2019年06月27日

◆「日米安保条約は不平等」

宮崎 正弘


令和元年(2019)6月26日(水曜日)通巻第6117号  

 「日米安保条約は不平等、破棄すべきだ」とトランプ大統領が発言していた
    いよいよ日米安保条約の再改訂が政治課題にのぼってくる

「われわれが押しつけた、あの憲法を日本はまだ守っているのか」と押し
つけた憲法草案を起草したアメリカ人責任者その人が、日本人ジャーナリ
ストのインタビューに答え驚いたそうな。さもありなん、押しつけた側
は、あれは一時的占領基本原則のつもりだったのだから。

昨今の政界は改憲議論がやや遠のき、小手先の加憲論とか、国民投票の方
法など枝葉の議論に時間を空費してきた。歴史原則にたち還ると、占領側
が被占領国の基本法を強要すること自体は重大な国際法違反である。

したがって「日本国憲法」なるシロモノは早急に破棄するだけでよい。

法律的には明治憲法に復元改正となるが、枢密院もない現在の状況では無
理が多い。とりあえず「五ヶ条の御誓文」に戻し、もろもろの付随法を自
動的に変えればよい。もっと正論を言えば、英国のように日本には成文法
は不要である。慣習ならび伝統で解釈し、あとは法律を整備していけば済
むことではないのか。

むろん、法律家、裁判所。内閣法制局なる「法匪」が跋扈する現況にあっ
て、上のような正論が迅速に受け入れることはないだろうが、歴史的原則
だけは忘れるべきではない。

こう考えてくると6月25日にブルームバーグが報じたように、トランプ政
権内部の議論で日米安保条約におよび、大統領が「戦闘になってアメリカ
だけが日本防衛の義務を負い、日本はアメリカを助けなくても良いという
のは不公平ではないか。日米安保条約は破棄するべきである」としたこと
も、じつは「正論」である。
 
6月24日にトランプ大統領が発進したツィッターでも「ホルムズ海峡でタ
ンカーを守るのは日本がやるべきことだ」と書いた。NATO諸国に対し
て「防衛分担が不公平だ。GDPの2%にしてほしい」と不満を漏らし続
けてきた。

過去30年、米国は政権が共和党であろうと民主党であろうと、日本に対し
て防衛負担増大を要求してきた。日本は「憲法」を縦にして、防衛負担増
を拒み続けてきたことは周知の通りである。

だから、こうした対日認識はアメリカ人政治家に共通している。選挙予備
選でトランプは「日本が核武装しても構わない」とも主張してきたことを
思い出したい。


 ▲安保改正議論が本格化するべきだろう

いつしか、こういう場面が来るだろうと予測してきた筆者にとって、驚き
でもなく、いや歓迎すべき事態の到来と言える(拙著『日本が在日米軍を
買収し、第7艦隊を吸収合併する日』、ビジネス社参照)

1980年、日米安保条約改正20年を記念して日米セミナーを開催した。日本
側は岸信介氏が、米国側からはフォード元大統領が代表格で、このとき米
国側から「安保条約の再改訂」の提言が為され、新聞はほとんどこの重要
問題をスルーした。筆者はホテルに泊まり込んで事務方を担当し、とくに
メディア対策の広報係をやれと加瀬英明氏から頼まれ、連日報道陣とのや
りとりがあったので、日本のメディアが当時、いかに関心が薄かったかを
知っている(日米セミナーの記録は『日米安保条約20年』、自由社)。

あれからでも40年の歳月が(正確には39年が)過ぎた。ようやくトランプ
が不平等に認識し、「日米安保条約は不平等、破棄すべきだ」と内部の会
議で発言するに至った。

いよいよ日米安保条約の再改訂が政治課題にのぼってくる。
 
過去のトランプの『実績』を見よ。

TPP、パリ協定が離脱、NAFTAの見直しは短時日に実現し、
NATOへの公平な分担要求はEUを悩ませ、イランとの核合意を離脱し
たではないか。

その実行力を目撃してきたのだから、いずれトランプは、公式的に日米安
保条約の再改訂を言い出すことは、時間の問題となった。

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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1915回】              
 ――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(9)
  見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

                ▽

日本人と中国人の間で互いの「意志」を的確に仲立ちできる言葉は日本語
か、中国語か、それとも英語か。

双方の英語力が同程度なら、やはり英語が無難だろう。もちろん日本語で
も中国語でも構わないと思うが、その場合の必須条件は互いが相手の文化
的背景を相手以上に知っておくことだろう。

一知半解式の相手理解では、所詮は『宴会の座興』といった程度の会話に
終わってしまい、行き着く先は誤解であり憎悪であり嘲笑ということにな
りかねない。

だからこそ、「同文同種」などという戯言で世間を誑かしてはダメなのだ。

「一衣帯水」だの「子々孫々にわたる友誼」だのといった類のホラ話は断
固として口にすべきではない。

さて鶴見は王寵惠との話を終え、「自分は北京に來て、初めて頭のいい人
に會つたと思」い、次に会見した王正廷に対しは「自分は北京にきて、初
めて堅いものにぶつかつたと言ふ感じがした」と呟く。

「頭のいい人」の王寵惠に対するに「堅いもの」である王正廷は1882年に
浙江省寧波で生まれ、王寵惠と同じようにキリスト教牧師の家庭で育ち、
一貫して英語教育を受け、20代前半には英語教師を務めている。

中華キリスト教青年会の要請で日本に留学し、孫文の中国革命同盟会に参
加した後、1907年には教会の支援でアメリカへ。ミシガン、イェールの両
大学で法律(国際公法)を学ぶ。1911年夏に帰国し、革命後に成立した中
華民国政府の歴代政権に参画する。

1919年のパリ講和会議に全権代表として参加。ドイツが山東省に持つ権益
を日本が継承することに最も強く反対している。

その後、デン・ハーグの常設仲裁裁判所仲裁人に就任。1922年末には短期
間だが代理国務総理。1923年3月から1年間、対ソ連交渉に当たる。

1928年には国民政府外交部兼国民党中央政治会議委員として済南事件の
交渉に臨むが、日本への弱腰を指摘するデモ隊によって自宅を襲撃された。

1931年の満州事変に際しては対日交渉に当たったが、学生デモ隊から襲撃
を受け重傷を負い外交部長を辞任。

1936年8月から38年9月まで駐米大使。政界引退後は中国紅十字会会長、交
通銀行董事、太平洋保険公司董事長など。晩年を香港で送り、1961年に没。

ところで日米開戦直後の昭和17(1942)年3月に中央公論社から出版され
た『支那問題辭典』の収められた「附録 人名辭典」では王正廷は概略で
次のように紹介されている。

――北洋大学卒業後、日本留学を経て渡米し、ミシガン、イェールの両大
学卒。辛亥革命に参加。1919年のパリ講和会議に全権代表として参加。 
山東還付問題につき大いに活躍。帰国後、1920年に一時実業界(貿易・繊
維会社経営)するも失敗。1922年の山東交渉に当たっては外交総長(汪大
燮政権)として、山東協定に調印。1928年には国民政府外交部長として済
南事件の処理に当たる。その後、国民政府委員、国民党中央執行委員など
党と政府の中枢に。1931年の満州事変後、政府の外交政策に反対する学生
に襲撃され重傷を負い外交部長辞任。国民党文治派の政学会系。1936年に
駐米大使に就任するも38年に辞任。39年5月に英国訪問の後、同6月に帰国――

ここから判断して、当時の日本では王は一貫して対日交渉に当たり、満州
事変処理に際しては学生に襲撃されるほどの不興を買っていたと見ていた
ことになる。

ところで鶴見が王正廷を訪ねたのは1922(大正11)年5月のことだから、
デン・ハーグの常設仲裁裁判所における仲裁人の任務から離れた後、魯案
督弁というポストに就き山東半島に関する日本との交渉に当たっていた頃
のことだ。

その後の王正廷の軌跡も知った上で鶴見とのやり取りを考えるのも、一興
だろう。《QED》
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読者の声 どくしゃのこえ READERS‘ OPINIONS 読者
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(読者の声1)貴誌前号にあった書評に関連して、アインシュタインの日
本びいきについて、以前日経新聞に掲載された記事を覚えているので、以
下ご紹介します。

アインシュタインは日本への航海中、下血しました。そこで大腸ガンと思
い込み真っ青になりました。しかし丁度、船に日本人外科医が乗り合わせ
ており、診断した結果痔であることが判明しました。

そこでアインシュタインは大喜びし、元気百倍です。東京での大歓迎会の
あいまを見て地方の恩人の医師を訪ねました。

すっかり日本が気に入ってさらに旅を続けました。この話はこの医師のご
子息の方が回想したものです。

なおアインシュタインがルーズベルトに原爆製造を提言したのはヒトラー
が製造すると思ったからです。

独にはノーベル賞を受賞した核物理学者ハイゼンベルグがおり、チェコに
は大ウラン鉱山がありました。

しかしヒトラーは原爆には関心を持ちませんでした。それは核物理学を理
解出来なかったことと、ユダヤ人の学問と思い混み嫌ったからと言います。

この点、スターリンと違っています。

スターリンは核物理学を理解出来ませんでしたが、原爆が政治的に重大な
意味を持つことは理解出来ました。

そのためナチスドイツは敗戦までに動力用の実験原子炉を作っただけでし
た。アインシュタインは原爆が日本攻撃に使われると知ったら悲しんだこ
とでしょう。

しかしこれはもはや政治決断になっており、現場の科学者の手から離れて
いました。(落合道夫)

◆35年目の日中友好

渡部 亮次郎

9月29日は1972年のこの日、田中角栄総理と周恩来総理が北京の人民大会
堂で日中共同声明に調印した記念の日。35年目の日中友好を謳歌する人、
貶す人、様々であろう。

斯く言う私はNHKからの同行記者。80人の中から選ばれた10人の中の1人と
して総理機に同乗を許された「近距離記者」だった。

宿舎は市の中心部の民族飯店(ホテル)460号室。ハンガーの位置がやたら
に高く、シャワーが随分ぬるかった。聞けばソ連人たちの設計だから背丈
が違うわけだ。

つまり1949年の建国直後の中国は、ソ連の勝手な振る舞いに文句一つ言え
ない弱い立場だった。やがて毛沢東はフルシチョフと喧嘩。自力更生を唱
えたが、農業も工業も先進国に遥かに立ち遅れてしまった。

これではならじと、周恩来らの助言もあって、隣国日本の力を借りる路線
をとり始めたが、日本はアメリカの鼻息をうかがうだけで中国は焦るばか
り。佐藤栄作首相は周恩来から毎日のように「反動内閣」と貶され続けた。

ところがアメリカ国家安全保障担当大統領補佐官のキッシンジャー氏が
1971(昭和46)年7月9日、秘密裏に中国を訪問して周恩来総理と会談「72
年5月までにニクソン大統領が中国を訪問する」。

既に帰国してから4日経っていた15日に電撃的に発表。反中国姿勢をとっ
てきた佐藤政権は当に2階に上げて梯子を外されてバカをみた。

加えてニクソンは田中内閣になった直後の8月15日には金とドルの交換一
時的停止・10%の輸入課徴金実施などのドル防衛措置(ドル・ショック}を
与えて日本を揺さぶった。

政局は「バスに乗り遅れるな」とばかり日中国交正常化を急げというムー
ドに成り、ムードに乗る田中角栄前通商産業大臣が台湾派の前外務大臣福
田赳夫氏を圧倒的に破った。

三木武夫、大平正芳、中曽根康弘の各氏が田中支持。対する福田氏は自派
のほかは残りの弱小派閥の支持しか得られなかった。なんと言っても佐藤
氏からの「禅譲」待ちをした福田氏の戦略負けだった。

田中氏は外相に据えた大平氏と官房長官二階堂進氏を伴って9月25日には
全日空特別機で羽田を出発、一路、北京空港を目指したのだった。別の特
別機の記者団を合わせてカメラマン含め総計80人。

正午過ぎに到着。眩しいほどの晴天下、初めて中国国歌を聞いた。

しかし釣魚台の迎賓館に案内された田中総理らに接触する事は中国側の意
向で厳禁。時折、会見場にやってくる二階堂長官に聞いても「何も申し上
げられません」。それ以外の科白はなかった。

到着初日、人民大会堂での周恩来総理主催田中総理歓迎宴における田中総
理の日中戦争に関する謝罪の文言が軽すぎたとして問題になったとか、青
菜に塩の如き大平外相や外務省幹部を笑って、田中総理が「だから大学出
は駄目なんだ」と言った類の話はすべて帰国後に明らかになった話。周恩
来氏が田中さんに「天皇陛下によろしく」と言った話も。

かくて交渉は決着。毛沢東との会談はいつかと固唾を呑んで待ったがナ
シ。朝になって未明に会談(表敬訪問)があったこと、随員の随行は認め
られなかった事が明らかにされる始末。

発表された共同声明は内政不干渉が謳われたのに、あれから35年の日中関
係は中国による日本への徹底的な内政干渉の歴史であった、と言って過言
ではない。

また我々は食糧の面でも中国に絶対的に支配されている。産経新聞の北京
特派員福島香織さんが9月27の「北京春秋」で「安全な日本食は中製?」
と嘆くほど日本食は中国に支配されている。

<北京の高級百貨店の新光天地に日本食品・農産品店舗が先ごろオープン
した。農林水産省の委託を受けて双日が手がけたもので来年の3月までの
期間限定。日中国交正常化35周年キャンペーンの一環。

食の安全に揺れる中国・北京で富裕層を対象に「安全で美味しい日本食」
を浸透させようと言うのが狙いだ。

冷凍ケースに並ぶ「サケ切り身冷凍パック」を手にとって裏を見ると原材
料は煙台。有名日本ブランドのサラダオイルは上海の製造。日本ブランド
の味噌は米国産大豆を中国の工場で加工とある。日本食と言いながらほと
んどが中国製?

店舗関係者に「原材料・製造100%日本と言う食品が殆どない」と文句を言
うと「原材料、調味料、製造のいずれかに日本がかかわっていれば日本食
品です」ときた。

店舗に並ぶ約180食品のうち、100%日本産はミネラルウオーターと米とレト
ルト食品ぐらいしか見当たらなかった。それに日本の輸入レトルト食品の
具だって中国産は含まれているのではと気になりだしたが「日本の食品自
給率は40%ですから」と関係者は涼しい顔だった。

何だ、農水省推奨の安全で美味しい日本食は中国が作っているのか。それ
が現実なのだろうが、どうもすっきりしない。・・・>

要するに日本の援助で近代化を急ぐ中国は既に日本の胃袋を制圧したと言
う事である。その代わり日本から進出している工場が全部引き揚げれば中
国は窒息するが、それは残念ながら杞憂に過ぎない。2007・09・28

◆香港の強権支配を徹底しつつある中国

櫻井よしこ


「香港の強権支配を徹底しつつある中国 日本こそ脅威を認識しなければ
ならない」

6月9日、香港の街々を100万人を超える人々が埋めつくした。1997年に香
港が中国に返還されて以来、最大規模のデモだった。香港住民の約7分の1
が参加したデモの必死の訴えは、しかし、中国の習近平国家主席にも中国
共産党にも届かないだろう。

香港の人々が求めているのは「逃亡犯条例」改正案の撤回である。同改正
案は刑事事件の容疑者の身柄引き渡し手続きを簡略化し、中国やマカオ、
台湾にも引き渡せるようにするものだ。

現在、香港は同じような身柄引き渡し条約を米英などと結んでいるが、中
国とは嫌だと拒否するのは、中国が欧米諸国とは異なり、同条例を取り締
まりと弾圧に利用することを肌で感じているからである。

香港政府は、同条例は「政治犯には適用できない」「政府に対する異議の
封殺や言論の自由を制限する目的には使えない」内容だと強調する。

だが、香港政府の言葉を、自由を求める香港の人々はもはや信じない。そ
もそも、香港返還時に中国政府は一国二制度の下で香港の自治は50年間許
されると公約した。それが20年も経たずに実態として反古にされているか
らである。

ここで留意すべき点は、容疑者の身柄引き渡し先に中国本土とマカオに加
えて台湾が含まれている点だ。中国共産党政府は、台湾を中国の一部と位
置づけている。であれば、台湾への容疑者引き渡しは、中国への引き渡し
と同じになるわけだ。現在はそうではなくとも、間もなくそうなると中国
政府は踏んでいるのである。

それが来年1月11日の台湾総統選挙で、現在、中国と一体化している国民
党が優勢だ。国民党有力候補者は、高雄市長の韓国瑜氏と鴻海精密工業の
経営者、郭台銘(テリー・ゴウ)氏である。両氏共に中国と密接な関係に
ある。

他方、台湾人の政党、民進党では蔡英文現総統が再選を目指し、頼清徳氏
と競っているが、両氏のいずれも国民党に勝利するのは非常に難しい。

第3の候補が台北市長の柯文哲氏だ。柯氏は国民党に対して多少不利なが
らほぼ互角に渡り合える支持を持つ。だが確実に勝つには民進党が独自候
補を取り下げ、柯氏を支えるしかない。

果たしてそこまで台湾人がまとまり得るのかに私は注目しているが、中国
がメディア及び企業の支配を通じて台湾社会の分裂を画策してきただけ
に、台湾人の結束は中々難しいとも思う。台湾人が中国の脅威を共有でき
ず、まとまりきれない場合、国民党が政権を奪い返し、台湾は政権交代に
とどまらず、「祖国交代」の悲劇に見舞われることになるだろう。

国民党が勝利すれば、香港からの容疑者の台湾への引き渡しは間違いなく
中国本土への引き渡しとなる。

中国による台湾奪取の動きは尖閣諸島周辺の動きと連動している。尖閣諸
島の接続水域に中国の「軍艦」が2カ月以上連続で入っている。5000トン
級が2隻、3000トン級が2隻の計4隻で、少なくとも1隻は武装艦だ。領海侵
犯を繰り返す4隻は海警局に属するが、同局は昨年7月に中央軍事委員会傘
下の人民武装警察部隊に編入されたため、所属も実態も軍である。

台湾奪取には、中国は断固米国の介入を阻止しなければならない。その軍
事的備えの一環として尖閣諸島の支配が欠かせないために、前述のように
彼らは2カ月以上1日も欠かさず24時間、尖閣の海に張りついている。

折しも中国の空母「遼寧」が11日、高速戦闘支援艦、ミサイル駆逐艦など
五隻を従えて沖縄本島と宮古島間を通過した。台湾同様、尖閣諸島も沖縄
も危機なのだ。有無を言わさず香港の強権支配を徹底しつつある中国が台
湾、尖閣諸島に同様の手法を使わない保証はない。日本こそこの中国の脅
威を認識しなければならないだろう。

『週刊ダイヤモンド』 2019年6月22日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1284 




◆木津川だより 高麗寺跡 B

白井繁夫


飛鳥時代に創建されたと云われている古代寺院の「高麗寺跡こまでら跡」について、@では寺名が「高麗寺:こまでら」となった由来や時代の背景について、高麗寺跡Aでは発掘調査の出土品の中で、出土遺物の数量などが多くて年代を文様などから比較的に区分しやすい瓦(軒丸瓦.軒平瓦)から高麗寺について記述しました。

今回Bでは、昭和13年の第T期発掘調査の結果、国の史跡と認定された高麗寺跡の伽藍配置や瓦以外の出土品を精査して、V期調査まで(平成22年の第10次発掘調査まで)の間に確認された概要を下述します。

★高麗寺の創建は7世紀初頭、伽藍整備は7世紀後半、伽藍配置は法起寺式
  
 主要堂塔が東に仏舎利を祀る塔、西に本尊仏を祀る金堂を並置して、それを囲む回廊
が北の講堂、南で中門に接続している様式(南北回廊200尺:59.4m、東西201尺:
59.7mのほぼ正方形)
 高麗寺の伽藍配置は川原寺式から変化して法起寺式へと移行の初例と思われます。

★南門.中門.金堂が南面して一直線に並び、講堂の基壇が荘厳で特異な伽藍配置

川原寺式伽藍配置から法起寺式への変化の途上か?(添付の「各寺院の伽藍配置」参照)
高麗寺は西金堂の正面が南面し中門.南門と直線状に並びます。川原寺は北講堂.中金堂.中門.南大門は一直線状ですが西金堂は正面が東塔に対面しています。

(仏舎利を納めた塔より仏像を祀る金堂を重視する考え方か?
飛鳥時代から天平時代へと伽藍配置が変化する過程の先駆けではと思われます。)

高麗寺の講堂の基壇は三層構造の豪華さで、丁度川原寺の中金堂と同じ位置にあります。
高麗寺の初期設計時には講堂の場所に中金堂を予定していたのか?と思われるほど
基壇は荘厳な造りでした。
  
飛鳥時代、高麗寺が創建された時期には七堂伽藍を完備した寺院は飛鳥寺が国内では
唯一の寺院でした。その他の寺は一.二堂程度の草堂段階?(捨宅寺院?)であったと考えられています。

★高麗寺の南門の屋根には鴟尾があり、最古の築地塀が原形の状態で検出されました。

  南門跡は桁行20尺(5.94m)x 梁間12尺(3.56m)、屋根は切妻造りで鴟尾を
置いた八脚門、南門に接続する築地塀が南辺築地跡から原形を留めた、極めて良好な
状態で検出されました。

7世紀に築地塀が構築された例はいまだ検出されていません。8世紀の奈良時代になって  寺院の外画施設とする築地塀が一般的に用いられるようになったのです。

高麗寺の築地塀は7世紀後半のものであり、検出遺物は国内最古の出土物の例です。
白鳳時代の築地塀が残っていた事だけでも極めて珍しいのに、ラッキーにも壊れ方が建物の内側で原形を留めていたことです。

 (飛鳥寺南辺、川原寺南辺、東辺にも築地塀の存在説がありますが、現在も出土例は有りません。)

★高麗寺の終焉時期の推測

  文献上では廃絶が不明の寺院ですが、出土遺物の中から、平安時代の土器である灰釉陶器が見つかりました。この陶器から平安時代の末期頃(12世紀末から13世紀初)まで存続していたのではないかと云われています。

天武天皇は壬申の乱で功績のあった狛氏一族の氏寺の創建を認め、白鳳時代から奈良時代にかけて全盛期を迎えた高麗寺の状況ですが、聖武天皇が高麗寺の東方約3kmの瓶原(みかのはら)に恭仁宮を造営して、恭仁京(木津川市)へ遷都した頃(天平12年)、木津川の船上から見える高麗寺は南門の屋根には鴟尾が在り、当時は珍しい築地塀越に東塔が聳え西の輝く金堂など、当時の人々はこの大寺院を畏敬の念で仰ぎ見たことと思われます。

参考資料: 山城町史  本文篇  山城町
   南山城の寺院.都城 第106回 埋蔵文化財セミナー資料 京都府教育委員会
   木津川市埋蔵文化財調査報告書 第3.第4.第8集   木津川市教育委員会

2019年06月26日

◆「日米安保条約は不平等」

宮崎 正弘


令和元年(2019)6月26日(水曜日)通巻第6117号  

 「日米安保条約は不平等、破棄すべきだ」とトランプ大統領が発言していた
    いよいよ日米安保条約の再改訂が政治課題にのぼってくる

「われわれが押しつけた、あの憲法を日本はまだ守っているのか」と押し
つけた憲法草案を起草したアメリカ人責任者その人が、日本人ジャーナリ
ストのインタビューに答え驚いたそうな。さもありなん、押しつけた側
は、あれは一時的占領基本原則のつもりだったのだから。

昨今の政界は改憲議論がやや遠のき、小手先の加憲論とか、国民投票の方
法など枝葉の議論に時間を空費してきた。歴史原則にたち還ると、占領側
が被占領国の基本法を強要すること自体は重大な国際法違反である。

したがって「日本国憲法」なるシロモノは早急に破棄するだけでよい。

法律的には明治憲法に復元改正となるが、枢密院もない現在の状況では無
理が多い。とりあえず「五ヶ条の御誓文」に戻し、もろもろの付随法を自
動的に変えればよい。もっと正論を言えば、英国のように日本には成文法
は不要である。慣習ならび伝統で解釈し、あとは法律を整備していけば済
むことではないのか。

むろん、法律家、裁判所。内閣法制局なる「法匪」が跋扈する現況にあっ
て、上のような正論が迅速に受け入れることはないだろうが、歴史的原則
だけは忘れるべきではない。

こう考えてくると6月25日にブルームバーグが報じたように、トランプ政
権内部の議論で日米安保条約におよび、大統領が「戦闘になってアメリカ
だけが日本防衛の義務を負い、日本はアメリカを助けなくても良いという
のは不公平ではないか。日米安保条約は破棄するべきである」としたこと
も、じつは「正論」である。
 
6月24日にトランプ大統領が発進したツィッターでも「ホルムズ海峡でタ
ンカーを守るのは日本がやるべきことだ」と書いた。NATO諸国に対し
て「防衛分担が不公平だ。GDPの2%にしてほしい」と不満を漏らし続
けてきた。

過去30年、米国は政権が共和党であろうと民主党であろうと、日本に対し
て防衛負担増大を要求してきた。日本は「憲法」を縦にして、防衛負担増
を拒み続けてきたことは周知の通りである。

だから、こうした対日認識はアメリカ人政治家に共通している。選挙予備
選でトランプは「日本が核武装しても構わない」とも主張してきたことを
思い出したい。


 ▲安保改正議論が本格化するべきだろう

いつしか、こういう場面が来るだろうと予測してきた筆者にとって、驚き
でもなく、いや歓迎すべき事態の到来と言える(拙著『日本が在日米軍を
買収し、第7艦隊を吸収合併する日』、ビジネス社参照)

1980年、日米安保条約改正20年を記念して日米セミナーを開催した。日本
側は岸信介氏が、米国側からはフォード元大統領が代表格で、このとき米
国側から「安保条約の再改訂」の提言が為され、新聞はほとんどこの重要
問題をスルーした。筆者はホテルに泊まり込んで事務方を担当し、とくに
メディア対策の広報係をやれと加瀬英明氏から頼まれ、連日報道陣とのや
りとりがあったので、日本のメディアが当時、いかに関心が薄かったかを
知っている(日米セミナーの記録は『日米安保条約20年』、自由社)。

あれからでも40年の歳月が(正確には39年が)過ぎた。ようやくトランプ
が不平等に認識し、「日米安保条約は不平等、破棄すべきだ」と内部の会
議で発言するに至った。

いよいよ日米安保条約の再改訂が政治課題にのぼってくる。
 
過去のトランプの『実績』を見よ。

TPP、パリ協定が離脱、NAFTAの見直しは短時日に実現し、
NATOへの公平な分担要求はEUを悩ませ、イランとの核合意を離脱し
たではないか。

その実行力を目撃してきたのだから、いずれトランプは、公式的に日米安
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 ――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(9)
  見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

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日本人と中国人の間で互いの「意志」を的確に仲立ちできる言葉は日本語
か、中国語か、それとも英語か。

双方の英語力が同程度なら、やはり英語が無難だろう。もちろん日本語で
も中国語でも構わないと思うが、その場合の必須条件は互いが相手の文化
的背景を相手以上に知っておくことだろう。

一知半解式の相手理解では、所詮は『宴会の座興』といった程度の会話に
終わってしまい、行き着く先は誤解であり憎悪であり嘲笑ということにな
りかねない。

だからこそ、「同文同種」などという戯言で世間を誑かしてはダメなのだ。

「一衣帯水」だの「子々孫々にわたる友誼」だのといった類のホラ話は断
固として口にすべきではない。

さて鶴見は王寵惠との話を終え、「自分は北京に來て、初めて頭のいい人
に會つたと思」い、次に会見した王正廷に対しは「自分は北京にきて、初
めて堅いものにぶつかつたと言ふ感じがした」と呟く。

「頭のいい人」の王寵惠に対するに「堅いもの」である王正廷は1882年に
浙江省寧波で生まれ、王寵惠と同じようにキリスト教牧師の家庭で育ち、
一貫して英語教育を受け、20代前半には英語教師を務めている。

中華キリスト教青年会の要請で日本に留学し、孫文の中国革命同盟会に参
加した後、1907年には教会の支援でアメリカへ。ミシガン、イェールの両
大学で法律(国際公法)を学ぶ。1911年夏に帰国し、革命後に成立した中
華民国政府の歴代政権に参画する。

1919年のパリ講和会議に全権代表として参加。ドイツが山東省に持つ権益
を日本が継承することに最も強く反対している。

その後、デン・ハーグの常設仲裁裁判所仲裁人に就任。1922年末には短期
間だが代理国務総理。1923年3月から1年間、対ソ連交渉に当たる。

1928年には国民政府外交部兼国民党中央政治会議委員として済南事件の交
渉に臨むが、日本への弱腰を指摘するデモ隊によって自宅を襲撃された。

1931年の満州事変に際しては対日交渉に当たったが、学生デモ隊から襲撃
を受け重傷を負い外交部長を辞任。

1936年8月から38年9月まで駐米大使。政界引退後は中国紅十字会会長、交
通銀行董事、太平洋保険公司董事長など。晩年を香港で送り、1961年に没。

ところで日米開戦直後の昭和17(1942)年3月に中央公論社から出版され
た『支那問題辭典』の収められた「附録 人名辭典」では王正廷は概略で
次のように紹介されている。

――北洋大学卒業後、日本留学を経て渡米し、ミシガン、イェールの両大学
卒。辛亥革命に参加。1919年のパリ講和会議に全権代表として参加。 山
東還付問題につき大いに活躍。帰国後、1920年に一時実業界(貿易・繊維
会社経営)するも失敗。1922年の山東交渉に当たっては外交総長(汪大燮
政権)として、山東協定に調印。1928年には国民政府外交部長として済南
事件の処理に当たる。その後、国民政府委員、国民党中央執行委員など党
と政府の中枢に。1931年の満州事変後、政府の外交政策に反対する学生に
襲撃され重傷を負い外交部長辞任。国民党文治派の政学会系。1936年に駐
米大使に就任するも38年に辞任。39年5月に英国訪問の後、同6月に帰国――

ここから判断して、当時の日本では王は一貫して対日交渉に当たり、満州
事変処理に際しては学生に襲撃されるほどの不興を買っていたと見ていた
ことになる。

ところで鶴見が王正廷を訪ねたのは1922(大正11)年5月のことだから、
デン・ハーグの常設仲裁裁判所における仲裁人の任務から離れた後、魯案
督弁というポストに就き山東半島に関する日本との交渉に当たっていた頃
のことだ。

その後の王正廷の軌跡も知った上で鶴見とのやり取りを考えるのも、一興
だろう。《QED》
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読者の声 どくしゃのこえ READERS‘ OPINIONS 読者
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(読者の声1)貴誌前号にあった書評に関連して、アインシュタインの日
本びいきについて、以前日経新聞に掲載された記事を覚えているので、以
下ご紹介します。

アインシュタインは日本への航海中、下血しました。そこで大腸ガンと思
い込み真っ青になりました。しかし丁度、船に日本人外科医が乗り合わせ
ており、診断した結果痔であることが判明しました。

そこでアインシュタインは大喜びし、元気百倍です。東京での大歓迎会の
あいまを見て地方の恩人の医師を訪ねました。

すっかり日本が気に入ってさらに旅を続けました。この話はこの医師のご
子息の方が回想したものです。

なおアインシュタインがルーズベルトに原爆製造を提言したのはヒトラー
が製造すると思ったからです。

独にはノーベル賞を受賞した核物理学者ハイゼンベルグがおり、チェコに
は大ウラン鉱山がありました。

しかしヒトラーは原爆には関心を持ちませんでした。それは核物理学を理
解出来なかったことと、ユダヤ人の学問と思い混み嫌ったからと言います。

この点、スターリンと違っています。

スターリンは核物理学を理解出来ませんでしたが、原爆が政治的に重大な
意味を持つことは理解出来ました。

そのためナチスドイツは敗戦までに動力用の実験原子炉を作っただけでし
た。アインシュタインは原爆が日本攻撃に使われると知ったら悲しんだこ
とでしょう。

しかしこれはもはや政治決断になっており、現場の科学者の手から離れて
いました。(落合道夫)

◆35年目の日中友好

渡部 亮次郎

9月29日は1972年のこの日、田中角栄総理と周恩来総理が北京の人民大会
堂で日中共同声明に調印した記念の日。35年目の日中友好を謳歌する人、
貶す人、様々であろう。

斯く言う私はNHKからの同行記者。80人の中から選ばれた10人の中の1人と
して総理機に同乗を許された「近距離記者」だった。

宿舎は市の中心部の民族飯店(ホテル)460号室。ハンガーの位置がやたら
に高く、シャワーが随分ぬるかった。聞けばソ連人たちの設計だから背丈
が違うわけだ。

つまり1949年の建国直後の中国は、ソ連の勝手な振る舞いに文句一つ言え
ない弱い立場だった。やがて毛沢東はフルシチョフと喧嘩。自力更生を唱
えたが、農業も工業も先進国に遥かに立ち遅れてしまった。

これではならじと、周恩来らの助言もあって、隣国日本の力を借りる路線
をとり始めたが、日本はアメリカの鼻息をうかがうだけで中国は焦るばか
り。佐藤栄作首相は周恩来から毎日のように「反動内閣」と貶され続けた。

ところがアメリカ国家安全保障担当大統領補佐官のキッシンジャー氏が
1971(昭和46)年7月9日、秘密裏に中国を訪問して周恩来総理と会談「72
年5月までにニクソン大統領が中国を訪問する」。

既に帰国してから4日経っていた15日に電撃的に発表。反中国姿勢をとっ
てきた佐藤政権は当に2階に上げて梯子を外されてバカをみた。

加えてニクソンは田中内閣になった直後の8月15日には金とドルの交換一
時的停止・10%の輸入課徴金実施などのドル防衛措置(ドル・ショック}を
与えて日本を揺さぶった。

政局は「バスに乗り遅れるな」とばかり日中国交正常化を急げというムー
ドに成り、ムードに乗る田中角栄前通商産業大臣が台湾派の前外務大臣福
田赳夫氏を圧倒的に破った。

三木武夫、大平正芳、中曽根康弘の各氏が田中支持。対する福田氏は自派
のほかは残りの弱小派閥の支持しか得られなかった。なんと言っても佐藤
氏からの「禅譲」待ちをした福田氏の戦略負けだった。

田中氏は外相に据えた大平氏と官房長官二階堂進氏を伴って9月25日には
全日空特別機で羽田を出発、一路、北京空港を目指したのだった。別の特
別機の記者団を合わせてカメラマン含め総計80人。

正午過ぎに到着。眩しいほどの晴天下、初めて中国国歌を聞いた。

しかし釣魚台の迎賓館に案内された田中総理らに接触する事は中国側の意
向で厳禁。時折、会見場にやってくる二階堂長官に聞いても「何も申し上
げられません」。それ以外の科白はなかった。

到着初日、人民大会堂での周恩来総理主催田中総理歓迎宴における田中総
理の日中戦争に関する謝罪の文言が軽すぎたとして問題になったとか、青
菜に塩の如き大平外相や外務省幹部を笑って、田中総理が「だから大学出
は駄目なんだ」と言った類の話はすべて帰国後に明らかになった話。周恩
来氏が田中さんに「天皇陛下によろしく」と言った話も。

かくて交渉は決着。毛沢東との会談はいつかと固唾を呑んで待ったがナ
シ。朝になって未明に会談(表敬訪問)があったこと、随員の随行は認め
られなかった事が明らかにされる始末。

発表された共同声明は内政不干渉が謳われたのに、あれから35年の日中関
係は中国による日本への徹底的な内政干渉の歴史であった、と言って過言
ではない。

また我々は食糧の面でも中国に絶対的に支配されている。産経新聞の北京
特派員福島香織さんが9月27の「北京春秋」で「安全な日本食は中製?」
と嘆くほど日本食は中国に支配されている。

<北京の高級百貨店の新光天地に日本食品・農産品店舗が先ごろオープン
した。農林水産省の委託を受けて双日が手がけたもので来年の3月までの
期間限定。日中国交正常化35周年キャンペーンの一環。

食の安全に揺れる中国・北京で富裕層を対象に「安全で美味しい日本食」
を浸透させようと言うのが狙いだ。

冷凍ケースに並ぶ「サケ切り身冷凍パック」を手にとって裏を見ると原材
料は煙台。有名日本ブランドのサラダオイルは上海の製造。日本ブランド
の味噌は米国産大豆を中国の工場で加工とある。日本食と言いながらほと
んどが中国製?

店舗関係者に「原材料・製造100%日本と言う食品が殆どない」と文句を言
うと「原材料、調味料、製造のいずれかに日本がかかわっていれば日本食
品です」ときた。

店舗に並ぶ約180食品のうち、100%日本産はミネラルウオーターと米とレト
ルト食品ぐらいしか見当たらなかった。それに日本の輸入レトルト食品の
具だって中国産は含まれているのではと気になりだしたが「日本の食品自
給率は40%ですから」と関係者は涼しい顔だった。

何だ、農水省推奨の安全で美味しい日本食は中国が作っているのか。それ
が現実なのだろうが、どうもすっきりしない。・・・>

要するに日本の援助で近代化を急ぐ中国は既に日本の胃袋を制圧したと言
う事である。その代わり日本から進出している工場が全部引き揚げれば中
国は窒息するが、それは残念ながら杞憂に過ぎない。2007・09・28

◆香港の強権支配を徹底しつつある中国

櫻井よしこ


「香港の強権支配を徹底しつつある中国 日本こそ脅威を認識しなければ
ならない」

6月9日、香港の街々を100万人を超える人々が埋めつくした。1997年に香
港が中国に返還されて以来、最大規模のデモだった。香港住民の約7分の1
が参加したデモの必死の訴えは、しかし、中国の習近平国家主席にも中国
共産党にも届かないだろう。

香港の人々が求めているのは「逃亡犯条例」改正案の撤回である。同改正
案は刑事事件の容疑者の身柄引き渡し手続きを簡略化し、中国やマカオ、
台湾にも引き渡せるようにするものだ。

現在、香港は同じような身柄引き渡し条約を米英などと結んでいるが、中
国とは嫌だと拒否するのは、中国が欧米諸国とは異なり、同条例を取り締
まりと弾圧に利用することを肌で感じているからである。

香港政府は、同条例は「政治犯には適用できない」「政府に対する異議の
封殺や言論の自由を制限する目的には使えない」内容だと強調する。

だが、香港政府の言葉を、自由を求める香港の人々はもはや信じない。そ
もそも、香港返還時に中国政府は一国二制度の下で香港の自治は50年間許
されると公約した。それが20年も経たずに実態として反古にされているか
らである。

ここで留意すべき点は、容疑者の身柄引き渡し先に中国本土とマカオに加
えて台湾が含まれている点だ。中国共産党政府は、台湾を中国の一部と位
置づけている。であれば、台湾への容疑者引き渡しは、中国への引き渡し
と同じになるわけだ。現在はそうではなくとも、間もなくそうなると中国
政府は踏んでいるのである。

それが来年1月11日の台湾総統選挙で、現在、中国と一体化している国民
党が優勢だ。国民党有力候補者は、高雄市長の韓国瑜氏と鴻海精密工業の
経営者、郭台銘(テリー・ゴウ)氏である。両氏共に中国と密接な関係に
ある。

他方、台湾人の政党、民進党では蔡英文現総統が再選を目指し、頼清徳氏
と競っているが、両氏のいずれも国民党に勝利するのは非常に難しい。

第3の候補が台北市長の柯文哲氏だ。柯氏は国民党に対して多少不利なが
らほぼ互角に渡り合える支持を持つ。だが確実に勝つには民進党が独自候
補を取り下げ、柯氏を支えるしかない。

果たしてそこまで台湾人がまとまり得るのかに私は注目しているが、中国
がメディア及び企業の支配を通じて台湾社会の分裂を画策してきただけ
に、台湾人の結束は中々難しいとも思う。台湾人が中国の脅威を共有でき
ず、まとまりきれない場合、国民党が政権を奪い返し、台湾は政権交代に
とどまらず、「祖国交代」の悲劇に見舞われることになるだろう。

国民党が勝利すれば、香港からの容疑者の台湾への引き渡しは間違いなく
中国本土への引き渡しとなる。

中国による台湾奪取の動きは尖閣諸島周辺の動きと連動している。尖閣諸
島の接続水域に中国の「軍艦」が2カ月以上連続で入っている。5000トン
級が2隻、3000トン級が2隻の計4隻で、少なくとも1隻は武装艦だ。領海侵
犯を繰り返す4隻は海警局に属するが、同局は昨年7月に中央軍事委員会傘
下の人民武装警察部隊に編入されたため、所属も実態も軍である。

台湾奪取には、中国は断固米国の介入を阻止しなければならない。その軍
事的備えの一環として尖閣諸島の支配が欠かせないために、前述のように
彼らは2カ月以上1日も欠かさず24時間、尖閣の海に張りついている。

折しも中国の空母「遼寧」が11日、高速戦闘支援艦、ミサイル駆逐艦など
五隻を従えて沖縄本島と宮古島間を通過した。台湾同様、尖閣諸島も沖縄
も危機なのだ。有無を言わさず香港の強権支配を徹底しつつある中国が台
湾、尖閣諸島に同様の手法を使わない保証はない。日本こそこの中国の脅
威を認識しなければならないだろう。

『週刊ダイヤモンド』 2019年6月22日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1284 

◆木津川だより 浄瑠璃寺A

白井 繁夫


大和と山城国の国境(京都府の最南端)の奈良山丘陵地の山間の地(当尾:とうのお)に、
「小田原山浄瑠璃寺」(木津川市加茂町西小)通称「九体寺」と呼ばれる寺院があります。この寺が「九体の国宝阿弥陀仏」を本尊として祀る、我国で唯一の寺院です。

この寺院へ行く道は、古来より東大寺の転害門(てがいもん)から般若寺を経て笠置街道を採る「般若坂越え」、つまり南から北方へのルートと北の京から南方へ木津川を遡行して加茂道の高田より丘陵を登って南の西小(にしお:西小田原)の集落へ行く道とがありました。(私は浄瑠璃口から南へ約2kmの登りの山道、浄瑠璃寺正門(北門)へ出る道を採りました)。

あまり車や人と出会わない山道を歩きやっと小さく開けた集落に着くと、無人のスタンドには農家の野菜や柿や芋があり、子供時代の遠い昔ののどかな雰囲気に浸っていた時、一時間に一本?のバスが到着し、行楽客?の一団の賑やかな会話となり、そのご一行様は三々五々静かに佇む寺院に吸い込まれて行きました。

「浄瑠璃寺」の創建は不明ですが、嘗ては西小田原寺とも云われ、天平11年(739)
聖武天皇の勅願により僧行基が開創したとか、また天元年中(978−983)多田満仲が開いたとも伝えられていますが、どちらも史料などによる正確な確証は得られていません。

浄瑠璃寺の創建、堂塔の建造.修理、法会(ほうえ)等や施行年などにつてのこの寺院の唯一の根本史料『浄瑠璃寺流記事』、観応元年(1350)寺僧長算(ちょうさん)が、当寺の釈迦院に蔵されていた本をもとに転写し、「釈迦院本の流記、貞和2年(1346)までと観応元年までを加筆、さらに末尾に15世紀の記事二つを長算が付け加えた史料(永承2年:1047〜文明7年:1475)」があります。

以後『流記事:るきのこと』と云う、を参照します。

「浄瑠璃寺」の創建は、永承2年(1047)7月18日義明(ぎみょう)上人を本願とし、
阿知山大夫重頼を檀那として本堂を造立しました。(一日で屋根を葺くと記しているから、最初は小さい本堂と推察されます。)

平安時代の後期になると、釈迦の入滅後、しだいに仏法が廃れ「永承7年(1052)末法の世に入る」と云う、「末法思想」が蔓延しました。この世を救いに来る薬師如来の信仰と現世を捨てて、極楽浄土に往生を遂げようとする「浄土信仰」も高まりを見せ、大和に近いこの山間に、興福寺の一部の僧達が、草庵を建て、修行に励み、教学にも精励しました。

60年後の嘉承2年(1107)正月11日、本仏(薬師如来像)などを西堂に移します。(本尊の移動は本堂を取り壊すため)。

「浄瑠璃寺」は、寺名となる薬師如来が最初の本仏です。一体の木造薬師如来像が当初からこの寺に伝わっており、薬師如来はこの仏の浄土である東方の瑠璃光(るりこう)浄土からの教主であり、この世の苦悩を救い、西方の極楽浄土の阿弥陀仏(来迎仏)へバトンタッチする遺送仏でもありました。

新本堂の建設には約1年半を費やし、翌3年6月23日総供養が導師迎接房経源(ごうしょうぼうきょうげん)、願主阿波公公深で執り行われました。

この時の九体の阿弥陀仏像が当寺院の本尊仏となりました。ただし、この新本堂(九体阿弥陀堂)は現在の場所ではなくて、九体阿弥陀堂と安置の国宝の仏像等はこれより50年後(保元2年1157)に現在の池の西岸に移築されました。

12世紀後半から13世紀にかけては浄瑠璃寺の寺勢が最も隆盛な時代でした。即ち、久安3年(1147)摂政藤原忠道の第1子の伊豆僧正恵信(えしん)の入寺から始まります。

興福寺一乗院門跡であった恵信は、興福寺別当職就任を覚晴に先に越されたのを不満に思い、この山中の小寺に入山して、当寺の延観上人の草庵に隠棲しました。

その後は恵信の力を持って、まず寺域の境界(四至:しいし)を定め、現在の伽藍の中心となっている苑池の原型を整え、浄瑠璃寺一山の守護とするべく、一乗院の法橋信実.寺主玄実父子の墓を寺内に築かせて、(後日)当寺は一乗院の御祈願所となり、興福寺末となりました。

恵信は、保元2年10月興福寺別当に補任されており、本堂を解体して現在の池の西岸に移築した年でもあります。現在見られる浄瑠璃寺の景観は恵信の時代、基本的に完成しました。

九体阿弥陀堂と浄土庭園の一体化を目指し、治承2年(1178)には京都の一条大宮から三重塔を移築して、公式どおりの東に薬師如来の三重塔、池を挟んで西に九体阿弥陀堂の浄土庭園を完成させ、堂宇や多数の仏像も造立されました。

これら一連の大事業は興福寺別当に就任した恵信が浄瑠璃寺に関りがあって尚且つ、摂関家の力を持ってはじめて可能にした大事業だったと思われます。

治承2年には鐘楼も建立され、翌年の11月には三重塔の完成供養を一印上人空心が法会の導師となって執り行われた。(空心上人は九条兼実:摂政関白.太政大臣.九条家の祖:に寺額を依頼できる実力者です)。現在の伽藍の中心である九体阿弥陀堂.苑池.三重塔がそろった輪奐の美が平安時代の末期にここに完成しました。

12世紀末の文治4年(1188)藤原氏の氏神「春日大明神」を請け鎮守とする。『春日大社文書』によると、当時山内には「凡(およそ)当山の住僧僅に80に及ぶ」とあり、80人の住侶を統制して行く組織が浄瑠璃寺では形成されていたと思われます。

鎌倉時代以降の浄瑠璃寺について、『流記事』より少し列挙してみます。

★ 建久5年(1194)〜元久2年(1205)舎利講と一品経(いっぽんきょう)購読を
一千日つづけた勤修を4度おこなう。
★ 建仁3年(1203)2月楼門.経蔵を上棟、貞慶を導師とし、千基塔供養を行う。
★ 建暦2年(1212)薬師如来像に帳を懸ける。吉祥天立像(重文)を本堂に祀る。
★ 仁治2年(1241)馬頭観音立像(重文)造立される。(体内墨書銘)
★ 永仁4年(1296)弁財天像を勧請す。
★ 応長元年(1311)護摩堂を建立。本尊不動明王、二童子像を安置す。
★ 観応元年(1350)9月『浄瑠璃寺流記事』長算によって書写される。

皇族や平安貴族が極楽浄土へ往生出来るように九体の阿弥陀仏を祀る、浄土信仰が隆盛な時期に藤原道長の法成寺(無量寿院)や、白河天皇の法勝寺阿弥陀堂など京都を中心に九体阿弥陀堂が約30建立されましたが、現在当時のまま現存している唯一の寺院がここの「浄瑠璃寺」だけになりました。

寺院の来歴説明が長くなり過ぎました。山内の国宝三重塔、国宝の九体阿弥陀堂.阿弥陀仏像の参拝は、次回にさせてもらいます。

参考資料:浄瑠璃寺と南山城の寺    日本の古寺美術 18    保育社
     加茂町史          古代.中世編         加茂町

2019年06月25日

◆昭和天皇 そのご動静と苦悩

加瀬 英明


私は先の大戦の最後の年の昭和20年の元日の夜明けから、対日占領が終
わった1年前にマッカーサー元帥が罷免され離日するまで、昭和天皇のご
動静を、『週刊新潮』に昭和49年5月から50週にわたって連載した。
  
天皇を囲んでいた皇族、政府・軍幹部、侍従、身のまわりをお世話する内
舎人(うどねり)、祭祀を介添えする掌典(しょうてん)、巫女の内掌典など
160人以上に、克明なインタビューを行ったものだった。

空襲が激しくなるなか、天皇が皇居でどのように過されていたのか、徹底
抗戦を叫ぶ軍と、現実との和戦の狭(はざ)間(ま)に立たれて、どのように
苦悩されたか、知られなかった真実があきらかにされたために、大きな反
響を呼んだ。

連載が始まると、海軍軍令部に勤務されていた高松宮殿下が、開戦翌年に
海軍がミッドウェー海戦で主力の機動艦隊を失った直後に、「兄宮」(天
皇)に宛てて、「この戦争に勝てない」と私信を届けられた秘話を伺って
書いたが、殿下がそれまで語られることがなかったので、大きな話題を呼
んだ。

昭和天皇は弟宮と会われても、その職責に無い者の意見を、取り上げられ
なかった。

昭和天皇は私たちとまったく違う時間の尺度を持っておられた。日本を
2000年以上にわたる物差しで、考えておられた。

昭和20年に戻ろう。天皇は軍がまだ勝利を収めることができると、信じら
れていた。

2月に近衛文麿公が拝謁して、「日本は戦争に敗れた。今降伏しないと共
産革命が起る」と上奏すると、「もう一度戦果を挙げたうえでないと難し
いと思う」と、仰言せられた。

天皇は幼少時から、乃木希典大将、東郷平八郎元帥らの薫陶を受けられ
て、軍を信頼されていた。梅津治美郎参謀総長が皇居内の防空舎に連日参
内して、フィリピンにおける戦況を地図をひろげて上奏すると、「それで
大丈夫か。兵站(へいたん)はどうなっておるか」と鋭く指摘されたが、命
令されることはなかった。

硫黄島が失陥し、4月に米軍が沖縄本島に上陸した6日後に、鈴木貫太郎
海軍大将に組閣を命じられた。鈴木は木戸幸一宮内相から陛下が「終戦を
考慮あそばしておられるように拝察する」ときかされた。

天皇皇后は御住まいを兼ねた防空舎の御文庫で、しばしば夜、侍従、侍従
武官、女官などを招かれて、かるたを楽しまれた。侍従武官が「夜ハ謡か
るたノ御相手ニ興ズ。賑ヤカニ遊バサル」と、日記に記している。

天皇は懊悩されていた。「あのあの」とか、「どうもどうも」とよく独り
言をいわれ、朝晩歯ブラシをくわえられたまま、注意申し上げるまで呆然
とされておられた。

5月に木戸と連合国の和平条件について相談され、「和平は早いほうがよ
い。だが、鈴木は講和の条件についてどうも弱い。軍の完全武装解除につ
いて、何とか3000人か5000人残せないか」と仰言られた。木戸が「5000人
残しても、有名無実です」とお答えした。

7月に入ると、天皇は伊勢神宮にある八咫鏡(やたのかがみ)と、熱田神宮
にある草薙剣(くさなぎのつるぎ)が米軍に奪われることを、憂慮された。
三種の神器のもう一つである勾瓊(まがたま)は、皇居にあった。天皇は木
戸に、「万一の場合は、自分がお守りして運命を共にするつもりだ」と、
いわれた。

昭和天皇は、いつ終戦を決意されたのだろうか? 

天皇は前年10月に靖国神社の例大祭に御幸されたのを最後に、東京空襲が
始まったので、皇居から出られなかったが、3月10日に東京大空襲によっ
て10万人が死亡したと推計されると、被災地を視察されたいといわれた。

軍は「一億玉砕」の本土決戦を決めていたから強く反対したが、3月18日
に皇居を出られて、1時間以内に往復できる深川の富岡八幡宮に御幸された。

天皇は神社の境内から四囲の焼け野原を見入られて、「こんなに焼けた
か‥‥」と絶句され、御料車へ促されるようにして戻られた。私は天皇がこ
の時に、終戦を決意されたにちがいないと確信した。だが、私の推測でし
かなかったので、そう書くことができなかった。

富岡八幡宮の大鳥居を潜ると、伊能忠敬の銅像がある。忠敬はここで成功
祈願を行ってから、全国測量の第一歩を踏み出した。

私は忠敬の玄孫(やしゃご)に当たるので、“江戸の三大祭”といわれた富岡
八幡宮の例大祭が江戸時代を通じて、8月15日であることを知っていた。
天皇が終戦を決意され、例大祭の日に大戦が終わったのは、御祭神の神威
によるものだったと考えたが、これもオカルトのようだったので書けな
かった。

天皇はこの後空襲を恐れて、終戦まで皇居の外にお出になられなかった。

8月に終戦を決定した御前会議が開かれ、天皇は「ほかに意見がないよう
だから、わたしの意見を述べる。わたしは国内の事情と世界の情勢を考え
合せたうえで、これ以上、戦争を続けるのは無理だと思う」と仰言せられ
て、御聖断を下された。天皇は白手袋の指先で、頬を伝わる涙をしきりに
拭われた。

天皇は阿南惟幾陸相が号泣しているのを見られて、「阿南、阿南! わた
しには国体を護る自信がある」と叫ばれた。

軍人は天皇と軍が一体だと、信じていた。「特攻隊の父」といわれた大西
滝治郎軍令部次長をはじめ、「天皇は先頭に立たれず、皇居で女官と遊ん
でおられる」と批判する高級軍人がいたが、天皇は日本の最高祭司であら
れて、武家の棟梁ではなかった。

貞明皇太后は御前会議の決定を知られると、かえって「皇室が明治維新の
前に戻るだけのことです」と、毅然としていわれた。

歴史によって蓄えられた天皇の大きな力なしに、昭和20年夏の未曽有の
危機に当たって、大戦を終えることができなかったろう。

(本書は3月に『昭和天皇の苦悩』『昭和天皇の苦闘』に分けて、勉誠出
版新書として復刻された。)


◆カルフール、中国市場から撤退準備か

宮崎 正弘


令和元年(2019)6月24日(月曜日)通巻第6115号   

カルフール、中国市場から撤退準備か。80%株式を蘇寧電器へ売却
   ドイツの「METRO AG」も中国店舗売却へ

 反日暴動のおり、四川省成都の大型スーパー「イトーYOKADO」が
襲撃された。それでも日本はスーパーマーケット、コンビニの中国進出を
やめず、全土に展開してきた。巨大な消費市場を当て込んでのことだった。

1995年に中国に進出し、全土に210店舗をチェーン化してきたフランスの
「カルフール(中国名「家樂福」、本社フランス)」は、中国最大小売り
チェーンの「蘇寧電器」(SUNING)に株式の80%を、48億ドルで売
却する。カルフールの中国における販売高は、2018年に285億元(邦貨換
算4800億円)に達していた。

さてカルフールの筆頭株主となる「蘇寧電器」は、その20%株主がアリババ。

アリババの筆頭株主が孫正義。アリババは香港の英字紙「サウスチャイナ
モーニングポスト」のオーナーでもある。

蘇寧電器チェーンと言えば、中国で知らない者はないほどに有名な存在
で、殆どの店舗の前面に並ぶのはファーウェイ、OPPO、小売(シャオ
メイ)などの携帯電話だ。

中国全土に8881店舗という巨大スーパーは家電の安売りから営業を開始し
た。それから日本のビッグカメラのように扱う品目を増やし、販売を電子
化したため、急速に売り上げを伸ばしてきた。さらに蘇寧電器は、経営危
機に陥って財産処分を急ぐ万建集団(WANDA)から百貨店チェーン
37店舗を買収したばかり。

産業分野を超えての企業合併、再編が進む中で、フランス系スーパーの事
実上の撤退、次はドイツの「METORO AG」ではないか、と言われる。

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書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIE 
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気候変動(=地球温暖化)は虚偽のキャンペーン、懸念するに及ばす
  温暖化が地球を滅ばすなどという悪質なアジに騙されるな

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マーク・モラノ 渡辺正訳『地球温暖化の不都合な真実』(日本評論社)
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 縄文時代の氷河期から温暖化への変遷について、本書を論する前に見て
おきたい。

縄文時代のピーク時、日本の人口は26萬と推定されている。DNA鑑定に
よって、従来の考古学では解き明かせなかった、さまざまな謎が明らかと
なり、縄文人は、オリジナルな日本人、つまり原日本人と考えられる。 

DNA鑑定によって日本人が、朝鮮人、中国人とY染色体がことなり、
まった人種的にも関係がないことも実証されるに至った。つまり従来の考
古学、古代史の解釈は吹き飛んだのだ。

人口学者の推計で最盛期26萬人の縄文人は飢餓が原因で2萬人にまで激
減したと推定されている。そして渡来した弥生人が稲作をもたらしたの
で、生き延びられた等と、これまでの歴史学では解釈されてきた。

この説も近年の縄文遺跡、弥生遺跡の発掘作業がすすみ、縄文後期すでに
稲作があったことが立証され、科学的に縄文弥生の区別がないことも実証
された。

縄文人が気象変動の波にさらされたのが直接の原因で人口激減になったと
いう説もこうなるとすこぶる怪しくなる。

氷河期の終わりにマンモスと追って、西シベリアから南下してきた縄文人
が温暖気象によって北海道、東北に「定住」したのは果実や魚介類が豊富
だったからだ。

三内丸山遺跡の発見によって、縄文中期には1500年もの長期にわたる定着
がみられ、また遺蹟から出土した縄文人の人骨に損傷がないことから戦争
がなく、平和に過ごしていたことも判明した。

クリや大豆の栽培が行われていたこと、翡翠や琥珀、そして黒曜石の出土
から、縄文時代すでに信州の黒曜石産地では鉱山が経営され、遠隔地への
運搬ルートがあったことも分かった。「縄文商人」がいたのだ。

気象条件の変化は緩やかに訪れた。漸次、北海道から縄文人は南下し、青
森、岩手、秋田に住み着くようになった。すでに1万6500年前の縄文土器
が青森で発見された。

縄文中期の土偶は、現代のピカソや、ルネッサンス期のダビンチに匹敵す
るような芸術作品であったことも、世界的な学者が認めた。

日本の考古学、古代史学は、この点で旧来の学閥と学説に囚われた視野狭
窄症に陥っており、縄文土器の芸術性をみとめない。そればかりか、彼ら
は古事記も日本書紀も読んでいないようである。
 
前置きが長くなった。本書のもつ重要な意義とは、科学的に立証された事
実を語っており、論壇における衝撃作と言って良い。

じつに論理的に、且つ丁寧に平明に、ゴア元副大統領らが訴える地球温暖
化の危機説を虚偽であると立証して見せる。アメリカのアマゾンでベスト
セラーとなったのも宜なるかな、だ。

シロクマの数が減ったとゴアや左翼メディアやハリウッドの有名俳優らが
主張した。ところがシロクマは増えていた。そのうえシロクマの体重も増
えていた。だからゴアたちは、シロクマを例に用いるとまずいことがわか
り、語らなくなった。

南極の氷が溶け始めたというのも嘘で、逆に南極の氷は増えていた。
 地球温暖化を煽動する人たちは、かれらにとって不都合な真実を伝えな
いか無視するという戦術を駆使する。左翼活動家が常用するプロパガンダ
なのだ。

気候変動による地球温暖化は虚偽のキャンペーンであり、心配することは
ない。「温暖化が地球を滅ばす」等という悪質なアジに騙されるな、と本
書は科学的データをそろえて執拗に反駁している。とくに干ばつ、洪水、
豪雨、山火事と温暖化を牽強付会につなぎ合わせる非科学的な作文も、科
学者たちの実証的データをならべて反論している。

そもそも豪邸に暮らし、ヨットを浮かべ、自家用ジェット機を疾駆させて
いる金持ちが、節約を説き、食糧配給制を訴えるのは偽善ではないか。
 CO2はむしろ『作物の増収を助け、地球を緑化をすすめて砂漠を減ら
す』(ウィリアム・ハパー。プリンストン大学名誉教授)。
 
「地球を救うという甘い言葉が、科学と経済と政治をどれだけ歪め腐敗さ
せたか。(中略)パリ協定やEPA規制に、季候や海水面を変える力は何
一つない」(マーク・レヴィン、作家)。

アイゼンハワー元米大統領は退任演説で次のように言った。

「雇用や資源予算配分を通じて政府が学術界に君臨する可能性には、くれ
ぐれも警戒したい」。

だがオバマ左翼政権はそれをやった。
 
トランプはパリ協定離脱、国内エネルギー産業の規制緩和もしくは撤廃と
いう鉄槌をふりおろし、オバマ前政権がおこなった愚策の数々をすべてひ
っくり返した。

こうした文脈から本書を読み解くと、真に地球温暖化議論の虚妄が呑み込
めるのである。

        
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読者の声 どくしゃのこえ READERS‘ OPINIONS 読者
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(読者の声1)香港のデモはすごかったですね。経済さえ自由なら政治に
は無関心だった香港人がこれほどまでに反発するとは。

漫画からアニメ化され現在も放映中の「進撃の巨人」では人間の住む都市
を大きな壁で巨人たちから守るはずだったのですが、ある日超大型巨人に
より壁を破られてしまい人間たちは逃げ惑い巨人に食い殺される。

いまの香港人の感情は中国という巨人に香港人が食い殺されるかもしれな
いという恐怖なのかもしれせん。

中国返還が決まった1990年代の香港、政治から市民の関心をそらすためな
のかエロに関しては日本以上に自由で、男性誌では挿入さえしなければ性
器描写はモザイク無し、B級お色気映画ではヘア解禁でした。そんな映画
にでてくる女性、体毛の薄い中国人と違って剛毛といっていいほど。エン
ドロールを見るとやはり日本のAV女優さんでした。

香港では風俗営業も盛んで夜総会から指圧店までさまざま。

フォトフォルダーの過去写真を見ていて思わぬ発見。2002年の香港指圧
店、鬼妹(ロシア人)680元(香港ドル)、巨乳大連妹350元、馬泰(マレー・
タイ)320元。巨乳や人妻といった言葉もAVとともに中国語に入り込んで
います。
 
1990年代は世界中どこでもソ連崩壊で出稼ぎに来たロシア女性がいました。

マカオではロシア美人に中国語で声をかけられ、ウルムチのホテルではロ
シア人から営業の電話がありました。

これが2016年には鬼妹880元、中国人280元となっている。ロシアは経済が
ある程度安定し出稼ぎ女性が減少したことによる希少価値で価格上昇、中
国は経済減速で供給過剰なのかもしれません。

風俗一つ見ても世界経済の裏側がわかる気がします。(PB生、千葉)


(宮崎正弘のコメント)香港の若者の意識変化は、80年代から90年代
は豪に移住してパスポート取得、もしくはカナダへの移住でした。バン
クーバーは香港からの移民で溢れかえり、ホンクーバーと呼ばれたほど。
 小生も1985年まで貿易会社を経営しておりましたので、香港での取
引先が多かった。彼らはシドニーか、カナダへ移住する計画をあっけらか
んと話していましたね。

当時の香港における取引先の人々、いま誰一人香港にはいません。
 
1997年の香港返還後、一段落すると外国へ逃げていた人々がぼちぼちと香
港に戻りはじめるという現象がありました。

同時に中国経済が急成長して隣の深センがたちまち香港を超える人口増と
なって、不動産が急騰し、その頃の若者にはグローバリズム、世界で稼ぐ
という意思が明確でした。

2010年代になると、政治への関心が深まり、雨傘革命へと至りますが、潜
在意識のなかに巨人に飲み込まれる恐怖、自由への果てしなき憧れがあっ
て、それが彼らを駆り立てていたと思われます。

 同時に絶望組は中国の強硬姿勢に恐れをなして、再びバンクーバーへ戻
りました。その数、過去1年間で8万人とも言います。

また別の機会に詳細を論じますが、フィリピン、マレーシア、ラオス、カ
ンボジアへの逆流的移住がめだったことはメディアも片隅でつたえていま
す。中国人が国を捨てているのです。

驚くべき現象が南太平洋において顕著でフィジー、パプアニューギニア、
バヌアツ、サモアなどで逆に中国人が流入しています。

とくにバヌアツでは3000萬円で、市民権が取れるシステムがあり、相当数
に中国人が取得していると現地で聞きました。

   ♪
(読者の声2)一時、評判となった『日本会議の研究』(扶桑社)です
が、取材もされずに噂だけで出鱈目を書かれたのは名誉棄損と訴えていた
裁判で、著者の菅野完氏が敗訴、110万円の賠償命令が出ました。
 
「ジャーナリスト」をなのる御仁の化けの皮が剥がれたと思います。
   (HG生、横浜)


(宮崎正弘のコメント)当該書籍、小生は読んでいないのです。又聞きや
ら噂だけで裏取りをしていないで。それでいて「ルポ」と称する落書きの
類いと関係者から訊いたことがある程度です。

なにしろ左翼メディアは、保守と躍進がおもしろくなくて仕方がないので
す。逆に言えば保守の学者、文化人から財界人、官僚OB、政治家まで広
範囲に集めた日本会議を、かれらは脅威と捉えたのでしょう。

  ♪
(読者の声3)消費増税正面突破なら、山本太郎で緊急避難を

炎上した年金不足2,000万円問題に対する野党の追及が竜頭蛇尾のように
なってきて、安心した安倍政権は噂されていた衆参同日W選を避け、参院
単独選挙に向かう風情が強くなってきた。

消費高齢化を止めない限りは、究極、年金などは「うっかり長生きしてし
まった場合の文字通りの保険」位に考えて置いた方がよいのかも知れぬ。
それはさて置き話を政局へ戻すと、この年金不足問題が炎上する前は、
10%への消費税増税の是非が選挙の最大争点とされていたが、今回の炎上
のお陰により、却って図らずも増税が焦点隠しされたような格好になって
おり、安倍政権は消費税増税を正面突破で強行すると見られる。

安倍政権は、消費税増税分の使用目的として、幼保無償化や大学無償化等
を挙げるが、そもそも前者については代わりに児童手当の幼年割り増しか
バウチャー制で、入園の有無や幼稚園保育園を選べるようにし競争原理を
働かせるべきだし、後者については大学のレベルを問わない仕組みのため
「バカ田大学」の学生も増える代物で、却って日本の競争力を落とすこと
に繋がる。

このように、増税したくて堪らない財務省と官邸が妥協して捻り出した人
気取りのための頓珍漢で取って付けたような理由での増税は愚の骨頂だ
し、米中覇権戦争の最中でのそれは景気への配慮を犯罪的に欠いており、
第一に社会の仕組みを変える事のない消費税増税は単なるソロバン勘定の
弥縫策で政策の順序が違う。(拙文:「消費税再増税でアベノミクスが、
バカノミクスになる日」
http://blog.livedoor.jp/ksato123/archives/54888520.html 参照)

◆れいわ山本の登場◆

ここに来て、参議院議員の山本太郎は「れいわ新選組」を立ち上げた。参
院選もしくは衆参W選に向け消費税廃止を目玉政策として掲げるようだ。
筆者は、山本のこれまでの左翼的言動や、それが色濃く反映した今回のそ
の他の政策には基本的に反対の立場ではある。

山本は「消費税廃止を唱えれば、他の野党も5%への消費税減税位までは
打ち出す所も出て来るかも知れず、それが狙いだ。」という旨をインタ
ビュー記事で答えているが、その意気やよし。

旧民主党の残党、特に立憲民主党の枝野幸男等は、「消費税凍結」を唱え
ているが、かつて民主党が政権奪取する際の選挙公約を180度ひっくり返
して、自ら10%への消費増税法案を提起し成立させているのだから、信用
しろという方に無理がある。

もし枝野の立憲民主党に5%への消費税減税を唱えさせれば、今後増税に
肯定的に態度に転じるには嘗ての2倍の?を吐かねばならず、一定の抑止力
にはなるだろう。

安倍首相は、5%から8%への増税後の景気低迷に懲りて本音では消費税増
税に反対だったとも見えるが、ここに来ての野党の余りの体たらくぶりに
慢心し、また森加計事件で財務省に借りでも出来たのか知らぬが、「やっ
ぱり今回は消費増税が必要だよなぁ」と思い始めているように見える。
であるならば、安倍首相には12年前の第一次安倍政権時の参院選大敗の悪
夢を味わって頂くしかあるまい。

政治も外交も相対的なものである。

大悪魔と中悪魔の2択しかない場合には、中悪魔を選択する事が正義とな
る。安倍政権が消費増税正面突破するなら、参院選もしくは衆参W選では
山本太郎で緊急避難をすべきだ。山本が核となり消費減税限定のオリーブ
の木が醸成され、消費税増税の悪魔に憑依された安倍政権を誅す。
筆者はそれを期待し応援したい。(佐藤鴻全)


(宮崎正弘のコメント)御高説、逆説か、さもなくば珍論として伺いました。