2019年04月21日

◆「生きる」よりも「活きる」を選ぶ

 渡邊 好造


新聞の有名人の死亡記事をみると、死因とともについ目をひくのはその年齢である。わが身に比べて長生きされたかどうか気になるのは筆者だけだろうか。

最近、死を迎えるのは80%以上が病院だそうである。今では昔のように自宅であらゆる手を尽くした後残念な結果になることはまずないといってよい。それも数年前までは、患者が例え意識を失い眠った状態でも血管から点滴で栄養分を送り、かなりの期間生きながらえることができた。

しかし、これにも限界があり血管が詰まったり、どうしても栄養分が足りなくなりいつまでも生きながらえるという訳にはいかなかった。

そこに今度は「胃ろう(胃瘻)」という新しい治療法が開発された。この治療法は、小説家・渡辺淳一氏の週刊誌でも取上げていたが、意識のなくなった患者の胃に栄養分タップリの流動食を直接送り込む。したがって、意識はなくとも患者は延々と長生きできることになる。筆者かかりつけの内科医によると、「やってみますか」と勧める病院も増えているという。

点滴だったら精々3〜4年が限界だったのが、それ以上に症状が変らないまま長生きできるらしい。医学上目覚ましい進歩には違いない。患者の家族にとって大喜びのこともあろうが、当然のことだが治療費は計り知れない。

かといって途中で「胃ろう」を打ち切ってくれとは言えない。それを言うと”もう殺してくれ”となり、殺人罪に問われかねない。これではもはや”生き”ているだけで、”活き”ているのでは決してない。筆者は「生きる」よりも「活きる」方を選びたい。

そこでこんな迷惑な結果にならないよう次のような遺言書を残すことにした。もちろん異論があることは覚悟の上だし、本人死後のことだから守られなくともやむを得ない。

1)病気・事故などにより脳死状態、認知症などで通常の判断ができない、その他回復不能の病気にかかった場合、余分な延命処置、治療は一切不要のこと。とくに「胃ろう」だけは絶対ご免である。

2)死体処理は、法律上必要なことのみに限る。

3)寺、僧侶に関わる費用は使わない。葬儀、読経、戒名、祭壇など不要。焼場直行の直葬も可。(戒名がないと「三途の川」を渡れないと真剣にいう人がいた、、)

念のために申し添えるが、金が惜しくて言うのではない。死者も含めて既に死んだも同然の人に金を使うべきではなく、金は”活きている人”にこそ、使うべきなのである。   
(完  再掲)

2019年04月20日

◆パキスタンで未曾有の「軍人」テロ

宮崎 正弘


平成31年(2019)4月19日(金曜日)弐 通巻第6050号 

パキスタンで未曾有の「軍人」テロ、海軍と沿岸警備隊員を狙い
 落下傘部隊の制服は偽装か。14人を殺害。軍内の抗争、それとも?

パキスタンのパロチスタン地方。この地ではパキスタンからの独立を主張
し、これまでも頻発したテロはグアダール港開発の中国人を標的としてきた。

州都クエッタでは誘拐殺人。中国人のいる工事現場へのテロ攻撃など、こ
のため中国主導のCPEC(中国パキスタン経済回廊)プロジェクトは遅
延箇所がいくつか出ている。

4月12日にはクエッタの野菜市場で爆弾テロが発生し、20人が爆死、ほか
に50人が重軽傷を負った。同地区はハザラ人が多い地区として知られる。

4月18日午前0時過ぎ、カラチからグアダールへ向かうバスが、オルマラ
地区へさしかかったところ、落下傘部隊の制服を着込んだ男たち15人、な
いし20人があらわれ、6台のバスに停止を命じた。

乗客のパスポート、IDカードのチェックがあって乗客は選別され、14人
が殺害された。東社の殆どは頭部を撃たれた。2人が負傷しながらも逃げ
出したが、国境警備隊員も銃撃戦で死亡した。

パキスタンの有力紙『ドーン』紙や『アルジャジーラ』英語版によれば、
落下傘部隊の制服を偽装したテロリストは、乗客のなかから、パキスタン
海軍兵士ならびに沿岸警備隊を選別していたという。

現場はカラチからグアダール港へいたる653キロの国道で、アラビア湾に
面した沿岸の幹線道路である。

標的が中国人から軍人に変化した。その理由は何か?

パキスタンの軍のなかで抗争が起きているのか、それともバロチスタン警
備と独立運動活動かの間に恨みが深まっていたのか? 

バロチスタンは英国がかつてにパキスタンに編入した経緯があり、住民は
独立を叫んでおり、英国に亡命している国王が居る。治安は悪く、タリバ
ンの秘密基地は、国際的テロリスト集団の根拠地にもなっていると言わ
れ、中国のプロジェクト現場はパキスタン軍が警備をしている。

インド、パキスタンのメディアはトップニュースにしているが、日本のメ
ディアはまだ一行も報道もない。

      
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1万年にわたる縄文時代、草創期から前期、中期、後期にかけての変化
土偶のデザインの変化が意味する創造力の深さ、工芸の巧緻さ

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江坂輝彌『日本の土偶』(講談社学術文庫)
@@@@@@@@@@@@@@@@

30年前の名書が学術文庫に入った。本書は縄文土偶を、じつに300点を超
える図版を用いて、1万年以上前の日本人の生活や祈り、食事、その文化
を考察している。学者だけに推理も想像もなく、淡々と客観的事実だけを
列記し、それとなく推理小説のような解釈をした梅原猛らを言外に批判し
ている。

夥しい縄文遺跡の発見と、出土した土偶、こうした縄文土偶は草創期から
製作されていたことが近年の縄文考古学でひろく認定され、しかも縄文土
偶は世界的な考古学者、美術史家の関心を集めている。

「土偶を作ったのは私たち同様近代的な人間だった」。「縄文人が抽象的
思考や表現、そして言語能力を私たちと共有し、また私たちと同じように
精巧な職人技や奇抜さを評価していた」(セインズベリーの序文)
 評者(宮崎)は中学時代の歴史教科書で、静岡の登呂遺跡が日本で最古
の遺跡と教わった。

それが固定観念のように脳裏にこびりついて離れず、高校時代に無銭旅行
であちこち旅をしたときにわざわざ登呂へ見学に行った。近くの小・中学
は遠足のコース、遠くからも観光バスを仕立てて、もの凄い人出があっ
た。連日、登呂遺跡は超満員で周囲にはお土産や、レストラン、駐車場が
足りないと悲鳴を挙げていた。

過日、新幹線を静岡で降りて、登呂遺跡を再訪してみた。

じつに半世紀以上前に来てから歳月は流れてしまった。驚いたのはレスト
ランも土産店も閉鎖され、そもそも見学者がほとんど居ない。駐車場はが
ら空き、寂れ果てているではないか。

地元のタクシーの運転手が言う。

「あれから縄文遺跡があちこちに発見されて、登呂遺跡は弥生式時代でも
あって、『新しい』遺跡。いまじゃ、駐車場はいつもあいている」

本書は、縄文遺跡を全国に訪ねた専門家が、出土した土偶を中心に、装身
具や祭器などを分析し、その用途に思いを馳せながら、考察を深める。

一覧できる羅列形式なので、ロマンを期待する向きには、文章に綾もな
く、ひたすら淡々と事実が並び、土偶やアクセサリーの出土場所、発見日
時、発見者、出土したときに状態と形状、寸法などを克明に紹介している。

1万年にわたった縄文時代は草創期から前期、中期、後期に別れるが、そ
の期間の移行に伴っての変化が土偶のデザインにあらわれた。その変化が
意味することは縄文人の創造力の深さ、工芸の巧緻さである。

さて評者にとって本書を読んでの大発見は、次の箇所だ。評者は歴史学者
でも考古学者でもないから、素人の発想から注目したのである。
 江坂氏はこう書いている。

 「1940年頃、奈良県橿原神宮外苑、現在の橿原公苑地区の遺跡の発掘調
査に(亀岡遺跡の遮光土偶の影響を受けた)多数の土偶が出土した」
(191p)

多くは破損していたが、出土品のなかには「耳の位置に小円孔のある土
偶」が含まれており、縄文後期のものと認定される(211p)。

装飾品はペンダント、腕輪、イヤリング。つまり縄文女性はピアスをして
いたのである。

このさりげない文章には重要な意味がある。

橿原神宮と言えば、神武天皇が即位した神社であり、畝傍山麓にあって同
敷地内には神武天皇陵、綏靖天皇陵がある。

すなわち『古事記』によると、神武天皇の即位は紀元前660年であり、世
界史的にいえば同時代にはバビロニア帝国が築かれたネブカドネザル大帝
の時代に重なる。日本史では縄文後期から弥生時代の重複期にあたる。

林房雄が『天皇の起源』のなかで述べたように、天皇の原型が縄文中期に
成立したという仮説は、神武以前の統治者たち、集落の長、そして地方の
豪族の長を統一していった王、大王、スメラミコトと変貌した統治者が神
武以前にも何代も続いていたことを傍証することにも繋がっている。
       
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◆福澤諭吉論に見る、皇室と国民の関係

櫻井よしこ


約150年前、日本人は列強諸国の脅威の前で、潰されず呑みこまれず、祖
国の未来を確固たるものにしようと必死の想いで努力した。徳川幕府の統
治から転じて天皇の権威の下に皆が結集して、明治維新という大変化を乗
り切った。おかげで日本は大半のアジア諸国とは異なり、辛うじて独立独
歩で前進できた。

国の形が大転換したとき、先人たちはどんな発想で国家、民族の一体性を
守り通したのか。現在、1945年から続いてきた戦後体制が大変革中なのは
否定しようのない現実だ。わが国も、何かしら根本的な変化は避けられな
いと、多くの人が感じている。

今上陛下のご退位が近づき、皇太子殿下のご即位が近づいている。新天皇
と皇室はどうあるのがよいのか。私たち国民はどのように新天皇皇后両陛
下を支え、向き合うのがよいのか。先人たちは、明治維新で突然、立憲君
主として国を統治する立場に立たれた天皇にどのように向き合ったのか。
皇室の在り方も含めて何を理想としたのか。

明治15(1882)年5月に、福澤諭吉が上梓した『帝室論』が多くを教えて
くれる。冒頭で福澤は「帝室は政治社外のものなり」と説いている。

政治と皇室を結びつけてはならないということだが、これは現代の日本人
にとっては当然の心得だ。現行の日本国憲法は、第四条で書いている。
「天皇は、(中略)国政に関する権能を有しない」と。

これは日本を占領した米軍が、出来得るならば皇室も消滅させたいとの悪
意ある思いから定めた憲法だ。日本国民が絶大な信頼を寄せていた皇室の
力を殺ぎたいとの思惑がそこにはあったと考えてよい。

だが、福澤の説く「皇室は政治にかかわってはならない」という意味は全
く異なる。明治の人々は天皇及び皇室を敬うが故に、政治と皇室は別のも
のと考えたのだ。皇室は政治の外にあったからこそ、「我が日本国におい
ては、古来今に至るまで真実の乱臣賊子なし」だったのである。

大岡裁きに人気が集まる

福澤は、少なくとも鎌倉時代以降、日本人は「北条や足利のような反乱分
子と見られるもの」でさえ、皇室に敵対しなかった、彼らは皇室に奉ずる
方法について争ったにすぎないという。その世俗の争いを、皇室は「父母
が子供の喧嘩の騒々しさを叱るような」姿勢で見ていたのであって、その
種の争いを「憎むのではない。唯これを制止するものであり、騒ぎがおさ
まればもはや問題視はしない」のだと説いている。

政治とかかわらない皇室は、「万機を統(す)ぶる」存在であり、「万機に
当たる」存在ではないとの指摘には深い意味があるだろう。

政治や政党を、「自由改進」や「保守守旧」を自称して論争するが、結局
「政権の受授を争って自らが権力を執ろうとする者にすぎない」と手厳し
く批判する。政治は世の中の多岐にわたる事柄に携わるが、皇室はそうで
はない。にもかかわらず、そうした事象のすべてが、自ずと皇室の下で治
まっていくという見方を福澤は取っている。

現実問題として日本では争い事はどのように解決されるのか。大岡越前守
の大岡裁きに人気が集まるように、必ずしも厳格な法による解決が善い解
決ではなかった。たとえば江戸市中の火事場で鳶の組同士が喧嘩する。す
ると公の裁きのかわりに親分が仲裁し、喧嘩の当事者が坊主頭になって和
解する。なぜ坊主頭になるのか。実際に寺に入らずとも、寺に入り、俗世
と別れるという覚悟を、示すためだろう、と福澤は見る。

だが、西洋の合理性を重視した福澤は日本における宗教の力は評価しない。

「我が日本の宗教の功徳は人々の営みにまでは浸透していない。宗教はた
だわずかに、寺院の中の説教にとどまっている。宗教の力のみで、国民に
倫理や徳を浸透させ維持することができないのは明らかだ」

福澤は宗教の力は評価しないが、社会の潤滑油としての宗教の機能は大い
に認めている。たとえば、として次のような事例を挙げている。古く歴史
を遡れば敗軍の将が高野山に登り、国事犯の罪人が尼寺に入り、あるい
は、藩法に背いた家来に止むを得ず切腹を命ずるようなとき、君家菩提寺
の老僧が仲裁に入ったり、罪人を寺に引き取ったりしておさめてきた。

宗教は法以外の力、法以外の存在として、社会の安寧を維持するのに役
立ったということなのだ。社会を暮らし易いものとするための力として評
価しているのだ。

それでも前述したように、宗教は寺院の中の説教にすぎず国民に倫理や道
徳を行き渡らせる役割は担えていないと強調して、「帝室に依頼するの要
用なることますます明らかなり」というのだ。

敬愛の情

政治も宗教も社会問題の解決や摩擦解消の力にはなり得ない。それは皇室
にしか果たせない役割だと結論づけるが、そんなオールマイティーな力
は、皇室のどこから生まれてくるのか。皇室の「統べる力」の源泉は何か。

福澤は「一国の帝王は一家の父母の如し」と説く。良家の父母は子供に
「このようにしなさい」と諭すが、「このようにしなければ鞭で打つぞ」
とは言わない。言わないだけでなく実際に手に鞭を持つことはしない。よ
き両親は慎むのである。

日本の皇室と国民の関係も同じである。そこが政治と国民の関係との違い
だとして、ざっと以下のように説いている。

国会は立法する。法を守ればよし、破れば罰せられる。懲らしめることは
善きことを勧めることではない。罰することは誉め奨励することではな
い。規範規律で縛り上げて社会の秩序を整えるのでは、国民は「畳のない
部屋に坐らされ空気のない地球に住まわされる」ようなものだ。これでは
道理道理と詰め寄られて、窒塞することもある。

それを救って、国中にあたたかい空気を通し、人心を落ち着かせ、国民に
安寧をもたらし得るのは、ただ皇室のみだ。

明治維新の荒波の中、皇室が国家の根本を担い、人々をまとめた。日本は
立派に危機を乗り切った。皇室の力は和らぎをもたらす力であり、緩和力
だ。如何なる政党にも党派にも#与#くみ#せず、公正な視点で一段と高い
所から全体を見渡す。穏やかに春のようなあたたかさで国全体を包み込
む。そのような姿勢から皇室の力は生まれたと福澤は説いている。

先人たちのこのような感じ方は、次代の皇室、ひいては新天皇皇后両陛下
とどのように向き合うかについて、自ずと私たち国民への大いなる導きと
なるのではないか。敬愛の情をもってお守りする心を、私たち国民が抱く
ことの重要性を強調したい。

『週刊新潮』 2019年4月18日号日本ルネッサンス 第848回

◆ノロウイルス食中毒の予防

                                  柴谷 涼子

 
老人保健施設などでノロウイルスの集団発生が最近報じられていました。

「ノロウイルス」について正しく理解し、ご自身も感染しないよう予防しましょう。

★ノロウイルス感染症とは・・・
 
ノロウイルスが人の小腸で増殖して引き起こされる急性胃腸炎です。

@ カキや貝類を十分に加熱せず食べた場合
A 生ガキや貝類で汚染された調理器具で調理した生野菜などを食べた場合
B ウイルスに感染したヒトの便や吐物に触れた手で調理をした場合・・・などに感染する可能性があります。

★症状
  
年齢に関係なく感染は起こりますが、高齢者や抵抗力の弱ったヒトでは重症化する例もあります。嘔気・嘔吐・下痢が主症状です。
 
腹痛、頭痛、発熱、悪寒、筋痛、咽頭痛などを伴うこともあります。 高齢者の場合、症状が出て、水分摂取ができなくなるとすぐに脱水症状を起す可能性がありますので、早めに病院の診察を受けて下さい。

★予防

生のカキや貝類は内部まで十分に加熱してから食べるようにしましょう。カキの処理に使用したまな板などは、よく水洗いし、熱湯消毒をしてから使用しましょう。

★冬場はこのノロウイルスに限らず、様々な感染症が流行します。感染予防としてもっとも重要なのは、普段からの手洗いやうがいです。

外から帰ったあとは必ず手洗いとうがいをする習慣をつけましょう。

 <参考文献;>

1.国立感染症研究所 感染症情報センター感染症発生動向調査週報 感染症の話
 http://idsc.nih.go.jp/idwr/kansen/k04/k04_11.html
2.大阪府食の安全推進科    http://www.pref.osaka.jp/shokuhin/noro/
3.厚生労働省ノロウイルス食中毒の予防に関するQ&A
http://www.mhlw.go.jp/topics/syokuchu/kanren/tobou/040204-1.html
          (大阪厚生年金病院 感染管理認定看護師 

2019年04月19日

◆郭台銘が台湾総統選挙へ

宮崎 正弘


平成31年(2019)4月18日(木曜日)通巻第6046号  

「中国の代理人」=郭台銘が台湾総統選挙へ立候補を熟慮
  北京の指令を受けたのか、個人的野心を果たそうとしているのか

シャープを買収したことで日本でも突如有名になったが、郭台銘は外省人
2世で親は山西省から移住した。アップルなどにスマホ部品を納入する鴻
海精密工業(フォックスコンン)は最盛期、中国全土に130万人もの従業
員を抱えた。

こうなると、台湾企業というより、鴻海精密工業はいまや中国の大企業で
あり、胡錦涛時代から「中華思想」を鼓吹し、習近平とも2回個別に会見
している。台湾民衆はかれを阿漕な経営者とみている。

台湾の国会を占拠した民主化運動では「民主主義など糞の役にも立たな
い」と言い放ち、民主活動家からは蛇蝎のように嫌われている。

映画にもなったが深センの鴻海精密の工場では過酷な労働条件に自殺が相
次ぎ、工場には飛び降り防止の金網が張られた。悪名が中国でも轟いた
が、まったく怯まず、従業員を酷使した。

もともと彼はプラスチック成形の小さな町工場から起業し、王永慶を深く
尊敬して猛烈に働いた。フォーブスの富豪ランキングでは2018年に世界
78位となった。

スマホ不況に陥ると、主力の河南省鄭州工場で5万人を平然と馘首し、同
時にロボット化を進めて、近く50万人のレイオフを準備している。各地の
工場では深刻な労働争議が続いている。中国での評判も共産党高層部は別
として庶民の間に評判は芳しくないようである。

トランプ大統領と会ってウィスコンシン州に巨大投資をなして液晶パネル
工場を建設すると約束したが、先行きが暗いとなるや計画の大規模な縮
小、研究センターに留めるなどとした。

トランプ大統領が直接郭台銘に電話をかけて見直しを要請した。郭台銘は
記者会見をやり直すなどジグザグぶりを示した。

この舞台裏では孫正義、アリババの馬雲が密接に繋がっていた。

台湾への愛国心は稀薄で、メンタリティは中国大陸的だ。

大胆不適な決断力と電光石火の行動力、そして巨額の借金を気にしない直
進型、いや暴走型経営で知られる。


 ▲民主主義を敵視する中華思想の持ち主

かくして、この暴れん坊が台湾総統選挙に国民党から立候補を準備してい
ると言うのだから、ちょっとした国際ニュースになる。国民党は着々と巻
き返し作戦を展開しており、昨地方選挙では、民進党の牙城といわれた高
雄市長選挙で、番狂わせ、韓国諭を当選させる。

国民党は朱立綸が本命と見られてきたが、韓国諭のほうが世論の人気が高
く、また無所属で何哲文が立候補するとなると乱戦になる。

他方、与党・民進党は、レイムダックに陥った蔡英文では次の総統選挙に
勝てそうになく、ライジングスターの頼清徳(前首相、元台南市長)が首
相を辞任して立候補を表明し、党内が星雲のような分裂状態にある。もと
より同党は四つの派閥からなる合従連衡の政党であり、民主派、リベラ
ル、独立派の寄り合い世帯であるから一本化することはこれまでにもな
かった。国民党のあまりの中国傾斜に危機感を募らせると、団結する強み
はあるものの、党内対立も亦根深いものがある。

この状況下、郭台銘は地震のような政治行動に打って出たのだが、台湾で
の反応はひややかである。

「実業家が政治家となるには公私混同してはならない。鴻海実業の経営か
ら郭台銘は完全に手を切らない限り選挙民は立候補に不純なものを嗅ぎ取
るだろう。ブッシュは経営する企業から離れ、財団として公私の区別を鮮
明にした。トランプはトランプタワーの経営を弟たちに一任し、しかも大
統領の報酬を寄付している。公私の峻別が出来るのか」という批判が『自
由時報』などに掲載されている。
     
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宗教は霊的存在である神を中心にした虚構であり、
それを共有できれば信者。かくして宗教が成立し、やがて混じり合い、そ
して。。。。

   ♪
小林登志子『古代オリエントの神々』(中公新書)
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人間は神々を必要とした。人間が神を発明した。

だから本書の著者もずばり言う。

「宗教は霊的存在である神を中心にした虚構であって、虚構を共有できれ
ば信者である。(中略)神が人間を創造したのではなく、人間が神々を創
造した。神々の創造は人間精神の歴史での、最高の発明であった。明日の
ことなぞわからない人生を歩んでいく人間の羅針盤であり、杖ともなっ
て、そして精神を安定させる仕組みが、神であった。古代人は神々を必要
としていた」。

ユダヤ、キリスト、イスラムという三大宗教が成立する以前。オリエント
には無数の神々がいた。ユダヤ教の成立基盤にはそれ以前のミトス教があ
り、ペルシアのイスラム教はゾロアスターとの習合がある。インドにはヒ
ンズーがあって仏教が改革を叫び、インドから東へ拡がった。
 多神教のオリエントからアジアにかけての世界にいつしか一神教が成立
した。

日本でも神道という自然崇拝に仏教が習合した。その習合前に、日本にお
いても衝突があり、廃仏毀釈があった。聖徳太子が仏教を国教化する前の
時代、およそ百年間、廃仏毀釈が行われた。明治維新前後の廃仏毀釈は、
むしろ政治イデオロギーとしての国学の復興が外来宗教に敵対した社会現
象であり、仏教はその後も滅びず、神仏習合は維持されている。

文明の嚆矢は、多くの学説があるが、シュメール、メソポタミア、エジプ
トあたりに集中した。幾多の宗教が、西オリエントでは、イスラムという
一神教に統一されていったのは何故か、本書はこの謎に挑む。
 著者はこういう。

「多神教と一神教は截然と分けられるのではなく、分かちがたい関係にある」

無神論の多い日本人は、宗教論に興味を示すひとが少ないが、欧米の研究
者の問題点とは、ユダヤ、キリスト教の信者が多いため、「古代オリエン
トの神々への視点は客観的とは言い難い」特質を附帯している。その?を
小林氏は衝いた。

ユダヤ教以前の神、太陽信仰のミトラ教はイラン、印度あたりで発祥し、
民族の移動とともに西へ移った。ミトラはギリシアへ、ローマへと伝播した。

ミトラが拡がった地にはゾロアスター教があった。両者は対立し、年月を
経て、それぞれの神が変形し、ゾロアスターの神もキリスト教に取り入れ
られ、あるいはイスラム教に取り込まれ変形した。

しかしゾロアスター(拝火教)の神殿はアゼルバイジャン、イラン各地に
残り、いまもゾロアスターの信者はイランとインドにもいる。

たとえば、「ミスラ神がギリシア語化したミトラス神は、ヘレニズム時代
のアナトリア諸王国の守護神であった」(82p)

ミトラスは太陽神だった。それゆえに定住農耕民族にも、移動する牧畜民
族にも太陽信仰は共通だ。遠い地に駐屯した兵士らにとってミトラスの神
は、「不敗の太陽」であり、ミトラスの信仰が拡がった。ローマ帝国がキ
リスト教を国教とする前、ひとびとはミトラス教を信じていたのだ。

そしてミトラスの密儀は多彩な祭祀となり、おもわぬ場所へあらわれる。

「『日本書紀』には帰化人で百済からやってきた味魔之が呉で学んだ伎学
をつたえた」、また奈良の大仏の開眼供養には、当該伎楽が演じられた。
その、「演者がかぶる伎楽面の種類とミトラス教の信者の位階が一致す
る」という(92−93p)

古代オリエントの神々に共通したもうひとつの特質は神々が死んで復活す
ることである。

この信仰を活かしたのがキリストであり、イエスは死んで、復活した。
 かくして本書の結論とは宗教は霊的存在である神を中心にした虚構であ
り、その虚構を共有できれば信者になり、過去幾多の宗教が成立し、やが
て混じり合い、そして連れ去られ、ともに生きた。

通読しながら評者(宮崎)はしきりに縄文時代の自然崇拝、すなわち太陽
信仰を考えていた。天照大神はまさに太陽であり、天の岩戸は日蝕であ
り、自然が信仰の対象だった。たとえば大神神社のご神体は三輪山それ自
体であり、鳥居、社殿の出現は仏教渡来以後であり、しかし神道には偶像
はない。

縄文遺跡から出土する夥しい祭祀器具、副葬品としての土偶、翡翠、耳飾
り等々。明らかに神道の源流が縄文時代からあったことを証明している。
縄文人も霊的存在としての神を祭った。渡来人が農作を伝えた弥生式にな
ると社殿が造られ祭祀を司る長が現れた。神秘に満ちた古代人の信仰に、
本書を通読しつつ、思いを馳せたのだった。
        

◆福澤諭吉論に見る、皇室と国民の関係

櫻井よしこ


「福澤諭吉論に見る、皇室と国民の関係」

約150年前、日本人は列強諸国の脅威の前で、潰されず呑みこまれず、祖
国の未来を確固たるものにしようと必死の想いで努力した。徳川幕府の統
治から転じて天皇の権威の下に皆が結集して、明治維新という大変化を乗
り切った。おかげで日本は大半のアジア諸国とは異なり、辛うじて独立独
歩で前進できた。

国の形が大転換したとき、先人たちはどんな発想で国家、民族の一体性を
守り通したのか。現在、1945年から続いてきた戦後体制が大変革中なのは
否定しようのない現実だ。わが国も、何かしら根本的な変化は避けられな
いと、多くの人が感じている。

今上陛下のご退位が近づき、皇太子殿下のご即位が近づいている。新天皇
と皇室はどうあるのがよいのか。私たち国民はどのように新天皇皇后両陛
下を支え、向き合うのがよいのか。先人たちは、明治維新で突然、立憲君
主として国を統治する立場に立たれた天皇にどのように向き合ったのか。
皇室の在り方も含めて何を理想としたのか。

明治15(1882)年5月に、福澤諭吉が上梓した『帝室論』が多くを教えて
くれる。冒頭で福澤は「帝室は政治社外のものなり」と説いている。

政治と皇室を結びつけてはならないということだが、これは現代の日本人
にとっては当然の心得だ。現行の日本国憲法は、第四条で書いている。
「天皇は、(中略)国政に関する権能を有しない」と。

これは日本を占領した米軍が、出来得るならば皇室も消滅させたいとの悪
意ある思いから定めた憲法だ。日本国民が絶大な信頼を寄せていた皇室の
力を殺ぎたいとの思惑がそこにはあったと考えてよい。

だが、福澤の説く「皇室は政治にかかわってはならない」という意味は全
く異なる。明治の人々は天皇及び皇室を敬うが故に、政治と皇室は別のも
のと考えたのだ。皇室は政治の外にあったからこそ、「我が日本国におい
ては、古来今に至るまで真実の乱臣賊子なし」だったのである。

大岡裁きに人気が集まる

福澤は、少なくとも鎌倉時代以降、日本人は「北条や足利のような反乱分
子と見られるもの」でさえ、皇室に敵対しなかった、彼らは皇室に奉ずる
方法について争ったにすぎないという。その世俗の争いを、皇室は「父母
が子供の喧嘩の騒々しさを叱るような」姿勢で見ていたのであって、その
種の争いを「憎むのではない。唯これを制止するものであり、騒ぎがおさ
まればもはや問題視はしない」のだと説いている。

政治とかかわらない皇室は、「万機を統(す)ぶる」存在であり、「万機に
当たる」存在ではないとの指摘には深い意味があるだろう。

政治や政党を、「自由改進」や「保守守旧」を自称して論争するが、結局
「政権の受授を争って自らが権力を執ろうとする者にすぎない」と手厳し
く批判する。政治は世の中の多岐にわたる事柄に携わるが、皇室はそうで
はない。にもかかわらず、そうした事象のすべてが、自ずと皇室の下で治
まっていくという見方を福澤は取っている。

現実問題として日本では争い事はどのように解決されるのか。大岡越前守
の大岡裁きに人気が集まるように、必ずしも厳格な法による解決が善い解
決ではなかった。たとえば江戸市中の火事場で鳶の組同士が喧嘩する。す
ると公の裁きのかわりに親分が仲裁し、喧嘩の当事者が坊主頭になって和
解する。なぜ坊主頭になるのか。実際に寺に入らずとも、寺に入り、俗世
と別れるという覚悟を、示すためだろう、と福澤は見る。

だが、西洋の合理性を重視した福澤は日本における宗教の力は評価しない。

「我が日本の宗教の功徳は人々の営みにまでは浸透していない。宗教はた
だわずかに、寺院の中の説教にとどまっている。宗教の力のみで、国民に
倫理や徳を浸透させ維持することができないのは明らかだ」

福澤は宗教の力は評価しないが、社会の潤滑油としての宗教の機能は大い
に認めている。たとえば、として次のような事例を挙げている。古く歴史
を遡れば敗軍の将が高野山に登り、国事犯の罪人が尼寺に入り、あるい
は、藩法に背いた家来に止むを得ず切腹を命ずるようなとき、君家菩提寺
の老僧が仲裁に入ったり、罪人を寺に引き取ったりしておさめてきた。

宗教は法以外の力、法以外の存在として、社会の安寧を維持するのに役
立ったということなのだ。社会を暮らし易いものとするための力として評
価しているのだ。

それでも前述したように、宗教は寺院の中の説教にすぎず国民に倫理や道
徳を行き渡らせる役割は担えていないと強調して、「帝室に依頼するの要
用なることますます明らかなり」というのだ。

敬愛の情

政治も宗教も社会問題の解決や摩擦解消の力にはなり得ない。それは皇室
にしか果たせない役割だと結論づけるが、そんなオールマイティーな力
は、皇室のどこから生まれてくるのか。皇室の「統べる力」の源泉は何か。

福澤は「一国の帝王は一家の父母の如し」と説く。良家の父母は子供に
「このようにしなさい」と諭すが、「このようにしなければ鞭で打つぞ」
とは言わない。言わないだけでなく実際に手に鞭を持つことはしない。よ
き両親は慎むのである。

日本の皇室と国民の関係も同じである。そこが政治と国民の関係との違い
だとして、ざっと以下のように説いている。

国会は立法する。法を守ればよし、破れば罰せられる。懲らしめることは
善きことを勧めることではない。罰することは誉め奨励することではな
い。規範規律で縛り上げて社会の秩序を整えるのでは、国民は「畳のない
部屋に坐らされ空気のない地球に住まわされる」ようなものだ。これでは
道理道理と詰め寄られて、窒塞することもある。

それを救って、国中にあたたかい空気を通し、人心を落ち着かせ、国民に
安寧をもたらし得るのは、ただ皇室のみだ。

明治維新の荒波の中、皇室が国家の根本を担い、人々をまとめた。日本は
立派に危機を乗り切った。皇室の力は和らぎをもたらす力であり、緩和力
だ。如何なる政党にも党派にも#与#くみ#せず、公正な視点で一段と高い
所から全体を見渡す。穏やかに春のようなあたたかさで国全体を包み込
む。そのような姿勢から皇室の力は生まれたと福澤は説いている。

先人たちのこのような感じ方は、次代の皇室、ひいては新天皇皇后両陛下
とどのように向き合うかについて、自ずと私たち国民への大いなる導きと
なるのではないか。敬愛の情をもってお守りする心を、私たち国民が抱く
ことの重要性を強調したい。

『週刊新潮』 2019年4月18日号日本ルネッサンス 第848回


◆「青い山脈」の頃

渡部 亮次郎


恥かしい話を書く。多分生まれて初めて観た劇映画が「青い山脈」であ
り、昭和26(1951)年の早春、新制中学を卒業寸前の15歳、教師引率で、町
の映画館で観た。

もちろん白黒。公開されて既に2年経っていたらしいが、それは今になっ
て調べて分かった事。町と言いながらド田舎だったのである。

昭和の御世。15歳まで映画も観られなかったとは万事、貧しかった。
もっとも戦争中は見ようにも映画が製作されてなかったらしい。

映画「青い山脈」(あおいさんみゃく)は石坂洋次郎原作の日本映画。
1949年・1957年・1963年・1975年・1988年の5回製作されたが最も名高い
のは1949年の今井正監督作品である。私の観たのがこれだ。

主題歌の『青い山脈』は日本映画界に於いて名曲中の名曲ともいえる作品
で、過去の映画を紹介する番組などでは定番ソングともなている。2007年
10月24日のラヂオ深夜便で久しぶりに聴いたので映画の事を思い出したの
である。

西條八十(やそ)作詞、服部良一作曲の名曲。映画を見たことが無い人でも
歌だけは歌える人が多い。また映画ではラブレターで「戀(恋)しい戀し
い」というところを「變(変)しい變しい」と誤記してしまうエピソード
は大いに笑わせた。

長編小説『青い山脈』は1947年に「朝日新聞」に連載。

東北の港町を舞台に、高校生の男女交際をめぐる騒動をさわやかに描いた
青春小説。また、民主主義を啓発させることにも貢献した。

私は新憲法は中学生ながらに全文を読んだが、民主主義の実際については
「青い山脈」に教えられた。

1949年に原節子主演で映画化され、大ヒットとなった。その3ヶ月前に発
表された同名の主題歌も非常に高い人気を得た。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

石坂洋次郎(いしざか ようじろう 1900年1月25日―1986年10月7日)は、
小説家。青森県弘前市代官町生まれ。戸籍の上では7月25日生まれになっ
ているが、実際は1月25日生まれ。

弘前市立朝陽小学校、青森県立弘前中学校(現在の青森県立弘前高等学校
の前身)に学び、慶應義塾大学国文科を卒業。1925年に青森県立弘前高等
女学校(現在の青森県立弘前中央高等学校)に勤務。

翌1926年から秋田県立横手高等女学校(現在の秋田県立横手城南高等学
校)に勤務。1929年から1938年まで秋田県立横手中学校(現在の秋田県立
横手高等学校)に勤務し教職員生活を終える。

『海を見に行く』で注目され、『三田文学』に掲載した『若い人』で三田
文学賞を受賞。しかし、右翼団体の圧力をうけ、教員を辞職。戦時中は陸
軍報道班員として、フィリピンに派遣された。

戦後は『青い山脈』を『朝日新聞』に連載。映画化され大ブームとなり、
「百万人の作家」といわれるほどの流行作家となる。数多くの映画化、ド
ラマ化作品がある。

他に、『麦死なず』『陽のあたる坂道』『石中先生行状記』『光る海』など。

「青い山脈」では作者は青森県立弘前高等女学校(現在の青森県立弘前中
央高等学校)の教師であった。当時疎開中の女子学生達から聞いた学校生
活をこの小説の題材にしたと思われる(「東奥日報」2005年8月15日新聞
記事による)。

この記事は間違っている。現在の青森県立弘前中央高等学校の教師であっ
たのは1925年(大正14年)であって「当時疎開中の女子学生達」とは何の
ためにどこから疎開してきたのか。東奥日報の我田引水もいい加減にしろ。

閑話休題。1949年版映画のスタッフ。監督:今井正、脚本:今井正、井手
俊郎、音楽:服部良一。作曲を電車の中で、数字で作曲していたら、折か
らの闇物資を売買する闇商人に間違えられた、という作り話のようなエピ
ソ−ドがある。

主なキャスト 島崎先生(女学校の教師):原節子、沼田校医:龍崎一郎
、金谷六助(旧制高校生):池部良、寺沢新子(女学生):杉葉子、 ガン
ちゃん(旧制高校生):伊豆肇、 笹井和子(女学生):若山セツ子、梅太
郎(芸者):木暮実千代だった。

2007年、『映画俳優 池部良』が出版される。2007年2月、東京池袋の新
文芸座のトークショーにて、その本の編集者から「青い山脈の時に31歳で
したが…」と池部が質問され、

実は1916年生まれで当時33歳なのに『青い山脈』の18歳の高校生の役を
渋々受けたことや原節子先輩からガリガリに痩せていたため「豆モヤシ」
という迷惑なあだ名をつけられたり、原節子の尻をデカイと本人の目の前
で口を滑らせたために 張り手を食らいそうになったりといったエピソー
ドを話している。

「ウィキペディア」による誕生日は1918年2月11日(建国記念の日)89歳
 血液型B型となっているが、池袋の新文芸座のトークショーでの「実は
1916年生まれ」だとすると92歳(2008年6月現在)になってしまう。映画俳
優協会の理事長としてご活躍中ということで不問にしよう。

この作品は藤本プロと東宝の共同作品となっている。著作権の保護期間が
終了したと考えられることから現在激安DVDが発売中(但し監督没後38年以
内なので発売差し止めを求められる可能性あり)。出典: フリー百科事典
『ウィキペディア(Wikipedia)』

この映画を観た当時は大東亜戦争の敗戦から未だ6年。人口数千人の町に
よく劇場があったものだが、小中学生の映画鑑賞は禁じられていたし、カ
ネも持っていなかったから観たいとも考えなかった。

出来て間もない中学校では野球に夢中。3年になったら主将に指名され
た。投手で4番打者。校舎の中では生徒会長でもあったから忙しかった。
家では教科書を広げる事はなかった。

中学校も間もなく卒業という春、秋田は3月と言っても当時は雪の降る日
があった。ゴム長靴にアメリカ軍払い下げのオーバーを着て寒さに耐えな
がらの映画鑑賞。

生まれて初めて観る映画だったはずだが、あらすじも画面も、未だに思い
出せるところをみると興奮はしていなかったようだ。後年、父親を映画に
誘ったら「暗くて厭だ」との感想。

明るくとも見える映画といえるテレビがド田舎にも普及したのは「青い山
脈」を見てから10年以上経っていた。ましてあの頃、テレビ会社(NHK)に入
社(記者)するとは夢にも思わぬことだった。

恥かしくて退屈な思い出話。御退屈様。2007・10・25執筆

◆「馬」の渡来地先は四條畷市

                             毛馬一三


わが国古代王朝の威光を軍事面で支えた「馬」の渡来終着先が、なんと大阪府四条畷市であることを知らされ、ビックリした。

大阪湾(古代は難波津)に接している大阪柏原市に鉄技術、堺市に土器焼成技術が古代に朝鮮半島から渡来していたことは知っていたが、まさか生駒山系が迫り、大阪湾と些かも面していない四条畷市が、「馬」の渡来終着地だったとは夢にも思っていなかった。

ところが、先般四條畷市主催の会合で、古代王朝や豪族たちの権力の象徴となる「馬」の渡来先が四条畷市で、これを証明する「蔀屋北遺跡(しとみやきたいせきあと)」が、四條畷市にあることを知らされたのだ。

四條畷市の西にある現在の寝屋川は、古代には難波津に繋がる海路ルートとなっていた。しかもこの海路の条件と、清い水と牧草に恵まれた肥沃大地の馬飼いの環境が見事に合致したことから、ここが朝鮮半島からの渡来先の終着地になったらしい。

しかも、四條畷を南北に横たわる生駒山系を越えれば、比較的なだらか下り坂となり、「馬」に負担を掛けず「大和」へ供給できた立地の良さが王朝・豪族に認められ、四條畷(当時・讃良)を「馬」の機動力を軍事制度に組み入れる「馬飼いの里」として定着させたという。

朝鮮半島からは、比較的穏やかな初夏の海に「馬」を乗せた丸木船を2ヶ月かけて、玄界灘から筑紫(福岡)・豊浦(下関)・瀬戸内海、そして大阪湾(難波津)を経て、河内湖から寝屋川を通じて「蔀屋北遺跡」に辿り着いている。「馬」に同伴してきた渡来人もここに定住したそうだ。

そう云えば、「国内最古 馬の乳歯 四條畷」という記事が出ていたことを思い出した。

四條畷市の「蔀屋北遺跡」で、国内最古となる5世紀中頃の馬の乳歯が2頭分、大阪府教委の調査で出土した。2〜2歳半とみられ、同時期の遺跡で、若い馬の存在が確認されたのは初めて。

同遺跡は、国内で初めて馬を本格的に飼った牧場とされ、府教委は「朝鮮半島から子馬を船に乗せて連れてきたか、生まれた子馬を飼育し、軍馬として増産したとみられ、国内最初期の馬生産の実態がわかる」としている。


3世紀の中国の史書「魏志倭人伝」に、日本に馬はいないと記されており、5世紀頃、朝鮮半島から馬と乗馬の風習が伝わったとされる。(略)
松井章・奈良文化財研究所埋蔵文化財センター長(動物考古学)は「乳歯はもろく、「蔀屋北遺跡」からの出土は珍しい。馬飼が、大規模に馬を生産していた様子がうかがえる」と話している。

たしかに「蔀屋北遺跡」とその周辺から、これまでに丁寧に埋葬された馬の骨(性別は不明)や永久歯計約500点、それにアブミ、鹿角製のハミ、鞍などの馬具も出土している。総数26基の井戸も発掘されており、このうち7基は、「馬」運びに使った舟を転用して、井戸枠を作っているのが分かっている。

その船は、西都原式といわれる準構造船で、実物が日本で初めてこの「蔀屋北遺跡」で発掘されている。復元船は、全長10b、幅1b、10人乗りの船。航海は2ノットぐらいの速度の船団だったと専門家は説明しているが、果たして1隻の船に一体何頭乗せて来たかは明らかではない。

四條畷市の「馬飼いの里」で繁殖された「馬」は、王朝や豪族の間で軍事・通信・運輸の活用に重用され、いわゆる権力誇示の証とされた。それだけに四條畷市の「馬渡来の終着地」の意義と「馬飼いの里」からの「馬」の供給価値が、権力側から高く受け入れられていた。

しかし文武4年(700年)になると、天皇に献上する公の牧場が諸国に作られ始められるようになり、そののち平城京遷都の時には、騎兵500人が威儀を正して行進し、「馬」が国家の資としての威容をみせつけている。

こうした時代の変遷のともない、平城京遷都の頃には、四條畷市の「馬渡来の終着地」の役割は終焉し、「馬飼いの里」は姿を消したという。

名所旧跡の多い大阪四條畷市では、こうしたあまり知られていない歴史を積極的に広報して、まちへの集客へ繋げる「観光政策」に力を入れたいそうだ。(了 再掲)
 参考―四條畷市立歴史民族資料館刊「馬は船にのって」   

2019年04月18日

◆SONY、北京工場を閉鎖

宮崎 正弘


平成31年(2019)4月17日(水曜日)通巻第6044号  

 SONY、北京工場を閉鎖。赤字1億4000万ドル
    ところが海外留学生51万人が中国へ帰国している

中国国内に数千万人の失業がでている。未曾有の不況に突入しているのだ。

3月の全人代でも、「1100万人の失業対策」が謳われ、看板だった「2025
 中国製造」には一切言及がなかった。

大学新卒834万人にましな職場がないというのに、ここへ51万人の留学生
が蝗の大群となって帰国した。

大量失業の上に、エンジニア級の失業が拡大することになり、嘗て「海亀
組」といわれて重宝された欧米留学からの帰国組にとって、これからの職
探しは難儀を極めるだろう。職はあっても給料面でおりあうか、どうか。
げんに大学卒の初任給がレストランのホステスより安いというアンバラン
スがあちこちい報告されている。

しかし一時的にせよ、これほど大量の帰国は嘗てないことで、米国留学組
が大半だから、いまのトランプ政権のアメリカにおいて、どれほど強靱な
反中国の嵐が吹き荒れているか、如実につたわってくるではないか。
うかうか在米を続けたらスパイ容疑で拘束されるかもしれないし。

帰国組は上海、北京、広州などに散ったが、意外に多くが深センを選ん
だ。中国のシリコンバレーを目ざす深センでは、海亀組の帰国を歓迎し、
都市戸籍を取得しやすい措置を講じているためである。都市戸籍は李克強
首相がしゃかりになって推し進める都市化政策の一翼を担い、現時点で中
国の都市化率は60%を超えた。まだまだ推進の余地ありと経済政策を司る
国務院は踏む。

ところが、習近平は全人代で公言した1100万人雇用対策として、とてつも
ない反動的政策、すなわち「現代版下放」を打ち出した。
時代錯誤の極みとも言える。

文革時代の下放政策を思いおこす。知識青年を憎んだ毛沢東は、用済みと
なった紅衛兵らを「農村に学べ」と言って都会から追い払い、北京大学な
どは10年間閉鎖された。

習近平も陝西省北部の農村へ追いやられた。

1000万人学生を農村へ、と習近平が呼号する。これ、すなわち共青団つぶ
しであり、紅衛兵の再来という悪夢、しかし同時に1100万失業対策に繋が
るというわけだ。

一説には李克強イジメという見方もある。

日本企業の撤退がいよいよ本格化した。

SONYは20年間運営してきた北京工場を閉鎖する。最盛期には一万人の
従業員をかかえた組み立て工場だが、生産ラインを徐々にタイへ移動させ
てきた。

賃金の高騰で、中国では採算が取れなくなり、経常赤字はじつに1億4000
万ドル(156億円)も累積していた。工場では従業員のストライキが発生
している。

       
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樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1880回】               
――「『私有』と言ふ點に絶大の奸智を働かす國である」――竹内(6)
  竹内逸『支那印象記』(中央美術社 昭和2年)

                  ▽

上海旧市街にある名所の湖心亭に出掛ける。「普通の案内記には城内湖心
亭なる一項を設けて讃辭を呈してゐるが、赤裸々に支那を觀察した記述や
旅行談は等しくこれを糞味噌にやツけてゐる」。

「池は愚かドブ」であるにもかかわらず、そこに立つ東屋を湖心亭と名付
けるのだから、「有?は文飾の國、招牌の國だ。湖心亭とは勇敢だ」。そ
のうえ、「なぜか此處へ來る見物客は殘らずこの湖畔に佇んで、悠々尿す
る人間を見る約束になつてゐる」。

ここを訪れた日本人は放尿見物を訝しがる。人前の放尿を「吾々の社會道
徳觀が許さないことになる爲に土産話中の有力なる一箇條」となるが、
「支那人に言はせれば、それを見たり氣にしたりする方の人間が社會道?

を心得ない人間であると言ふ結論になる」。広い大陸でのこと。
「南北言語は通じないが、この哲學は一致してゐる」のである。

「琵琶湖や加茂川や宇治の平等院の美しい建築やに馴染みつけてゐる者」
が、「このドブの中に建つた惡趣味の湖心亭」を愛でる気になるわけがな
い。だが、そこで「一卓に肘を衝いて茶をすゝる」ことをも「支那情緒に
耽美する一箇條に數える人があるなら、その人は既に支那情緒なるものに
耽美する異國人ではなく、支那人それ自身だ」。

漢字をはじめ律令制度を含め日本の文化や社会制度の多くは一衣帯水を越
え、かの国から招来されたと説かれることが一般的だ。

この関係を地理的な近さに重ね合わせ、いつの頃からか双方の関係を一衣
帯水と表現するようになった。だが、たとえ一衣帯水であったにせよ社会
道徳の違いは歴然としている。広大な大陸国家においては「南北言語は通
じないが、この哲學は一致してゐる」のである。やはり日本とは違うので
ある。

一衣帯水の向こう側とこちら側とでは社会道徳は大いに異なる一方、余り
にもかけ離れた方言を使いながらも広い大陸とはいえ南北で哲学は一致し
ている――いったい、なにが背景となって、この違いが生まれたのか。社会
道徳やら哲学やらと大仰に言わなくても、やはり生き方、生きる姿勢、生
きる姿、生きる形(それこそが《文化》というものだろうに)の違いが起因
していると考えるべきではないか。

同じように漢字を使うが意味・用法が違う。そこで「背」を例示してみたい。

一般に日本では「背」を「暗記・暗唱する」と動詞としては使わない。だ
が一衣帯水の向こう側では「学多少背多少、外語才能進歩(暗記するほど
に外国語は進歩する)」と。同じように茶碗と箸で米を食べるが、箸の長
さ・太さ・形状も違えば持ち方も違う。茶碗の持ち方も、茶碗と口の位置
関係も違う。日本人では当たり前のお茶漬けも、彼らにとっては『超異文
化』となる。夏の盛り、冷や麦をツルツルと気持ちよく食べていると、
「それは食事か」と奇異の目で見られたことがある。ラーメン・ライスや
ら餃子・ライスやら、これまた『超異文化』だろう。
麺も餃子も、彼らにとってはおかずではないのだから。

とはいえ、あちらが正しく、こちらが間違っているわけでも、こちらが正
しく、あちらが間違っているわけでもない。ともかくも違う。その違いを
自覚することだ。

自覚して付き合うしかない。もっとも「支那情緒なるものに耽美する異國
人ではなく、支那人それ自身」になってしまったというのなら、最早、な
にを言っても無駄ではあるが。

さて湖心亭の湖畔に佇む竹内だが、その袖を引く者がいた。「贋造寶石露
店商人だ」った。かくて「然も排日氣分の濃厚な時節柄、特に城内はその
勢力範圍だと言ふことだつたから、私達は倉皇として退去することにした」。

まさに三十六計となった次第だ。

だが一度狙った客は逃さない。

「彼はまた私の袖を引いた」。値段を尋ねると小声で「八十弗」。電車が
来た。すると「彼は急に三十弗!」。「一弗だ!」。電車が近づくと「三
弗に!」。電車に飛び乗った竹内の袖を引く。電車が動く。すると「二弗
五十仙に!」・・・。《QED》
   
  

◆私たちは「日本」を守り続けられるか

櫻井よしこ


「私たちは「日本」を守り続けられるか 今こそ福澤諭吉の姿勢に学びた
い 」

春爛漫の日、新元号「令和」が発表された。出典は1200年前の『万葉集』
だ。長い歴史で初めて漢籍から離れ大和の文化から元号が生まれたことを
多くの人々が好感した。

この悦びは、古(いにしえ)の時代、私たちが中国から文字を学び、その
制度のよき点のみを取り入れて国造りをしたこと、その先に日本独自の価
値観に基づく大和の道を歩んだことを改めて認識させてくれる。

歴史の営みを振り返るとき、私たちの胸にはかつての中国への感謝と共
に、中華の文明に埋没せず、大和の道を選んだ先人たちへの敬愛の情が生
まれてくるだろう。

大和の道を最も端的に表現しているのが『万葉集』である。天皇、皇族か
ら、農民、兵士まで、階層や男女の別なく歌を詠み、それらをきちんと記
録して、再び言う、1200年以上、保持し続け、今日に至る。こんな国は他
にない。この新しい道を歩み続けて行く先に、大きな可能性が開けるので
はないか。歴史の大潮流における画期の一歩が踏み出された予感がする。

世界中が政治力学の根本的変化の中にあるいま、先人たちが大和の道を築
くことで立派な国造りを成功させたように、私たちはなれるだろうか。
「日本」を守り続けていけるだろうか。そんな想いで福澤諭吉の著作を読
み直している。約1世紀半も前、先人たちはどのように開国と政治体制の
大転換、列強諸国の脅威などの大波に立ち向かい、克服し得たのだろうか。

当時の世論形成の重要な道標を示し続けた福澤は、世界の事象を極めて具
体的かつ細かい観察眼でとらえている。事実を厳格に認識し、冷静に論
じ、事実抜きの論評はしていない。

たとえば明治12(1879)年8月に発表された『民情一新』である。明治12
年にはまだ帝国議会も開設されていない。帝国議会の誕生は明治
23(1890)年である。

福澤は書いている。

西洋との接触によって日本に「文明開化」がもたらされたと世論に流布さ
れているが、事実を把握しておかなければ大いに誤ちをおかすだろうとし
て、「西洋の理論決して深きに非ず、東洋の理論決して浅きに非ず」だ
と、明確に断じている。

そのうえで、ではなぜ、西洋の文物が「文明開化」を促すとしてもてはや
されるのかと問うている。それは西洋では文学も理論も実用に結びついて
いるからだと福澤は説く。つきつめていくと国全体に交通の便が開かれ、
人々は物理的精神的に解かれているからだと言うのだ。

「人心が一度び実用に赴くときは、その社会に行われる文学なり理論なり
は、皆、実用の範囲を脱す可らず(実用に耐えなければならない)」

福澤は冷静に洋の東西を比較し、日本が手掛けるべきことを具体的に挙げ
たのだ。具体論が基本にあるために、否定するのは難しい。『兵論』、即
ち国防論についても同様だ。

明治15(1882)年の『兵論』は立国に兵備の欠かせないことから書き出
し、列強諸国の人々、歳入、陸軍人、陸軍費、軍艦、海軍費を比較した。
当然の比較だが、福澤は単なる数字上の比較で終わっていない。

軍人1人が守る国民の数はフランスが70人、ロシア110、イタリア130、オ
ランダ57、イギリス230、ゲルマン(ドイツ)100、日本480だなどの比較
に加えて軍人の給料、それで賄いうる食事の質までも細かに論じた。日本
の兵の給与、1日6銭では「鮮魚肉類」は口にできず、肉食の多い列強諸国
や支那と較べて、日本の軍人は体力面で劣るなどと、説得力のある説明が
続く。

事実に基づいた視点は研ぎ澄まされている。このような姿勢をとりわけい
ま、学びたいと思う。
『週刊ダイヤモンド』 2019年4月13日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1275