2019年02月15日

◆米国は貫徹できるか、厳しい対中政策

櫻井よしこ


2日間にわたる米中閣僚級貿易協議が終わった1月31日、トランプ米大統領
は中国代表団を率いる劉鶴副首相と会談した。トランプ氏は、「極めて大
きな進展があった」とし、中国が米国の大豆500万トンの輸入を約束した
ことについて「アメリカの農家がとても喜ぶだろう」と上機嫌で語った。

中国による大量のオピオイド系鎮静剤、フェンタニルの密輸出阻止につい
ても、トランプ氏は習近平主席が対策を講じると約束したと、語ってい
る。この約束は、実は昨年12月の米中首脳会談で決めたことだ。酒も煙草
も嗜まないといわれるトランプ氏は、習慣性が強く最悪の場合過剰使用で
死に至るこの種の薬剤がとても嫌いなのである。

現時点では、トランプ氏の喜びは中国の苦しみだ。今回、米通商代表部の
ライトハイザー代表がぎりぎりまで詰めた主要事項は、米国の貿易赤字削
減、中国による技術移転の強要阻止、同じく中国による知的財産の窃盗の
阻止などである。こうした点についての合意を如何に確実に実施するか、
そのための監視システムの構築も焦点だった。

トランプ氏が喜んだ大豆は、全体の問題のごく一部にすぎない。現に、米
国内では大豆や天然ガス、その他の対中輸出拡大は大きな問題ではなく、
「中国製造2025」に代表される中国の産業、技術政策を阻止することこそ
大事なのだという意見が強い。

1月31日の「ウォール・ストリート・ジャーナル」紙に、元来アメリカが
最も得手とするサービス分野こそ中国におけるシェアを高めるべきだが、
そこには厚い障壁があると解説する記事が目についた。金融、保険、エン
ジニアリング、コンサルティング、ソフトウエアの開発などで中国市場を
もっと開かせよというのだ。しかし、フェイスブック、グーグル、ユー
チューブなどの苦い体験を思い出せば、これらのサービス分野こそ、中国
が最も開放したくないと考えていることは明らかだ。こうした分野でアメ
リカの要求を受け入れてしまえば、人々の意識も生活も大きく変わりかね
ない。中国共産党一党支配の崩壊が猛スピードで進む結果になるだろう。

構造的な景気減速

中国人民大学米国研究センター主任の時殷弘(じいんこう)教授が、米側
の要求である究極の構造改革やその実行を担保する監視メカニズムは、中
国の主権への侵犯や国内秩序への干渉となる可能性が高い、とのコメント
を「産経新聞」に寄せていたが、それこそが米国の狙いであり、中国の恐
れる点であろう。

米国の対中政策は凄まじく厳しい。貿易に関する米中閣僚級協議開催直前
に、米司法省はファーウェイの孟晩舟副会長兼最高財務責任者をニュー
ヨークの連邦大陪審が起訴したと発表し、孟氏の身柄引き渡しをカナダ当
局に正式に要請した。

カナダ政府は米国との協定に従って要請に応じざるを得ないであろう。孟
氏が米国に引き渡された場合、彼女は最高で60年の刑を受ける可能性があ
ると、福井県立大学教授の島田洋一氏は語る。

「米国当局は長期刑をチラつかせながら、孟氏にファーウェイと中国共産
党が行ってきた全ての不法行為を自白させようとするでしょう。協力しな
ければ、彼女は100歳をすぎてもまだアメリカの刑務所に入れられている
ことになりかねません。協力すれば、彼女と彼女の息子のために、一生米
国で安全に暮らせる環境も、そのための資金も用意するでしょう。アメリ
カはなんとしても中国に5G(第5世代移動通信システム)の分野で主導権
を取られたくないのです」

孟氏のケースは、米中間で進行する貿易交渉と同じく、否、それ以上に深
刻な問題だと、島田氏は強調する。いま、米国は貿易、軍事、人権、外交
などで中国締め上げに力を注いでいる。米中の戦いで中国に勝ち目はある
のか。

中国経済の2018年の成長率は6.6%と発表された。28年ぶりの低い伸びだ
と発表されたが、実はもっと低く1.67%だったという資料もあると、人民
大学国際通貨研究所副所長の向松祚(こうしょうそ)氏が指摘している。
向氏は別の試算方法ではGDPはマイナス成長になるとの見解さえ示して
いる。

向氏の言を俟たずとも中国の統計の信頼性の低さは余りにも有名で、中国
経済が公式発表の数字よりもはるかに深刻な低成長に落ちていることは十
分に考えられる。

中国のGDPの約25%を生み出す不動産業界の不況も甚しい。去年1年間
で、大手不動産会社は住宅価格を30%といわれる幅で引き下げたという。
今年もかなりの値下げが懸念されており、銀行は大量の不良債権を抱え込
んでいる。地方政府は過剰債務に陥っており、中小企業にはお金が回らな
い。構造的な景気減速に入ってしまっているが、打つ手がないのが中国経
済だ。

四面楚歌の中国

国内経済の減速に加えて、対外事業としての一帯一路への信頼を、中国は
すでに失ってしまった。債務の罠のカラクリは見破られ、中国と協力した
いという国はなくなりつつある。国際戦略の専門家、田久保忠衛氏が「言
論テレビ」で語った。

「中曽根康弘氏の名言ですが、外交で大切なことは筋を通すとか通さない
ということではなく、国際世論を敵にしないことだというのです。いまの
中国は世界のほぼすべての国を敵に回しています」

中国が他国の領土を奪う手法は債務の罠だけではない。南シナ海での振る
舞いが示しているのは、中国は軍事力の行使もためらわないということ
だ。世界はこのことをすでに十分理解した。だからこそ、米国の「航行の
自由」作戦に、英国とフランスは、昨年夏から合流し始めた。

まさに四面楚歌の中国である。このままいけば、米国は中国の横暴を止め
るだろう。だが、物事はそれ程うまくいかないかもしれない。最大の不安
要因がトランプ氏である。

1月31日、トランプ氏の中東政策に共和党上院議員、53名中43名という圧
倒的多数が反対した。シリアからひと月以内に撤退すると、トランプ氏が
唐突に言い出し、反対したマティス国防長官の更迭を発表したのが昨年末
だった。状況不利と見たのであろう。トランプ氏は、メラニア夫人を伴っ
て突然イラクを訪れ、米軍関係者を慰問した。撤退時期などで多少、軌道
修正をはかったとしても、シリア及びアフガニスタンからの撤退という基
本方針は変えないと見られている。

イラクからの早すぎる撤退で失敗したのがオバマ大統領だった。トランプ
大統領も同じ轍を踏みかけている。それは中東の混乱を増大させ、トラン
プ氏の政治基盤を崩しかねない。そのとき、笑うのは中国であり、世界は
本当の危機に陥る。

『週刊新潮』 2019年2月14日号 日本ルネッサンス 第839回


◆「支那」は次官通達で禁止

渡部 亮次郎


私のメルマガ「頂門の一針」に読者から投書があった。

<渡辺はま子のヒットソングを挙げると、まず昭和15年の東宝映画「蘇州
夜曲」の主題歌「支那の夜」でしょうが、「ウィキペディア」でも「支
那」という言葉は使いたくないのでしょうか。)

「渡辺はま子」の検索では出てきませんね。「支那の夜」で検索すると出
てきますが。

私は、子供の頃、父がこの歌が好きでよくレコードを聞いておりましたの
で、しっかりと記憶しております。

戦後「支那」という言葉がタブーになりましたので、「支那の夜」を聞く
機会がなくなってしまい残念に思っておりました。

渡辺はま子が亡くなった夜かそのあくる夜か、NHKで渡辺はま子の追悼番
組がありましたが「支那の夜」は最後まで放送してくれませんでした。
(剛)>

NHKは「ラジオ深夜便」で09・7・6にも「日本の歌・こころの歌」で渡辺は
ま子を特集したが、「支那の夜」には一言も触れなかった。
支那(しな)と言いたくないのである。

支那事変の始まったのは小生の生後1年の1937年。事変など知らずに育
ち、対米戦争では田圃の中で艦載機に狙われて草むらに隠れた。

長じて特派員として北京に飛んだが、すでに「支那」でなく中華人民共和
国になっており、爾来「支那」に無関心で来た。大方もそうであろう。

「ウィキペディア」は
<支那(しな)は、中国または「中国の一部」を指して用いられる、王朝
や政権の変遷を越えた、国号としても使用可能な、固有名詞の通時的な呼
称。本来、差別用語ではないが、何らかの圧力などにより、差別語とみな
される場合が殆どである>と説明している。

詳しく調べてみると「何らかの圧力」とは、敗戦と共に加えられた「中華
民国」からの「圧力」だった。

大東亜戦争で日本の敗戦後は戦勝国陣営である中華民国政府からの呼称を
めぐり「支那」を使うなという圧力がかかった。これを承けて日本外務省
は1946(昭和21)年に事務次官通達により日本の公務員、公的な出版物に
「支那」呼称は禁止され、その代わりに「中国」の呼称が一般化されるよ
うになった。マスコミもこれに準じた。

現代の日本で「中華人民共和国」を指しての「支那」、「支那人」という
言葉は半ば死語と化しており、一般的には中国、中国人という呼称に取っ
て代わられている。

学術用語や「支那そば」は「中華そば」という言い換え語がすでに一般化
している。また、「沖縄そば」を支那そばと呼称していた時期もあるが、
これも今日ではほとんど使われない。

「東シナ海」等の、国家のことではなく地域のことを指す場合や「支那事
変」などの歴史用語として用いられている場合はある。

中国では、世界の中に中国を客観的に位置づける場合に「支那」の呼称が
学者の間で広く永く使われていた。早くから異文化に学んだ仏教徒の間で
は特にその傾向が顕著である。

また清の末期(19世紀末―1911年)の中で、漢人共和主義革命家たちが、
自分たちの樹立する共和国の国号や、自分たちの国家に対する王朝や政権
の変遷をこえた通時的な呼称を模索した際に、自称のひとつとして用いら
れた一時期がある。

日本では、伝統的に漢人の国家に対し「唐」や「漢」の文字を用いて「か
ら、とう、もろこし」等と読んできた。明治政府が清朝と国交を結んでか
らは、国号を「清国」、その国民を「清国人」と呼称した。

支那という言葉は、インドの仏教が中国に伝来するときに、経典の中にあ
る中国を表す梵語「チーナ・スターナ」を当時の中国人の訳経僧が「支
那」と漢字で音写したことによる。「支那」のほか、「震旦」「真丹」
「振丹」「至那」「脂那」「支英」等がある。

日本においては、江戸時代初期より、世界の中に中国を位置づける場合に
「支那」の呼称が学者の間で広く使われていた。これは中国における古来
の「支那」用法と全く差がない。江戸後期には「支那」と同じく梵語から
取ったChinaなどの訳語としても定着した。

日本人が中国人の事を支那人と呼ぶようになったのは江戸時代中期以降、
それまで「唐人」などと呼んでいた清国人を「支那人」と呼ぶべきとする
主張が起こり、清国人自身も自らのことを「支那人」と称した事に因む。

戦前・戦中は中国人を日本人に敵対する存在として、「鬼畜米英」など
と同様に、「支那」が差別的ニュアンスと共に使用される場合もあった
が、「支那」自体が差別語であったわけではない。

しかし、戦後、中国人・台湾人が差別的ニュアンスとともに使われること
もあったことへの反撥を表明するようになってからは、差別語であるとい
う感覚が生じた。2009・07・16

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



◆三叉神経痛に有効な治療法!

〜ガンマナイフか?手術か?〜
中村 一仁  (脳神経外科医師)



「三叉神経痛」に対する治療方法は、内服、神経ブロック、ガンマナイフ、MVD(microvascular decompression: 微小血管減圧術)と、多岐にわたる。
 
患者は痛い治療は好まないので、近年の治療手段としては低侵襲性と有効性からガンマナイフ治療を選択することも多くなってきた。

本論のガンマナイフ治療とは、コバルト線を用いた放射線治療で非常に高い精度で目的とする病変に照射することが可能な装置である。

さて本題。「三叉神経痛」というと聞きなれないかも知れないが、簡単に言うと、顔面が痛くなる病気である。一般には「顔面神経痛」という単語が誤用されていることがある。顔が痛くなるので「顔面神経痛」という表現はわかりやすい。

ところが、顔面の感覚は三叉神経と呼ばれる第5脳神経に支配されていることもあり、正しくは「三叉神経痛」というわけである。因みに顔面神経は、第7脳神経で顔面の筋肉を動かす運動神経の働きを担っている。

三叉神経痛の原因の多くは、頭蓋骨の中の三叉神経に脳血管が接触・圧迫し刺激となることで痛みが発生するとされている。
 
<対象・方法>
さて、1999年11月から2003年10月の4年間に、当センターで治療を行った三叉神経痛31例のうち、経過を追跡した29例についての検討を行った。ガンマナイフ施行1年後の有効率は69%(20/29例)であり、31%(9/29例)が無効であった。

そこで、このガンマナイフ治療により、治癒しなかった「三叉神経痛9例」の特徴について検討した。

<結果>
ガンマナイフ治療が無効であった「三叉神経痛9例」のうち4例で、MVD(微小血管減圧術)による手術治療が施行された。4例全例で三叉神経痛は消失軽快した。

ガンマナイフ治療無効例の術中所見は、クモ膜の肥厚や周囲組織の癒着などは認めず、通常通りMVDが施行可能であった。

ガンマナイフ治療が無効であった9例について、平均年齢65.7歳(46-79歳)、男性5例、女性4例。平均罹病期間8.7年(1.5-20年)、患側は右側5例、左側4例だった。

全例MRI画像にて圧迫血管を確認した。上小脳動脈(superior cerebellar artery:SCA)による圧迫病変は通常の割合より少なく、静脈や椎骨動脈による圧迫が4例と多かった。

ガンマナイフ治療が有効であった症例との比較では性別、年齢、罹病期間、病変の左右、圧迫部位に統計学的な有意差は認めなかったが、圧迫血管についてはガンマナイフ治療無効例で有意に上小脳動脈によるものが少なかった(χ2検定,P<0.05)。

<考察>
一般に三叉神経痛は脳血管が三叉神経に接触・圧迫することで生じるとされている。その圧迫血管として最も頻度が高いとされているのであるが、今回の検討ではSCAによる圧迫が少なく、ガンマナイフ治療無効例に特徴的な所見であると考えられた。

わが国で三叉神経痛に対する治療としては、抗てんかん薬であるカルバマゼピンの内服、ガンマナイフ、MVDといった選択枝を選ぶことが多い。MVDによる三叉神経痛治療は脳神経外科医Janettaの手術手技の確立により、安全に行なわれるようになった。

しかし、高齢化および低侵襲手術への期待から、近年ではガンマナイフ治療の有効性が多く報告されるようになってきている。

当センターでの経験では、三叉神経痛に対するガンマナイフ治療の1年後の有効率は69%であり、過去の報告と大差はなかった。ガンマナイフ治療後の再発例に対して検討した報告は散見されるものの、その再発・無効の機序は明らかではなく、ガンマナイフ治療後の再発例についての検討が必要である。

三叉神経痛の発症機序は、血管による圧迫と三叉神経根の部分的な脱髄により起こると考えられており、MVDにて減圧することでその症状は軽快する。

一方、ガンマナイフによる治療では、放射線照射に伴い三叉神経全体の機能低下が起こり疼痛制御されると推察されている。

このようにMVDとガンマナイフではその治療機序が異なるため、それぞれの利点を生かすべく、再発・無効例の検討を行い、治療適応を確立していく必要がある。

過去の報告ではガンマナイフ治療後の三叉神経痛に対してMVDを施行した6症例についてクモ膜肥厚や明らかな三叉神経の変化を認めず、ガンマナイフ治療後のMVDは安全に問題なく施行できるとしており、当センターでMVDを施行した2症例も同様の所見であった。

一方で、ガンマナイフ治療施行による血管傷害の例も報告されているが、再発との関連はないように思われる。

ガンマナイフ治療施行後の再発についての検討では、年齢、性別、罹病期間、以前の治療、三叉神経感覚障害の有無、照射線量、照射部位は再発と相関しなかったとの報告がある。

今回の検討では再発に関与する因子として、解剖学的な特徴に着目した。ガンマナイフ治療無効例では上小脳動脈による圧迫病変は通常の分布より有意に少なく、一般に頻度が低いとされている椎骨動脈やMVD後に再発し易いとされる静脈による圧迫が多かった。

このことはガンマナイフ治療無効例における何らかの解剖学的な特徴を示唆する。ガンマナイフ治療では画像上、三叉神経の同定の困難な症例や神経軸の歪みの大きい症例において正確にターゲットに照射することが困難な場合もあり、より広範囲に放射線照射を行うことも考慮されている。

前述の条件が揃うものにガンマナイフ治療の無効例は多いのかもしれないが、推論の域を出ない.この仮説が成り立つならば、MVDは直接的に血管を神経より減圧し、周囲のクモ膜を切開することで神経軸の歪みを修正することができるため、このような症例に対して有効な治療であるといえよう。

しかし、圧迫部位と再発に関連性なしとする報告や、MVD後再発再手術例の約50%で責任血管などの所見なしという報告、MVD無効後のガンマナイフ治療有効例が存在することも事実であり、解剖学的因子のみが治療方法の優劣を決定する要素とはならないのかもしれない。

また、初回のガンマナイフ治療で治癒しなかった三叉神経痛に対して、再度ガンマナイフによる治療を行なうことで症状が改善するとの報告もあるが、長期的な結果はなく、今後の検討課題のひとつである。

今回の研究ではガンマナイフ治療無効例にSCA(上小脳動脈)による圧迫が少なかったという解剖学的な点に着目したが、現時点では臨床的に三叉神経痛に対する治療としてのガンマナイフ治療とMVDは相補的な関係であるべきであり、今後さらに有効例、無効例を詳細に検討することで、各治療の術前評価においてその有効性が証明されることを期待したい。

<まとめ>
ガンマナイフ治療無効例に対して施行したMVDにて、4例中4例で三叉神経痛は消失軽快した。

ガンマナイフ治療無効例9例では静脈や椎骨動脈による圧迫を多く認め、ガンマナイフ治療有効例と比較して有意にSCAによる圧迫が少なかった。今後、ガンマナイフ治療無効例の特徴およびMVDの有用性について検討する必要があると考えられた。(完)
                
脳神経外科速報17:86-90,2007を改編。メディカ出版より掲載許諾

2019年02月14日

◆夥しい労働者に賃金が支払われず

宮崎 正弘


平成31年(2019年)2月8日(金曜日)弐 通巻第5987号    

 夥しい労働者に賃金が支払われず、座り込み抗議行動が多発
  ビル労働者「家族の医療費も払えず、ビルから飛び降りてやる」

どうやら予測通りである。

春節(旧正月)に中国の鉄道、飛行機、長距離バス、そしてハイウェイは
未曾有の人混みで大混乱に陥ったが、例年より早い休暇入り。そして
「ゆっくり休養を取れ、連絡するまで上京しなくてもよい」と言われ、給
与不払い、当座の旅費だけ支給された。

春節があけて、かれらが職場にもどると、工場は閉鎖されているだろう。
中国ではよくある手口だ(日本に観光にきている中国人はよほど恵まれた
階層である)。昨年の企業倒産は500万社とも言う。

ビルの建設現場。3ヶ月給与不払いというケースが多く、労働者は作業を
やめている。工期はベタ遅れ、クレーンは停まり、作業場では残った労働
者のシット・インが続く。

トラックの運転手はウーバーにも職を脅かされ、本社前をトラックがぐる
ぐる廻っての抗議活動。配送の下請けは賃金を受け取るまで「配達はしな
い」と抗議の声を挙げている。

製造工場ではラインが停まり、座り込み抗議。おおよそ給与不払いが原因
であり、経営者は雲隠れ、ビルの屋上から飛び降りてやると抗議する労働
者も現れた。悲痛な叫びは、「もう食事代もない」。「故郷の妻子の医療
費がはらえない」。

こうした風景が中国全土、あちらこちらで見られる。旧正月のお祝いどこ
ろではない。解雇された従業員は鴻海精密工業の10万人が象徴するよう
に、潜在失業者を含めると、おそらく数千万人単位ではないか。
        
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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1855回】           
――「社稷既に亡んで、帝陵空しく存す」――大町(1)
大町桂月『遊支雜筆』(大阪屋號書店 大正8年)

                 ▽

高知生まれの大町桂月(明治2=1869年〜大正14=1925年)は、明治13年
に上京し杉浦重剛の称好塾に学んだ後、東京帝大国文科へ。

「明治會叢誌」「帝國文學」などに拠って評論・美文・新体詩などを発表
し、大学派・赤門派の重鎮として活動。明治33年に博文館に招かれ『太
陽』『文藝倶樂部』『中學世界』などに文芸時評・評論・評伝・紀行文な
どを発表する。文章を修行することで人間の錬磨を主張し、明治・大正期
の知識青年に大きな影響を与えた。

「序」で「朝鮮は今や皇國也。南滿洲の地は、近く日清戰爭に、日露戰爭
に、我が同胞の鮮血を流したる處にして、現に我が同胞の活躍せる處也」
と記す。「今や皇國」となった朝鮮、「我が同胞の鮮血を流したる處にし
て、現に我が同胞の活躍せる」ところの南満洲を、大町は「四箇月の日
子」を掛けて歩いた。

南満洲の旅は「初は大連を根據地として、後は奉天を根據地として、南は
旅順、北は哈爾濱、東は吉林、西は鄭家屯の間を跋渉すること幾んど2箇
月」。それは「大正七年將に暮れむとす」る頃であった。

満洲に火山はないが温泉はある。「温泉宿は日本人が創めたる也。滿洲人
の在る處に風呂なし。日本人の在る處には、必ず風呂あり。風呂より温泉
の方が遥かに氣持よし」。そこで「(満鉄)本線の熊岳城、湯崗子、安奉
線の五龍背」の「3温泉は滿洲にある日本人に取りての極樂浄土」という
ことになる。

3温泉の1つである五龍背に宿を取る。「ペチカは室を煖め、靂泉は身を
煖む。冬枯の滿洲に陽春の心地して、余はこゝに四宿しぬ。而して新年を
迎へぬ」。

明くる大正8年は西暦で1919年・・・ということは、今からちょうど100年
前に当たる。

その後の日本の針路に大きな影響を与えることになる国際的な出来事とし
ては、パリの講和会議(1月)、朝鮮における三・一独立運動(3月)、反
伝統を掲げる一方で近代中国における最初の本格的反日運動となった五・
四運動(5月)、ヴェルサイユ講和条約締結(6月)、シベリア撤兵開始
(9月)――日本も国際政治の主要プレーヤーとして歩みだす。

「大連より北四百三十五哩八分、長春に至りて、滿鐵の線路盡く。而して
東清鐵道始まる。長春は南滿洲の裏門にして、兼ねて北滿洲の表門也」。
その長春の八千代館で昼食。やがて日本人芸者が「一人あらはれ、二人あ
らはれ、三人あらはれ、遂に四人となる。最も年老いたる藝者、聲美にし
て追分を歌ふに、滿洲の野に在る心地せざりき」。まあ、それはそれは天
下泰平でゴザリマスなァ。

長春の街を馬車で散策する。「支那人の乞兒のとぼとぼ歩くを見て」、案
内役の某氏は「あれはまだ死なず」と。続けて、「乞兒は長春の名物也。
北滿洲にある支那の乞兒、鐵道にて追還されて、長春に來り、長春にても
追はるれど、動かず。長春は乞兒の溜場所となりて、凍死する者の年々數
百人の多きに達する也」と。

「長春より哈爾濱まで、225哩」をロシアの東清鉄道に揺られる。

途中の某駅を過ぎた頃、南への追放を免れたと思われる「支那人の乞兒來
る。兩足なし。兩手に木枕の如き木片を持ちて、兩手と兩膝にて歩く。年
は四十ばかりに見ゆるが、頭をさぐるでもなく、語を發せず、にこにこと
樂觀的の顔付きを爲す。食ひ殘したるもの一切を與ふれば、受けて默つて
立ち去れり」。汽車が某駅に着くと、「その乞兒の汽車を下りてブラット
ホームを這ひゆくを見たりき」。

どうやら大町の満洲は、日本式の温泉と「年は四十ばかりに見ゆる」と
ころの「にこにこと樂觀的の顔付きを爲」した乞食との出会いから始まっ
たということなのか。

◆憲政の神様の落選

渡部 亮次郎


日本の国会議事堂に行けば、正面玄関ホールに尾崎行雄の胸像に会える。
また振り向けば、道路を挟んだ向かい側に尾崎行雄記念館(憲政記念館)が
ある。あまりに昔の人だからか、会館は利用者が少なく、赤字だとの噂だ。

政治記者になれば当然、尾崎の胸像に面会し「憲政の神様」を改めて学ぶ
事になるが、尾崎の政界引退が、吉田茂の「バカヤロー解散」による落選
だったとは知らなかった。4月19日。今から55年前、1953年(昭和28年)である。

尾崎行雄おざき ゆきお、安政5年(戸籍上は翌6年の旧暦11月 20日)11月20
日(1858年12月24日) - 1954年(昭和29年)10月6日)は、日本の政治家。

当時の三重県2区(宇治山田市、松阪市など)で定員4人のところ、前回より
8000票も減り27,021票、6位で落選した。赫々たる憲政の実績は次第に忘
れ去られていたのである。95歳では無理だった。

号は咢堂(がくどう。最初学堂。愕堂を経て咢堂)。相模国津久井県又野
村(現・神奈川県相模原市津久井町又野)生まれ。称号は衆議院名誉議
員、東京都名誉都民。「憲政の神様」、「議会政治の父」と呼ばれる。

11歳まで又野村で過ごした後、官吏となった父・行正に従い、1868年(明
治元年)に東京・番町の平田塾にて学び、一家も1871年(明治4年)に高
崎に引越し、地元の英学校にて英語を学ぶ。そこで初めて「学校」に入った。

その後、1872年(明治5年)に度会県山田(現・三重県宇治山田)に居を
移す。行雄も宮崎文庫英学校に入学した。1874年(明治7年)に弟と共に
上京し慶應義塾童児局に入学する。

しかし塾長の福沢諭吉に反抗して退学、1876年(明治9年)に工学寮(のち
帝国大学工部大学、現・東京大学工学部)に再入学する。

1882年(明治15年)大隈重信の立憲改進党の創立に参加、1890年(明治23
年)第1回総選挙で三重県選挙区より出馬し当選、以後63年間に及ぶ連続
25回当選という記録をつくる。

その後、進歩党・憲政党に属した。この間第2次松方内閣において外務大
臣に就任した大隈の推挙で外務参事官に就任するが、大隈と首相の松方正
義が対立するとともに辞任した。

1898年(明治31年)第1次大隈内閣において40歳の若さで文部大臣に就任
するも、所謂共和演説事件で文相を辞任し、その後任を巡って憲政党は分
裂、大隈内閣も総辞職した。

その後、憲政本党に属していたが、伊藤博文の立憲政友会結成に呼応して
憲政本党を離脱して政友会入りするが、その後伊藤とも対立して離党、そ
の後猶興会などを経て政友会に復党とめまぐるしく所属政党を変遷する。

1903年(明治36年)から1912年(明治45年)まで東京市長、1914年(大正
3年)の憲政擁護運動では立憲政友会を代表して質問を行い、桂太郎首相
を糾弾する演説を行って大正政変のきっかけとなった。

だが、政変後に自党の利益を優先しようとする政友会の方針に反発して
政友会を離党し、以後中正会・憲政会・革新倶楽部と移る。第2次大隈内
閣では司法大臣となる。

当初は対外硬派として知られたタカ派であったが、第1次世界大戦後の
ヨーロッパ視察で戦争の悲惨さを見聞して以後は、一貫した軍縮論者と
なった。

また、ポピュリズム化を危惧して普通選挙の早期施行には消極的であった
が、大正デモクラシーの進展とともに普通選挙運動に参加。同時に、次第
に活発化していた婦人参政権運動を支持し、新婦人協会による治安警察法
改正運動などを支援した。

また軍縮推進運動、治安維持法反対運動など一貫して軍国化に抵抗する姿
勢を示したが、政界では次第に孤立していった。1942年(昭和17年)の第
21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)には非推薦出馬で当選。

1943年(昭和18年)、翼賛選挙批判を行った演説中に引用した川柳「売家
と唐様で書く3代目」が昭和天皇の治世を揶揄するものであるとされ不敬
罪で起訴される(一審で有罪、1944年(昭和19年)大審院で無罪確定)。

公判通知を受けた尾崎は「道理が引っ込む時勢を愕く」と言い、号を学堂
から愕堂に変えた(後に心身の衰えを感じて”愕”のりっしんべんを取り咢
堂とした)。

戦後の国会でも活躍して民主主義の復活と世界平和の確立のために尽力す
るが、1953年のバカヤロー解散による総選挙(第26回衆議院議員総選挙 
1953年4月19日)で落選して、政界を引退した。名誉議員の称号を贈られる。

1950年には英語国語化論を提唱したこともある。

1954年(昭和29年)10月6日、直腸ガンによる栄養障害と老衰のため死去。
享年96。墓所は鎌倉の円覚寺。

永年在職議員表彰第1号、衆議院名誉議員(50年以上の議員在職者。衆院
の正面玄関に胸像を建立)第1号、東京都名誉都民第1号。

相模原市津久井町と伊勢市に、それぞれ尾崎咢堂記念館がある。伊勢神宮
に隣接する合格神社に神として祀られている。また、国会前庭の敷地内に
ある憲政記念館は尾崎の功績を称えて建設されたものである。

東京市長在任中にアメリカ合衆国へソメイヨシノ2000本を贈り、ポトマッ
ク川に植樹された。だがこれらのソメイヨシノは虫害によって焼却されて
しまい、後に3100本の桜が新たに植樹されている。

難民を助ける会創立者の相馬雪香は、英国育ちの妻テオドラとの間に生ま
れた三女。

「牧野伸顕日記」昭和6年(1931年)2月17日条によると、内大臣牧野伸顕
(大久保利通の息子)が尾崎と会ったときにその口から

「我々は青年時代に薩長政府を悪み英国流の議会政治に如くものはなしと
思込、多年奮闘し来りたるが、事志と違ひ今日の現状に直面して慙愧
に堪へず抔、薩長政府は国家を念頭に置き働きたるが、今日は議会抔に国
家を思ふもの一人もなし」

という言葉を聞いて深刻に受け止めた事を書き記している。この時期の尾
崎の失意の心情を伺わせる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 2008・04・17


◆脆くも崩れ去りかねない日露外交

櫻井よしこ


「脆くも崩れ去りかねない日露外交 河井発言は軽率のそしりを免れない」

この一言で元々脆い日露交渉が積木崩しのようになっていくかもしれな
い。そう感じたのが自民党総裁外交特別補佐、河井克行氏の発言だ。

氏は1月8日、米ワシントンの政策研究機関で「中国に対抗するため」日露
平和条約が必要で、同条約締結に米国の理解を求める旨、語ったという。

安倍晋三首相は、米国の対中包囲とでもいうべき厳しい外交の前で、日中
関係の改善を目指している。従って安倍氏の外交戦略目標が河井氏の言う
中国封じ込めにあるかどうかはわからない。仮にそうだとしても、戦略と
は黙って遂行するのが常道だろう。世界の政治の中心地で、安倍氏の特別
補佐が講演すれば、発言は首相の考えを示すものとして瞬時に世界を駆け
巡る。ロシアと中国の怒りは如何程か。河井発言は軽率のそしりを免れない。

まず、ロシア外務省のザハロワ情報局長がロシア国営テレビの番組で、
「対露交渉で日本はなぜ米国の支持を求めるのか、理解できない」と反
発。14日には日露外相会談後の単独記者会見で、ラブロフ外相がこう語った。

「今日何が起きたか、語っておく必要があると思い(記者会見を開い
た)」、平和条約締結に関して両国の立場は「正反対」だ、「南クリール
諸島の主権は第二次世界大戦の結果としてロシアにあることを日本が全面
的に認めることが前提だ」。

ラブロフ氏は従来の厳しい主張を繰り返しただけでなく、「(北方領土を
含む)クリール諸島の主権問題は議論の対象ではない。これはロシアの領
土だ」とまで言い出した。領土交渉には応じないという意味だ。氏はこの
点を河野太郎外相に言い渡したという。

「北方領土」の表現も受け入れないとの発言が、このあとに続いた。

1956年の日ソ共同宣言に基づいて交渉するという安倍・プーチン合意が生
きているのなら、平和条約と北方領土問題は切り離せない。にも拘わら
ず、島の主権問題は話し合いの議題から除くというのでは交渉は行き詰ま
りではないか。日本側はロシアに好き放題言われてしまっている。

ラブロフ氏はその後、現在進行中の経済協力は「全くロシアの心に響かな
い(very unimpressive)」、日本はもっと投資できる
はずだとし、さらに深刻なことを要求した。

「国連でのロシア提案に関する日本の投票行動は日露両首脳が達成を望む
信頼関係を、全く反映していない」

北朝鮮への制裁をはじめ、ロシアや中国と日本が立場を同じくするのは難
しい。日本の外交基軸は価値観を同じくする米国との協調にある。それを
念頭に国連で日本はもっとロシア寄りになれとラブロフ氏は要求している
のだ。

河井氏は日本の戦略としての中露分断を語ったが、ロシアはそのような日
本への怒りの表現として日米分断を声高く主張していると見てよいだろう。

ラブロフ氏は間違いも堂々と語る。

「1956年の日ソ共同宣言が署名されたとき、日米安全保障条約は存在しな
かった。条約が60年に署名されると、日本は日ソ共同宣言から距離を置き
始めた」

「(日米同盟が中露に)安保上のリスクを投げかけている」とも非難した。

滅茶苦茶だ。米軍の占領が終わりに近づいた1951年、日本はサンフランシ
スコ講和条約に調印し、52年に発効した。独立したが非武装国の日本に、
米軍駐留の継続を定めた安保条約が、そのとき同時に成立した。60年は安
保改定の年にすぎない。

ロシアの間違いや不条理な主張を百も承知で安倍首相はウラジーミル・
プーチン大統領と会談を重ねてきたはずだ。その内容については知るべく
もないが、安倍首相が何らかの前向きな反応をプーチン氏から得ていると
仮定しても、河井発言で交渉はさらに難しくなると懸念するものだ。

『週刊ダイヤモンド』 2019年2月9日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1266 

◆心筋梗塞は予知できる

石岡 荘十


まず、死因について。

私の父親も死因は「心不全」とされていたが、長い間、この死亡診断書に何の疑問も感じなかった。しかし、よく考えてみれば「心不全」というのは単に「心臓が動かなくなった」という意味であるから、病気の「結果」そのものであり、死のトリガー、「原因」ではない。

<最初は背中が痛いと言われたと報じられていた。亡くなった後では容易に心筋梗塞だったとは解らないのではないか。誰でも経験して学習し教訓に出来る病ではないので、発症した場合の対処は困難だろう>、これこそが「死因」となった心筋梗塞を疑わせる症状だ。

私も大動脈弁がうまく開閉しなくなり、10数年前人工の弁に置き換える手術を受けているが、そこに至る症状として<背中が痛い>を何年にもわたって、何度も経験している。

心臓の血流が途絶えると、背中が重苦しくなる。痛いと感じる人もいる。この苦しさは、血流が滞った程度(狭心症)の場合は、15分程度で回復する。不整脈のひとつ心房細動の時もそうだ。

私が何度も経験したが、それ以上自覚症状が長く、30分とか続くのは血管(冠動脈)が完全に詰まっている(心筋梗塞)だと考えた方がいい。ほっておけば死に至る。

胸が痛くなるという症状だと、「心臓がおかしいのではないか」と分かりやすいが、心筋梗塞になると左の奥歯がうずいたり痛くなったり、肩が凝ったりすることもある。歯医者や整形外科に駆け込む人もいるが、これは心筋梗塞の症状のひとつなのである。

歯医者で鎮痛剤をもらって「一丁上がり」となるが、じつは心筋梗塞の症状だ。こういうのを「放散痛」という。

不幸にして、こんな知識がなく死んでしまった後、患者を解剖すると死因が心筋梗塞であったことは明らかになる。

<発症した場合の対処は困難だろう>といっておられるが、心臓疾患の9割は、対処の仕方を誤らなければ、決して「死に至る病」ではないのである。

本誌常連の前田正晶さんが書いておられる記事が見事にそのポイントを突いている。
その要点をまとめると、

<失神するほどの、激痛と胸部に圧迫感があった。自分で119番に電話して症状を説明していた>

<放っておけば治るとかとは思ったが、何故かこれは「一過性の痛みではない」と判断した>

<救急患者を受付けてくれる大病院が多いこと、救急車が搬送してくれた先が国立国際医療センターだったこと、最も偉い先生が日曜日の当直だった>

<心筋梗塞に対応する準備が整っていたのだった。処置も素早かった>

<その判断が正しかったと後で解るのだが、私の場合は幸運の連続だった>

つまり、前田さまのケースは<幸運が重なった>結果であり、誰でもがこううまくいくわけではない。

年間の死者5千人を切る交通事故死にあの大騒ぎで安全運動を展開している。なのに、心臓疾患で年間15万人以上が死ぬ。なぜか。前田さんのような幸運の女神の恩寵に浴する人はそんなに多くない、それだけ啓蒙が行きわたっていないということだ。

<時間との争いであるなどとは知る由もないだろう。知識は皆無だった>とおっしゃるが、そんな人に幸運が訪れることは滅多にない。

この歳になったら、天下国家の危機を憂うる高邁な論議をする前に、わが身の危機管理に少しのエネルギーを注ぐべきだというのが私からのアドバイスだ。心臓病は<誰でも経験して学習し教訓に出来る病>なのである。

2019年02月13日

◆総武線快速グリーン車

馬場 伯明


この3年ほど通勤ではJR総武線快速のグリーン車に乗っている。千葉市の
JR稲毛駅から東京駅まで勤務先支給の定期券に加えグリーン券代770円
(土日祝日は570円)がかかる。往復1,540円、月約21日を全日利用すれ
ば!月32,340円、年間約40万円となり、馬鹿にならない。

ところが、慣れとは怖いものだ。一端癖になると、ゆったり座ることがで
き、その静かな環境の魅力!に、怠惰な人間はどうしても勝てない。安易
に乗り続けることになる。

しかし、総武線快速グリーン車にはいくつか問題がある。まず、座席指定
ではないので、往路は乗車駅の稲毛駅到着時に満席になっていることがあ
る。座れなくても770円のグリーン券が必要となり、損した気分になる。
とくに、駅のホームで券を買えば770円だが、グリーン車内で買えば一挙
に1,030円と高くなる。普通車への移動の払い戻しは可能であるが、車内
ではできず降車後であり、面倒だ。

だから、私は往路の乗車時刻を見定めて普通車とグリーン車を使い分けて
いる。復路は東京始発も多く座席には余裕がある。グリーン車内では売り
子さんから酒やつまみを買うことがあるが、スイカは使用不可で現金決済
のみであり、かつ単価は相当高い。

先日2019.2.4(月)の8:00、稲毛駅のホームでグリーン券を買い乗った
ら満席だった。やむを得ないのでそのまま「立ちんぼ」となったが、錦糸
町駅で側の人が降車したので東京駅まで座ることができた。満席というこ
とはそれだけニーズが高いということである。立ちんぼのままグリーン車
内の人たちを観察した。その結果を報告する。

4号車の1両に、3A〜3D(4席)から11A〜11Dまで9列ある。全36席。この朝
は、男性20人と女性16人。70歳(推定:以下同じ)≦N:8人、
40≦N<70:23人、18≦N<40:4人、N<18:1人だった。(私を含む車内の
立ちんぼ者4人を除く)。

グリーン車内で乗客は何をしているのか?単なる1例にすぎないがその行
動態様を記す。睡眠:22人、スマホ操作中:8人(意外に少ない。普通車
ではもっと多い)、読書:3人、新聞:2人、勉強:1人(女子高校生)。
車内は会話もなく静寂である。睡眠の22人は、気持ちよさそうにほんとに
熟睡しているようだ。かすかないびきの人が一人だけ。

なぜ、人は特別料金を払ってまでグリーン車へ乗るのか?全員が裕福な階
層のようにも見えない。そのカギは「睡眠している22人」に象徴されてい
ると思った。安心して熟睡することができる、それが「グリーン車の価
値」なのだ。年齢では、40≦N<70:23人と、壮年:働き盛りの人たちが多
い。必死に働いたので通勤電車くらいはゆっくりしたい、とくに復路のグ
リーン車は自分への今日のご褒美!ということであろう。

ここで、昔の話をする。1985(昭和60)年頃、私は川崎製鉄(株)東京本
社(内幸町)のあるラインの課長であった。勤務後は新橋などで酒を飲む
か、よく麻雀をやった。部長のKさんは麻雀が大好きで1ヶ月に15日やって
も平気の平左。それに相当強かった。下戸なので酒びたりの私たちより頭
脳明晰に加え、終始冷静沈着で、勝ちを重ねていた。

深夜同じ千葉方面へ帰る。「じゃあな」と言ってKさんはグリーン車へ乗
る。当時Kさんには会社からグリーン車定期券が支給されていた。私(た
ち)は普通定期券あった。座れないことも多かった。たまに麻雀で勝った
ときには「部長、今夜はグリーン車にします(笑)」とグリーン券を買
い、強引に横に座りこみ、缶ビールを飲んだ。

しかし、あれから34年、今、若い人たちと帰るとき「じゃあね、私はグ
リーン車へ」と、私は言わない。同じ普通車両に乗り、立ったり座った
り・・・。かつて、K部長の「じゃあな」を聞かされ「いつかは俺もグ
リーン車定期券を」と思ったが、当時ずいぶん嫌な気分になったことを私
は今も忘れていないから。

グリーン車へ乗るということは、かつては、特別のステイタス(status:
社会的地位や身分)であった。しかし、今は、違う気がする。各層の老若
男女がグリーン車に乗っている。グリーン車は特別のステイタスではな
く、いわば一つの必要な機能となった。多忙な現代人のストレスは多様化
し果てしない。電車内でも平安と深い眠りが欲しいのである。

ところで、私が、今(+)の費用をかけてもグリーン車に乗るようにして
いる私的な理由は次のとおりである。

1. 読書。本好きの私はグリーン車のテーブルに本を置き悠然と読む。そ
れは至宝の時間である。電車内では立っていても本を読むけれども、グ
リーン車の静寂とゆったりした座席の価値は別物である。

2. 業務。資料の作成・読み込み・修正など。乗車時間はたかが38分であ
るが朝夕の貴重な時間である。また、PCの使用もできる。

3. 睡眠・仮眠。酒を飲み数人連れ立ち普通車で立って帰ることもある
が、独りリクライニング・シートに座れば、酔い覚ましと気分を落ち着か
せることができる。一種のクールダウンである。
この間の心地よい30分の睡眠は必ず明日の精気につながる。「寝過ごした
らどうするのか?」という質問もあるだろう。だが、不思議なことに稲毛
駅の近くで目が覚める。寝過ごしても5分先の千葉駅終点の電車が多い。
知れたものだ(スマホ警報もできる)。

ここまで、グリーン車のことを書いてきたが、JR東京から千葉の復路には
ホームライナーという座席指定の通勤電車(特急車両)が4本走ってい
る。東京駅の発車時刻は19:16、21:00、22:28、2300である。

ライナー券売機でライナー券を買う。東京―千葉(稲毛)間は平日510円で
ある。グリーン車の770円より260円安く所要時間も短い。車内物品販売は
ないが、時刻が合えば私はホームライナーを優先している。

「いっそ『グリーン定期券』の方が有利なのでは?」に対しては、計算に
よれば20kmまではグリーン定期券の方が、毎回グリーン券を買うより有利
だ。稲毛〜東京間は40km。グリーン券・ホームライナー券・普通定期券の
3つ乗り方を臨機応変に併用するのがよい。

そこそこの一般国民の「ステイタス」となった、総武線快速等のグリーン
車(往復)やホームライナー(復路)を、今後とも有効に楽しく利用して
いきたいと思っている。(2019.2.8 千葉市在住)

◆「拉致:朝鮮半島の闇、日本の闇」第20章

“シーチン”修一 2.0


【措置入院」精神病棟の日々(111)】風とともに去りぬ、Gone With the
Wind. ゴーンさんはゴーン(Carlos Ghosn)With the Money ということ
か。厳しい環境でいつも金欠病とか、金がすべてというような生まれ育ち
だったのでお金が大好きになったのかもしれない。

日本人は「清貧」とか「清く貧しく美しく」なんていうのに美を感じる
が、あまり辛い/苦い経験をすると拝金教徒になってしまうのかどうか、
「金色夜叉」の貫一みたいに・・・

海外出張から帰ると、「ああ、日本はなんていいんだろう」とホッとした
ものだ。ひったくりに警戒しなくていいし。

同僚は「今、ロスに無事着きました」と空港の公衆電話で会社に第一報を
告げている時、足元に置いたアタッシュケースを盗まれた。ロンドン空港
ではトランクの鍵を壊されて金目のものを盗まれる事件が相次ぎ(移民労
働者が怪しいとか)、添乗員は「トランクに金目のものを入れない、鍵を
かけないで」と案内していたものだ。

日本では表通りだろうが裏通りだろうが目立つようなゴミはまず落ちてい
ない。ビバリーヒルズの一歩裏はまるでごみ溜めみたいだった。撫子はき
れいでサレンダーで大人しそうだし・・・

母国に絶望して他国へ逃れる人々の群・・・江戸時代の農民の藩政に対す
る抵抗・反乱として強訴、越訴、逃散などの一揆があったが、「敷島の大
和心を人問わば 朝日に匂う山桜花」、心も景色も穏やかな日本国を捨て
るというような、そんな哀しいことは有史以来、日本ではまずなかった。

「おい、侍! 偉そうにしてるが、日本の民のルーツはみんな源平藤橘
じゃねえか。誰のお陰で飯を食ってるのか。一人が百人を食わせるから百
姓と言うんだ。殺せるものなら殺してみろ!」(北島正元「江戸時代」の
引用文を脚色)

一揆を無慈悲に弾圧したら幕府から「藩政怠慢の廉(かど)によりお家断
絶、身は切腹」になるから、藩も譲歩せざるを得ず、首謀者代表を処刑す
るだけで手打ちなんていうことが多かったろう(WIKIによれば義民・佐倉
惣五郎は神様になり、彼を祀る祠や神社は日本全国で30か所あまりもある
という)。

ハード、ソフトとも居心地がいい日本・・・「和の国」日本に生まれてつ
くづく良かったなあと思うぜ、なあ、同志諸君。

昨年、Kの奄美の母(小生の義母)が83歳で大往生した。病院で付き添っ
ていたKが「母ちゃんの子に生まれて良かったよ」などとおしゃべりして
いて、眠ったのかなあと思っていたら亡くなっていたという、実に安らか
な死だった。

Kが20歳の頃まで奄美は土葬だった。大きな甕にしゃがんだ姿で入れてい
たが(屈葬)、近年では木製の棺になった。10年後にお骨を掘り出し(頭
蓋骨や大腿部などの骨などは健在)、海で洗って(洗骨)骨壺に納めて法
事(神事)を再度行うのがしきたりだった。

奄美には基本的に仏教はない。池田教が戦後に乗り込んできたが、他宗派
を含めて昔からお寺がない、お坊さんがいない、今もない。池田教(寺と
喧嘩して破門されるくらい邪宗的で、他宗派と喧嘩ばかりしている。日本
産ではないみたい)以外の仏教の信徒はほとんどいず、お坊さんが必要な
ら鹿児島から出張してもらっているようだ。初参り、お食い初め、七五
三、結婚式、葬式・・・全部神道だ。

近年、奄美でも火葬が主流になってきたようだが、熱々の焼き立てで炉か
ら出てくる。「姿焼き」で、頭蓋骨から足まで、そのままだ。小生がもの
ごころ付いた頃から、少なくとも川崎市の斎場ではお骨は部位が分からな
いように砕かれてからお骨上げをする。

Kは洗骨の経験はあるが「姿焼き」は初体験で、「あんまりよ、私は島で
のお骨上げは二度とごめんだわ」。そりゃあショックだろう。

日本には基本的に宗教対立はない。幕末に来日した仏軍将校(E.スエンソ
ン)は浅草の賑わいを見て「日本では宗教施設が観光地になっている」と
ビックリした。花魁の浮世絵が飾られ、老若男女が拝んでいる姿を見て
「・・・日本には宗教がない・・・」と、多分かなりのカルチャーショッ
クを受けた。(花魁は当時の国民的スターだったんだけどね)

日本では一つの宗教に熱をあげる(淫する)と変人扱いされたり、敬遠さ
れたりする。先人の知恵は今でもことわざや警句として伝えられている。

嘘も方便

鰯の頭も信心から

人は好き好き貶すは野暮よ 好きなお方の好きにさせ

この言葉は信長、家康など浄土真宗や一向宗の信徒の抵抗に苦しんだ戦国
時代と徳川時代に定着したのだろう。秀吉はカトリックが侵略の手先に
なっていることを知り、それが朝鮮と支那へ浸透したら、洗脳された朝支
「救世軍」が元寇のように日本を襲うだろうと、先手を打ってそれを阻止
するため朝鮮征伐を行い、カトリックを拒絶した。秀吉や徳川の鎖国が日
本文化を醸成させたと小生は思う。

この秀吉の16万と朝支の25万の軍が激突した戦争(文禄・慶長の役、
1592〜1598)は世界史的に見て16世紀最大の戦いだったという。秀吉は無
意味な戦争をしかけたという学者が多いようだが、明国は莫大な戦費を強
いられ、財政破綻で1644年に消滅した。

続く清国は英国などの列強に蚕食され、日清戦争に敗れ、間もなく亡び
た。中共はトランプ王国に脛を蹴られて下り坂、逆風は止みそうもない。
ガチガチの中共独裁は自己変革できずに間もなく自壊するだろう、ソ連の
ように。運が良ければその瞬間を我々は目撃できる。閑話休題。

岡村道雄著「縄文の生活誌」に刺激されてこんなことを思う。

日本は100万〜20万年前の旧石器時代の大昔から「八百万」の神々を畏敬
する多神教だったのではないか。人間、動物、植物、大地、空・・・すべ
ての万物には神が宿っているというのが日本人のDNAのような気がする。
モノにもすべて魂があると小生なんぞは思っている(からモノを大事にす
る。穴の開いた靴下でも繕い、「継ぎはぎは誇り、穴の開いたままにする
ことこそ恥」と心得ている。ま、電通式浪費推奨資本主義の敵ではあるけ
れど)。

生物は繁殖したもの勝ちである。世界中の歌の9割は「恋せよ、繁殖せ
よ、地に満ちよ」という応援歌だ。先日買ったサッチモのCDを聞いていた
ら凄いのがあった。「やろうぜ、クラゲだって虫だって貝だってやってる
んだぜ、やろうぜ」・・・ここまで言って委員会で、女子は顔を赤らめる
か侮蔑して去るだろう。

「何なんだ、これ」と歌詞を見たら'Lets do it'で、(Lets fall in
love)とカッコ書があった(Let's ?)。ちょっと人騒がせな歌だね。結局
は生殖なのだけれど、飾らないと身も蓋もないから詩人たちはあれこれ美
しい表現をするわけだ。

わが街には小生が散骨を希望している多摩丘陵の生田緑地に3つ、母校の
中学北側の多摩川に1つ、縄文遺跡がある。狩猟漁労採集の遊動生活の旧
石器時代、続く定住主体の縄文時代の日本で、我らのご先祖様であるホモ
サピエンスはどう暮らしていたか。

日本は温暖な気候で8割は山である。人の住む場所は山と海の間の狭いと
ころで、川が流れているところが望ましい。山・海・川があれば、そこは
食糧の宝庫だ。獣や魚、栗などの木の実が豊富に取れる。取り尽くしたら
他の土地へ移動するという遊動生活だ。

そのうち土器を作るようになり、煮炊きや食糧保存も可能になり、栗の栽
培なども始まる。他の部族との交易も進み、弓矢に使う黒曜石や接着剤の
コールタールと、村特産のジビエの燻製を物々交換したりしたろうから、
定住が進み、夏は涼しい山の上、冬は陽射しのある暖かな麓といった、そ
の程度の移動で暮らせるようになっていった。

「まったく便利な世の中になったもんだ。祖父さんの祖父さんの時代は毎
日のように移動して食糧を得ていたらしいけれど、もう今はのんびりと暮
らせる」

縄文時代の御先祖様はそう思ったろう。

村や部族は最初は小世帯、小人数だったが、狩猟などでは獲物を包囲する
には人数が必要だし、孤立していると交易に不利だし、縄張り争いもある
から、合従連衡で村ができ始め、やがて三内丸山のように数百人もが生活
する、ほとんど町のような集団生活になる。

当時、子供は4人産んでも1人育てばいい方という状況で、なかなか人口は
増えない。大きな村や町に暮らせば男も女も'Lets do it'の機会は増える
から人口は増えやすい。保育士や医者のような人もいたのではないか。

こういう大集団が列島にポコポコ作られていった。やがて大陸伝来の水稲
耕作が盛んになったため、あまり移動しなくても食糧を確保できるように
なった。狩猟や採集は効率が悪い(当たりはずれがある)から稲作や畑作
は歓迎され、大いに普及したろう。これが弥生時代(縄文後期と言った方
がいいと思うが、自給自足で、地域間交流が衰えて「おらが村がすべて」
という「井の中の蛙」的感じになっていったのは良かったのかどう
か・・・それはともかく、独自の文化を育んだことは確かだろう)。

水稲耕作に限らず、農業の適地というのは限られている。食糧事情が良く
なり人口が増えれば農地や水をめぐって紛争も起きやすくなる。こうした
内憂に加えて、支那大陸や朝鮮半島の様子では、「国」としてまとまらな
いと強国に飲み込まれて属国になりかねないという外憂もある。

「M&Aの時代やで。強くなければ支那や半島に首根っこと金玉を握られて
二流国家のままや。今必要なのは日本としての国家統一や。小異を捨て大
同につく。八百万の神々も見守ってくれるやろ」

かくして多分、紀元前300年頃、神武東征が始まったのかもしれない。仲
間に入るか、それとも干戈を交えるか、と硬軟取り混ぜて部族を糾合して
いったのだろう。塩野七海が言うように「神話は事実かどうかはともか
く、素敵なロマンとして国民が共有することに意義がある」のだ。たとえ
勝者の歴史観だろうが、民が受け入れればよく、神話は国家としての接着
剤になる。

神武東征の神話が神道の基礎になったのだろうが、それらが根付くのは西
暦600年あたりからのようだ。「和を以て貴しとなす」で始まる聖徳太子
の有名な十七条憲法(604年)が国体というか国柄はかくあるべしという
規範を明確にした(明治の初め1868年の「広く会議を興し、万機公論に決
すべし」で始まる「五箇条の御誓文」はそれに倣っているようだ)。

続いて実力者の蘇我入鹿を誅殺しての大化の改新(645年)で天皇をトッ
プとした律令体制が固まっていったようである。

(「大化」は元号の最初。大化けとか大革命の意味か。500年代に支那か
らもたらされた儒教の教典「書経」(「尚書」とも)による命名のようで
ある。WIKIによると「昭和や平成を始め35個の日本の元号は、この書が由
来になっている」)

こういうような経緯で神話を基にした「一君万民、天皇の臣民としてみん
な仲良くやろうね」というアバウトな神道が日本の背骨になり、それ自体
はちっとも日常生活に影響しないから仏教、儒教などを規範、方便として
取り込んで(飲み込んで)いったのだろう。「産地がインドだろうが支那
だろうが、いい教えは活用したらええねん。Xマス、ハロウィン、どんど
んやりなはれ。恵方巻もええし、お盆の前にラマダンもやったらええか
も」という感じ。

明治神宮、靖国神社、大村神社、東郷神社、西郷神社・・・尊敬される人
は皆神様になっちゃうという、世界でも実に珍しい多神教。祖国を奪われ
て2000年も迫害されてきたユダヤ人も、この日本の多神教という、まるで
何でも受け入れちゃうオデン鍋に、最初は驚き、そして「いいもんだな
あ」と感動するのだ。

日露戦争でユダヤ人は日本の戦時国債を買ってくれ、勝利の一端を支えて
くれた。旅順攻防戦でロシア兵として戦い、片腕をなくし、さらに捕虜に
なったユダヤ人、ヨセフ・トランペルドールは日本で敬意をもって遇さ
れ、「国家はいいもんだ」と2000年ぶりにユダヤ国家再建へと大きく動い
たのである。イスラエル再建の陰の一端を支えて日本は恩返しをしたのだ。

一神教の宗教は「私は私、君は君。価値観は違うけれど仲良し」という寛
容ではなく、反発や侮蔑を生む。そして繁殖を汚れのように説く(とか暗
に示唆するような)教義が多い。プロテスタントの一派のシェーカー教は
1800年年代の一時期米国で最大の宗派だったが、男女交際を認めなかった
ので1960年代には消滅した。

カトリックの神父は結婚はできずに男色スキャンダルを起こし、バチカン
は信者獲得のために中共に擦り寄っている。繁殖しなければ何でも衰退す
るが、よりによって独裁者にも媚びを売るか。Shame on you! バチが
カーンと来るんとちゃうか?

出産は女しかできない。オッパイも女しか出ない。出産・子育ては女の大
事な仕事である、男はエサを必死で運ぶのが仕事だ、ずーっとずーっと昔
から。ボルトとナットはセットであり、片方だけでは用が足せない。差別
ではなく、区別、役割がある。その規範を無視して男の仕事をしたいとい
うのは分からないでもないが、それは出産・子育てと両立はしない(乳母
や女中がいれば別だろうが)。人間として、生物としてカップルの最優先
の仕事は繁殖である。

繁殖できる環境を整備するのは結構だが、男と伍して戦士になる前にまず
は立派な母親になる方が大事だろうに。Lets do it!

(そこのキレーナなオネーサン、どや、ヂーサンと一緒に苦労してみーへ
ん?・・・“若大将”の親父、上原謙は「愛があれば歳の差なんて」と、66
歳で28歳のオネーサンと一緒になり子をなし、ミック・ジャガーは22歳の
彼女をGET、73歳にして8人目の子供をもうけたそうや。「金があれば歳の
差なんて」ということかいな・・・

カネなし、タネなし、名誉なし、パワーなしの廃車(者)寸前、ヨロヨロ
発狂ヂヂイにヨロメクような奇特なオネーサンはまずいないわな。ま、K
の勘違いから寺に予約し、3月にわての生前葬をやることになったさか
い、思い残すことはないんやが・・・煩悩のカケラはまだ残っておる
で・・・悩ましいもんやで、のう、人生っちゅうのはよー)

さてさて本題へ。前回に続いて「正論」2005年2月号「大島信三編集長イ
ンタビュー 元朝鮮総連活動家の懺悔録『未来のために私の過去を話しま
す』元朝鮮青年同盟中央本部副委員長兼組織部長:全京千」から要約する。

<――朝鮮総連が結成されるイキサツをご存知ですか。

全 在日本朝鮮統一民主戦線(民戦)組織に対して韓徳朱が論陣を張り、
在日は北の金日成の指導を受けようということです。

その頃、金日成が「我が国は地上の楽園であり、国民は屋根のついた家に
住み、白いご飯と肉入りスープを食べている」と言っていると。それに比
べて在日コリアンは悲惨な生活状態でした。

働き口はほとんどなく、やっと収入を得てもドブロクやヒロポンで憂さを
晴らすというその日暮らしでした。だから韓徳朱の主張に共感する人たち
は多かったのです。

1955(昭和30)年5月25日の総連誕生の日はよく覚えています。結成式は
浅草公会堂で開かれました。私は韓徳朱議長のボディガードとして隣に
座っていました。「何があっても議長を死守せよ」と言われていたので、
5月というのに緊張感で汗びっしょりでした。韓徳朱は敵が多く、いつ襲
撃されるか分からなかったんですね。

総連ではいろいろ権力争いがありましたね。1970年頃、私は(韓徳朱の親
戚で総連の実力者、人事部長だった金炳植と意見が合わず)総連を離れた
んです。

(後に韓徳朱と対立して北へ追い出された)金炳植がまだ権勢があった
時、政治学校が開校し、彼が学校長になったんです。その一期生が私とか
許宗萬(後に実力者、ドン)ですよ。

――帰国事業(1950年代から1984年にかけて行われた在日朝鮮人とその家族
による日本から北朝鮮への集団的な永住帰国あるいは移住運動)に関わり
ましたか。

全 早く船を出して欲しいと日赤に何度も掛け合いに行きました。新潟で
寝泊りして、あの仕事に関わりました。

(帰国事業の狙いは)いろいろあったと思いますが、厄介払いという面も
あったと思います。当時の在日の中には定職を持たない人間が大勢いまし
た。密造酒やヒロポンを売る人間、借金で首が回らない人間など、我々朝
鮮人の名を汚すようなのがごろごろいたわけです。そういう人間を帰そうと。

実は私もひそかに北へ行ったことがあるんです。1972年でした。総連組織
から離れて1年半ぐらい経ったころでした。以前から尊敬していた人から
「お前、今何をしてるんだ」と、電話があったんです。

その人は昔、祖国防衛隊のキャプテンをしていました。いい度胸だった
し、とても弁の立つ先輩でした。

行ったら、「お前どうして総連をやめたのか」と言われました。「金炳植
と意見が合わなかったのです」と言うと、「ああ、お前もか」というわけ
です。

実は「お前さんの勇気を買って、来てもらった。非常に大切な話だ」と。
要するに「党がお前を呼んでいる」っていうわけです。もう自分は朝鮮労
働党とも総連とも関係ないんだ、と思っていました。それが何と私を必要
としている、と言うんでしょう。体の中の血が燃えたぎるほど興奮し、感
激しました。

――大切な話とは何でしたか。

全 祖国へちょっと行ってみないかと。「どういうことをやるんですか」
と聞いたら、「あとで教える」と。実際に行動を起こしたのは夏に入って
からです。

密出国は(島根県寄りにある山口県阿武郡の)須佐というところです。
1972年の8月17日か18日だったと思います。山陰本線の須佐駅で降りて、
打ち合わせ通り駅の公衆トイレに入りました。そうしたらトイレの外から
「田中さんですか」という声がありました。「はい、田中です」といった
ら、「ご苦労様でした」と。これは事前に聞いていたお互いの身分確認の
合図でした。

その時私に田中という名前が付けられたのは、この年の7月に田中角栄さ
んが総理大臣に選ばれていたからだと思います。(つづく)

【措置入院」精神病棟の日々(111)】1月末で退院してから丸2年がたっ
た。オツムはかなり安定してきたが、痛めた膝と腰は相変わらず良くな
い。老化であり、改善することはなく、「そういうものだ」と慣れてはい
くのかもしれない。屋上に50鉢のお花畑も完成し、やるべき仕事、作業、
遊びの85%は終わったから、「もういつでアポーンになってもいいや」と
いう気分ではある。伊勢参りをしたいが、体力的に無理かもしれない。発
狂亭“煩悩解脱始めの一歩的”雀庵の病棟日記から。

【2016/12/22】木曜、晴れたり曇ったり。

第一次世界大戦前夜、欧州は妖怪=共産主義にかなり汚染され、内乱→革
命→共産主義社会を理想としていた人々が多かった。レーニンらは「帝国
主義戦争を内乱へ転化せよ!万国の労働者団結せよ!」と煽りに煽った。

ところが戦争が始まると若者は赤旗を捨て国旗を掲げて応召し、内乱どこ
ろか、毒ガスもOKというルールなき戦争へと身を捧げたのだ。レーニンは
ビックリしたろう。

レーニンが考えた末に到達した結論は「愛国心は共産主義の最大の敵だ。
若者が愛国心を持たぬように、父母、祖父母、ご先祖様がいかに酷いこと
をしてきたか、自分の国がいかに最低の悪者だったかを若者に小さいうち
から吹き込まなければならない」というものだった。

いわゆる自虐史観で、第二次大戦後はGHQが日本人洗脳のため米国流レー
ニン方式のWGIP(戦争を起こした日本が悪いという日本悪玉論)を普及さ
せ、アカが大いにその尖兵になったものである。

【産経】井伊重之「競争力高める『働き方改革』」。小生思うに、残
業=×、週休3日=〇のようなものが“正義”になっているのは変だ。一方で
戦後復興を強力に進めたのは、銃の代わりに製品サンプルをもって世界中
を駆け巡った企業戦士ではなかったか。今でも日本経済を引っ張っている
のは24時間戦える人、48時間完全徹夜でもOKな戦士ではないのか?

戦場で死ぬ戦士は多い。血を流す縄張り争いが戦争、血を流さないそれは
競争だ。「もう走れません」となったら死ぬか、周囲が察して入院させる
しかない(実はこれは現実には難しい。自殺の直前は「やることはやった
んだから、もういいや、ルンルン」と躁状態になっているのではないか。
残された家族は「前夜はとてもはしゃいでいたのに・・・」とガックリす
るケースが多いと思う)

1986年、今から30年前のリクルート本社には40畳ほどの雑魚寝部屋があっ
た。残業、徹夜は当たり前で、「女子は3年で子供の産めない体になりま
すよ」と30代で白髪の目立つ男子社員がボソボソと言っていた。

「なぜそんなに働くのか」と女性編集長に聞くと、「社内には波があり、
その波に乗らないと落ちこぼれてしまうんです」。イケイケドンドン・・・

そして今、リクルートHDの社長はこう言うのだ。

「日本のホワイトカラーの管理職層の生産性は世界でも低い」

日本は基本的にトップダウンではなくボトムアップ、かつ「和」の国柄だ
から会議が多すぎるのだろうし(会議のための資料作り!)、それが残業
や過労に繋がっているのは事実だろう。ただ生産性ばかりを高めると、日
本的な、家族的な企業風土の良さ(戦死を厭わない愛社精神)も失われて
しまうのではないか。

「ダメ、絶対、過労死!」と企業戦士を否定するのはどうかと思う。その
辺の塩梅は難しいが、米国のエリートビジネスマン(高給取り)は「夜討
ち朝駆け」は当たり前のようである。無理を承知でも波に乗り続けないと
トップグループからオイテケボリになる。(つづく)2019/2/5

◆「喧嘩は済みましたか」

渡部 亮次郎


「喧嘩は済みましたか」と開口一番言ったのはかの毛沢東。田中角栄日本
首相に対してである。角栄氏、ノモンハン事件で陸軍に召集された事は
あったが、中国を訪れたのは初めて。それがいきなり国家主席の開口一番
が「喧嘩」だったから驚いたに違いない。

1972(昭和47)年9月27日、未明のことである。釣魚台の迎賓館で寝ている
ところを起こされての「表敬訪問」、しかも事務方の随員や通訳の同行は
不可。外相大平正芳、官房長官二階堂進の3人だけでの「表敬」。

お気づきのように田中首相は、先立つ自民党総裁選挙に当って「日中国交
即時回復」を訴えてライバル福田赳夫を蹴落として、9月25日、北京入りを
果たし、直ちに首相の周恩来と「国交正常化共同声明」の案文を巡って
「喧嘩」を続けてきた。

「喧嘩」が済んだので毛沢東の「引見」が許されたわけだった。しかし随
員も通訳も連れてゆけなかったから、関係者の殆どが死亡した現在、「証
人」は中国人通訳だけである。

私はNHKを代表して田中首相に同行していた記者だったが、毛沢東の「引
見」は知らされず、夜が明けてからいきなり、カラー写真を手交されて初
めて知った次第。

それはともかく毛沢東はじめ中国人は「喧嘩」抜きの和平はあり得ないと
考えていることである。ところが日本人は「和をもって貴しとなす」とば
かり「隣国」との関係は常に平和でなければならないと考え勝ちである。

民主党政権では菅首相も仙谷官房長官(いずれも当時)も「平和状態」を
いつも望む余り、中国への「刺激」を悉く避け、結局「事なかれ主義」に
陥ってしまっていた。中国に嫌がられながら「尊敬」されているのはただ
一人前原外相(当時)のみである。

中国人は利権が好きだ。だが利権を求めて中国訪問をする政治家を最も軽
蔑するのも中国人である。

日中正常化交渉の時、日本側の条約局長はとうとうと原則論を展開して周
恩来首相を怒らせた。しかし周は陰では「わが方にもあれぐらい骨のある
奴がいたらなあ」と局長を褒めちぎった。

詰まり中国人は、なびいたり媚びたりする相手は軽蔑したり舐めたりする
が心の底では徹底的にバカにする。船長を即時釈放しろといったらすぐ釈
放した菅首相、仙谷官房長官は、表面的には歓迎されているが、心底では
「骨の無い奴らだ」と軽蔑されているのである。

<【北京=大木聖馬】中国外務省の胡正躍・外務次官補は21日、記者会見
で、前原外相の日中関係に関する一連の発言について、「なぜこんなに
(ブリュッセルでの首脳会談で合意した関係改善を)刺激するのか。(前
原外相の発言は)深く考慮するに値する」と述べ、今月末のハノイでの日
中首脳会談の調整に影響を及ぼしていることを示唆した。

胡次官補は、ハノイでの首脳会談開催について、「ふさわしい条件と雰囲
気が必要」とした上で、前原外相が 16日に「(首脳会談開催の)ボール
は向こう(中国)にある。開催時期は焦らなくてもいい」と発言したこと
について、

「中日関係の改善には共に努力しなければならない。なぜ焦らなくてよい
のか。なぜ中国にボールがあるのか」と批判。「こんなにも絶えず、両国
関係を傷つけ、弱め、破壊することに耐えられない」と非難した。(読売)>

これに驚いて菅や仙谷らが前原を抑えさせようと言うのが中国側の狙いだ
が、実際に前原外相を抑えたり、前原自身が萎縮したりすれば心の底から
「くだらない政治家」とバカにされるだろう。

以上は多少の取材経験と、軍隊時代、中国戦線で経験の深かった故園田直
(外相3期)の遺言的警告である。

「尖閣問題棚上げ」を提案してきた中国は、これで日本を油断させ、その
うちに実効支配体制を完成し、どうしても尖閣は勿論沖縄も奪取するハラ
である。菅や仙谷は余りにも中国人を知らなすぎる。

特に仙谷は日本的法体系で中国人を考えることを直ちにやめなくてはなら
ない。2010・10・22