2019年12月05日

◆国民の国家意識の欠落こそが

加瀬英明


国民の国家意識の欠落こそがわが国の危機である

皇居で行われた『即位礼正殿の儀』の式典は、平安時代の絵巻が再現され
たように、美しかった。

全国民が天皇を戴く日本の歴史を目(ま)の当たりにして、日本の古い国柄
にあらためて誇りをいだいたと思う。

即位礼の前日に、私は数土文夫前東京電力会長と、月刊誌『致知』の求め
によって「日本は何をなすべきか」というテーマで、新年号の対談を行った。

数土前会長は、福島原発事故後に東電会長に就任される前は、日本を代表
する製鉄会社であるJFEの社長、会長をつとめられたが、漢籍と日本の
精神史に造詣が深い経営者として、多くの心ある人々から慕われている。

対談が始まると、国民が国家意識を欠いていることが、いま、日本が直面
しているもっとも大きな危機だと、意見が一致した。

今日の日本は、日本を取り巻く国際環境が厳しさを増しているというの
に、国家としての自立心が希薄なために、日本の平和と繁栄を持続できる
か、深い不安に駆られる。

憲法を急いで改めねばならないが、多くの国民が「憲法改正よりも台風被
害からの復興が先だ」とか、「福祉を優先すべきだ」「保育所をつくるほ
うが先きだ」と思っている。

まったく次元が違った、筋違いな議論だ。

現行の日本国憲法は日本の安全と生存を、一方的にアメリカに依存してい
るが、外国であるアメリカがどのような状態のもとでも、日本を守ってく
れる保障はない。

現行憲法は日本の自立を妨げており、国家の存亡をアメリカに委ねている
から、アメリカへの「甘えの憲法」でしかない。

だが、いつまでアメリカに甘えていられるものだろうか。日本が自立しな
ければ、日本が危ふい。

甘えは、幼な児が行うことだ。日本は揺り籠から一刻も早く出て、おとな
の国にならなければならない。

護憲派は保育所で無心な時を過している幼児の集まりのようだ。

護憲派やマスコミが、現行憲法を「平和憲法」と呼んでいるが、日本を幼
な児にとどめようとする玩具(おもちゃ)なのだ。

現行憲法は独立国の憲法とは、とうてい、いえない。

占領下で、この憲法を書いたアメリカ人のなかに、日本語を自由に読み書
きできる者が、一人もいなかった。

古代から育まれてきた日本の国柄を、理解していた者が、一人もいなかった。

このような外国人が集まって書いたのだから、日本の大黒柱である憲法を
起草することが、できたはずがない。
このような憲法では、国民の愛国心が涌くはずがない。

国家意識が希薄になっているのは、日本にふさわしくない憲法を戴いてき
たためだ。

国家意識が欠落しているから、憲法を大切にすることがない。

そのために、戦後今日に至るまで、憲法を改めることができないでいる。

国民に日本が国家であるという覚悟がないから、国民が憲法に真剣な関心
をいだくことがない。

もし、国民に健全な国家意識があるとすれば、日本が講和条約によって独
立を回復してから、国家の基本法である憲法を、当然、改めていたことだ
ろう。


◆「支那」は次官通達で禁止

渡部 亮次郎


私のメルマガ「頂門の一針」に読者から投書があった。

<渡辺はま子のヒットソングを挙げると、まず昭和15年の東宝映画「蘇州
夜曲」の主題歌「支那の夜」でしょうが、「ウィキペディア」でも「支
那」という言葉は使いたくないのでしょうか。

「渡辺はま子」の検索では出てきませんね。「支那の夜」で検索すると出
てきますが。

私は、子供の頃、父がこの歌が好きでよくレコードを聞いておりましたの
で、しっかりと記憶しております。

戦後「支那」という言葉がタブーになりましたので、「支那の夜」を聞く
機会がなくなってしまい残念に思っておりました。

渡辺はま子が亡くなった夜かそのあくる夜か、NHKで渡辺はま子の追悼番
組がありましたが「支那の夜」は最後まで放送してくれませんでした。
(剛)>

NHKは「ラジオ深夜便」で09・7・6にも「日本の歌・こころの歌」で渡辺は
ま子を特集したが、「支那の夜」には一言も触れなかった。
支那(しな)と言いたくないのである。

支那事変の始まったのは小生の生後1年の1937年。事変など知らずに育
ち、対米戦争では田圃の中で艦載機に狙われて草むらに隠れた。

長じて特派員として北京に飛んだが、すでに「支那」でなく中華人民共和
国になっており、爾来「支那」に無関心で来た。大方もそうであろう。

「ウィキペディア」は
<支那(しな)は、中国または「中国の一部」を指して用いられる、王朝
や政権の変遷を越えた、国号としても使用可能な、固有名詞の通時的な呼
称。本来、差別用語ではないが、何らかの圧力などにより、差別語とみな
される場合が殆どである>と説明している。

詳しく調べてみると「何らかの圧力」とは、敗戦と共に加えられた「中華
民国」からの「圧力」だった。

大東亜戦争で日本の敗戦後は戦勝国陣営である中華民国政府からの呼称を
めぐり「支那」を使うなという圧力がかかった。これを承けて日本外務省
は1946(昭和21)年に事務次官通達により日本の公務員、公的な出版物に
「支那」呼称は禁止され、その代わりに「中国」の呼称が一般化されるよ
うになった。マスコミもこれに準じた。

現代の日本で「中華人民共和国」を指しての「支那」、「支那人」という
言葉は半ば死語と化しており、一般的には中国、中国人という呼称に取っ
て代わられている。

学術用語や「支那そば」は「中華そば」という言い換え語がすでに一般化
している。また、「沖縄そば」を支那そばと呼称していた時期もあるが、
これも今日ではほとんど使われない。

「東シナ海」等の、国家のことではなく地域のことを指す場合や「支那事
変」などの歴史用語として用いられている場合はある。

中国では、世界の中に中国を客観的に位置づける場合に「支那」の呼称が
学者の間で広く永く使われていた。早くから異文化に学んだ仏教徒の間で
は特にその傾向が顕著である。

また清の末期(19世紀末―1911年)の中で、漢人共和主義革命家たちが、
自分たちの樹立する共和国の国号や、自分たちの国家に対する王朝や政権
の変遷をこえた通時的な呼称を模索した際に、自称のひとつとして用いら
れた一時期がある。

日本では、伝統的に漢人の国家に対し「唐」や「漢」の文字を用いて「か
ら、とう、もろこし」等と読んできた。明治政府が清朝と国交を結んでか
らは、国号を「清国」、その国民を「清国人」と呼称した。

支那という言葉は、インドの仏教が中国に伝来するときに、経典の中にあ
る中国を表す梵語「チーナ・スターナ」を当時の中国人の訳経僧が「支
那」と漢字で音写したことによる。「支那」のほか、「震旦」「真丹」
「振丹」「至那」「脂那」「支英」等がある。

日本においては、江戸時代初期より、世界の中に中国を位置づける場合に
「支那」の呼称が学者の間で広く使われていた。これは中国における古来
の「支那」用法と全く差がない。江戸後期には「支那」と同じく梵語から
取ったChinaなどの訳語としても定着した。

日本人が中国人の事を支那人と呼ぶようになったのは江戸時代中期以降、
それまで「唐人」などと呼んでいた清国人を「支那人」と呼ぶべきとする
主張が起こり、清国人自身も自らのことを「支那人」と称した事に因む。

戦前・戦中は中国人を日本人に敵対する存在として、「鬼畜米英」などと
同様に、「支那」が差別的ニュアンスと共に使用される場合もあったが、
「支那」自体が差別語であったわけではない。

しかし、戦後、中国人・台湾人が差別的ニュアンスとともに使われること
もあったことへの反撥を表明するようになってからは、差別語であるとい
う感覚が生じた。2009・07・16

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◆桜を見る会の攻防が示す政治の劣化

櫻井よしこ


問題だらけの朝鮮半島、要求する米国、一党独裁の不気味さを偽りの微笑
で隠して膨張する中国。日本はこうした難題に直面している。どれも解決
は容易ではない。そこでいま、一番働かなければならないのが政治家だ。
厳しい国際情勢を理解し、解決策を打ち出し、国益を守り通さずして、政
治家たる意味はない。

にも拘わらず、彼らは一体何をしているのか。日本共産党の田村智子氏が
11月8日の参議院予算委員会で首相主催の「桜を見る会」を取り上げた。
以降、多くの野党は恰(あたか)もこれが日本の最重要問題であるかのよう
に政権を攻め始めた。立憲民主党国会対策委員長、安住淳氏らは「徹底的
に」追及するそうだ。

首相は13日、来年春の会は中止し、招待の基準などを見直すと発表した。
確かに、桜を見る会への招待者は年々ふえており、ここで一旦中止して見
直すのは正しい判断であろう。元民主党衆議院議員で、現在は立憲民主・
国民・社保・無所属フォーラムに属する松原仁氏が批判した。

「我々も枠をもらって招待していましたが、安倍首相の場合、人数が多い
のが際立ちます。事務所が動員をかけたような形になっているのはどう見
てもやりすぎです」

民主党から自民党に移籍した衆議院議員の長島昭久氏はこう見る。

「民主党のとき、我々も全く同じことをしていました。各議員に招待枠が
あって、後援会の人々を招きました。招待客一人一人にどんな功績がある
のか明らかにせよと立憲民主は首相に要求していますが、地域で頑張って
いる方ではあっても特別の功労者ではない人を、私たちも沢山招いた。日
頃お世話になった方たちという意味では支援者の方々です。これは皆、同
じでしょう」

国会で説明すると明言

安住氏らは、安倍後援会は前夜祭を開いたが、1人5000円の参加費は安す
ぎると問題視する。最低「1人1万1000円かかる」と主張し、その差額を首
相側が補填していれば公職選挙法違反だと息巻く。この点についても長島
氏が語った。

「我々がパーティを開くとき、1人2万円の会費で、ホテルに支払う食事代
は精々1人2000〜3000円です。ホテル側にとって、数百人単位のお客が宿
泊し、食事をしてくれるのは大変有難いことで、格安にするのは自然なこ
とでしょう。立憲民主を含めて野党政治家はこのことを十分理解していま
す。にも拘わらず、細かなことに拘り追及し続けるのは、選挙を意識して
いるからです」

立憲民主、国民民主の両党はいまや共産党の支持なしに選挙に打ち勝つの
は難しい。とりわけ、立憲民主の若い政治家達の後援会組織はほとんど無
いに等しく、全国に支援組織を有する共産党の協力なしにはとても選挙を
戦えないとして、長島氏は厳しく分析する。

「旧民主党勢力、とりわけ立憲民主党にとっての共産党は、自民党にとっ
ての公明党よりも重要だと思います」

安倍首相が来春の会の中止と招待基準の見直しを決定しても、野党側は納
得せず、追及チームを11人態勢から3倍規模に拡大した。安住氏の徹底追
及の意向は首相のぶら下がり会見への批判からも読みとれる。「立憲民主
党国会Twitter」の「安住委員長ぶら下がり(総理ぶら下がりの受
け止め)2019年11月15日」から見てみよう。

氏が問題視する総理に対する取材は、15日の昼と夕方の2度、官邸記者ク
ラブの要請で行われた。昼の回で、「国会で説明するか」と問われ、首相
は「国会から求められれば、説明するのは当然です」と答えた。

立ち去りかけた首相に、記者が「集中審議に応じるか」との質問を放っ
た。それで首相は記者達の所に戻り、「当然です」と答えている。

求められれば必ず国会で説明すると明言したのだ。野党が論難する逃げの
姿勢ではない。

夕方、前述したように記者クラブ側の要請で首相は再び対応した。21分間
続いた説明は、「異例の長さ」と報じられた。この場で首相は前夜祭など
の費用は全て参加者の自己負担だったことなどを説明している。質問が途
絶えたとき「何か、ご質問どうぞ」と促してもいる。

さらに14〜15の質問の後、「本日時間がない中ということで、後日会見を
開く予定はあるか」と問われた。それに対して首相は「もし質問されるの
であれば、今、質問された方がよいと思いますよ」と答えた。

「改めて……」と記者が口ごもりながら重ねて問うと、首相は「改めて会見
ということであれば、今質問して下さい」と促した。

安住氏こそ記者を侮辱

昼の短いぶら下がりでは不十分だったとして記者クラブ側が要求し、夕方
に2度目の取材となった経緯を考えれば、夕方の時間までに、否、それ以
前から記者たちは調査し、質問を準備したはずだ。だからこそ首相は、い
ま聞いてくれれば答えますと言っている。首相は答えようとしていたので
あり、そこには他意も悪意もない。だが、安住氏はこのやりとりを以下の
ように批判した。

「大変驚きました。(略)失礼ですけど、総理番の記者のところに、突
然、準備のない記者さんに対して『私の言うことを聞け、私に質問し
ろ』っていう態度は(略)メディアの皆さんに対する冒涜でもあるしね」

どのような思考回路でこんな解釈になるのか。氏は前後の状況を知らずに
発言したのだろうか。繰り返すが、夕方の会見は記者側がもっと問いたい
として要求したものだ。当然、質問は準備されていた。首相は誠実に答え
こそすれ、「私の言うことを聞け」などという態度で臨んではいない。メ
ディアを冒涜してもいない。

安住氏の言う「準備のない記者さん」も事実ではない。記者達はこれまた
前述したが、準備していた。安住氏こそ記者を侮辱している。

安住氏はほかにも官邸の記者について次のように語っている。

「何もそういう準備をしていない、総理番の若い記者さんのところに突然
総理が降りてきて」「何にも知らない記者の前に来て」「何も基礎知識を
持っていない記者さんの前に突然来られて」「余りこのことに基礎知識の
ない記者さんたちを前に」と、延々と繰り返したのである。

官邸詰めの記者達も随分と軽く見られたものだ。立憲民主のたかだか一政
治家にここまで見下されて口惜しくないのか。政治の中枢を取材する記者
らが憤らないとしたら、これまた、なんと誇りなきことか。

日本は本当に多くの深刻な問題を抱えている。政治家なら、桜を見る会の
在り方は見直すとして、日本の運命を左右するより大きな課題に命懸けで
取り組むことだ。その心構えも発想もない野党政治家の存在の余りの無意
味さに、私は戦慄する。

『週刊新潮』 2019年11月21日号 日本ルネッサンス 第877回

◆忍者「曾良」が松尾芭蕉に随行した

毛馬 一三


本誌に掲載した拙稿「芭蕉終焉(しゅうえん)の地って?」の第2弾。

上記拙稿とは、松尾芭蕉の「終焉の地」が大阪・南御堂向かいにあった花屋仁左衛門の離れ座敷であったことや、辞世の句といわれる「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」を、この座敷の床で亡くなる4日前に詠んだものであることを、筆者は不覚にも知らなかった。それを偶然このことを知る機会を得たことから、驚きに見合って綴ったものだった。

芭蕉は、大阪などで死ぬなど夢だに思いもせず、早く床払いをして好きな旅を続けたいとの気持であったと、様々な文献が記している。

だが、思いもよらず病(食中毒といわれる)は悪化、意に反して終焉を迎えるのだが、見守る弟子たちの顔を眺めながら「死」が迫るのを悟り、幸せな生涯だったと瞑目しながら、逍遥と死の旅についたようだ。

冒頭の拙稿に、「頂門の一針」主宰の渡部亮次郎氏から下記の寄稿頂いた。

<深川・芭蕉記念館 は拙宅の近くです。徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。江戸の発展とともに新たな市街地、農地が必要となり、土地の開発が始まった。大阪からきていた深川八郎右衛門が新田を開発、慶長元年(1573年)深川村と称したのが始まり。

江戸の下町と言えばなんと言っても深川。出発地は都営新宿線森下駅。駅を出て新大橋通りを浜町方面に5分ほど歩いていくと隅田川にかかる橋が見えてくる。これがこの通りの名前になっている新大橋。橋の手前の十字路を左に曲がりしばらく歩いていくと、最初の目的地「芭蕉記念館」がある。

芭蕉は、延宝8年(1680年)江戸日本橋から深川の草庵に移り住んだ。元禄2年(1689年)3月、曾良を伴い奥の細道の旅に出発した。「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」で始まる奥の細道。岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅。

「芭蕉記念館」には 当時、芭蕉が着ていた袈裟を初め芭蕉庵を模したほこら、句碑 などがある。記念館の裏木戸を出るとそこはもう隅田川のほとり。川沿いの道を左に少し歩いていくと史跡庭園があり、芭蕉像や芭蕉庵のレリーフがある。 先日来日した李トウキ前台湾総統もご覧になって行った>。

この寄稿を読ませて貰った時、芭蕉に纏わる新たな衝撃が脳裏を駆け巡った。それは、<徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。(そんな未開発の深川だったが、その深川から)元禄2年3月、「曾良」を随行して奥の細道の旅に出発した。(略)岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅>というくだりである。

江戸から東北、北陸地方を150日間で踏破した2400キロ(600里)の道程を踏破したと言うが、とんでもない距離だ。単純に計算すると1日16キロ歩いたことになる。だが当時の旅はそんな生易しいものではない。

江戸時代の元禄期といっても、 江戸から東北、北陸地方には、のんびり歩き通せる平坦な道が整っていた筈はない。ほとんどが山道・峠道であり、山を越えるしか方法はなかった。

筆者も、数年前福井の江戸時代以前からある「鯖街道」を歩いたことある。山道の勾配は天地の差ほどの高低を繰り返し上り下りした。山道もない場所は絶壁を横切るしかない。ましてや橋はほとんどなかった。大雨で河が氾濫、足止めを食うことも日常茶飯事だったろう。

「奥の細道」によると、2人は何と1日に48キロ(12里)を 歩いた日があったという。幾ら昔の人が健脚だったとはいえ、老齢の芭蕉(46)と随行者曾良(41)が、そんな長距離を1日で踏破できたと考えるだけでも、驚きが渦巻く。

だから、ここから「第2弾」を書きたくなったのだ。

つまり芭蕉は、こうした異常な歩き方の速さや、伊賀の上野の生まれであることから「忍者」ではなかったかと論じられてきた。それはまた別の機会に譲るとして、ここで気になるのは、むしろ芭蕉の弟子扱いをされた、「曾良」の方だ。

「曾良」のことは、純朴な芭蕉の巡教なお供だという印象が強く、「忍者」だとはあまり知られていない。

調べてみると、こんな具合だ。

<曾良は、幕府とのつながりが緊密で、当時日光工事普請を巡ってあった伊達藩と日光奉行の対立を探る秘密裡の調べを、幕府が「曾良」に命じられたという。その目的と行動を秘匿するため、芭蕉の旅を巧みに利用したというのが、専門家の間では定説となっている。

その「曾良」は、さらに社寺や港の荷役の動きを調べる秘密任務も担っていたらしく、北前舟が立ち寄る日本海沿岸の港として酒田、瀬波、新潟、直江津、出雲崎、金沢、敦賀を丹念に秘索して回っている痕跡が残されている。

その秘索行動が、なんと芭蕉の旅の日程と、無理なく調合する形になっている事実が証拠なっているのには驚かされる。

きっと幕府からの支度金が潤沢だったため、俳句仲間の豪農や商人のお世話や句会の興行収入だけでは吟行生計が出来なかった芭蕉の懐具合が、この「曾良」の秘行任務を受け入れざるを得ないことになり、随行を認めたものであろうと専門家は指摘する>。

こう見てくると、「曾良」という旅の随行者は、芭蕉に接近して仮弟子に登用してもらい、巧に芭蕉を利用して、幕府隠密の任務を隠密裡に遂行していった紛れの無い“忍者”だったのだ。

芭蕉の終焉の時、「曾良」のその床の横には居なかった。公務を理由に葬儀にも参列しなかったという。やはり芭蕉に心酔して傍に連れ添った弟子ではなかったのだ。

果たして「曾良」は、芭蕉の死後、幕府巡見使九州班員に正式に身を転じている。
               (了)              参考・ウィキべディア
           

2019年12月04日

◆「三猿」中国特派員 

    渡部亮次郎


中国にいる日本の特派員は「真実」を取材する自由がない。知ったことを
自由に送信する自由も無い。常に言動を中国官憲に監視され、牽制され、
二六時中、本国送還に怯えている。「見ざる 言わざる 聞かざる」。特
派員だけれども記者ではない?

実は容共国会議員たちが日中国交回復以前に結んでしまった日中記者交換
協定に縛られていて、実際、国外退去処分を体験しているからである。殆
どの評論家はこのことを知らず「日本のマスコミは中国にだらしない」と
非難する。

中国からの国外退去処分の具体的な事件としては、産経新聞の北京支局
長・柴田穂氏が、中国の壁新聞(街頭に貼ってある貼り紙)を翻訳し日本
へ紹介したところ1967年追放処分を受けた 。この時期、他の新聞社も、
朝日新聞を除いて追放処分を受けている。

80年代に共同通信社の北京特派員であった辺見秀逸記者が、中国共産党の
機密文書をスクープし、その後、処分を受けた。

90年代には読売新聞社の北京特派員記者が、「1996年以降、中国の国家秘
密を違法に報道した」などとして、当局から国外退去処分を通告された例
がある。読売新聞社は、記者の行動は通常の取材活動の範囲内だったと確
信している、としている。

艱難辛苦。中国語を覚えてなぜマスコミに就職したか、と言えば、中国に
出かけて報道に携わりたいからである。しかし、行ってみたら報道の自由
が全く無い。

さりとて協定をかいくぐって「特種」を1度取ったところで、国外退去と
なれば2度と中国へは行けなくなる。国内で翻訳係で一生を終わる事にな
りかねない。では冒険を止めるしかない。いくら批判、非難されてもメシ
の食い上げは避けようとなるのは自然である。

日中記者交換協定は、日中国交再開に先立つ1964(昭和39)年4月19日、日
本と中国の間で取り交わされた。国交正常化に向けて取材競争を焦った日
本側マスコミ各社が、松村謙三氏ら自民党親中派をせっついて結んでし
まった。正式名は「日中双方の新聞記者交換に関するメモ」。

(1)日本政府は中国を敵視してはならない
(2)米国に追随して「2つの中国」をつくる陰謀を弄しない
(3)中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げない
すなわち、中国政府(中国共産党)に不利な言動を行なわない

日中関係の妨げになる言動を行なわない・台湾(中華民国)独立を肯定し
ないことが取り決められている。違反すると、記者が中国国内から追放さ
れる。これらの協定により、中国に対する正しい報道がなされていないわ
けだ。

新聞・TV各社がお互いに他社に先んじて中国(北京、上海など)に自社記
者、カメラマンを常駐させ他社のハナを明かせたいとの競争を展開した結
果、中国側に足許を見られ、屈辱的な協定にゴーサインを出してしまった
のである。しかも政府は関与していない。国交が無かったから。

1964(昭和39)年4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助事務所と廖
承志(早大出身)事務所は、その会談において、日中双方の新聞記者交換
と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた。

会談の代表者は、松村謙三・衆議院議員と廖承志・中日友好協会会長。こ
の会談には、日本側から竹山祐太郎、岡崎嘉平太、古井喜実、大久保任晴
が参加し、中国側から孫平化、王暁雲が参加した。

1968(昭和43)年3月6日、「日中覚書貿易会談コミュニケ」(日本日中覚書
貿易事務所代表・中国中日備忘録貿易弁事処代表の会談コミュニケ)が発
表され、LT貿易に替わり覚書貿易が制度化された。

滞中記者の活動については、例の3点の遵守が取り決められただけだった。

当時日本新聞協会と中国新聞工作者協会との間で交渉が進められているに
も拘わらず、対中関係を改善しようとする自民党一部親中派によって頭越
しに決められたという側面があるように見える。しかし実際は承認していた。

日本側は記者を北京に派遣するにあたって、中国の意に反する報道を行わ
ないことを約束したものであり、当時北京に常駐記者をおいていた朝日新
聞、読売新聞、毎日新聞、NHKなどと今後北京に常駐を希望する報道各社
にもこの文書を承認することが要求された。

以上の条文を厳守しない場合は中国に支社を置き記者を常駐させることを
禁じられた。

田中角栄首相による1972年9月29日、「日本国政府と中華人民共和国政府
の共同声明」(日中共同声明)が発表され、日中両国間の国交は正常化した。

1974年1月5日には両国政府間で日中貿易協定が結ばれ、同日には「日中常
駐記者交換に関する覚書」(日中常駐記者交換覚書)も交わされた。しか
し日中記者交換協定は全く改善されていない。

対中政策は、以前と異なって中国の大学で中国語を学んだ「チャイナス
クール」によって独占されているから、協定を変えようと提案する動きな
ど出るわけが無い。

かくて現在に至るまで、中国へ不利な記事の報道や対中ODAに関する報道
は自粛されている。2008・02・28

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



◆桜を見る会の攻防が示す政治の劣化

櫻井よしこ


問題だらけの朝鮮半島、要求する米国、一党独裁の不気味さを偽りの微笑
で隠して膨張する中国。日本はこうした難題に直面している。どれも解決
は容易ではない。そこでいま、一番働かなければならないのが政治家だ。
厳しい国際情勢を理解し、解決策を打ち出し、国益を守り通さずして、政
治家たる意味はない。

にも拘わらず、彼らは一体何をしているのか。日本共産党の田村智子氏が
11月8日の参議院予算委員会で首相主催の「桜を見る会」を取り上げた。
以降、多くの野党は恰(あたか)もこれが日本の最重要問題であるかのよう
に政権を攻め始めた。立憲民主党国会対策委員長、安住淳氏らは「徹底的
に」追及するそうだ。

首相は13日、来年春の会は中止し、招待の基準などを見直すと発表した。
確かに、桜を見る会への招待者は年々ふえており、ここで一旦中止して見
直すのは正しい判断であろう。元民主党衆議院議員で、現在は立憲民主・
国民・社保・無所属フォーラムに属する松原仁氏が批判した。

「我々も枠をもらって招待していましたが、安倍首相の場合、人数が多い
のが際立ちます。事務所が動員をかけたような形になっているのはどう見
てもやりすぎです」

民主党から自民党に移籍した衆議院議員の長島昭久氏はこう見る。

「民主党のとき、我々も全く同じことをしていました。各議員に招待枠が
あって、後援会の人々を招きました。招待客一人一人にどんな功績がある
のか明らかにせよと立憲民主は首相に要求していますが、地域で頑張って
いる方ではあっても特別の功労者ではない人を、私たちも沢山招いた。日
頃お世話になった方たちという意味では支援者の方々です。これは皆、同
じでしょう」

国会で説明すると明言

安住氏らは、安倍後援会は前夜祭を開いたが、1人5000円の参加費は安す
ぎると問題視する。最低「1人1万1000円かかる」と主張し、その差額を首
相側が補填していれば公職選挙法違反だと息巻く。この点についても長島
氏が語った。

「我々がパーティを開くとき、1人2万円の会費で、ホテルに支払う食事代
は精々1人2000〜3000円です。ホテル側にとって、数百人単位のお客が宿
泊し、食事をしてくれるのは大変有難いことで、格安にするのは自然なこ
とでしょう。立憲民主を含めて野党政治家はこのことを十分理解していま
す。にも拘わらず、細かなことに拘り追及し続けるのは、選挙を意識して
いるからです」

立憲民主、国民民主の両党はいまや共産党の支持なしに選挙に打ち勝つの
は難しい。とりわけ、立憲民主の若い政治家達の後援会組織はほとんど無
いに等しく、全国に支援組織を有する共産党の協力なしにはとても選挙を
戦えないとして、長島氏は厳しく分析する。

「旧民主党勢力、とりわけ立憲民主党にとっての共産党は、自民党にとっ
ての公明党よりも重要だと思います」

安倍首相が来春の会の中止と招待基準の見直しを決定しても、野党側は納
得せず、追及チームを11人態勢から3倍規模に拡大した。安住氏の徹底追
及の意向は首相のぶら下がり会見への批判からも読みとれる。「立憲民主
党国会Twitter」の「安住委員長ぶら下がり(総理ぶら下がりの受
け止め)2019年11月15日」から見てみよう。

氏が問題視する総理に対する取材は、15日の昼と夕方の2度、官邸記者ク
ラブの要請で行われた。昼の回で、「国会で説明するか」と問われ、首相
は「国会から求められれば、説明するのは当然です」と答えた。

立ち去りかけた首相に、記者が「集中審議に応じるか」との質問を放っ
た。それで首相は記者達の所に戻り、「当然です」と答えている。

求められれば必ず国会で説明すると明言したのだ。野党が論難する逃げの
姿勢ではない。

夕方、前述したように記者クラブ側の要請で首相は再び対応した。21分間
続いた説明は、「異例の長さ」と報じられた。この場で首相は前夜祭など
の費用は全て参加者の自己負担だったことなどを説明している。質問が途
絶えたとき「何か、ご質問どうぞ」と促してもいる。

さらに14〜15の質問の後、「本日時間がない中ということで、後日会見を
開く予定はあるか」と問われた。それに対して首相は「もし質問されるの
であれば、今、質問された方がよいと思いますよ」と答えた。

「改めて……」と記者が口ごもりながら重ねて問うと、首相は「改めて会見
ということであれば、今質問して下さい」と促した。

安住氏こそ記者を侮辱

昼の短いぶら下がりでは不十分だったとして記者クラブ側が要求し、夕方
に2度目の取材となった経緯を考えれば、夕方の時間までに、否、それ以
前から記者たちは調査し、質問を準備したはずだ。だからこそ首相は、い
ま聞いてくれれば答えますと言っている。首相は答えようとしていたので
あり、そこには他意も悪意もない。だが、安住氏はこのやりとりを以下の
ように批判した。

「大変驚きました。(略)失礼ですけど、総理番の記者のところに、突
然、準備のない記者さんに対して『私の言うことを聞け、私に質問し
ろ』っていう態度は(略)メディアの皆さんに対する冒涜でもあるしね」

どのような思考回路でこんな解釈になるのか。氏は前後の状況を知らずに
発言したのだろうか。繰り返すが、夕方の会見は記者側がもっと問いたい
として要求したものだ。当然、質問は準備されていた。首相は誠実に答え
こそすれ、「私の言うことを聞け」などという態度で臨んではいない。メ
ディアを冒涜してもいない。

安住氏の言う「準備のない記者さん」も事実ではない。記者達はこれまた
前述したが、準備していた。安住氏こそ記者を侮辱している。

安住氏はほかにも官邸の記者について次のように語っている。

「何もそういう準備をしていない、総理番の若い記者さんのところに突然
総理が降りてきて」「何にも知らない記者の前に来て」「何も基礎知識を
持っていない記者さんの前に突然来られて」「余りこのことに基礎知識の
ない記者さんたちを前に」と、延々と繰り返したのである。

官邸詰めの記者達も随分と軽く見られたものだ。立憲民主のたかだか一政
治家にここまで見下されて口惜しくないのか。政治の中枢を取材する記者
らが憤らないとしたら、これまた、なんと誇りなきことか。

日本は本当に多くの深刻な問題を抱えている。政治家なら、桜を見る会の
在り方は見直すとして、日本の運命を左右するより大きな課題に命懸けで
取り組むことだ。その心構えも発想もない野党政治家の存在の余りの無意
味さに、私は戦慄する。

『週刊新潮』 2019年11月21日号日本ルネッサンス 第877回

◆「葱」知らずで不合格

渡部亮次郎


葱知らずで不合格は石原慎太郎の息子良純。家人の見ている民放のクイズ
番組で勝ち抜き、最終、「ネギ」を漢字で書けと言われて書けなくて海外
旅行をのがした。

そういいえば、まだ子供のころ笠置シヅ子の歌う「買い物ブギ」(作詞、
作曲服部良一)で「東京ねぎ」というフレーズがあって、ねぎに品種がい
ろいろあることを知らないものだから不思議に思っていた。

長じて大阪に左遷されたら関西では葱の白いところじゃ無しに青いところ
しか食べない。だから白い部分の長い葱は東京葱、と知った。

ネギ(葱)の英名はScallion。植物分類体系ではネギ科ネギ属。原産地は
中国西部・中央アジアとする植物。日本では食用などに栽培される。

ネギは「シボル」とも呼ばれ、古名は「き」という。別名の「ひともじぐ
さ」は「き」の一文字で表されるからとも、枝分れした形が「人」の字に
似ているからとも言う。

ネギの花は坊主頭を連想させるため「葱坊主」(ねぎぼうず)と呼ばれ
る。萌葱色(もえぎいろ)は葱の若芽のような黄色を帯びた緑色のことで
ある。

日本では古くから味噌汁、冷奴、蕎麦、うどんなどの薬味として用いられ
る他、鍋料理に欠かせない食材のひとつ。硫化アリルを成分とする特有の
辛味と匂いを持つ。

料理の脇役として扱われる事が一般的だが、青ネギはねぎ焼きなど、白ネ
ギはスープなどで主食材としても扱われる。ネギの茎は下にある根から上
1cmまでで、そこから上全部は葉である。だから食材に用いられる白い部
分も青い部分も全て葉である。

関西では陽に当てて作った若く細い青ネギ(葉葱)が好まれる。一方、関
東以北では成長とともに土を盛上げ陽に当てないようにして作った、風味
が強く太い白ネギ(長葱・根深葱)が好まれる。また秋田など東北地方で
は「曲がりねぎ」という栽培法もある。

関東と同様に土を盛上げながらある程度育てたら、一度抜いて横向きに植
え直し、植物の光に向かって伸びる性質を利用して曲げる。これは、地下
水位が高い土地で効率よく白葱をつくる方法だと言われる。ただし、栽培
に手間がかかるため、作付面積は減少している。

欧米ではチャイブ、リーキなどが栽培されている。

古くから薬効成分が含まれている植物と知られていた。痰や鼻水を押さえ
る作用があるようで、風邪をひいた時に、ネギをくるんだ手拭やガーゼな
どを首に巻くというものは有名な民間療法である。 お尻に刺しても効果
があると言われるが効果の程は不明である。

病虫害の予防効果を狙って、しばしばユウガオ、トマト、ナス、ホウレン
ソウなどの畑に混植される(→ コンパニオンプランツ)。

ネギの種類
<青葱>
九条葱(京野菜)
万能葱
谷田部ネギ
観音ネギ
ワケネギ(わけねぎ) 株分れ(分けつ)しながら成長する葉ねぎ

<白葱>
深谷ねぎ(埼玉県)
下仁田ネギ(太く短い)
ポロねぎ 地中海料理などで普通に使われるネギ。
曲がりねぎ(白葱)
一関曲がりねぎ(岩手県一関市)
仙台曲がりねぎ(宮城県仙台市)
横沢曲がりねぎ(秋田県大仙市)
阿久津曲りねぎ(福島県郡山市)
その他
越津ネギ 愛知県発祥。日本の東西の中間だけあり、根の部分も葉の部分
も丁度同じぐらいの長さで、白葱と青葱の中間にあたる。
徳田ねぎ 岐阜県特産。白葱と青葱の両方の特徴を持つ。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2009・05・29

◆全国的にノロウイルスの猛威

毛馬 一三


抵抗力が弱い高齢者を中心にノロウイルスによる感染性胃腸炎が、全国的に猛威を振るっている。高齢者にとってはゆゆしきことだ。

ノロウイルスは、生ガキのような二枚貝にふくまれ、汚染された貝を食べたり、調理したりする際に感染するため、福祉施設などで集団感染する可能性が高いという。そこで、大阪厚生年金病院 看護部 看護ケア推進室 の柴谷涼子さん(感染管理認定看護師)に「ノロウイルスの入門と予防の仕方」について、下記のように記述してもらった。ご紹介したい。

◆<老人保健施設などでノロウイルスの集団発生が報じられておりますが、ノロウイルスについて正しく理解し、ご自身も感染しないよう予防しましょう。

ノロウイルス感染症とは・・・
 ノロウイルスが人の小腸で増殖して引き起こされる急性胃腸炎です。
@カキや貝類を十分に加熱せず食べた場合
A生ガキや貝類で汚染された調理器具で調理した生野菜などを食べた場合
Bウイルスに感染したヒトの便や吐物に触れた手で調理をした場合・・・
などに感染する可能性があります。

◆症状
 年齢に関係なく感染は起こりますが、高齢者や抵抗力の弱ったヒトでは重症化する例もあります。嘔気・嘔吐・下痢が主症状です。
 腹痛、頭痛、発熱、悪寒、筋痛、咽頭痛などを伴うこともあります。 高齢者の場合、症状が出て、水分摂取ができなくなるとすぐに脱水症状を起す可能性がありますので、早めに病院の診察を受けて下さい。

◆予防
 生のカキや貝類は内部まで、十分に加熱してから食べるようにしましょう。
 カキの処理に使用したまな板などは、よく水洗いし、熱湯消毒をしてから使用しましょう。

 冬場はこのノロウイルスに限らず、様々な感染症が流行します。感染予防としてもっとも重要なのは、普段からの「手洗いやうがい」です。
 外から帰ったあとは必ず「手洗いとうがい」をする習慣をつけましょう。>
                       
( 参考文献;)
 1.国立感染症研究所 感染症情報センター感染症発生動向調査週報 感染症の話
 http://idsc.nih.go.jp/idwr/kansen/k04/k04_11.html
 2.大阪府食の安全推進科    http://www.pref.osaka.jp/shokuhin/noro/
 3.厚生労働省ノロウイルス食中毒の予防に関するQ&A
http://www.mhlw.go.jp/topics/syokuchu/kanren/tobou/040204-1.html

2019年12月03日

◆「チョロ」の国家機密

渡部亮次郎


日本の元総理大臣が外国に招待されて打ったゴルフの第1打が、あろうこ
とか「チョロ」だった。本人すかさず側近に「これは国家機密だッ」と緘
口令を敷いた、という笑い話。

隅田川に上がる豪快、華麗な花火(2007・07・25)を見ながら聞かされた話
だ。福田赳夫が総理を辞めてから、朴正煕韓国大統領が殺害される3ヶ月
前の話だというから、時は1979年7月。ソウル市郊外の有名ゴルフ場である。

歴史書を紐解けば、福田は自民党総裁選には初めは田中角栄との「角福戦
争」(1972年)に敗れて雌伏。やっと1976年に大平正芳との密約成立により
総理総裁に就任、70をとうに過ぎていた。

密約の在任期間は「2年」。ところがもっとやりたい福田は密約を一方的に
破って大平に対抗出馬。やはり、あえなく敗退。「天の声にも時には変な
声がある」との迷科白を吐いて恥かしさを誤魔化した。

私はこの頃すでに外相園田直(すなお)の秘書官だった。それ以前は
NHKで福田派担当記者だったから、福田を比較的、良く知っていた。誘
われてゴルフも何回となくしたが、ロンドン仕込みとはいえ腕前は上等と
はとても言えなかった。

その福田が朴大統領に招かれるについては、親分岸信介と朴との関係に
遡って親密な関係にあった。朴は先にライバル金大中拉致事件では当時の
総理田中角栄に現ナマを贈って政治解決を図るなどしたが、岸・福田ライ
ンとの親密さは不変だった。福田を慰労し、発展する韓国を見せたかった
のだ。

花火を見上げながらの話だと、朴は福田を招待するについて、随分気を
遣った。特にゴルフについては福田が老齢ゆえ、きつい坂は堪えるだろう
と春ごろに坂を削るなど改造させて待った。

当日は側近の安倍晋太郎、石原慎太郎、森喜朗らが同行。迎える朴大統領
は一行の靴下やパンツからクラブなど道具一式を選り取りみどりをデパー
トを現地に出張させて用意するという念の入れ方。図体の特に大きい森の
身体に合うサイズ取り揃えてあったのには一同感服。

大統領が日本の前総理とゴルフをするというのだから、警備は大変。警察
官がティーグラウンドからフェアウェーに沿って10mおき、後ろ向きに並
ぶ。北朝鮮が攻めてきたら大変、それに備える態勢だから緊張が走る。
ボールが当る危険性、十分。

かくて朴が第1打。あっ、なんと30mぐらいの「チョロ」。上空から警備
のヘリの騒音に緊張したのか。

朴正煕は植民地統治下の朝鮮慶尚北道善山郡(現在の亀尾市)で生まれ
た。貧しい農村部家庭の末子であった。

小学生の頃は、学校に弁当を持っていけないほど生活は苦しく、酒に酔う
たびに友人や側近に「俺は本当の貧しさを知っている」と語っていたという。

1963年8月に軍を退役し、大統領選に出馬。前大統領の尹を破り、自らが
大統領の座に就く。1965年6月22日には、日本との国交を回復(日韓基本
条約)。この条約の締結により得た資金を不足していたインフラの整備に
充てた。福田がその頃、大蔵大臣だった。

ついで打ったのは福田。はっ、これはもっと酷い「チョロ」10mも行って
いない。ところが福田は平然「三尺下がって師の影を踏まず!」一同、大
拍手で緊張が解けた。直後、傍にいた顔見知りの日本大使館員に「これは
国家機密!」と緘口令を敷いたのだ。

釜山・馬山で民主化暴動が起こっていた1979年10月26日、側近の金載圭
KCIA部長によって射殺された(10・26事件)。享年61。国葬が執り行わ
れ、遺体は国立墓地顕忠院に葬られている。朴大統領は1985年には自ら下
野すると側近に話していたという。

葬儀に日本は本来、総理大臣大平正芳が参列すべきだったが、日韓議連会
長岸信介を派遣した。手間取って岸は葬儀に間に合わなかった。

埋葬の儀は外国人はオフリミット。それでも岸はOK。大使館の韓国側と
りなしなど苦労は大変だった。

やはり埋葬にしか間に合わなかったフィリピンのマルコス大統領夫人イメ
ルダが大泣きして娘さんを抱きしめるのに、岸は沈黙。対照的だったそう
だ。(文中敬称略)2007・07・31 


◆雀庵の「習近平来日阻止! 中共殲滅へ」

シーチン”修一 2.0

【Anne G. of Red Gables/58(2019/11/30】旧暦の11月4日、庭の池に薄氷
が張った。霜月だなあと何となく感慨を覚えるが、現役時代は目の前に積
み重なった仕事、ほとんど屹立している氷河の絶壁を必死で突き崩すよう
な日々だったから、季節の移り変わりをしみじみ思うようなことはなかった。

せいぜい「寒くなったなあ、今夜は『竿灯』でショッツル鍋にするか、
『お多幸』でオデンというのもいいなあ・・・最初はやはり熱燗だな」な
んて人参をぶら下げて、己を鞭打ちながらシコシコ、時々絶叫しながら奮
闘していたものである。

いい思い出だが、よく倒れなかったものだ、やはり核燃料が燃え盛って
いたのだろう。2003年、52歳で胃癌摘出、会社を畳んで以降はパッとした
仕事はせず、58歳でリタイア、母の介護を終えた63歳以降は「自分で自分
を介護する」ような・・・「酒とバカの日々」・・・落ちたところが精神
科急性期閉鎖病棟だから「落ちるところまで落ちた」わけ。

それからは・・・ここが人生の面白みだが、谷底で眼が覚めると「上り
坂」しかない。登っていくと視野が開けてくる、眺めも良くなる、やがて
尾根に立つと、さらに高い山が見える、「よし、あの山に登ろう、どうせ
暇だし」、マシラのごとくワクワクするのだ。なんせ多動児だで、我慢が
よーできんへん。

<自閉症などの発達障害や注意欠陥多動性障害(ADHD)の子供は時折高い
場所に上ってしまう事があります。発達障害の子供は日常的に外部から受
け取る刺激が少ないとされ、しばしば自分で刺激を得て楽しむ事があります。

また、感覚が過敏であったり逆に鈍感であったりするため、感覚の感じ
方も通常の人とは違う受け取り方をしています。

高いところへ登るということは「体を動かす感覚」「高い場所から見る景
色の感覚」「高さ自体の刺激」などを受け取ることができるため、高い場
所を見つけると刺激を得ようと登ってしまいます>(発達障害-自閉症.net)

まあ、そういうことかもしれない。温かくて、柔らかくて、いい匂いが
して、すべすべして、草むらにかわいい洞窟がある山なんて見つけると刺
激を得ようと無我夢中で登ってしまうなあ。ま、昔の話だけど。

精神科の先生に「フロイト派とユング派の現況はどうですか、エジソンは
ADHDみたいですが、世界を動かすのはキチガイですね。僕はどうも自分は
自閉スペクトラムの気があるんじゃないかと。〇〇先生はマザコンです
ね。聖マリアンナ出身の精神科医はクズです」なんて言うと皆「アハ
ハ!」と楽しそうだった。

振り返れば小生の人生は穏やかな方だったろう。心身共に耐えがたいよ
うな切羽詰まった逆境には遭わなかった。このところ北条民雄の「いのち
の初夜」を何度も読み直しているが、考えさせられることが多い。

<1914年9月22日 - 1937年12月5日。ハンセン病(らい病)となり隔離
生活を余儀なくされながら、自身の体験に基づく作品「いのちの初夜」な
どを遺した。本名:七條晃司(しちじょう てるじ)。

日本統治時代の朝鮮の首都京城(現・ソウル)に生まれる。生後間もな
く母親と死別し、徳島県阿南市下大野町に育つ。

1932年に結婚。1933年にハンセン病を発病し破婚。翌1934年、東京府北多
摩郡東村山村の全生園に入院。入院後、創作を開始した。1937年に腸結核
のため23歳没。

ハンセン病に対する偏見や差別により、長らく本名は公表されていな
かったが、出身地の阿南市が親族に2年間にわたり本名を公開するように
説得した結果、2014年6月に親族の了承を得て、没後77年経って本名が公
開された>(WIKI)

「いのちの初夜」は、原題は「最初の一夜」だったが、彼が師事した川端
康成が原稿を読んでそう命名した。川端は単なる女好きの作家ではなかっ
た! 本名が公開されたのが没後77年というのも、ハンセン病への世間の
「忌避感の激しさ」に驚かされる。

千葉俊二・早稲田大学教授/近代文学はこう評している(要約)。

<小林秀雄は「優れた作品は作者の血液をもって染色されている」と書
いたが、当時大きく盛り上がった宮本顕治(修一:日共のボス、リンチに
よる傷害致死罪などで服役中にGHQが“間違って”釈放)らのプロレタリア
文学は概ね不毛だった。

自己の全存在にかかわるハンセン病という「宿命」を綴った「いのちの
初夜」は圧倒的な存在感である。救いようもない惨めさと絶望感は、宮本
顕治の言うような「史的な必然として到来する新社会」と言いったものへ
の希望のひとかけらもない。

青白いインテリの自意識や階級意識といったものは、まさにここでは
吹っ飛んでしまっている。これは文学の極北に描かれた奇蹟の一篇といえる>

ソルジェニーツィンの「イワンデニーソビチの一日」が、諦観を飲み込ん
だ上で明日を信じ、今日を思い切って生きていこうという休火山の静寂が
あるとすれば、「いのちの初夜」は今大爆発をした活火山であり、死と生
の血だらけの修羅場が描かれている。

作者の「生きよう、生きるんだ!」という人間復活の物語といっていいだ
ろう。そこには真剣な命のやり取りがある。軽佻浮薄なベストセラー本
が、朝に生まれて夕に死ぬ水の泡、陽炎のように思えてくる。

小生は特に以下の話に感動した。

主人公の尾田はハンセン病患者の隔離施設であり、一方で病気の進行で
崩れていく体を見られ嫌悪されることから患者を守る保護施設でもある
「多摩全生園」入所の当日、早々と自殺を試みたが死にきれず、患者の面
倒を見る先輩患者(義眼)の左柄木にその場を見られていた。入所間もな
いと多くの患者が自殺を試みることは定番になっていたのだ。

<「あなたと初めてお会いした今日、こんなことを言って大変失礼です
けれど」と左柄木は優しみを含めた声で前置きすると、

「尾田さん、僕には、あなたの気持ちがよく解る気がします。僕がここ
へ来た五年前のその時の僕の気持ちを、いや、それ以上の苦悩を、あなた
は今味わっていられるのです。ほんとにあなたの気持ち、よく解ります。

でも、尾田さん、きっと生きられますよ。きっと生きる道はあります
よ。どこまで行っても人生にはきっと抜け道があると思うのです。もっと
もっと自己に対して、自らの生命に対して謙虚になりましょう。

とにかく、らい病になりきることが何より大切だと思います」

不敵な面魂が言葉の内部に覗かれた。

「入院されたばかりのあなたに大変無慈悲な言葉かも知れません、今の
言葉。でも同情するよりは、同情のある慰めよりは、あなたにとっても良
いと思うのです。実際、同情ほど愛情から遠いものはありませんからね。

それに、こんな潰れかけた同病者の僕が一体どう慰めたらいいのです。
慰めのすぐそばから嘘がばれていくに決まっているじゃありませんか」

患者が当直の左柄木を呼び、彼は慣れ切った調子で男を背負い、廊下へ
出ていった。男は二本とも足がなく、膝小僧の辺りに包帯らしいものが覗
いていた。

「なんというものすごい世界だろう。この中で左柄木は生きると言うの
だ。だが、自分はどう生きる態度を定めたらいいのだろう」

発病以来、初めて尾田の心に来た疑問だった。尾田はしみじみと自分の
掌を見、足を見、そして胸に掌をあててまさぐって見るのだった。何もか
も奪われてしまって、ただ一つ、生命だけが取り残されたのだった。

今さらのようにあたりを眺めて見た。

膿汁に煙った空間があり、ずらりと並んだベッドがある。死にかかった
重症者がその上に横たわって、他は繃帯であり、ガーゼであり、義足であ
り松葉杖であった・・・

真夜中に尾田は悪夢で目を覚ますと、左柄木は書き物をしていた。病室
を眺めていると、うめき声やすすり泣き、念仏、「ああ、ああ、なんとか
して死ねんものかなあー」という、この世の人とは思えない嗄れ声が聞こ
えてくる。

「眠れませんか」と左柄木が声をかけてきた。

「尾田さん、あなたはあの人たちを人間だと思いますか・・・人間じゃ
ありませんよ。生命です。生命そのもの、『いのち』そのものなんです。
あの人たちの『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。ただ生命だけ
がぴくぴくと生きているのです。なんという根強さでしょう。

誰でも癩(らい)になった刹那に、その人の人間は亡びるのです。死ぬ
のです。社会的人間として亡びるだけではありません。そんな浅はかな亡
び方では決してないのです。廃兵ではなく、廃人なんです。

けれど、尾田さん、僕らは不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ
時、まったく癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き返るのです。
復活、そう復活です。ぴくぴくと生きている生命が肉体を獲得するので
す。新しい人間生活はそれから始まるのです。

尾田さん、あなたは今死んでいるのです。死んでいますとも、あなたは
人間じゃないんです。あなたの苦悩や絶望、それがどこから来るか、考え
て見てください。ひとたび死んだ過去の人間を探し求めているからではな
いでしょうか」

尾田に向かって説きつめているようでありながら、左柄木自身が自分の
心内に突き出してくる何ものかと激しく戦って血みどろとなっているよう
に尾田には見えた。と果たして左柄木は急に弱々しく、

「僕にもう少し文学的な才能があったら、と歯ぎしりするんですよ。僕
に天才があったら、この新しい人間を、今までかつてなかった人間像を書
き上げるのですが――及びません。

せめて自由な時間と、満足な眼があったらと思うのです。いつ盲目にな
るか分からない、この苦しさはあなたにはお分かりにならないでしょ
う・・・」

「ああ、もう夜が明けかけましたね」

外を見ながら左柄木が言った。「ここ二、三日、調子が良くて、あの
(夜明けの)白さが見えますよ。珍しいことなんです」

「一緒に散歩でもしましょうか」

尾田が話題を変えて持ち出すと「そうしましょう」と左柄木は立ち上
がった。

冷たい外気に触れると、二人は生き返ったように自ずと気持ちが若やい
できた。並んで歩きながら尾田は時々背後を振り返って病棟を眺めずには
いられなかった。生涯忘れることのできない記憶となるであろう一夜を振
り返る思いであった。

「盲目になるのは分かり切っていても、尾田さん、やはり僕は書きます
よ。盲目になればなったで、またきっと生きる道はあるはずです。あなた
も新しい生活を始めてください。癩者になり切って、さらに進む道を発見
してください。僕は書けなくなるまで努力します」

その言葉には、初めて会った時の不敵な左柄木が戻っていた。

「苦悩、それは死ぬまでつきまとって来るでしょう。でも誰かが言った
ではありませんか、苦しむためには才能が要るって。苦しみ得ないものも
あるのです」

佐柄木は一つ大きく呼吸すると、足どりまでも一歩一歩大地を踏みしめて
行く、ゆるぎのない若々しさに満ちていた。

あたりの暗がりが徐々に大地にしみ込んで行くと、やがて燦然たる太陽
が林の彼方に現われ、縞目を作って梢を流れて行く光線が、強靭な樹幹へ
もさし込み始めた。

佐柄木の世界へ到達し得るかどうか、尾田にはまだ不安が色濃く残って
いたが、やはり生きて見ることだ、と強く思いながら、光の縞目を眺め続
けた>

ああ、俺も狂気、侠気、驚喜、凶器、強記を抱きながら倒れるまで人間と
して生きていこうと思う。60年前のハガチー事件を思い起こすと来春の
「習近平来日阻止」は首都高羽田線上下をダンプ2台で止めるだけで済
む。道路と滑走路に重油をばらまいておけばなおいい。

全国3500万のヂヂババ諸君、命惜しむな、名こそ惜しめ、中共殲滅、支
那解放へ! 団塊世代は汚名をそそぐ最後のチャンスだ、特攻の名誉を譲
ろう、歴史に名を刻め! 

興奮、公憤したので今回はここまで。(つづく)2019/11/30