2019年03月31日

◆ウィルス性肝炎

渡部 亮次郎

2007年1月22日に義兄をC型肝炎による肝臓癌で失った。来月は7回忌だ。死亡は彼の73歳の誕生日の前日だった。

発症は42歳のとき。医者の説明から俺の人生は50代で終わる、と覚悟したそうだ。

死ぬ前の月、つまり2006年12月8日に浦安のホテルに招待されて懇談した。死ぬ兆候なんか全く無い状態だったが「それが70過ぎまでこれたのは、珍しくインターフェロンが効いたからなんだ」と言っていた。

B型、C型肝炎の場合、徐々に肝臓の繊維化が進み、肝硬変に至り肝癌が発生することがあるとは今や常識だから、義兄は早くから覚悟を決めて肝炎との闘いを続けながら洋酒の輸入商を営んできたのである。

それから20日たった12月27日夕方、都内の彼の本社で会った。明日から孫など一族郎党を連れて北関東のホテルで年末年始の休暇を取るのだ、とうれしそうだったが、顔は真黄色、明らかに肝機能悪化に伴う黄疸が始まっていた。それでも翌日は車を運転して出かけた。

密かに心配していたら、正月空けの4日に連絡があり、只今港区内の大きな病院に入院との知らせ。黄疸がひどくなったので帰路は運転を代わってもらって来たとのこと。

かかりつけの病院で担当医も決まっていたから、早速、黄疸の手当てにかかったが、腹水が溜まり始めた。それを抜き取ったところ、当然、腎臓の機能が低下。時折、意識混濁。かくて入院18日後 死去してしまった。

急なことで死に目には会えなかった。幸い痛みを訴えることも無く、安らかな死に顔だった。

死亡診断書。死因は腎不全。その原因は肝臓癌、その原因はC型肝炎。私は20年近く前に友人を59歳で肝炎で亡くしており、これで周りの肝炎犠牲者は2人となった。

昔、長く日本医師会長を務めた故武見太郎氏に話を聞いたことがある。「きみ、21世紀は肝臓の時代ですよ。肝臓が様々なウィルスに攻撃される」と聞かされたが、当に人類は要の肝腎をウィルスに曝されて、まだ医学は殆ど無力の状態、と言わざるを得ない。

◆「認知症」には「散歩」が効果

向市 眞知


以前、住友病院神経内科先生の「認知症」の講演が、「こんな症状があったら要注意!」という話から始まり、下記の11の指摘がありました。

1、同じことを何度も言ったり聞いたりする
2、ものの名前が出てこない
3、置き忘れやしまい忘れが目立つ
4、時間、日付、場所の感覚が不確かになった
5、病院からもらった薬の管理ができなくなった

6、以前はあった関心や興味が失われた
7、水道の蛇口やガス栓の閉め忘れが目立つ
8、財布を盗まれたといって騒ぐ
9、複雑なテレビドラマの内容が理解できない
10、計算のまちがいが多くなった
11、ささいなことで怒りっぽくなった

「これらがいくつかあったり、半年以上続いている時は、専門病院へ行きましょう」といわれました。

私自身、同じことを言ったり、物の名前が出てこなかったり、置き忘れやささいな事で怒りっぽくなったなあと思い当たるフシがいくつもありました。専門診療の対象といわれてしまうと本当にショックです。

「認知症」というと周りの人に迷惑をかけてしまう問題行動がクローズアップして、その印象が強いのですが、新しいことが覚えられない記憶障害もそうです。また、やる気がおこらない意欲の低下もそうですし、ものごとを考える思考力や判断する力、そして手順よくし処理する実行力の低下も「認知症」の症状です。

「認知症高齢者」のかた自身の不安は、時間や場所がわからなくなったり、体験そのものを忘れていく中で暮らしているのですから、自分以外の外界のすべてが不安要因になってしまうのです。

ご本人は真剣に外界を理解しようとしているのですが、家族は「ボケ」「痴呆」ということばの印象から、「認知症だからわからないだろう、理解できないだろう」と思い込んでいる例が多くみられます。
 
診察室でなんとご本人を目の前にして「認知症高齢者」の失態を平気でドクターに訴えたり、「母さんがボケてしまって」とはばかりもなく言ってしまったりします。

その瞬間に、ご本人はその家族に対してまた不安をつのらせてしまいます。また話を向けられたドクターも、ご本人を前にしてウンウンとうなづくべきか、ほんとうは困っているのです。

うなづけば家族は安心しますが、ご本人はドクターへの信頼感をなくしてしまいます。

よく「まだらボケ」とか言いますが、「正気の時もあるからやっかいだ」と表現されるご家族もあります。しかしそれは逆で、やっかいと考えるのではなく正気の部分があるのならその正気の部分を生かして日常生活を維持するようにしむけてみませんか。
 
「認知症」があっても、くりかえし続けている一定の日常生活はできるはずです。老年期以前の過去の生活を思い出させてあげると、高齢者は自分の価値を再発見し、意欲も湧いてくるとききました。

高齢者にとって脳機能の低下だけではなく、視覚や聴覚、味覚や嗅覚などの感覚もおとろえてきていることを理解してあげてください。

すべてを「認知症」の一言でかたづけてしまわないで下さい。見えやすくする、聞こえやすくするというような場面の工夫で問題行動が小さくなることもあります。
 
「認知症だからわからないだろう」と思い込むのは大まちがいです。「言ってもしかたない」と決めつけるのは悪循環です。「認知症」の方の感じる外界への不安を考えると、情報が遮断されると余計に不安が大きくなります。

どしどし情報を与えることが不安の軽減につながります。そのために外出しましょう。

「認知症」には「散歩」の効果があります。外界の空気は聴覚、視覚、嗅覚への刺激になり、脳の活性化につながります。
                       医療ソーシャルワーカー

2019年03月30日

◆オムライスは大阪? 東京?

渡部亮次郎

オムライス は、日本で生まれた米飯料理である。ケチャップで味付けしたチキンライス(またはバターライス)を卵焼きでオムレツのように包んだ料理である。

日本料理のうち洋食に分類される。オムライスという名称はフランス語のomeletteと英語のriceを組み合わせた和製外来語である。

フライパンに割りほぐした卵を入れて焼き、半熟になったところでチキンライスをのせる。卵を折りたたむように裏返してチキンライスを包みこみ、木の葉型に整形して皿に盛る。ケチャップをかけて供されることが多いが、デミグラスソースを用いる店も少なくない。

「オムライス発祥の店」を自称する店はいくつかあるが、中でも有名であり有力とされるのは大阪心斎橋の「北極星」、東京銀座の「煉瓦亭」である。

「煉瓦亭のオムライス」は白飯に卵や具を混ぜ炒めたもので、どちらかというとチャーハンに近い。賄い食として食べていたものを、客が食べたいと所望したため供されるようになったもので、現在はこれを「元祖オムライス」という名前で提供。他に一般的なオムレツも別に提供している。

「北極星のオムライス」は、ケチャップライスを卵で包んだものであり、現在の主流のオムライスのルーツである。白飯とオムレツを別々に頼んでいた胃の弱い常連客を見て「いつも同じものでは可哀そうだから」という主人の思いから生まれた。

東西という違いや品物の違いなど、どちらが元祖かという判断は非常に難しいが、煉瓦亭が元祖オムライスを世に送り出したのが明治34年、北極星がケチャップライスを使ったオムライスを作り出したのが大正15年であるという点、創業年代(煉瓦亭が明治28年、北極星が大正11年)などからか、雑誌や本など一般的には煉瓦亭が元祖とされることが多い。

時期はそうであるにしろ、北極星のは煉瓦亭のを真似たものでは無いのだから、それぞれを元祖だと私は思う。

映画「タンポポ」で有名になった作り方として、皿に盛ったチキンライスの上に中が半熟のプレーンオムレツをのせ、食卓でオムレツに切れ目を入れて全体を包み込むように開くという方法がある。

これは伊丹十三がアイディアを出し、東京・日本橋にある洋食屋の老舗「たいめいけん」がつくりだしたもので、現在「タンポポオムライス(伊丹十三風)」という名前で供され、店の名物の一つである。

チキンライスではなく白飯を玉子焼きで包み、カレーやデミグラスソース、ハヤシライスのソースなどをかけた料理は、オムライスとは区別され、「オムカレー」や「オムハヤシ」のように「オム○○○」と呼称されることが多い。

チキンライスの代わりにソース焼きそばを卵で包んだものは「オムそば」と呼ばれる。このオムそばは関西地域のお好み焼き屋では定番メニューとなっている。

ラーメン店では、チャーハンを卵で包んだものを「オムチャーハン」として供している場合がある。オムチャーハンでは、焼いた面を裏、半熟の面を表と、通常とは表裏逆に包むことが多い。

また、ケチャップなどは用いず、チャーシューのエンドカット部分を細切れにしたもの(チャンコマ)を乗せ、チャーシューの煮汁をかける。チリソースなどをかけて中華風にすることもある(甘酢あんかけにすると天津飯になってしまう)。

有名どころとしては、東京都中央区の「チャイナクック龍華」、大阪市北区の「まんねん」など。

昔、大阪心斎橋の「北極星」に勤めていた元「唐金」のママと電話で昔話をしているうちに、オムライスの話になった。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


◆健康百話  肝臓の血液検査

 片山和宏 医師


 〜血液検査って、一体何がわかるのでしょうか?〜

血液は人間の体の隅々まで行き来し、栄養や要らなくなったものをあちらこちらに運んでいるわけですから、血液は体のいろんな部分の情報をもっているわけです。

血液検査をすることで、非常に多くのことがわかるようになってきました。ただし、これも体の部分によって、また病気によって血液に結果が出やすい場合と、とても出にくい、いやほとんど血液検査ではわからない病気もたくさんあります。

たとえば、体の動脈硬化の状態は血液検査ではほとんどわかりませんし、また胃や大腸に癌などのできものができているかどうかも、ほとんど分からないのが現状です(但し癌によっては腫瘍マーカーという血液検査で一部わかることがありますが、あくまで参考データと考えた方がいいくらいです)。

ですから、人間ドックや健康診断では血液検査とともに、血液でわかりにくい部分は胃のレントゲンなどの検査を組み合わせていくことが大事になるわけです。

肝臓はというと、血液にのせて体のあちこちに栄養分を送りつける中心的な存在ですので、肝臓の状態は血液検査でわかりやすいという特徴があります。
ただ、肝臓は働き者でとても多くの仕事をこなしていますから、肝臓の状態を表している血液検査も非常にたくさんあり、ひとつだけをみて状態を考えることはできません。
 
そこで私は、患者に肝臓の血液検査の説明をするときには、肝臓を緑の多い、川のきれいな山に例え、肝臓の病気を山火事に例えて説明しています。

アルブミンや血液凝固機能:緑(木々)の多さ、ビリルビン:川の透明度、GOT / GPT:山火事の火の大きさ、ヒアルロン酸:緑が無くなってみえてきた地肌の大きさ。アルブミン、凝固機能、ビリルビンという血液検査の組み合わせは、医師が肝臓の働きを評価するときによく使う組み合わせですし、ヒアルロン酸はどのくらい肝硬変に近付いているかを判断する指標です。

肝機能検査として有名なGOT / GPTは、実は肝臓の機能を表しているのでは無く、肝臓の病気の勢いを表しているということが分かっていただけるかと思います。
火の大きい(GPTの高い)山火事は、早く火の勢いを小さくしないといけませんが、その時点での肝臓の元気さ(働き)はまた、別なのです。

このことを踏まえて、一度血液検査を眺めていただけると視野が拡がるのでは?

             大阪厚生年金病院 消化器担当

2019年03月29日

◆いもち病(稲熱病)の怖さ

渡部 亮次郎


「蓑(みの)着て笠(かさ)着て鍬(くわ)持って お百姓さんご苦労さん」という童謡がNHK第1放送から流れていた時代がある。明治でも大正でもない、昭和も敗戦直後、1947、8年ごろだった。食糧難の時代、国民みんなして百姓にゴマをすったのである。

蓑や笠を着る百姓は今やどこにも存在しない。すべて機械化して田圃からは女性が姿を消した。田植えも稲刈りも機械がやるし、除草は農薬が解決してくれた。結果、農村からは猫背、蟹股、腰曲がりが居なくなって久しい。

しかし、その代わり、田圃から女性と共に居なくなったのが泥鰌(どじょう)とトンボである。稲作の大敵「いもち病」を防除すべく禁じ手「水銀系農薬」を使ったからである。「いもち」はそれほど恐ろしい。今でも恐ろしい。

「いもち」とはイネに対する最も普通の病気で,穂,葉,茎などに発生して大害を与える。とくに山間,北部地域では,いもち病との闘いが稲作の大きな課題であった。この事情を反映して,日本植物病理学の分野では最も多く,また深く研究されてきた病害である。

穂に発生すると発病部位から先の方は実らないので、「穂首いもち」は被害が深刻である。「葉いもち」、穂いもちとも同じ菌によって起こるが、発生の様相としては、比較的葉いもちが多くて穂いもちの少ない南日本型と、逆に葉いもちよりも穂いもちの多い北日本型がある。

若いイネに激発すると株全体が萎縮して枯れてしまう。この病状を「ずり込みいもち」という。防除に失敗すれば収穫ゼロ。

防除薬剤としては,戦前はボルドー液万能であったが,戦後一時期有機水銀剤が脚光を浴び目覚ましい効果を挙げた。これが禁じ手と気付いて止めたものの遅かりし。泥鰌は死滅した。

現在では抗生物質剤(ブラストサイジンS、カスガマイシンなど)や有機リン粒剤などが使われている。

いもちは一般に,日照不足,多雨,低温のときに病気が多く,またイネの体内に遊離の窒素成分が多く,ケイ酸が少ないときに発生が多い。

いもち病の発生程度は年次によっても異なり,ほぼ10年周期で大発生が記録されている。昭和年代に入ってからは,1934(昭和9)年の稲作冷害が有名で,東北地方では娘の身売など深刻な社会問題が発生した。

陸軍のクーデター「2・26事件(1936年)」の背景であるが、この不作には純冷害のほかにいもち病による被害が大きかった。

戦後では,53(昭和28)年,63(38)年,74(49)年に大発生をみている。

的確な防除を行うには発生を予察することが肝要である。以前から気象条件,イネの体質,胞子の飛散などを知って穂いもち病の発生を予測していたが,近年コンピューター導入で,大量のデータからの予察も試みられている。

日本ではじめてこの病気が記録されたのは,1679年(延宝7)の《永禄以来当院記録年鑑》(広積院祐栄書)とされるが,その後の《耕稼春秋》(1707ごろ)の記載が人口に膾炙(かいしや)している。

イネ品種によってかなり抵抗性に違いがみられる。外国イネには強度の抵抗性のものがあるが,日本在来の品種は概してかかりやすい。

従って日本にいける稲の品種改良は、収穫量、食味の追及とともにいもちなど稲の病害虫に対する抵抗力の研究に重点が置かれてきた。

最近は外国イネの強い抵抗性因子を導入した品種も育成されている。しかしせっかく抵抗性品種ができても突然ひどく罹病してしまうことがある。これはレース新生のためであることが多い。

レースrace とは形態が同じでありながら病原性の異なる菌で,日本には今16以上のイネいもち病菌レースが知られている。

ここ数年 Pyricularia属菌の菌学的な研究が進み,イネいもち病菌とシコクビエいもち病菌の交配によって有性胞子が形成され,またイネいもち病菌がタケに寄生性のあることが知られるなどして,菌の所属について検討される時機にある。(再掲)


◆健康百話  風邪と肺炎にご注意!!

柴谷涼子(感染管理認定看護師 )


風邪やインフルエンザが流行し始めました。特にこの時期、朝晩の気温の変化が激しいことに加えて、空気が非常に乾燥するため、風邪の原因になるウイルスの活動も活発になり、風邪をひきやすくなります。

●事前の予防
 外出から帰った後の「うがいと手洗い」が基本です。また、お天気の良い日には、日光浴や散歩など適度な運動をするよう心がけ、入浴により身体を清潔にしておくことも大切です。

●高齢者にとり肺炎は危険な病気
 肺炎はお薬の進歩によって、かなり治療ができるようになりましたが、高齢者にとってはまだまだ怖い病気です。とくに糖尿病や心臓、呼吸器系に慢性的な病気を抱えている方、腎不全や肝機能障害のある方も罹患しやすく、病状も重くなる可能性があります。厚生労働省が報告している人口動態統計でも肺炎による死亡率はここ数年上昇してきています。

肺炎は細菌やウイルスなどいろいろな原因で起こりますが、肺炎を起こす原因となる細菌に「肺炎球菌」があります。

●肺炎球菌による肺炎を予防
 「肺炎球菌」は、健康な人でも鼻腔などに常在する菌です。しかし加齢などにより免疫力が低下すると、病気を引き起こしやすくなります。日本では、ペニシリンという抗生物質が効きにくい肺炎球菌の割合が増加しています。抗生物質の効きにくい肺炎球菌による肺炎に罹患すると、治療に難渋する場合があります。

 そこで、「肺炎球菌」によって起こる肺炎を予防するワクチンが、肺炎球菌ワクチンです。ただし、肺炎球菌ワクチンを接種してもこれ以外の原因で起こる肺炎は残念ながら予防することはできません。
 
ワクチンを接種して得られる免疫は約5年以上持続するといわれています。

次のような方に「肺炎球菌ワクチン接種」をおすすめします。
・65歳以上の高齢者 
・心臓や呼吸器系に慢性疾患のある方 
・糖尿病の方 
・腎不全や肝機能障害のある方

肺炎球菌ワクチンの接種については、最寄りの病院やかかりつけの医師にご相談下さい。
肺炎球菌ワクチンのみでなく、インフルエンザワクチンをまだ接種がしていない方は、是非接種してください。(再掲)

             大阪厚生年金病院 看護部看護ケア推進室

2019年03月28日

◆アカシアの雨がやむとき

渡部 亮次郎

言わずと知れた西田佐知子のヒット曲である。「アカシアの雨に打たれて、このまま死んでしまいたい 夜が明ける日が上る・・・」1960年の判安保の歌とあとで評判になった。

日米安保反対闘争を私は仙台でNHK記者として聞いた。23歳だった。鼻の頭に汗をかきながら冷害の心配をせっせとニュースにし、カメラマンの訓練も受けていて、国会議事堂をとりまく安保騒動には全く関心を寄せる暇が無かった。

1960年、昭和35年は心有る者には「大逆(たいぎゃく)事件の真実をあきらかにする会」が発足し、50年前、残虐非道の判決が下された「大逆事件」について、やっと再審を請求する動きの始まった年として、記憶されるべき年である。

しかも大逆事件の経緯を知れば、安保騒動なんかに付和雷同することは、とうてい出来なかった。

「たいぎゃくじけん。明治天皇暗殺計画の発覚に伴う弾圧事件。1910年(明治43)一部の社会主義者の天皇暗殺計画を理由に多くの社会主義者・無政府主義者が検挙され、26名が大逆罪で起訴、無関係者を含む24名が死刑を宣告され、翌年1月幸徳秋水・宮下太吉ら12名が処刑された。幸徳事件」(岩波広辞苑第5版)。

80歳の私ですら大逆事件のことを学校で習ったことは無い。戦後、アメリカ軍は日本の子供たちが自国の近現代史を習うことを嫌ったからである。そのまま成長してしまい、大逆事件の事を知るのは大人になって自分で本を読んでからである。

時は日本がロシアとの「日露戦争」にやっと勝った直後である。「日本政治裁判史録」(第一法規出版)に依ると、世には一種の挫折感がみなぎり、深刻な生活難が実在した。色あせた明治の栄光の陰から、社会主義運動は次第に形を整え、政治の舞台に登場してきたのである。

甲府生まれにして長野県内にある官営明科(あかしな)製材所職工長宮下太吉(34)が明治43年5月25日、明治天皇を暗殺する目的で作ろうとした爆裂弾の材料とともに逮捕されて事件の幕はあがった。

語らった友人、親族それに思想的指導者としての幸徳秋水や、管野スガらが次々に逮捕されて26人にのぼった。罪名は刑法73条「皇室に対する罪」である。

「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」。どう考えても唆したとされる管野スガ、爆裂弾作りに手を下した4人以外は「口舌の徒」に過ぎない。

しかし、社会主義政党を許可した西園寺内閣を憎んで潰した桂内閣とその陰にいる元老山県有朋は、この事件をいいことに社会主義・無政府主義の根絶を図ろうと企てた。

引っ掛けられた方はたまらない。裁判は大逆罪に限り非公開1審のみ証人無し。検事側の主役を演じた平沼騏一郎でさえ後年「今なら10年ぐらいかかるだろう」と言うのを、証拠調べにわずか20日。なにしろ捜査開始から判決までたった8ヶ月だった。

24人に死刑、うち12人は恩赦で無期懲役となったが、とにかく12人は1週間後に処刑された。恐ろしい時代だったのである。からくも死を逃れた14人のうち3人は獄中病死、2人は自殺、残りはやっと昭和9年までに仮出獄や満期釈放となった。

昭和9年に仮出獄した坂本清馬本人と別の遺族が昭和36年から再審を請求し続けたが昭和42年7月5日、最高裁でも棄却されて事件は闇に葬られた。

戦後は刑法も改正されて大逆罪や不敬罪は無くなった。しかしそれをなくしたのは、占領軍アメリカだった。確かにアメリカは日本から自主防衛の権力も取り上げたので、岸信介首相はせめて相互協定にしようと日米安保条約改定を図ったのである。岸内閣は倒すべきでは厳として無かった。

それを社会党と共産党、労働組合・総評の逆宣伝に乗って全学連などと言って国会周辺で騒いで女子学生を踏み殺した。

ただそれだけの「はしゃぎ」だったのに「空しい」と「アカシアの雨がやむとき」なんぞ歌ってメソメソするとは、いい気なもんだった。

安保騒動の学生が殺されなかったのには大逆事件の犠牲による刑事訴訟法の改正が大きかった。なお、平沼騏一郎の子孫が平沼赳夫氏という。
                         2004.03.22

◆「リハビリって何?」

向市 眞知


「リハビリ」という用語は訳さなくてもよいくらい、日本語になってしまいました。しかし、この用語がとても曲者なのです。皆がこの用語の前向きなところにごまかされ、便利にしかも安易に使ってしまいます。

医師は最後の医療としてリハビリに望みをつなげる言い方をします。家族は家にもどるためにはリハビリを頑張ってほしいと期待をかけます。患者もリハビリを頑張れば元どおりになれると思います。

リハビリとは「再び生きる」という用語と聞きました。この概念で考えるととても幅広い概念です。

病院にはリハビリテーション科があり、そのスタッフには理学療法士、作業療法士、言語聴覚訓練士という、国家資格をもった専門技師がそろっています。身体機能回復訓練に携わるスタッフです。

医師が「リハビリ」という用語を使う場合にはこのようなリハビリテーション科のスタッフによる訓練を指すだけではなく、「再び生きる」心構えをもちましょう、という意味を含んでいる場合が多いのです。

しかし、患者、家族の方はリハビリは療法士がするものと思い込んでいるケースが多いように思います。よく言われるのに「リハビリが少ない」、「リハビリをしてもらえない」というクレームがあります。療法士がするものだけがリハビリなら、診療報酬上点数がとれるのは一日20分から180分です。

「リハビリを受けさせたいから入院させてほしい」とよく言われますが、一日の何分の1かの時間のリハビリだけで「再び生きる」道のりを前に進むことはむずかしいものです。あとの時間をベッドに寝ているだけでは、何の意味もありません。「リハビリのために入院している」というだけの安心感の意味しかありません。

いくら日本一の理学療法士の訓練をうけたからといって、患者本人が「リハビリをする(再び生きる)」心構えになっていなければ、空振りに終わってしまいます。

マヒした身体に対して、拘縮してしまわないように理学療法士が外から力を加え訓練をすることはできます。でも、訓練が終わって身体を動かさなければもとの木阿弥です。

しかし、言語訓練はそうはいきません。本人が声を出そう、話そうとしなければ訓練になりません。「絶対話すものか!」と口をつぐんでいる患者に訓練は意味を為しません。まずは声を出してみよう、話してみようという気持ちになるように、心理的にリラックスしてもらうことから訓練を始められると聞きました。

このことからわかるように、リハビリは本人次第なのです。そしてやはりリハビリも療法士と患者の協同作業なのです。

療法士さんの訓練の20分が終われば、患者自らがもう一度リハビリのメニューをくりかえしてやってみることや、家族が面会時間に療法士に家族ができるリハビリを教えてもらい、リハビリの協力をしてみるなど、何倍にもふくらませていくことがリハビリの道のりなのです。

療法士さん任せにしないこと、繰り返しやっていくこと、退院しても療法士さんがいなくてもリハビリ、再び生きる道のりは続いていること、それを実行するのは自分であることを忘れないでいてほしいと願っています。

診療報酬改定で更にこの認識が重要になってきています。療法士による機能回復訓練が継続してうけられる回数の上限が、疾病により90日〜180日と定められました。これ以上の日数の訓練を続けても保険点数がつかないことになりました。医療機関は保険がきかなくなれば、リハビリを打ち切らざるをえません。

患者も10割自費で料金を支払ってまでリハビリを続けることはできないでしょう。リハビリは入院の中でしかできないものではなく、退院してからも自宅でリハビリを続けていく意気込みが大切です。
                                  (ソーシャルワーカー)

2019年03月27日

◆米原潜佐世保初入港のスクープ

  毛馬 一三

山崎豊子著の「運命の人」(全4巻・文藝春秋)が、ベストセラーになった時のことだ。山崎豊子フアンの筆者は、同書1巻を買い求め、読み始めた。ところが、読み始めたところ、「エッ!?」と思う記述が目に飛び込んできた。

その記述とは、第1章の「外交官ナンバー」に書かれている「米原潜日本初入港スクープ」のくだりであった。主人公の毎朝新聞政治部の外務省担当・弓成亮太が同省審議官から耳打ちされたことがキッカケで、政府公式発表前に米原潜佐世保入港当日の朝刊で「スクープ」したというのだ。

だがその「スクープ」より先に「原潜佐世保入稿」の「特報」を出したのは、NHK福岡放送局からだったのだ。しかも入港より丸1日早い、昭和39年11月11日早朝6時だったのである。

この「特報記事」を書いたのは、当時現地NHK佐世保放送局の新人記者の筆者だった。当時の思いと事実経過を「回想」しながら、綴ってみることにした。経過は追々・・。

そもそも、「米原潜佐世保米軍海軍基地入港」が発表されたのは、昭和38年3月。以来、佐世保では地元社会党系労働組合が「原潜入港反対闘争本部」を立ち上げ、これに市民団体も呼応して、大規模な入港反対闘争がはじまり、佐世保市内は米海軍基地周辺を中心に騒然となり出した。

とりわけ被爆地長崎と隣り合わせの現場佐世保では、米原潜搭載「核」持込みの懸念が市民らを強く刺激し、急遽集結した各地の革新団体や全学連が、デモ行進や集会を繰り広げ、騒動は日増しに激化していった。

その反対闘争の取材担当が、当時NHK佐世保局に赴任して間もない筆者だった。「サツ回り」と兼務だったが、入港反対闘争本部だった当時の佐世保地区労(佐世保地区労働組合会議)本部に夜討ち朝駆けを行い、反対運動の動静を追い続けた。

当時、総評系の佐世保労働組合の中核組織「全駐労」の委員長だった石橋正嗣氏が、衆院議員に転身して社会党書記長に就任していたことなどから、この反対運動は当時野党第一党の社会党と緊密に連携しながら、全国規模の反対運動に発展していった。

筆者は、帰郷する石橋書記長を掴まえ「反対運動」の中央の方針をしつこく聞き取って回ったことから、気難しい石橋書記長から特に目を掛けて貰う間柄となった。

同時に、足元の社会党系「佐世保地区労闘争本部」の早見魁議長、小島亨事務局長、西村暢文本部員らにも気に入られ、極めて親密な関係を築くことが出来た。

この仕事は、歴史の現場を直に目撃できる、当に「記者冥利」に尽きる無上の喜びであった。しかも現場で親交を深めた取材対象の人脈とも、立場を超えた人間同士の触れ合いが出来ることも学んだ。そうした教訓は、駆け出し記者の記者魂を助長してくれた。

そんな折の昭和39年11月10日の夜10時過ぎ、佐世保放送局で当直勤務をしていた筆者に、佐世保地区労の小島事務局次長から電話が入った。

「あなたの家に電話をしたら、当直と聞いたので電話したよ。実はね、上の方からあなただけに伝えなさいと今、指示があったので連絡するんだが・・・」

小島事務局次長はそう言った上で、「米原潜シードラゴンが12日朝、佐世保に入港する」という極秘情報を伝えてきた。筆者は、足が諤諤と振るえ、気は動転し、感謝の意を短く伝えるのがやっとだった。

すぐさま、福岡放送局の報道課長の自宅に架電してその情報を伝えると共に、これから出稿する旨を伝えた。報道課長は直ちに東京政治部の首相官邸キャップに連絡し、政府から確認を取って貰う。「君は、米原潜12日入港の記事を急いで書き、送りなさい」という指示が出た。

11日の2時ごろ、原稿を送ろうとしているところに、報道課長から電話が来た。「官邸キャップが官房長官に確認したが、どうも煮え切らない返事だったようだ。東京政治部では、引き続き政府関係者に当たるが、スクープとして当面は福岡発で流したらどうかと言っている。原稿をすぐ
送ってくれないか」ということだった。

そこで、「米原潜あす佐世保入港・現地では大規模集会やデモ」という原稿にすることを考え、「闘争本部」に裏付け取材をして上、急ぎ福岡局報道課に電話送稿した。「闘争本部」で特に友好の深い西村暢文氏に「他社は気付いていませんよね」と念を押し、確認を取ることを忘れなかった。

これが他社より1日早く福岡局から「原潜あす佐世保入港」のスクープが発せられたいきさつである。NHK東京発の同関連ニュースが放送されたのは、「米原潜」が入港する12日午前6時のニュースからであった。従って小説の毎朝新聞のスクープには遅れを取っていない。

これを綴るに当たり、先述の西村暢文氏に電話してみた。46年ぶりの懐かしい声に接した。西村氏は原潜闘争の後、佐世保市会議員を9期務め、最近引退されたという。「あなたのスクープで、闘争本部が一層盛り上がったことを、時折思い出していたよ」という嬉しい返事だった。

感涙の言葉だった。歴史の現場にいち早く立ち会える記者稼業とは、この上ない幸せ者である。(了) 2009.07.14


2019年03月26日

◆生魚を食い尽くすか中国

渡部 亮次郎

中国人は肝臓ジストマ(肝吸虫)を恐れて生魚を絶対食べなかったが、最近は海の魚には、それがいないと知り、太平洋のマグロを日本と競り合っている。

肝臓ジストマ病は淡水魚に寄生している肝吸虫によって起こされる症状で、胆管炎、黄疸、下痢、肝腫大などを起こし、重症となれば生命にかかわるから、淡水魚を生で食べてはいけない。

それなのに晩年の毛沢東は好んで淡水魚を生で食べたそうだ。四人組に連なった悪妻江青が早死にを企んでそう仕向けたのかどうかまでは知らない。

九州で有名だった医者が肝臓ジストマにやられ、国会進出を断念した事件があった。川魚の生なんて食べたことが無いのに、というのだが、調べたら、熊の肉を生で食べたことがあった。熊が山の水溜りで沢ガ二を食った。沢ガニにジストマが寄生していたのである。

肝吸虫は人間に入ると、血管の中を泳ぎ回って成長し、やがて心臓を襲うのだ。だから中国人は揚子江(長江)や黄河で捕れる魚を生では食べなかった。

ところが、国交正常化後、日本にやってくる中国幹部。政府がもてなす料亭で、メイン・デッシュたる刺身を拒否するわけにはいかない。外相黄華氏が中トロ1切れを必死の形相で呑みこむのを見たことがある。1970年代、中国人はまだ刺身を恐れていたのだ。

中国残留孤児の親探し。1回目の一団が訪れたとき、”事件”が起きた。厚生省(当時)の担当者たちが気を利かしたつもりで、昼食に寿司をだしたところ、一行は顔を真っ赤に染めて中国へ直ちに帰ると騒ぎだした。

中国人は冷たい飯と生魚は絶対に食べないことを知らなかったのだ。日本人なのだから寿司は懐かしいだろうと軽く考えたのだ。知らないとは恐ろしいことなのだ。

余談。彼らは飯を電気で炊くことを知らなかった。それを知らない日本側が電気釜を銘々にプレゼントしたところ、宿舎で火事騒ぎをおこした。ガス台に電気釜を載せて点火してしまったのである。私は当時、大臣園田直の秘書官だったから、これがマスコミに漏れないように務めた。
2011・10・08