2018年12月21日

◆中国の世界制覇を断固阻止

加瀬 英明


世界のありかたが新しいリーダーを生むのか、あるいは新しいリーダーが
現われて、世界のありかたを、つくり変えるのだろうか?

 トランプ大統領が突然のように、世界の桧(ひのき)舞台に登場した
が、いったい、どちらに当たるのだろうか?

トランプ大統領は、粗野乱暴で、衝動的に行動する。それだけにトランプ
政権が発足してから2年間、世界のかたちが激変している。

トランプ大統領が北朝鮮の金正恩委員長とサシで会談した結果、北朝鮮が
ミサイル発射と核実験を行わないでいるが、大きな功績だ。この状況が、
今後、少なくとも2年は続こう。

米国経済はオバマ政権まで、多くの規制が活力を損ねていたのを撤廃し、
失業率が50年振りに低いという、好況に転じた。

しかし、何といっても、トランプ政権の2年間の最大の出来事といえば、
中国が世界を制覇しようと野望を進めているのを挫(くじ)くことを、決
定したことだ。

トランプ鷲と習近平龍による、死闘の幕が切って降ろされた。

トランプ大統領が米国の舵(かじ)を握ってから、世界の潮流が逆流し始
めた。

世界を牛耳ってきたグローバリズムの時代が終わった。それぞれの国が、
国益を中心として行動する、古い世界に戻るのだ。

グローバリズムは、米大企業が金儲けのために自国の民衆を犠牲にして、
製造業を中国を主とする低賃金の国々へ放り投げて、所得格差を拡大する
ことによって、伝統的な社会生活や、習慣を破壊してきた。人と人との絆
(きずな)が粉々に砕かれて、個が尊重されるあまり、男女を区別するこ
とをはじめ、あらゆる差別が悪だとされるようになった。

民主党、大手メディア、高所得・高学歴者、主要研究所は、大企業によっ
て養われてきたから、グローバリストとして、“トランプ非難”の必死の大
合唱を行っている。

だが、トランプ大統領が米社会を分断しているのではない。米社会が分断
されていたから、“トランプ現象”が起って、共和党にとっても部外者だっ
た、トランプ大統領が誕生したのだ。

民主党は2年後の大統領選挙へ向けて、看板になるリーダーも、政策も欠
いて、息絶え絶えだ。

トランプ大統領が、今後、よほどのヘマをしないかぎり、トランプ時代が
続こう。

トランプ現象を正視しなければ、ならない。


◆ソフトバンク無惨

宮崎 正弘


平成30年(2018年)12月19日(水曜日)弐 通巻第5923号  

ソフトバンク無惨、上場目標値を15%も下回った
    ファーウェイとの怪しい関係に投資家が猜疑心

史上空前のIPO(株式公開)となるはずだった。2018年12月19日、ソフ
トバンク集団の通信子会社ソフトバンクの株式が公開されたのだ。

ソフトバンク側は強気だった。ところが、最低一口15万円と言って販売を
促進してきた証券会社が慌て始めたのは12月6日におきた通信障害で、ソ
フトバンクの携帯電話が繋がらなくなった。追い打ちをかけてファーウェ
イのCFO兼副社長の孟晩舟がカナダで逮捕され、さらにファーウェイと
関係の深かった張首晟スタンフォード大学教授の「自殺」だった。

一口15万円ではまずいと判断され、小口の百株でも買える措置がとられ
た。つまり小口分散で個人投資家からかき集める戦術に切り替わった。

それでも「こんな時期に何のために株式を上場するのか?」と投資家ばか
りか、経済ジャーナリストも猜疑心を強くした。

ソフトバンクの孫正義が中国アリババの筆頭株主であるうえ、地上局に
ファーウェイ製品を使用してきたからでもあった。米英豪、ニュージーラ
ンドなどはすでにファーウェイのいかなる製品も使用しない、市場からの
排除を決めており、周回遅れで日本政府もこれに倣うとした。

このタイミングでソフトバンクの株式が上場された。売り出し価格の1500
円を市場開始と同時に下回り、1463円で開始されたが、またたくまに下落
を続け、初日の終値は1282円だった。

売り出し目標額を15%も下回り、市場関係者は愕然と肩を落とした。

 ソフトバンクは、有利子負債が13兆円を越えており、経営の屋台骨を
震撼させる出来事が市場からの不評、反発という想定外の反応だった。
 この醜態は、以後の日経平均を押し下げ、近未来に株価再沸騰という薔
薇色のシナリオは消えた。

◆韓国大法院判決、恐るべき反日の理屈

櫻井よしこ


「韓国大法院判決、恐るべき反日の理屈」

韓国大法院(最高裁判所)が10月末及び11月末に下した朝鮮人戦時労働者
問題に関する判決書にはとんでもないことが書かれている。

「とんでもない」という意味は、単に日韓両政府が1965年に合意した日韓
請求権協定に違反するというだけではない。それよりもはるかに深刻で国
際法軽視の対日非難であるという意味だ。

12月7日、インターネット配信の「言論テレビ」で女性の論客5人と男性の
論客1人の構成でこの問題を中心に2時間にわたって論じた。男性ゲスト
は、いま朝鮮問題で引っ張り凧の西岡力氏だ。

韓国大法院の判決を貫く主張は「日本統治不法論」である。日本の有志の
弁護士が仮訳したものを参考に、私たちが問題にした韓国最高裁判決の最
重要のくだりは以下の部分だ。

「原告らの損害賠償請求権は、日本政府の朝鮮半島に対する不法な植民地
支配および侵略戦争の遂行と直結した日本企業の反人道的な不法行為を前
提とする強制動員被害者の日本企業に対する慰謝料請求権(である)とい
う点を明確にしておかなければならない」

判決は続いてこう述べる。

「原告らは被告を相手に未支給賃金や補償金を請求しているのではなく、
上記のような慰謝料を請求しているのである」

判決の他の部分には、原告らは日本で同様の裁判を起こして敗訴している
が、日本の司法判決は受け入れられない、その理由は日本の判決が「日本
の朝鮮半島と韓国人に対する植民地支配が合法であるという規範的認識を
前提に」しているからだと書かれている。

そのうえで、「日本での判決をそのまま承認するのは、大韓民国の善良な
風俗や、その他の社会秩序に違反する」というのだ。

頑として譲らないこと

日本の朝鮮統治は不法だと決めつけ、日本側の主張は全く受け入れないと
いうわけだ。西岡氏が指摘した。

「新日鐵住金を訴えた原告4人は募集に応じて普通に日本に来て、普通に
企業で働いて、給料を貰った。未払い給料があったとしても、それらを清
算する機会は戦後2回もあった。彼らは無事に帰国し、怪我もしていな
い。だから韓国政府も彼らには特別な支払いはしていません。しかし、日
本統治が不法だったからという理屈をいま持ち出して、慰謝料が発生する
と言っているのです」

慰謝料という理屈を適用すれば、およそすべてが対象となる。日本統治下
で日本語を習わせられた、神社を参拝させられた、姓名を変えさせられ
た、精神的に苦しんだなど、何でも慰謝料請求の根拠とされるだろう。

このような要求を日本につきつける土台となる論理が日本統治不法論だ。
日韓基本条約と日韓請求権協定の締結までに日韓両国政府は延々14年間も
交渉を重ねた。当時も日本の韓国統治は合法だったか否かが激しく議論さ
れたのは確かだ。互いに折り合えず交渉は長引いた。そこで双方が智恵を
働かせた。

日韓基本条約第2条には「1910年8月22日以前に大日本帝国と大韓帝国との
間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認さ
れる」とある。

1910(明治43)年8月22日は韓国併合条約の調印の日である。日本の韓国
併合はそれ以前の種々の条約、協定の積み重ねで、米英露など諸外国も認
めるものだった。従ってそれらはすべて国際法に適い合法だとする日本の
主張は当然だ。だが、日韓の外交関係を進めるために両政府は以下の案を
生み出した。

前述のように、1910年8月22日以前(中略)の条約及び協定は、「もはや
無効」としたのだ。

西岡氏が説明した。

「日本側にとっては、韓国は1948年に独立した、もはや日本は韓国を併合
していない、だから韓国併合の根拠だった1910年8月22日以前の条約も協
定も、もはや無効になった、それ以前は合法で有効だったという意味で
す。他方韓国側は、『もはや』は副詞みたいなもので関係がない、だか
ら、そんな言葉は無視して、当初から無効だったと解釈したのです」

両者の解釈が異なるときは、両国が合意した英文によって解釈することに
なっている。英文は日本の解釈が正しいことを示している。

韓国側の主張は不当極まるが、不当判決が出されたいま、65年の協定で請
求権問題は「完全かつ最終的に解決された」と言うだけでは、日本側は闘
いきれないかもしれない。次なる一手も二手も準備する必要がある。

まず、法律上の問題だ。キモは頑として譲らないことだ。韓国弁護団は強
気で、12月4日、被告の新日鐵住金本社を訪れた。新日鐵住金側は韓国弁
護団を全く相手にしなかったが、彼らは要請書を置いて帰った。損害賠償
の履行方法や、賠償金の伝達方式を含む被害者の権利回復の措置につい
て、今月24日午後までの返答を求める内容だった。

法的闘争の準備を

日本側が応じなければ、彼らは日本企業の資産差し押さえなどに着手する
可能性がある。日本側も報復の差し押さえ措置など法的闘争の準備を万全
にすることだ。

もうひとつは国際世論を意識した歴史戦への備えだ。日本統治の合法性と
は別に、日本が朝鮮人労働者をどのように処遇していたかを事実に基づい
て内外に知らせ、慰謝料要求などは筋違いであり不条理だと納得してもら
えるだけの情報を十分に伝えておくことが、この種の歴史戦ではとても大
事である。その点において日本側は非常に手立てが遅れていると、西岡氏
は懸念する。

「現在の外交官は、当時の労働条件や賃金の支払い状況などについてよく
知りません。対照的に反日勢力の側は、実は彼らは日本人なのですが、80
年代から日本統治不法論を考え、その論理を磨き上げてきました。事実関
係については、すべてを反日的視点から資料収集しています。これら反日
日本人が韓国側に論理と資料を提供しているのです。彼らの資料は、私た
ちの側が集めた資料や研究の10倍はあると言っても過言ではありません。
彼らの反日闘争は私たちよりずっと早くから準備されていたのです」

それでも日本の企業には、どれだけの賃金を朝鮮の誰々に支払った、朝鮮
の誰々はどの募集に応じて、どのような待遇を受けたといった資料が豊富
に残っている。事実こそ最も強い説得力を持つはずだ。こうした資料を早
く、全面的に公開すべきだ。

これから短期間に、反日学者を除く、少数ではあってもまともな学者や研
究者が、企業及び政府とも協力し、日本統治下の朝鮮人の扱いについての
実態を最速で明らかにし、韓国司法の不条理を訴えていかなければならない。

『週刊新潮』 2018年12月20日号日本ルネッサンス 第832回

◆奈良木津川だより 高麗寺跡 A

白井繁夫


「史跡 高麗寺(こまでら)跡」は木津川の右岸の棚田の中(山城町上狛)で、建物がないためか、観光客も少なく、飛鳥時代に創建された国内最古の仏教寺院「飛鳥寺」と同笵の瓦が出土した国の史跡の古代寺院跡と思われずに千年の時が経って来たのです。

この高麗寺跡の第T期発掘調査(昭和13年)から第V期(平成22年度の第10次発掘調査)までの調査で出土した遺物や伽藍跡から皆様と高麗寺の建立の様子や歴史を観て行こうと思います。

高麗寺は渡来氏族の狛氏の氏寺として7世紀初(610年頃)には存在していただろうが、出土遺物などから、12世紀末から13世紀初期ごろに消滅したと推察されています。

高麗寺跡の出土遺物には金銅製の破風(はふ)拝み金具、円盤等の建造物の装飾金具、南
門の屋根の鴟尾や最古の築地塀などがあり、更に各時代を現す文様の瓦や三層基壇の講堂など高麗寺の伽藍は驚嘆するような荘厳さで、文明の先端を行く寺院と推察されます。

最初に年代を調べるために、高麗寺の出土遺物で数量が多くて比較的に年代を決めやすい文様瓦(軒丸瓦.軒平瓦)を中心に4期に分けた瓦から始めます。

T期の瓦 飛鳥時代の瓦(軒丸瓦:十葉素弁蓮華文じゅうようそべんれんげもん)
   
  日本最古の寺院「飛鳥寺」の創建時の瓦と同じ型で作られている。京都府下では当然
  最古の瓦ですが、高麗寺から4点しか出土していません。(飛鳥時代に瓦葺の建物が確実に存在していたのか?堂宇は萱葺だったのか?)

U期の瓦 白鳳時代の瓦(軒丸瓦:八葉複弁ふくべん蓮華文、軒平瓦:重弧じゅうこ文)
     川原寺式の瓦と同笵でもあり出土量が圧倒的に多種大量です。

  川原寺式の瓦:古代瓦では最も文様が華麗で日本各地に普及した。地域文化の指標にもなった瓦ですが、高麗寺の瓦は原初的な川原寺創建時と同じ型の瓦から始まり、さらに発展した瓦など多種類が出土しています。(高麗寺は660年頃本格的に造営された伽藍建築の寺院となったのです。)

(川原寺は天智天皇が母(斉明天皇)の冥福を祈るため建立した寺で、飛鳥4大寺の一つ、
 壬申の乱で勝利した天武天皇が崇敬していた寺院であり、天武天皇に味方した各地の豪
族に恩賜として瓦の使用許可が与えられました。山城国では南山城に集中しており、地方では尾張、美濃、伊勢などが特に多い。)

南山城:木津川市の古代寺院では高麗寺と蟹満寺が有名です。
(前代の古墳時代:各豪族は氏族の権威の象徴として大古墳を築きましたが、飛鳥時代以降は氏族の権威となるモニュメントが大寺院の建立に変化しました。)

壬申の乱では渡来氏族の狛氏一族が大海人皇子に味方して大変貢献したため、高麗寺が
最初に川原寺の創建時の瓦(同笵瓦)の使用許可を得たのです。その後、川原寺式瓦は
高麗寺を核として南山城の3郡にも広がりました。

「蟹満寺:国宝の白鳳仏が有名」から川原寺式瓦の破片が出土したことから、白鳳時代
末期(7世紀末から8世紀初)に創建されたと云われているのです。
蟹満寺は前代に平尾城山古墳.稲荷山古墳を築いた豪族の後裔氏族が建立したのでは?と云われています。

V期の瓦 奈良時代の瓦(軒丸瓦:蓮華文、軒平瓦:均整唐草文)平城宮式瓦や「中臣」
   と文字がある平瓦、恭仁宮式軒瓦など恭仁京造営時に製造した瓦も出土しました
が多種少量のため、高麗寺の修理用として八世紀に使用した瓦と思われます。

W期の瓦 平安時代前期の瓦(軒丸瓦:蓮華文、軒平瓦:唐草文)修理用に高麗寺独特の瓦が少量作られた。(この時代以降の瓦は出土していないので、高麗寺の大伽藍は平安時代以降修理など出来ずに荒廃にまかされたか? 法蓮寺の棟札では金堂などが室町時代まで存在していたようですが?)

高麗寺を軒瓦から観た場合、飛鳥時代(610年頃)萱葺の堂?が創建され、白鳳時代、
川原寺式に準じた七堂伽藍の本格的寺院の造営(7世紀後半)が施工され、法起寺式伽
藍建築へ繋がって行きました。

奈良時代(8世紀)に聖武天皇が恭仁京(木津川市)へ遷都(740年)して都城の造営
時には高麗寺も独特の瓦を作り、他寺院にも供給しました。

しかし、平安時代初期の修理用の瓦の出土が最後でそれ以降の瓦の出土は有りません。
瓦から調べた高麗寺の創建時期の推測や隆盛時代は分りますが、歴史(終焉)は何世紀
か判断は困難です。

瓦以外の出土遺物や伽藍跡の発掘調査、昭和13年の第T期からV期(平成22年の10
次調査)まで、から高麗寺の概要を視ようと思います。(つづく)

参考資料:山城町史 本文篇 山城町、
南山城の寺院.都城 京理セミナー資料No.0106−327
史跡 高麗寺跡 第10次発掘調査概報 木津川市教育委員会
   

2018年12月20日

◆マルバニー予算局長が大統領首席補佐官代行

宮崎 正弘


平成30年(2018年)12月19日(水曜日)通巻第5921号  

 マルバニー予算局長が大統領首席補佐官代行になる意味は? 
  対中強硬派が勢揃い、中国が折れるまで米国は徹底的に戦う

リオデジャネイロのおけるG20で、米中首脳会談が開かれ、トランプは習
近平に「90日間の猶予」を与えた。一時休戦かと思われたが、直後に孟晩
舟拘束事件、そしてファーウェイ排斥が一段と鮮明になった。

実は、トランプはG20に飛び立つ前に、ホワイトハウスに招かれた一 人
の人物が居る。マイケル・ピルスベリーである。

ピルスベリーは、嘗て「パンダハガー」(親中派)の急先鋒だった。
それが「中国に騙されていた」と突如、対中タカ派に変節し、ハドソン研
究所の所長におさまった。10月4日の対中宣戦布告的なペンス副大統領
の演説は、このピルスベリーが発案し、ハドソン研究所で為されたことは
記憶に新しい。

 1年前、トランプの中国問題の指南役はキッシンジャーとされた。キッ
シンジャーは国務長官にティラーソンを推薦し、彼は国務省予算を30%
削減させた。国務省から外交決定権をトランプはホワイトハウスに奪還
し、そのあと対中融和派のティラーソンを馘首、強硬派のポンペオを指名
した。

この間に、大統領顧問格としての経済会議委員長にクロドー、国家安全
保障担当大統領補佐官にジョン・ボルトン、そしてUSTR代表がライト
ハイザー、通称産業政策局長にナバロ。こうなると対中融和派に近かった
ロス商務、ムニューシン財務各長官も対中タカ派に同調せざるを得なく
なった。

国連大使ニッキー・ヘイリーが年内に辞任すると表明し、つづいてホ ワ
イトハウスのトップ首席補佐官のジョン・ケリーも年内辞任が表明された。

新しい首席補佐官代行にミット・マルバニーが決まった。マルバニーは
サウスカロライナ州上院議員2期のあと、連邦下院議員3期、ティパー
ティに近く、トランプ政権発足とともに行政管理局予算局長(閣僚級)に
指名された。上院の指名公聴会では賛成51,反対49というきわどさ だっ
た。マルバニーが超保守派だからである。


▲パンダ・ハガーは変節、議会派は上下をとわず、アンチ・チャイナ大合
唱団。

マルバニーは予算局長として辣腕をふるい国防予算大幅増、国務省予算
の30%削減(正確には28・5%)の中心人物である。そのうえマルバ
ニーは、首席補佐官「代行」としての任命で当面予算局長も兼務するが、
「代行」ののち、本心は財務長官をのぞんでいるとされる。

ともかく、トランプ、ペンス正副大統領、マティス国防、ポンペオ国防
の列に首席補佐官マルバニー、大統領補佐官ボルトン、USTR亜代表ラ
イトハイザー、通商産業政策局長ナバロ、そして国家経済委員長クドロー
と、対中国タカ派が米国政治の中枢に陣取った。

マルバニーは「中国が折れるまで、米国は姿勢を変えない」と発言して
いるほどの強硬派、ホワイトハウスに中国同調組はいまや存在せず、アカ
デミズムはキッシンジャーをのぞしてパンダ・ハガーはほぼ全員が変節、
議会派は上下をとわず、アンチ・チャイナの大合唱団。
だからメディアも時としてトランプより対中姿勢が強硬。

米中貿易戦争は高関税合戦からテクノ防衛戦という「新冷戦」となった。
次は金融戦争、究極は通貨戦争へと突き進むことになり、もはや中国経済
の崩壊を避けて通る道は絶無となった。


        

◆「赤札大王」でハクビシン撃退に成功も

櫻井よしこ


「赤札大王」でハクビシン撃退に成功もまだ残るペットの飼い主のお行儀
問題」

庭に出没して食べ頃に熟した柿の実を食い散らしてしまうハクビシンの撃
退に、私はこの夏、見事に成功した。ハクビシンの苦手な赤い色の、長さ
30センチメートル、幅15センチメートル程の札を吊したのだ。札の下の方
の袋には唐辛子、ニンニクなど多種類の強烈な刺激臭を発する素材が詰
まっている。

箱から出した途端、人間の私たちも顔をそむけたくなる程の強い刺激臭
だ。私はこの札を「赤札大王」と勝手に名づけて柿の木に3枚も吊した。
効果てきめん、以来ハクビシンは我が家から退散した。人間が眠っている
間に鋭い爪で木の肌をひっかくことも実を食い散らすことも含めて、彼ら
の来襲の形跡はまったく見られなくなった。ミッション・コンプリー
ティッドである。

しかし、小鳥も来なくなった。我が家常連の幾十羽の雀の群れは無論、ひ
よ鳥も目白の群れも四十雀も、カラスさえ来なくなった。余程臭いがきつ
く、繊細な鳥たちにはこたえるのであろう。いつでも大歓迎な鳥たちなの
に、ハクビシン退治に集中すれば、彼らもいなくなる。私の本意ではない
のにそうなってしまう。どうすればよいのか。そうだ、時間差を活用すれ
ばよいのだと、思いついた。

ハクビシンは夜行性である。小鳥は暗くなる前に巣に戻る。ならば、昼間
は赤札大王を物置にしまい、庭を鳥たちの居心地のよい環境にする。夕方
に赤札大王を取り出して柿の木に吊せばよい。とても簡単なことだ。私は
その通りに実行した。大成功だった。鳥たちは戻り、水浴びをし、歌って
くれるようになった。庭に賑わいが戻ってきたのは、この上ない幸せである。

しかしその直後に新たな事件が発生した。ハクビシンは今度は2階のベラ
ンダを襲ったのだ。そこには大き目の鉢にレモン、ミカン、デコポン、キ
ンカンの木を植えている。それぞれ2メートル程の高さの果樹は、例年精
一杯花を咲かせ、実をつける。

或る日大きくなったミカンの実がかじられていた。木の下にはスズランが
植わっている。花は終わっているが、葉を青々と広げ、太陽光を浴び、養
分をつくり来年のために球根を太らせようと頑張っている。そのスズラン
が踏みしだかれていた。

ハクビシンの仕業だと断定せざるを得なかった。私は新たに赤札大王をこ
こにも吊り下げ、大成功をおさめた。

この間に、私は少し悩んでいた問題も赤札大王の活用で解決できるのでは
ないかと考え始めた。

実は、拙宅はペットの散歩コースに当たるらしい。散歩する犬と飼い主
を、当初はほほえましく見ていたが、いつの間にか余り好意を抱けなく
なった。理由はペットが玄関前で用を足し、飼い主が片付けないことであ
る。犬のフンの掃除が我が家の日常業務になって久しい時間が過ぎた頃、
「ペットのトイレの始末は飼い主にお願いします」という控え目な札を立
てるようになった。

よく見ると、ご近所のあちこちに同じような札が立っていた。皆困ってい
るのである。だから札を立てる。けれど、効果がないのである。お互いに
暮らし易い社会をつくる常識が少し欠けている飼い主がいるのである。

そこで、私はまたまた考えた。赤札大王の臭いは犬だって好きではないは
ずだ。人間よりはるかに優れた嗅覚を持つ犬は、赤札大王の近くには金輪
際寄ってこないに違いない。試しにいつもフンが置きざりにされる玄関の
前、その横の椿や寒椿、千両の木々の近くに下げてみた。

なるべく見苦しくないように、木の枝の後ろの方などを選んだ。その効果
かどうかわからないが、犬のオシッコの跡がなくフンの片付けをしなくて
よくなったのは確かである。当面の問題は解決されたが、ペットの飼い主
の皆さんがお行儀よくして下さるにはどうしたらよいのだろうか。
『週刊ダイヤモンド』 2018年12月15日号

新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1260

◆奈良木津川だより 高麗寺跡 @

                 白井繁夫


古代の仏教寺院「高麗寺(こまでら)」の創建は不明ですが、「高麗寺跡」の発掘調査から飛鳥時代に創建された日本最古の寺院「飛鳥寺(法興寺)」と同笵の軒丸瓦(十葉素弁蓮華文:じゅうようそべんれんげもん)が発掘されました。

飛鳥寺と同笵の瓦の出土は、この寺院跡「高麗寺跡」は蘇我氏創建の飛鳥寺(日本最古の本格的仏教寺院)と同時期頃の創建か?と歴史的な注目を集めました。

「高麗寺跡」は木津川市山城町上狛高麗、JR奈良線上狛駅より東へ約600m、木津川の右岸の棚田の中に位置しています。

「高麗寺跡」は昭和13年(1938)から本格的な発掘調査(第T期調査)が行われ、回廊に囲まれた主要な堂塔(塔跡、金堂跡、講堂跡)など含む伽藍の一部が75年前の昭和15年(1940)8月30日、国の史跡に認定されました。

(高麗寺は飛鳥時代に創建され白鳳時代に最盛期をむかえ平安時代の末期(12世紀)頃まで存続していた国内最古の寺院の一つ(京都府内では最古の寺院)と推察されています。)

「史跡高麗寺跡」の発掘調査はその後、第V期調査(平成22年度の第10次調査)まで実施され、平成22年史跡地の追加指定を受け、現在は20100m2の指定地です。調査内容については後述しますが、まず寺名(高麗寺)の「由来」からスタートします。

朝鮮半島と日本列島の九州は距離的にみると近畿と九州の数分の一であり、古代、5世紀の初めごろまではあまり強い国家意識を持たずに朝鮮半島南部の百済.新羅.加羅から渡来人が来ました。渡来氏族では漢氏(あやし)や秦氏(はたし)の氏族が優勢でした。

5世紀半ば過ぎからは北部の高句麗が強大化し南部の百済.新羅が戦場化し、戦火を逃れて日本列島に渡る人々が増加しました。

5世紀の後半は日本の古代国家形成にとって重要な時期であり、大王権力を拡大し、畿内政権を支える官司制の構成員として渡来人を採用し、彼等の文筆を持って官吏に執りたて、国家組織の整備や先進的技術の導入に役立てようとしました。

山城国への渡来人:秦氏は北部に多くの史跡を持ち、氏寺は京都の広隆寺(秦河勝が聖徳太子から下賜された仏像:弥勒菩薩半跏思惟像が有名です。)その他、商売の神様、稲荷神社(稲荷大社)、酒の神様、松尾神社(松尾大社)や嵐山の桂川周辺(大堰川)など。

山城国の南部では高句麗系の渡来氏族高麗(狛)氏が相楽.綴喜の南部2郡に集中しています。高麗寺は地名にもなっている高麗(狛)氏の氏寺です。しかし、南部以外でも有名な八坂神社の「祇園さん」(京都市東山区)は高句麗系渡来人の八坂氏の氏神です。

朝鮮半島からの渡来ルートは一般的には九州へ渡り、瀬戸内海を経て難波に来るルートを採りますが、高句麗から北西の季節風を利用して日本列島に渡るルートもありました。
古代の交通は主として水路を利用した結果、大和は木津川と深く関わりました。

木津川市は大阪市内から直径30kmの圏内です。

古代の水路の場合は、難波から淀川を遡上して八幡市(宇治川、木津川、桂川が合流)を経由する約60kmの道程です。別途、日本海の敦賀から近江の琵琶湖北岸に達し、水路で大津から宇治川経由木津に到着し、大和へ向うルートもありました。

『古事記』の仁徳天皇条、皇后石之日売命が天皇の浮気に嫉妬して難波高津宮から木津川の舟旅で出身地(大和の葛城)への途次の詩に「山代河:木津川」が詠まれています。

6世紀継体天皇が樟葉宮から弟国宮(おとくに)へ遷宮(518年)の頃、朝鮮諸国と畿内政権とは関係が緊張状態でした。
欽明天皇31年(570)条、高句麗の使節のため、南山城に高楲館(こまひのむろつみ)や相楽館(さがらかのむろつみ)を設けた。(木津川沿いに渡来人が多く居住していた。)

6世紀末、廃仏派の物部守屋が敗れ、用明天皇2年(587)、蘇我馬子が飛鳥寺(法興寺)の建立発願。飛鳥寺は日本最古の本格的仏教寺院であり、創建は6世紀末〜7世紀初、蘇我氏の氏寺、本尊は重文の飛鳥大仏(釈迦如来)です。

「高麗寺跡」の発掘調査から、南側土檀で仏舎利を祀る塔跡は東側、本尊仏を祀る金堂跡は西側、伽藍は南面しており、北側の土檀が講堂跡の伽藍配置です。

出土した瓦は年代の古い順から第1期は飛鳥寺と同笵の瓦、第2期は天武天皇が崇敬した寺、川原寺式瓦「種類.数量が最多」白鳳時代、第3期は平城宮式瓦、8世紀の修理、「多種.少量」、第4期は高麗寺独特の修理用瓦「少量」、平安時代前期と4時代の瓦でした。

出土品から高麗寺は新興勢力狛氏の氏寺として飛鳥時代(7世紀前半)に創建され、白鳳時代(7世紀後半)に本格的な造営が成されたが、都が平安京に遷都後は平安時代前期の修理が最後で12世紀末から13世紀初期まで高麗寺は存続していたと思われます。


<国の史跡「高麗寺跡」に付いては、新しい想いを込めて、新規に続編を掲載致します。
筆者の「木津川だより」にご関心を頂き、有り難う御座います。これからは以前の本編を、折を見て再掲させて頂きます。>

参考資料:山城町史 本文篇 山城町、
史跡 高麗寺跡 第V期(第8−10次発掘調査)発掘調査報告 木津川市教育委員会

    (再掲)

2018年12月19日

◆南アジアは「インド経済圏だ」

宮崎 正弘


平成30年(2018年)12月17日(月曜日)通巻第5919号  

 南アジアは「インド経済圏だ」。静かに捲土重来を期すニューデリー
  モルディヴ大統領がモディ首相と会見、当選以来初の外国訪問はイン
ドだった

モルディヴの新大統領ソリは、12月16日にニューデリー入りした。
親中派のヤミーン前大統領を大差で破って、大統領ポストを射止めたソリ
は、初めての外遊先を中国ではなく、インドとした。このことは、南アジ
アにおける地政学の地殻変動を物語る。

 ソリは12月17日にニューデリーでモディ首相らとインド政府要人と
会見し、18日にタージ・マハールを見学後、帰途につく予定。

 モルディヴは、空港拡張工事、並びに首都マーレと海の上を結ぶ海上橋
梁など合計13億ドル(モルディブのGDPは30億ドル)の「借金の
罠」に落ちて、南の珊瑚礁にある印度空軍基地を追い出す構えにあった。
背後に中国の暗躍があり、中国は借金のカタにモルディブの16の岩礁を
借り受け、突貫工事で埋めたてて人口島を建設し、軍事基地かする野望が
あった。

 モルディブは、この中国からの借金の返済に窮しており、先例は隣国ス
リランカが、借金を返済できずにハンバントタ港を99年にわたる中国の
租借を認めざるを得なかったように、先にこの財務問題を解決する必要が
ある。
 ソリはインドからの立て替え返済を要求しており、インドは捲土重来を
期すために相当大胆な措置を講じるだろうと予測される。

 前述スリランカにおいても親中派ラジャパクサ元大統領の首相への返り
咲き「政変」は、七週間にわたる国会の紛糾後、最高裁勧告によりラジャ
パクサ元大統領は首相就任を断念した。背後にインドのロビィ工作があっ
たことは明らかである。

 インドが次に対策を講じるのは中国と国境紛争をかかえるブータンへの
梃子入れ。
そしてマオイスト政権に転覆し反インド姿勢を鮮明にしているネパール、
さらにはミャンマーとの国境近くに位置するチッタゴン港の近代化工事と
開発を中国企業が行っているという安全保障上の脅威の存在。

実質的には、それほどの中国の進出ぶりを脅威視しており、南アジアの地
域リーダーとしての立場を回復するためにも、インドは静かな影響力行使
を続けている。
       
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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1828回】              
 ――「只敗殘と、荒涼と、そして寂寞との空氣に満たされて居る」――諸橋
(1)
諸橋徹次『遊支雜筆』(目?書店 昭和13年)

          ▽

諸橋轍次(1883年〜1982年)といえば、1925年から72年まで37年の歳月
をかけて『大漢和辞典』(全15巻)を完成させたことで知られる漢学者で
ある。

『遊支雜筆』の出版は盧溝橋事件勃発の翌年だが、冒頭の「小序」によ
れば「今皇軍が朝な夕な君國の爲に勇戰奮鬪して居らるるところ」には、
大正7(午)年、9(申)年、10(酉)年の3回にわたって訪れている。
かつて見聞した「遺跡が、今度の事變によつて如何樣に轉變するかは豫斷
を許さぬ」。だが変化したとして「此のささやかな記録でも、後日訪古の
資料となることもあらう」と、出版社から声を掛けられたこともあって、
「敢えて20年前の殘夢を茲に公にすることにした譯である」そうな。

世界最初の本格的漢和辞典作りに37年も取り組み、しかも完成寸前を戦
災で焼かれながら再度取り組み、殆んど失明寸前まで目を酷使しながら完
成させたという謹厳実直を絵にかいたような漢学者であるだけに、これま
でに見た政治家や経済人などとは違った視点からの記述がみられる。

3回の旅行記を合わせたものだが、じつは何年に旅行した時のものな の
か必ずしもハッキリしない。そこで敢えて年代は記さないことにし、大
正7(1918)年、大正9(1920)年、大正10(1921)年の4年間に跨る旅
行記として見ることにした。

 ここで当時がどんな時代であったかを知っておくのも、旅行記を読み進
むうえで参考になろうかと思うので、簡単に記しておく。

 先ず日本だが、シベリア出兵、米価暴騰をキッカケとして富山から関西
各都市に米よこせ運動が拡散、第1次世界大戦休戦条約が成立し、西園寺
と牧野を講和使節としてパリに派遣(大正7年)。パリにおける講和条約
調印、シベリア撤兵開始、普通選挙論台頭(大正8年)、「尼港事件」発
生を受け同地占領、経済恐慌発生(大正9年)、ワシントン軍縮会議、

安 田善次郎・原敬暗殺(大正10年)。一方の中国は激動が続いた時代だ
が、 後への影響を考えるとロシア革命の影響を受け雑誌『新青年』を軸
にして 新文化運動が活発化(1918年)、五・四運動(1919年)、陳独秀
による社 会主義青年団組織(1920年)、中国共産党の成立、孫文大総統
就任(広東 政府成立)と孫文・マーリン会談(1921年)――まさに物情騒
然たる時代の 中で諸橋は大陸を旅行したということになる。

「一度支那の地に遊んだ人は屹度同じ感じに打たれて歸ります」と、印
象的な書き出しだ。

「傾いた古塔や破れた城壁に充たされた支那の各地を旅行しますと、萬人
が萬人、皆破國(亡國ではありません)の俤といふ淋しい印象を抱くので
あります」。田舎、「或は過去の都跡といふ樣なところへでも參ります
と、其處には何一つ生き生きした氣分はありません」。まさに「一圓の光
景は只敗殘と、荒涼と、そして寂寞との空氣に滿たされて居るのです」と
いうから、諸橋が目にした光景は陰々滅々としたものだったらしい。

水の都と讃えられる蘇州で孔子廟を訪ねると、「驚くことには牀板一圓
は鳥の糞ではありませんか。梁の上、額の裏、無數の蝙蝠が飛びあるい
て、(中略)どう見てもお化け屋敷としか思はれぬのであります」。聖人
中の聖人を祀る孔子廟の無残な姿が凡てを表している。

 歴史の長い名刹は「殆んど豫想の外に淋しい感じが湧いてゐます」。
「其處に僧が居ります。僧といつても乞食より汚い」。かくして「異國の
旅人には只何となく、『こゝは破國である。こゝに來たものは破國の淋し
い俤を偲ばなければならぬ』といふ囁きが聞えるやうな氣がするのであり
ます」。

それにしても旅行の初っ端から諸橋が目にした光景は、無残極まりな
い。幕末以来の旅行記で亡国といった表現は数多く目にしたが、「破國」
の2文字は初めてだろう。

      

◆日本は既に移民大国、入管法の厳格化を

櫻井よしこ


「日本は既に移民大国、入管法の厳格化を」

国内の人手不足解消のために即戦力となる外国人労働者の受け入れを進め
るべく、出入国管理法が改正される。政府与党は、同改正案は野放図に外
国の人材を受け入れるためではなく、これまで殆ど管理できていなかった
外国人労働者を管理するためだと説明する。

具体的には外国人労働者を「特定技能1号」と「特定技能2号」に分類し、
1号は上限5年間働いて、より高度の日本語能力や専門技術を達成したと、
省庁が定める試験に合格することにより認定されたら、特定技能2号に
「格上げ」してもらえる。資格が1号のときは配偶者や子供を呼び寄せる
ことはできないが、2号に昇格すれば家族を呼び寄せ、事実上日本に永住
できるようになる。

野党の一部は、2号に分類される人々は「結局移民になる」と批判する
が、与党や維新の会は、1号から2号に進むには厳格な資格審査があり、2
号の資格が取得できるのは全体の5%程にとどまる見込みだと説明する。

また入国在留管理庁を新設し、人員をふやすことで出入国管理がより効果
的に行われるとも説明する。現在、日本で働く外国人の中から、驚くべき
ことに毎年6000〜7000人規模の「行方不明者」が出ている。

技能実習生或いは留学生として来日する人々の内、膨大な数の人々が消息
不明なのである。彼らは日本のどこかに潜んで生活しているはずだが、法
務省は追跡できていない。この「無法」状態は、彼らにとっても日本に
とってもよいはずがない。これからは追跡調査もできるようにしたいとい
うのが、入国在留管理庁新設の理由のひとつだ。

私の手元に西日本新聞の連載が書籍化された『新移民時代』(明石書店)
がある。留学生や技能実習生の実態が具体的事例で説明されており、現実
の深刻さが伝わってくる。

75万人に上る事実上の移民

たとえば殆ど日本語能力のない学生が、日本語資格証明書などの偽造書類
を提出して諸国の中で一番働ける日本に留学する。留学生は週28時間労働
まで合法である。しかし留学に係る借金の返済や、家族への仕送りのため
に、多くの留学生はもっと働かなければならない。というより、最初から
出稼ぎ目的の留学生は少なくない。

もっと働くために彼らが活用し始めた方法が難民申請だ。審査結果は半年
から1年後に出るが、その間にフルタイムで働ける特定活動の在留資格が
得られる。申請が却下されたら異議申し立てを繰り返し、特定活動の資格
で働き続ける。その間に就職できれば就労ビザに切り替える。こうして彼
らは事実上の移民となる。

無論、名目どおりに大いに学ぶ留学生もいる。だが、留学生や技能実習生
の実態は日本における外国人受け入れの無防備さを示している。

実は日本はこの他にもっと深刻な外国人問題を抱えている。シンクタンク
「国家基本問題研究所」が12月3日、緊急政策提言として発表した75万人
に上る事実上の移民の存在である。国会での議論もメディアによる報道も
ないまま、法務省の匙加減ひとつでこの20年間に急増した、一般永住者の
問題である。

日本の永住者は右の一般永住と特別永住の2種類に分かれる。後者は戦前
日本が朝鮮半島や台湾を統治していたという特別の事情から、日本に居住
していた朝鮮半島や台湾出身者に、まさに「特別に」与えた在留資格だ。
彼らには選挙権はないが、その余の事については日本人とまったく同等の
権利が与えられている。

大きな潮流として、彼らは、3世4世になるに従って日本に帰化したり、日
本人との婚姻で日本国籍を取得したりして減少し、その数は現在33万人程だ。

問題なのが前述の一般永住者である。1998年に9万人だったのが、20年間
で8倍以上の75万人にふえた。国基研研究員、西岡力氏の調査によると、
中国人が最多で25万人、次にフィリピン人の13万人、ブラジル人11万人、
韓国人7万人と続く。

一般永住者は歴史的に日本と特別な関係にあるわけではない。にも拘わら
ず、特別永住者同様、選挙権がないだけで日本国民と同じ権利を与えられ
ている。滞在期間は無制限で、働く権利も働かずに生きる権利もある。政
治活動も全く自由だ。

日本には北朝鮮の金正恩委員長に忠誠を誓う在日本朝鮮人総連合会(朝鮮
総連)があるが、彼らは日本で多くの権利と自由を保障されていながら、
法を破り官憲の捜索を受けたりする。日本人を拉致した独裁国の北朝鮮を
賛美し、歴史問題では事実を歪曲して日本を非難する勢力を支えもする。
一般永住者の3分の1を占める中国人が、中国版朝鮮総連のような組織を作
ることも、現行法では可能なのである。

中国人留学生が集結

一般永住者が急増した背景に橋本龍太郎内閣の下での規制緩和の流れが
あった。98年、法務省が入管法22条の解釈を変えたのである。それまでは
一般永住の許可要件は日本で20年間、社会のよき一員として暮らした実績
が必要とされた。これがいきなり10年に短縮され、さらに特別の技術を
持っている人材は5年で是とされた。この件は国会で審議されたわけでも
ない。メディアで公に議論されたわけでもない。法務省の行政判断による
ものだった。その結果、誰も気づかない内に事実上の移民が75万人にふえ
た。繰り返すが、その3分の1が中国人である。

中国政府は2010年に国防動員法を定めたが、控えめに言ってもこれはかな
り危険な法律である。有事の際、在外中国人は中国共産党政権の命令に従
わなければならないと定めている。ここまで言えば、多くの人の脳裡に北
京五輪の聖火リレーが長野県を通過したときの事件が蘇るのではないか。

その年、チベットの人々は中国共産党の弾圧の凄まじさを世界に訴えよう
と考え、日本の支援者も思いを共有し長野に集った。するとあっという間
に4000人規模の中国人留学生が集結し、五星紅旗が林立したのだ。彼らは
チベット人や日本人支援者を取り囲み、ひどい暴力を振るったが、この大
量動員は驚くべきネットワークを中国大使館が作り上げていて初めて可能
だったはずだ。

中国共産党は外国で自国民を一気に集結させ、暴力行為に走らせるのだ。
中国政府はその後、先述の国防動員法を整備した。このような法律に縛ら
れた中国人一般永住者が自衛官を上回る数、日本に存在する。そのことの
意味の深刻さを私たちは知るべきだ。

現在審議中で10日にも成立する出入国管理法改正案には、一般永住者の資
格要件に関する付帯決議をつけるべきだ。「入管法22条の厳格な運用」を
書き込み、法務省の行政判断を以前の在日歴20年に戻すべきである。

『週刊新潮』 2018年12月13日号 日本ルネッサンス 第831回

◆紫式部と蕪村の「和紙」

毛馬 一三


書き出しは、大阪俳人与謝蕪村のことからだ。蕪村(幼名:寅)は、生誕地大阪毛馬村で幼少の頃、母親から手ほどきをうけて高価な「和紙」を使って「絵」を描いて、幼少時期を楽しんでいたことを、知った。

寅は、庄屋の子供だったから、高価な「和紙」を父から自在に貰って、絵描きに思いのままに使ったらしい。

その幼少の頃の絵心と嗜みが、苦難を乗り越えて江戸に下り、巴人と遭遇してから本格的な俳人となったのも、この幼少の頃「和紙」に挑んだ「絵心」とが結び付いたらしい。

さて、本題―。

高貴な「和紙」の事を知った時、ジャンルは違うが、紫式部が思い切り使って「和紙」を使って「世界最古の長編小説・源氏物語」を書いたことを思い出した。

そのキッカケは、福井県越前市の「和紙の里」を訪ねてからである。

越前市新在家町にある「越前和紙の里・紙の文化会館」と隣接する「卯立の工芸館」、「パピルス館」を回り、越前和紙の歴史を物語る種々の文献や和紙漉き道具の展示、越前和紙歴史を現す模型や実物パネルなどを見て廻った。

中でも「パピルス館」での紙漉きを行い、汗を掻きかき約20分掛けて自作の和紙を仕上げたのは、今でもその時の感動が飛び出してくる。

流し漉きといって、漉舟(水槽)に、水・紙料(原料)・ネリ(トロロアオイ)を入れてよくかき回したあと、漉簀ですくい上げ、両手で上下左右に巧みに動かしていくと、B5くらいの「和紙」が出来上がる。まさにマジックの世界だ。

ところでこの越前和紙だが、今から約1500年前、越前の岡太川の上流に美しい姫が現れ、村人に紙の漉き方を伝授したという謂れがある。

山間で田畑に乏しかった集落の村人にとり、紙漉きを伝授されたことで、村の営みは豊かになり、以後村人はこの姫を「川上御前」と崇め、岡太神社(大瀧神社)の祭神として祀っている。

<その後大化の改新で、徴税のため全国の戸籍簿が作られることとなり、戸籍や税を記入するために必要となったのが「和紙」である。そのために、越前では大量の紙が漉かれ出したという。

加えて仏教の伝来で写経用として和紙の需要は急増し、紙漉きは越前の地に根ざした産業として大きな発展を遂げてきている>。

さて長編小説「源氏物語」の作者紫式部は、執筆に取り掛かる6年前の24歳の時(996年)、「和紙」の里・越前武生に居住することになり、山ほどの「和紙」に囲まれて、存分に文筆活動に励んだ。

当時、都では「和紙」への大量の需要があったらしく、宮廷人も物書きも喉から手が出る程の「和紙」だったが、手には入らなかった。

ではどうして都にいた紫式部が、遥か離れた「和紙」の里越前の武生に移住してきたのか。それはご当地の国司となった父の藤原為時の“転勤”に関わりがある。文才だけでなく、商才に長けた為時の実像が浮かび上がる。

<為時は、中級の貴族で、国司の中で実際に任地へ赴く“転勤族”だったそうで、996年一旦淡路の国(下国)の国司に任命されるが、当時の権力者・藤原道長に賄賂の手を使って、転勤先を越前の国(上国)の国守に変更してもらっている。はっきり言えば為時は、淡路の国(下国)には赴任したくなかったのだ。何故なのか。

当時、中国や高麗からの貿易船が日本にやってくる場合、海が荒れた時や海流の関係で、同船団が「越前や若狭」の国を母港とすることが多く、このため海外の貴重な特産品が国司のもとに届けられ、実入りは最高のものだったという>。

藤原為時一族は、中級の貴族ながら文才をもって宮中に名をはせ、娘紫式部自身も為時の薫陶よろしく、幼少の頃から当時の女性より優れた才能で漢文を読みこなす程の才女だったといわれる。

これも商才に長けたばかりでなく、父親の愛情として、物書きの娘に書き損じに幾らでも対処できる「和紙」提供の環境を与えたものといわれる。

<この為時の思いは、式部が後に書き始める「源氏物語」の中に、武生での生き様が生かされている。恐らく有り余る「和紙」を使い、後の長編小説「源氏物語」の大筋の筋書きをここで書き綴っていたのではないだろうか。平安時代の歌集で、紫式部の和歌128 首を集めた「紫式部集」の中に、武生の地で詠んだ「雪の歌」が4 首ある。

越前武生の地での経験が、紫式部に将来の行き方に影響を与えたことはまちがいない。と同時に式部は、国司の父親のお陰で結婚資金をたっぷり貯め込むことも成し遂げて、約2年の滞在の後、京都に戻り、27歳になった998年に藤原宣孝と結婚している>。

越前武生の生活は、紫式部にとり「和紙」との出会いを果たして、後の世界最古の長編小説への道を拓くことに繋げた事は、紛れもない事実であろう。

<紫式部の書いた「源氏物語」の原本は現存していない。作者の手元にあった草稿本が、藤原道長の手によって勝手に持ち出され外部に流出するなど、「源氏物語」の本文は当初から非常に複雑な伝幡経路を辿っていたという。

確実に平安時代に作成されたと判断できる写本は、現在のところ一つも見つかっておらず、この時期の写本を元に作成されたと見られる写本も、非常に数が限られているという>。
 
この歴史の事実と筆者の推論を抱きながら、「紫式部公園」に回り、千年前の姿をした高い式部像に対面してきた。

北京五輪の開会式の時、中国の古代4大発明の一つとして「紙」を絵画の絵巻をCGで描き、国威を高らかに示した。

この紙が7〜800年後に日本に渡り、「和紙」となった。その後、「世界最古の長編小説を書いた女性が日本にいた」ということは、中国は勿論諸外国は知らない。

参考:ウィキペディア、: 青表紙証本「夕顔」 宮内庁書陵部蔵 
(加筆再掲)