2019年09月18日

◆「香港は燃えているか?」

宮崎 正弘


令和元年(2019)9月16日(月曜日)弐 通算第6198号 

「香港は燃えているか?」。「ええ、本日(9月16日)で百日目になり
ます」
  またも香港の中心街は火炎瓶、ショットガン。乱戦、混沌。駅が燃や
された

 9月16日の日曜日。前夜のランタン祭り、中秋の名月が政治色濃厚な
集会や抗議活動になったが、ひきつづき香港の随所で抗議活動が行われ
た。夕暮れとともに「ブレーブス」と呼ばれる武装集団が登場、金鐘駅周
辺から政府庁舎へ火炎瓶と投石を始めた。

 「ブレーブス」(勇敢)と呼ばれるようになった「民主派」側の武装集
団の実態は謎のベールに包まれている。
毎回、黒服、ヘルメット、特殊ゴーグル、手袋、ガスマスクで顔を隠す一
方、火炎瓶などが周到に用意されている。きっとアジトがあり、軍資金も
必要だろう。行動も統率がとれており、動作がきびきびしている。だから
軍人が民主行動の波に混入しているのではないか、中国の工作隊ではない
か、という疑念が以前から囁かれてきた。

デモ行進や集会の一般参加者は香港市民であり、穏健派である。ただし多
くが放水を避けるため傘を持参している。乱闘がときおり発生するのは警
官の乱暴な遣り方にいきり立つ付和雷同組、行きがかり上、乱戦に加わる
地元のチンピラ、失業者など、逃げ遅れて巻き添えとなり、あげくに拘束
されるのは一般市民のハプニング組が多い。

当局によって穏健派の「民戦」が申請した集会が禁止されたため、9月
15日の行動は、SNSによる呼びかけに自発的集まった参加者だ。みる
みるうちに数万人。日頃の逆コース、解散予定地だった銅鑼湾から湾仔、
金鐘、中環へと行進をはじめ、平和的な行動で、メインストリートは参加
者で埋め尽くされた。「リンゴ日報」は参加者が十万と報じた。

英国領事館前にはおよそ千名が結集し、「英国は何をしているのか、香港
の自由のために協力せよ」とユニオンジャックの旗をなびかせながら訴えた。
 
 午後五時ころから武装集団が火炎瓶を投げ始め、警官隊は催涙ガス、放
水車で応戦、乱闘現場では警官隊がショットガンを構えた。

 地下鉄の金鐘(アドミラリティ)駅は先週と同様に入り口にバリケー
ド、道路工事用のプラスチック標識や段ボールが摘まれ、放火された。
火は燃え広がり、付近を明るくした。火傷による重傷者がでた。駅に設置
された監視カメラは殆どが破壊された。
またこの日予定されていたテニスのトーナメント予選会、音楽会などは中
止を余儀なくされ、この夜の逮捕者は49名と発表された。英紙ガーディ
アンは「逮捕者は千名」と報じたが、これは累計数字だろう。

 穏健派の別グループ「香港人権擁護」(CIVIL RIGHT 
ADVOCATES=香港では「香港民権抗争」と名乗る)は、台湾へ活
動家を派遣し、連帯を呼びかける署名運動。台湾各地にもレオンの壁があ
らわれた。

「香港は燃えているか?」。
15日で連続99日、本日でちょうど百日目。
香港は燃え続けている。
      

  ♪
樋泉克夫のコラム
@@@@@@@@

【知道中国 1956回】               
 ――「浦口は非常に汚い中國人の街だ」――?田(11)
!)田球一『わが思い出 第一部』(東京書院 昭和23年)

      △
 ここで徳田の目は日本に転ずる。「日本でも古くから三井、大倉、高田
という財閥が、この古武器商賣をやつていた。むろん中國えの輸出であ
る」。こういう商売は「各國の條約で禁止されている」が、「平氣で政府
の援護の下にこのボロい商賣が行われた」。「これらの財閥がとくに陸海
軍御用商人であつたことを忘れてはならない」。
「こういうやり方が日本軍閥の本性なのである。天皇の支配の下に世界平
和をめざすという、あの八紘一宇を讀者は思い出すであろう」。

当然、徳田は非合法活動に従事しているわけだから、要らぬゴタゴタは
起こしたくない。南京では旅館のボーイが部屋に「いきなり十四、五くら
いの娘を二人つれてきた」。もちろん「うしろには、卅代の女がちやんと
ついている」。そこで?田は「ははア」と察した。「要するに娼婦なの
だ」。そこで「さて知らない國のことだし、重大な任務をおびているの
で、これが因でけんかを始めたりしてどんな災難が降つてかかるかしれな
いと思つたから」、幾許かの金を渡して「『かえれ』と手ぶりをした」そ
うだ。
はて「要するに娼婦」だったのか、それともハニートラップか。

ところが「金をもらつたからには、そう簡單にはかえれません」。脅迫
ではなく、「金をただもらつて追い拂われるのが心外だといつた樣子」。
だが「どうもこちらも相手にする氣はない」。さんざん手こずったが「よ
うやくのことで撃退できた」そうだ。

 じつは『わが思い出 第一部』は単行本として出版される以前に共産党
機関紙『アカハタ』に連載されたというが、この件を当時の生真面目な読
者はどのように受け取っただろうか。
「これでみると南京の町は一種の腐敗だらくした女郎屋の町といつてもい
いくらいで」、それというのも「地方の土ごう連中が地方では得られない
享樂を求め集るのと」、「地方の戰爭や殺人強盗の難をさけて南京によつ
て來るから」であり、要するに「他にする仕事はなく、享樂を追い求めて
暮らすばかりになつている」。

 徳田の南京に対する発言を今風に言い換えるなら、さながら徹底したヘ
イト・スピーチということになるだろう。それはそれとして首を傾げるの
が、徳田が南京大虐殺の一件に一切言及していないことである。

たしかに?田の南京滞在は1922(大正11)年であり、南京大虐殺が行わ
れたとされる1937(昭和12)年の15年前に当たる。『わが思い出 第一
部』が出版されたのは1948(昭和23)年であり、それ以前に『アカハタ』
に連載されているはず。
だが南京大虐殺が日本軍の「戦争犯罪」として告発された極東国際軍事裁
判が行われたのは1946(昭和21)年5月から1948(昭和23)年11月まで。
つまり同裁判と同時並行的に『アカハタ』連載が行われ、『わが思い出 
第一部』が出版されている。

にもかかわらず、「一種の腐敗だらくした女郎屋の町といつてもいいく
らい」の南京で起こったと言われる南京大虐殺についての言及が一切な
い。ということは徳田は南京大虐殺に興味を示さなかったのか。それとも
デッチ上げのヨタ話と考えていたのか。

 いずれにせよ、南京大虐殺に対する敗戦後数年間における日本共産党
幹部の「立ち位置」が浮かび上がってくる。『わが思い出 第一部』から
判断する限り、故意か偶然か、あるいは特別の理由があってかは不明だ
が、徳田が南京大虐殺に関心を示すことはなかった。

 南京を後に上海へ。日本式旅館で働く女性たちは「いずれも天草、島
原、長崎あたりの人々」で、「中國全體からシンガポールあたりまで賣ら
れて行く哀れな娘子軍である。女中とはいいながら、何かしら一種變つた
ふぜいを帶びている」。
村岡伊平次の世界か。
《QED》
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  ☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆ 
読者の声  どくしゃのこえ  READERS‘ OPINIONS 
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   ♪
(読者の声1)経済評論家の言をみていて、違和感があるのはネオコンの
ボルトン補佐官がトランプによって解任されたので、政権に強硬派がいな
くなり、今後、米中貿易戦争は緩和されるという、明らかな基盤のない論
説です。
 米中戦争は貿易戦争の段階から、技術覇権争奪戦、そして金融戦争へ移
行するだろうと宮?さんは著作などで予測されていて、ボルトン解任の動
きとは無関係ではないかと思いますが、如何でしょう?
  (GH生、横浜)


(宮崎正弘のコメント)対中強硬派は議会とメディアです。とくに民主党
は人権がらみで中国制裁を言っていて、むしろ緩和を言ってきたのがトラ
ンプですから、分析はあべこべに近いですね。
 それからボルトンが「ネオコン」というのは明らかな間違いで、保守の
人です。ネオコンというのはアービン&ウィリアム・クリストル親子が代
表するように元トロツキストからの転向組で、ユダヤ系が多い特徴があ
り、その親玉がチェイニー元副大統領などと言われましたが、チェイニー
元副大統領も、ネオコンではなく、政策がときおり一致したにすぎません。


◆「バカヤロー」はつぶやき

渡部亮次郎


産経新聞(2010.1.3)の【産経抄】に

 <昭和28(1953)年2月28日、衆院予算委の席だった。右派社会党の西村
栄一氏が国際情勢について吉田茂首相に質(ただ)していると、首相は次
第に興奮してきた。西村氏が「興奮しない方がいい」などといさめるうち
に、とうとう「バカヤロー」と叫んでしまった。>とあるが、あれは叫ん
だのではなかった。「つぶやき」だった。

あの頃私は、高校3年生、まだテレビは無かった時代。それでも国会紛糾
の図が脳裡に残っているという事は、映画の「ニュース」を見たのだろう。

西村氏への答弁の最後に「バカヤロー」と呟き、それが録音れてしまった
のだ。産経抄の筆者は戦後生まれか。いずれ、現場は現認してなくて知識
としての「バカヤロー」だから、つい「叫んだ」と覚えたのだろう。筆者
の若輩さを感じる。若さと未熟さ。調べればすぐ分かることなのに調べて
いない。

「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると
1953年2月28日の衆議院予算委員会で、吉田茂首相と右派社会党の西村栄
一議員との質疑応答中、吉田が西村に対して「バカヤロー」と暴言を吐い
たことがきっかけとなって衆議院が解散された。

「バカヤロー」と書くと大声を出したような印象を与えるが、映像資料で
見れば分かるように、吉田は非常に小さな声で席に着きつつ「ばかやろ
う」とつぶやいたのみで、それを偶然マイクが拾った為に騒ぎが大きく
なったというのが実態である。

問題となった、吉田茂と西村栄一の質疑応答の内容。

西村「総理大臣が過日の施政演説で述べられました国際情勢は楽観すべき
であるという根拠は一体どこにお求めになりましたか」

吉田「私は国際情勢は楽観すべしと述べたのではなくして、戦争の危険が
遠ざかりつつあるということをイギリスの総理大臣、あるいはアイゼンハ
ウアー大統領自身も言われたと思いますが、英米の首脳者が言われておる
から、私もそう信じたのであります(中略)」

西村「私は日本国総理大臣に国際情勢の見通しを承っておる。イギリス総
理大臣の翻訳を承っておるのではない。(中略)イギリスの総理大臣の楽
観論あるいは外国の総理大臣の楽観論ではなしに、

(中略)日本の総理大臣に日本国民は問わんとしておるのであります。
(中略)やはり日本の総理大臣としての国際情勢の見通しとその対策をお
述べになることが当然ではないか、こう思うのであります」

吉田「ただいまの私の答弁は、日本の総理大臣として御答弁いたしたので
あります。私は確信するのであります」

西村「総理大臣は興奮しない方がよろしい。別に興奮する必要はないじゃ
ないか」

吉田「無礼なことを言うな!」

西村「何が無礼だ!」

吉田「無礼じゃないか!」

西村「質問しているのに何が無礼だ。君の言うことが無礼だ。(中略)翻
訳した言葉を述べずに、日本の総理大臣として答弁しなさいということが
何が無礼だ! 答弁できないのか、君は……」

吉田「ばかやろう……」
西村「何がバカヤローだ!国民の代表に対してバカヤローとは何事だ!!
(以下略)」

直後に吉田は発言を取り消し、西村栄一もそれを了承したものの、この失
言を議会軽視の表れとした右派社会党は、吉田首相を「議員としての懲罰
事犯」に該当するとして懲罰委員会に付託するための動議を提出(この背
景には鳩山一郎・三木武吉ら自由党非主流派の画策があったといわれる)。

3月2日に行われた採決に際しては自由党非主流派ばかりか主流派と見られ
ていた広川弘禅農相らの一派も欠席し(この欠席を理由に広川は農相を罷
免された)、懲罰委員会への付託動議は可決された。

さらに追い討ちをかけるように内閣不信任決議案が提出され、先の懲罰事
犯の委員会付託動議採決で欠席した自由党鳩山派三十余名が脱党し不信任
案に賛成したために3月14日にこれも可決。これを受けて吉田は衆議院を
解散し、4月19日に第26回衆議院議員総選挙が行われることになった。

さすがの吉田茂も発言当初は「つい言ってしまったのがマイクに入った」
としょげ返っていたが、数日後には元気を取り戻し、会合で「これからも
ちょいちょい失言するかもしれないので、よろしく」と余裕しゃくしゃく
のスピーチを行っている。

吉田と西村栄一の関係は以前からしっくりいっていなかった。第2次世界
大戦中、吉田は親英派として軍部に睨まれ、一時憲兵に身柄を拘束される
憂き目にも遭っていた。

逆に西村は軍人との繋がりがあり、戦時中かなり力が強かった。その様な
やっかみも手伝って、吉田は西村に好感情を抱いていなかった。これが
「バカヤロー発言」の一因とする見方がある。

このときの新聞記事では、2人の興奮したやり取りの後、場内は鎮まり返
り、そんな中、岡崎勝男外相に何事かを囁かれた吉田は「ニヤリと笑って
立ち上がり丁重に取り消すとある。このことから、吉田の心中は「緊張の
ための照れ笑いといい過ぎたとの思いが交錯した複雑な心境であったこと
がうかがわれる。

解散後の総選挙では吉田の率いる自由党は大敗、かろうじて政権を維持し
たものの少数与党に転落し吉田の影響力は急速に衰えていった。これが吉
田退陣につながる。

晩年吉田はその回想録の中で「取るに足らない言葉尻をとらえて」不信任
案に同調した与党の仲間を「裏切り」と糾弾し、「当時起こった多くの奇
怪事」で最大のもので「忘れる事が出来ない」と述べている。

上記のように、吉田が発言を取り消したため、議事録の中の、西村と吉田
が発言した「無礼」と「バカヤロー」という部分は削除されており、現在
の議事録で全てを確認する事はできない。

西村氏は西村真悟氏(落選中)の父であり、鳩山首相は、当時、吉田の足を
引っ張った鳩山一郎の孫である。

産経抄も冒頭でチョンボはしたが、材料にして突いた点はただしい。
▼そこらの夫婦げんかではない。国会での首相の発言だった。歴史家の半
藤一利氏は著書『21世紀への伝言』で、映画の寅さんの「それをいっ
ちゃおしめえよ」のそれだったと書く。その通りこの暴言は、首相懲罰動
議や内閣不信任案の可決へと展開していった。

▼こんな古い話を持ち出すのは鳩山内閣の閣僚の言動がちょっと気になる
からである。先日の参院予算委の質疑で答弁中に野党からヤジが飛ぶと
「うるさい!」と怒鳴る。質問者が「全大臣にお聞きしたい」と言うと
「私は全という名前ではない」と答弁を拒否する。

▼野党を小馬鹿にしたようなこの「高圧病」は鳩山由紀夫首相にも伝染し
たようだ。米軍普天間飛行場の移設先を5月までに決められなかった場合
の責任を何度も問われると、すぐけんか腰になる。「その質問自体があり
えない」と答えるのを拒否してしまった。

▼民主党などが野党であれば、ある程度許されるかもしれない。だが権力
を握る与党になった以上、常に謙虚に自らを律しなければならない。民主
主義の要諦(ようてい)である。「それをいっちゃおしめえよ」がわから
ないようでは「政権交代をしたのだから」と胸を張る資格はない。

 ▼もっとも民主党などのイラダチもわからなくはない。小沢一郎幹事長
への疑惑などで、守勢一方に立たされているからである。そういえば「バ
カヤロー」も、吉田の「ワンマン政治」に対する与野党の批判が強まって
いるころに飛び出した。2010・1・30


◆ある東ドイツ・スパイの忠告ーCIA−

             
クライン孝子


拙著『日本人の知らないスパイ活動の全貌』 8章1部ご紹介いたしま
す。ご参考にしていただければ幸甚です。

===================
ある東ドイツ・スパイの忠告ーCIA−

■インタビューは森の中
「ベルリンの壁」崩壊直後のことであったから、かれこれ三十年前の話だ。
そのころ最後の北朝鮮大使だった旧東ドイツの人物にインタビューを申し
込んだことがある。’’
東ドイツという国家が消滅し、北朝鮮大使を解任された直後であったか
ら、彼には一種の解放感があったらしく
気軽に応じて貰った。

それはいいのだが、最初に会う場所を「グリーニッケ橋のちょうど真ん
中、白線のあるところ
と指定したのには、苦笑いしてしまった。

実は、この場所、東西ドイツを分断する橋という因縁つきのもので、冷戦
中、大物小物を問わず、
頻繁にスパイ交換に利用された俗称「スパイ交換橋」で知られていた場所
だったからだ。

インタビューも、盗聴の危険を回避するためか、森の中を歩きながら行わ
れた。

彼に会う前に収集した情報では、ポツダム所在の俗称スパイ養成大学卒
とあったから
プロのスパイであることは把握していたものの、これほど徹底していると
は思いもしなかった。

話題は多岐にわたった。
中でも、その彼から当時、聞いた話でショッキングだったのは「恐らく
この『ベルリンの壁』崩壊で

目下もっとも狼狽しているのは弱小国北朝鮮とキューバだ。
けれども、それだけにいずれも大国に勝るとも劣らない強かさがある」と
いう話であった。

アメリカの半植民地だったキューバをそのくびきから解放したのはカスト
ロである。

彼は、一九五九年一月、それまでアメリカの傀儡政権であり腰巾着だっ
たバティスタ独裁政権を倒し、
を社会主義国家に変え、その後キューバの最高権力者としての地位をもの
にした。

対するアメリカの怒りは相当なもので、キューバはその返り血をあび、
一九六一年、大統領ケネディのもとで国交断絶を宣告されてしまった。
そのような処置を受けたキューバは、すばやくカストロがソ連の
最高権力者フルシチョフに接触しソ連了解の下、「キューバ危機」を演出
し、アメリカの鼻先キューバに核を持ち込もうとした。

これに仰天したのはほかならぬアメリカだった。さっそくソ連と直談判す
ることで、米ソ両大国同士の妥協点として、ソ連を標的としてトルコに持
ち込んだアメリカの核を撤去する代わりに、

キューバへのソ連の核持ち込みを断念させることで片をつけた。
それだけではなかった。おりしもこの時期、冷戦の最前線ドイツでは東西
ドイツの国境線に「ベルリンの壁」が構築されたばかりで、そのにらみ合
いたるや、一触即発の緊迫した状況にあった。

そこで、米ソ両大国は、国際社会を安心させるためにも、両国同士、水面
下でスパイ交換を成立させることにした。
 アメリカには一九五七年以来、三十年の懲役刑を言い渡された名スパイ
KGB所属アペル陸軍大佐

東ドイツ人だが第二次世界大戦中は英国籍を所持し英国スパイとして暗
躍?)が、 一方、ソ連には、
一九六〇年にU2スパイ機でソ連領空に侵入し撃墜されたパワーズ操縦士
が十年の刑を言い渡され投獄されていた。この二人のスパイを、

しかも東西ドイツの境界線「グリーニッケ橋」
のちょうど中央に当たる場所で、交換しようというのである。

■平和ボケの日本よ、やられっぱなしでいいのか
 こうした両大国のエゴを見せ付けられ、地団駄を踏んだのは、ほかなら
ぬカストロだった所詮キューバは弱小国で、彼ら両大国に逆らう策術など
あろうはずがない。

そうと悟ったカストロは涙を呑んでこの決定に従うことにした。とはい
え、ソ連も気が咎めたのか、
その後キューバには何かと支援の手を差しのべた。
とりわけキューバは、アメリカの対キューバ経済制裁で窮地に陥っていた
だけに、ソ連の経済支援はキューバにとってはまさに「神頼み」! 大助
かりだった。
それだけではない.

ソ連は、今一つ、ソ連流諜報機関のノウハウをカストロに譲与し、件のア
メリカCIAをしのぐ
キューバ諜報機関設立に貢献しその強化に手を貸した。

カストロが、これまでに亡命キューバ人を含むアメリカによる合計六三八
回(うち一四七回はCIAが接関与)もの暗殺計画を仕掛けられながら
も、生き延びてこられたのは、まさにそのおかげである
(決して言い過ぎではない)。

ー中略ー

-それに比べて、平和ボケ日本は北朝鮮にやられっぱなしで目も当てられ
ない」とは、
かの元北朝鮮大使ならずとも、私もそう思う。
北朝鮮には、一九五九年から一九八四年まで行われた在日朝鮮人の
帰還事業により
約一〇万人(うち日本人妻及び日本国籍を持つ子供七〇〇〇人)が北朝鮮
に渡っており、その彼らを人質に

北朝鮮は日本からカネや物品をせしめて、逼迫した北朝鮮経済を潤すマ
シーンとして利用してきたばかりか
彼ら日本人の一部をスパイとして徹底的に養成し直し、その後、日本へ送
り込み

各界に潜伏させ高度な技術を盗んだり、時には女性ベテランスパイをも日
本国内に送り込み
日本の要人を狙いうちにしハニートラップを仕掛ける。 けれどもその彼
女たちときたら、通名を名乗ることで、日本の極秘情報をいとも簡単に失
敬していると聞く。

「こんなことが白昼堂々と日本国内で可能なのは、北朝鮮にはある諜報機
関が日本にはないからだと、件の元北朝鮮大使は示唆していたのである。
私もそう思う。

◆赤穂浪士や龍馬の人気

渡邊 好造


以前のNHKテレビの大河ドラマ”坂本龍馬”が大好評であったことを、ふと想い出した。

龍馬がなぜこんなに人気があるのか。そこには赤穂浪士の人気と共通するものがあるように思う。大衆芸能で人気を博し、「英雄」となる人物には およそ下記の4つの共通の条件が備わっているのではないだろうか。
                                            
1)逆境に陥る。
2)人から侮られる。
3)努力して大成功を収める。
4)悲劇的最後をとげる。

赤穂藩主の浅野内匠頭が江戸城中で吉良上野介に切りかかり、即日切腹させられ、藩は取り潰し。大石内蔵助を初めとする藩士47人が吉良への仇討を果たす物語が”赤穂義士伝”である。

周知のように、製塩で裕福であった藩の家老大石は、主君の不始末で、生活はたちまち暗転。仇討をするのかしないのかグズグズと日時が経過し、昼行灯とまで揶揄され侮られたが、その後仇討を無事達成し一躍英雄となった。

しかし全員死罪の悲劇的最後を遂げる。まさにこの4条件にピッタリである。

もし、義挙だから救済するべしとの世評通り47人が赦免になって生きながらえていたら、彼らを称える毎年の赤穂、山科での「義士祭」は行われていないに違いない。

坂本龍馬は、土佐藩の下級武士の出で、脱藩して薩長同盟に尽力、海援隊の隊長として活躍したのち大政奉還に寄与するも、慶応3(1867)年刺客に襲われ明治政府の実現直前で死去。

同じように、この4つの条件に合致する大衆受けのする「英雄」を拾うと、

源義経は平家に預かりの身で苦労を重ねた後、不運な境遇から抜け出し平家壊滅の端緒をつくる大功績をあげた。しかし、兄頼朝の不興をかって奥州平泉で滅ぼされる。

豊臣秀吉は、織田信長の家来としてサルと馬鹿にされながらも人一倍の努力を重ねて這い上がり天下を取るに至るが、わが子秀頼は母淀君とともに徳川家康にしてやられる。

織田信長も英雄の一人にあげることができる。”ウツケモノ”として侮られ、その後天下統一の一歩手前で明智光秀の謀反で挫折し、自害する。ただ織田家を継ぐまでにこれといった逆境に陥ってはいないのでやや条件に欠ける。

新撰組の近藤勇、土方歳三は剣の腕前はすごいものを持っていたがもともとの身分が低く、中心人物になって組織をつくりあげるまでにはかなりの苦労を重ねたらしい。最後はともに若くして打ち首と戦死の運命をたどる。

いずれの人物もNHK大河ドラマに登場する「大英雄」である。

反対に、源頼朝、徳川家康らは天下を取ったものの、頼朝は非情な兄であり、家康は腹に一物のタヌキ親父、桂小五郎(木戸考允)も功績はあるが殺されもせず、3人とも最後は大往生をとげているから、英雄の資格に欠ける。その意味では秀吉は病死であり条件にそぐわない面もあるが、次代での悲劇が待っていた。

もちろん、これらの筋立てはいずれも江戸時代の歌舞伎や浄瑠璃作家が客うけするストーリーにしたり、あるいは明治政府を正当化するために創りあげられたものであったりで、史実とは異なる部分が多いことは言うまでもない。

坂本龍馬に至っては、一説によると梅毒に侵され、斬殺されていなくてもそんなに長くは生きられなかったともいわれている。梅毒で死んだ坂本龍馬だと大衆芸能で人気を得るはずがない。(完)

2019年09月17日

◆「香港は燃えているか?」

宮崎 正弘


令和元年(2019)9月16日(月曜日)弐 通算第6198号 

「香港は燃えているか?」。「ええ、9月16日で百日目になります」
またも香港の中心街は火炎瓶、ショットガン。乱戦、混沌。駅が燃やされた

9月16日の日曜日。前夜のランタン祭り、中秋の名月が政治色濃厚な集
会や抗議活動になったが、ひきつづき香港の随所で抗議活動が行われた。
夕暮れとともに「ブレーブス」と呼ばれる武装集団が登場、金鐘駅周辺か
ら政府庁舎へ火炎瓶と投石を始めた。

「ブレーブス」(勇敢)と呼ばれるようになった「民主派」側の武装集団
の実態は謎のベールに包まれている。

毎回、黒服、ヘルメット、特殊ゴーグル、手袋、ガスマスクで顔を隠す一
方、火炎瓶などが周到に用意されている。きっとアジトがあり、軍資金も
必要だろう。行動も統率がとれており、動作がきびきびしている。だから
軍人が民主行動の波に混入しているのではないか、中国の工作隊ではない
か、という疑念が以前から囁かれてきた。

デモ行進や集会の一般参加者は香港市民であり、穏健派である。ただし多
くが放水を避けるため傘を持参している。乱闘がときおり発生するのは警
官の乱暴な遣り方にいきり立つ付和雷同組、行きがかり上、乱戦に加わる
地元のチンピラ、失業者など、逃げ遅れて巻き添えとなり、あげくに拘束
されるのは一般市民のハプニング組が多い。

当局によって穏健派の「民戦」が申請した集会が禁止されたため、9月
15日の行動は、SNSによる呼びかけに自発的集まった参加者だ。みる
みるうちに数万人。日頃の逆コース、解散予定地だった銅鑼湾から湾仔、
金鐘、中環へと行進をはじめ、平和的な行動で、メインストリートは参加
者で埋め尽くされた。「リンゴ日報」は参加者が10万と報じた。

英国領事館前にはおよそ千名が結集し、「英国は何をしているのか、香港
の自由のために協力せよ」とユニオンジャックの旗をなびかせながら訴えた。
 
午後5時ころから武装集団が火炎瓶を投げ始め、警官隊は催涙ガス、放水
車で応戦、乱闘現場では警官隊がショットガンを構えた。

地下鉄の金鐘(アドミラリティ)駅は先週と同様に入り口にバリケード、
道路工事用のプラスチック標識や段ボールが摘まれ、放火された。
火は燃え広がり、付近を明るくした。火傷による重傷者がでた。駅に設置
された監視カメラは殆どが破壊された。

またこの日予定されていたテニスのトーナメント予選会、音楽会などは中
止を余儀なくされ、この夜の逮捕者は49名と発表された。英紙ガーディ
アンは「逮捕者は千名」と報じたが、これは累計数字だろう。

穏健派の別グループ「香港人権擁護」(CIVIL RIGHT 
ADVOCATES=香港では「香港民権抗争」と名乗る)は、台湾へ活
動家を派遣し、連帯を呼びかける署名運動。台湾各地にもレオンの壁があ
らわれた。

「香港は燃えているか?」。

15日で連続99日、本日でちょうど百日目。
香港は燃え続けている。
     
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1956回】               
 ――「浦口は非常に汚い中國人の街だ」――徳田(11)
徳)田球一『わが思い出 第一部』(東京書院 昭和23年)

            △

ここで徳田の目は日本に転ずる。「日本でも古くから三井、大倉、高田と
いう財閥が、この古武器商賣をやつていた。むろん中國えの輸出であ
る」。こういう商売は「各國の條約で禁止されている」が、「平氣で政府
の援護の下にこのボロい商賣が行われた」。「これらの財閥がとくに陸海
軍御用商人であつたことを忘れてはならない」。

「こういうやり方が日本軍閥の本性なのである。天皇の支配の下に世界平
和をめざすという、あの八紘一宇を讀者は思い出すであろう」。

当然、徳田は非合法活動に従事しているわけだから、要らぬゴタゴタは起
こしたくない。南京では旅館のボーイが部屋に「いきなり14、5くらいの
娘を2人つれてきた」。もちろん「うしろには、卅代の女がちやんとつい
ている」。そこで?田は「ははア」と察した。「要するに娼婦なのだ」。
そこで「さて知らない國のことだし、重大な任務をおびているので、これ
が因でけんかを始めたりしてどんな災難が降つてかかるかしれないと思つ
たから」、幾許かの金を渡して「『かえれ』と手ぶりをした」そうだ。
はて「要するに娼婦」だったのか、それともハニートラップか。

ところが「金をもらつたからには、そう簡單にはかえれません」。脅迫で
はなく、「金をただもらつて追い拂われるのが心外だといつた樣子」。だ
が「どうもこちらも相手にする氣はない」。さんざん手こずったが「よう
やくのことで撃退できた」そうだ。

じつは『わが思い出 第一部』は単行本として出版される以前に共産党機
関紙『アカハタ』に連載されたというが、この件を当時の生真面目な読者
はどのように受け取っただろうか。

「これでみると南京の町は一種の腐敗だらくした女郎屋の町といつてもい
いくらいで」、それというのも「地方の土ごう連中が地方では得られない
享樂を求め集るのと」、「地方の戰爭や殺人強盗の難をさけて南京によつ
て來るから」であり、要するに「他にする仕事はなく、享樂を追い求めて
暮らすばかりになつている」。

徳田の南京に対する発言を今風に言い換えるなら、さながら徹底したヘイ
ト・スピーチということになるだろう。それはそれとして首を傾げるの
が、徳田が南京大虐殺の一件に一切言及していないことである。

たしかに徳田の南京滞在は1922(大正11)年であり、南京大虐殺が行われ
たとされる1937(昭和12)年の15年前に当たる。『わが思い出 第一部』
が出版されたのは1948(昭和23)年であり、それ以前に『アカハタ』に連
載されているはず。

だが南京大虐殺が日本軍の「戦争犯罪」として告発された極東国際軍事裁
判が行われたのは1946(昭和21)年5月から1948(昭和23)年11月まで。
つまり同裁判と同時並行的に『アカハタ』連載が行われ、『わが思い出 
第一部』が出版されている。

にもかかわらず、「一種の腐敗だらくした女郎屋の町といつてもいいくら
い」の南京で起こったと言われる南京大虐殺についての言及が一切ない。
ということは徳田は南京大虐殺に興味を示さなかったのか。それともデッ
チ上げのヨタ話と考えていたのか。

いずれにせよ、南京大虐殺に対する敗戦後数年間における日本共産党幹部
の「立ち位置」が浮かび上がってくる。『わが思い出 第一部』から判断
する限り、故意か偶然か、あるいは特別の理由があってかは不明だが、徳
田が南京大虐殺に関心を示すことはなかった。

南京を後に上海へ。日本式旅館で働く女性たちは「いずれも天草、島原、
長崎あたりの人々」で、「中國全體からシンガポールあたりまで賣られて
行く哀れな娘子軍である。女中とはいいながら、何かしら一種變つたふぜ
いを帶びている」。
村岡伊平次の世界か。《QED》
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 読者の声  どくしゃのこえ  READERS‘ OPINIONS
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(読者の声1)経済評論家の言をみていて、違和感があるのはネオコンの
ボルトン補佐官がトランプによって解任されたので、政権に強硬派がいな
くなり、今後、米中貿易戦争は緩和されるという、明らかな基盤のない論
説です。

米中戦争は貿易戦争の段階から、技術覇権争奪戦、そして金融戦争へ移行
するだろうと宮?さんは著作などで予測されていて、ボルトン解任の動き
とは無関係ではないかと思いますが、如何でしょう?(GH生、横浜)


(宮崎正弘のコメント)対中強硬派は議会とメディアです。とくに民主党
は人権がらみで中国制裁を言っていて、むしろ緩和を言ってきたのがトラ
ンプですから、分析はあべこべに近いですね。

それからボルトンが「ネオコン」というのは明らかな間違いで、保守の人
です。ネオコンというのはアービン&ウィリアム・クリストル親子が代表
するように元トロツキストからの転向組で、ユダヤ系が多い特徴があり、
その親玉がチェイニー元副大統領などと言われましたが、チェイニー元副
大統領も、ネオコンではなく、政策がときおり一致したにすぎません。


◆「小京都」返上の湯河原

渡部 亮次郎


<99年から「相模の小京都」をうたい観光PRを続けてきた神奈川県湯河
原町が、キャッチフレーズに「小京都」を使わない方針を決めた。

冨田幸宏町長は取材に「町民から『どこが小京都か』という疑問の声も
あった。現実的に町が小京都になじむかというと難しい。今後は町として
使うことはない」と語り、事実上「小京都」を返上する格好だ。

「小京都」は京都と自然や景観が似ていたり、歴史的なつながりがあるこ
となどを条件に「全国京都会議」(事務局・京都市観光協会)から加盟が
認められれば、「小京都」を名乗ることができ、青森県弘前市や山口県萩
市など全国約50カ所が小京都をうたっている。

湯河原町は京都出身の日本画家、竹内栖鳳(せいほう)画伯が晩年を過ご
したり、京都・仙洞(せんとう)御所に同町吉浜海岸の「一升石」と呼ば
れる浜石が献上されたことなどから、加盟が認められたという>。毎日新
聞 1月28日(金)11時59分配信

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、
小京都と呼ばれる地域が集まる団体として「全国京都会議」が存在する。
全国京都会議は京都市を含む26市町により、1985年に結成された。1988年
の第4回総会で加盟基準が次のように定められた。

1.京都に似た自然と景観
2.京都との歴史的なつながり
3.伝統的な産業と芸能があること

以上3つの要件の一つ以上に合致しておれば常任幹事会で加盟を承認され
る。全国京都会議には小京都のほか、「本家」である京都市も参加し、事
務局を同市観光協会内においている。

なお、全国京都会議に加盟していなくても、観光宣伝などを目的とした自
称、他称の「小京都」は多い。

目次
1 小京都一覧
1.1 全国京都会議加盟自治体
1.2 過去に全国京都会議に加盟していた自治体
1.3 その他の小京都

小京都一覧
全国京都会議加盟自治体

(京都府京都市)
青森県弘前市
岩手県盛岡市

岩手県遠野市
宮城県柴田郡村田町
宮城県大崎市岩出山地区

秋田県仙北市角館町 - 「みちのくの小京都」と称される。
秋田県湯沢市
山形県山形市

栃木県栃木市(「小江戸」とも)
栃木県足利市
栃木県佐野市

茨城県古河市
埼玉県比企郡小川町
埼玉県比企郡嵐山町

神奈川県足柄下郡湯河原町(2011年4月よりキャッチフレーズに「小京
都」を使わない方針)
新潟県加茂市 - 「越後の小京都」と称される。
長野県飯山市

長野県飯田市
愛知県西尾市
愛知県犬山市

富山県南砺市城端地区
福井県大野市
福井県小浜市

岐阜県高山市 - 「飛騨の小京都」と称される。
岐阜県郡上市八幡町
三重県伊賀市上野地区

兵庫県篠山市
兵庫県豊岡市出石町 - 「但馬の小京都」と称される。
兵庫県たつの市龍野町 - 「播磨の小京都」と称される。

鳥取県倉吉市
島根県松江市
島根県鹿足郡津和野町 - 「山陰の小京都」と称される。

岡山県津山市
岡山県高梁市
広島県尾道市

広島県竹原市 - 「安芸の小京都」と称される。
山口県山口市 - 「西の京」と称される。
山口県萩市

愛媛県大洲市 - 「伊予の小京都」と称される。
高知県四万十市中村地区 - 「土佐の小京都」と称される。
高知県安芸市

福岡県朝倉市秋月地区
佐賀県小城市小城町
佐賀県伊万里市

熊本県人吉市
大分県日田市
大分県杵築市

宮崎県日南市飫肥地区
鹿児島県南九州市知覧町 - 「薩摩の小京都」と称される。


過去に全国京都会議に加盟していた自治体

北海道松前郡松前町
岩手県水沢市(現・奥州市)
山形県酒田市

長野県松本市
石川県金沢市
広島県三次市
徳島県那賀郡那賀川町(現・阿南市)

2011・1・28


◆NHK終戦報道は相変わらず問題山積

櫻井よしこ


毎年8月になるとNHKのいわゆる“歴史もの特集”が放送される。NHK
の歴史に関する作品には、たとえば2009年4月の「JAPANデ
ビュー」、17年8月の「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」のよ
うに、偏向、歪曲、捏造が目立つものが少なくない。そのために私は
NHKの歴史ものは見たくないと思って過ごしてきた。

だが、今年はどうしても見ておく必要があると考えて視聴した。視聴した
のは「かくて“自由”は死せり~ある新聞と戦争への道~」、「昭和天皇は何
を語ったのか─初公開・秘録 拝謁記」の2作品である。

前者は8月12日のNHKスペシャルで、戦前に10年間だけ発行されていた
「日本新聞」を取り上げている。後者は17日の放送で、初代宮内庁長官、
田島道治氏の日記によるものである。両作品共に役者を起用したドラマ仕
立てだった。

期待どおりというのは皮肉な表現だが、前者は想定どおりの「NHK歴史
もの」らしい仕上がりだった。後者についても多くの疑問を抱いた。

まず「新聞」の方だが、番組は暗い声音のナレーションで説明されてい
く。日本新聞は大正14(1925)年に司法大臣小川平吉が創刊し、賛同者に
平沼騏一郎や東条英機が名を連ねる。彼らは皆「明治憲法に定められた万
世一系の天皇を戴く日本という国を絶対視する思想を共有していた」との
主旨が紹介される。

明治憲法においても現行憲法においても国柄を表現する基本原理のひとつ
である「万世一系」の血筋が、まるで非難されるべき価値観であるかのよ
うな印象操作だ。

番組のメッセージは、創刊号で天皇中心の国家体制「日本主義」を掲げた
のが日本新聞で、その日本主義が日本全体を軍国主義へと走らせたという
ものだ。

不勉強の極み

だが、番組は説得力を欠く。歴史の表層の一番薄い膜を掬い取ってさまざ
まな出来事を脈絡もなくつなぎ合わせただけの構成で、どの場面の展開も
その因果関係が史料やエビデンスをもって証明されているものはない。飽
くまでも印象だけの馬鹿馬鹿しいこの作品を、NHKが国民から強制的に
徴収する受信料で制作したかと思うと怒りが倍加する。

日本全国に軍国主義の波を起こし、日本を戦争に駆り立てるほどの影響力
を発揮したとされる日本新聞の発行部数はわずか1万6000部程度だった。
しかも先述のように昭和10年までの10年間しか発行されていない。NHK
の主張するとおり、日本新聞に世論と政治を動かすほどの力があったのな
ら、言い換えれば、それだけ国民に熱烈に支持されていたのなら、なぜ10
年で廃刊に追い込まれたのか。

当時もっと影響力のあった新聞のひとつに朝日新聞がある。朝日は日本新
聞よりはるかに早い明治12(1879)年に大阪で創刊、9年後には東京に進
出、日本新聞創刊の1年前には堂々100万部を超える大新聞となっている。
朝日は満州事変などに関して極右のような報道で軍部を煽り部数を伸ばし
たが、なぜNHKは軍国主義を煽ったメディアとして日本新聞にのみ集中
したのか。不勉強の極みである。

この日本新聞の番組があり、8月15日をはさんで田島日記、即ち「拝謁
記」の方が放送された。二つの作品を対にした構成の背後には、軍国主義
の弊害を安倍晋三首相が実現しようとする憲法改正に結びつけ阻止しよう
とする意図があるのではないかと感じた。なぜなら拝掲記は昭和天皇が再
軍備と憲法改正を望んでおられた事実をかつてなく明確にしたからだ。

「拝謁記」の内容にさらに入る前に、NHKは田島道治日記の全容を公開
していないことを指摘しておきたい。私たちにはNHKの放送が全体像を
正しく反映しているのかどうか、判断できないのだ。

NHKは宮内庁記者クラブで田島日記に関する資料を配布したが、配布さ
れたのは日記全体ではなく、NHKが選んだ部分だけだった。田島氏のご
遺族が了承した部分だという説明もあったが、それはNHKが報道した分
にすぎない。新聞メディアをはじめ各社がその後報じた内容は、NHK配
布の資料が各社の持てるすべての素材であるために、NHKと基本的に同
じにならざるを得ず、NHKの視点を拡大することになる。

もう一点、NHKは今回の放送を「初公開」「秘録」と宣伝するが、田島
日記は16年前の03年6月号と7月号の「中央公論」と「文藝春秋」で加藤恭
子氏が紹介済みだ。加藤氏が伝えたのは昭和天皇が頻りに戦争を反省し、
後悔されていたという点で、NHKの番組でもそうした思いを述べるくだ
りが俳優の重々しい口調で演じられている。

天皇の政治利用

16年前の「文藝春秋」には「朕ノ不徳ナル、深ク天下ニ愧ヅ」として「昭
和天皇 国民への謝罪詔書草稿」全文も報じられている。この草稿は吉田
茂首相らの反対で、過去への反省の表現などが「当たり障りのない表現
に」(加藤氏)変えられたことを、加藤氏は、昭和天皇の思いを実現させ
るべく懊悩する田島氏の取り組みを通して紹介した。

NHK報道の新しい側面は、この点を昭和天皇と田島氏の対話形式で明ら
かにしたことだ。

他方、NHK報道で最も印象的なのが先述の憲法改正に関する点だ。これ
まで御製等を通じて推測可能だった再軍備と憲法改正への思いを、昭和天
皇は具体的に語っていらした。

昭和天皇は1952年には度々日本の再軍備や憲法改正に言及され、2月11日
には「他の改正ハ一切ふれずに軍備の点だけ公明正大に堂々と改正してや
つた方がいゝ」と述べられていた。3月11日には「侵略者のない世の中ニ
なれば武備ハ入らぬが侵略者が人間社会ニある以上軍隊ハ不得己(やむを
えず)必要だ」と指摘され、53年6月1日には米軍基地反対運動に「現実を
忘れた理想論ハ困る」と常識的見解を示された。

こうして明らかにされた昭和天皇のお気持を知って、日本国の在り方に責
任を持とうとするそのお姿には感銘を受ける。だが、国民も政府も慎重で
なければならない。日本は立憲君主国で、君主たる天皇は君臨はするが統
治はしない。何人(なんぴと)も天皇の政治利用は慎まなければならない
からである。

そもそも側近の日記がこのように、公開されてよいのかと疑問を抱く。こ
れまでも多くの側近が日記やメモを公開してきたが、天皇に仕えて見聞し
た、いわば職務上知り得た情報の公開には極めて慎重でなければならない
はずだ。公開されれば当然、私たちは強い関心を持って読む。しかし、そ
のようなことは、側近を信頼なさった天皇への裏切りではないか。こんな
ことで皇室、そして皇室を戴く日本は大丈夫か、国柄はもつのかと問わざ
るを得ない。皇室に仕える人々のルール作りが必要だ。

『週刊新潮』 2019年9月12日号 日本ルネッサンス 第866号

◆「納豆」好きになった理由

毛馬 一三



私の苦手な「納豆」が、骨粗鬆症の予防に効果があるという記事を読んだ。だったら、これからもっと早くから「納豆」を食べることに挑戦すべきだった。「納豆」好きな人にとっては滑稽な話に違いないが、それはこれから追々。


私は九州の筑後地方で幼少期を過ごした田舎育ち。日露戦争で活躍した日本旧陸軍「久留米師団」の軍事施設がわが家の近くにあったが、周辺全体が農村地帯だったので大東亜戦争が終ったあとも、米や野菜など食糧難に接した記憶はない。

しかし、有明海や博多湾からかけ離れていた所だけに「海の生魚」には縁がなく、塩漬けのサバなどをリヤカーに積んで売り歩く行商から「塩漬け海魚」を買い求め、焼き魚にして食べさせられたことが日常だったと、今でも思い出す。

ところが珍事がある。どうしたことかわが町には「納豆」の売る店も、行商も一切なかった。だから「納豆」を食することはなく、名前すら知らなかった。勿論、我が家が「納豆」を何かの因縁で食膳から避けたという話も聞いたこともない。

「納豆」に初めて出会ったのは、18歳の時東京に進学して、下宿先の食卓だった。「納豆」にネギ、わさび、醤油をいれてかき回しご飯の混ぜて食べるものだったが、異常なねばりによる味と、腐ったような異臭に思わず顔を背けた。以来、食することはなかった。


しかし、横浜生まれで「納豆」常食していた家内と結婚してから、健康のために食べようと説かれたことで、「納豆」に卵の黄身、ネギ、醤油、からしを混ぜて食べる食べ方でチャレンジさせられた。

ところが、その「味付き特別たれ納豆」の食べ方が意外に美味しかったことから、その「たれ」をかけた「納豆」だけを「おかず」として食べるようになった。

そんな折、骨粗鬆症などの予防に「納豆」などに効果があるという記事も読んだ。

同紙によると、

<納豆などに多く含まれる成分「ポリアミン」に骨量の減少を抑える効果があることを、金沢大医薬保健研究域薬学系の研究グループが、マウスなどによる実験で突き止めたという。

ポリアミンは老化抑制効果が注目されているが、骨への効果が判明したのは初めて。骨粗鬆症などに対する副作用が少ない予防、治療法の開発につながるとみられる。

金沢大医薬保健研究域薬学系の研究グループは、骨粗鬆症モデルのマウスと、関節リウマチモデルのラットにそれぞれ28日間、ポリアミンを混ぜた水を投与した。

骨粗鬆症モデルでは何も与えない場合、骨量が3〜4割減少したが、ポリアミンを投与したマウスはほとんど減少しなかった。関節リウマチモデルでは、何も与えない場合と比べ、骨や軟骨が破壊される量が3分の1程度に抑えられた。

さらに培養細胞実験で、破骨細胞にポリアミンを加えると、細胞の働きが抑制されることも確認した。
同研究グループは「ポリアミンは納豆など日本人になじみの深い食品で摂取でき、副作用も少ないとみられる。特定保健用食品や医薬品などの開発につながる」と話した>としている。

たしかに高齢の時期になってくると骨粗鬆症が原因で股関節を骨折し、寝たきりになったという話よく耳にする。

序ながら「骨粗鬆症」に触れておくと
<骨粗鬆症(osteoporosis)とは、骨形成速度よりも骨吸収速度が高いことにより、骨に小さな穴が多発する症状をいう。背中が曲がることに現れる骨の変形、骨性の痛み、さらに骨折の原因となる。
骨折は一般に強い外力が加わった場合に起こるが、骨粗鬆症においては、日常生活程度の負荷によって骨折を引き起こす。骨折による痛みや障害はもちろん、大腿骨や股関節の骨折はいわゆる高齢者の寝たきりにつながり、生活の質(QOL) を著しく低くする。> 出典:ウィキペディア

上記の様に、高齢時になると骨粗鬆症が原因で、股関節を骨折し、寝たきりになったという話よく耳にする。
ところで筆者自身は、今、背骨と坐骨の神経を痛めて、2件に交通事故による「むちうち症」が加わって、毎日、整形外科と鍼灸院に通院しているほど、歩行に困難を強いられている。

歩行がよろけて9回も倒れ、足、腰、腕にけがをした。骨折は免れた。しかし骨粗鬆症との関わりを考えると、やはり背骨・坐骨神経を痛めては、骨粗鬆症には特に注意が必要になる。

以来、それまで「納豆」に軽い気持ちで、おかずで食してきた筆者は、今までよりも「好んで納豆」をご飯に混ぜて多食するようになった。「納豆」好きな人には恥ずかしいことだが、「納豆」無関心だったのが、一挙に「納豆好き」なったのは、この理由からである。

なお、心臓病や脳梗塞の治療を受けて、「抗血液凝固剤「ワーファリン」を飲んでいる人は、「納豆」は禁忌とされているそうだ。どうか「ワーファリン」を飲んでいる人は、絶対に「納豆」は食べないでくださいと聴いており、医師に相談して下さい。           
                                (了)

2019年09月16日

◆「バカヤロー」はつぶやき

渡部亮次郎


産経新聞(2010.1.3)の【産経抄】に

 <昭和28(1953)年2月28日、衆院予算委の席だった。右派社会党の西村
栄一氏が国際情勢について吉田茂首相に質(ただ)していると、首相は次
第に興奮してきた。西村氏が「興奮しない方がいい」などといさめるうち
に、とうとう「バカヤロー」と叫んでしまった。>とあるが、あれは叫ん
だのではなかった。「つぶやき」だった。

あの頃私は、高校3年生、まだテレビは無かった時代。それでも国会紛糾
の図が脳裡に残っているという事は、映画の「ニュース」を見たのだろう。

西村氏への答弁の最後に「バカヤロー」と呟き、それが録音れてしまった
のだ。産経抄の筆者は戦後生まれか。いずれ、現場は現認してなくて知識
としての「バカヤロー」だから、つい「叫んだ」と覚えたのだろう。筆者
の若輩さを感じる。若さと未熟さ。調べればすぐ分かることなのに調べて
いない。

「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると
1953年2月28日の衆議院予算委員会で、吉田茂首相と右派社会党の西村栄
一議員との質疑応答中、吉田が西村に対して「バカヤロー」と暴言を吐い
たことがきっかけとなって衆議院が解散された。

「バカヤロー」と書くと大声を出したような印象を与えるが、映像資料で
見れば分かるように、吉田は非常に小さな声で席に着きつつ「ばかやろ
う」とつぶやいたのみで、それを偶然マイクが拾った為に騒ぎが大きく
なったというのが実態である。

問題となった、吉田茂と西村栄一の質疑応答の内容。

西村「総理大臣が過日の施政演説で述べられました国際情勢は楽観すべき
であるという根拠は一体どこにお求めになりましたか」

吉田「私は国際情勢は楽観すべしと述べたのではなくして、戦争の危険が
遠ざかりつつあるということをイギリスの総理大臣、あるいはアイゼンハ
ウアー大統領自身も言われたと思いますが、英米の首脳者が言われておる
から、私もそう信じたのであります(中略)」

西村「私は日本国総理大臣に国際情勢の見通しを承っておる。イギリス総
理大臣の翻訳を承っておるのではない。(中略)イギリスの総理大臣の楽
観論あるいは外国の総理大臣の楽観論ではなしに、

(中略)日本の総理大臣に日本国民は問わんとしておるのであります。
(中略)やはり日本の総理大臣としての国際情勢の見通しとその対策をお
述べになることが当然ではないか、こう思うのであります」

吉田「ただいまの私の答弁は、日本の総理大臣として御答弁いたしたので
あります。私は確信するのであります」

西村「総理大臣は興奮しない方がよろしい。別に興奮する必要はないじゃ
ないか」

吉田「無礼なことを言うな!」

西村「何が無礼だ!」

吉田「無礼じゃないか!」

西村「質問しているのに何が無礼だ。君の言うことが無礼だ。(中略)翻
訳した言葉を述べずに、日本の総理大臣として答弁しなさいということが
何が無礼だ! 答弁できないのか、君は……」

吉田「ばかやろう……」
西村「何がバカヤローだ!国民の代表に対してバカヤローとは何事だ!!
(以下略)」

直後に吉田は発言を取り消し、西村栄一もそれを了承したものの、この失
言を議会軽視の表れとした右派社会党は、吉田首相を「議員としての懲罰
事犯」に該当するとして懲罰委員会に付託するための動議を提出(この背
景には鳩山一郎・三木武吉ら自由党非主流派の画策があったといわれる)。

3月2日に行われた採決に際しては自由党非主流派ばかりか主流派と見られ
ていた広川弘禅農相らの一派も欠席し(この欠席を理由に広川は農相を罷
免された)、懲罰委員会への付託動議は可決された。

さらに追い討ちをかけるように内閣不信任決議案が提出され、先の懲罰事
犯の委員会付託動議採決で欠席した自由党鳩山派三十余名が脱党し不信任
案に賛成したために3月14日にこれも可決。これを受けて吉田は衆議院を
解散し、4月19日に第26回衆議院議員総選挙が行われることになった。

さすがの吉田茂も発言当初は「つい言ってしまったのがマイクに入った」
としょげ返っていたが、数日後には元気を取り戻し、会合で「これからも
ちょいちょい失言するかもしれないので、よろしく」と余裕しゃくしゃく
のスピーチを行っている。

吉田と西村栄一の関係は以前からしっくりいっていなかった。第2次世界
大戦中、吉田は親英派として軍部に睨まれ、一時憲兵に身柄を拘束される
憂き目にも遭っていた。

逆に西村は軍人との繋がりがあり、戦時中かなり力が強かった。その様な
やっかみも手伝って、吉田は西村に好感情を抱いていなかった。これが
「バカヤロー発言」の一因とする見方がある。

このときの新聞記事では、2人の興奮したやり取りの後、場内は鎮まり返
り、そんな中、岡崎勝男外相に何事かを囁かれた吉田は「ニヤリと笑って
立ち上がり丁重に取り消すとある。このことから、吉田の心中は「緊張の
ための照れ笑いといい過ぎたとの思いが交錯した複雑な心境であったこと
がうかがわれる。

解散後の総選挙では吉田の率いる自由党は大敗、かろうじて政権を維持し
たものの少数与党に転落し吉田の影響力は急速に衰えていった。これが吉
田退陣につながる。

晩年吉田はその回想録の中で「取るに足らない言葉尻をとらえて」不信任
案に同調した与党の仲間を「裏切り」と糾弾し、「当時起こった多くの奇
怪事」で最大のもので「忘れる事が出来ない」と述べている。

上記のように、吉田が発言を取り消したため、議事録の中の、西村と吉田
が発言した「無礼」と「バカヤロー」という部分は削除されており、現在
の議事録で全てを確認する事はできない。

西村氏は西村真悟氏(落選中)の父であり、鳩山首相は、当時、吉田の足を
引っ張った鳩山一郎の孫である。

産経抄も冒頭でチョンボはしたが、材料にして突いた点はただしい。
▼そこらの夫婦げんかではない。国会での首相の発言だった。歴史家の半
藤一利氏は著書『21世紀への伝言』で、映画の寅さんの「それをいっ
ちゃおしめえよ」のそれだったと書く。その通りこの暴言は、首相懲罰動
議や内閣不信任案の可決へと展開していった。

▼こんな古い話を持ち出すのは鳩山内閣の閣僚の言動がちょっと気になる
からである。先日の参院予算委の質疑で答弁中に野党からヤジが飛ぶと
「うるさい!」と怒鳴る。質問者が「全大臣にお聞きしたい」と言うと
「私は全という名前ではない」と答弁を拒否する。

▼野党を小馬鹿にしたようなこの「高圧病」は鳩山由紀夫首相にも伝染し
たようだ。米軍普天間飛行場の移設先を5月までに決められなかった場合
の責任を何度も問われると、すぐけんか腰になる。「その質問自体があり
えない」と答えるのを拒否してしまった。

▼民主党などが野党であれば、ある程度許されるかもしれない。だが権力
を握る与党になった以上、常に謙虚に自らを律しなければならない。民主
主義の要諦(ようてい)である。「それをいっちゃおしめえよ」がわから
ないようでは「政権交代をしたのだから」と胸を張る資格はない。

 ▼もっとも民主党などのイラダチもわからなくはない。小沢一郎幹事長
への疑惑などで、守勢一方に立たされているからである。そういえば「バ
カヤロー」も、吉田の「ワンマン政治」に対する与野党の批判が強まって
いるころに飛び出した。2010・1・30

◆NHK終戦報道は相変わらず問題山積 

櫻井よしこ


毎年8月になるとNHKのいわゆる“歴史もの特集”が放送される。NHK
の歴史に関する作品には、たとえば2009年4月の「JAPANデ
ビュー」、17年8月の「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」のよ
うに、偏向、歪曲、捏造が目立つものが少なくない。そのために私は
NHKの歴史ものは見たくないと思って過ごしてきた。

だが、今年はどうしても見ておく必要があると考えて視聴した。視聴した
のは「かくて“自由”は死せり~ある新聞と戦争への道~」、「昭和天皇は何
を語ったのか─初公開・秘録 拝謁記」の2作品である。

前者は8月12日のNHKスペシャルで、戦前に10年間だけ発行されていた
「日本新聞」を取り上げている。後者は17日の放送で、初代宮内庁長官、
田島道治氏の日記によるものである。両作品共に役者を起用したドラマ仕
立てだった。

期待どおりというのは皮肉な表現だが、前者は想定どおりの「NHK歴史
もの」らしい仕上がりだった。後者についても多くの疑問を抱いた。

まず「新聞」の方だが、番組は暗い声音のナレーションで説明されてい
く。日本新聞は大正14(1925)年に司法大臣小川平吉が創刊し、賛同者に
平沼騏一郎や東条英機が名を連ねる。彼らは皆「明治憲法に定められた万
世一系の天皇を戴く日本という国を絶対視する思想を共有していた」との
主旨が紹介される。

明治憲法においても現行憲法においても国柄を表現する基本原理のひとつ
である「万世一系」の血筋が、まるで非難されるべき価値観であるかのよ
うな印象操作だ。

番組のメッセージは、創刊号で天皇中心の国家体制「日本主義」を掲げた
のが日本新聞で、その日本主義が日本全体を軍国主義へと走らせたという
ものだ。

不勉強の極み

だが、番組は説得力を欠く。歴史の表層の一番薄い膜を掬い取ってさまざ
まな出来事を脈絡もなくつなぎ合わせただけの構成で、どの場面の展開も
その因果関係が史料やエビデンスをもって証明されているものはない。飽
くまでも印象だけの馬鹿馬鹿しいこの作品を、NHKが国民から強制的に
徴収する受信料で制作したかと思うと怒りが倍加する。

日本全国に軍国主義の波を起こし、日本を戦争に駆り立てるほどの影響力
を発揮したとされる日本新聞の発行部数はわずか1万6000部程度だった。
しかも先述のように昭和10年までの10年間しか発行されていない。NHK
の主張するとおり、日本新聞に世論と政治を動かすほどの力があったのな
ら、言い換えれば、それだけ国民に熱烈に支持されていたのなら、なぜ10
年で廃刊に追い込まれたのか。

当時もっと影響力のあった新聞のひとつに朝日新聞がある。朝日は日本新
聞よりはるかに早い明治12(1879)年に大阪で創刊、9年後には東京に進
出、日本新聞創刊の1年前には堂々100万部を超える大新聞となっている。
朝日は満州事変などに関して極右のような報道で軍部を煽り部数を伸ばし
たが、なぜNHKは軍国主義を煽ったメディアとして日本新聞にのみ集中
したのか。不勉強の極みである。

この日本新聞の番組があり、8月15日をはさんで田島日記、即ち「拝謁
記」の方が放送された。二つの作品を対にした構成の背後には、軍国主義
の弊害を安倍晋三首相が実現しようとする憲法改正に結びつけ阻止しよう
とする意図があるのではないかと感じた。なぜなら拝掲記は昭和天皇が再
軍備と憲法改正を望んでおられた事実をかつてなく明確にしたからだ。

「拝謁記」の内容にさらに入る前に、NHKは田島道治日記の全容を公開
していないことを指摘しておきたい。私たちにはNHKの放送が全体像を
正しく反映しているのかどうか、判断できないのだ。

NHKは宮内庁記者クラブで田島日記に関する資料を配布したが、配布さ
れたのは日記全体ではなく、NHKが選んだ部分だけだった。田島氏のご
遺族が了承した部分だという説明もあったが、それはNHKが報道した分
にすぎない。新聞メディアをはじめ各社がその後報じた内容は、NHK配
布の資料が各社の持てるすべての素材であるために、NHKと基本的に同
じにならざるを得ず、NHKの視点を拡大することになる。

もう一点、NHKは今回の放送を「初公開」「秘録」と宣伝するが、田島
日記は16年前の03年6月号と7月号の「中央公論」と「文藝春秋」で加藤恭
子氏が紹介済みだ。加藤氏が伝えたのは昭和天皇が頻りに戦争を反省し、
後悔されていたという点で、NHKの番組でもそうした思いを述べるくだ
りが俳優の重々しい口調で演じられている。

天皇の政治利用

16年前の「文藝春秋」には「朕ノ不徳ナル、深ク天下ニ愧ヅ」として「昭
和天皇 国民への謝罪詔書草稿」全文も報じられている。この草稿は吉田
茂首相らの反対で、過去への反省の表現などが「当たり障りのない表現
に」(加藤氏)変えられたことを、加藤氏は、昭和天皇の思いを実現させ
るべく懊悩する田島氏の取り組みを通して紹介した。

NHK報道の新しい側面は、この点を昭和天皇と田島氏の対話形式で明ら
かにしたことだ。

他方、NHK報道で最も印象的なのが先述の憲法改正に関する点だ。これ
まで御製等を通じて推測可能だった再軍備と憲法改正への思いを、昭和天
皇は具体的に語っていらした。

昭和天皇は1952年には度々日本の再軍備や憲法改正に言及され、2月11日
には「他の改正ハ一切ふれずに軍備の点だけ公明正大に堂々と改正してや
つた方がいゝ」と述べられていた。3月11日には「侵略者のない世の中ニ
なれば武備ハ入らぬが侵略者が人間社会ニある以上軍隊ハ不得己(やむを
えず)必要だ」と指摘され、53年6月1日には米軍基地反対運動に「現実を
忘れた理想論ハ困る」と常識的見解を示された。

こうして明らかにされた昭和天皇のお気持を知って、日本国の在り方に責
任を持とうとするそのお姿には感銘を受ける。だが、国民も政府も慎重で
なければならない。日本は立憲君主国で、君主たる天皇は君臨はするが統
治はしない。何人(なんぴと)も天皇の政治利用は慎まなければならない
からである。

そもそも側近の日記がこのように、公開されてよいのかと疑問を抱く。こ
れまでも多くの側近が日記やメモを公開してきたが、天皇に仕えて見聞し
た、いわば職務上知り得た情報の公開には極めて慎重でなければならない
はずだ。公開されれば当然、私たちは強い関心を持って読む。しかし、そ
のようなことは、側近を信頼なさった天皇への裏切りではないか。こんな
ことで皇室、そして皇室を戴く日本は大丈夫か、国柄はもつのかと問わざ
るを得ない。皇室に仕える人々のルール作りが必要だ。

『週刊新潮』 2019年9月12日号 日本ルネッサンス 第866号