2019年04月30日

◆さあ、待ってろ、巨人!

                          馬場 伯明


私は60年を超える古参のカープファンである。2019年開幕スタートでカー
プは躓いた。4.16に巨人に2:8で完敗し、開幕16試合で悪夢の4勝12敗、借
金8で最下位であった。

2019.4.13本誌第5013号にカープ応援文の本誌掲載許可を主宰者にいただ
いたことに感謝する。「2019(令和元)年カープの道程」の最後に「今日
の結論(推論)」としてこう書いた。

《・・・着実に盛り返していくのだ。勝利への奇策はない。しかし、勝利
の歌は決まっている。みんなで歌う「それ行けカープ」だ》と。

また、《・・私たちカープファンは落ち込んではいない。カープファンが
カープファンである所以というか、その真骨頂はむしろ逆境でこそ発揮さ
れる。成績がよくても悪くても応援の姿勢は変わらない》と。

そして・・・、2019.4.25(木)の夜9:00過ぎ「それ行けカープ」の3万人
の大合唱がマツダスタジアムに響き渡った。エース大瀬良大地(長崎県出
身)が対中日第6戦で7安打完封し2:0で2勝目をあげ、チームは4.17から7
連勝を飾った。強いカープが戻ってきた。 

7連勝の軌跡をたどる。2019.4.17 巨人5:4フランスア〈勝利投手〉)。
4.19 Dena2x:1フランスア。4.20 Dena 9:2床田。4.21 Dena 7:4ジョン
ソン。4.23 中日3x:2 中崎。4.24中日 5:0野村。4.25 中日2:0 大瀬良。2
試合はサヨナラ勝ちであり、4.23には(故)衣笠幸雄選手の一周忌に小窪
がサヨナラヒットで勝利の花を添えた。

開幕直後いくつかの《誤算や課題》があったが次第に解決されてきた。
1.危機の中で悲観を楽観に変え開き直った。原点に戻った。2.投手陣の
奮起。大瀬良、床田、アドゥワ、フランスア、野村、一岡。3.ベテラン
が意地を見せた。とくに、石原、小窪の決勝打。

4.若手の頑張り。西川、磯村、曽根。5.長野が(徐々に)力を発揮。
6.他チームの驕りと油断(私の推測)。7.(何よりも)緒方監督の辛抱
強く賢明な指揮(➠最大の要因)。8.最後にファンの声援である。カープ
ファンは負け試合でも終了まで球場に残る。「(大負けしていても)最後
まで(ヤジではなく)声援だった(緒方監督談)」。

2019.4.25現在、通算11勝12敗、借金1。順位は最下位(6位)から4位へ上
昇、首位巨人に3.5ゲーム差と迫った。最悪の状態だった打率、打点、本
塁打数、投手防御率などの数字も着実に向上してきた。5月の鯉(カー
プ)の滝登りは目前である。

カープの最大のターゲットは巨人である。今年の巨人は変貌した。1.丸
がカープからFA移籍。坂本らと打線のつながり。2.その他多くの有力選
手の補強。3.山口投手の心と身体の完全復活の4勝。4.最大の出来事は
原辰徳監督の就任だ。これは手強い。もう1年間、高橋由伸監督にあのよ
うな采配を続けてほしかった(笑)。

それでも、強い巨人を圧倒してのリーグ4連覇にこそ真の価値がある。球
団や私たちファンの目標は明確である。「リーグ優勝と日本一」。流川
(ながれかわ)の酒場で「広島天国(南一誠)」の歌に酔い、「それ行け
カープ−若き鯉たち−」を全員で歌うのだ。

じつは、悲しいことがあった。この応援歌の作詞者有馬三恵子さんが千葉
県の自宅で、2019(平成3)4.18、心筋梗塞で亡くなっていた。83歳。こ
の勇壮な歌は1975(昭和50)年夏に発表された。球場の「それ行けカー
プ」に背中を押され、この年カープは悲願のリーグ初優勝を達成した。

有馬さんは繊細な女性心理を描かせたら当代一といわれ、伊東ゆかり「小
指の思い出」、南沙織「17歳」、金井克子「他人の関係」、布施明「積み
木の部屋」など青春や恋の機微に触れる瑞々しい詩(うた)を書いた。

筋金入りの熱烈なカープファンであったが、応援歌は勝手が違った。宮
崎・日南キャンプの練習を見たことがあり、そこで奮闘する若い選手たち
の姿を思い浮かべながら作ったという。「あの歌詞は私のカープへの『ラ
ブソング』でもあるんです」と。(なお、有馬さんの項は「カープルー
ル」〈鯉党制作委員会・2013.4.21・中経出版〉の悼掉を飾る「ルール
50(番目)」を参考にし、一部引用した)

「それ行けカープ−若き鯉たち−」作詞 有馬三恵子 作曲 宮崎尚志

カープ カープ カープ
広島 広島カープ

空を泳げと 天もまた胸を開く
今日のこの時を 確かに戦い
はるかに高く  はるかに高く
栄光の旗を立てよ (2.3番を省略)

晴れのあかつき 旨酒をくみかわそう
栄冠手にする その日は近いぞ
優勝かけて  優勝かけて
たくましく強く踊れ

カープ カープ カープ
広島 広島カープ

1975(昭和50)年「栄冠手にする その日は近いぞ」と球団とファン、そ
して自らを鼓舞し、リーグ初優勝をひたすら願い作詞した有馬さんの思い
が、今、沸々と蘇ってくる。合掌。

カープは、2019.4.27~29ヤクルト戦(神宮)をたたかい、4.30〜5.2阪神
戦(甲子園)を経て、ホームの広島へ戻り、2019.5.3〜5にマツダスタジ
アムで巨人を迎え撃つ。私たちは宣言する。「さあ、待ってろ、巨人!」
と。(2019.4.26千葉市在住)

(追記)
2019.4.27(土)の夜、私は寒風の神宮球場三塁側のスタンドにいた。強
打の2位ヤクルトを床田投手が7回0点に抑え、フランソワと中崎がつなぎ
2:0で完封した。長野が勝利打点の2塁打を打ち8連勝、12勝12敗となっ
た。スタンドの右半分(満員)が「それ行けカープ」を歌った。

◆「107」人が目指すもの

渡部 亮次郎


「せんたく議連」超党派の107人で発足

<北川正恭・前三重県知事らが結成した「地域・生活者起点で日本を洗濯
(選択)する国民連合」(せんたく)と、これと連携する超党派の議員連
盟「せんたく議員連合」の合同発足総会が3日、都内のホテルで開かれた。

議連には、自民(51人)、民主(47人)、公明(8人)、国民新(1人)
各党の計107人が参加した。

議連の共同代表は、自民党の河村建夫・元文部科学相、民主党の野田佳
彦・元国会対策委員長が務めるほか、自民党から園田博之政調会長代理、
菅義偉選挙対策副委員長、民主党から岡田克也、前原誠司両副代表ら党幹
部も加わった。

議連は、国会改革、地方分権、「霞が関」改革、地球環境問題の各テーマ
で分科会を設けて議論し、次期衆院選の各党政権公約(マニフェスト)に
反映させていく考えだ。河村氏らは当面、国会改革を重点として、会期制
の見直しなどを検討課題に位置づけた>。3月3日19時32分配信 読売新聞

顔ぶれを見ると、改革小泉支持者と小沢忌避者ばかりである。公明から
入ったのは忍者であろう。果たしてこれが「新党」まで進むだろうか。新
党が出来れば大変な人気を博するだろうが、身を捨てて奔走する「竜馬」
が居ない。誰か立て!竜馬

自民党支持者では、票欲しさに創価学会・公明党の「たかり」に唯々諾々
と応ずる自民党に相当強い不満が高まっている。特に連立重視の立場から
国会対策上、公明党への譲歩続きだから福田首相への支持率低下はそれを
裏付ける何物でもない。

一方、民主党の党運営について小沢路線への党内不満も高じている事は隠
せない。小沢のピノキオが山岡国対委員長だが、硬直した自民党対決が、
果たして来るべき衆院選挙での民主党勝利に結びつくとは限らない、との
批判が燻っている。

判官贔屓というものがある。源義経を薄命な英雄として愛惜し、同情する
こと。転じて、弱者に対する第三者の同情と贔屓。日銀総裁人事への不同
意をあからさまにする民主党に対しては財界だけでなくビジネスマン幹部
からも自民党への「判官贔屓」が出ている。

去年の参院選挙。あれを民主党の勝利と見るか自民党の敗北と規定する
か。私は自民党安倍坊ちゃん政治に対する地方住民、農村の拒否反応と見
る。決して民主党歓迎ではない。二者択一だから民主党に入れただけである。

そう分析しない菅直人代表代行や鳩山幹事長は「反自民」の姿勢を強める
ことで次期衆院選挙でも勝利できると考え審議拒否という強行策をとって
いるが、これは大失敗に終わるはずだ。審議拒否をした野党が果実を手に
した事は憲政史上あり得ない。

日本の有権者は審議拒否を最も嫌悪するからである。而して「判官贔屓」
だ。ヒラリー・クリントンの失敗も「判官贔屓」にやられた事だと言うで
はないか。判官贔屓は洋の東西を問わず国を動かす力なのだ。

小沢氏が審議拒否の期間を「1週間」と定めたが、有権者はその意味が理
解できていない。しかも審議に復帰する時、如何なる理屈を用意できるの
か。その時、用意できるはずが無い。有権者は小沢氏を見捨てるだろう。

「107」人は反福田と反小沢の立場だけで超党派で集まってみただけだろ
うが「107」となると本人たちも驚愕する数字だった。
「現政界の閉塞感はこれほど強烈なのか」と意識し合えば新党結成に走る
のは早いかも知れない。

蛇足ながら現福田政権はあくまでも麻生太郎政権阻止だけを企図した野中
広務氏と手下古賀誠選挙対策委員長の思惑だけで生まれた「陽炎」政権。
人気の出るわけが無い。だから野中氏らは困惑して新勢力の結集に汚く反
応するはずである。2008・03・04

◆文在寅、親北反米路線で確信犯

櫻井よしこ


南北両朝鮮が米国に追い詰められている。とりわけ韓国の文在寅大統領へ
の米国の圧力は巧妙である。

4月11日、文氏は“建国”を祝う予定だったが、米韓首脳会談のため、大事
なその記念式典を諦めて訪米した。にも拘わらず、ホワイトハウスでのト
ランプ大統領との会談は、前代未聞の哀れな結果に終わった。

文氏は10日にソウルを出発し、同日夕方にワシントンに到着したが、米国
側との予定は一切組まれていなかった。翌11日午前中に、ポンペオ国務長
官、ボルトン大統領補佐官、ペンス副大統領とそれぞれ面会したが、3氏
共に文氏の北朝鮮寄りの姿勢に批判を加えたと見られる。北朝鮮に非核化
の意思は読みとれず、制裁緩和はあり得ない、米国はむしろ制裁強化を考
えていることなどが強調されたと考えてよいだろう。

その後、トランプ、文両首脳は夫人を伴って首脳会談を行った。夫人同伴
の首脳会談など通常はあり得ない。トランプ氏は文氏と2人で語り合う必
要を認めていなかったのだ。現に会談冒頭、メディアからゴルフのマス
ターズトーナメントの勝者は誰になると思うかと問われ、トランプ氏は文
氏を横においたまま延々と語った。結局27分間もトランプ氏の話が続き、
文氏との会談時間は驚きの2分間、しかも通訳つきだ。その後に他の閣僚
たちも参加しての昼食となった。4月12日、ネット配信の『言論テレビ』
で元駐日韓国大使館公使の洪熒(ホンヒョン)氏が語った。

「2月末にベトナムの首都ハノイで米朝会談が決裂した後、文氏は康京和
(カンギョンファ)外相や鄭景斗(チョンギョンドゥ)国防部長官を米国に送
り、三度目の米朝首脳会談の開催や対北朝鮮制裁の解除を要請させまし
た。対北経済援助で米国には負担をかけない、韓国が負担するので開城
(ケソン)工業団地も金剛山(クムガンサン)観光も再開させてほしい、など
とも言わせました。米国側は全て拒否し、そのような話題であれば、米韓
首脳会談はなしだと、通告したのです」

一人飯

朝鮮問題の専門家でシンクタンク「国家基本問題研究所」研究員の西岡力
氏も『言論テレビ』で語った。

「朝鮮語で『一人飯』をホンバプといいます。韓国の若者の間で一人でご
飯を食べるのが増えていて、ホンバプという言葉が流行っているのです。
文氏は米国到着の10日夜がホンバプ、11日朝もホンバプ、11日昼にようや
く米国側との食事にあり付いた。本当に相手にされなかったのです」

米国の厳しい態度は文政権の裏切りに対する冷遇だと洪氏が断じる。文氏
の裏切りとは、米朝首脳会談を実現させるために、文氏が金正恩氏は北朝
鮮の非核化を決意していると米国に伝えたことだ。正恩氏が表明したのは
北朝鮮の非核化ではなく、朝鮮半島の非核化である。これは韓国を守るた
めに米国の核を使うという発想自体もなくしてしまうこと、即ち米韓同盟
の破棄を目指す言葉であり、北朝鮮が所有する全ての核や関連施設の一掃
とは、全く異なる。

当初、北朝鮮の非核化に希望を抱いたトランプ政権は、やがて正恩氏に非
核化の意思がないこと、文氏の嘘を確信したと思われる。国連制裁に違反
してでも北朝鮮支援に動こうとする文氏を牽制するために、米国政府は文
政権の頭越しに韓国の経済界に働きかけ始めた。

昨年9月には、ニューヨークにある韓国の七つの銀行の支店に米財務省が
直接電話をして、米国が北朝鮮に制裁をかけていることを承知しているか
と警告した。西岡氏が語った。

「韓国系の銀行は現在、送金業務を止めているといわれます。もし送金に
北朝鮮と関係する資金が入っていれば、米国の副次的制裁(secondary
sanction)を受け、一切のドル決済が停止されるやもしれない。そうなっ
たら銀行は潰れます」

昨年4月27日の板門店での南北首脳会談にも、9月18日の平壌での南北首脳
会談にも、文氏は多くの韓国企業代表と開城工業団地の組合長らを同行さ
せた。文氏は金正恩氏と共に白頭山に登ったが、そのとき正恩氏に開城工
業団地組合長を紹介し、組合長に直訴させた。「委員長様、何とか開城工
業団地を再開させて下さい」と。

正恩氏は今年新年の辞で「南朝鮮の人民の要望に応えて、無条件で開城工
業団地を再開する」と演説し、それを受けて文氏は開城工業団地再開で米
国を説得すると公言した。だが、北朝鮮を利するだけの工業団地再開に
は、前述のように米国が完全拒絶の姿勢を貫いた。

支持率は下がる一方

その間、ソウルの米大使館の専門官は文氏に同行した財閥や企業に直接電
話攻勢をかけた。米政府が北朝鮮に制裁をかけているのは承知か、と警告
したのである。洪氏が強調した。

「米国は朝鮮半島での70年間に多くの教訓を得ています。そしていま、文
在寅と韓国企業を切り離しているのです。文は米国の警告を聞かない。な
らば企業や韓国国民に直接働きかけようというわけです。核を諦めない北
朝鮮に送金を続けるのか、米国との貿易や自由社会との絆を選ぶのか、と
米国は迫っています」

韓国国民も文氏の危うさを実感しているに違いない。支持率は下がる一方
だ。経済は停滞し失業率は高まり続けている。にもかかわらず、文氏は最
低賃金をこの2年間で約30%も引き上げた。残業を規制し労働時間を大幅
に短くした。人件費は高騰し、倒産は急増、失業率がさらにはね上がる悪
循環である。笑い話のような現実を西岡氏が紹介した。

「統計上失業者が増えると困るので、文氏は60歳以上の失業者に週1回大
学に行って電気を消す、又はゴミ拾いをするなどの仕事を作り、役所が賃
金を払うことにしました。税金で失業率の統計に化粧を施しているのです」

支持率低下や米国の警告にもめげず、親北路線を変えない強い反米の意思
が文氏の人事から読みとれる。一例が統一部長官に指名された金錬鉄(キ
ムヨンチョル)氏である。この人物は米国が韓国に要請した
THAAD(終末高高度防衛ミサイル)配備に反対し、開城工業団地の早
期再開を主張する反米主義者である。

同人事は韓国議会の反対にも拘わらず、文氏は考えを変えなかった。文氏
は米国に公然と対立姿勢を見せたに等しく、米国を欺く手法で開城工業団
地再開をはじめ北朝鮮支援に走り出しかねない。

暴走の気配を見せる文氏に、米国が対決姿勢を強め、韓国国内では対抗勢
力が力をつけつつある。2月27日、自由韓国党の代表に黄教安(ファンギョ
アン)氏が選ばれた。朴槿恵政権で法務部長官や首相を務めた公安検事出
身の62歳は、文政権の安保政策と経済政策を「亡国政策」と批判する。

野党勢力はまだ弱いが、それでも文氏の足下は決して盤石ではない。韓国
はいつ何が起きてもおかしくない緊張の中にある。

『週刊新潮』 2019年4月25日号 日本ルネッサンス 第849回

◆木津川だより 壬申の乱 A

白井繁夫


大海人皇子は、天武元年(672)5月、美濃国へ赴いた舎人朴井連雄君(エノイノムラジオキミ)から「天智天皇の陵を造営するためと称して、東国の農民を徴集し武器を持たせている云々」との報告を受けたのです。

この情勢こそ、近江朝が戦いを挑むことになると推察し、吉野宮の脱出を決意し吉野においての半年間推考を重ねた作戦に基づき、6月24日に東国(美濃)を目指して出陣しました。

大変きつい強行路を経て、「桑名群家」に辿り着き、「鈴鹿の山道」や「不破道:関ヶ原」の閉塞にも成功を治め、みずからは「野上行宮」に入りました。このことは、大海人皇子側から見れば、内乱突入直前の状況だったのです。(前回記述)

ところで今回は、大友皇子側から見た「壬申の乱」に至るまでの状況を見てみます。

大海人皇子一行が、671年10月19日、大津宮を去る折、菟道(宇治橋)まで見送りに行った近江朝の重臣3名(左右大臣と御史大夫)の内の一人が、こう云いました。

<「虎に翼を着けて放つ」と云ったといわれているように、叔父の大海人皇子は有力な皇位継承者である為、皇位を継承するには大友皇子が、大海人皇子を排除すべき人物なのです。>

虎は鋭い牙と爪を持っているのに、その上に翼まで着けて放ったのだから、大海人皇子を監視するために、近江から倭古京(やまとのふるきみや:飛鳥京)までの要所(宇治橋の橋守に命じて、美濃の大海人の支配地などから武器や食糧などの物資が運搬されるか、「木津川の泉津」(木津の港)から同様に吉野へ届けられるかなど、飛鳥京の留守司などで監視する体制を敷きました。(大海人皇子の勢力を剥ぐための兵糧攻め作戦)

「対新羅戦用」と称して、全国へ国宰(くにのみこともち)を派遣して、「徴兵」(各郡司などを通じて農民兵の動員)に着手しました。

特に大海人に影響を与える地域、畿内(山背.大和.摂津.河内.和泉)と、東国の美濃や尾張(美濃の安八磨郷あはちまのこほり、湯沐邑ゆのむらなど)からの「徴兵」に傾注したのです。(作戦の狙いは、大海人皇子と関係がある地区に楔を打ち込む目的)。

大友皇子は、近江朝の政権の中心であり、大海人皇子が(吉野)隠遁している間に、勢力を剥ぎ、大友に対抗出来なくしようとした計画的な行動を取りました。

ただ、天智の殯(もがり)の期間、いろいろと公式行事があるうえに、筑紫の唐使「郭務悰:カクムソウ」の応対にも忙殺されることのもありました。

古代も現代も戦争に備えるには情報戦略が非常に重要な要素です。近江朝は軍備力や権勢力などで絶対的な自信を持ち過ぎて、少々油断があったのではないかと思われます。

大海人皇子は、誼を持つ舎人を通じて各地の豪族と絆を結び、近江朝の動静などの情報を逐一得ていました。もちろん、近江や飛鳥の官人とも連絡は密だったのです。

両軍が戦闘に入ったとき、大友軍は情報不足により有利になるはずの戦況を、思わぬところで不利にすることが出てしまいました。

重要な歴史書:『日本書紀』は日本最古の正史ですが、舎人親王(天武の皇子)が編纂の総裁者となり養老4年(720年)に編纂され、天武嫡流の皇子に関係した藤原不比等も介在した?と思われる書籍です。

これから記述する「壬申の乱」の戦闘の描写も、勝者側の見方(大海人が正当な皇位継承者)が大きく出るかもと思います。

近江朝は、庚午年籍(こうごねんじゃく:天智天皇の時代に編纂された日本最古の戸籍制度)に基づく徴兵を急がすため、東国へ派遣した国宰書薬(フミノクスリ)ら3名のうち2名が、6月26日に「不破道」で大海人軍に捕えられたのを目の当たりにして、国宰韋那磐鍬(イナノイワスキ)は、大津宮へ逃げ帰ってきました。

近江朝軍は、翌27日臨戦態勢に入り、近江路方面軍と飛鳥方面軍と大きく2方面に軍を分けて、最初に近江路方面軍が「不破道:関ヶ原」を突破して、大海人本営を襲撃する作戦を立て、近江朝正規軍に西国の徴兵や近江の豪族の兵を加えた数万の軍を、大津宮から出発させました。

最初の戦火は、6月29日に大海人軍の大伴吹負(オオトモフケイ)によって大倭飛鳥で開始されました。だから、最初に出発した近江路軍の戦闘は後述するとして、大倭.河内方面の戦いの方を先行します。

(飛鳥京)朝廷側の留守司(トドマリマモル司)は、高坂王.稚狭王(ワカサ).坂上熊毛ですが、大伴吹負とは内応?していたと思われ、実情は近江朝の使者(穂積臣百足等ホヅミノオミモモタリ)が、27日に軍営を設立したばかりの状態でした。

天智10年に亡命百済人を実務官僚に組織した体制に対する反発が、古くから飛鳥などに居住する渡来人(東漢系氏族:坂上熊毛)、同じく山背国に渡来していた氏族(秦熊)など、倭古京の居住者にありました。

大伴吹負は奇策を持って、僅か10余の騎馬兵で高市皇子が攻めて来たと叫び、飛鳥寺の西の軍営を奇襲し、飛鳥京を制圧しました。留守司高坂王らは帰服し、近江朝の軍営にいた物部日向.五百枝兄弟も帰順したので味方に加え、穂積百足のみが最初の戦死者となりました。

大伴吹負の飛鳥京制圧の報は大倭各地に伝わり、三輪君高市麻呂.鴨君蝦夷等の豪族が大伴吹負軍に加わり、その情報は大海人皇子をはじめ、近江朝にも伝わったのです。

7月1日:近江朝の大倭方面軍は大野果安(ハタヤス).犬養五十君(イキミ).廬井鯨(イオイノクジラ)が、近江朝正規軍と西国の徴兵を率い、飛鳥京奪還を目指して大津宮を発進しました。

果安は大伴吹負の軍を度々破り敗走させましたが(後述しますが)、紀臣阿閉麻呂(キノオミアヘマロ)軍の先遣した騎兵隊が伊賀から駆けつけて、吹負の窮地を救ったのです。

庚午年籍に基づき、摂津.河内で徴兵した兵を率いた河内方面軍の将壱岐韓国(イキノカラクニ:渡来氏族)と、国宰来目塩籠(クメノシオコ)は同日、河内.大倭の国境を突破して飛鳥京奪還を目指して河内を出発しました。
(大伴吹負は乃楽山(なら:奈良山)を目指し進発(木津川市と奈良市の国境の丘陵地)。

大海人皇子は、7月2日和蹔(わざみ)の全軍に進撃命令を出し、全軍の兵に赤い布を着用させて、大友軍とはっきり区別させました。

飛鳥方面軍の総大将紀臣阿閉麻呂は、数万の軍勢を率い倭古京守備隊の増援に向かわせ、置始連兎(オキソメノムラジウサギ)の精鋭な騎兵隊は本隊を離れ、飛鳥へ急行させたのです。

多臣品治(オオノオミホムチ)は3千の兵で伊賀の莿萩野(たらの)を防衛、田中臣足麻呂は倉歴道(くらふのみち)の守備につきました。
(近江路方面の村国男依らの数万の軍勢の進撃は次回にします。)

乃楽山(なら:平城山)は、古代崇神天皇の時代:武埴安彦の反乱の舞台となった要衝。

山背と大和の国境の丘陵地であり、北側の平野に木津川が流れ、南は大和平野が広がる両軍にとって戦略上重要な拠点です。(四道将軍の大彦命と和爾氏の祖彦国葺が乃楽山の本陣から北側の山背の武埴安彦軍を木津川の戦いで殲滅し、西の大坂より攻めて来た埴安彦の妻(吾田媛軍)を吉備津彦命が討った。古戦場。)

(吹負はその拠点を固めに行く途上「大和郡山市稗田」で、西方「大坂:河内」から大友軍が進軍してきた情報を捉えたのです。)

吹負は、坂本臣財(サカモトノオミタカラ).長尾直真墨(ナガオノアタイマスミ)等に兵三百を授けて龍田道を防衛させ、佐味君少麻呂(サミノキミスクナマロ)に百余の兵で、大坂道(穴虫峠:二上山の北:大坂側道)を、鴨君蝦夷は百余の兵で石手道(イワテノミチ:竹の内峠:二上山の南:大和側道)の守りに就きました。

坂本財は、龍田付近で斥候が近江朝の高安城(白村江の戦に対処した山城ヤマジロで税倉チカラクラ:穀物の保管倉庫)が手薄との情報を得て、財が襲撃した時、大軍が来たと勘違いして城(穀物倉庫群)を焼き逃走しました。大海人軍の兵は無傷で高安城を占領したのです。

大伴吹負は飛鳥京を7月1日出発して、(3日)乃楽山に布陣が完了まで長時間移動を要したのは、6月29日以来続々と集まる兵を各部署に配置しながら進軍したからです。

7月3日朝霧が晴れ、坂本財は高安城から眼下の大坂平野を見ると大津道:長尾街道(堺市→河内美陵町→生駒王寺町)と、丹比道:竹内街道(堺市→羽曳野古市→飛鳥当麻寺)から整然と隊列を組み、大友軍が東へ進みました。大津道は将軍壱岐史韓国の軍ですが、高安城は黙殺して(武田信玄が家康を無視した様)行軍して行きました。

坂本財は、全軍僅か300人ですが、下山して衛我河(エガガワ:大和川付近藤井寺市道明寺)で挑ませますが一蹴され、懼坂道カシコサカミチの守衛紀臣大音(同族)まで退却しました。

しかも、この戦いで、国宰来目臣塩籠が大海人軍に内応しているのが発覚。大友軍の進軍は一時停止したのです。来目臣が大友の命により河内で徴兵した兵を持って、韓国将軍の下に入ったので、全軍が大きく動揺したためです。

(坂本財の悲壮な突撃戦は後の大坂夏の陣と同じ戦場「道明寺」で東軍水野.伊達軍2万3千に対し西軍の後藤基次軍3千弱の突撃の様と同様でした。だから軍規や軍の再編のため、韓国軍も進軍が遅れ、4日の大友軍全軍の総攻撃日に参加できなかったのです。)

大津宮を1日に出発した大野果安(はたやす)率いる倭飛鳥方面軍が、「木津川」を越え乃楽の大伴吹負が築く堅固な陣を突破し(吹負は数騎で逃れる)、怒涛の進軍で飛鳥京の手前:天香久山(あまのかぐやま)の八口まで来た時、斥候から「飛鳥の各街道の要所に大量の楯などが並び伏兵が潜んでいる」との報告。

大野果安が高所から遠望すると大軍を隠し、吹負軍が罠を仕掛けて簡単に退いたとも取れ、味方の壱岐韓国軍が4日なのに姿.音沙汰ともに無いのは、大海人軍の正規軍が来ていると思い込み、全軍に退却して陣容をかまへ直すよう命じました。(飛鳥京には大海人軍未着)

倭古京(飛鳥の古い都)への戦闘は、大友軍の河内方面軍も飛鳥方面軍もともに簡単に飛鳥京を占領できる機会だったのをともに逸して、後から来る大海人軍の正規軍と戦うことになるのです。

大和路戦の結末と近江路戦については次回に続けます。    (郷土愛好家)

参考資料:戦争の日本史2  壬申の乱   吉川弘文館  倉本一宏著
     壬申の乱     中央公論社  遠山美都男著
     木津町史     本文篇    木津町

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2019年04月29日

◆「損切り」を覚悟の民間払い下げか?

宮崎 正弘


平成31年(2019)4月28日(日曜日)通巻6058号 

 絶望の果てか、「損切り」を覚悟の民間払い下げか?
  中国、新幹線を分割、民間企業に売却という新手

中国は新幹線の一部を民間企業に払い下げる。

すでに累積赤字は、邦貨換算で87兆円にも達しており、それでも中国は新
幹線プロジェクトを強気の投資継続で続行する。その一方で、完成した区
間の一部売却なのか、部門売却なのかは明らかではないが、民間企業に払
い下げるという新手を思いついた。新華社が伝えた。

初契約は41億8000万ドル(4600億円内外)で、中国の国有銀行団がシンジ
ケートを組み、浙江省政府と民間大手の「復星國際集団」に融資する。高
速鉄道経営権が委譲される仕組み。シンジケートを組む銀行団には中国発
展銀行、中国工商銀行、中国農業銀行、中国建設銀行ほか二行が加わる。

復星國際集団と言えば、その傘下にある上場企業だけでも20社を超え、初
代CEOの郭広昌は「中国のウォーレン・バフォット」などと持ち上げら
れた。ところが、一時期、郭が行方不明になるなど、謎の部分が多い企
業。日本でも星野リゾート買収で名前を馳せた。

おりから閉幕した「一帯一路國際フォーラム」でも7兆円の投資続行がア
ナウンスされたが、中味をよくよく見ると、民間企業の出資であって、政
府支出ではない。中国が外貨払底に直面している傍証にもなる。

問題は予算面である。なぜ自爆的肥大化を続けざるを得ないのか。
2006年に北京―天津間を開通させて以来、わずか13年で敷設したレール
(営業キロ)は2万5000キロ以上(日本は半世紀かけて3000キロ)。

さらに2019年もプロジェクトを拡大し、予算8兆円強がつけられた。
 事業体の強制的維持である。

したがって車より熊の交通量が多い山岳地帯や、荒涼たる砂漠を越えて、
長い河川には橋梁を架け、山稜には片っ端からトンネルを掘る。

中国鉄道は第10局まで地域別に分けられ、鉄道建設のほか、配線、電気工
事を請け負う企業、その下請けから鉄道学校。関連する産業分野はレー
ル、枕石、コンクリート、駅舎建設。開発の建材、ブルドーザ。運営は運
転手、車掌から踏み切りに至るまで数十万の大所帯が、給料をいただき、
その上で黒字路線が北京―上海と上海―広州しかない。

あとの路線はすべて赤字。そこで余剰人員と鉄材、セメント在庫を処理す
るために、新幹線プロジェクトを海外にも売り込んだ。

インドネシア、マレーシア、ラオス、タイで工事は進んでいるものの、ベ
ネズエラ、米国などでは新幹線工事中止、プロジェクトそのものが拒否さ
れるなど散々な結末となっている。

中国新幹線の民間への払い下げとは、回転資金確保のためなのか、経営の
硬直化を民間のフレキシブルな判断に委ねるのか、あるいはすでに資金
ショートを来しての断末魔的な最終処理なのか。いずれにせよ、正念場を
むかえたようだ。

◆3度目は意識的失脚  

     渡部 亮次郎


トウ(ケ)小平は1973年周恩来の協力を得て中央委員に復帰するが、1976年
には清明節の周恩来追悼デモの責任者とされ、この第1次天安門事件に
よって3度目の失脚をした。

しかし【トウ小平秘録】(83)第3部「文化大革命」 失脚選択 (産経
新聞2007年7月19日 筆者伊藤正中国総局長=当時)によると、トウは
1975年11月の時点で自ら失脚の道に踏み込んだようだ。意識的失脚であ
る。「時代は我にあり。老衰著しい毛沢東以後に再起をかけたに違いな
い。時代は我にあり」、と確信して。(伊藤正)

1975年9月24日、同月中旬の「農業は大寨(だいさい)に学ぶ」会議で、
毛の妻の江青(こうせい)が「水滸伝批判は2つの路線(文革か、修正主
義か)の闘争だ」と話したとトウ小平から聞くと、毛沢東は怒りを表した。

梁山泊(りょうざんぱく)の英雄豪傑を描いた古典小説「水滸伝」につい
て、首領の宋江(そうこう)を「投降主義」とした毛沢東の批評を、江青
ら文革派「四人組」は強引にトウ氏批判の材料に利用したからである。

「でたらめだ! 意味が違う。農業を学ぶ会議なのに、水滸(すいこ)批
判をやるとは。分からんやつだ」と怒ってみても、頼みの毛沢東は老衰激
しく、時折は江青支持にさえ廻る。

「大寨会議」で、あらゆる分野での整頓(反対者の追放)の必要を強調し
たトウに対し、江青は痛烈な反対演説をした。

「水滸伝の要は、宋江が(前の首領の)晁盖(ちょうがい)を排除、棚上
げし、土豪劣紳(地主や地方ボス)らを招き入れて主要なポストを占拠
し、投降したことにある。わが党内にも毛主席を棚上げにする投降派がいる」

文革が終わって復活幹部を重用、経済建設に努める周恩来(しゅうおんら
い)首相やトウ小平への露骨なあてこすりだった。共産党内の主導権をと
られると危機感を募らせたのだ。

その3日後、毛沢東の実弟毛沢民の遺児、毛遠新(もうえんしん)が訪ね
てきてトウ批判を毛の耳に入れた。実子同様に育てた甥の言う事だ。

毛遠新は文革前に東北のハルビン軍事工程学院に入学、造反派としてなら
し、いまは遼寧省党委書記、瀋陽軍区政治委員の要職にある。毛沢東は甥
の成長を喜び、その話に耳を傾けた。

「社会には、文革に対して、肯定、否定の2つの風が吹いています。トウ
小平同志は文革の成果を語ることも、劉少奇(りゅうしょうき)(元国家
主席として失脚)修正主義路線を批判することも極めて少ないのです」

露骨なトウ小平批判だ。現実社会から遊離している毛沢東に大きな影響を
与えた。毛沢東は遠新を非公式の連絡員にする。遠新が「ママ」と呼ぶ江
青は、強力な援軍を得た。

毛遠新と再会した後の毛沢東は別人になっていた。11月2日、毛沢東は毛
遠新に話す。

「2つの態度がある。文革への不満と文革の恨みを晴らそうとするもの
だ。トウ小平にだまされないよう言え」。

この意見は政治局に伝えられ、「水滸伝」批判は「右からの巻き返しの風
に反撃する」というトウ小平批判運動に発展した。それでも毛沢東はトウ
の反省に期待し、何度も会議を開かせた。

ポイントは文革の評価だった。11月13日、毛沢東は復活幹部について
「(古代中国の)魏(ぎ)や晋(しん)はおろか漢(かん)があったこと
も知らない桃源郷(とうげんきょう)にいる人物がいる」と話す。

それを聞いたトウ小平氏は「自分は文革期、(初期に打倒され)桃源郷に
いた人物であり、魏や晋も漢も知らない」と言った。トウ氏の失脚が事実
上決まった瞬間だった。しかし、これが明らかになったのは今回が初めて
である。

当時の北京市党委第1書記の呉徳(ごとく)は、トウと李先念副首相の3
人で当時語った話を後に証言している。

「トウ小平は毛主席の決心が下された以上、辞めるほかないと言った。そ
の後、彼は(副首相の)紀登奎(きとうけい)、李先念、華国鋒(かこく
ほう)らに、自分を批判し地位を保持するよう話した」(呉徳口述「十年
風雨紀事」当代中国出版社)。

その時、トウ小平は、妥協を重ねた周恩来の道ではなく、失脚の道を選択
した。「トウ小平は毛沢東と同じく、言い出したら引かない性格だった」
(トウ榕著「我的父親トウ小平『文革』歳月」)。

<それだけでなく、老衰著しい毛沢東以後に再起をかけたに違いない。時
代は我にあり、と確信して。>(伊藤正)

確かに1976年1月8日に周恩来が腎臓癌で死去し、それを追悼する4月の清
明節が混乱した責任を取らされる恰好でトウは生涯3度目の失脚をした。
しかし5ヶ月後の9月9日には、確かに毛沢東も死んだ。

トウは広州の軍閥許世友に庇護され生き延びた。毛沢東が死去すると後継
者の華国鋒支持を表明して職務復帰を希望し、江青ら四人組の逮捕後1977
年7月に再々復権を果たす。そこはもはや独り舞台に等しかった。

1978年10月、日中平和友好条約締結を記念して中国首脳として初めて訪日
し、日本政府首脳や昭和天皇と会談したほか、京都・奈良を歴訪した。

1978年の訪日時には様々な談話を残した。「これからは日本に見習わなく
てはならない」という言葉は、工業化の差を痛感したもので、2ヶ月後の
三中全会決議に通じるものであった。

また、帝国主義国家であるとして日本を「遅れた国」とみなしてきた中華
人民共和国首脳としても大きな認識転換であった。新幹線に乗った際には
「鞭で追い立てられているようだ」という感想を漏らしている。

その2ヵ月後の同年12月に開催されたいわゆる「三中全会」(中国共産党
第十一期中央委員会第三回全体会議)において、文革路線から改革開放路
線への歴史的な政策転換を図る。またこの会議において事実上中国共産党
の実権を掌握したとされる。

この会議の決議内容が発表されたときは全国的な歓喜の渦に包まれたとい
う逸話が残っている。

経済面での改革に続き、華国鋒の掲げた「2つのすべて」と呼ばれる教条
主義的毛沢東崇拝路線に反対して華国鋒を失脚へと追い込み、党の実権を
完全に握った。

毛沢東の死後、約20年を生きて経済の改革開放により工業、農業、国防、
科学技術という4つの分野の現代化(近代化)を目指す路線を定着させて死
んだ。

とはいえ、4つの現代化が果たして中国の如何なる将来を約束するかは誰
にもわからない。だからトウといえども周恩来といえども、墓を暴かれる
という屈辱を受けない保証は無い。2人とも墓は無い。

参考:産経新聞「ケ(トウ)小平秘録」83回及び「ウィキペディア」執筆
2007・07・19中国インターネットの帝王、14年の実刑

◆文在寅、親北反米路線で確信犯

櫻井よしこ


南北両朝鮮が米国に追い詰められている。とりわけ韓国の文在寅大統領へ
の米国の圧力は巧妙である。

4月11日、文氏は“建国”を祝う予定だったが、米韓首脳会談のため、大事
なその記念式典を諦めて訪米した。にも拘わらず、ホワイトハウスでのト
ランプ大統領との会談は、前代未聞の哀れな結果に終わった。

文氏は10日にソウルを出発し、同日夕方にワシントンに到着したが、米国
側との予定は一切組まれていなかった。翌11日午前中に、ポンペオ国務長
官、ボルトン大統領補佐官、ペンス副大統領とそれぞれ面会したが、三氏
共に文氏の北朝鮮寄りの姿勢に批判を加えたと見られる。北朝鮮に非核化
の意思は読みとれず、制裁緩和はあり得ない、米国はむしろ制裁強化を考
えていることなどが強調されたと考えてよいだろう。

その後、トランプ、文両首脳は夫人を伴って首脳会談を行った。夫人同伴
の首脳会談など通常はあり得ない。トランプ氏は文氏と二人で語り合う必
要を認めていなかったのだ。現に会談冒頭、メディアからゴルフのマス
ターズトーナメントの勝者は誰になると思うかと問われ、トランプ氏は文
氏を横においたまま延々と語った。結局27分間もトランプ氏の話が続き、
文氏との会談時間は驚きの2分間、しかも通訳つきだ。その後に他の閣僚
たちも参加しての昼食となった。4月12日、ネット配信の『言論テレビ』
で元駐日韓国大使館公使の洪熒(ホンヒョン)氏が語った。

「2月末にベトナムの首都ハノイで米朝会談が決裂した後、文氏は康京和
(カンギョンファ)外相や鄭景斗(チョンギョンドゥ)国防部長官を米国に送
り、三度目の米朝首脳会談の開催や対北朝鮮制裁の解除を要請させまし
た。対北経済援助で米国には負担をかけない、韓国が負担するので開城
(ケソン)工業団地も金剛山(クムガンサン)観光も再開させてほしい、など
とも言わせました。米国側は全て拒否し、そのような話題であれば、米韓
首脳会談はなしだと、通告したのです」

一人飯

朝鮮問題の専門家でシンクタンク「国家基本問題研究所」研究員の西岡力
氏も『言論テレビ』で語った。

「朝鮮語で『一人飯』をホンバプといいます。韓国の若者の間で一人でご
飯を食べるのが増えていて、ホンバプという言葉が流行っているのです。
文氏は米国到着の10日夜がホンバプ、11日朝もホンバプ、11日昼にようや
く米国側との食事にあり付いた。本当に相手にされなかったのです」

米国の厳しい態度は文政権の裏切りに対する冷遇だと洪氏が断じる。文氏
の裏切りとは、米朝首脳会談を実現させるために、文氏が金正恩氏は北朝
鮮の非核化を決意していると米国に伝えたことだ。正恩氏が表明したのは
北朝鮮の非核化ではなく、朝鮮半島の非核化である。これは韓国を守るた
めに米国の核を使うという発想自体もなくしてしまうこと、即ち米韓同盟
の破棄を目指す言葉であり、北朝鮮が所有する全ての核や関連施設の一掃
とは、全く異なる。

当初、北朝鮮の非核化に希望を抱いたトランプ政権は、やがて正恩氏に非
核化の意思がないこと、文氏の嘘を確信したと思われる。国連制裁に違反
してでも北朝鮮支援に動こうとする文氏を牽制するために、米国政府は文
政権の頭越しに韓国の経済界に働きかけ始めた。

昨年9月には、ニューヨークにある韓国の七つの銀行の支店に米財務省が
直接電話をして、米国が北朝鮮に制裁をかけていることを承知しているか
と警告した。西岡氏が語った。

「韓国系の銀行は現在、送金業務を止めているといわれます。もし送金に
北朝鮮と関係する資金が入っていれば、米国の副次的制裁(secondary
sanction)を受け、一切のドル決済が停止されるやもしれない。そうなっ
たら銀行は潰れます」

昨年4月27日の板門店での南北首脳会談にも、9月18日の平壌での南北首脳
会談にも、文氏は多くの韓国企業代表と開城工業団地の組合長らを同行さ
せた。文氏は金正恩氏と共に白頭山に登ったが、そのとき正恩氏に開城工
業団地組合長を紹介し、組合長に直訴させた。「委員長様、何とか開城工
業団地を再開させて下さい」と。

正恩氏は今年新年の辞で「南朝鮮の人民の要望に応えて、無条件で開城工
業団地を再開する」と演説し、それを受けて文氏は開城工業団地再開で米
国を説得すると公言した。だが、北朝鮮を利するだけの工業団地再開に
は、前述のように米国が完全拒絶の姿勢を貫いた。

支持率は下がる一方

その間、ソウルの米大使館の専門官は文氏に同行した財閥や企業に直接電
話攻勢をかけた。米政府が北朝鮮に制裁をかけているのは承知か、と警告
したのである。洪氏が強調した。

「米国は朝鮮半島での70年間に多くの教訓を得ています。そしていま、文
在寅と韓国企業を切り離しているのです。文は米国の警告を聞かない。な
らば企業や韓国国民に直接働きかけようというわけです。核を諦めない北
朝鮮に送金を続けるのか、米国との貿易や自由社会との絆を選ぶのか、と
米国は迫っています」

韓国国民も文氏の危うさを実感しているに違いない。支持率は下がる一方
だ。経済は停滞し失業率は高まり続けている。にもかかわらず、文氏は最
低賃金をこの2年間で約30%も引き上げた。残業を規制し労働時間を大幅
に短くした。人件費は高騰し、倒産は急増、失業率がさらにはね上がる悪
循環である。笑い話のような現実を西岡氏が紹介した。

「統計上失業者が増えると困るので、文氏は60歳以上の失業者に週1回大
学に行って電気を消す、又はゴミ拾いをするなどの仕事を作り、役所が賃
金を払うことにしました。税金で失業率の統計に化粧を施しているのです」

支持率低下や米国の警告にもめげず、親北路線を変えない強い反米の意思
が文氏の人事から読みとれる。一例が統一部長官に指名された金錬鉄(キ
ムヨンチョル)氏である。この人物は米国が韓国に要請した
THAAD(終末高高度防衛ミサイル)配備に反対し、開城工業団地の早
期再開を主張する反米主義者である。

同人事は韓国議会の反対にも拘わらず、文氏は考えを変えなかった。文氏
は米国に公然と対立姿勢を見せたに等しく、米国を欺く手法で開城工業団
地再開をはじめ北朝鮮支援に走り出しかねない。

暴走の気配を見せる文氏に、米国が対決姿勢を強め、韓国国内では対抗勢
力が力をつけつつある。2月27日、自由韓国党の代表に黄教安(ファンギョ
アン)氏が選ばれた。朴槿恵政権で法務部長官や首相を務めた公安検事出
身の62歳は、文政権の安保政策と経済政策を「亡国政策」と批判する。

野党勢力はまだ弱いが、それでも文氏の足下は決して盤石ではない。韓国
はいつ何が起きてもおかしくない緊張の中にある。

『週刊新潮』 2019年4月25日号 日本ルネッサンス 第849回

◆木津川だより 壬申の乱 @

白井繁夫

本誌読者の皆様は、日本の歴史上有名な「壬申の乱」のことは良くご存じのはずです。しかし、私が長く書き続けている本題「木津川だより」の流れの中で、この「壬申の乱」を避けて通る訳にはなれません。

長文になりますが、大海人皇子の侵略心理、巧妙な戦略、天運などにつて、思いのままに詳しく綴ってみようと思います。「壬申の乱」の歴史の流れは、これから追々。

さて、(672年)天武元年6月24日大海人皇子が東国を目指してひそかに吉野を脱出した時は、大海人に従った者は妃の鸕野皇女と草壁.忍壁両皇子、舎人20余人に女孺(にょじゅ:鸕野皇女などに仕えた女官)わずか10余人の人数でした。

しかも、初日は約70kmの山道を進む、(道中には大友皇子の生母の出身地があると云う)超ハードのスケジュールです。(出家して吉野を目指して早朝より大津宮を出た日の距離の飛鳥「島宮」までとほぼ同距離を進みますが、その日の道中「山城道」は全体的に平坦な平野でした。)

大海人皇子が約半年間推考して戦略を練り、吉野脱出を決断した「壬申の乱」の大きな要素ともみなされるのは、「親の子に対する愛」がそうさせたと 私は思うのです。

天智天皇の晩年、生母が「卑母」である大友皇子を「皇位継承者」にと願い今までのしきたりを無視する行為を取る、強い愛と同じで、大海人皇子の妃の鸕野皇女は天智天皇の皇女.むすめであり、夫は天智の実弟です。

だから大海人皇子は有力な「皇位継承者」でもありました。而も二人の間の子(草壁皇子)は由緒正しい皇孫です。親(鸕野)の愛も非常に強いものだったと思います。

吉野脱出に先立ち6月22日には、前回本誌に掲載した如く、東国(湯沐令 多品治)に向けて発進した3名の大海人の使者(村国男依ほか2名)が、吉野.大倭.伊賀.伊勢.美濃へ至る行軍ルートの総てにわたる計画が周知され、準備を整えられるように派遣されたのです。

脱出ルートは吉野へ来た泉津.乃楽山.飛鳥の平坦地を避けて、吉野から吉野川沿いに上流に向かい、矢治峠を越える山道から「菟田(ウダ)の吾城:奈良県宇陀市」を抜け、「名墾(名張市)の横河」(名張川と宇陀川の合流点:畿内と外国の境)を経て「伊賀の中山」(三重県上野市)へ出るという、険しいルートでした。

菟田の吾城で屯田司(ミタノツカサ:近江朝の食料供御を行う司)土師馬手が食事を奉る。
(先遣使者よりの言で舎人土師氏は大海人皇子の行幸?と思ったか、大海人一行は、初日70余kmの行軍中、この時食事したのが最初で、何と初日は宿泊地まで食事なしで進む。)

飛鳥京の留守司高坂王への使者は3名が当日(24日)に発遣され、「駅鈴:ウマヤノスズ」を乞わせました。(美濃までの「駅家:ウマヤ」において大海人一行の馬の確保依頼:実際は独自で手を打っていました。高坂王は大海人皇子に好意を持っており、快応していたかも?)

使者3名の役割です。

大分恵尺(オオキダノエサカ)は、近江へ急行して大津.高市両皇子に大海人皇子の吉野脱出報告とその後の合流(予定戦略)など、黄書大伴(キフミノオオトモ)は大倭の「百済の家」に結集して兄の大伴馬来田と共に菟田で合流、逢志摩(オオノシマ)は近江朝からの追手がすぐ来ぬように近江に伝わらぬよう留守司に頼みて帰還など。

また「菟田郡家」(現宇陀市榛原区萩原)で湯沐の米運搬の駄馬ニオイウマ50頭(湯沐令多品治オオノホンジの手配の馬)を大海人皇子が得る。吉野から32kmの大野(室生)で日没、これより夜間行軍で「隠駅家:なばりのうまや」に着き、その家を焼いて人夫を求めてみたが真夜中では烽火(のろし)の役目だけで終わる。

「伊賀の中山」は大友皇子の生母の出身氏族(竹原氏)の本拠地へ東北東約8kmの至近距離です。

ところが、そこへ着くと「郡司」が数百の兵を率いて一行に合流してきました。伊賀国の北部の阿閉氏と南部の伊賀氏がともに大海人軍の味方に付いてくれたのです。
(対新羅戦用に近江朝が徴発した徴兵が100余人大海人軍に加わったのです。)

東海道ルートを外れ美濃への最短ルートを採り、「伊賀駅家」:上野市を流れる木津川を挟む古郡フルゴオリ:から「莿萩野」(タラノ:伊賀市佐那具町)へ25日の夜明け前に着きました。

吉野を出て70余km、20時間の進軍を終えてやっと休息、2回目の食事を取ることが出来たのです。
(飛鳥から近江朝へは高坂王の情報統制が有り、まだ気づかれずに進みました。)

25日の未明に近江と伊勢の交通の要所「積殖(つむえ)の山口」:三重県伊賀町柘植(大和と東国を結ぶ道が合流)に大海人一行は到着し、そこへ高市皇子の騎馬隊が舎人達と「鹿深」(カフカ:滋賀県甲賀郡)を越えて合流して来ました。

大海人一行は、伊賀と伊勢の国境の「加太(かぶと)峠」を越えて「鈴鹿郡:すずかのこおり」に入り(東国に入り)脱出が、ひと先ず成功しました。(近江からの高市の舎人は民大火.赤染徳足.大蔵広隅.坂上国麻呂.古市黒麻呂.竹田大徳.胆香瓦安倍:イカゴノアヘです。)

伊勢の「鈴鹿郡家こおりのみや」(鈴鹿郡関町金場付近)では国宰の三宅石床(イワトコ:駄馬50頭送付者)と、三輪子首(コビト)、湯沐令(ユノウナガシ)の田中足麻呂(タリマロ)と高田新宅(ニイノミ:祖父の高田足人が、私馬を大海人に美濃.尾張まで提供)などが出迎え、大量軍が集結しました。

伊勢の国宰三宅連石床は大海人皇子の下で、伊勢軍の統率者となり500の兵を率いて「鈴鹿の山道」を25日中に塞ぎました。三輪子首の軍は後日大和(飛鳥)進攻軍に編入されました。

25日の夕方、「川曲(かわわ)の坂下」(鈴鹿市木田町)に着き、「三重郡家」(四日市市東坂町)には夜になって到着して休息しました。

6月26日早朝:大海人皇子や草壁.高市などの一行は「朝明郡(あさけのこほり)の迹太川(とほかわ)の辺」に到着して、天照大神を遥拝しました。(戦勝祈願)。

「朝明郡家」(四日市市大矢知町)の大海人軍の処に、高坂王の一行が「鈴鹿山道」に来たと連絡あり、路益人を派遣したら、大津皇子の一行と近江へ派遣した大分恵尺等が留められていました。

(大津皇子幼少のため、馬でなく加太峠越えを「輿」で越えたから遅れた。)
ようやく大津皇子の一行は両親に合流できたのです。(大津の舎人の中には後の瀬田橋の攻防で先鋒となった大分稚臣(オオキダノワカオミ)や舎人の戦死者も多数でました。)

他方では、22日に先遣していた舎人の村国男依(オヨリ)が「安八磨郡(あはちまのこほり)の兵」3000人を率いて、「不破道の閉塞」(岐阜県関ケ原町)に成功した、との吉報を得ました。

夕方吉野から145kmの「桑名郡家」に着き、大海人一行は留まりました。
(大海人皇子は東海軍(尾張.三河)、東山軍(信濃.甲斐)を徴発する使者を派遣する。)

27日は妃の鸕野と草壁.大津を桑名に残して、野上(美濃の野上郡:現関ケ原町野上)へ大海人は行き、高市は「和蹔:わざみ」(関ヶ原町関ヶ原)から出迎え。ここが吉野を出て4日間(186km)の行軍の終着地とし、「野上行宮かりみや」としました。

多品治と村国男依が塞いでいた「不破道」で、尾張国司守:小子部連鉏鉤(チイサコベノサイチ)が2万の兵を率いて配下に入りました。

こんな中で、同じ26日の夕方近江朝の東国への使者「書薬フミノクスリと忍坂大摩侶」が捕捉され、少し遅れて来た韋那磐鍬(イナノイワスキ)がこれを見て大津宮へ逃げ帰った結果、27日には近江朝が「事の重大性」に気づいたのです。

「不破道」の封鎖が1日遅れていたら、2万の兵は近江朝軍の支配下になり、尚且つ、東国へ近江の使者が入っていたことでしょう。天運は大海人皇子に味方した、と思います。

「和蹔」に大海人軍の主力部隊を集め、全軍の最高司令官として高市皇子を任命して、
6月28日には全軍を検軍し、高市の下で指揮命令するなどの軍事訓練を行いました。

近江朝は、罠に嵌ったのです。

遅れ馳せながら、やっと戦闘準備に入り、西国へも徴兵を急がす使者の派遣、近江路と大和飛鳥の2方面への戦闘軍の編成に入りました。

しかし、大友皇子は唐からの使者「郭務悰カクムソウ」の応対に忙殺されていたため、迂闊にもこの時点まで、大海人皇子の動静を把握していなかったのです。

だから、大海人皇子が既に東国に入り、対新羅戦用に徴兵した兵2万余が大海人軍に加わったと云う情報も得ていなかったのです。大友皇子は後手後手に回ったのです。

近江路と大和飛鳥で「壬申の乱」の戦闘の口火がいよいよ切られます。(次回につづけます。)

参考資料: 戦争の日本史2  壬申の乱  倉本一宏 著
      木津町史  本文篇   木津町 
      壬申の乱   中公新書    遠山美都男著 

at 05:00 | Comment(0) | 白井繁夫

2019年04月28日

◆四川省は汚職のメッカでもある

宮崎 正弘


平成31年(2019)4月26日(金曜日)通巻第6055号 

 中国軍事産業のメッカ四川省は汚職のメッカでもある
また副省長を汚職容疑で拘束。はてしなく拡がる先端軍事技術の汚職地獄

膨宇行(四川省副省長)が公式の場から消えた。

党の公式会合で目撃された最後は4月15日、党内では「失脚」したと認識
しており、中国の軍事業をめぐる汚職、機密漏洩容疑がもたれているとい
う(『サウスチャイナ・モーニング・ポスト』、2019年4月25日)。
 
四川省は10を超える国防技術開発センターがあり、また四川省地震のおり
に『おからビル』、小学校の倒壊騒ぎに隠れたが核都市という秘密軍事基
地が存在したことだった。

大学も国防技術関連では先端を走る大学が多く、軍事産業が集中している。

拘束されたとされる膨宇行副省長は、化学・物理の専門家で、フランスに
留学し、核技術の博士号を取得した。つまり優秀な化学者でもあったのだ。

中国語メディアは、膨副省長拘束のケースは前任の李成雲(四川省前副省
長)のケースに酷似しているという。李は2008年から11年まで副省長を努
めたが、軍事技術漏洩による賄賂の}容疑で拘束された。2017年に懲役10
年という判決と50万ドルの罰金刑が下った。李成雲には二重スパイの疑い
がかけられ、また外国の代理人から95万ドル前後の賄賂を受け取ったと報
じられた。
 
連続する副省長の汚職、四川省の軍事産業はステルス機を生産していると
されるが、汚職、機密漏洩事件が継続するように、その先端武器、戦闘
機、核兵器の「質」が深刻に懸念される。

  (註 膨宇行の「膨」には『月』扁がありません)
     
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書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW
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近代資本主義の祖も現代資本主義の先駆者も皆が学んだ松下幸之助
その「平和、幸福、繁栄」というPHP思想の根幹は、いかに形成されたのか

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執行草舟『悲願へ  松下幸之助と現代』(PHP研究所)
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本書を読んで何カ所も膝を打ったが、とりわけ満腔の賛意を表したい箇所
は、執行氏が「オリンピックとノーベル賞はもうお仕舞い。いずれなくな
る」と予言的発言を展開しているところである。

日頃から評者(宮崎)も周辺には同じことを漏らしてはいたが、文章化し
たことはなかった。猛反発覚悟でないと、気軽に吐ける言葉ではない。
 氏の理由は「ノーベル賞とオリンピックが20世紀の西欧思想の宣伝とし
ての祝祭を代表する」がゆえに「駄目になる」とし、さらに「もう存在価
値もほとんどなくなっている」(111p)と断言している。快哉を叫びた
くなった。

国連信仰と憲法擁護の大合唱隊も、滅び行く西洋信仰の没落と道行きをと
もにするのだろう。

本書は現代資本主義の先駆者としてビジネスマンの多くが学んだ松下幸之
助の「平和、幸福、繁栄」というPHP思想の根幹は、いかに形成された
のかを論じているのだが、同時に思想書として、現代におけるテツガクの
不在を慨嘆されている。

しかも、本書では1行も論じられていないけれども、松下幸之助は明らか
に二宮金次郎の思想に学んでいる。

 書を読む前の日、評者は函館から夕方便で羽田空港へもどり、その足で
半蔵門のホテルへ向かった。

映画「二宮金次郎」試写会前夜祭に出席するためである。制作者のひと
り、T氏から強く誘われていた。会場は支援者の集会という印象で、そこ
で初めて二宮金次郎映画製作の動機、苦労話を聞いた。

監督やディレクター、主演俳優、制作責任者等のスピーチが続き、すでに
小田原と日光では有志の委員会主催で上映され、大変な参観者が長い列を
作ったという。

評者(宮崎)が小学生時代、日本中どこの学校にも二宮金次郎の銅像が
建っていた。中学時代まで流通していた1円札の肖像は二宮金次郎だった。

懐かしき、古き良き時代があったのだ。

大きな薪の荷を背中に担ぎ、夢中で読書しながら歩く二宮金治郎は求道者
の典型だった。日本人のこころの故郷でもあった。道徳の権化でもあっ
た。その像は松下幸之助の若き日に連なる。

翌日、こんどは虎ノ門の日消ホールで当該映画の東京初上映会が行われ
た。雨交じりの中、評者も家内を同道して見に行ったのだが、開始前から
長い列が出来ていた。驚きである。

それほど多くの日本人が、この映画に何かを期待して、列に加わっている
のだ。

二宮尊徳は「経済の無い道徳は戯事だが、道徳無き経済は犯罪だ」と諭した。

令和改元後、新しい1万円札の肖像となる渋沢栄一は、二宮尊徳の弟子筋
である。渋沢は 「右手に算盤、左手に『論語』」と書き残した。

基本的に道徳とモラルは異なる。出光佐三は「道徳には美がある、モラル
にはない」と断言した。その道徳とモラルの両方をもたない国と付き合う
のは、福沢諭吉が言ったように謝絶すべきだろうが、そのことはこの稿で
は措く。

執行草舟氏は本書を通じて松下幸之助という「経営の神様」の「思想」を
論じるが、従来の幸之助伝や言語録とは趣きを異にする。執行草舟氏は、
ビジネスでも成功した実業家だが、根本は哲学者である。それはこれまで
に刊行された幾多の著作からも観察できることである。

執行氏は或る境地に達した。

本書の題名にある「悲願」とは「自分の生命の奥深くから産まれる祈りで
ある。人間の悲しみが生み出す、愛の呻吟なのだ。それは国や他者に捧げ
られた人間の魂が織りなす究極の姿とも言えよう。言葉にはならぬ涙」な
のだ。

それが松下幸之助にはあった。

ところが、現代日本人は自分を過大評価し、「たいした人間」、「善人」
だと大それた自信過剰の発想をなして、勝手に思いこんでしまった。なん
の錯覚に拠るのか、だから日本人は反省することを忘れた莫迦になってし
まったのだ、と氏は嘆く。

日本の近未来が暗いのは「真の悪党が上層部にいません」「いまの政治家
はすべて人気投票で選ばれた芸能人です。だから本当の政治が出来るわけ
がない」(74p)。

「今の日本人の思考の程度は幼児に近い。(中略)世界でもかなり珍しい
ほど、怠惰で傲慢で無知な民族になりはてています」。

「親の遺産で食っている莫迦息子」だとする氏の極論も、決して暴言に聞
こえないあたり、本書の魅力のひとつである。
 
      
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★読者の声 ★READERS‘ OPINIONS ★どくしゃのこ 
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(読者の声) 以下のような記事が目についた。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190425-00064325-gendaibiz-pol
(引用始)

「先に行われた統一地方選における大阪府知事・市長選で、大阪維新の会
が勝利したことには強い納得感がある。筆者は年に3〜4回程度、大阪方面
に出張に行くが、大阪維新の会が府政・市政の主導権を握ってからの大阪
経済の自由闊達さと、その結果としての大阪経済の活性化には驚くばかり
である。

これによって長らく享受してきた権益を失う人が出てくるのは世の常であ
るが、巨大政党の大掛かりな組織戦を粉砕した今回の大阪での選挙結果
は、それだけ大阪維新の会が進めてきた規制緩和・構造改革路線が多くの
有権者に支持されたということなのだろう。」(引用終)

しかし、私は、このような主張には同意できない。私が大阪に滞在した直
近の経験は、昨年11月中旬に2泊したものに過ぎないが、大阪の活気は、
ほとんどがインバウンド(輸出)による結果であって、大阪経済が活性化
した成果だとは思えなかったし、維新の会なる不可解な集団による「改
革」によるものだなどとは到底思えなかった。

ちょうど、2002年初頭から始まった日本経済の回復が、輸出=海外要因に
よる需要の拡大であったと考えられるのと同様ではないか。

一部で言われたような、小泉内閣による「構造改革」の結果などではな
かったことは、明らかであったのではないか。

何度か、本欄で、大阪都構想なるものの底の浅さ、愚劣さを書かせていた
だいたが、それにもかかわらず、一部の方々がこの議論にも値しないと私
が考える「構想」に共感している姿は、15年前の「構造改革」、郵政民営
化をめぐる「狂気」を想起させるものがある。

例えば、選挙後の『諸君』2005年11月号で、野田宜雄氏(故人)が、次の
ように述べているのを読んで、私は驚き、その主張の底の浅さ、単純さに
恐ろしささえ感じたものだった。

(引用始)

「このたびの選挙結果は、日本の一般有権者がかなりレベルの高い判断力
を身につけていることをしめしたと思う。今日のような歴史の大転換期に
あっては、一人の多少ともカリスマ性をおびた政治家が、広汎な大衆の信
任を獲得し、その上で強力なリーダーシップを発揮することが求められ
る。今回の選挙結果は、有権者大衆がこのことを自覚し、小泉自民党への
投票を通じて日本の政治を「指導者民主主義」に近づけたという意味で、
大いに評価すべきであろう。」(引用終)

私は、この野田宜雄氏の著作を読んだことはないが、少なくともサヨクで
はなかったと思うし、ヒットラーについての研究もある方だったように思
う。しかるに、前掲のコメントなどは、まるで、ヒットラー礼賛のように
しか思えなかった。

わけのわからないような連中(維新の会)に惑わされ、レベルの低い判断
力しか示せない多くの愚かな市民によって、大阪がますます衰退の道をた
どるのではないか、と思うと、大阪市立小学校・中学校で学んだ人間とし
て、哀しくなってくる。(椿本祐弘)

◆船頭さんは 今年60のお爺さん

渡部 亮次郎


「村の渡しの船頭さんは 今年六十のお爺さん 年を取つてもお船を漕ぐと
きは 元気いつぱい櫓がしなる それ ぎつちら ぎつちら ぎつちらこ」

「船頭さん」の一番。「かもめの水兵さん」などと同じく作詞は武内敏
子、作曲は河村光陽。

太平洋戦争直前(1941年)に発表された歌で、「六十のおじいさんです
ら、村のためお国のために休む暇なく働いているのだから、君たちも早く
立派な人間になってお国のために尽くしなさい」というメッセージが込め
られているそうだ。

このような童謡にさえ、そうしたメッセージがこめられる時代だったんで
すね。それにしても60歳のおじいちゃんですら働いている、とは…。うー
む。83歳の私はウルトラ爺さんか。

あの時代戦争だったから、老若男女のうち若い男は戦場に赴き、女性が社
会を運営していたのだから「老人」が働くのは当然だった。いまに労働力が
少なくなってきたら80歳でも働かなくてはならなくなるかもしれない。

今の日本で「60」を老人と考える人は僅かだろうが、昭和16年、今から70年
前は少なくとも60歳は「老人だったのである。

常連投稿者・平井修一さんの調べによると、世界各地での定年事情をニー
ルセン・カンパニー合同会社が調べている。オンライン調査で2010年9月
に、アジア太平洋、欧州、中南米、中東、アフリカ、北米の世界53カ国2
万6000名以上を対象に実施した。主な調査結果は以下の通りだ。

■「年寄り」は70代から

何歳からが年寄りだと思うか、という質問に対し、日本では「70代」
(54%)、世界平均では「60代」(34%)という回答が最も多い。

一方、「80代」からが年寄り、と考えている人の割合が高いのは、北米
(43%)、中南米(35%)、欧州(32%)で、日本(4%)と比べても非
常に高い数値となっている。2012・11・03