2019年11月28日

◆「風立ちぬ」の命日

渡部 亮次郎


5月28日。名作「風立ちぬ」の作者。20世紀の業病(号病)肺結核をモ
チーフにし、肺結核に倒れた堀辰雄の命日である。今から61年前、
1953(昭和28)年のことだった。

「風立ちぬ」という松田聖子のアルバムもあるが「立ちぬ」という感傷的
な語感を借りただけで、堀の作品とは無関係である。

堀 辰雄(ほり たつお)のことを知ったのは中学生の頃で、兄が読んでい
たのを勝手に読んだのかも知れない。死去した時は既に高校2年生。関心
は別のところに変わり、その死は知らなかった。

堀 辰雄は 明治37(1904)年12月28日、東京市麹町区平河町(現在は東京
都千代田区)で生まれた。 最終学歴は東京帝国大学国文科。

東京府立三中から第一高等学校へ入学。入学とともに神西清と知り合い、
終生の友人となる。

高校在学中に室生犀星や芥川龍之介とも知る。一方で、関東大震災の際に
母を失うという経験もあり、その後の彼の文学を形作ったのがこの期間で
あったといえる。

東京帝国大学文学部国文科入学後、中野重治や窪川鶴次郎たちと知り合う
かたわら、小林秀雄や永井龍男らの同人誌にも関係し、プロレタリア文学
派と芸術派という、昭和文学を代表する流れの両方とのつながりをもった。

1930(昭和5)年に『聖家族』で文壇デビュー。 このころから肺結核を
病み、軽井沢に療養することも多く、そこを舞台にした作品を多くのこし
たことにもつながっていく。

1934年、矢野綾子と婚約するが、彼女も肺を病んでいたために、翌年、
八ヶ岳山麓の富士見高原療養所にふたりで入院する。しかし、綾子はその
冬に死去。この体験が、堀の代表作として知られる『風立ちぬ』の題材と
なった。

この『風立ちぬ』では、ポール・ヴァレリーの『海辺の墓地』を引用して
いる。このころから折口信夫から日本の古典文学の手ほどきを受ける。

王朝文学に題材を得た『かげろふの日記』のような作品や、『大和路・信
濃路』(1943年)のような随想的文章を書き始める。また、現代の女性の
姿を描くことにも挑戦し、『菜穂子』(1941年)のような、既婚女性の家
庭の中での自立を描く作品にも才能を発揮した。

戦時下の不安な時代に、時流に安易に迎合しない堀の作風は、後進の世代
の中にも多くの支持を得た。また、堀自身も後進の面倒をよく見ており、
立原道造、中村真一郎、福永武彦などが弟子のような存在として知られて
いる。

戦争末期からは症状も重くなり、戦後はほとんど作品の発表もできずに、
信濃追分で闘病生活を送った。

代表作「風立ちぬ」は1936(昭和11)年から執筆、『改造』などに分載さ
れたのち38年4月野田(のだ)書房より刊行。

「風立ちぬ、いざ生きめやも」とバレリーの詩句の引用をもって始め、リ
ルケの『鎮魂歌(レクイエム)』をエピローグに置く。

高原療養所とそこから山一つ隔てた「K村」とを舞台に、婚約者節子の病
床に寄り添い、やがて彼女に先だたれていく「私」が、死にさらされた自
分たちの生の意味と幸福の証(あかし)とを模索し、ついにそれらについ
ての確信を得ていく過程を描く。

婚約者矢野綾子の死という自らの痛切な体験を、詩情あふれることばのな
かで昇華し永遠の生の思想を訴えかけてくる点において、堀文学の代表的
名作となっている。
昭和28( 195年5月28日信濃追分(現・長野県北佐久郡軽井沢町)で死去
(満48歳没)2010・5・26
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

◆日本人が希望を取り戻す方法

北野幸伯


私は1990年(平成2年)、モスクワに留学しました。

大学卒業後もロシアに残り、

帰国したのは2018年(平成30年)でした。


私がモスクワに行った時、日本はバブル最末期。

一国で世界GDPの18%を占め、

90%以上の人が「私は中流階級」と思っていた。

世界から「黄金の国ジパング」と称賛されていました。

しかし、私がモスクワに行った年にバブルがはじけ、以
後「暗黒の10年」「暗黒の20年」「暗黒の30年」ともい
われる時代に突入していきます。

28年ぶりに戻ってきた日本。

一見、出国した時と何も変わりがないように見えます。

相変わらず、日本人は優しく、礼儀正しく、誠実。
道は清潔で、町は安全。
自然は豊かで、桜も紅葉もきれいです。

しかし、この28年間で、失われたものがあることに、
私は気がつきました。それは、【 希望 】です。

テレビを見たり、ユーチューブを見たり、ネットの記
事を読んだり、本を読んだり。
あるいは、日々出会うさまざまな人と話してみて、


「日本はこれからどんどん良くなっていく!」

という【希望】をもっている人が、ほとんどいない。

いえ、【全然いない】といっても、過言ではないでしょう。

その理由はなんでしょうか?

いろいろあるでしょうが、一番大きいのは「少子化問題」
でしょう。

日本の人口は、2050年には1億人を切り、2100年には5000
万人を割り込むと予測されている。

そうなると、日本の人口は今の韓国並になり、GDPも世
界12位とかになるでしょう。

今の勢いで移民を入れつづければ、「中国人が人口の過
半数」なんてことにもなりかねません。

国民の誰もが、

・少子化は不可避

・だから、縮小、衰退は不可避と確信している。

はっきりいうと、これって【インチキ宗教】みたいな
ものです。

なぜって、出生率は政策で挙げることができる。
そういう実例もあります。


その他、日本には問題が山積みです。しかし、実をいうと、
ほとんどの問題に解決策があります。

そのことを知った時、日本国民は失った【希望】をと
りもどすでしょう。
at 11:28 | Comment(0) | 北野幸伯

◆インフルエンザの常識・非常識

石岡荘十


正直言って、「インフルエンザとは何か」、関心を持って集中的に学習し始めた。まず気がついたのは、今までインフルエンザに関して持っていた知識・感覚、“常識”が、いかにいい加減で、非常識なものだったかということである。

と同時に、専門家の話をきいたり本を読んだりすると、ことによると国家を滅亡させる引き金ともなりかねないほどの猛威を振るう“身近な”病についていかに無知であるかを思い知らされる。

まず、
・病名について、である。
「インフルエンザ」はなんとなく英語のinfluenceから来たものと思っていたが、その語源はイタリア語の「天体の影響」を意味する「インフルエンツァ」であった。中世イタリアでは、インフルエンザの原因は天体の運動によると考えられていたからだそうだ。

・「スペイン風邪」は濡れ衣
歴史のなかでインフルエンザを疑わせる記録が初めて現れるのは、もっとずっと前の紀元前412年、ギリシャ時代のことだったという。その後もそれと疑わせるインフルエンザは何度となく起こっているが、苛烈を極めたのは1580年アジアから始まったインフルエンザで、全ヨーロッパからアフリカ大陸へ、最終的には全世界を席巻し、スペインではある都市そのものが消滅したと記録されている。

より詳細な記録は1700年代に入ってからで、人類は以降、何度もパンデミック(世界的大流行)を経験している。なかでも、史上最悪のインフルエンザは「スペイン風邪」である。
というとスペインが“震源地”、あるいはスペインで流行ったインフルエンザだと誤解されがちだが、発祥は、じつは中国南部という説とアメリカのどこかで始まったという説がある。

が、確かなことは1918年3月、アメリカ・デトロイト、サウスカロライナ州、そして西海岸で姿を現したということだ。

その頃世界は第1次世界大戦の真っ只中にあり、アメリカからヨーロッパ戦線に送られた兵士を宿主としたウイルスがヨーロッパ席巻の端緒を開いた。大戦の当事国は兵士が病気でバタバタ倒れている事態を隠蔽し続けたといわれる。
ところが参戦していなかったスペインでは情報統制を行わなかったため、大流行がことさらフレームアップされ伝わったのではないか、と推測されている。「スペイン風邪」はとんだ濡れ衣なのである。

・第二波の毒性をなめるな
スペイン風邪の猛威は、その後2年間、第2波、第3波---と毒性を強めながら津波のように襲い掛かり、猖獗を極めた。第2波の初期、アメリカ東海岸から公衆衛生担当者が国内担当者に送ったアドバイス。

「まず木工職人をかき集めて棺を作らせよ。街にたむろする労働者をかき集め墓穴を掘らせよ。そうしておけば、少なくとも埋葬が間に合わず死体がどんどんたまっていくことは裂けられずはずだ」(『アメリカ公衆衛生学会誌』1918)積み上げられた死体の山を「ラザニアのようだ」と表現するほどだった。

毒性が弱い新型インフルエンザの場合はこんなことにはならないと言うのが今の見方だが、少なくとも秋口と予想される第二波がこの春よりはるかに強烈なものとなる可能性は否定できない。これが常識である。なめてはいけない。

・「寒い地域の病気」はウソ
つい先だってまで、インフルエンザは寒いところで流行るもの、と思い込んでいた。ただ、それにしては夏になってもじりじりと患者が増え続けるのはどうしたことか。そこで、先日「ウイルスは季節に関係なく拡散しているのではないか、と疑わせる」と根拠もなく書いたが、最近の定説は私の山勘どおりだった。

インフルエンザは熱帯地域でさえ年間を通して穏やかに流行っている。だが熱帯ではマラリアやデング熱など、臨床症状がインフルエンザに似ているので、インフルエンザと診断されなかった可能性が否定できないという。人口当たりの死亡率は温帯・寒帯地域より高いという報告さえある。

新型インフルエンザの蔓延を経験した兵庫県医師会は、「兵庫県においても、初期規制の徹底で一旦ゼロとなったものが、再 び5月を上回るレベルになりつつあり、全数調査の全国的中止にもめげず、可能なPCR検査実施による確定数は増え続けています」と報告している。

日本では、新型インフルエンザは冬であるオーストラリアなど南半球に移っていったという一服感が支配的だ。世界中で笑いものになった日本のあの“マスクマン”も見かけなくなった。マスコミもあの騒ぎをお忘れになってしまったようだ。

しかし、ウイルスは日本だけでなく北半球のイギリス、ドイツでも決して衰えてはいとWHO(世界保健機関)に報告している。いまや新型インフルエンザは「地域の寒暖に関係なく1年を通して穏やかに流行している」というのが常識である。

最近の厚労省の報道リリースを見ても緊張感はない。記憶に新しい水際検疫作戦は、世界の非常識だったことを最近になってしぶしぶ認め、方針転換に踏み切ったが、日本国内の企業は秋口に備えてマスクの買いだめに走っている。

やはり、この際の世界の常識は、WHOのホームページで確認するしかないと私は考えている。   


2019年11月27日

◆親中派大物議員の何君堯が落選

宮崎 正弘


令和元年(2019)11月26日(火曜日)通巻6286号    <前日発行>

親中派大物議員の何君堯が落選。「こんなことありか?」
  香港区議選、およそ85%が民主系。ランドスライドが起きた

11月24日、一切の暴力的衝突がなく、催涙ガスもゴム弾も火焔瓶の嵐
もなく、しかも香港は快晴。早朝から投票所には長い列が出来たが、投票
率が71・2%と史上空前の記録を更新した。およそ294万人が投票所
に足を運んだことになる。

結果はどうだったか。香港のヤングパワーが山を動かしていた。中国をの
ぞく世界のメディアが祝福ムードの報道をした。

親中派の大物、何君堯(現職立法委員)がよもやの落選。屯門地区は中国
大陸系や、地元ヤクザの支配する地区であり、まさか。「こんなことあり
か」と選挙事務所。

とくに何君堯が恨まれたのは7月21日の民主派襲撃(元朗駅)のヤクザ
の黒幕とされ、また民主の壁(レノンウォール)のビラを剥がし、街を綺
麗にしようという「清掃運動「の先頭にも立ってきた。このため選挙開始
直後に「お前はクズだ」と言われて反政府の男性からナイフで斬りつけら
れた。

屯門周辺は親中派が多い選挙区だが、現職の区議会議長も落選した。

沙田地区では民陣の責任者、今子木が当選した。かれはLGBT支持者で
もあり、2回、親中派ギャングに襲撃されて負傷していた。おなじく民陣
女性闘士の黄文萱も当選した。

日本でも知られる雨傘革命の指導者・黄之峰は立候補を拒否されたため、
代理人を立てた。その代理人である林浩波は早々と当選した。

香港時間午前7時時点で、民主派が獲得議席は288議席。対する親中派
は42議席。無所属が24名。80以上の民主派の勝利というランドスラ
イドが起きた。
  
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読者の声 どくしゃのこえ READESRS‘ OPINIONS 読
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(読者の声1)韓国はどこへ向かうのか。本気で北朝鮮との連邦国家を目
指すのか。北朝鮮もまた南北統一を目指して核武装までしている。この同
床異夢の中文政権は朝鮮半島を錯乱しているだけか。又韓国の経済は大丈
夫か 等気になる事山積です。
今回講演は李相哲先生です。事前申し込み下さい。
弘志会 幹事 福井成範  fukuima@tree.odn.ne.jp
                 TEL090-3090-5452
           記 
1.日時:令和元年11月30日(土) 15:30〜17:30
2.内容:1530〜1700 講演 :龍谷大学教授 李相哲 先生
   「朝鮮半島問題と文在寅政権」
     1700〜1730  質疑応答
1800〜(1830)1930  懇親会(近傍居酒屋)
3.場所:サムティフェイム新大阪4F 「4FーG」会議室 
  TEL:06(6885)9000     〒543-0021 大阪市淀川区西中島
6-5-3(JR「新大阪」駅より徒歩9分、地下鉄御堂筋線「西中島南方」駅
より徒歩4分。

地下鉄御堂筋線「新大阪」より徒歩6分、阪急京都線「南方」駅より徒歩5分
4.会費:講演のみは1,500円 懇親会参加者は4,500円(但し不足分カ
ンパ要請)
学生は無料
5.主催: 弘志会 (幹事福井成範  fukuima@tree.odn.ne.jp
          TEL090-3090-5452

◆「風立ちぬ」の命日

渡部 亮次郎


5月28日。名作「風立ちぬ」の作者。20世紀の業病(号病)肺結核をモ
チーフにし、肺結核に倒れた堀辰雄の命日である。今から61年前、
1953(昭和28)年のことだった。

「風立ちぬ」という松田聖子のアルバムもあるが「立ちぬ」という感傷的
な語感を借りただけで、堀の作品とは無関係である。

堀 辰雄(ほり たつお)のことを知ったのは中学生の頃で、兄が読んでい
たのを勝手に読んだのかも知れない。死去した時は既に高校2年生。関心
は別のところに変わり、その死は知らなかった。

堀 辰雄は 明治37(1904)年12月28日、東京市麹町区平河町(現在は東京
都千代田区)で生まれた。 最終学歴は東京帝国大学国文科。

東京府立三中から第一高等学校へ入学。入学とともに神西清と知り合い、
終生の友人となる。

高校在学中に室生犀星や芥川龍之介とも知る。一方で、関東大震災の際に
母を失うという経験もあり、その後の彼の文学を形作ったのがこの期間で
あったといえる。

東京帝国大学文学部国文科入学後、中野重治や窪川鶴次郎たちと知り合う
かたわら、小林秀雄や永井龍男らの同人誌にも関係し、プロレタリア文学
派と芸術派という、昭和文学を代表する流れの両方とのつながりをもった。

1930(昭和5)年に『聖家族』で文壇デビュー。 このころから肺結核を
病み、軽井沢に療養することも多く、そこを舞台にした作品を多くのこし
たことにもつながっていく。

1934年、矢野綾子と婚約するが、彼女も肺を病んでいたために、翌年、
八ヶ岳山麓の富士見高原療養所にふたりで入院する。しかし、綾子はその
冬に死去。この体験が、堀の代表作として知られる『風立ちぬ』の題材と
なった。

この『風立ちぬ』では、ポール・ヴァレリーの『海辺の墓地』を引用して
いる。このころから折口信夫から日本の古典文学の手ほどきを受ける。

王朝文学に題材を得た『かげろふの日記』のような作品や、『大和路・信
濃路』(1943年)のような随想的文章を書き始める。また、現代の女性の
姿を描くことにも挑戦し、『菜穂子』(1941年)のような、既婚女性の家
庭の中での自立を描く作品にも才能を発揮した。

戦時下の不安な時代に、時流に安易に迎合しない堀の作風は、後進の世代
の中にも多くの支持を得た。また、堀自身も後進の面倒をよく見ており、
立原道造、中村真一郎、福永武彦などが弟子のような存在として知られて
いる。

戦争末期からは症状も重くなり、戦後はほとんど作品の発表もできずに、
信濃追分で闘病生活を送った。

代表作「風立ちぬ」は1936(昭和11)年から執筆、『改造』などに分載さ
れたのち38年4月野田(のだ)書房より刊行。

「風立ちぬ、いざ生きめやも」とバレリーの詩句の引用をもって始め、リ
ルケの『鎮魂歌(レクイエム)』をエピローグに置く。

高原療養所とそこから山一つ隔てた「K村」とを舞台に、婚約者節子の病
床に寄り添い、やがて彼女に先だたれていく「私」が、死にさらされた自
分たちの生の意味と幸福の証(あかし)とを模索し、ついにそれらについ
ての確信を得ていく過程を描く。

婚約者矢野綾子の死という自らの痛切な体験を、詩情あふれることばのな
かで昇華し永遠の生の思想を訴えかけてくる点において、堀文学の代表的
名作となっている。
昭和28( 195年5月28日信濃追分(現・長野県北佐久郡軽井沢町)で死去
(満48歳没)2010・5・26
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

◆日本人が希望を取り戻す方法

北野幸伯


私は1990年(平成2年)、モスクワに留学しました。

大学卒業後もロシアに残り、

帰国したのは2018年(平成30年)でした。


私がモスクワに行った時、日本はバブル最末期。

一国で世界GDPの18%を占め、

90%以上の人が「私は中流階級」と思っていた。

世界から「黄金の国ジパング」と称賛されていました。

しかし、私がモスクワに行った年にバブルがはじけ、以
後「暗黒の10年」「暗黒の20年」「暗黒の30年」ともい
われる時代に突入していきます。

28年ぶりに戻ってきた日本。

一見、出国した時と何も変わりがないように見えます。

相変わらず、日本人は優しく、礼儀正しく、誠実。
道は清潔で、町は安全。
自然は豊かで、桜も紅葉もきれいです。

しかし、この28年間で、失われたものがあることに、
私は気がつきました。それは、【 希望 】です。

テレビを見たり、ユーチューブを見たり、ネットの記
事を読んだり、本を読んだり。
あるいは、日々出会うさまざまな人と話してみて、


「日本はこれからどんどん良くなっていく!」

という【希望】をもっている人が、ほとんどいない。

いえ、【全然いない】といっても、過言ではないでしょう。

その理由はなんでしょうか?

いろいろあるでしょうが、一番大きいのは「少子化問題」
でしょう。

日本の人口は、2050年には1億人を切り、2100年には5000
万人を割り込むと予測されている。

そうなると、日本の人口は今の韓国並になり、GDPも世
界12位とかになるでしょう。

今の勢いで移民を入れつづければ、「中国人が人口の過
半数」なんてことにもなりかねません。

国民の誰もが、

・少子化は不可避

・だから、縮小、衰退は不可避と確信している。

はっきりいうと、これって【インチキ宗教】みたいな
ものです。

なぜって、出生率は政策で挙げることができる。
そういう実例もあります。


その他、日本には問題が山積みです。しかし、実をいうと、
ほとんどの問題に解決策があります。

そのことを知った時、日本国民は失った【希望】をと
りもどすでしょう。
at 10:36 | Comment(0) | 北野幸伯

◆八軒家浜船着場から熊野街道へ

毛馬 一三


大阪「淀川」から毛馬閘門を通り、1級河川「大川」(旧淀川)を少し下って、大阪三大橋の「天神橋」を抜けると、「八軒家浜船着場」に辿り着く。

この「八軒家浜」は、古代から京都と結ぶ水上交通の拠点だった。江戸時代ではこの浜の船着場周辺に、八軒の船宿があったことから「八軒家浜」と呼ばれたらしい。その「記念碑」が、阪神電鉄天神橋駅前の老舗・昆布屋門前に立っている。

この「碑」の先の坂を上ると、江戸時代の西洋医学者・緒方洪庵の塾屋敷跡がある。ここに集まる弟子たちも、この「八軒家浜船着場」を常時利用した。坂本竜馬も、西郷隆盛も、ここの船着き場から近郊にある「薩摩屋敷」に通っている。

この「八軒家浜船着場」は、京都から屋形船でやって来た人々が、この船着場から「熊野詣」に赴く道筋として利用していた。今になって、ここ「八軒家浜船着場」が、世界遺産となった「熊野街道」の起点となっているのだが、意外にもそれが知られていない。

さて、その「熊野街道」に触れておこう。

<この「八軒家浜」を起点に、四天王寺(大阪市天王寺区)、住吉大社(大阪市住吉区)、堺、和歌山などを通り、紀州田辺を経て、中辺路または大辺路によって熊野三山へと向かう道筋。

この熊野街道を経て参台する「熊野詣」は、平安時代中期ごろ、熊野三山が阿弥陀信仰の聖地として信仰を集めるようになったのに伴い、法皇・上皇などの皇族、女院らや貴族の参詣が、相次ぐようになったのが始まりだった。

室町時代以降は、武士や庶民の参詣が盛んになった。その様子は、蟻の行列に例えて、「蟻の熊野詣」と言われるほどの賑わいだったそうだ。江戸時代になると伊勢詣とも重なり、庶民も数多く詣でたため、賑わいは浪速で最高だったといわれる。ただ明治以降は、鉄道や道路の整備により参拝者は少なくなる>。
参考―フリー百科事典『ウィキペディア

このように霊場熊野三山まで橋渡しする歴史的街道の起点の「八軒家浜船着場」は、これを賑わいのある水都大阪再生拠点にしようと、民官協働で、京阪電車天満橋駅の北側の大川沿いに幅約10メートル、長さ約50メートルの3層からなる鋼鉄製の巨大な「船着場」が建設された。

同船着場では、ゆったりとしたスペースがある水上バス(アクアライナー)や大型遊覧船が、ここから発進し水都大阪の川辺に広がる眺望とクルージングを楽しむことができる。

遊覧船に乗って身を乗り出して、目上に広がる大阪のまちの姿を眺めると、立体的な水都の形が顕れ、両岸のまちなみが覆い被さるような3次元都市を実感させてくれる。実にマジックな風景の出現であり、感動そのものだ。これは体験してみないと絶対に分からない。

大阪大手企業本社の東京一局集中や、大手企業工場の他府県や外国への移籍、外国人の来阪が目立つなど、大阪の最近の事情の中で、この「八軒家浜」を観光名所として再起させることが出来れば、大阪の集客効果は抜群だろう。

しかも「緒方洪庵の塾屋敷跡」、皇族をはじめ秀吉も通った「八軒家浜」から「熊野詣」への新観光ルートを創りだし、歴史の歩きの楽しみを味合わせる事業が始まれば、大阪への集客に繋がることは間違いない。

「八軒家浜」祭りだけで終わって仕舞う行事だけではあまりにも単純な気がして、実に勿体ない。しかも、「熊野街道」の起点となっている「八軒家浜船着場」の歴史的価値をなえがしにしてきた大阪市文化行政の手抜かりも情けない。

今からでも遅くない。「八軒家浜船着場」から世界遺産となった「熊野詣で」を複活させるイベントや実際の「歩き会」を実施すべきだ

                                     (了)

2019年11月26日

◆返還前に出生の香港人340万には

宮崎 正弘


令和元年(2019)11月22日(金曜日)弐通巻第6281号 

英国総選挙目前に、香港居住者のBNO保持者に十全のシチズンシップを
  返還前に出生の香港人340万には英国旅券が付与されていが。

 12月12日は英国の総選挙。ジョンソン率いる保守党が労働党を大きく
リードしていると言われるが、BREXITいがいの争点に「香港人の
BNOパスポート保持者に英国の市民権をあたえよう」という動きに急速
に浮上し、選挙争点の一つとなった。

6月以来の香港の民主化運動で、香港の若者は米国の「香港民主人権法」
の制定を呼びかけたが、英国政界には何も期待していないかのようだた。
政界はBREXIT一色で総選挙を展開するのかと思いきや、保守党の有
力議員が突如、「BNOは間違い、法改正し、抑圧されている香港の人々
の救済の手を」と呼びかけをはじめ、有力議員が署名した。

第三党の「自民党」も積極賛成であり、選挙の争点が香港の動きを一方に
見据えて、多様化していることが分かる。
また米国議会が「香港民主人権法」を成立したインパクトが大きい。

 1997年香港返還前に出生した人を対象に、英国はBNO
(BRITISH NATIONAL OVERSEA)という旅券を与えている。

このBNOは、英国での居住、就労は認められておらず、単なるトレベルド
キュメント、すなわちB級旅券だ。
 正式の市民としては扱われず、便宜的な旅行の利便性を付与しただけで
は、340万香港市民が二級の二重国籍という複雑な仕組みを作っていただ
けなのである。
       
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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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  ♪
樋泉克夫のコラム
@@@@@@@@

【知道中国 1988回】                 
 ――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(6)
上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)

   △
 宮崎滔天の「異文化体験」は続く。
 いよいよ小雨の汕頭を出港するのだが、波が中々に高い。そこで「支那
人中嘔吐を催すあり、用意の竹筒に糞を垂るゝあり、居乍ら小便をやるあ
り、阿片を吹ふあり、彼や是や打雜りて一種言ふ可からざるの惡臭をモグ
ルが如し」。そこで滔天も頭がクラクラしたのだろう。
「迚もたまらず甲板に出で見れば、幾百の御連中は雨にぬれつゝ糞小便の
中に身を?へて足蹈む場もなし」。

 かくて「嗚呼、彼等の豚尾漢たる所以豈に唯其尾のみならんや」。じ
つは甲板上の各所に「此處不可小便」、厠に「諸位人客等、如欲到此大便
者、祇用草紙、不可用竹枝仔以鎭寒水空、如有違者有辱、?此告知」と注
意喚起の貼紙をしているが、一向に守られない。いわば糞小便の垂れ流し
状態だった。

 そこで宮崎は悟った。「(彼らと)同舟せんものは醜美無差別、糞味
噌一躰の平等界に悟入せるものに非ざれば、生等の如き凡夫では到底出來
ず。去れど人間と云ふものは中々死なぬものに候」。
 我慢に我慢を重ねた2日程が過ぎると突然やって来た船長から「此處に
居つて病氣しては惡き故、支那人の通行を遮斷して座を設け置」いたから
と声を掛けられた。そこで「(日本人)一同元氣付き荷物を運んで直に船
長室の傍に居直り漸く談笑高吟の境に入り申候」ということになる。
  一安心といったところだが、落ち着けば落ち着いたで暇を持てますこ
とになる。そこで一同のうちの1人は「彼等を相手に日本語を?へなどし
て船中の無聊を遣」ったそうだ。(以上、『宮崎滔天全集 第五巻』昭和
52年 平凡社)

 南洋行きの汕頭発便がこうだったということは、おそらく厦門発も大
同小異といったところだろう。

 上塚に依れば、厦門と出稼ぎ先の南洋の間には「移民輸送を目的とせ
る汽船會社すくなからず」。たとえば「Lin Chin Tsong & Co.」社は「英
國籍支那人の經營」で、厦門とシンガポール間を専門に運行されている。
往路は苦力に加え、「海峽殖民地在住支那人の需要する茶、紙、綿糸、刻
煙草、紙傘、支那酒、製烟等雜多なる本國品を搭載す」。

 厦門から南洋に職を求めて出稼ぎする人数は「年々十萬を數へ、其の
歸來するもの又七八萬ありとせらる」。このように「南洋との交通煩繁な
るが故に往航少くとも七八百多きは千二三百を算し常に盛況を呈しつゝあ
り」。「復航には新嘉坡よりの歸來客及蘭貢米其他南洋寄港地より香港揚
げの荷物を積來す」。

 福建・広東と南洋を結ぶ航路事情に基づいて、上塚は(1)「北支那
(大連、天津、青島)方面と南支那殊に福州、厦門方面とを結ぶ日本人經
營の航路なきこと」。(2)「福州厦門間を結ぶべき日本船なきこと」。
(3)基隆福州間及上海又は厦門間を結ぶ日本船の航海數餘りに少なきこ
と」。(4)南支那南洋線に於て尚日本船の割込むべき餘地あること」。
(5)「各航路とも相當の利潤を収め得べきこと」――と主張する。

 結局、他国で他国が経営する船舶を利用することは「不便にして且不
愉快なる」ものであるだけでなく、「民族發展及貿易の伸長に少からざる
障害たるべきは今更茲に論ずる迄もなし」。
かくして「今や我船舶界も講和問題の影響を受けて稍もすれば船腹の過剩
を患へんとするに際し、吾人は當局及當業者が速かに當方面に注目せん事
を希望して止まざるなり」。

 ベルサイユ講和会議後の船舶不況を乗り切るためにも、日本企業は中
国南部沿海をハブとし北の満洲から南の南洋に伸びる航路に商機を求めよ
――ということだろう。
 
            
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  読者の声   どくしゃのこえ  READERSOPINIONS
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(読者の声1)地政学の太宗マッキンダーはあらゆる組織は国家も含め
ゴーイング・コンサーンであり、組織誕生以来の構成員の願望・意志・努
力・実行などの集積(習慣)が総体としての意志や行動様式を有すること
になり、その動的存在を「前提」として社会は動いていると述べています。
これから敷衍すれば国家の誕生以来、数えきれないほどの多くの日本人
と、無限ともいえる日本人の願い・意志・努力・犠牲などの集積体の上
に、それを前提として現在の我々日本人は生を与えられ、人生を送ってい
ると言えるのです。
しかし現実はどうでしょうか。
昨今の新聞記事を見ていると、何事も今生きている日本人のみの判断だけ
で多くの事案の是非が議論されています。例えば天皇の継承(男系・女系
などの)問題や、大嘗祭の形式など政治と宗教の分離問題などの是非は全
て先の敗戦の結果『偶々』制定された『暫定憲法』や法律に沿った議論ば
かりで、そこには日本をここまで創ってきた数千年間に及ぶ『無限』の願
望・意志・努力・実行・犠牲・示唆などの『民意』は含まれていないとい
うか、ほとんど軽視・無視されています。
つまり戦後のせいぜい”瞬間的・刹那的“100年間程度の短い期間に、現
在たまたま、ここに生を育んでいる限られた日本人の目前の便宜だけに判
断を委ねているのです。これを“刹那・独裁的民主主義と評するのは言い
すぎでしょうか。

今でも我々日本人は家族が亡くなれば丁重に弔い、亡き人の意志・願
望・努力・犠牲・遺言などを大切に守るべきとする心情を大切に守ってい
ます。
其れであるのに国家となると、その安全と繁栄を営々と築いてきた国民の
“意志・願望・努力・犠牲・示唆”等を軽視・無視し、現在の『民意』か
ら、もう亡くなったからといって、除外しているのはいかにも理不尽であ
ると思わざるをえません。
つまり天皇制の在り方や、昔から多くの人達に大切に守られてきた日本の
習慣や伝統・文化を、たまたま現在存在する人達の刹那的判断で国柄を毀
損することは、先人達の民意を踏みにじっているともいえるのです。私た
ちは今の”民意“にこれら先人たちの民意も合流・合体・されるべきで、こ
れが人間の本姓を踏まえた民主主義の姿であり、所謂保守主義の原点と言
えるはずです。
 今上天皇陛下はしばしば「日本国憲法に則り」とお言葉を発せられます
が、今の憲法も長い歴史のほんの一瞬の間の『制約』であり、天皇制の真
価は極めて長期間、先祖代々の日本人が望ましいと感じ、それが護られて
きたそのこと自体にあります。即ち、それは先人の願望・意志・努力が悠
久の時を重ねて凝縮・堆積したものであり、現行の日本国憲法内で語れる
ようなことではないのです。

ギリシャで誕生し、欧米で「成長」した民主主義の欠点は此処にあると
おもいます。それは先人・祖先の民意を含有していない、時間軸を伴わな
い民主主義に劣化してきたと云う事です。
これはひょっとすると、民主主義とは誕生時は先人の想いや経験・そして
努力と犠牲に照らし合わせて生まれたものであるにも係わらず、それが現
在生きている人たちの刹那的・便宜的判断によって徐々に変質させられて
しまった結果であり、これをポピュリズムと言うのかも知れません。
以上の私見に「我々は過去の意見に捉われるのではなく、次世代の人達の
為に白紙の状態から今を判断すべき」と批判的な人もおられることでしょ
う。これには論理矛盾があるようです。なぜならそのような意見をお持ち
の人たちが亡くなった時点で、そのような意見を含め、その人が社会や国
家の為に相応の貢献をされ、立派なご意見を遺しておられたとしても、そ
れらは全て過去のモノとして”ゼロ“評価されてもかまわないと、自己否定
していることになるからです。
  我々日本人はこれ等「刹那的民主主義」から脱極し、『先人参加型』
の「永代型民主主義」に立ち返るべきだと思います。
(SSA生)

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(読者の声2)細菌戦とは何か
 11月20日付けの産経紙によると、日本が支那事変中細菌戦をやったとい
う。途方もない話であり、あり得ない。新聞社までプロパガンダに騙され
ている。産経は社員の近代史教育を徹底する必要がある。もし中共に迎合
しているとしたら読者を裏切ることになる。編集長は引責問題だ。
 細菌戦とは何か論理的に知っておこう。

1.BC兵器である。禁止されている。

2.研究の必要:相手が使う可能性があるので米国まで研究してきた。最
大の保有国は共産国でソ連、中共、北朝鮮といわれている。ソ連が廃棄し
た巨大施設は有名。

3.実戦使用:自軍が被害を受ける自殺行為になるので不可能である。

4.歴史:独ソ戦争中、独軍野営地で奇病野兎病が一時流行した。これは
ソ連の細菌攻撃とみられる。

5.731部隊とは:ただの給水部隊だ。水中の細菌を濾過して除去する優
秀な石井式濾過器が有名。自動車に搭載して運搬して使った。大陸の河川
は細菌に汚染されているので、支那事変、ノモンハン、南方作戦で活躍し
水に飢えた将兵に喜ばれた。森村らの反日宣伝本に騙されてはならない。

6.中共の宣伝:支那事変に正当性がないので、被害者偽装の宣伝戦にし
ている。南京大虐殺がよい例だ。物証皆無の出鱈目だ。手垢が付いたので
新たに作ろうとしている。

7.ペスト患者の写真:これは1905年ロシア統治下の満洲で発生したペス
トの死者の写真だ。日本は関係ない。何でも使う中共の手口は理解しただ
ろう。騙されてはならない。

◆「嘘の国」韓国を批判する愛国の書

櫻井よしこ


文在寅韓国大統領の反日・親北朝鮮、さらに社会主義路線に異を唱え、立
ち上がる人々が急増中だ。文氏の「反日」に反対する戦線の最前列に立つ
のが元ソウル大学経済学部教授、李栄(イヨンフン)氏で、その編著書、
『反日種族主義』(以下『種族主義』)はベストセラーになっている。反
文在寅運動の理論的支柱ともなった同書の日本語版が間もなく書店に並ぶ
が、一足早く入手して、一気に読んだ。

李氏は経済史の専門家としてずっと数字や事実に拘り続けてきた。フィー
ルド・ワークから導き出される事実は政治的偏りとは無縁である。韓国で
流布されてきた反日のための歪曲や捏造とは全く異なる歴史認識や情報を
李氏は発信し続けてきた。そのために、ソウル大学教授という尊敬される
べき立場でありながら、凄まじい非難も浴びた。その氏が今回、「命が
け」で論陣を張っている。それが本書の出版だ。

『種族主義』は、冷静な分析と客観的事実に満ちている一方、韓国人には
強い衝撃を与えずにはおかない火を吐くような激しい表現がある。

たとえば「嘘の国」と題されたプロローグだ。「嘘をつく国民」、「嘘を
つく政治」、「嘘つきの学問」、「嘘の裁判」などの小題は韓国人の心臓
を射抜くだろう。その後に今日の韓国を表現する言葉として「反日種族主
義」が登場する。

「韓国の嘘つき文化は国際的に広く知れ渡っています」「政治が嘘つきの
模範を示しています」「嘘つきの学問に一番大きな責任があります」「こ
の国の嘘をつく文化は、遂に司法まで支配するようになりました」と書い
た後、李氏は韓国人の精神を蝕み、韓国を誤った道に誘引してきた反日種
族主義について説明する。

長くなるが次のような説明だ。

韓国社会に色濃いシャーマニズムは物質主義と種族主義に通底している。
シャーマニズムの世界では両班は死んでも両班で、奴婢は死んでも奴婢で
ある。だからこそ、人々は両班の身分を手に入れようと、嘘も詐欺も働
く。汚いカネも許される。こうして皆が物質主義に走る世界には共有すべ
き真理も価値観もない。何でもありだ。そして一方の集団は究極の利のた
めにもう一方の集団を排斥する。それらの集団は価値観や文化や情趣を共
有する民族では断じてなく、種族に過ぎない。種族を単位とした政治が種
族主義である。簡単に言えば種族主義は、事実、理性、合理のいずれとも
無関係の「幻想」から生まれる愚かな精神性だ。信用してはならず、影響
も受けてはならない。峻拒すべき悪しき精神性で、それが韓国にはびこっ
ている。

祖国韓国に対するこの激しい批判は、学者としての良心の叫びであり、嘘
つき国となった祖国への愛であり、絶望に近い口惜しさでもあろう。

幻想に搦めとられて歴史を紡ぐ事例として、李氏は、朝鮮人の日本に対す
る憎悪の源泉のひとつ、総督府による土地調査事業をとり上げた。

合理的理由があるのか

合計350万部を売り上げた大河小説『アリラン』12巻には土地調査の場面
が複数回登場するという。調査を実施する駐在所の警官が土地を奪われる
農民の抗議を退け、木の幹に括り付け、銃殺する。小説『アリラン』で描
写される日本軍の朝鮮人虐殺の場面は不条理の極みである。

当時は日本の領土だった千島列島守備のための土木工事現場では、朝鮮人
労働者1000人が虐殺されたと、『アリラン』は書いた。工事完了時点で日
本軍が朝鮮人労働者を「防空壕に閉じ込め」「30分間手榴弾を投げこみ、
機関銃射撃を加えて皆殺しにした」、この他、日本軍は同様の手法で4000
人余りを殺したとも書いている。でたらめな映画「軍艦島」を連想させる
場面だ。日本人は朝鮮人を皆殺しにしたという悪意に満ちた発想は瓜二つだ。

李氏は調査の結果、「この凄惨な虐殺は事実ではない」と断じ、労働力不
足の戦時中、やっと確保した貴重な人員を虐殺する合理的理由があるの
か、と問う。その上で『アリラン』の著者、趙廷来こそが「虐殺の狂気に
取りつかれているのではないか」と疑っている。

その他本書では、日本が「朝鮮の土地の40%を奪った」と教える韓国の教
科書の嘘が暴かれ、日本人が朝鮮から食料を奪ったとの言説の嘘も暴かれ
ている。共著者の東国大学経済学科教授の金洛年(キムナクニョン)氏が
1931(昭和6)年6月16日の「東亜日報」の記事を紹介している。同記事
は、日本も朝鮮も大豊作だったこの年、コメの供給過剰傾向ゆえに朝鮮半
島から日本へのコメの輸入(移入)を制限するとの情報についてこう報じ
ている。

「朝鮮農民の立場としては、法律の制定による移入制限にはもちろんのこ
と(中略)朝鮮米流出の自由を束縛するいかなる措置にも絶対反対するし
かない」

日本人がコメを奪ったのではなく、朝鮮の農民がコメの輸出を切望してい
たということだ。

竹島について

朝鮮人戦時労働者問題については落星台経済研究所の李宇衍(イウヨン)氏
が日本人と朝鮮人の待遇は全く同じだったと証明し、竹島については「率
直に言って韓国政府が、独島は歴史的に韓国の固有の領土であると証明す
る、国際社会に提示できるだけの証拠は、一つも存在していない」と明記
している。

李栄薫氏はこのような指摘は韓国人にとっては不快であろうが、「一人の
知識人として」指摘しないわけにはいかないと書いた。実に立派な人物だ
と思う。

これらの内容に日本人はホッと胸を撫で下ろすかもしれないが、李氏は
ざっと次のようにも書いていた。

「ふつうの韓国人は、日本に対し良い感情を持っていません。不快な、あ
るいは敵対的な感情を持っています。それは長い歴史の中で受け継がれて
来たもので、七世紀末、新羅が三国を統一したときからそうなったのでは
ないかと考えています」、と。

663年、日本は百済再興を助けるために出兵し、白村江で唐・新羅連合軍
と戦い、敗れた。わが国はその後、唐・新羅連合軍の侵略に備えて防備を
固め、独立国としての気概を強めた。李氏はあの頃から千数百年間も日韓
は非常に近くにありながらも、疎遠な国であり続けたと指摘し、朝鮮の対
日不快感、敵対感はこの時代に遡るというのだ。日本は韓国の仇敵であ
り、種族主義を噴出させる対象だとも李氏は警告する。

日韓関係を最悪の水準に落とし込んだ慰安婦問題についても、『種族主
義』は深く斬り込んだ。日本の敗戦後、慰安婦問題は韓国軍や米軍の問題
となり、女性達の境遇はさらに悪化したことが詳述されている。

李氏らはこうした事実を「亡国の予感」の中で書いた。韓国の滅亡を食い
止められるのは韓国人の賢さだけだ。この戦いを、私は日本の運命を思い
つつ、見守っている。


『週刊新潮』 2019年11月21日号 日本ルネッサンス 第877回

◆「国策捜査」ってなんだ

渡部 亮次郎


<小沢氏、続投表明 民主党緊急役員会

民主党は4日午前、小沢一郎代表の公設第一秘書が政治資金規正法違反容
疑で逮捕されたことを受け、緊急役員会を開き、小沢代表が経緯を説明し
た。出席者によると、小沢氏は「この時期になってこんなことになって申
し訳ない。しかし、政治資金規正法にのっとって適切に処理している」と
述べ、代表職を辞任しない意向を示した。

小沢氏は緊急役員会終了後、記者会見し、事実関係や役員会の結論につい
て説明。小沢氏は、秘書の逮捕容疑となった西松建設OBが代表を務めて
いた政治団体からの献金に関し「適切に処理している」と違法性を一貫し
て否定。同氏や鳩山由紀夫幹事長らによる3日の幹部会では、党として献
金の正当性を訴えていくことを確認した。

事件が野党第一党党首の秘書逮捕という異例の展開となったことに対し、
民主党内では「国策捜査」と政府・与党に反発する声が上がっている。執
行部には、小沢氏の進退問題に発展する事態は避けたいとする空気が強
い>。 3月4日9時53分配信 産経新聞

「国策捜査」と言う言葉は「鈴木宗男事件」の際、東京地検に逮捕された
外務省元主任分析官・佐藤優の著書『国家の罠』で主張されたもの。

ここから、政府の政治的意図によって行われたものだと関係当事者等が主
張する刑事事件の捜査のこと。

佐藤優 『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』 新潮社(原著
2005-03-26)。ISBN 9784104752010。この書の文庫版P365-367によれば、
佐藤氏の取調べに当った西村検事は、逮捕後3日目の時点で「本件は国策
捜査だ」と明言、「我々と闘っても無駄だ」と言う事を理解させようとした。

西村検事の弁。「これは国策捜査なんだから、あなたが捕まった理由は簡
単。あなたと鈴木宗男をつなげる事件を作るため。国策捜査は『時代のけ
じめ』をつけるために必要なんです。時代を転換するために、なにか象徴
的な事件を作り出してそれを断罪するのです」

「見事僕はそれに当ってしまったわけだ」

「そういうこと。運が悪かったとしかいえない」

「しかし、僕が悪運を引き寄せた面もある。今まで、普通に行なわれてき
た,否、それよりも評価されてきた価値が、ある時点から逆転するわけか」

「そういうこと。評価の基準が変わるんだ。何かハードルが下ってくるんだ」

「僕からすると、事後法で裁かれている感じがする」

「しかし、法律は元々ある。その適用基準が変わって来るんだ。特に政治
家に対する国策捜査は、近年驚くほど下ってきているんだ。

一昔前ならば、鈴木さんが貰った数百万円程度なんか誰も問題にしなかっ
た。しかし、特捜の僕たちも驚くほどのスピードで、ハードルが下ってい
くんだ。今や政治家に対しての適用基準の方が一般国民に対してよりも厳
しくなっている。時代の変化としか言えない」

「一般国民の目線で判断するならば、それは結局、ワイドショウと週刊誌
の論調で事件が出来ていくことになるよ」

「そういうことなのだと思う。それが今の日本の現実なんだよ」

以上のような方針が東京地検の時代認識ならば小沢氏の判断は甘かったと
言うべきだろう。

東京地方検察庁特別捜査部は特定のマスコミにリークしながら、大きく注
目を集める人物を小さい犯罪でも逮捕することにより世論、ひいては国家
全体を「彼等自身が考える、あるべき姿に直す」という目的で捜査してい
るとされる。

最近では特捜部の捜査手法が社会秩序の安定を目的に、一罰百戒を狙った
逮捕に重きを置くものになっているという指摘もごく一部でなされる。

私が参考人として東京地検特捜部で事情聴取を受けた昨年の防衛省不正事
件も目論見は国策捜査に見えたが、結局は見込み違い。単なる個人の脱税
事件で終わった。

今回の小沢事件は完全な国策捜査だが、検察は確実な証拠を握って居るは
ずで、小沢氏の見込みは甘い。

関係当事者により国策捜査だと主張される例としては他に以下のようなも
のがある。

造船疑獄の指揮権発動

三井環逮捕事件

ライブドア事件における堀江貴文逮捕

日歯連闇献金事件における村岡兼造起訴

構造計算書偽造問題

いわゆるムネオハウス事件における鈴木宗男逮捕
佐藤優起訴

石橋産業手形詐欺事件における田中森一起訴

植草一秀逮捕(りそな銀行国有化の裏側を研究していた)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
09・03・04