2019年05月16日

◆35年目の日中友好

渡部 亮次郎


9月29日は1972年のこの日、田中角栄総理と周恩来総理が北京の人民大会
堂で日中共同声明に調印した記念の日。35年目の日中友好を謳歌する人、
貶す人、様々であろう。

斯く言う私はNHKからの同行記者。80人の中から選ばれた10人の中の1人と
して総理機に同乗を許された「近距離記者」だった。

宿舎は市の中心部の民族飯店(ホテル)460号室。ハンガーの位置がやたら
に高く、シャワーが随分ぬるかった。聞けばソ連人たちの設計だから背丈
が違うわけだ。

つまり1949年の建国直後の中国は、ソ連の勝手な振る舞いに文句一つ言え
ない弱い立場だった。やがて毛沢東はフルシチョフと喧嘩。自力更生を唱
えたが、農業も工業も先進国に遥かに立ち遅れてしまった。

これではならじと、周恩来らの助言もあって、隣国日本の力を借りる路線
をとり始めたが、日本はアメリカの鼻息をうかがうだけで中国は焦るばか
り。佐藤首相は周恩来から毎日のように「反動内閣」と貶され続けた。

ところがアメリカ国家安全保障担当大統領補佐官のキッシンジャー氏が
1971(昭和46)年7月9日、秘密裏に中国を訪問して周恩来総理と会談「72
年5月までにニクソン大統領が中国を訪問する」。

既に帰国してから4日経っていた15日に電撃的に発表。反中国姿勢をとっ
てきた佐藤政権は当に2階に上げて梯子を外されてバカをみた。

加えてニクソンは田中内閣になった直後の8月15日には金とドルの交換一
時的停止・10%の輸入課徴金実施などのドル防衛措置(ドル・ショック}を
与えて日本を揺さぶった。

政局は「バスに乗り遅れるな」とばかり日中国交正常化を急げというムー
ドに成り、ムードに乗る田中角栄前通商産業大臣が台湾派の前外務大臣福
田赳夫氏を圧倒的に破った。

三木武夫、大平正芳、中曽根康弘の各氏が田中支持。対する福田氏は自派
のほかは残りの弱小派閥の支持しか得られなかった。なんと言っても佐藤
氏からの「禅譲」待ちをした福田氏の戦略負けだった。

田中氏は外相に据えた大平氏と官房長官二階堂進氏を伴って9月25日には
全日空特別機で羽田を出発、一路、北京空港を目指したのだった。別の特
別機の記者団を合わせてカメラマン含め総計80人。

正午過ぎに到着。眩しいほどの晴天下、初めて中国国歌を聞いた。
しかし釣魚台の迎賓館に案内された田中総理らに接触する事は中国側の意
向で厳禁。時折、会見場にやってくる二階堂長官に聞いても「何も申し上
げられません」。それ以外の科白はなかった。

到着初日、人民大会堂での周恩来総理主催田中総理歓迎宴における
田中総理の日中戦争に関する謝罪の文言が軽すぎたとして問題になったと
か、青菜に塩の如き大平外相や外務省幹部を笑って、田中総理が「だから
大学出は駄目なんだ」と言った類の話はすべて帰国後に明らかになった
話。周恩来氏が田中さんに「天皇陛下によろしく」と言った話も。

かくて交渉は決着。毛沢東との会談はいつかと固唾を呑んで待ったがナ
シ。朝になって未明に会談(表敬訪問)があったこと、随員の随行は認め
られなかった事が明らかにされる始末。

発表された共同声明は内政不干渉が謳われたのに、あれから35年の日中関
係は中国による日本への徹底的な内政干渉の歴史であった、と言って過言
ではない。

また我々は食糧の面でも中国に絶対的に支配されている。産経新聞の北京
特派員福島香織さんが9月27の「北京春秋」で「安全な日本食は中国
製?」と嘆くほど日本食は中国に支配されている。

<北京の高級百貨店の新光天地に日本食品・農産品店舗が先ごろオープン
した。農林水産省の委託を受けて双日が手がけたもので来年の3月までの
期間限定。日中国交正常化35周年キャンペーンの一環。

食の安全に揺れる中国・北京で富裕層を対象に「安全で美味しい日本食」
を浸透させようと言うのが狙いだ。

冷凍ケースに並ぶ「サケ切り身冷凍パック」を手にとって裏を見ると原材
料は煙台。有名日本ブランドのサラダオイルは上海の製造。日本ブランド
の味噌は米国産大豆を中国の工場で加工とある。日本食と言いながらほと
んどが中国製?

店舗関係者に「原材料・製造100%日本と言う食品が殆どない」と文句を言
うと「原材料、調味料、製造のいずれかに日本がかかわっていれば日本食
品です」ときた。

店舗に並ぶ約180食品のうち、100%日本産はミネラルウオーターと米とレト
ルト食品ぐらいしか見当たらなかった。それに日本の輸入レトルト食品の
具だって中国産は含まれているのではと気になりだしたが「日本の食品自
給率は40%ですから」と関係者は涼しい顔だった。

何だ、農水省推奨の安全で美味しい日本食は中国が作っているのか。それ
が現実なのだろうが、どうもすっきりしない。・・・>

要するに日本の援助で近代化を急ぐ中国は既に日本の胃袋を制圧したと言
う事である。その代わり日本から進出している工場が全部引き揚げれば中
国は窒息するが、それは残念ながら杞憂に過ぎない。2007・09・28

◆玉城沖縄県知事の中国おもねり外交

櫻井よしこ


少しばかり古い話だが、沖縄県知事の玉城デニー氏が4月18日、沖縄県を
「一帯一路」の中で「活用してほしい」と、中国副首相の胡春華氏に要請
したそうだ。

一帯一路構想は中国式の世界制覇計画である。手段を選ばないその手法は
世界の非難の対象となっており、日本政府も米国政府も強い警戒心を抱い
ている。

安倍首相は日本も一帯一路に協力していこうと言ったが、前提として各プ
ロジェクトについて透明性、開放性、経済性、対象国の財政健全性が担保
されなければならないとした。右の4条件が満たされるなら、日本企業が
プロジェクトに参入してはならない理由はなくなる。だが、現実には中国
がこれらの条件を満たすのは至難の業であろう。

日本政府はこのように中国に対する慎重な構えを崩していない。玉城氏の
中国副首相への要請は、日本政府が国家戦略として厳しい条件をつけて一
帯一路を警戒しているときに、直接外国政府に働きかけることで自国政府
の外交方針に逆行するものだ。

知事として言語道断ではないか。この件は全国紙では報道されなかった
が、沖縄の新聞が取り上げた。私の手元にある「八重山日報」と「琉球新
報」が4月27日に玉城氏の定例会見を報じたのだ。中国政府への働きかけ
は、同会見で玉城氏自身が披露したものだ。

両紙の報道によると、玉城氏は4月16日から19日まで、河野洋平氏が会長
を務める日本国際貿易促進協会訪中団の一員として訪中した。18日に胡副
首相と面談し、まず、「中国政府の提唱する広域経済圏構想『一帯一路』
に関する日本の出入り口として沖縄を活用してほしい」と要請した。胡氏
は直ちに「賛同」したそうだ。

習主席の沖縄訪問を要請

中国の巨額融資を受けて借金返済が滞り、港や土地を奪われるリスクにつ
いて記者が問うたのに対して玉城氏は、「『情報収集しながら、どう関
わっていけるか模索していく』と積極姿勢を示」した(「琉球新報」)。

不安定さを増す安全保障環境や中国の軍事力強化に関して問われると、玉
城氏は「国際交流などで国家間の全体的なつながりを深化させるのは有益
だ」と答え、習近平国家主席の沖縄訪問を胡氏に要請したことも明らかに
した(「八重山日報」)。

玉城氏は自身の発言の意味を理解しているのかと、思わず疑った。何より
も氏は自身の役割をどうとらえているのか。知事に外交権が与えられてい
るはずもない。にも拘わらず、沖縄県を一帯一路に組み入れようと働きか
けるのは、知事の権限を超えるだけでなく、日本政府の外交政策に反して
いる。一帯一路構想の旗の下で、どのように危険なパワーゲームが展開さ
れているか、知事として危機感を持つべきであろうに、それが感じられない。

折しも5月2日、米国防総省が「中国の軍事・安全保障の動向に関する年次
報告書」を発表し、中国の一帯一路構想の危険性を警告した。

報告書の指摘の中に、日本に最も影響のある点として中国の台湾戦略の分
析がある。報告書は、中国人民解放軍の戦略の最重要点は台湾問題だと
し、中国は「平和的統一」を提唱しつつ、武力行使に備えて軍事力の増強
を着々と進めてきたと詳述している。

台湾海峡有事で中国が取り得る軍事行動としては「航空・海上封鎖」「サ
イバー攻撃や潜入工作活動などによる台湾指導部の失権・弱体化」「軍事
基地や政治中枢への限定的な精密爆撃」「台湾侵攻」などを列挙している。

台湾への軍事力行使を習近平氏は否定しない。国際社会の戦略専門家は中
国は必ず台湾奪取に動くと見ている。台湾が中国の手に落ちれば、次に危
ないのは沖縄である。だからこそ、沖縄県知事は本来、どの政治家より
も、一帯一路を最も警戒しなければならないはずだ。

奪取の方法は軍事力に限らない。国防総省が指摘するように、21世紀の戦
争ではサイバー、情報、経済が大きな鍵になる。その経済力でがんじがら
めにして奪うのが一帯一路であろう。

国防総省報告書は、一帯一路に関連する投資が中国の軍事的優位を生み出
す可能性について明確なメッセージも発信している。たとえば、中国が特
定の国に港を建設すれば、遠く離れたインド洋、地中海、大西洋に展開す
る中国海軍のための兵站をそれらの港に築くことになり、中国の世界制覇
の基盤が自ずとできていくという指摘である。

国防総省の指摘を受けるまでもなく、私たちはすでに多くの事例を体験し
ているはずだ。顕著な例を、中国初の海外軍事基地を置いたジブチに見る
ことができるだろう。

すべてが異常

ジブチはアデン湾と紅海を見渡す戦略的要衝だ。中国以外に米仏伊の軍事
基地があり、自衛隊の小規模な拠点もある。だが中国の軍事基地は他国の
それとは全く様相が異なる。

中国以外の国の基地はジブチ国際空港を囲むようにして位置しているが、
中国だけかなり離れた海岸近くに海兵隊基地を築いた。現地を視察した外
務副大臣の佐藤正久氏によれば、中国軍の基地は広く、構造的にまさに要
塞の趣きだそうだ。

その基地は、中国の資金で造られた港に隣接しており、中国海軍の軍艦に
加えて商船が出入りする。注目すべきは、この港まで鉄道が敷かれ、それ
が隣国のエチオピアまで伸びていることだ。一帯一路と軍事戦略が合体し
ているのである。

さらに驚くのは中国がジブチに建設したアフリカ最大規模の自由貿易区と
物流センターだ。建設費は35億ドル(約3850億円)、ジブチにとって如何
に深刻な債務であるかはジブチのGDPが20億ドル(約2200億円)だと知
れば十分であろう。これが中国の仕掛ける債務の罠なのである。スリラン
カはハンバントタ港を借金のカタに99年間、中国に差し出した。ジブチも
同様の運命を辿りかねない。

『週刊新潮』 2019年5月16日号 日本ルネッサンス 第851回

           

◆「侵略」の時効は?

石岡 荘十


どなたか教えてください。

先日、大学時代の友人数人と会った。その席でひとりがこう訊いて来た。

「歴史上、人の国を侵略し、植民地化し、虐殺し、じつに多くの人を大
規模に連れ去って奴隷とした例は数知れない。日本はいま、70数年前の
戦争をめぐって、近くの国から『謝れ。口ばかり出なく、謝罪の意を行
動で表せ』と攻め立てられている」。

その上「戦争指導者を祀っているところに,総理がお参りするのはけしか
らん。おまえの歴史認識をこっちと同じに改めない限り、会ってやらん
と脅されている」

そこで、2つ訊きたいと友人は言う。

まず、歴史上、他国を侵略し、占領し、植民地化した国々が、謝った話
はあまり聞かないが、あるとすればどこの国がどこにどんな謝り方をし
たのか。先の戦争で謝罪をしたのは、ドイツと日本ぐらいだと思うが
------。ほかにあったっけ? 

次に、歴史認識が国によって異なるのは当たり前だと思う。が、それを
変えなければ、会ってやらんとごねた国は、歴史上あるのか。あるとす
ればどの国がどこの国にそう言ったのか。言われた方は、どう対応した
のか。

日本はかつて蒙古に襲われたり、近海でロシアの海軍相手に戦ったりし
たこともあった。防衛のために多数の死傷者が出ている。幸い、侵略未
遂だったが、彼らは謝ったのか。

加藤清正のことを謝れとは言っていないようだが。

友人はつまり、先の戦争が「侵略」だったとして、それがいつになった
ら時効になるのか、そんなものに時効はないのか、教えてくれと言って
いる。

酒席だったこともあって、むにゃむにゃとごまかして、議論は消化不良
のまま終わってしまった。

どなたか、正解を教えてくれませんか。

2019年05月15日

◆グアダル港に未来は無くなった

宮崎 正弘


令和元年(2019)5月15日(水曜日)弐 通巻第6078号 

 グアダル港に未来は無くなった。地元漁民たちの怒り
  バロチスタン州は政党乱立、テロ組織が跳梁跋扈し中国を敵視


5月13日、こんどはバロチスタン州の州都クエッタ近郊で警察の緊急展開
部隊のパトカーが襲撃され5人が死亡、十数人が重軽傷を負った。

パールコンチネンタルホテル襲撃事件から3日をおかずに、またテロ事件
が起きた。治安の悪さはまったく納まっていない。

パキスタン政府は、急遽、治安部隊をかき集める。おもに中国人の工事現
場の警備だが、退役軍人から予備役にも声をかけて、それでも足りずに民
間ガードマン会社に警備を依頼している。中国からも「中国版ブラック
ウォーター」がクエッタに派遣されている。中国人誘拐、殺人が頻発して
いるからだ。

どうしてこうまで中国がパキスタンで、怨嗟の的となったのか。

「われわれの漁場を政府は外国企業に売った。向こうは近代的大型船で漁
労、俺たちの生活が脅かされている。中国が開発に乗り出してから、最悪
の事態が連続している」

パキスタンの英字紙『ドーン』に掲載された現地の声である。

グアダル港にあって、親子代々漁業を営んでいた漁民の怒り、それを無視
してパキスタン政府は中国と協同で「一帯一路」プロジェクトを進めてき
た。「陸に上がって、いまからエンジニアになれと言われても、俺たちに
は漁業以外、なにも知らない」。

「なんのことはない。地元に裨益せず、利益の91%が中国の持って行かれ
るのだ」と不満を表明しているのは、なんとパキスタン政府の漁業大臣で
ある。漁民は新興住宅地に強制的に移住させられ、近く完成するという学
校でエンジニアリングを学ばせると良い等いわれた。その間に外国に漁業
権を売り払っていたのが州政府だった。

だからパキスタン軍や警察にテロをしかけるバロチスタン解放戦線の軍事
作戦も、かれらにとっては「正義の味方」と映る。


 ▼バロチスタンとは「バローチ人の国」という意味だ

バロチスタン州の住民たちにとって、前にも述べたようにパキスタンに帰
属するという意識は希薄である。もともとが独立潘王国だったのだ。

歴史は古く紀元前七世紀から3世紀にかけてインダス文明の一員として栄
え、文明の通り道ということは軍隊の通過地点でもあり、古くはアレキサ
ンダー大王、アッバース朝(イラン)の支配下、チンギスハーンの軍が攻
め込むとチムール帝国に組み入れられ、ようやく1638」年にカラーと藩王
国として半独立状態だった。

幾多の軍隊が通過するという歴史的な意味は、民族が複雑に構成され、言
語状況は多国語の世界となる。文化的にも混沌状態が通常となる。

8世紀にはイスラムが入ってきて、それまでにあった仏教遺跡などは破壊
された。

1947」年に英国保護下で独立したものの、藩王国としては1955年に消滅。
理由はパキスタン軍事力にかなわなかったからで、面積こそ広いが、人口
は800万、パキスタン全人口の5%でしかない。

地政学的要衝として、歴代の侵略国が重視したのも、現代人の感覚ではパ
キスタンの最西端だが、地誌的に見れば、「イラン高原の最東端」と見た
方がよい。

それゆえ宿命の対決を繰り返すインドは、グアダル港の頭越しに、イラン
の最東端にあるチャバハール港の開発を進めてきた。

このような歴史的経緯からバローチ人と一口に言っても、言語的にはパン
ジャブ語、シンドー語、ウルドウ語、ペルシア語が混在している。

パキスタンがバロチスタンを手放さないのは、豊富な鉱物資源ばかりか、
過疎地、砂漠地であるため核実験場として活用できるからで、ある意味で
はパキスタンにおけるウィグルのような状況と言えるかもしれない。


 ▲「中国の遣り方はかつての英国植民地時代の「東インド会社」そっくりだ

「いまの中国の進出はかつての英国の『東インド会社』だ」と言うのがバ
ロチスタン州に住む人たちの実直な感想であり、中国の進めるCPECに
賛成する人は少ない。というよりほとんどいない。

「中国がきたら儲かる」と期待した地元ビジネスマンも「結局、建材から
労働者まで中国からつれてきた。皮肉なことに、その中国人労働者をパキ
スタンの軍隊と警察が守っている。だから彼らへの恨みがテロとなってい
る」というのがバロチスタン住民の意見である。

夢は無惨に潰えた。

2015年4月に習近平がパキスタンを訪問し、一帯一路の一環プロジェクト
として開発を約束し、「パナマ運河の年収は25億ドル、スエズ運河は50億
ドル。だからグアダル港がハブ化すれば、最低でも20〜30億ドルになる」
などと根拠のうすい美辞麗句に騙されてしまった。

中国の示した青写真では「グアダル港は近代的に整備されるうえ、周辺に
は大学、病院、経済特区の建設で、いずれはドバイやアブダビやシンガ
ポールのようにピカピカの摩天楼が林立し、現在18万5000の人口は200万
人に増える、経済的判定は目の前だ」という夢物語だった。

2017年にクエッタで中国語教師が拉致され、身代金を要求された後、殺害
された。2018年にはカラチの中国領事館が自爆テロに襲われ、2019年4月
には中国労働者現場の警備に派遣途中の軍人がハイウェイで待ち伏せさ
れ、26人が殺害された。

2019 年5月には、グアダルの最高級ホテルが襲われて5 人が死亡、13日、
クエッタで警察車両が襲撃された。
       

◆1960年チリ地震津波

渡部 亮次郎


昭和35(1960)年5月24日未明、突然、契約タクシーにたたき起こされ
た。津波がきて大被害が出ている、至急、局へ」というNHKからの伝言。
地震も無いのに、津波とは、何事かい。

NHKに記者として採用され、仙台中央放送局に着任して間もなく1年。そろ
そろ東北管内のどこかのローカル局への転勤が噂に上っていた。局から歩
いても5分ぐらいの民家の6畳間に下宿していた。

5月24日未明に最大で6メートルの津波が三陸海岸沿岸を中心に襲来し、
142人が死亡したのだった。岩手県大船渡市では53名、宮城県では志津川
町(現・南三陸町)では41人が死んだが、それらがはっきりするのは数日
経ってからのこと。

私は単身、録音機を持って女川町(おながわまち)に派遣されることにな
り局の車で向かった。途中、国鉄塩釜駅の前を通りかかったら、跨線橋の
上に漁船が載っていた。津波はこんな高さにまで達したのか。

後で聞けば、前夜、塩釜には同僚のカメラマンが別の取材に訪れて
1泊。だが、津波と聞いても暗くて何も分からず、全く撮影しなかった。
この男は、これが祟って出世できないまま、60前に死んだ。

女川に着いたが、時折、津波がまた、やってきたという声がして人々は海
を横目に高台に逃げる。

そのどよめきを録音しながら私も逃げる。その繰り返し。録音機は空回り
して、何も録音されてなかった。2,3日経って赤痢が集団発生。その原
稿を電話で送る私も発症していた。大館通信員時代についで、2度目の赤
痢だった。

チリ地震は表面波マグニチュード(Ms)8.5、モーメントマグニチュード
(Mw)9・5と有史以来観測された中で最大規模の巨大地震である。最大震
度は気象庁震度階級では震度6相当とされている。

1960年5月22日15時11分20秒(現地時間。日本時間では5月23日4時11分20
秒)、チリのヴァルディヴィア近海を震源として発生した地震である。地
震後、日本を含めた環太平洋全域に津波が襲来し、大きな被害をもたらした。

まず前震がM7.5で始まりM7クラスの地震が5〜6回続いた後、本震がMs8ク
ラスで発生した。また余震もM7クラスであったために首都のサンティアゴ
始め、全土が壊滅状態になった。

地震による直接的な犠牲者は1743名。負傷者は667名。

この地震によりアタカマ海溝が盛り上がり、海岸沿いの山脈が2・7m沈み込
むという大規模な地殻変動も確認された。また有感地震が半径約1,000km
という広範囲にわたって観測された。

史上初の地球自由振動の観測に成功し、アメリカでの観測で発生した地震
波は地球を3周した事が確認された。

尚、本震発生から15分後に約18mの津波がチリ沿岸部を襲い、約15時間後
にはハワイ諸島を襲った。ハワイ島のヒロ湾では10.5mの津波を観測し、
61名が死亡した。

各地の津波到達時間日本では地震による津波の被害が大きかった。地震発
生から約22時間半後の五月24日未明に最大で6メートルの津波が三陸海岸
沿岸を中心に襲来し、142名が死亡した。

津波による被害が大きかった岩手県大船渡市では53名、宮城県志津川町
(現・南三陸町)では41名、北海道浜中町霧多布では11名が死亡。

この浜中町では8年前の1952年の十勝沖地震でも津波被害を受けており、2
度目の市街地壊滅。街の中心でもある霧多布村がこのチリ地震津波により
土砂が流出し北海道本島より切り離され島と化した。

現在は陸継きだった所に2つ橋が架けられており、北海道本島と行き来が
出来る。1つは耐震橋、もう1つは予備橋で橋が津波で流出する恐れがある
ためと避難経路を2路確保するためである。

また、同じく度重なる津波被害を受けた田老町(現・宮古市)では高さ10
メートルの巨大防潮堤が功を奏して人的被害は皆無であった。

この田老町の防災の取り組みを取り入れ浜中町に防潮堤が建設される。北
海道の防潮堤については後の北海道南西沖地震でも津波による人的被害の
甚大な奥尻島などでも建設された。

地球の反対側から突然やってきた津波(遠隔地津波)に対する認識が甘
かった事が指摘され以後、気象庁は日本国外で発生した海洋型巨大地震に
対してもハワイの太平洋津波警報センターなどと連携を取るなどして津波
警報・注意報を出すようになった。

あれから丁度50年後、チリ中部沖で2010年2月27日3時34分(現地夏時間;
6時34分 UTC)に地震が発生した。1900年以降、チリでは1960年5月のチリ
地震に次ぐ規模、世界でも5番目の規模の地震となった。

日本では、2月28日午前8時30分に気象庁が会見を開き、かつてのチリ地震
で最大6mもの大津波を受けて甚大な被害を受けた歴史的経緯もあり、大津
波警報を三陸沖に発表するといった内容を伝えた。

時間は、「午前9時を過ぎればいつでも発表できるようにする」として、
当初の予定を大幅に前倒しすることも示唆した。しかし人的被害は全く無
かった。海苔ひびや牡蠣いかだの被害は大きかった。
気象庁は同日の会見で、津波の予測が過大であったとし、警報・注意報が
長引いたことを謝罪した。ただし最悪のケースを想定したもので、判断ミ
スはなかったとした。2010・5・24

◆新天皇が置かれていた教育環境の酷さ

櫻井よしこ


「新天皇が置かれていた教育環境の酷さに日本の将来への不安を抱く 」

「平成」から「令和」へ、5月1日に御代替わりとなった。新しい天皇陛下
と皇后陛下はどのような天皇・皇后になられるのか、お二方が目指してお
られる天皇・皇后像とはどんなものなのだろうか。

そこで気になるのが歴代の天皇が幼い頃から受けてこられた帝王学であ
る。端的にいえば、人の上に立ち国民の心の安定と統合の求心力となるこ
とが期待される方々の学びとはどんなものなのか。昭和天皇と上皇陛下の
受けられた帝王学の間には、敗戦、占領という時代の一大事による変化が
自ずと生じているだろう。さらに上皇陛下と新天皇の受けられた教育の間
には、戦後の日本国全体の変化が影響を及ぼした結果としての相違がある
のではないか。

そのように思いを巡らしていたとき、モラロジー研究所教授、所功氏の
「大正の東宮御学問所」を読んで深い印象を得た。この記述は『昭和天皇
の教科書 国史』(白鳥庫吉(くらきち)、勉誠出版)に書かれた解説の
一部である。

東宮御学問所は後の昭和天皇である皇太子裕仁親王のために設けられ、大
正3(1914)年春から同10年春までの7年間、開所されていた。裕仁親王は
5人のご学友と、休日以外はそこで寝食を共にされ、よく学びよく遊ばれ
た。所氏はこれを「日本一小さな中高一貫の特設学校」と表現している。

昭和46(1971)年春、御学問所が果たした役割について宮内記者会で問わ
れた昭和天皇は、以下のように答えられた。

「先生たちから帝王学というものの基礎を教えてもらった…(どの先生
も)平等にすべて今も尊敬しています」

帝王学の内容や先生方の名簿を見て感服した。倫理、歴史、地理、法制、
国語、漢文、博物、理化学、数学、フランス語、習字、美術、武課体操、
馬術の科目が立てられ、それぞれに一流の学者や教育者が選ばれている。

東宮御学問所で教務全般の主任を務め、教師としては「歴史」を7年間一
人で担当したのが前出の白鳥博士である。白鳥氏は、学習院院長の乃木希
典陸軍大将が明治天皇崩御に際して殉死を遂げたとき、「院長たるべき人
格と徳望とを有するものは、博士を措いて他に無い」と一致して推され
た。だが、彼はこれを固辞して東宮御学問所での教務に集中した。

白鳥氏は東宮にお教えする歴史を国史、東洋史、西洋史に分け、教科書は
西洋史のみ箕作元八(みつくり・げんぱち)博士の著作を使用したが、国
史と東洋史の教科書は自ら執筆したという。それが『昭和天皇の教科書 
国史』、見事な作品である。

昭和天皇への帝王学と較べて、上皇陛下の教育として占領時のバイニング
夫人が脳裡に浮かぶ。クエーカー教徒の米国人女性が家庭教師となった
が、多くの日本の碩学も心をこめてお教え申し上げ、補ったはずだ。

上皇陛下のお守り役として知られる小泉信三博士は、当時の皇太子明仁親
王と共に多くの本を読んだと書いている。福澤諭吉の『帝室論』、幸田露
伴の『運命』などに加えてハロルド・ニコルソンが上梓した英国国王
ジョージ5世の伝記も一緒に読み通したという。読み終えたのは、美智子
さまとの御成婚の1週間前だったそうだ。

小泉氏は、後に同書を選んだ理由を「立憲君主国の君主の伝記として、当
時は一番新しい、委しいものであった」からと書いている(「立憲君主
制」『小泉信三全集』16、文藝春秋)。

新天皇の教育環境が、昭和天皇のそれとも上皇陛下のそれとも大きく様変
わりしたのは明らかだ。新天皇を学習院高等科で2年間担任した教師、小
坂部元秀氏の著書、『浩宮の感情教育』(飛鳥新社)には皇室への拒否感
が色濃い。帝王学以前に、担任教師が生徒に注ぐべき愛情や情熱を、私は
感じとれなかった。このような酷い教育環境に置かれた新天皇が気の毒
だ。国民が皇室を支えることの大切さを認識したい。

『週刊ダイヤモンド』 2019年5月11日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1278 

◆木津川だより 浄瑠璃寺(2)

白井 繁夫


奈良山丘陵の京都側当尾の里には、前回述べた「浄瑠璃寺」(木津川市加茂町西小)の門前に、南北朝時代造立(文和4年:1355年)銘の石塔婆(せきとうば)が、のどかな風情に溶け込むように立っています。

そこから寺の門へ向って馬酔木(あしび)が、素晴らしい生垣となった通路があります。
入口の門は生垣より小さすぎて、何か遠慮しているようにも見えますが、訪れる有縁の人々を格式ばらずに普段着の姿で迎え入れようとする気持ちが感じ取れるのです。

北の正門をくぐると、左側に鐘楼があり、更に少し進むと静寂な池が広がっています。この池の東側の奥には、檜皮葺の朱塗りの三重塔(国宝)が、木立の間から美しい姿を覗かせています。

池の右側(西側)には、九体の金色阿弥陀仏を安置する本堂が建ち、この本尊仏がこの寺の通称名「九体寺」となったのです。

池の中の島には弁天祠があり、三方は丘陵に囲まれて、晩秋の紅葉につつまれた境内は、まさに藤原時代の浄土庭園そのものが、いまも眼前に広がり再現されているようでした。

永承2年に義明が浄瑠璃寺を創建した時の本仏(重文の秘仏薬師如来)を安置する三重塔は、京都より治承2年(1178)に移築された塔ですが、平安時代後期の京では多数の塔が建立されていました。しかし、現在はこの塔が唯一の遺構となっています。

浄瑠璃寺の塔は、檜皮葺の三間三重塔婆で総高16mと小規模です。しかし、一乗院三重塔(兵庫県)とともに、初重に縁がある最初の例です。いかにも平安貴族が好んだであろう姿、軒が深くて勾配が緩やかな檜皮葺の屋根の下に、東方浄瑠璃世界の教主(薬師如来)を安置しています。

この塔の池越しの対岸には、西方浄土の来迎仏(金色の阿弥陀如来)が祀られており、春秋の「彼岸の中日」には、まさに金色の仏の真後ろへ太陽が沈んで行くと云われています。

本堂は嘉承2年(1107)に建立されて、その50年後に現在の処に移動しました。建物の桁行11間、梁行4間の寄棟造りの一重の御堂(国宝)です。但し、最初の屋根は檜皮葺でしたが、江戸時代に本瓦葺に葺き変えられて、現在の姿になったのです。

本堂には九体の阿弥陀如来坐像(国宝)が祀られており、来迎印の周丈六像(約2.2m高)の中尊を中心に、左右両脇に半丈六(約1.4m高)の定印阿弥陀如来各4体が、横一列に並んでいる姿を拝しました。

その時、もの言わぬ仏に真に圧倒され、思わず跪き、合掌して仕舞いました。

平安時代後期に隆盛だった定朝様の特色を持った中尊を始めとする各仏像は、御堂関白の宇治の別業(子の頼道が寺にした)に安置されている、いわゆる定朝の代表作「平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像」に勝るとも劣らないように感じました。

その時、思わず藤原道長のエピソードが脳裏をはしりました。

平安時代中期の「末法思想」の恐怖からか、極楽浄土への阿弥陀仏信仰が社会の上下を問わず盛んになりました。特に権勢や財力を持った皇族や貴族の間では「九体阿弥陀堂」の建立に力を注ぐようになりました。

贅を尽くした最初の堂宇を寛仁4年(1020)に道長が自邸の東隣に建立したのが、「法成寺(ほうじょうじ)無量寿院」です。(中央に池を配し東西に薬師堂と阿弥陀堂、北の金堂には大日如来など、それぞれの堂を繋ぐ回廊等々、今は現存していませんが、浄瑠璃寺等も含めその後のモデル寺院でした。)

藤原道長と云えば「一家立三后」とか、即興の歌 「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠んだ主です。しかし権勢の頂上にいた者でも、臨終近くになると、「九品(くぼん):上品上生から下品下生まで9階級:9体の阿弥陀如来」の仏の手に蓮の糸の組紐をかけて、その紐を自分の手に繋いで没したと云われています。

浄瑠璃寺の中尊は、この世のあらゆる階層の人々、即ち、全ての人々を救いたいと、印相も来迎印(右手を胸の高さに挙げ、左手は膝に置き、両手ともに親指と人差し指で丸を作る)で極楽浄土へ迎えようとしており、両脇の各阿弥陀如来はこの世で善根を積んだ人、徳のある人々はそれなりに極楽へ導こうと、定印を結んでいます。

浄土信仰の「九体阿弥陀堂」は上流貴族や権勢の人々の浄土欣求(ごんぐ)が主となって、修行などの思想が薄れ、京を中心に30余の寺院が建立されました。(地方では、数ヶ所のみ:奥州平泉の大長寿院、源頼朝の鎌倉永福寺と東大寺の重源が阿波より移建した浄土堂)

しかし、どうしたことか街道から離れた山間のその当時は、無名に近い寺院「浄瑠璃寺」だけが、現在往時の姿を留めて残っています。

何が幸いしたのか、勝手に推測してみました。

★浄瑠璃寺は京都と大和を結ぶ主要街道から少し離れた山間の修行僧の修行や教学の道場として創建され、その後は興福寺の末寺となって、政に関らず来た。
★中興の祖「恵信」は摂政藤原忠道の子息であり、後に興福寺の別当となり、摂関家と興福寺のバックアップを得て、浄瑠璃寺の発展に努めるが中央権勢に交わらなかった。
★浄瑠璃寺以外の九体阿弥陀堂寺院は皇族や権力者が建立の堂宇で、平安時代以降の鎌倉から江戸時代までの戦乱や政変の炎につつまれたり、破壊されたりして滅してしまった。

浄瑠璃寺は、明治初期の廃仏毀釈の時、真言律宗大和西大寺の支援と地元の人々の厚い信仰に守られて被害をあまり受けなかったため、古代から近世までの国宝や重文の堂宇を始め、貴重な仏像や文物などが多数今日まで保存されています。

浄瑠璃寺が所蔵している国宝や重文などの主要文物説明を省略して列挙します。

★本堂内の九体阿弥陀仏以外の国宝や重文など四天王像(国宝)4体のうち2体(持国天と増長天)他2体は国立博物館、重文の子安地蔵と不動明王(三尊像)、(秘仏)吉祥天女像(重文)
★本堂以外の堂宇に安置
  三重塔:(秘仏)薬師如来(重文)、潅頂堂(かんじょうどう):(秘仏)大日如来、 (秘仏)弁財天
★国立博物館へ出展
  東京国立:延命地蔵(重文)、四天王の多聞天(国宝)、奈良国立:馬頭観音(重文)、京都国立:四天王の広目天(国宝)
★浄瑠璃寺の浄土庭園(特別名勝及史跡)石燈籠二基(重文)、(本堂と三重塔の前:池の両岸に立つ)

「浄瑠璃寺の寺宝」を上記に列挙しましたが、同寺院の寺僧長算が転写した「浄瑠璃寺流記事」(重文)は良くぞ保存されていたものだと思って感動しています。

次回も当尾の里にある「岩船寺」へと足を伸ばしてみようと思っています。

<参考資料:浄瑠璃寺と南山城の寺 日本の古寺美術 18 保育社
      大和の古寺  7  浄瑠璃寺  岩波書店
      加茂町史 古代.中世編  加茂町>

                       (郷土愛好家)

2019年05月14日

◆「中国はグアダル開発をやめろ」

宮崎 正弘


令和元年(2019)5月13日(月曜日)通巻第6074号 

「中国はグアダル開発をやめろ」。BLAがヴィデオで警告
  BLAは豪華ホテル襲撃、カラチ中国領事館自爆テロの武装集団

中国主導のCPEC(中国パキスタン経済回廊)は随所で工事が頓挫して
いる。

プロジェクトの総額は620億ドル。中国はイランとの国境に近いグアダル
港を近代化し、将来は潜水艦も空母も寄港できる軍港の使用を狙っている。

付近には工業団地、大学、新興住宅地、病院などを建設し、一大都市にす
ると豪語してきた。

グアダルを起点に新彊ウィグル自治区のカシェガルまで(1)鉄道(2)
ハイウェイ(3)光ファイバー網。(4)原油パイプライン(5)ガスパ
イプラインを敷設し、その建設のための鉄鋼からクレーン、ブルドーザ、
建設機械、材料から労働者まで中国から連れてきた。現場のバロチスタン
には、なんの裨益もなかった。

パキスタンのバロチスタン州は、もともと独立国家である。国王は英国の
亡命したままである。英国が植民地時代に勝手に線を引いてパキスタン領
としたため、紛争が絶えないのだが、近年は中国を「侵略者」とみて、こ
れまでにも中国人誘拐、殺人、現場襲撃、カラチにある中国領事館へも自
爆テロを仕掛けた。

こんどは中国人が宿泊する豪華ホテルの襲撃となった。グアダルには
「パールコンチネンタル」という5つ星ホテルが開業しているが、宿泊客
の大半が中国人。2回に亘る襲撃で、4人が死亡した。

グアダル港の中国人労働者の居住区は高い塀で囲われ、しかも工事現場を
含めて、警備をパキスタン軍が担うという矛盾がある。直近でもこのパキ
スタン警備兵が襲撃され、26人が殺害される事件も起きた。

「グアダル港開発プロジェクトはバロチスタン国民にとって、弊害こそあ
れ、一銭の利益にもならない。バロチスタン国民は経済的に裨益するどこ
ろか、困窮し、大事な資源が中国とパキスタン政府にむしり取られている
ではないか」というのがBLA(バロチスタン解放軍)の主張であり、
「中国よ、プロジェクトをやめろ」とヴィデオ・メッセージで警告した。


▲パキスタンはデフォルトを免れるのか?

一方、パキスタン政府はCPECによる負債の膨張に頭を悩まし、中国に
緊急援助を乞うた。

ところが面会した李克強首相は、「パキスタンとの友好関係は変わらな
い。両国関係は全天候型だ」などとわけの分からないことを発言したのみ。

いよいよ、デフォルト直前になったため、イムラン・カーン首相は急遽、
サウジアラビアとUAE(アラブ首長国連邦)に飛んで救済を求めた。
サウジアラビアならびにUAE諸国は、緊急に200億ドル前後を送金し、
当座の危機は救われた。

先月末からイスラマバードを訪問していたIMF調査団はパキスタン財務
省幹部等との会合を重ね、救済策の協議をしていた。

パキスタンがもし、IMF管理下になると、プロジェクトは全面的な見直
しを迫られ、政府予算にも介入される。

また債権国には80%の債権放棄が迫られることになる。

     
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
  ♪
樋泉克夫のコラム
@@@@@@@@

【知道中国 1893回】                   
――「民國の衰亡、蓋し謂あるなり」――渡邊(5)
  渡邊巳之次郎『老大國の山河 (余と朝鮮及支那)』(金尾文淵堂 
大正10年)

               ▽

「不快なる夜の東清列車」でのことだった。「支那人は東清鐵道督辨處の
官紳なりとて悠揚長者の風あり」。

これに対し「露人に至つては風采揚らず、眞に亡國の放浪漢に似たり」。
レーニン革命で国を追われたロシア人の悲哀が目の前に浮かんでくるようだ。

やがて「南滿洲北部の最大農産市塲」である長春に。

「日本國民の滿蒙に對する發展の遲鈍にして、萬里の沃野を等閑に附する
を慨し」、「日本官民の對支經營の不熱心、不適當、小規模、無手腕」を
激しく憤る同地在住某氏に触発されたのか、渡邊は満蒙こそが「西伯利の
極東3州と共に、日本の人口及食糧問題を解決するの地」であり、それは
急務であり、「50年の後、人口1億1千萬人を數ふるの時」に備えよと説く。

 以下、渡邊の主張を追ってみたい。

「滿蒙は今支那に屬し、西伯利は名において尚露國に屬すと雖も、滿蒙元
來支那の地にあらず、西伯利亦露國の地にあらざるなり、唯侵略と殖民と
によれる威力活用の結果のみ」。だが「今や露支兩國」は国家の態をなさ
ず、「徒に内亂殺傷を以て相踵ぐのみ」といった惨状である。であればこ
そ「今や露支兩國」が両地に対し「共に主人顔するの資格」はないから、
「無主の地と稱する必ずしも不可ならざるなり」。

かくして「勤勉努力、農耕の從ひ、奮勵刻苦、鑛漁を營み、富源を開き、
文明を進め、秩序を維持し、利福を増すの能力を備ふるの優越民族ありて
是等地方の經營に任ぜんか、斷じて之を拒むの理由あるべからざるな
り」。その「優越民族」である日本人は、「人口において世界の23分の1
の多きを占め」ているにもかかわらず、「領土において200分の1の少な
きに苦し」む。加えるに「多々?々加する人口の増殖に會して餓死せんと
する」有様である。だから「日本民族が、是等地方の經營に從事するは、
當然の運命、即ち天命と稱すべきなり。日本民族の力、實に之に堪ふ」。

渡邊は続ける。
 
元来が地球上の土地は無主なのだから、「力あるもの能く之を保つに過
ぎ」ない。「?史的變遷と坤球元來定主なきの理を悟ら」ない支那人。

「山賊的侵略によつて西伯利を収め」たロシア人。さらに「英米人が、海
賊的國民として進化し來り、其領土の多くが略奪の遺物たるを顧みず、人
道を云々して人種的差別觀を脱する能はず、自由平等を云々して鎖攘の非
法に出で、到る處に日本人を排斥し、詭辯と猾智と強力とを以て日本民族
を饑餓の死地に陷れんとするは、暴虐無道の極といふべく、千萬言の修辭
と理想論とを以てするも、斷じて其非を飾るに足らざるなり」。

 つまり「日本民族の生きんが爲に、滿蒙及西伯利において、平和的農商
鑛の經營に任ぜんとする、亦當然の事のみ。片言隻語の異議あらしむべか
らざるなり」。かくして渡邊は「我が當局の對外折衝の拙劣軟弱」を強烈
に糾弾する。

渡邊から100年後の21世紀冒頭の現在に立って、これを過去の誤った暴論
と批判し否定するのは簡単である。

だが考えてみれば――いや、左程は深く考えなくても――国際秩序は終始一貫
して「千萬言の修辭と理想論」ではない。「詭辯と猾智と強力」に依って
維持されてきたし、これからもそうであるはずだ」。いわば「詭辯と猾智
と強力」の3者が一体となった時、それを「千萬言の修辭と理想論」で粉
飾しながら自らの生存空間を拡大するのが国際政治の本質だろう。世界唯
一の超大国を誇っていた時代のアメリカがそうであり、そのアメリカを追
い付き追い越そうと猪突猛進する中国がそうだ。

現に習近平政権は「詭辯と猾智と強力」を綯い交ぜにしながら、「一帯一
路」を画策している。

それにしても「我が當局の對外折衝の拙劣軟弱」は、いつまで続くという
のだ。《QED》 


◆5・15も2・26も知らない

                           渡部亮次郎


5・15事件(ご-いち-ご じけん)は、1932(昭和7)年5月15日に起きた大
日本帝国海軍の青年将校を中心とする反乱事件。武装した海軍の青年将校
たちが首相官邸に乱入し、犬養毅首相を暗殺した。

筆者の生まれる4年前の出来事だから、せめて「ウィキペディア」に頼ら
ざるを得ない。

5・15といい2・26事件といい、いわば日本軍部が軍事強国を目指し、政党政
治を否定し手起こした事件といわざるを得ない。首相の殺害には失敗した
2・26事件では首謀者や指導者は銃殺されたが、先立つ5・15事件では精々禁
固刑でしかなかった。

このため2・26の青年将校たちは甘く見て事件を起こした。政界が無力だっ
たという論もあるかもしれないが、武器を持った軍に空手の政治家が立ち
向かえるわけが無い。

いずれにしろ、軍部の独走を許した為に日本は滅亡羽状態となった。経済
は復興し、日本再建がなったように評価する向きがあるが、それは勘違
い。私の判定は「精神的に絶滅」である。

当時は1929(昭和4年)年の世界恐慌に端を発した大不況、企業倒産が相
次ぎ、社会不安が増していた。「大学は出たけれど」という映画が作られた
ほどの不況・就職難の時代だった。

1931(昭和6)年には関東軍の一部が満洲事変を引き起こしたが、政府は
これを収拾できず、かえって引きずられる形だった。

犬養政権は金輸出再禁止などの不況対策を行うことを公約に1932(昭和
7)年2月の総選挙で大勝をおさめたが、一方で満洲事変を黙認し、陸軍
との関係も悪くなかった。

しかし、1930(昭和5)年ロンドン海軍軍縮条約を締結した前総理若槻禮
次郎に対し不満を持っていた海軍将校は、若槻襲撃の機会を狙っていた。

ところが、立憲民政党(民政党)は大敗、若槻内閣は退陣を余儀なくされた。

これで事なきを得たかに思われたがそうではなかった。計画の中心人物
だった藤井斉が「後を頼む」と遺言を残して中国で戦死し、この遺言を
知った仲間が事件を起こすことになる。

この事件の計画立案・現場指揮をしたのは海軍中尉・古賀清志で、死亡し
た藤井斉とは同志的な関係を持っていた。事件は血盟団事件につづく昭和
維新の第2弾として決行された。

古賀は昭和維新を唱える海軍青年将校たちを取りまとめるだけでなく、
大川周明らから資金と拳銃を引き出した。農本主義者・橘孝三郎を口説い
て、主宰する愛郷塾の塾生たちを農民決死隊として組織させた。

時期尚早と言う陸軍側の西田税予備役少尉を繰りかえし説得して、後藤映
範ら11名の陸軍士官候補生を引き込んだ。

3月31日、古賀と中村義雄海軍中尉は土浦の下宿で落ち合い、第一次実行
計画を策定した。計画は二転三転した後、5月13日、土浦の山水閣で最終
の計画が決定した。

具体的な計画としては、参加者を4組に分け、5月15日午後5時30分を期し
て行動を開始、

第一段として、海軍青年将校率いる第一組は首相官邸を、第二組は内大臣
官邸を、第三組は立憲政友会本部を襲撃する。

つづいて昭和維新に共鳴する大学生2人(第四組)が三菱銀行に爆弾を投
げる。

第二段として、第四組を除く他の3組は合流して警視庁を襲撃する。

これとは別に農民決死隊を別働隊とし、午後7時頃の日没を期して東京近
辺に電力を供給する変電所数ヶ所を襲撃し、東京を暗黒化する。

加えて時期尚早だと反対する西田税を計画実行を妨害するものとして、こ
の機会に暗殺する。

とし、これによって東京を混乱させて戒厳令を施行せざるを得ない状況に
陥れ、その間に軍閥内閣を樹立して国家改造を行う、というものであった。

5月15日は日曜日で、犬養は終日官邸にいた。

第一組9人は、三上卓海軍中尉以下5人を表門組、山岸宏海軍中尉以下4人
を裏門組として2台の車に分乗して首相官邸に向かい、午後5時27分ごろ官
邸に侵入、警備の警察官を銃撃し重傷を負わせた(1名が5月26日に死亡す
る)。

三上は食堂で犬養を発見すると、ただちに拳銃を犬養に向け引き金を引い
たが、たまたま弾が入っていなかったため発射されず、犬養に制止された。

そして犬養毅自らに応接室に案内され、そこで犬養の考えやこれからの日
本の在り方などを聞かされようとしていた。

ところが、裏から突入した黒岩隊が応接室を探し当てて黒岩が犬養の腹部
を銃撃、次いで三上が頭部を銃撃し、犬養に重傷を負わせた。襲撃者らは
すぐに去った。

それでも犬養はしばらく息があり、すぐに駆け付けた女中のテルに「今の
若い者をもう一度呼んで来い、よく話して聞かせる」と強い口調で語った
と言うが、次第に衰弱し、深夜になって死亡した。

首相官邸以外にも、内大臣官邸、立憲政友会本部、警視庁、変電所、三菱
銀行などが襲撃されたが、被害は軽微であった。


6月15日、資金と拳銃を提供したとして大川周明が検挙された。7月24日、
橘孝三郎がハルビンの憲兵隊に自首して逮捕された。9月18日、拳銃を提
供したとして本間憲一郎が検挙され、11月5日には頭山秀三が検挙された。


この事件によりこの後斎藤實、岡田啓介という軍人内閣が成立し、加藤高
明内閣以来続いた政党内閣の慣例(憲政の常道)を破る端緒となった。

尤も実態は両内閣共に民政党寄りの内閣であり、なお代議士の入閣も多
かった。民政党内閣に不満を持った将校らが政友会の総裁を暗殺した結
果、民政党寄りの内閣が誕生するという皮肉な結果になった。

また、犬養の死が満洲国承認問題に影響を与えたという指摘もある。

事件の前日にはイギリスの喜劇俳優のチャールズ・チャップリンが来日
し、事件当日に犬養と面会する予定であった。チャップリンが思いつきで
相撲観戦に出掛けた為難を逃れたが、「日本に退廃文化を流した元凶」と
して、首謀者の間でチャップリンの暗殺が画策されていた。

裁判の結果。

実行者

首相官邸襲撃隊 三上卓 - 海軍中尉で「妙高」乗組。反乱罪で有罪(禁錮
15年)。昭和13年に出所後、右翼活動家となり、三無事件に関与

山岸宏 - 海軍中尉。禁固10年

村山格之 - 海軍少尉。禁固10年

黒岩勇 - 予備役海軍少尉。反乱罪で有罪(禁錮13年)

野村三郎 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

後藤映範 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

篠原市之助 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

石関栄 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

八木春男 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

内大臣官邸襲撃隊

古賀清志 - 海軍中尉。反乱罪で有罪(禁錮15年)

杉田善一郎 - 海軍少尉。禁固10年

坂元兼一 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

菅勤 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

西川武敏 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

池松武志 - 元陸軍士官学校本科生。禁固4年

立憲政友会本部襲撃隊

中村義雄 - 海軍中尉。禁固10年

中島忠秋 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

金清豊 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

吉原政巳 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

民間人

橘孝三郎 - 「愛郷塾」主宰。刑法犯(爆発物取締罰則違反,殺人及殺人
未遂)で有罪(無期懲役)。昭和15年に出所

大川周明 - 反乱罪で有罪(禁錮5年)

本間憲一郎 - 「柴山塾」主宰。禁固4年

頭山秀三 - 玄洋社社員。頭山満の三男.禁固3年

反乱予備罪

伊東亀城 - 海軍少尉。禁固2年、執行猶予5年
大庭春雄 - 海軍少尉。禁固2年、執行猶予5年
林正義 - 海軍中尉。禁固2年、執行猶予5年
塚野道雄 - 海軍大尉。 禁固1年、執行猶予2年


◆木津川だより 浄瑠璃寺 @

白井 繁夫


大和と山城国の国境(京都府の最南端)の奈良山丘陵地の山間の地(当尾:とうのお)に、
「小田原山浄瑠璃寺」(木津川市加茂町西小)通称「九体寺」と呼ばれる寺院があります。この寺が「九体の国宝阿弥陀仏」を本尊として祀る、我国で唯一の寺院です。

この寺院へ行く道は、古来より東大寺の転害門(てがいもん)から般若寺を経て笠置街道を採る「般若坂越え」、つまり南から北方へのルートと北の京から南方へ木津川を遡行して加茂道の高田より丘陵を登って南の西小(にしお:西小田原)の集落へ行く道とがありました。(私は浄瑠璃口から南へ約2kmの登りの山道、浄瑠璃寺正門(北門)へ出る道を採りました)。

あまり車や人と出会わない山道を歩きやっと小さく開けた集落に着くと、無人のスタンドには農家の野菜や柿や芋があり、子供時代の遠い昔ののどかな雰囲気に浸っていた時、一時間に一本?のバスが到着し、行楽客?の一団の賑やかな会話となり、そのご一行様は三々五々静かに佇む寺院に吸い込まれて行きました。

「浄瑠璃寺」の創建は不明ですが、嘗ては西小田原寺とも云われ、天平11年(739)
聖武天皇の勅願により僧行基が開創したとか、また天元年中(978−983)多田満仲が開いたとも伝えられていますが、どちらも史料などによる正確な確証は得られていません。

浄瑠璃寺の創建、堂塔の建造.修理、法会(ほうえ)等や施行年などにつてのこの寺院の唯一の根本史料『浄瑠璃寺流記事』、観応元年(1350)寺僧長算(ちょうさん)が、当寺の釈迦院に蔵されていた本をもとに転写し、「釈迦院本の流記、貞和2年(1346)までと観応元年までを加筆、さらに末尾に15世紀の記事二つを長算が付け加えた史料(永承2年:1047〜文明7年:1475)」があります。

以後『流記事:るきのこと』と云う、を参照します。

「浄瑠璃寺」の創建は、永承2年(1047)7月18日義明(ぎみょう)上人を本願とし、
阿知山大夫重頼を檀那として本堂を造立しました。(一日で屋根を葺くと記しているから、最初は小さい本堂と推察されます。)

平安時代の後期になると、釈迦の入滅後、しだいに仏法が廃れ「永承7年(1052)末法の世に入る」と云う、「末法思想」が蔓延しました。この世を救いに来る薬師如来の信仰と現世を捨てて、極楽浄土に往生を遂げようとする「浄土信仰」も高まりを見せ、大和に近いこの山間に、興福寺の一部の僧達が、草庵を建て、修行に励み、教学にも精励しました。

60年後の嘉承2年(1107)正月11日、本仏(薬師如来像)などを西堂に移します。(本尊の移動は本堂を取り壊すため)。

「浄瑠璃寺」は、寺名となる薬師如来が最初の本仏です。一体の木造薬師如来像が当初からこの寺に伝わっており、薬師如来はこの仏の浄土である東方の瑠璃光(るりこう)浄土からの教主であり、この世の苦悩を救い、西方の極楽浄土の阿弥陀仏(来迎仏)へバトンタッチする遺送仏でもありました。

新本堂の建設には約1年半を費やし、翌3年6月23日総供養が導師迎接房経源(ごうしょうぼうきょうげん)、願主阿波公公深で執り行われました。

この時の九体の阿弥陀仏像が当寺院の本尊仏となりました。ただし、この新本堂(九体阿弥陀堂)は現在の場所ではなくて、九体阿弥陀堂と安置の国宝の仏像等はこれより50年後(保元2年1157)に現在の池の西岸に移築されました。

12世紀後半から13世紀にかけては浄瑠璃寺の寺勢が最も隆盛な時代でした。即ち、久安3年(1147)摂政藤原忠道の第1子の伊豆僧正恵信(えしん)の入寺から始まります。

興福寺一乗院門跡であった恵信は、興福寺別当職就任を覚晴に先に越されたのを不満に思い、この山中の小寺に入山して、当寺の延観上人の草庵に隠棲しました。

その後は恵信の力を持って、まず寺域の境界(四至:しいし)を定め、現在の伽藍の中心となっている苑池の原型を整え、浄瑠璃寺一山の守護とするべく、一乗院の法橋信実.寺主玄実父子の墓を寺内に築かせて、(後日)当寺は一乗院の御祈願所となり、興福寺末となりました。

恵信は、保元2年10月興福寺別当に補任されており、本堂を解体して現在の池の西岸に移築した年でもあります。現在見られる浄瑠璃寺の景観は恵信の時代、基本的に完成しました。

九体阿弥陀堂と浄土庭園の一体化を目指し、治承2年(1178)には京都の一条大宮から三重塔を移築して、公式どおりの東に薬師如来の三重塔、池を挟んで西に九体阿弥陀堂の浄土庭園を完成させ、堂宇や多数の仏像も造立されました。

これら一連の大事業は興福寺別当に就任した恵信が浄瑠璃寺に関りがあって尚且つ、摂関家の力を持ってはじめて可能にした大事業だったと思われます。

治承2年には鐘楼も建立され、翌年の11月には三重塔の完成供養を一印上人空心が法会の導師となって執り行われた。(空心上人は九条兼実:摂政関白.太政大臣.九条家の祖:に寺額を依頼できる実力者です)。現在の伽藍の中心である九体阿弥陀堂.苑池.三重塔がそろった輪奐の美が平安時代の末期にここに完成しました。

12世紀末の文治4年(1188)藤原氏の氏神「春日大明神」を請け鎮守とする。『春日大社文書』によると、当時山内には「凡(およそ)当山の住僧僅に80に及ぶ」とあり、80人の住侶を統制して行く組織が浄瑠璃寺では形成されていたと思われます。

鎌倉時代以降の浄瑠璃寺について、『流記事』より少し列挙してみます。

★ 建久5年(1194)〜元久2年(1205)舎利講と一品経(いっぽんきょう)購読を
一千日つづけた勤修を4度おこなう。
★ 建仁3年(1203)2月楼門.経蔵を上棟、貞慶を導師とし、千基塔供養を行う。
★ 建暦2年(1212)薬師如来像に帳を懸ける。吉祥天立像(重文)を本堂に祀る。
★ 仁治2年(1241)馬頭観音立像(重文)造立される。(体内墨書銘)
★ 永仁4年(1296)弁財天像を勧請す。
★ 応長元年(1311)護摩堂を建立。本尊不動明王、二童子像を安置す。
★ 観応元年(1350)9月『浄瑠璃寺流記事』長算によって書写される。

皇族や平安貴族が極楽浄土へ往生出来るように九体の阿弥陀仏を祀る、浄土信仰が隆盛な時期に藤原道長の法成寺(無量寿院)や、白河天皇の法勝寺阿弥陀堂など京都を中心に九体阿弥陀堂が約30建立されましたが、現在当時のまま現存している唯一の寺院がここの「浄瑠璃寺」だけになりました。

寺院の来歴説明が長くなり過ぎました。山内の国宝三重塔、国宝の九体阿弥陀堂.阿弥陀仏像の参拝は、次回にさせてもらいます。

参考資料:浄瑠璃寺と南山城の寺    日本の古寺美術 18    保育社
     加茂町史          古代.中世編         加茂町

                          (郷土愛好家)