2019年05月22日

◆五月に咲き誇る平戸ツツジ

毛馬 一三


大阪府寝屋市と大阪市を結ぶ旧淀川1級河川の城北川堤防の側道は、それに沿っていろんな樹木のある区域が設けられているため、その都度、季節感を楽しめることが出来、気分が豊かになる。
植樹は、サクラやヤマモモ、菊、クスノキ、ツバキなど50種は超すようだが、両岸1`にわたって植えられている。季節ごとに散歩する人の気持ちを盛り上げてくれる。

「平戸ツツジ」は今が満開で、緑の木の中から真っ赤な花が咲き誇り、目線を奪う。背丈がこじんまりしていて、手入れが要らない。今年は寒気が続いているためか、満開期も長持ちしているようだ。

ところで、私はNHK初任地が佐世保放送局だったため、平戸ツツジの原産地の平戸には取材にも、旅行にもよく出かけた。

平戸は平戸島とその周辺を行政区域とする市で長崎県と九州本土の市としては最西端に位置する都市。旧平戸藩松浦氏の城下町で、当時はまだ孤島だったため、今のような大型橋梁はなく、遊覧船で渡った。海上から平戸の高台に平戸城が見えて歴史の想いを募らせる一方、陸に上がった途端この季節には、あちこちで平戸ツツジに囲まれた。

平戸商工会議所による平戸ツツジの説明によると
<平戸ツツジは、平戸原産の常緑のツツジで、平戸・松浦藩の武家屋敷にて種々な原種の交雑により、400年以上の悠久の時を経て育まれた門外不出の花でした。その大輪の花びらは世界一のツツジとも云われ、短い間ではありますが満開の時期にはびっしりと美しく咲き誇り、見る人の目を大いに楽しませてくれます。

その儚い生命の美しさを映そうと、摘み取った花びらを使って一枚一枚染め上げたのが「平戸つつじ染め」です。

自然の花びら染めは1本1本の木から得られる色が全て異なるので、ひとつとして同じ色はありません。また、上に咲く花と下に咲く花でも、染まる色は違ってきます。かけがえのない、その花の個性ひとつひとつを大切に、絹や綿、和紙に映しました。>だという。

さて、平戸が全国に名を馳せているのは、この「平戸ツツジ」と併せて「平戸の歴史」ということになる。
序でながら、平戸の歴史に触れておく。

<慶長5年(1600年)、日本の豊後国に漂着したオランダ船リーフデ号の乗組員の一員であったイギリス人ウィリアム・アダムスは、徳川家康の信頼を受けて江戸幕府の外交顧問となり、「三浦按針」の名を与えられるなど重用された。
慶長16年(1611年)、イギリス東インド会社はアダムスがイギリス本国に送った書簡によって事情を知り、国王ジェームズ1世の許可を得て彼を仲介人として「日本との通商関係」を結ぶ計画を立て、艦隊司令官ジョン・セーリスを日本に派遣することとなった。

慶長18年5月4日(1613年6月11日/同6月21日)に、平戸に到着したセーリスは、アダムスの紹介を得て駿府城で徳川家康に拝謁して国王ジェームス1世の国書を捧呈し、更に江戸城にて将軍徳川秀忠にも謁見。そしてアダムスの工作が功を奏して、この年の9月1日(10月4日/10月14日)には、家康によって「イギリスとの通商許可」が出された。

そこでセーリスは平戸で在留中国商人李旦から借り上げていた邸宅をイギリス商館とし、リチャード・コックスを商館長に任じて6人の部下を付け、更にアダムスを商館員として採用して顧問とした。

商館は後に正式に買い上げられ、イギリス人商館員や日本人使用人も増員された。商館員や使用人は平戸や江戸・京都・大坂・長崎などに派遣されて貿易の仲介を行ったり、平戸を拠点に商船を東南アジア各地に派遣して貿易業務を行った>。
こうして平戸は、我が国での最初の外国貿易の拠点となったのだ。

ところで、平戸を有名にさせているのは、キリスト教との関わりだ。
<平戸は、日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルが三度にわたって布教に訪れた地であり、平戸島や生月島では多くの住民がカトリックの洗礼を受け、その後の江戸時代の禁教令下でも隠れキリシタンとして信仰を受け継いでいった人が多かった。

明治時代に禁教が解かれて、平戸でも宝亀、紐差などの教会が建てられた。聖フランシスコ・ザビエル記念教会のある平戸港周辺の市街地には、もともとカトリックの信徒は少なかったが、近隣各地からの移転により信徒が増えていった。

そして1931年(昭和6年)4月に現在の教会堂が建てられた。献堂40周年の1971年(昭和46年)9月には、聖フランシスコ・ザビエルの像が聖堂のそばに建立され、これに伴い「聖フランシスコ・ザビエル記念教会(あるいは聖堂)」とも呼ばれるようになった>。

余談だが、平戸経由で五島列島の島を取材した時、ある家で「オランダ製の火縄銃」と「隠れキリシタンの像」を見せて貰った。どちらも初めて見るもので興奮した記憶がある。特に「隠れキリシタンの像」は、正面は仏像だが、裏には「キリスト像」が設えてあった。

きっと、キリシタン禁教令下で仏教徒を装いながらも、実際は密かにキリシタン信仰を貫いていた江戸時代の隠れキリシタン徒の様子が浮かび上がってくるような気がして、感動した。

話は、平戸の歴史になってしまったが、平戸ツツジに惹かれる中で、やはり平戸の歴史が一度に蘇ってくる。平戸ツツジの美しさは、本当に歴史まで呼び起こし、心まで豊かにしてくれるものだ。(了 再掲)
参考:ウィキペディア、平戸市          


2019年05月21日

◆米中貿易戦争、高関税は序の口

宮崎 正弘


令和元年(2019)5月19日(日曜日)通巻第6084号 

 米中貿易戦争、高関税は序の口、これからが本番だ
  5G開発で後れを取った米国勢、日本はお呼びではなかった

 ▲5G特許をめぐる競争は数年前から熾烈化していた。

ファーウェイ排除の前段階からの米中激突の経過を振り返ろう。

2018年春に習近平がトランプに直接電話をかけて、泣きついたとかの情報
があるほど、ZTE(中興通訊)へのインテルの半導体供給停止処分は衝
撃的かつ死活的だった。ZTEはインテルからの半導体供給が止まり、ド
ル箱だったスマホの組み立てが不可能になって倒産しかけたのだ。

ZTEはイランへの不正輸出がばれて、7年間の取引停止を言い渡された
ばかりだった。

トランプの次の手は中国への半導体製造装置の輸出禁止だった。

これで福建省晋華集成電路(JHICC)は、せっかく工場を新築したの
に、操業が不能となった。台湾から来ていた100人のエンジニアも路頭に
迷い、鳴り物入りの最新鋭工場は閑古鳥、まもなくペンペン草がはえるの
ではないか。

完全なるファーウェイ排除となれば、中国として生き残る道は部品の国内
生産しかない。半導体の自製化である。

日米はともかく、中国はスマホ、基地局の輸出先を欧州とアフリカならび
にミャンマーなどアジアの発展途上国の市場に置き換えている。東チモー
ルの山奥や、ミャンマーの辺疆へ行っても現地人がファーウェイを使って
いた光景を目撃したが、驚きである。

そのうえファーウェイは、最悪シナリオに備え、半年分の生産に必要な部
品をしずかに備蓄してきた。昨秋にぴたりと停まった日本への発注が突如
ぶり返していたのは、部品備蓄が目的だったのだ。

鴻海精密工業は董事長の郭台銘が次期台湾総統に立候補するなどと息巻い
たが、中国の主力工場から大量のレイオフをなし、インドなどへの工場移
転を発表した。また一部は台湾へ復帰するとした。

米中貿易戦争は凄まじい突風となって全中国に吹き荒れ、一部、共産党の
高官は「GDPの1%減となるだろう」と予測するが、1%ではなく、
10%の悪影響がすでにでている。中国の株式市場は暴落寸前で、5月5日
から17日までに深セン株式市場で7・5%の下落、上海株式市場で5・
6%の下落となった。

遅きに逸したが、中国は半導体に自製化を本格的に稼働させる。なにしろ
インテルとクアルコムからファーウェイのみならず業界三位の小美(シャ
オメイ)も、廉価販売のOPPOも、半導体の供給を受けてきたのだか
ら、今後、生産が直撃弾を受けることになる。

習政権は、半導体内製化に発破をかけ、開発メーカーなどが赤字であって
も、株式市場から資金を調達しやすいように上場を急がせる方向にある。


 ▲5G特許の「出願件数」で中国は米国を抜いた

5G開発競争で、たしかに中国は「特許出願」の件数において世界最大で
ある。あくまで「出願」で、特許が「成立」した件数でないことを留意し
た上で、次の一覧を眺めてみよう。

5G必須特許出願の企業別シェアは、ドイツの「IPリッテクス社」の調
査に拠ると、

 ファーウェイ(中国)      15・05%
 ノキア (フィンランド)    13・92
 サムソン (韓国)       12・74
 LG (韓国)         12・34
 ZTE(中国)         11・70
 クアルコム(米国)        8・19
 エリクソン(スウエーデン)    7・93
 インテル(米国)         5・34

明らかに米国並びに北欧が劣勢にあり、中国の大手二社で34%強。世界の
3分の1を占める。日本企業と言えば、「まるでお呼びでない」。

ただし、中国勢の特許出願は基地局に関する技術が殆どである。だが、一
件優勢にみえる中国の5G開発には幾つかの深刻な問題点がある。

第一に「出願」と「成立」した特許とをよくよく吟味しなければならな
い。出願が多くとも、特許として認められるかは別の問題である。

第二に5G技術は4Gの上に成立するのである。つまり4G特許は圧倒的
に米国クラルコムが保有する上、5Gは、4G特許へのロイヤリティ支払
いを前提とする。だから中国はダミー(シンガポール籍のブロードコム)
を使って、クアルコムの買収に、史上空前の買収金額を示して乗っ取ろう
としたのだ。

土壇場でアメリカは、この中国が背後にいる野心的な買収案件に「国家安
全保障にかかわる」として拒絶するという行動にでた。
 
すでにオバマ政権時代から、中国の通信機器のスパイ行為、バックドアな
どの仕掛けによって情報が中国に筒抜けになっている「国家安全保障上の
脅威」は情報関係者から指摘されていたが、オバマ政権はなにも手を打た
なかったのだ。

米下院情報委員会は報告書を作成して「ファーウェイ、ZTEなどの通信
機器は中国のスパイ活動ならびにサイバー攻撃に悪用される可能性が高
い」と警告したため、ようやくオバマ大統領は2013年の米中首脳会談にお
いて「経済スパイ行為をしない」という合意をしたが、中国はこれをまっ
たく無視してきた。


 ▲クアルコムとアップルの特許訴訟、突如、和解へ

さらに重要な変化がアメリカで起きた。アップルとクアルコムは特許使用
料問題で深刻な特許裁判を展開していた。アップルがクアルコムの特許が
異常に高いと難詰し、合計270億ドルの訴訟を米国メーカー同士でいがみ
あい、このためアップルは5G製品の発表が出来ず、このまま行けば
ファーウェイ独走をゆるすことになる情勢にあった。

「アメリカ企業同士があらそっている場合か」と政府や議会、株主、メ
ディアから叩かれ、急転直下の和解。これでアップルの5G参入に目処が
立った。

米国企業が認識する中国の脅威とは、次期ハイテクで中国の後塵を拝する
ような事態が目前に迫り、焦燥がつのった背景がある。とくに習政権が
「2015 中国製造」を打ち上げたときに、アメリカは脅威を深刻に認識した。

2017年1月に発足したトランプ政権はホワイトハウスに特別対策室を設置
し、ハイテクに明るい専門家を急遽寄せ集めて、リストを作ってきたのだ。

当時、ホワイトハウスを訪問した加瀬英明氏から同年夏ごろに直接聞いた
のだが「技術の専門家のデスクがもの凄く増えている」。トランプ政権は
発足直後から、この問題に対応するチームを直轄してきたことになる。


 ▲世界の株式市場から時価総額250兆円が蒸発した

2019年5月10日、トランプ大統領は、追加関税増額措置(2000億ドル分の
中国製品に25%の高関税)を発表、続けて同月15日、ファーウェイへの部
品供給を事実上とめる「非常事態宣言」の大統領令に署名した。「中国」
と名指しはないが、だれが見ても中国製品の流入阻止が目的であることは
明瞭だ。

同時に米商務省は「ELリスト」を作成し、およそ68社をその対中禁輸リ
ストに挙げた。

このため株式市場は大混乱に陥った。世界すべての株式市場から時価総額
に直して、約250兆円が蒸発した

ファーウェイは世界68社から年間670億ドルにおよぶ部品を購入してき
た。日本からは村田製作所、東芝メモリィ、日本電産、ローム、
SONY、三菱電機など電子部品、カメラ11社、アメリカはインテル、ク
ラルコム、マイクロソフト、ブロードコムなど、じつに33社、台湾と韓国
からで、中国でファーウェイに部品を収めてきたのは京東方科技集団、
BYDなど25社に過ぎなかった。

むろん、米国企業をも直撃する。

トランプの支持基盤である中西部では穀物輸出の農家、穀物商社が輸出減
に悲鳴をあげた。サイロも、バージ船のターミナルも物流に混雑する風景
はなくなり、中国でもターミナル、コンテナヤード、倉庫に行き交う
フォークリフトの数が顕著に減少し、とくに倉庫スペースは空きが目立つ。

一度は米国復帰を宣言していたハーレー・ディビットソンは対中輸出が難
しくなるため、4月23日、ウィスコンシン州からタイへ工場移転を決めた。

半導体を供給し、中国で組み立ててきたスマホ、とりわけアップルのi
フォンは激甚な直撃を受け、米国内での販売価格は150ドルほど高くなった。

5月初旬の株価下落率でワースト銘柄は半導体のインテル(10・7%の
暴落)、化学材のデュポン(9・8%)、半導体のエヌビディア(7・
8%)、アップル(6・9%)、動画配信のネットフリックス(6・
2%)という具合だった。

アメリカも中国も高関税適用対象からライフラインのかかわる品目を外し
てきたが、とくに中国は豚肉、食料などの税率を据え置いた。報復で中国
が高関税をかけたのは、ガスなど米国以外の輸入代替国があるものに限ら
れた。

一方、米国も消費財(傘とか、スポーツシューズ、PC、スマホ)への関
税を据え置いてきたが、これらも第4次報復関税が発動すれば対象となる。

米中貿易戦争、まだまだ先の見通しが不透明だ。

     
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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1896回】       
――「民國の衰亡、蓋し謂あるなり」――渡邊(8)
渡邊巳之次郎『老大國の山河 (余と朝鮮及支那)』(金尾文淵堂 大正
10年)

                  ▽

撫順炭鉱の苦力宿泊所を覗く。彼らは「其得る所の賃金は多く之を賭博に
費やす」のであった。彼らを取り纏める「把頭」と呼ばれる中国人の人足
頭は妻帯し、「權力と高給とによりて、猶人らしき生活を樂み得べしと雖
も」、苦力には賭博程度の楽しみしかない。

「上半身裸體の炭塵に汚れたる儘」で「頭を衝き合ひつゝ、嚴禁せる賭博
に耽る」。賭博を発見した「年少日本人監督のために棍棒を以て叱咤打擲
せらるゝも怒らず、驚き且笑つつて蜘蛛の子を散らすが如く逃げ去る」の
であった。

そんな有様を目にした渡邊は、「窃に惻隠の情を催さゞるを得ず。其生活
の寧ろ動物的にして、彼等の自覺の百年河清を俟つよりも望み難かるべ
し」と綴る。

こういう場面に出くわした際、おそらく欧米列強の支配者は「窃に惻隠の
情を催」すことなく、躊躇せず断固として厳罰で臨んだはず。殖民地の被
支配者に「窃に惻隠の情を催」していた日には殖民地経営なんぞできな
い、と嘯きながら。きっと、そうに違いない。

撫順から奉天を経由して南下し、山海関を越えて北京へ。
 
北京では初期の陸軍支那通を代表する青木宣純中将(安政6=1859年〜大
正13=1924年)に会っている。因みに、青木が北京政府応聘の軍事顧問と
して黎元洪総統の近くにあったのは1917(大正6)年1月から1923(同12)
年1月までである。

「温容一野翁の如き風貌」の青木によれば、「支那の戰爭と稱するもの、
聲容を以てし、文書を以てし、電報を以てし、必ず殺傷相當るが如き激烈
なる鬪爭に出づるにあらざるをや、風雲の動くところ安心すべからず」と
説く。

話が佳境に入る直前、客人が来たということで渡邊は青木の許を辞去して
いる。これから青木が何を話そうとしたのか。大いに興味をそそられると
ころだが、青木や坂西利八郎以下の陸軍支那通、それに大陸浪人の功罪に
ついては、いずれ詳細に論ずることにして、今は渡邊の旅を先に進みたい。

渡邊は明朝歴代皇帝を葬る十三陵、居庸関、弾琴峡、長城(八達嶺)など
を回るが、「初めて支那人の盗癖の油斷ならざる」を知る一方、「支那人
の衣服纏ふの嚴にして、婦人は全く皮膚を露出せず、男子は上半身を露出
すると雖も、斷じて腰部以下を示さず、少年童女と雖も亦相同じく、女兒
は決して胸背並びに乳房を暴露せず、村落の間亦此習慣を存せる」を知っ
たと記す。

さらに足を中国本部と外蒙との接点に位置する張家口まで伸ばす。「人口
六萬五千を有する北京以北唯一の商業地」とはいうものの、やはり旅館に
は閉口したらしい。

「當惑したるは便所の設備の不完全なり。大便所は外壁ありと雖も、入口
に戸あるにあらず、各箇の間に隔壁障陛屏あるにあらず、諸人偶然同時に
會せんか、相並んで脚を接して相見つゝ便せざるべからざるの奇劇を演出
すべし。從つて余等夜中若くは?旦人なき時を窺つて之を爲すの道を取れ
り」。

「人口6萬5千を有する北京以北唯一の商業地」でこれだから、他は押し
て知るべし。とはいえ、これがスタンダードだから我慢、ガマン、我慢、
ガマン、我慢・・・である。

張家口郊外の農村を歩き「鮮人の深入此の地方に及べるか」と綴る。出稼
ぎ農民か。入植者か。彼らの進出と日本の影響力拡大は重なっているの
か。彼らは独自に黄塵万丈の地まで進出したのか。確かに「木は動かせば
死ぬが、ヒトは動かすと活き活きする」ものだ。

張家口から北京に戻り故宮内の武英殿で「清朝鐘愛の珍寶」を見る。
「其輸送の間、多くの僞物と交換せられ」て、最後は権勢家に私蔵されて
しまう。彼らこそ「獨り國寶を私するのみならず、又國家國民を私して其
存亡消長を雲烟に附するの徒なり。而して民國此等の徒に富む、民國の衰
亡、蓋し謂あるなり」。
ニセ国宝、ニセ国家に、ニセ国民・・・?
《QED》

◆昭和天皇が戦後占領下で発した詔勅

櫻井よしこ


「昭和天皇が戦後占領下で発した詔勅の意味を汲みとることが令和時代の
課題だ 」

御代替わりと長い休日で沢山の本を読んだ。その1冊、『昭和天皇 二つ
の「独白録」』(東野真著、NHK出版)は1997年6月放送の「NHKス
ペシャル」を基にした作品だ。NHKの報じる歴史物にはおよそいつも独
特の偏りと臭気を感じるが、約20年前に出版された本書も例外ではない。
それでも考えさせられる著作だった。

「昭和天皇独白録」といえば、90年12月号の「文藝春秋」のスクープを思
い浮かべる。東野氏は他にも「独白録」が書かれていたことを明らかに
し、その作成は東京裁判において天皇無罪を確定させるための対策だった
とする。

そうした動きの背景には、昭和天皇に対する厳しい米国世論があった。45
年6月のギャラップ世論調査では「処刑せよ」が33%、「裁判にかけろ」
が17%、「終身刑」が11%、「追放」が9%で、70%が強い敵愾心を抱い
ていた。東京裁判終了後も厳しい感情は消えず、50年3月の同世論調査で
は、「天皇を戦犯として裁くべし」が53%だった。

皇室を潰し、国柄を断ち切ってしまいかねない米国国民の激しい対日感情
をどのように回避し得るのか、先人たちが重ねた苦労は測りしれない。

国民統合の中心に天皇を戴く形を辛うじて守ったとはいえ、日本の国柄と
はほど遠い現行憲法を受け入れるなど、先人たちは苦渋の選択をした。し
かも、占領下で日本に強要された無理難題の真実は、厳しい検閲制度ゆえ
に国民は知るべくもなかった。

こうした戦後体制をどう考えるか、昭和天皇のお言葉が東野氏の著書に出
てくる。それは「昭和天皇独白録」をほとんど一人で速記してまとめた内
記部長、後に侍従長を務めた稲田周一の備忘録中のお言葉だ。

46年8月14日、終戦記念日を前に陛下が首相ら閣僚を前に、述べられた以
下の件である。

「戦争に負けたのはまことに申訳ない。しかし、日本が負けたのは今度丈
ではない。昔、朝鮮に兵を出して白村江の一戦で一敗地に塗(まみ)れた
ので、半島から兵をひいた。そこで色々改新が行われた。之が日本の文化
の発展に大きな転機となった。このことを考えると、此の際日本の進むべ
き道も自らわかると思う」

昭和天皇が胸に描いた「此の際日本の進むべき道」は、右のお言葉の約8
か月前に発せられた詔勅に示されているのではないか。占領下で迎えた新
年の詔勅を昭和天皇は以下のように始められた。

「ここに新年を迎える。顧みれば明治天皇 明治の初国是として五箇条の
御誓文を下し給えり」

その後に昭和天皇は五箇条の御誓文全文を続けられた。後年、この件につ
いて、五箇条の御誓文を国民に伝えるのが詔勅の「一番の目的」だった、
「民主主義を採用したのは、明治大帝の思し召しである」「民主主義とい
うものは決して輸入のものではないということを示す必要が大いにあっ
た」と語られている。

民主主義は米国からの輸入ではない、五箇条の御誓文に示されているよう
に、明治以来日本が高々と掲げた価値観である。国民は祖国を信頼し、自
信を持ってよいのだと仰ったのだ。敗戦したからといって、祖国を恥じる
必要はないとのお考えでもあろう。

憲法は国柄を表現するもので、国の基いである。昭和天皇や先人たちは、
前述のように他に選ぶ道もなく木に竹を接いだような現行憲法を受け入れ
た。私たちは70年以上、その一文字も改正できずにきた。日本はまるで米
国に魂を抜かれた操り人形のようではないか。令和の時代の課題は、昭和
天皇が発せられた占領下における詔勅の意味を真摯に汲みとることだろ
う。それが憲法改正だということはもはや説明の必要もないだろう。
『週刊ダイヤモンド』 2019年5月18日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1279

      

◆「わが祖国」スメタナ

渡部 亮次郎


元気の出ない時に聞く曲はスメタナの「我が祖国」だ。ポロン、ポロンと
珍しくハープの演奏から始まる交響詩組曲である。私のクラシック教室に
は先生がいないから、ここ20年ぐらい、手に入るだけのCDをやたら聴いて
好きな曲を探す。スメタナはそうした1人である。

ベドルジハ・スメタナSmetana,Bedrich (1824〜1884)はチェコの作曲
家。幼いころから音楽への才能を示し,ピアノと作曲を学ぶ。1848年フラ
ンスの2月革命がチェコにも及び,プラハで急進派が蜂起したときそれに
参加,革命軍のための行進曲や《自由の歌》を書いた。

革命が鎮圧された後は,リストの援助を得てプラハに音楽学校を開設。56
年から5年間はスウェーデンのイェーテボリ市の音楽協会〈ハーモニー協
会〉の指揮者を務めた。

61年帰国ののちは,再び大きな盛上がりをみせていたチェコの民族運動の
音楽的スポークスマンとして大活躍を始め,チェコ人のための国民劇場完
成までの仮劇場のために,《チェコのブランデンブルク人》(1863)や《ダリ
ボル》(1867)のようなナショナリズムを鼓吹した愛国的なオペラを作曲した。

また,理想化されたチェコの農村の姿をミュージカル・コメディ風に描い
た《売られた花嫁》(1866。1870改訂)の大成功によって,仮劇場の首席指揮
者の地位も手中に収めた。

しかし74年,50歳のときに聴覚を失い,晩年はチェコ北部のヤブケニツェ
村に隠とんし,肉体的・精神的状態の悪化と戦いながら作曲に専念。祖国
の風物と民族を賛美した6曲から成る交響詩組曲《わが祖国》(1879。

その第2曲《モルダウ》はとくに親しまれている)や自叙伝的な2つの弦楽四
重奏曲,《第1番わが生涯より》(1876)と《第2番ニ短調》(1883)を完成したの
ち,プラハの精神病院で狂死した。

作品にはなお合唱曲と歌曲,多数のピアノ曲などもあるが,〈ボヘミア楽
派〉といわれるチェコの国民楽派の創始者であり,ロシアのムソルグス
キーやフランスのベルリオーズと並んで,音楽におけるリアリズムのあり
方を後世に示した先駆者の一1人でもあった。 佐川 吉男

参考:世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービスより。


また
http://www.kk.iij4u.or.jp/~takuya/vltava.htm  に拠ると、

スメタナは同じチェコ出身で後輩格であるドヴォルジャークと共に、土地
に根ざした作風を持つ、いわゆる「チェコ国民楽派」として有名な作曲家
である。

ヨーロッパ各地で研鑚を積みつつも、やはり自らが生まれ育ったチェコの
ことが忘れられず、帰国後「ヴィシュフラド(高い城)」「モルダウ」
「シャールカ」「ボヘミアの森と草原にて」「ターボル」「ブラニーク」
という一連の交響詩を次々と世に出し、祖国への熱い思いを託した。

この6曲は1882年11月、この順番で連作交響詩「我が祖国」としてプラハ
にて初演され、大好評を博した。

以来この曲はチェコ国民の愛国心を象徴する傑作として、現在チェコで毎
年行われている「プラハの春音楽祭」の初日は決まってチェコ・フィル
ハーモニーにより「我が祖国」全曲が演奏される等、スメタナの生涯をか
けた愛国心はたくさんのチェコ国民に受け継がれているという。

この「モルダウ」はその連作交響詩の2曲目で、しばしば単独でも演奏さ
れる。幸いなことに作曲者自身により、ここは何を描写しているのか具体
的な注釈が残っており、曲を初めて聴く人でも容易にその場面を想像できる。

以下その必見ポイント(?)を順を追って記す。

○「モルダウの最初の源流」
水源地はチェコ西部の山の奥深くである。2本のフルートにより雪が溶け
てやがて流れとなる様子が表されている。繊細なハープのハーモニクスと
ヴァイオリンのピチカートは、あちこちで陽の光に当たってきらめく水の
しずくである。

○「モルダウの第2の源流」
さきの源流(フルート)にやや温度差のある別の流れ(クラリネット)が
合流し、少しだけ水に温かさが加わる。こうして徐々に楽器の数が増え、
水が集まり、河の流れが出来上がってくる。ここでオーボエを伴った弦楽
器により、最も有名なモルダウ河の主題が提示される。

○「森〜狩り」
流れは森の中に入り、ホルンのシグナルとともに馬に乗った勇壮な狩人が
横切る。角笛の音が森のあちこちにこだまする。牧場のカウベルも時折聞
こえ、弦楽器による河の流れは絶え間なく続く。

○「村の婚礼」
拍子は6/8拍子から2/4拍子に変わり、森を抜けると少し視界が開け、村の
集落が見えて来る。今日は村の若者の結婚式。教会から出てきた若い2人
を、村人たちの陽気なフォークダンスが迎え、祝福するヨーデルの歌声が
響く。

○「月の光〜水の精の踊り」
結婚式の夜も更け、あたりは静けさを取り戻す。ファゴットとオーボエの
先導により水の精が登場し、フルートとクラリネットが冒頭と同じような
無窮動を繰り返しつつ楽しげに浮遊する。弦楽器群によりまた水量が徐々
に増え、さきのモルダウ河の主題が再現される。

○「聖ヨハネの急流」
突如として傾斜が急になり、水の勢いが速くなる。岩にぶつかり、激しい
水しぶきを上げる様子がリアルに描写されている。

○「モルダウの力強い流れ」
曲はホ短調からホ長調に転調し、モルダウ河はプラハ市内に入る。オーケ
ストラ全体によりこの「モルダウ河のテーマ」が賛歌として力強く歌われる。

○「ヴィシュフラド(高い城)の主題」
かくてプラハ市内にある歴史的な古城、ヴィシュフラド(高い城)に挨拶
する。ここは前作である交響詩「ヴィシュフラド(高い城)」(「我が祖
国」第1曲)のテーマが回帰する瞬間でもあり、本来ならば全曲を連続演
奏した時に効果が得られるように作られており、プラハ市内を抜けてなお
果てしなく続く流れを見送りつつ、フェードアウトされて曲は締めくくら
れている。

この「モルダウ」の作曲に着手した頃、スメタナは耳の病が悪化し、あの
ベートーヴェンと同様に聴覚を失ってしまった。したがってこの「モルダ
ウ」以降、スメタナ自身は自分の作品を音として聴いていない。

スメタナは1884年に世を去り、自らの作品で歌い上げたモルダウ河とヴィ
シュフラドのすぐ近くの墓地に静かに眠っている。と書かれているが狂死
とはあまりに可哀想だ。2007・06・08

◆私の「古寺旧跡巡礼」出雲大社

石田 岳彦


神宮といえば伊勢神宮、大社といえば出雲大社といわれるように、出雲大社はわが国でも指折りの格式の高い神社です。

古事記や日本書紀の神代巻によれば、大国主命が、地上の支配権を天照大神の孫のニニギノミコト(つまり今の天皇家のご先祖)に譲るのと引き換えに建ててもらった宮殿が出雲大社の起源とされています。

出雲大社は通常「いずもたいしゃ」と呼ばれ、私も勿論、そう呼んでいたのですが、「いずものおおやしろ」というのが正式な読みだそうです。驚きました。

もっとも、この名称自体、明治時代以降のもので、それ以前には杵築大社(きづきのおおやしろ)と呼ばれていたそうです。更に驚きました。
ともあれ、その出雲大社で、平成20年より国宝の本殿の修復が行われています。

御存知の方も多いと思いますが(各地からツアーが組まれていたようなので実際に行かれた方も少なくないかも知れません)、修理に先立つ大遷宮(神が仮の社に移ること)を記念して、平成20年に本殿の60年ぶりの公開が行われました。今回はその際の話をさせていただきます。

お盆を控えた平成20年8月のある週末、私は1泊2日で出雲に出掛けることにしました。朝一番の新幹線と在来線の特急を乗り継いで、JR出雲市駅(ちなみに平成の大合併により、出雲大社のあった大社町は出雲市の一部となりました。)からはタクシーを飛ばしたものの、出雲大社に着いたのは午前11時過ぎでした。

整理券をもらうと午後3時半。4時間半待ちです。事前情報として待ち時間がかなり長くなるのを知っていたので、驚きはありません。寧ろ、今日中に拝観できるのが決まって一安心です。

4月から5月にかけても本殿の公開が行われましたが、その際は境内に長蛇の列ができ、最大で4時間待ちになったとか。その反省もあってか、8月の公開の際には整理券が配られるようになったようです。まあ、8月の炎天下に長蛇の列ともなれば、熱射病で死屍累々となることは分かり切ったことですが。

幸い、日御碕神社、日御碕灯台や旧国鉄大社駅等、周囲に見るべきものは多く、正直4時間半でも短いくらいです(歴史ファンであればという条件付きですけど)。ともあれ、極めて有意義に時間を潰した私は午後3時前に出雲大社に戻ってきました。

本殿の拝観は、案内人に引率されて20人程度のグループ単位で行われます。
ようやく時間になったので、四脚門を潜って玉垣の中に入り、更に楼門をくぐって、靴を脱いだうえ、本殿正面の階段を登りました。本殿への階段は急で、高低差があります。

出雲大社の本殿はこの地方に独特の大社造りと呼ばれる高床式の建物で、正面に屋根付きの階段が設けられています。ただし、本殿の周囲に二重の玉垣が巡らされていることもあり、特に下部の構造は外部から分かりにくいです。

時間に余裕がある方には、出雲大社の前後にでも、松江市内の神魂(かもす)神社(本殿は現存最古の大社造りで国宝に指定)にも寄って、大社造りの建物の全容を見ておくのをお勧めします。現在の本殿は江戸時代に建てられたもので、高さは下から棟までで8丈(24.2m)だそうです。

写真では分かりにくいのですが、実際に本殿の縁側にまで登って周囲を見下ろすと、だいたいビルの3階くらいの感覚で、かなり高く感じます。もっとも、言い伝えによると、中世以前の本殿はこの2倍の16丈、神話の時代においては更に倍の32丈の高さがあったということなので、この程度で驚いてはいけないのかも知れません。

なお、16丈の本殿については、従来、技術的に困難であるとして、単なる伝説であり、史実ではないとする説が強かったようですが、近年、昔の本殿の巨大な柱(丸太3本を束ねたもの)が境内から発掘されたこと等もあり、最近では、歴史的事実として認める説も有力のようです。

もっとも、昔の技術で16丈の高さにするには無理があったためか、文献上、しばしば本殿の転倒事故が起きているのが確認できるとのこと。

神代の32丈(約96m)の本殿については、さすがにこれを信じている人は少ないようですが、土を盛って人工の丘を作り、そのうえに建物を建てることにより、麓からの高さで32丈を確保したとの説もあるそうです。ここまでくるとほとんど頓知話ですね。

本殿のうえは大渋滞で、一旦、縁側を右側に回り、後方を巡って、最後に正面に回り込み、本殿内部を除きこんで、降りるというコースになっていました。
正面に回るまで15分ほど縁側で待たされることになりましたが、本殿上にとどまれる時間がその分長くなるわけですから、悪くない話です。

普段は玉垣の外からしか覗けない、本殿の周囲の建物の桧皮葺の屋根も、今は、私の眼下にあります。私がこの光景を見るのもこれが生涯で最後、若しくは、50年以上先の次回の修理のときだろうと思うと、有難味もひとしおです(数年後に修理が完了した際に、もう一度特別公開をやるという落ちになるかもしれませんが)。

写真撮影禁止なのが泣けてきます。ようやく正面に回り、縁側から内部を覗き込みました。さすがに中には入れてもらえません。神様の家ですから。

本殿の中央には文字通りの大黒柱(仏教の守護神であった大黒天と大国主命はもともと別の神様ですが、「大国」が「ダイコク」と読めるということで、次第に混同されるようになりました。袋をかついだ七福神の大黒様は大国主命のイメージから来ています。

また、事前情報として知っていましたが、大国主命の御神像を収める御神座は何故か正面ではなく、右側(拝観者から見て左側)を向いていて、参拝者の方を向いていません。

理由については争いがあり、中には、「出雲大社は大国主命の宮殿ではなく、その霊を封じ込める牢獄である」というおどろおどろしい説まであるようです。
更に天井には極彩色の「八雲」が描かれているのが見えます。もっとも、「八雲」であるにもかかわらず、何故か描かれている雲は7つだけです。

疑問に思って、説明の方に話を聞くと、昔から7つしかないけど「八雲」と呼ばれているとのことでした。残り1つは心眼で見るのでしょうか。そういえば、八岐大蛇(やまたのおろち)も、頭が8つだから七股なのに八岐と呼ばれていますね。

「八雲」は兎も角として、本殿の内部は、外観と同様全体的には簡素で装飾性が少ないという印象でした。

本殿の参拝が終わった後、改めて境内をノンビリと歩きます。特に印象に残ったのは、本殿の東西にあった十九社という細長い建物で、毎年11月に全国から出雲に神様が集まってくる際の宿舎になる社ということのようです。

 また、出雲大社のすぐ近くには県立の歴史博物館もあります。上で述べた発掘された昔の本殿の柱に加え、加茂岩倉遺跡(一箇所の遺跡から最多の銅鐸が発見されたことで有名)から出土した銅鐸、荒神谷遺跡(358本という常識外れの大量の銅剣が発掘されたことで有名。

勿論、国内最多。)から発掘された銅剣もまとめて見る事ができます。巨大なガラスケースの中に300本以上の銅剣が並ぶ様にはあっけにとられます。

 本殿の修理が終わるまで、まだ、時間がかかりますが、機会があれば、一度、出雲の地に行かれてみてください。    (終 再掲)     弁護士  

2019年05月20日

◆米中貿易戦争、高関税は序の口

宮崎 正弘


令和元年(2019)5月19日(日曜日)通巻第6084号 

 米中貿易戦争、高関税は序の口、これからが本番だ
  5G開発で後れを取った米国勢、日本はお呼びではなかった

 ▲5G特許をめぐる競争は数年前から熾烈化していた。

ファーウェイ排除の前段階からの米中激突の経過を振り返ろう。
 
2018年春に習近平がトランプに直接電話をかけて、泣きついたとかの情報
があるほど、ZTE(中興通訊)へのインテルの半導体供給停止処分は衝
撃的かつ死活的だった。ZTEはインテルからの半導体供給が止まり、ド
ル箱だったスマホの組み立てが不可能になって倒産しかけたのだ。
 
ZTEはイランへの不正輸出がばれて、7年間の取引停止を言い渡された
ばかりだった。

トランプの次の手は中国への半導体製造装置の輸出禁止だった。
 
これで福建省晋華集成電路(JHICC)は、せっかく工場を新築したの
に、操業不能となった。台湾から来ていた百人のエンジニアも路頭に迷
い、鳴り物入りの最新鋭工場は閑古鳥、まもなくペンペン草がはえるので
はないか。

完全なるファーウェイ排除となれば、中国として生き残る道は部品の国内
生産しかない。半導体の自製化である。

日米はともかく、中国はスマホ、基地局の輸出先を欧州とアフリカならび
にミャンマーなどアジアの発展途上国の市場に置き換えている。東チモー
ルの山奥や、ミャンマーの辺疆へ行っても現地人がファーウェイを使って
いた光景を目撃したが、驚きである。

そのうえファーウェイは、最悪シナリオに備え、半年分の生産に必要な部
品をしずかに備蓄してきた。昨秋にぴたりと停まった日本への発注が突如
ぶり返していたのは、部品備蓄が目的だったのだ。

鴻海精密工業は董事長の郭台銘が次期台湾総統に立候補するなどと息巻い
たが、中国の主力工場から大量のレイオフをなし、インドなどへの工場移
転を発表した。また一部は台湾へ復帰するとした。

米中貿易戦争は凄まじい突風となって全中国に吹き荒れ、一部、共産党の
高官は「GDPの1%減となるだろう」と予測するが、1%ではなく、
10%の悪影響がすでにでている。中国の株式市場は暴落寸前で、5月5日
から17日までに深セン株式市場で7・5%の下落、上海株式市場で5・
6%の下落となった。

遅きに失したが、中国は半導体に自製化を本格的に稼働させる。なにしろ
インテルとクアルコムからファーウェイのみならず業界3位の小美(シャ
オメイ)も、廉価販売のOPPOも、半導体の供給を受けてきたのだか
ら、今後、生産が直撃弾を受けることになる。

習政権は、半導体内製化に発破をかけ、開発メーカーなどが赤字であって
も、株式市場から資金を調達しやすいように上場を急がせる方向にある。


 ▲5G特許の「出願件数」で中国は米国を抜いた

5G開発競争で、たしかに中国は「特許出願」の件数において世界最大で
ある。あくまで「出願」で、特許が「成立」した件数でないことを留意し
た上で、次の一覧を眺めてみよう。
 
5G必須特許出願の企業別シェアは、ドイツの「IPリッテクス社」の調
査に拠ると、

 ファーウェイ(中国)      15・05%
 ノキア (フィンランド)    13・92
 サムソン (韓国)       12・74
 LG (韓国)         12・34
 ZTE(中国)         11・70
 クアルコム(米国)        8・19
 エリクソン(スウエーデン)    7・93
 インテル(米国)         5・34

明らかに米国並びに北欧が劣勢にあり、中国の大手二社で34%強。世界
の3分の1を占める。日本企業と言えば、「まるでお呼びでない」。

ただし、中国勢の特許出願は基地局に関する技術が殆どである。だが、一
見優勢にみえる中国の5G開発には幾つかの深刻な問題点がある。

第一に「出願」と「成立」した特許とをよくよく吟味しなければならな
い。出願が多くとも、特許として認められるかは別の問題である。

第二に5G技術は4Gの上に成立するのである。つまり4G特許は圧倒的
に米国クラルコムが保有する上、5Gは、4G特許へのロイヤリティ支払
いを前提とする。だから中国はダミー(シンガポール籍のブロードコム)
を使って、クアルコムの買収に、史上空前の買収金額を示して乗っ取ろう
としたのだ。

土壇場でアメリカは、この中国が背後にいる野心的な買収案件に「国家安
全保障にかかわる」として拒絶するという行動にでた。
 
すでにオバマ政権時代から、中国の通信機器のスパイ行為、バックドアな
どの仕掛けによって情報が中国に筒抜けになっている「国家安全保障上の
脅威」は情報関係者から指摘されていたが、オバマ政権はなにも手を打た
なかったのだ。

米下院情報委員会は報告書を作成して「ファーウェイ、ZTEなどの通信
機器は中国のスパイ活動ならびにサイバー攻撃に悪用される可能性が高
い」と警告したため、ようやくオバマ大統領は2013年の米中首脳会談にお
いて「経済スパイ行為をしない」という合意をしたが、中国はこれをまっ
たく無視してきた。


 ▲クアルコムとアップルの特許訴訟、突如、和解へ

さらに重要な変化がアメリカで起きた。アップルとクアルコムは特許使用
料問題で深刻な特許裁判を展開していた。アップルがクアルコムの特許が
異常に高いと難詰し、合計270億ドルの訴訟を米国メーカー同士でいがみ
あい、このためアップルは5G製品の発表が出来ず、このまま行けば
ファーウェイ独走を許すことになる情勢にあった。

「アメリカ企業同士があらそっている場合か」と政府や議会、株主、メ
ディアから叩かれ、急転直下の和解。これでアップルの5G参入に目処が
立った。

米国企業が認識する中国の脅威とは、次期ハイテクで中国の後塵を拝する
ような事態が目前に迫り、焦燥がつのった背景がある。とくに習政権が
「2015 中国製造」を打ち上げたときに、アメリカは脅威を深刻に認識した。

2017年1月に発足したトランプ政権はホワイトハウスに特別対策室を設置
し、ハイテクに明るい専門家を急遽寄せ集めて、リストを作ってきたのだ。

当時、ホワイトハウスを訪問した加瀬英明氏から同年夏ごろに直接聞いた
のだが「技術の専門家のデスクがもの凄く増えている」。トランプ政権は
発足直後から、この問題に対応するチームを直轄してきたことになる。


 ▲世界の株式市場から時価総額250兆円が蒸発した

2019年5月10日、トランプ大統領は、追加関税増額措置(2000億ドル分の
中国製品に25%の高関税)を発表、続けて同月15」日、ファーウェイへの
部品供給を事実上とめる「非常事態宣言」の大統領令に署名した。「中
国」と名指しはないが、だれが見ても中国製品の流入阻止が目的であるこ
とは明瞭だ。

同時に米商務省は「ELリスト」を作成し、およそ68社をその対中禁輸リ
ストに挙げた。

このため株式市場は大混乱に陥った。世界すべての株式市場から時価総額
に直して、約250兆円が蒸発した

 ァーウェイは世界68社から年間670億ドルにおよぶ部品を購入してき
た。日本からは村田製作所、東芝メモリィ、日本電産、ローム、
SONY、三菱電機など電子部品、カメラ11社、アメリカはインテル、ク
ラルコム、マイクロソフト、ブロードコムなど、じつに33社、そして台湾
と韓国からで、中国でファーウェイに部品を収めてきたのは京東方科技集
団、BYDなど25社に過ぎなかった。

むろん、米国企業をも直撃する。

トランプの支持基盤である中西部では穀物輸出の農家、穀物商社が輸出減
に悲鳴をあげた。サイロも、バージ船のターミナルも物流に混雑する風景
はなくなり、中国でもターミナル、コンテナヤード、倉庫に行き交う
フォークリフトの数が顕著に減少し、とくに倉庫スペースは空きが目立つ。

一度は米国復帰を宣言していたハーレー・ディビットソンは対中輸出が難
しくなるため、4月23日、ウィスコンシン州からタイへ工場移転を決めた。
 
半導体を供給し、中国で組み立ててきたスマホ、とりわけアップルのi
フォンは激甚な直撃を受け、米国内での販売価格は150ドルほど高くなった。

5月初旬の株価下落率でワースト銘柄は半導体のインテル(10・7%の暴
落)、化学材のデュポン(9・8%)、半導体のエヌビディア(7・
8%)、アップル(6・9%)、動画配信のネットフリックス(6・
2%)という具合だった。

アメリカも中国も高関税適用対象からライフラインのかかわる品目を外し
てきたが、とくに中国は豚肉、食料などの税率を据え置いた。報復で中国
が高関税をかけたのは、ガスなど米国以外の輸入代替国があるものに限ら
れた。

一方、米国も消費財(傘とか、スポーツシューズ、PC、スマホ)への関
税を据え置いてきたが、これらも第四次報復関税が発動すれば対象となる。

米中貿易戦争、まだまだ先の見通しが不透明だ。

     
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樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1896回】       
――「民國の衰亡、蓋し謂あるなり」――渡邊(8)
渡邊巳之次郎『老大國の山河 (余と朝鮮及支那)』(金尾文淵堂 大正
10年)

             ▽

撫順炭鉱の苦力宿泊所を覗く。彼らは「其得る所の賃金は多く之を賭博に
費やす」のであった。彼らを取り纏める「把頭」と呼ばれる中国人の人足
頭は妻帯し、「權力と高給とによりて、猶人らしき生活を樂み得べしと雖
も」、苦力には賭博程度の楽しみしかない。

「上半身裸體の炭塵に汚れたる儘」で「頭を衝き合ひつゝ、嚴禁せる賭博
に耽る」。賭博を発見した「年少日本人監督のために棍棒を以て叱咤打擲
せらるゝも怒らず、驚き且笑つつて蜘蛛の子を散らすが如く逃げ去る」の
であった。

そんな有様を目にした渡邊は、「窃に惻隠の情を催さゞるを得ず。其生活
の寧ろ動物的にして、彼等の自覺の百年河清を俟つよりも望み難かるべ
し」と綴る。

こういう場面に出くわした際、おそらく欧米列強の支配者は「窃に惻隠の
情を催」すことなく、躊躇せず断固として厳罰で臨んだはず。殖民地の被
支配者に「窃に惻隠の情を催」していた日には殖民地経営なんぞできな
い、と嘯きながら。きっと、そうに違いない。

撫順から奉天を経由して南下し、山海関を越えて北京へ。

北京では初期の陸軍支那通を代表する青木宣純中将(安政6=1859年〜大
正13=1924年)に会っている。因みに、青木が北京政府応聘の軍事顧問と
して黎元洪総統の近くにあったのは1917(大正6)年1月から1923(同12)
年1月までである。

「温容一野翁の如き風貌」の青木によれば、「支那の戰爭と稱するもの、
聲容を以てし、文書を以てし、電報を以てし、必ず殺傷相當るが如き激烈
なる鬪爭に出づるにあらざるをや、風雲の動くところ安心すべからず」と
説く。

話が佳境に入る直前、客人が来たということで渡邊は青木の許を辞去して
いる。これから青木が何を話そうとしたのか。大いに興味をそそられると
ころだが、青木や坂西利八郎以下の陸軍支那通、それに大陸浪人の功罪に
ついては、いずれ詳細に論ずることにして、今は渡邊の旅を先に進みたい。

渡邊は明朝歴代皇帝を葬る十三陵、居庸関、弾琴峡、長城(八達嶺)など
を回るが、「初めて支那人の盗癖の油斷ならざる」を知る一方、「支那人
の衣服纏ふの嚴にして、婦人は全く皮膚を露出せず、男子は上半身を露出
すると雖も、斷じて腰部以下を示さず、少年童女と雖も亦相同じく、女兒
は決して胸背並びに乳房を暴露せず、村落の間亦此習慣を存せる」を知っ
たと記す。

さらに足を中国本部と外蒙との接点に位置する張家口まで伸ばす。「人口
六萬五千を有する北京以北唯一の商業地」とはいうものの、やはり旅館に
は閉口したらしい。

「當惑したるは便所の設備の不完全なり。大便所は外壁ありと雖も、入口
に戸あるにあらず、各箇の間に隔壁障陛屏あるにあらず、諸人偶然同時に
會せんか、相並んで脚を接して相見つゝ便せざるべからざるの奇劇を演出
すべし。從つて余等夜中若くは?旦人なき時を窺つて之を爲すの道を取れ
り」。

「人口6萬5千を有する北京以北唯一の商業地」でこれだから、他は押し
て知るべし。とはいえ、これがスタンダードだから我慢、ガマン、我慢、
ガマン、我慢・・・である。

張家口郊外の農村を歩き「鮮人の深入此の地方に及べるか」と綴る。出稼
ぎ農民か。入植者か。彼らの進出と日本の影響力拡大は重なっているの
か。彼らは独自に黄塵万丈の地まで進出したのか。確かに「木は動かせば
死ぬが、ヒトは動かすと活き活きする」ものだ。

張家口から北京に戻り故宮内の武英殿で「清朝鐘愛の珍寶」を見る。

其輸送の間、多くの僞物と交換せられ」て、最後は権勢家に私蔵されてし
まう。彼らこそ「獨り國寶を私するのみならず、又國家國民を私して其存
亡消長を雲烟に附するの徒なり。而して民國此等の徒に富む、民國の衰
亡、蓋し謂あるなり」。
ニセ国宝、ニセ国家に、ニセ国民・・・?《QED》

◆浜辺の歌」の取材であわや

渡部 亮次郎


歌謡歌手の岩崎宏美がNHKのラジオ」深夜便で「浜辺の歌」を歌った。この
時間には「琵琶湖周航の歌」を舟木一夫が、「浜千鳥」を森繁久弥が歌って
いた。「歌謡歌手の歌う叙情歌」だった。

その中の一曲「浜辺の歌」の取材であわや一命を取り落とすところだった
22歳の秋を思い出した。

私は大学を出てNHK秋田放送局に就職。1968年だった。6月からは大館
駐在の記者として、市役所前の下宿を根城に秋田県北部全体のニュースを
カバーしていた。

そうしたある日、米内沢(よないざわ)で作曲家、故成田為三の記念音楽
祭がある、と聞いた。まだテレビが地方まで普及していない時代。音楽祭
というのはどんなのか知らないがラジオにとってはうってつけの素材だろう。

ところが下宿で調べると録音テープが底をついているではないか。早速秋
田の局へ電話して、客車便で送ってもらう手配をした。夜9時ごろの奥羽
線下り急行で大館駅に到着することになった。

大学を出てまだ1年目とはいえ、既にいっぱしの酔客になっていた。急行
が到着するまで時間がある。一杯飲み屋で日本酒を飲み始めた。
銚子で2−3本は確かに飲んだ(酔った)。

時計を見て、自転車に跨った。坂道を下って駅を目指した。間もなくタク
シーにはねられて道端に吹っ飛んだ。新品の自転車はくちゃくちゃ。そこ
は坂下の十字路。確かに即死しても可笑しくなかったが、起き上がってみ
たら、額に小さな瘤ができているだけで亮次郎はちゃんと生きていた。

多分、酔っていたために無抵抗だったのがよかったのだろう。翌日は汽車
で米内沢をめざし、音楽祭の一部始終を録音して事無きを得たのであっ
た。デスクには秘匿した。老齢になって初めて人に語る真実である。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、成田 為三
(なりた ためぞう)は1893(明治26)年12月15日―1945(昭和20)年10月
29日)秋田県出身の作曲家。

秋田県北秋田郡米内沢町(現在の北秋田市米内沢)の役場職員の息子とし
て生まれる。1909(明治42)年、鷹巣准教員準備場を卒業、秋田県師範に
入学。同校を卒業後鹿角郡毛馬内小学校で教鞭を1年間執る。

1914(大正3)年、上野にある東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に入
学。在学中、ドイツから帰国したばかりだった在野の山田耕筰に教えを受
けた。1916年(大正5年)頃、『はまべ(浜辺の歌)』を作曲。

1917(大正6)年に同校を卒業。卒業後は九州の佐賀師範学校の義務教生
をつとめたが、作曲活動を続けるため東京市の赤坂小学校の訓導となる。
同時期に『赤い鳥』の主宰者鈴木三重吉と交流するようになり、同誌に多
くの作品を発表する。

1922(大正11)年にドイツに留学。留学中は当時ドイツ作曲界の元老と言
われるロベルト・カーンに師事、和声学、対位法、作曲法を学ぶ。

1926(大正15)年に帰国後、身に付けた対位法の技術をもとにした理論書
などを著すとともに、当時の日本にはなかった初等音楽教育での輪唱の普
及を提唱し、輪唱曲集なども発行した。

1928(昭和3)年に川村女学院講師、東洋音楽学校の講師も兼ねた。
1942(昭和17)年に国立(くにたち)音楽学校の教授となる。1944(昭和
19)年に空襲で自宅が罹災、米内沢の実兄宅に疎開する。生家は阿仁川へ
りにあったが1959(昭和34)年に護岸工事で無くなっている。

実家で1年の疎開生活を送った後、1945(昭和20)年10月28日に再び上京
するが、翌日脳溢血で53歳の生涯を閉じる。葬儀は玉川学園の講堂で行わ
れ、国立音楽学校と玉川学園の生徒によって「浜辺の歌」が捧げられた。

遺骨は故郷の竜淵寺に納骨された。故郷の米内沢には顕彰碑が建てられ、
「浜辺の歌音楽館」で為三の業績を紹介している。

「浜辺の歌」や「かなりや」など歌曲・童謡の作曲家、という印象が強い
が、多くの管弦楽曲やピアノ曲などを作曲している。しかし、ほとんどが
空襲で失われたこともあり、音楽理論に長けた本格的な作曲家であったこ
とはあまり知られていない。

愛弟子だった岡本敏明をはじめ研究者の調査では、作品数はこれまでに
300曲以上が確認されており、日本の音楽界で果たした役割の大きさが再
認識されつつある。2012・5・1



◆昭和天皇が戦後占領下で発した詔勅

櫻井よしこ


「昭和天皇が戦後占領下で発した詔勅の意味を汲みとることが令和時代の
課題だ」


御代替わりと長い休日で沢山の本を読んだ。その1冊、『昭和天皇 二つ
の「独白録」』(東野真著、NHK出版)は1997年6月放送の「NHKス
ペシャル」を基にした作品だ。NHKの報じる歴史物にはおよそいつも独
特の偏りと臭気を感じるが、約20年前に出版された本書も例外ではない。
それでも考えさせられる著作だった。

「昭和天皇独白録」といえば、90年12月号の「文藝春秋」のスクープを思
い浮かべる。東野氏は他にも「独白録」が書かれていたことを明らかに
し、その作成は東京裁判において天皇無罪を確定させるための対策だった
とする。

そうした動きの背景には、昭和天皇に対する厳しい米国世論があった。45
年6月のギャラップ世論調査では「処刑せよ」が33%、「裁判にかけろ」
が17%、「終身刑」が11%、「追放」が9%で、70%が強い敵愾心を抱い
ていた。東京裁判終了後も厳しい感情は消えず、50年3月の同世論調査で
は、「天皇を戦犯として裁くべし」が53%だった。

皇室を潰し、国柄を断ち切ってしまいかねない米国国民の激しい対日感情
をどのように回避し得るのか、先人たちが重ねた苦労は測りしれない。

国民統合の中心に天皇を戴く形を辛うじて守ったとはいえ、日本の国柄と
はほど遠い現行憲法を受け入れるなど、先人たちは苦渋の選択をした。し
かも、占領下で日本に強要された無理難題の真実は、厳しい検閲制度ゆえ
に国民は知るべくもなかった。

こうした戦後体制をどう考えるか、昭和天皇のお言葉が東野氏の著書に出
てくる。それは「昭和天皇独白録」をほとんど一人で速記してまとめた内
記部長、後に侍従長を務めた稲田周一の備忘録中のお言葉だ。

46年8月14日、終戦記念日を前に陛下が首相ら閣僚を前に、述べられた以
下の件である。

「戦争に負けたのはまことに申訳ない。しかし、日本が負けたのは今度丈
ではない。昔、朝鮮に兵を出して白村江の一戦で一敗地に塗(まみ)れた
ので、半島から兵をひいた。そこで色々改新が行われた。之が日本の文化
の発展に大きな転機となった。このことを考えると、此の際日本の進むべ
き道も自らわかると思う」

昭和天皇が胸に描いた「此の際日本の進むべき道」は、右のお言葉の約8
か月前に発せられた詔勅に示されているのではないか。占領下で迎えた新
年の詔勅を昭和天皇は以下のように始められた。

「ここに新年を迎える。顧みれば明治天皇 明治の初国是として五箇条の
御誓文を下し給えり」

その後に昭和天皇は五箇条の御誓文全文を続けられた。後年、この件につ
いて、五箇条の御誓文を国民に伝えるのが詔勅の「一番の目的」だった、
「民主主義を採用したのは、明治大帝の思し召しである」「民主主義とい
うものは決して輸入のものではないということを示す必要が大いにあっ
た」と語られている。

民主主義は米国からの輸入ではない、五箇条の御誓文に示されているよう
に、明治以来日本が高々と掲げた価値観である。国民は祖国を信頼し、自
信を持ってよいのだと仰ったのだ。敗戦したからといって、祖国を恥じる
必要はないとのお考えでもあろう。

憲法は国柄を表現するもので、国の基いである。昭和天皇や先人たちは、
前述のように他に選ぶ道もなく木に竹を接いだような現行憲法を受け入れ
た。私たちは70年以上、その一文字も改正できずにきた。日本はまるで米
国に魂を抜かれた操り人形のようではないか。令和の時代の課題は、昭和
天皇が発せられた占領下における詔勅の意味を真摯に汲みとることだろ
う。それが憲法改正だということはもはや説明の必要もないだろう。

『週刊ダイヤモンド』 2019年5月18日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1279 

◆その日本語、文字は変だ

渡邊 好造


何気なく使われているおかしな日本語、文字のいくつか、、。

1) 『やるしかない』 = 元社会党党首土井たか子氏風に言うと「やるっきゃない」。「え〜、こまったな〜。いったい私にどうしろと言うの、どうやっていいか手段方法はサッパリ判らない、けど何かやるしかない」が本音。回答になってない。

2) 『、、、してみたいと”思います”』 = 「さあそれでは行ってみたいと”思います”」、「それについて考えてみたいと”思います”」。放送評論家・島野功緒氏も言う(週刊新潮)、”思います”は余分である。NHKのアナウンサ-にも多い。「さあそれでは行ってみましょう」、「それについて考えてみましょう」となぜ簡潔に言わない。

3 ) 『、、じゃないですか』= 「私って神経質じゃないですか」、「私って一人っ子じゃないですか」という喋り方がうるさい、と作家・猪瀬直樹氏(読売新聞)。この言い方をするのは若い女性に多いが、朝8時テレビワイド番組の司会者・小倉智昭も連発する。、、じゃないですか、と勝手に同意を求められても困る。

4) 『まだ訴状を”見ていない”のでコメントできません』 = 当事者に訴状が届くのはそんなに遅いのか。見ていないのなら職務怠慢、”精査検討していない”だけのことではないか。これで逃切りそのあと正式のコメントは発表されないし、発表されても報道されない。

5) 『耳障り”がいい”』=耳に障るのをいいという表現はおかしい。” 耳障り”はそれだけで一つの単語である。うるさい雑音を聞いて、いい音だと言っているようなもの。目障りを「目障りがいい」と言わない。

6 ) 『 ごみ捨てる”べからず”』= 文章は口語体と文語体を混合しないのが原則。口語なら「ごみ捨”てるな”」、文語なら「ごみ捨”つべからず”」。

7) 『あの人との関係は”精”算しました』 = 別れ話など人間関係の解消、この場合は”清”算。”精”算は費用の最終的計算のことである。企業の倒産・解散で取引相手との貸借関係など残務整理が済むまでは「”清”算会社」。

8)『懐かし”の”メロデイ』= NHKにこんなタイトルの番組があった。形容詞の後に助詞はつけない。「懐かし”い”メロデイ」であって、”の”はおかしい。

9)『”成仏”しろよ』= 時代劇映画で斬り殺した相手を片手で拝み「”成仏”しろよ」という台詞。”成仏”は僧が仏になることで、我々凡人が死ねばそれは”往生”である。”成仏”するには死んだあと浄土でさらに修行がいるから無理な話。

10)『次の誕生日で”満60歳の還暦”を迎える』 = 長寿の祝い事は満年齢ではなく数え年である。前にも言ったが何度でも言う。還暦は数え年61歳。10干(甲乙、、癸)12支(子丑、、亥)の組合せは10×12=60、61回目の1月1日に元の暦に戻る。

満60歳誕生年の元日に迎える数え年61歳が還暦。古稀(70歳=満68歳誕生年の元日)、喜寿(77歳=満75歳誕生年の元日)、、などはすべて数え年。

これまで筆者も誤字、脱字、表現ミスの連発である。他人のミスを指摘する資格はないが。 (完  再掲)

2019年05月19日

◆非常事態宣言にいたったアメリカは

宮崎 正弘


令和元年(2019)5月16日(木曜日)参 通巻第6081号 

 非常事態宣言にいたったアメリカは中国製品排除を固く決意
  もはやルビコン河を渡った、米中対決は最終戦へ突入したと見るべき
だろう

2019年5月15日、トランプ米大統領は非常事態を宣言した。

 「非常事態」?

国家安全保障上、極めて脅威となる「外国企業の通信機器」を米国企業が
使用することを禁止する、つまり名指しこそしていないが、明らかに
ファーウェイ、ZTE、チャイナモバイルなどを完全に米国市場から排斥
する大統領令にトランプは署名したのだ。

そして驚くなかれ、反トランプ論調でならすリベラルはメディアも、この
署名には反対しなかった。議会でも上院司法委員会のリンゼイ・グラハム
委員長(サウスカロライナ州)は、「鍵は中国だ」と言明している(ワシ
ントンポスト、15日)。

狙いは言うまでもないが、次世代通信技術の中枢にある5Gの技術覇権を
めぐって、中国の華為技術(ファーウェイ)やZTEの躍進にトドメを刺
すことである。

トランプ大統領が「非常事態」を宣言したため商取引規制権限が大統領に
与えられたかたちだが、実質的に、この緊急事態発令を受けて、商務省が
他の政府機関と協力し、150日以内に実施計画を取りまとめることにな
る。 追加の罰則が検討されるだろうとする見方もある。

ロス商務長官は、「米国の供給網を外国勢力から守ることを目的としてい
る」と述べ、「米国のデータとインフラが安全であると国民は信頼でき
る」とした。 また連邦通信委員会(FCC)のパイ委員長は「特定の外
国企業の機器とサービスによる脅威を踏まえると、大統領令の署名は米国
のネットワーク保全に向けた重要な一歩だ」と強調した。

わずか数日前にトランプ大統領は米中貿易戦争の幕を引くのではなく、第
3幕を開けて、中国からの3000億ドルの輸入品すべてに25%の関税をかけ
るとし、その舌の根も乾かぬうちに、「第4次もある」と述べた。

このためウォール街は600ドル強の下落となったが、株価全体の2・4%
に過ぎず、もっとも下落率が高かったのはもちろん上海株式市場、ついで
台湾、韓国、香港、そして日本だった。

東京市場では中国への依存度が高い日本電産、村田製作所、ローム、京セ
ラなどが3〜5%の下落にあり、むしろ米国より日本のほうが強震に襲わ
れた格好である。

米中貿易戦争は、ワシントンと北京での下準備会合を重ね、おおむね妥協
していた。6月の習近平訪米で、「解決するはず」だった。

メディアは、そういう期待をこめて、妥結が近いと書いてきたが、土壇場
で習近平が卓袱台返しを演じたため、トランプ大統領が激怒し、ますます
激突が深まる結果となった。

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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1895回】           
 ――「民國の衰亡、蓋し謂あるなり」――渡邊(7)
渡邊巳之次郎『老大國の山河 (余と朝鮮及支那)』(金尾文淵堂 大正
10年)

               ▽
支那人學童に對して強ひて『君が代』を學習せしめ、彼等の無意識に之を
歌ふを見て大に喜」ぶのは余りにも単純でお人好しが過ぎるのである。そ
んなことをしたら「却つて其父兄の内心に憤慨を煽動する」ことに思いが
至らなかったのか。それを小林秀雄流に表現するなら「素人」ということ
だろう。「素人」は飽くまでも誠心誠意を心掛ける。いや唯一の武器が誠
心誠意である以上、生真面目に誠心誠意に振る舞うしかない。

第三者の意図に心を働かせることなく、ひたすら真っ直ぐに、誠心誠意に
対処する。

こちらが良かれと思っていることは、相手にとっても良いはずだとの信念
が揺らぐことはない。日本人は「素人」のままに台湾に上陸し、朝鮮に進
み、満州を開墾し、下って東南アジア各地の民族に向き合った。

「一視同仁」の4文字こそが、「素人」が掲げた方針である。だから「支
那人學童に對して強ひて『君が代』を學習せしめ、彼等の無意識に之を歌
ふを見て大に喜」んだんだろう。だが素人の哀しさである。日本人が示す
誠心誠意がじつは「却つて其父兄の内心に憤慨を煽動」してしまうことに
気がつかなかった。いや、そこまで心が働かなかったのだ。なにせ日本人
は素直だが、相手の多くは極めて素直とはいえない。
 
その点、長い殖民地行政で積み上げた経験を身に着けた欧米列強は違う。
異民族を『手籠め』にするノーハウを持つ彼らの頭の中には、「一視同
仁」などという素人っぽいヤワな考えは微塵もなかった。

オランダ人はインドネシアで、イギリス人はインド・ビルマ・マレー半島
で、フランスはヴェトナム・ラオス・カンボジア人で、アメリカはフィリ
ピンで、まさか「一視同仁」などと口にしなかっただろう。

支配者と支配される者の間には断固とした違いがあることを非情なまでに
見せつけた。被支配者が「内心に憤慨を煽動」を持つことないように徹底
して、冷酷に骨の髄まで教え込んだはずだ。

誤解を恐れずにいうなら、かつての日本の外地経営は温情溢れるものであ
り過ぎた、ということではないか。

だが、ここで日本人の宿痾が顔を覗かせてしまう。日本人は非情になれそ
うにないのである。日本人にとって相手は飽くまでも友人であって欲し
い。だから「一視同仁」である。「友人」を口にしながら被支配者として
対処する擦れっからし欧米列強のようにはなれない。
 
ヤワな日本人は「友人」を求めながら結果として彼らの「内心に憤慨を煽
動」させてしまう。百年前の1919年3月1日に京城で起きた「三・一万歳事
件」なども、果して、その類ではなかったか。

だが、だからといって日本人は欧米列強流の方法を学ぶわけにはいかな
い。なぜなら、擦れっからしになってしまったら、日本人ではなくなって
しまうからである。

閑話休題。

満鉄経営の撫順炭鉱を見学した渡邊に向かって、同炭鉱技師長は今後の近
代化におけるエネルギー問題を考えるなら、撫順炭鉱に加え「無盡蔵と稱
せらるゝ山西の炭坑採掘権を握らざるべからず」。だから山東と山西とを
結ぶ鉄路を確保することが肝要だと説く。

そこで渡邊は「日本たるもの、かの自主、自立、自營の力なき支那を助け
て誘掖補導し、親善提携して以て死活一致の實を擧げざるべからざるな
り」と。だが、所詮は「自主、自立、自營の力」がないわけだから、これ
また「支那人學童に對して強ひて『君が代』を學習せしめ」る類の『大き
なお世話』ではないか。

そんな鷹揚に構えているから、山西省督軍閻錫山はイギリスとの合弁事業
として同省の石炭と鉄鉱の採掘、さらには製鉄業を許可しただけではな
く、将来は必要に応じて鉄道敷設権を与えてしまったのだ。

なお同事業は「近年支那官憲より外國人に與へられたる特權中最大のもの
なり」。だから「死活一致の實」なんぞは、やはり余計なお世話だ。
《QED》