2019年02月26日

◆「小澤は過去の人」と立花隆

渡部 亮次郎


手許に残っている「文芸春秋」2010年3月号。表紙に「政治家小澤一郎は
死んだ」立花隆とあるから、興味を以って読んだが、たいした事は全く無
かった。

とくに「そう遠くない時期に小澤は確実に死ぬ。既に67歳。記者会見で自
ら述べているように、そう長くはない、のである、心臓に重い持病を抱え
ている事もあり・・・もう限界だろう」にいたっては立花隆は「小澤のこと
を調べる根気が無くなったので論評はやめた」と宣言したに等しい。

「文芸春秋」に「田中角栄研究」をひっさげて論壇に華々しく登場し、東
京大学の教授にまで上り詰めた立花だが、70の声を聞いてさすがに体力の
みならず精神的にもに弱ってきたらしい。立花に次ぐ評論家は育ってない
から文春も弱ってるようだ。

「JAL倒産の影響もある」と言う。「あれほど巨大な企業も、つぶれる時は
アッという間だった。小澤ほどの巨大権力者も、つぶれる時は一瞬だろう
と思った。今考えるべきは小沢がどうなるかではなく、ポスト小澤の日本
がどうなるか、どうするのではないか」と言う。
今更小澤を論ずるなどやめようという原稿になっている。

「小澤の政治資金に関する不適切な事実は、既に山のように出てきてい
る。小澤がこれから百万言を弄して、どのようなもっともらしい理屈を並
べようと、小澤は政治腐敗の点において、政治上の師と仰いできた田中角
栄、金丸信の直系の弟子であることを既に証明してしまっている。

小澤のやって来た事は構造的に、田中角栄、金丸信がやってきたことと、
殆ど変わりが無い。

それは、政治家が影響力をふるう事ができる公共事業の巨大な国家資金の
流れにあずかる企業から、大っぴらにできない政治献金{法律上、国家資
金を受け取る企業は献金できない}を何らかの別チャンネルで受け取って
懐にいれるという行為である。

それを贈収賄罪等の罪に問う事が出来るかどうかは、法技術上の難問がい
くつかあって簡単ではない。刑法の罪を逃れられたとしても、道義上の問
題としては、同質の罪として残る」

要するに、立花隆として、小澤の罪について自ら積極的に調べ上げた事実
は一つもなしに「政治家小澤一郎は死んだ」と言うおどろおどろしい見出
しの長文を書いてお茶を濁しているのである。小澤が死んだというなら、
立花も死んだと言っていいのかな。

しかも評論の大半を東大駒場の立花の最終ゼミに来た学生から取ったアン
ケートを升目に書き写して「今の平成生まれの若者から見れば、小澤一郎
など、過去の遺物に過ぎない」と逃げている。

20歳前後の世間知らずに小澤論のあるわけがない。それなのに長々とアン
ケートの回答を書き連ね、「もはや小澤なんかどうでもよい」と言うな
ら、こんな原稿、書かなきゃ良かったではないか。

とにかく立花らしさの全く無い原稿である。まして表紙にタイトルを刷っ
て売るのは当に羊頭狗肉である。(文中敬称略)
2010・2・10

◆足の血管にもステント

石岡 荘十


数十メートル歩くと左足がだるくなって歩行困難になる。で、数分立ち止まって休むとまた歩けるようにはなるが、またすぐだるくなる。

このような症状を専門的には「間欠性跛行」という。「跛行」はビッコを引くという意味だ。こうなった経緯については、本メルマガ「齢は足にくる」

http://www.melma.com/backnumber_108241_4132433/

で述べたとおりだが、先日、閉塞した足の大動脈にステントを入れる治療を受け、ビッコは解消し、元通り颯爽と歩けるようになった。

はじめ、「これはてっきり腰をやられた」思い込んで、近所の接骨院に駆け込んだら、「典型的な脊柱管狭窄症の症状だ」と断言する。つまり神経の管が腰のところで狭まっている疑いがあるとのことで、電気治療、針を数回やってもらったが、はかばかしくない。

業を煮やして、行きつけの大学病院の整形外科で腰のレントゲン、さらにMRIを撮ってみると、確かに、腰椎のひとつがずれているが、神経には触っていないことが確認できた。脊柱の管にはどこも狭くなっているところはない。ビッコの原因はほかにあるというのが整形外科医の診断だった。

考えられるのは、足に血液を供給する血管、動脈がどこかで狭くなっていて、血液や栄養補給が足の筋肉の運動量に追いつかないのではないか。血管の動脈硬化ではないかというのが循環器内科の医師のお見立てだった。

となると、検査法はPWV(脈波伝達速度)。両腕、両足に幅広のベルト(カフ)を巻いて四肢同時に血圧を測定する検査法である。この検査をすると、動脈の詰まり具合と動脈の硬さ(柔軟性)手足の動脈などの比較的太い動脈の高度狭窄の有無がわかる。

結果は、左足だけが標準値に遠く及ばない。病名は閉塞性動脈硬化症。左足へ行く動脈のどこかが詰まっている疑いが強まった。

血流が詰まる動脈硬化は典型的な加齢疾病だ。脳の血管が詰まれば脳梗塞になるし、心臓の血管(冠動脈)が狭くなると狭心症、詰まると心筋梗塞になる。私の場合は足にきたというわけである。

造影剤を使ったCTで診ると、左足付け根から動脈を15センチほど遡ったところで90パーセント狭窄していることが確認できた。左足へは最大、通常の7割ほどしか血が流れていない。これではビッコになるわけだ。

治療法は、脳梗塞や心臓梗塞と同じだ。血管の狭くなったところにカテーテルを挿し込んでフーセンで拡げるとか、バイパスを作るとか、etc。

心臓カテーテル室でカテーテル台に横になると、若くて美形の看護婦さんが何の躊躇もなくパラリとT字帯をはずし、左足の付け根周辺の陰毛を電気かみそりで刈る(剃毛という)。慣れたものだ。

局所麻酔の後、この治療では実績も多い腕利きの医師が、モニター画面を見ながらカテーテルを挿入。先端には、中心部に細くすぼめたバルーンを仕込んだステントがある。

ステントはステンレスで出来た金網のチューブである。これを狭窄部分まで持っていってバルーンを膨らますと、すぼめてあったステントの内径も同時に拡がって、狭窄した血管を見事に押し広げた。

ステントは内径8ミリ、長さ40ミリ。心筋梗塞の治療に使うステントは内径2ミリほどだから、それに較べると大型だ。治療時間は1時間ほど、治療費86万円、自己負担9万円ほどだった。

心筋梗塞でステントを使う治療法はよく知られているが、足の大動脈狭窄にステントを使うケースはまだそれほど多くない。

下肢(足)へ行く動脈が詰まると、下肢が腐ってしまい、痛いだけでなく、命にかかわるケースもある。そうなると「命には代えられない」とやむを得ず下肢を切断しなければならなくなる。日本では毎年1万人以上が足を切断されているという報告もある。高齢化で症例は増えている。

足にもステントを入れるという治療法は、循環器内科ならどこでもやっているわけではない。リスクもある。医師の選択には慎重でありたい。

元京都大学心臓血管外科部長・米田正始(こめだまさし)医師を中心とする研究グループは新しい血管を作って下肢切断を救う「血管再生法」という試みを行なっていて、再生医学のひとつとして注目されている。

「なんとなく足の先が冷たい」

これが、アラームだ。接骨院では治らない。専門の医師を選んで、治療を受ける必要がある。(再掲)

2019年02月25日

◆人工関節手術で歩ける喜び

小池 達也



整形外科の分野ですばらしい発展を遂げていると考えられているのは、人工関節分野です。現在では、肩・肘・股・膝・足関節に人工関節手術が施されますし、手や足の指関節にも応用が始まっています。

特に、股関節と膝関節に関しては膨大な数の手術が毎年日本中で行われています。
成績も安定しており、それほど高度な手術でもなくなりつつあります。

しかし、本当に人工関節は進歩したのでしょうか。

1962年にチャンレイという先生が人工股関節手術を初めて実施されました。 今から振り返ってみても、良く考え抜かれたデザイン・材質・手術方法でした。やっぱりパイオニアと呼ばれる人たちには何か光るものがあります。

このチャンレイ型人工股関節は長期成績も良く、スタンダードとなりましたが、もちろん完璧ではないので、チャンレイ自身を含め様々な改良が加えられました。

ところが、それらの改良、良かれと思ったデザインや材質の変更は逆に長期成績を悪化させました。

そうすると、また改良が加えられ、猫の目のようにくるくるとデザインや果てはコンセプトまで変わっていきました。最近ようやく、コンセプトも成熟し成績も安定してきました。

しかし、改良が加えられ続けていた時代に人工股関節手術を受けてしまった人は恩恵を受けることが出来なかったわけです。

最先端のものが最良とは限らない好例ではないでしょうか。これは人工関節の性格上、結果がすぐに出ないことが一番の理由です。そして、この危険性は今後も出てくる可能性はあります。

では、人工関節手術などすべきではないのでしょうか。

そうではありません。歩くことさえ大変な方が、人工関節手術を受けて痛みなく歩けるようになった時の喜びは、本人でない我々でさえ感じることの出来る大きなものです。

「人生が変わった」・「旅行に行けるようになった」・「歩くのって楽しい」など、多くの喜びの声を聴かせていただける、医者にとっては実にやりがいのある手術です。これを永続する喜びに変えるために、いくつかの合併症を克服してゆくのが、我々の今後の使命でしょう。

人工関節の合併症で厄介なのは感染とゆるみです。ゆるみの方は、多くの研究により克服されつつありますが、異物を体の中へ入れる手術であることから、感染の危険性はなかなか解決されそうにはありません。

また、スポーツも可能になるような丈夫な人工関節もまだ存在しません。真の人工関節出現はもう少し先になりそうです。
 
ところで、最近ではナビゲーションといって、コンピュータが人工関節を入れる方向を指示するシステムやロボットが人工関節を入れる方法も実用化されています。

あなたは、ロボットと人とどちらに手術して欲しいですか?
         (大阪市立大学大学院医学研究科リウマチ外科学 )

2019年02月24日

◆『借金の罠』に引っかかるな」

宮崎 正弘


平成31年(2019年)2月23日(土曜日)通巻第6000号 <六千号記念号>  

 「『借金の罠』に引っかかるな」とミャンマー議会に懐疑論が拡がる
   スーチーは中国「一帯一路」に前向き、与党内部は慎重論が多数

中国主導のBRI(一帯一路)プロジェクトの一環としてミャンマー西部
のチャウッピューから雲南省昆明へ、1400キロの幹線を拓き、そこに高速
鉄道を敷設するという壮大な計画は、ネピドー(首都)の国会で「見直
し」が議論され、宙に浮いたかたちとなっていた。

 すでにチャウッピューを輸出加工区、免税特区とする計画は実行に移さ
れているが、大看板と事務所ビルがあるだけで、工事が始まっている気配
はない。

とはいえ、ガスと石油のパイプラインはすでに稼働しており、中国への輸
送は始まっている。チャウッピューから北北東へ、マンダレーを超え、カ
チン族、シャン族の盤踞する山岳地帯をぬけて雲南省へ入るコースであ
る。鉄道は、このパイプラインのルートに沿って計画され、工事は中国側
では2011年から開始されている。

ミャンマー議会の論点は、「中国のいう20億ドルは初動の段階の予算に過
ぎず、鉄道となると全体で幾らかかるのか。それを返済する条件、償還期
間、金利などが不明瞭であり、スリランカが結局『借金の罠』に陥落し
て、ハンバントタ港の99年の租借を認めたように、中国の世界戦略に利用
されるのがオチではないのか」というものだ。

習近平は4月にも北京で関係国60ヶ国の首脳を集め、2回目の「BRI
フォーラム」を開催するとしており、現時点で発表されている
「CMEC(中国ミャンマー経済回廊)」の高速鉄道は四期にわけて実施
されるとしている。具体的な詰めの協議は、そのとき北京でおこなわれる
予定だ。

第1期は中国国内の昆明から大理までの328キロ。

第2期は雲南省大理から国境のルイリまでの336キロ。

この区間はすでに2011年から、中国の新幹線プロジェクトとして工事が始
まっている。工事は2017年完成予定だったが、遅延が続き、2022年完成と
される。というのも、峻嶮な山岳地帯であり、おおよそ中国共産党の統治
が及ばない辺疆でもあり、大東亜戦争中は蒋援ルートを絶つために大量の
日本軍が派遣され、とりわけの激戦地だった場所なのである。

下記樋泉教授の紀行文にもあるが、「拉孟・龍陵・騰越」あたり、とくに
拉孟は、激戦地として歴史に残り、桜林美佐さんが、この土地を日本部と
日本人女性との悲恋物語を講演で語るときは涙を誘う。

一帯は山また山であり、四輪駆動がなければ踏破は無理、しかも霧が深く
雨が多く、いったい何のためにこういう難所に中国は鉄道を通すのか、現
に筆者も数年前に訪れて、不思議に思ったのである、ただしすでに当時石
油ガスのパイプラインの敷設工事は、中国側で作業が進んでいた。バルブ
置き場の撮影もしてきたことを思い出した。


 ▼ミャンマー側の工事は未だ着工にも至らず

第3期工事はミャンマー側である。

第2の都市というより、華僑の街として知られるマンダレーからルイリへ
いたる433」キロは、工事どころか地域の測量作業が行われている段階
だ。同地域もまた少数民族の支配する山岳、不気味な武装集団が盤踞して
いる。

ミャンマー軍は掃討作戦を継続しているが、少数の武装勢力に武器をひそ
かに供与しているのが中国。一帯は麻薬地帯でもあり、この無法地帯にお
いて高速鉄道を敷設する工事なぞ、実現性そのものが危ぶまれている。

第4区間がマンダレーからチャウピューへの400キロ。

ミャンマーの地形を地図で確認してみると、判然とするのは南北に縦貫す
る山岳地帯をくぐることになり、トンネルを掘るばかりか、絶壁に橋をか
けるなどの難工事になるだろう。ミャンマーの幹線道路というのはヤンゴ
ンとその周辺、首都ネピドー、第2の都市マンダレーまでしかない。
 
ャンマー議会は、「歳入の予測も立たず、ミャンマー側で工事が始まるの
はまったく不透明だ」としている(『アジアタイムズ』、2019年2月21日)。
              
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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1862回】        
――「長い、長い一日が仲々終わらない」
  平田敏夫『初年兵平田敏夫十九才の雲南ビルマ戦記』(宝梱包 2018年)

                △

昭和19年2月10日、深い雪の朝だった。19歳の平田敏夫は、歓呼の声に送
られて敦賀の部隊に入隊する。「この雄叫びが後の戦場で何度も自分を奮
い立たせた。郷土愛、郷土の声援。敵兵と対してカッー頭に血が登った
時、行軍でぶっ倒れそうになった時、背後で歓呼の渦がほむらして立ち、
なんの、なんのと奮い立ったものです」。

戦況は急を告げる。初年兵教育は中断され、平田は「安兵団」の一員と
してビルマへ。シンガポールに上陸するや、後続部隊を待たずにビルマ東
北部経由で「急遽、雲南へ」。

投入されたのは、重慶の蒋介石政権支援のために建設されたビルマ東北部
から龍陵・騰越・拉孟を貫き昆明を経て重慶に続く援?ルートを遮断する
作戦だった。

最前線の拉孟は「陸のガダルカナル」と形容されるほどの死戦だった。戦
友の死体を前にたじろぐ平田に向かって、上官は「遺骨は歯と骨を切り取
るんや」と叱咤する。歯と指の骨は飯盒に納めた。

 昭和19年6月下旬を境にして「僥倖は逃げた」。平田にとって以後の戦
いは、ひたすら食料調達と飯盒炊爨と敵の猛攻を避けることだった。

山また山がどこまでもウネウネと続く雲南の大地を、ビルマ中部のマンダ
レーを目指して壊走する。その間も360度に眺望の広がる山々を前に「山
登りの癖で私は眺望に酔いしれる」。とはいえシャン高原の山々は「越え
ても越えても限度がない」。

昭和20年8月22日、捕虜となってラングーン(現ヤンゴン)郊外のアーロ
ン収容所に収容されたところで、平田にとっての大東亜戦争は幕を閉じた。

「兵隊は筋道たてて戦場を語ることができない。酷かった、酷かった」で
終わってしまうと振り返る平田だが、「我が身に危険が迫ると逸早く民間
人を残してラングンを飛び立つ。そんな人物が敗戦の最中、中将から大将
に昇進して金ピカの襟章を誇示する」

「女、子供を地獄に残して、モールメンの広い芝生のある白亜の建物、物
資は豊富、豪奢な生活にひたる。戦争責任を問う。戦犯裁判とは連合軍が
かけるものではなく、日本人が日本人にかけるべきものだろう」と、あの
戦争における指揮系統上層のデタラメさに憤怒を隠さない。

昭和22年7月7日、平田を乗せた復員船は宇品港に投錨する。

「内地の山々は、緑いっぱいで美しい。万感胸に迫る、帰ってきたの
だ」。やがて故郷へ。平田は「村では仰山の人が戦死している。3人出征
して3人共戦死した家もある。うちは3人共帰って来た。お前1人位は戦
死して来てくれん事には、村の者に顔向けならん」と父に迎えられた。

その言葉を聞いた平田も辛かったろう。だが、そう言わざるを得ない父親
の心中は察するに余りあるなどという通俗的表現では推し量ることはでき
ほどに苦しかったに違いない。

やがて平田は故郷を離れ京都へ向かう。ここから平田にとっての新しい
戦争が始まった。「祖父が営んでいた木箱製造工場を引き継ぎ、現宝梱包
株式会社の基礎を築き、77歳まで代表取締役を務めあげました」と、ご子
息は綴る。

平田の後半生は、また戦友慰霊の旅でもあった。ある時、かつての中隊長
から「中隊集合の葉書が来た」。「(生還した)全員が集合。福知山の旅
館で抱き合った。話した、話した、話しまくって夜明けまで、朝食を食っ
て、又昼まで、来年は敦賀でやろうなとなって別れた。その後、毎年やっ
て、三十二回。今では私一人が生存者です」。
寂寞しくも雄々しい。

その平田も2017年9月15日、多くの亡き戦友の許に旅立つ。94歳だった。
職を辞してからの日課として書き溜めた戦争の記録が、ご遺族の手でまと
められ本書となった。

2012年春、平田さんと一緒に拉孟・龍陵・騰越を回った。

こんな所まで兵士を送り込んだ戦争とはなんだったのか――考え続けること
が責務だと、改めて痛感・・・合掌。《QED》

◆「味の素」発明は108年前

渡部亮次郎


「味の素」に特許権が降りたのは108年前の7月25日だった。経済産業省特
許庁は発明した東大教授池田菊苗(いけだ きくなえ)を日本の十大発明
家の1人として顕彰している。

また、食品添加物として広く普及し日本のみならず世界の人々の食生活を
豊かにした、と言っているが、昭和20年代の東北や北海道には味の素は無
かった。昆布があり過ぎたからでもあるまいが。

発明した池田菊苗は、元治元年(1864)京都に生まれた。明治22年東京帝
国大学理科大学化学科を卒業し、明治32年から2年間、ドイツに留学した。

帰国後、明治34年に東京帝国大学教授に就任した。彼は、専門の物理化学
の研究を行うとともに日本人の生活の改善と社会の進歩に直結するような
応用研究に関心を持ち様々の研究を行ったが、この中に昆布の「うまみ」
の研究があった。

彼は、昆布のうまみの成分を解明すれば調味料として工業的に生産できる
のではないかと考え、研究を続けた結果、うまみの成分が「グルタミン酸
ソーダ」であることを突き止めた。

これを主要成分とする調味料の製造方法を発明し、特許権を得た(特許第
14805号、明治41(1908)年7月25日。我が母の生まれし年なり。今から108
年前)。

「グルタミン酸ソーダ」は、彼の働きかけによって商品化され、調味料と
して広く売り出された。このグルタミン酸ソーダは、品質が安定しており
食物に独特のうまみを与えるため、食品添加物として広く普及し日本人の
食生活を豊かにした。

これが今日の「味の素」である。工業化をどこにさせるか。熟慮の結果、
池田が依頼した先は鈴木三郎助。味の素株式会社の創設者である。

また、海外にも調味料として広く受け入れられた。彼は、大正12年に東京
帝国大学を退官した後もグルタミン酸ソーダ製造技術の完成に熱意を注
ぎ、主として甜菜糖の廃液を原料としたグルタミン酸ソーダの製造法の研
究に従事した。昭和11年(1936)没。

ところで「味の素」株式会社の事である。

<味の素[株] あじのもと 〈味の素〉で知られる総合食品化学会社。2代
目鈴木三郎助とその家族によって1888年創業された鈴木製薬所が前身。

神奈川県葉山で,ヨード製造を家内工業で行っていたが,化学薬品にも手
を広げ1907年合資会社鈴木製薬所に改組(1912年鈴木商店)。

東大教授池田菊苗が08年に取得したグルタミン酸調味料製造法の特許の工
業化を依頼された鈴木は,新化学調味料の製造に取り組み,同年11月〈味
の素〉の名で売り出した。

しかし当初はまったく売れず,軌道に乗るまでに10年近い年月を要した。
大正の末からは順調に伸び,海外へも輸出されるようになった。

35年宝製油(株)を設立(1944合併),味の素の原料となるダイズ油の製造を
開始。第2次大戦後,46年2月社名を現社名に変更,50年に原料・製品の統
制撤廃後は,急速に生産水準を回復,52年には戦前水準に戻った。

その後,グルタミン酸ソーダの製法転換(植物タンパク分解法から発酵法
へ)に協和鍋酵工業に続き成功(1959製造開始)。これに伴い油脂関連部門
を拡大,この部門でも大手になった。

また,多角化を進め,総合食品化学会社への脱皮に成功した。とくに加工
食品部門の拡大が著しく,61年にスープ,63年コーンフレーク,68年マヨ
ネーズ,70年マーガリン,調理済み冷凍食品と,相次いで新分野に進出した。

73年にはゼネラル・フーズ社と提携し味の素ゼネラルフーヅを設立,イン
スタントコーヒー等にも進出。最近では,飲料・乳製品部門,加工食品部
門が調味料部門を上回る。

さらに海外進出の面では,戦後も1958年にフィリピンで味の素の生産を開
始したのを最初に,欧米,東南アジアを中心に進出しており,海外売上高
比率は連結ベースで2割に達する。

また近年は発酵技術を生かして,医薬品分野への進出に力を入れてい
る。>世界大百科事典  2008・07・27

◆安全保障の脅威は日本国憲法

加瀬 英明


安全保障の脅威は日本国憲法 「専守防衛」は日本だけが使う言葉

韓国の文在寅政権が日本を好きなように嬲(なぶ)っているのに対して、日
本で嫌韓感情が沸騰している。

書店に嫌韓本が並び、雑誌も韓国に呆れ果てて、韓国を憐れむ記事で埋
まっている。

慰安婦(ウイアンプ)をめぐる合意を踏み躙ったうえで、徴用工(ジンヨン
ゴン)、火器管制レーダーの照射問題に続いて、文大統領が日本に「反省
(パンソン)を求める」発言を行い、常軌を逸した振舞いがとまらない。

韓国は現実に目をつむって、妄想にとらわれている。とうてい国家と呼べ
ない。

日本中が韓国を疫病のようにみなすようになっている。政府もどう対応し
たらよいか、途方に暮れている。つける薬がないのだ。

韓国は頭痛の種だ。といっても、日韓関係を軋(きし)ませた責任は、慰安
婦問題をつくりだした朝日新聞と、故なく謝罪した河野洋平官房長官(当
時)など、韓国に対して毅然たる態度をとるべきところを、紙面を売るた
めにニュースを捏造したり、侮られるもとをつくった日本側にある。

日本は自虐的な態度をとってきたために、は国外から軽くみられて、虐げ
られる原因をつくってきた。

韓国は歴史を通じて中国の属国(ソグク)だったために、物事を自主的に決
める力がなく、強い者に諂うかたわら、弱い者に対して居丈高になって、
苛める習性がある。

韓国は国として体をなしていない。このままでは、国として成り立ってゆ
かないだろう。

憐れむべき国だ。だが、いったい日本に韓国を見下したり、嘲る資格があ
るものだろうかと思う。

昨年、政府が3万トン級の“いずも型”ヘリコプター搭載護衛艦を空母に改
装して、F35Bステルス戦闘機を搭載すると発表したが、自公与党が「専
守防衛の枠内で運用する」という確認書を交換した。

テレビで識者が真顔をして、「攻撃空母を保有するのは、憲法違反だ」と
述べていたが、番組の他の出演者は、誰も非常識な発言だと思わなかっ
た。多くの視聴者も、同じことだったにちがいない。

中国の国防支出は中国政府の発表によっても、1988年以後、毎年2桁で増
して、日本の10倍以上もあり、アメリカにつぐ軍事力を擁している。

私には、“いずも級”護衛艦を、F35B戦闘機を8機か、10機搭載する小
型空母に改装しても、どうして中国に脅威を与えることになるのか、理解
することができない。

「専守防衛」という言葉は、日本の国内だけで通用して、外国語に訳する
ことがまったくできない。「専守」という概念自体が、世界のどこにも存
在していない、意味がない言葉だ。

いったい、「専守する」スポーツ競技があるものだろうか。「必要最小限
の防衛力」といっても、武芸や、スポーツに適用できるだろうか。

一国の安全を「諸国の公正に信頼して、われらの安全と生存を保持」する
という日本国憲法からして、世界の現実を受けいれることを拒んで、妄想
に浸っている。

日本は人にたとえれば、幻視、幻聴を病んでいるために、人格が崩壊し
て、正常な社会的な関係を結べない、統合失調症を患っている。

日本は自国の憲法が安全保障の最大の脅威となっている、唯一つの国だ。

◆「認知症」には「散歩」が効果

向市 眞知


以前、住友病院神経内科先生の「認知症」の講演が、「こんな症状があったら要注意!」という話から始まり、下記の11の指摘がありました。

1、同じことを何度も言ったり聞いたりする
2、ものの名前が出てこない
3、置き忘れやしまい忘れが目立つ
4、時間、日付、場所の感覚が不確かになった
5、病院からもらった薬の管理ができなくなった

6、以前はあった関心や興味が失われた
7、水道の蛇口やガス栓の閉め忘れが目立つ
8、財布を盗まれたといって騒ぐ
9、複雑なテレビドラマの内容が理解できない
10、計算のまちがいが多くなった
11、ささいなことで怒りっぽくなった

「これらがいくつかあったり、半年以上続いている時は、専門病院へ行きましょう」といわれました。

私自身、同じことを言ったり、物の名前が出てこなかったり、置き忘れやささいな事で怒りっぽくなったなあと思い当たるフシがいくつもありました。専門診療の対象といわれてしまうと本当にショックです。

「認知症」というと周りの人に迷惑をかけてしまう問題行動がクローズアップして、その印象が強いのですが、新しいことが覚えられない記憶障害もそうです。また、やる気がおこらない意欲の低下もそうですし、ものごとを考える思考力や判断する力、そして手順よくし処理する実行力の低下も「認知症」の症状です。

「認知症高齢者」のかた自身の不安は、時間や場所がわからなくなったり、体験そのものを忘れていく中で暮らしているのですから、自分以外の外界のすべてが不安要因になってしまうのです。

ご本人は真剣に外界を理解しようとしているのですが、家族は「ボケ」「痴呆」ということばの印象から、「認知症だからわからないだろう、理解できないだろう」と思い込んでいる例が多くみられます。
 
診察室でなんとご本人を目の前にして「認知症高齢者」の失態を平気でドクターに訴えたり、「母さんがボケてしまって」とはばかりもなく言ってしまったりします。

その瞬間に、ご本人はその家族に対してまた不安をつのらせてしまいます。また話を向けられたドクターも、ご本人を前にしてウンウンとうなづくべきか、ほんとうは困っているのです。

うなづけば家族は安心しますが、ご本人はドクターへの信頼感をなくしてしまいます。

よく「まだらボケ」とか言いますが、「正気の時もあるからやっかいだ」と表現されるご家族もあります。しかしそれは逆で、やっかいと考えるのではなく正気の部分があるのならその正気の部分を生かして日常生活を維持するようにしむけてみませんか。
 
「認知症」があっても、くりかえし続けている一定の日常生活はできるはずです。老年期以前の過去の生活を思い出させてあげると、高齢者は自分の価値を再発見し、意欲も湧いてくるとききました。

高齢者にとって脳機能の低下だけではなく、視覚や聴覚、味覚や嗅覚などの感覚もおとろえてきていることを理解してあげてください。

すべてを「認知症」の一言でかたづけてしまわないで下さい。見えやすくする、聞こえやすくするというような場面の工夫で問題行動が小さくなることもあります。
 
「認知症だからわからないだろう」と思い込むのは大まちがいです。「言ってもしかたない」と決めつけるのは悪循環です。「認知症」の方の感じる外界への不安を考えると、情報が遮断されると余計に不安が大きくなります。

どしどし情報を与えることが不安の軽減につながります。そのために外出しましょう。

「認知症」には「散歩」の効果があります。外界の空気は聴覚、視覚、嗅覚への刺激になり、脳の活性化につながります。
                       医療ソーシャルワーカー

2019年02月23日

◆ヤミーン前大統領を逮捕

宮崎 正弘


平成31年(2019年)2月20日(水曜日)通巻第5997号   

ヤミーン前大統領を逮捕。「百万ドルをくすねて資金洗浄」
  モルディブ政変の余波。中国との汚職、黒い関係が立証される

モルディブの首都マーレの警察はヤミーン前大統領を拘束した事実を認め
「近く証拠が固まれば起訴されるだろう」とした。現地のメディアが伝えた。
 
国庫からくすねた額はおよそ百万ドル。イスラム系銀行の口座に隠され、
資金洗浄がなされていた。
 
札束を自宅へ届けたと証言するバイク配達の若者もテレビで証言し、ヤ
ミーン時代に発禁処分とされていたメディアも一斉に報じた。

モルディブ政府は現在、ヤミーン前政権が、中国からいったい幾ら借りた
のか、借金は全体で幾らあるのかを精査している。

GDPが40億ドル弱しかない国で、最低でも13億ドルを中国からの借金に
依存し、中国の一帯一路プロジェクトに強力し、リベートを取っていた。

この財務精査の過程で、ヤミーン時代の面妖な取引、その送金も明細や不
明瞭な使途などが明るみにでた。

あたかもマレーシアの1MBDファンドから大金を横領していたマレーシア
のナジブ前首相の経済犯罪と似ているが、少額の汚職なので、世界の金融
界は嗤っているだけである。

中国は空港とマーレを?いた海上橋梁を建設し、昨九月の大統領選挙直前
の8月31」日に完成させた。空港の拡張工事も中国が請け負っていた。イ
ンドは、あたかも下腹にナイフを突きつけられたような要衝にあるモル
ディブの動向に神経を尖らせ、軍港に転用される可能性を監視してきた。
また新政権発足と同時にモルディブ重視に傾き、当面の金融システムの安
定、信用回復のために14億ドルの信用枠を供与した。
     
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書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW
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 苛烈・残酷な独裁者、習近平は毛沢東のマネをしている
  明日の中国に「夢」を語るのはよそう、悪魔が嗤うだけだ

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楊海英『独裁の中国現代史』(文春新書)
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本年度の『正論大賞新風賞』を受賞した楊教授の新作である。

毛沢東から習近平までの中国共産党による独裁国家建設の過程でおきた血
なまぐさい殺戮と弾圧、繰り返された粛清、密告、そしていまウィグル人
になされている民族弾圧の実態は、SNSのグローバル化によって世界同
時の情報ネット社会となっているにも関わらず、西側は正確に把握できて
いない。

宇宙を遊弋する偵察衛星は、新彊ウィグル自治区におよそ百万人を収容す
る強制収容所を発見したが、その建物の内部で展開されている拷問、処
刑、洗脳教育の実態はカメラには映らない。

毛沢東時代には監視、密告が奨励され、「當案」という個人ファイルが地
区共産党の手によって作成され、人民を厳しく監視し、管理し、完全に支
配した。ちょっとでも党に逆らうような意見を吐くと、拘束され拷問さ
れ、死刑か労働改造所へ送られ、過酷な労働が強いられた。

まさに暴力によって恐怖を植え付け、人民が反抗できないシステムを築い
たのだった。

評者(宮崎)は1980年代初頭に台湾や米国、香港で夥しい中国からの亡命
者にインタビューし、収容所内での体験を聞いた(拙著『中国の悲劇』参
照)。

改革開放から40年。AIを徹底的に軍事と人民監視に駆使する中国は、防
犯カメラの精度をあげ、顔面認識と声紋のデータバンクを構築し、巨大ス
タジアムの音楽祭に集まった6万の群衆のなかからも、忽ち三十数人の指
名手配者を逮捕した。AI機器とコンピュータシステムの人民管理がほぼ
完成したのだ。

ドローンでは世界一の量産国家となった中国は、これをさらに改良し、実
物の鳩のような飛行が出来る忍者ドローンも登場させ、山岳地帯や砂漠の
なかの不穏分子さえ追跡している。

毛沢東時代も現代も、中国では人民の監視、個人のプロファイル作成とい
う全体主義システムの本質はなにも変わらない。この独裁の系譜が、毛沢
東の再来を僭称する「AI時代の独裁皇帝」=習近平に引き継がれている
のだ。

さて本書を読んでいて、これまで知らなかった中国現代史の裏側が幾つか
あるが、その一つは、延安へと至る「長征」(本当は『大逃亡』だった
が)のコースで、毛沢東の辿った道筋いがいに、もう一本の西ルートが
あったことだった。

長征の部隊は二手に分かれ、毛沢東は「東路軍」を率いた。数万人が従っ
たが延安に到着したのは5千人だった。

楊教授は次のように指摘される。

一方「西路軍は蘭州から新彊に入ろうとしました。ところが青海省近辺を
制圧していたイスラム軍閥に全滅させられます。イスラム軍閥は中国人と
アラブ人、トルコ人、モンゴル人との混血部隊で、非常に強力な騎馬兵を
擁していました。その騎馬兵に西路軍の男性は全員殺されてしまい、女性
はムスリムの第二夫人、第三夫人にさせられていましました。この西路軍
全滅の史実は、中国では80年代までタブーとされてきました」(66p)
 
また林彪が朝鮮戦争の参戦に反対したが、毛沢東は参戦を決意し、じっさ
いは反共産主義の蒋介石残党の兵力を最前線にだした。敵対的軍閥を死線
へ送り込むのだ。だから師団ごと米国側へ亡命する『事件』も相次ぐ。
朝鮮戦争では最初の軍事指揮者は膨徳懐だった。かれは毛沢東の無二の親
友だったが、朝鮮戦争で毛沢東の息子が死んだことを膨の所為にこじつけ
て失脚させ、林彪をカムバックさせる(104p)。

また胡耀邦の失脚は王震の讒言によるという裏話も、本書で明らかにされ
ている。

胡耀邦は新彊に駐屯していた生産建設兵団を解散させ、「内モンゴルでも
粛清されたモンゴル人の名誉回復をはじめて」いた。

これに反対したのがトウ小平で「81年、漢民族をモンゴルに移住させると
いう案を党会議で採択させたのも、王震が「胡耀邦が我々の政権の転覆を
狙っている」(183p)と密告、というよりも讒言があったからだった。
胡耀邦は失脚させられた。王震は当時、新彊駐屯部隊のボスだった。
 興味深い逸話を書き出したらキリがない。

楊海英教授は知られざる歴史的な逸話が次々と綴る。しかし、小欄ではこ
のあたりで紹介を擱くが、中国現代史の裏面が浮き彫りになった。
AI時代になろうが、なるまいが、中国人のDNAが突然変異でもしない
限り変わらないのである。

明日の中国に希望があり、発展が続くなどとする幻想を捨てよう。「夢」
を語るのはよそう。悪魔が嗤うだけだ。
           
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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1861回】             
――「劣等な民族が自滅して行くのは是非もないこつたよ」東京高商(2)
 東京高等商業學校東亞倶樂部『中華三千哩』(大阪屋號書店 大正9年)

                 △
若者への訴えは続く。

「歐米某國の惡辣煽動教唆」によって日中両国の間には「種々の猜疑」が
生じ、かくして「兩國民の結束一致を解弛し、所謂啓釁其?の乘し鷸蚌相
爭輙ち漁夫の利を占めんとするものあり、豈警戒せざるべけんや。況や列
國大戰の瘡痍は彼等の虎視耽々東亞窺伺に由て寧ろ快癒の期を速催し、捲
土重來の機會を切迫せしめつゝあるに於ておや」。

なにやら難しい漢字が次々に現れ些か面食らうが、はたして当時の東京
高等商業學校及び同レベルの学生たちは、書き連ねてある難解な漢字を理
解できたのだろうか。

かりに理解できたとするなら、当時の学生の知的レベルの高さに頭を下げ
ざるを得ない。だが、この手の難解な漢字を並べて文章を綴り、自らの
「漢学素養」を誇って一人悦に入っていただけで、さほどの実質的効果が
あったともおもえない。

要するに第1次世界大戦も終わり、「歐米某國」は再びアジア侵略に転
じつつある。ここで「歐米某國の惡辣煽動教唆」に惑わされることなく
「(日中)兩國民の結束一致」を促す必要があり、「前途有為な諸君は、
その偉大なる任務に邁進せよ」というのだろう。

もう少し、難しい漢字が羅列された勇ましい文章を続けてみると、

「歐米に對する東亞民族の覺悟は飽までも正義の下に其團結力を強鞏し、
權謀術數を排し誠實相交り公平事を共にし、一點の野心なく又絲毫も輕侮
の念なく、常に?心坦懷互讓互敬互譲主義を遵守するにあり」と。まだま
だ続くが、この辺りで「以下略」としておく。

この「駐支所感」と題された文章の書き手は、半世紀ほどにわたって中国
に滞在した東京高等商業学校卒業生らしい。

ともあれ、こういう自己陶酔臭紛々たる文章を「大人の浅知恵」と評した
いが、その後の両国の関係――もちろん、それを巡って展開された「歐米某
國の惡辣煽動教唆」も含め――を辿ってみるなら、「兩國民の結束一致」な
どは“寝言・戯言”の類に過ぎなかったことが判るだろう。 

この辺で大人の「檄文」を切り上げ、いよいよ若者の声に耳を傾けたい。
 東京高等商業学校東亜倶楽部では、「日頃東亞の研究に志す者が相集つ
て互いに意見を交換したり先輩の講演を聞いたりしてゐる」。

長年の念願が叶って「一行30名が四旬に渉つて支那を南から北へ旅行し
た」。この『中華三千哩』は「その紀行文であつて支那が我々日本青年の
目に如何に映じたかを語」ったものである。

「支那の産業界を見て余の得た印象は支那の産業界は支那人自身の支配す
る所と外國人の支配する所との2つに分れてゐ」て、前者は「全く手工業
時代の小商工業のみ」であり、「近世的な大商工業は殆んど外國人が支配
してゐる」。 

「支那人の個性は世界に比類のない程強堅である代りに協力する性質は極
めて少ない」。「此の性質は彼國が數千年來保持して來た家族制度による
ものである」。この家族制度ゆえに「數人が集まると個人商店を經營する
のには非常に適當」だが、「多人數の協力の精神に基いて成立し發達し
た」「近世の大商工業」には馴染まない。

「支那人は他の家族員と協力出來ない以上大會社を組織することが出來
ず」、現状のように「近世的な大商工業は殆んど外國人が支配」すること
になる。だから「近世的な大商工業」を興し「支那が國際間に於て名實共
に獨立し得る」ことを「希ふて己まぬ」と共に、我々は「能ふ限りの援助
を與ふべきだ」。

「歐米列國は成る可く支那が渾沌たる状態にある間に利權」の獲得を狙う。

だが日本は「支那が成る可く早く完全に獨立して東洋が眞に白人の手から
解放せらるゝことを望」むから、「日支兩國民は互に之を自覺し正義公平
の觀念に基いて親善の實を擧げ」よ。《QED》

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読者の声 ☆どくしゃのこえ ★READERS‘ OPINIONS
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(読者の声1)天皇陛下におかせられましては、2月24日に挙行されます
政府主催の「御在位三十年記念式典」に親臨あそばされます。
 つきましては臣等、敬神尊皇の赤誠をこめて、心清らかに声高らかに聖
壽萬歳を唱え、謹んで下記の通り奉送迎いたしたいと存じます。

 【奉送】2月24日(日) 午後1時30分頃に皇居「半蔵門」御発の御予定
ですから、午後1時10分までに集合待機いたします。
 【奉迎】2月24日(日) 午後3時頃に皇居「半蔵門」御着の御予定です
から、午後2時40分までに集合待機いたします。

 ※奉送迎は半蔵門前で執り行います。皇居前広場(二重橋前)ではありま
せん。また乾門でもありません。くれぐれも御注意ください。

 ※当日は「御即位三十年記帳」が午前9時30分より午後4時まで、皇居
内の宮内庁庁舎前の特設記帳所において執り行われます。皇居への参入お
よび退出は坂下門からとなります。
1人でも多くの皆様と奉送迎いたしたいと熱望いたしまして、御案内申し
上げます。 (三澤浩一)

◆「三猿」中国特派員

渡部 亮次郎


中国に派遣されている日本の特派員は「真実」を取材する自由がない。
知ったことを自由に送信する自由も無い。常に言動を中国官憲に監視さ
れ、牽制され、二六時中、本国送還に怯えている。「見ざる 言わざる 
聞かざる」。特派員だけれども記者ではない?

実は容共国会議員たちが日中国交回復以前に結んでしまった日中記者交換
協定に縛られていて、実際、国外退去処分を体験しているからである。殆
どの評論家はこのことを知らず「日本のマスコミは中国にだらしない」と
非難する。

中国からの国外退去処分の具体的な事件としては、産経新聞の北京支局
長・柴田穂氏が、中国の壁新聞(街頭に貼ってある貼り紙)を翻訳し日本
へ紹介したところ1967年追放処分を受けた 。この時期、他の新聞社も、
朝日新聞を除いて追放処分を受けている。

80年代に共同通信社の北京特派員であった辺見秀逸記者が、中国共産党の
機密文書をスクープし、その後、処分を受けた。

90年代には読売新聞社の北京特派員記者が、「1996年以降、中国の国家秘
密を違法に報道した」などとして、当局から国外退去処分を通告された例
がある。読売新聞社は、記者の行動は通常の取材活動の範囲内だったと確
信している、としている。

艱難辛苦。中国語を覚えてなぜマスコミに就職したか、と言えば、中国に
出かけて報道に携わりたいからである。しかし、行ってみたら報道の自由
が全く無い。

さりとて協定をかいくぐって「特種」を1度取ったところで、国外退去と
なれば2度と再び中国へは行けなくなる。国内で翻訳係りで一生を終わる
事になりかねない。では冒険を止めるしかない。いくら批判、非難されて
もメシの食い上げは避けようとなるのは自然である。

日中記者交換協定は、日中国交再開に先立つ1964(昭和39)年4月19日、日
本と中国の間で取り交わされた。国交正常化に向けて取材競争を焦った日
本側マスコミ各社が、松村謙三氏ら自民党親中派をせっついて結んでし
まった。正式名は「日中双方の新聞記者交換に関するメモ」。

(1)日本政府は中国を敵視してはならない
(2)米国に追随して「2つの中国」をつくる陰謀を弄しない
(3)中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げない
すなわち、中国政府(中国共産党)に不利な言動を行なわない

日中関係の妨げになる言動を行なわない・台湾(中華民国)独立を肯定し
ないことが取り決められている。違反すると、記者が中国国内から追放さ
れる。これらの協定により、中国に対する正しい報道がなされていないわ
けだ。

新聞・TV各社がお互いに他社に先んじて中国(北京、上海など)に自社記
者、カメラマンを常駐させ他社のハナを明かせたいとの競争を展開した結
果、中国側に足元を見られ、屈辱的な協定にゴーサインを出してしまった
のである。しかも政府は関与していない。国交が無かったから。

1964(昭和39)年4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助事務所と廖
承志(早大出身)事務所は、その会談において、日中双方の新聞記者交換
と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた。

会談の代表者は、松村謙三・衆議院議員と廖承志・中日友好協会会長。こ
の会談には、日本側から竹山祐太郎、岡崎嘉平太、古井喜実、大久保任晴
が参加し、中国側から孫平化、王暁雲が参加した。

1968(昭和43)年3月6日、「日中覚書貿易会談コミュニケ」(日本日中覚書
貿易事務所代表・中国中日備忘録貿易弁事処代表の会談コミュニケ)が発
表され、LT貿易に替わり覚書貿易が制度化された。

滞中記者の活動については、例の3点の遵守が取り決められただけだった。

当時日本新聞協会と中国新聞工作者協会との間で交渉が進められているに
も拘わらず、対中関係を改善しようとする自民党一部親中派によって頭越
しに決められたという側面があるように見える。しかし実際は承認していた。

日本側は記者を北京に派遣するにあたって、中国の意に反する報道を行わ
ないことを約束したものであり、当時北京に常駐記者をおいていた朝日新
聞、読売新聞、毎日新聞、NHKなどと今後北京に常駐を希望する報道各社
にもこの文書を承認することが要求された。

以上の条文を厳守しない場合は中国に支社を置き記者を常駐させることを
禁じられた。

田中角栄首相による1972年9月29日、「日本国政府と中華人民共和国政府
の共同声明」(日中共同声明)が発表され、日中両国間の国交は正常化した。

1974年1月5日には両国政府間で日中貿易協定が結ばれ、同日には「日中常
駐記者交換に関する覚書」(日中常駐記者交換覚書)も交わされた。しか
し日中記者交換協定は全く改善されていない。

対中政策は、以前と異なって中国の大学で中国語を学んだ「チャイナス
クール」によって独占されているから、協定を変えようと提案する動きな
ど出るわけが無い。

かくて現在に至るまで、中国へ不利な記事の報道や対中ODAに関する報道
は自粛されている。2008・02・28

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(元NHK政治記者、元外務大臣秘書官)

◆いちごの生産者だった夏

石岡 荘十


「頂門の一針」主宰・渡部亮次郎氏が、本誌に掲載した「いちごの話」を読んで思い出したことがある。小学5年生だった一夏、私はいちごの生産者の端っくれだった。

敗戦翌年5月、私たち一家は中国の天津から引揚げ、父親の生家である秋田県・八森村へ落ち着いた。秋田音頭のしょっぱなに出てくる「八森ハタハタ、男鹿でオガブリコ〜」のあの寒村だ。

生家は父が若くして東京に出た後、弟(叔父)が家を継いで百姓をやっていたが、赤紙一枚で徴兵され満洲(中国東北部)の最前線へ。終戦と共に、シベリアへ持って行かれ、留守宅は祖母と叔母が幼い子ども2人を抱えてほそぼそと稲作百姓をやっていた。そこへ、われわれ一家4人が転がり込んだのである。

ご多聞に洩れず、農家も食糧難だった。畑で芋やナス、キュウリ、トマトを作り、山に入って山菜を採り、新米の収穫まで食いつなぐこととなった。

間もなく、生まれて初めての田植えにも駆り出される。父と母は、元を質せば百姓の生まれだから昔取った杵柄、手際はいい。慣れないとはいえ、小学5年生の私と中学生の兄、も立派な労働力だった。

夏。小柄だが目端の利く祖母が、そのころはまだ珍しかったいちごの栽培を始めた。ビニールハウスなどまだない。夜明けと共に、学校へ行く前に畑でいちごを摘む。

取立てのいちごを大きな背負い駕籠いっぱいに入れてこれを担ぎ、学校へ行く途中集荷所まで運ぶのが私の役目だ。集荷所までは子どもの足で小1時間。その日の売り上げを受け取り、空になった駕籠を担いで学校へ行く毎日だった。

草鞋を履くのも初めてなら、駕籠を背負って学校へ行くのも生まれて初めての経験であった。荷は肩に食い込み、草鞋の緒で足の指の間からは血が滲んだ。

何より恥ずかしかった。紺サージの制服にぴかぴかの革靴で学校に通っていた天津での生活は、いまやここでは別世界の出来事だった。そのうえ、学校の行き帰りには、「引揚者、引揚者」と蔑まれ、いじめにもあった。

それでも田植えで泥まみれになり、田の草をとり、秋には稲刈りもした。そうこうしているうちに秋。11月には父の仕事先が群馬。・高崎と決まり、半年過ごした秋田を後にしたのだが、この頃には、ずーずー弁もまあまあ操れるようになり、いじめっ子たちとの間にも友情が芽生えていた。

高台の集落を去る日、その日は日曜日だったが、10人ほどのガキが口々に大声で「まだ、こらんしぇ」(また、来いよ)といつまでも手を振ってわが一家を見送ってくれたのだった。

高校を卒業するまで高崎で過ごした。その後東京へ進学、就職。で、ここまで想い返してみると、報道に関わった日々を含めて、ニュース原稿は腐るほど書いたが、秋田を去った後、モノを生産したことは一度もなかったことに気がつく。

70年を越える今日まで、形のあるモノを生産した経験はいちご作りだけだった。あの夏、私はいちごの生産者の端くれだった。幼い肩に食い込むいちご駕籠の重みを懐かしく思い出す。

それにしても、いまどきの季節外れの、ビニールハウス育ちのいちごの味の薄いこと。自分が作って売ったあの本物のいちごの味覚に出会うことは二度とないのかもしれない。