2019年06月06日

◆北方領土奪還のときは必ず来る

櫻井よしこ


ビザなし交流で北方領土を訪れた衆議院議員、丸山穂高氏の言動は論外だ
が、総じて北方領土の現状についての国会議員、とりわけ野党議員の認識
の貧しさには驚くばかりだ。

ビザなし交流は平成4(1992)年に始まった。日露双方が年間600人を上限
に参加できる。日本からの訪問者は元島民の皆さんと親族、返還運動関係
者、報道関係者、国会議員などである。

議員は各党から選ばれるが、自民党のように大きな政党の議員は中々順番
が回ってこない。あくまでも一般論ではあるが、自民党議員は北方領土訪
問団の一員に選ばれるまでに部会などの勉強会でそれなりの勉強をする
と、東海大学教授の山田吉彦氏は指摘する。

自身、ビザなし交流を体験した山田氏は、小政党の野党は所属する国会議
員の数が少ない分、比較的早く順番が回ってくるため、北方領土の歴史
も、ビザなし交流の意味も十分に学ぶことなく訪問するケースがあるとも
指摘する。

北方領土で問題を起こし、ロシア側の取り締まりを受ければ、日本人がロ
シアの主権下に置かれる。これは、北方領土は日本固有の領土でロシアが
不法占拠しているという年来の日本の主張とは相容れない事態である。罷
り間違ってもそんな事態に陥らないように、北方領土訪問団には夜間の外
出禁止などのルールが課せられてきた。不法に奪われた国土、略奪にまつ
わる悲劇や口惜しさ、領土や国の在り方などについて思い巡らすのが北方
領土で過ごす夜の時間の使い方であろうに、飲酒して醜態を晒す程愚かし
いことはない。

戦後70年が過ぎても北方領土返還の兆しは見えない。その第一の理由は、
ロシアがロシアであるということだ。沖縄を返還したアメリカとは違う国
が私たちの相手なのだ。そこでロシアの現実を見てみよう。

失った領土へのこだわり

領土問題はナショナリズムに直結する。大国だったソビエト連邦が崩壊
し、多くの領土を失う形で現在のロシアが生まれた。大国の座から滑り落
ちた恨みは深く、失った領土へのこだわりは強い。だからこそ、クリミア
半島を奪ったプーチン大統領の支持率は86.2%に跳ね上がった。

それが今年4月段階では64%である。経済が振るわず、昨年10月、プーチ
ン氏は年金受給年齢を大幅に引き上げた。今年1月からは付加価値税(消
費税)を20%に引き上げた。それでも国家財政は苦しい。プーチン氏は、
➀原油価格の下落及び低迷、➁通貨ルーブル安、➂クリミア半島を奪ったこ
とに対する先進7か国による経済制裁の「三重苦」(木村汎氏)に呪縛さ
れたままだ。経済改善も、支持率上昇も期待できない中で、ナショナリズ
ムに火をつける領土返還には踏み切れないだろう。

経済不振とは対照的に、プーチン氏は軍事力増強に努めてきた。氏にとっ
て、軍事力において優位性を保ちそれを見せつけることは、祖国への誇り
や自信を確認できる数少ない機会のひとつなのではないか。軍事的視点で
北方領土を考えれば、日本への返還の遠さが浮かび上がる。

安倍晋三首相とプーチン大統領の首脳会談が重ねられる中、歯舞諸島と色
丹島の二島返還の可能性が論じられた。二島は北方領土全面積のわずか
7%だ。

色丹島には1000人規模の国境警備庁要員が常駐し、高速警備艇9隻が日本
海の入り口につながる北方海域の警備を担当している。同島島民の約3分
の1が国境警備関係者で、色丹島に投下される公共資本は病院や体育館な
ど国境警備隊にとって利用価値の高いものが多い。また同島の北半分は人
間の立ち入りが禁止される自然保護区である。

色丹島は国境警備のための島なのだ。国境警備庁と軍の関係者しか住んで
いない歯舞諸島も同様であろう。北海道から目視できる程近いこの二つの
小島に、ロシアが軍や国境警備の兵を手厚く配備しているのは日本海から
オホーツク海、さらには北西太平洋、北極海へと広がる海洋の覇権争いと
密接に関係しているはずだ。

中朝関係は必ずしも順調ではないが、中国の北朝鮮への影響力が強化され
ているのは確かである。朝鮮半島及び日本海における中国の勢力膨張は、
年毎に新しい段階に進んでいると言ってもよいだろう。

中国は2005年に北朝鮮の日本海側最北の港、羅津を50年間の契約で租借し
た。羅津から中朝国境に至る約60キロの幹線道路を作り、これも租借し
た。彼らは史上初めて、自国から日本海に直接出入りする道路と港を手に
入れたのだ。

12年には北朝鮮三大都市のひとつで、北朝鮮全域につながる物流拠点であ
る清津港に30年間にわたる使用権を確立した。

国防の視点

世界最大規模の埋蔵鉱物資源を誇る北朝鮮の複数の鉱山に、50年単位の独
占開発権を設定した中国は、南北朝鮮が不安定になればなったで、朝鮮半
島全体により強い影響力を及ぼす。国際港である釜山の活用は益々進むで
あろうし、済州島は、沖縄同様、中国資本に買収され続けている。朝鮮半
島全体が中国に包み込まれつつある。

現在、日本海には、日米韓露の潜水艦が潜航しているが、中国は入れてい
ない。しかし、中朝、中韓関係の深まりによって、中国も日本海潜入の機
会を窺うときが必ず来るだろう。これをロシアはどう見るか。

彼らは13年段階で中国に対抗して、羅津港にロシア専用の埠頭を確保し
た。加えて港とロシア極東の町、ハサンを結ぶ鉄道まで完成させた。

中国を警戒するロシアが、日本海・オホーツク海を監視する拠点である北
方領土を手放すことはないと考えるのが合理的だろう。日本に返還すれば
日米安保条約の下で、米国の軍事基地が出現する可能性を考えるのは当然
だ。日本海、オホーツク海或いは太平洋から北極海航路へとつながるシー
レーン構想の中で、ロシアが北方領土の戦略的重要性を認識するのは当然
だ。経済のみならず国防の視点で考えれば、領土返還は難しいと言わざる
を得ない。

では日本ができることは何か。丸山氏の暴言のような「戦争」でないのは
言うまでもない。

外交感覚を研ぎ澄まし、世界情勢をよく読み機会を待つことではないだろ
うか。ソビエト連邦崩壊の好機をとらえたのが西ドイツだった。ベルリン
の壁の崩壊と世界史の大転換を巧みにとらえ、ドイツ統一を果たした。

あのとき、好機は日本にも与えられていた。しかしわが国の外交官は全
く、その好機を掴めなかった。だが、必ず、チャンスはまた巡ってくる。
情勢の大変化でロシアが困窮に至るときである。

それまでじっと私たちは見詰め続け、好機を窺い続けることだ。国家とし
て長い闘いを勝ち抜く気力と気迫を持続することだ。

『週刊新潮』 2019年6月6日号  日本ルネッサンス 第854回

◆いちごの生産者だった夏

石岡 荘十


「頂門の一針」主宰・渡部亮次郎氏が、本誌に掲載した「いちごの話」を読んで思い出したことがある。小学5年生だった一夏、私はいちごの生産者の端っくれだった。

敗戦翌年5月、私たち一家は中国の天津から引揚げ、父親の生家である秋田県・八森村へ落ち着いた。秋田音頭のしょっぱなに出てくる「八森ハタハタ、男鹿でオガブリコ〜」のあの寒村だ。

生家は父が若くして東京に出た後、弟(叔父)が家を継いで百姓をやっていたが、赤紙一枚で徴兵され満洲(中国東北部)の最前線へ。終戦と共に、シベリアへ持って行かれ、留守宅は祖母と叔母が幼い子ども2人を抱えてほそぼそと稲作百姓をやっていた。そこへ、われわれ一家4人が転がり込んだのである。

ご多聞に洩れず、農家も食糧難だった。畑で芋やナス、キュウリ、トマトを作り、山に入って山菜を採り、新米の収穫まで食いつなぐこととなった。

間もなく、生まれて初めての田植えにも駆り出される。父と母は、元を質せば百姓の生まれだから昔取った杵柄、手際はいい。慣れないとはいえ、小学5年生の私と中学生の兄、も立派な労働力だった。

夏。小柄だが目端の利く祖母が、そのころはまだ珍しかったいちごの栽培を始めた。ビニールハウスなどまだない。夜明けと共に、学校へ行く前に畑でいちごを摘む。

取立てのいちごを大きな背負い駕籠いっぱいに入れてこれを担ぎ、学校へ行く途中集荷所まで運ぶのが私の役目だ。集荷所までは子どもの足で小1時間。その日の売り上げを受け取り、空になった駕籠を担いで学校へ行く毎日だった。

草鞋を履くのも初めてなら、駕籠を背負って学校へ行くのも生まれて初めての経験であった。荷は肩に食い込み、草鞋の緒で足の指の間からは血が滲んだ。

何より恥ずかしかった。紺サージの制服にぴかぴかの革靴で学校に通っていた天津での生活は、いまやここでは別世界の出来事だった。そのうえ、学校の行き帰りには、「引揚者、引揚者」と蔑まれ、いじめにもあった。

それでも田植えで泥まみれになり、田の草をとり、秋には稲刈りもした。そうこうしているうちに秋。11月には父の仕事先が群馬。・高崎と決まり、半年過ごした秋田を後にしたのだが、この頃には、ずーずー弁もまあまあ操れるようになり、いじめっ子たちとの間にも友情が芽生えていた。

高台の集落を去る日、その日は日曜日だったが、10人ほどのガキが口々に大声で「まだ、こらんしぇ」(また、来いよ)といつまでも手を振ってわが一家を見送ってくれたのだった。

高校を卒業するまで高崎で過ごした。その後東京へ進学、就職。で、ここまで想い返してみると、報道に関わった日々を含めて、ニュース原稿は腐るほど書いたが、秋田を去った後、モノを生産したことは一度もなかったことに気がつく。

70年を越える今日まで、形のあるモノを生産した経験はいちご作りだけだった。あの夏、私はいちごの生産者の端くれだった。幼い肩に食い込むいちご駕籠の重みを懐かしく思い出す。

それにしても、いまどきの季節外れの、ビニールハウス育ちのいちごの味の薄いこと。自分が作って売ったあの本物のいちごの味覚に出会うことは二度とないのかもしれない。    

2019年06月05日

◆南シナ海から南太平洋にまで進出する中国

宮崎 正弘


令和元年(2019)6月5日(水曜日)通巻第6099号 

  南シナ海から南太平洋にまで進出する中国
   豪、米国と連携し、巻き返し外交の展開に前進

日本訪問にひき続き、6月2日、トランプ大統領は英国に国賓として招か
れ、エリザベス女王と会談し、メイ首相と共同会見に応じた。

日本での公式行事、とくに首脳会談、皇居における晩餐会に加えて安倍首
相とのゴルフのことが大きく報じられたが、訪日最終日に、横須賀基地で
護衛艦「かが」へ乗船したことは大きく報じられなかった。
 
その日、5月27日は「海軍記念日」である。米国が、わが海上自衛隊に
「海軍」としてのお墨付きを与えたと比喩すべきイベントである。「か
が」は軽量級とはいえ、事実上の空母である。

さて、日本では大きく報じられなかったが、重要なニュースがまだ幾つか
ある。

トランプ大統領は6月1日、士官学校の卒業式に赴いて、軍人幹部候補生
らを激励した。

その卒業生のなかに台湾からの交換軍人がいた。会場には中華民国の国旗
が飾られていたのである。台湾重視策がここでもあらわれていると見るべ
きではないか。

豪では奇跡の再選を果たしたモリソン政権を「祝福」するかのように、中
国海軍艦隊が、予告なくシドニーを親善訪問した。
 
これは豪に脅威を与える軍事的な示威行動なのか、シドニーは50万人の
チャイナタウンをかかえており、鉄鉱石などでは中国が最大のバイヤー、
しかしモリソン政権はトランプの要請を受けてファーウェイの排斥に乗り
出している。やはり豪もファイブアイズのメンバーだけあって、米豪の間
には眼に見えない連携がある。

6月4日、モリソン豪首相は突然、ソロモン諸島を訪問した。ソロモン諸
島は台湾と外交関係を維持する国であり、地政学的にも航路の要衝にある。

モリソン首相はソロモン諸島に向こう5年間で188億円を支援すると打ち
上げ、あからさまな中国との対決姿勢をしめした。ファーウェイの進出が
激しいソロモン諸島は、いまや豪ではなく、中国との貿易がトップを占め
るようになっている。

モリソン政権は、ファーウェイ問題でトランプと同一軌道の外交を進めて
おり、たとえばパプアニューギニアへの海底ケーブル・プロジェクトの入
札でも中国を排除した。

南太平洋地域で台湾と外交関係のある国々とはナウル、ツバル、キリバ
ス、マーシャル群島、パラオだ。

もしソロモン諸島が北京に転べば、太平洋地域でもドミノが起こる危険性
がある。2018年3月にも蔡英文総統が外交関係の維持をはかるべくナウ
ル、パラオを訪問したことは記憶に新しい。


 ▲南シナ海から南太平洋にまで進出する中国

昨夏来、台湾と断交した国にはパナマ、ドミニカ、エルサルバドルがある
が、2007年に札束攻めでコスタリカが中国に転んでからは中米でさえ、依
然台湾と外交関係を保つのはニカラグア、ベリーズ、グアテマラ、ハイ
チ、ホンジュラスとなった。
トランプ政権は、台湾重視政策を増強させており、台湾と断交したパナ
マ、エルサルバドル、ドミニカから大使を召還する措置をとった。

 こうした状況下、シンガポールで恒例「シャングリラ対話」が行われ、
米国からはシャナハン国防長官代行、中国からは魏鳳和・国防大臣が出席
した。この席で米中両国は角突き合わせる火花を散らした。

米国防長官代行のシャナハンは「南シナ海から南太平洋にかけての軍事的
プレセンスは近隣諸国に脅威となっている。すみやかに引き揚げ平和を回
復すべきだ」

対して魏鳳和は「われわれは世界一の軍事ヘゲモニーで米国の立場にとっ
て替わる意思もないが、そちらが望むのなら最後までつきあう。台湾が独
立を言うのなら軍事的行動を辞さない。また天安門事件は正当な処置であ
り、ファーウェイは軍事組織とは無縁である」などと言いたい放題だった。
        
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書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIE 
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突撃現地取材、足で稼いだ裏路地の情報が満載
  いま一番ヴィヴィッドな中国情報とその暗くて暗鬱な未来

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福島香織『習近平の敗北』(ワニブックス)
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9つの危機が最初に提示され、ついで習近平がなぜ党内で孤立しており、
まるで人気がないのか、その索漠とした政治の背景を探る。

こういう情報、日本のメディアが報じることはない。だから殆どの読者は
中国経済が現在陥没している惨状をおおまかには知っていても、具体的
な、正確な破滅のリアルを掴めないのである。

習近平の不人気は反腐敗キャンペーンを掲げての政敵摘発と失脚を、派閥
的に狙いをつけて不均衡におこない、とりわけ軍人の恨みを買ったことに
ある。

すなわち恩人の江沢民一派をコーナーへ追い込み、江沢民にぶら下がって
利権を膨らませた徐才厚、郭伯雄、周永康らを刑務所にぶち込み、李鵬ら
守旧派を沈没させ、最大の政敵だった薄煕来を失脚させ、なんとか権力基
盤を固めるや連立してきた共青団を敵に廻して、胡錦涛の番頭やライジン
グスターだった孫政才らを失脚させ、胡春華を閑職に封じ込めた。

まさに露骨で陰惨で、かつ無謀な党内闘争を展開した。エリート集団でも
ある共青団は、習政権への協力を渋った。経済政策は失敗、頓挫を繰り返
す。その責任は習近平にあり、共青団は、むしろ積極的に非協力となっ
て、むしろ習を孤立させることに成功した、と解釈できる。

それなのに判断力が鈍く、そもそも知識人に巨大なコンプレックスを抱く
習近平は政権を、家族、眷属、取り巻き、自派、子飼いで固めた。それゆ
えに習近平派には、これという人材がいない。

あれほど反腐敗キャンペーンで豪腕を発揮した王岐山は、習と距離を置い
て、大事な対米交渉の舞台に上がろうとしない。王岐山はさすがにトク
ヴィルを読み込んでアメリカ人という国民の習性を知っているだけに、交
渉の最前線にたっても失敗が眼に見えているからである。

だから習近平は昨秋に開催するべき四中全会をすっ飛ばし、いきなり全人
代を開催して、内外にそのパワーを誇示しようとした。昨夏の北戴河会議
では、長老達が習近平を批判し、かなり苦戦したというのが、福島さんの
見立てだ。

おそらく中央委員会を召集すれば、習近平は冷ややかに批判されるだろう。

強烈に経済政策の誤断と対米貿易戦争の失敗をやり玉に挙げられて、徹底
的に糾弾されるだろうし、鋭いつるし上げが予想された。場合によっては
解任劇となるかもしれない。 

経済が行き詰まり、党内の空気がささくれ立ってくると、必ず中国は戦争
を仕掛ける。だから習の台湾恫喝を、笑い飛ばせないとする。

習近平体制が崩壊するシナリオとして軍のクーデター、宮廷内クーデ
ター、突然の解任劇、そして不動産暴落にともなう庶民の抗議デモが暴動
化し、この列に不満の爆発をたぎらせる退役軍人、付和雷同組などが加わ
るとかつての黄頭巾、紅頭巾、白蓮教の乱、太平天国へと結びつく大規模
な騒乱から大乱が引き起こされるだろう。

暗殺と叛乱を恐れるがゆえに習はAIを駆使して国民を監視し、その消費
動向までもビッグデータに蓄えて、国民が立ち向かえないようなデジタ
ル・レーニン主義国家をつくりあげたのである。

ここまでは大方のチャイナウォッチャーも予測している。
評者(宮崎)は、これからの最大のシナリオは、出来上がったAIデジタ
ル監視態勢の内側からの崩壊である。

ハッカー部隊は軍人であり、AIシステム上の叛乱が起こし、通信網を寸
断すれば、中国共産党の支配体制に亀裂を生じるだろう。
大混乱のあげくに習近平統治が壊れるのではないかと見てきたが、やはり
福島さんも、その蓋然性を述べている。

本書の244−245pが、そのエッセンス。すなわちAIの軍事転用は敵のシ
ステムを破壊するが、それは同時に、中国軍に対する破壊兵器にも豹変す
るのだ。

「自軍の兵器が自分たちを攻撃することにもなります。また無人兵器など
の兵器そのものだけでなく、インターネット、GPSなどの通信システム
もセットで、情報通信、ロジステティックにも使われていますから、そう
いったロジスティツクの部分を破壊されると戦争どころではなくなる可能
性もあります」

重要な指摘のひとつがこれである。
          
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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1905回】         
――「彼等の行動は生意氣の一語に盡きる」――石井(2)
石井柏亭『繪の旅 朝鮮支那の巻』(日本評論社出版部 大正10年)

        ▽
画家である石井は上海図画美術学校を見学する。「生徒の成蹟と同時に先
生達の自身の畫も觀た。

裸體モデルは得難いと見えて生徒自身がモデルになつたのを、數人の生徒
が油畫で寫生したのもあつたが、素描がすべて怪しい」と厳しい評価を下
す。だが、「併し支那の青年間に洋風畫の熱が次第に昂まりつゝわること
は證據立てられる」と前向きに捉える。

汽車に乗る。車内は大分混雑していた。

「支那人が坐り、それに隣して一佛國人が其連れの女と向つて坐を占めて
居た」。そこへ「―ヤンキーがやつて來て其支那人に向つて何を云ふかと
思ふと、『レーデーが支那の人の傍に坐ることを好まないから退いて呉
れ』と」。これを石井は「依頼、云ふよりの寧ろ命令に近い言葉だ」と見
た。だが「支那人にはこれに反抗する勇氣はないらし」く、「支那人を退
かしてヤンキー連の男女二人が割込んだ」というのだ。かくて「其?暴は
傍觀の私を憤らせた」。

この「一ヤンキー」と同じように日本人が振る舞ったとしたら、彼らはど
のような対応を見せただろうか。少なくとも「反抗する勇氣」を発揮した
に違いない。一方、日本で「一ヤンキー」のような行動に直面した時、は
たまた支那人が「一ヤンキー」のように振る舞ったとしたら、日本人は
「其?暴」を見て見ぬふりをして遣り過ごしただろうか。

杭州から戻ろうとした頃に起こった「山東問題に關聯する排日運動は段々
に其火の手を擧げて來た」。

上海では「辻々の少し明いた壁面には種々樣々な傳單が盛んに貼られてい
た。『餓死東洋奴』と云ふやうなひどい誹謗的な文句も見える。日本と云
ふ文字を龜の形にもじつたものもある。稚拙笑ふ可き漫畫の類もある」。

上海の租界では、治安当局が「それ等の誹謗傳單禁止する旨の觸れを出
し、巡警が一々それ等を?して歩いたりしても、又何時の間にか貼られ
る。まるで飯にたかる蠅と同じで始末にいけない」。

「始末にいけない」ことは確かだが、それほどまでに執念深かったという
ことだろう。ところで石井は「日本と云ふ文字を龜の形にもじつたものも
ある」と記すだけで、その亀の形の「日本と云ふ文字」の寓意に思いを致
してない。彼は亀が何を指すのか知らなかったのだろう。じつは亀は他人
に女房を寝取られたアホな男を指すのだ。つまり「日本と云ふ文字」には
日本に対する悪意が込められていた。だから漫画の稚拙さを笑う前に、
「日本と云ふ文字を龜の形にもじつた」彼らの底意を怒るべきだろう。

亀について付言するなら、かつてアメリカが正義の旗を掲げてヴェトナム
戦争を突き進んでいた頃、Mr.アメリカともいえるジョン・ウエインを主
人公に『グリーン・ベレー』というハリウッド映画が作られたことがあ
る。ハリウッドとしてはヴェトナムのジャングルで憎っくき共産主義ゲリ
ラを撃破するグリーン・ベレーで呼ばれる最強特殊部隊の活躍を通じて、
戦意高揚を狙ったに違いない。

当時、この映画は香港では流行らなかったうえ嘲笑の的だった。それとい
うのもグリーン・ベレーは亀を意味し、ズバリ役立たずのダメ男そのもの
だったからだ。

つまり漢字文化圏では、グリーン・ベレーは全く以て勇ましくはないので
ある。

 閑話休題。

上海で美術学校の先生に夕食に招かれた。やはり「談は自ら現下の風潮に
及ばざるを得なかつた」のだが、1人は「現下の風潮」である反日運動に
ついて、「學生等這回の運動に同情する方ではなくFoolishの一言を以て
これを斥けて居た」。

だが、先生たちは「日人と同行することの人目に觸るゝを慮つてひたすら
に夜の幕の閉さるゝを待つて居た」という。やはり「Foolishの一言を以
てこれを斥けて」はみたものの、反日運動に狂奔する「Foolish」な学生
の振る舞いが怖いのだろう。盲動は虎よりも猛し・・・かな。《QED》

◆裁判員制度が始まって10年

櫻井よしこ


「国民が参加する裁判員制度が始まって10年 今後も欠点は修正しつつ成
熟することを願う」

国民が刑事裁判に参加する裁判員制度が始まって5月で10年、感慨深いも
のがある。

5月21日の紙面で「読売新聞」が特集したが、その中の全国50の地方裁判
所所長へのアンケート調査では、全員が「裁判員裁判は刑事裁判に良い影
響をもたらした」と回答している。

「日本経済新聞」がやはり同日の紙面で報じた最高裁判所の調査では、裁
判員経験者の96%が裁判への参加を「良い経験だった」と評価している。

10年間で裁判員や補充裁判員を務めた人は9万人を超すが、最高裁刑事局
長の安東章氏は「一人ひとりが真摯に裁判に向き合ってくれた」と感謝し
た。皆真面目に責任を果たしてきたのである。

裁判員制度を導入すべきか否かが論争されていた10年以上前、裁判官とい
う裁判官は導入に反対だった。司法は変わらなければならない、もっと司
法を国民の側に近づけなければならないと考えていた人々の側にも迷いが
あった。法律の知識もないいわば素人に、刑事裁判で被告を裁く資格があ
るのだろうかという懸念である。その思いは私も共有していた。

このような思いは大多数の真面目な日本国民の、人を裁くということに対
する人間としての責任感の裏返しであり、自らの能力の限界を認識した謙
虚さの反映でもあったのではないか。

当時の司法の現実は厳しかった。裁判にはどう見てもおかしなことがあっ
た。『裁判官が日本を滅ぼす』(新潮社)や『激突! 裁判員制度』
(WAC)などの著者である門田髀ォ(かどたりゅうしょう)氏は、山口
県光市の「母子殺害事件」の被害者、本村洋氏の思いを広く伝え、司法改
革の重要性を訴えた。

本村氏は1999年4月に、当時18歳だった犯人に、妻と幼い娘を絞殺され
た。愛する家族の命を無残に奪った犯人に、本村氏は極刑を望んだ。しか
し、山口地裁も広島高等裁判所も、犯人には「更生の可能性がないとはい
えない」として、死刑を回避した。

それは典型的な判例主義に他ならない。私は本村氏に複数回お会いし、数
時間話を聞いたが、氏は、「裁判官は相場主義に基づいて判決を下してい
る。それでは審理など必要ない」と厳しく批判した。

また、広島高裁判決後の記者会見では「古い判例に裁判所がいつまでもし
がみついているのはおかしい。時代に合った新しい価値基準を取り入れて
いくのが司法の役割だ」と語っている。この思いはやがて最高裁を動か
し、判例主義を超えた死刑判決が言い渡された(門田髀ォ(かどたりゅう
しょう)著『なぜ君は絶望と闘えたのか』新潮社)。

私にとって弁護士の岡村勲氏との出会いも非常に大切なものだった。氏は
代理人を務めていた山一證券に関する事案で男に逆恨みされ、妻を殺害さ
れた。自身が被害者になって初めて、いかに犯罪被害者が無視されていた
かに気づき、日本で初めて「犯罪被害者の会」を立ち上げ、司法改革の先
頭に立った。

司法は多くの面で改革を必要としていたのである。重要なことは、犯罪は
法律だけで裁いてはならないということだ。それは法を無視せよというこ
とではまったくない。むしろ、真の意味で法の精神を尊重せよということ
だ。法の執行に、人間の良識を反映させよということである。裁判員制度
が生まれ、法律の素人が裁判に参加し、自身の能力の限りを尽くし、良識
に従って誠実に、裁判員としての責任を果たした。その歩みが10年の歳月
を刻んだ。すばらしいことだ。

読売新聞のアンケートには、裁判の在り方が変わり「分かり易くなった」
「判決の説得力が増した」などの指摘がある。

国民参加の司法が法と正義に基づいて成熟していくために、裁判員制度を
支える社会の基盤を広げたい。

『週刊ダイヤモンド』 2019年6月1日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1281 

◆春日局は光秀重臣の娘

                         毛馬 一三

春日局(かすが の つぼね)は、本名斎藤福(さいとう ふく)と云い、江戸幕府の3代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」との名は、朝廷から賜った称号である。

ところが、福の父は本能寺の変で織田信長を暗殺した、明智光秀の重臣・斎藤利三で、福はその娘だった。
斎藤利三は捕えられ斬首されたが、そんな本能寺の変の主役の娘・福をどうして江戸幕府の大奥に招き入れ、大奥の頭の「春日局」にまで優遇したのだろうか。「謎」の一つだ。
<福は父斎藤利三の所領のあった丹後国の黒井城下館(興禅寺)で生まれる。丹波は明智光秀の所領であり、利三は重臣として丹波国内に、光秀から領地を与えられていた。

光秀の居城を守護するため、福知山城近郊の要衝である黒井城を与えられ、氷上群全域を守護していたものと思われる。福は、黒井城の平常時の住居である下館(現興禅寺)で生まれたとされている。
こうして福は、城主の姫として、幼少期をすごした。

その後、父は光秀に従い、ともに本能寺の変で織田信長を討つが、羽柴秀吉に山崎の戦いで敗戦し、帰城後に坂本城下の近江国堅田で捕らえられて斬首され、他の兄弟も落ち武者となって各地を流浪していたと考えられている。

そうなって福は、母方の実家の稲葉家に引取られ、成人するまで美濃の清水城で過ごしたとみられ、母方の親戚に当たる「三条西公国」に養育された。これによって、公家の素養である書道・歌道・香道等の教養を身につけることができた。>ウイキペディア
このような歴史背景から見て行くと、明智光秀の重臣だった父親の血を惹く実の娘が、江戸幕府に召し上げられて、「春日局」となるとは、首を傾げたくなる訳だ。

大阪堺の歴史家によると、徳川家康は本能寺の変の前に、織田信長を訪ね酒杯を頂きながら戦況を交わしている。明智光秀はこの酒杯のお世話を担務したが、段取りを信長に嫌悪されて過激の叱責を受け、信長側近の地位を剥奪された。
そこで信長を将来の身を絶望恨み、本能寺の変を決意したという。

ここで重要なことだが、重臣斎藤利三を遣って、徳川家康に信長暗殺を秘かに伝え、本能寺の変に突入したのだそうだ。そして徳川家康には、無事に京都から大阪を経て、堺まで逃げ込む方策を告げたのだという。

密告通り、京都で「変」が起こったことを知った家康は、迎えに駆けつけてきた斎藤利三の強力家来に誘導されて方策通り、堺に向けて脱出。そのあと伊賀の多数の忍者に擁護されながら、本拠城の三河城に苦労して辿りついたという。

この行動は、恰も本能寺の変とは「無縁」であり、むしろ「被害者」たる姿勢を世間に見せ付ける行動を敢えて披露したように見える。堺にはそれを裏付ける資料もが少々あるというのだ。

つまり、家康にとって、斎藤利三は命の恩人ということになる。秀吉にとってもゆるせない反乱重臣の一人斎藤利三こそ、家康にとっては恩返しをしなければならない重要人物であることは間違いないことになる。つまり、「福」は紛れもない命の恩人の娘だったのだ(歴史家)。
ところが、もう一つの見方もある。「謎」の二つ目である。

つまり、家康がすみやかに京都を脱出出来たのは、家康と光秀の間で、信長を暗殺する方策を事前から立案し合っていたものではないか。その脱出方策の実行を斎藤利三に任せ、家康の身の安全と、信長後任の詰めまでも、申し合わせていたのではないかと云う見方もある。つまり、家康こそ「暗殺首謀者」だとの見方だ。

方策は見事に成功した。ところが斎藤利三は斬首された。となれば上記と同様、家康は、紛れもない命の恩人の娘だった「福」に、父親の恩を返してやることを考えたに間違いないと考えられる。

さて、<福は、将軍家の乳母へあがるため、夫の正成と離婚する形をとった。慶長9年(1604年)に2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の家光)の乳母に正式に任命される。このとき選考にあたり、福の家柄及び公家の教養と、夫・正成の戦功が評価されたといわれている。

家光の将軍就任に伴い、「将軍様御局」として大御台所・江の下で大奥の公務を取り仕切るようになる。寛永3年(1626年)の江の没後からは、家光の側室探しに尽力し、万や、楽、夏などの女性たちを次々と奥入りさせた。
また将軍の権威を背景に老中をも上回る実質的な権力を握る。

寛永6年(1629年)には、家光のほうそう治癒祈願のため伊勢神宮に参拝し、そのまま10月には上洛して御所への昇殿を図る。
しかし、武家である斎藤家の娘の身分のままでは御所に昇殿するための資格を欠くため、血族であり(福は三条西公条の玄孫になる)、育ての親でもある三条西公国の養女になろうとしたが、既に他界していたため、やむをえずその息子・三条西公条と猶妹の縁組をし、公卿三条西家(藤原氏)の娘となり参内する資格を得ている。
そして三条西 藤原福子として同年10月10日、後水尾天皇や中宮和子に拝謁、従三位の位階と「春日局」の名号及び天酌御盃をも賜るのである。

その後、寛永9年(1632年)7月20日の再上洛の際に従二位に昇叙し、緋袴着用の許しを得て、再度天酌御盃も賜わる。よって二位局とも称され、同じ従二位の平時子や北条政子に比定する位階となる。
寛永11年に正勝に先立たれ、幼少の孫正則を養育、後に兄の斎藤俊宗が後見人を務めた。寛永12年には家光の上意で義理の曾孫の堀田正敏を養子に迎えた。

寛永20年(1643年)9月14日に死去、享年64。辞世の句は「西に入る 月を誘い 法をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな」。法号は麟祥院殿仁淵了義尼大姉。墓所は東京都文京区の麟祥院、神奈川県小田原市の紹太寺にある〉。  ウイデペディア。

このように「福」の奇跡的な生涯を見て行くと、上記に<武家である斎藤家の娘の身分のままでは御所に昇殿するための資格を欠くため>とあって、これを秘匿した工作がはっきりしてくる。「謎」の一つは解けそうだ。

しかも、素晴らしい殿中での政治的画策の実現を図る、「福」の明晰な頭脳が分かる。

しかし、家康と明智光秀が共謀者同士だったかの、二つ目の「謎」は分からない。
                                        
この「春日局」の生涯には、誠に興味が深い。
以上 再掲
                        

2019年06月04日

◆憲法改正が実現する日こそ、主権回復の日となる

加瀬 英明


4月日に28、都内で「主権回復記念日国民集会」が行われて、私も弁士の
1人として登壇した。

この日は、日本がサンフランシスコ講和条約によって、昭和27(1952)年
に独立――主権を回復した日に当たる。

これまで、私はこの日の集会に参加したことがなかった。というのは、ア
メリカ軍による占領下で強要された憲法があるかぎり、日本が独立国とし
て主権を回復したと思えないからである。

現行の日本国憲法は前文の冒頭で、「日本国民は(略)政府の行為によつ
て再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権
が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」とうたっているが、
「政府」というのは、日本の政府のことである。

私は日米近代史の研究者として、先の大戦はアメリカ政府の行為によって
起ったと信じているが、この前文は不当なことに戦争の咎を、日本だけに
負わせている。

憲法第9条『戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認』では、「国権の発動た
る戦争と、武力による威嚇または武力の行使は」「永久にこれを放棄す
る」「陸海軍とその他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを
認めない」と述べて、日本の主権を否定している。

猛禽猛獣がうろつくジャングルである国際社会で、日本を赤子の生け贄の
ように放置しておくと述べているのだ。ここの「武力による威嚇」は、
「武力による抑止力」と読むべきである。

私は集会で登壇して、「残念だが、この憲法があるかぎり、日本が主権を
回復したとはいえない」と、訴えた。憲法を改正した日を主権を回復した
日として、祝いたい。

現行憲法は日本国民に、国家権力が悪であり、戦うことがどのような場合
においても、悪であると思い込ませてきた。だが、どのような国家も、国
民の負託に応えて権力を行使するし、国民の生命財産と独立を守る必要に
迫られた場合に、戦うものだ。

いうまでもなく、権力は悪ではない。自国を守るために戦うことが、悪で
あるはずがない。日本は国旗、政府があっても、国家としての要件を満た
していない。

それなのに、いったいどうして日本の主権を否定する、憲法の名に価しな
い憲法を、今日まで戴いてきたのだろうか。

私は現行憲法を“偽憲法”と呼んできたが、どうしてこのような重大な欠陥
がある憲法を、今日に至るまで改めることがなかったのか、理解できない。

多くの国民にとって先の敗戦は、男であれば戦勝国によって睾丸を抜き取
られたか、女であれば強姦されて、処女を失ったような強い衝撃を受け
て、なすことを知らず、自暴自棄になってしまった。

そのために、自己を社会からはずされたアウトキャスト――除(の)け者とみ
なして、はずされた者だから何をしてもよい、何も責任がないという自虐
的な態度をとるようになってしまったとしか、思えない。

日本はまるで不良少年か、不良少女のような国になってしまったのだ。自
棄(やけ)になって、自分に対する責任を負うことも拒んでいるのが、護憲
派の本性なのだろう。

護憲派を更生させなければ、日本が亡びてしまおう。

◆歌い続ける「紙ふうせん」

馬場 伯明


村下孝蔵の歌は「初恋(1983.2)」が有名だが、PCのYOU-TUBEで聴いてい
たら、終わると自動的に「踊り子(1983.8)」が始まった。「初恋」に似
たアップテンポな曲であり歌詞も曲もすてきである。

しかし、この曲を私はさっと歌えない。四谷のスナック「高樹」でカラオ
ケを披露したいが、練習してもリズム音痴の私がそれなりに歌うには相当
苦労するだろう。無駄な挑戦はやめた方がいいか(笑)。

PCの「踊り子」の次には、なぜか「紙ふうせん」の「冬が来る前に
(1982)」が出た。以前聴いた記録が残っていたのか・・。「紙ふうせ
ん」を知らない人もいるだろうから、Wikipediaから引用し、抄録する。

《「紙ふうせん」は1974年(昭和49年)に結成された日本のフォークグ
ループ。近畿地方を中心に地道で息の長い活動を続けている。後藤悦治郎
(1946年生まれ)と平山泰代(1947年生まれ)は、高校の同級生で大学入
学後に再会し、1969年に仲間と5人で「赤い鳥」を結成し活動したが、路
線の対立から1974.9に解散する。

2人は1974.2に結婚していたが、デュオ「紙ふうせん」を結成し活動を開
始。1977年に「冬が来る前に」が大ヒットし代表曲となる。赤い鳥時代の
「翼をください」や「竹田の子守唄」なども歌い続けている》。

冬が来る前に  作詞:後藤悦治郎 作曲:浦野直 歌:紙ふうせん

坂の細い道を 夏の雨に打たれ 
言葉さがし続けて 別れた二人
小麦色に焼けた 肌は色もあせて
黄昏わたし一人 海を見るの
冬が来る前に もう一度あの人と
めぐり逢いたい

この歌ができた事情を佐々木モトアキ氏のwebより引用・抄録する。「季
節(いま)の歌」冬が来る前に〜40年間歌い続けてきた二人の絆と想い出
の坂道〜」「TAP the POP」(2015.11.8)。以下《 》は佐々木氏の文章、
「 」は後藤・平山の発言。『 』は文中の言葉。( )は私。(引用開
始)。

《後藤は歌詞を作った時のことをこんな風に回想している。「確か22歳の
時でした。王子山動物園でデートして、僕の方から彼女にプロポーズした
んですが・・・」(後藤)。「この人ったら、桜かなにかの木に登って
『OKしてくれなきゃ下りないよ!』って(笑)」(平山)

結局「二人の人生、まだ先が見えない・・」と平山は・・はぐらかした
(断った)。(だが)王子山動物園から港を見下ろす坂道は、二人にとっ
て特別なパートナーと“巡り逢えた”ウェディングロードとなった。
「ほろ苦い経験も含めて、青春の想い出がいっぱい詰まった大好きな風景
です」(後藤・平山)。

「(歌詞は)『冬が来る前に石油ストーブの芯をきれいにしないとアカン
なあ』とつぶやいたのがきっかけ。バンドの浦野直が仕上げていたサビの
メロディに・・“冬が来る前に”というフレーズがはまったんですよ』(後
藤)。

(“冬が来る前に”のフレーズと)あの坂道の光景がフラッシュバックし、
一晩もかけずに歌詞ができあがったという」。(佐々木氏の文章からの引
用・抄録、終わり)。

秋の風が吹いて 街はコスモス色
あなたからの便り 風に聞くの
落葉つもる道は 夏の想い出道
今日もわたし一人 バスを待つの
冬が来る前に もう一度あの人と
めぐり逢いたい

「冬が来る前に」を聴いていたら過ぎた日々が蘇ってきた。24年前のあの
阪神淡路大震災の風景である。当時、単身赴任で神戸市東灘区に住み、川
崎製鉄(株)大阪支社(梅田)に勤務していた。震災後は業務も混乱した
が、週末には会社の同僚など有志10数人で、瓦礫の片付けや木材・ガラ
ス・金属・その他の分別作業の応援に何回も出かけた。

芸能人や歌手もボランティアで自分たちのやり方で被災者を支援した。
「紙ふうせん」の2人もその中にいた。被災者支援コンサート活動を何回
も行なった。明日への希望を自分たちの歌で表現し、生きる勇気を訴え
た。私も聴きに行きチャリティ活動に参加したこともある。 

歌手の河島英五(1952年生まれ)はとくに積極的に支援の活動をしてい
た。友人の桂南光たちと毎年神戸でチャリティコンサート「復興の詩」を
開いていた。残念ながら2001年で早世した。48歳。桂南光、娘、息子らが
その遺志を継ぎ、第10回の2006年まで続けた。

さて、「紙ふうせん」は「赤い鳥」の大ヒット曲「翼をください」を引き
継ぎ2人の定番の曲となった。また、「ハイ・ファイ・セット」として独
立した山本俊彦・山本(新居)潤子夫妻もカバーした。1970年代から合唱
曲として多くの学校でも歌われた。

翼をください 作詞:山上路夫 作曲:村井邦彦 歌:赤い鳥(紙ふうせ
ん・ハイファイセット)(Uta-Netより)

今私の願いごとが 叶うならば 翼がほしい
この背中に 鳥のように 白い翼 つけてください
この大空に 翼をを広げ 飛んで行きたいよ
悲しみのない 自由な空へ 翼はためかせ 行きたい

今 富とか名誉ならば いらないけど 翼がほしい
子供の時 夢見たこと 今も同じ 夢に見ている
この大空に 翼を広げ 飛んで行きたいよ
悲しみのない 自由な空へ 翼はためかせ

この大空に 翼を広げ 飛んで行きたいよ
悲しみのない 自由な空へ 翼はためかせ(この2行、2回繰り返し)
行きたい 

平山康代が舞台に登場する。両腕を体の外へ広げるようにして歩いてく
る。にこやかで開放感があり颯爽としている。人なつっこいポーズだ。
「この大空に翼を広げ〜〜」では、両手を広げ、飛ぶようなポーズで、紙
飛行機が空中を滑るように、体を揺らしながら歌う。阪神淡路大震災の犠
牲者といっしょに大空を飛翔しているかのようだ。

「紙ふうせん」の歌はすばらしい。平山の澄み切った伸びる声、縦に口を
開き、まっすぐ前を向いて歌う。後藤が、横で表情を変えず「この大空に
翼を広げ 飛んでいきたいよ・・・」と合唱する。大きく盛りあがる。
TV朝日の「週刊物大辞典 結成40周年 紙ふうせん“歌の力”『翼をくださ
い』秘話」という番組があった。YOU-TUBEに残る(2014.6.13)。

阪神淡路大震災を体験し、「『翼をください』に関してはある発見があり
ました(平山)」。後藤はこう語る。「本当の意味が体を通った。今回何
千人が命をなくされている。『悲しみのない自由な空』というのは死後の
世界。(この歌は)その人たちへの鎮魂歌だと思ったのです。(そして)
生かされた者たちは、命の限り精一杯生きよう」というメッセージだ」と。

なるほど、そうもとれる。いや、2人がそう信じて歌えばそのように伝わ
るであろう。すでに古稀を超えた2人の歌唱には、若さと年輪の独特の味
があり、同年代の聴衆が共感しているのがよくわかる。

しかし、私は思う。この歌に「死者への鎮魂」の意味もあるかもしれない
が、それも含めて、やはり、(82歳で健在である)作詞家・山上路夫が35
歳で書いた「翼をください」の自由と希望へのメッセージを、今の若者た
ちが素直に受け取り、それぞれが大きな未来を目指すことを主題として、
生きてほしいと願う。(2019.6.5 千葉市在住)


◆ファーウェイ排除効果?

                          宮崎 正弘


令和元年(2019)6月4日(火曜日)通巻第6097号  <前日発行>

 ファーウェイ排除効果? OSをグーグル、マイクロソフトから
 台湾製キリン半導体と自家製OS「紅夢」(HONGMEN)に切り替
えと発表

大変なことになっている。

未曾有の事態が続出し、近未来の展望がまったく読めない。

中国のスマホ、外国製半導体の在庫が底をつくのは時間の問題となった。
いま日本の製造メーカーは駆け込み受注でフル稼働というが、いったい、
その先には何が待っているのか。

ファーウェイの半導体自製は軌道に乗っていると豪語している。

ところが自製率は20%ていどと見積もられる。なぜならファーウェイが自
製と言い張る半導体、じつは英国「アーム」の設計であり、しかもアーム
が米国半導体企業の「アルチザン・コンポーネント」を2004年に買収して
いるため、「米国製品25%以上の規則にひっかかる怖れが強い」と踏んだ
ためである。

トランプの署名した国防権限法がそもそもの原因であり、2019年8月を起
源として、米国はファーウェイなど五社の製品の米国における使用を禁止
する。

これが、世界の通信市場に大津波をもたらしている。OSがマイクロソフ
トやグーグルが握り、半導体製造装置や設計を英米の企業が握っているか
ら、こういうことが起こるのである。

ファーウェイの取引企業は1200社あるが、いずこも突然の注文減、或いは
注文そのものの打ち切りに悲鳴を挙げている。スマホの店頭価格はダンピ
ング、中古品も値崩れを始めた。

中国のスマホ業界、超弩級の嵐に遭遇、どうやら竜巻のような一過性では
ないことを認識し始めたようである。

嵐の前の静けさを破ったのは、トランプの「非常事態宣言」以後。動きが
あまりにも迅速だったからで、英国の設計大手「アーム」に続き、パナソ
ニックは輸出停止に踏み切った。

米国AMD(アドバンスド・マイクロ・デバイス)も、幹部が5月28日に
台北の展示会(台北國際電脳展)で緊急に記者会見し、「米国の規制に従
い、中国へ半導体技術の移転をやめる」と言明した。
 

 ▲日本でもファーウェイのスマホは180万台強も売れていた

ファーウェイのスマホが使えなくなる畏れが強まったとして、日本勢も一
斉に新機種の予約を停止、もしくは発売を延期した。実際の適用は2020年
8月からだが、日本人というのは、こういう場合、早め早めに手を打つの
である。

ファーウェイのスマホ、じつは日本でのシェアは6%しかないが、180
万台余を出荷している。とくくにソフトバンクのスマホはファーウェイ製
品が多い。
 
NTTドコモ、KDDI,ソフトバンク、楽天モバイル、UQコミュニ
ケーションズなどが、ほぼ一斉に新機種の予約受付注視、もしくは販売時
期延期を発表したのだ。

ファーウェイは、使用中のOS(グーグルの「アンドロイド」が主流)
を、将来を見越して独自のOS「HONGMEN」に切り替えると発表した。

また同社に半導体を供給してきたTSMCは、「製造装置をのぞけば米国
製品25%に該当しない」として半導体輸出を続行すると豪語している
が、米商務省との打ち合わせはまだ済んでいない模様だ。

このため業界に衝撃が走っている。

ファーウェイが開発したという新ソフト「HONGMEN」は音訳=紅夢
だが、何時の間に、このようなOSを造っていたのか、疑念も湧いてく
る。いや、OSの基本ソフトはオープンであり、たとえば地図や天気予報
など豊富なアプリが抵触するのである。

しかし基本的に半導体の設計の90%は「アーム」であり、そのうえやや
こしいのは、このアーム社がソフトバンク傘下なのである。孫正義は、日
本における地上局にファーウェイ社を遣わないと発表しているが、この
アームの対中取引停止の最終決定にどれほど関与したのだろうか?

 ▲中国からの移転はスマホだけのはなしではない

あれほどの親中派企業として知られたリコーが、生産拠点をタイへ移管す
る。タイ製品として装いを新たにし、コピー機、プリンターなどを米国輸
出に振り向ける作戦である。
 
もう一つの親中派企業代表ユニクロも、縫製工場の一部をベトナム、バン
グラデシュに移管させた。

日本企業は、リコーの遣り方を習うかのようにコマツは部品調達を、北米
メーカーに切り替える。

セイコーは時計の生産を日本にもどす計画。京セラは四割の製品をベトナ
ム工場へ移管する。カシオも時計の「Gショック」の輸出拠点を中国から
日本にもどす方針であり、アシックスはスポーツシューズをベトナム工場へ。

任天堂はゲーム機の製造を中国で行ってきたが、やはり移管先を検討して
いる。移転先を決めかねて様子見なのはシャープ、ブラザー工業。

日本企業のサプライチェーンを推進してきた住友商事は、バングラデシュ
に造成中の工業団地をチェーン拠点化できるかどうかを検討しているという。

      
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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1904回】                    
 ――「彼等の行動は生意氣の一語に盡きる」――石井(1)
石井柏亭『繪の旅 朝鮮支那の巻』(日本評論社出版部 大正10年)

                ▽
石井柏亭(明治15=1882年〜昭和33=1958年)は東京生まれの洋画家で詩
人。父親の石井鼎湖の下で幼少時より修業を積んだが、父親を早く亡くし
たことから苦労の連続。やがて挿画作家として一本立ちする一方、『明
星』への投稿をキッカケに詩人としても活躍。二科会、一水会、文化学院
などの創立に参画。帝国芸術院会員でもあった。

「晩春初夏の數月を遠く且長い旅行に費やす慣ひを得た」石井は、「大正
8年には支那へ行った」。この年は西暦で1919年。中国では五・四運動が
起こり、反日・日貨排斥の動きは北京のみならず日本と関係深い上海、天
津などの港湾都市で発生した。そこで石井の旅は「非常な束縛を受け」、
「上海附近僅に蘇浙兩省に限られた」だけで終わっている。

上海郊外では龍華寺を目指す。途中、「端艇の練習に來た」「同文書院の
學生に出偶ふ」。寺の手前の畑では「纏足の農婦の耕すのを見てあれでよ
く勞働が出來たものだと思ふ」。纏足であればこそ「固より活?には行か
ない。ただよたよたした足取りで野良仕事をやつているのが珍しい」。

石井が「菜種の上に少し傾いた龍華の塔を見て面白いと思」った時から遡
ること17、8年の明治30年代半ば、「厚き氷の下に暫く閉じ込められし我
が宿志、即ち清国の女子教育に従事したしとの希望」を実現させた河原操
子は、「純然たる女子教育の目的を以って設立せられ、東洋人の手で経
営」される清国最初の女学校である上海務本女学堂で教鞭を執っていた。

彼女の回想記である『カラチン王妃と私』(芙蓉書房 昭和44年)に、
「休憩時間には、我は率先して運動場に出で、生徒をしてなるべく活発に
運動せしむる様に努めた」が、「多年の因襲の結果としての」纏足から
「思うままに運動する能わざるは気の毒なりき」。

よろよろと歩かざるをえない上海務本女学堂の女子生徒らは、「されば大
なる我が足、といいても普通なるが、彼等には羨望の目標となりしもおか
しかりき」と綴られているように、纏足は一定階層以上の家庭の子女のも
の。一般労働者や農民の子女が纏足であるわけがないはずだ。

ならば、あるいは石井が目にした「纏足の農婦」は根っからの農民という
よりも、上層階層の子女の没落した姿と考えられる。上海郊外の畑の中に
20世紀初頭の中国社会の激動を見ることができる・・・とは、些か早とち
りだろうか。

目指す龍華寺は今兵営となっていた。寺など兵営にする必要はなかろうと
思うが、案内人は「金がないからでせう」と。兵営は置かれているために
附近は荒れ放題。石井の期待したような龍華寺の風情は望むべくもなかった。

「寺前の廣場で小人數の?練を見たが、年取つたのと若いのと、丈のたか
いのと低いのと入交つて實に滅茶滅茶なものだ。而して彼等は暇さへあれ
ば近隣の茶館に入つて賭博でもやるのだらう。其れ鼠色の軍服にしても實
にだらしのないものだ」。

龍華寺の塔を仰いで居ると、線香売りの女が近寄ってきて一束を無理やり
石井の「隱袋に入れさうにしたから、はたき落してやたつた」ら、線香が
折れて女はブツブツと文句を言う。そこで石井は「自業自得である」と留
飲を下げている。

中国の観光地で物売りに纏わりつかれ、愚にもつかない土産を買い込む羽
目に陥った日本人は多いはずだ。執拗さに立ち向かうに淡泊さ、執念に対
するに諦念・・・これでは勝ち目がないことは最初から分かっている。

線香を「はたき落してやたつた」石井は「自業自得である」と半ば自慢げ
に記すが、おそらく線香売りの女は1人だったわけではなかったはず。同
類がワンサカと集まってきて石井を取り囲んだのではなかろうか。

これはもう無駄な抵抗をせずに、三十六計を決め込むしかないのだ。情け
ない話ではあるが。《QED》

◆蕪村公園横の「毛馬の閘門」

                           石田 岳彦


阪急千里線の柴島駅(本筋から思い切り離れますが「柴島」を初見で「くにじま」と読める人がどれだけいるでしょうか。)から天神橋筋六丁目駅へ向かい、淀川にかかる鉄橋を渡る際、左側奥、淀川大堰の向こう側に大きな「水門」が見えますが、その水門には「毛馬こうもん」と白抜きで大きく書かれています。

「こうもん」を漢字で書くと「閘門」です(ちなみに「毛馬」は地名で「けま」と呼びます)。

最近は警察署にも建物の壁に「けいさつ」と平仮名で大きく書いているところがありますが、「閘門」と書いても読めない人が多いので、「こうもん」と平仮名で書いているのでしょうか。

もっとも、警察署と違い、読みだけ知ったところで何をやっている施設かは分からないと思いますが。

それはさておき、阪急千里線を通勤経路にしている私にとって、毛馬の閘門は見慣れた存在でしたが、近くにまで行く機会はありませんでした。

平成20年春、毛馬の閘門が国の重要文化財に指定されることになったというニュースを聞いた私は、これをよい機会と毛馬の閘門に行ってみました。我ながらミーハーです。

毛馬の閘門に行くには、天神橋筋六丁目駅(阪急千里線、地下鉄堺筋線・谷町線)から北上し、淀川にかかる長柄橋の南詰めから河川敷に出て、更に5分ほど東へ歩きます。

河川敷は公園になっていて、堤防上には歩道も整備されていて、歩いていて楽しい道ですが、天神橋筋六丁目駅からは20分以上の歩きになり、大阪市内ということを考えると交通の便の悪い場所といえるでしょう(私がなかなか行く気になれなかった理由もこれです。)。
 
現地に設けられていた説明板によると、閘門というのは、水位の異なる川、運河等の間で船を行き来させるため、両側に水門を設けた水路で、毛馬の閘門の場合、大川(低)と淀川(高)との間の高低差を調整して船を通すために建造されたものです。

淀川から大川に入る場合、まず、水路内の水位を淀川に合わせたうえ、淀川側の水門のみを開けて船を水路に入れたうえで閉じ、水路内の水を抜いて、水面の高さを大川と同水位に下げた後、大川側の水門を開けて船を通過させるという仕組みになっています。

逆に大川から淀川に行く場合には、大川側から水路に船を入れたうえ、水を補充して水路面を淀川と同水位にまで上げてから、淀川側の水門を開放することになります。

なお、そもそも隣り合っている2つの川の水面に何故、極端な高低差があるかといえば、本来の淀川の流れは大川の方で、現在の淀川のうち毛馬よりも河口側の部分(新淀川)は明治時代に治水上の必要で人工的に作られたためだそうです。

ちなみに現在の毛馬の閘門は3代目で、私が毎朝見かけている「毛馬こうもん」もこの3代目にあたります。今回、重要文化財に指定されたのは、初代と2代目(今は船溜になっているそうです)で、このうち初代の閘門は、3代目のすぐ近くに見学用として整備されていました。

初代閘門の水門は2つの扉が観音開きになる方式で(なお、現役の3代目の閘門は門扉が上下して開閉するシャッター方式だそうです。)、現在は半開きの状態で固定されています。最近になって塗りなおされているようで、水色の大きな扉が鮮やかです。

北側の淀川側の水門は、近くにある堤防から一段低いところにあり、階段で下まで降りることもできますが、降りたところに柵が設けられていて、その先の水門をくぐることはできません。

もっとも、南側にある大川側の水門(淀川側に比べてかなり小型です)は開放されていて、そちら側から(旧)水路(当然のことながら現在では水路に水は流されていません。)の中に入ることができ、更に進んで淀川側の水門をくぐることもできます。北側の柵はいったい何のためでしょうか。

水路の中央に見学用の通路が設けられていて、その両側は何故か芝生になっていました。先ほどの柵といい、「こうもん」のペイントといい、この芝生といい、大阪市はよく分からないことに、金と手間を使います。

水路といっても船が通り抜けることができるだけのスペースですから、幅もそれなりにあり、スペース自体はちょっとした広場並みです。両側の側壁はレンガ造りになっていて、ところどころに鎖が取り付けられています。係船環と呼ばれる船を繋ぐためのものだそうです。水路に水を注入または排出するときに船が動かないようにするためでしょうか。

近くには初代閘門の付属施設として建設された洗堰(水が堰の上を越えて流れるタイプの堰)も残っています。淀川(新淀川)から大川に流れ込む水の量を調節するためのものだそうです。なかなかシックなデザインですね。

大阪市やその近郊にお住まいの方であれば、天気のよい休日にでも、広々とした淀川の河川敷や与謝蕪村公園の横を歩きつつ、ちょっと「毛馬の閘門」に寄ってみられるのも悪くないでしょう。(終 再掲)


2019年06月03日

◆自衛隊に甘えすぎではないか

阿比留 瑠比


太平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず------。幕末のペ
リー来航の際の蒸気船と、覚醒効果のある高級茶をかけたこの狂歌ではな
いが、北朝鮮の金正恩(キムジョンウン)朝鮮労働党委員長は枕を高くして寝られ
ただろうか。安部晋三首相とトランプ大統領が28日、いずも型護衛艦「か
が」を視察した件である。

米大統領が海上自衛隊艦艇に乗艦するのは初めてであり、これまでにない
強固な日米同盟の誇示は、北朝鮮だけでなく、中国に向けて強力なメッ
セージとなった。日米両首脳は「かが」船上で、それぞれ次のように訓示
を行った。

安部首相「強固な日米同盟は日米の隊員一人一人の努力によって支えられ
ている。自衛隊の諸君、昼夜を分かたず自由で平和な海を守り続ける諸君
を、私は誇りに思う」

トランプ氏「素晴らしい米国と日本の兵士たちに言いたい。あなたたち
が、われわれの国民を守るためにしているすべてのことに深い感謝を述べ
たい」

もはや、創設(昭和29年7月)まもない頃のように、自衛隊が「日蔭者」
(吉田元首相)であることを強いられ、甘んじる時代ではない。


9割「良い印象持つ」

内閣府の平成26年度の世論調査では、自衛隊に「良い印象を持っている」
と「どちらかというと良い印象を持っている」を合わせて92・2%に上
る。反対に「悪い」「どちらかというと悪い」との印象を持つ人は4・
8%に過ぎない。

29年度の調査でも、計89・8%が良い印象を持つと答えており、悪い印象
を持つ人は計5・6%にとどまる。過去2回の調査ともに9割前後が良い
印象を表明しているが、これほど高い組織はちょっとほかには考えにくい。

ところが、これほど国民の信頼が厚い組織が憲法で位置づけられていな
い。もちろん、現行憲法の施行時(昭和22年5月) には自衛隊は存在しな
かったのだから、当初書かれていなかったのは当然である。

だが自衛隊発足後それがそのまま放置されているというのは、政治の怠慢
であり、憲法を空文化させてきた。立憲主義にも反している。

憲法9条に自衛隊を明記するという具体案を、安部首相が提唱して2年以
上たつが、国会審議は遅々として進まない。この案は自民党だけでなく、
憲法に足らざるを加える「加憲」を唱える公明党も受け入れられるもの
だったはずである。

にもかかわらず、「憲法改正原案、憲法改正の発議」を審議できるはずの
衆参両院の憲法審査会が実質的に動かないのは、国会議員の怠慢だろう。

国会が、憲法で定められた国民投票の権利行使を妨げている。これまでの
自衛隊の労苦に報いるどころか、文句が言えない自衛隊に甘えすぎではな
いか。

憲法審の慣例がネック

「『自衛隊を憲法に明記する』ために」という冊子の配布やミニ集会、講
演活動などを通じて憲法改正を訴えている元熊本県議で通信制高校校長、
野田将晴氏は懸念を示す。

「全会一致を原則とする憲法審査会の慣例が、一番ネックになっている。
この慣例がある限り、たとえ参院選後に改憲勢力が発議に必要な3分の2
以上の議席を維持しても、野党が反対してまた同じことの繰り返しになり
かねない」

いざ国民投票になっても、憲法に自衛隊を明記することにあくまでも反対
する人がそんなにいるとは思えない。いずれかのタイミングで、無意味で
弊害多き慣例は捨てる必要があろう。

(産経新聞論説委員兼政治部編集委員)
産経ニュース【阿比留瑠比の極言御免】