2019年05月29日

◆皇室を政治利用してはならないと自戒する

櫻井よしこ


「昭和天皇の御心を正しく受けとめるとともに皇室を政治利用してはなら
ないと自戒する」

今年元旦、「朝日新聞」は1面トップで「昭和天皇直筆の原稿見つかる」
とスクープした。昭和60年頃から病に臥せられる63年秋頃までの御製、
252首が確認されたとの報道だった。

内、未発表の御製は211首あった。しかも昭和天皇の直筆で残されてお
り、同月7日には詳細が続報された。

ところが約4カ月後、雑誌「Hanada」6月号が「直筆御製発見 昭和
天皇の大御心」と題して「世界日報」編集局長、藤橋進氏の論文を掲載し
た。世界日報は朝日新聞が報ずる「かなり前に」昭和天皇の直筆原稿を入
手し、調査を進めていたという。両方を較べ読めば、昭和天皇の息遣いを
より近くより深く感じさせるのは藤橋論文である。

藤橋氏は、昭和天皇が乃木希典学習院院長(元陸軍大将)から教わった質
実剛健の精神を生涯守り通したこと、そのひとつの事例が、発見された御
製の資料にも見られると指摘する。

資料の中に縦8.8〜15センチメートル、横7.5〜10.5センチメートルのメモ
用紙8枚がある。小さいものは手のひら程の大きさだ。昭和天皇はその裏
にもお歌を書きつけていらした。メモ用紙には紙を貼り合わせたものもあ
るという。1枚の紙も無駄にしないお姿は乃木大将の教えの質実剛健その
ものである。

Hanadaは鉛筆書きの直筆原稿の写真を何枚も掲載したが、その字体
から昭和天皇のお人柄が伝わってくるようだ。昭和天皇の字体と話し言葉
には共通項があるように感ずる。質朴で飾るところがない。無駄もなく率
直だ。まっすぐ核心に迫る趣がある。

多弁でも能弁でもなかった昭和天皇にとって和歌は心の真実を表現する重
要な手段だったと思われる。ご生涯で約1万首を詠んだとされるが、今回
発見された御製の中には香淳皇后についてのお歌が4首ある。いずれも愛
情と思いやりに満ちている。

「露台にてきさきと共に彗星をみざりしこよひ(は)さびしかりけり」

体調をくずしていらした香淳皇后と一緒に彗星を見ることができない寂し
さを率直に表現していらっしゃる。4首すべてに「さびし」「かなし」と
いう言葉が入っている。香淳皇后への深い愛情の、少年のように純粋で率
直な発露だと受けとめた。

昭和天皇は政治家についてただひとり、岸信介元首相について詠まれ、3
首残された。

「國の為務たる君(は)秋またで 世をさりにけりいふべ(ぐれ)さびしく」

「その上にきみのいひたることばこそおもひふかけれのこしてきえしは」

「その上に深き思ひをこめていひしことばのこしてきみきえにけり(さり
ゆきぬ)」

この部分の欄外には「言葉は聲なき聲のことなり」と書かれている。昭和
35年の安保改定でデモ隊が国会を取り囲んだとき、岸首相は「デモの参加
者は限られている。(中略)私は『声なき声』に耳を傾けなければならな
いと思う」と語ったことを当然思い出す。「岸首相の孤独な戦いへの深い
同情を詠まれた」と、藤橋氏は解説したが、同感である。

作家の半藤一利氏は昭和天皇が岸首相を評価していたのかと「複雑な気持
ち」「日米の集団的自衛権を定めた安保改定に賛成の気持ちを持っておら
れたのだろうか」「心から驚いている」と朝日新聞にコメントした。

昭和天皇はひたすら国民の幸せと国家の安寧を願われ、立憲君主国の君主
として、国の安全を大きな高い視点から考えられたにすぎない。また、
「国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり」とも詠
まれたように、日本の国柄の大事さも考えておられた。昭和天皇のこの御
心を正しく受けとめたい。同時に、殊更にそのことを主張して皇室を政治
利用してはならないと自戒するものだ。

『週刊ダイヤモンド』 2019年5月25日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1280

◆奈良木津川だより 壬申の乱(4)

                            白井繁夫


「壬申の乱の戦」は672年7月に入ると、近江朝廷の大友皇子軍と、不破の大海人軍の両軍が正面からの全面戦争に突入、近江路において雌雄を決する死闘が始まりました。

近江朝の近江路方面軍は、不破(関ヶ原)への進軍途上、近江の豪族、羽田氏や秦氏を味方の軍に取り込みましたが、関ヶ原と彦根市の中間地域を支配している息長氏(オキナガ)の旗幟が不明のため、息長氏の支配地の手前の犬上川畔まで進み陣を構えました。

7月2日に大友皇子の近江路方面軍の山部王将軍は、心ならずも総司令官的立場に担ぎ挙げられましが、大海人皇子に帰参を願っていることが発覚して、将蘇我臣果安.将巨勢臣比等に殺害されました。

この事件は近江朝軍にとって、大きな動揺と内部混乱の起因となりました。

近江朝軍の指揮官の人材不足?による軍の乱れ、(蘇我果安将軍は大津へ帰り、自責の念に駆られてか?自殺する。近江の豪族羽田矢国と子の大人(フシ)一族が息長氏の支配地を通り大海人軍に帰参)の結果、中立的立場だった息長氏を始めとする近江の豪族は、大海人側に加担するようになるのです。

(息長氏が中立を保ち旗幟を鮮明にしなかったので、大海人皇子は彼の本拠地近くの不破に野上行宮を置いていたのです。)

7月5日大津を出発した田辺小隅(オスミ)の少数精鋭の別動隊が、倉歴道から鈴鹿道を抜けて裏面から不破の挟撃を目指し、大海人軍の田中足麻呂が守る倉歴(くらふ:柘植町)を夜襲し守備隊を破りました。

翌日の深夜、莿萩野(たらの:旧上野市)の多品治将軍が守る陣に夜襲をかけますが、今度は田辺小隅軍が敗れて敗走しました。(この勇猛な作戦は非常に良い策でしたが、少数兵では大海人軍に勝てず敗れ去ったのです。)

大海人軍には琵琶湖の東岸の羽田氏、息長氏、北岸の坂田氏などの豪族が加わり、大海人皇子は羽田矢国を、北近江.越方面別動軍の将軍に起用して、北陸方面の要衝(愛発:あらち:高島市.旧マキノ町)の守りに就かせました。(かつて、大友軍の精鋭が夜襲をかけた「玉倉部邑:たまくらべむら」を防げたのも、息長氏の地盤近くで起きたから大海人軍の出雲狛が援助を受けて?防戦できた。とも云われています。)

大海人軍の村国男依が率いる近江路進攻軍(本隊)は7日に出撃し、大友軍の主力部隊と
息長の横河(米原市醒井付近)で主力軍同士が激突し、朝廷軍が敗れ去り、将軍境部連薬は捕えられ斬殺されました。

大海人軍は追撃して、9日に鳥籠山(とこやま:彦根市大堀町)の将軍秦友足率いる大友軍も破ります。(鳥籠山は息長氏と羽田氏の本拠地の中間、両戦闘で大海人軍は琵琶湖の東岸「東山道」を完全に制圧できました。)

大海人軍は更に南下して進軍し、13日には近江最大の川「安河畔」(守山市:野洲川畔)
に達して、2度目の主力戦を大友軍の将軍社戸臣大口(コソベノオミオオグチ)と戦い、撃破して彼を捕虜にしました。

17日には栗太(くるもと:栗東市)の大友軍の陣営も破り、瀬田川の東岸にある官衙まで、あと少しの処まで迫りました。

ここからは近江朝廷本営の主力軍との真剣勝負になるため、進軍を停止して、大海人軍は斥候を出し、大友皇子の正規軍の陣容.伏兵の有無などの状況と朝廷軍の情報収集を開始し主力戦に備へました。

その上で、672年7月22日は、村国男依将軍が率いる大海人軍の各諸将が、大友軍の総力を挙げた起死回生の決戦に挑むのです。

◆大海人軍の斥候の報告:
『大友軍は瀬田橋の西側に整然と布陣しているが伏兵は見受けられない。しかし、驚くことがある。それは大友皇子御本人が御出座されており、左大臣蘇我臣赤兄(ソガオミアカエ)、右大臣中臣連金(ナカトミノムラジカネ)の左右大臣も布陣する、朝廷の最高位の人々が前線に出るなど』と、想定外の出来事でした。

(後世でも家康との最後の決戦となる大坂夏の陣で、外堀も内堀も埋められ、まる裸となった大阪城での戦いを鼓舞するため、真田幸村ら諸将が豊臣秀頼の御出陣を依頼したが叶わなかったことは、ご承知ですね。)

朝廷軍は大津宮防衛のため、瀬田橋を大海人軍には絶対に渡らせない強い決意でした。

むしろ大海人軍の各諸将は前回記述した如く、近江朝の高官とも面識がなく、まして大友皇子の御出座も意に介せず、特大の獲物を狙う獣狼の様な地方の豪族達でした。

大海人軍の各部隊の兵は競って橋を突破しようとしますが、橋を目がけて雨霰の如く矢が降り注ぐ集中攻撃を受け、前進を阻まれました。それをも突破して半ばまで進むと、次は仕掛けが有り、兵は川に落ち流され溺れ死させられました。

(大友軍の将「智尊:チソン:渡来人の知恵者」が橋の中程に長板を置き、綱を引くと板が外れる仕掛けをしていたのです。)

この時大海人軍の兵士に動揺が起きました。前進する士気が薄れそうになったとき、大津皇子の舎人:大分君稚臣(オオキダノキミワカミ)は矢が射込まれても耐えられるように挂甲を重ね着して、踊り出、雄叫びをあげながら抜刀して橋上を疾駆すると、無数の矢が突き刺さりました。が、彼は怯まず橋を駆け抜けました。

西側に整列して矢を射ていた大友軍の兵は、眼前に獣の様な形相の稚臣を見て恐怖に駆られ逃げる余裕もなく斬られて逝きました。男依はこの機を捉へ、全軍に総攻撃を命じ、橋の西側へ攻め込みました。

智尊は必死で奮戦しますが、捕らえられ、男依に知略と武勇は称えながらも、定めにより斬殺されました。(大友皇子の本陣が静かに退くのが、遠望された、と云われています。)

同日、琵琶湖北岸の大海人軍の別動隊(羽田矢国.大人父子と出雲狛)は、西岸道を守る三尾城(みおき:滋賀県高島町)を攻撃して、落城させました。また、大和飛鳥から上ツ道、中ツ道、下ツ道の三道を北上した紀臣の大海人軍は、淀川の山前(京都府大山崎町)に到着して布陣を完了しました。

翌日(23日)瀬田の戦で大勝利した村国男依の大海人軍は、橋を渡り粟津岡(大津市膳所)に全軍集結しました。

一方、敗走した大友軍は左右大臣等の姿はなく、大友皇子はわずかの供を従えるだけとなり、全ての退路は大海人軍に断たれてしまったのです。

大友皇子は最後まで付き添った舎人(物部連麻呂)を大海人軍に遣わしました。村国男依将軍は大友皇子の名誉ある死のため、全軍に攻撃を一時中止させました。

物部麻呂が大海人軍の前に再び現れ、皇子の最後の様子を涙ながら報告し、皇子の首を差し出しましたが、流石に誰も正視する者がいなかったと云われています。

壬申の乱後、大海人皇子の裁きです。重罪は8名で、特に大友皇子の帷幕(いばく)として作戦を立案し、実権を握っていた中臣金は極刑、大友皇子擁立の盟約を結んだ者も処罰して政権から排除しました。その他の人々は寛刑で済ませました。

大海人皇子は、天武2年(673)正月、飛鳥淨御原宮で即位し、天武天皇となり、大臣を置かず皇族や皇親を中心とする皇親政治を採り、律令体制の国家を目指しました。

天武天皇は現体制の有能な官僚を温存して活用し、新国家建設を計り、新しい藤原京の建設を立案するのです。

大規模な造営計画の藤原京の京域は約25平方キロ(平城京:約24平方キロ)あり唐風の都城:礎石建築で瓦を葺いた建物、史上初の条坊制を布いた本格的な都城:を目指すのです。(造営プランは天武13年3月に決定されました。)

この皇位継承をめぐる大戦は、天武天皇妃の鸕野皇女(後の持統天皇)にとっては、我が子草壁皇子へつなぐ天武系統体制を確立する戦いであり、大友皇子擁立の盟約者を完全に排除出来ればそれでよかったのです。

大和.飛鳥の玄関港:泉津(木津の港)へは藤原京造営用の大量の檜材が、近江の田上山(たなかみやま:大津市大神山の峰々)から瀬田川→宇治川→「木津川」へと筏に組んで運ばれ、石材や瓦などの重量物も瀬戸内→淀川→「木津川」と水運を利用して運ばれました。

「木津から大和.飛鳥へ上ツ道、中ツ道、下ツ道の3道を利用するルート」があり、泉津は藤原京から平城京へと繁栄が続いて行くのです。(完  再掲)

参考資料:壬申の乱    中央公論社      遠山美都男著
     戦争の日本史2  壬申の乱  吉川弘文館  倉本一宏著
     木津町史    本文篇      木津町 

2019年05月28日

◆米国、こんどは中国企業を

宮崎 正弘


令和元年(2019)5月27日(月曜日)通巻第6089号 

米国、こんどは中国企業をNY株式市場の上場リストから外し始めた
   中国SMIC社、ニューヨーク株式市場から退場へ

NY株式市場にADR市場があり、SONYなどが預託証券というかた
ちで株式を上場している。中国企業も、世界のウォール街で上場を果たす
ことが夢だった。オバマ政権下における「アリババ」の上場時は、史上空
前の人気だった。

なにしろ賭け事に熱中する性格が強い中国人は、いったん仕込んだゲーム
のルールを、たちまち自家薬籠中のものとし、熾烈な株式ゲーム戦争でも
勝ち組に残る。

ファーウェイ排斥に急カーブを切ったトランプ政権は、次々と手を打って
きた。

第一に安全保障に脅威となる技術をもつ米国企業への、外国資本の買収を
許可しない。この案件はクアルコム買収を仕掛けていたブロードコムの野
心を退けた。ブロードコムは米国企業を装ったシンガポール国籍企業だ
が、背後に蠢めいていたのは中国だったからである。

第二に技術スパイの摘発で、ハイテク企業のラボなどから不正にデータを
盗み、中国に渡していた中国人(多くが軍人だった)、それに協力したア
メリカ人らをつぎつぎと逮捕し、起訴してきた。この流れのなかにファー
ウェイの副社長、孟晩舟の拘束がある。

第三に「国防権限法」を法の淵源として政治的活用を強化した。インテル
の半導体をZTEに供給することを禁じたことを皮切りに、半導体製造装
置、化学材料、化学液など半導体基板の製造に欠かせない製品、物資の輸
出禁止、つまり対中国ココムの発動である。

第四にトランプ政権は、ファーウェイ排斥を同盟国にも呼びかけた。
日本も「ファイブ・アイズ」(5EYES)のメンバーではないが、英、
豪、カナダ、NZにつづきフォーウェイ地上局などの政府調達を事実上取
りやめた。
 
第五に留学生へのヴィザ制限である。すでに2018年に4000人の高官や学
者、奨学金による研修生などが帰国した。米国の大学へ留学する中国人
のヴィザも五年間有効だったものが1年ごとの更新となり、中国人の
米国留学は突然さめた。替わりに狙われているのがNZ、豪、そして英国
の大学である。

第六にNY株式企業から中国企業を締め出す動きが出た。

つまり資金調達も米国内ではさせないという決意が、ここまで飛び火した
ということであり、すでに債券市場での中国企業の社債に関しては、2%
以上のチャイナプレミアムが上乗せされている。

焦点のSMIC(半導体製造國際集団)は6月13日をもってNY株式市
場から撤退を表明し、同社は香港でも上場しているため、株価は5%の急
落をみせた。

日本にやってきたトランプは笑顔で大相撲を観戦し、米国大統領杯を優勝
力士に渡すなど日米友好のパフォーマンスに熱心だった。

驚いたのは日本のメディアの対応ぶり。あれだけぼろくそにトランプを攻
撃非難してきた同じメディアなのかと訝るほどに、大スター並みの扱いを
繰り返し、トランプの行く先々には日本人の見物客、スマホによるカメラ
の列があった。安倍首相は「米国のポチ」に見えた。
         
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書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評BOOKREVIEW 
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『諸君!』がモデルとしたのは老舗月刊誌『自由』だった
   保守論壇の変遷を一編集者の眼からみる、詳細なマスコミ現代史

  ♪
仙頭寿顕『「諸君!」のための弁明』(草思社)
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元『諸君!』編集長の克明な回想録。というより論壇の人事録とも言え
る膨大なメモ、この業界の闊達でリベラルな特質が背景にあり、頑固者や
詭弁や偽善者を嫌い、また時代の変遷と高度成長とともに、保守論壇の目
まぐるしい人の出入り、その変遷ぶりもパノラマのような絵巻となってい
て、読み応え十分である。

著者の仙頭氏が編集長時代、『諸君!』は過去最高の部数を誇った。
本書を通読しながら、個人的に様々な想い出が蘇った。あれは昭和43
年だったと記憶する。

評者(宮崎)がまだ『日本学生新聞』の編集をしていた頃、当時「財界の
政治部長」と言われた藤井丙午氏(当時は富士製鉄副社長だったと記憶す
る。その後、参議院議員に転出したが)に会いに行ったことがある。

そのとき余談で「近く保守系の学者、文化人、作家らを総結集した『日本
文化会議』が発足する。福田恒存、田中美知太郎、竹山道雄、三島由紀
夫、林房雄、小林秀雄らが参加する手筈で、そこから機関誌的な雑誌も生
まれる」と藤井が言ったのを、評者は一種衝撃をもって聞いたのだ。

なぜなら、それまで日本の論壇は左翼の跳梁跋扈激しく、保守のメディア
と言えば、『自由』しかなかったからだ。

『自由』の執筆陣には上記のほかにも猪木政道、西尾幹二、林健太郎、平
林たい子、村松剛、加瀬英明、中村菊男、武藤光郎の各氏ら匆匆たるメン
バーが執筆しており、保守とリベラルの呉越同舟とはいえ、その論文の引
用頻度は『中央公論』と並んでいた。

反共だがリベラル。『自由』は、もっとも権威ある媒体とされた。

『自由』の掲載論文を読んで、評者はたとえば神谷不二、高坂正堯、矢野
暢といったデビューしたばかりの論客に会いに行ったし、会田雄次、武藤
光郎、竹山道雄氏らには長々とインタビューをしに行ったこともあった。

翌年、所謂「藤井構想」から大きく逸脱して、日本文化会議は結成された
けれども、すぐに三島由紀夫、林房雄らが脱会し、紆余曲折の末に、文春
がオピニオン誌を創刊するというかたちに落ち着いた。『諸君』が華々し
く創刊された。初代編集長は田中健五氏だった。田中氏はのちに田中角栄
研究などで文春の名編集長と言われ、社長、会長になった。

当時の文春社長だった池島新平氏が「こんど創刊する『諸君』は『自由』
のライバル誌になれ」と言われたと田中健五氏の証言がでてくる。

以後、記憶しているだけでも安藤満、堤堯、竹内修司、齋藤禎、笹本弘
一、立林昭彦、白川浩司ら各氏にバトンがタッチされて行くのだが、昭和
45年11月に三島事件が起きるや、当時の田中編集長から評者は電話をいた
だき、「森田必勝との四年間」を徹夜して書き上げたことを昨日のように
思い出す。

さらに同時期に『正論』『ボイス』『新潮45』、『サンサーラ』などが
戦列に加わって、保守系雑誌が花盛りとなった。

反面、左翼のたまり場だった『世界』の売れ行きは激減した。『現代の
眼』とかの左翼雑誌も『朝日ジャーナル』も消えた。しかし、なんといっ
ても『諸君!』の創刊で煽りを食らうかたちとなったのが、老舗『自由』
だった。

その後、評者は4半世紀にわたって『自由』の巻頭エッセイを連載するこ
とになった。編集担当だった猪阪豊一氏が急逝し、往時マスコミ関係者を
あつめた自由社主催の忘年会も開かれなくなり、『諸君』の休刊と
おなじ2009年に、『自由』も幕を閉じた。

『自由』の灯を半世紀近く守った、石原萌記・主幹は、当時の雑誌の保守
主義のイメージとは大いに異なって、リベラルの思想を信念としていて、
天皇の戦争責任を言う人でもあったが、カラオケに出没して歌うのは鶴田
浩二ばかりだった(そういえば田中健五と石原萌記両氏の仲はたいそう良
かった)。

この石原人脈には右左のイデオロギーとは関係なく、労組幹部、社会党代
議士から女優、歌手、そして花田凱紀氏や元木昌彦氏(『週刊現代』編集
長)らが呉越同舟していた。

松下政経塾出身の仙頭氏は、アルバイトとして文春で働いていて、入社試
験を受けたのだ。仙頭寿顕氏が文春入社にあたっての「身元保証人」が、
木屋隆安氏だったと本書で知って、またまたびっくりである。

木屋さんは時事通信社会部長を歴任したシベリア抑留組だが、なぜか評者
とも馬が合い、命令調で「あそこにかけ、ここから本を出せ」などと謂わ
れもしたが、飲むときは常に午後3時から新宿だった。

なぜなら日が高いうちに帰路につくからで、その理由は某国のテロに狙わ
れていたからだ。実際に木屋さんは、駅から突き落とされて九死に一生を
得たことがあり、晩年も駅から自宅までは公安刑事が同道した。
トここまで書いてきたら紙幅がつきた。

ともかく、本書に登場する人たちは約250人くらいだろうが、そのうち150
人ほどを評者も知っており、この業界は広いようで狭いことを改めて実感
したのだった。
        

◆「夜と朝の間に」

渡部 亮次郎


このタイトルの歌を唄ったのは女装で有名になったピーターである。作詞
のなかにし礼は男なのか女なのか判然としないピーターを夜と朝の境目の
判然としない時間に譬えて作詞した。

「夜と朝の間に」

唄 ピーター
作詞 なかにし礼
作曲 村井邦彦

<夜と朝の間に ひとりの私 天使の歌を聴いている死人のように

夜と朝の間に ひとりの私 指を折っては繰り返す 数はつきない

遠くこだまをひいている 鎖につながれた むく犬よ
お前も静かに眠れ お前も静かに眠れ

夜と朝の間に ひとりの私 散るのを忘れた一枚の花びらみたい

夜と朝の間に ひとりの私 星が流れて消えても 祈りはしない

夜の寒さに耐えかねて 夜明けを待ちわびる小鳥たち
お前も静かに眠れ お前も静かに眠れ>

ピーター 本名:池畑 慎之介 いけはた しんのすけ
1952年8月8日(62歳) 大阪府堺市西区 生まれ。
血液型 A型 俳優、タレント、歌手

慎之介は、上方舞吉村流四世家元で、人間国宝にもなった吉村雄輝 の長
男として生まれた。3歳で初舞台を踏み、お家芸の跡継ぎとして父から厳
しく仕込まれた。5歳の時に両親が離婚。母・池畑清子と暮らすことを選
択、鹿児島市で少年時代を過ごした。慎之介が母方の池畑姓を名乗るのは
これ以降である。

池畑の性的指向は長らく公表されていなかったが、のちになってバイセク
シュアルであることを明言し、男女共に恋愛経験があることを公言した。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

そう言えば私はラヂオとテレビの記者として育ったので、「きょう」とか
「きのう」「おととい」「今月」「先月」「今年」「去年」というテンスの原
稿を書き続けた。だが、これは新聞や雑誌では通用しない言葉であった。

たとえば、きょうに「きょう」とラジオやテレビで放送するのは当然だ
が、新聞で「今日」と書いても、配達されるのは「あす」だから、きょう
は昨日になってしまっている。だから日付を書くしかない。

TVの記者の古手になったら、盛んに雑誌から原稿を依頼されるようになっ
て、このことを厳しく実感した。原稿は例えば、2月に「今月」と書いても
発売される頃は「先月」になってしまっているから原稿はもともと「今
月」ではなく「2月」と書かなくてはならない。

このことはインターネットの世界でも同様である。今日はすぐ明日になっ
てしまい、4,5日経ったらいつの今日かわからなくなってしまうではな
いか。

投稿してくる人はTVを見ながら「今夜の番組で」と打ち込んでくるが、明
後日になってメルマガやブログに掲載しようとしても、「今夜」とはいつ
の今夜か分からなくて困る。今夜とか昨夜ではなくて初めから日付で語っ
ていただかないと、主宰者泣かせの原稿になっている。

これきりのことを書くのに、ピーターのことから書きはじめた。

「夜と朝の間に」と言えばピーターだから、こうなった。私はNHKで政治
記者を約20年やったが、正式なNHK教育を受けていない。

非正式職員に採用されて、秋田県大舘市駐在の記者(単身)になり、放送用
(耳から聞かせる)文章を独りで考えて送った。1年後、試験に合格して正
式記者に採用されたが、もはや教えるところは無いのか研修所(東京・
砧)へは入れられず仙台の現場に突っ込まれた。ネタや文章がNHK的でな
いのは、その所為だろう。2010・2・27


◆昭和天皇の御心を正しく

櫻井よしこ


「昭和天皇の御心を正しく受けとめるとともに皇室を政治利用しては
ならないと自戒する」

今年元旦、「朝日新聞」は1面トップで「昭和天皇直筆の原稿見つかる」
とスクープした。昭和60年頃から病に臥せられる63年秋頃までの御製、
252首が確認されたとの報道だった。

内、未発表の御製は211首あった。しかも昭和天皇の直筆で残されてお
り、同月7日には詳細が続報された。

ところが約4カ月後、雑誌「Hanada」6月号が「直筆御製発見 昭和
天皇の大御心」と題して「世界日報」編集局長、藤橋進氏の論文を掲載し
た。世界日報は朝日新聞が報ずる「かなり前に」昭和天皇の直筆原稿を入
手し、調査を進めていたという。両方を較べ読めば、昭和天皇の息遣いを
より近くより深く感じさせるのは藤橋論文である。

藤橋氏は、昭和天皇が乃木希典学習院院長(元陸軍大将)から教わった質
実剛健の精神を生涯守り通したこと、そのひとつの事例が、発見された御
製の資料にも見られると指摘する。

資料の中に縦8.8〜15センチメートル、横7.5〜10.5センチメートルのメモ
用紙8枚がある。小さいものは手のひら程の大きさだ。昭和天皇はその裏
にもお歌を書きつけていらした。メモ用紙には紙を貼り合わせたものもあ
るという。1枚の紙も無駄にしないお姿は乃木大将の教えの質実剛健その
ものである。

Hanadaは鉛筆書きの直筆原稿の写真を何枚も掲載したが、その字体
から昭和天皇のお人柄が伝わってくるようだ。昭和天皇の字体と話し言葉
には共通項があるように感ずる。質朴で飾るところがない。無駄もなく率
直だ。まっすぐ核心に迫る趣がある。

多弁でも能弁でもなかった昭和天皇にとって和歌は心の真実を表現する重
要な手段だったと思われる。ご生涯で約1万首を詠んだとされるが、今回
発見された御製の中には香淳皇后についてのお歌が4首ある。いずれも愛
情と思いやりに満ちている。

「露台にてきさきと共に彗星をみざりしこよひ(は)さびしかりけり」

体調をくずしていらした香淳皇后と一緒に彗星を見ることができない寂し
さを率直に表現していらっしゃる。4首すべてに「さびし」「かなし」と
いう言葉が入っている。香淳皇后への深い愛情の、少年のように純粋で率
直な発露だと受けとめた。

昭和天皇は政治家についてただひとり、岸信介元首相について詠まれ、3
首残された。

「國の為務たる君(は)秋またで 世をさりにけりいふべ(ぐれ)さびしく」

「その上にきみのいひたることばこそおもひふかけれのこしてきえしは」

「その上に深き思ひをこめていひしことばのこしてきみきえにけり(さり
ゆきぬ)」

この部分の欄外には「言葉は聲なき聲のことなり」と書かれている。昭和
35年の安保改定でデモ隊が国会を取り囲んだとき、岸首相は「デモの参加
者は限られている。(中略)私は『声なき声』に耳を傾けなければならな
いと思う」と語ったことを当然思い出す。「岸首相の孤独な戦いへの深い
同情を詠まれた」と、藤橋氏は解説したが、同感である。

作家の半藤一利氏は昭和天皇が岸首相を評価していたのかと「複雑な気持
ち」「日米の集団的自衛権を定めた安保改定に賛成の気持ちを持っておら
れたのだろうか」「心から驚いている」と朝日新聞にコメントした。

昭和天皇はひたすら国民の幸せと国家の安寧を願われ、立憲君主国の君主
として、国の安全を大きな高い視点から考えられたにすぎない。また、
「国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり」とも詠
まれたように、日本の国柄の大事さも考えておられた。昭和天皇のこの御
心を正しく受けとめたい。同時に、殊更にそのことを主張して皇室を政治
利用してはならないと自戒するものだ。

『週刊ダイヤモンド』 2019年5月25日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1280

◆奈良木津川だより 壬申の乱(3)

              白井繁夫


壬申の乱の戦はこれまで河内.飛鳥方面の戦況を先行し、近江路方面は後述に分けました。

672年7月3日大海人軍の大伴吹負(フケイ)将軍は、「木津川」を越え攻め寄せて来る大友軍に対する布陣を、乃楽山(奈良山)に完了し、麾下の荒田尾赤間呂の奇策を倭古京(飛鳥の古い都)に採りました。大野果安(ハタヤス)将軍が率いる近江朝軍に備える作戦でした。

その翌日、果安軍の大軍が来襲し、簡単に布陣を突破され、怒涛の勢いで天香具山(天香久山:奈良県橿原市)の八口まで攻め込まれましたが、そこで吹負軍の奇策(大軍の存在を示す大量の楯等)を試みて戸惑わせました。そして目前までやすやすと占領で来た飛鳥京に、果安軍の全軍を一時後退させました。
「高市県主 許梅(コメ)の託宣(生霊神の言):果安長蛇を逸す。と」

大海人軍の吹負は命拾いしたのですが、逃げる途中に置始連兎(オキソメノムラジウサギ)の騎兵隊(先遣隊)と墨坂(宇陀市榛原)で合流して力を付け、金綱井(かなづなのい:橿原市今井町)に逆襲したのです。


一方、近江朝の壱岐韓国(カラクニ)将軍が率いる河内方面軍も河内衛我河で坂本財を破りますが、その時、国司来目塩籠の背反問題が発生して進軍できません。再度軍勢を立て直して飛鳥を目指しましたが、当麻の衢(ちまた)、葦池付近(奈良県葛城市当麻町)で、大伴吹負麾下の勇士来目(タケキヒトクメ)と置始騎兵隊の凄まじい突撃を受けたのです。

ところが、近江朝の大軍団の中の歩兵連隊の横腹を目指して、精鋭の騎馬隊が決死の覚悟で猛然と突撃した戦いで、さしもの韓国大軍も乱れ、兵は逃惑い、韓国軍の指揮命令系統が機能せず、総司令官(韓国)が、矢を受けて、必死で逃亡して行きました。

この7日の戦いで大海人軍は西方(大坂.河内方面)の脅威を無くしたのです。

当麻の戦いも4日の総攻撃日と同様、大友軍は河内方面軍と近江の倭古京方面軍の連携が機能していなかったと思われます。その間に大海人軍の大倭方面派遣軍の本隊(紀臣阿閉麻呂:キノオミアヘマロ:率いる数万の兵)が大伴吹負軍に参陣しました。

倭古京(飛鳥京)と乃楽(奈良)を結ぶ3本の南北道は東から上ツ道、中ツ道、下ツ道と称され東の上、中ツ道は木津へ奈良街道となって繋がり「木津川」の右岸を通り菟道(宇治)へ、西の下ツ道は木津の歌姫街道へと、「木津川左岸」を通って山陰道などに繋がります。

近江朝の将軍大野果安率いる倭古京方面軍は、大和の北(木津)を経て乃楽から上記3本(上.中.下ツ道)の道に部隊を分けて飛鳥を目指して攻めたのです。
これに対して、紀阿閉麻呂率いる大海人軍の本隊は、7月7日から8日にかけて続々と集まりだしたのです。同本隊の大伴吹負は、この大軍を3道に合わせて上中下陣に分けました。つまり、麾下の三輪高市麻呂は彼の地盤である上ツ道、吹負は中ツ道(自身の百済の家:橿原市百済)、援軍の精鋭部隊(主力部隊)は上ツ道に配置したのです。

ところが、戦闘は上ツ道と中ツ道ほぼ同時に起き、中ツ道の近江の将軍(犬養五十君イキミ)の別動隊(廬井鯨イホイノクジラが率いる精鋭部隊)が少数で守る吹負の陣営を襲い、またまた吹負は苦戦を強いられて仕舞い、必死に防戦しました。

上ツ道沿いの箸陵(はしはか:桜井市)での戦闘は三輪高市麻呂(大倭の豪族)と大海人軍本隊の精鋭部隊(置始兎)が共同で近江朝軍を迎撃、撃退し、更に追跡して、中ツ道の近江軍本隊を攻撃し、廬井鯨の背後を衝いたのです。

これで大友軍の大和の戦闘は、完全に敗北となったのです。

大海人軍の将軍吹負は何度も近江軍と戦い負けても、再度挑み続ける闘志でした。一方、近江軍の兵士の方は、庚午年籍に基づく徴兵であり、将軍も大海人皇子に内応する者も出てきていたため、大事なところで勝機を逃していたのです。

この結果が、飛鳥路方面の戦闘も、大海人軍の勝利に結び付いたことになります。

そこで、大海人軍の将軍大伴吹負は即刻難波へ赴き、西国の国宰から正倉.兵倉の鑰(かぎ)を献上させました。また大海人軍の大倭救援軍本隊は北の乃楽山から木津を経て山前(やまさき:桂川、宇治川、木津川との合流地南:八幡市男山近辺)へ進軍して行きました。これが歴史上の山場と見るべきでしょう。

ここで、大和.飛鳥路方面から近江路方面の戦闘へ話題を戻します。

672年6月に近江朝は、東国へ徴兵督促のため派遣した国宰(くにのみこともち)書薬(フミノクスリ)などが、26日に大海人軍に「不破道(関ヶ原)」で囚われの身になった。との報告に接し即刻臨戦態勢を取り、27日に大津宮より近江路方面軍を発進させました。

近江朝軍の陣営は王族(山部王)、大夫氏族(高級官僚:蘇我果安ハタヤス、巨勢比等コセノヒト)、などの将軍(指揮官)と中小中央豪族、近江地方の豪族、羽田矢国(ヤクニ)将軍を含めて、数万の兵(近江朝正規軍+近江の兵など)からなる大軍団でした。

大友皇子は不破道の大海人軍を、この際一気に粉砕できると、信じて出発させたと思われます。

(話題が前後しますが、この時点で、近江朝には飛鳥の状況も、大海人皇子が野上行宮に入った情報も、更に、尾張の国司小子部鉏鈎:チイサコベノサヒチ:が2万の兵を率い大海人軍に帰服した27日の重大な情報なども、近江朝には全く届いていなかったのです。決定的な手抜かりでした。)

この結果、大友皇子には、6月29日になって、ようやく大伴吹負が倭古京で蜂起し、飛鳥の大友軍営を占領した戦況が伝わったのです。これを機に大友皇子と大海人皇子の両陣営が本格的戦闘態勢を採ることになるのです。

7月2日に大海人皇子は「和蹔:わざみ」(不破郡関ケ原町)の全軍に進撃命令を出しました。紀阿閉麻呂率いる大倭救援軍は前回記述した如く置始兎の騎兵隊を先遣し、飛鳥まで伸びる戦線の腹部防護のため多品治を「莿萩野:たらの」(伊賀市)に、田中足麻呂を「倉歴道:くらふのみち」(甲賀市)に配備しました。

大海人軍の近江路方面進攻軍は総司令官村国男依(オヨリ)将軍、書根麻呂(フミネノマロ)将軍.和珥部君手(ワニベノキミテ).胆香瓦安部(イカゴノアヘ)ら地方豪族で整え、この方面軍も数万の兵士に赤布や旗を備えた赤色軍にしています。

近江路軍の最大特徴は総司令官を除き、指揮を執る各将軍は大友皇子を始めとして近江朝廷の高官とは面識ないのが地方の各豪族です。ただこの地方の土地勘や地縁.血縁を持っているだけです。ですから、戦闘に突入した時、各指揮官が個々に部隊を指揮、命令しました。謂わば総司令官の指揮ではなかったのです。

余談ながら、後世の江戸幕府軍が「錦の御旗」に恐れをなしたのも、大海人皇子と同じ様な巧みな戦略.指揮.監督をしたと思われます。

さて、大海人軍の飛鳥救援軍は即刻先遣部隊を急派し、同時に鈴鹿道.伊賀路の防衛を固めて出発しました。そして近江路進攻軍は大和.飛鳥方面のその後の戦闘情勢と大津京への進軍途上で戦闘に際し非常に重要である各地の豪族:息長氏(オキナガシ:米原市)を始めとし、坂田氏、秦氏、羽田氏などの状況を把握して行ったのです。

これに対して、近江朝廷軍は東国の徴兵と西国(中国.九州)の徴兵が時間的に間に合わないため、朝廷の常備軍と畿内で徴集した兵をもって、飛鳥と不破に兵力を分散さす状況となりました。飛鳥京と大海人本営の攻撃と両方面とも、近江朝は重要と判断したのでしょう。

しかし、近江朝廷の大友皇子は当初は大海人皇子に必勝すると信じて、思い戦闘に入りましたが、「白村江の戦」が尾を引いて軍備が遅れ:武器や兵力不足の悪状況も伴ったのです。

ですから不破への進撃途上に通過する地域の豪族兵を味方に(羽田氏など)加えながら、息長氏(オキナガ)などの近江の豪族をどれだけ味方に出来るかが勝敗を大きく左右すると思うようになっていたでしょう。

一方、大海人皇子は前述の如く、大和飛鳥路戦へは戦術に長ける中央の豪族を指揮官にして近江朝に不満を持つ豪族(国宰や古い渡来人)、東国へ脱出途上大海人軍に加わった兵(美濃.尾張の2万、大倭や伊賀の軍勢)を得て、半年間、吉野で推考した作戦以上の好精華で状況は進展していました。「戦には天が味方してくれている」と思ったに違いありません。

近江路における両軍正規軍の勝敗を決する戦闘と、その顛末は、次回につづけます。

参考資料: 壬申の乱   中央公論社    遠山美都男著
      戦争の日本史2 壬申の乱  吉川弘文館  倉本一宏著



2019年05月27日

◆<読書特集>

宮崎 正弘


令和元年(2019)5月26日(日曜日)通巻第6087号  <<日曜版>>

<<読書特集>。
石平 v 安田峰俊『天安門三十年 中国はどうなる?』(育鵬社)
小川栄太郎『平成記』(青林堂) 
西村幸佑『韓国のトリセツ』(ワニブックス&PLUS新書) 

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書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIE 
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民主化を求めた学生、知識人の多くが「天安門広場」と周辺で虐殺された
その後、中国に本当の知識人がいなくなった。御用学者はあまた輩出したが。

  ♪
石平 v 安田峰俊『天安門三十年 中国はどうなる?』(育鵬社)
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6月4日は『天安門事件』から30年になる。

中国国内では、この事件は無かったことになっている。反面、無かった
「南京大虐殺」の嘘放送は大音響とともに繰り返されている。しかも、中
国共産党は世界中で反日キャンペーンを指令している。

東京はもとより、世界各地では天安門事件での犠牲者の追悼と中国共産党
批判の集会やデモが行われるが、中国国内では厳戒態勢が敷かれ、活動家
は事前拘束された。あるいは社会運動家でさえ厳重な監視の下に置かれ、
非政治的なボランティアの奉仕活動さえ、中国のNGOを政府が監視対象
としている。

天安門」とか「民主」とかの項目は、随分と前から削除されてきた。5月
16日ごろからはウィキペディアのすべての言語に接続できなくなった。
 
中国語版は2年前から接続できないが、これに加えて英語、日本語、フラ
ンス語、ドイツ語、ロシア語ばかりか、ヒンズー語、トルコ語など世界の
すべての言語のウィキペディアがアクセス不能状況となった。

いったい中国共産党は何を怖れているのか?

さて本書は、天安門事件の前の年に来日し、事件直後は神戸の中国領事館
前などで抗議集会に参加してきた石平を、気鋭のジャーナリストの安田峰
俊が矢継ぎ早やの質問を浴びせて、石平の胸裡に封印されてきた記憶、そ
の時の心境、精神の葛藤、遍歴を問いただすスタイルで構成されている。

天安門を語り始めると石は突如号泣し、論理的でなくなったと安田は実直
に綴る。封印されてきた記憶が音たてて甦るからだ。

しかし人の心の中を、その内面に潜む精神を他者がのぞき見ることには限
界がある。こころの中で、いったい誰と、何の目的で戦っているのか、精
神の孤独に苛まれながら思想の激流が人間を引っ張って行くのである。
 
「08憲章」を提議し、民主化という希望に一縷の望みをかけた劉暁波
は、全体主義の闇、そのおぞましさの圧政の下に散った。だが劉暁波は
「わたしに敵はいない」と遺言した。

中国民主党の王丙章主席はカナダへ留学して医学博士号を取得したが、約
束された将来を擲って、人生を犠牲にしてでも、中国の民主化のために中
国共産党と果敢に戦った。共産主義の闇に挑み、そして不当逮捕されて無
期徒刑のもと、惨たらしい拷問に堪え、中国の牢獄で闇と戦っている。い
まも戦っている。「中国のマンデラ」と言われる所以である。

しかし西側へ逃げた当時の学生運動の指導者たちは、投資家になり財テク
に励み、実業に乗り出した者もいれば、するりと身を躱して大学教授に納
まった凄腕もいる。

かつての活動家の誰がいまも民主化の理想を叫んでいるのだろう?
共産党打倒の、あの天安門民主化運動は、その理想は風化したのか?
石平はその怒りのために号泣するのである。そして絶望があり、懊悩し、
苦痛の呻吟の末に、決断して日本国籍を取った。以後、かれの筆は容赦な
く全体主義の欺瞞と戦ってきた。

天安門の指導者のひとりだった王丹は米国に渡って民主党人脈と交流する
うちにリベラルに染まって訳の分からない抽象論に走り、国内に残った者
は不動産投資に熱中するか、狂信的反日派に、そのレゾンデートルを見出
そうとし、純朴に訴え続けているのはNYに溶け込んだ陳破空や、台湾に
暮らすウアルカイシ(吾爾開希)くらいではないか。

言論の自由があるはずの日本においてさえ、石平は中国のスパイだと、中
国大使館筋が意図的に流している謀略に迂闊にはまった保守系の政治家や
ジャーナリストらもいる。与党関係者からも同じ情報が聞こえてくると、
なんと日本の政界は謀略に弱いかと絶望的になることがある。

来日から中国の歴史の残酷さと政治の全体主義的特質を批判し続けていた
石平の歩みを直視すれば、すぐにも回答は出るだろう。

彼は戦っているのである。ペンを武器として、果てることもない思想闘争
を、孤独と、周囲の在日中国人の迫害的な雰囲気に堪え、その良心をかけ
て戦っているのである。石平の強靱な内面が、行間から溢れ出ている。

       
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 平成の31年間を日本の歴史のなかに位置付けた労作

随所に現代日本人の知性と強要の劣化、人口減少への憂いが語られる 

  ♪
小川栄太郎『平成記 』(青林堂)
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分厚い本である。

平成の歴史を年度ごとにまとめているのだが、各年度の冒頭に御製、御歌
が掲げられており、かしこまる姿勢になる。

その次のページが年表の単年度版で、主な出来事、そして「自分史」を書
き込める工夫がある。編集技術的に言えば、洒落ている。謳い文句に「渾
身の五百枚」とあるように、歴史を淡々と叙す。政治、経済から社会、風
俗、流行の現象。なかでも文化的考察には小川氏独奏ともいえる解釈が挿
入される。

明治、大正、昭和、そして平成とはいかなる歳月であっただろうか。
 
21ページに掲げられた或る一覧表をみると、急に感慨が深まる。それは世
界企業の時価総額トップ50の一覧で.平成元年、世界のトップ50社
中、じつに32社を日本企業が占めていた。そして平成四年にバブルが崩
壊し、自民党が崩壊し、国民生活が崩壊し、伝統の秩序が崩壊した。

二流から三流政治家たちへ政権は受け継がれ、当然無能のリーダーたちは
何が国益か、何が大事な政策なのかがわからず、ひたすらポピュリズムに
埋没した愚策を展開し、日本はどん底になった。

平成30年、世界トップ50社のうち、日本企業がランク入りしているの
はトヨタ一社のみ。しかも32位でしかない(5月25日に来日したトラ
ンプは財界人との夕食会で「ミスター豊田は何処にいるのか? あなたは
偉大だ」と発言したそうな)

平成30年度の上位50社は米国と中国企業が寡占している。

ちなみに米国企業は31社、中国が7社。台湾、韓国の企業もリスト入り
しているのである。「日米逆転」から、いまや「日中逆転」。米中対立時
代に突入したことは、この一覧をみても証明される。

平成の終わりに評者(宮崎)もメディアに感想を求められたので一句を詠
んだ。

「風凪ぎて のどか極まれり 平成」。
 
さて、次のような箴言がそれとなく、挿入されている。
 
平成12年11月のことだ。

「文化界で驚くべき不祥事が発覚した。宮城県の上高森遺跡について、藤
村新一・東北旧石器文化研究所副理事長が自ら埋めた石器を発掘して、新
発見を偽っていた事が発覚したのである。25年にわたり、藤村は日本の前
期・中期旧石器遺跡発掘を一手に担い、発掘量の多さと2万年前までしか
遡れなかった日本の遺跡が70万年前までさかのぼれるとした研究成果が脅
威とされ『神の手』を呼ばれてきた。ところが、この事件を機に、業績の
ほとんどが捏造と判明する」(191p)

この捏造事件は日本の考古学の発展を10年は遅らせたと言ってよいだろ
う。その後、縄文土器で1万6500年前のものが出土しているが、まだ教科
書は採用しないように。

 平成28」年。

「石原慎太郎『天才』は、かつて石原が非難してやまなかった田中角栄
を、現在の目で改めて天才として描きミリオンセラーとなった。その結果
田中角栄ブームが起きるが、露骨な金権支配と地方の二重構造化、中国と
の政治癒着など、田中の罪科は大きい。それを『人間的魅力』の観点から
無条件に礼賛するブームは、出版界読書人の知性の低下を象徴している」
指摘のとおりである(ついでに触れておくと小川氏が司馬遼太郎を高く
買っているのは意外だった)。

また同じく43ページにある映画「シンゴジラ」はとても良い作品だが、こ
のイシューは、日本でしか通用しないので、外国の評価がほとんど聞こえ
なかった。

もう一つ。辛辣な評価だが、満腔の意を表したくなる表現がある。
  
平成30年。

「是枝監督『万引き家族』がカンヌ映画祭最高賞を受賞した。一人ひとり
の俳優の演技は優れているが作品そのものは悪質だ。子供に同情があつま
るヒューマンドラマなど、まず表現者として安直過ぎる。舞台は現在の日
本だが、こんな不潔な家屋は戦争直後でさえ普通の日本人は住みはしな
い。子供に万引きさせて生活の助けとしているが、この『家族』は働き盛
りの男女3人が一緒に暮らしているのである」(466p)
 
もし「人間性の哀歓を描きたいのなら、現実に瀕弧の社会矛盾が存在する
最貧国を歌いにせねばリアリティが根底から崩れる」と小川は痛烈な批評
を展開している。
 
はなから国際賞狙いでリベラルな「審査員に媚びを売る文化犯罪と呼ぶべ
き作品であろう」とズバリ真実を、相手の心臓を突いている。
        
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やたら面倒な隣人と上手に別れる方法」とは
 「非韓三原則」(助けず、教えず、かかわらず)で臨め

    ♪
西村幸佑『韓国のトリセツ』(ワニブックス&PLUS新書)
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トリセツとは何なのか、新造語がわからない。ひょっとして「取り扱い説
明書」? マニュアルのことだと気が付くまで、頭にランプがともらな
かった。

副題は「やたら面倒な隣人と上手に別れる方法」とあるので、脱亜論の現
代版というところだろう。

その奥義は「悲観三原則」じゃなかった「非韓三原則」(助けず、教え
ず、かかわらず)。福沢諭吉の唱えたように謝絶するべき悪友、それが
「あの国」だ。

どの世論調査をみても、韓国が嫌いという日本人がときに80%を超える。
好きだという回答は数パーセントしかない。

にもかかわらず日本で「韓流ブーム」が巻き起こった。演出だったこと
は、いまや明らかである。なにしろ岩手県の過疎の漁村を舞台にした
NHKドラマでは、韓国「現代」自動車のタクシーがやってくるし、茶の
間のテレビが韓国製という意図的な画像まで作られた。

と言っても宿命的に、地政学的に隣国であり、過去2千年、この厄介極ま
りなき隣人に付き合わされてきた。結果はろくなことがなかった。

「倭」という命名は軽蔑語、魏志倭人伝から唐書にいたるまで日本を倭と
呼び捨てているが、その倭は朝鮮半島の南部も経営していた。

だからこそ、神功皇后の三韓征伐、白村江があり、その敗戦ののち、我が
国は大津へ遷都し九州から日本海側に防人をおいて備えた。

刀伊の入寇、元寇があって、秀吉時代に「朝鮮征伐」という名のキリシタ
ン防衛戦争が起こり、明治新政府の「征韓論」、日清戦争、伊藤博文暗
殺、日韓併合、そして李承晩ライン、日韓条約と続いて、やっとこさ、朴
正熙のときに正常化した。

と思ったら、そうじゃなかった。盧泰愚時代からおかしくなって、金大中
以後のことはご承知の通り。廬武鉉、文在寅で最悪の日韓関係に陥没した。

「韓国は法治国家としての原則を捨て去ることなど平気な国である。(中
略)ともかく一貫性がなく、感情的に動く物事に付和雷同しやすい。今日
好んでいたものを明日には憎むという、どこか倒錯した感情が巻き起こる
のは、韓国の国民性」なのである(119p)

なにしろ自衛隊哨戒機にレーダー照射した韓国の駆逐艦は「広開土大王」
と命名されている。

日本をやっつけたと吹聴した武将の名前だが、広開土王は朝鮮族ではな
く、ツングース系である。

ところで、昨今のブログとか、フェイスブック、ツィッタの「威力」に関
して評者も知ってはいるが、SNSにはしょせん、情報はないのである。
したがって評者は、これらの新兵器を駆使して言論戦に臨んだことがない
ので、本書で縷々展開されている細かなネット議論の内容には疎い場所に
いた。

そういう次第なので、本書の分析は参考になった。
 

◆「の」に賭けた初入閣

渡部 亮次郎


建国記念「の」日が初めて施行された昭和42(1967)年2月11日。その時園
田直(すなお、故人)は衆院議員当選既に9回なのに未入閣で衆院副議長
のまま。しかも4日後に副議長に再選と言う椿事。

だが佐藤栄作首相は、園田の異能ぶりに感服していた。忘れずにこの年の
11月25日に行った第2次内閣の第1次改造で厚生大臣に抜擢した。園田は53
歳の初入閣だった。

「建国記念の日」と定められた2月11日は、かつて紀元節という祝日で
あった。

紀元節は、『日本書紀』が伝える神武天皇が即位した日に基づき、紀元の
始まりを祝う祝日として、1872年(明治5年)に制定された。

この紀元節は、1948年(昭和23年)(連合国による占領下)に制定された
「祝日に関する法律」附則2項で、「休日ニ關スル件」(昭和2年勅令第25
号)が廃止されたことに伴い、廃止された。

しかし独立を果たす1951(昭和26)年頃になると紀元節復活の動きが見ら
れ、1957年(昭和32年)2月13日には、自由民主党の衆院議員らによる議員
立法として、「建国記念日」制定に関する法案が提出された。

とはいえ、当時野党第1党の日本社会党が、この「建国記念日」の制定を
「戦前回帰、保守反動の最たるもの」と非難・反対したため成立しなかっ
た。

1957年8月2日、神社本庁、生長の家、郷友会、不二歌道会、修養団、新日
本協議会などの右翼団体は紀元節奉祝会(会長:木村篤太郎)を結成して
推進を画策した。

しかし、その後9回、法案提出と廃案を繰り返しただけだった。これに目
を付けたのが1965(昭和40)年12月20日、第45代衆院副議長に選出された
熊本県天草選出の園田直だった。

社会党国対委員長石橋政嗣(まさし=長崎選出}と密かに手を組み、建国記
念「の」日にして「2月11日」を国会ではなく政令で定めるなら反対しない
と言う妥協案を創り上げた。

名称に「の」を挿入して「建国記念の日」とすることで、“建国されたと
いう事象そのものを記念する日”であるとも解釈できるように修正したの
である。1966年(昭和41年)6月25日、「建国記念の日」を定める祝日法
改正案は成立した。

同改正法では、「建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛
する心を養う」と定め、同附則3項は「内閣総理大臣は、改正後の第二条
に規定する建国記念の日となる日を定める政令の制定の立案をしようとす
るときは、建国記念日審議会に諮問し、その答申を尊重してしなければな
らない」と定めた。

建国記念日審議会は、「粋人」菅原通済を会長に学識経験者等からなり、
総理府に設置された。約半年の審議を経て、委員9人中7人の賛成により、
「建国記念の日」の日付を「2月11日」とする答申が同年12月9日に提出さ
れた。

同日、「建国記念の日は、2月11日とする。」とした「建国記念の日とな
る日を定める政令」(昭和41年政令第376号)を公布、即日施行した。当
に「の」が自民、社会両党の妥協を成立させた。

また佐藤内閣にとっては実兄の岸信介内閣以来、歴代内閣の成しえなかっ
た事実上の紀元節復活を成し遂げたのであった。この「の」という奇策へ
の「回答」が園田の初入閣だったのである。

私はこうした経緯を当時NHK政治記者としてつぶさに取材。園田の頭の良
さにつくづく惚れた。彼が特攻隊生き残りである事も知って尊敬した。そ
うした事が後に私を外務大臣園田直の秘書官にした理由である。(文中敬
称略)2008・2・10

◆皇室を政治利用してはならないと自戒する

櫻井よしこ


「昭和天皇の御心を正しく受けとめるとともに皇室を政治利用してはなら
ないと自戒する」

今年元旦、「朝日新聞」は1面トップで「昭和天皇直筆の原稿見つかる」
とスクープした。昭和60年頃から病に臥せられる63年秋頃までの御製、
252首が確認されたとの報道だった。

内、未発表の御製は211首あった。しかも昭和天皇の直筆で残されてお
り、同月7日には詳細が続報された。

ところが約4カ月後、雑誌「Hanada」6月号が「直筆御製発見 昭和
天皇の大御心」と題して「世界日報」編集局長、藤橋進氏の論文を掲載し
た。世界日報は朝日新聞が報ずる「かなり前に」昭和天皇の直筆原稿を入
手し、調査を進めていたという。両方を較べ読めば、昭和天皇の息遣いを
より近くより深く感じさせるのは藤橋論文である。

藤橋氏は、昭和天皇が乃木希典学習院院長(元陸軍大将)から教わった質
実剛健の精神を生涯守り通したこと、そのひとつの事例が、発見された御
製の資料にも見られると指摘する。

資料の中に縦8.8〜15センチメートル、横7.5〜10.5センチメートルのメモ
用紙8枚がある。小さいものは手のひら程の大きさだ。昭和天皇はその裏
にもお歌を書きつけていらした。メモ用紙には紙を貼り合わせたものもあ
るという。1枚の紙も無駄にしないお姿は乃木大将の教えの質実剛健その
ものである。

Hanadaは鉛筆書きの直筆原稿の写真を何枚も掲載したが、その字体
から昭和天皇のお人柄が伝わってくるようだ。昭和天皇の字体と話し言葉
には共通項があるように感ずる。質朴で飾るところがない。無駄もなく率
直だ。まっすぐ核心に迫る趣がある。

多弁でも能弁でもなかった昭和天皇にとって和歌は心の真実を表現する重
要な手段だったと思われる。ご生涯で約1万首を詠んだとされるが、今回
発見された御製の中には香淳皇后についてのお歌が4首ある。いずれも愛
情と思いやりに満ちている。

「露台にてきさきと共に彗星をみざりしこよひ(は)さびしかりけり」

体調をくずしていらした香淳皇后と一緒に彗星を見ることができない寂し
さを率直に表現していらっしゃる。4首すべてに「さびし」「かなし」と
いう言葉が入っている。香淳皇后への深い愛情の、少年のように純粋で率
直な発露だと受けとめた。

昭和天皇は政治家についてただひとり、岸信介元首相について詠まれ、3
首残された。

「國の為務たる君(は)秋またで 世をさりにけりいふべ(ぐれ)さびしく」

「その上にきみのいひたることばこそおもひふかけれのこしてきえしは」

「その上に深き思ひをこめていひしことばのこしてきみきえにけり(さり
ゆきぬ)」

この部分の欄外には「言葉は聲なき聲のことなり」と書かれている。昭和
35年の安保改定でデモ隊が国会を取り囲んだとき、岸首相は「デモの参加
者は限られている。(中略)私は『声なき声』に耳を傾けなければならな
いと思う」と語ったことを当然思い出す。「岸首相の孤独な戦いへの深い
同情を詠まれた」と、藤橋氏は解説したが、同感である。

作家の半藤一利氏は昭和天皇が岸首相を評価していたのかと「複雑な気持
ち」「日米の集団的自衛権を定めた安保改定に賛成の気持ちを持っておら
れたのだろうか」「心から驚いている」と朝日新聞にコメントした。

昭和天皇はひたすら国民の幸せと国家の安寧を願われ、立憲君主国の君主
として、国の安全を大きな高い視点から考えられたにすぎない。また、
「国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり」とも詠
まれたように、日本の国柄の大事さも考えておられた。昭和天皇のこの御
心を正しく受けとめたい。同時に、殊更にそのことを主張して皇室を政治
利用してはならないと自戒するものだ。

『週刊ダイヤモンド』 2019年5月25日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1280

◆木津川だより 壬申の乱 A

白井繁夫


大海人皇子は、天武元年(672)5月、美濃国へ赴いた舎人朴井連雄君(エノイノムラジオキミ)から「天智天皇の陵を造営するためと称して、東国の農民を徴集し武器を持たせている云々」との報告を受けたのです。

この情勢こそ、近江朝が戦いを挑むことになると推察し、吉野宮の脱出を決意し吉野においての半年間推考を重ねた作戦に基づき、6月24日に東国(美濃)を目指して出陣しました。

大変きつい強行路を経て、「桑名群家」に辿り着き、「鈴鹿の山道」や「不破道:関ヶ原」の閉塞にも成功を治め、みずからは「野上行宮」に入りました。このことは、大海人皇子側から見れば、内乱突入直前の状況だったのです。(前回記述)

ところで今回は、大友皇子側から見た「壬申の乱」に至るまでの状況を見てみます。

大海人皇子一行が、671年10月19日、大津宮を去る折、菟道(宇治橋)まで見送りに行った近江朝の重臣3名(左右大臣と御史大夫)の内の一人が、こう云いました。

<「虎に翼を着けて放つ」と云ったといわれているように、叔父の大海人皇子は有力な皇位継承者である為、皇位を継承するには大友皇子が、大海人皇子を排除すべき人物なのです。>

虎は鋭い牙と爪を持っているのに、その上に翼まで着けて放ったのだから、大海人皇子を監視するために、近江から倭古京(やまとのふるきみや:飛鳥京)までの要所(宇治橋の橋守に命じて、美濃の大海人の支配地などから武器や食糧などの物資が運搬されるか、「木津川の泉津」(木津の港)から同様に吉野へ届けられるかなど、飛鳥京の留守司などで監視する体制を敷きました。(大海人皇子の勢力を剥ぐための兵糧攻め作戦)

「対新羅戦用」と称して、全国へ国宰(くにのみこともち)を派遣して、「徴兵」(各郡司などを通じて農民兵の動員)に着手しました。

特に大海人に影響を与える地域、畿内(山背.大和.摂津.河内.和泉)と、東国の美濃や尾張(美濃の安八磨郷あはちまのこほり、湯沐邑ゆのむらなど)からの「徴兵」に傾注したのです。(作戦の狙いは、大海人皇子と関係がある地区に楔を打ち込む目的)。

大友皇子は、近江朝の政権の中心であり、大海人皇子が(吉野)隠遁している間に、勢力を剥ぎ、大友に対抗出来なくしようとした計画的な行動を取りました。

ただ、天智の殯(もがり)の期間、いろいろと公式行事があるうえに、筑紫の唐使「郭務悰:カクムソウ」の応対にも忙殺されることのもありました。

古代も現代も戦争に備えるには情報戦略が非常に重要な要素です。近江朝は軍備力や権勢力などで絶対的な自信を持ち過ぎて、少々油断があったのではないかと思われます。

大海人皇子は、誼を持つ舎人を通じて各地の豪族と絆を結び、近江朝の動静などの情報を逐一得ていました。もちろん、近江や飛鳥の官人とも連絡は密だったのです。

両軍が戦闘に入ったとき、大友軍は情報不足により有利になるはずの戦況を、思わぬところで不利にすることが出てしまいました。

重要な歴史書:『日本書紀』は日本最古の正史ですが、舎人親王(天武の皇子)が編纂の総裁者となり養老4年(720年)に編纂され、天武嫡流の皇子に関係した藤原不比等も介在した?と思われる書籍です。

これから記述する「壬申の乱」の戦闘の描写も、勝者側の見方(大海人が正当な皇位継承者)が大きく出るかもと思います。

近江朝は、庚午年籍(こうごねんじゃく:天智天皇の時代に編纂された日本最古の戸籍制度)に基づく徴兵を急がすため、東国へ派遣した国宰書薬(フミノクスリ)ら3名のうち2名が、6月26日に「不破道」で大海人軍に捕えられたのを目の当たりにして、国宰韋那磐鍬(イナノイワスキ)は、大津宮へ逃げ帰ってきました。

近江朝軍は、翌27日臨戦態勢に入り、近江路方面軍と飛鳥方面軍と大きく2方面に軍を分けて、最初に近江路方面軍が「不破道:関ヶ原」を突破して、大海人本営を襲撃する作戦を立て、近江朝正規軍に西国の徴兵や近江の豪族の兵を加えた数万の軍を、大津宮から出発させました。

最初の戦火は、6月29日に大海人軍の大伴吹負(オオトモフケイ)によって大倭飛鳥で開始されました。だから、最初に出発した近江路軍の戦闘は後述するとして、大倭.河内方面の戦いの方を先行します。

(飛鳥京)朝廷側の留守司(トドマリマモル司)は、高坂王.稚狭王(ワカサ).坂上熊毛ですが、大伴吹負とは内応?していたと思われ、実情は近江朝の使者(穂積臣百足等ホヅミノオミモモタリ)が、27日に軍営を設立したばかりの状態でした。

天智10年に亡命百済人を実務官僚に組織した体制に対する反発が、古くから飛鳥などに居住する渡来人(東漢系氏族:坂上熊毛)、同じく山背国に渡来していた氏族(秦熊)など、倭古京の居住者にありました。

大伴吹負は奇策を持って、僅か10余の騎馬兵で高市皇子が攻めて来たと叫び、飛鳥寺の西の軍営を奇襲し、飛鳥京を制圧しました。留守司高坂王らは帰服し、近江朝の軍営にいた物部日向.五百枝兄弟も帰順したので味方に加え、穂積百足のみが最初の戦死者となりました。

大伴吹負の飛鳥京制圧の報は大倭各地に伝わり、三輪君高市麻呂.鴨君蝦夷等の豪族が大伴吹負軍に加わり、その情報は大海人皇子をはじめ、近江朝にも伝わったのです。

7月1日:近江朝の大倭方面軍は大野果安(ハタヤス).犬養五十君(イキミ).廬井鯨(イオイノクジラ)が、近江朝正規軍と西国の徴兵を率い、飛鳥京奪還を目指して大津宮を発進しました。

果安は大伴吹負の軍を度々破り敗走させましたが(後述しますが)、紀臣阿閉麻呂(キノオミアヘマロ)軍の先遣した騎兵隊が伊賀から駆けつけて、吹負の窮地を救ったのです。

庚午年籍に基づき、摂津.河内で徴兵した兵を率いた河内方面軍の将壱岐韓国(イキノカラクニ:渡来氏族)と、国宰来目塩籠(クメノシオコ)は同日、河内.大倭の国境を突破して飛鳥京奪還を目指して河内を出発しました。
(大伴吹負は乃楽山(なら:奈良山)を目指し進発(木津川市と奈良市の国境の丘陵地)。

大海人皇子は、7月2日和蹔(わざみ)の全軍に進撃命令を出し、全軍の兵に赤い布を着用させて、大友軍とはっきり区別させました。

飛鳥方面軍の総大将紀臣阿閉麻呂は、数万の軍勢を率い倭古京守備隊の増援に向かわせ、置始連兎(オキソメノムラジウサギ)の精鋭な騎兵隊は本隊を離れ、飛鳥へ急行させたのです。

多臣品治(オオノオミホムチ)は3千の兵で伊賀の莿萩野(たらの)を防衛、田中臣足麻呂は倉歴道(くらふのみち)の守備につきました。
(近江路方面の村国男依らの数万の軍勢の進撃は次回にします。)

乃楽山(なら:平城山)は、古代崇神天皇の時代:武埴安彦の反乱の舞台となった要衝。

山背と大和の国境の丘陵地であり、北側の平野に木津川が流れ、南は大和平野が広がる両軍にとって戦略上重要な拠点です。(四道将軍の大彦命と和爾氏の祖彦国葺が乃楽山の本陣から北側の山背の武埴安彦軍を木津川の戦いで殲滅し、西の大坂より攻めて来た埴安彦の妻(吾田媛軍)を吉備津彦命が討った。古戦場。)

(吹負はその拠点を固めに行く途上「大和郡山市稗田」で、西方「大坂:河内」から大友軍が進軍してきた情報を捉えたのです。)

吹負は、坂本臣財(サカモトノオミタカラ).長尾直真墨(ナガオノアタイマスミ)等に兵三百を授けて龍田道を防衛させ、佐味君少麻呂(サミノキミスクナマロ)に百余の兵で、大坂道(穴虫峠:二上山の北:大坂側道)を、鴨君蝦夷は百余の兵で石手道(イワテノミチ:竹の内峠:二上山の南:大和側道)の守りに就きました。

坂本財は、龍田付近で斥候が近江朝の高安城(白村江の戦に対処した山城ヤマジロで税倉チカラクラ:穀物の保管倉庫)が手薄との情報を得て、財が襲撃した時、大軍が来たと勘違いして城(穀物倉庫群)を焼き逃走しました。大海人軍の兵は無傷で高安城を占領したのです。

大伴吹負は飛鳥京を7月1日出発して、(3日)乃楽山に布陣が完了まで長時間移動を要したのは、6月29日以来続々と集まる兵を各部署に配置しながら進軍したからです。

7月3日朝霧が晴れ、坂本財は高安城から眼下の大坂平野を見ると大津道:長尾街道(堺市→河内美陵町→生駒王寺町)と、丹比道:竹内街道(堺市→羽曳野古市→飛鳥当麻寺)から整然と隊列を組み、大友軍が東へ進みました。大津道は将軍壱岐史韓国の軍ですが、高安城は黙殺して(武田信玄が家康を無視した様)行軍して行きました。

坂本財は、全軍僅か300人ですが、下山して衛我河(エガガワ:大和川付近藤井寺市道明寺)で挑ませますが一蹴され、懼坂道カシコサカミチの守衛紀臣大音(同族)まで退却しました。

しかも、この戦いで、国宰来目臣塩籠が大海人軍に内応しているのが発覚。大友軍の進軍は一時停止したのです。来目臣が大友の命により河内で徴兵した兵を持って、韓国将軍の下に入ったので、全軍が大きく動揺したためです。

(坂本財の悲壮な突撃戦は後の大坂夏の陣と同じ戦場「道明寺」で東軍水野.伊達軍2万3千に対し西軍の後藤基次軍3千弱の突撃の様と同様でした。だから軍規や軍の再編のため、韓国軍も進軍が遅れ、4日の大友軍全軍の総攻撃日に参加できなかったのです。)

大津宮を1日に出発した大野果安(はたやす)率いる倭飛鳥方面軍が、「木津川」を越え乃楽の大伴吹負が築く堅固な陣を突破し(吹負は数騎で逃れる)、怒涛の進軍で飛鳥京の手前:天香久山(あまのかぐやま)の八口まで来た時、斥候から「飛鳥の各街道の要所に大量の楯などが並び伏兵が潜んでいる」との報告。

大野果安が高所から遠望すると大軍を隠し、吹負軍が罠を仕掛けて簡単に退いたとも取れ、味方の壱岐韓国軍が4日なのに姿.音沙汰ともに無いのは、大海人軍の正規軍が来ていると思い込み、全軍に退却して陣容をかまへ直すよう命じました。(飛鳥京には大海人軍未着)

倭古京(飛鳥の古い都)への戦闘は、大友軍の河内方面軍も飛鳥方面軍もともに簡単に飛鳥京を占領できる機会だったのをともに逸して、後から来る大海人軍の正規軍と戦うことになるのです。

大和路戦の結末と近江路戦については次回に続けます。    (郷土愛好家)

参考資料:戦争の日本史2  壬申の乱   吉川弘文館  倉本一宏著
     壬申の乱     中央公論社  遠山美都男著
     木津町史     本文篇    木津町