2019年09月13日

◆政治家の「英語力」を考える

前田 正晶


我が国では国際化(グローバル化?)が進んで来た現代にあっては、英語
による自己表現がどれだけ出来るかが重要になってきた。よって「小学校
3年から英語を教えよう」という愚にもつかない風潮が出てきた。そこに
政治家にも国際的な交渉等々の場では英語力が必要であるという説も出て
きたようだ。現に河野前外相はジョージタウン大学出身の英語力を活かし
て海外でも講演をされたり、韓国の康外相とも英語で渡り合うなどと活動
された。

そこに、この度の内閣改造ではライトハイザーUSTR代表との交渉を無事仕
上げ終えた茂木敏充前経済再生大臣が外務大臣に就任された。茂木新外相
は何と言ってもハーバードの大学院で行政学終始を取得されている。そこ
に何処からともなく茂木外相の英語力を云々する件が流布されていると聞
いたので、さて如何なる事かと検索してみた。するとどうやらそれは週刊
FLASHが新閣僚や自民党の幹部の英語力の査定の記事をケビン・クローン
(越智啓斗?)なる者が寄稿していたことよることのようだった。

その内容では90点が小泉進次郎新環境大臣、85点が河野太郎防衛相、75点
が安倍晋三総理、70点が岸田秀雄政調会長、50点が茂木敏充外相と加藤勝
信厚労相とされていたという内容だった。この勝手な査定に対する反論の
ような記事では、茂木敏充氏に対する評価は如何に何でも低すぎるとなっ
ていた。その茂木氏が外国人記者クラブでの講演に通訳付で語られた時の
動画も出ていて挨拶までは英語でされていたが、私にはそれほど酷評する
ような質ではないように聞こえた。

私の経験上も言えることだし、アメリカの有名私立大学で教鞭を執ってい
たYM氏から聞いたことで、確かに我が国のビジネスパーソンたちやビジネ
ススクールに留学してくる方たちの英語力の質には難点がある例が多い。
だが,多くの方は修士課程は修了出来ているのだそうだ。そうであれば,
かのハーバードで大学院の修士課程を修了された茂木氏は、相当以上の英
語力を備えておられるはずだ。現にライトハイザー代表との難しい交渉を
纏め上げられた実績があったではないか。

ここから先が肝腎なことで、問題は如何に上手に聞こえるように滑らかに
話せるかとか、TOEICなどの試験で高い点数が取れていたかではなく、そ
の人物がアメリカ人を始めとする諸外国の交渉相手に対して「説得力ある
緻密な論旨の組み立てて行けるか」にあるのだ。それは同時に如何にして
“debate”の力を養っておくかであり、アメリカ人が屡々用いてくる「これ
を言うことで失うものはない」のような交渉術に臆することなく感情を排
して、論争と対立を恐れない断固たる姿勢が取れるか否かにかかっている
のだ。私はそれこそが「真の英語力である」と信じている。


at 10:01 | Comment(0) | 前田正晶

◆NHK終戦報道は相変わらず問題山積

櫻井よしこ


毎年8月になるとNHKのいわゆる“歴史もの特集”が放送される。NHK
の歴史に関する作品には、たとえば2009年4月の「JAPANデ
ビュー」、17年8月の「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」のよ
うに、偏向、歪曲、捏造が目立つものが少なくない。そのために私は
NHKの歴史ものは見たくないと思って過ごしてきた。

だが、今年はどうしても見ておく必要があると考えて視聴した。視聴した
のは「かくて“自由”は死せり~ある新聞と戦争への道~」、「昭和天皇は何
を語ったのか─初公開・秘録 拝謁記」の2作品である。

前者は8月12日のNHKスペシャルで、戦前に10年間だけ発行されていた
「日本新聞」を取り上げている。後者は17日の放送で、初代宮内庁長官、
田島道治氏の日記によるものである。両作品共に役者を起用したドラマ仕
立てだった。

期待どおりというのは皮肉な表現だが、前者は想定どおりの「NHK歴史
もの」らしい仕上がりだった。後者についても多くの疑問を抱いた。

まず「新聞」の方だが、番組は暗い声音のナレーションで説明されてい
く。日本新聞は大正14(1925)年に司法大臣小川平吉が創刊し、賛同者に
平沼騏一郎や東条英機が名を連ねる。彼らは皆「明治憲法に定められた万
世一系の天皇を戴く日本という国を絶対視する思想を共有していた」との
主旨が紹介される。

明治憲法においても現行憲法においても国柄を表現する基本原理のひとつ
である「万世一系」の血筋が、まるで非難されるべき価値観であるかのよ
うな印象操作だ。

番組のメッセージは、創刊号で天皇中心の国家体制「日本主義」を掲げた
のが日本新聞で、その日本主義が日本全体を軍国主義へと走らせたという
ものだ。

不勉強の極み

だが、番組は説得力を欠く。歴史の表層の一番薄い膜を掬い取ってさまざ
まな出来事を脈絡もなくつなぎ合わせただけの構成で、どの場面の展開も
その因果関係が史料やエビデンスをもって証明されているものはない。飽
くまでも印象だけの馬鹿馬鹿しいこの作品を、NHKが国民から強制的に
徴収する受信料で制作したかと思うと怒りが倍加する。

日本全国に軍国主義の波を起こし、日本を戦争に駆り立てるほどの影響力
を発揮したとされる日本新聞の発行部数はわずか1万6000部程度だった。
しかも先述のように昭和10年までの10年間しか発行されていない。NHK
の主張するとおり、日本新聞に世論と政治を動かすほどの力があったのな
ら、言い換えれば、それだけ国民に熱烈に支持されていたのなら、なぜ10
年で廃刊に追い込まれたのか。

当時もっと影響力のあった新聞のひとつに朝日新聞がある。朝日は日本新
聞よりはるかに早い明治12(1879)年に大阪で創刊、9年後には東京に進
出、日本新聞創刊の1年前には堂々100万部を超える大新聞となっている。
朝日は満州事変などに関して極右のような報道で軍部を煽り部数を伸ばし
たが、なぜNHKは軍国主義を煽ったメディアとして日本新聞にのみ集中
したのか。不勉強の極みである。

この日本新聞の番組があり、8月15日をはさんで田島日記、即ち「拝謁
記」の方が放送された。二つの作品を対にした構成の背後には、軍国主義
の弊害を安倍晋三首相が実現しようとする憲法改正に結びつけ阻止しよう
とする意図があるのではないかと感じた。なぜなら拝掲記は昭和天皇が再
軍備と憲法改正を望んでおられた事実をかつてなく明確にしたからだ。

「拝謁記」の内容にさらに入る前に、NHKは田島道治日記の全容を公開
していないことを指摘しておきたい。私たちにはNHKの放送が全体像を
正しく反映しているのかどうか、判断できないのだ。

NHKは宮内庁記者クラブで田島日記に関する資料を配布したが、配布さ
れたのは日記全体ではなく、NHKが選んだ部分だけだった。田島氏のご
遺族が了承した部分だという説明もあったが、それはNHKが報道した分
にすぎない。新聞メディアをはじめ各社がその後報じた内容は、NHK配
布の資料が各社の持てるすべての素材であるために、NHKと基本的に同
じにならざるを得ず、NHKの視点を拡大することになる。

もう一点、NHKは今回の放送を「初公開」「秘録」と宣伝するが、田島
日記は16年前の03年6月号と7月号の「中央公論」と「文藝春秋」で加藤恭
子氏が紹介済みだ。加藤氏が伝えたのは昭和天皇が頻りに戦争を反省し、
後悔されていたという点で、NHKの番組でもそうした思いを述べるくだ
りが俳優の重々しい口調で演じられている。

天皇の政治利用

16年前の「文藝春秋」には「朕ノ不徳ナル、深ク天下ニ愧ヅ」として「昭
和天皇 国民への謝罪詔書草稿」全文も報じられている。この草稿は吉田
茂首相らの反対で、過去への反省の表現などが「当たり障りのない表現
に」(加藤氏)変えられたことを、加藤氏は、昭和天皇の思いを実現させ
るべく懊悩する田島氏の取り組みを通して紹介した。

NHK報道の新しい側面は、この点を昭和天皇と田島氏の対話形式で明ら
かにしたことだ。

他方、NHK報道で最も印象的なのが先述の憲法改正に関する点だ。これ
まで御製等を通じて推測可能だった再軍備と憲法改正への思いを、昭和天
皇は具体的に語っていらした。

昭和天皇は1952年には度々日本の再軍備や憲法改正に言及され、2月11日
には「他の改正ハ一切ふれずに軍備の点だけ公明正大に堂々と改正してや
つた方がいゝ」と述べられていた。3月11日には「侵略者のない世の中ニ
なれば武備ハ入らぬが侵略者が人間社会ニある以上軍隊ハ不得己(やむを
えず)必要だ」と指摘され、53年6月1日には米軍基地反対運動に「現実を
忘れた理想論ハ困る」と常識的見解を示された。

こうして明らかにされた昭和天皇のお気持を知って、日本国の在り方に責
任を持とうとするそのお姿には感銘を受ける。だが、国民も政府も慎重で
なければならない。日本は立憲君主国で、君主たる天皇は君臨はするが統
治はしない。何人(なんぴと)も天皇の政治利用は慎まなければならない
からである。

そもそも側近の日記がこのように、公開されてよいのかと疑問を抱く。こ
れまでも多くの側近が日記やメモを公開してきたが、天皇に仕えて見聞し
た、いわば職務上知り得た情報の公開には極めて慎重でなければならない
はずだ。公開されれば当然、私たちは強い関心を持って読む。しかし、そ
のようなことは、側近を信頼なさった天皇への裏切りではないか。こんな
ことで皇室、そして皇室を戴く日本は大丈夫か、国柄はもつのかと問わざ
るを得ない。皇室に仕える人々のルール作りが必要だ。

『週刊新潮』 2019年9月12日号 日本ルネッサンス 第866号


◆望郷の念から還って来る与謝蕪村

毛馬 一三


江戸時代中期の大阪俳人で画家であった与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)で生まれている。

ところが、その生誕地が大阪毛馬村だと余り周知されていないのだ。

蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出て江戸に下っている。なぜ江戸へ下ったのか。これすら未だはっきりしない。しかも蕪村は出奔以来、極度な望郷は感じながらも、実際は生誕地「毛馬」に一歩も足を踏み入れていない。なぜだろう。

京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋と結ばれて蕪村を産んだ。しかし母親が若くして死去したため、蕪村が庄屋の跡継ぎにも成れず、周囲から私生児扱いの過酷ないじめに遭わされたことから、意を決して毛馬村を飛び出したに違いない。

蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だった。だが、この超有名な師匠との縁がどうして出来たのか、しかも師事として俳諧を学ぶことが、どうしてできたのか、江戸下りの旅費・生活費はどうやって賄ったのか、等々ミステリーだらけだ。

蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。

<寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。

その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。

京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

さて、蕪村は定住していた京都から船で淀川を下り、生誕地毛馬村をすり抜けて、頻繁に大阪に下って来ていた。

京都から淀川を船でやって来て大阪に上ったのは、生誕地毛馬村と少し離れている淀川(現在は大川)下流の源八橋の検問所があった船着き場だった。ここから上がって大阪市内に居る数多くの門人弟子らを訪ねて回っている。

また蕪村は、俳人西山宗因のお墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ねたり、蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、西山宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を回るなど、大阪市内いたる所を巡回している   

特に、吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで大阪「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この「蘆陰舎」に蕪村は足繁く立ち寄っている。逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、京都―大阪往復行脚は活発だったようだ。(大阪市立大学文学部)

ところで、蕪村の活躍の主舞台は、絵画・俳諧で名を上げた京都だとされている。だが実際は、大阪も上記の通り活躍の場だったのだ。これもあまり知られていない。

船着き場の源八橋から生誕地の毛馬まで歩いてみても、30分ほどもかかからない。それなのに蕪村は、生涯毛馬村には一歩も足を踏み入れなかった。

やはり母の死後、家人から苛められ過ぎ、出家まで決意させられた辛い思いが、大坂に帰郷すれば脳裏を支配し、終生「怨念化」して立ち寄りを阻んだのだろう。それが「信念」だったとしたら、蕪村の辛さは過酷すぎるものだったとしか思えない。

とは云うものの、蕪村の「望郷の念」は、人一倍あったのは間違いない。

自作の「春風馬堤曲」の中で、帰郷する奉公人娘になぞらえて生誕地毛馬への自己の想いを書き綴っている。この「春風馬堤曲」を弟子に送った時、「子供の頃、毛馬堤で遊んだ」と回顧する記述を付して、望郷の気持ちを伝えていることからも、「蕪村の悲痛な心境」が伺える。

蕪村の心の奥底に去来していたのは、「故郷は遠くにありて想うもの」であり、毛馬生誕地に一度も立ち寄らなかった理由が、故郷毛馬での生き様と深く結びつくだけに、蕪村人生の輪郭が、際立って浮かび上がってくる。

2016年1月23日、筆者は、毛馬の淀川神社・地元淀川連合町会・蕪村通り商店街・地元俳句愛好家と共同事業として、「氏子の蕪村が幼少の頃と江戸へ下るマ迄に参詣し続けた「淀川神社」に、「蕪村銅像を作って建立」し、「除幕式」を行った。

この自分の銅像を観て、蕪村が未還だって生誕地毛馬町に還ることが出来たのだ(朝日新聞)。これを知った蕪村フアンや地元の人が、大勢神社に銅像を見に来ている。先行事業が実を結んだし、蕪村を喜ばせただろう。

(了)

2019年09月12日

◆雀庵の「支那人は国を信頼しない」

“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/26(2019/9/10)】京浜急行の横浜からの下り 線
は結構スリルがある。毀誉褒貶の人、島崎藤村「夜明け前」の真似をす
ればこんな具合。

「京急線は概ね山の中である。あるところは岨(そば)づたいに行く崖際
の線路であり、あるところは十間下の川を越えたり、あるところは山の尾
をめぐる谷の入り口である。山を貫く隧道を抜けるとまた隧道に入り、そ
の数知れず。一筋の線路はくねくねと回りながらこの緑多い森林地帯を貫
き海へ向かっていた」

トンネルを抜けても雪国じゃないから駒子はいないね。藤村が骨まで
しゃぶった「こま子」とか、猪、鹿、狸などのジビエはいそうだ。

仰げばトンビが空をのんびり泳いでいる。思えば遠くに来たものだ、
「旅」という気分になる。南下の旅はひたすら明るい。「三崎口行」なん
てそれだけで気持ちいい。

京急の特急電車は通常は時速120キロ、最速140キロで突っ走る。曲がり
くねっているから見通しが悪く、こんなところに踏切が!と驚いたりす
る。ジェットコースターみたい。少なくともビッグサンダー・マウンテン
より興奮する。

事故を防ぐには線路を高架化すればいいだろうが、莫大な金と時間がか
かるから難しい。比較的簡単なのは踏切を線路の下に移すことだろう。大
型車の通行は無理だろうが。

安全にはカネがかかる、半端ない。日本では自然災害は避けようがない
が、人災は比較的少ない。国家は民に「炊煙と安眠」を保障してこそ存在
意義がある。

「国は国民を守ってくれる」と、戦後復興のいい時代に生まれ育った小
生は思うが、支那の民にとって国=官=支配者=収奪者、民=被収奪者=
囚人、なのではないか。広大な収容所で、囚人は生き延びるためにひたす
ら働き、知恵を巡らせ、獄卒は特権階級として「ユスリ、タカリも芸のう
ち」「三方一両得」で遊んで暮らす。選挙もないから、国民には「自分た
ちの国」という意識があるはずもない。

独裁、専制国家の民はひたすら支配階級の圧政下で生きる道、抜け道を
探り、支配階級は常に簒奪、己の利益のために一党独裁体制護持に努め
る。だから「公共のみんなの国」を愛するとか守るという意識はない。

支那ではあらゆる省庁は単なる行政機関で、その上には絶対君主として
法律を越えた独裁者、共産党が君臨、統治している。党員以外は中共の支
配する専制国家をまず愛さない。愛せというのが無理筋。

中共は建国から70年で、ようやく飢餓を克服した。しかし、恐らく10億
前後の人々の生活は厳しいままだろう。一方で金持も増えているから貧富
の差は開くばかりだ。皆が貧しいのは耐えられても、こちらが冴えない一
品料理でヒーヒー暮らしているのに、隣が毎晩のようにベンツに愛人を乗
せて高級レストランで満漢全席では、なお一層のこと惨めな気分になる。

安全ではない、空気も土壌も汚染されている、社会保障はないか薄い、言
論思想の自由はない、選挙もない、真面目な人がバカを見る・・・そんな
国、体制への愛国心は育ちようがない。それは有史以来連綿と続いた支那
の初期設定だ。

日本の従軍記者の嚆矢でもある岡本綺堂「江戸っ子の身の上」から。

<「昔の従軍記者」

日露戦争の当時、私は東京日日新聞社に籍を置いていて、従軍記者とし
て満洲の戦地に派遣されましたので当時のことがもっとも大きく記憶に
残っていますが、順序としてまず日清戦争当時のことから申し上げましょう。

日清戦争(1894/明治27年〜1895/明治28年)は初めての対外戦争であり、
従軍記者というものの待遇や取締りについても、一定の規律はありません
でした。朝鮮に東学党の乱が起こって、清国がまず出兵する、日本でも出
兵して、明治27年6月12日には第五師団の混成旅団が仁川に上陸する。

こうなると風雲穏やかならず、東京、大阪の新聞社からも記者を派遣す
ることになりましたが、当時は従軍記者ではなく、各社が通信員を送り出
したというに過ぎないので、直接には軍隊とは何の関係もありませんでした。

そのうちに事態いよいよ危急に迫って、7月29日には成歓牙山の支那兵を
撃ち払うことになる。この前後から朝鮮にある各新聞記者はわが軍隊に付
属して、初めて従軍記者ということになりました。

戦局がますます拡大するに従って、内地の本社からは第2第3の従軍記者を
送ってくる。これらは皆、陸軍省の許可を受けて、最初から従軍新聞記者
と名乗って渡航したのでした。

何分にも初めてのことで、従軍記者に対する規律というものがないの
で、その服装も思い思いでした。みな洋服を着ていましたが、腰に白木綿
の上帯を締めて長い日本刀を携えているのがある。仕込み杖をいるのがある。

今から思えば嘘のようですが、当時の従軍記者としては、戦地へ渡った暁
には軍隊がどの程度まで保護してくれるか分からない。万一負け戦とでも
なった場合には、自衛行動をもとらなければならない。非戦闘員とて油断
はできない。

まかり間違えば支那兵と一騎討ちするくらいの覚悟がなければならない
ので、いずれも厳重に武装して出かけたわけです。

実際、その当時は支那兵ばかりでなく、朝鮮人だって油断はできないので
すから、このくらいの威容を示す必要もあったのです。軍隊の方でも別に
それを咎めませんでした・・・>

それから10年後、明治37、38年の日露戦争から従軍記者に対する規律が
定まった。大尉相当の待遇を受ける、その代わりに軍規に一切服従すべし
となった。また、従軍記者は1社1人に制限された。各社とも困り果てた
が、蛇の道は蛇、「上に政策あれば下に対策あり」で、地方新聞社の名義
を借りて複数の記者を派遣するようになった。

陸軍省も知っていたろうが、規定には触れないので許可した。これにより
大手紙各社は3〜6人の記者を派遣できたという。武器はピストルのみ許可
された。

<食事は監理部へ行って貰ってくるのですが、時には生きた鶏や生の野
菜をくれることがある。米は炊き、鶏や野菜は調理しなければならず、な
かなか面倒でした。

私たちは7人が一組で、2人の支那の苦力(クーリー、人夫、軍夫)を
雇っていましたが、毎日交代で日本の料理法を指導していました。


苦力の日給は50銭で、みな喜んで忠実に働いてくれました・・・>

1931/昭和6年の柳条湖事件(満州事変)あたりから、支那は蒋介石国民
党、毛沢東共産党、日本との三つ巴の内戦・乱戦になるのだが、支那人に
とって国民党はゴロツキ、共産党は餓狼山賊殺人鬼、日本軍はそれを追い
払う討伐隊(番犬)というような感じではなかったか。

国民党は“官軍”を自称するが、その徴兵は「アンビリーバボー!」とし
か言いようがない。町村の幹部を脅して、そのアドバイスで“札付きの厄
介者”を拉致したり“通りがかりの若者”を拉致したり。彼らは「拉壮丁」
と呼ばれ、坊主頭で眉毛を剃られて逃げることもできない。捕まれば半殺
しかお陀仏。ほとんど奴隷。

国民党は「砲声一響、黄金万両」(戦争は金儲けのチャンス!)で強
奪、強姦、汚職などの悪事はするが、共産党は奪い尽くし、殺し尽くし、
焼き尽くす「三光作戦」で、「貧民以外は階級の敵」史観だから非常に恐
れられた。

この群は銃を持っているのは3分の1、裸足は2分の1で青龍刀や棍棒を担い
でいる。服装はボロボロ、まるで乞食、阿Qの群だ。「赤匪が来る!」と
なれば近隣の町村はもぬけの殻になったという。

人民は抵抗する術がないから国民党軍や日本軍が来ると用意しておいた旗
を振って友好の挨拶をしたそうだ。「あまり乱暴しないでね」(カネとエ
サとサケはやるから早く出てってくれ)というわけ。にわか娼婦や強姦も
あったろう。

綺堂は、苦力や農村の人々が「日本軍はインテリが多い(現実は「国破れ
て山河在り」とか「月落ち烏啼きて霜天に満つ」なんて有名な漢詩は多く
の人は常識として知っていたし、書けただけなのだが)、漢字で意思疎通
できる、乱暴しない」と警戒心を解き、やがて親密な中になっていくこと
に心打たれている。

今の日本は「日は落ちアカ鳴きて涙天に満つ」だが、愛すべき、支える
べき、信頼できる日本国は土俵際で何とか残っている。最初からそんな母
のように優しい、父のようにイザとなれば頼れる国がない支那の民が、カ
ネ・コネしか支えがないのは気の毒である。互助会みたいな宗族は国の代
わりのなるのか、殉死する価値はあるのか・・・小生には分からない。

♪白樺 青空 南風 こぶし咲くあの丘 北国の ああ 北国の春

支那の民もこの歌が大好きだった。故郷、故国・・・愛すべき国がある
ことは素晴らしいことである。

発狂亭“愚にして辱だがたまには凛?”雀庵の病棟日記から。

【措置入院 精神病棟の日々(144)2017/1/13】産経は「トランプが来
る、大変だ、大変だ!」、まるで狼少年のごとくに騒いでいるが、記者の
中にはリベラル≒アカモドキもいるから、まあ、そのうち慣れるだろう。

政治マンガ(山田伸)はいつも本当につまらないが、今朝のはデタラメ
ルケルがトランプに「保護主義はダメ!」と阻止している絵だった。独を
亡国へ導く“ジャンク”メルケルに比べれば、テーブルの下でプーチンと手
を握り合って「うまいことやろうぜ」と意気投合を演じている怒鳴門・虎
河豚の方が遥かにマシだ。調理次第で高級料理になる。

新聞チラシに入っていた「厚木市タウンニュース」によると、緑豊かな
愛甲石田あたりの住民ボランティアによる無料ミニバン路線バスが金曜夜
の終バス(神奈中バス?)後に深夜便運行を始めたという。「このままで
は地元に若者はいなくなってしまう」という危機感が動機だ。

この辺りの若者の多くは、神奈中バスや小田急などを乗り継いで東京の
職場まで通うと最低2時間はかかる。結構しんどいから東京に住んでしま
う。「せめて週末には故郷へ帰ってきてよ」というヂヂババの願いだ。

過疎化、過疎地をどうするか、みな悩んでいるが、生産性の低い小規模
農業では一家4人を支える最低所得、年収800万円には到底届かない。国際
競争もあるから企業誘致も難しい。サービス業にしても猿と鹿、熊は何も
買ってくれない。

狭い農地にしがみついていないで皆でドローンや無人コンバインを使う
農業法人などを先行企業を巻き込んで創るべきだ。地平線が見えるくらい
の農地! せめて2〜4キロ四方の農地でなければ競争に勝てないし、次世
代は育たない。起業では農地を物納して株主になればいい。

「先祖伝来の農地」を死蔵するのではなく、大いに活かす、頭を使う、
魅力ある産業に仕立て上げる、それがご先祖様への何よりの供養になる。

なあ、爺さん、あんた分かってないようやから教えといてあげるがの
う、誰が住むのか分からんような豪邸を建てても、チンケな農業の跡取り
には嫁さん来ないぜよ、のう。よーく考えることや、脳ミソ使わんと呆け
るで、のう。(つづく)2019/9/10


◆ボルトン補佐官、トランプ政権を去る

宮崎 正弘


令和元年(2019)9月11日(水曜日)通算第6190号  

(速報)
 ジョン・ボルトン補佐官、トランプ政権を去る
   ホワイトハウスで唯一人の日本理解者が居なくなる


 トランプ大統領は、10日、突然ジョン・ボルトン補佐官を解雇した。
「多くのイッシューで意見の対立があったが、ボルトンからの申し出を熟
慮し、政権から去って貰うことにした。かれの貢献度は大きかった」とト
ランプはツィッターした。

 とくにイランを巡る対立が政権内で表面化、ポンペオ国務長官と対立す
ることが多く、板門店における金正恩との会談ではボルトンは同席しな
かった。

 日本にとっては拉致問題で、日本の立場を大きく理解していた人物だけ
に、ホワイトハウスでは珍しい知日派が居なくなることに、トランプ政権
内部のごたごた、整合性のなさが気になるところである。

 まさにワシントン政界で、保守の居場所がなくなった。
批評家のジョージ・ウィルは「CONSERVATIVE 
HOMELESSNESS」と比喩したように。

    ◇◎□◇み◎◇◎▽や◇◎▽◇ざ◇◎▽◇き○□◎▽ 
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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1952回】                 
 ――「浦口は非常に汚い中國人の街だ」――徳田(7)
徳田球一『わが思い出 第一部』(東京書院 昭和23年)

  △
 凍結した糞尿を車内販売用のお茶を沸かす装置で解凍し、外部に垂れ流
そうというのだ。「目に染みる」ほどの悪臭に苦闘しただろう徳田は、
「(悪臭が)お茶と一緒になつているという所に中國人のニオイや食物に
たいする無關心さがあるのだろう。習慣というものはおそろしい」と苦虫
を潰す。
悪臭は、極東民族大会に参加すべくモスクワに向かう未来の日本共産党
トップを襲う。だが、後には長期に亘って臭い『もっそうメシ』にお世話
になることを考えると、?田の人生は臭いモノと切っても切れなかったと
いうことか。

 列車が中国と満洲とを限る山海関駅に到着するや、プラットホームで
「一連隊ほどの軍隊がずらりとならんでいた」。「まつたくだらしないさ
さげ銃」の兵士に迎えられて列車から降り立ったのは「中肥りの顔のだら
りとした男」。満洲の実力者で知られた「黒龍江省督軍張某」だった。

 ?田は食堂車での「いやまつたく驚くべき」風景を綴る。
 食堂車の半分を占めた一団の中央に「例の將軍がゆうゆうと坐つてい
て長いキセルで煙草をふかしている。その周りには二十歳から四十歳位の
女が五、六人も並んでいる。第一夫人から第五、六夫人までだということ
だつた。その反對側に彼の幕僚であろう十四、五人が二列三列にだらしな
い恰好でテーブルを圍んでいる」。「ガチャガチャとマージャンをやつて
いるのだ」。そのうえ「これらの夫人や幕僚のそばには札の束がおいてあ
る」。つまり、そこは「全くのバクチ場だ」った。しかも「外國人の客が
食事をしているその隣で公々然とやつているのだ」から、やはり「ここに
妙味があるのではないか」。

 「その當時の中國の軍閥の首領の生活がこれである」。であればこそ
「戰爭のできないのも當然であつた」。しかも「妾連中のドロンとした恰
好はすべて阿片飲みの特徴」を表している。かくて?田は、「結局軍隊は
りゃく奪のための、そしてまた戰爭ごつこの示威運動の道具以外には役立
たないことが明かではないか」と。

 列車を離れた?田は、子供の時から気になっていた山海関に足を向け
た。「どんなに素晴らしい大きな關所だろうか、どんな大きな城と連なつ
ているのだろうかと想像していた」が、実際に目にして「貧弱なので呆れ
てしまった」。「かくべつ城らしいものはなくて、(中略)山海關の大き
な石垣の壁がぶち抜かれてトンネルになつているだけだつた」と落胆の色
を隠さない。

 じつは?田だけではないのだが、多くの日本人は中国の「城」を、天守
閣を構えて豪壮・華麗な日本の城と勘違いしている。彼らの指す「城」は
城壁であって、日本式の城郭ではない。北京城、南京城・・・鳳凰城など
など。中国では都市を「城市」の2文字で表すが、それは「城壁」に囲ま
れた内部で人が「市(あきない)」をするからである。

 ところで改めて?田は豪壮で長大な万里の長城を作り上げた始皇帝時代
の力と共に、「これほど古代の實力のあつた大帝國のすべてが今は世界を
通じての最も發達していない國におちていること」、さらには「中國はた
いへんなどろ沼の中にいつまでも停滯していたという事實」にも驚嘆する。

 長城建設には「ばく大な人間勞働力を無茶苦茶に使つた」。「つまり奴
隷制度によつて人間勞働力を驅仕した」。
「その奴隷的な状態がいつまでも農村に停滯して、それを基礎に軍事的彈
壓が重ねられていつたためすべての成長が停滯した」。それゆえ「被支配
階級に蓄積された力が、つねに革命によつて高進し、しだいしだいに下か
ら上までのしあがつて行く――換言すれば革命が階級の解放をもたらし、つ
ぎつぎに發展して行く」。「私がこの長城をみて人類解放のための革命の
必要を一層深く痛感した」。流石にトッキュウだ。
《QED》

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

知道中国 1953回】                  
 ――「浦口は非常に汚い中國人の街だ」――徳田(8)
徳田球一『わが思い出 第一部』(東京書院 昭和23年)

          △
 徳田は満鉄で長春に向かう。「汽車の内部は中國の列車よりもずつと小
ぎれいにできていた。だが何となはしに日本流の小じんまりしたところが
あり、いかにも日本官僚の支配らしいニオイがした」。

 長春で投宿した旅館は「全然日本風でこの寒い北滿にどうしてこうい
う馬鹿げたことをするのか何としても理解することができなかつた」。旅
館の構造に象徴されているように、「日本人は氣候や風土に適應して生活
をたてることを欲しないように思える」。気候・風土の違いを無視するか
のように、何処に行っても「日本風の生活をやるのである。これでは生活
に適應性がなく根強く腰をすえることができないのが當然であろう」。か
くして「だかう(ら?)早く日本え歸りたくなるのだ」。

ここからは、徳田による在満日本人論である。
「滿州などに行つている者は結局早くもうかる山師になりたがる」。だ
から「中國人をだますか日本から入つて來る者をだましてかすめ取るかそ
んなことばかりに血をわかすことにな」り、「全體としてきわめて質の惡
い商賣に引きずられて行」き、「中國本土はもちろんのこと滿州でも非常
に日本人はきらわれている」。
そこで「同じ植民地であつても、外國帝國主義の植民地よりは日本の植民
地の方がはるかに惡政をしき猛烈な排斥が起こるのは無理のないこと」と
か。どうやら同じ「帝国主義の植民地」でも優劣があるらしい。

!)田は「滿州でたびたび排日ボイコットが起」る要因の1つに「中國國 民
政府の勢力が滿州にはびこつて來た」ことが挙げるが、「他の大きな原
因」として日本が主とする軽工業と満洲土着資本との激しい対立を指摘す
る。つまり「全體として鋭く滿州の中國民族と對立することになったか
ら」、「全面的に排日鬪爭が起つたのも無理はない」というのだ。

かくして「日本人が氣候や風土に適應しないでおこなつた惡らつなりやく
奪政策は中国國人の反抗をたかめる基本要因の一つであつたろうことを痛
感するのであ」った。

 長春からハルピンへの旅で乗ったロシア側の列車に「入つてみるとと
ても汚い」。
それというのも「(ロシア)革命後はほとんど修繕もせず放たらかしのま
まなのだろら(う?)」。

地図を片手に、好奇心に任せてハルピンの街を歩く。
あちこち歩きまわっているうちに街外れの棺桶屋街に出る。「家という家
はいろいろな棺おけの製造屋」で、「嚴丈にこしらえた寝棺がもち菓子の
ようななだらかな曲線をえがいた六尺もあろうかというフタがかぶさつて
いる。そして表面は?色や赤や青やいろいろ色とりどりにぬつてある」。
「材料も丈夫なもので、板もなかなか厚いものを使つている。そしてフタ
をかぶせたところも密封されるようにできている。ロウを塗つたりして臭
氣の發しないような装置もしてある」。

これら棺は「中國人がこの土地に埋めるのではなくて山東や華北の故郷
に死體を送るためのもの」である。
「故郷に死體を送る」ビジネスを運棺(または運柩)業といい、中国人の
「入土為安(死後は故郷の土に還りたい)」という願望に応じたものだ。
「山東や華北の故郷に死體を送る」ということは、ハルピンとその近郊に
住む中国人の多くが山東や華北からの出稼ぎということを物語っているの
である。

ハルピンはロシア革命後の混乱の渦中にあった。とはいえ「ツァール・
ロシアは亡びても明らかにロシア人の勢力下にあった」。
「中國人はまつたく奴隷的な状態におかれていた」。「正規のツァール軍
隊は壊滅し」、「ツァール軍隊の將軍連は自分の娘や妻を人肉の市の商品
に提供し、彼らが牛太郎をつとめているという話であ」り、「私もその片
りんを二、三見た」。ハルピンでは「ツァール・ロシアの殘物共」が最後
の足掻きを見せていた。
《QED》 
     ●●●●●
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読者の声  どくしゃのこえ  READERS‘ OPINIONS 
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(読者の声1) 「指の丸印が110番」
今進行中の香港の民主化運動ではメンバーは110番の意味で親指と一差し
指で○を作るという。
こうしたシグナル技術は支那で発達していた。それが復活し始めたのでは
ないか。
丁度手元の歴史読本誌の88年3月号を見ていたら、天地会、三合会など、
支那の秘密結社の会員のシグナルが出ていた。例えば胸に指三本をあてる
などして所属組織を示すものだ。
また青幇では、会員が旅先で金に困るとテーブルに帽子を上向きに置き合
図した。するとこれを見たメンバーはその人物の所属、地位、等を確認し
て支援したという。これは、乱世の続く支那における互助会であったのだ
ろう。
 1949年に支那共産党は政権をとるとこうした秘密組織をすべて摘発し滅
ぼした。しかし秘密結社の活動は今でも海外などで続いているという。法
輪講もその一つであろう。
共産党の暴政に苦しむ国民は自衛のためには互助組織を作るしか方法がな
いのだ。実際共産党も秘密結社の一つだった。なおこの本は宮崎正弘先生
も「亡命革命組織」中国之春を寄稿されている。
 また驚いたのは,あの有田ヨシフ氏がジャーナリストとして、支那事変
の日本の講和努力である桐工作の内幕について興味深い記事を書いていた
ことである。偽の宋子良の正体である。
蒋介石は内心では自分が損する対日戦を止めたかったが,1936.12.12の
西安事件でスターリンの指示を受けた共産側に捕らえられ降服していたの
で止めることが出来なかった。だから日本との講和交渉の目的はもっぱら
日本の情報を取るためであったから支那事変の収拾に苦しむ日本側の20回
以上に及ぶ講和交渉努力は初めから無駄だったのである。
 なお蒋介石が本気で和平を望んだのは1945.3のミョウヒン工作で、国共
内戦再開に備えて日本軍十万を貸して欲しいというものだったという。し
かし遅すぎた。
日本は蒋介石の盧溝橋事件に始まる計画的な挑発に激昂し支那の泥沼の国
共内戦に引きずり込まれ大損害を被った。ロシアの諺によれば、「神は滅
ぼそうとする者の理性を最初に奪う」と言う。
今の日本も危険な状況にある。国民は国際関係の冷厳な大原則を知って感
情論に巻き込まれない冷静な対応が必要である。
   (落合道夫)
     ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆  
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 訃報 
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  △
安部譲二(あべじょうじ)氏
▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

 三島由紀夫『複雑な彼』のモデルといわれた安部譲二氏が亡くなった。
数年遇っていなかったので、風の便りにガンの悪化は聞いていたが、海外
から帰って不在時の新聞を通読していたら死亡記事に接した。享年82歳。
 新聞の記事は安部のダークサイドは伏せて、日航のパーサー、キックボ
クシングの解説者、麻布中学では橋本元首相の同級生だったなどと書かれ
ていた。
 思い返せば、安部氏との出会いは半世紀ほど前、当時まだ彼は小金井一
家の代貸しで、小型の車にいつも違う女を伴ってあらわれ、ふっと三週間
ほど顔を見せないと思えば、留置所で21日間の拘留だったり、ある時は
「飯を食いに行こう」と誘われ、青山学院大学の裏手の蕎麦屋で、食べる
は食べるは! どんぶりの大盛を三つ、とりあえず胃に収めてから、鴨南
蛮にざるそばに某某にと合計九品目、ときおりおなかをさすりながら、
「おっ、まだ入るわい」と言う。
こんな暴飲暴食をやっていれば胃ガンか大腸ガンになるだろうなぁと思っ
ていたが、発見時は大腸癌末期だった。新聞発表は肺炎になっているが。
 彼の言い分は「麻雀の徹夜が続いたりすると三日ほど食べないことがあ
るからだ」。
 三島由紀夫が彼をモデルの思いついたのも、その奇行ぶりからだろう。
 夜、ふらりと事務所にやってきては奇想天外な話、おなかを抱えて笑う
話など、話術も巧みで、そのうえ大袈裟な身振りだ。
彼がかえってから「いまの話を書留めておけば小説の題材になるぞ」と誰
かが言ったが、後年、安部自身がすべてを小説にした。
 『塀の中の懲りない面々』の上梓をしばらく筆者は知らず、(彼の本名
は安部直也なので、安部譲二は他人と思っていた)、ある日、地方のホテ
ルでテレビを観ていたら、特集をしていて、懐かしい彼の顔を出たときは
驚いた。数年刑務所に入っていた筈だから。
 それゆえ十年ほど空白があるが、再会したのは、週刊現代の某編集長の
出版記念会、ついで文春の雑誌編集長の再婚式でもばったり、すっか前田
正晶り堅 気、それも第一線の編集者と交流し、小説家が様になっている
ではないか。
合掌

◆年金支給は完全終了へ

      今市太郎



史上空前の運用大失敗で2000万不足どころの騒ぎじゃない=

2019年8月25日 お金の悩み、ニュース

年金運用の2018年10−12月期における分散投資で、過去に例を見ない大失
敗をおかしたことが公表されました。もはや原資は残らない方向に向かっ
ているように思われます。(『今市太郎の戦略的FX投資』今市太郎)

※本記事は有料メルマガ『今市太郎の戦略的FX投資』2019年8月22日号の抜
粋です。興味を持たれた方は、ぜひこの機会にバックナンバー含め初月分
無料のお試し購読をどうぞ。


年金支給不足「2,000万円」は誤り。何も支給されないのが正解…

分散投資に大失敗

年金積立金管理運用独立行政法人(通称GPIF)の最高投資責任者・水野
CIOが、米国カリフォルニア州の職員退職年金基金(カルパース)の理事
会の席上で語った内容が物議を醸しています。

GPIFが2018年10−12月期におけるいわゆる分散投資において、すべての資
産市場において損失を出し、しかも為替差損の損失さえも被弾するとい
う、GPIF史上過去にも例を見ない大失敗をおかしたことを公表。市場は騒
然となっています。

ご本人はグローバル市場が非常に同期化された状況の下で、運用担当者は
あらゆる資産クラスで損失を出す危険があると語っていますが台風や地震
の自然災害ではなく自らがしでかした大失敗であり、こんな呑気なことを
口走ること自体呆れる始末です。
※参考:GPIF水野氏:全資産クラスで損失の危険−市場に警鐘 (訂正)
– Bloomberg

年金支給減に輪をかける原資枯渇の驚愕の投資術

過去3か月の相場を思い返していただければと思いますが、日米の株式市
場、債券市場を眺めてみても、たしかにそれなりの相場変動があったこと
は事実です。

しかし、資本市場を細かくわけて分散投資をして、それがすべからくマイ
ナスになるというほど厳しい相場状況ではなかったことは明白です。

よほど目利き感のない下手くそな投資を行っていたとしか思えない、凄ま
じく最低な投資行動が行われていたことがみえてきます。

この調子で投資を継続されたのでは、年金の支払い原資がものの見事に枯
渇するのは時間の問題です。


一切の投資活動を中止して原資を国民に返還したほうがいいのではない
か、とさえ思える状況になってきています。

Next: 年金支給不足2,000万円は誤り。何も支給されないのが正解…

◆納豆と相性の悪いくすり

                           大阪厚生年金病院 薬剤部


 〜ワルファリンカリウムという血栓予防薬を服用中の方へ〜

地震や津波、洪水など突然襲ってくる甚大な自然災害は、水道やガス、電気などのライフラインを寸断し人々の生活を麻痺させてしまいますが、人の健康もある日突然血管が詰まると健康維持に必要な栄養や酸素などのライフラインが寸断されその先の機能が止まってしまいます。
 
突然意識を失いその場に倒れてしまった経験のある方で、医師から「脳梗塞」と診断された方もおられるかと思います。 脳の血管を血液の塊(かたまり)が塞いでしまってその先に血液が流れなくなってしまったのです。
 
これを予防し血液をサラサラにするくすりのひとつに「ワルファリンカリウム」という薬があります。 服用されている方も多いかと思います。

もともと人間の身体は怪我や手術などで出血したとき、血液を固めて出血を止める仕組みがありますが、その仕組みの一つに「ビタミンK」が関与する部分があります。
 
ワルファリンカリウムはこの「ビタミンK」が関与する部分を阻害することによって血液が固まるのを予防します。
 

さて、ここで納豆の登場です。 納豆の納豆菌は腸の中で「ビタミンK」を作り出します。「ビタミンK」は血液を固まらせる時に必要なビタミンですから多く生産されると、ワルファリンカリウムの効果を弱めてしまいます。
 
そのため、くすりの説明書には「納豆はワルファリンカリウムの作用を減弱するので避けることが望ましい」と書かれている
のです。
 
納豆は栄養もあって健康に良い食品ですが、飲んでいるくすりによっては食べないほうが良いこともあります。 好きなものを我慢するのは“なっと〜くできない”向きもあるかと思いますが、ワルファリンカリウムを服用中の方にとって納豆は危険因子ですのでご注意ください。
 
納豆のほかにも、ビタミンKの多い「クロレラ食品」や「青汁」などもひかえましょう。

 追記: ワルファリンカリウムのくすりには「ワーファリン錠」や「ワルファリンカリウム錠」他があります。

2019年09月11日

◆雀庵の「支那人は国を信頼しない」

“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/26(2019/9/10)】京浜急行の横浜からの下り線
は結構スリルがある。毀誉褒貶の人、島崎藤村「夜明け前」の真似をすれ
ばこんな具合。

「京急線は概ね山の中である。あるところは岨(そば)づたいに行く崖際
の線路であり、あるところは十間下の川を越えたり、あるところは山の尾
をめぐる谷の入り口である。山を貫く隧道を抜けるとまた隧道に入り、そ
の数知れず。一筋の線路はくねくねと回りながらこの緑多い森林地帯を貫
き海へ向かっていた」

トンネルを抜けても雪国じゃないから駒子はいないね。藤村が骨までしゃ
ぶった「こま子」とか、猪、鹿、狸などのジビエはいそうだ。

仰げばトンビが空をのんびり泳いでいる。思えば遠くに来たものだ、
「旅」という気分になる。南下の旅はひたすら明るい。「三崎口行」なん
てそれだけで気持ちいい。

京急の特急電車は通常は時速120キロ、最速140キロで突っ走る。曲がりく
ねっているから見通しが悪く、こんなところに踏切が!と驚いたりする。
ジェットコースターみたい。少なくともビッグサンダー・マウンテンより
興奮する。

事故を防ぐには線路を高架化すればいいだろうが、莫大な金と時間がかか
るから難しい。比較的簡単なのは踏切を線路の下に移すことだろう。大型
車の通行は無理だろうが。

安全にはカネがかかる、半端ない。日本では自然災害は避けようがない
が、人災は比較的少ない。国家は民に「炊煙と安眠」を保障してこそ存在
意義がある。

「国は国民を守ってくれる」と、戦後復興のいい時代に生まれ育った小生
は思うが、支那の民にとって国=官=支配者=収奪者、民=被収奪者=囚
人、なのではないか。広大な収容所で、囚人は生き延びるためにひたすら
働き、知恵を巡らせ、獄卒は特権階級として「ユスリ、タカリも芸のう
ち」「三方一両得」で遊んで暮らす。選挙もないから、国民には「自分た
ちの国」という意識があるはずもない。

独裁、専制国家の民はひたすら支配階級の圧政下で生きる道、抜け道を探
り、支配階級は常に簒奪、己の利益のために一党独裁体制護持に努める。
だから「公共のみんなの国」を愛するとか守るという意識はない。

支那ではあらゆる省庁は単なる行政機関で、その上には絶対君主として法
律を越えた独裁者、共産党が君臨、統治している。党員以外は中共の支配
する専制国家をまず愛さない。愛せというのが無理筋。

中共は建国から70年で、ようやく飢餓を克服した。しかし、恐らく10億前
後の人々の生活は厳しいままだろう。一方で金持も増えているから貧富の
差は開くばかりだ。皆が貧しいのは耐えられても、こちらが冴えない一品
料理でヒーヒー暮らしているのに、隣が毎晩のようにベンツに愛人を乗せ
て高級レストランで満漢全席では、なお一層のこと惨めな気分になる。

安全ではない、空気も土壌も汚染されている、社会保障はないか薄い、言
論思想の自由はない、選挙もない、真面目な人がバカを見る・・・そんな
国、体制への愛国心は育ちようがない。それは有史以来連綿と続いた支那
の初期設定だ。

日本の従軍記者の嚆矢でもある岡本綺堂「江戸っ子の身の上」から。

<「昔の従軍記者」

日露戦争の当時、私は東京日日新聞社に籍を置いていて、従軍記者として
満洲の戦地に派遣されましたので当時のことがもっとも大きく記憶に残っ
ていますが、順序としてまず日清戦争当時のことから申し上げましょう。

日清戦争(1894/明治27年〜1895/明治28年)は初めての対外戦争であり、
従軍記者というものの待遇や取締りについても、一定の規律はありません
でした。朝鮮に東学党の乱が起こって、清国がまず出兵する、日本でも出
兵して、明治27年6月12日には第五師団の混成旅団が仁川に上陸する。

こうなると風雲穏やかならず、東京、大阪の新聞社からも記者を派遣する
ことになりましたが、当時は従軍記者ではなく、各社が通信員を送り出し
たというに過ぎないので、直接には軍隊とは何の関係もありませんでした。

そのうちに事態いよいよ危急に迫って、7月29日には成歓牙山の支那兵を
撃ち払うことになる。この前後から朝鮮にある各新聞記者はわが軍隊に付
属して、初めて従軍記者ということになりました。

戦局がますます拡大するに従って、内地の本社からは第2第3の従軍記者を
送ってくる。これらは皆、陸軍省の許可を受けて、最初から従軍新聞記者
と名乗って渡航したのでした。

何分にも初めてのことで、従軍記者に対する規律というものがないので、
その服装も思い思いでした。みな洋服を着ていましたが、腰に白木綿の上
帯を締めて長い日本刀を携えているのがある。仕込み杖をいるのがある。

今から思えば嘘のようですが、当時の従軍記者としては、戦地へ渡った暁
には軍隊がどの程度まで保護してくれるか分からない。万一負け戦とでも
なった場合には、自衛行動をもとらなければならない。非戦闘員とて油断
はできない。

まかり間違えば支那兵と一騎討ちするくらいの覚悟がなければならないの
で、いずれも厳重に武装して出かけたわけです。

実際、その当時は支那兵ばかりでなく、朝鮮人だって油断はできないので
すから、このくらいの威容を示す必要もあったのです。軍隊の方でも別に
それを咎めませんでした・・・>

それから10年後、明治37、38年の日露戦争から従軍記者に対する規律が定
まった。大尉相当の待遇を受ける、その代わりに軍規に一切服従すべしと
なった。また、従軍記者は1社1人に制限された。各社とも困り果てたが、
蛇の道は蛇、「上に政策あれば下に対策あり」で、地方新聞社の名義を借
りて複数の記者を派遣するようになった。

陸軍省も知っていたろうが、規定には触れないので許可した。これにより
大手紙各社は3〜6人の記者を派遣できたという。武器はピストルのみ許可
された。

<食事は監理部へ行って貰ってくるのですが、時には生きた鶏や生の野菜
をくれることがある。米は炊き、鶏や野菜は調理しなければならず、なか
なか面倒でした。

私たちは7人が一組で、2人の支那の苦力(クーリー、人夫、軍夫)を雇っ
ていましたが、毎日交代で日本の料理法を指導していました。


苦力の日給は50銭で、みな喜んで忠実に働いてくれました・・・>

1931/昭和6年の柳条湖事件(満州事変)あたりから、支那は蒋介石国民
党、毛沢東共産党、日本との三つ巴の内戦・乱戦になるのだが、支那人に
とって国民党はゴロツキ、共産党は餓狼山賊殺人鬼、日本軍はそれを追い
払う討伐隊(番犬)というような感じではなかったか。

国民党は“官軍”を自称するが、その徴兵は「アンビリーバボー!」としか
言いようがない。町村の幹部を脅して、そのアドバイスで“札付きの厄介
者”を拉致したり“通りがかりの若者”を拉致したり。彼らは「拉壮丁」と
呼ばれ、坊主頭で眉毛を剃られて逃げることもできない。捕まれば半殺し
かお陀仏。ほとんど奴隷。

国民党は「砲声一響、黄金万両」(戦争は金儲けのチャンス!)で強奪、
強姦、汚職などの悪事はするが、共産党は奪い尽くし、殺し尽くし、焼き
尽くす「三光作戦」で、「貧民以外は階級の敵」史観だから非常に恐れら
れた。

この群は銃を持っているのは3分の1、裸足は2分の1で青龍刀や棍棒を担い
でいる。服装はボロボロ、まるで乞食、阿Qの群だ。「赤匪が来る!」と
なれば近隣の町村はもぬけの殻になったという。

人民は抵抗する術がないから国民党軍や日本軍が来ると用意しておいた旗
を振って友好の挨拶をしたそうだ。「あまり乱暴しないでね」(カネとエ
サとサケはやるから早く出てってくれ)というわけ。にわか娼婦や強姦も
あったろう。

綺堂は、苦力や農村の人々が「日本軍はインテリが多い(現実は「国破れ
て山河在り」とか「月落ち烏啼きて霜天に満つ」なんて有名な漢詩は多く
の人は常識として知っていたし、書けただけなのだが)、漢字で意思疎通
できる、乱暴しない」と警戒心を解き、やがて親密な中になっていくこと
に心打たれている。

今の日本は「日は落ちアカ鳴きて涙天に満つ」だが、愛すべき、支えるべ
き、信頼できる日本国は土俵際で何とか残っている。最初からそんな母の
ように優しい、父のようにイザとなれば頼れる国がない支那の民が、カ
ネ・コネしか支えがないのは気の毒である。互助会みたいな宗族は国の代
わりのなるのか、殉死する価値はあるのか・・・小生には分からない。

♪白樺 青空 南風 こぶし咲くあの丘 北国の ああ 北国の春

支那の民もこの歌が大好きだった。故郷、故国・・・愛すべき国があるこ
とは素晴らしいことである。

発狂亭“愚にして辱だがたまには凛?”雀庵の病棟日記から。

【措置入院 精神病棟の日々(144)2017/1/13】産経は「トランプが来
る、大変だ、大変だ!」、まるで狼少年のごとくに騒いでいるが、記者の
中にはリベラル≒アカモドキもいるから、まあ、そのうち慣れるだろう。

政治マンガ(山田伸)はいつも本当につまらないが、今朝のはデタラメル
ケルがトランプに「保護主義はダメ!」と阻止している絵だった。独を亡
国へ導く“ジャンク”メルケルに比べれば、テーブルの下でプーチンと手を
握り合って「うまいことやろうぜ」と意気投合を演じている怒鳴門・虎河
豚の方が遥かにマシだ。調理次第で高級料理になる。

新聞チラシに入っていた「厚木市タウンニュース」によると、緑豊かな愛
甲石田あたりの住民ボランティアによる無料ミニバン路線バスが金曜夜の
終バス(神奈中バス?)後に深夜便運行を始めたという。「このままでは
地元に若者はいなくなってしまう」という危機感が動機だ。

この辺りの若者の多くは、神奈中バスや小田急などを乗り継いで東京の職
場まで通うと最低2時間はかかる。結構しんどいから東京に住んでしま
う。「せめて週末には故郷へ帰ってきてよ」というヂヂババの願いだ。

過疎化、過疎地をどうするか、みな悩んでいるが、生産性の低い小規模農
業では一家4人を支える最低所得、年収800万円には到底届かない。国際競
争もあるから企業誘致も難しい。サービス業にしても猿と鹿、熊は何も
買ってくれない。

狭い農地にしがみついていないで皆でドローンや無人コンバインを使う農
業法人などを先行企業を巻き込んで創るべきだ。地平線が見えるくらいの
農地! せめて2〜4キロ四方の農地でなければ競争に勝てないし、次世代
は育たない。起業では農地を物納して株主になればいい。

「先祖伝来の農地」を死蔵するのではなく、大いに活かす、頭を使う、魅
力ある産業に仕立て上げる、それがご先祖様への何よりの供養になる。

なあ、爺さん、あんた分かってないようやから教えといてあげるがのう、
誰が住むのか分からんような豪邸を建てても、チンケな農業の跡取りには
嫁さん来ないぜよ、のう。よーく考えることや、脳ミソ使わんと呆ける
で、のう。(つづく)2019/9/10

◆ホルムズ海峡における日本の立場と平和憲法

加瀬 英明


イランと北朝鮮が、中東とアジアの発火点となるか、世界の注目を集めて
いる。

両国は大きく離れているが、共通点が多い。

イランは核兵器開発に取り組んできたかたわら、北朝鮮はすでに核弾頭を
手にしているが、アメリカのトランプ政権が中心となって、核開発、ある
いは核兵器を放棄するように、国際社会を捲き込んだ、厳しい経済制裁に
よって締めつけられて喘いでいる。

中国、ロシア、ヨーロッパ諸国も、アメリカの制裁を恐れて、イランと北
朝鮮に対する経済制裁に加わらざるをえない。

もちろん、イランはキムチを食べないとか、イスラム教の厳しい戒律に
よって飲酒を禁じているとか、違いも多い。

 イランは、地理が有利だ。日本の石油・天然ガスの80%以上、ヨー
ロッパ諸国にとってもエネルギーの大動脈が通っている、ペルシア湾の幅
37キロの狭い出入り口であるホルムズ海峡が、イランに面している。イラ
ンはイスラム教主流のスンニー派と、不俱戴天の二大宗派の一方で
あるシーア派の総本家で、アメリカ、イスラエルが支援するスンニー派の
多くの諸国で、イラン革命防衛隊や、代理兵を使って、紛争をひき起して
いるが、北朝鮮は地域的な影響力がない。

イランも、北朝鮮も、アメリカによる経済制裁を何とか緩和させようとし
て、駄々をこねている。イランは6月にアメリカの無人偵察機を撃墜し、
革命防衛隊がホルムズ海峡周辺で、日本、イギリス、ノルウェーなどのタ
ンカーを攻撃、拿捕(だほ)し、ウラン濃縮の度合いを高めた。北朝鮮は5
月、7月に短距離ミサイルを発射し、年内に合意できなければ、アメリカ
ともう話し合わないと脅している。

トランプ大統領も、口では勇ましいことをいっても、戦いたくない。イラ
ンがアメリカの無人偵察機を撃墜すると、トランプ大統領はいったんイラ
ンに限定的攻撃を加えるように命じたものの、その直後に取り消した。

イランを攻撃すれば、中東全域にわたってイランの代理兵が、米軍を攻撃
することになっただろう。

トランプ大統領はアフガニスタン、イラク、シリアから、米軍を撤収する
ことを発表しているものの、実現できないでいる。トランプ大統領は米軍
を海外から引き揚げたことを、レガシーとしたい。だが、7月にサウジア
ラビアに小規模の米軍部隊が、派遣された。

 ペルシア湾の状況は、一触即発だ。

トランプ大統領はこれまで3回にわたった米朝首脳会談が、北朝鮮の核実
験と、中長距離弾道弾の発射を中断させてきたほかに、何一つ成果をあげ
ず、すれ違いに終わったのにもかかわらず、話し合いを続けるといい、金
正恩国家主席に対して微笑み続けている。

だが、イランの最高指導者アリ・ハメネイ師と差しで、友好的に会談しよ
うとしない。アメリカは核開発と並んで、イランが中東全域にわたって安
定を乱しているのを阻止しようとしているが、イランは北朝鮮と同じ強権
による独裁国家なのに、ハメネイ師が金主席のような唯一人の独裁者では
なく、僧侶勢力、革命防衛隊など、八岐大蛇(やまたのおろち)のような集
団指導体制にあるからだ。

アメリカはイランの核開発と、北朝鮮の核兵器を放棄させることに、成功
するだろうか。核開発と核戦力の増強を先送りできても、放棄させること
はできないだろう。

トランプ政権は、ホルムズ海峡の自由航行を確保するために、ペルシア湾
にエネルギーを依存している諸国が有志連合を結成して、海軍部隊を派遣
することを求めている。日本はホルムズ海峡に対して、依存度がどの国よ
り高い。

“平和憲法”を楯にして、アメリカにホルムズ海峡において日本のタンカー
を護るのを委ねるべきだというのなら、京都アニメーションのような火災
も、アメリカの消防隊に消してもらったらよいだろう。


◆香港危機、日本は北京に厳しく警告せよ

櫻井よしこ


1週間前の8月18日、香港で170万人、住民の約4分の1に当たる群衆が街路
を埋め尽した。中国本土への容疑者引き渡しを可能にする「逃亡犯条例」
改正案に反対するデモだ。参加者数は凄まじかったが、デモは全体的に統
制がとれており、香港人は中国政府の非民主的香港政策を拒否するとの強
いメッセージを、全世界にきちんとした形で伝えた。

人口750万の香港は14億の北京に力で勝てるはずはなく、国際社会の道理
を味方にするしかない。香港人は国際社会の賛同を得るべく、また北京政
府につけ入る隙を与えないよう、街頭活動も暴力的局面に至る前に、さっ
と退いている。

ところがその1週間後の25日、香港警察はデモ隊に初めて発砲し、人間を
吹き飛ばす程の水圧で鎮圧する放水車も初めて導入した。

発砲の理由を、香港警察は26日未明の記者会見で、「生命の危険があり、
6人の警官が拳銃を抜いた」、「うち一人が空に向けて威嚇射撃した。必
要で適切な行動だった」とし、発砲を正当化した。だが、説明をそのまま
受け入れることはできない。

北京政府は強い力で香港の自治権と香港人の自由剥奪を試みる。デモ終息
に向けて軍事介入も止むなし、の方向に向かっている。この決定は、8月1
日から11日まで開催された北戴河会議で定められた。「産経新聞」外信部
次長の矢板明夫氏が語る。

「10日余りの会議の前半はかなり紛糾して、長老たちが習近平を批判した
といいます。米中貿易戦争も香港問題も何ひとつ上手くいっていないから
です。しかし長老たちにも名案はない。10月1日の建国70周年も近づいて
くる。それまでに香港問題を解決しなければならない。それで軍介入とい
う強硬手段も仕方がない、という結論になったのです」

その場で反対したのは朱鎔基元首相ただ一人だったという。北戴河会議に
出席する長老たちには香港問題の早期解決を欲するもうひとつの理由がある。

香港人を悪者にする

たとえば温家宝元首相の息子やその妻らが香港利権にどっぷり浸かってい
る事例が2012年10月に「ニューヨーク・タイムズ」紙で特集されたよう
に、長老たち全員が香港利権の受益者だと考えてよい。彼らは甘い利権の
蜜をすする邪魔をされたくない、早く混乱を鎮めてほしいのだ。

北戴河会議終了直後に、二つの顕著な動きがあった。まず、12日、北京政
府は香港に隣接する広東省深圳(しんせん)に10万人規模の武装警察を集
結させ、その映像を国営メディアで報じさせた。同日、中国政府は香港で
の抗議活動に「テロリズムの兆候が現れ始めた」と批判し、香港の裁判所
は抗議運動参加者に撤去命令を発した。命令に従わなければ逮捕も当然と
いう法的条件が整えられたのだ。

第二の動きは楊潔篪(ようけつち)中央政治局委員が訪米し、ポンペオ国
務長官と会談したことだ。楊氏は米国側に、香港問題解決のために強硬手
段もあり得ると説明したと見られる。

この間の8月9日、学生や市民らは香港国際空港に集結し始めた。11日には
香港市内のデモで警官が至近距離から水平に構えて撃ったビーンバッグ弾
が、女性の右目を直撃し、女性は失明したと伝えられる。無残な映像は瞬
時に拡散された。市民らは強く反発し、12日も空港を占拠し、午後全便が
欠航した。警官が市民を装ってデモ隊に潜入し、暴力行為を煽っていたこ
とも判明した。

約1世紀、イギリスの統治下で民主主義を楽しんだのが香港人だ。彼らの
骨身に刻まれた民主主義を踏みにじる習氏の戦略が成功する地合は香港に
はないだろう。矢板氏が語る。

「結論から言えば習近平は悉く失敗したのです。学生や市民らは、北京政
府の思惑を警戒して、13日以降、さっと退いた。米国では、それまで香港
に関心を抱いているとは思えなかったトランプ大統領が、14日になって急
に『香港問題は人道的に解決すべきだ』と発言しました。18日にトランプ
氏は更に踏み込んで『天安門事件のようなことになれば中国との貿易問題
でのディールははるかに難しくなる』と牽制しました。すべて藪蛇になっ
たのです」

北京政府の狙いは、香港人が襲撃したという状況を捏造して、香港人を悪
者にすることだ。そうすれば香港基本法18条を適用できる。18条とは、
「動乱が発生して」「緊急事態に突入」した場合、中央人民政府、つまり
北京政府は中国の法律を香港に適用できるというものだ。

現在の香港の秩序は「一国二制度」の下で守られている。だが、18条を適
用すれば、香港の法秩序全てを白紙にして、中国本土と同じ法の下に置く
ことが可能になる。

最も強い声を発する責任

矢板氏の説明だ。

「抗議行動に参加して拘留されている香港人はいま、700人です。投石な
どはみんな微罪です。彼らはすぐに釈放され、ヒーローになりますから、
北京から見ると逆効果です。中国の国内法を適用すれば何千人も何万人も
逮捕して、中国本土に連行し懲役15年とか20年、無期にしたり、拷問も虐
殺も可能になります。中国共産党はこの種の強硬手段で抗議活動を終息さ
せられると考えているのです」

そうした中、冒頭の170万人参加の8.18抗議行動が行われた。共産党のや
り方を知悉する香港人だから、8.18デモでは一切の暴力行動を慎んだ。卵
やトマトも投げてはならないと申し合わせた。中国に口実を与えないよう
に賢くデモをした。

にも拘わらず、1週間後の8月25日の抗議集会では、警官を「生命の危険」
に突き落とす暴力行為があったという。果たして事実か。

実は、デモ隊の中に香港人ではない大陸の人間が紛れ込んでいて、警官に
殴りかかっていた事例が判明した。その映像もSNSで広く拡散された。
矢板氏は、天安門事件のときも同じだったと語る。

「あのとき市民の中に大量の私服警官が入っていて、天安門で軍の車両や
バスを襲撃し、火をつけたのです。彼らは放火してすぐに逃げ、後に残さ
れた市民や学生が大量に逮捕され殺されました。これが中国共産党の常套
手段です」

天安門事件当時、ケ小平は天安門での動きが中国全土に広がるのを恐れて
弾圧に乗り出した。香港人の民主主義を求める心が中国本土の人々の胸に
届けば届くほど、習氏も弾圧と軍介入に傾くだろう。

ここで日本は何をすべきか。天安門事件後、北京政府をまっ先に許したの
は日本だった。今回、日本は北京政府に30年前と同じ甘い態度をとっては
ならない。最も強い非難と警告の声を発する責任があるのは日本政府だ。
香港は日本に期待し、台湾も日本を見ている。香港の学生や市民の側に立
ち、中国政府に厳しく注文をつけることなしに、価値観外交を唱える資格
など無いのである。

『週刊新潮』 2019年9月5日号 日本ルネッサンス 第866号