2019年08月31日

◆亡父の薫陶

加瀬 英明


私は幼いころから、父から「女と動物を苛めてはならない」と教えられ
て、育った。

もう一つ、小学校に進むようになってから、正座して『論語』の素読をさ
せられた。父が同じ歳のころに、祖父から強いられたことだった。

私が漢籍から引用できるようになったのと、女性と動物を大切にするよう
になったのは、この2つの躾によるもので、感謝している。

父は私が高校生のころから、馴染みの座敷に連れていってくれて、芸妓の
伽羅の香りや、絃歌の世界を知った。私は父の秘密を共有するようになっ
たから、父をいっそう好きになったし、母を大切にするようになった。

父は人が羨むほど夫婦仲がよかったし、犬と猫を可愛がった。母が逝って
からは、純白の雌のペルシア猫を溺愛した。

それでも、生物のなかで、ペットが存在するのは人間だけだが、なぜなの
だろうか。

動物はいつも本心だけで、嘘をつかない。そこで私たちの心が和み、癒さ
れるからだろう。

父がある時、愛犬の頭を撫でながら、「もし、人間に尻尾があったら、こ
の世から騙し合いがなくなることだろう」といった。私は人間は進化が遅
れているから、まだ尻尾がはえていないにちがいないと、思った。

植物も、嘘をつかない。だから森のなかを散歩すると、爽快になる。人は
自分を偽って生きなければならないから、疲れる。

女性に出会うとおだてるのは、父譲りである。女性のほうが男性よりも強
いから、諍わないほうがよい。

科学的にいって、女性と言い争ったら、男に勝ち目はない。女性の声の高
さは200から300ヘルツであるのに対して、男性は100から150
ヘルツしかない。100ヘルツは声帯が1秒間に、100回震動している
のをいう。

女性は男性よりエネルギーに溢れているから、際限なく喋ることができる
が、男性はすぐに畏縮してしまう。「君子危キニ近カヨラズ」と、中国の
聖賢が宣うているではないか。

男が女性に甘えるのは、弱いからだ。女性は男性より強いから、耐える。
男性は合理的だから、女性に負ける。女性はその証拠に占いを信じるが、
占いの語源は「うらづけがない」というものだ。

明治の日本を創った賢人の福沢諭吉先生が、「無力な道理は、有力な無道
理に勝てず」と諭しておられる。



◆雀庵の「呆け防止は読書から」

“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/19(2019/8/29)】国語の作文などでは「本との
出会い」といったテーマはよくあるだろう。

定番の「読書感想文」は大体が(1)筋の紹介、(2)それを通じて自身が
あれこれ考えたこと――肝腎のこれはあまり書かれてはいない、だから面白
くないと思う。先生は仕事だから生徒の作文を読まなければならない、ず
いぶんな苦痛ではないか。

ある専門学校の若者向け月刊誌を制作していた頃、若者が読んでおいた方
が良い本を紹介する記事、“古書探訪 おススメの一冊”を毎号書いた。そ
のひとつが「カラマーゾフの兄弟」(ドストエフスキー)で、小生は20歳
の時に独房で読み、涙を流したから、読者にとってもいいだろうと改めて
読んだが、ぜんぜん感動しない。

なぜだろうと長い間思っていたが、最近、書庫の古い本を読み直して思う
のは、作品と読者は恋と同じで、ある時、読者は、昔読んだけれどちっと
も感動しなかったし、筋も全く忘れていた作品を再読し、「ああ、なんて
素晴らしいのだろう」と心が揺れるのだ。

50年ぶりの同窓会で、昔は気にも留めていなかった女子に心をひかれるよ
うな感じ、「ああ、僕は君と友達になりたい!」なんて告って、デートに
駒を進めたような喜びみたい。

現実は気持ち悪がられたり、「修一クンに手を握られたのよ」なんてネタ
にされたり、家人にバレて“色呆けヂヂイ”なんてバカにされることになる
のだが・・・

本と読者の出会うタイミングはいつがベストなのか、それが分からない。
結局はあれこれ「乱読」して、好きな作家や作品の傾向が分かってくる。
料理と似ていて、とにかくあれこれ食べてみることで、自分の好みが分
かってくる。そんな感じ。

いい嫁さんに当たる確率は2割くらいか。あれこれ試食するわけにはいか
ず、何となく成り行きで所帯を持ったり。気に入らないからとお互いに書
庫に仕舞うこともできない。本は酒のごとくに長い間眠らしておくことが
でき、味見ができて「うーん、いい味だ」となる可能性はある。

ここまで書いて昼食。昼寝の友に太宰治「人間失格」をもってベッドで読
み始め、終わりのところでビックリした。

<いまはもう自分は、罪人どころではなく、狂人でした。いいえ、断じて
自分は狂ってなどいなかったのです。一瞬間といえども、狂った事は無い
んです。けれども、ああ、狂人は、たいてい自分の事をそう言うものだそ
うです。つまり、この病院にいれられた者は気違い、いれられなかった者
は、ノーマルという事になるようです。

神に問う。無抵抗は罪なりや?

堀木のあの不思議な美しい微笑に自分は泣き、判断も抵抗も忘れて自動車
に乗り、そうしてここに連れて来られて、狂人という事になりました。い
まに、ここから出ても、自分はやっぱり狂人、いや、廃人という刻印を額
に打たれる事でしょう。

人間、失格。

もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました>

文庫本の奥付を見ると1968年(44刷)とある。小生が18歳、大学1年の時
に読んだから実に50年振り。「うん、いい人は発狂するんだ」なんて思い
つつも、人間恐怖症の太宰(津島修二)は人間に生まれて来たのがそもそ
もの間違いだったのだ。

「面白い子、かわいい坊ちゃん、頭のいい青年、母性本能を掻き立てる弱
くて優しい男」を演じ続けないとイジメられるのではないかという強迫観
念にいつも恐れおののいていた。小さい頃から性的虐待を受けたことも
あって、道化を演じることで人間の攻撃から身を守り、特に理解不能なが
らも自分を受容する女への甘えや同情、悲しみ、迷いに戸惑う。

安住がどこにもない、あっても長続きしない、夢は儚く終わり、美の陰に
醜を見て、そして自暴自棄・・・

小生は太宰の作品で一番好きなのは「津軽」だが、太宰が物心つかない3
歳から6歳まで病弱な母親に代わって乳母として愛情をかけて育ててくれ
たタケを30年ぶりに津軽半島に訪ねる最後は泣ける。

せめて小学校を卒業するまで母親の愛情を得ていたら、生まれついての
「繊細過ぎる」感受性も穏やかになっていたかもしれない。過ぎたるは及
ばざるがごとし。

争いを恐れるために無抵抗になり、道化になり、疲れ果てて、やがて心
中。自殺未遂のゴッホが弟と最期に交わした言葉の一つは「このまま死ん
でゆけたらいいのだが」だったという。

小生のようなキチ〇イはキチ〇イの悲しさ、恐れ、狂気を知っており、再
発狂をとても恐れる。太宰もゴッホも「ようやく死ねた」とほっとしたの
ではないか。その気持ちがよく分かるアナタ、そうアナタです、危ないで
す、ホントに、発狂する前に受診しなさいよ。

うっぷん晴らしに無差別殺人で逝くなんて、最低、邪道、キチ〇イ道にも
とる恥です。迷惑をかけずに一人ひっそりと逝く、人間失格の太宰は遺族
に10億円の遺産(著作権料)を残し、ゴッホは天文学的な値のつく作品、
感動を世界に遺しました。せめて最後は美しく逝く、それが発狂道です。

「指切りゲンマン、嘘ついたら、針千本飲ーます、指切った!」、さあ、
小指を出しなさい、さあ、さあっ・・・オノレ、わいを舐めとるんかい、
そんならこうしてくれるわ、無理心中や、どや、どや、早よ逝かんかい、
クズヤロウ!

さて、こんな風に、運命的に、本と出会う、再会する、感動する、脳ミソ
が活性化される。ホントの出会い。読書の醍醐味だ。脳溢血とか病気では
如何ともし難いが、読書で脳ミソは元気で、痴呆症とかにはならないので
はないかと思うのだが・・・

発狂亭“人生はっけよい”雀庵の病棟日記から。「はっきょうテロ」はダメよ。

【措置入院 精神病棟の日々(135)2017/1/9】成人の日【産経】「漱石
曰く『あらゆる冒険は酒に始まる』、新成人の皆さん、冒険の資格が本当
にあるのか、祝杯の前に自分に問いかけてみたらいかがだろう」、石部金
吉みたいな説教・・・

小生は大学1年の1969年から部活の合宿などでたまに飲んでいた。今は高
校生あたりから飲むのか。

小生の人生は7勝7敗1分だったが、今回は酒でしくじったので6勝9敗の負
け越しの気分。しかし、こと酒については、現役時代は月水金は接待など
で飲みまくり、お客さんから声がかかればカネをもって嵐の中でも飛んで
いった。この本場所では11勝4敗か12勝3敗あたりか。

主張「成人の日 周りを思いやれる大人に」・・・「家族ら周りの人々の
支えに甘えてきた子供の頃とは違って、有縁無縁の力に感謝し、これから
は周りを支える立場になるのだと決意を新たにすることである」。

66歳を目前に「再成人」を誓い、実行できるのか・・・「ガンバレ、
俺!」って、どうも小生はそんなタマではなさそうで・・・困ったな。
(つづく)2019/8/29


◆8・15文演説、反日の嘘と歪曲

櫻井よしこ


日韓関係は戦後最悪だ。有体に言って責任は文在寅大統領とその政権にあ
る。この状況を直視して、日本政府は関係正常化の好機ともすべく、冷静
で毅然とした現在の政策を堅持するのがよい。

文氏の日韓関係についての考えは、8月15日の氏の演説が雄弁に語ってい
る。演説に込められていたのは深く頑迷な反日思想である。いまはまず、
文氏の本心を正しく読み取ることが重要だ。

文氏は「光復節慶祝式」の祝辞の冒頭、南北朝鮮の協力で繁栄する「誰も
揺さぶることのできない新たな国」を創ると語った。文氏の語った夢は、
北朝鮮側からも侮蔑的に拒否されたように、実現性に欠けている。元駐日
韓国大使館公使の洪熒(ホンヒョン)氏は「文氏は妄想家だ」と批判を浴
びせた(「言論テレビ」8月16日)。

文氏は日本の敗退でもたらされた「光復」は韓国だけでなく東アジア全体
にとって嬉しいことだったとして、こう説明した。

「日清戦争と日露戦争、満州事変と日中戦争、太平洋戦争まで六十余年間
の長い長い戦争が終わった日であり、東アジア光復の日でした」

文氏の歴史観では、「長い長い戦争」とは、日清戦争以降、大東亜戦争で
日本が敗れるまでの60年間に限られるのだ。その5年後に始まった朝鮮戦
争も、韓国が望んで参戦したベトナム戦争も入っていない。

朝鮮戦争は韓国人と朝鮮人、同胞同士が血みどろになって戦った大悲劇
だった。北朝鮮の共産主義勢力による侵略戦争で、未だに分断が続いてい
る。さらにそのあとのベトナム戦争では、韓国は共産主義と戦うという大
義を掲げたが、ベトナム国民に多くの被害をもたらした。そうしたことに
全く触れず、日本の戦争のみを取り上げ、それが終わったから平和がもた
らされたという歴史観は、偏りと反日の、為にするものだ。

日本だけに焦点を合わせる文氏の歴史観の不幸で不勉強な歪みは、朝鮮半
島の歴史を振りかえることで炙り出せる。古代には漢の武帝が盛んに朝鮮
半島を侵略した。隋は毎年のように兵を出した。唐は新羅を先兵として高
句麗に攻め込み、滅した。新羅の次の高麗は契丹や女真に侵略され続け
た。元は200回にも及ぶ侵略を繰り返し、朝鮮全土を蹂躙した。

究極の事実歪曲

確かに秀吉も文禄・慶長の役で2度にわたって攻めた。だが、その約40年
後、今度は清が侵略した。明、清の時代を通して約500年間、日清戦争で
日本が清を打ち破るまで、朝鮮は属国だった。

多くの戦いの舞台となった朝鮮半島はその意味では悲劇の国だ。しかし文
氏は、日本以外の国々がもたらした被害には言及しない。ひたすら日本を
非難する。まさに心の底からの反日演説が8月15日の演説だった。にも拘
らず、日本の多くのメディアはなぜ、文演説の日本批判は抑制的だったと
評価したのか、理解に苦しむものだ。

文氏は「誰も揺さぶることのできない国」作りに向けて三つの目標を掲げ
たが、その中に「大陸と海洋の橋梁国家」さらに「平和経済の実現」がある。

文氏の本音はここにあるのではないか。ちなみに平和経済は8月5日に文氏
が打ち上げた目標である。日本政府が韓国を「ホワイト国」のリストから
外したのに対し、南北朝鮮が協力して平和経済を実現すれば一気に日本に
追いつける、南北は一体化に向かって突き進みたいという願望である。

しかし、1948年の建国以来、韓国の発展と繁栄は、米韓同盟と日韓協力が
あって初めて可能だった。

朝鮮問題専門家の西岡力氏が語る。

「韓国は海洋国家として日米との三角同盟の中で民主主義、市場経済、反
共により発展してきました。大陸国家とは中国共産党、ロシアの独裁政
権、北朝鮮の世襲独裁政権のことです。文氏はこの二つのブロックの間を
行き来したいという。即ち、日米韓の三角同盟から抜けると宣言したわけ
です」

文政権誕生以来、日を追って明らかになってきたのが文氏の社会主義革命
とでも呼ぶべき路線である。文政権は信頼できないとの分析は、不幸に
も、いまやかなり説得力を持ち始めているが、今回の演説で文氏の本音は
さらに明らかになったのではないか。日本に重大な危機が訪れたことを告
げる深刻な演説だったのだ。

さらに、文演説を貫いているのが厚顔無恥というべき究極の事実歪曲であ
る。氏は次の点を語っている。

➀どの国でも自国が優位にある部門を武器にするならば、平和な自由貿易
秩序は壊れるしかない。

➁先に成長した国が後から成長する国のハシゴを外してはならない。

➂今からでも日本が対話と協力の道に出てくるのならば韓国は快く手を握る。

反文在寅デモ

日本が韓国をホワイト国から外したのは、日本が韓国に輸出してきた大量
破壊兵器などに使用可能な戦略物資が大量に行方不明になっている件につ
いて、韓国側の説明がこの3年以上、ないからである。従って➀は責任転嫁
である。

➁も同様だ。日本は韓国に対してハシゴを外したりしていない。反対に大
事な技術を与え続けた。韓国の浦項製鉄は韓国経済を支える力となってい
るが、その技術は新日鉄が全面的に協力して伝授したものだ。

西岡氏によれば、庶民の食を豊かにする韓国の即席ラーメンの技術も、日
本に輸出しないという条件で日本がタダで提供したという。

鉄からラーメンまで日本は技術を提供しこそすれ、ハシゴを外してはいない。

➂は、どちら様の台詞かと逆に質したくなる。2年以上「対話と協力」を拒
否してきたのは、日本でなく文氏である。

文演説は反日のための虚偽と歪曲に満ちている。文氏相手では、まともな
議論も日韓関係の正常な運営も難しいだろう。

戦後最悪といわれるこのような状況の下で、日韓関係も米朝関係も危機に
直面し、日韓の国益が損なわれ、韓国の運命が危機に瀕している。こうし
た状況を生み出したのが文氏だということに、多くの韓国人が気付き始め
た。気付いて行動を起こし始めた。ソウルをはじめ、地方都市でも、文氏
の辞任を求めるデモが広がっている。韓国の主要メディアは報じないが、
その様子はSNSで広く拡散され、多くの映像から反文在寅デモは、文氏
の側に立った反日デモより数倍規模が大きいことが読みとれる。

韓国の国論は二分され、韓国人は戦っている。勢いを得ているのは反文在
寅勢力の方だ。日本人は、隣国のその実態を知ったうえで、これ以上文政
権に騙されないことが肝要だ。文氏の真の意図をいまこそ冷静に見てとる
ことだ。

『週刊新潮』 2019年8月29日 日本ルネッサンス 第865回



◆「紫蘇濃縮ジュース」を作ろう

毛馬 一三

 
          
ジュースとは、本来「果汁」を指すものだが、今ではコーラなどの炭酸飲料なども含めた甘いソフトドリンクまでも「ジュース」と称している。デパートやスーパーに出掛けると、山ほど陳列されたこの種のジュースが目に付くが、果たして健康にいいかどうか考えると買い求めるのに躊躇してしまう。

そうした折、体にいいから是非と知人に勧められた「紫蘇(しそ)濃縮ジュース」を作ってみたところ、なんとまあ、風味・舌触りなど美味さ抜群、すっかり嵌ってしまった。

<紫蘇(しそ、学名Perilla frutescens)は、シソ科のシソ属の植物。中国原産。

紫蘇には、こんな由来がある。中国の後漢末、洛陽の若者が蟹を食べすぎて食中毒を起こし死にかけたが、名医・華陀が薬草を煎じ、「紫の薬」を作り、同薬を用いたところ、若者はたちまち健康を取り戻した。「紫」の「蘇る」薬だというので、この薬草を「紫蘇」というようになった>。

品種は以下の2種類がある。「青紫蘇」と「赤紫蘇」である。

<i)青紫蘇は、葉や花を香味野菜として刺身のつまや天ぷらなどにする。青紫蘇の葉は野菜としては「大葉(おおば)」とも呼ばれる。
i)赤紫蘇は、梅干しなどの色づけに使用。また葉を乾燥させたものは香辛料として(特に京都で)味唐辛子に配合され、ふりかけなどにも用いられる>。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

ところで自家製の「紫蘇(しそ)濃縮ジュース」には、「赤紫蘇」を使う。作り方は幾通りもあるが、知人から教えてもらった作り方が過去味わった紫蘇ジュースの中で最高だったので、その作り方をご紹介したい。

<作り方>
(1)紫蘇(350g)を水できれいに洗い、水気をよく切って鍋に入れる。
(2)鍋に水(450cc)を入れ、その中に砂糖(600g)とクエン酸(20g)を加える。
(3)紫蘇を満遍なく混ぜて、鍋をガスの中火で煮出す。
(4)10分ほど沸騰させ、紫蘇の中から泡が出したら火を止める。
(5)鍋で煮だった紫蘇を別のボールに、ザルで濾す。
(6)絞り紫蘇液が自然に冷めたら、その中に「ゆず酢」を大匙2杯弱入れる。これがこの濃縮ジュースの「隠し味」。
(7)真っ赤な紫蘇濃縮ジュースが出来上がったら、氷を入れたコップに濃縮ジュースを好みに応じて注ぎ、水や炭酸水などで4倍に薄めて飲む。

これだけの作り方で、900ccの「紫蘇濃縮ジュース」が出来上がる。冷蔵庫で保存すれば、半年の賞味期限があると知人は教えてくれた。

この「紫蘇ジュース」は、紫蘇の栄養であるビタミン類、ミネラル類が含まれているので薬用効果があり、アレルギー体質、生活習慣病、食中毒予防等に効果があるという。

手前勝手な風味・美味しさ抜群の「紫蘇濃縮ジュース」の作り方を紹介させて頂いたが、このジュースが他の作り方と違う点は、隠し味の「ゆず酢」。興味を感じられたら、いま出荷盛りの赤紫蘇を求めて作ってみられては如何。                    (了 再掲)   

2019年08月30日

◆蕪村生誕地を証明した「一通の書簡」

毛馬 一三


松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ江戸時代の俳人与謝蕪村の生誕地が、大阪毛馬村(大阪市都島区毛馬町)だということは、江戸時代当時から知れ渡っていると思っていた。

仮にそうでなくとも、明治時代になって、蕪村俳句を初めて評価し世に紹介した正岡子規が、毛馬生誕地は把握し、世に広めていたに違いないと思っていたからだ。

ところが、事実は全くそうではないことが明らかになり、驚かされた。

それの事を知らされたのは、、蕪村研究第一人者の関西大学文学部の藤田真一教授と、懇談した時であった。

結論から先にいうと、蕪村生誕地が大阪毛馬であることが「定説」になったのは、実は終戦直後のことだということだった。奈良県でこれに纏わる「蕪村直筆の書簡」が見つかったのが、キッカケだったというのである。

藤田教授の話によると、次のようなことだった。

(蕪村は、自分の生誕地のことは、俳人・画人として活躍していた江戸・京都でも、何故か余り触れたがらず、主宰の「夜半亭」の弟子たちにも語ったという明確な「記録」は残されていないという。このため、蕪村の生誕地を確知していた者は、いなかったのではないかというのだ。

ところが蕪村は、安永六年(1491)に発刊した冊子「夜半楽」(二十頁ほど)の冒頭に、「春風馬堤曲」を書き、毛馬村側の淀川の馬堤に触れ、十八首の俳句を添えている。が、残念なことにその舞台となる馬堤近くが自分の「生誕地」だとは一切触れていない。

想像してもこの書き方では、「生誕地を毛馬村」と結びつけることは出来ない。

しかし、その後願ってもないことが起きていた。

蕪村は、この「夜半楽」冊子を贈呈した大阪在住弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」の中で、自分の生誕地が毛馬村だと、下記のようにはっきりと綴っている。

春風馬堤曲―馬堤は毛馬塘(けまのつつみ)也。即、余が故園(注釈・ふるさと)也。余幼童之(の)時、春色清和の日ニは、必(かならず)ともどちと此(この)堤上ニのぼりて遊び候。水ニハ上下の船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ」。

それなら、これが物証となって、江戸時代から毛馬村が生誕地だと定説になっても良かったのだろうが、そうならなかったのには理由がある。

というのは、江戸時代の発刊諸本には複製本が多く、勝手に削除・加筆されることが多々あった。このため「夜半楽」の弟子への添え状ですら、複製なのか、それとも蕪村直筆のものか判定出来ず、結局「蕪村生誕地複数説」を加速させる結果を招き、生誕地説は宙に浮いたままの状態だった。

しかし、前記の如く、奈良県で終戦直後偶然見つかった弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」が、「蕪村直筆」だと、公式に「認定」されたため、「毛馬生誕地」説が確定した。終戦直後の認定だから、遅きに失したと言わざるを得ないが、これは「蕪村生誕地複数説」を破棄し、毛馬村を生誕地とする歴史的且つ画期的「決め手」となったことになる。

しかも「春風馬堤曲」冒頭の記述の淀川風景の描写や添付十八首と、柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きへの想いを結びつけて考えると、「毛馬村への切ない郷愁」を浮き彫りとなる。

以後、生誕地が毛馬村であることを不動のものになったことになる。この経過を考えると、蕪村生誕地を定めた一通の「蕪村直筆書簡」の存在は、実に大きかった。

これが「認定」されていなかったら、蕪村が大阪俳人として登場することも無かったことになるだろう。)

こうして、蕪村が大阪生誕の俳人と称されるようになってから七十余年しか経たない。そのため蕪村は、芭蕉や一茶とは異なり、江戸時代以来、生誕地大阪で「蕪村生誕顕彰」が疎かにされてきたことに繋がってきており、誠に慙愧に絶えない。

このために、今ですら地元大阪で「蕪村生誕地が毛馬村」であることを知らない市民が多い。次世代を担う児童生徒の学習にすら上がっていないことを考えると、児童生徒が生誕地のことを知らないことも当然のことだろう。残念で仕方がない。


余談ながら藤田教授との懇談の中で、更に驚いたことがあったことを記して置きたい。
「蕪村は淀川を下って源八橋から船を降りて浪速の弟子のもとに往き来きしていたようですが、それほど郷愁があったのなら、極く近郊にあった毛馬村の生家に立ち寄るのが自然だと思うのです。その痕跡はありませんか」

答えは「それを証明する歴史書類はありません。立ち寄ったか否かどうかも、わかりませんね」ということだった。

となれば、生誕地への郷愁は人一倍あったとしても、生誕地へ何らかの理由で寄りたくない気持ちがあったのだろうという推察が浮上してくる。

恐らく奉公人だった母と実家の父が亡くなってから、家人たちによる極めつけの「いじめ」があり、そのために十七・八歳で家を出ざるを得なかったのではないか。そのことが「生家には生涯立ち寄らなかったこと」に結びついているのではないだろうか。

これはあくまで私の推論である。
(了)

2019年08月29日

◆雀庵の「呆け防止は読書から」

“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/19(2019/8/29)】国語の作文などでは「本との
出会い」といったテーマはよくあるだろう。

定番の「読書感想文」は大体が(1)筋の紹介、(2)それを通じて自身が
あれこれ考えたこと――肝心のこれはあまり書かれてはいない、だから面白
くないと思う。先生は仕事だから生徒の作文を読まなければならない、ず
いぶんな苦痛ではないか。

ある専門学校の若者向け月刊誌を制作していた頃、若者が読んでおいた
方が良い本を紹介する記事、“古書探訪 おススメの一冊”を毎号書いた。
そのひとつが「カラマーゾフの兄弟」(ドストエフスキー)で、小生は二
十歳の時に独房で読み、涙を流したから、読者にとってもいいだろうと改
めて読んだが、ぜんぜん感動しない。

なぜだろうと長い間思っていたが、最近、書庫の古い本を読み直して思
うのは、作品と読者は恋と同じで、ある時、読者は、昔読んだけれどちっ
とも感動しなかったし、筋も全く忘れていた作品を再読し、「ああ、なん
て素晴らしいのだろう」と心が揺れるのだ。

50年ぶりの同窓会で、昔は気にも留めていなかった女子に心をひかれる
ような感じ、「ああ、僕は君と友達になりたい!」なんて告って、デート
に駒を進めたような喜びみたい。

現実は気持ち悪がられたり、「修一クンに手を握られたのよ」なんてネタ
にされたり、家人にバレて“色呆けヂヂイ”なんてバカにされることになる
のだが・・・

本と読者の出会うタイミングはいつがベストなのか、それが分からな
い。結局はあれこれ「乱読」して、好きな作家や作品の傾向が分かってく
る。料理と似ていて、とにかくあれこれ食べてみることで、自分の好みが
分かってくる。そんな感じ。

いい嫁さんに当たる確率は2割くらいか。あれこれ試食するわけにはいか
ず、何となく成り行きで所帯を持ったり。気に入らないからとお互いに書
庫に仕舞うこともできない。本は酒のごとくに長い間眠らしておくことが
でき、味見ができて「うーん、いい味だ」となる可能性はある。

ここまで書いて昼食。昼寝の友に太宰治「人間失格」をもってベッドで読
み始め、終わりのところでビックリした。

<いまはもう自分は、罪人どころではなく、狂人でした。いいえ、断じ
て自分は狂ってなどいなかったのです。一瞬間といえども、狂った事は無
いんです。けれども、ああ、狂人は、たいてい自分の事をそう言うものだ
そうです。つまり、この病院にいれられた者は気違い、いれられなかった
者は、ノーマルという事になるようです。

神に問う。無抵抗は罪なりや?

堀木のあの不思議な美しい微笑に自分は泣き、判断も抵抗も忘れて自動車
に乗り、そうしてここに連れて来られて、狂人という事になりました。い
まに、ここから出ても、自分はやっぱり狂人、いや、廃人という刻印を額
に打たれる事でしょう。

人間、失格。

もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました>

文庫本の奥付を見ると1968年(44刷)とある。小生が18歳、大学1年の 時
に読んだから実に50年振り。「うん、いい人は発狂するんだ」なんて思
いつつも、人間恐怖症の太宰(津島修二)は人間に生まれて来たのがそも
そもの間違いだったのだ。

「面白い子、かわいい坊ちゃん、頭のいい青年、母性本能を掻き立てる
弱くて優しい男」を演じ続けないとイジメられるのではないかという強迫
観念にいつも恐れおののいていた。小さい頃から性的虐待を受けたことも
あって、道化を演じることで人間の攻撃から身を守り、特に理解不能なが
らも自分を受容する女への甘えや同情、悲しみ、迷いに戸惑う。

安住がどこにもない、あっても長続きしない、夢は儚く終わり、美の陰
に醜を見て、そして自暴自棄・・・

小生は太宰の作品で一番好きなのは「津軽」だが、太宰が物心つかない 3
歳から6歳まで病弱な母親に代わって乳母として愛情をかけて育ててくれ
たタケを30年ぶりに津軽半島に訪ねる最後は泣ける。

せめて小学校を卒業するまで母親の愛情を得ていたら、生まれついての
「繊細過ぎる」感受性も穏やかになっていたかもしれない。過ぎたるは及
ばざるがごとし。

争いを恐れるために無抵抗になり、道化になり、疲れ果てて、やがて心
中。自殺未遂のゴッホが弟と最期に交わした言葉の一つは「このまま死ん
でゆけたらいいのだが」だったという。

小生のようなキチ〇イはキチ〇イの悲しさ、恐れ、狂気を知っており、
再発狂をとても恐れる。太宰もゴッホも「ようやく死ねた」とほっとした
のではないか。その気持ちがよく分かるアナタ、そうアナタです、危ない
です、ホントに、発狂する前に受診しなさいよ。

うっぷん晴らしに無差別殺人で逝くなんて、最低、邪道、キチ〇イ道にも
とる恥です。迷惑をかけずに一人ひっそりと逝く、人間失格の太宰は遺族
に10億円の遺産(著作権料)を残し、ゴッホは天文学的な値のつく作品、
感動を世界に遺しました。せめて最後は美しく逝く、それが発狂道です。

「指切りゲンマン、嘘ついたら、針千本飲ーます、指切った!」、さあ、
小指を出しなさい、さあ、さあっ・・・オノレ、わいを舐めとるんかい、
そんならこうしてくれるわ、無理心中や、どや、どや、早よ逝かんかい、
クズヤロウ!

さて、こんな風に、運命的に、本と出会う、再会する、感動する、脳ミソ
が活性化される。ホントの出会い。読書の醍醐味だ。脳溢血とか病気では
如何ともし難いが、読書で脳ミソは元気で、痴呆症とかにはならないので
はないかと思うのだが・・・

発狂亭“人生はっけよい”雀庵の病棟日記から。「はっきょうテロ」はダ
メよ。

【措置入院 精神病棟の日々(135)2017/1/9】成人の日【産経】「漱 石
曰く『あらゆる冒険は酒に始まる』、新成人の皆さん、冒険の資格が本
当にあるのか、祝杯の前に自分に問いかけてみたらいかがだろう」、石部
金吉みたいな説教・・・

小生は大学1年の1969年から部活の合宿などでたまに飲んでいた。今は高
校生あたりから飲むのか。

小生の人生は7勝7敗1分だったが、今回は酒でしくじったので6勝9敗の 負
け越しの気分。しかし、こと酒については、現役時代は月水金は接待な
どで飲みまくり、お客さんから声がかかればカネをもって嵐の中でも飛ん
でいった。この本場所では11勝4敗か12勝3敗あたりか。

主張「成人の日 周りを思いやれる大人に」・・・「家族ら周りの人々
の支えに甘えてきた子供の頃とは違って、有縁無縁の力に感謝し、これか
らは周りを支える立場になるのだと決意を新たにすることである」。

66歳を目前に「再成人」を誓い、実行できるのか・・・「ガンバレ、
俺!」って、どうも小生はそんなタマではなさそうで・・・困ったな。
(つづく)2019/8/29



  

◆8・15文演説、反日の嘘と歪曲

櫻井よしこ


日韓関係は戦後最悪だ。有体に言って責任は文在寅大統領とその政権にあ
る。この状況を直視して、日本政府は関係正常化の好機ともすべく、冷静
で毅然とした現在の政策を堅持するのがよい。

文氏の日韓関係についての考えは、8月15日の氏の演説が雄弁に語ってい
る。演説に込められていたのは深く頑迷な反日思想である。いまはまず、
文氏の本心を正しく読み取ることが重要だ。

文氏は「光復節慶祝式」の祝辞の冒頭、南北朝鮮の協力で繁栄する「誰も
揺さぶることのできない新たな国」を創ると語った。文氏の語った夢は、
北朝鮮側からも侮蔑的に拒否されたように、実現性に欠けている。元駐日
韓国大使館公使の洪熒(ホンヒョン)氏は「文氏は妄想家だ」と批判を浴
びせた(「言論テレビ」8月16日)。

文氏は日本の敗退でもたらされた「光復」は韓国だけでなく東アジア全体
にとって嬉しいことだったとして、こう説明した。

「日清戦争と日露戦争、満州事変と日中戦争、太平洋戦争まで六十余年間
の長い長い戦争が終わった日であり、東アジア光復の日でした」

文氏の歴史観では、「長い長い戦争」とは、日清戦争以降、大東亜戦争で
日本が敗れるまでの60年間に限られるのだ。その5年後に始まった朝鮮戦
争も、韓国が望んで参戦したベトナム戦争も入っていない。

朝鮮戦争は韓国人と朝鮮人、同胞同士が血みどろになって戦った大悲劇
だった。北朝鮮の共産主義勢力による侵略戦争で、未だに分断が続いてい
る。さらにそのあとのベトナム戦争では、韓国は共産主義と戦うという大
義を掲げたが、ベトナム国民に多くの被害をもたらした。そうしたことに
全く触れず、日本の戦争のみを取り上げ、それが終わったから平和がもた
らされたという歴史観は、偏りと反日の、為にするものだ。

日本だけに焦点を合わせる文氏の歴史観の不幸で不勉強な歪みは、朝鮮半
島の歴史を振りかえることで炙り出せる。古代には漢の武帝が盛んに朝鮮
半島を侵略した。隋は毎年のように兵を出した。唐は新羅を先兵として高
句麗に攻め込み、滅した。新羅の次の高麗は契丹や女真に侵略され続け
た。元は200回にも及ぶ侵略を繰り返し、朝鮮全土を蹂躙した。

究極の事実歪曲

確かに秀吉も文禄・慶長の役で2度にわたって攻めた。だが、その約40年
後、今度は清が侵略した。明、清の時代を通して約500年間、日清戦争で
日本が清を打ち破るまで、朝鮮は属国だった。

多くの戦いの舞台となった朝鮮半島はその意味では悲劇の国だ。しかし文
氏は、日本以外の国々がもたらした被害には言及しない。ひたすら日本を
非難する。まさに心の底からの反日演説が8月15日の演説だった。にも拘
らず、日本の多くのメディアはなぜ、文演説の日本批判は抑制的だったと
評価したのか、理解に苦しむものだ。

文氏は「誰も揺さぶることのできない国」作りに向けて三つの目標を掲げ
たが、その中に「大陸と海洋の橋梁国家」さらに「平和経済の実現」がある。

文氏の本音はここにあるのではないか。ちなみに平和経済は8月5日に文氏
が打ち上げた目標である。日本政府が韓国を「ホワイト国」のリストから
外したのに対し、南北朝鮮が協力して平和経済を実現すれば一気に日本に
追いつける、南北は一体化に向かって突き進みたいという願望である。

しかし、1948年の建国以来、韓国の発展と繁栄は、米韓同盟と日韓協力が
あって初めて可能だった。

朝鮮問題専門家の西岡力氏が語る。

「韓国は海洋国家として日米との三角同盟の中で民主主義、市場経済、反
共により発展してきました。大陸国家とは中国共産党、ロシアの独裁政
権、北朝鮮の世襲独裁政権のことです。文氏はこの二つのブロックの間を
行き来したいという。即ち、日米韓の三角同盟から抜けると宣言したわけ
です」

文政権誕生以来、日を追って明らかになってきたのが文氏の社会主義革命
とでも呼ぶべき路線である。文政権は信頼できないとの分析は、不幸に
も、いまやかなり説得力を持ち始めているが、今回の演説で文氏の本音は
さらに明らかになったのではないか。日本に重大な危機が訪れたことを告
げる深刻な演説だったのだ。

さらに、文演説を貫いているのが厚顔無恥というべき究極の事実歪曲であ
る。氏は次の点を語っている。

➀どの国でも自国が優位にある部門を武器にするならば、平和な自由貿易
秩序は壊れるしかない。

➁先に成長した国が後から成長する国のハシゴを外してはならない。

➂今からでも日本が対話と協力の道に出てくるのならば韓国は快く手を握る。

反文在寅デモ

日本が韓国をホワイト国から外したのは、日本が韓国に輸出してきた大量
破壊兵器などに使用可能な戦略物資が大量に行方不明になっている件につ
いて、韓国側の説明がこの3年以上、ないからである。従って➀は責任転嫁
である。

➁も同様だ。日本は韓国に対してハシゴを外したりしていない。反対に大
事な技術を与え続けた。韓国の浦項製鉄は韓国経済を支える力となってい
るが、その技術は新日鉄が全面的に協力して伝授したものだ。

西岡氏によれば、庶民の食を豊かにする韓国の即席ラーメンの技術も、日
本に輸出しないという条件で日本がタダで提供したという。

鉄からラーメンまで日本は技術を提供しこそすれ、ハシゴを外してはいない。

➂は、どちら様の台詞かと逆に質したくなる。2年以上「対話と協力」を拒
否してきたのは、日本でなく文氏である。

文演説は反日のための虚偽と歪曲に満ちている。文氏相手では、まともな
議論も日韓関係の正常な運営も難しいだろう。

戦後最悪といわれるこのような状況の下で、日韓関係も米朝関係も危機に
直面し、日韓の国益が損なわれ、韓国の運命が危機に瀕している。こうし
た状況を生み出したのが文氏だということに、多くの韓国人が気付き始め
た。気付いて行動を起こし始めた。ソウルをはじめ、地方都市でも、文氏
の辞任を求めるデモが広がっている。韓国の主要メディアは報じないが、
その様子はSNSで広く拡散され、多くの映像から反文在寅デモは、文氏
の側に立った反日デモより数倍規模が大きいことが読みとれる。

韓国の国論は二分され、韓国人は戦っている。勢いを得ているのは反文在
寅勢力の方だ。日本人は、隣国のその実態を知ったうえで、これ以上文政
権に騙されないことが肝要だ。文氏の真の意図をいまこそ冷静に見てとる
ことだ。

『週刊新潮』 2019年8月29日日本ルネッサンス 第865回

◆心筋梗塞は予知できる

石岡 荘十


まず、死因について。

私の父親も死因は「心不全」とされていたが、長い間、この死亡診断書に何の疑問も感じなかった。しかし、よく考えてみれば「心不全」というのは単に「心臓が動かなくなった」という意味であるから、病気の「結果」そのものであり、死のトリガー、「原因」ではない。

<最初は背中が痛いと言われたと報じられていた。亡くなった後では容易に心筋梗塞だったとは解らないのではないか。誰でも経験して学習し教訓に出来る病ではないので、発症した場合の対処は困難だろう>、これこそが「死因」となった心筋梗塞を疑わせる症状だ。

私も大動脈弁がうまく開閉しなくなり、10数年前人工の弁に置き換える手術を受けているが、そこに至る症状として<背中が痛い>を何年にもわたって、何度も経験している。

心臓の血流が途絶えると、背中が重苦しくなる。痛いと感じる人もいる。この苦しさは、血流が滞った程度(狭心症)の場合は、15分程度で回復する。不整脈のひとつ心房細動の時もそうだ。

私が何度も経験したが、それ以上自覚症状が長く、30分とか続くのは血管(冠動脈)が完全に詰まっている(心筋梗塞)だと考えた方がいい。ほっておけば死に至る。

胸が痛くなるという症状だと、「心臓がおかしいのではないか」と分かりやすいが、心筋梗塞になると左の奥歯がうずいたり痛くなったり、肩が凝ったりすることもある。歯医者や整形外科に駆け込む人もいるが、これは心筋梗塞の症状のひとつなのである。

歯医者で鎮痛剤をもらって「一丁上がり」となるが、じつは心筋梗塞の症状だ。こういうのを「放散痛」という。

不幸にして、こんな知識がなく死んでしまった後、患者を解剖すると死因が心筋梗塞であったことは明らかになる。

<発症した場合の対処は困難だろう>といっておられるが、心臓疾患の9割は、対処の仕方を誤らなければ、決して「死に至る病」ではないのである。

本誌常連の前田正晶さんが書いておられる記事が見事にそのポイントを突いている。
その要点をまとめると、

<失神するほどの、激痛と胸部に圧迫感があった。自分で119番に電話して症状を説明していた>

<放っておけば治るとかとは思ったが、何故かこれは「一過性の痛みではない」と判断した>

<救急患者を受付けてくれる大病院が多いこと、救急車が搬送してくれた先が国立国際医療センターだったこと、最も偉い先生が日曜日の当直だった>

<心筋梗塞に対応する準備が整っていたのだった。処置も素早かった>

<その判断が正しかったと後で解るのだが、私の場合は幸運の連続だった>

つまり、前田さまのケースは<幸運が重なった>結果であり、誰でもがこううまくいくわけではない。

年間の死者5千人を切る交通事故死にあの大騒ぎで安全運動を展開している。なのに、心臓疾患で年間15万人以上が死ぬ。なぜか。前田さんのような幸運の女神の恩寵に浴する人はそんなに多くない、それだけ啓蒙が行きわたっていないということだ。

<時間との争いであるなどとは知る由もないだろう。知識は皆無だった>とおっしゃるが、そんな人に幸運が訪れることは滅多にない。

この歳になったら、天下国家の危機を憂うる高邁な論議をする前に、わが身の危機管理に少しのエネルギーを注ぐべきだというのが私からのアドバイスだ。心臓病は<誰でも経験して学習し教訓に出来る病>なのである。


2019年08月28日

◆少子化対策ではなく人口政策の確立を

加瀬 英明


多くの識者が少子化によって、日本が衰退してゆくことを憂いている。

これまでは年間出生数が200万人台だったのが、90 万人台を割って
しまうことになるとみられる。

この30年ほどか、日本の都会に住んでいると、誰もがかつての王侯貴
族のような生活を営んでいる。
 贅を極めているのに、贅に耽っているのに気付かないほどの贅沢はな
い。スマホを使って世界中の料理が、自宅に届く。タクシーを拾って、運
転手に行き先をいえばよい。

指先1つで家電を動かせる。テレビによって、バラエティー・ニュース・
ショーをはじめ、居間で滑稽劇(おわらいげき)を楽しむことができる。

身の回りに、あらゆるサービスがある。サービスserviceの語源は、
ヨーロッパ諸語のもとのラテン語で、「奴隷」を意味する「セルヴス
servus」だ。大勢の奴隷にかしづかれているのだ。

それなのに、国民が不満でいっぱいだ。狂言『節分』に「えっ、この罰
当りめが」という台詞(せりふ)があるが、これほど恵まれた生活をしてい
るのに、そう思わない。

亡国を免れるためには、子を産む女性や、子育てを望む若い夫婦に、国
が補助金を支給すべきだ、金(かね)をぶつければ出生率があがると、説く
人々がいる。だが、私は社会が豊かになるにしたがって、出生率が減って
きたのに、金(かね)で解決できるというのは理解できない。経済成長によ
る物質的な豊かさこそが、少子化の惨状をもたらしたのではないか。

スウェーデンやフランスが子を産むシングル・マザーや、夫婦に、児
童手当や、住宅、教育費など給付を増やすことによって、出生率が向上し
たと喧伝されるが、その後、出生率が低下している。

いまでは工業ロボットやAIが、私たちの生活を支えている。テクノロ
ジーが私たちの生活を、大きく変えている。

このところ先進諸国は、どの国も「人手不足」の悲鳴をあげている。ア
メリカでは失業率が半世紀ぶりに、3・6%まで落ちている。イギリス、
ドイツ、フランスなどの諸国でも、求人難が深刻だ。日本でも10年前の
平成11年に失業率が5・09%だったのが、2・4%まで落ちている。
技術革命によるもので、政府の施策がもたらしたものでない。

ハイ・テクノロジーと金(かね)と数字が、私たちを支配するようになっ
ている。金(かね)は空腹などその場を凌(しの)ぐために、使われる。人と
人との絆が金(かね)によって結ばれているから、短時間で使い捨てにされ
る。男女の結びつきも例外ではない。

テクノロジーも数字も、理によってつくられているから、心も情もない。

だが、心は生きているから、金(かね)とテクノロジーと数字だけになる
と、家族も、家族的経営も崩壊して、人々が神経症を患って、子殺しや親
殺しに走る者が急増する。

私は「少子化対策」という言葉が気に入らない。なぜ、「人口政策」と
いわないのか。

対米戦争が始まった昭和16(1941)年に、政府が国の将来を想い量って
「人口政策確立要綱」を決定した。戦後、日本が国であるべきでないと信
じるようになったために、かつての「産めよ増やせよ」という言葉を連想
させるといって、「人口政策」という言葉が抹消されたためだ。

私は平成6(1994)年に、厚生省(現厚労省)が「少子化」対策として、
子育て支援などの「エンゼルプラン」を発表した時に、意味不明な「エン
ゼル」という言葉を使ったのに、憤ったのを覚えている。英語の天使「エ
ンジェル」だったのか。外国に魂を売った小(こ)っ端(ぱ)役人が造語した
にちがいない。

 
数年前に、友人と小料理屋で浅酌した時に、友人が「手鍋提げても」と
いったところ、若い女子従業員が「手鍋って、どんな料理ですが?」と質
問したので、呆れたことがあった。もちろん、好きな男と夫婦になれるな
ら、どんな貧困もいとわないという意味だ。

政府が1990年代に“フェミニズム運動”を煽って、「男女共同参画社
会」を推進したことも、少子化を悪化させた。女性は家庭を築くことが何
より大切な役割であるのに、家族を否定することをはかったものだった。

あわせて軽佻浮薄な言葉狩りが進められて、「婦」は女性が帚をかかえ
ているから差別だといって、警察庁が「婦人警察官」を「女性警察官」、
防衛省が「婦人自衛官」を「女性自衛官」と改称した。

私は母親が座敷や家の前の路地を掃くのを見て、帚が母の心の延長だ
と信じていたから、母が冒涜されたと思った。

私は松下政経塾の役員を永年勤めたから、そういうべきではないが、家電
製品はすべて心を省くものだ。

警察や自衛隊では「婦道、婦徳」という言葉を使うことを、禁じてい
るにちがいない。だが、いまでも「妊婦」という言葉が使われている。ど
ちらかにしてほしい。「家族」もウ冠の下に豕(ぶた)と書くから、差別語
ではないか。

女性の高学歴化が結婚年齢を引き上げ、子供の教育費がかかりすぎるこ
とが、子を産む意欲を減退させているという。

学歴崇拝が日本を滅ぼす。高収入を望んで、自分をひたすら他に委ねて、
合わせる受験戦争が、幼稚園から就職まで続く。

二宮尊徳、伊能忠敬、渋沢栄一の3人をあげれば、農家の子だったか
ら、最終学歴は寺子屋の4年ばかりだが、まず自分で自分を創ったうえ
で、日本を創った。虚ろな教育に国費を浪費するべきでない。

個人が何よりも尊重される。だが、「個人」という醜い言葉は、明治に
入るまで日本語のなかに存在しなかった明治翻訳語だ。私たちは人と人と
の絆のなかで、生きてきた。

どうしたら、少子化を防ぐことができるのだろうか。

愛国心を鼓吹するほかない。

◆「中曽根君を除名する!」

渡部 亮次郎


河野一郎さんの命日がまた巡って来た。7月8日。昭和40(1965)年のこと。
死ぬ2日前(6日)の夕方、東京・麻布台の事務所を訪ねると、広間のソ
ファーで涎を垂らして居眠りしていた。

黙っていると、やがて目を覚まし、バツが悪そうに涎をハンカチで拭い
た。何を考えたのか「従(つ)いてき給え」と歩き出した。

派閥(河野派=春秋会)の入っているビルは「麻布台ビル」といったが、そ
の隣に建設省分室と称する小さなビルが建っていた。元建設大臣としては
殆ど個人的に占拠していたようだった。

向かった先はそのビルの4階。和室になっていた。こんなところになんで
建設省のビルに和室があるのかなんて野暮なことを聞いてはいけない。

「ここには春秋会の奴らも入れたことは無いんだ」と言いながら
「今度、ボクはね、中曽根クンを春秋会から除名しようと決めた。
奴はボクが佐藤君とのあれ以来(佐藤栄作との総裁争いに負けて以来)、
川島(正次郎=副総裁)に擦り寄っていて、数日前、一緒にベトナムに行き
たいと言ってきた。怪しからんのだ」

「河野派を担当するならボクを取材すれば十分だ。中曽根なんかのところ
へは行かないのが利口だ」とは以前から言っていたが、派閥から除名する
とは只事ではない。

思えば河野氏は喉頭癌のため退陣した池田勇人(はやと)総理の後継者と
目されていた。しかし、河野側からみれば、それを強引に佐藤栄作支持に
党内世論を操作したのは誰あろう川島と三木(武夫)幹事長だった。

佐藤に敗れた後も無任所大臣(副総理格)として佐藤内閣に残留していた
が,政権発足7ヵ月後の昭和40(1965)年6月3日の内閣改造で河野氏が残留を
拒否した事にして放逐された。

翻って中曽根康弘氏は重政誠之、森清(千葉)、園田直と並ぶ河野派四天
王として重用されてきた。それなのに川島に擦り寄って行くとは。沸々と
滾る「憎悪」をそこに感じた。その頃は「風見鶏」という綽名は付いてな
かったが、中曽根氏は元々「風見鶏」だったのである。

そうした隠しておきたい胸中を、担当して1年にもなっていないかけだし
記者に打ち明けるとは、どういうことだろうか。

7月6日の日は暮れようとしていた。「明日は平塚(神奈川県=選挙区)の
七夕だからね、今度の参議院選挙で当選した連中を招いて祝勝会をするか
らね、君も来なさい。ボクはこれからデートだ、では」

それが最後だった。翌朝、東京・恵比寿の丘の上にある私邸の寝室で起き
られなくなった。日本医師会会長武見太郎の診断で「腹部大動脈瘤破裂、
今の医学(当時)では打つ手なし」。翌8日の午後7時55分逝去した。享年
67。武見は{お隠れになった}と発表した。

当日、奥さんに招かれてベッドの脇に居た私は先立つ7時25分、財界人
(大映映画の永田雅一,北炭の萩原社長,コマツの河合社長らが「南無妙法
蓮華経」とお題目を唱えだしたのを「死」と早合点し、NHKテレビで河野
一郎を30分早く死なせた男として有名になる。

死の床で「死んでたまるか」と言ったと伝えられ、「党人政治家の最期の
言葉」として広くこれが信じられてきたが、河野洋平氏によると「大丈夫
だ、死にはしない」という穏やかな言葉で家族を安心させようとしたのだ
という。これも犯人は私である。

河野氏が死んだので中曽根氏は助かった。「河野精神を引き継ぐ」と1年
後に派閥の大半を継承。佐藤内閣の防衛庁長官になって総理大臣への道を
歩き始め多。風見鶏は幸運の人でもある。

以下はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照のこと。

河野 一郎(こうの いちろう、1898年(明治31年)6月2日生まれは、自由
民主党の実力者。死後、従二位勲一等旭日桐花大綬章。河野は神奈川県選
出の国会議員のなかでは実力者であり、県政にも強い影響力があったので
神奈川県を「河野王国」と呼ぶ向きもあった。

参議院議長をつとめた河野謙三は実弟。衆議院議長であり、外務大臣、自
由民主党総裁、新自由クラブ代表をつとめた河野洋平は次男。衆議院議員
で外務大臣の河野太郎は孫である。

建設大臣時代、国際会議場建設計画があり、選挙区内の箱根との声が地元
からあがったが、日本で国際会議場にふさわしいところは京都である・・・
との考えで京都宝ヶ池に国立京都国際会館建設を決めた。しかし、完成し
た建物を見ることなく亡くなっている。

地元よりの陳情を抑えての決断は現在の政治家にもっと知られてよい事例
であろう。

競走馬のオーナー・牧場主としても有名。代表所有馬に1966年の菊花賞馬
で翌年の天皇賞(春)で斃れたナスノコトブキなどいわゆる「ナスノ」軍
団があった時代もある。

河野は担当大臣として東京オリンピック(1964年)を成功に導いたが、市川
崑の監督した記録映画に「記録性が欠けている」と批判して議論を呼び起
こした。

酒を全く飲めない体質だったが、フルシチョフにウォッカを薦められた際
に、「国益のために死ぬ気で飲んだ」とよく言っていた。

1963年、憂国道志会の野村秋介により平塚市の自宅に放火される。その日
は名神高速道路の開通日で河野はその開通式典でくす玉を引いている。

三木武夫が大磯の吉田茂の自邸に招かれた際、応接間から庭で吉田が笑っ
ていた様子が見え「随分ご機嫌ですね」とたずねると「三木君は知らんの
か! 今、河野の家が燃えてるんだよ!」とはしゃいでいた。「罰が当っ
た」と吉田周辺はささやいたと言う。二人は互いを不倶戴天と言ってい
た、終生。2008・07・05