2019年04月10日

◆NHK退職後の37年

                          渡部亮次郎


給料を貰っていた日本健康医療専門学校の校長を2008年5月末日限りで退
職したので、年金生活者になった。以後はメルマガ「頂門の一針」主宰
者。要するに「無職」。

人生で一番嬉しかった事は大館から仙台への転勤だった。見送りは誰もい
なかったが、晴れてNHKの正社員。1年後れの「34年組」3級放送記者に7月
10日付で発令された。そこで1年。チリ地震津波を取材した。

今度は岩手県の盛岡放送局。放送部は別棟の木造瓦葺平屋建て。明らかに
「付け足し」だった。取材で「NHKです」と言うと「聴取料は先ごろ納め
ましたよ」と言われる時代だった。

NHKがニュースの自主取材を開始したのは敗戦後の昭和26年。どこの官庁
でも記者クラブに入れて貰えず、先輩たちは苦労したようだ。そのあとの
民報の加入には結構、意地悪したらしいが。

家は米作農家。しかし長男は地元秋田の新聞記者になったので、親は大學
出の私に後継を期待した。折角の大學出、勿体無いとNHK生活を許してく
れた。家は妹が婿を迎えて継いでくれた。

盛岡では県政を担当。参院選挙で社会党候補が勝つと予報。東京政治部で
は奇想天外な事だったらしく、すぐに政治部に発令。あの時も嬉しかっ
た。もはや「通信員上がり」ではなくなっていた筈だからである.盛岡中
の芸者が見送りに来た。誰とも寝ていないのに。

昭和40年日韓基本条約の批准案が衆院で強行採決。社会党の楢橋代議士の
センターベンツが自民党代議士に裂かれた。これほどまでに自社対決を招
いた朝鮮半島とは何だろう。

1972年、日中国交回復の田中角栄総理に同行して北京を訪問した翌年、韓
国の朴政権に招かれて38度線などを視察。それを理由にされて大阪に左
遷。単身で3年を過ごした。

大阪には赴任しないと辞表を3度出したが受理されなかった。政治部長が告
白したところでは「君の転勤は、田中総理の意向なのだ」。私がTVに出て
喋る解説が田中政権の邪魔なのだと言う。受理されれば田中金脈をある雑
誌で暴く計画が出来つつあった。

報道局長が「3年経ったら政治部に戻してやるから」と言ったので「そん
な事は信じない。3年後にあなたはそこに坐っていない」と憎まれ口を利
いた。

3年経ったところで大阪ではこのまま大阪人にする計画のあることを知
り、自分で計略を立てて東京に戻った。しかし政治部ではなく国際放送局
(ラジオジャパン)だった。

もはや40歳。このまま居てもNHKに自分の居場所は無い、と考えていると
ころへかねた親しかった福田赳夫内閣の官房長官園田直さんから自宅に電
話。「なべしゃん、秘書官やってくれんね」。

誰にも相談せずに承諾。国立(くにたち)の自宅からバスと電車を乗り継い
で総理官邸に到着したら、内閣改造で園田さんはただ1人居残り、ただし
外務大臣に横滑りしていた。私は行ったこともない外務省の大臣秘書官に
なっていた。

実は福田さんの任期切れが迫っていた。幹事長大平正芳さんとの密約(メ
モ)で任期は「2年」。既に1年しか残っていない。密約の福田側立会人は
園田。園田の機嫌をとりながら密約を反故にするための外相への横滑り
だった。

世間は密約なぞ関知せぬところ。これは田中、三木の両政権でも成就でき
なかった日中平和友好条約の締結を成さしめるための人事と解説した。な
るほど、園田氏は官房長官当時から早期締結の主張者ではあった。

側近になって気付いた事実。園田氏は黒衣(くろこ=忍者)を官房長官当時
から中国に放って、外務省ルートでは得られない中国中枢部の情報をつぶ
さに得ていたのである。それは確実にトウ小平氏につながっていた。北京
の日本大使館にこのルートは存在しなかった。

この忍者は条約の締結調印まで北京を2年間で14往復した。その結果「園
田さんが来てくれさえすれば条約は締結する」という言質を早くに得てい
たのだ。なるほど北京到着の翌日、日本側主張のとおりに妥結した。

締結の後、北京の日本大使館では「あれは世界情勢の変化を反映したもの
で、園田さんの功績でもなんでもない」と偉そうなことを言う人がいた
が、それなら「だからじっとしても締結は成る」と電報で進言してきたら
よかった、ね。

外務省で園田さんは福田、大平、鈴木の3内閣の大臣を務めた。,鈴木内閣
でははじめに厚生大臣も務め、中国残留孤児帰国問題に手をつけた。糖尿
病患者80年来の念願だったインスリン自己注射を許可した。昔、初入閣で
公害病認定の決断に並ぶ功績である。

秘書官を終えたところで園田さんが70歳で逝去。やがて元防衛庁長官栗原
祐幸さんの世話で井上美由紀さん(当時アルバイトニュースの学生援護会
社長)を紹介され、井上会長の下で社団法人日米文化振興会の理事長に就任
した。改めて英会話を習い日米間を17年間往来した。

続いて私学を手広く世界に展開する創志学園理事長の要請で柔道整復師と
鍼灸師などの養成専門学校日本健康医療専門学校の校長となり7年間務め
たが、都合で2008年5月一杯で退任した。

気がつけば72になっていた。省みていろいろな方にお世話になりっぱなし
の半生だった。有難う御座いました。サラリーマンの退職じゃないから退
職金はなかった。2008・05・31


◆08年の帰化許可者は86%

渡部亮次郎


居住外国人に地方参政権を付与すべきか否かを巡って、これらの人たちに
日本人への帰化を簡略にすべきでは無いかとの論が起きている。

日本の法務省は、帰化許可数を年間7,000人に抑えていた一時期があった
から、帰化は極めて困難との誤解が生じた。いわゆる「純血主義」の意識
が残っていたからだ。しかし、現在では申請者の90%近くが許可されている。

国籍法(昭和25年法律147号)では、帰化を許可する権限は法務大臣にあ
り、普通帰化、特別帰化(簡易帰化)、大帰化の3種類(この区分名はい
ずれも通称)が認められている。

帰化を望む者は各地の法務局(一部の支局、全ての出張所を除く)又は地
方法務局(前同)へ帰化の申請手続を行う。許否の結果が出るまでの期間
は個々人で異なるがおおむね1年半程度を要するとされる。

帰化申請の内容が認められた場合は、法務大臣による許可行為として官報
に日本国内の現住所・帰化前の氏名・生年月日(元号表記)が告示(掲
載)され、告示の日からその効力を生じることとなる。

告示における氏名表記に外国文字(アルファベット・ハングル等)は用い
られず、すべて日本語(漢字・平仮名・片仮名)に置き換えて表記される。

過去においては、当該告示には帰化前の氏名に加え帰化後の日本名(帰化
前に日本的通称名を複数使用していた者についてはそれら全て)が括弧付
きで原則併記されていたが、1995(平成7)年3月以降は帰化前の氏名だけ
が記載されるようになっている。

1998(平成10)年以降の年ごとの帰化許可申請者数は、約1万3000人から1
万7000人の間で推移している。帰化許可申請者のうち、不許可者数は約
100人から270人の間で推移しており、ほぼ99%の割合で帰化が許可されて
いる。

帰化許可者のうち、およそ6割は韓国・朝鮮籍からの帰化で占められてお
り、およそ3割が中国籍からの帰化で占められている。

2008年(平成20年、暦年)の許可帰化申請者数は15,440人で、帰化許可者
数は86%にあたる13,218人(うち、韓国・朝鮮籍は7,412人、中国籍は
4,322人、その他は1,484人)、不許可者数は269人である

【大紀元日本(06年8月5日】によれば、1952年から2005年末までの間に日
本に帰化した中国人は9万6762人で、そのうち2005年に日本に帰化したの
は4427人であることが、法務省民事局で発表した資料により明らかになった

。日本に帰化した中国出身者の大部分は日本に住まいをもち職も安定し、
まじめに暮らしている。現在、多くの中国人の若者が日本国籍を取得した
後、再び中国に帰って事業を興している。

その理由は日本国籍を持つ中国出身者は中国では特別待遇を得ることがで
き、しかも給料待遇も優れているからであると言われている。1989年以来
日本に帰化しようとする中国人は増加化し続けているという。

参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2009・12・07

◆緊迫した状況が生まれている北朝鮮情勢

櫻井よしこ


「緊迫した状況が生まれている北朝鮮情勢 日米主導の制裁をこのまま続
けるべきだ」

2月末のベトナム・ハノイでの米朝首脳会談決裂後、金正恩朝鮮労働党委
員長の足下が不穏である。

朝鮮問題の専門家、西岡力氏が3月22日にインターネットの「言論テレ
ビ」で、北朝鮮の平壌を出発した保衛部の幹部5人、部長3人と課長2人が
姿を消したと報じた。彼らは3月19日に平壌を出発し、中国との国境に近
い新義州で昼食をとり、中朝国境の川、豆満江にかかる橋を渡り中国・丹
東に向かった。そこで中国に派遣されている保衛部員らと落ち合い北京に
向かうはずだったが、忽然と消えた。

保衛部はナチスの秘密国家警察、ゲシュタポと似た組織で政治警察部隊の
ことだ。

北朝鮮は直ちに追っ手を出した。保衛部は信用できないとして、軍の工作
部隊である偵察総局の精鋭20人を中国に送り込んだ。元韓国公使で「統一
日報」論説主幹の洪熒(ホン・ヒョン)氏が指摘した。

「幹部の集団逃走は保衛部解体につながる程の衝撃でしょう。5人は家族
を置き去りにして逃げている。家族は間違いなく収容所送りでしょうか
ら、余程切迫した状況だったはずです」

正恩氏は祖父も父もしなかった苛烈な粛清に走っている。叔父の張成沢氏
の処刑、母違いの兄、金正男氏の暗殺、自分を守る役割で自分に最も近い
保衛司令部、さらに党の組織指導部までをも粛清し始めている。

組織指導部とは正恩氏自身が作った党の中の党だ。重要政策の決定から幹
部の人事権、正恩氏に上げる情報の取捨選択まで行う。

5人の逃走から8日、北朝鮮は中国当局にも捜索を依頼し、偵察総局の面々
も、ホテルや食堂、民家まで徹底的に捜索しているが、杳として行方が知
れない。ここまでは事実で、これから先は西岡、洪両氏の推測である。

3月1日に北朝鮮臨時政府を作ったと「自由朝鮮」と名乗る勢力が宣言し
た。彼らは2月22日にスペイン・マドリッドの北朝鮮大使館を襲い、コン
ピュータを持ち去った。米紙「ワシントン・ポスト」が一部始終を詳しく
報道した。自由朝鮮は暗殺された正男氏の長男のハンソル氏をマカオから
脱出させて保護している勢力だが、マカオ脱出は中国当局の協力なしには
不可能だったとされている。

とすれば、保衛部幹部5人が逮捕されていないこととも、中国当局は関係
があるのか。洪氏は次のように憂う。
「仮に自由朝鮮がハンソル氏を担いで臨時政府樹立を画策しているのな
ら、失敗すると思います。それは王朝四代目になり、中国の傀儡ですから」

西岡氏の感想だ。

「もしも自由朝鮮の犯行だとすると、彼らはかなりの組織力を持ってい
る。襲撃事件を起こした、それを米国紙に書かせた、マカオからハンソル
氏を救出した。脱北者だけではできないでしょう。米中共に正恩氏の核保
有を望んでいないことを考えると、一連の事件に何らかの工作がされた可
能性はあると思います」

正恩氏はハノイから戻って、すぐに初級宣伝活動家大会を開き、以下の3
方針を打ち出した。(1)米国とは長期戦になる、(2)自給自足を強め
よ、(3)指導者(自身)の神格化をするな。

ハノイに出かける前は、党幹部らを前に、対米交渉は順調だ、もうすぐ
(日本から)大金をとれる、もう少しの我慢だと言っていたのとは正反対
だ。金一家は常に自分たちを神のように崇めよと命じてきた。それがい
ま、人民は首領を神格化せずに、つまり、首領にたよらず食べていけと
言っている。

北朝鮮の国民は1990年代に金正日氏の悪政で300万人が餓死した。彼ら
は、「今回は黙って死ねない」と誓っている(「自由北朝鮮放送」代表、
キム・ソンジン氏)。何があってもおかしくない緊迫した状況が生まれて
いる。日米主導の制裁が功を奏している。

『週刊ダイヤモンド』 2019年4月6日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1274

◆リハビリって、再び生きること

 向市 眞知


「リハビリ」という用語は訳さなくてもよいくらい、日本語になってしまいました。しかし、この用語がとてもくせものです。皆がこの用語の前向きなところにごまかされ、便利に安易に使ってしまいます。

医師は最後の医療としてリハビリにのぞみをつなげる言い方をします。家族は家にもどるためにはリハビリを頑張ってほしいと期待をかけます。患者様もリハビリを頑張れば元どおりになれると思います。リハビリとは「再び生きる」という用語と聞きました。この概念で考えるととても幅広い概念です。

病院にはリハビリテーション科があり、そのスタッフには理学療法士、作業療法士、言語聴覚訓練士という、国家資格をもった専門技師がそろっています。身体機能回復訓練に携わるスタッフです。医師が「リハビリ」という用語を使う場合にはこのようなリハビリテーション科のスタッフによる訓練をさすだけではなく、「再び生きる」心構えをもちましょう、という意味を含んでいる場合が多いのです。

しかし、患者様、家族様のほうはリハビリは療法士がするものと思い込んでいるケースが多いように思います。よく言われるのに「リハビリが少ない」、「リハビリをしてもらえない」というクレームがあります。療法士がするものだけがリハビリなら、診療報酬上点数がとれるのは一日20分から180分です。

「リハビリを受けさせたいから入院させてほしい」とよく言われますが、一日の何分の1かの時間のリハビリだけで「再び生きる」道のりを前に進むことはむずかしいものです。あとの時間をベッドに寝ているだけでは何の意味もありません。「リハビリのために入院している」というだけの安心感の意味しかありません。

いくら日本一の理学療法士の訓練をうけたといっても、患者本人が「リハビリをする(再び生きる)」心構えになっていなければ、空振りに終わってしまいます。マヒした身体に対して、拘縮してしまわないように理学療法士が外から力を加え訓練をすることはできます。でも、訓練が終わって身体を動かさなければもとのもくあみです。

しかし、言語訓練はそうはいきません。本人が声を出そう、話そうとしなければ訓練になりません。「絶対話すものか!」と口をつぐんでいる患者様に訓練は意味をなしません。まずは声を出してみよう、話してみようという気持ちになるように心理的にリラックスしてもらうことから訓練を始められると聞きました。

このことからわかるように、リハビリは本人次第なのです。そしてやはりリハビリも療法士と患者様の協同作業です。療法士さんの訓練の20分が終われば、患者様自らがもう一度リハビリのメニューをくりかえしてやってみることや、家族が面会時間に療法士に家族ができるリハビリを教えてもらい、リハビリの協力をしてみるなど、何倍にもふくらませていくことがリハビリの道のりなのです。

療法士さんまかせにしないこと、繰り返しやっていくこと、退院しても療法士さんがいなくてもリハビリ、再び生きる道のりは続いていること、それを実行するのは自分であることを忘れないでいてほしいと願っています。2006年4月の診療報酬改定で更にこの認識が重要になってきています。療法士による機能回復訓練が継続してうけられる回数の上限が疾病により90日〜180日と定められました。これ以上の日数の訓練を続けても保険点数がつかないことになりました。医療機関は保険がきかなくなればリハビリを打ち切らざるをえません。

患者様も10割自費で料金を支払ってまでリハビリを続けることはできないでしょう。リハビリは入院の中でしかできないものではなく、退院しても自宅でもリハビリを続けていくいきごみが大切です。

大阪厚生年金病院・ソーシャルワーカー

2019年04月09日

◆一強全弱”では「安倍4選」しかない

杉浦 正章

 無風政局をあえて展望する

 来年のことを言うと鬼が笑うが、2年半先のことを言っても、言う人によっては笑わない。2年半先のこととは、首相・安倍晋三の自民党総裁4選があるかどうかだが、病気や事故または本人の辞退がない限り100%4選だ。「理由は?」などと聞かれても、理由もへったくれもない。鋭くものごとの本質をつかむ心の働きである第六勘がそうささやくのだ。本物の政治記者とは第六勘の冴えがあるかどうかなのだ。

 機を見るに敏な政治家も第六勘でしゃべっている者が多い。その筆頭は自民党幹事長・二階俊博であろう。二階は3月12日に安倍4選について「党内外や海外からの支援もある。今の活躍からすれば十分あり得る」と宣うた。「党内外」はいいにしても「海外」とは誰を指すのか。発言からすると海外の政治家が日本の自民党の党則を知っていて、「安倍4選支持」と言明しているかのようだが、いくら安倍と親しいからと言ってトランプやプーチンが総裁選など知るわけもない。だいたい総裁選で「支援」などしたら内政干渉もいいところだ。二階はどうも言葉足らずのところがある。

 なぜまだ2年半もあるのに4選かというと、二階にしてみれば、過去に安倍3選を実現するために党則で2期までだった任期を3期までに伸ばし、3選への道筋を付けた経緯があるからだろう。柳の下の二匹目のドジョウがいると見ているのだろう。3選実現の論功行賞第1位になるにはそれくらいのことをやらないと覚えめでたくならないのだ。それに加えて4選への反対論者を浮き彫りにして、攻撃対象とする意図がありありとうかがえる。総裁候補払底と書けば岸田文男には失礼となるが、岸田は周りに策師がいないためか、全くウンもスンもない状況。いずれはライオンのように吠えたいのだろうが、時にあらずと声もたてずだ。

 岸田は去年の10月に宏池会を古賀誠から受け継いだ。宏池会といえば池田勇人の流れをくむ名門派閥であり、宏池会出身の首相は池田のほか大平正芳,鈴木善幸,宮沢喜一と 4人もいる。しかし「居候三杯目にはそっと出し」ではないが、5人目ともなると本当にヤワになってしまうのだろうか。いやいや、岸田をヤワと呼んでは可哀想だ。時来たりなばきっと勝負に出ると思うべきだろう。

 安倍は3月14日に「自民党の規約は3選までで、4選は禁じられている。自民党総裁としてこのルールに従うのは当然だ」と発言した。総理総裁の発言だから額面通りに受け取るべきであろうが、筆者は長年の政局取材からみて、「政局は党則を金科玉条にはしない」と言っておきたい。政治とは生き物であり、全てが規則通りに動くものではないのだ。ましてや党内で安倍4選の見方が圧倒的に強い状況である。党則など政治のご都合で何度変更になったか知れない。

 問題はあと2年半のうちに後継の有力者が突然現れるかどうかだが、なかなか難しいと思う。要するに党内情勢は“一強全弱”が実態なのだ。かつて三木武夫は「男は1回勝負する」と佐藤栄作の3選阻止に動いたが、失敗した。岸田は三木ほど露骨ではない。むしろ、言動のはしはしから禅譲路線も選択の一つと考えているフシがうかがえる。同時に岸田派内には安倍が憲法改正に打って出るのを待つべきだとの戦術論もある。

岸田は外相時代に、憲法9条の改正について「今、9条の改正は考えない」と強調している。しかし自民党の本音は「せめて9条への自衛隊明記だけは実施したい」(桜田義孝五輪相)というところにあるのだろう。したがって、安倍が本格的に改憲を目指す方針を表明すれば、岸田の格好の論戦対象になる可能性が強い。改憲問題は4選の最重要テーマとなりうるだろう。

しかし、安倍は党内が2分するのを避けるため、ここはあえて波風を立てずに、改憲を4選後に政権の総仕上げとしてやるべきであろう。自民党は既に4項目の具体的な憲法改正案を党大会で示し「実現をめざす」との方針を採択している。 

若手では小泉進次郎が、比較的良好に育っているが、38歳では総裁候補には早すぎる。ケネディより若い。まだまだ雑巾がけをする必要がある。本人も焦らないことだ。今のところ将来の政権移譲の構図をあえて展望すれば安倍晋三→岸田文雄→小泉進次郎と言ったところだが、政界は寸前暗黒。何が起きるか分からない。

◆5G時代のテクノロジー覇権争奪戦争

宮崎正弘


平成31年(2019)4月2日(火曜日)通巻第6034号
   
5G時代のテクノロジー覇権争奪戦争、先頭は追いつかれる
  中国のベンチャー起業は90%が失敗したように

ファーウェイの製品と基地局が西側の多数の国々から排斥され、経営はい
ずれ苦境に陥ると予測されるのだが、「何を言ってるのよ。まったく大丈
夫。ファーウェイは中国という巨大市場が控えている上、廉価だから開発
途上国ではダントツの人気。そのうえ幾つかの新製品開発、とりわけ5G
技術では米国と伍すか、あるいは超えているわ」。

こうのたまわって、イアン・ブレナーのテレビインタビューに対して、ロ
ンドンスクール・オブ・エコノミクスの金刻羽・準教授(中国人女性)が
胸を張ったのが印象的だった。

実際はどうか。

先頭ランナーは必ず追いつかれる。後追いは発明にともなう創造的費用が
安上がりで、マネをすれば良いからだ。企業スパイを駆使して先端技術を
盗み出し、模倣すれば先頭集団にのし上がることが出来た。

BAT(バイドウ、アリババ、テンセント)は、皆そうである。そして国
家資本主義としての中国政府の支援、政策支援ばかりか補助金であり、そ
のうえ巨大な中国市場において中国政府が巧妙に外国企業の進出に規制を
掛けたため、悠々と利益を蓄え、R&D(研究開発費)にふんだんな投資
が出来たのだ。

先駆者の屍を超えて次世代技術開発で追い抜くことも出来る。人材も豊富
だった。

アメリカ留学の優秀なエンジニアを高給で雇用し、開発に没頭させた。し
かし先頭に立つと、こんどは追われる身になるのだ。ファーウェイは、そ
の危険性も十分に認識し始めた。

抜かれた日本が悪例のサンプルだろう。ウオークマンで、半導体で、電子
部品で世界一だった。おしみなく技術を中国に与えて、相乗効果を狙った
筈が、三洋もシャープもやぶ蛇となって、中国資本に乗っ取られる始末で
ある。

いまや家電はハイエール(海爾)など中国勢に完全に市場を取られたし、
半導体は韓国のサムソン、SKホトニクス、台湾のTSMC等に抜かれた。

巻き返しを狙う官民肝いりの「ルネサス」も東芝メモリーも、外国資本が
入り込み、覇気が感じられない。通商政策がなっていないからで嘗ての
「ノトリアス通産省」は何処へいったのだろう。

 ▲スパイの元締め、情報漏れの震源地を衝け

一方、米国は技術の死守と盗難防止、機密情報漏洩を防ぐためにZTEへ
の半導体供給を停止し、シンガポール資本を名乗る企業「ブロードコム」
の「クアルコム」買収を阻止した。

アリババが狙った「マネーグラム」買収も土壇場で差し止めた。
 
FBIは技術スパイ容疑者を次々と逮捕するか指名手配し、驚いた米国留
学中の研修生、学者4000人が慌てて引き揚げた。怪しげな財団を作ってエ
ンジニアのスカウトをしていた張首晟スタンフォード大学教授は自殺に追
い込まれ、ファーウェイCFOの孟晩舟はカナダで身柄を拘束された。一
般の留学生ヴィザも一年ごとの更新に切り替え、潜在的なスパイの浸透に
対処した。

そのうえ半導体最王手のインテルは、中国からイスラエルへ主力工場をシ
フトする。トランプ政権はファーウェイ排除戦略の背後にもっと大がかり
な次世代技術防衛を絡ませている。

▲中国のベンチャーキャピタルにも黄昏がやってきた。

ウーバーのブームは外食の配達以外、自転車シェア、バイクシェアなど破
産が続いている。

「中国では90%のベンチャーファンドが失敗の終わる」と華字紙も特集を
組みだした。

「潮が引いたとき、裸で泳いでいた自分を発見するだろう」とかねてから
ウォーレン・バフェットは予想し、中国のベンチャーへの出資には二の足
を踏んできた。それが正解だった。

バイクシェアのOFOは、2億人の会員を誇ったが、10億ドルの売り上げ
はたちまち雲散霧消し、海外投資家が投じた22億ドルも、オーストラリ
ア、チェコ、ドイツ、イスラエル、印度などで失敗し、事業を畳んだ。

米国でも大量のレイオフを出して、規模の縮小を図っている。日本では自
転車シェアの中国企業も早々と撤退した。

同業の「MOBIKE」も27億ドルの投資とともに消えてしまった。

 車(タクシー、トラックなど)を呼び出して手数料を取るオペラーター
「DIDI」は昨師走に倒産した。

560億ドルの損失だったが、直前まで株式上場を準備していた。

オンライン上の金貸しはP2P(ピエル・トゥ・ピエル)と呼ばれ、最盛
期には3500社が乱立、推定で1670億ドルのローンが組まれた、

借り手の逃亡、不正、市払い、個人破産などが続出し、大手の「魔袋」
は、当局から詐欺容疑の捜査を受けている。

かくしてベンチャービジネスも黄昏期を迎えている。ところが中国は感度
が日本人とことなる。夢を追う投機が後をただず、2018年だけでも新たに
1070億ドルが投じられた。

例外はアント・フィナンシャル社(アリペイの子会社)で、140億ドルの
資金はシンガポール政府系のテマサク、マレーシア政府系ファンド
KHAZANAH、そしてカナダの年金基金、米国のウォバーグピンカス
などが出資に応じた。

混沌状態に陥ったことだけは確かなようだ。

   
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書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIE 
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 日本人を奴隷として売買したポルトガル船、イエズス会
  なかには傭兵として大暴れした日本人もいた

  ♪
ルシオ・デ・ソウザ著、岡美穂子訳『大航海時代の日本人奴隷』(中央公
論社)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

支倉常長が遣欧使節団として伊達政宗から派遣されたルートは、大航海時
代のスペイン、ポルトガルが開拓した航路だった。マニア、メキシコのア
カプルコ、キューバを経てポルトガルのリスボンへ入港した。

伊達使節団の随員は乗組員を入れて200人前後もいたが、経由地のマニ
ラ、アカプルコなどで多くが脱落、あるいは逃亡、あるいは現地女性と結
婚し住み着いた。

後に高山右近らがマニラに追放されると、そこにはすでに2000人もの日本
人コミュニティが形成されていた。

支倉常長がスペイン各地を回ったときの随行は30人に減っていた。もっと
も当初から全員が西欧を目指したわけではなく、なかにはマニラへ帰国す
るポルトガル商人や宣教師、武器商人、そして奴隷売買の仲買人らも乗り
込んでいた。

本書はこの奴隷について教会の記録を丹念にしらべた、歴史の裏側の真実
である。

大航海時代とキリスト教バテレンの関係は、よく歴史書でも語られてきた
が、日本人奴隷に関しての研究はほとんどなかった。秀吉が発令した、後
に鎖国の前哨となるキリシタン追放は、この宣教の陰に隠れた闇商売に怒
りを発したことが大きかった。

この時代のイエズス会を活写した白眉は渡辺京二『バテレンの世紀』である。

スペインの教会に残る婚姻記録などから、最初の東洋人奴隷の消息が分か
るのは、早くも1551年だという。

まだ信長の出現はなく、種子島への鉄砲漂着は1543年だから、南の島々に
は、海賊にくわえて奴隷商人も出没していたことになる。

本書の調べでは、1570年代には夥しくなり、名前から判断して日本人と推
察できる。年代的に言えば信長が切支丹伴天連の布教を大々的に認めた時
代に合致する。その後の研究でも奴隷の出身地が豊後に集中している記録
がある。

これまでは伴天連大名として有名な大友氏が積極的に領民を売買してきた
とされた。ところが本書では薩摩との戦闘に敗れた大友氏の領内から薩摩
が拉致し、マカオから来ていた奴隷売買船に売り渡したのではないかという。

ゴアからマラッカ、マカオ、マニラが重要航路だった。そこにはイ エズ
ス会の影響が強く存在していた。

イエズス会が『イエズス軍』という性格を併せ持ったことは拙著『明地光
秀 五百年の孤独』のなかでも書いた。

しかもポルトガルを追われたユダヤ人の改宗者が大量に紛れ込んでいた。
初期のころ、かれらが奴隷を購入し、家事手伝いなどに従事させた。そし
て改宗ユダヤ人が宣教使節にも出自を偽って紛れ込んでいた。伊達をそそ
のかして政変を企てたソテロも、改宗ユダヤ人だった(田中英道説)。こ
れらの事実経過も拙著には書き込んだが、その時点で本書の詳細な記録を
読んでいなかった。

天正少年使節の遣欧団はヴァリアーノ(イエズス会宣教師、法螺吹きの一
面があった)の斡旋でポルトガル、スペイン、ローマを訪問したが、各地
で彼らは日本人奴隷を目撃している。なかには売春窟に売られた日本人女
性もいた。

「1560年代に来日した多くのポルトガル船は女性奴隷を乗せて出港し、彼
女たちはマカオへ送られた後、さらにマラッカやゴアまで運ばれていっ
た」(72p)。

その後、ポルトガル、スペインに残る教会の記録にも夥しい日本人が発見
された。

「1570年代の後半には、ある程度まとまった集団的な(日本人コミュニ
ティの)観察が可能なほどに、リスボンには日本人や中国人が居住してい
た」(153p)。

イエズス会は表面的には奴隷貿易に反対したとされた。

 しかし「イエズス会は奴隷売買のプロセスにおいて、紛れもなく一機能
を担っており、それを秀吉は見逃さなかった」(175p)。
 本書はじつに貴重な歴史への証言である。
      

◆緊迫した状況が生まれている北朝鮮情勢

櫻井よしこ


「緊迫した状況が生まれている北朝鮮情勢 日米主導の制裁をこのまま続
けるべきだ 

2月末のベトナム・ハノイでの米朝首脳会談決裂後、金正恩朝鮮労働党委
員長の足下が不穏である。

朝鮮問題の専門家、西岡力氏が3月22日にインターネットの「言論テレ
ビ」で、北朝鮮の平壌を出発した保衛部の幹部5人、部長3人と課長2人が
姿を消したと報じた。彼らは3月19日に平壌を出発し、中国との国境に近
い新義州で昼食をとり、中朝国境の川、豆満江にかかる橋を渡り中国・丹
東に向かった。そこで中国に派遣されている保衛部員らと落ち合い北京に
向かうはずだったが、忽然と消えた。

保衛部はナチスの秘密国家警察、ゲシュタポと似た組織で政治警察部隊の
ことだ。

北朝鮮は直ちに追っ手を出した。保衛部は信用できないとして、軍の工作
部隊である偵察総局の精鋭20人を中国に送り込んだ。元韓国公使で「統一
日報」論説主幹の洪熒(ホン・ヒョン)氏が指摘した。

「幹部の集団逃走は保衛部解体につながる程の衝撃でしょう。5人は家族
を置き去りにして逃げている。家族は間違いなく収容所送りでしょうか
ら、余程切迫した状況だったはずです」

正恩氏は祖父も父もしなかった苛烈な粛清に走っている。叔父の張成沢氏
の処刑、母違いの兄、金正男氏の暗殺、自分を守る役割で自分に最も近い
保衛司令部、さらに党の組織指導部までをも粛清し始めている。

組織指導部とは正恩氏自身が作った党の中の党だ。重要政策の決定から幹
部の人事権、正恩氏に上げる情報の取捨選択まで行う。

5人の逃走から8日、北朝鮮は中国当局にも捜索を依頼し、偵察総局の面々
も、ホテルや食堂、民家まで徹底的に捜索しているが、杳として行方が知
れない。ここまでは事実で、これから先は西岡、洪両氏の推測である。

3月1日に北朝鮮臨時政府を作ったと「自由朝鮮」と名乗る勢力が宣言し
た。彼らは2月22日にスペイン・マドリッドの北朝鮮大使館を襲い、コン
ピュータを持ち去った。米紙「ワシントン・ポスト」が一部始終を詳しく
報道した。自由朝鮮は暗殺された正男氏の長男のハンソル氏をマカオから
脱出させて保護している勢力だが、マカオ脱出は中国当局の協力なしには
不可能だったとされている。

とすれば、保衛部幹部5人が逮捕されていないこととも、中国当局は関係
があるのか。洪氏は次のように憂う。
「仮に自由朝鮮がハンソル氏を担いで臨時政府樹立を画策しているのな
ら、失敗すると思います。それは王朝四代目になり、中国の傀儡ですから」

西岡氏の感想だ。

「もしも自由朝鮮の犯行だとすると、彼らはかなりの組織力を持ってい
る。襲撃事件を起こした、それを米国紙に書かせた、マカオからハンソル
氏を救出した。脱北者だけではできないでしょう。米中共に正恩氏の核保
有を望んでいないことを考えると、一連の事件に何らかの工作がされた可
能性はあると思います」

正恩氏はハノイから戻って、すぐに初級宣伝活動家大会を開き、以下の3
方針を打ち出した。(1)米国とは長期戦になる、(2)自給自足を強め
よ、(3)指導者(自身)の神格化をするな。

ハノイに出かける前は、党幹部らを前に、対米交渉は順調だ、もうすぐ
(日本から)大金をとれる、もう少しの我慢だと言っていたのとは正反対
だ。金一家は常に自分たちを神のように崇めよと命じてきた。それがい
ま、人民は首領を神格化せずに、つまり、首領にたよらず食べていけと
言っている。

北朝鮮の国民は1990年代に金正日氏の悪政で300万人が餓死した。彼ら
は、「今回は黙って死ねない」と誓っている(「自由北朝鮮放送」代表、
キム・ソンジン氏)。何があってもおかしくない緊迫した状況が生まれて
いる。日米主導の制裁が功を奏している。

『週刊ダイヤモンド』 2019年4月6日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1274

2019年04月08日

◆染井吉野韓国伝来説の怪

渡部亮次郎


若い頃、記者をしていたNHKのアパートが東京・豊島区駒込の染井銀座の真ん中にあって1年だけ住んだ。

商店街の真ん中だから便利だったが、家主が風呂屋だから、内風呂のないのには閉口した。夜討ち、朝駆けのある政治記者。夜回りから帰宅しても、銭湯はもう閉まっているのだ。

こんなとこ、何が銀座だいと毒づいたら「この地が日本を代表する櫻「ソメイヨシノ」の発祥地だと威張られたので、驚いた。

ところが1939年に、小泉源一が韓国の済州島に自生する王桜とソメイヨシノを比較し、同一種として済州島を発祥地とする説を唱えたが、米国農務省の DNA検査によるとソメイヨシノと王桜が全くの別種で、王桜がソメイヨシノの片親といったDNA的相関もないと確認されている。このため、現在ではこの説は否定されている。

それでも、韓国では現在もこの2種を混同し、これら2種が完全に別種という概念が存在しないため、以前の研究結果を元に「日本の桜の起源は韓国」といった主張を広報するのが春の風物詩となっており、NationalCherry Blossom Festival等と絡めて「ソメイヨシノの起源は韓国だと世界に正しく知らせよう」との海外への対外広報の動きもある。

また王桜の自生地にソメイヨシノを植える活動が進められ、逆に王桜の絶滅が心配されているそうだ。こういうのを日本語では自縄自縛という。

江戸末期から明治初期に、江戸の染井村(現在の東京都豊島区駒込)に集落を作っていた造園師や植木職人達によって育成され「吉野桜(ヤマザクラの意)」として売り出していた。

名称は初めサクラの名所として古来名高く西行法師の和歌にもたびたび詠まれた大和の吉野山(奈良県山岳部)にちなんで「吉野」「吉野桜」とされたが、藤野寄命による上野公園のサクラの調査によってヤマザクラとは異なる種の桜であることが分かり(1900年)、この名称では吉野山に多いヤマザクラと混同される恐れがあるため、「日本園芸雑誌」で染井村の名を取り「染井吉野」と命名した。

樹高はおおよそ10-15m。若い木から花を咲かすために非常に良く植えられている。実は小さく、わずかに甘みもあるが、苦みと酸味が強いため食用には向かない。

但しソメイヨシノは種子では増えない。各地にある樹はすべて人の手で接木(つぎき)などで増やしたものである。

オオシマザクラとエドヒガンの自生地においては交配雑種としてのソメイヨシノの自生する可能性がわずかながらあるが、一般には自ら増えることのないソメイヨシノは接ぎ木など人間の手によって広まったものである。

ソメイヨシノは、一般的に、他の台木に接木をしたものや、挿し木、植え替えによって増える。このため、人間と切っても切れない関係にある。

すべてのソメイヨシノは元をたどればかなり限られた数の原木につながり、すべてのソメイヨシノがそれらのソメイヨシノのクローンともいえる。国立遺伝学研究所の研究によれば、全国のソメイヨシノはDNAが一致することが確認されている。

これはすべてのソメイヨシノが一斉に咲き一斉に花を散らす理由になっている。特定の病気に掛かりやすく環境変化に弱い理由ともなっている。

街路樹、河川敷、公園の植え込みなどに広く用いられている。また、全国の学校の校門近くにも植えられていることが多い。ソメイヨシノは花を咲かす時期や、散らすまでの時間が早いために、学校などでは本種と本種より1週間程度花の咲いている期間の長いヤエザクラの両方を植えて、入学式にいずれかの桜を咲かせることができるようにしていることが多い。

広く用いられている種であることから、花見に一番利用される木となっており、人気種である。葉より先に花が咲き開花が華やかであることや若木から花を咲かす特性が好まれ、明治以来徐々に広まった。

さらに、敗戦後、若木から花を咲かせるソメイヨシノは荒廃した国土に爆発的な勢いで植樹され、日本でもっとも一般的な桜となった。

ソメイヨシノは街中では他種より目にする機会が圧倒的に多いことから、以前からその起源についてとともに、可否好悪についても愛桜家の間で論争の絶えなかった品種である。

ソメイヨシノは多くの人に人気があり、多くの公園などで花見のための木になっている一方で、ソメイヨシノ一種ばかりが植えられている現状やソメイヨシノばかりが桜として取り上げられる状態を憂慮する声もある。

欧米には1902年にカンザンと共にわたっている。欧州やアメリカに多くのソメイヨシノが寄贈されており、春のワシントンのポトマック河畔のソメイヨシノが有名である。今年は開花がとても早く、3月末には散っていたそうだ。

現在もほぼ日本全域に分布する最もポピュラーな桜であり、さらにすべての個体が同一の特徴を持ち、その数が非常に多いため「さくらの開花予想」(桜前線)も本種の開花状況を基準として決められている。

ソメイヨシノには大きな欠点がある。数百年の古木になることもあるヤマザクラやエドヒガンに比べて高齢の木が少ないことである。「60年寿命説」なる俗説があるほどである。ただし正確な寿命に関しては統計数値がないため不明であり、また、大径になる木は理論上は寿命がないと考えられている。

老木の少なさの原因ははっきりしていないが、「ソメイヨシノは成長が早いので、その分老化も早い」という説があるほか、街路のように排気ガスなどで傷むこと、公園といった荒らされやすい場所に植樹されているということも寿命を縮める原因となっているのではないかとの指摘もある。

接ぎ木によって増やされるため、接ぎ木の台木とされたヤマザクラが腐って心材腐朽を起こし、寿命を縮めているという説もある。

また、すべてのソメイヨシノが同一の特性を持つために、すべてのソメイヨシノが病気や環境の変化に弱く、それらに負け一斉に枯れるという点もある。

排ガスなどの大気汚染ももちろん、近年の地球温暖化やヒートアイランド現象でソメイヨシノが急激な環境の変化についていけていないことが病気の遠因になっている説がある[4]。根の近くが舗装されることも樹勢を削ぐ。

また、花見に一番使われる木であることも病気の遠因といえる。根に近い土壌を過剰に踏みしめられることは木によいとはいえない。

花見客のマナーの悪さは木に悪影響を及ぼす。焼肉やバーベキューなどは煙で木に悪影響を与える。ごみの放置は雑菌の繁殖をもたらす。

これらは桜を弱らせるに十分な行為である。あまつさえ、花見客が枝を折ったり切り取ったりすることなどは問題外である。

枝を折られるとそこから腐りやすいため、知識もなく枝を折ることや切ることは慎むべきである。

しかし、こうしたイメージの一方、ソメイヨシノの老木も存在している。例えば東京都内の砧公園のソメイヨシノは1935年に植えられすでに70年以上が経過しているし、神奈川県秦野市の小学校には1892年に植樹された樹齢110年を超える2本の老木が存在する。

また、青森県弘前市ではリンゴの剪定技術をソメイヨシノの剪定管理に応用するなどして樹勢回復に取り組んだ結果、多くのソメイヨシノの樹勢を回復することに成功している。

ただし、紅葉・落葉直後にすぐ剪定することでC/N比(炭素/窒素比)を変えたり根回しや土壌交換による細根の発生をもたらすなど、管理に留意を要する。

弘前城跡公園には樹齢120年を超えるソメイヨシノがあり、これは本種の現存する最も古い株であろうといわれている。

引用:「ウィキペディア」

◆激腰痛で、歩けない

毛馬 一三


激腰痛等に悩まされ出して5年2か月が経つ。歩行が100b位しか出来ず道路で座り込んで仕舞う。バス・地下鉄には立ったまま乗車はできない。ましてや、地下鉄の階段は手すり棒にすがって上り降りをするが、激痛みに襲われている。7日の統一地方選の投票に行くのも、歩行が辛かった。

家でも、椅子に座ってパソコンに向かい合うのも、30分とはもたない。どうしてこんな腰痛に絡む激痛が起こったのだろうか。昼間、やむを得ない所要で外出先から帰宅すると、激痛のため、布団に寝転ぶしかない。

腰痛といえば、6年前に脊髄部の「すべり症」に見舞われ、下半身が痺れて倒れる症状が起き、大阪厚生年金病院で手術をした。手術は成功し、「すべり症」からは完全回復したので、以後腰痛には何の懸念も抱いていなかった。

ところが、冒頭記述のように、突然3年2か月前から、激腰痛が始まったのだ。そこで、今毎日、整形外科診療所に通って診察とリハビリを受けている。リハビリを受ければ次第に回復すると思っているが、中々痛みが減らない。

整形外科診療医院での診察で、まずレントゲンを撮影し、「すべり症手術の後遺症」の障害有無を調べてもらったが、それは無しとの診断だった。

しかし、痛みは、腰だけでなく、時間が経過するにつれて、右足の臀部、右下肢ふくらはぎに広がり、3か月前からは左右の腕筋肉にまで痛みが出だした。

腰痛だけでなく、右足・下肢の筋肉に痛みが広がり出したため、改めて診療所の院長に「病名」を質した。すると「仙腸関節炎」だと伝えられた。ではこの痛みの原因は何であるかを尋ねた処、「分からないです」との回答。

一体「仙腸関節炎」とは何か。日本仙腸関節研究会によると下記の様の記述されている。
<仙腸関節は、骨盤の骨である仙骨と腸骨の間にある関節であり、周囲の靭帯により強固に連結されている。仙腸関節は脊椎の根元に位置し、画像検査ではほとんど判らない程度の3〜5mmのわずかな動きを有している。
仙腸関節障害は決して稀ではない。仙腸関節障害で訴えられる“腰痛”の部位は、仙腸関節を中心とした痛みが一般的だが、臀部、鼠径部、下肢などにも痛みを生じることがある。
仙腸関節の捻じれが解除されないまま続くと慢性腰痛の原因にもなる。長い時間椅子に座れない、仰向けに寝れない、痛いほうを下にして寝れない、という症状が特徴的。
腰臀部、下肢の症状は、腰椎の病気(腰部脊柱管狭窄症・ようぶせきちゅうかんきょうさくしょう や 腰椎椎間板ヘルニア・ようついついかんばん など)による神経症状と似ているので、注意が必要。
また、腰椎と仙腸関節は近くにあり、関連しているので、腰椎の病気に合併することもあり得る。>

上記説明で、筆者の「仙腸関節炎」の症状や痛み箇所が一致し、神経症状と似ているとの指摘があったことからも、院長の病名診断に納得出来た。

しかし肝腎の「仙腸関節炎」の原因が何処から発生しているのかが分からないのでは、不安が増幅する。

どうすればこの激腰痛から脱出できるのだろうか。整形外科の分野で、「腰痛」の原因は、総じて分からないことが多いという説もある。

当診療医院で、1週間に1度、痛み止め注射(トリガーポイント注射、ノイロトロピン注射、ジプカルソー注射)を打ってもらい、1日3回・薬剤ザルトプロフェン錠80mgを飲んでいる。痛みの各局部には湿布も貼る。

また頼らざるを得ないのは、毎日の主軸治療の「リハビリ」だ。柔道整復師による局部マッサージのあと、ホットパック(タオルによる温め)、干渉波(電気)、腰の牽引の物理療法の4リハビリを40分間行っている。しかし局部の痛み緩和には余り効果はない。

「仙腸関節炎」の原因が分からない以上、対象療法しかないのは事実だ。だとすれば、歩けない、立てない、座れないのが強度になっていくばかりなので、日常寝たきりしかない。

「入院して手術」を受けることしかないのだろう     (了)

2019年04月07日

◆したたか大阪人・服部良一

渡部 亮次郎


大阪出身の作曲家服部良一(はっとり りょういち、1907年10月1日―1993年1月30日)は、日本の作曲家、編曲家、作詞家(「村雨まさを」名義で作品を出している)。大阪市平野区出身。

ジャズで音楽感性を磨いた、和製ポップス史における重要な音楽家の一人と「ウィキペディア」。名曲「青い山脈」「東京ブギウギ」を残した大作曲家だが、戦時中、内務省の検閲を欺いた「大物」とは誰も書かない。

「夜のプラットホーム」は戦後の昭和22年に発表され、大ヒットしたが、実はもともとは戦時中、淡谷のり子が吹き込んだものであった。

1939年(昭和14年)公開の映画『東京の女性』(主演:原節子)の挿入歌として淡谷が吹き込んだ。だが、戦時下の時代情勢にそぐわないと内務省の検閲に引っかかり、同年に発禁処分を受けた。理由は「出征する人物を悲しげに見送る場面を連想させる歌詞がある」だった。

作詩 奥野椰子夫  作曲 服部良一
1 星はままたき 夜ふかく なりわたる なりわたる
 プラットホームの 別れのベルよ  さよなら さようなら
 君いつ帰る

2 ひとはちりはて ただひとり  いつまでも いつまでも
  柱に寄りそい たたずむわたし  さよなら さようなら
  君いつ帰る

3 窓に残した あのことば  泣かないで 泣かないで
  瞼にやきつく さみしい笑顔  さよなら さようなら
  君いつ帰る

昭和13年の暮、東京・新橋駅で出征兵士を見送る歓呼の声の中に、柱の陰で密かに別れを惜しむ若妻の姿。それに心を打たれた都新聞(東京新聞)学芸記者の奥野椰子夫。

作詞家としてコロムビアに入社して翌年1月に「夜のプラットホーム」として書きあげ、服部良一が作曲、淡谷のり子が吹き込んだのだったが、発売禁止。

だが、曲に愛着をもつ服部が一計を案じた。検閲官を欺こうというのである。レコードが輸入盤なら検閲を潜られる制度だったので、2年後の1941年(昭和16年)、「I'll Be Waiting」(「待ちわびて」)というタイトルの洋盤で発売した。

作曲と編曲はR.Hatter(R.ハッター)という人物が手がけ、作詞を手がけたVic Maxwell(ヴィック・マックスウェル)が歌ったのだが、この曲は『夜のプラットホーム』の英訳版であった。

R.ハッターこそは良一・服部が苗字をもじって作った変名で、ヴィック・マックスウェルは当時の日本コロムビアの社長秘書をしていたドイツ系のハーフの男性の変名だった。

策略はまんまと当り、この曲は洋楽ファンの間でヒットした。当時を代表するアルゼンチン・タンゴの楽団ミゲル・カロ楽団によってレコーディングされた。

このとき服部は、やはり先に発売禁止になった「鈴蘭物語」(作詞藤浦 洸, 唄淡谷のり子)を「Love‘s Gone(夢去りぬ)」作曲R・ハッターとしてB面に収録。人々はこれも外国曲として愛好した。内務省は服部にしてやられたのである。

肝腎「夜のプラットホーム」は検閲の無くなった昭和22年、二葉あき子が歌って大ヒット。それまでの歌手活動の中、ヒットはあったものの大ヒット曲のなかった二葉にとっては待ち望んでいた朗報であった。

「夢去りぬ」の方は霧島昇が歌いなおして、これまた大ヒットした。

服部良一は大阪の本庄で土人形師の父久吉と母スエの間に生まれた。小学生のころから音楽の才能を発揮したが、好きな音楽をやりながら給金がもらえる出雲屋少年音楽隊に一番の成績で入隊する。

1926年にラジオ放送用に結成された大阪フィルハーモニック・オーケストラに入団。ここで指揮者を務めていた亡命ウクライナ人の音楽家エマヌエル・メッテルに見出され、彼から4年にわたって音楽理論・作曲・指揮の指導を受けた。

1936年(昭和11年)にコロムビアの専属作曲家となった。やがて、妖艶なソプラノで昭和モダンの哀愁を歌う淡谷のり子が服部の意向を汲み、アルトの音域で歌唱した『別れのブルース』で一流の作曲家の仲間入りを果たす。

その後ジャズのフィーリングをいかした和製ブルース、タンゴなど一連の和製ポピュラー物を提供。淡谷のり子は『雨のブルース』もヒットさせ「ブルースの女王」と呼ばれた。

その後、霧島昇・渡辺はま子が共演し、中国の抒情を見事に表現した『蘇州夜曲』、モダンの余韻を残す『一杯のコーヒーから』、高峰三枝子が歌った感傷的なブルース調の『湖畔の宿』(発売禁止)など、服部メロディーの黄金時代を迎えた。

だが、大東亞戦争中は不遇。戦後は大活躍した。古賀政男がマンドリン・ギターを基調にした洋楽調の流行歌から邦楽的技巧表現を重視した演歌のスタンスへと変化したのに対し、服部良一は最後まで音楽スタンスを変えることなくジャズのフィーリングやリズムを生かし、和製ブルースの創作など日本のポップスの創始者としての地位を確立した。

日本のポップス界隆盛の最大の功労者である。曲自体も歴史的価値は別にしても今日でも全く魅力を失っていないものが多く、その意味では海外のクラシックやスタンダード・ポップスの巨人と並べて語るべき存在ともいえる。日本レコード大賞の創設にも尽力した。

1993年1月30日、呼吸不全のため死去。享年85だった。死後、作曲家としては古賀政男に次いで2人目の国民栄誉賞が授与された。なお『青い山脈』を歌った藤山一郎も国民栄誉賞を受賞している。さすが反権力の大阪チャンピオン。

2007年12月30日、第49回日本レコード大賞にて特別賞を受賞。

息子は作曲家の服部克久と俳優の服部良次がおり、孫に服部隆之(服部克久の長男)、バレエダンサーの服部有吉(服部良次の息子)がいる。妹は歌手で服部富子1917年(大正6年)4月6日 - 1981年(昭和56年)5月17日)。
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