2018年12月13日

◆日本文明の核であり続けてきた皇室と天皇

櫻井よしこ


「日本文明の核であり続けてきた皇室と天皇 民族の記憶に刻まれた伝統
を大切にすべきだ」

11月27日、都内で「天皇陛下御即位三十年奉祝委員会の設立総会」が開か
れた。政府を代表して菅義偉官房長官が「憲政史上初の、天皇陛下のご退
位と皇太子殿下のご即位」に向けて、万全の準備を整えると語り、政財
界、言論界からも藤原正彦氏らが、御代替わりについての思いを語った。

江戸時代の光格天皇以降、譲位による御代替わりは今上陛下が初めてだ。
今上陛下は30年間、国民と触れ合い、戦跡地を訪れ、国民に勇気を与え慰
めをもたらして下さっている。各地へのおでましがどれ程多くの人々の心
をあたたかく包んで下さったことか。互いに労り合いながら行幸啓を続け
られる両陛下には、深い感謝の念を抱かずにはいられない。

日本の長い歴史の中で、皇室と天皇は日本文明の確固とした核であり続け
ている。恵まれないときもあったが、皇室は常に権力ではなく権威とし
て、日本国の揺るぎない基盤であり続けた。日本が危機に陥る度、皇室が
中心になって、国民をまとめ、国を守り通してきた。明治維新のときや大
東亜戦争の終戦時に果たしたお役割が記憶に残る事例である。

直近では、東日本大震災のときの天皇陛下の「お言葉」を思い出せばよ
い。1000年に一度の大災害に打ちひしがれていた国民は、「お言葉」に
よってどれ程元気づけられたことか。

このような天皇のお役割とその意義、国民の心にもたらす「効果」は、お
一人お一人の天皇のお力だけから生まれるものではないだろう。天皇の背
景に長い歴史があって、初めてお言葉に万人の心に訴えかける力が生まれ
るのではないか。

皇室は、早くも聖徳太子の時代、つまり七世紀初めには貧しい人、親のい
ない子供たち、身寄りのないお年寄りのための救済施設を造っていた。そ
れらは聖武天皇の后、光明皇后の力によって施薬院、悲田院となり、病と
貧困に苦しむ民の救済施設として定着し、やがて全国に広がった。その善
き伝統は、平成の現在も藤楓協会として連綿と続いている。

天皇と皇室が民の幸福と国家の安寧のために祈り続けて下さっているお姿
が、長い歴史を通して浮かび上がってくるのが日本であり、このような背
景が日本民族の記憶に深く刻まれているからこそ、天皇陛下のお言葉は、
国民の心にスッと沁み込んでくる。大切にするべきはこうした伝統である。

皇室の伝統と価値観は紛れもなく日本の神話と一体化したものだ。御代替
わりの儀式は、これら神話の時代の伝統にのっとるのがよい。昭和天皇崩
御のときの「大喪の礼」では、反皇室の人々が憲法20条3項を盾に、政教
分離と称して、儀式の簡略化や変更を求めた。だが政教分離は宗教に対す
る圧迫や干渉を禁じているのであり、政治に一切の宗教色を持たせてはな
らないという意味ではない。そもそも神話の時代からの伝統を宗教だと断
じて切り捨てること自体、間違いである。200年振りの御代替わりの儀式
は、大喪の礼のときよりもまともに伝統を踏まえるべきだと考える。

もうひとつ大事なことは、今上陛下に残り数カ月の内に、靖国神社にご親
拝いただくことだ。春や秋の例大祭で陛下は勅使を靖国神社にお遣わしに
なっている。しかし、30年間にわたる平成の御世で、一度も陛下ご自身が
靖国神社にお運びにならないとは、どういうことかと思う。

幾百万の兵は、日本国に殉じた命である。彼らの霊が眠る靖国神社には、
いまや、首相も真榊料で済ませ、閣僚の誰一人参拝せず、天皇のご親拝も
ない。このようなことでは、日本国は長く持つまい。御代替わりの前に、
天皇、皇后両陛下のご親拝をお願いし、その道を開くために、安倍晋三首
相以下、全閣僚の参拝を実現すべきだと考える。

『週刊ダイヤモンド』 2018年12月8日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1259


◆健康百話 点滴で自宅治療(前編)

寺内孝子(看護師)

点滴をしながら自宅で生活する方法についてお話いたします。

これは「在宅中心静脈栄養法」と言われ、病気等により口から栄養が取れない場合、口から食べても腸が栄養を吸収しない場合など様々な原因で栄養が取れない方に、太い血管に細いカテーテルを通してそこから濃度の高い栄養剤を点滴する方法なのです。

自宅に帰られる場合、埋め込み式のカテーテルを使用すれば、点滴をはずし自由に過ごす時間を作ることができやすくなります。

今回は最近関わった方の事例にあげて、私達の仕事を紹介します。
Aさんは80歳すぎの女性です。「在宅中心静脈栄養法」で在宅療養を送ることになりました。入院中やっと手押し車で歩ける程度に回復されましたが、自分で点滴の管理する事が難しく、同居されている娘さんの手助けが必要でした。

そこで娘さんを中心にお話を進め、まず介護保険の申請をしてもらいました。介護保険の認定がおりるまでには1ヶ月以上かかりますが、サービスが使えなければ自宅に帰ることができません。そこで前倒しという方法を使い、サービスを利用できるようにしました。

娘さんはしっかりされた方でしたが、「在宅中心静脈栄養法」をするには、訪問看護師に定期的に手技の確認や異常がないかを見てもらう「訪問看護」を利用するほうが安心できます。

また自宅から今の病院は遠く、何かあった時にすぐ相談でき、定期的に診察に来てもらえる「かかりつけ医」があったほうが、さらに安心できます。

トイレには手すりもないので立ち上がるために手すりをつけてもらうことやポータブルトイレ・介護ベッドも必要でした。そこで自宅から近いかかりつけの医・訪問看護師・ケアマネージャーをいくつか紹介し、家族の方に選んでもらいました。(前編)
                  大阪厚生年金病院 

2018年12月12日

◆兇獣が跋扈する国際社会の闇

加瀬 英明


トルコのサウジアラビア総領事館を訪れたアメリカに亡命中だったサウジ
アラビアの反体制ジャーナリストのジャミル・カショギ氏が、本国から派
遣された情報機関のチームによって、館内で惨殺された。

日本のテレビのワイドショーによって、連日、大きく取りあげられた。

トルコの新聞によって、カショギ氏が総領事館内で殺害されたと報じられ
てから、アメリカのポンペイオ国務長官が、カショギ氏殺害の疑いをめ
ぐって、サウジアラビアに急いで飛んで、実権を握っている33歳のモハ
マド・ビン・サルマン皇太子と会見した。

この時のポンペイオ長官とサルマン皇太子の写真を見ると、2人とも微笑
んでいる。

トランプ政権は、カショギ氏惨殺が事実であっても、サウジアラビアが中
東外交の重要な駒であり、武器輸出の大切な顧客であることから、大事
(おおごと)にしたくないと望んでいた。

サウジアラビア政府は殺害を隠蔽できず認めたが、政府や、皇太子の指示
によるものでなく、情報機関が勝手に行ったと言い逃れている。

読者の多くが、サウジアラビアに対してだけでなく、ポンペイオ長官が満
面の笑顔をつくって、サルマン皇太子と握手を交したのを見て、不快感を
いだかれただろう。

それなら、トランプ大統領が笑顔を浮べて、北朝鮮の金正恩書記長を抱擁
したのは、どうなのか。金書記長は異母兄の金正男(キムジョンナム)氏を
マレーシアで、白昼、暗殺したではないか。

トランプ大統領は、中国の習近平主席とも抱きあった。中国は新疆ウイグ
ル自治区で100万人以上を「集団訓練所」に拘置して、多くのウイグル人
を虐殺している。チベット、内モンゴルでも、戦慄(せんりつ)すべきこと
が起っている。

ところが、トランプ大統領が金書記長や、習主席と親密に振る舞っている
映像を見ても、強い嫌悪感に覚えることがないだろう。

ロシアのプーチン大統領も、国外に亡命した多くの反体制派を、暗殺して
いる。

私たちの日常生活の感覚で、諸外国を判断してはならない。サウジアラビ
アは、中国、北朝鮮や、ロシアと体質が変わらない国家だ。

世界は日本国憲法の前文で、たからかに謳(うた)っている、「公正と信
義」を重んじる「平和を愛好する諸国民」によって、構成されているわけ
ではない。国際社会は兇獣が横行するジャングルと、変わらないのだ。

私はこれまで、今年に入ってから2回にわたって、サウジアラビアが安定
を保てない可能性が高いと、警告してきた。

サルマン皇太子は、サウジアラビアの“脱石油化”をはかって、きらめく近
代国家に造り変えようとする、壮大な計画を進めてきたが、私は皇太子の
改革が成功するはずがないと、予想してきた。

カショギ氏はメディアが伝えているような、自由主義のジャーナリストで
はない。アル・カイーダや、ムスリム同胞団が信奉するイスラム原理主義
に加担して、サウジ王家が民意を踏み躙(にじ)っていることを、亡命先の
アメリカから激しく非難してきた。

サルマン皇太子がカショギ氏を目障わりだとして、計画的に殺害したの
は、人口2400万人あまりのサウジアラビアの安定がきわめて脆いことを、
示している。

皇太子が82歳で、病んでいるサルマン父王によって、罷免される可能性も
あろう。これまでサルマン国王は2人の皇太子を、解任してきた。

サウジアラビアをめぐる報道を、対岸の火災として見てはならない。日本
はサウジアラビアを中心とするアラビア半島の産油諸国から、日本経済を
支える石油天然ガスの80%を輸入している。アラビア半島が混乱に陥った
ら、日本が大きく蹌踉(よろめ)くことになろう。

日本のテレビの「ワイドショー」は「ショー」(英語で見世物)の言葉通
り、視聴者の好奇心だけみたす娯楽番組でしかない。


◆強まる中国の脅威、必要な台湾人の団結

櫻井よしこ


米中貿易戦争が展開され、私たちは米国的自由と民主主義の世界を維持す
るのか、それとも中国共産党的全体主義の世界に突入するのか、せめぎ合
いの中にある。米国が単なる経済的な損得の争いをはるかに超える、価値
観の戦いを意識して対中政策を強めるいま、台湾の持つ意味はこれまで以
上に大きい。

11月24日の地方選挙で台湾の与党、蔡英文総統が党主席を務める民進党が
大敗したことの意味は深刻だ。22の県及び市のうち、民進党は13の首長を
確保していたが、半分以下の6になった。人口の約7割を占める6大都市で
も、民進党は4から2に半減した。総得票数は民進党が490万票にとどまっ
たのに対し、国民党は610万票を取り、120万票の差をつけた。

24日夜、選挙結果を受けて記者団の前に現れた蔡氏は、いつものように地
味なパンツスーツに身を包み、メモに書かれたメッセージを読み上げた。

「努力不足で、支持者を失望させた」

蔡氏は大敗の責任をとって党主席を辞任したが、表情はかたく、質問も受
けずに退席した。

2016年1月の総統選挙で大勝利をおさめ、集った群衆に「台湾の新時代を
共に迎えよう!」と呼びかけたあの蔡氏が、なぜ、いま、大敗なのか。評
論家の金美齢氏は、台湾の有権者が台湾の置かれている立場を理解してい
ないからだと批判する。

「2年前、台湾人は蔡英文に台湾の運命を担わせた。それは中国と対峙す
るという意味で、非常にきつい仕事ですよ。それなのに、皆でつまらない
ことを批判したのです。有権者が愚かですよ」

日本に住んでいると、台湾が中国の脅威にさらされていることは客観的に
見てとれる。脅威に打ち勝つために台湾人がしなければならないことも、
よく見える。それは、台湾自身の力をつけ、台湾人が一致団結して、国家
の危機に当たることだ。

台湾の本省人の政権を守り通さなければ、台湾の現状は守りきれない。外
省人、つまり国民党による政権奪取を許せば、前総統の馬英九氏のよう
に、中国との統一に傾いていくだろう。従って、今回のような民進党の大
敗、国民党の大勝は、台湾の未来を思う立場からは、大変な衝撃なのである。

住民投票に疑いの目

台湾の人々はどんな未来を望んでいるのだろうか。地方選挙と同時に行わ
れた10件の住民投票から幾つか大事なことが読みとれる。住民投票の対象
になったテーマのひとつは、「台湾」名義で東京五輪に参加を申請するこ
とだった。

結果は、反対が577万票、賛成が476万票で、結局否決された。実は日台間
の水面下の話し合いの中で、東京五輪には、「台湾」名義で参加できるよ
うに工夫が重ねられていた。国際オリンピック委員会の意向もあるため、
結果がどうなるかは必ずしも予想できないが、台湾に強い親近感を抱く日
本人としては、台湾人が望めば「チャイニーズ・タイペイ」ではなく「台
湾」名で五輪に参加できるようにしてあげたいと思うのは自然であろう。

だが、住民投票で否決されたいま、中国を刺激することを恐れている人々
が半分以上で、「台湾」名での参加の可能性はなくなった。それにして
も、なぜ、このテーマが住民投票にかけられたのか。

もう一点、福島など原子力災害関連地域の食品輸入禁止措置を継続するか
否かも住民投票のテーマにされた。福島の食品は、米であろうと果物であ
ろうと海産物であろうと、厳格な検査を受けて合格して初めて出荷とな
る。福島の食品は世界一安全なのである。しかし、そのような厳しい検査
が実施されていることを、台湾の消費者は知らないだろう。

蔡氏自身は福島の食品の輸入解禁に前向きだったとの情報もある。ただ、
決断できずにいる内に、住民投票のテーマとされた。安全性についての情
報が伝えられない中で住民投票になれば、否定的な結果になるのは予想の
範囲内だ。輸入禁止続行への支持が779万票、反対は223万票、大差で否決
された。

台湾側に熱心に働きかけてきた日本人の気持ちは失望と落胆にとどまらな
い。非科学的な結論に不満も高まる。日台関係を冷え込ませようと考える
勢力にとっては歓迎すべき結果であろう。

台湾では大陸中国からの情報工作要員が暗躍している。メディアやビジネ
ス分野のみならず、軍にも工作員が浸透していると考えてよいだろう。彼
らは、台湾を日米両国から引き離すのに役立つと思われるすべての事をす
るだろう。そう考えれば、住民投票にも疑いの目を向けてしまうのである。

外交でも中国の圧力

16年5月の総統就任から2年半、蔡氏は、内政において少なからぬ中国の妨
害を受けてきたが、外交でも中国の圧力に苦しんできた。

中国はひとつであると中台双方が1992年に認めたとする、いわゆる「92年
コンセンサス」を受け入れない蔡氏に、中国は猛烈な圧力をかけ続ける。
国際社会で台湾を国として認めてくれる国を、次から次に台湾との断交に
誘い、中国との国交樹立に向かわせた。蔡氏の総統就任以降、5か国が中
国の巨大援助を受けるなどして、台湾を見捨てた。今、台湾と国交を持つ
国は17を数えるだけだ。

台湾を国際的孤立に追い込むことで、中国は台湾人や台湾軍の士気を奪
い、中国への恐怖心を植え付ける。中国が得意とする心理戦だ。

こうした背景の下、中国は台湾侵攻を念頭に軍事力の構築に余念がない。
米国防総省は例年、「中国の軍事情勢」に関する年次報告書で中国と台湾
の戦力比較を行っているが、中台の軍事力の差は年ごとに拡大し続けている。

米国は、今年に入って、台湾旅行法を定め、国防権限法を成立させた。両
法を通じて、台湾への外交、軍事両面からの支援を明確に打ち出した。

日本にとってアジアの地図はどのように変化していきつつあるのか。民進
党が大敗したとはいえ、台湾人が簡単に国民党の政権復帰を許し中国へ傾
斜していくとは思えない。それでも、台湾の動揺と、その先の台湾有事は
十分にあり得ると見ておくべきだろう。

朝鮮半島もまた危うい。韓国はさらに迷走を続けると見ておかなければな
らない。北朝鮮に従属する結果、大韓民国が消滅することさえ考えておか
ねばならない。

台湾と朝鮮半島に予想される大変化に備えて外交、安全保障上の担保を確
保しておきたい。なんとしてでも力をつけることだ。トランプ大統領が
NATO加盟国に要求するように防衛費をGDP比2%に引き上げ、自衛
隊の力を倍増する必要があるが、それは短期間では不可能だ。であればこ
そ、憲法改正の気概を見せることが欠かせない。

『週刊新潮』 2018年12月6日号 日本ルネッサンス 第830回

◆日米ともに道徳教育が不十分

                        K・ギルバート


【ニッポンの新常識】日米ともに道徳教育が不十分 戦後「修身」は
GHQが禁止 K・ギルバート氏 2015.04.04

世界一発行部数が多い書物は聖書である。60億冊から3880億冊まで諸説
あり、実数はよく分からない。明治維新以降、キリスト教徒が1%を超え
たことがない日本でも、過去に約3億5000万冊の聖書が頒布・販売された。

大ベストセラーはよく「聖書の次に売れた」などと評される。近年では
『ハリー・ポッター』(シリーズ4億5000万部)や、『ダ・ヴィンチ・
コード』(8000万部)などが浮かぶ。

一番売れた日本語の小説は吉川英冶『宮本武蔵』の1億2000万部だそう
だ。漫画では、1位は尾田栄一郎『ONE PIECE』(3億8000万
部)、2位がさいとう・たかを『ゴルゴ13』(2億8000万部)…と続く。

さて、米国には全832ページ、厚さ約5・5センチ、重さ約1・2キロも
あるユニークなベストセラーがある。「第2の聖書」とも呼ばれ、3000万
部も売れ、私も1990年代に購入したこの本のタイトルは『The 
Book of Virtues』、道徳読本である。著者のウィリア
ム・J・ベネット博士は、レーガン政権時代に教育長官を務めた。

われわれが身に付けるべき「徳目」を10個選び、詩や寓話(ぐうわ)、
説話、名著などを引用して、学べる構成である。10個の徳目とは、「自
己規律」「思いやり」「責任」「友情」「勤勉」「勇気」「忍耐力」「正
直」「忠誠」「信仰」だ。

 米国では伝統的に家庭と教会が道徳教育を行う。家庭の道徳教育とし
て、子供にベッドで読み聞かせるのに合うため、巨大な本が大ベストセ
ラーになったのだ。


      

◆木津川だより 高麗寺跡 B

白井繁夫


飛鳥時代に創建されたと云われている古代寺院の「高麗寺跡こまでら跡」について、@では寺名が「高麗寺:こまでら」となった由来や時代の背景について、高麗寺跡Aでは発掘調査の出土品の中で、出土遺物の数量などが多くて年代を文様などから比較的に区分しやすい瓦(軒丸瓦.軒平瓦)から高麗寺について記述しました。

今回Bでは、昭和13年の第T期発掘調査の結果、国の史跡と認定された高麗寺跡の伽藍配置や瓦以外の出土品を精査して、V期調査まで(平成22年の第10次発掘調査まで)の間に確認された概要を下述します。

★高麗寺の創建は7世紀初頭、伽藍整備は7世紀後半、伽藍配置は法起寺式
  
 主要堂塔が東に仏舎利を祀る塔、西に本尊仏を祀る金堂を並置して、それを囲む回廊
が北の講堂、南で中門に接続している様式(南北回廊200尺:59.4m、東西201尺:
59.7mのほぼ正方形)
 高麗寺の伽藍配置は川原寺式から変化して法起寺式へと移行の初例と思われます。

★南門.中門.金堂が南面して一直線に並び、講堂の基壇が荘厳で特異な伽藍配置

川原寺式伽藍配置から法起寺式への変化の途上か?(添付の「各寺院の伽藍配置」参照)
高麗寺は西金堂の正面が南面し中門.南門と直線状に並びます。川原寺は北講堂.中金堂.中門.南大門は一直線状ですが西金堂は正面が東塔に対面しています。

(仏舎利を納めた塔より仏像を祀る金堂を重視する考え方か?
飛鳥時代から天平時代へと伽藍配置が変化する過程の先駆けではと思われます。)

高麗寺の講堂の基壇は三層構造の豪華さで、丁度川原寺の中金堂と同じ位置にあります。
高麗寺の初期設計時には講堂の場所に中金堂を予定していたのか?と思われるほど
基壇は荘厳な造りでした。
  
飛鳥時代、高麗寺が創建された時期には七堂伽藍を完備した寺院は飛鳥寺が国内では
唯一の寺院でした。その他の寺は一.二堂程度の草堂段階?(捨宅寺院?)であったと考えられています。

★高麗寺の南門の屋根には鴟尾があり、最古の築地塀が原形の状態で検出されました。

  南門跡は桁行20尺(5.94m)x 梁間12尺(3.56m)、屋根は切妻造りで鴟尾を
置いた八脚門、南門に接続する築地塀が南辺築地跡から原形を留めた、極めて良好な
状態で検出されました。

7世紀に築地塀が構築された例はいまだ検出されていません。8世紀の奈良時代になって  寺院の外画施設とする築地塀が一般的に用いられるようになったのです。

高麗寺の築地塀は7世紀後半のものであり、検出遺物は国内最古の出土物の例です。
白鳳時代の築地塀が残っていた事だけでも極めて珍しいのに、ラッキーにも壊れ方が建物の内側で原形を留めていたことです。

 (飛鳥寺南辺、川原寺南辺、東辺にも築地塀の存在説がありますが、現在も出土例は有りません。)

★高麗寺の終焉時期の推測

  文献上では廃絶が不明の寺院ですが、出土遺物の中から、平安時代の土器である灰釉陶器が見つかりました。この陶器から平安時代の末期頃(12世紀末から13世紀初)まで存続していたのではないかと云われています。

天武天皇は壬申の乱で功績のあった狛氏一族の氏寺の創建を認め、白鳳時代から奈良時代にかけて全盛期を迎えた高麗寺の状況ですが、聖武天皇が高麗寺の東方約3kmの瓶原(みかのはら)に恭仁宮を造営して、恭仁京(木津川市)へ遷都した頃(天平12年)、木津川の船上から見える高麗寺は南門の屋根には鴟尾が在り、当時は珍しい築地塀越に東塔が聳え西の輝く金堂など、当時の人々はこの大寺院を畏敬の念で仰ぎ見たことと思われます。

参考資料: 山城町史  本文篇  山城町
   南山城の寺院.都城 第106回 埋蔵文化財セミナー資料 京都府教育委員会
   木津川市埋蔵文化財調査報告書 第3.第4.第8集   木津川市教育委員会

2018年12月11日

◆新聞休刊日につき読書特集号

宮崎正弘


平成30年(2018年)12月110日(月曜日)通巻第5911号  


<<内容>>
石 平 『中国人の善と悪はなぜ逆さまか ――宗族と一族イズム』(産経
新聞出版)
加藤 健『朝鮮総連に破産申し立てを!』(展転社)
森田勇造『チンドウィン川紀行 ――インパール作戦の残像』(三和書籍) 
樋泉克夫のコラム―「支那の國ほど近付いてあらの見ゆる國は無し」
 ☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆
書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評BOOKREVIEW 
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 宗廟、宗族がわからないと中国の伝統文化の源流が理解できない
  中国原論の出発点は「戦争も腐敗も善となる」、怖ろしい論理に秘密
がある

  ♪
石平『中国人の善と悪はなぜ逆さまか ――宗族と一族イズム』(産経新聞
出版)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

元中国人の石平氏ゆえに書けた中国原論が本書だ。

ここで展開される宗廟、宗族のもつ歴史的意味がわからないと、中国の伝
統文化の源流が理解できない。「戦争も腐敗も善となる」という、日本人
にはとても理解しがたい、怖ろしい論理の秘密を本書はみごとに探り当て
た。この原論は世界に散った華僑の世界にいまも生きている。

華僑がマレーシアから引き離して独立させた人口国家はシンガポールだ。
今ではトランプ vs 金正恩の首脳会談やらシャングリラ対話の開催地
として、なんだか「国際都市」の好印象、グローバルシティのイメージが
あるが、どっこい、この華僑の都市になぜかチャイナタウンがある。

「チャイナタウン in チャイナタウン」である。

時間をかけてシンガポールの下町をゆっくりと町を歩くと奇妙なことに気
がつく。通りの名前だ。金門通り、寧波通り。。。。。。。。。
つまり出身地別に居住区が異なる。

広東省の省都・広州市のど真ん中に観光名所「陳氏書院」がある。立派な
お屋敷跡である。じつはこの陳氏書院とは陳氏宗廟なのである。

ミャンマーの下町に宏大に拡がるチャイナタウンも華僑の街だ。横丁を丁
寧にあるいてみると、ある、ある。李氏宗家とか、黄氏宗廟とか、一族の
名前が建物の入り口に冠されている。古都マンダレーへ行くと雲南会館と
か、四川友好会館とかの立派な建物があちこちに目に飛びこんでくる。

中国のいたるところ、宗廟があって、世界中に散った一族が集まる習慣が
いまも確然として残っている。

これが、宗族、日本人に分かりやすく言えば、「一族イズム」である。

 「中国人にとって、一族の利益、一族の繁栄はすべてであり、至高の価
値である。それを守るためにはどんな悪事でも平気で働くし、それを邪魔
する者なら誰でも平気で殺してしまう。一族にとっては天下国家も公的権
力もすべてが利用すべき道具であり、社会と人民は所詮、一族の繁栄のた
めに収奪の対象でしかない」(131p)。

だから「究極のエゴイズム」を追い求め、一族の誰かが権力を握れば、そ
れに群がり、もし失脚すれば、一族全員がその道連れとなって破滅する。

習近平と王岐山一族が、いま何をやっているか、なぜそうなのか。正に宗
族の論理によって突き動かされ、一族だけの利権を追求し、一族だけが繁
栄を究める。

結論的に石平氏はこう言う。

「中国共産党が『宗族』を殲滅したのではなく、むしろ、宗族の行動原理
は生き残った上で、党の中国共産党政権自身を支配する(中略)。中国に
おける宗族制度の原理の生命力はそれほど堅忍不抜なものであり、宗族は
永遠不滅なのだ」(185p)。

やれやれ、中国人が日本人の感性や規範、道徳、しきたりとまったく異な
る伝統を保持している理由が、この一冊で了解できるわけだ。
 毎回、新局面を開拓して読書人を興奮させてくれる石さん、次に挑んで
欲しいのは『習近平・水滸伝』でしょうかね?
      
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▲書評 BOOKREVIEW ▲書評 BOOKREVIEW 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜千
円盗むと「コソ泥」だが、1兆円以上も盗み出すと北では「英雄」
  朝鮮総連傘下の朝銀破綻になぜ公的資金が投入されたのか?

  ♪
加藤健『朝鮮総連に破産申し立てを!』(展転社)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

1兆3453億円!

この天文学的巨額の国民の税金が北朝鮮傘下の銀行が破産したため、公的
資金投入の結果、費やされたのである。「なぜ?」

当時、安倍晋三首相が国会で答弁している。

「(朝銀破綻は)破綻することがわかっているにもかかわらず、後で預金
保険機構あるいは公的資金が入ることを前提にどんどん貸していく。そし
て大きな穴をあけた」。

つまり「北朝鮮にカネが渡ることを前提として」、貸し手と借り手がグル
になっていた。しかも、このカネは北の核武装に使われた。馬鹿馬鹿しい
話である。

さらに驚くべき後日談がある。

平成11年7月6日、衆議院大蔵委員会で、朝銀大坂幹部が次の証言をした
のだ。

「預金を金正日に流したのだから逮捕を覚悟した。逮捕されたらすべてを
語るつもりでいたが、だれも調査に来ず、来たのは預金保険機構からの
3100億円の贈与であった、逮捕を免れた」

この日本にとっての赤恥、北朝鮮にとっては英雄であり、総連の元財政局
長は「共和国英雄」となった。まさに著者が言うように「1000円盗むと
『コソ泥』だが、1兆円巻き上げると『英雄』なのだ」。
著者は叫ぶように書く。

「朝鮮総連の前身はテロ組織である。戦後の苦しかった時代、日本国民に
襲いかかってきた」のだった。

当時の吉田茂首相は「好ましからざる朝鮮人は強制送還をぜひとも断行す
る」と答弁した。法務大臣は「不良朝鮮人を強制送還せよというのは国を
挙げての世論と言って良い」と記者会見している。

ところが。

総連は「いつの間にか、『弱者』、『被害者』に」化けてしまった。
かれらの犯罪を批判すると「民族差別」と糾弾される。現代の日本では本
末転倒の、不思議な議論がリベラルなメディアや政治家から出てきた。こ
れでは日本は亡国の奈落に転落してしまう。
秘策は何か?

それが「破産申し立て」という「外交カード」だと、本書は訴えるのである。
 
         
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 書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評BOOKREVIE 
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 あのインパール作戦の日本兵の墓を訪ね歩く鎮魂、慰霊の旅は続く
  ミャンマー奥地、誰も行かない秘境に取材許可がおりた 

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森田勇造『チンドウィン川紀行 ――インパール作戦の残像』(三和書籍)
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ミャンマー取材から帰国して山のように溜まっていた郵便物のなかに、著
者森田氏から贈られてきた当該書が紛れ込んでいた。すぐに手に取った。
 
じつは本書を読む3日前に、なにかの偶然だろうが、ヤンゴンでアウンサ
ン博物館を見学し、スーチーの父親(ビルマ独立の父)の業績に触れてき
たばかりだった。この博物館はヤンゴンの高級住宅地の丘の上にあってア
ウンサンの旧宅を改造し、中庭も綺麗に整えた観光名所となった。

さて著者の森田勇造氏と評者(宮崎)は、かれこれ半世紀近い交遊がある
が、よく飲んでいるわけではなく、氏は殆どアジアの少数民族の研究のた
め、海外にでている。

氏は評者より6歳年上だから、老衰が心配になるが、いたって元気。その
フットワークの強きこと。健脚に拠るからだろうが、日頃から毎日最低1
万歩、都内を歩いて仕事をしている猛者でもある。

森田氏が日本にいるときは青少年交友協会理事長でもあり、全国各地で
「歩け歩け」運動の「徒歩き(勝ちあるき)大会」の主催者でもある。氏
は若き日に北欧無宿を続けた先駆者として当時から話題の人でもあった。
すでに世界142ヶ国を歩き回り、上梓した著作は数十を数える。

さて本書だ。

ミャンマーの古都マンダレーへ飛んだところから、この難航をきわめた取
材が始まる。同行したのはNHKBSの取材班で一行四人に現地通訳ガイ
ドの女性。マンダレーは雲南華僑の街でもあるが、中国の投資によって国
際空港がひらかれ、町へはいると中国語が氾濫している。

走るオートバイは殆どが中国製、ホンダはあまり見かけない。電気製品か
ら雑貨までメイドインチャイナ、早朝から開店するゴールドショップに
は、華僑が前日の売り上げを持参して金を買って行く。
つまりミャンマーの通貨を信じていないのである。
 
それはともかく、森田氏の旅の目的はインパール作戦で散った英霊たちの
鎮魂。

マンダレーを南下した地点でミャンマーを縦断する二つの大きな河川が合
流し、ヤンゴンのデルタ地帯に注ぎ込むエーヤワディー川(イラワジ)と
なる。合流するまでの上流が、「チンドウィン川」だ。つまり本書の表題
となった長い河川だ。

一行は、このチンドウィン川を遡行して、各地に古老を訪ね、昔話を根気
よく聴きながら日本人兵士の戦跡とお墓、あるいは戦没碑のありかを訪ね
歩く。

旅はモンユワ、シュエジン、カレワ、モーライク、シッタン、タウンダッ
ト、ホマリン、そしてトンへと続く。この川沿いに日本英霊がおよそ二万
から3万人が眠っているとされる。

しかも多くが戦病死だった。

そのうえ遺体の多くが行方不明、日本に還っていない。

 ただし、ミャンマーの仏教と日本の仏教の差違が鎮魂儀式と後処理の方
法を決定的にわける。

森田氏が言う。

「ミャンマーは小乗仏教のため「人は死んでは生まれ変わるという輪廻転
生を信じ、死体や遺骨は汚物でしかなく、川や池に捨てるか、荼毘に付し
て捨てるか、ゴミとして地下に埋めます」。だから墓を造らない。日本兵
の遺体の多くがチンドウィン側に流された。そたがってお墓はない。

これら一帯はインドと国境を接する少数民族の棲息地帯でもあり、取材許
可がなかなかおりなかった理由も納得できる。

行く先々に日本人兵士の眠る記念碑や、戦後、訪ねてきた日本人が建立し
た墓地やパゴダや、石碑があった。卒塔婆も残っていた。

インパールに散った英雄たちの荒霊(あらみたま)はまだ安眠していない。

        
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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1825回】            
――「支那の國ほど近付いてあらの見ゆる國は無し」――關(9)
關和知『西隣游記』(非売品 日清印刷 大正七年)
 
         ▽
なぜ日米の間で、ここまで差がついてしまったのか。

アメリカは「義和團事件賠償金1200弗を支那に還附して之を?育資金と爲
し」、留学生100人を受け入れ教育した。こうして「支那人の2國(日
米)に對する感情の相異」が生まれてしまった。

「今日に状勢を放置せば、支那に於ける日本語の勢力の次第に衰退すると
同時に、英語の勢力倍々増大し、自然の結果、國際場裡に於ける日米の位
置は遠からず一變するべきや明らかなり」。

アメリカは中国各地に高等教育機関を設け、「その秀俊なるものを抜擢し
て米國に送り、高等の學問研究に從事せしむ」。かくてアメリカの大学で
は「殆んど支那留學生を見ざる無しと聞く」。20年前には日本人留学生に
向けられていた関心は冷めてしまい、いまや「米國上下の支那人?育」に
移ってしまった。他国と違ってアメリカは「常に公正仁義の主張を持し、
博愛慈善の方面に活動して、毫も領土若くは利權に對する野心なき態度」
で接するが故に、「大いに支那人の信用を得、その歡心を得たる」のだ。

翻って日本をみるに、「政治的には高壓武斷主義を援け、眼前の利權獲得
に營々たる外、何等高尚にして遠大なる經綸無く、然して社會的には常に
支那人を輕侮して速成營利主義の?育を以て支那留學生に對する我日本の
態度が、倍々以て支那人の反感と疑惑とを招」くばかりか、「日支親善の
押賣りによりて愈々支那人を遠ざかりらしむる如き實状は上下の共に覺悟
し反省すべき所ならずや」。

振り返ってみるなら、大正の時代に日本側が「日支親善の押賣り」したと
ころ、「愈々支那人を遠ざかりらし」めてしまった。

ところが北京に共産党政権が生まれて以降は「子々孫々までの日中友好」
の押し売りを始める。そうなった時、その押し売りを日本人は唯々諾々と
受け入れてしまった。

いったい何故なんだろうか。戦争という大問題があるからか。大正の日本
人の「押賣り」が下手なのか。共産党政権の宣伝工作が巧妙なのか。それ
とも日本人が歴史から教訓を学ばず、余りにもオヒトヨシに終始してからか。

さて關に戻る。

じつは「日本の外交は今實に危機に瀕せり」と「覺悟し反省すべき」を口
にする日本人が關らの前に現れたというのだが、それが「我が北京公使館
有力者」だったというから開いた口が塞がらない。

この「公使館有力者」もまた外交の危機を招いた当事者の1人であろう
し、危機を回避すべく獅子奮迅の働きをすべき当事者だろうに。どうや
ら、この種の天に向かってツバするような所業が我が外交当局の『伝統
芸』の1つ。つまりはオ役所特有のやっつけ仕事。それにしても昔も今
も・・・情けない。いやバカバカしい話だ。

本来の使命を他人事で済まそうとする無責任・・・外交官失格!即刻退場!

關だが北京では英字新聞の「北京カゼツト新聞の如きは一年360日曾て一
日と雖も排日的記事の掲載を怠りたること無く、筆を極めて對日反感情の
鼓吹に力め居れり」。

同紙は「有名なる親米派の新聞にて、其發行紙數の如きも敢て多からざ
るは勿論なるも」、「その感化の及ぼす所決して輕視すべきに非ず」。こ
れに対し「國民の思想上、感情上に對する外交的用意として我が對支外交
は全く消極的なり、無能力なり、東亞大局の主人公たるべき帝國の現状實
に如斯岌々乎としてそれ危い哉」。

ここでもお役所仕事だ。

日本にとって最も手ごわい敵はアメリカであり、「将来支那に於ける米國
の勢力今より想見すべし」との警告は勿論すぎるほどに勿論である。

だが、北京政府部内に早稲田同窓生が多いというのなら、そのことを『素
朴・単純』に悦び誇っているだけではなく、直ちに早稲田人脈を動かすの
も一策だろう。

 やはり日本は「将来支那に於ける米國の勢力」の影響力を見誤った(軽
視した。等閑視した。全く気づかなかった)のか。
その後の悲劇の淵源は、ここにもある。確かに。

     

◆日本文明の核であり続けてきた皇室と天皇

櫻井よしこ


「日本文明の核であり続けてきた皇室と天皇 民族の記憶に刻まれた伝統
を大切にすべきだ」

11月27日、都内で「天皇陛下御即位三十年奉祝委員会の設立総会」が開か
れた。政府を代表して菅義偉官房長官が「憲政史上初の、天皇陛下のご退
位と皇太子殿下のご即位」に向けて、万全の準備を整えると語り、政財
界、言論界からも藤原正彦氏らが、御代替わりについての思いを語った。

江戸時代の光格天皇以降、譲位による御代替わりは今上陛下が初めてだ。
今上陛下は30年間、国民と触れ合い、戦跡地を訪れ、国民に勇気を与え慰
めをもたらして下さっている。各地へのおでましがどれ程多くの人々の心
をあたたかく包んで下さったことか。互いに労り合いながら行幸啓を続け
られる両陛下には、深い感謝の念を抱かずにはいられない。

日本の長い歴史の中で、皇室と天皇は日本文明の確固とした核であり続け
ている。恵まれないときもあったが、皇室は常に権力ではなく権威とし
て、日本国の揺るぎない基盤であり続けた。日本が危機に陥る度、皇室が
中心になって、国民をまとめ、国を守り通してきた。明治維新のときや大
東亜戦争の終戦時に果たしたお役割が記憶に残る事例である。

直近では、東日本大震災のときの天皇陛下の「お言葉」を思い出せばよ
い。1000年に一度の大災害に打ちひしがれていた国民は、「お言葉」に
よってどれ程元気づけられたことか。

このような天皇のお役割とその意義、国民の心にもたらす「効果」は、お
一人お一人の天皇のお力だけから生まれるものではないだろう。天皇の背
景に長い歴史があって、初めてお言葉に万人の心に訴えかける力が生まれ
るのではないか。

皇室は、早くも聖徳太子の時代、つまり七世紀初めには貧しい人、親のい
ない子供たち、身寄りのないお年寄りのための救済施設を造っていた。そ
れらは聖武天皇の后、光明皇后の力によって施薬院、悲田院となり、病と
貧困に苦しむ民の救済施設として定着し、やがて全国に広がった。その善
き伝統は、平成の現在も藤楓協会として連綿と続いている。

天皇と皇室が民の幸福と国家の安寧のために祈り続けて下さっているお姿
が、長い歴史を通して浮かび上がってくるのが日本であり、このような背
景が日本民族の記憶に深く刻まれているからこそ、天皇陛下のお言葉は、
国民の心にスッと沁み込んでくる。大切にするべきはこうした伝統である。

皇室の伝統と価値観は紛れもなく日本の神話と一体化したものだ。御代替
わりの儀式は、これら神話の時代の伝統にのっとるのがよい。昭和天皇崩
御のときの「大喪の礼」では、反皇室の人々が憲法20条3項を盾に、政教
分離と称して、儀式の簡略化や変更を求めた。だが政教分離は宗教に対す
る圧迫や干渉を禁じているのであり、政治に一切の宗教色を持たせてはな
らないという意味ではない。そもそも神話の時代からの伝統を宗教だと断
じて切り捨てること自体、間違いである。200年振りの御代替わりの儀式
は、大喪の礼のときよりもまともに伝統を踏まえるべきだと考える。

もうひとつ大事なことは、今上陛下に残り数カ月の内に、靖国神社にご親
拝いただくことだ。春や秋の例大祭で陛下は勅使を靖国神社にお遣わしに
なっている。しかし、30年間にわたる平成の御世で、一度も陛下ご自身が
靖国神社にお運びにならないとは、どういうことかと思う。

幾百万の兵は、日本国に殉じた命である。彼らの霊が眠る靖国神社には、
いまや、首相も真榊料で済ませ、閣僚の誰一人参拝せず、天皇のご親拝も
ない。このようなことでは、日本国は長く持つまい。御代替わりの前に、
天皇、皇后両陛下のご親拝をお願いし、その道を開くために、安倍晋三首
相以下、全閣僚の参拝を実現すべきだと考える。

『週刊ダイヤモンド』 2018年12月8日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1259

◆木津川だより 浄瑠璃寺A

                                白井 繁夫


大和と山城国の国境(京都府の最南端)の奈良山丘陵地の山間の地(当尾:とうのお)に、
「小田原山浄瑠璃寺」(木津川市加茂町西小)通称「九体寺」と呼ばれる寺院があります。この寺が「九体の国宝阿弥陀仏」を本尊として祀る、我国で唯一の寺院です。

この寺院へ行く道は、古来より東大寺の転害門(てがいもん)から般若寺を経て笠置街道を採る「般若坂越え」、つまり南から北方へのルートと北の京から南方へ木津川を遡行して加茂道の高田より丘陵を登って南の西小(にしお:西小田原)の集落へ行く道とがありました。(私は浄瑠璃口から南へ約2kmの登りの山道、浄瑠璃寺正門(北門)へ出る道を採りました)。

あまり車や人と出会わない山道を歩きやっと小さく開けた集落に着くと、無人のスタンドには農家の野菜や柿や芋があり、子供時代の遠い昔ののどかな雰囲気に浸っていた時、一時間に一本?のバスが到着し、行楽客?の一団の賑やかな会話となり、そのご一行様は三々五々静かに佇む寺院に吸い込まれて行きました。

「浄瑠璃寺」の創建は不明ですが、嘗ては西小田原寺とも云われ、天平11年(739)
聖武天皇の勅願により僧行基が開創したとか、また天元年中(978−983)多田満仲が開いたとも伝えられていますが、どちらも史料などによる正確な確証は得られていません。

浄瑠璃寺の創建、堂塔の建造.修理、法会(ほうえ)等や施行年などにつてのこの寺院の唯一の根本史料『浄瑠璃寺流記事』、観応元年(1350)寺僧長算(ちょうさん)が、当寺の釈迦院に蔵されていた本をもとに転写し、「釈迦院本の流記、貞和2年(1346)までと観応元年までを加筆、さらに末尾に15世紀の記事二つを長算が付け加えた史料(永承2年:1047〜文明7年:1475)」があります。

以後『流記事:るきのこと』と云う、を参照します。

「浄瑠璃寺」の創建は、永承2年(1047)7月18日義明(ぎみょう)上人を本願とし、
阿知山大夫重頼を檀那として本堂を造立しました。(一日で屋根を葺くと記しているから、最初は小さい本堂と推察されます。)

平安時代の後期になると、釈迦の入滅後、しだいに仏法が廃れ「永承7年(1052)末法の世に入る」と云う、「末法思想」が蔓延しました。この世を救いに来る薬師如来の信仰と現世を捨てて、極楽浄土に往生を遂げようとする「浄土信仰」も高まりを見せ、大和に近いこの山間に、興福寺の一部の僧達が、草庵を建て、修行に励み、教学にも精励しました。

60年後の嘉承2年(1107)正月11日、本仏(薬師如来像)などを西堂に移します。(本尊の移動は本堂を取り壊すため)。

「浄瑠璃寺」は、寺名となる薬師如来が最初の本仏です。一体の木造薬師如来像が当初からこの寺に伝わっており、薬師如来はこの仏の浄土である東方の瑠璃光(るりこう)浄土からの教主であり、この世の苦悩を救い、西方の極楽浄土の阿弥陀仏(来迎仏)へバトンタッチする遺送仏でもありました。

新本堂の建設には約1年半を費やし、翌3年6月23日総供養が導師迎接房経源(ごうしょうぼうきょうげん)、願主阿波公公深で執り行われました。

この時の九体の阿弥陀仏像が当寺院の本尊仏となりました。ただし、この新本堂(九体阿弥陀堂)は現在の場所ではなくて、九体阿弥陀堂と安置の国宝の仏像等はこれより50年後(保元2年1157)に現在の池の西岸に移築されました。

12世紀後半から13世紀にかけては浄瑠璃寺の寺勢が最も隆盛な時代でした。即ち、久安3年(1147)摂政藤原忠道の第1子の伊豆僧正恵信(えしん)の入寺から始まります。

興福寺一乗院門跡であった恵信は、興福寺別当職就任を覚晴に先に越されたのを不満に思い、この山中の小寺に入山して、当寺の延観上人の草庵に隠棲しました。

その後は恵信の力を持って、まず寺域の境界(四至:しいし)を定め、現在の伽藍の中心となっている苑池の原型を整え、浄瑠璃寺一山の守護とするべく、一乗院の法橋信実.寺主玄実父子の墓を寺内に築かせて、(後日)当寺は一乗院の御祈願所となり、興福寺末となりました。

恵信は、保元2年10月興福寺別当に補任されており、本堂を解体して現在の池の西岸に移築した年でもあります。現在見られる浄瑠璃寺の景観は恵信の時代、基本的に完成しました。

九体阿弥陀堂と浄土庭園の一体化を目指し、治承2年(1178)には京都の一条大宮から三重塔を移築して、公式どおりの東に薬師如来の三重塔、池を挟んで西に九体阿弥陀堂の浄土庭園を完成させ、堂宇や多数の仏像も造立されました。

これら一連の大事業は興福寺別当に就任した恵信が浄瑠璃寺に関りがあって尚且つ、摂関家の力を持ってはじめて可能にした大事業だったと思われます。

治承2年には鐘楼も建立され、翌年の11月には三重塔の完成供養を一印上人空心が法会の導師となって執り行われた。(空心上人は九条兼実:摂政関白.太政大臣.九条家の祖:に寺額を依頼できる実力者です)。現在の伽藍の中心である九体阿弥陀堂.苑池.三重塔がそろった輪奐の美が平安時代の末期にここに完成しました。

12世紀末の文治4年(1188)藤原氏の氏神「春日大明神」を請け鎮守とする。『春日大社文書』によると、当時山内には「凡(およそ)当山の住僧僅に80に及ぶ」とあり、80人の住侶を統制して行く組織が浄瑠璃寺では形成されていたと思われます。

鎌倉時代以降の浄瑠璃寺について、『流記事』より少し列挙してみます。

★ 建久5年(1194)〜元久2年(1205)舎利講と一品経(いっぽんきょう)購読を
一千日つづけた勤修を4度おこなう。
★ 建仁3年(1203)2月楼門.経蔵を上棟、貞慶を導師とし、千基塔供養を行う。
★ 建暦2年(1212)薬師如来像に帳を懸ける。吉祥天立像(重文)を本堂に祀る。
★ 仁治2年(1241)馬頭観音立像(重文)造立される。(体内墨書銘)
★ 永仁4年(1296)弁財天像を勧請す。
★ 応長元年(1311)護摩堂を建立。本尊不動明王、二童子像を安置す。
★ 観応元年(1350)9月『浄瑠璃寺流記事』長算によって書写される。

皇族や平安貴族が極楽浄土へ往生出来るように九体の阿弥陀仏を祀る、浄土信仰が隆盛な時期に藤原道長の法成寺(無量寿院)や、白河天皇の法勝寺阿弥陀堂など京都を中心に九体阿弥陀堂が約30建立されましたが、現在当時のまま現存している唯一の寺院がここの「浄瑠璃寺」だけになりました。


参考資料:浄瑠璃寺と南山城の寺    日本の古寺美術 18    保育社
     加茂町史          古代.中世編         加茂町

2018年12月10日

◆司法長官にウィリアム・バー氏

宮崎 正弘


平成30年(2018年)12月9日(日曜日)通巻第5910号 

 司法長官にウィリアム・バー、国連大使はナウアート女史
統幕議長はアーク・ミリー陸軍参謀長、そしてケリー首席補佐官が辞任か

トランプ政権の閣僚人事は電撃的である。

セッションズ司法長官辞任に伴い、ウィリアム・バー(ブッシュ父政権下
でも司法長官)、また年内に退任するヘイリー国連大使に替わるのがナウ
アート(国務省報道官)女史を指名した。

ダンフォード統合参謀本部長に替わるのはアーク・ミリー陸軍参謀長。

そのうえ、ジョン・ケリー首席補佐官も更迭が噂されており、トランプ政
権当初からの閣僚はロス商務商館、ムニューシン財務長官、マティス国防
長官らとなった。

大統領補佐官も陣容が大きく代わり、外交面とりわけ中国に対して穏和的
だったティラーソン解任後、もっとも強硬路線を堅持するポンペオ国務長
官になった。

日々、大統領に國際情勢を報告し、助言するのはジョン・ボルトン補佐
官、テクノロジー擁護に先頭を走るのがナバロ通商産業局長、そしてライ
トハイザーUSTR代表が「対中強硬四人組」となった。

しかも驚くことにトランプより中国に強硬なのが民主党である。

それよりも強硬な反中派がNYタイムズなどの大手メディアだから、前掲
四人組へのイデオロギー的批判はさっぱり聞かれなくなった。

こうなると、物別れに終わった米中首脳会談のあと、さらに強硬な中国制
裁が発表される可能性が高まった。