2019年09月16日

◆健康百話・「肝臓をいたわっていますか?」

片山 和宏(医師)


肝臓は、右のわき腹からみぞおちのあたりにある、重さが約1kgちょっとの臓器です。

心臓のように「どきどき」したり、お腹が空いた時の胃や腸のように「グーグー」鳴ることもありませんが、ただひたすら黙って体の他の臓器に栄養を送ったり、いらなくなったごみを捨てたりしていますので、家族で言えばまさに最近の若いお母さん達にはとても少なくなった昔の良妻賢母型のお母さんの役割を果たしています。

だからといって、あまり無理ばかりをさせていると、ご主人を見捨てて家出してしまうかもしれません。ですから、ご主人であるあなたが普段からちゃんといたわってあげる必要があるわけです。
 
基本的に肝臓は、少しくらい弱っていても自覚症状が出にくい臓器です。しかし、血液検査をすると、実はとても早くから「SOS」のサインを出していることが多いのが特徴です。

 「沈黙の臓器」として有名な、自覚症状の出にくい肝臓も、血液にはちゃんと気持ちを伝えているわけで、血液検査は肝臓の気持ちを察して上げられる重要な検査です。

 これから、どのようにいたわってあげればいいかとか、文句を言いたそうだけど、どのようにすれば早めに察してあげられるかなどについて、シリーズでご紹介していきたいと思います。

            大阪厚生年金病院 

2019年09月15日

◆中秋の名月、ランタン祭

宮崎 正弘


令和元年(2019)9月15日(日曜日)弐 通算第6196号 

 中秋の名月、ランタン祭り、ビクトリアピークも夜の公園も
 各地でSNSが呼びかけ、集会、乱闘、歌声広場、カオス続く香港

 14日、やはり香港のあらゆる場所が「戦場」となった。
 親中派と民主派の暴力的激突は、とくに九龍半島の旧工業地帯で発生
し、レオンの壁を破壊する白シャツ隊と、抗議する黒シャツの学生との乱
闘となり、数十のけが人が病院に運ばれた。民主派はただちに破壊された
レオンの壁を修復し、「解放香港」「時代革命」「光復香港」などと書き
込んだ。

中秋の名月、各所で龍の踊り、ランタン祭りが行われたが、大きなランタ
ンにも、「只有暴政、没有暴徒」(あるのは暴政だけ、暴徒なぞいな
い)。とくにユニークなのは、ビクトリアピークやライオンピークに数千
名が登山し、スマホのレーザーで自由香港などの呼びかけ、大きな垂れ幕
が山頂から降ろされた。

中学の教師が音頭を取っての公園集会、銀行員があつまって民主派支持の
集会、地下鉄職員らは「これ以上の暴力的破壊をやめろ」と叫び、それぞ
れが、全体的に統一がないが、おのおののネットワークで集合し、若者ら
が中心にばらばらに集まり、香港中が騒然とした日となった。

厦門プラザでは親中派が中国国旗を掲げて中国国歌を歌い、ほかのショッ
ピングプラザ、公園などでは「自由香港」の歌が大合唱された。おりから
のブットボール競技場でも、両派がにらみ合った。

この混乱は15日(日曜日)、各地で無許可の集会とデモが予定されてお
り、ふたたび流血と混乱の巷に化ける懼れが高まっている。
     
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読者の声  どくしゃのこえ  READERS‘ OPINIONS 
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   ♪
(読者の声1)14日夜放映された「日本文化チャンネル桜」の討論番組
「香港、台湾そして日本の運命」ですが、冒頭6分目から13分目あたり
に、宮?先生が登場されて、香港の現況を写真入りで解説されています。
https://www.youtube.com/watch?v=N8u_j_6inQQ
 写真がリアルで、何が起きているかを掌握でき、参考になります。
   (TY生、横浜)


(宮崎正弘のコメント)あのパネル写真は小生が撮影しました。
  ♪
(読者の声2)貴誌前号、香港と中国の関係の記事で、日本の知識人達の
「中立幻想」について、なるほどと思いました。
なんでもかんでも「ニュートラル」の立場に立つことが高等であるという
ような謝った認識を、そして一国平和主義に陥没してしまった日本の知識
人は、國際常識でいうところのインテリとはほど遠いわけですね。
  (HG生、水戸)


◆「風立ちぬ」の命日

渡部 亮次郎


5月28日。名作「風立ちぬ」の作者。20世紀の業病肺結核をモチーフに
し、肺結核に倒れた堀辰雄の命日である。今から61年前、1953(昭和28)
年のことだった。

「風立ちぬ」という松田聖子のアルバムもあるが「立ちぬ」という感傷的
な語感を借りただけで、堀の作品とは無関係である。

堀 辰雄(ほり たつお)のことを知ったのは中学生の頃で、兄が読んでい
たのを勝手に読んだのかも知れない。死去した時は既に高校2年生。関心
は別のところに変わり、その死は知らなかった。

堀 辰雄は 明治37(1904)年12月28日、東京市麹町区平河町(現在は東京
都千代田区)で生まれた。 最終学歴は東京帝国大学国文科。

東京府立三中から第一高等学校へ入学。入学とともに神西清と知り合い、
終生の友人となる。

高校在学中に室生犀星や芥川龍之介とも知る。一方で、関東大震災の際に
母を失うという経験もあり、その後の彼の文学を形作ったのがこの期間で
あったといえる。

東京帝国大学文学部国文科入学後、中野重治や窪川鶴次郎たちと知り合う
かたわら、小林秀雄や永井龍男らの同人誌にも関係し、プロレタリア文学
派と芸術派という、昭和文学を代表する流れの両方とのつながりをもった。

1930(昭和5)年に『聖家族』で文壇デビュー。 このころから肺結核を
病み、軽井沢に療養することも多く、そこを舞台にした作品を多くのこし
たことにもつながっていく。

1934年、矢野綾子と婚約するが、彼女も肺を病んでいたために、翌年、
八ヶ岳山麓の富士見高原療養所にふたりで入院する。しかし、綾子はその
冬に死去。この体験が、堀の代表作として知られる『風立ちぬ』の題材と
なった。

この『風立ちぬ』では、ポール・ヴァレリーの『海辺の墓地』を引用して
いる。このころから折口信夫から日本の古典文学の手ほどきを受ける。

王朝文学に題材を得た『かげろふの日記』のような作品や、『大和路・信
濃路』(1943年)のような随想的文章を書き始める。また、現代の女性の
姿を描くことにも挑戦し、『菜穂子』(1941年)のような、既婚女性の家
庭の中での自立を描く作品にも才能を発揮した。

戦時下の不安な時代に、時流に安易に迎合しない堀の作風は、後進の世代
の中にも多くの支持を得た。また、堀自身も後進の面倒をよく見ており、
立原道造、中村真一郎、福永武彦などが弟子のような存在として知られて
いる。

戦争末期からは症状も重くなり、戦後はほとんど作品の発表もできずに、
信濃追分で闘病生活を送った。

代表作「風立ちぬ」は1936(昭和11)年から執筆、『改造』などに分載さ
れたのち38年4月野田(のだ)書房より刊行。

「風立ちぬ、いざ生きめやも」とバレリーの詩句の引用をもって始め、リ
ルケの『鎮魂歌(レクイエム)』をエピローグに置く。

高原療養所とそこから山一つ隔てた「K村」とを舞台に、婚約者節子の病
床に寄り添い、やがて彼女に先だたれていく「私」が、死にさらされた自
分たちの生の意味と幸福の証(あかし)とを模索し、ついにそれらについ
ての確信を得ていく過程を描く。

婚約者矢野綾子の死という自らの痛切な体験を、詩情あふれることばのな
かで昇華し永遠の生の思想を訴えかけてくる点において、堀文学の代表的
名作となっている。
昭和28( 195年5月28日信濃追分(現・長野県北佐久郡軽井沢町)で死去
(満48歳没)2010・5・26
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


◆NHK終戦報道は相変わらず問題山積

櫻井よしこ


毎年8月になるとNHKのいわゆる“歴史もの特集”が放送される。NHK
の歴史に関する作品には、たとえば2009年4月の「JAPANデ
ビュー」、17年8月の「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」のよ
うに、偏向、歪曲、捏造が目立つものが少なくない。そのために私は
NHKの歴史ものは見たくないと思って過ごしてきた。

だが、今年はどうしても見ておく必要があると考えて視聴した。視聴した
のは「かくて“自由”は死せり~ある新聞と戦争への道~」、「昭和天皇は何
を語ったのか─初公開・秘録 拝謁記」の2作品である。

前者は8月12日のNHKスペシャルで、戦前に10年間だけ発行されていた
「日本新聞」を取り上げている。後者は17日の放送で、初代宮内庁長官、
田島道治氏の日記によるものである。両作品共に役者を起用したドラマ仕
立てだった。

期待どおりというのは皮肉な表現だが、前者は想定どおりの「NHK歴史
もの」らしい仕上がりだった。後者についても多くの疑問を抱いた。

まず「新聞」の方だが、番組は暗い声音のナレーションで説明されてい
く。日本新聞は大正14(1925)年に司法大臣小川平吉が創刊し、賛同者に
平沼騏一郎や東条英機が名を連ねる。彼らは皆「明治憲法に定められた万
世一系の天皇を戴く日本という国を絶対視する思想を共有していた」との
主旨が紹介される。

明治憲法においても現行憲法においても国柄を表現する基本原理のひとつ
である「万世一系」の血筋が、まるで非難されるべき価値観であるかのよ
うな印象操作だ。

番組のメッセージは、創刊号で天皇中心の国家体制「日本主義」を掲げた
のが日本新聞で、その日本主義が日本全体を軍国主義へと走らせたという
ものだ。

不勉強の極み

だが、番組は説得力を欠く。歴史の表層の一番薄い膜を掬い取ってさまざ
まな出来事を脈絡もなくつなぎ合わせただけの構成で、どの場面の展開も
その因果関係が史料やエビデンスをもって証明されているものはない。飽
くまでも印象だけの馬鹿馬鹿しいこの作品を、NHKが国民から強制的に
徴収する受信料で制作したかと思うと怒りが倍加する。

日本全国に軍国主義の波を起こし、日本を戦争に駆り立てるほどの影響力
を発揮したとされる日本新聞の発行部数はわずか1万6000部程度だった。
しかも先述のように昭和10年までの10年間しか発行されていない。NHK
の主張するとおり、日本新聞に世論と政治を動かすほどの力があったのな
ら、言い換えれば、それだけ国民に熱烈に支持されていたのなら、なぜ10
年で廃刊に追い込まれたのか。

当時もっと影響力のあった新聞のひとつに朝日新聞がある。朝日は日本新
聞よりはるかに早い明治12(1879)年に大阪で創刊、9年後には東京に進
出、日本新聞創刊の1年前には堂々100万部を超える大新聞となっている。
朝日は満州事変などに関して極右のような報道で軍部を煽り部数を伸ばし
たが、なぜNHKは軍国主義を煽ったメディアとして日本新聞にのみ集中
したのか。不勉強の極みである。

この日本新聞の番組があり、8月15日をはさんで田島日記、即ち「拝謁
記」の方が放送された。二つの作品を対にした構成の背後には、軍国主義
の弊害を安倍晋三首相が実現しようとする憲法改正に結びつけ阻止しよう
とする意図があるのではないかと感じた。なぜなら拝掲記は昭和天皇が再
軍備と憲法改正を望んでおられた事実をかつてなく明確にしたからだ。

「拝謁記」の内容にさらに入る前に、NHKは田島道治日記の全容を公開
していないことを指摘しておきたい。私たちにはNHKの放送が全体像を
正しく反映しているのかどうか、判断できないのだ。

NHKは宮内庁記者クラブで田島日記に関する資料を配布したが、配布さ
れたのは日記全体ではなく、NHKが選んだ部分だけだった。田島氏のご
遺族が了承した部分だという説明もあったが、それはNHKが報道した分
にすぎない。新聞メディアをはじめ各社がその後報じた内容は、NHK配
布の資料が各社の持てるすべての素材であるために、NHKと基本的に同
じにならざるを得ず、NHKの視点を拡大することになる。

もう一点、NHKは今回の放送を「初公開」「秘録」と宣伝するが、田島
日記は16年前の03年6月号と7月号の「中央公論」と「文藝春秋」で加藤恭
子氏が紹介済みだ。加藤氏が伝えたのは昭和天皇が頻りに戦争を反省し、
後悔されていたという点で、NHKの番組でもそうした思いを述べるくだ
りが俳優の重々しい口調で演じられている。

天皇の政治利用

16年前の「文藝春秋」には「朕ノ不徳ナル、深ク天下ニ愧ヅ」として「昭
和天皇 国民への謝罪詔書草稿」全文も報じられている。この草稿は吉田
茂首相らの反対で、過去への反省の表現などが「当たり障りのない表現
に」(加藤氏)変えられたことを、加藤氏は、昭和天皇の思いを実現させ
るべく懊悩する田島氏の取り組みを通して紹介した。

NHK報道の新しい側面は、この点を昭和天皇と田島氏の対話形式で明ら
かにしたことだ。

他方、NHK報道で最も印象的なのが先述の憲法改正に関する点だ。これ
まで御製等を通じて推測可能だった再軍備と憲法改正への思いを、昭和天
皇は具体的に語っていらした。

昭和天皇は1952年には度々日本の再軍備や憲法改正に言及され、2月11日
には「他の改正ハ一切ふれずに軍備の点だけ公明正大に堂々と改正してや
つた方がいゝ」と述べられていた。3月11日には「侵略者のない世の中ニ
なれば武備ハ入らぬが侵略者が人間社会ニある以上軍隊ハ不得己(やむを
えず)必要だ」と指摘され、53年6月1日には米軍基地反対運動に「現実を
忘れた理想論ハ困る」と常識的見解を示された。

こうして明らかにされた昭和天皇のお気持を知って、日本国の在り方に責
任を持とうとするそのお姿には感銘を受ける。だが、国民も政府も慎重で
なければならない。日本は立憲君主国で、君主たる天皇は君臨はするが統
治はしない。何人(なんぴと)も天皇の政治利用は慎まなければならない
からである。

そもそも側近の日記がこのように、公開されてよいのかと疑問を抱く。こ
れまでも多くの側近が日記やメモを公開してきたが、天皇に仕えて見聞し
た、いわば職務上知り得た情報の公開には極めて慎重でなければならない
はずだ。公開されれば当然、私たちは強い関心を持って読む。しかし、そ
のようなことは、側近を信頼なさった天皇への裏切りではないか。こんな
ことで皇室、そして皇室を戴く日本は大丈夫か、国柄はもつのかと問わざ
るを得ない。皇室に仕える人々のルール作りが必要だ。

『週刊新潮』 2019年9月12日号 日本ルネッサンス 第866号

◆徳川家康を亡ぼせなかった真田幸村

毛馬 一三


家康が、生涯の戦歴で死に損なったのは、2度である。1度は、元亀3年(1573年1月25日)、武田信玄軍に徳川軍が惨敗した「三方ヶ原の戦い」の時。討ち死に寸前まで追い詰められたが、僅かな供回と必死で浜松城へ逃げ帰り、命拾いをした。

2度目の「死に損ない」は、慶長20年(1615年)年5月7日の「大阪夏の陣:茶臼山の戦い」(大阪市天王寺)の時だ。

家康は、この時二度も「自害」しようとしたが、部下の将に諌められて逃亡。敗戦の将の汚名など、どうでもよかった。もし家康が命を取られていたら「徳川幕府」は「夢のまた夢」だったことに間違いはない。

この徳川幕府の存亡に繋がる家康の2度目の「死に損ない」地は、案外知られていない。

この「死」からの逃避は、1番目の「三方ヶ原の戦い」より比較にならないほど悲惨なものだった。歴史上でも実に深い意味合いも有する。そのことをこれから追々。

その戦火跡地・「大阪夏の陣:茶臼山の戦地」(大阪市天王寺)を、友人たちと訪ねた。

この大阪夏の陣:茶臼山の戦いで、家康を死に追いつめたのは、実は、真田幸村である。豊臣方の主将の一人だ。この真田幸村の戦闘ぶりは、徳川軍を総じて縮みあがらせた。

幸村は、茶臼山の戦の前日の慶長20年(1615年)年5月6日の「道明寺の戦い」で、徳川軍の先鋒隊・伊達政宗隊を銃撃戦の末に一時的に後退させている。先鋒隊撃破という、幸村の先勝だった。

この勝利で、真田隊は、豊臣全軍を一時撤収させた。撤収には、訳があった。豊臣方は主武将が相次いで討死した上、全軍も疲弊していたため、兵士に休息を与える配慮からだった。

そこで幸村は、秘策を考え、上奏を試みる。「兵士の士気を高め、徳川を打ち破るには、豊臣秀頼本人の直接出陣有るのみ」と直訴したのだ。

ところが豊臣譜代衆や、秀頼の母・淀殿に阻まれ、秀頼の出陣は実現しなかった。

この怠慢な判断が、結果的に豊臣方の滅亡に繋がる。

そこで幸村は、「そんなことでは徳川方を追い込めない」として、5月7日、大野治房・明石全登・毛利勝永と共に、最後の作戦を立案した。

それは四天王寺・茶臼山付近の右翼に真田隊、左翼には毛利隊を布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して、家康の本陣を孤立させた上で、これを急襲・横撃させるという作戦だった。

ところが、思いもよらず作戦が狂った。一部の毛利隊が合図を待たずに射撃を開始してしまったからだ。この有効な戦法は、頓挫せざるを得なかった。

そこで幸村は、腹を括った。「今はこれで戦は終わり也。あとは快く戦うべし。狙うは徳川家康の首ただひとつのみ!」と決心し、真っ正面から真一文字に徳川家康本陣のみに狙いを定めて、突撃を敢行した。

この突撃は真田隊のみではなく、毛利・明石・大野治房隊などを含む豊臣諸部隊が全線にわたって奮戦。これにより徳川勢は壊乱し、総崩れに至った。

幸村は、後方の家康本陣に三度攻め込み、家康の親衛隊・旗本・重臣勢を蹴散らして本陣を蹂躙、「馬印」も倒した。

真田隊の凄まじさに追い詰められた家康は、二度も「自害」を覚悟したという。もう一押し攻め込めていたら、家康の「落命」は確実だったとも言われている。家康は部下の将兵に諌められて、意に反して命からがら逃げた。

残念ながら、幸村の家康追いつめもここまでだった。

兵力に勝る徳川勢に追い詰められ、幸村は負傷して仕舞う。やむなく一旦後退することを決め、近くの「安居神社」避難せざるをえなかった。

幸村は、当神社の1本松にもたれ、傷を癒していた時、追っ手の越前主の兵士の槍で襲われた。幸村は「ここまでだ」と決意。切腹して自害した。享年49だった。

「安居神社」に行くと、「武将姿の銅像」や高さ5メートほどの「幸村戦没の石碑」がある。

銅像と石碑を見ていると、切腹自害した幸村から「徳川潰しを果たせなかった」無念さの呟きが伝わってくるようだ。一方、「家康を追い詰めた」役目を立派に果たした豊臣方戦将としての誇りの声も聞こえてくるような気もした。

もし豊臣方が秀頼を先陣に立て、幸村を主将にした総力戦で「茶臼山の戦い」に臨んでいたら、確実に「家康を自害」させていたに違いないという説もある。

そうだとすると、家康不在では徳川勢力の後退は余儀なくされ、秀頼による豊臣時代が継続したかも知れないという説に続く。

「安居神社」を出て、坂道を少し下ると、本誌で以前書いた大阪で唯一自然の滝:「玉出の滝」と出会う。ゆっくり眺めると、今度ばかりは「安居神社」の幸村の無念の想いが、滝の水に混じってドット流れ落ちているように見えた。

もし、淀君を始め豊臣譜代衆が「茶臼山の戦い」の決戦に挑んで「家康壊滅」を図る決断を下していたら、おそらくその後、別の歴史が展開していただろう。

時勢に応じて歴史を踏み外さない判断を下さなければならない指導者は、いつの世にも不可欠だ。名所旧跡の散策は、こうした現代の動きを連想させてくれるだけに、愉しいものだ。

<参考:ウィキペディア>

2019年09月14日

◆昨秋以来、習近平から笑顔が消えた

宮崎 正弘


令和元年(2019)9月14日(土曜日)通算第6194号  

昨秋以来、習近平から笑顔が消えた
追い込まれ、つるし上げられ、孤独のなか、香港問題で戦術的後退

最初のスローガンは「反送中」だった。たとえ容疑者と言えども、ちゃん
とした裁判が行われず、法治がない中国へ送還してはいけないという要求
だった。
 
97年の約束事は「一国両制度」。香港人にとっては「港人治港」(香港
人が香港を治める)と錯覚したが、選挙は擬制の民主政治だった。

民主化要求のデモ隊は「逃亡犯条例」の撤回を勝ち取ったが、これからの
裁判を前にして、「独立した第三者による調査委員会の設置」から、収監
中の活動家の全員釈放、そして「普通選挙」を呼びかける5つの要求をな
らべ、「五大訴求、欠一不可」(五大要求のうち一つでも欠けたら駄目)
となって恒久的闘争を宣言している。
 
この標語は駅の外壁から街のビル壁など、いたる所で大書されている。
 香港での異変、騒擾。乱闘、狼藉。しかし暴動につきものの商店襲撃、
略奪は発生しておらず、治安は保たれている。

武装集団にも一定の掟のような秩序が存在しているようだ。彼らはヘル
メットにマスク。お互いに誰が誰かを知らない。指導者がいないという点
でも、フランスで昨秋来つづく黄色のベストによる抗議行動と似ている。

民主派からみれば香港政庁は名ばかりの旧態依然の体制でしかなく、国民
が全体主義の支配者によって監視され、冷酷に静かに支配される現状を突
破するたたかいであり、体制翼賛会的な中国同調派や親中派から観れば、
警官隊に火炎瓶を投げ、鉄パイプや長い棒で戦う武装集団は「暴徒」と総
括される(火炎瓶を投げている過激派は、デモ隊に混入した中国の工作員
という説が有力)。

香港メディアの論調は鮮明に別れ、中国よりの「文わい報」は「暴徒害
港」と書いたが、自由民主擁護の「リンゴ日報」は、「怒火闘争」と書い
て、火焔瓶も放火も、怒りの結集と比喩し、デモ隊の要求は「港人求美懲
中共」(香港市民は米国に対して、中国共産党を懲罰するように求めてい
る)とした。
 
香港空港には数千、数万の香港市民が座り込み、国際線の欠航便が相次い
だため、国際的関心事となった。世界から現在、およそ七百人前後の
ジャーナリストが押し寄せ、地元のメディアとテレビを併せると千数百の
報道陣が蝟集している。

ところが、警官隊がPRESSにも暴力行為をふるったため、香港警察は
ジャーナリストの大半を敵に廻してしまった。

外国メディアで香港政庁の遣り方を支持する論調を見つけるのは至難の業
である。ところが、大陸のメディアは香港の民衆が「反米デモ」をしてい
ると報じている。

取締まりに当たった香港警察の発表(9月10日)によれば、負傷した警
官は238名に及び、また使用した「武器」は、催涙弾が2382発、ゴ
ム弾が492発、スポンジ手榴弾が225発、ビーチバックが59個。そ
して実弾は3発だったという。


 ▲共産党にとって、中国王朝にとって妥協は「犯罪」である

香港へ年間3千万人とも言われた観光客の足は遠のき(もっとも2千万近
くは中国大陸からの買い物客)、土産屋、デューティ・フリーの売り上げ
は激減。ブランドの旗艦店、たとえばブラドなどは店じまいの態勢には
いった。

空港へいたる電車の駅でも座り込み、ハイウェイにはバリケード。このた
め渋滞が起こり、空港は閉鎖寸前。旅客はそれでも辛抱強く再開を待ち、
抗議行動への批判はなかった。

金鐘駅から湾仔、中環という香港の心臓部には政府庁舎、官庁街、巨大商
社の高層ビルが林立し、五つ星ホテルが豪奢を競っている。ビルとビルと
は回廊が結び、ビルの谷間には緑オアシスのような公園が点在している。
これらの地下鉄駅は、券売機も改札も、案内板も、そして防犯カメラも破
壊され、出入り口は閉鎖された。

中国共産党は、「弾圧か、妥協か」の二者択一を迫られ、まずは十月一日
の建軍パレード前に事態を収めようと、突如、林鄭月峨行政長官に命じ
て、「逃亡犯条例」を撤回させた。

直前に国務院の香港マカオ弁事処主任と香港政庁との打ち合わせでは埒が
あかず、常務委員会は担当だった韓正を担当から外し、王岐山が香港との
国境に派遣された。

しかし中国皇帝のメンタリティから言えば、妥協とは犯罪である。妥協と
は見せず、戦略的後退を図ったが、それがたとえ戦術であるにせよ、中国
が帝国主義的覇権を求めるという究極の戦略は微動だにしていない。

それゆえ逃亡犯条例撤廃など、目先の誤魔化しと見抜いた民主派は一斉に
「5つの要求のうち、ひとつでも欠けては行けない。最後まで逃走を続け
る」と宣言し、警官隊の凶暴性を帯びた弾圧に怯まず、集会、デモ、授業
ボイコット、人間の鎖、国際社会へ訴え続ける。

そこで「親中派」や中国共産党の「第5列」は戦術を変更した。

歌声広場の演出というソフト路線である。香港の随所にある巨大ショッピ
ンモールの吹き抜けロビィに大きな五星紅旗を掲げ、愛国的な革命歌の合
掌を始めた。

一方、民主派は同じショッピングモールに集会場所を変えて、賛美歌や広
東ポップなど。呉越同舟という奇妙な空間が生まれだした。サッカー予選
で、スタジアムを埋めた数万の民衆は、突如鳴り響いた中国国歌に激しい
ブーイングを繰り出し、「われわれは香港人」「中国ではない。中国の国
家を演奏するな」と叫んだ。

 ▲「香港市民」の政治観、国家観、歴史観、人生観の大変化

筆者が不思議と思ったことは幾つかあるが、最大の関心事は香港の新しい
世代が物怖じしないという人生観、その世界観の異変(というよりグロー
バル化)、共産党の暴力を怖れずに、民主主義のために戦うとする姿勢を
崩さないことである。
 
拘束された若者らには裁判が待ち受け、法廷闘争が長引くだろうし、就職
には不利になるだろう。それでも彼らが立ち上がったのだから、そこには
或る決意があったことになる。

半世紀前、筆者が最初に香港に足を踏み入れたとき、異臭がただよい、
人々は半裸。うちわで涼み、汗の臭いが街に充満していた。

自転車が主流でタクシーはオースチンかベンツだった。アパートは貧弱で
薄汚れ、エアコンを備えたビルは少なく、若い女性もサンダル、化粧もせ
ず、粗末な衣服を身につけていた。

中国大陸から着の身着のままで逃げて来た世代である。香港財閥一位と
なった李嘉誠は広東省の北端、潮州から難民として香港へやってきた一人
だった。かれは、今回の騒擾を「暴力はやめよう、お互いに冷静に」と新
聞に意見広告を打った。

1970年代に香港は落ち着きを取り戻し、経済活動に邁進し、儲かる話なら
なんでものった。蓄財が一番、政治には無関心を装い。ともかく金を貯
め、子供達をカナダや英国へ留学させ、いずれは香港から自由な国々に移
住するというのが香港人の夢だった。

 全体主義に立ち向かうという迫力はなく、北京の遣り方には背を向けて
いた。

当時、貿易会社を経営していた筆者は何十回となく香港へ通い、工業街の
プレス音、金属加工の飛び散る火花、町中でも黒煙が上がり、輸出基地と
して華やかだった。まったく公害対策はなかった。いまは工業街跡地には
高層マンションが建っている。自家用車もベンツが主流だったが、いまで
はトヨタ、BMWなどが疾駆している。

その時代に付き合っていた貿易相手の工場長や商社の人々は、カネをため
るや、豪、カナだ、そして米国へ移住していった。あの時代の貿易関係の
知己、知り合いは香港に誰もいない。まさに誰も香港からいなくなったのだ。

「全体主義の恐怖」を知っていたからこそ、かれらは自由に最大の価値を
見出し、香港の将来に早々と見切りをつけていた。「ここは永住する場所
ではない」と。

1980年代、うってかわって中国が「改革開放」を本格化させるや、まっさ
きに大陸に工場を造り、賃金の安さと土地の減免税特典に惹かれ、香港華
僑の多くが投資先を移しはじめた。

それでも1989年の天安門事件を目撃して衝撃を受けた世代は、97年返還後
の中国人民解放軍の進駐を懼れ、海外へ海外へと移住先を選定し、また英
連邦諸国は香港からの移民には前向きだった。

この時代に中国へ大規模な投資を敢行したのが李嘉誠だった。かれは王府
井の入り口に高層ビルを建てた。香港は江沢民派の利権の巣窟に化けつつ
あった。

 ▲自由への意思

天安門事件から30年の歳月が流れ去ってまた世代が交替した。

いまの高校生、大学生は感覚的にも教養的にも狭隘な中華思想などに拘泥
せず、国際化され、高層ビルの近代都市となった香港を生まれたときから
観てきたし、テレビは世界各国のニュースを流し、書店へ行けば習近平批
判本がうずたかく積まれ、携帯電話で地球の裏側とも結ばれている。

欧米の自由な制度に比べると規制が強く、息の詰まるような香港の政治制
度の矛盾を掌握しており、広東語を喋ることは軽蔑され、北京語という広
東人にとっては外国語が学校で強制されたことにも反感を強めてきた。

若者の中には「香港独立」を言い出す勇敢なグループも出現し、香港独立
党を旗揚げした。根拠は香港の知識人、徐承恩が書いた『香港――躁鬱な都
市国家』で、香港の原住民とは、ポルトガル、英国と痛恨してきた百越の
人々が構成し、『香港民族』と呼ぶべきだとする説である。

また中国大陸には結社の自由、信仰の自由、表現の自由がなく、そればか
りか政党は共産党以外認められず、自由投票はなく、人間性が押しつぶさ
れた体制のなか、庶民は全体主義支配に隷属していることを知っている。

人間本来の活動も、自由な言論も破壊されつくした状況を知っている。か
れらの感性が共産主義を受け付けないのだ。
あまつさえ香港社会の諸矛盾の筆頭は所得格差である。驚くべき数字だ
が、香港の『ジニ係数』たるや、0・539と、まるで中国なみである(中
国は0・62)。

大学の門は狭く、受験競争は日本より激しく、たとえ一流企業に就職でき
ても、これほどマンション価格が上昇すれば住宅取得も、そして結婚も難
しくなる。人生に明るい展望が希薄となった。


 ▲特権階級のいいとこ取りを許せない

ところが大陸からやってくる「太子党」のこどもたちは大学に裏口で入
り、コネで企業にあっさりと就職し、カネにあかせて豪勢な生活を営んで
いる。「特権階級のいいとこ取り」と映り、かれらは怨嗟の的となる。

すなわち植民地の宗主国が英国から中国に変わっただけではないか。若者
達の怒りは深く堆積していた。

この点で旧世代の香港人の意識とは異なる。とくに1967年の香港暴動は反
英国環状が爆発し、その背後で指令していたのは北京であり、周恩来が叛
乱を支持していた。

6月以来、香港での抗議集会やデモ、署名活動に参加している若い世代
は、共産党の押しつけた歴史教育を否定した。

中国共産党が流すフェイクニュースをすぐに見破り、共産党製のプロパガ
ンダはまったく受け付けなくなった。

アンチ共産主義の精神土壌が自然と築かれていた。

中国が目論んだ香港市民の洗脳工作は、みごとに失敗したと言って良いだ
ろう。

だから「生きるか、死ぬか」と悲壮な決意を以て全体主義と戦うのであ
る。欧米はそれを支援する。資金カンパ、応援部隊、プロパガンダのノウ
ハウが学生らに供与され、自由世界の知識人は香港支援に立ち上がった。
沈黙しているのは日本のエセ知識人くらいだろう。

また日本のメディアは中立が賢い行き方とでも思って、民主主義を守り共
産主義支配と戦っている香港の若者を前面的に支援しないのだ。日本が西
側の自由民主人権法治を価値観とする陣営にあるという自覚がないからで
あり、これが「中立幻想」に取り憑かれた現代日本人の知的劣化、あるい
は一国平和主義というエゴイズムの露骨な態度表現である。

      
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書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW
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 陳独秀と胡適は共産主義を「民主、近代技術」の理想社会とした
  中国共産党は、ふたりの大知識人の功績をきれいに消し去った

佐藤公彦『陳独秀 その思想と生涯 1879−1942』(集公舎)
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「中国共産党の創設者」=陳独秀の存在はあまねく知られてはいない。陳
独秀の伝記に関して言えば、横山宏章のものを読んだ記憶しかない。胡適
は、台湾へ行けば選集も出ているが、日本では誰も相手にせず、研究者も
少ない。

つまりこの二人の大知識人は歴史に存在しなかったように忘れられた。革
命後、毛沢東が党の歴史から、陳独秀の名前を削除したからだ。
本書の副題は「胡適序言・陳独秀遺著『陳独秀の最後の見解(論文と書
信)』」となっているように序文を寄せているのが中国を代表した知識人
の胡適である。

しかし戦後、彼らの名を知る人はよほどの中国通である。孫文は大いに知
られるが誇大妄想的詐欺師という真姿はスルーされており、孫文の伝記は
美化された肯定的な面にのみ収斂され、プラス方面に一方的に歪められ、
なにか英傑のように日本では語られる。

革命の主役だった宋教仁(国民党の事実上の代表)も、黄興(辛亥革命の
主役)も語られなくなった。つまり現代中国史は、毛沢東が主役、本当に
革命をなした知識人や活動家は埋もれ木となって、歴史家いがい忘却の彼
方へ散った。

本書の肯綮は次の数十行が代弁している。

「胡適は失望させられた人だった。陳独秀は挫折させられた人だった。か
れらは『新しい文化と教育』の力によってあるいは『新しい階級』の力に
よって、旧い中国を『近代』的な社会・国家に生まれ変わらせようと奮闘
した。しかし新しい文化と近代革命を通した中国の近代的な社会・国家へ
の転型は結実しなかった。(その替わりに)王朝・帝国が再建された」

しかも「この『共産党』王朝・『大中華』帝国は、内に『少数』諸民族を
抑圧してその言語と文化を奪い、『人民の移動の自由』を農村戸籍制度で
奪い、人民の『宗教・思想・言論・出版の自由、集会結社の自由』を奪
い、IT・AI技術を駆使した『監視社会』を作り上げ、14億人民への
『個別人身支配』の完成を目指して邁進している(中略)。外では『一帯
一路』と言って金銭力と軍事力で周辺域を威圧しつつある」

要するに共産主義なるまやかしスローガンは歴代王朝のごとく帝国主義に
なるのである。

本書は浩瀚、それでも中国研究者には必読の文献だろう。
            
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読者の声  どくしゃのこえ  READERS‘ OPINIONS 
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   ♪
(読者の声1)御新刊の『地図にない国を行く』(海竜社)を、ようやく
拝読しました。特派員さえ足を踏み入れていない世界の奥地、そこに俄然
進出している中国企業の実態。現地の様子を活写されていて、感動を覚え
ました。

パプアニューギニアで展開されている中国の戦略的進出ぶりに合点がいき
ます。英国は旧大英連邦の国々を大切に考えており、コモンウエルズとし
ての豪州、ニュージーランドの利害にも中国が影響を与えている現実を前
に、英国海軍はいよいよ本格的に出て行かざるを得ない雰囲気があります。
自由航行作戦に空母を派遣していますが、本格化はこれからでしょう。
                      (NO生、千代田区)
  ♪
(読者の声2)貴誌の最近の訃音欄で、竹村健一氏、佐藤雅美氏、安部譲
二氏への追悼がありましたが、やはり先生が親しかったと推測しているの
ですが長谷川慶太郎氏への訃音が載りませんね。(TK生、茨城)


(宮崎正弘のコメント)およそ無縁の方です。90年代初頭だったか、光
文社カッパ・ブックスから2人の対談本の企画があり、「考えてみます」
と返事を遅らせている裡に、先方もためらいがあったのか、立ち消えた企
画でした。

志賀義雄の鞄持ちだった来歴からも真性の保守とは思えず、かと言って深
い学究的理論を元に構築された学説でもなく、長谷川氏の経済予測は最初
の「石油危機は突破できる」論いがい、ほとんどが外れでした。

とくにドルが新札を用意し、その配色も決まっているというすっぱ抜きの
長谷川レポートが『週刊文春』を飾ったとき、当時編集長だった田中健五
氏に電話をして、どの程度の信憑性があるのか、尋ねた記憶があります。
当時、貿易の決済現場にいた小生から言えば、あり得ない突拍子もない与
太話という認識でしたから。

 氏の予測の根幹にあるのは楽天的、明るい未来であり、日本人に希望を
持たせる。それが人気の秘密だったのでしょうね。佐高信が、「光の使
者」と揶揄したものでしたが。。。。

そういえば、或る政治家のパーティと飯島清氏の葬儀会場でお見かけした
ことがありました。 

◆「風立ちぬ」の命日

渡部 亮次郎


5月28日。名作「風立ちぬ」の作者。20世紀の業病(号病)肺結核をモ
チーフにし、肺結核に倒れた堀辰雄の命日である。今から61年前、
1953(昭和28)年のことだった。

「風立ちぬ」という松田聖子のアルバムもあるが「立ちぬ」という感傷的
な語感を借りただけで、堀の作品とは無関係である。

堀 辰雄(ほり たつお)のことを知ったのは中学生の頃で、兄が読んでい
たのを勝手に読んだのかも知れない。死去した時は既に高校2年生。関心
は別のところに変わり、その死は知らなかった。

堀 辰雄は 明治37(1904)年12月28日、東京市麹町区平河町(現在は東京
都千代田区)で生まれた。 最終学歴は東京帝国大学国文科。

東京府立三中から第一高等学校へ入学。入学とともに神西清と知り合い、
終生の友人となる。

高校在学中に室生犀星や芥川龍之介とも知る。一方で、関東大震災の際に
母を失うという経験もあり、その後の彼の文学を形作ったのがこの期間で
あったといえる。

東京帝国大学文学部国文科入学後、中野重治や窪川鶴次郎たちと知り合う
かたわら、小林秀雄や永井龍男らの同人誌にも関係し、プロレタリア文学
派と芸術派という、昭和文学を代表する流れの両方とのつながりをもった。

1930(昭和5)年に『聖家族』で文壇デビュー。 このころから肺結核を
病み、軽井沢に療養することも多く、そこを舞台にした作品を多くのこし
たことにもつながっていく。

1934年、矢野綾子と婚約するが、彼女も肺を病んでいたために、翌年、
八ヶ岳山麓の富士見高原療養所にふたりで入院する。しかし、綾子はその
冬に死去。この体験が、堀の代表作として知られる『風立ちぬ』の題材と
なった。

この『風立ちぬ』では、ポール・ヴァレリーの『海辺の墓地』を引用して
いる。このころから折口信夫から日本の古典文学の手ほどきを受ける。

王朝文学に題材を得た『かげろふの日記』のような作品や、『大和路・信
濃路』(1943年)のような随想的文章を書き始める。また、現代の女性の
姿を描くことにも挑戦し、『菜穂子』(1941年)のような、既婚女性の家
庭の中での自立を描く作品にも才能を発揮した。

戦時下の不安な時代に、時流に安易に迎合しない堀の作風は、後進の世代
の中にも多くの支持を得た。また、堀自身も後進の面倒をよく見ており、
立原道造、中村真一郎、福永武彦などが弟子のような存在として知られて
いる。

戦争末期からは症状も重くなり、戦後はほとんど作品の発表もできずに、
信濃追分で闘病生活を送った。

代表作「風立ちぬ」は1936(昭和11)年から執筆、『改造』などに分載さ
れたのち38年4月野田(のだ)書房より刊行。

「風立ちぬ、いざ生きめやも」とバレリーの詩句の引用をもって始め、リ
ルケの『鎮魂歌(レクイエム)』をエピローグに置く。

高原療養所とそこから山一つ隔てた「K村」とを舞台に、婚約者節子の病
床に寄り添い、やがて彼女に先だたれていく「私」が、死にさらされた自
分たちの生の意味と幸福の証(あかし)とを模索し、ついにそれらについ
ての確信を得ていく過程を描く。

婚約者矢野綾子の死という自らの痛切な体験を、詩情あふれることばのな
かで昇華し永遠の生の思想を訴えかけてくる点において、堀文学の代表的
名作となっている。
昭和28( 195年5月28日信濃追分(現・長野県北佐久郡軽井沢町)で死去
(満48歳没)2010・5・26
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


◆NHK終戦報道は相変わらず問題山積

櫻井よしこ


毎年8月になるとNHKのいわゆる“歴史もの特集”が放送される。NHK
の歴史に関する作品には、たとえば2009年4月の「JAPANデ
ビュー」、17年8月の「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」のよ
うに、偏向、歪曲、捏造が目立つものが少なくない。そのために私は
NHKの歴史ものは見たくないと思って過ごしてきた。

だが、今年はどうしても見ておく必要があると考えて視聴した。視聴した
のは「かくて“自由”は死せり~ある新聞と戦争への道~」、「昭和天皇は何
を語ったのか─初公開・秘録 拝謁記」の2作品である。

前者は8月12日のNHKスペシャルで、戦前に10年間だけ発行されていた
「日本新聞」を取り上げている。後者は17日の放送で、初代宮内庁長官、
田島道治氏の日記によるものである。両作品共に役者を起用したドラマ仕
立てだった。

期待どおりというのは皮肉な表現だが、前者は想定どおりの「NHK歴史
もの」らしい仕上がりだった。後者についても多くの疑問を抱いた。

まず「新聞」の方だが、番組は暗い声音のナレーションで説明されてい
く。日本新聞は大正14(1925)年に司法大臣小川平吉が創刊し、賛同者に
平沼騏一郎や東条英機が名を連ねる。彼らは皆「明治憲法に定められた万
世一系の天皇を戴く日本という国を絶対視する思想を共有していた」との
主旨が紹介される。

明治憲法においても現行憲法においても国柄を表現する基本原理のひとつ
である「万世一系」の血筋が、まるで非難されるべき価値観であるかのよ
うな印象操作だ。

番組のメッセージは、創刊号で天皇中心の国家体制「日本主義」を掲げた
のが日本新聞で、その日本主義が日本全体を軍国主義へと走らせたという
ものだ。

不勉強の極み

だが、番組は説得力を欠く。歴史の表層の一番薄い膜を掬い取ってさまざ
まな出来事を脈絡もなくつなぎ合わせただけの構成で、どの場面の展開も
その因果関係が史料やエビデンスをもって証明されているものはない。飽
くまでも印象だけの馬鹿馬鹿しいこの作品を、NHKが国民から強制的に
徴収する受信料で制作したかと思うと怒りが倍加する。

日本全国に軍国主義の波を起こし、日本を戦争に駆り立てるほどの影響力
を発揮したとされる日本新聞の発行部数はわずか1万6000部程度だった。
しかも先述のように昭和10年までの10年間しか発行されていない。NHK
の主張するとおり、日本新聞に世論と政治を動かすほどの力があったのな
ら、言い換えれば、それだけ国民に熱烈に支持されていたのなら、なぜ10
年で廃刊に追い込まれたのか。

当時もっと影響力のあった新聞のひとつに朝日新聞がある。朝日は日本新
聞よりはるかに早い明治12(1879)年に大阪で創刊、9年後には東京に進
出、日本新聞創刊の1年前には堂々100万部を超える大新聞となっている。
朝日は満州事変などに関して極右のような報道で軍部を煽り部数を伸ばし
たが、なぜNHKは軍国主義を煽ったメディアとして日本新聞にのみ集中
したのか。不勉強の極みである。

この日本新聞の番組があり、8月15日をはさんで田島日記、即ち「拝謁
記」の方が放送された。二つの作品を対にした構成の背後には、軍国主義
の弊害を安倍晋三首相が実現しようとする憲法改正に結びつけ阻止しよう
とする意図があるのではないかと感じた。なぜなら拝掲記は昭和天皇が再
軍備と憲法改正を望んでおられた事実をかつてなく明確にしたからだ。

「拝謁記」の内容にさらに入る前に、NHKは田島道治日記の全容を公開
していないことを指摘しておきたい。私たちにはNHKの放送が全体像を
正しく反映しているのかどうか、判断できないのだ。

NHKは宮内庁記者クラブで田島日記に関する資料を配布したが、配布さ
れたのは日記全体ではなく、NHKが選んだ部分だけだった。田島氏のご
遺族が了承した部分だという説明もあったが、それはNHKが報道した分
にすぎない。新聞メディアをはじめ各社がその後報じた内容は、NHK配
布の資料が各社の持てるすべての素材であるために、NHKと基本的に同
じにならざるを得ず、NHKの視点を拡大することになる。

もう一点、NHKは今回の放送を「初公開」「秘録」と宣伝するが、田島
日記は16年前の03年6月号と7月号の「中央公論」と「文藝春秋」で加藤恭
子氏が紹介済みだ。加藤氏が伝えたのは昭和天皇が頻りに戦争を反省し、
後悔されていたという点で、NHKの番組でもそうした思いを述べるくだ
りが俳優の重々しい口調で演じられている。

天皇の政治利用

16年前の「文藝春秋」には「朕ノ不徳ナル、深ク天下ニ愧ヅ」として「昭
和天皇 国民への謝罪詔書草稿」全文も報じられている。この草稿は吉田
茂首相らの反対で、過去への反省の表現などが「当たり障りのない表現
に」(加藤氏)変えられたことを、加藤氏は、昭和天皇の思いを実現させ
るべく懊悩する田島氏の取り組みを通して紹介した。

NHK報道の新しい側面は、この点を昭和天皇と田島氏の対話形式で明ら
かにしたことだ。

他方、NHK報道で最も印象的なのが先述の憲法改正に関する点だ。これ
まで御製等を通じて推測可能だった再軍備と憲法改正への思いを、昭和天
皇は具体的に語っていらした。

昭和天皇は1952年には度々日本の再軍備や憲法改正に言及され、2月11日
には「他の改正ハ一切ふれずに軍備の点だけ公明正大に堂々と改正してや
つた方がいゝ」と述べられていた。3月11日には「侵略者のない世の中ニ
なれば武備ハ入らぬが侵略者が人間社会ニある以上軍隊ハ不得己(やむを
えず)必要だ」と指摘され、53年6月1日には米軍基地反対運動に「現実を
忘れた理想論ハ困る」と常識的見解を示された。

こうして明らかにされた昭和天皇のお気持を知って、日本国の在り方に責
任を持とうとするそのお姿には感銘を受ける。だが、国民も政府も慎重で
なければならない。日本は立憲君主国で、君主たる天皇は君臨はするが統
治はしない。何人(なんぴと)も天皇の政治利用は慎まなければならない
からである。

そもそも側近の日記がこのように、公開されてよいのかと疑問を抱く。こ
れまでも多くの側近が日記やメモを公開してきたが、天皇に仕えて見聞し
た、いわば職務上知り得た情報の公開には極めて慎重でなければならない
はずだ。公開されれば当然、私たちは強い関心を持って読む。しかし、そ
のようなことは、側近を信頼なさった天皇への裏切りではないか。こんな
ことで皇室、そして皇室を戴く日本は大丈夫か、国柄はもつのかと問わざ
るを得ない。皇室に仕える人々のルール作りが必要だ。

『週刊新潮』 2019年9月12日号 日本ルネッサンス 第866号

  

◆「リハビリって何?」

向市 眞知


「リハビリ」という用語は訳さなくてもよいくらい、日本語になってしまいました。しかし、この用語がとても曲者なのです。皆がこの用語の前向きなところにごまかされ、便利にしかも安易に使ってしまいます。

医師は最後の医療としてリハビリに望みをつなげる言い方をします。家族は家にもどるためにはリハビリを頑張ってほしいと期待をかけます。患者もリハビリを頑張れば元どおりになれると思います。

リハビリとは「再び生きる」という用語と聞きました。この概念で考えるととても幅広い概念です。

病院にはリハビリテーション科があり、そのスタッフには理学療法士、作業療法士、言語聴覚訓練士という、国家資格をもった専門技師がそろっています。身体機能回復訓練に携わるスタッフです。

医師が「リハビリ」という用語を使う場合にはこのようなリハビリテーション科のスタッフによる訓練を指すだけではなく、「再び生きる」心構えをもちましょう、という意味を含んでいる場合が多いのです。

しかし、患者、家族の方はリハビリは療法士がするものと思い込んでいるケースが多いように思います。よく言われるのに「リハビリが少ない」、「リハビリをしてもらえない」というクレームがあります。療法士がするものだけがリハビリなら、診療報酬上点数がとれるのは一日20分から180分です。

「リハビリを受けさせたいから入院させてほしい」とよく言われますが、一日の何分の1かの時間のリハビリだけで「再び生きる」道のりを前に進むことはむずかしいものです。あとの時間をベッドに寝ているだけでは、何の意味もありません。「リハビリのために入院している」というだけの安心感の意味しかありません。

いくら日本一の理学療法士の訓練をうけたからといって、患者本人が「リハビリをする(再び生きる)」心構えになっていなければ、空振りに終わってしまいます。

マヒした身体に対して、拘縮してしまわないように理学療法士が外から力を加え訓練をすることはできます。でも、訓練が終わって身体を動かさなければもとの木阿弥です。

しかし、言語訓練はそうはいきません。本人が声を出そう、話そうとしなければ訓練になりません。「絶対話すものか!」と口をつぐんでいる患者に訓練は意味を為しません。まずは声を出してみよう、話してみようという気持ちになるように、心理的にリラックスしてもらうことから訓練を始められると聞きました。

このことからわかるように、リハビリは本人次第なのです。そしてやはりリハビリも療法士と患者の協同作業なのです。

療法士さんの訓練の20分が終われば、患者自らがもう一度リハビリのメニューをくりかえしてやってみることや、家族が面会時間に療法士に家族ができるリハビリを教えてもらい、リハビリの協力をしてみるなど、何倍にもふくらませていくことがリハビリの道のりなのです。

療法士さん任せにしないこと、繰り返しやっていくこと、退院しても療法士さんがいなくてもリハビリ、再び生きる道のりは続いていること、それを実行するのは自分であることを忘れないでいてほしいと願っています。

診療報酬改定で更にこの認識が重要になってきています。療法士による機能回復訓練が継続してうけられる回数の上限が、疾病により90日〜180日と定められました。これ以上の日数の訓練を続けても保険点数がつかないことになりました。医療機関は保険がきかなくなれば、リハビリを打ち切らざるをえません。

患者も10割自費で料金を支払ってまでリハビリを続けることはできないでしょう。リハビリは入院の中でしかできないものではなく、退院してからも自宅でリハビリを続けていく意気込みが大切です。
                                  (ソーシャルワーカー)

2019年09月13日

◆ブーン・ピケンズ死去

宮崎 正弘


令和元年(2019)9月13日(金曜日)通算第6193号  

 M&A(企業合併、買収)の暴れ者、ブーン・ピケンズ死去
  その荒っぽい乗っ取り手口を真似ているのが中国人のファンド

 石油成金、世界の「乗っ取り王」として悪名高かったT・ブーン・ピケ
ンズ氏が死去した。91歳だった。

ウォール街の一部には彼を尊敬する人も多かったが、日本で悪名が高く
なったのは小糸製作所の株式20%を買い占め、TOBを仕掛けたから
だ。日本の経営風土になじみのなかった「乗っ取り」だったから「黒船来
る」と大騒ぎだった。筆者はピケンズに一度インタビューしている。

もともとが石油エンジニア、それが石油を掘り当てて石油企業を起業した
のではなく、次々と乗っ取りを仕掛け、濡れ手に粟の利益を得てのしあ
がったのだ。買収を仕掛けると言っても、もともと買収を成功させ、企業
を乗っ取って経営しようという意欲はなく、要は高値買い取り(これを恐
喝のブラックメイルにひっかけて「グリーンメール」という)。

買収後、会社経営に乗り出したのはアイカーン(TWA航空を買収し自ら
経営した)。買収した後、当該企業をバラバラに部門売却して差益を貸せ
いたのがゴールドスミス、そして買収資金を捻出する手口として、ジャン
ク債を起債して、巨額の融通資金をつくる手助けをしたのがミルケン。
80年代から90年代にかけて、アメリカ資本主義は「乗っ取り屋たちの
天下」だった。

防御する側は「ポイゾンビル」という条項を会社約款に入れたり、買収が
しにくいデラウェア州に本社登記を移したり、TOBが難しいように自社
株買いを行ったり、これまた弁護士の稼ぎ場だった。

その強欲資本主義が日本にもやってきて、M&Aが常識となったものの、
アメリカ的な敵対的買収のケースは稀だった。

ピケンズの真似をして荒稼ぎを展開したのが中国の強欲ファンドである。
シャープを買収した郭台銘の典型例が明示するように、日本的経営とは
まったく違った、殺伐とした企業風土を日本にもたらした。
ということは日本的経営の美徳が同時に破壊された

植民地経営とは、未開地、もしくは非武装の国を乗っ取り、人民を駆使
し、利益を搾り取り、教育も福祉も与えず、ひたすら我欲を達する。

香港は英国の植民地だった。その旧植民地の香港が、旧宗主国の企業を
乗っ取る。主客転倒、というより強欲がAからBに移転した。香港の証券
取引所がロンドンの証券取引所を買収すると発表した。直後に、ロンドン
証券取引所は、この買収提案を拒否した。

明後年の大河ドラマが渋沢栄一と聞いて、「算盤と論語」を説いた人が、
ようやく再評価されるのかと安堵した心理になった。
    
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ 
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(速報)
  郭台銘、国民党を離党、無所属で総統選挙へ立候補表明
   国民党も韓国諭では勝てないと判断し、裏側で支援する方向
***********************************

「中国の代理人」=郭台銘が次期台湾総統選に立候補する。9月13
日)、正式に記者会見する。

郭は「鵬海精密工業」を立ち上げ、アップルへの部品納入などで、のし上
がったが、「台湾企業」というより中国共産党の意向に沿ってシャープを
買収したり、米国へ食い込んだりして、ビジネスを急拡大させ、一部に
「台湾のトランプ」という評価もある。

国民党は予備選を行って正式に韓国諭(高雄市長)を党公認候補とした
が、郭台銘は諦めずに、無所属でも挑戦する可能性を探ってきた。世論調
査では、郭と韓国諭は互角とされるが、問題は中国共産党の「意向」だった。

北京は韓国諭では勝てないと判断し、郭台銘支持に廻ったとされ、それが
無所属での立候補を決断させたのだ。しかも何文哲(台北市長)も、郭支
援に廻るらしい。

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 読者の声  どくしゃのこえ  READERS‘ OPINIONS
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(読者の声1)妙に納得したことがあります。雑誌の
『RESIDENT』(10月4日号)に「トップに立つ人、補佐役の必
読書」という特集があって、まずは管義偉のそれが吉川英治『宮本武
蔵』、堺屋太一『豊臣秀長』。コーリン・パウェル(元国務長官)のリー
ダーシップ論とか。

問題はその次です。

猪瀬直樹・元都知事が登場し、政治思想で三つ、文学で三つを揚げていま
す。後者は順当ともいえるカズ・イシグロ『日の名残り』とトルーマン・
カポーティの『冷血』、そして吉行淳之介の『私の文学放浪』でした。
問題は政治思想で猪瀬があげた三大書物が、丸山真男、網野善彦、橋川文
三でした。

日本の戦後思想界の『三莫迦』といわれる人たちが、彼の源流だと知っ
て、なるほど!。

保守の顔しつつ、「革新」的なアイディアだなどと、変なことを言い、西尾
幹二氏が「狂人宰相」と名づけた小泉に取り入ったひとですが、彼の謎
が、これで解けたと思いました。この話、いかに?(HS生、水戸)


(宮崎正弘のコメント)評価は措くとして、小生が感動した小説のひとつ
は吉川英治『宮本武蔵』でした。カポーティは英文科時代、訳書の龍口直
太郎教授が担任でしたので、毎日のように言っていたため辟易です。小生
としては彼の『ティファニーで朝食を』のほうが面白いし、印象もカポー
ティらしいですね。

猪瀬氏のあげた小説でカズ・イシグロの作品は、郷愁と哀惜があって、な
ぜ彼がさきにノーベル賞に輝き、村上春樹が取れないかを、解説したあた
りも参考になりました。

御指摘の「丸山真男、網野善彦、橋川文三が戦後思想界の『三莫迦』」と
いうのは、その通りでしょう。
   ♪
(読者の声2)貴誌前号でしたか、英国の分析ですが、キャメロン前政権
時代にオズボーン元財務相を中心とした中国資本への傾斜が混迷の背景の
一つかと膝を打ちました。

キャメロン政権に巣くった中国人脈が英国の進路を誤らせ、国民投票で雌
雄を決する形になったのかもしれません。香港の混乱も、英国の中国に対
する影響力低下が一国二制度を揺るがし、増幅させているのかもしれません。

メイ前首相は、中国が関与した原発計画に国家管理の規制を打ち出すな
ど、中国と一定の距離を置く政策をとりましたが、ファーエイ問題で、ト
ランプ米政権と軌を一にして全面規制を主張するMI6の意見を取り入れ
ず、すでに導入している基地局などは継続して新規導入を控える部分規制
に留まっています。

全面規制を主張したウィリアムソン国防相がメイ氏と対立、辞任に追い込
まれました。経済を考えると正面から中国を刺激したくない政権の思惑が
滲みました。ウイリアムソン氏は、南シナ海の航行の自由作戦に英艦隊を
参加させ、空母「クイーン・エリザベス」をアジア太平洋に派遣すると対
中強硬派でした。

英国内では、対中政策を巡って、腰が定まりません。移民問題とともに中
国問題が英国の混乱に拍車をかけたことは間違いありません。
  (NO生、千代田区)