2019年04月13日

◆穏やかさと優しさの新元号「令和」

櫻井よしこ


資料を午前中一杯で読み終えて午後は執筆にかかろうと、早朝から書斎に
こもっていた。しかしそれどころではない。上空をヘリコプターが飛び交
い、騒然たる状況だ。新元号の決定と発表の日であるから、当然だろう。

落ち着かなくなり遂にテレビをつけた。時々刻々、状況が伝えられ、多く
の人々が発表を待ちわびていた。皆、同じ気持ちなのだ。4月1日は新元号
の発表日で、新天皇のご即位はひと月も先なのに、気のはやい私たちはこ
ぞって新時代の到来を寿(ことほ)いでいる。

秘書たちと一緒に私は官邸の会見室の映像を見つつ、その瞬間を待った。
公益財団法人モラロジー研究所教授の所功氏が出演していたが、元号につ
いて第一人者の解説には安心して耳を傾けられる。

予定を過ぎた11時40分、菅義偉官房長官が会見室に姿を見せた。

「新しい元号は『令和』であります」

はっきりした口調とキリッとした表情には威厳があった。「令和」は万葉
集の「梅花の歌32首の序」に依るとの説明に嬉しさが満ちてきた。

『万葉集』とは、なんと心憎いことか。中国の古典に加えて日本の古典か
らも採用し得ると公にされたとき、「記紀」を想定した人は多かったはず
だ。だが、『万葉集』も日本の誇るべき国書、これこそ国民文学の粋である。

早速書棚から、昭和53年8月15日出版の講談社文庫『万葉集(一)』(中
西進・校注)の初版を取り出して、菅氏の説明の、メモしきれなかった部
分を補った。

そこには「天平2年正月13日に、帥(そち)の老(おきな)の宅(いへ)に萃
(あつ)まりて、宴会を申(ひら)く」とある。

「時に、初春(しよしゆん)の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(や
はら)ぎ、梅は鏡前(きようぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭は珮後(はい
ご)の香を薫(かをら)す」と続いている。

中西氏はこれを次のように現代語訳した。

「時あたかも新春の好き月、空気は美しく風はやわらかに、梅は美女の鏡
の前に装う白粉のごとく白く咲き、蘭は身を飾った香の如きかおりをただ
よわせている」

全国民の歌

典拠となった「序」は大伴旅人が書いたと中西氏は解説し、さらに「序」
は次のように描写する。

「ここに天をきぬがさとし地を座として、人々は膝を近づけて酒杯をくみ
かわしている。すでに一座はことばをかけ合う必要もなく睦み、大自然に
向かって胸襟を開きあっている」

究極の平和と人々の睦み合う美しい風景である。その中で32人は4組に分
かれて円座で歌を廻らせたと思われる。

安倍晋三首相の会見は正午を5分過ぎて始まった。200年振りのご譲位を支
障なくここまでやり遂げ、無事新元号の発表に漕ぎつけた首相には、さぞ
かし感慨深いものがあるはずだ。選んだ「令和」には、男女、階層、職業
の別なく全員が参加する豊かな国民文化への誇りが込められている。

なんといっても1200年前に編纂されたわが国最古の歌集には、天皇や皇族
から農民、防人まで、まさに全国民の歌が4500首も収められているのだ。
首相は語った。

「悠久の歴史と薫り高き文化、四季折々の美しい自然。こうした日本の国
柄をしっかりと次の時代へと引き継いでいく」

自然を愛で人間を大切にする日本の特質は、先の32首が詠み人各人の名前
と肩書きと共に明記されていることにも表れている。そのような扱いは身
分のある人々に限られるものではなく、663年に日本が惨敗した「白村江
の戦い」の後、九州辺要の地の守備にあたった防人たちも同様だったので
ある。戦いから約90年後、約100首が防人たちの名前と、その妻のものさ
え一緒に『万葉集』に編入された。

このようなことは当時の大国、中国の隋や唐でさえありえなかった。彼の
地では農民や兵士は使い捨てだったが、わが国では農民や兵たちは大御宝
(おおみたから)と呼ばれた。彼らは歌を詠み、その歌が歌集に残され、
1200年後の今に伝えられている。

中西氏によると『万葉集』の歌の約半分は作者未詳である。氏の説明だ。

「無名歌を残したような人々が『万葉集』の根幹を構成する人々である。
(中略)多数の人々の歌を、歌として認定し、その中に有名歌人の作も交
えるのが『万葉集』である」

日本が一人一人の人間を大事にして、国造りを進めてきたことの証のひと
つが『万葉集』であろう。

歌は人の心、感性を表現し、神話は民族の心と感性を表現すると言ってよ
い。その神話の性格が、わが国と他国とは根本的に異なると指摘する一人
が『アマテラスの誕生』(岩波新書)の著者、溝口睦子氏である。

大和の道を選んだ

同書によると、日本の神話や伝説には民間の古い創世神話や英雄伝説が大
量に取り込まれているが、たとえば朝鮮半島の神話・伝説の主文献である
『三国史記』や『三国遺事』に記録されているのは「王権や支配者の起源
を語る神話や伝承」だという。重視されていたのは庶民の幸福や楽しみよ
りも、支配者の権力や権威だったと見てよいだろう。

万葉の歌人たちがのびのびと大らかに謳い上げている、迸(ほとばし)る情
熱が特徴でもある『万葉集』から新元号が選ばれ、日本の長い元号の歴史
で初めて漢籍から離れたことは、きっと日本の歴史への深い興味をもう一
度、呼び起こすことだろう。

わが国が未だ文字を持たなかった時代、私たちは中華文明の影響を受けて
文字を学んだ。聖徳太子は中国を尊びながらも、わが国を勝手に属国と見
做す中国に、607年、日本は中国と対等の国だと宣言した。

その誇りと気概は受け継がれ、女帝、斉明天皇は朝鮮半島に兵を出し、唐
と新羅の連合軍と戦う決断をした。日本は唐・新羅連合に敗れはしたが、
唐に和睦を乞わなかった。女帝の皇子たち、天智天皇と天武天皇は撤退し
たものの、唐の脅威に果敢に立ち向かった。

天智天皇は中華帝国に対する軍事的防護を強化し、天武天皇は日本人の日
本人たる精神的支柱を打ち立てた。それが、日本の民間の古い創世神話や
英雄伝説を大量に取り込んだ『古事記』である。

その先に、まさに慈悲と徳を実践した聖武天皇の政治がある。

『万葉集』の編纂は聖徳太子亡き後に始まり、聖武天皇の崩御後、完結し
たと見られる。民族の生き方として中華の道ではなく大和の道を選んだ歴
代天皇の時代を通して編纂されたことになる。

こんな歴史を想い起こさせるのが新元号だ。即位なさる陛下と、国民の心
が固く結ばれ、その歩まれる道が明るく照らされ、良い時代になることを
心から願っている。

『週刊新潮』 2019年4月11日号 日本ルネッサンス 第847回

            

◆健康百話 乳がんの治療

小川 佳成(医師)



乳癌の治療法は、病状や進行度、あなたの全身状態を考慮して決まります。治療には主として、手術、放射線治療、抗癌剤(抗ホルモン剤を含む)治療があります。

病状の進んでいる方には抗癌剤治療が優先されますが、通常は手術を行い、その後再発予防のための抗癌剤治療を行います。

【手術】
手術には主として、1.乳房切除、2.乳房温存手術があります。腫瘍の大きさや広がり具合などにより術式を選びます。当大阪市立総合医療センターでは、半数以上の方が乳房温存療法を受けられています。
 
乳癌の手術では転移の有無に関わらず、癌の根治・予防のためにわきの下のリンパ節を全部取り除くこと(リンパ節郭清といいます)が標準的に行われてきましたが、リンパ節郭清をすると術後に腕がむくみやすい等の症状が残ります。

そこでわきの下のリンパ節転移がないと予測される方を対象に術後の症状を軽減するために、センチネルリンパ節生検という方法を用いた、腋窩(わきの下)リンパ節郭清を省略する術式が行われるようになりつつあります。当センターでは6割の方がこの術式を受けられています。

【放射線治療】
乳房温存手術を行った場合には、残った乳腺での再発を抑えるために乳房に対する放射線治療を術後に行っています。治療期間は5〜6週間でこの治療により乳腺内での再発は2〜3%以下に抑えることができると考えられています。

【抗癌剤治療】
切除した癌の性格を詳しく調べて、術後の抗癌剤治療の必要性とその内容を決めます。これらの治療で再発の3〜4割を抑えることができるとされます。抗癌剤治療は充分な副作用対策をして外来にて行っています。

【乳房再建】
乳房切除後の乳房再建は形成外科にて行っています。当センターでは、術後1〜2年を過ぎ、治療が一段落してからの再建をお勧めしています。

乳癌の治療は5〜10年ごとに大きく進歩しています。当センターでは、“あなたがより良く生活していくために治療があるのだ”という想いのもとに、各分野の専門医が協力し合い乳癌の治療に当たっています。  
<大阪市立総合医療センター 外科>
               

2019年04月12日

◆「制裁継続」を決めたトランプの腹の内

加瀬 英明


2月末、8ヶ月ぶりにハノイで開かれた、鳴り物入りの米朝首脳会談が終
わった。

前日、私は都内の帝国ホテルで経営者団体に招かれて、講演を行った。

私は「もし予想が外れたとしたら、もう一度お招き下さって、なぜ予想が
外れたのか、詳しくお話したいと思います。北朝鮮が核兵器を手放すこと
はありえない。明日から始まる米朝サミットは、成果がなく終わるでしよ
う」と、述べた。

 米朝首脳会談の寸前まで、テレビにさまざまな専門家が登場して、アメ
リカのカードはこうだ、北朝鮮のカードは何だといって、米朝間で取り引
きが行われることを、まことしやかに論じていた。こういった番組は
ニュース番組ではなく、物見高い視聴者を満足させるエンタテインメント
なのだから、おもしろおかしくなるのは仕方がない。

 2日にわたった米朝首脳会談が終わった直後に、先の経営者団体の会長
が電話で「よく適中しましたね」といって、誉めてくれた。
 
 私は金正恩委員長がトランプ大統領と再会して握手する時には、掌(て
のひら)を垂直にださずに、水平に差し出すことになるはずだ、といっ
た。一刻も早く制裁を解除して、お金が欲しいと急(せ)いたあまり、トラ
ンプ大統領が呑めない要求を行うことになるだろうと考えた。

 米朝首脳会談が物別れだったのは、上首尾だった。トランプ大統領の技
が、1本決まった。

 トランプ大統領は会談後、金委員長を「よい友人だ」と誉めそやした
が、金委員長に何1つ土産を渡すことがなかった。今後、アメリカは北朝
鮮に対する経済制裁を、いささかも緩めることがないから、金委員長の苦
難が深まることになる。

 金委員長はハノイでしくじった。これには、親北・反日の文在寅韓国大
統領が南北融和を焦って、金委員長にアメリカが北朝鮮に譲ることになる
という、甘い期待をいだかせた責任が大きい。文大統領にとって大きな挫
折だ。

 それにしても、トランプ大統領はニューヨークのマンハッタンで不動産
業で財をなした父の子として、少年時代からマフィアや、建築業界の労働
組合の幹部たちとつきあっていたから、相手を微笑を浮べて、誉めながら
脅すのに長(た)けている。アメリカの建設業界の労働幹部は、マフィアに
よく似ていることで知られる。

 私はシンガポールにおいて第1回米朝首脳会談が行われた前から、北朝
鮮が核兵器を捨てることはありえないと、説いてきた。核兵器なしには北
朝鮮は経済が破綻した、みじめな小国にしかすぎない。アメリカの大統領
と会談できるのも、核兵器の効用である。

 仮に北朝鮮が「非核化」を受け入れたとしても、核弾頭の所在や、核施
設を「自己申告」することになっているから、隠すことができる。北朝鮮
が無条件降伏をしないかぎり、北朝鮮全土を隈なく捜すことはできない。

 北朝鮮はアメリカと話し合っているかぎり、核実験や、ミサイルの試射
を行うことができない。これはトランプ大統領の大きな功績だ。

 それにしても、金正恩委員長は、トランプ大統領が“ロシア疑惑”によっ
て追い詰められ、来年の大統領選挙へ向けて功名をたてることを焦ってい
るという、アメリカのマスコミの報道によって騙されたのではないか。

 アメリカの主要なマスコミはこの前の大統領選挙で、ヒラリー候補を支
持して惨敗したために、日本のマスコミが「反安倍」であるように、反ト
ランプ報道に血道をあげている。

 “ロシア疑惑”がトランプ政権の致命傷となることはありえないし、トラ
ンプ大統領の支持率はかえってあがっている。

 北朝鮮の金体制が崩壊しないかぎり、北朝鮮の脅威は去らない。日本
は、中国の脅威にも、備えなければならない。
日本として米朝の話合いが続くあいだ、防衛力の強化を急ぐべきである。


◆世界第2位の経済大国が

宮崎正弘


平成31年(2019)4月10日(水曜日)通巻第6039号 <特大号>

世界第2位の経済大国が、「発展途上国」からの離脱を拒否
  WTOルール違反もなんのその、中国は「最大の発展途上国」と開き
直った

中国が2001年にWTO加盟が認められたとき、「15年間は『発展途上国』
としての特典」を与えられた。

つまり各種の免税特権や貿易上の最大の輸出強化策に繋がる「最恵国待
遇」、そのうえ国内産業保護的政策などが認められた。中国は人件費の安
さを売りに世界の生産工場として外貨を稼ぎまくった。

西側は経済的成長を遂げ、豊かになれば必然的に中国は「民主化」すると
期待して、中国の経済発展に協力してきた。

この西側の目論見はみごとに外れ、中国は民主化どころか、人権弁護士を
片っ端から監獄にぶち込み、民主活動家を引っ捕らえ、劉暁波のノーベル
平和賞に悪態をついて彼を「病院」なる場所に閉じこめ、ガンの悪化を放
置し、死なせた。

香港の自治は踏みにじられ、人々は自由な言論を封じ込められ、ネットは
監視され、少数民族は血の弾圧を受け、密告が奨励され、まともな発言を
する政治家は冤罪をでっち上げて失脚させられ、有望な学者の言論活動を
封殺し、政府発言を繰り返していた著名教授らを失職に追い込んだ。
西側の期待は無惨にも打ち砕かれた。

『発展途上国』という状況はとうに克服したにもかかわらず国有企業への
補助金、輸出補助政策を継続し、太陽光パネル、風力発電などを発展さ
せ、いまでは米国と並ぶ5G開発、AI、宇宙航空産業に挑み、外貨準備
世界一というスティタスを獲得し、稼いだカネの大半を軍事費に投入して
きた。

15年という期限が切れたので、過去3年にわたり西側は中国に対し、「発
展途上国」のスティタスを返上せよと迫ったが、世界第2位の経済大国
は、「いまも世界一の発展途上国であり、WTOルールに従う」などと開
き直った。

ブッシュ、クリントン、ブッシュ・ジュニア、オバマと続いた「中国幻
想」から醒めて、トランプは対中国政策を180度変更した。

対中外交の転換におそらく日本は追随するだろうが、EUはすんなりと素
直に米国に従わない。

まだ暫し西側の絆の緩さを標的に中国のロビィ活動は続行しそうである。
       
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書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW
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象徴天皇のあり方を模索され、敢えて超法規的行動をとられた今上陛下
  「象徴天皇」はGHQの押しつけとは言えない

  ♪
小堀桂一郎『象徴天皇考』(明成社)
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ことしが皇紀2679年であることを知らない人々が新元号の号外を奪い合っ
た。結婚式を耶蘇教の教会であげ、初参りは神社へ行き、葬儀は仏教で行
う人々だから、べつに不思議な現象とは言えない。

神武天皇の肇国以来の歴代天皇の諡名を諳んずる日本人はいまや皆無に近
いのに、正月の一般参賀は20万人近い国民が列に並んで数時間も待って天
皇一家にご挨拶をした。

新元号が「令和」と決まると、突如、太宰府に観光客が押し寄せた。太宰
府天満宮は遣唐使廃止を建言した菅原道真を祀る神社である。

太宰府長官だった大友旅人が梅花の宴を開いて詠んだ「初春令月、気淑風
和」から万葉の学者によって「令和」が選ばれた由であり、従来の観光客
は天満宮しか参観しなかったのに、太宰府跡地も訪れるという新現象が見
られ、地元はPRに力を入れるというニュースに接した。

つい先だっての海外旅行に評者(宮崎)が携行したのは林房雄『神武天皇
実在論』と『天皇の起源』、そして産経取材チームの『神武天皇は実在し
た』だった。

前者弐冊は半世紀を経ての再読、いや三度読みかえし、ようやく内容を咀
嚼できた。後者も2回読んだのだが、神武東征という神話の残る地名や伝
説を元に、観光ガイドブックにはまったく掲載のない、伝承されたゆかり
の場所を探検隊のようにゆくので、地図を横に置かなければならない。

さて小堀先生の本書を論じる前に、読書事情を書いたのも、日本国憲法が
謳う「象徴天皇」と前掲の書とに密接な繋がりがあるからだ。

昭和天皇までの論壇における天皇論の近代的論理には納得できない点が多い。

神武天皇以前の自然崇拝、原始的浸透の成り立ち、神武天皇の大和朝廷確
立と以後の天皇統治の性格、さらには武力を用いた雄略天皇、天皇親政を
復活した後醍醐天皇との対比、くわえて令和改元の象徴天皇との差違は説
明の必要もないほどに明確である。

しかし、カムヤマトイワレビコノミコトが、なぜ後世に神武天皇と諡され
たのか。ワカタケルはなにゆえに雄略天皇と諡されたのか。

武断政治の象徴から奈良、平安を経て源平では征夷大将軍が天下のまつり
ごとを動かしてきた。武士にとって帝は権威であり、祭祀王であった。つ
まりその時代から天皇は国民統合の「象徴」であり、戦乱から江戸時代の
安泰期ともなると天皇は庶民からは忘れられた存在となり、井伊直弼の日
米修好条約の「無勅許」によって目覚めた維新の志士らが、突如天皇親政
を思い出したのだ。

そして西?も大久保も天皇を玉(ぎゃく)の隠語で呼び、政治利用が維新
回天のダイナミズムを産みだした。

明治天皇は軍服姿、昭和天皇も大東亜戦争の時代には軍服に白馬、まさに
ヤマトタケルやスサノオか、いや神武東征、そして雄略天皇である。

睦人仁天皇のような悠久の平和のイメージが時代によっては激変する。今
上陛下はまさに平和ニッポンを象徴される。

新渡戸稲造、岡倉天心が、本書で彗星の如く蘇り、彼らの天皇論を思い出
させる。

 つまり新渡戸稲造の『武士道』は明治32年(1899)に英語で書れ、世界
中に翻訳された。邦訳がでたのは英訳から10年後だった。

このなかに「我々にとりて天皇は、法律国家の警察の長ではなく、文化国
家の保護者でもなく、地上において肉身を有ち給う天の代表者であり、天
の力と仁愛とを御一身に兼備したまう」として事実上の天皇象徴論を述べ
ている。

岡倉天心の『日本の覚醒』も明治37年に英語で刊行され、江戸時代の天皇
認識に触れて、「帝は彼ら<徳川幕府>にとってはシンボリズムであっ
た」と叙した。

すでに明治時代から、日本を代表した論客らが、天皇象徴論を唱えていた
のである。

本書のもう一つの重大箇所は天皇陛下の靖国神社御親拝に関しての考察で
ある。

小堀氏はこう主張される。

御譲位について陛下自らの御表明は「陛下の個人としてのお考えを法制の
上で実現するために、憲法の規定とは離れた次元で、つまり超法規的措置
の執行を求めて先ず直接に国民の理解を得ようとされた行動」だった。

小堀氏はこう続けられる。

「憲法尊重は所謂建前であって。現に憲法20条3項に謂ふ国の宗教教育、
宗教活動の禁止の条項は宗教学校への国費の補助といふ形で空文化してい
る」(中略)「米軍占領中の神道指令の横暴と同様な酷薄な政教分離原則の
要求」は、国法が政治権力の下位に立つという「行政の方便」でしかない。

すなわち現行憲法は敗戦国ニッポンが、勝った「米国への臣従の誓い」の
たぐいであり、ときに超法規で臨むべきときがある。

したがって小堀氏は、下記のようにまとめられる。

「大東亜戦争での戦没者一般への慰霊も<象徴としての>お務めに一環で
あるとするならば、それは戦没者達の『魄』の眠る戦跡地に向けてである
よりも、彼らの『魂』が帰り来て祀りを受けている靖国神社は詣でてこそ
十全に果たされるはずだ、という霊の論理とうふものがある。天皇の靖国
神社御親拝は、国家が英霊に対して果たすべき、それこそ是亦言葉の本来
の意味での象徴的な慰霊鎮魂の義理である」

感銘深い余韻を味わいながら本書を閉じた。
          
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樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1877回】              
 ――「『私有』と言ふ點に絶大の奸智を働かす國である」――竹内(3)
竹内逸『支那印象記』(中央美術社 昭和2年)

                ▽

上海で、知られた料理屋の小有天で席に着くと、「矢繼早に料理が運ばれ
て來た」。食事中というのに、店の外から物売りが次々に闖入して来る。
「不要!と言はれて素直に出ては行くが、でないと、ぢツと籠を提げた
まゝ何時までだつて吾々の食事を頭越しに凝視めてゐる。これもまた支那
だ」。

振り返ってみれば半世紀ほど昔の香港で留学生活を送っていた当時、いつ
も昼飯は場末の労働者向けの食堂で超低価格で済ませたが、ごった返す店
内で客の間を縫うように物売りが歩いていたっけ。彼らは店側の許可を
取ったわけでもなさそうだし、だからといって店側が彼らを外に追い出そ
うとするわけでもない。

客は食事しながら買い物ができる。良い買い物ができれば、明日もまた客
は食事にやってくる。店内に群れ集う食事客を相手にすればいいのだか
ら、売り手は買い手を探して歩きまわる無駄をしなくていい――店側も食事
客も物売りも、誰も損はしない。互利互恵であり、今風の表現に従うなら
双◎(ウイン・ウイン)の関係というヤツである。

不要といえば素直に立ち去るが、売り手はひっきりなしにやって来て食事
中のこちらの鼻先に商品を突きつけるのだから、あまり気分のいいもので
はない。だが先ずは腹を満たすことに専心すればこそ、やがて彼らの騒が
しい掛け声も一種の香辛料に思えてくるから不思議だ。

「時と所」を超え、料理屋と客と物売りの関係は綿々と続いていたのである。

「どうせ支那は無政府状態同樣の國だから――こんな國が吾々の直ぐ隣國だ
とは想像もつかないが」、「先づこんな事に平氣になれるのが支那通の第
一期だらう。つまり邊りには無關心で私慾の滿足を第一義と心得るこ
と!」との竹内に従うなら、香港での留学生活の中で、どうやら「支那通
の第一期」を通過していたということか。

竹内の上海に戻る。

やはり「人生は錢!錢!錢!だ。公私混淆で千金一攫することもまた一法
なる哉だ。それに精力を傾倒することだ。(中略)如何にして錢を獲るか
を考へることだ。斯く支那は?へる」。

ここで竹内は支那人の振る舞いについて改めて考える。

「支那人は好事的なことは萬古不易の傾動だが、慾慾複雜なことが好き
だ。淫書だけかと思つてゐると料理もその筆法だ」。「兎も角支那人は仕
事に念を入れる民族だ。それも義務ではいけない。道樂でなくてはいけな
い。藝術家だ。だが常に血腥い。同じ極刑なら一と思ひに殺してやれば
いゝものを、態々穹窿形の橋上に連れ出して、環衆の前で、如何にその首
が一刀のもとに落斬されるかを樂しむ。どんぶり水中に落ちたのを見て樂
しむ。胸板に墨で的標を描いて銃殺する。體を木枠の箱に容れて、首枷の
嵌つた顔だけ出させて置いて、街頭にさらす。

食に餓えて死ぬ。この道樂がまた料理に働いて吾々の舌を滿足させる」。
だから「萬里長城から翡翠細工に至るまで、この民族は、手をかけること
を厭わない」。

「支那を見、支那を感じ、支那を知らうとして來てゐる」竹内の目に映っ
た支那は、「つまり單なる傳統の國である。批判に先立つものは常にこの
傳統の形式的尊重である。道義觀にしても風俗的習慣にしてもこの點は執
拗である。主義の犠牲である」。

この國は恐ろしく拝金の國である。贋造錢の大量的な國である。即ち『私
有』と言ふ點に最大の奸智を働かす國である」。

「支那では、錢を有てる者は一條の龍で、錢無き者は一條の蟲だと言ふ。
無數の蟲ケラがその俥に龍を乘せて駛つてゐる譯である」。

かくて「支那に於ける新時代人が等しく悲憤列擧するものは、通貨の統
一、南北用語の統一、次に公私混淆の惡弊打破である」。だが「公私混淆
の惡弊打破」は不可能に近い。《QED》

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★読者の声 ★READERS‘ OPINIONS ★どくしゃのこえ
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  ♪
(読者の声1)改元を機に政府は紙幣の肖像デザインを、一万円札が渋沢
栄一、五千円が津田梅子、千円札が北里柴三郎とするそうです。聖徳太子
から福沢諭吉になったときに唖然としましたが、こんどは、どれほど国民
の支持が得られるでしょうか?(KA生、足利市)

◆穏やかさと優しさの新元号「令和」

櫻井よしこ


資料を午前中一杯で読み終えて午後は執筆にかかろうと、早朝から書斎に
こもっていた。しかしそれどころではない。上空をヘリコプターが飛び交
い、騒然たる状況だ。新元号の決定と発表の日であるから、当然だろう。

落ち着かなくなり遂にテレビをつけた。時々刻々、状況が伝えられ、多く
の人々が発表を待ちわびていた。皆、同じ気持ちなのだ。4月1日は新元号
の発表日で、新天皇のご即位はひと月も先なのに、気のはやい私たちはこ
ぞって新時代の到来を寿(ことほ)いでいる。

秘書たちと一緒に私は官邸の会見室の映像を見つつ、その瞬間を待った。
公益財団法人モラロジー研究所教授の所功氏が出演していたが、元号につ
いて第一人者の解説には安心して耳を傾けられる。

予定を過ぎた11時40分、菅義偉官房長官が会見室に姿を見せた。

「新しい元号は『令和』であります」

はっきりした口調とキリッとした表情には威厳があった。「令和」は万葉
集の「梅花の歌32首の序」に依るとの説明に嬉しさが満ちてきた。

『万葉集』とは、なんと心憎いことか。中国の古典に加えて日本の古典か
らも採用し得ると公にされたとき、「記紀」を想定した人は多かったはず
だ。だが、『万葉集』も日本の誇るべき国書、これこそ国民文学の粋である。

早速書棚から、昭和53年8月15日出版の講談社文庫『万葉集(一)』(中
西進・校注)の初版を取り出して、菅氏の説明の、メモしきれなかった部
分を補った。

そこには「天平二年正月13日に、帥(そち)の老(おきな)の宅(いへ)に萃
(あつ)まりて、宴会を申(ひら)く」とある。

「時に、初春(しよしゆん)の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(や
はら)ぎ、梅は鏡前(きようぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭は珮後(はい
ご)の香を薫(かをら)す」と続いている。

中西氏はこれを次のように現代語訳した。

「時あたかも新春の好き月、空気は美しく風はやわらかに、梅は美女の鏡
の前に装う白粉のごとく白く咲き、蘭は身を飾った香の如きかおりをただ
よわせている」

全国民の歌

典拠となった「序」は大伴旅人が書いたと中西氏は解説し、さらに「序」
は次のように描写する。

「ここに天をきぬがさとし地を座として、人々は膝を近づけて酒杯をくみ
かわしている。すでに一座はことばをかけ合う必要もなく睦み、大自然に
向かって胸襟を開きあっている」

究極の平和と人々の睦み合う美しい風景である。その中で32人は4組に分
かれて円座で歌を廻らせたと思われる。

安倍晋三首相の会見は正午を5分過ぎて始まった。200年振りのご譲位を支
障なくここまでやり遂げ、無事新元号の発表に漕ぎつけた首相には、さぞ
かし感慨深いものがあるはずだ。選んだ「令和」には、男女、階層、職業
の別なく全員が参加する豊かな国民文化への誇りが込められている。

なんといっても1200年前に編纂されたわが国最古の歌集には、天皇や皇族
から農民、防人まで、まさに全国民の歌が4500首も収められているのだ。
首相は語った。

「悠久の歴史と薫り高き文化、四季折々の美しい自然。こうした日本の国
柄をしっかりと次の時代へと引き継いでいく」

自然を愛で人間を大切にする日本の特質は、先の32首が詠み人各人の名前
と肩書きと共に明記されていることにも表れている。そのような扱いは身
分のある人々に限られるものではなく、663年に日本が惨敗した「白村江
の戦い」の後、九州辺要の地の守備にあたった防人たちも同様だったので
ある。戦いから約90年後、約100首が防人たちの名前と、その妻のものさ
え一緒に『万葉集』に編入された。

このようなことは当時の大国、中国の隋や唐でさえありえなかった。彼の
地では農民や兵士は使い捨てだったが、わが国では農民や兵たちは大御宝
(おおみたから)と呼ばれた。彼らは歌を詠み、その歌が歌集に残され、
1200年後の今に伝えられている。

中西氏によると『万葉集』の歌の約半分は作者未詳である。氏の説明だ。

「無名歌を残したような人々が『万葉集』の根幹を構成する人々である。
(中略)多数の人々の歌を、歌として認定し、その中に有名歌人の作も交
えるのが『万葉集』である」

日本が一人一人の人間を大事にして、国造りを進めてきたことの証のひと
つが『万葉集』であろう。

歌は人の心、感性を表現し、神話は民族の心と感性を表現すると言ってよ
い。その神話の性格が、わが国と他国とは根本的に異なると指摘する一人
が『アマテラスの誕生』(岩波新書)の著者、溝口睦子氏である。

大和の道を選んだ

同書によると、日本の神話や伝説には民間の古い創世神話や英雄伝説が大
量に取り込まれているが、たとえば朝鮮半島の神話・伝説の主文献である
『三国史記』や『三国遺事』に記録されているのは「王権や支配者の起源
を語る神話や伝承」だという。重視されていたのは庶民の幸福や楽しみよ
りも、支配者の権力や権威だったと見てよいだろう。

万葉の歌人たちがのびのびと大らかに謳い上げている、迸(ほとばし)る情
熱が特徴でもある『万葉集』から新元号が選ばれ、日本の長い元号の歴史
で初めて漢籍から離れたことは、きっと日本の歴史への深い興味をもう一
度、呼び起こすことだろう。

わが国が未だ文字を持たなかった時代、私たちは中華文明の影響を受けて
文字を学んだ。聖徳太子は中国を尊びながらも、わが国を勝手に属国と見
做す中国に、607年、日本は中国と対等の国だと宣言した。

その誇りと気概は受け継がれ、女帝、斉明天皇は朝鮮半島に兵を出し、唐
と新羅の連合軍と戦う決断をした。日本は唐・新羅連合に敗れはしたが、
唐に和睦を乞わなかった。女帝の皇子たち、天智天皇と天武天皇は撤退し
たものの、唐の脅威に果敢に立ち向かった。

天智天皇は中華帝国に対する軍事的防護を強化し、天武天皇は日本人の日
本人たる精神的支柱を打ち立てた。それが、日本の民間の古い創世神話や
英雄伝説を大量に取り込んだ『古事記』である。

その先に、まさに慈悲と徳を実践した聖武天皇の政治がある。

『万葉集』の編纂は聖徳太子亡き後に始まり、聖武天皇の崩御後、完結し
たと見られる。民族の生き方として中華の道ではなく大和の道を選んだ歴
代天皇の時代を通して編纂されたことになる。

こんな歴史を想い起こさせるのが新元号だ。即位なさる陛下と、国民の心
が固く結ばれ、その歩まれる道が明るく照らされ、良い時代になることを
心から願っている。

『週刊新潮』 2019年4月11日号日本ルネッサンス 第847回

◆蕪村公園横の「毛馬の閘門」

                            石田 岳彦  弁護士


阪急千里線の柴島駅(本筋から思い切り離れますが「柴島」を初見で「くにじま」と読める人がどれだけいるでしょうか。)から天神橋筋六丁目駅へ向かい、淀川にかかる鉄橋を渡る際、左側奥、淀川大堰の向こう側に大きな「水門」が見えますが、その水門には「毛馬こうもん」と白抜きで大きく書かれています。

「こうもん」を漢字で書くと「閘門」です(ちなみに「毛馬」は地名で「けま」と呼びます)。

最近は警察署にも建物の壁に「けいさつ」と平仮名で大きく書いているところがありますが、「閘門」と書いても読めない人が多いので、「こうもん」と平仮名で書いているのでしょうか。

もっとも、警察署と違い、読みだけ知ったところで何をやっている施設かは分からないと思いますが。

それはさておき、阪急千里線を通勤経路にしている私にとって、毛馬の閘門は見慣れた存在でしたが、近くにまで行く機会はありませんでした。

平成20年春、毛馬の閘門が国の重要文化財に指定されることになったというニュースを聞いた私は、これをよい機会と毛馬の閘門に行ってみました。我ながらミーハーです。

毛馬の閘門に行くには、天神橋筋六丁目駅(阪急千里線、地下鉄堺筋線・谷町線)から北上し、淀川にかかる長柄橋の南詰めから河川敷に出て、更に5分ほど東へ歩きます。

河川敷は公園になっていて、堤防上には歩道も整備されていて、歩いていて楽しい道ですが、天神橋筋六丁目駅からは20分以上の歩きになり、大阪市内ということを考えると交通の便の悪い場所といえるでしょう(私がなかなか行く気になれなかった理由もこれです。)。
 
現地に設けられていた説明板によると、閘門というのは、水位の異なる川、運河等の間で船を行き来させるため、両側に水門を設けた水路で、毛馬の閘門の場合、大川(低)と淀川(高)との間の高低差を調整して船を通すために建造されたものです。

淀川から大川に入る場合、まず、水路内の水位を淀川に合わせたうえ、淀川側の水門のみを開けて船を水路に入れたうえで閉じ、水路内の水を抜いて、水面の高さを大川と同水位に下げた後、大川側の水門を開けて船を通過させるという仕組みになっています。

逆に大川から淀川に行く場合には、大川側から水路に船を入れたうえ、水を補充して水路面を淀川と同水位にまで上げてから、淀川側の水門を開放することになります。

なお、そもそも隣り合っている2つの川の水面に何故、極端な高低差があるかといえば、本来の淀川の流れは大川の方で、現在の淀川のうち毛馬よりも河口側の部分(新淀川)は明治時代に治水上の必要で人工的に作られたためだそうです。

ちなみに現在の毛馬の閘門は3代目で、私が毎朝見かけている「毛馬こうもん」もこの3代目にあたります。今回、重要文化財に指定されたのは、初代と2代目(今は船溜になっているそうです)で、このうち初代の閘門は、3代目のすぐ近くに見学用として整備されていました。

初代閘門の水門は2つの扉が観音開きになる方式で(なお、現役の3代目の閘門は門扉が上下して開閉するシャッター方式だそうです。)、現在は半開きの状態で固定されています。最近になって塗りなおされているようで、水色の大きな扉が鮮やかです。

北側の淀川側の水門は、近くにある堤防から一段低いところにあり、階段で下まで降りることもできますが、降りたところに柵が設けられていて、その先の水門をくぐることはできません。

もっとも、南側にある大川側の水門(淀川側に比べてかなり小型です)は開放されていて、そちら側から(旧)水路(当然のことながら現在では水路に水は流されていません。)の中に入ることができ、更に進んで淀川側の水門をくぐることもできます。北側の柵はいったい何のためでしょうか。

水路の中央に見学用の通路が設けられていて、その両側は何故か芝生になっていました。先ほどの柵といい、「こうもん」のペイントといい、この芝生といい、大阪市はよく分からないことに、金と手間を使います。

水路といっても船が通り抜けることができるだけのスペースですから、幅もそれなりにあり、スペース自体はちょっとした広場並みです。両側の側壁はレンガ造りになっていて、ところどころに鎖が取り付けられています。係船環と呼ばれる船を繋ぐためのものだそうです。水路に水を注入または排出するときに船が動かないようにするためでしょうか。

近くには初代閘門の付属施設として建設された洗堰(水が堰の上を越えて流れるタイプの堰)も残っています。淀川(新淀川)から大川に流れ込む水の量を調節するためのものだそうです。なかなかシックなデザインですね。

大阪市やその近郊にお住まいの方であれば、天気のよい休日にでも、広々とした淀川の河川敷や与謝蕪村公園の横を歩きつつ、ちょっと「毛馬の閘門」に寄ってみられるのも悪くないでしょう。(終)


2019年04月11日

◆ギリシアのピレウス港。中国資本が買収したが

宮崎正弘


平成31年(2019)4月9日(火曜日)通巻第6038号

ギリシアのピレウス港。中国資本が買収したが、「その後」何が起きてい
るか?
  クルーズ船ターミナル増設工事プロジェクト、突然の座礁

ギリシアのピレウス港ターミナルの運営権を中国が30億ドルで買収し、地
中海の一大拠点として欧州各地へのコンテナセンター、物資運搬のハブと
して活性化させてきた。

財政難に喘ぎ、債務不履行寸前だったギリシアとしても苦肉の策だった。
しかも、それを決定したのが左翼政権だったから、いうこととやることの
違う典型例と言われた。

中国はピレウス港拡充、物流のハブ化プロジェクトを、欧州の入り口にお
けるBRI(一帯一路)の戦略的要衝として位置づけて気勢を挙げた。
 直後から中国が管理するターミナルでは不正インボイス、人間の密輸な
どが問題視されていた。

次に中国はイタリアを狙った。イタリアはG7加盟国で唯一「BRI覚え
書き」に署名した。西側の一画が崩れたと分析するメディアも多かった。
ポンペオ米国務長官は「安全保障とBRIが密接に繋がっている」とイタ
リアの対中協力に強い懸念を表明し、「条件があまりに良すぎて、本来実
現の見込みが薄い取引を、なぜ中国が持ちかけているのか自問すべきだ」
と率直な苦言だった。

中国のイタリアにおける戦略的目標はアドリア海の最終地点トリエステ港
である。ピレウスからバルカンを北上する鉄道の輸送力には限界がある。
トリエステ港の拠点化で、一気に欧州市場へのアクセス強化が狙い。
 
しかしNATO諸国が神経を尖らせる。トリエステと言えば、チャーチル
が演説した「鉄のカーテン」の南端であり、実際に1990年までイタリアと
スロベニアの国境ノヴァ・ゴリッツァは高い壁で仕切られていたのだ(拙
著『日本が全体主義に陥る日 ――旧ソ連30ヶ国の真実』、ビジネス社の写
真を参照)。

さてピレウス港のその後は?

中国の国有企業COSCOは新たに17億ドルを投じてクルーズ船ターミナ
ル増設工事の青写真を提示し、港一帯を一大商業地区として、豪華ホテル
も建設するなど、グランドデザインは薔薇色、その背後にある軍事拠点の
目論見を誰も問題視しなかった。

しかしギリシアにもナショナリストがいた。ギリシア政府は前向きだった
が、当時の財務大臣のバロウフォオスが正面から反対に回った。


 ▲ジブチが中国の経済植民地化という前例

悪例がジブチだった。ピレウスは運ばれる海運の殆どはスエズ運河を経由
してくるが、その紅海の入り口を扼するのがジブチであり、旧フランス領
である。そのジブチが一党独裁政権の下、いつしか中国の「経済植民地」
に転落していた。

マクロン仏大統領は警戒を怠らないが、旧宗主国フランスより、警戒を強
めるのが米国である。

トランプ政権はオバマ前政権とはことなって地政学を重視する。ボルトン
補佐官は「賄賂と不透明極まりない遣り方で、負債を政治的材料に武器と
して活用し、影響圏の拡大を図っているではないか」と発言を繰り返す。

ジブチには米海軍基地があり、周辺には日本の自衛隊も駐屯している。ア
デン海の海賊退治のための国際協力の一環だが、米軍の世界戦略上、イン
ド洋のディエゴ・ガルシアとならぶ重点基地であり、隣に造成された中国
海軍基地を「国際協力」だけと認識するには、規模が大きすぎる。

実際、ジブチの負債は2017年のIMF報告で対GDPの比率が50%から85
「%へ急膨張していた。ほとんどが中国からの借金である。中国のマネー
の攻勢に、独裁のジブチ政権がむしろ積極的に飛びついたのだ。その背後
には巨額の賄賂がつきまとう。

「エチオピアからジブチを?ぐ鉄道もすでに完成したが物資輸送というよ
りも、別の思惑で中国が活用している」とはインド軍事筋の読みだ。
アフリカの東部を?いだ鉄道網、ハイウェイは中国の農作物のルートでも
活用されている。エチオピアは旧イタリア領土、小誌が前にも述べたよう
に、ジブチの駅舎は中国語表記、次がアラビックだ。

かくして経済植民地然とした国では賄賂で政治家が転ぶ。

中国はジブチに軍事基地を造成し人民解放軍兵士1万が駐屯させ、その周
辺に工業特区、免税特区を建設中。「ジブチをアフリカの蛇口に!」が合
い言葉である。

蛇口は40年前に、改革開放を開始した中国が深セン大開発の入り口とし
て、海上運搬の拠点化した。
 
しかしジブチの国民の79%は貧困層、とくに40%が最貧といわれ、
WFGは食糧支援を継続してきた。この国内の貧困を無視して、中国の賄
賂に浸る独裁政権は、金銭的醜聞にまとわれ、国民から怨嗟の声に包まれ
ている。


▲ギリシアは貧乏とはいえ、歴史を誇りとしている

この危機を目の前に目撃したギリシアにおいて対中警戒が強まるのも主権
国家として自然の流れだろう。

「したがってギリシアは、中国の植民地でもない。不透明な方法で浸透を
はかる中国を排斥するべきであり、異文化の資本で、古代からのギリシア
の歴史的価値を売り渡してはならない」とバロウフォオス前財務相が正論
を吐いたのだ。

中国の開発計画青写真のなかで、プロジェクトが予定される地区のおよそ
半分がギリシアの考古学的遺跡という事実とが判明し、ギリシア考古学会
が反対を声明するに及んで、この計画は暗礁に乗り上げた。

「ギリシアのイリアス神話以来の考古学的遺物、遺跡を破壊する北京のド
ル外交に屈服して良いのか」というナショナリズムが高まる。

なにしろ歴史的な神話を誇りとするギリシアは、この点になると意固地に
なり、隣国の付き合いでも激しく衝突し、アレキサンダー大王の出身地を
めぐって、とうとうマケドニアの国名を「北マケドニア」に改称させた
し、まとまる寸前までいきながらもトルコとはキプロス問題の決着が付か
ない。

財政危機においても、EUとの交渉で粘りに粘るという執着の強さは、他
国から見れば「妥協を知らない独善」と不評なのだが、他方、一部のメ
ディアは「中国から有利な条件を引き出すためチプロス政権の『遅延作
戦』でしかない」とする見方もある。
          

◆「小澤は過去の人」と立花隆

渡部 亮次郎


手許に残っている「文芸春秋」2010年3月号。表紙に「政治家小澤一郎は
死んだ」立花隆とあるから、興味を以って読んだが、たいした事は全く無
かった。

とくに「そう遠くない時期に小澤は確実に死ぬ。既に67歳。記者会見で自
ら述べているように、そう長くはない、のである、心臓に重い持病を抱え
ている事もあり・・・もう限界だろう」にいたっては立花隆は「小澤のこと
を調べる根気が無くなったので論評はやめた」と宣言したに等しい。

「文芸春秋」に「田中角栄研究」をひっさげて論壇に華々しく登場し、東
京大学の教授にまで上り詰めた立花だが、70の声を聞いてさすがに体力の
みならず精神的にもに弱ってきたらしい。立花に次ぐ評論家は育ってない
から文春も弱ってるようだ。

「JAL倒産の影響もある」と言う。「あれほど巨大な企業も、つぶれる時は
アッという間だった。小澤ほどの巨大権力者も、つぶれる時は一瞬だろう
と思った。今考えるべきは小沢がどうなるかではなく、ポスト小澤の日本
がどうなるか、どうするのではないか」と言う。

今更小澤を論ずるなどやめようという原稿になっている。

「小澤の政治資金に関する不適切な事実は、既に山のように出てきてい
る。小澤がこれから百万言を弄して、どのようなもっともらしい理屈を並
べようと、小澤は政治腐敗の点において、政治上の師と仰いできた田中角
栄、金丸信の直系の弟子であることを既に証明してしまっている。

小澤のやって来た事は構造的に、田中角栄、金丸信がやってきたことと、
殆ど変わりが無い。

それは、政治家が影響力をふるう事ができる公共事業の巨大な国家資金の
流れにあずかる企業から、大っぴらにできない政治献金{法律上、国家資
金を受け取る企業は献金できない}を何らかの別チャンネルで受け取って
懐にいれるという行為である。

それを贈収賄罪等の罪に問う事が出来るかどうかは、法技術上の難問がい
くつかあって簡単ではない。刑法の罪を逃れられたとしても、道義上の問
題としては、同質の罪として残る」

要するに、立花隆として、小澤の罪について自ら積極的に調べ上げた事実
は一つもなしに「政治家小澤一郎は死んだ」と言うおどろおどろしい見出
しの長文を書いてお茶を濁しているのである。小澤が死んだというなら、
立花も死んだと言っていいのかな。

しかも評論の大半を東大駒場の立花の最終ゼミに来た学生から取ったアン
ケートを升目に書き写して「今の平成生まれの若者から見れば、小澤一郎
など、過去の遺物に過ぎない」と逃げている。

20歳前後の世間知らずに小澤論のあるわけがない。それなのに長々とアン
ケートの回答を書き連ね、「もはや小澤なんかどうでもよい」と言うな
ら、こんな原稿、書かなきゃ良かったではないか。

とにかく立花らしさの全く無い原稿である。まして表紙にタイトルを刷っ
て売るのは当に羊頭狗肉である。(文中敬称略)2010・2・10



◆緊迫した状況が生まれている北朝鮮情勢

櫻井よしこ


「緊迫した状況が生まれている北朝鮮情勢 日米主導の制裁をこのまま続
けるべきだ」

2月末のベトナム・ハノイでの米朝首脳会談決裂後、金正恩朝鮮労働党委
員長の足下が不穏である。

朝鮮問題の専門家、西岡力氏が3月22日にインターネットの「言論テレ
ビ」で、北朝鮮の平壌を出発した保衛部の幹部5人、部長3人と課長2人が
姿を消したと報じた。彼らは3月19日に平壌を出発し、中国との国境に近
い新義州で昼食をとり、中朝国境の川、豆満江にかかる橋を渡り中国・丹
東に向かった。そこで中国に派遣されている保衛部員らと落ち合い北京に
向かうはずだったが、忽然と消えた。

保衛部はナチスの秘密国家警察、ゲシュタポと似た組織で政治警察部隊の
ことだ。

北朝鮮は直ちに追っ手を出した。保衛部は信用できないとして、軍の工作
部隊である偵察総局の精鋭20人を中国に送り込んだ。元韓国公使で「統一
日報」論説主幹の洪熒(ホン・ヒョン)氏が指摘した。

「幹部の集団逃走は保衛部解体につながる程の衝撃でしょう。5人は家族
を置き去りにして逃げている。家族は間違いなく収容所送りでしょうか
ら、余程切迫した状況だったはずです」

正恩氏は祖父も父もしなかった苛烈な粛清に走っている。叔父の張成沢氏
の処刑、母違いの兄、金正男氏の暗殺、自分を守る役割で自分に最も近い
保衛司令部、さらに党の組織指導部までをも粛清し始めている。

組織指導部とは正恩氏自身が作った党の中の党だ。重要政策の決定から幹
部の人事権、正恩氏に上げる情報の取捨選択まで行う。

5人の逃走から8日、北朝鮮は中国当局にも捜索を依頼し、偵察総局の面々
も、ホテルや食堂、民家まで徹底的に捜索しているが、杳として行方が知
れない。ここまでは事実で、これから先は西岡、洪両氏の推測である。

3月1日に北朝鮮臨時政府を作ったと「自由朝鮮」と名乗る勢力が宣言し
た。彼らは2月22日にスペイン・マドリッドの北朝鮮大使館を襲い、コン
ピュータを持ち去った。米紙「ワシントン・ポスト」が一部始終を詳しく
報道した。自由朝鮮は暗殺された正男氏の長男のハンソル氏をマカオから
脱出させて保護している勢力だが、マカオ脱出は中国当局の協力なしには
不可能だったとされている。

とすれば、保衛部幹部5人が逮捕されていないこととも、中国当局は関係
があるのか。洪氏は次のように憂う。
「仮に自由朝鮮がハンソル氏を担いで臨時政府樹立を画策しているのな
ら、失敗すると思います。それは王朝四代目になり、中国の傀儡ですから」

西岡氏の感想だ。

「もしも自由朝鮮の犯行だとすると、彼らはかなりの組織力を持ってい
る。襲撃事件を起こした、それを米国紙に書かせた、マカオからハンソル
氏を救出した。脱北者だけではできないでしょう。米中共に正恩氏の核保
有を望んでいないことを考えると、一連の事件に何らかの工作がされた可
能性はあると思います」

正恩氏はハノイから戻って、すぐに初級宣伝活動家大会を開き、以下の3
方針を打ち出した。(1)米国とは長期戦になる、(2)自給自足を強め
よ、(3)指導者(自身)の神格化をするな。

ハノイに出かける前は、党幹部らを前に、対米交渉は順調だ、もうすぐ
(日本から)大金をとれる、もう少しの我慢だと言っていたのとは正反対
だ。金一家は常に自分たちを神のように崇めよと命じてきた。それがい
ま、人民は首領を神格化せずに、つまり、首領にたよらず食べていけと
言っている。

北朝鮮の国民は1990年代に金正日氏の悪政で300万人が餓死した。彼ら
は、「今回は黙って死ねない」と誓っている(「自由北朝鮮放送」代表、
キム・ソンジン氏)。何があってもおかしくない緊迫した状況が生まれて
いる。日米主導の制裁が功を奏している。

『週刊ダイヤモンド』 2019年4月6日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1274

◆安珍・清姫伝説で有名な「道成寺」(御坊市)

石田 岳彦


長い階段を数えながら登ると確かに62段でした。上りつめたところには仁王門があり、当然のことながら仁王さんが立っています。門をくぐって左側には金属製の手水鉢が置かれていました。
 
小学校の音楽の時間に教わった童謡「道成寺」にある「62段の階(きざはし)をあがりつめたら仁王さん 左は唐銅(からかね)手水鉢」との歌詞は事実でした。しばしば追憶と感傷にふけります。

安珍・清姫伝説で有名な道成寺です。

大阪からJRの特急で御坊駅まで。そこから普通電車に乗り換え(本数が少ないので、時間的余裕と人数に応じてタクシーを利用するのがよいかと思います)、1駅行くと道成寺駅です。

改札を通り、踏切を渡って、駐車場と土産物屋(兼食堂)に挟まれた短い参道を通り抜けると冒頭の階段へ至ります。

62段の階段を登りつめ、仁王門をくぐると、正面に本堂、その右側(東側)には三重塔。いずれも江戸時代の建物で、相応に貫禄があります。

もっとも私の(おそらく、ほとんどの参拝客の)お目当ては、境内西側にある鉄筋コンクリート製の宝仏殿・縁起堂の中で待っています。

宝仏殿・縁起堂は1つ繋がりの建物で、仁王門から見て、手前の、入り口のある建物が縁起堂、奥が宝仏殿です。

縁起堂では、和尚さんが絵巻物(のコピー)を拡げ、安珍・清姫伝説についてユーモアを交えながら、絵解き説法をしてくださいます。説法は頻繁に繰返し行われるので、そう待たされることはないでしょう。

次に述べるように、安珍と清姫の伝説は、事件それ自体は極めて陰惨で後味の悪いものですが、和尚さんの語りのお蔭で、全く暗くなりません(それはそれで問題な気もしますが)。

時は平安時代前期の醍醐天皇の御世。安珍という若い僧侶が、熊野三山の巡礼のために奥州から紀伊の国にやってきました。

ところが、道中、安珍が土地の有力者の屋敷に泊まった際、その屋敷の娘である清姫は安珍に惚れてしまい、還俗して自分と結婚してくれるよう強く迫ってきたのです。

結果から見ると、ここで安珍はきっぱりと断るべきだったのでしょうが、清姫の執拗な懇願を拒絶し切れず、結局、巡礼を終えたら帰り道にまた清姫に会いに来ると嘘をつき、屋敷を後にしました。

その後、清姫は首を長くして安珍を待ちますが、約束の日になっても安珍は訪れません。清姫は屋敷を抜け出し、安珍を探し出しましたが、安珍は人違いだと嘘をつき、清姫を相手にしようとしません。

これも結果論ですが、安珍はここできちんとした謝罪のうえ、清姫と一緒になるなり、きっぱりと拒絶するべきだったのでしょう。清姫は悲しみの余り、半狂乱になってしまい、やがて蛇の化け物になり、安珍を猛追します。

安珍は死に物狂いで逃げ、道成寺に逃げ込み、寺の僧侶らに事情を話しました。僧侶らは鐘楼に吊ってあった梵鐘を下ろし、その中に安珍を隠しますが、清姫の化けた大蛇は梵鐘に撒きつき、火を噴いて安珍を焼き殺してしまい、自身は入水自殺してしまいました。お終い(実際の説法では、この後、夫婦円満その他の在り難い和尚さんのお話が続きます。)。

この事件は、記録(?)に残っている限り、日本で最古・・・かは知りませんが(未遂でよければ、イザナギ、イザナミの黄泉比良坂の件が最古の事例として挙げられそうです)、おそらく最も有名なストーカー殺人事件でしょう。

歌舞伎、謡曲等、様々な芝居の題材になっていて、道成寺ものというジャンルを形成しており、縁起堂にも様々な道成寺もののポスターが張っていました。

和尚さんの絵解き説法を聴き終えたら奥の宝仏殿に進みます。

道成寺の創建には複数の伝承があり、時期についてもはっきりしないそうですが、遅くとも奈良時代前半には建立されていて、古い寺宝・仏像も少なからず残っています。

その中で最も有名で、かつ特筆するべきものは、やはり国宝に指定されている平安時代の千手観音立像・伝日光菩薩立像、伝月光菩薩立像の仏像3体でしょうか。

肉付きのよい、がっしりとした体躯の堂々たるお姿です(ご多聞にもれず、写真撮影禁止なので残念ながら画像はありません。)。ここで、あれっと思われた方もいるかも知れません。

というのも、日光菩薩、月光菩薩は本来、薬師如来の左右を守る脇侍であり、他の如来や菩薩につくことは基本的に無く、また、千手観音は単体で祀られることがほとんどで、脇侍がつくことは、まず無いからです。
   
そういうこともあり、実のところ、この3体が1つのセットとして作成されたものか否かについては確証がなく、争いがあるとのことでした。

ちなみに奈良市の東大寺の法華堂では、千手観音ではありませんが、不空羂索観音と日光菩薩・月光菩薩という組み合わせが見られます。

こちらについては、日光菩薩と月光菩薩が後になってから余所のお堂より移されてきたのではないかとの説が有力なのだそうです。

大阪からはやや遠いですが、早起きをすれば余裕をもって日帰りできるはずです。白浜温泉への行き帰りに途中下車をして立ち寄るのもよいかもしれません。