2019年05月01日

◆「夜と朝の間に」

渡部 亮次郎


このタイトルの歌を唄ったのは女装で有名になったピーターである。作詞
のなかにし礼は男なのか女なのか判然としないピーターを
夜と朝の境目の判然としない時間に譬えて作詞した。

「夜と朝の間に」

唄 ピーター
作詞 なかにし礼
作曲 村井邦彦

<夜と朝の間に ひとりの私 天使の歌を聴いている死人のように

夜と朝の間に ひとりの私 指を折っては繰り返す 数はつきない

遠くこだまをひいている 鎖につながれた むく犬よ
お前も静かに眠れ お前も静かに眠れ

夜と朝の間に ひとりの私 散るのを忘れた一枚の花びらみたい

夜と朝の間に ひとりの私 星が流れて消えても 祈りはしない

夜の寒さに耐えかねて 夜明けを待ちわびる小鳥たち
お前も静かに眠れ お前も静かに眠れ>

ピーター 本名:池畑 慎之介 いけはた しんのすけ
1952年8月8日(62歳) 大阪府堺市西区 生まれ。
血液型 A型 俳優、タレント、歌手

慎之介は、上方舞吉村流四世家元で、人間国宝にもなった吉村雄輝 の長
男として生まれた。3歳で初舞台を踏み、お家芸の跡継ぎとして父から厳
しく仕込まれた。5歳の時に両親が離婚。母・池畑清子と暮らすことを選
択、鹿児島市で少年時代を過ごした。慎之介が母方の池畑姓を名乗るのは
これ以降である。

池畑の性的指向は長らく公表されていなかったが、のちになってバイセク
シュアルであることを明言し、男女共に恋愛経験があることを公にした。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

そう言えば私はラヂオとテレビの記者として育ったので、「きょう」とか
「きのう」「おととい」「今月」「先月」「今年」「去年」というテンスの原
稿を書き続けた。だが、これは新聞や雑誌では通用しない言葉であった。

たとえば、きょうに「きょう」とラジオやテレビで放送するのは当然だ
が、新聞で「今日」と書いても、配達されるのは「あす」だから、きょう
は昨日になってしまっている。だから日付を書くしかない。

TVの記者の古手になったら、盛んに雑誌から原稿を依頼されるようになっ
て、このことを厳しく実感した。原稿は例えば、2月に「今月」と書いても
発売される頃は「先月」になってしまっているから
原稿はもともと「今月」ではなく「2月」と書かなくてはならない。

このことはインターネットの世界でも同様である。今日はすぐ明日になっ
てしまい、4,5日経ったらいつの今日かわからなくなってしまうではな
いか。

投稿してくる人はTVを見ながら「今夜の番組で」と打ち込んでくるが、明
後日になってメルマガやブログに掲載しようとしても、「今夜」とはいつ
の今夜か分からなくて困る。今夜とか昨夜ではなくて初めから日付で語っ
ていただかないと、主宰者泣かせの原稿になっている。

これきりのことを書くのに、ピーターのことから書きはじめた。
「夜と朝の間に」と言えばピーターだから、こうなった。私はNHKで政治
記者を約20年やったが、正式なNHK教育を受けていない。

非正式職員に採用されて、秋田県大舘市駐在の記者(単身)になり、放送用
(耳から聞かせる)文章を独りで考えて送った。1年後、試験に合格して正
式記者に採用されたが、もはや教えるところは無いのか研修所(東京・
砧)へは入れられず仙台の現場に突っ込まれた。ネタや文章がNHK的でな
いのは、その所為だろう。2010・2・27


◆文在寅、親北反米路線で確信犯

櫻井よしこ


南北両朝鮮が米国に追い詰められている。とりわけ韓国の文在寅大統領へ
の米国の圧力は巧妙である。

4月11日、文氏は“建国”を祝う予定だったが、米韓首脳会談のため、大事
なその記念式典を諦めて訪米した。にも拘わらず、ホワイトハウスでのト
ランプ大統領との会談は、前代未聞の哀れな結果に終わった。

文氏は10日にソウルを出発し、同日夕方にワシントンに到着したが、米国
側との予定は一切組まれていなかった。翌11日午前中に、ポンペオ国務長
官、ボルトン大統領補佐官、ペンス副大統領とそれぞれ面会したが、三氏
共に文氏の北朝鮮寄りの姿勢に批判を加えたと見られる。北朝鮮に非核化
の意思は読みとれず、制裁緩和はあり得ない、米国はむしろ制裁強化を考
えていることなどが強調されたと考えてよいだろう。

その後、トランプ、文両首脳は夫人を伴って首脳会談を行った。夫人同伴
の首脳会談など通常はあり得ない。トランプ氏は文氏と二人で語り合う必
要を認めていなかったのだ。現に会談冒頭、メディアからゴルフのマス
ターズトーナメントの勝者は誰になると思うかと問われ、トランプ氏は文
氏を横においたまま延々と語った。

結局27分間もトランプ氏の話が続き、文氏との会談時間は驚きの2分間、
しかも通訳つきだ。その後に他の閣僚たちも参加しての昼食となった。4
月12日、ネット配信の『言論テレビ』で元駐日韓国大使館公使の洪熒(ホ
ンヒョン)氏が語った。

「2月末にベトナムの首都ハノイで米朝会談が決裂した後、文氏は康京和
(カンギョンファ)外相や鄭景斗(チョンギョンドゥ)国防部長官を米国に送
り、三度目の米朝首脳会談の開催や対北朝鮮制裁の解除を要請させまし
た。対北経済援助で米国には負担をかけない、韓国が負担するので開城
(ケソン)工業団地も金剛山(クムガンサン)観光も再開させてほしい、など
とも言わせました。米国側は全て拒否し、そのような話題であれば、米韓
首脳会談はなしだと、通告したのです」

一人飯

朝鮮問題の専門家でシンクタンク「国家基本問題研究所」研究員の西岡力
氏も『言論テレビ』で語った。

「朝鮮語で『一人飯』をホンバプといいます。韓国の若者の間で一人でご
飯を食べるのが増えていて、ホンバプという言葉が流行っているのです。
文氏は米国到着の10日夜がホンバプ、11日朝もホンバプ、11日昼にようや
く米国側との食事にあり付いた。本当に相手にされなかったのです」

米国の厳しい態度は文政権の裏切りに対する冷遇だと洪氏が断じる。文氏
の裏切りとは、米朝首脳会談を実現させるために、文氏が金正恩氏は北朝
鮮の非核化を決意していると米国に伝えたことだ。正恩氏が表明したのは
北朝鮮の非核化ではなく、朝鮮半島の非核化である。これは韓国を守るた
めに米国の核を使うという発想自体もなくしてしまうこと、即ち米韓同盟
の破棄を目指す言葉であり、北朝鮮が所有する全ての核や関連施設の一掃
とは、全く異なる。

当初、北朝鮮の非核化に希望を抱いたトランプ政権は、やがて正恩氏に非
核化の意思がないこと、文氏の嘘を確信したと思われる。国連制裁に違反
してでも北朝鮮支援に動こうとする文氏を牽制するために、米国政府は文
政権の頭越しに韓国の経済界に働きかけ始めた。

昨年9月には、ニューヨークにある韓国の七つの銀行の支店に米財務省が
直接電話をして、米国が北朝鮮に制裁をかけていることを承知しているか
と警告した。西岡氏が語った。

「韓国系の銀行は現在、送金業務を止めているといわれます。もし送金に
北朝鮮と関係する資金が入っていれば、米国の副次的制裁(secondary
sanction)を受け、一切のドル決済が停止されるやもしれない。そうなっ
たら銀行は潰れます」

昨年4月27日の板門店での南北首脳会談にも、9月18日の平壌での南北首脳
会談にも、文氏は多くの韓国企業代表と開城工業団地の組合長らを同行さ
せた。文氏は金正恩氏と共に白頭山に登ったが、そのとき正恩氏に開城工
業団地組合長を紹介し、組合長に直訴させた。「委員長様、何とか開城工
業団地を再開させて下さい」と。

正恩氏は今年新年の辞で「南朝鮮の人民の要望に応えて、無条件で開城工
業団地を再開する」と演説し、それを受けて文氏は開城工業団地再開で米
国を説得すると公言した。だが、北朝鮮を利するだけの工業団地再開に
は、前述のように米国が完全拒絶の姿勢を貫いた。

支持率は下がる一方

その間、ソウルの米大使館の専門官は文氏に同行した財閥や企業に直接電
話攻勢をかけた。米政府が北朝鮮に制裁をかけているのは承知か、と警告
したのである。洪氏が強調した。

「米国は朝鮮半島での70年間に多くの教訓を得ています。そしていま、文
在寅と韓国企業を切り離しているのです。文は米国の警告を聞かない。な
らば企業や韓国国民に直接働きかけようというわけです。核を諦めない北
朝鮮に送金を続けるのか、米国との貿易や自由社会との絆を選ぶのか、と
米国は迫っています」

韓国国民も文氏の危うさを実感しているに違いない。支持率は下がる一方
だ。経済は停滞し失業率は高まり続けている。にもかかわらず、文氏は最
低賃金をこの2年間で約30%も引き上げた。残業を規制し労働時間を大幅
に短くした。人件費は高騰し、倒産は急増、失業率がさらにはね上がる悪
循環である。笑い話のような現実を西岡氏が紹介した。

「統計上失業者が増えると困るので、文氏は60歳以上の失業者に週1回大
学に行って電気を消す、又はゴミ拾いをするなどの仕事を作り、役所が賃
金を払うことにしました。税金で失業率の統計に化粧を施しているのです」

支持率低下や米国の警告にもめげず、親北路線を変えない強い反米の意思
が文氏の人事から読みとれる。一例が統一部長官に指名された金錬鉄(キ
ムヨンチョル)氏である。この人物は米国が韓国に要請した
THAAD(終末高高度防衛ミサイル)配備に反対し、開城工業団地の早
期再開を主張する反米主義者である。

同人事は韓国議会の反対にも拘わらず、文氏は考えを変えなかった。文氏
は米国に公然と対立姿勢を見せたに等しく、米国を欺く手法で開城工業団
地再開をはじめ北朝鮮支援に走り出しかねない。

暴走の気配を見せる文氏に、米国が対決姿勢を強め、韓国国内では対抗勢
力が力をつけつつある。2月27日、自由韓国党の代表に黄教安(ファンギョ
アン)氏が選ばれた。朴槿恵政権で法務部長官や首相を務めた公安検事出
身の62歳は、文政権の安保政策と経済政策を「亡国政策」と批判する。

野党勢力はまだ弱いが、それでも文氏の足下は決して盤石ではない。韓国
はいつ何が起きてもおかしくない緊張の中にある。

『週刊新潮』 2019年4月25日号  日本ルネッサンス 第849回



◆コンゴ共和国、IMFに救済を求めて2年

宮崎 正弘


平成31年(2019)4月30日(火曜日) 通巻第6060号 

 コンゴ共和国、IMFに救済を求めて2年
  20億ドルの「援助」棒引きに直面した中国が慌てた


コンゴ共和国の対外債務は44億ドル(20017年IMF),このうち20億ド
ルは中国が貸与しているが、沖合で産出する石油利権と結びついている。
アフリカ西海岸で中国投資が最大なのはアンゴラ、次ぎはナイジェリアで
ある。

コンゴ共和国の輸出品は石油、ガス。独立前、この国はフランス領だった
ので、いま流通する法定通貨は「海外フラン」である。フランスが海外植
民地としているニューカレドニア、タヒチなどに流通する通貨と同質のも
ので、ユーロ・ペッグである。

 大航海時代と列強のアフリカ植民地時代を振り返れば、このコンゴ共和
国、となりのコンゴ民主共和国(旧ザイール)、そして南に位置するアン
ゴラは、ベルギー国王の「私有地」だった。すべて併せると、日本の五倍
ほどの宏大な面積を国王一人が植民地化し、人民を奴隷のように酷使して
銅鉱山などを開発し、富を独占した。
 その後、アンゴラはポルトガルに、コンゴ民主共和国はベルギー領、そ
して冒頭のコンゴ共和国はフランス領と分けた。

 2017年、懸念されたようにコンゴ共和国は借金が返せなくなって
IMFに救済を申し入れた。
結論はこの六月にでるが、もし救済案がまとまると、援助国は80%程度
の債権放棄を要求される。
IMFの最終決定権はいうまでもないが、米国が持つ。慌てるのは中国、
はじめて対外債権が「紙くず」と化けるからだ。フランスも多少の債権を
もつがゆえに救済に前向きではない。

 これまで「借金の罠」と非難されてきた中国の対外援助は、スリランカ
でハンバントラ港を担保に99年の租借をなした。パキスタンでもグア
ダール港を43年間租借という条件を勝ち取ったが、パキスタンのIMF
救済に北京は前向きな姿勢を取らず、結局、イムラン・カーン首相はイス
ラム同胞のサウジアラビア、UEA諸国から200億ドル前後の緊急資金
援助をなして、危機を乗り越えようとしている。
 パキスタンはいまのところIMF救済を申請していない。

 ジンバブエ、ベネズエラの経済崩壊でも、中国は積極的救済策を講ぜ
ず、固いとされた経済的な絆は唐突に凍結状態となった。ベネズエラの経
済破綻はキューバとニカラグアを貧窮化させるというドミノ現象を産んだ。

 アフリカ諸国へシルクロード構想で、プロジェクトを運んできた中国
も、コンゴでは担保を設定していないらしく、中国は対外債務の肩代わり
を行使したが、コンゴの場合、この手口が通用しない。


 ▲西側の失策でもあるが、当該国家には国家意識が欠落しているのだ

 さて、このコンゴ共和国(西側は「コンゴ・プラザビル」と呼ぶ)より
悪質で悲惨な状況にあるのが、となりのコンゴ民主共和国(こちらを西側
は「旧ザイール」もしくは、「コンゴ・キンシャサ」と呼ぶ)である。

ここは昔のザイールだ。モブツ・セセ・セコという奇妙な独裁者が35年
間、この国を壟断し、富を独占した。つまり国富を横領し、資金はドルに
替えてスイスに預金した。
西側があまりの独裁政治と腐敗ぶりにモブツを見放すと、軍事クーデタ、
部族間抗争が激化し、国土は荒廃した。
およそ600万人のコンゴ人が虐殺されたか餓死した。

 西側はルアンダとウガンダの虐殺(およそ百万人が虐殺された)に眼を
向け、ついでスーダンでおきたジェノサイトを批判したが、ルアンダの反
政府軍、武装勢力がコンゴ民主共和国に侵入し、東部住民を虐殺していた
事実に眼を瞑った。スーダンのジェノサイトにメディアの報道が集中し、
いつしかルアンダとウガンダの虐殺事件は風化した。

 ルアンダの大虐殺は、狩猟民族のツツ族が、農耕民族のフツ族を襲撃し
た民族戦争の性格が濃厚である。そしてツツ族の武装勢力が、国境を越え
てコンゴの山岳地帯へ武器とともに侵入し、原住民を追い立て、婦女子を
レイプし、老人、子供らを虐殺した。
 一方、ルアンダ政府軍は、米国などが傭兵然として、スーダンの国連軍
に投入した。

 なにゆえに、コンゴ民主共和国でユダヤのホロコーストをしのぐ虐殺が
進行していても、国際社会は無力だったのか。米国をはじめ、英国、仏蘭
西が沈黙し、国連も報告書を作成して虐殺の詳細のレポートを作成しなが
らも、だまりこんだ。
 

 ▲戦略物資争奪戦争の犠牲になった夥しいアフリカ人の血

理由はコバルト争奪である。
 自動車エンジンの触媒、高速裁断、スマホに大量に使われるコバルト
は、このコンゴ民主共和国の東部山岳地で産出し、ほかに銅鉱山、ダイヤ
モンド、タングステンの宝庫でもあり、西側の戦略物資の一大産地なのだ。
 
 コバルト鉱山はかつての宗主国・ベルギーの利権だったが、米国の経営
に移り、しかしジェノサイド批判を怖れた米国企業は株式の大半を中国に
売った。中国はスマホならびに宇宙航空産業の原材料確保の目的で、コン
ゴ資源獲得に血眼となった。
 この資源獲得戦争という重大にして地政学的な理由が、コンゴにおける
無政府状態をもたらし、悪化させた。

 アフリカ投資600億ドルを豪語し、北京にアフリカ首脳54ヶ国の代
表を呼びつけた中国アフリカフォーラムが賑わったものの、実際に中国が
投資を実行したのは88億ドルに過ぎず、しかも投資した国々では反中国
暴動が頻発し、アフリカ諸国への処理方が分からない中国は、めずらしく
まごついている。
 
   
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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1887回】                 
――「『私有』と言ふ點に絶大の奸智を働かす國である」――竹内(13)
  竹内逸『支那印象記』(中央美術社 昭和2年)

           
首都である北京のどこにも中華民国の建国を示す「都市装飾の記念」が見
当たらない。

「現北京の主要なる名所地」を占めているは清朝盛時の建造物ばかり。し
かも街を歩けば「頭の天邊に清朝遺臣の表號として豚の尻ツぽを遺して」
いる姿が嫌でも目に飛び込んでくる。建物から人間まで清朝当時のまま。
かくして「錆は地金にまで喰い入つてゐる」と。

どうやら1911年の辛亥革命を経て建国された中華民国ではあるが、立憲共
和政体という外皮の下は依然として清国のままだった。やはり、この国に
立憲共和はムリらしい。伝統から離れようとしないのか。伝統が人々の日
常に骨がらみに絡みつき逃れられないのか。伝統のしがらみが心地よいのか。

北京を囲む豪壮堅固な城壁が僅か3年で建造されたと同じように、宮殿を
囲む紫禁城もまた短時日で築造されたのだろう。だから主の居る間は「装
飾や人間や儀式やらで燦然としてゐた」が、「一朝主を失つた借家となつ
た場合、例へ?色の柱や瑠璃甍が遺つてゐるとしても、根が大味なんだか
ら、何の風情もない」と、素気なく切り捨てた。

清朝盛時の贅を尽くした建造物とはいえ、「一歩その内部へ踏込めば大味
な建築の伽藍洞に過ぎない」。とどのつまりは「内面的に退嬰回想の享樂
と形式主義の生活から生れ出た産物であることは否むことは能きない」。

かくして「清朝宮殿に關する地域には私を喜ばせるに足る一ツの藝術も崇
美もない」と「一刀両断」である。ダメのものはダメ、である。

さて夜は「露店の居列ぶ前門大街」の京劇小屋に繰り込んだ。
 
劇場内が秩序整然として善美榮華が盡されてゐては、最早其處に支那劇の
世界は半減されて了ふ」。「兎も角支那劇は電光燦然の劇場であつてはな
らない」。そのうえに客席は「無秩序同樣に滿員であらねばならない」し
「蒸暑く、薄暗く、然も汗臭い」必要がある。そうでなければ「火繩の藝
當も引立たない」し「汗だくだくの半裸體の輕業も變なもの」になってし
まう。

さらには白樂天を先祖に有するこの國の名優が天心に響けと叫び上げるあ
の金切聲と、それを讃美すると言ふよりも應援する素敵!素敵!の聲と
が、自他一致の境に於て轟然沸騰する喧囂の場面を現さない」。

ここで竹内が「ホウ」とルビを振る「素敵!」の2文字だが、じつは「叫
好」と呼ぶ大向こうから舞台の役者に浴びせられる「好(ハオ)!」――歌
舞伎で言うなら「成田屋!」「中村屋!」「成駒屋!」「たっぷり!」の
類である。

このように竹内の指摘を追ってみると、芝居小屋観察の鋭さに驚かざるを
得ない。これまでも数多くの日本人が京劇についてウンチクを傾けている
が、芝居小屋内の雰囲気――京劇鑑賞法――をこれほどまでに見事に言い当て
たのは芥川の竹内の2人くらいだ。

芥川が中国を訪れたのは大正10(1921)年の春だから、時期的には竹内に
重なることになる。上海でも北京でも、芥川は当時の中国でも第一級の
「戯遊(しばいくるい)」との評価の高かった村田烏江や辻聴花などに京
劇小屋に案内される。

「支那の芝居の特色は、まず鳴物の騒々しさが想像以上な所にある。殊に
武劇――立ち回りの多い芝居になると、何しろ何人かの大の男が、真剣勝負
でもしているように舞台の一角を睨んだなり、必死に銅鑼を叩き立てるの
だから、到底天声人語じゃない。実際私も慣れない内は、両手で耳を押さ
えない限り、とても坐ってはいられなかった。

が、わが村田烏江君などになると、この鳴物が穏やかな時は物足りない気
持ちがするそうである。のみならず芝居の外にいても、この鳴物の音さえ
聞けば、何の芝居をやっているか、大抵見当がつくそうである」と綴った
後、「『あの騒々しい所がよかもんなあ。』――私は君がそう云う度に、一
体君は正気かどうか、それさえ怪しいような心もちがした」と。
《QED》 

◆奈良木津川だより 壬申の乱(3)

               白井繁夫


壬申の乱の戦はこれまで河内.飛鳥方面の戦況を先行し、近江路方面は後述に分けました。

672年7月3日大海人軍の大伴吹負(フケイ)将軍は、「木津川」を越え攻め寄せて来る大友軍に対する布陣を、乃楽山(奈良山)に完了し、麾下の荒田尾赤間呂の奇策を倭古京(飛鳥の古い都)に採りました。大野果安(ハタヤス)将軍が率いる近江朝軍に備える作戦でした。

その翌日、果安軍の大軍が来襲し、簡単に布陣を突破され、怒涛の勢いで天香具山(天香久山:奈良県橿原市)の八口まで攻め込まれましたが、そこで吹負軍の奇策(大軍の存在を示す大量の楯等)を試みて戸惑わせました。そして目前までやすやすと占領で来た飛鳥京に、果安軍の全軍を一時後退させました。
「高市県主 許梅(コメ)の託宣(生霊神の言):果安長蛇を逸す。と」

大海人軍の吹負は命拾いしたのですが、逃げる途中に置始連兎(オキソメノムラジウサギ)の騎兵隊(先遣隊)と墨坂(宇陀市榛原)で合流して力を付け、金綱井(かなづなのい:橿原市今井町)に逆襲したのです。


一方、近江朝の壱岐韓国(カラクニ)将軍が率いる河内方面軍も河内衛我河で坂本財を破りますが、その時、国司来目塩籠の背反問題が発生して進軍できません。再度軍勢を立て直して飛鳥を目指しましたが、当麻の衢(ちまた)、葦池付近(奈良県葛城市当麻町)で、大伴吹負麾下の勇士来目(タケキヒトクメ)と置始騎兵隊の凄まじい突撃を受けたのです。

ところが、近江朝の大軍団の中の歩兵連隊の横腹を目指して、精鋭の騎馬隊が決死の覚悟で猛然と突撃した戦いで、さしもの韓国大軍も乱れ、兵は逃惑い、韓国軍の指揮命令系統が機能せず、総司令官(韓国)が、矢を受けて、必死で逃亡して行きました。

この7日の戦いで大海人軍は西方(大坂.河内方面)の脅威を無くしたのです。

当麻の戦いも4日の総攻撃日と同様、大友軍は河内方面軍と近江の倭古京方面軍の連携が機能していなかったと思われます。その間に大海人軍の大倭方面派遣軍の本隊(紀臣阿閉麻呂:キノオミアヘマロ:率いる数万の兵)が大伴吹負軍に参陣しました。

倭古京(飛鳥京)と乃楽(奈良)を結ぶ3本の南北道は東から上ツ道、中ツ道、下ツ道と称され東の上、中ツ道は木津へ奈良街道となって繋がり「木津川」の右岸を通り菟道(宇治)へ、西の下ツ道は木津の歌姫街道へと、「木津川左岸」を通って山陰道などに繋がります。

近江朝の将軍大野果安率いる倭古京方面軍は、大和の北(木津)を経て乃楽から上記3本(上.中.下ツ道)の道に部隊を分けて飛鳥を目指して攻めたのです。
これに対して、紀阿閉麻呂率いる大海人軍の本隊は、7月7日から8日にかけて続々と集まりだしたのです。同本隊の大伴吹負は、この大軍を3道に合わせて上中下陣に分けました。つまり、麾下の三輪高市麻呂は彼の地盤である上ツ道、吹負は中ツ道(自身の百済の家:橿原市百済)、援軍の精鋭部隊(主力部隊)は上ツ道に配置したのです。

ところが、戦闘は上ツ道と中ツ道ほぼ同時に起き、中ツ道の近江の将軍(犬養五十君イキミ)の別動隊(廬井鯨イホイノクジラが率いる精鋭部隊)が少数で守る吹負の陣営を襲い、またまた吹負は苦戦を強いられて仕舞い、必死に防戦しました。

上ツ道沿いの箸陵(はしはか:桜井市)での戦闘は三輪高市麻呂(大倭の豪族)と大海人軍本隊の精鋭部隊(置始兎)が共同で近江朝軍を迎撃、撃退し、更に追跡して、中ツ道の近江軍本隊を攻撃し、廬井鯨の背後を衝いたのです。

これで大友軍の大和の戦闘は、完全に敗北となったのです。

大海人軍の将軍吹負は何度も近江軍と戦い負けても、再度挑み続ける闘志でした。一方、近江軍の兵士の方は、庚午年籍に基づく徴兵であり、将軍も大海人皇子に内応する者も出てきていたため、大事なところで勝機を逃していたのです。

この結果が、飛鳥路方面の戦闘も、大海人軍の勝利に結び付いたことになります。

そこで、大海人軍の将軍大伴吹負は即刻難波へ赴き、西国の国宰から正倉.兵倉の鑰(かぎ)を献上させました。また大海人軍の大倭救援軍本隊は北の乃楽山から木津を経て山前(やまさき:桂川、宇治川、木津川との合流地南:八幡市男山近辺)へ進軍して行きました。これが歴史上の山場と見るべきでしょう。

ここで、大和.飛鳥路方面から近江路方面の戦闘へ話題を戻します。

672年6月に近江朝は、東国へ徴兵督促のため派遣した国宰(くにのみこともち)書薬(フミノクスリ)などが、26日に大海人軍に「不破道(関ヶ原)」で囚われの身になった。との報告に接し即刻臨戦態勢を取り、27日に大津宮より近江路方面軍を発進させました。

近江朝軍の陣営は王族(山部王)、大夫氏族(高級官僚:蘇我果安ハタヤス、巨勢比等コセノヒト)、などの将軍(指揮官)と中小中央豪族、近江地方の豪族、羽田矢国(ヤクニ)将軍を含めて、数万の兵(近江朝正規軍+近江の兵など)からなる大軍団でした。

大友皇子は不破道の大海人軍を、この際一気に粉砕できると、信じて出発させたと思われます。

(話題が前後しますが、この時点で、近江朝には飛鳥の状況も、大海人皇子が野上行宮に入った情報も、更に、尾張の国司小子部鉏鈎:チイサコベノサヒチ:が2万の兵を率い大海人軍に帰服した27日の重大な情報なども、近江朝には全く届いていなかったのです。決定的な手抜かりでした。)

この結果、大友皇子には、6月29日になって、ようやく大伴吹負が倭古京で蜂起し、飛鳥の大友軍営を占領した戦況が伝わったのです。これを機に大友皇子と大海人皇子の両陣営が本格的戦闘態勢を採ることになるのです。

7月2日に大海人皇子は「和蹔:わざみ」(不破郡関ケ原町)の全軍に進撃命令を出しました。紀阿閉麻呂率いる大倭救援軍は前回記述した如く置始兎の騎兵隊を先遣し、飛鳥まで伸びる戦線の腹部防護のため多品治を「莿萩野:たらの」(伊賀市)に、田中足麻呂を「倉歴道:くらふのみち」(甲賀市)に配備しました。

大海人軍の近江路方面進攻軍は総司令官村国男依(オヨリ)将軍、書根麻呂(フミネノマロ)将軍.和珥部君手(ワニベノキミテ).胆香瓦安部(イカゴノアヘ)ら地方豪族で整え、この方面軍も数万の兵士に赤布や旗を備えた赤色軍にしています。

近江路軍の最大特徴は総司令官を除き、指揮を執る各将軍は大友皇子を始めとして近江朝廷の高官とは面識ないのが地方の各豪族です。ただこの地方の土地勘や地縁.血縁を持っているだけです。ですから、戦闘に突入した時、各指揮官が個々に部隊を指揮、命令しました。謂わば総司令官の指揮ではなかったのです。

余談ながら、後世の江戸幕府軍が「錦の御旗」に恐れをなしたのも、大海人皇子と同じ様な巧みな戦略.指揮.監督をしたと思われます。

さて、大海人軍の飛鳥救援軍は即刻先遣部隊を急派し、同時に鈴鹿道.伊賀路の防衛を固めて出発しました。そして近江路進攻軍は大和.飛鳥方面のその後の戦闘情勢と大津京への進軍途上で戦闘に際し非常に重要である各地の豪族:息長氏(オキナガシ:米原市)を始めとし、坂田氏、秦氏、羽田氏などの状況を把握して行ったのです。

これに対して、近江朝廷軍は東国の徴兵と西国(中国.九州)の徴兵が時間的に間に合わないため、朝廷の常備軍と畿内で徴集した兵をもって、飛鳥と不破に兵力を分散さす状況となりました。飛鳥京と大海人本営の攻撃と両方面とも、近江朝は重要と判断したのでしょう。

しかし、近江朝廷の大友皇子は当初は大海人皇子に必勝すると信じて、思い戦闘に入りましたが、「白村江の戦」が尾を引いて軍備が遅れ:武器や兵力不足の悪状況も伴ったのです。

ですから不破への進撃途上に通過する地域の豪族兵を味方に(羽田氏など)加えながら、息長氏(オキナガ)などの近江の豪族をどれだけ味方に出来るかが勝敗を大きく左右すると思うようになっていたでしょう。

一方、大海人皇子は前述の如く、大和飛鳥路戦へは戦術に長ける中央の豪族を指揮官にして近江朝に不満を持つ豪族(国宰や古い渡来人)、東国へ脱出途上大海人軍に加わった兵(美濃.尾張の2万、大倭や伊賀の軍勢)を得て、半年間、吉野で推考した作戦以上の好精華で状況は進展していました。「戦には天が味方してくれている」と思ったに違いありません。

近江路における両軍正規軍の勝敗を決する戦闘と、その顛末は、次回につづけます。

参考資料: 壬申の乱   中央公論社    遠山美都男著
      戦争の日本史2 壬申の乱  吉川弘文館  倉本一宏著