2019年09月06日

◆大阪八軒家浜船着場から歩こう

毛馬 一三


大阪「淀川」から毛馬閘門を通り、1級河川「大川」(旧淀川)を少し下って、大阪三大橋の「天神橋」を抜けると、「八軒家浜船着場」に辿り着く。

この「八軒家浜」は、古代から京都と結ぶ水上交通の拠点だった。江戸時代ではこの浜の船着場周辺に、八軒の船宿があったことから「八軒家浜」と呼ばれたらしい。その「記念碑」が、阪神電鉄天神橋駅前の老舗・昆布屋門前に立っている。

この「碑」の先の坂を上ると、江戸時代の西洋医学者・緒方洪庵の塾屋敷跡がある。ここに集まる弟子たちも、この「八軒家浜船着場」を常時利用した。坂本竜馬も、西郷隆盛も、ここの船着き場から近郊にある「薩摩屋敷」に通っている。

この「八軒家浜船着場」は、京都から屋形船でやって来た人々が、この船着場から「熊野詣」に赴く道筋として利用していた。今になって、ここ「八軒家浜船着場」が、世界遺産となった「熊野街道」の起点となっているのだが、意外にもそれが知られていない。

さて、その「熊野街道」に触れておこう。

<この「八軒家浜」を起点に、四天王寺(大阪市天王寺区)、住吉大社(大阪市住吉区)、堺、和歌山などを通り、紀州田辺を経て、中辺路または大辺路によって熊野三山へと向かう道筋。

この熊野街道を経て参台する「熊野詣」は、平安時代中期ごろ、熊野三山が阿弥陀信仰の聖地として信仰を集めるようになったのに伴い、法皇・上皇などの皇族、女院らや貴族の参詣が、相次ぐようになったのが始まりだった。

室町時代以降は、武士や庶民の参詣が盛んになった。その様子は、蟻の行列に例えて、「蟻の熊野詣」と言われるほどの賑わいだったそうだ。江戸時代になると伊勢詣とも重なり、庶民も数多く詣でたため、賑わいは浪速で最高だったといわれる。ただ明治以降は、鉄道や道路の整備により参拝者は少なくなる>。
参考―フリー百科事典『ウィキペディア

このように霊場熊野三山まで橋渡しする歴史的街道の起点の「八軒家浜船着場」は、これを賑わいのある水都大阪再生拠点にしようと、民官協働で、京阪電車天満橋駅の北側の大川沿いに幅約10メートル、長さ約50メートルの3層からなる鋼鉄製の巨大な「船着場」が建設された。

同船着場では、ゆったりとしたスペースがある水上バス(アクアライナー)や大型遊覧船が、ここから発進し水都大阪の川辺に広がる眺望とクルージングを楽しむことができる。

遊覧船に乗って身を乗り出して、目上に広がる大阪のまちの姿を眺めると、立体的な水都の形が顕れ、両岸のまちなみが覆い被さるような3次元都市を実感させてくれる。実にマジックな風景の出現であり、感動そのものだ。これは体験してみないと絶対に分からない。

この「八軒家浜」を観光名所として再起させることが出来れば、大阪への集客効果は抜群だろう。

しかも「緒方洪庵の塾屋敷跡」、皇族をはじめ秀吉も通った「八軒家浜」から「熊野詣」への新観光ルートを創りだし、歴史の歩きの楽しみを味合わせる事業が始まれば、大阪への集客に繋がることは間違いない。

「八軒家浜」祭りだけで終わって仕舞う行事だけではあまりにも単純な気がして、実に勿体ない。しかも、「熊野街道」の起点となっている「八軒家浜船着場」の歴史的価値をなえがしろにしてきた大阪市文化行政の手抜かりは情けない。

今からでも遅くない。「八軒家浜船着場」から世界遺産となった「熊野詣」を複活させる、イベントや「歩き会」を実施すべきだ

そう思うだけでも「八軒家浜船着場」碑が、老舗「昆布屋)門前にポッンと立っているだけでは、寂し過ぎて仕方がない。(了)

2019年09月05日

◆雀庵の「上に政策あれば下に対策あり」

“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/21(2019/9/2)】支那というか漢族は数千年も独
裁政権の圧政下にあったから、圧政を受け流すどころか、それを逆手に
「儲ける」知恵もビックリするほど上達している。ほとんど芸術的だ。


「上有政策、下有対策」はトップクラスの格言で、「庶民憲法第一条」と
いう感じ。「上に政策あれば下に対策あり」で、具体的にはこんな風だ。


<「以旧換新」旧型家電の新型家電への買い替え促進策

消費刺激策の一環として、2009年より旧型家電から省エネ新型家電への
買替え促進策(以旧換新、古きをもって新式に変える)が実施されたのに
伴い、行政当局が予想していなかった産業チェーンが生れた。

旧型家電を中古として100元(1500円)程度で購入し、これを家電販売 店
に持ち込んで補助金を受け取って安く新型家電を購入する者が相次いだ
のである。量販店の販売員がこの方法を耳打ちし、自分の販売ノルマ達成
を図るとともに、補助金のキックバックを得る例も多発したようだ。

この結果、旧型家電が人気商品となり、まだ以旧換新が実施されていな
い周辺都市に出向き旧型家電の買い溜めをする中古家電屋まで現われた>
(大和総研2010年11月01日 アジアンインサイト 範 健美)

芸術的どころかミラクル、まるでシルク・ドゥ・ソレイユだ。日本人的
な考えでは「法の抜け穴をついて儲けるなんて恥ずかしいこと。天知る、
地知る、吾知る、汝知る、そんなことをしていると信用を失うよ」となる
が、支那では「いやー、大したものだ、俺もやろう!」となるわけだ。

カネ、カネ、カネがすべて、蓄財蓄妾美酒美食もすべてカネ次第。すご
い民族だ。そうしなければ圧政の中で生きて行けなかったのだろう。弱肉
強食のジャングルで生まれ育てば誰でもそうならざるを得ないのかもしれ
ない。

消費税増税は当分延期されたのかと思っていたら10月から10%に上がる
そうだ。財務省の官僚どもによる悪法。二桁に増税されたら次は13%、
15%、無節操に蛇口を開いているからやがては20%、さらに25%になる。
下々は「下有対策」を考えなければならない。


ずばり、1か月間、消費を我慢する、耐乏生活にできるだけ頑張る。政府
が増税撤廃を決断するまで耐える。3か月で政府は音を上げる。

枯れ木に水をやるような遣い方をしていたら、いくら増税したって間に
合わない。自分の老後は自分で責任を持つ、これが基本だ。カネがなくて
生活ができないのは基本的に自己責任。これまでの人生がまっとうなら、
近所の人たちが奉賛金、寄付金、協賛金、賛助金などを募る奉加帳を町内
に回してくれる。「以前お世話になったから」と医者に連れていってくれ
る人もあろう。


支援がないのであれば、基本的には自業自得、「あなたの人生が間違って
いた」のだ。運不運はあるが、ちゃんとやってきたのか、それでも運悪く
食にも事欠く状態・・・「それなら生活保護を、区役所には私が連れてい
きましょう、まずは社協に相談しましょう」という人が出てくるはずだ。

誰も助けてくれない、声をかけてくれる人もいない、「それならせめて
人の迷惑にならないようにご自分で始末を」と言うしかない。

それはそれとして、景気は安定しているが、懐が温かいとは言えない。
贅沢はできない、ちょっと我慢しようという感じ。そういう時に消費増税
というのは消費マインドをずいぶん下げてしまうのではないか。今は円高
で輸入品は下がっているが、増税でその効果もなくなり、「品質は落ちて
もちょっと安い方にしよう、我慢しよう」となりかねない。

メーカーは売上が伸びない、給料を上げられない、民は財布のひもを絞
る、という悪循環になれば、景況感が好転するまでに数年かかるだろう。
暗くて長いトンネルになったら、未来のための増税が未来をダメにするこ
とになりかねない。

全国3500万のヂヂババ同志諸君! まずは3か月、窮乏生活に耐えよ、 財
務省のトンチンカン官僚にNO!を、キング牧師は「静かなる抗議」で公
民権運動を進めて勝った、欲しがりません勝つまでは! 



♪立て、老いたるものよ 今ぞ日は近し 醒めよ我が同胞(はらから) 暁は来ぬ

増税の鎖断つ日 顔は血に燃えて 海山隔てつ 我等 腕(かいな)結びゆく

いざ闘わん いざ 奮い立て いざ あぁ 質素倹約吝嗇節約 我等がもの

同志諸君! 団塊世代の根性を見せたれ! ただの軽佻浮薄ではなかっ
た、と汚辱をそそぎ名をなす秋(とき)だ! いざ、霞が関へ! 財務省
を包囲せよ!


てな感じでじっと耐える、我慢比べ、個人消費が3か月連続で前年割
れ・・・財務省はびびる、後世に「令和元年、日本経済を破壊した5人の
官僚」なんて汚名を残すのは耐え難いからだ。絶対勝つ!「一緒に祈りま
しょう」(あの人、最近姿見ないね)


発狂亭“和式下有対策”雀庵の病棟日記から。


【措置入院 精神病棟の日々(138)2017/1/10】承前【産経】西見由彦
「北京春秋 中国のハットトリック」。中共のえげつない銭ゲババラマキ
外交。


<台湾問題に関しては、中国側の強硬姿勢が台湾人の心を離れさせる連鎖
を生んでいる。求婚を受け入れない異性(修一:今どきは「相手」と書か
ないと叩かれそう、狂気の沙汰!)に嫌がらせをして回る人間と一緒にな
りたいと思うだろうか>


中国科学院がサイトにその類の記事を載せたら習近平が激怒し、沈黙し
た。ノルウェーも中共に屈服してパンツを脱いだが、ノルウェー人でオク
スフォード大教授のステイン・リンゲン氏は、「中国とビジネスをしたけ
れば叩頭して中国の利益に貢献しろということだ」と嘆いているそうだ。


三跪九叩頭は中華帝国への正式な挨拶、朝貢外交の象徴。大昔から支那が
まったく成長しないのは言論の自由がないからだ。


「資生堂 同性婚も平等に 多様性重視 手当・休暇 配偶者扱い」。

<電通が約7万人を対象に実施した平成27年4月の調査によると、LGBTに
該当する人は全体の7.6%だった>


同性カップルに育てられた子供は精神面で問題があるという米国での調査
は、リベラル≒アカモドキに封印されているのだろう。


少なくとも私は資生堂製品は絶対買わないわ、絶対使わないわ。


よくって、今日から私は時々レディになるの、専用車両、トイレでの30分
おしゃべり、飲み代は男性が払うのよ、明日から生理休暇取ります、来年
は課長にしてね、じゃないと差別で訴えるわよ!奥様にばらすからね、パ
ワハラ、セクハラ、私はとても苦しかったのよ、イジメに遭ったの。被害
者なんだからね、誠意を見せて!謝罪して!土下座して!反省するニダ!
(つづく)2019/9/2


◆妖艶「西馬音内」盆踊り

渡部亮次郎


秋田県羽後町のお盆の夏の夜を彩る西馬音内(にしもない)盆踊り(国指
定重要無形民俗文化財)。この祭の起源は記録されたものがまったく無い
ために、すべて言い伝えによるものである。

秋田県南部の雄勝郡(おがちぐん)羽後町(うごまち)西馬音内(にしも
ない)でのお盆のお祭である。

秋田県内には、このほかにも有名な盆踊りがあり、8月の月遅れのお盆行
事として15,6日頃から若者を興奮させる。女性の妊娠数も多くなると昔は
色っぽく語られたものだが、過疎の現在は踊りの維持さえ大変なようだ
が、頑張っている。

西馬音内の呉服屋の息子矢野恵之助君と秋田高校2年の時、同級生になっ
たが、郷里は汽車でも通えないぐらい遠いので、秋田市内に下宿してい
た。しかし盆踊りなど我々の話題にはならず、専ら演劇と小説に熱中した。

西馬音内の盆踊りは、1288〜93の正応年間、源親という修行僧が御嶽神社
(当時蔵王権現)を勧請して、ここの境内で踊らせたものという説がある。

これが1601年(慶長6年)城主の小野寺茂道一族が滅び、その家臣たちの
子孫が主君を偲んで8/16〜20までの5日間に西馬音内寺町の宝泉寺境内で
行った亡者踊りと合流し、さらに1781〜89の天明年間に本町通りに移り現
在まで継承されてきたものと伝えられている。

現在は月遅れのお盆を中心とした毎年8/16〜18まで西馬音内本町通りでか
がり火を囲んだ細長い一つの輪をつくり、幻想的なひこさ頭巾とあでやか
な端縫い衣装の踊り手たちが、にぎやかで勇ましく野性的なお囃子にあわ
せて、夕方から夜更けまで踊り続ける。

篝火にぼぉっと浮かぶひこさ頭巾に酔う  ひこさ頭巾。

黒い覆面をかぶった踊り手。ひこさ頭巾は、踊り手の表情がまったく見え
ず、亡者を連想させ幻想的な雰囲気をかもし出す。

秋田県由利地方(日本海岸)の「はなふくべ」や山形県庄内地方の「はん
こたんな」と関連があるとか、歌舞伎の黒子がヒントになっている等、諸
説あるが、ハッキリとした由来は分からない。

4〜5種類の絹生地をあわせて端縫った衣装で、女性が多く用いる。この場
合はひこさ頭巾ではなく、編み笠をかぶり、帯の結び方は御殿女中風な形
になる。

多くの人に見守られながら踊る女性達は、図柄と配色に工夫を重ね、少し
でも人目を引くように苦心したことだろう。中には祖母から母へ、娘へと
代々受け継がれて来たものも少なくない。

編み笠ごしには踊り手の表情はほとんど見えないが、うしろ姿の美しいう
なじが魅力的だ、と殺到する観光客はいう。

指先の柔らかいくねりに酔う 。

囃子はやぐらの上で"よせ太鼓"、"音頭"、"とり音頭"、"がんけ"の4種類
がある。お囃子には、笛、大太鼓、小太鼓、三味線、鼓、鉦(すりがね)
などのほかに唄い手が加わる。

西馬音内盆踊りの魅力は、実は美しい踊りとはまるで趣を異とするこの囃
子という人もいる。世を風刺したもの、野趣叙情溢れるもの、からっとし
たエロティシズムを匂わすもの等、多彩な即興詞で踊りを盛り上げる。

これらは通りのほぼ中央に組まれる踊りの輪の外側の特設やぐらの上にお
り、その左右の柱には「五穀豊穰」「豊年満作」と書かれた長灯籠がかけ
られ、周りには幔幕が張られる。

◆「ローカル経済圏」

伊勢 雅臣



■1.雇用の8割を占める「ローカル経済圏」

 第1次安倍政権が誕生した平成25(2013)年の夏頃、「アベノミクス第
3の矢」の成長戦略メニューに関して、こんな感想を述べた人がいた。

__________
 アベノミクス 第三の矢の成長戦略メニューって、おおむね正しいんだ
けど、何かピンとこないんだよね。

 これ、要は大手製造業やIT企業などのグローバル成長を意識したメ
ニューなんだけど、日本経済でこうした産業が占める割合って、もはやせ
いぜい三割程度。雇用にいたっては二割くらいなんだ。[1, 2457]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 政府の肝入りで発足し、カネボウなど多くの事業再生を支援した「産業
再生機構」の代表取締役を務めた冨山和彦氏の発言である。

 富山氏は大手製造業やIT企業などグローバル市場で活躍する企業群を
「グローバル経済圏」、それ以外を「ローカル経済圏」と呼ぶ。後者は地
域の小売り商店、ホテルや旅館、レストラン・食堂・飲み屋、病院や介護
施設、学校・塾、バスやタクシー・地域鉄道、スポーツ・ジムその他のレ
ジャー施設、行政など、要は我々が日常生活でお世話になっている事業者
からなる。

 こういう「ローカル経済圏」が経済規模で7割、雇用で8割を占めると
いうから、この部分を見過ごした経済対策では、「ピンとこない」のも無
理はない。


■2.「ローカル経済圏」が提供する雇用機会

「グローバル経済圏」と「ローカル経済圏」の違いは大きい。

 まずは地元雇用への波及効果が違う。たとえば、トヨタはアメリカに工
場を持ち、アメリカ市場で相当のシェアを持っている。そこでの稼ぎはト
ヨタの米子会社の利益となり、米国に税金を払う。日本国内にはその一部
が、トヨタ本社への配当や技術使用料として還流してくるが、それが多少
増えても、トヨタ本社が研究者や管理スタッを比例して増やすわけではない。

 それに対して、「ローカル経済圏」では、外国人観光客が増えれば、ホ
テルもレストランの売り上げも比例して増える。当然、従業員もそれなり
に増やさなければならない。地域の雇用が増えれば、新たに雇われた人た
ちの外食やレジャー支出などが増えるので、地域はさらに潤っていく。

「ローカル経済圏」は労働集約型のサービス産業が中心のため、雇用を生
み出す力が格段に大きい。そこが活性化すれば、より多くの国民が仕事と
収入を享受できる。

 雇用の中身も違う。トヨタの研究者や経理スタッフには、高度の知識・
経験が必要であり、一般人が即戦力になりうる職種ではない。「ローカル
経済圏」では、たとえばホテルの清掃やレストランの給仕など、高校生の
アルバイトでも戦力となる。子育てを終わった主婦や、定年後の第二の仕
事を求める高齢者も活躍できる。

 雇用の流動性も高い。トラックの運転手や看護師が同業他社に移ること
は、トヨタの研究員が定年後に他所で専門知識を生かせる仕事を見つける
よりは遙かに容易だ。

「ローカル経済圏」での雇用は、量が大きいだけでなく、質の面でも一般
人への間口が広く、敷居も低いのである。


■3.幸せな生活スタイルにつながる「ローカル経済圏」

 富山氏は言及していないが、働き手の生活スタイルも大きく異なる。ト
ヨタは全国から多くの人を雇用しているが、彼らの多くは出身地を離れ
て、本社のある愛知県豊田市や、東京本社などで働く。国内の転勤のみな
らず、海外勤務も珍しくない。

 それに対して「ローカル経済圏」なら、たとえば福井生まれの人が地元
の商店に勤めて、両親と同居することも可能である。子供を授かれば三世
代同居となり、そういう家庭の多いことが、福井県の小中学生が学力や体
力で常に全国のトップクラスにつけている要因の一つとされている。[a]

 主婦は子育てを祖父母に助けて貰うことで、育児をしている女性の有業
率では全国2位(平成29年)、出生率(同)も全国で12位。お年寄り
も、子や孫との接点が増えて、安心で生きがいのある生活を送れる。
「ローカル経済圏」が活性化することで、多くの国民が生まれ故郷での幸
せな暮らしをすることができるようになり、それが人口減少対策にもなる
のである。


■4.「ローカル経済圏」の高齢化と人手不足

 しかし、現実の「ローカル経済圏」はどうだろうか? 駅前はシャッ
ター街、郊外には独居老人という有様だ。その原因として「地方は疲弊し
ていて仕事がなく、結果的に人手が余っていて、職に困った若者が東京に
出て行ってしまい空洞化が起こっている」と言われるが、これには富山氏
は首を傾(かし)げる。

 富山氏は現在、コンサルティング会社「経営共創基盤」を経営している
が、同社が100%出資している東北の地方公共交通の運営会社は、バブ
ル時代ですら運転手不足で困っていたという事実があるからだ。

__________
地方は高齢化がすさまじい勢いで進行していて、どこの病院も看護師不足
で悩んでいる。どこの介護施設も、介護福祉士がいないと嘆いている。医
師不足は別の問題だが、とにかくどこへ行ってもひどい人手不足に陥って
いた。[1, 190]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 生産年齢人口(15歳以上、65歳未満)の平成2(1990)年から平成
24(2012)年の変化で見ると、東京は約13万人増加しているのに対し、
東北地方はおよそ90万人も減少している。

 すなわち、「ローカル経済圏」は働き手が都会に流出してしまうこと
で、人手不足が深刻化しているのである。人手の流出で駅前商店街が後継
者不在でシャッター街となり、バス会社も残業、休日出勤が増えて、ます
ます就職希望者が減ってしまう。


■5.「ローカル経済圏」の労働生産性と賃金の低さ

 人手不足なのに、なぜ働き手が都会に出てしまうのか。それは賃金水準
が低いからだろう。平成30(2018)年の都道府県別年収で見ても、東京が
622万円でダントツだが、岩手、山形、青森、秋田各県はいずれも
400万円以下である。これではいかに家が広く、自然が豊かでも、都会
に出ていこう、と考えるのも無理はない。

 賃金が安いのは労働生産性が低いからだ。日本の主要製造業の労働生産
性は世界トップレベルで、「グローバル経済圏」はそれをテコに世界市場
で勝負して利益を上げ、高い賃金も払える。

 しかし「ローカル経済圏」では、アメリカを100とすると、小売り・
卸売りで42.9、飲食・宿泊ではなんと26.8である。[1, 1641]

 この低生産性の主要因は「ローカル経済圏」の人口密度の低さである。
東京都の人口密度は平方キロあたり約6,300人。対して東北地方では
福島県135人を筆頭に、青森県130人と続き、岩手県に至っては81
人と、と東京のおよそ80分の1である。

 人口密度が数十分の1では同じようにローカルバスを走らせても、客も
売り上げもはるかに少ない。東京なら10分に1本のバスでも相当な客が
乗っているのに、地方では2時間に1本で乗客は数人という光景が珍しく
ない。これでは運転手1人あたりの売り上げも微々たるもので、当然、給
料も抑えざるをえない。

 この人口密度の低さというハンディをなんとか乗り越えようというアイ
デアが「コンパクト・シティ」構想である。地方のターミナル駅を中心に
人口30〜50万人程度の中核都市圏を作り、周辺の小さな市町村から人
口と都市機能を集める。東北地方であれば、青森市や盛岡市(ともに30
万人)のイメージである。

 介護施設、病院などが集まってくれば、高齢者が車の運転ができなく
なっても、歩いて通院出来る。保育施設や幼稚園などが集まれば、働く女
性も住みやすくなる。人が集まれば、飲食店やレジャー施設も繁盛する。
駅前のシャッター街はこうして復活していく。

 人口密度が高まれば、労働生産性も高まり、賃金水準も高くできる。そ
れによって、働き手も集まってくるから、さらに人口密度が高くなる、と
いう善循環が生まれよう。


■6.先のない企業の「穏やかな退出」を

 富山氏は産業再生機構での経験を生かして、労働生産性向上のための政
策提案をしている。それは生産性が低いがために赤字となっている企業の
「退出」を促進することである。たとえば、赤字企業はたいていの場合、
銀行から最大限の融資を受けている。その際に、銀行は経営者の個人保障
を求める。

 個人保障ゆえに、いざ企業が倒産したら、経営者は個人の貯金や家屋敷
まで取り上げられる。子供は進学を諦め、家族は路頭に迷う。それを避け
るために、中小企業の経営者はなんとしても倒産は避けようと、先行きの
展望がなくとも必死の苦闘を続ける。

 富山氏は、産業再生機構時代には、倒産した経営者からは生活財産や、
つつましいマンションなら取り上げなかった。その後も生活していかねば
ならないからだ。このように、事業を畳んだとしても、最低限の生活はで
きるよう保障すれば、生産性の低い、先の見通しの立たない事業は早めに
諦めることができるようになる。

 そうなれば、破綻寸前の企業の悪あがき的な安値攻勢もなくなって、競
合企業も健全な利益を得て、適正な賃金を提供できる。従業員も一時は失
業しても、生産性のより高い企業に移ることができる。結果的に、生産性
の高い企業の人手不足は緩和され、「ローカル経済圏」全体の労働生産性
も上がっていく。

 さらに、人余りの時代に、なるべく中小企業を潰さないように支援して
いた政策も見直す必要がある。その一つが信用保証協会の債務保証で、銀
行は通常の融資ができない破綻寸前の企業でも、その債務保証があれば、
融資をしてくれる。それでも倒産して、協会が代わって弁済した金額は平
成29(2017)年で3万6千件、3500億円。富山氏は次のように指摘する。

__________
 一九九〇年代ごろまでは、保証協会の社会政策的合理性はあったと思
う。当時は深刻な人余り状態だったので、保証協会融資を実行することで
倒産を防ぐ意味があった。しかし、地方の人口が減少し、過疎が進むとい
うことを受け入れず、闇雲にがんばって延命医療をすることに社会政策的
意味はなくなっている。[1, 2151]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 破綻した企業の尻拭いに3500億円も使うくらいなら、「転廃業支援
金」「事業譲渡促進支援金」という形で、「穏やかな退出」のためにお金
を使った方が良い、と富山氏は主張する。それにより倒産した経営者が、
別の事業に再チャレンジしたり、あるいはそれを元手に年金生活に入ると
いう道が開かれる。

 現行の銀行融資や保証協会制度は、企業経営者を鞭打って、半死半生の
企業に延命措置をしている。それによって従業員には低賃金、同業者には
安売りという迷惑をかけている。そんな企業が往生できるような施策が必
要である。


■7.外国人労働者は対処療法に過ぎない

 人手不足というと、すぐに外国人労働者を入れようという主張する輩が
いるが、富山氏はこの問題に関して、貴重な経験をしている。

__________
私の祖父母は戦前、北米カナダに移民し、父はそこで生まれ、思春期まで
を過ごした。もともと植民地で、かつ多くの移民を受け入れていたカナダ
でさえ、移民を受け入れる側の白人社会と、移民した側の日本人との間の
ストレスがいかに大きいものだったか、私は父や祖父母から嫌というほど
聞かされた。
この手のストレスは、上流階級同士ではあまり生まれない。その地域のま
さにL(JOG注:「ローカル経済圏」)な世界で生きてきた人たちと、そ
こに下層労働者として入ってくる移民との間で生まれるものだ。[1, 2406]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 移民に関しての同様の軋轢が世界中で起こっている。移民がもたらすス
トレスとは文化的な問題だけではない。移民労働者は低賃金で「ローカル
経済圏」に入ってくるので、そこでの職を奪い、かつ賃金水準を下押しす
る。「ローカル経済圏」で働く人々にとっては、招かれざる客なのだ。

 企業側にとっても、一時的に人手不足は解消できるが、それがために生
産性を向上させようという志は薄れてしまう。低生産性が低賃金をもたら
す、という根本的な問題はそのままである。それでは、いずれ外国人労働
者ももっと稼ぎのよい都会に去ってしまうだろう。「ローカル経済圏」に
とって、外国人労働者とは一時しのぎの対処療法でしかない。

 そもそも、労働生産性で小売り・卸売りはアメリカの4割程度、飲食・
宿泊に至っては3割以下という状況で、「人手不足だから外国人労働者
を」という主張自体がおこがましい。

 多くの経営者が「外国人の雇用」「女性と高齢者の活用」「労働生産性
の向上」という順序で考えている事に対して、富山氏は言う。

__________
正しいのは、反対の順序だ。最初に生産性を上げることを考え、女性と高
齢者の就労率を上げることを考え、外国人労働者についてはまずは高度人
材から、そして非高度人材については必要最低限の範囲で期間限定型での
導入を検討し、最後に移民の問題に入るべきだ。[1, 2432]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 生産性向上については日本の「グローバル経済圏」は世界最高レベルの
「改善」の経験とノウハウを持っている。また国民一人ひとりの教育水準
も高く、顧客や企業に対する強い利他心を持っているので、改善には積極
的である。そういう日本人の強みを十二分に発揮させれば、労働生産性を
向上させて高い賃金を実現できよう。

 そうなれば、仕事では適正な収入と生きがいを得つつ、豊かな自然の中
で、家族や郷里の人々と共に暮らせる幸せな「ローカル経済圏」を実現す
ることができる。それこそ明日の明るい「和の国」日本の姿である。
(文責 伊勢雅臣)

◆「源氏物語」は世界最古の政治小説

毛馬 一三

世界最古の長編小説「源氏物語」が一条天皇に献上されたのは、寛弘5年(1008年)11月17日。

紫式部は、幸いなことに父の赴任先の越前国で当時、何よりも貴重だった「越前和紙」とめぐり合った。まさに父在任中の2年間にわたって、思いのままに、「物書き」に熱中出来たのだ。

ここから本題―。

この「源氏物語献上」に先立つこと3年前の寛弘2年(1005年)12月29日に紫式部は、宮中に呼び出されている。何とこの召し上げの仕掛け人が、藤原道長だったのだ。

どうして藤原道長が、紫式部を宮中に召しあげたのか。それは当時宮中で繰り広げられていた、壮絶な権力闘争と大きな関連とつながる。

その権力闘争とは、道長の兄道隆盛の息子「伊周(これちか)と道長とが、真っ向から繰り広げていた藤原同族同士の宮廷内対決だった。

内大臣伊周に対抗するには、叔父の道長はこれを超える役職への昇進しかなかった。道長は画策した。一条天皇の生母で、実姉の強力な支援を懇願して、「関白」に次ぐ地位の「内覧」職を獲得し、役職の上では、一応互角に並んだ。

だが、道長にとっては、まだ後塵を拝する部分があった。伊周は、妹の定子を一条天皇の中宮に送り込み、堅牢な地位を確保していたのだ。

道長にしては、この一郭を何としてでも突き崩す必要があった。このため何と一条天皇のもう一人の中宮に娘の彰子を送り込んだのである。

こののち中宮彰子は、1008年9月11日、「敦成(あつひら)親王」(後一条天皇)を出産。道長は、これによって、権力の頂点を完全に立った。

しかしそれに至る以前に、なぜ紫式部の召し上げにまで手を打っていた政治家道長の老獪な魂胆とは、一体何だったのか。恐らく文学好きといわれた一条天皇の気を惹くため、紫式部の「源氏物語」の献上を早々と仕組んでいたと思われる。言い換えれば、天皇の歓心を買うための一種の「政争の具」として周到に準備していたのだろう。

紫式部は、中宮彰子の教育係として勤める傍ら、3年近く宮中の様々の人間模様、権力構造、熾烈な利害闘争などをつぶさに見ながら、冷静な考察と巧みな筋立てを描きながら、得意満面に「源氏物語」を書き綴っていたに違いない。

色とりどりの54帖の冊子、400字詰原稿用紙にすれば、2300枚ともなるとてつもない長編小説。

越前和紙と墨を使ったきらびやかな「源氏物語」の献上が、一条天皇の心を捉えて仕舞ったであろうことは、想像に難くない。

次々と広がる物語の中で、天皇自身が、思い当たる舞台での隠れた暗闘と情念の世界の展開や登場人物への特定がすべて思い当たり共鳴感動したとしたら、天皇にとってこれに勝る悦楽は、他には無かったのではないだろうか。

そう見ていくと、源氏物語は、「悲恋」、「純愛」、「禁断の恋」の物語ではないように思える。

むしろ宮中文化の中で、現場で目撃し鋭敏に感じ取った「政治暗闘の記録」文学と見える。

ひょっとしたら世界で最古の「政治小説」と言ってもいいかもしれない。「政治小説の源氏物語」となれば、また、宮廷の評価も貴族たちの暗躍の見方も、「源氏物語」読者フアンの間で、大きく変わっていくのではないだろうか。(了)

2019年09月04日

◆雀庵の「モノは進化、ヒトは不易」

“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/22(2019/9/3)】10月初旬に友達3人組で津軽 半
島を周遊する。名付ければ「津軽抒情 太宰とタケと縄文人そして会津
の涙」あたりか。現地でレンタカーを借りるが、新宿―青森は往復とも深
夜バスだ。リタイアしたから暇はある、M資金はない、安いので行こう、
Take the cheap bus というわけ。

4泊2日という強行軍は止むを得ないが、大問題がある。

<夜行バスは丸々9時間以上もかかるんだ。まさに“時は金なり”だ
なぁ・・・しかも“車内禁酒”だって!もしかしたら、青森に着く頃は即身
仏になっているかも>

<車内は禁酒禁煙ですぞ。俺は乗車前に飲んで車内はひたすら寝る>

<トイレストップの時に、1)自販機で買う、2)事前に水割りとかを
水筒、PETに入れておいてぐい飲みする、とか。10〜15分ほどしかないか
ら(2)がいいかも>

<修チャンは甘い! バスは高速をブッ飛ばすだろうから、当然ながら
PAにもSSにもオチャケは置いてない!加えて、車内には監視カメラがあっ
たりするから、まずは絶望的(Kちゃんの言う通り、早めに集合して事前
給油するしかないな?>

<「当然ながらPAにもSSにもオチャケは置いてない!」・・・

ほ、ほ、ホントかよ!?可愛いカウンセラーと鬼のような看護婦から
「断酒しないと野垂れ死ぬわよ!」と脅されて以来、酒には関心がなく
なったが、PA、SAに酒がないなんて「信じられなーい!」。

一発で免停! 長距離トラックの運転手はどうやって精神を癒している
のだろう。キャラメル? ガム? チョコ? 

クスリはムショ行きだし・・・リポDとか、奮発してユンケル皇帝液で 元
気をつけているのか? 高速を降りたらコンビニで缶ビール飲んだりし
て・・・

親父は朝5時、日本酒を一杯ひっかけて仕入れに行っていたけどな
あ・・・古い者には生きづらい世の中になったものでございます。

インポ、ノンアル、歩行難・・・夜這いもできない廃車寸前。どこに救
いがありましょう。せめて、せめて、一口だけでも吟醸酒を・・・>

200年前の四国のお遍路さんはようやっと宿に着いたものの、そこは信 仰
上の理由から酒を置いていずに「さて、困ったもんや、どないしょ」
「蛇の道は蛇や、下足番のヂイサンに聞いたらどないか」・・・とあれこ
れ思案している弥次喜多風。

今の悩みは昔の悩み。カネなし、女なし、酒でうっぷんを晴らすしかな
い、だがカネなし、いかにせん・・・そうだ、専務にたかろう!なんて
やったものだ。

人間はそれ自体が進化しているわけではない。試行錯誤で成長しても死
ぬ、昔の人も次代の人もその繰り返し、夏彦翁曰く「寄せては返す波の如
し」。松下幸之助翁曰く「幾つになっても分からないものが人生。分から
ない人生を、分かったようなつもりで歩むほど危険なことはない」。危険
はスリル満点、小生は好きだがなあ・・・幸之助翁もお妾さん持っていた
はずだけれど・・・

人間が動植物と違うのは、どう生きるべきか、なぜ生きるのかを考える
ことだろう。紀元前にキケロ曰く「生きることとは、考えることだ」。そ
れを代々繰り返すが「解」があるわけではないから、人間はいつもゼロか
らのスタートになる。42.195キロ、次代はまたスタートラインから始め
る。すべてが初体験、山あり谷あり、だからオモシロイとも言える。

一方で道具とか機械、建設など「モノ」、モノを産み出す「技術」は
代々発展、深化、進化し、次代へ引き継がれていく。

それによって便利になったり食糧に苦労することも少なくなったが、ヒ
トは相変わらず思春期になれば恋やら人生について悩む。祖父さんや親父
のように悩み、やがて「まあ、こんなもんかいな」と何となく煩悩を解脱
して、めでたく昇天する。天寿全う、万々歳だ。

国家とか政治はどうあるべきか、というと、「モノを発展させる仕組み
を作る、それによって民心を安らかにする」ことが最大の目的でなくては
ならない。特にヒト、モノ、カネの移動が自由で、その分、国際競争が激
しい現代では、知恵、技術で勝ち残らないと、安穏な暮らしはできない。

天然資源に恵まれた国は別として、国際競争で勝つためには知恵・技術
を向上させる必要がある。それにはどうしても言論、思考の自由、百家争
鳴が必要になるから、自由・民主・人権・法治の政治体制でないと難し
い。その自由主義の価値観のない、むしろそれを嫌悪憎悪する独裁政権で
は世界をリードするような新しい発想や技術はまず生まれない。

強権独裁でないと国家の秩序が保てない国はある。マキャベリは「独裁
だが安定した国と、自由だが不安定な国、どちらがいいか。独裁の方がマ
シだ」と書いている。中共独裁の支那の民族は、92%の漢族と56の「少数
民族」とに区分されているが、少数民族を正確に分類すると数えきれない
ほどあるという。

そういう国で民主主義を導入したら、一気に100ほどの国に分裂するだ ろ
う。その多くは後進国で、選挙により中共が支配できるのはごくわずか
になるだろう。米国のように連邦国家にすれば北京党と上海党の二大政党
制で統治できるかもしれないが、蓄財蓄妾美酒美食の「中共利権」はなく
なる。

中共が今のままの独裁ならソ連同様に国際競争に負けて金欠で沈没して
いくしかない。自由化、民主化なら先進国になれるかもしれないが、それ
は連邦制でしかできない。国の将来、民の幸福を優先すれば中共利権を失
う、中共利権をあくまでも握っていたければ独裁体制のままだが、それで
は国力は衰え、やがては中共も利権も失う。

経済の改革開放に続いて政治・文化の改革開放をしないと進化しない。生
き残るためには自らが変わらなければならない。漢族の利己主義、蓄財蓄
妾美酒美食の価値観は不易、永遠に変わらないだろうが、資本主義経済の
連邦国家建設ではその価値観がプラスに働くのではないか。今まで賄賂
だったものを販促奨励金、交際費、会議費、機密費として堂々と表に出せ
ばいいだけだ。

独裁でも豊かな国はあるが、それは天然資源に恵まれた国だけである。
中共は資源輸入国で、これからは知恵・技術でトップを目指さなければな
らないはずだ。軍拡だけではソ連のように疲弊する。

「政権は銃口から生まれる」こともあるが、知恵・技術、競争力は自由
から生まれるのだ。

発狂亭“考える凶器”雀庵の病棟日記から。

【措置入院 精神病棟の日々(139)2017/1/11】【産経】渡辺利夫「超
高齢化社会をどう生きるか」、冬には豪雪で孤立している山村に総合病院
のある町とを結ぶ道路ができて、雪の季節でも病院へ行けるようになり、
「村の病人数が一挙に増えた」という。

れ以前は諦めていたのだ。諦観、「だって80だもの」・・・

「生きたかろう、生きたからん」「死にたかろう、死にたかん」・・・
夏彦翁は病床の妻をこう描いた。病人の気持、従容として死を受け止める
ことの難しさ、それはそこそこ分かるが・・・悩ましい問題だ。

協和発酵バイオの「オルニチン」広告、「朝からこんなに調子がいいな
んて、想像もできなかった」。やがては「朝から調子が悪い、老化だな」
となるが、奇跡的にGNP(元気、長生き、ポックリ)、PPK(ピンピンコロ
リ)はいる、奇跡的に。

現実はBBNK(病気、ボケ、寝たきり、介護)、みんな疲れ果てて「先
生、楽にしてやってください」、子・孫に囲まれて昇天。医師の処方で自
宅で使える「オレシニン」「無痛往生丸」「征老丸糖衣」を普及させてく
れないか。

スイスは安楽死120万円、ぼったくり! オモテナシ日本、クールジャ パ
ンなら10万円でお釣りがくる! 骨壺を抱いて観光も楽しんでくれ。
2019/9/3


◆20億HKドル相当の金塊が香港から

宮崎 正弘


令和元年(2019)9月3日(火曜日)弐 通算第6183号  

 20億HKドル相当の金塊が香港から逃げ出していた
  香港の経済危機は、富裕層の海外脱出に拍車をかけている

 香港の反中国抗議行動は四ケ月目に突入した。
 第一に刮目するべきは、すでに逮捕者が900名を超えているというの
に、自分の将来を犠牲にしても、香港の自由。というより人間の自由と尊
厳のためには就活も人生も擲つことになるかも知れない行為に、香港の若
者が疾走していることである。

9月2日から再開された新学期。大学ばかりか、高校の授業ボイコットの
呼びかけに1万2000人が応じた。

第二に警察隊のガス弾に対抗して、学生らは火炎瓶、また暴力的衝突に関
しても、戦闘の技量をあげて、まるでゲリラ戦法のように戦術を格段に向
上させていること。往時の全共闘を彷彿させる。ただし火炎瓶は学生を偽
装した警官隊の仕業とする説が香港では有力である。

第三に香港財界を主流とした北京支持派が急速に力を失い、まだ共産党を
礼賛し「愛国」を叫ぶジャッキー・チェンらが香港市民からはまったく相
手にされず、彼のツィッターへの反論は、香港にみならず世界中から数百
万もの反対意見が寄せられて、完全に北京擁護派が浮き上がっているとい
う報道されない事実があげられる。

第四に繁華街の一つで下町の旺角(モンコック)あたりで、先週まで繰り
広げられた中国支持派の愚連隊、マフィアらの抗議集会やデモ隊への襲撃
に対抗して、その拠点に、学生らの戦闘部隊が報復戦に挑んだ。マフィア
も驚くという事態が生じている。

第五にしかしながら、意外な得点をあげたのは、じつは習近平なのだ。
北戴河会議で長老達からつるし上げられたが、香港危機を前にして、むし
ろ習解任とか習失脚ではなく、共産党が一丸となって対応しなければ克服
できないという切羽詰まった危機意識が醸成され、なんと習近平が回避し
てきた中央委員会総会(4中全会)が2年ぶりに10月に開催されることに
なったことだ。

習近平のカリスマも指導力も地に落ちたが、香港危機がバネとなって、彼
の政治生命を延命させた。これこそ、意外な展開である。つまり中国共産
党指導部は香港での抗議集会、デモがかつての東欧を襲った「カラー革
命」の再来となる事態を真剣に懼れ始めたのだ。

まして香港経済の落ち込みが激しく、株式市場は4・8%の下落(2016年
の「雨傘革命」時は2・75%だった。以下括弧内同じ)。

上場数は42%の減(37%)。そして新規公開における資金調達は
87%の落ち込み(29%)と惨憺たる数字が並びだした。

すでに過去3ヶ月のあいだに香港から持ち出されたゴールド(金塊、コイ
ンを含む)は香港ドルで20億ドルに達している。
 香港の経済危機は、富裕層の海外脱出に拍車をかけている 
      
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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1950回】         
――「浦口は非常に汚い中國人の街だ」――?田(5)
 ?田球一『わが思い出 第一部』(東京書院 昭和23年)

              △
やがて南京へ。先ず長江河岸の下關に着き、それから対岸の浦口に向かった。

下關で長江の大きさと共に、「下關は小さな港なのに日本、イギリス、ア
メリカ等の河用砲艦、さらに驅逐艦、小さな巡洋艦までが數せきもならん
でいたこと」に驚き、「各國の軍艦の展覧會みたようなものだが、この各
國の軍艦が南京を壓倒しているさまをみて、中國青年が血をわかしたのも
無理はない」と中国青年の心情に思いを馳せた後、「この異樣な威嚇感は
まつたく不愉快そのものであつた」と苦々しく綴る。

長江を渡った先の「浦口は非常に汚い中國人の街だ。街ともいえない暗?
さを感じさせる」。些か揚げ足を取るようだが、さて「非常に汚い」が形
容するのは「中國人」か、それとも「街」なのか。それとも「人」と
「街」の双方なのか。

じつは?田は浦口から汽車で山東省に向かい、その後、満洲を抜けて満
州里で蒙古入りしモスクワに向かっているが、長い車中でのことだった。

!)田の乗った寝台付き客車には「外國人と中國人のブルジョワ的なヨー
ロッパ化した連中だけが乘るらしい」。?田が入っていくと「五分間もた
たないうちに、彼らは荷物をまとめて部屋を出ていつた。どうやら私が日
本人だと知つて敬遠したものらしい」。彼らの振る舞いに「日本人への憎
惡感と壓迫感を感じ」取った?田は、「こうして中國の?養ある人々が日
本人との同席さえも心よく思わないことは私の胸に非常に強い印象をあた
えた」と記す。かくして「帝國主義にたいする憎しみは日常の生活にま
で、實に實に深刻に表現されることにおどろく」のであった。

無数のクリークが発達している「ほとんど平たんな田畑」が延々と続く
から、「まるで河の中を汽車が走つているような感じだつた」。

やがて孔子廟のある曲阜駅に。「プラットホームからおよそ三米も離れ
てたくさんの乞食がずらつと並んだものである」。「この乞食がまた人の
顔だかタドンだかわけがわからないほどまつ?に汚れている。顔の所々に
はでき物ができていて赤かつたり、紫がかつたりしているのだ。こういう
怪物にも等しい連中が老人、婦人、子供ありとあらゆる年ぱいの男女にま
じつてつずいているのはまつたく異樣なものだつた」。

外国人が彼らに小銭を投げ与える。「そうすると乞食の群はまるで戰爭で
も始つたように奪い合うのだ。その樣子をおもしろいと思うのか、さわぎ
がしずまるとまたザァーッとばらまくという風で、まつたく目もあてられ
ない有樣だつた」。

寝台車の中で「中國人のブルジョワ的なヨーロッパ化した連中」から向け
られ「日本人への憎惡感と壓迫感を感じ」たと綴るが、どうやら共産主義
者であるはずの?田だが、「こういう怪物にも等しい連中」が「こういう
怪物にも等しい」状態に陥らざるを得なくなった社会の矛盾は気にならな
かったのか。いや?田の基準からして、「こういう怪物にも等しい連中」
はヒトの部類に入らなかったということか。

ここで?田は「ここのステーションに群がる乞食たち」を「奴れいにもな
れない貧窮者」として、彼らを生みだす社会構造を分析する。

「孔子の生まれたこの地方は早くから發達したところ」だが、「長い長い
封建主義の彈壓の下に人口は増えても土地はなく、農民はまつたくひどい
零細農になつたものと考えられる」。

彼ら「貧農の中から落伍したものが上海、大連、天津その他の開港場に集
まるいわゆるクーリー(苦力)である」。「殊に滿州にはこのクーリーが
大々的に輸出され」、奥地でも工場労働者、農夫、鉄道工夫として「働か
され」、さらに「ウラジオから沿海州まで森林勞働者として流れていつて
いる」。
「おどろくべき人間勞働力の輸出」であった。《QED》
 

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読者の声 どくしゃのこえ READERS‘ OPINIONS 読者
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(読者の声1) 今の人類が最も必要とするものは何か?

マルクスが人類に対して行った重大な犯罪は、ヘーゲルの学問を壊してし
まったこと、否、壊しただけでなく、そのヘーゲルの楽音の輝きを盗み
とって加工し、人類を騙すという詐欺をおこなって、人類を、はてしない
地獄への道へと彷徨い込ませてしまったことです。

そのマルクスの犯した人類への散財の中で、最も基本的かつ重要な罪は、
ヘーゲルが、論理学の歴史を踏まえて創り上げた、画期的な生きた論理学
を壊して、前の時代の論理学である死んだ論理学、すなわちあれかこれか
の形式論理学に戻して、人類の歩みを後退させてしまったことです。

ところが当の本人は、唯物弁証法はヘーゲルの弁証法を前進させたもので
あると思い込んで、いい気になっていたようです。

それが如何に嘘であったかは、その後の歴史が証明しています。事実から
出発する唯物論の立場に立つとしながら、実際には、事実を無視して未熟
な観念を現実に押しつけて、現実からしっぺ返しを受けて、大勢のマルク
スを信奉する人民を飢え死にさせたという、社会主義の輝かしい実績があ
るからです。

また習近平も、そうした歴史的に実証された誤った社会主義の独裁を性懲
りもなく実践しようとして、本来社会主義の主体であるはずの労働者を信
用せずに、弾圧の対象として監視する体制を社会主義と嘯いています。こ
れがマルクスの云う唯物弁証法の実態であり、独裁か民主かのあれかこれ
かの形而上学的でしかない実体なのです。

しかし、この発想は、習近平に限らず、現在の人類の共通してみられる、
今の人類の論理学の現実なのです。

つまり現在の人類には、ヘーゲルの生きた論理学は、残念ながら見あたら
ないという実態だということです。これは、偏にマルクスの罪であり、マ
ルクスが行ったことは、人類に対する重大な犯罪だったということです。
 このような人類の論理学の現状だから、ほとんどの者が、理念と現実と
を統合できず、理念を主張する者は、現実を無視する傾向が強く、現実を
主張するものは単視眼的になって、本質的な議論ができにくいという現実
となっているのです。

ところが、ヘーゲルは、彼の生きた論理学から、普遍性は現実性である、
と理念と現実を統合した見方を示しました。すると、すかさず、マルクス
は、これを根本的二元論だ、と批判しました。しかし実際は、あれかこれ
かの二元論は、マルクスの方で、ヘーゲルはその根本的論理を統合した結
果として、普遍性は現実性であると主張したのです。

先日、「これでいいのか文科省」という討論番組を見ました。

教育の現場で現実と真摯に取り組んでいる人が集まって、鋭い問題提起が
されていました。その中で、理念を現実に押しつけて現実を見ようとしな
いことに対する批判も出されておりました。その一方で、国家像の必要性
が指摘されてはいましたが、そもそも「教育は何のためにあるのか?」と
いう本質的な問題に対する正しい解答を出せずに、苦慮しているようにも
見えました。

こうした議論が、結局のところで行き詰ってしまうのは、民主主義と国家
主義・全体主義とを、あっれかこれかという形で相容れない対極のものと
固定化して捉える、死んだ論理学に囚われているからに他なりません。だ
から、国家主義的な観方をすることが、民主主義に反するものとして憚ら
れ、自主規制されて、本質的な議論をできなくしてしまっているように思
います。

ヘーゲルは、全体と部分、国家と国民とは、互いに否定的媒介を通じて一
体化して捉えることが、まともな学問的なとらえ方である、としていま
す。普遍性は現実性であり現実性は普遍性であるとは、国家は国民である
ということであり、国民は国家であるということです。

だから、この普遍性を現実性化するために、教育は存在するのです。つま
り、教育とは、その国家の普遍性・歴史性を、その国の子供たちにしっか
りと学ばせて、その国の国民として立派に育っていけるようにして、そう
いう国民に支えられて、その国が国家としてまともに発展していけるよう
にするためのものです。

決して、抽象的個人が、人権を盾として、それぞれ自分勝手に自分の好き
なことをして生きていけるようにするためのものではありません。日本の
国家が戦前に比べて劣化し、日本人もそれにもまして劣化している現実
は、そのような教育がずっと行われてきたからに他なりません。

また、その議論の中で、特に気になったことは、「国語の論理学」なる授
業が行われているそうで、そこでは、契約書等を正確に認識できるように
することが、論理学なのだそうです。

ここでいう論理学とは、まさにAはAであってBでない、という形式論理学
そのものであって、今の教育の実態は、それすらもままならないほどに、
論理的認識が育っていない現実があることが話されていました。したがっ
て、その必要性に異論はなさそうでした。しかし、本当に人類に必要な論
理学、今の子供たちが学ばなければならない論理学は、そんなものであっ
てはならないはずです。

なぜなら、それでは人類は、まともな発展を創り出すことはできないから
です。

本当に学ぶべきは、人類史・人類の学問の発展史における、論理学の発展
の歴史を学ぶとともに、かつて人類が到達した最高峰、すなわちヘーゲル
が成し遂げた、生きた論理学、つまり運動体の弁証法の論理学の内実を学
び、それがマルクスによって破壊された結果として、人類の発展は大きく
歪められてしまったこと、その中で、かつての日本は、そのヘーゲルの生
きた論理学を自然成長的に実践してきた世界で唯一の国であることを、
しっかりと教えるべきです(稲村 正治)

 

◆3橋が国重要文化財に

渡部亮次郎


春のうららの隅田川には有名ないくつもの橋が架かっているが、下流に近
い勝鬨(かちどき)橋、永代(えいたい)橋、清洲(きよす)橋の3橋が2007
年4月20日に国の重要文化財(建造物)に指定された。隅田川にとっては初
めてのことである。

また敗戦時からの復興著しく、最近は「水彩都市」を自称する江東区(一
部は元深川区)は松平定信の墓、旧弾正橋(八幡橋)、明治丸に次ぐ4、5件
目の重要文化財指定だと喜んでいる。

と言っても橋そのものは江東区ではなく国の所有物だ。永代橋と清洲橋
は、共に関東大震災(1923年9月1日)後の帝都復興事業の象徴として内務省
(現在の国土交通省)直営で作られた。

また勝鬨橋は当時、最先端の技術を駆使した日本で最大規模の跳ね橋とし
て作られ、いずれもわが国橋梁技術史上、高い価値があると評価された。
遊里深川に渡る永代橋は男性的、清洲橋は曲線の美しさから女性的といわ
れている。

永代橋が架橋されたのは、元禄11(1698)年8月であり、江戸幕府5代将軍
徳川綱吉の50歳を祝したもので、現在の位置よりもやや北側、(西岸中央
区日本橋箱崎町、東岸江東区佐賀一丁目付近)当時大渡し(深川の渡し)
のあった場所である。隅田川で4番目に作られた。

当時は深川新地の象徴として歌川広重などの錦絵にもよく描かれている。

「永代橋」という名称は当時佐賀町付近が「永代島」と呼ばれていたから
という説と、徳川幕府が末永く代々続くようにという慶賀名という説
(「永代島」は「永代橋」から採られたとする説)がある。

幕府財政が窮地に立った享保4(1719)年に、幕府は永代橋の維持管理を
あきらめ、廃橋を決めるが、町民衆の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費
を町方が全て負担することを条件に存続を許した。

文化4(1807)年8月19日、深川富岡八幡宮の12年ぶりの祭礼日に詰め掛け
た群衆の重みに耐え切れず、落橋事故を起こす。

橋の中央部よりやや東側の部分で数間ほどが崩れ落ち、後ろから群衆が
次々と押し寄せては転落し、死者は実に1500人を超え、史上最悪の落橋事
故と言われている。この事故について、大田南畝が狂歌を書き残している。

永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼

なお古典落語の「永代橋」という噺も、この落橋事故を基にしている。

明治30(1897)年、道路橋としては日本初の鉄橋として、鋼鉄製のトラス
橋が現在の場所に架橋されたが、関東大震災に被災し、木製の橋床が損傷
し大正15年に震災復興事業の第1号として現在の橋が再架橋された。

「震災復興事業の華」と謳われた清洲橋に対して、「帝都東京の門」と言
われたこの橋は、ドイツライン川に架かっていたレマーゲン鉄道橋をモデ
ルにし、現存最古のタイドアーチ橋かつ日本で最初に径間長100mを超えた
橋でもある。

平成12(2000)年に清洲橋と共に土木学会の「第1回土木学会選奨土木遺
産」に選定された。

構造形式
中央径間:スチールアーチ橋
両側:鋼桁橋
工法 ニューマチックケーソン工法
橋長 184.7m
幅員 25.0m

着工 1923年(大正13年)12月
竣工 1926年(大正15年)12月20日

施工主体 東京市復興局
設計 田中豊原案、竹中喜忠設計
橋桁製作 神戸川崎造船所
施工 太丸組/間組

清洲橋(きよすばし)は、東京都道474号浜町北砂町線(清洲橋通り)を
通す。西岸は中央区日本橋中洲町、東岸は江東区清澄1丁目。「清洲」と
いう名称は公募により、建設当時の両岸である深川区清住町と日本橋区中
洲町から採られた。

関東大震災の震災復興事業として、永代橋と共に計画された。「帝都東京
の門」と呼称された永代橋と対になるような設計で、「震災復興の華」と
も呼ばれた優美なデザインである。

当時世界最美の橋と呼ばれたドイツケルン市にあった大吊り橋をモデルに
している(この橋は第2次世界大戦で破壊され、現在は吊り橋ではな
い)。海軍で研究中であった低マンガン鋼を使用して、鋼材の断面を小さ
くする努力がなされた。

もともと「中州の渡し」という渡船場があった場所でもある。

構造形式  自碇式鋼鉄製吊り橋
橋長 186.3m
幅員 22.0m

着工 大正14年3月
竣工 昭和3年3月

施工主体 東京市復興局
設計 鈴木精一
橋桁製作 神戸川崎造船所

勝鬨橋(かちどきばし)とは、東京都中央区で隅田川に架かる橋。晴海通
り(東京都道304号日比谷豊洲埠頭東雲町線)が通る。

日本では珍しい可動橋(跳開橋)であるが、現在では機械部への電力供給
も無く、可動部もロックされ、跳開することはない。近年、再び跳開させ
ようとの市民運動や都の動きはあるものの、機械部等の復旧に莫大な費用
(約10億円)がかかること、また現在は多数の道路交通量があることか
ら、実現のめどは立っていない。

1905年(明治38年)1月18日、日露戦争における旅順陥落祝勝記念として
有志により「勝鬨の渡し」が設置された。

築地と、対岸の月島の間を結ぶ渡し舟である。埋め立てが完了した月島に
は石川島造船所の工場などが多く完成しており多数の交通需要があったこ
とで、1929年(昭和4年)「東京港修築計画」に伴っての4度目の計画によ
りようやく架橋が実現することとなった。

建設当時は隅田川を航行する船舶が多かった。このため陸運よりも水運を
優先させるべく、3千トン級の船舶が航行することを視野に入れた可動橋
として設計され、跳開により大型船舶の通航を可能とした。高架橋とする
案もあったが建設費が安く済むため、可動橋案が選定された。

勝鬨橋の工事は1933年に着工し、1940年に完成を見た。1940年に「皇紀
2600年」を記念して月島地区で開催予定であった国際博覧会へのアクセス
路とする計画の一環でもあったため、格式ある形式、かつ日本の技術力を
誇示できるような橋が求められた。

そのため、アメリカ等から技術者を導入せず、全て日本人の手で設計施工
を行った。結果的に博覧会は日中戦争の激化などもあって軍部の反対によ
り中止されたが、勝鬨橋は無事完成し「東洋一の可動橋」と呼ばれるほど
の評判を得た。なお当初から路面電車用のレールが敷設されており、1947
年から1968年まで橋上を都電が通行していた。

設置当初は1日に5回、1回につき20分程度跳開していた。この頻度はほぼ
1953年ごろまで続いたが、船舶通航量の減少と道路交通量の増大により次
第に跳開する回数は減少し、1964年以降は年間100回を下回るようになった。

1967年には通航のための最後の跳開が行われた。その後は年に1度ほど試
験のため跳開されていたが、1970年11月29日を最後に跳開されることはな
くなり、1980年には電力供給も停止された。

構造形式
中央部 跳開型可動橋
両側 鋼ソリッドリブタイドアーチ橋
可動部 双葉跳開型(可動支間長 44m)

橋長 246m
幅員 22m

着工 1933年(昭和8年)6月
竣工 1940年(昭和15年)6月14日

施工主体 東京都・銭高組

橋桁製作
月島側アーチ橋 石川島造船所
築地側アーチ橋 横河橋梁製作所
跳開橋 川崎車両
橋脚 宮地鉄工所
可動部(機械)渡辺製鋼所 (電気)小穴製作所

参考資料:ウィキペディア    2007・05・01

◆いちごの生産者だった夏

  石岡 荘十


「頂門の一針」主宰・渡部亮次郎氏が、本誌に掲載した「いちごの話」を読んで思い出したことがある。小学5年生だった一夏、私はいちごの生産者の端っくれだった。

敗戦翌年5月、私たち一家は中国の天津から引揚げ、父親の生家である秋田県・八森村へ落ち着いた。秋田音頭のしょっぱなに出てくる「八森ハタハタ、男鹿でオガブリコ〜」のあの寒村だ。

生家は父が若くして東京に出た後、弟(叔父)が家を継いで百姓をやっていたが、赤紙一枚で徴兵され満洲(中国東北部)の最前線へ。終戦と共に、シベリアへ持って行かれ、留守宅は祖母と叔母が幼い子ども2人を抱えてほそぼそと稲作百姓をやっていた。そこへ、われわれ一家4人が転がり込んだのである。

ご多聞に洩れず、農家も食糧難だった。畑で芋やナス、キュウリ、トマトを作り、山に入って山菜を採り、新米の収穫まで食いつなぐこととなった。

間もなく、生まれて初めての田植えにも駆り出される。父と母は、元を質せば百姓の生まれだから昔取った杵柄、手際はいい。慣れないとはいえ、小学5年生の私と中学生の兄、も立派な労働力だった。

夏。小柄だが目端の利く祖母が、そのころはまだ珍しかったいちごの栽培を始めた。ビニールハウスなどまだない。夜明けと共に、学校へ行く前に畑でいちごを摘む。

取立てのいちごを大きな背負い駕籠いっぱいに入れてこれを担ぎ、学校へ行く途中集荷所まで運ぶのが私の役目だ。集荷所までは子どもの足で小1時間。その日の売り上げを受け取り、空になった駕籠を担いで学校へ行く毎日だった。

草鞋を履くのも初めてなら、駕籠を背負って学校へ行くのも生まれて初めての経験であった。荷は肩に食い込み、草鞋の緒で足の指の間からは血が滲んだ。

何より恥ずかしかった。紺サージの制服にぴかぴかの革靴で学校に通っていた天津での生活は、いまやここでは別世界の出来事だった。そのうえ、学校の行き帰りには、「引揚者、引揚者」と蔑まれ、いじめにもあった。

それでも田植えで泥まみれになり、田の草をとり、秋には稲刈りもした。そうこうしているうちに秋。11月には父の仕事先が群馬。・高崎と決まり、半年過ごした秋田を後にしたのだが、この頃には、ずーずー弁もまあまあ操れるようになり、いじめっ子たちとの間にも友情が芽生えていた。

高台の集落を去る日、その日は日曜日だったが、10人ほどのガキが口々に大声で「まだ、こらんしぇ」(また、来いよ)といつまでも手を振ってわが一家を見送ってくれたのだった。

高校を卒業するまで高崎で過ごした。その後東京へ進学、就職。で、ここまで想い返してみると、報道に関わった日々を含めて、ニュース原稿は腐るほど書いたが、秋田を去った後、モノを生産したことは一度もなかったことに気がつく。

70年を越える今日まで、形のあるモノを生産した経験はいちご作りだけだった。あの夏、私はいちごの生産者の端くれだった。幼い肩に食い込むいちご駕籠の重みを懐かしく思い出す。

それにしても、いまどきの季節外れの、ビニールハウス育ちのいちごの味の薄いこと。自分が作って売ったあの本物のいちごの味覚に出会うことは二度とないのかもしれない。    


2019年09月03日

◆平和憲法の「平和」という言葉の危うさ

加瀬 英明


 青年時代に、私は鶴田浩二や高倉健の任侠映画を楽しんだ。人気が高
かったから、つぎつぎと続篇がつくられた。

任侠といえば、弱きをたすけ、悪――強きをくじくという意味だが、主人公
が男気に富んだ役を演じて、勧善懲悪の物語となっていたから、爽快感が
あった。

座敷か洋間の組の本部には、組長が座る背後に、かならず『誠』とか『仁
義』とか揮毫された掛軸がかかっていた。任侠映画によって暴力団に憧れ
た若者も、いたことだろう。

もっとも、暴力団はこのところは警察の取締りが厳しくなって「反社会勢
力」と呼ばれるようになり、目を背けたくなる暗いイメージを持ってい
る。暴力団を美化する任侠映画を、つくられなくなった。

任侠という美名をかたりながら、弱い飲食店や、商店から、他の暴力団か
ら保護するといって、“見ヶ〆料(みかじめりょう)”を強要したり、不法な
賭博、高利貸し、麻薬売買などを行ってきた。

しかし『誠』とか、『仁』『義』と書かれた掛軸の字には、不思議な力が
宿っているから、それだけで人を説き伏せてしまう力が籠(こも)っている。

だが、さまざまな悪事を働いている団体に、『誠』とか、『仁』『義』と
いった言葉は、まったく似つかわしくないものだ。

ちょっと立ち停まって考えれば、現行憲法は「平和憲法」と呼ばれている
が、この言葉も同じことではないだろうか。

暴力団の本部の床の間にかかっている、掛軸の「仁」とか、「義」という
言葉によく似ている。

「平和」は美しい言葉だ。だが「平和」という誰もが反対できない言葉の
裏で、日本の安全を危うくする力が働いている現実から、目をふさがれて
いるのではないか。

日本には神代――古代から、言葉そのものに霊力が宿っているという信仰
が、存在してきた。言葉を発すると、その言葉に合わせて現実が変わると
いうものであり、今日でも日本では言葉に超自然的な力がこもっている。

英語をはじめとするヨーロッパ諸語であれば、「シンシアリティー
Sincerity」(誠)とか、「ジャスティスJustice」(義)という単語を額
装して掛けたとしても、見る人が「『まこと』といっても、いったい何を
意味しているのか? 何が『まこと』なのか?」「何が『正義』なの
か?」と、その内容についていぶかることだろう。

日本では「験(げん)」(縁起)を担いで、不吉な言葉を発することを慎
む。もし家族に受験生がいたとしたら、「落ちる」という言葉を使うこと
を避ける。私たちは日常、意識しないで験(げん)を担いでいる。「開く」
といえば始まることだが、宴会が終わる時には「これでお開きとします」
という。

いまから74年前の敗戦までは、「無敵日本」「無敵海軍」とか、「神州不
滅」という言葉が、罷り通っていた。

験(げん)を担いで、全滅は「玉砕」、退却は「転進」と呼び替えられた。
軍部は戦争末期に、本土決戦を戦うといって、「一億総特攻」を呼号した
が、昭和天皇の終戦の御聖断によって、亡国を免れることができた。

口先だけのことなのに、言葉は景気づけにも使われるから、警戒しなけれ
ばならない。

「平和憲法」の平和という言葉を鵜呑(うの)みにして、騙されてはなるま
い。「一億総特攻」を繰り返すことになりかねない。