2019年05月26日

◆村下孝蔵の「初恋」

馬場伯明


たまに行く四谷のスナックのカラオケで、若い女性が村下孝蔵の「初恋」
を歌った。「初恋」は名曲である(と思う)。男性歌手の歌なのに、彼女
の歌いっぷりは妙にしっくりしていて違和感がない。10代半ばの女生徒が
自分の初恋の心情と情景を語っているように聞こえた。

「♪〜好きだよと言えずに 初恋は ふり子細工の心」の部分を、少し高
めのハスキーな声で美しく歌った。うまいなあ〜〜。

村下孝蔵とはだれか。Wikipediaより抜粋し抄録する。

《村下孝蔵(むらした こうぞう、1953.2.28〜1999.6.24)は、日本のシン
ガーソングライター。「初恋」「踊り子」「ゆうこ」「陽だまり」などの
ヒット曲がある。熊本県水俣市出身。鎮西高校卒、1972年日本デザイナー
学院広島校入学。卒業後、ヤマハ広島店に就職、ピアノ販売員やピアノ調
律師。1975年からホテルラウンジでの弾き語りなど地道に音楽活動を続け
る。1979年ヤマハを退社し楽曲の自主制作活動に・・・》。

最大のヒット曲が1983年30歳で発表した5枚目のシングル「初恋」であ
る。オリコンチャートで最高3位を記録した。

初恋    作詞・作曲・歌唱 村下孝蔵

五月雨は緑色     悲しくさせたよ一人の午後は 
恋をして淋しくて   届かぬ想いを暖めていた 
好きだよと言えずに  初恋は
ふり子細工の心 
放課後の校庭を走る君がいた 
遠くで僕はいつでも君を探してた 
浅い夢だから 胸をはなれない 

夕映えはあんず色   帰り道一人口笛吹いて 
名前さえ呼べなくて  とらわれた心見つめていたよ 
好きだよと言えずに  初恋は
ふり子細工の心 
風に舞った花びらが  水面を乱すように 
愛という字書いてみては ふるえてた あの頃 
浅い夢だから 胸をはなれない 

放課後の校庭を走る君がいた 
遠くで僕はいつでも君を探してた 
浅い夢だから 胸をはなれない

《・・・結婚後の1983年「初恋」を発表した頃に肝炎を患う。1984年生活
拠点を東京に移す。「やっと納得する作品が出来た」と語った渾身の「ロ
マンスカー(1992)」が売れず、村下は「自分には『初恋』を越える曲は
できんかもしれん」「時代は追いかけるものではなく、巡りくるもの。向
こうからやってくる・・」という境地に至った》。

《1999.6.20、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A7%92%E8%BE%BCリハー
サルの途中に突然体調不良を訴え、病院で「高血圧性脳内出血」と判明し
た直後昏睡状態に陥り、4日後に死去。46歳。茨城県稲敷郡(現つくば
市)の墓地に眠る》

村下孝蔵、早世。不運である。今死後20年、世間からはほぼ忘れられつつ
あるだろう。しかし「初恋」は単なるヒット曲から伝説の歌になった。

この歌はなぜヒットしたのだろうか。まず、歌詞がよく、作曲がすばらし
く、そして、歌い手に歌唱力がある。これに尽きる。シンガーソングライ
ター、村下孝蔵の能力が凝縮された独り舞台の歌である。

次に、ジャケットの「切り絵の少女」だ。創作は村上保。1950年愛媛県生
まれ〜。彫刻家、切り絵作家。東京学芸大学卒。田舎の学校風のセーラー
服姿で少しさびしげな女生徒。これが村下孝蔵の純朴な歌詞と旋律に完全
にマッチしていた。

「初恋」はPCやスマホのU-Tubeで手軽に聴くことができる。画面では全盛
期の村下孝蔵がギターを弾きながら歌っている。また、多くの男女の歌手
がカバーしている。玉置浩二、福山雅治、三田寛子、沢田知可子、島谷ひ
とみ、美吉田月(みよしだるな)など。「『初恋』カバーメドレー」(u-
tube)では1曲を12人の歌手がつないでいる。

玉置浩二のかすれ声は魅力的。福山雅治のギターの弾き語りには特有の
こってり感がある。(当然)うまいけれども私の趣味ではない。森口博子
はゆっくりバージョンで歌う。美吉田月はSka調(2・4拍を強調)で新曲
風。島谷ひとみの「初恋」は女性歌手ではもっとも心がこもっているよう
で好きだ。

村下孝蔵はギターが上手かった。《彼はベンチャーズが好きで「ひとりベ
ンチャーズ」を舞台で(ご愛敬に)演奏していた。さだまさしは「村下の
弾く『ひとりベンチャーズ』は凄い。居ないはずのメル・テイラーのドラ
ムが聞こえてくる」と語っている》とある。

私には願いがある。「初恋」をカラオケで歌えるようになりたい。先日、
四谷のスナック(*1)で、客が少なかったので店主に頼み思い切って歌っ
てみた。でも、私には難しい。ドタバタと歌詞を追いかけ読むような歌い
方になってしまった(トホホ)。それでも、店主(ママ)は商売人だ。何
も感想を言わずあたたかく微笑(わらっ)ていた。

私にとってなぜ難しいのか?たとえば「放課後の校庭を走る君がいた 遠
くで僕はいつでも君を探してた」とあるが、この歌詞と曲とが合わせにく
い。歌詞を平板に等間隔に歌っても歌にならない。次のように言葉に母音
の長短をつけ歌う必要があるようだ。

「放課後(お〜)の校(お〜)庭を(お〜)走る(う〜〜)君がいた
(あ〜〜) 遠くで僕は(あ〜) い(っ)つ(う)でも(お) 君を
(お〜〜)探してた(ああ〜〜)」 

そうは言っても(書いても)、これは私見であって、「リズム音痴」でな
い普通の人にとっては「楽譜通りに、村下孝蔵が歌うように、するする歌
えばいい」だけということなのだが(笑)。

村下孝蔵の(自作の)座右の銘は「飾らない、変わらない、僕の人生、僕
の歌」だったという。「初恋」はこの銘のままに「伝説の歌」になった。
これからも長く残り歌い継がれてほしい。

そして、私も、いつの日か、スナックの人前でよどみなく歌うことができ
るように、はかない!修練を重ねたい。(2019.4.30 千葉市在住)

(追記)
(*1)四谷のスナックを紹介する。安い。スナック「高樹(たかぎ)」。
四谷2丁目9 NK第7ビルBF1 03-6380-0057 隣店に「麻雀高樹」もあり、
昼間、高齢者らの「健康麻雀」で賑わっている。

  

◆「中国はグアダル開発をやめろ」

宮崎 正弘


令和元年(2019)5月13日(月曜日)通巻第6074号 

「中国はグアダル開発をやめろ」。BLAがヴィデオで警告
  BLAは豪華ホテル襲撃、カラチ中国領事館自爆テロの武装集団

中国主導のCPEC(中国パキスタン経済回廊)は随所で工事が頓挫して
いる。

プロジェクトの総額は620億ドル。中国はイランとの国境に近いグアダル
港を近代化し、将来は潜水艦も空母も寄港できる軍港の使用を狙っている。

付近には工業団地、大学、新興住宅地、病院などを建設し、一大都市にす
ると豪語してきた。

グアダルを起点に新彊ウィグル自治区のカシェガルまで(1)鉄道(2)
ハイウェイ(3)光ファイバー網。そして(4)原油パイプライン(5)
ガスパイプラインを敷設し、その建設のための鉄鋼からクレーン、ブル
ドーザ、建設機械、材料から労働者まで中国から連れてきた。現場のバロ
チスタンには、なんの裨益も無かった。

パキスタンのバロチスタン州は、もともと独立国家である。国王は英国の
亡命したままである。英国が植民地時代に勝手に線を引いてパキスタン領
としたため、紛争が絶えないのだが、近年は中国を「侵略者」とみて、こ
れまでにも中国人誘拐、殺人、現場襲撃、カラチにある中国領事館へも自
爆テロを仕掛けた。

こんどは中国人が宿泊する豪華ホテルの襲撃となった。グアダルに「パー
ルコンチネンタル」という5つ星ホテルが開業しているが、宿泊客の大半
が中国人。2回に亘る襲撃で、4に認が死亡した。

グアダル港の中国人労働者の居住区は高い塀で囲われ、しかも工事現場を
含めて、警備をパキスタン軍が担うという矛盾がある。直近でもこのパキ
スタン警備兵が襲撃され、26人が殺害される事件も起きた。

「グアダル港開発プロジェクトはバロチスタン国民にとって、弊害こそあ
れ、一銭の利益にもならない。バロチスタン国民は経済的に裨益するどこ
ろか、困窮し、大事な資源が中国とパキスタン政府にむしり取られている
ではないか」というのがBLA(バロチスタン解放軍)の主張であり、
「中国よ、プロジェクトをやめろ」とヴィデオ・メッセージで警告した。


 ▲パキスタンはデフォルトを免れるのか?

一方、パキスタン政府はCPECによる負債の膨張に頭を悩まし、中国に
緊急援助を乞うた。

ところが面会した李克強首相は、「パキスタンとの友好関係は変わらな
い。両国関係は全天候型だ」などとわけの分からないことを発言したのみ。

いよいよ、デフォルト直前になったため、イムラン・カーン首相は急遽、
サウジアラビアとUAE(アラブ首長国連邦)に飛んで救済を求めた。
サウジアラビアならびにUAE諸国は、緊急に200億ドル前後のドルを送
金し、当座の危機は救われた。

先月末からイスラマバードを訪問していたIMF調査団はパキスタン財務
省幹部等との会合を重ね、救済策の協議をしていた。
パキスタンがもし、IMF管理下になると、プロジェクトは全面的な見直
しを迫られ、政府予算にも介入される。

また債権国には80%の債権放棄が迫られることになる。

     
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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1893回】                   
――「民國の衰亡、蓋し謂あるなり」――渡邊(5)
  渡邊巳之次郎『老大國の山河 (余と朝鮮及支那)』(金尾文淵堂 
大正10年)

       ▽

「不快なる夜の東清列車」でのことだった。「支那人は東清鐵道督辨處の
官紳なりとて悠揚長者の風あり」。

これに対し「露人に至つては風采揚らず、眞に亡國の放浪漢に似たり」。
レーニン革命で国を追われたロシア人の悲哀が目の前に浮かんでくるようだ。

やがて「南滿洲北部の最大農産市塲」である長春に。

「日本國民の滿蒙に對する發展の遲鈍にして、萬里の沃野を等閑に附する
を慨し」、「日本官民の對支經營の不熱心、不適當、小規模、無手腕」を
激しく憤る同地在住某氏に触発されたのか、渡邊は満蒙こそが「西伯利の
極東三州と共に、日本の人口及食糧問題を解決するの地」であり、それは
急務であり、「50年の後、人口1億1千萬人を數ふるの時」に備えよと説く。

以下、渡邊の主張を追ってみたい。

「滿蒙は今支那に屬し、西伯利は名において尚露國に屬すと雖も、滿蒙元
來支那の地にあらず、西伯利亦露國の地にあらざるなり、唯侵略と殖民と
によれる威力活用の結果のみ」。だが「今や露支兩國」は国家の態をなさ
ず、「徒に内亂殺傷を以て相踵ぐのみ」といった惨状である。であればこ
そ「今や露支兩國」が両地に対し「共に主人顔するの資格」はないから、
「無主の地と稱する必ずしも不可ならざるなり」。

かくして「勤勉努力、農耕の從ひ、奮勵刻苦、鑛漁を營み、富源を開き、
文明を進め、秩序を維持し、利福を増すの能力を備ふるの優越民族ありて
是等地方の經營に任ぜんか、斷じて之を拒むの理由あるべからざるな
り」。その「優越民族」である日本人は、「人口において世界の23分の1
の多きを占め」ているにもかかわらず、「領土において200分の1の少な
きに苦し」む。加えるに「多々?々加する人口の増殖に會して餓死せんと
する」有様である。だから「日本民族が、是等地方の經營に從事するは、
當然の運命、即ち天命と稱すべきなり。日本民族の力、實に之に堪ふ」。

渡邊は続ける。
 
元来が地球上の土地は無主なのだから、「力あるもの能く之を保つに過
ぎ」ない。「?史的變遷と坤球元來定主なきの理を悟ら」ない支那人。
「山賊的侵略によつて西伯利を収め」たロシア人。さらに「英米人が、海
賊的國民として進化し來り、其領土の多くが略奪の遺物たるを顧みず、人
道を云々して人種的差別觀を脱する能はず、自由平等を云々して鎖攘の非
法に出で、到る處に日本人を排斥し、詭辯と猾智と強力とを以て日本民族
を饑餓の死地に陷れんとするは、暴虐無道の極といふべく、千萬言の修辭
と理想論とを以てするも、斷じて其非を飾るに足らざるなり」。

つまり「日本民族の生きんが爲に、滿蒙及西伯利において、平和的農商鑛
の經營に任ぜんとする、亦當然の事のみ。片言隻語の異議あらしむべから
ざるなり」。かくして渡邊は「我が當局の對外折衝の拙劣軟弱」を強烈に
糾弾する。

渡邊から100年後の21世紀冒頭の現在に立って、これを過去の誤った暴論
と批判し否定するのは簡単である。

だが考えてみれば――いや、左程は深く考えなくても――国際秩序は終始一貫
して「千萬言の修辭と理想論」ではない。「詭辯と猾智と強力」に依って
維持されてきたし、これからもそうであるはずだ」。いわば「詭辯と猾智
と強力」の3者が一体となった時、それを「千萬言の修辭と理想論」で粉
飾しながら自らの生存空間を拡大するのが国際政治の本質だろう。世界唯
一の超大国を誇っていた時代のアメリカがそうであり、そのアメリカを追
い付き追い越そうと猪突猛進する中国がそうだ。

現に習近平政権は「詭辯と猾智と強力」を綯い交ぜにしながら、「一帯一
路」を画策している。

それにしても「我が當局の對外折衝の拙劣軟弱」は、いつまで続くという
のだ。《QED》 

◆「なめたらいかんぜよ」

渡部 亮次郎


2010年1月10日の産経新聞「小沢氏に訪米要請」にはのけぞった。小沢氏
が如何に「政府」要人では無いとは言え、米政府が、小澤「幹事長」に是
非とも会って「理解と支援を強く望んでいる」というのなら、お出でにな
るのが筋だろう。

<【ワシントン=時事】オバマ米政権の対日政策を担うキャンベル国務次
官補(東アジア・太平洋担当)は8日、時事通信との会見で、日米安全保
障条約改定50周年を記念して、19日に日米両政府が声明を出す計画である
ことを明らかにした。

また、米政府が交渉するのは日本政府代表だが、民主党の小澤一郎幹事長
は「極めて重要な役割を認識している」と述べ、小澤幹事長の訪米を要請
した。

同次官補は、安保条約改定が行なわれた1960(昭和35)年1月19日は「最も
根幹的勝つ重要な日米安保同盟が樹立された非常に重要な日だ」と指摘。

19日に、外務・防衛担当閣僚による日米安全保障協議委員会(2プラス
2)や両国首脳の声明発表を希望していると述べた。

「我々の交渉相手は日本政府の公式な代表だが、小沢氏の極めて重要な役
割についても認識している。今後、同氏の理解と支援を得られることを強
く望んでいる。是非、同氏に訪米して欲しい。

同氏との充実した対話を模索することに非常に関心を持っている。」>

これに対する小沢氏の反応は明らかでないが、小沢氏は国務次官補(局長
クラス)に舐められたのだから、訪米するわけには行かないだろう。

紳士同士、武士同士の間なら、用事のあるほうが相手を訪問するのが筋だ
ろう。それなのに、日本の命運を左右するもんだいだから
小澤のほうから、訪米したらどうかというのでは、まるで属国の目下のも
のを「呼びつける」のと同じである。

時事通信の記者もどうかしている。何故、この点を質さなかったのか。国
務次官補程度とはいえ、米政府高官に単独インタビューできて舞い上がっ
たのか。

いずれにせよ、この際、小澤氏は訪米すべきではない。北京観光団引率に
次ぐ失態になる。2010・1・10

◆木津川だより 壬申の乱 @

白井繁夫


本誌読者の皆様は、日本の歴史上有名な「壬申の乱」のことは良くご存じのはずです。しかし、私が長く書き続けている本題「木津川だより」の流れの中で、この「壬申の乱」を避けて通る訳にはなれません。

長文になりますが、大海人皇子の侵略心理、巧妙な戦略、天運などにつて、思いのままに詳しく綴ってみようと思います。「壬申の乱」の歴史の流れは、これから追々。

さて、(672年)天武元年6月24日大海人皇子が東国を目指してひそかに吉野を脱出した時は、大海人に従った者は妃の鸕野皇女と草壁.忍壁両皇子、舎人20余人に女孺(にょじゅ:鸕野皇女などに仕えた女官)わずか10余人の人数でした。

しかも、初日は約70kmの山道を進む、(道中には大友皇子の生母の出身地があると云う)超ハードのスケジュールです。(出家して吉野を目指して早朝より大津宮を出た日の距離の飛鳥「島宮」までとほぼ同距離を進みますが、その日の道中「山城道」は全体的に平坦な平野でした。)

大海人皇子が約半年間推考して戦略を練り、吉野脱出を決断した「壬申の乱」の大きな要素ともみなされるのは、「親の子に対する愛」がそうさせたと 私は思うのです。

天智天皇の晩年、生母が「卑母」である大友皇子を「皇位継承者」にと願い今までのしきたりを無視する行為を取る、強い愛と同じで、大海人皇子の妃の鸕野皇女は天智天皇の皇女.むすめであり、夫は天智の実弟です。

だから大海人皇子は有力な「皇位継承者」でもありました。而も二人の間の子(草壁皇子)は由緒正しい皇孫です。親(鸕野)の愛も非常に強いものだったと思います。

吉野脱出に先立ち6月22日には、前回本誌に掲載した如く、東国(湯沐令 多品治)に向けて発進した3名の大海人の使者(村国男依ほか2名)が、吉野.大倭.伊賀.伊勢.美濃へ至る行軍ルートの総てにわたる計画が周知され、準備を整えられるように派遣されたのです。

脱出ルートは吉野へ来た泉津.乃楽山.飛鳥の平坦地を避けて、吉野から吉野川沿いに上流に向かい、矢治峠を越える山道から「菟田(ウダ)の吾城:奈良県宇陀市」を抜け、「名墾(名張市)の横河」(名張川と宇陀川の合流点:畿内と外国の境)を経て「伊賀の中山」(三重県上野市)へ出るという、険しいルートでした。

菟田の吾城で屯田司(ミタノツカサ:近江朝の食料供御を行う司)土師馬手が食事を奉る。
(先遣使者よりの言で舎人土師氏は大海人皇子の行幸?と思ったか、大海人一行は、初日70余kmの行軍中、この時食事したのが最初で、何と初日は宿泊地まで食事なしで進む。)

飛鳥京の留守司高坂王への使者は3名が当日(24日)に発遣され、「駅鈴:ウマヤノスズ」を乞わせました。(美濃までの「駅家:ウマヤ」において大海人一行の馬の確保依頼:実際は独自で手を打っていました。高坂王は大海人皇子に好意を持っており、快応していたかも?)

使者3名の役割です。

大分恵尺(オオキダノエサカ)は、近江へ急行して大津.高市両皇子に大海人皇子の吉野脱出報告とその後の合流(予定戦略)など、黄書大伴(キフミノオオトモ)は大倭の「百済の家」に結集して兄の大伴馬来田と共に菟田で合流、逢志摩(オオノシマ)は近江朝からの追手がすぐ来ぬように近江に伝わらぬよう留守司に頼みて帰還など。

また「菟田郡家」(現宇陀市榛原区萩原)で湯沐の米運搬の駄馬ニオイウマ50頭(湯沐令多品治オオノホンジの手配の馬)を大海人皇子が得る。吉野から32kmの大野(室生)で日没、これより夜間行軍で「隠駅家:なばりのうまや」に着き、その家を焼いて人夫を求めてみたが真夜中では烽火(のろし)の役目だけで終わる。

「伊賀の中山」は大友皇子の生母の出身氏族(竹原氏)の本拠地へ東北東約8kmの至近距離です。

ところが、そこへ着くと「郡司」が数百の兵を率いて一行に合流してきました。伊賀国の北部の阿閉氏と南部の伊賀氏がともに大海人軍の味方に付いてくれたのです。
(対新羅戦用に近江朝が徴発した徴兵が100余人大海人軍に加わったのです。)

東海道ルートを外れ美濃への最短ルートを採り、「伊賀駅家」:上野市を流れる木津川を挟む古郡フルゴオリ:から「莿萩野」(タラノ:伊賀市佐那具町)へ25日の夜明け前に着きました。

吉野を出て70余km、20時間の進軍を終えてやっと休息、2回目の食事を取ることが出来たのです。
(飛鳥から近江朝へは高坂王の情報統制が有り、まだ気づかれずに進みました。)

25日の未明に近江と伊勢の交通の要所「積殖(つむえ)の山口」:三重県伊賀町柘植(大和と東国を結ぶ道が合流)に大海人一行は到着し、そこへ高市皇子の騎馬隊が舎人達と「鹿深」(カフカ:滋賀県甲賀郡)を越えて合流して来ました。

大海人一行は、伊賀と伊勢の国境の「加太(かぶと)峠」を越えて「鈴鹿郡:すずかのこおり」に入り(東国に入り)脱出が、ひと先ず成功しました。(近江からの高市の舎人は民大火.赤染徳足.大蔵広隅.坂上国麻呂.古市黒麻呂.竹田大徳.胆香瓦安倍:イカゴノアヘです。)

伊勢の「鈴鹿郡家こおりのみや」(鈴鹿郡関町金場付近)では国宰の三宅石床(イワトコ:駄馬50頭送付者)と、三輪子首(コビト)、湯沐令(ユノウナガシ)の田中足麻呂(タリマロ)と高田新宅(ニイノミ:祖父の高田足人が、私馬を大海人に美濃.尾張まで提供)などが出迎え、大量軍が集結しました。

伊勢の国宰三宅連石床は大海人皇子の下で、伊勢軍の統率者となり500の兵を率いて「鈴鹿の山道」を25日中に塞ぎました。三輪子首の軍は後日大和(飛鳥)進攻軍に編入されました。

25日の夕方、「川曲(かわわ)の坂下」(鈴鹿市木田町)に着き、「三重郡家」(四日市市東坂町)には夜になって到着して休息しました。

6月26日早朝:大海人皇子や草壁.高市などの一行は「朝明郡(あさけのこほり)の迹太川(とほかわ)の辺」に到着して、天照大神を遥拝しました。(戦勝祈願)。

「朝明郡家」(四日市市大矢知町)の大海人軍の処に、高坂王の一行が「鈴鹿山道」に来たと連絡あり、路益人を派遣したら、大津皇子の一行と近江へ派遣した大分恵尺等が留められていました。

(大津皇子幼少のため、馬でなく加太峠越えを「輿」で越えたから遅れた。)
ようやく大津皇子の一行は両親に合流できたのです。(大津の舎人の中には後の瀬田橋の攻防で先鋒となった大分稚臣(オオキダノワカオミ)や舎人の戦死者も多数でました。)

他方では、22日に先遣していた舎人の村国男依(オヨリ)が「安八磨郡(あはちまのこほり)の兵」3000人を率いて、「不破道の閉塞」(岐阜県関ケ原町)に成功した、との吉報を得ました。

夕方吉野から145kmの「桑名郡家」に着き、大海人一行は留まりました。
(大海人皇子は東海軍(尾張.三河)、東山軍(信濃.甲斐)を徴発する使者を派遣する。)

27日は妃の鸕野と草壁.大津を桑名に残して、野上(美濃の野上郡:現関ケ原町野上)へ大海人は行き、高市は「和蹔:わざみ」(関ヶ原町関ヶ原)から出迎え。ここが吉野を出て4日間(186km)の行軍の終着地とし、「野上行宮かりみや」としました。

多品治と村国男依が塞いでいた「不破道」で、尾張国司守:小子部連鉏鉤(チイサコベノサイチ)が2万の兵を率いて配下に入りました。

こんな中で、同じ26日の夕方近江朝の東国への使者「書薬フミノクスリと忍坂大摩侶」が捕捉され、少し遅れて来た韋那磐鍬(イナノイワスキ)がこれを見て大津宮へ逃げ帰った結果、27日には近江朝が「事の重大性」に気づいたのです。

「不破道」の封鎖が1日遅れていたら、2万の兵は近江朝軍の支配下になり、尚且つ、東国へ近江の使者が入っていたことでしょう。天運は大海人皇子に味方した、と思います。

「和蹔」に大海人軍の主力部隊を集め、全軍の最高司令官として高市皇子を任命して、
6月28日には全軍を検軍し、高市の下で指揮命令するなどの軍事訓練を行いました。

近江朝は、罠に嵌ったのです。

遅れ馳せながら、やっと戦闘準備に入り、西国へも徴兵を急がす使者の派遣、近江路と大和飛鳥の2方面への戦闘軍の編成に入りました。

しかし、大友皇子は唐からの使者「郭務悰カクムソウ」の応対に忙殺されていたため、迂闊にもこの時点まで、大海人皇子の動静を把握していなかったのです。

だから、大海人皇子が既に東国に入り、対新羅戦用に徴兵した兵2万余が大海人軍に加わったと云う情報も得ていなかったのです。大友皇子は後手後手に回ったのです。

近江路と大和飛鳥で「壬申の乱」の戦闘の口火がいよいよ切られます。(次回につづけます。)

参考資料: 戦争の日本史2  壬申の乱  倉本一宏 著
      木津町史  本文篇   木津町 
      壬申の乱   中公新書    遠山美都男著 

2019年05月25日

◆高関税は序の口、これからが本番だ

宮崎 正弘


令和元年(2019)5月19日(日曜日)通巻第6084号 

米中貿易戦争、高関税は序の口、これからが本番だ
  5G開発で後れを取った米国勢、日本はお呼びではなかった

▲5G特許をめぐる競争は数年前から熾烈化していた。
ファーウェイ排除の前段階からの米中激突の経過を振り返ろう。

2018年春に習近平がトランプに直接電話をかけて、泣きついたとかの情報
があるほど、ZTE(中興通訊)へのインテルの半導体供給停止処分は衝
撃的かつ死活的だった。ZTEはインテルからの半導体供給が止まり、ド
ル箱だったスマホの組み立てが不可能になって倒産しかけたのだ。

ZTEはイランへの不正輸出がばれて、7年間の取引停止を言い渡された
ばかりだった。

トランプの次の手は中国への半導体製造装置の輸出禁止だった。

これで福建省晋華集成電路(JHICC)は、せっかく工場を新築したの
に、操業が不能となった。台湾から来ていた百人のエンジニアも路頭に迷
い、鳴り物入りの最新鋭工場は閑古鳥、まもなくペンペン草がはえるので
はないか。

完全なるファーウェイ排除となれば、中国として生き残る道は部品の国内
生産しかない。半導体の自製化である。

日米はともかく、中国はスマホ、基地局の輸出先を欧州とアフリカならび
にミャンマーなどアジアの発展途上国の市場に置き換えている。東チモー
ルの山奥や、ミャンマーの辺疆へ行っても現地人がファーウェイを使って
いた光景を目撃したが、驚きである。

そのうえファーウェイは、最悪シナリオに備え、半年分の生産に必要な部
品をしずかに備蓄してきた。昨秋にぴたりと停まった日本への発注が突如
ぶり返していたのは、部品備蓄が目的だったのだ。

 鴻海精密工業は董事長の郭台銘が次期台湾総統に立候補するなどと息巻
いたが、中国の主力工場から大量のレイオフをなし、インドなどへの工場
移転を発表した。また一部は台湾へ復帰するとした。

米中貿易戦争は凄まじい突風となって全中国に吹き荒れ、一部、共産党の
高官は「GDPの1%減となるだろう」と予測するが、1%ではなく、
10%の悪影響がすでにでている。中国の株式市場は暴落寸前で、5月5日
から17日までに深セン株式市場で7・5%の下落、上海株式市場で5・
6%の下落となった。

遅きに失したが、中国は半導体に自製化を本格的に稼働させる。なにしろ
インテルとクアルコムからファーウェイのみならず業界3位の小美(シャ
オメイ)も、廉価販売のOPPOも、半導体の供給を受けてきたのだか
ら、今後、生産が直撃弾を受けることになる。

習政権は、半導体内製化に発破をかけ、開発メーカーなどが赤字であって
も、株式市場から資金を調達しやすいように上場を急がせる方向にある。

▲5G特許の「出願件数」で中国は米国を抜いた

5G開発競争で、たしかに中国は「特許出願」の件数において世界最大で
ある。あくまで「出願」で、特許が「成立」した件数でないことを留意し
た上で、次の一覧を眺めてみよう。

5G必須特許出願の企業別シェアは、ドイツの「IPリッテクス社」の調
査に拠ると、

 ファーウェイ(中国)      15・05%
 ノキア (フィンランド)    13・92
 サムソン (韓国)       12・74
 LG (韓国)         12・34
 ZTE(中国)         11・70
 クアルコム(米国)        8・19
 エリクソン(スウエーデン)    7・93
 インテル(米国)         5・34

明らかに米国並びに北欧が劣勢にあり、中国の大手2社で34%強。世界の
3分の1を占める。日本企業と言えば、「まるでお呼びでない」。

ただし、中国勢の特許出願は基地局に関する技術が殆どである。だが、一
見優勢にみえる中国の5G開発には幾つかの深刻な問題点がある。

第一に「出願」と「成立」した特許とをよくよく吟味しなければならな
い。出願が多くとも、特許として認められるかは別の問題である。

第二に5G技術は4Gの上に成立するのである。つまり4G特許は圧倒的
に米国クラルコムが保有する上、5Gは、4G特許へのロイヤリティ支払
いを前提とする。だから中国はダミー(シンガポール籍のブロードコム)
を使って、クアルコムの買収に、史上空前の買収金額を示して乗っ取ろう
としたのだ。

土壇場でアメリカは、この中国が背後にいる野心的な買収案件に「国家安
全保障にかかわる」として拒絶するという行動に出た。
 
すでにオバマ政権時代から、中国の通信機器のスパイ行為、バックドアな
どの仕掛けによって情報が中国に筒抜けになっている「国家安全保障上の
脅威」は情報関係者から指摘されていたが、オバマ政権はなにも手を打た
なかったのだ。

米下院情報委員会は報告書を作成して「ファーウェイ、ZTEなどの通信
機器は中国のスパイ活動ならびにサイバー攻撃に悪用される可能性が高
い」と警告したため、ようやくオバマ大統領は2013年の米中首脳会談にお
いて「経済スパイ行為をしない」という合意をしたが、中国はこれをまっ
たく無視してきた。


 ▲クアルコムとアップルの特許訴訟、突如、和解へ

さらに重要な変化がアメリカで起きた。アップルとクアルコムは特許使用
料問題で深刻な特許裁判を展開していた。アップルがクアルコムの特許が
異常に高いと難詰し、合計270億ドルの訴訟を米国メーカー同士でいがみ
あい、このためアップルは5G製品の発表が出来ず、このまま行けば
ファーウェイ独走をゆるすことになる情勢にあった。

「アメリカ企業同士があらそっている場合か」と政府や議会、株主、メ
ディアから叩かれ、急転直下の和解。これでアップルの5G参入に目処が
立った。

 
米国企業が認識する中国の脅威とは、次期ハイテクで中国の後塵を拝する
ような事態が目前に迫り、焦燥がつのった背景がある。とくに習政権が
「2017 中国製造」を打ち上げたときに、アメリカは脅威を深刻に認識した。

2017年1月に発足したトランプ政権はホワイトハウスに特別対策室を設置
し、ハイテクに明るい専門家を急遽寄せ集めて、リストを作ってきたのだ。

当時、ホワイトハウスを訪問した加瀬英明氏から同年夏ごろに直接聞いた
のだが「技術の専門家のデスクがもの凄く増えている」。トランプ政権は
発足直後から、この問題に対応するチームを直轄してきたことになる。


 ▲世界の株式市場から時価総額250兆円が蒸発した

2019年5月10日、トランプ大統領は、追加関税増額措置(2000億ドル分の
中国製品に25%の高関税)を発表、続けて同月15日、ファーウェイへの部
品供給を事実上とめる「非常事態宣言」の大統領令に署名した。「中国」
と名指しはないが、だれが見ても中国製品の流入阻止が目的であることは
明瞭だ。

同時に米商務省は「ELリスト」を作成し、約68社をその対中禁輸リスト
に挙げた。

このため株式市場は大混乱に陥った。世界すべての株式市場から時価総額
に直して、およそ250兆円が蒸発した

ファーウェイは世界68社から年間670億ドルにおよぶ部品を購入してき
た。日本からは村田製作所、東芝メモリィ、日本電産、ロームSONY、
三菱電機など電子部品、カメラ11社、アメリカはインテル、クラルコム、
マイクロソフト、ブロードコムなど、じつに33社、台湾と韓国からで、中
国でファーウェイに部品を収めてきたのは京東方科技集団、BYDなど25
社に過ぎなかった。

むろん、米国企業をも直撃する。
 
トランプの支持基盤である中西部では穀物輸出の農家、穀物商社が輸出減
に悲鳴をあげた。サイロも、バージ船のターミナルも物流に混雑する風景
はなくなり、中国でもターミナル、コンテナヤード、倉庫に行き交フォー
クリフトの数が顕著に減少し、とくに倉庫スペースは空きが目立つ。

一度は米国復帰を宣言していたハーレー・ディビットソンは対中輸出が難
しくなるため、4月23日、ウィスコンシン州からタイへ工場移転を決めた。

半導体を供給し、中国で組み立ててきたスマホ、とりわけアップルのi
フォンは激甚な直撃を受け、米国内での販売価格は150ドルほど高くなった。

5月初旬の株価下落率でワースト銘柄は半導体のインテル(10・7%の暴
落)、化学材のデュポン(9・8%)、半導体のエヌビディア(7・
8%)、アップル(6・9%)、動画配信のネットフリックス(6・
2%)という具合だった。

アメリカも中国も高関税適用対象からライフラインのかかわる品目を外し
てきたが、とくに中国は豚肉、食料などの税率を据え置いた。報復で中国
が高関税をかけたのは、ガスなど米国以外の輸入代替国があるものに限ら
れた。

一方、米国も消費財(傘とか、スポーツシューズ、PC、スマホ)への関
税を据え置いてきたが、これらも第四次報復関税が発動すれば対象となる。

米中貿易戦争、まだまだ先の見通しが不透明だ。

     
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 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1896回】       
――「民國の衰亡、蓋し謂あるなり」――渡邊(8)
渡邊巳之次郎『老大國の山河 (余と朝鮮及支那)』(金尾文淵堂 大正
10年)

               ▽
撫順炭鉱の苦力宿泊所を覗く。彼らは「其得る所の賃金は多く之を賭博に
費やす」のであった。彼らを取り纏める「把頭」と呼ばれる中国人の人足
頭は妻帯し、「權力と高給とによりて、猶人らしき生活を樂み得べしと雖
も」、苦力には賭博程度の楽しみしかない。

「上半身裸體の炭塵に汚れたる儘」で「頭を衝き合ひつゝ、嚴禁せる賭博
に耽る」。賭博を発見した「年少日本人監督のために棍棒を以て叱咤打擲
せらるゝも怒らず、驚き且笑つつて蜘蛛の子を散らすが如く逃げ去る」の
であった。

そんな有様を目にした渡邊は、「窃に惻隠の情を催さゞるを得ず。其生活
の寧ろ動物的にして、彼等の自覺の百年河清を俟つよりも望み難かるべ
し」と綴る。

こういう場面に出くわした際、おそらく欧米列強の支配者は「窃に惻隠の
情を催」すことなく、躊躇せず断固として厳罰で臨んだはず。殖民地の被
支配者に「窃に惻隠の情を催」していた日には殖民地経営なんぞできな
い、と嘯きながら。きっと、そうに違いない。

撫順から奉天を経由して南下し、山海関を越えて北京へ。

北京では初期の陸軍支那通を代表する青木宣純中将(安政6=1859年〜大
正13=1924年)に会っている。因みに、青木が北京政府応聘の軍事顧問と
して黎元洪総統の近くにあったのは1917(大正6)年1月から1923(同12)
年1月までである。

「温容一野翁の如き風貌」の青木によれば、「支那の戰爭と稱するもの、
聲容を以てし、文書を以てし、電報を以てし、必ず殺傷相當るが如き激烈
なる鬪爭に出づるにあらざるをや、風雲の動くところ安心すべからず」と
説く。

話が佳境に入る直前、客人が来たということで渡邊は青木の許を辞去して
いる。これから青木が何を話そうとしたのか。大いに興味をそそられると
ころだが、青木や坂西利八郎以下の陸軍支那通、それに大陸浪人の功罪に
ついては、いずれ詳細に論ずることにして、今は渡邊の旅を先に進みたい。

渡邊は明朝歴代皇帝を葬る十三陵、居庸関、弾琴峡、長城(八達嶺)など
を回るが、「初めて支那人の盗癖の油斷ならざる」を知る一方、「支那人
の衣服纏ふの嚴にして、婦人は全く皮膚を露出せず、男子は上半身を露出
すると雖も、斷じて腰部以下を示さず、少年童女と雖も亦相同じく、女兒
は決して胸背並びに乳房を暴露せず、村落の間亦此習慣を存せる」を知っ
たと記す。

さらに足を中国本部と外蒙との接点に位置する張家口まで伸ばす。「人口
六萬五千を有する北京以北唯一の商業地」とはいうものの、やはり旅館に
は閉口したらしい。

「當惑したるは便所の設備の不完全なり。大便所は外壁ありと雖も、入口
に戸あるにあらず、各箇の間に隔壁障陛屏あるにあらず、諸人偶然同時に
會せんか、相並んで脚を接して相見つゝ便せざるべからざるの奇劇を演出
すべし。從つて余等夜中若くは?旦人なき時を窺つて之を爲すの道を取れ
り」。

「人口6萬5千を有する北京以北唯一の商業地」でこれだから、他は押し
て知るべし。とはいえ、これがスタンダードだから我慢、ガマン、我慢、
ガマン、我慢・・・である。

張家口郊外の農村を歩き「鮮人の深入此の地方に及べるか」と綴る。出稼
ぎ農民か。入植者か。彼らの進出と日本の影響力拡大は重なっているの
か。彼らは独自に黄塵万丈の地まで進出したのか。確かに「木は動かせば
死ぬが、ヒトは動かすと活き活きする」ものだ。

張家口から北京に戻り故宮内の武英殿で「清朝鐘愛の珍寶」を見る。
「其輸送の間、多くの僞物と交換せられ」て、最後は権勢家に私蔵されて
しまう。彼らこそ「獨り國寶を私するのみならず、又國家國民を私して其
存亡消長を雲烟に附するの徒なり。而して民國此等の徒に富む、民國の衰
亡、蓋し謂あるなり」。

ニセ国宝、ニセ国家に、ニセ国民・・・?《QED》

◆「お富さん」で大学生

渡部 亮次郎


まだカラオケなどない昭和29(1954)年、「お富さん」の明るく小気味よ
いテンポは、手拍子だけで歌えるということもあって、会社帰りの一杯飲
み屋、酒宴の席では必ずといっていいほど歌われ、「宴会ソング」の定番
として広く庶民に浸透していった。

その勢いは子ども達にも波及し、「♪いきなくろべえ〜 みこしのまあ〜
つに」と意味もわからず歌っていたものだ。

このことは、その歌詞の内容から「子どもが歌うには問題がある」とし
て、教育委員会やPTAから異論があがり、小学生が歌う事を禁止する自治
体も出るなどちょっとした社会問題にまで発展した。

もっとも、子ども達にとっては意味などわかるはずもなく、いや、大人で
さえも、この歌舞伎を題材に求めた歌は歌舞伎ファンでない限りは理解で
きなかった。

とにもかくにも、作曲者の渡久地(とくち)政信氏は「みんなで楽しく飲ん
で歌える歌をつくりたかった」と述懐しているので、その狙いは見事的中
したのである。

この年の4月、上京して大学入学。なかなか下宿が見つからず、親戚で不
愉快な思いをしたもの。遂に絶縁状態となって今日に至っている。冨さん
は苦い歌である。

お富さん
歌 春日 八郎
作詩 山崎 正  作曲 渡久地政信
昭和29年
1 粋な黒塀 見越しの松に
  仇な姿の 洗い髪
  死んだ筈だよ お富さん
  生きていたとは お釈迦さまでも
  知らぬ仏の お富さん
  エーサオー 玄治店(げんやだな)


2 過ぎた昔を 恨むじゃないが
  風も沁みるよ 傷の跡
  久しぶりだな お富さん
  今じゃ呼び名も 切られの与三(よさ)よ
  これで一分じゃ お富さん
  エーサオー すまされめえ


3 かけちゃいけない 他人の花に
  情かけたが 身のさだめ
  愚痴はよそうぜ お富さん
  せめて今夜は さしつさされつ
  飲んで明かそよ お富さん
  エーサオー 茶わん酒


4 逢えばなつかし 語るも夢さ
  誰が弾くやら 明烏(あけがらす)
  ついてくる気か お富さん
  命みじかく 渡る浮世は
  雨もつらいぜ お富さん
  エーサオー 地獄雨

「お富さん」は春日八郎のために作られた歌ではない。作曲者である渡久
地政信はこの曲を岡晴夫のために用意していた。ところがその岡晴夫はキ
ングとの専属契約を解消してフリーになってしまったのだ。そこで社内で
代替歌手を検討した結果、春日八郎でということに決まった。

春日八郎は苦労の末、ようやく2年前に「赤いランプの終列車」をヒット
させ、その後もそこそこの売上げを上げてはいたものの、まだ社内では絶
対的な立場ではない、いわば新人歌手同様の扱いであった。

急遽、自分に回ってきた「お富さん」はもともとは他人の歌。しかも普段
馴染のない歌舞伎がテーマということもあって、とまどいは隠せなかった
が、逆にそれが功を奏したのか、変な思い入れもなく、肩の力が抜けたそ
の歌声は軽快なテンポと妙に噛み合っていた。

テスト盤の社内での評価は上々で、手応えを感じ取ったキングは宣伝にも
力を入れた。代替歌手ということを逆手にとって、歌手名と曲名を発表し
ないまま、ラジオや街頭宣伝をするなどのアイデアで徐々にリスナーの興
味を引いていったのだ。

当時の世相ともマッチて空前の大ヒット。下積み生活の長かった春日八郎
はこの時すでに29歳、だが、回ってきたお鉢は運まで運んできたのであろ
うか、この曲によって押しも押されもせぬ人気歌手となった春日八郎は、
その後もヒットを続け、昭和を代表する歌手となったのはご存知の通り。

この歌の歌詞は、歌舞伎の有名な演目である「与話情浮名横櫛」(よわな
さけうきなのよこぐし)の一場面「源氏店」(げんじだな)から題材を得
ている。それまでの春日八郎の歌の傾向からすれば、いや、というより、
バラエティに富んだ流行歌が数多く存在した歌謡曲全体を見渡しても非常
に珍しいテーマであった。

この芝居で最大の見せ場が「源氏店」の場で、他人の妾であったお富さん
と許されぬ恋に落ちた与三郎は相手の男にばれてメッタ斬りにあい、お富
さんは海に落ちた。九死に一生を得た与三郎は3年後、松の木が見える黒
塗りの塀の家で死んだはずのお富さんと出会うというシーン。

そこで与三郎の「しがねえ恋の情けが仇」の名セリフが出てくるわけだ
が、山崎正の歌詞はこの部分を実にうまくメロディにはめ込んでいる。

尚、場歌舞伎では「源氏店」(げんじだな)となっているが、これは実際
にあった江戸の地名「玄治店」(げんやだな)(現在の東京都中央区日本
橋人形町あたり)の漢字読みに当字をしたものだ。

前年の昭和28年あたりから、久保幸江、榎本美佐江らによって芽を吹きは
じめていた「お座敷歌謡」「宴会ソング」は、この「お富さん」によって
見事に昇華し、後に登場する三波春夫の「チャンチキおけさ」、五月みど
りの「一週間に十日来い」などに結実するのである。

渡久地政信は奄美大島の出身。あのイントロの独特のリズムは琉球音楽を
取り入れたもの。永く愛され続けた「お富さん」は、そのアイデア溢れる
オリジナリティで春日八郎の歌として定着し、スタンダードとしてリズム
とサウンドは残っても、今、あえて歌舞伎を意識する人は少ないだろう。

春日八郎
●本名:渡部実
●大正13年10月9日生まれ 1991年10月22日没
●福島県・会津出身

旧制中学を中退し13歳で歌手を目指して上京。東洋音楽学校(現在の東京
音楽大学)声楽科に学び、新宿「ムーラン・ルージュ」などでアルバイト
しながら歌手活動を始めたが、太平洋戦争に突入。兵役を経て戦後再び上京。

長い長い苦闘の末に昭和23年、キングレコード新人歌謡コンクールに合
格。作曲家、江口夜詩に師事し、昭和24年正式にキングレコードの専属歌
手となる。

最初の芸名は歌川俊。ようやくプロ歌手としてスタートしたものの、先輩
歌手の前座ばかり、相変らず鳴かず飛ばずの下積み暮しが続き、いたずら
に年月だけが過ぎていくだけかに思えた昭和27年、「赤いランプの終列
車」がヒットした。

「雨降る街角」「街の灯台」とスマッシュ・ヒットを続け、昭和29年の
「お富さん」の大ヒットで人気が定着。三橋美智也、若原一郎とならんで
「キング三人衆」と呼ばれた。続く昭和30年には「別れの一本杉」がまた
また大ヒットしてその地位はゆるぎないものとなった。

玄治店は幕府の典医であった岡本玄冶法印(おかもとげんやほういん)の
屋敷の事で、現在の東京都中央区日本橋人形町あたり、そのことからこの
周辺を玄治店(げんやだな)と呼ぶようになった。なお、この地域には芝
居関係者も多く住んでいた。人形町3丁目交差点には「玄治店由来碑」が
建立されている。

◆昭和天皇の御心を正しく受けとめる

櫻井よしこ


「昭和天皇の御心を正しく受けとめるとともに皇室を政治利用してはなら
ないと自戒する」

今年元旦、「朝日新聞」は1面トップで「昭和天皇直筆の原稿見つかる」
とスクープした。昭和60年頃から病に臥せられる63年秋頃までの御製、
252首が確認されたとの報道だった。

内、未発表の御製は211首あった。しかも昭和天皇の直筆で残されてお
り、同月7日には詳細が続報された。

ところが約4カ月後、雑誌「Hanada」6月号が「直筆御製発見 昭和
天皇の大御心」と題して「世界日報」編集局長、藤橋進氏の論文を掲載し
た。世界日報は朝日新聞が報ずる「かなり前に」昭和天皇の直筆原稿を入
手し、調査を進めていたという。両方を較べ読めば、昭和天皇の息遣いを
より近くより深く感じさせるのは藤橋論文である。

藤橋氏は、昭和天皇が乃木希典学習院院長(元陸軍大将)から教わった質
実剛健の精神を生涯守り通したこと、そのひとつの事例が、発見された御
製の資料にも見られると指摘する。

資料の中に縦8.8〜15センチメートル、横7.5〜10.5センチメートルのメモ
用紙8枚がある。小さいものは手のひら程の大きさだ。昭和天皇はその裏
にもお歌を書きつけていらした。メモ用紙には紙を貼り合わせたものもあ
るという。1枚の紙も無駄にしないお姿は乃木大将の教えの質実剛健その
ものである。

Hanadaは鉛筆書きの直筆原稿の写真を何枚も掲載したが、その字体
から昭和天皇のお人柄が伝わってくるようだ。昭和天皇の字体と話し言葉
には共通項があるように感ずる。質朴で飾るところがない。無駄もなく率
直だ。まっすぐ核心に迫る趣がある。

多弁でも能弁でもなかった昭和天皇にとって和歌は心の真実を表現する重
要な手段だったと思われる。ご生涯で約1万首を詠んだとされるが、今回
発見された御製の中には香淳皇后についてのお歌が4首ある。いずれも愛
情と思いやりに満ちている。

「露台にてきさきと共に彗星をみざりしこよひ(は)さびしかりけり」

体調をくずしていらした香淳皇后と一緒に彗星を見ることができない寂し
さを率直に表現していらっしゃる。4首すべてに「さびし」「かなし」と
いう言葉が入っている。香淳皇后への深い愛情の、少年のように純粋で率
直な発露だと受けとめた。

昭和天皇は政治家についてただひとり、岸信介元首相について詠まれ、3
首残された。

「國の為務たる君(は)秋またで 世をさりにけりいふべ(ぐれ)さびしく」

「その上にきみのいひたることばこそおもひふかけれのこしてきえしは」

「その上に深き思ひをこめていひしことばのこしてきみきえにけり(さり
ゆきぬ)」

この部分の欄外には「言葉は聲なき聲のことなり」と書かれている。昭和
35年の安保改定でデモ隊が国会を取り囲んだとき、岸首相は「デモの参加
者は限られている。(中略)私は『声なき声』に耳を傾けなければならな
いと思う」と語ったことを当然思い出す。「岸首相の孤独な戦いへの深い
同情を詠まれた」と、藤橋氏は解説したが、同感である。

作家の半藤一利氏は昭和天皇が岸首相を評価していたのかと「複雑な気持
ち」「日米の集団的自衛権を定めた安保改定に賛成の気持ちを持っておら
れたのだろうか」「心から驚いている」と朝日新聞にコメントした。

昭和天皇はひたすら国民の幸せと国家の安寧を願われ、立憲君主国の君主
として、国の安全を大きな高い視点から考えられたにすぎない。また、
「国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり」とも詠
まれたように、日本の国柄の大事さも考えておられた。昭和天皇のこの御
心を正しく受けとめたい。同時に、殊更にそのことを主張して皇室を政治
利用してはならないと自戒するものだ。

『週刊ダイヤモンド』 2019年5月25日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1280

◆紫式部と蕪村の「和紙」

毛馬 一三


書き出しは、大阪俳人与謝蕪村のことからだ。蕪村(幼名:寅)は、生誕地大阪毛馬村で幼少の頃、母親から手ほどきをうけて高価な「和紙」を使って「絵」を描いて、幼少時期を楽しんでいたからだ。

寅は、庄屋の子供だったから、高価な「和紙」を父から自在に貰って、絵描きに思いのままに使ったらしい。

その幼少の頃の絵心と嗜みが、苦難を乗り越えて江戸に下り、巴人と遭遇してから本格的な俳人となったのも、この幼少の頃「和紙」に挑んだ「絵心」とが結び付いたらしい。

さて、本題―。

高貴な「和紙」の事を知った時、ジャンルは違うが、紫式部が思い切り使って「和紙」を使って「世界最古の長編小説・源氏物語」を書いたことを思い出した。

そのキッカケは、福井県越前市の「和紙の里」を訪ねてからである。

越前市新在家町にある「越前和紙の里・紙の文化会館」と隣接する「卯立の工芸館」、「パピルス館」を回り、越前和紙の歴史を物語る種々の文献や和紙漉き道具の展示、越前和紙歴史を現す模型や実物パネルなどを見て廻った。

中でも「パピルス館」での紙漉きを行い、汗を掻きかき約20分掛けて自作の和紙を仕上げたのは、今でもその時の感動が飛び出してくる。

流し漉きといって、漉舟(水槽)に、水・紙料(原料)・ネリ(トロロアオイ)を入れてよくかき回したあと、漉簀ですくい上げ、両手で上下左右に巧みに動かしていくと、B5くらいの「和紙」が出来上がる。まさにマジックの世界だ。

ところでこの越前和紙だが、今から約1500年前、越前の岡太川の上流に美しい姫が現れ、村人に紙の漉き方を伝授したという謂れがある。

山間で田畑に乏しかった集落の村人にとり、紙漉きを伝授されたことで、村の営みは豊かになり、以後村人はこの姫を「川上御前」と崇め、岡太神社(大瀧神社)の祭神として祀っている。

<その後大化の改新で、徴税のため全国の戸籍簿が作られることとなり、戸籍や税を記入するために必要となったのが「和紙」である。そのために、越前では大量の紙が漉かれ出したという。

加えて仏教の伝来で写経用として和紙の需要は急増し、紙漉きは越前の地に根ざした産業として大きな発展を遂げてきている>。

さて長編小説「源氏物語」の作者紫式部は、執筆に取り掛かる6年前の24歳の時(996年)、「和紙」の里・越前武生に居住することになり、山ほどの「和紙」に囲まれて、存分に文筆活動に励んだ。

当時、都では「和紙」への大量の需要があったらしく、宮廷人も物書きも喉から手が出る程の「和紙」だったが、手には入らなかった。

ではどうして都にいた紫式部が、遥か離れた「和紙」の里越前の武生に移住してきたのか。それはご当地の国司となった父の藤原為時の“転勤”に関わりがある。文才だけでなく、商才に長けた為時の実像が浮かび上がる。

<為時は、中級の貴族で、国司の中で実際に任地へ赴く“転勤族”だったそうで、996年一旦淡路の国(下国)の国司に任命されるが、当時の権力者・藤原道長に賄賂の手を使って、転勤先を越前の国(上国)の国守に変更してもらっている。はっきり言えば為時は、淡路の国(下国)には赴任したくなかったのだ。何故なのか。

当時、中国や高麗からの貿易船が日本にやってくる場合、海が荒れた時や海流の関係で、同船団が「越前や若狭」の国を母港とすることが多く、このため海外の貴重な特産品が国司のもとに届けられ、実入りは最高のものだったという>。

藤原為時一族は、中級の貴族ながら文才をもって宮中に名をはせ、娘紫式部自身も為時の薫陶よろしく、幼少の頃から当時の女性より優れた才能で漢文を読みこなす程の才女だったといわれる。

これも商才に長けたばかりでなく、父親の愛情として、物書きの娘に書き損じに幾らでも対処できる「和紙」提供の環境を与えたものといわれる。

<この為時の思いは、式部が後に書き始める「源氏物語」の中に、武生での生き様が生かされている。恐らく有り余る「和紙」を使い、後の長編小説「源氏物語」の大筋の筋書きをここで書き綴っていたのではないだろうか。平安時代の歌集で、紫式部の和歌128 首を集めた「紫式部集」の中に、武生の地で詠んだ「雪の歌」が4 首ある。

越前武生の地での経験が、紫式部に将来の行き方に影響を与えたことはまちがいない。と同時に式部は、国司の父親のお陰で結婚資金をたっぷり貯め込むことも成し遂げて、約2年の滞在の後、京都に戻り、27歳になった998年に藤原宣孝と結婚している>。

越前武生の生活は、紫式部にとり「和紙」との出会いを果たして、後の世界最古の長編小説への道を拓くことに繋げた事は、紛れもない事実であろう。

<紫式部の書いた「源氏物語」の原本は現存していない。作者の手元にあった草稿本が、藤原道長の手によって勝手に持ち出され外部に流出するなど、「源氏物語」の本文は当初から非常に複雑な伝幡経路を辿っていたという。

確実に平安時代に作成されたと判断できる写本は、現在のところ一つも見つかっておらず、この時期の写本を元に作成されたと見られる写本も、非常に数が限られているという>。
 
この歴史の事実と筆者の推論を抱きながら、「紫式部公園」に回り、千年前の姿をした高い式部像に対面してきた。

北京五輪の開会式の時、中国の古代4大発明の一つとして「紙」を絵画の絵巻をCGで描き、国威を高らかに示した。

この紙が7〜800年後に日本に渡り、「和紙」となった。その後、「世界最古の長編小説を書いた女性が日本にいた」ということは、中国は勿論諸外国は知らない。

参考:ウィキペディア、: 青表紙証本「夕顔」 宮内庁書陵部蔵 
(加筆再掲) 

2019年05月24日

◆「ほととぎす」考

眞鍋 峰松


先月中旬に、激しい腰痛が突然に我が身を襲った。丁度、入浴のために身を屈めた途端の出来事。「魔女の一撃」とも表現される、突如に身動き一つもできないほどの激痛が起った。 

私にとっては30才台からの年代物で、以来、約40年間で5回目の「魔女の一撃」。 用心々々しながらでも家の中での歩行が漸く可能となった現在、「魔女」ならぬ「美女の一撃」なら未だしも我慢できるのだが、と冗談混じりの言葉を口に出すことができるまでに回復した。 このような次第で、久振りのこの原稿。

それにしても、月日の経つのは驚くほど速い。寝込む直前には、今年は5月晴れの日々が長く続くな〜と思っていたら、起きれば、もはや梅雨入り。夏も目前だ。 

そう言えば、道元禅師には「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」という有名な歌がある。 一年の移ろう様を斯くも繊細に、しかも短い語句で見事に表現している歌だと感心するのだが、道元禅師が「夏はほととぎす」と詠われているのだから、「ほととぎす」が夏の代表的な風物ということなのだろう。                       

さて、この「ほととぎす」を漢字で書けば、どうなるのだろうか。 

勝 海舟には「時鳥 不如帰 遂に 蜀魂」( ほととぎす ほととぎす ついに ほととぎす )という「ほととぎす」尽くしの句がある。ある書物の受け売りだが、『この句の意味は、少壮のときには時局に対応していろいろ活躍し、時鳥のように騒ぎ立てるが、やがて挫折し、世を慨嘆して故山へもどり、不如帰の心境に生きることになる。これが中年から初老へ掛けてであり、さらに年をとって蜀魂の思いにたつ。 

人生とは斯くの如きものだというのである。その底には同じ「ほととぎす」が、時世が変わり、年をとるにつれて変貌するものの、依然として「ほととぎす」であることには変わりはない、人間も同様であるといった達観がよこたわっていた』というのである。 

時鳥とは「時節に応じてそれを知らせる鳴く鳥」の意で、特にほととぎすが夏の鳥の代表とされたという。

句の中でも、「不如帰」という漢字には最も馴染みがある。徳富蘆花の有名な小説の題名「不如帰」(川島武男と浪子の恋愛小説)のお陰である。 

また、最も難解なのが「蜀魂」で、中国戦国時代の蜀の国で望帝と称した名君がおり、名を杜字といった。見込んだ宰相の開明に譲位するとさっさと山に隠れ住み、やがて世を去った。 

ちょうどその時に、その死を悲しむかのようにほととぎすが高い声で鳴いたらしい。そこから望帝の魂魄はほととぎすに化して天翔けた、という伝説が生まれる。そこから「蜀魂」というほととぎすを表す言葉ができた。

この故事を踏まえて、人は老骨となって隠遁したあと、まさに「蜀魂」と化せれば誠に目出度いかぎり、ということになる。 

私のような年齢ともなれば、同じ「ほととぎす」でも、差し詰め形だけは「蜀魂」ということなのだろうが、仙骨にほど遠い浅薄な我が身、単なる老骨に過ぎないのだろう。

また、花の名前には「杜鵑草」と書いて「ほととぎす」と読む漢字まである。 この「杜鵑草」は百合科に属し、開花時期は、8/25 〜 11/15頃。秋に日陰に多く生え、若葉や花にある斑点模様が鳥のホトトギスの胸にある模様と似ていることからこの名が付いた、また「杜鵑」とも書く、とのことである。

 花言葉は「秘めた意志」というのであるから、本来は男女の秘めたる交情の意なのだろうが、恰も目下、政府・与党と野党間で丁々発止と展開されている安全保障を巡る国会論議のような気がする。
果たして如何なる「秘めた意志」を抱き、如何なる「志」を秘めているのだろうか。

 それとも、現下の東アジアに於ける一触即発の危機を外にした政権争いの野望レベルの「時鳥・ほととぎす」なのだろうか。 それにしても、最終的に、危うし危うし日本の領土・領海の結末でなければ幸いなのだが。  再掲

◆韓国外交は素人か子供か

阿比留 瑠偉


数年前、韓国の大統領が朴槿恵(パク・クネ)氏だった頃に、韓国の学者
らと会食して意見交換した際の話である。たまたま話題が、首相を議会で
選出する日本の議院内閣制と、国民が直接投票で大統領を選ぶ韓国の大統
領制の違いに及んだ。

 韓国の学者は双方には一長一短あると指摘しつつ、次のように語った。
「大統領制のいいところは何でも即決できること。韓国人の好むスピード
感があって気持ちがいい」
「反対に悪いところは、大統領も閣僚も素人がなるところだ。しかも日本
みたいに、何度もいろんな閣僚に就いて政治の経験を積むということもな
く、ほとんど一回しかやらない」

 韓国に限らず、米国やロシア、フランスなど大統領制を採用している国
は数多い。トランプ米大統領も政治経験のない実業家から、いきなり現在
の地位に就いた。国際政治や外交においては素人だと自覚していたからこ
そ、就任時から安倍晋三首相を相談役にしているのだろう。

 それが韓国の文在寅(ムン・ジェイン)政権の場合、国際社会の常識も
マナーもわきまえずに素人外交を展開し続けるのだから、目を覆わんばか
りの現状である。いわゆる徴用工訴訟で、韓国最高裁が日本企業に賠償を
命じる確定判決を出した件に対する無策ぶりは、見ていて恥ずかしい。