスホン酸)、を植物成長調整剤として
利用し、計画的に花芽形成を促して収穫調節を施している。

栽培適地は年平均気温摂氏20度以上で年降水量1300mm内外の熱帯の平地か
ら海抜800mくらいまでの排水の良い肥沃な砂質土壌である。

世界生産量の約5割がアジア州で、残りの5割はアフリカ州、北アメリカ
州、南アメリカ州の間でほぼ均等に分かれている。

2002年時点のFAOの統計によると世界生産量は1485万トン。1985年時点に
比べて60%以上拡大している。主要生産国はタイ (13.3%)、フィリピン
(11.0%)、ブラジル (9.9%)、中国 (8.6%)、インド (7.4%)、コスタリカ、
ナイジェリア、ケニア、メキシコ、インドネシアである。

1985年の世界総生産は923万トンで、主産地はタイ、フィリピン、ブラジ
ル、インド、アメリカ、ベトナムなどである。日本では沖縄県が主産地で
2002年時点では1万トンである。

1985年から2002年までのシェアの推移をたどると、米国のシェアが6%から
2%までじりじり下がっていることが特徴である。既に米国は上位10カ国に
含まれていない。2012・11・06


◆中国が世界各地で仕掛ける「債務の罠」

櫻井よしこ


「中国が世界各地で仕掛ける「債務の罠」 「第二のスリランカ」阻止
への正念場だ」

広域経済圏構想「一帯一路」を推進して、世界に覇権を打ち立てるという
中国の思惑が、またひとつ崩れ去るのか。日本や米国、インドやオースト
ラリアは中国の横暴な世界戦略に修正を加えることができるのか。

インド洋に浮かぶリゾートの島国、モルディブで9月23日、大統領選挙が
行われ、親中派のアブドラ・ヤミーン氏が敗北した。野党統一候補のイブ
ラヒム・モハメド・ソリ氏が58%の得票で勝利したことで、これまでの親
中路線が修正される可能性が生まれた。それ自体、歓迎すべきことだが、
多くの困難が待ち受けているだろう。

前政権のヤミーン氏は2013年の大統領就任以降、いち早く一帯一路構想に
賛同し、積極的に中国マネーを導入した。無謀なインフラ工事を進め、ヤ
ミーン氏自身も腐敗の極みにあり、現時点で中国に対するモルディブの債
務は20億ドルに上る。IMF(国際通貨基金)の統計では同国GDP(国
内総生産)は45億ドルで、対中債務はGDPの実に45%を占めている。

モルディブが、「債務の罠」にはまったのは明らかで、モルディブ国民が
今回の選挙で親中派を排除した最大の理由である。実は彼らの危機意識
は、モルディブ同様、一帯一路の要衝にあたり、債務の罠にはまってし
まったスリランカの事例によって高まった。

スリランカでも、親中派政権が巨額の中国マネーを導入し、ハンバントタ
港の大規模整備を進めた。国民は膨れ上がる債務と6.8%の高金利のもた
らす悲劇を直感し、親中派を退けた。

新政権は追加の開発を凍結したが、中国が損害賠償を要求すると窮地に
陥った。どうあがいてもスリランカには賠償金の支払いも債務の返済も無
理だ。足下を見た中国は、それまでの微笑みをかなぐり捨ててハンバント
タ港の99年間のリース権を要求した。

こうしてスリランカ政府は、事実上、半永久的に港を中国に奪われてし
まった。この間の経緯をじっと見ていたのがモルディブ国民だった。

港や戦略的に重要な拠点を奪われているのは、スリランカだけではない。
オーストラリアも同様である。

同国の北に位置するダーウィン港は米海軍が定期的に寄港する軍港であ
る。そこに隣接する広大な土地の99年間のリース権を、オーストラリアは
なんと中国に許してしまったのだ。15年、中国が支払ったのはわずか約
460億円である。オーストラリア政府はこの取引を阻止せず、アメリカの
オバマ政権(当時)は事後になるまでこの件について知らされていなかった。

独占的権利を得た中国は、米海軍が拠点とするこの軍港の大規模拡張計画
を発表済みだ。今年5月、アメリカは太平洋軍を「インド・太平洋軍」と
改称したが、インド洋に睨みをきかせようとするアメリカに中国は堂々と
挑んでいるのである。

ダーウィンからインドネシアの南側を北西に進むとスリランカに行きつ
く。インドの鼻先に位置する同国のハンバントタ港については前述したと
おりだ。

ハンバントタから南西に下がった所に、今回、中国に反旗を翻したモル
ディブがあり、さらに西に進めば紅海の入り口にジブチがある。ジブチに
は、中国が初めて海外に築いた軍事基地がある。

ジブチに対しても中国はすでに債務の罠を仕込んでいる。同国のGDPは
20億ドルとされるが、そこに中国はアフリカ最大規模の自由貿易区を、35
億ドルかけて建設したのだ。

ジブチの辿るであろう運命はすでに明らかだ。世界各地で進行中のこの悪
魔のような債務の罠に絡めとられた国々をどのようにして助けていくのか
が問われている。とりわけ日米豪印はモルディブを第2のスリランカにし
ないために最大限の協力をしなければならない。まさに正念場である。
『週刊ダイヤモンド』 2018年10月6日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1250

◆木津川だより 浄瑠璃寺

白井繁夫


前回訪れた海住山寺と「木津川」を挟んだ対岸の丘陵地帯には、古くからある当尾(とうのお)の里に「小田原山浄瑠璃寺」があります。この通称「九体寺」が、現在では唯一となった「九体阿弥陀如来坐像(国宝)」を本尊として安置している寺院なのです。

私は深く考えず健康のためと浄瑠璃寺口でバスから降りて約2kmの山道を徒歩で登っていくことにしました。しかし、誰も歩いていない山道を一人で歩いたとき、古の人々は、こんな山中まで、よくぞ材木を運びあげて寺院を建立したものだと、その情熱に畏敬の念を改めて深く感じた次第です。

そこで、「浄瑠璃寺」を散策する前に、もう少し「木津川地域」(木津川市)と、「木津川の歴史的関連」を話題に取り上げてみようと思い、「木津川流域」の概略的事柄を記述してみました。

伊賀(三重県)を源流とする「木津川」は、古代の飛鳥、奈良時代の藤原京、平城京を造営する建築用材運搬の大動脈となり泉津(いずみのつ:木津の港)が、奈良の都の玄関港となりました。これが歴史上「木津川」が果たした重要な役割なのです。

「木津川上流域」の杣山(そまやま:笠置、加茂)から木材を筏に組んで、また近江(滋賀県)の杣山(田上山:たなかみやま)や琵琶湖から宇治川を経由して、さらに遠方の瀬戸内や、丹波からも、淀川を利用するルートにより、木材が運ばれ「木津」で陸揚げされたのです。

この泉津では東大寺、興福寺など諸寺の木屋(こや)所や国の役所等があり、それぞれの用途に振分け加工したりして都へ運び出しました。

泉津から平城京へは上津道(かみつみち)、中津道、下津道(しもつみち)の官道があり、その官道沿いには川や池も設置されていましたので、水量を調節して材木を運ぶ方法も採られていました。

ところで、「木津川流域」に人々が住みついたのはいつの時代からかは正確には分りません。遺跡から観ると、弥生時代の中期(紀元前一世紀から後一世紀)、「木津の相楽山丘陵」から祭祀用の銅鐸が出土し、そのすぐ近くの大畠遺跡に集落跡や墓跡などがありました。

弥生時代になって「階級や身分社会」が成立してきましたので、小さい古墳も流域の各地に出来ました。更に一層政治的に関連が進んだ古墳時代、「木津川」の右岸(山城町)に、前方後円墳の「椿井(つばい)大塚山古墳」が出現しています。

この大古墳は、中国の文献(魏志倭人伝)にある「邪馬台国の女王卑弥呼の銅鏡」(三角縁神獣鏡)が、36面も出土しました。これだけの副葬品が出る墓の人物は、相当偉大な権力者(王)であったと思われます。

また、この巨大な古墳の造り方は、3世紀末に築かれたわが国最古で、女王卑弥呼の墓とも云われている前方後円墳の箸墓古墳(奈良県桜井市)と、多くの共通点がありました。

古事記、日本書紀に記載されている泉河(輪韓河:わからかわ:木津川)の物語 
崇神天皇10年条 (武埴安彦の反乱):

四道将軍の一人大毘古命(おおびこのみこと)が、越国(北陸道)へ赴く途中、武埴安彦(たけはにやすびこ)の謀反を山代の幣羅坂(へらさか)で知り、崇神天皇の勅命により彦国葺(ひこくにぶく:丸邇臣氏の祖)と大毘古命の軍は輪韓河で武埴安彦の軍に挑みました。

その結果、武埴安彦の戦死によって反乱軍は総崩れとなって敗走した様子の地名(波布理會能:ハフリソノ:→祝園:ホウソノ、屎褌→久須婆→楠葉など)が、今もこの地域に残っています。「挑み」伊杼美イドミ→伊豆美イズミ→泉河

この大戦のとき、大和の大王(崇神天皇)軍は、西国道を固めていた武埴安彦の妻(吾田姫:あたひめ)の軍も打破りました。その後(神功皇后摂政2年条:押熊王の反乱)、大和政権は、奈良山西麓を越えた下津道の押熊の王との戦にも勝利したのです。

名実ともに大和政権が確立し、「木津川流域」をはじめ畿内では、大和の大王に敵対する勢力が一掃されました。

5世紀から6世紀になると渡来人が「木津川流域」に多く住みつき、彼らは朝鮮半島より渡来の中国大陸の先進的文化、文明を携えてきました。

570年には高句麗使の一行を迎えるため、大和朝廷の外交官舎「相楽館:さがらのむろつみ」を、「木津の港」にかかわる相楽神社近辺に作りました。(608年には難波高麗館が設置された。)

7世紀後半の「壬申の乱」:天智天皇の太子(大友皇子)に対して672年大海人皇子(後の天武天皇)の反乱の時も、「木津地域」はやはり重要な地域でした。

8世紀になり、藤原京から平城京へ元明天皇が遷都(710年)した奈良時代の天平12年(740)聖武天皇が恭仁京(くにきょう)に遷都したころは、正に恭仁京の泉津として、現木津川市(木津、加茂、山城町)が、最も輝いていた時期と推察します。

奈良時代の加茂町銭司では、日本最初の貨幣(和同開珎)を鋳造しており、(僅か4年間の都でしたが)恭仁京では聖武天皇が大仏造立の発願、全国に国分寺、国分尼寺造立の詔、墾田永世私財法など発信しました。

「木津川市」は、京都府の最南端で、奈良県の奈良市と境界を接しています。ですから奈良時代では大和の北部丘陵地(奈良山)の背後の国:山背国(やましろのくに:山代国)と呼ばれていましたが、桓武天皇が平安京へ遷都(794年)して、「山城国」と詔で命名しました。

都が京都へ移っても、南都(奈良市)には藤原一族の氏寺(興福寺)、氏神(春日大社)があり、平安貴族は競って南都詣でをしていましたので、人々の往来や物資の流通も多く、「木津」は交通の要衝であり、また文化や情報の発信地でした。

9世紀から10世紀の平安貴族文化が盛んな時期も、南都仏教の興福寺、東大寺等の諸寺は
南山城(京都府旧相楽郡、旧綴喜郡)に奈良時代からの広範な杣山(後に荘園にもなった)を所有しており、実質的に南山城は大和の文化、経済圏内でした。

10世紀後半から11世紀になり、南都の貴族仏教の僧侶の中には世俗に溺れ堕落する僧も現れ、世相も乱れかけた現象を疎みました。

このため現世を救う弥勒菩薩や観音菩薩の信仰、または釈迦如来に回帰すべきという思想など様々な思考を持った僧侶が、「木津川流域」の山中にある笠置寺、加茂の岩船寺、浄瑠璃寺、海住山寺などの草庵に籠り、真の悟りを求めて厳しい修行や戒律の教学を開始しだしたのです。

前回訪ねた海住山寺は、寺伝による創建は:聖武天皇が大仏造立発願のため云々ですが、12世紀後半から13世紀の解脱上人貞慶は戒律を重視して、釈迦如来に回帰すべきとして、釈迦の仏舎利を祀る五重塔の建立を開始し、1214年貞慶の1周忌に、貞慶の後継者の覚真上人が落慶供養をしました。

次回は、木津川市加茂町西小の「淨瑠璃寺」訪ねようとしています。創建時の本尊は弥勒菩薩でしたが、現在は九体の阿弥陀如来坐像(国宝)の本尊が本堂に祀られている、この寺院の変遷なども辿ってみようと思っています。

参考文献: 木津町史   本文編            木津町
      加茂町史   第一巻 古代、中世編     加茂町

(奈良から浄瑠璃寺門前行きの急行バスは一時間に一本ぐらいです。時刻表に注意下さい。JR加茂駅からは毎時一本岩船寺、浄瑠璃寺行きのコミュニティーバスが利用できます。)