高島 康司
バイデン政権「ワクチン義務化」で解雇者続出、警察も消防士も人手不足へ。
アメリカ国内のインフレ状況
アメリカのインフレを巡る危険な国内情勢について解説したい。
日本の主要メディアでも報道されているので周知だと思うが、バイデン政
権の支持率低下が止まらない。
もともとバイデンは、大統領選挙の妥当性が論争の的になり深刻な分断が
進むアメリカで就任した大統領なので、50%を越える支持率の実現は難し
いとされていた。どんな政策を実施しようとも、共和党のトランプ支持派
は絶対にバイデン政権を支持することはないからだ。
しかしながら、そのような状況を勘案しても、いまのバイデン政権の急速
な支持率低下のスピードは予想を越えている。
このままの勢いで下がり続けると、12月から来年の1月になると、30%台
まで支持率は下落する可能性がある。30%台というと、アメリカを分断さ
せたトランプの支持率に並ぶことになる。
バイデンの人気が回復しない6つの理由
こうした状況に対して、アメリカの保守を代表するケーブルテレビ、
「FOXニュース」は「バイデンの人気が回復しない6つの理由(The 6
reasons why Joe Biden’s popularity numbers won’t recover)」で、バ
イデンの支持率が急速に下がった要因を説明している。それらは以下の理
由だ。
1. バイデンの指導力の欠如。側近が政策を立案している。
2. 民主党が左派に一段とシフトしている。左派は社会的弱者救済のセイ
フティネットの支出増大を求めるが、恩恵にあづかる層の支持は高いもの
の、他の層は強く反対。
3. バイデン政権の政策が支持率を下降させている。米軍のアフガニスタ
ンの撤退混乱、巨額の経済政策によるインフレの加速などだ。
4. ハリス副大統領は自分のオフィスをまとめ切れていない。混乱してい
るように見え、人気がない。逆に大統領の支持を低めている。
5. バイデンが選出された大きい理由は、彼がトランプではないという消
極的理由からだ。バイデンを積極的に支持したものではない。時間ととも
に、この理由からの支持は後退した。
6. 特にトランプ以降のアメリカは社会が分断。現在共和党と民主党は激
しく対立し、一方が相手陣営の大統領を評価することはほとんどない。こ
の事実は50%越えの支持率を困難にしている。
「FOXニュース」というトランプ支持の保守的なメディアなので分析は差
し引いて考えたほうがよいだろうが、本質はついていると思う。
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◆雀庵の常在戦場/114熱戦へカウントダウンは始まった
“シーチン”修一 2.0
【Anne G. of Red Gables/394(2021/11/20/土】太宰曰く「良い予感は外
れ、悪い予感は当たる」。そこまでは言えないだろうが、「期待」は概ね
「挫折」する。スポーツ選手などはそこそこ上位だと「いつかはトップ
に」と思ったりするだろうが、才能と努力もあって地区大会で入賞して
も、全国大会、さらに世界大会を制覇するのは「心技体+運」の奇跡に近
いのではないか。
「挫折」が必ずしも悪いわけではない。大体、挫折を知らない人はまずい
ない。「艱難汝を玉にす」「失敗は成功の基」でもある。挫折や失敗や乗
り越えて挑戦していくのか、新しい分野に転身するのか、それとも引き籠
るか・・・日本人は概ね挑戦・転身派だろう。転業、転換、転戦、転進、
小生は転向だな。
これという資源のない小さな島国だから、ご先祖さまはナニクソ!と脳み
そと手足をフル稼働させて今の日本を創ってきた。根性があり、先の敗戦
でもめげずに、瞬く間に一等国に返り咲いた。「経済大国」という経済の
分野だけれど、銃の代わりにカタログと見本品を持って世界を巡り、艱難
辛苦、それだって一種の戦争だった。
さて、本題。現代史で世界制覇を目指し、軍事力=戦争でそれを実現しよ
うとした政治家として一番有名なのはドイツのヒトラーだろう。
<ヒトラーは1933年に首相に就任すると、ただちに一党独裁の全体主義体
制を確立、経済建設と再軍備拡張をはかった。1934年ヒンデンブルク大統
領の死後、総統となり、ヴェルサイユ体制(第1次大戦後のドイツ封じ込
め策)の打破を進めた。
1939年9月、第二次世界大戦に突入し、41年6月にはソ連にも侵入、一時ほ
とんど全ヨーロッパを占領した。また、各地に強制収容所を設置して、ユ
ダヤ人やスラヴ人を虐殺した。対ソ連のスターリングラードの戦いでの敗
北を機にドイツは劣勢となり、1944年6月、(米英仏など)連合軍のノル
マンディー上陸作戦で東西から挾撃された。7月、国防軍の反ヒトラー派
によるヒトラー爆殺事件は奇跡的に切り抜けたが、1945年4月30日、ベル
リンの陥落直前に愛人エヴァとともに自殺した>(旺文社世界史事典)
ヒトラー・ナチスの世界制覇戦争は6年で無残な敗戦(米英仏ソなど連合
国側の勝利)になった。独と同盟した枢軸国の日伊なども同様に無残な敗
戦になった。より正確に言えば、米国以外は疲弊した。戦後は米ソの冷戦
はあったが、大国間の戦争はなかった。それは凄まじい破壊力の核兵器が
抑止力になっていたからだ。核戦争になれば当事国はいずれも大打撃を免
れ得ない。
現在、米ロ中英仏印パ北+イスラエルなどの持つ核兵器は全体で1万3000
発あたりで、世界というか地球から人間はもとより動植物を数百年間駆除
するパワーがあるそうだ。核兵器が戦後に実戦で使われたことがなかった
のは、その破壊力を使えば敵も自国も壊滅的な打撃を被るので「攻撃を受
けなければ使わない」という暗黙のルールがあったからである。
ところが、核戦争を恐れない指導者が登場した。元祖は世界最大の人口大
国、中国の毛沢東である。戦争で兵士(貧民)や悪政で人民が数千万人死
んでも、それは単なる数字であり、痛痒を覚えないのが毛沢東流だ。冷血
漢のよう。都合の悪いことはなかったことにする、忘れたふりをする、隠
蔽する。
そう言えば米国では第2次大戦時のFDRルーズベルト政権時の機密文書公開
をまたもや延期したが・・・「勝てばすべて許される」「不都合な真実は
隠す」、軍の指導者、政治のトップとはそういうものかもしれない。毛沢
東はヒトラー、スターリンを超える20世紀最大の殺人者だろう。毛は糟糠
の妻の死だけは死ぬまで悲しむという、かなりエキセントリックな政治家
だった。
1953年にスターリンが死に、1956年にフルシチョフによる「スターリン個
人独裁批判」がなされた。毛沢東にとってスターリンは資金源、タニマチ
で頭が上がらなかったが、スターリン死後もソ連は中共にとって最大の後
援者であり続けた。個人独裁批判は毛沢東にとって到底受け入れられない
ものだったが、「綱領から『毛沢東思想』の言葉を削除し、党中央政治局
による集団指導と法の支配を打ち出した」(WIKI)。実際はソ連へ阿(お
もね)っただけの有名無実に終わったが・・・
毛はフルシチョフの平和共存路線=世界革命放棄に対する反発を強めつつ
も、1958年にはソ連の協力により原子炉運転開始に漕ぎつけた。翌1959年
に中ソ協定破棄、その後、独力で核兵器開発に着手し、1964年、日本が東
京五輪に浮かれている最中の10月16日、中国西部で原爆実験に成功、1967
年には水爆実験も成功させた(広島平和記念資料館)。
毛沢東はスターリン死後あたりから核武装を目指していたようで、1955年
のアジア・アフリカ会議、1957年のソ連で開かれた社会主義陣営の各国首
脳会議で、「大体、我が国は人口が多過ぎる。原爆で半分死んでも我が国
にはまだ3億人もいる」と豪語して、世界の海千山千の元首を唖然とさせ
ている。
1958年9月、核兵器製造の目途が付いたのだろう、金の切れ目が縁の切れ
目ということもあって、毛はスターリン以来のソ連の軛(くびき)を断
ち、後足で砂をかけるようにフルシチョフ・ソ連を「修正主義者」と罵倒
を強めていく。儒教を排除した毛・中共は「恩を仇で返す」あるいは「古
い友人」と持ち上げる、その場の都合次第である。
そして毛は正調マルクス・レーニン主義の代表として世界革命を目指し、
米国覇権への敵意も深めていく。多分、それは表向きだけで、竹のカーテ
ンで包囲網を喰らっていたから存在感をアピールし、かつ仲間を増やした
いために「反米」を唱えたのだろう。
「悪の限りを尽くす帝国主義者の寿命はそう長くない。彼らは反動派を助
け、植民地、半植民地、軍事基地を不法占領し、核戦争で平和を脅かして
いる。主としてアメリカ帝国主義(米帝)の侵略と抑圧を終わらせること
は、全世界人民の任務である」(1958/9/29)
「パンツ1枚になっても核兵器を持つ! 中共の興廃この一戦にあり!」
と毛沢東は研究者に発破をかけたろう、大した戦略家である。そして原爆
実験年内実施の目処がついたのだろう、1964/1/12には自信たっぷりにこ
う語った
「米帝は横暴の限りを尽くしており、自らを、全世界人民を敵にする地位
に置き、孤立を招いている。米帝の原子爆弾、水素爆弾は、奴隷になるこ
とを欲しないすべての人々を脅すことはできない、米帝に反対する全世界
人民の怒りの波を食い止めることはできない。我々は偉大な勝利を収める
であろう」
毛沢東の真似っ乞食、習近平は終身国家主席を目指して戦争を欲してい
る。毛とトウ小平はそれぞれ戦歴があるから死ぬまでトップの座にあっ
た、「だから俺も戦争して盤石の地位を固めたい」という、恐ろしく自分
勝手な理屈である。蛇の道は蛇、自称、自閉スペクトラムの鬱病の小生か
ら見ると習近平はナルシズム的な「自己愛性パーソナリティ障害」のよう
に見える。WIKIにはこうある。
<自己愛性パーソナリティ障害(英: narcissistic personality
disorder、NPD、以下「自己愛性障害」と略す)は、ありのままの自分を
愛することができず、自分は優れていて素晴らしく特別で偉大な存在でな
ければならないと思い込むパーソナリティ障害の一類型である。患者はた
いてい自分が問題であるとは認識していないため、精神療法は概ね困難で
ある。
【自己愛性障害の症状】人より優れていると信じている/権力、成功、自
己の魅力について空想を巡らす/業績や才能を誇張する/絶え間ない賛美
と称賛を期待する/自分は特別であると信じており、その信念に従って行
動する
人の感情や感覚を認識しそこなう/人が自分のアイデアや計画に従うこと
を期待する/人を利用する/劣っていると感じた人々に高慢な態度をとる
/嫉妬されていると思い込む/他人を嫉妬する/多くの人間関係において
トラブルが見られる/非現実的な目標を定める
容易に傷つき、拒否されたと感じる/脆く崩れやすい自尊心を抱えている
/感傷的にならず、冷淡な人物であるように見える
これらの症状に加え、自己愛性障害の人物は傲慢さを示し、優越性を誇示
し、権力を求め続ける傾向がある。彼らは称賛を強く求めるが、他方で他
者に対する共感能力は欠けている。一般にこれらの性質は、強力な劣等感
および決して愛されないという感覚に対する防衛によるものと考えられて
いる。
自己愛性障害の人物は人より優れているという固有の高い自己価値感を有
しているが、実際には脆く崩れやすい自尊心を抱えている>
習近平の父、習仲勲は毛沢東の優秀な側近だったが、文革で潰され、習近
平自身も小5あたりから数年間、僻地に下放されて悲惨な目に遭った。そ
れなのに彼はひたすら仇である毛沢東の真似をしている。「何故なのだろ
う、毛沢東を乗り越えることで父の敵討ちをするつもりか?」と長らく
思っていたが、以下の論稿を読んで「習近平は異常なビョーキであり、世
界の危険である」と腑に落ちた。そうとしか思えないのだ。
エドワード・ルトワック「父は16年間の投獄、姉は餓死・・・文化大革命
で苦痛を味わった習近平がそれでも毛沢東の背中を追う異常な理由 『ラ
ストエンペラー習近平』より」文春オンライン2021/9/9、抜粋の全文は
https://bunshun.jp/articles/-/48188<中国が「チャイナ4.0」(強硬な外交姿勢)という最悪の戦略に回帰し
てしまった大きな要因のひとつは、「皇帝」である習近平のパーソナリ
ティに求められるだろう。そこで習近平の経歴を少し詳しくみていきたい。
彼の前半生は苛烈なものだった。それはまず、「革命の英雄」を父に持
ち、その父が激しい権力争いのなかで残酷な迫害を受けたことに始まる。
習近平の父、習仲勲は中国の中央部にある陝西省に生まれ、10代で共産党
組織に身を投じた。陝甘辺区(せんかんへんく)ソビエト政府で主席と
なったのはわずか21歳のときだった。当時、中国共産党は国民党軍から逃
げるために、1万2000キロ以上にも及ぶ大移動をおこなっていた。この
「長征」のなかで主導権を握ったのが毛沢東である。
10万人の兵力を数千人にすり減らすような過酷な逃避行だったが、この
「長征」の最終目的地となったのが陝西省だった。そこでは若き習仲勲ら
が共産党の根拠地を死守していたからだ。共産党政府は同省の延安を臨時
首都とした。もし習仲勲らの根拠地が潰されていたら、いまの中華人民共
和国は存在しなかったかもしれない。
中国建国後、習仲勲は国務院副総理(副首相)などの要職に就いた。彼ら
中央指導者は多忙を極めていたため、子弟のために全寮制の幼稚園や小学
校をつくった。1953年生まれの習近平も姉や弟とともに、そうした全寮制
の学校で育てられたのである。いわば彼らは「党の子どもたち」だった。
ところが1962年(文化大革命が始まり)父・習仲勲は反党的な小説の出版
に関わったという嫌疑をかけられ、全ての要職を奪われてしまう。それか
ら習仲勲は1978年まで16年間も投獄や拘束といった迫害を受け続けたので
ある。母親の斉心も革命運動に参加、八路軍でも兵士として戦ったが、文
革では公の場で批判を浴びせられ、暴力もふるわれた。
文革の嵐は、当時、中学生だった習近平をも襲った。紅衛兵によって生家
を破壊され、十数回も批判闘争大会に引き出されて、あげくに反動学生と
して4回も投獄されてしまったのだ。そのため、中学から先は正式な教育
を受けられなかった(のちに推薦制度により清華大学に無試験で入学)。
さらには陝西省の寒村に下放(青少年を地方に送り出し、労働を体験させ
ること)され、黄土を掘りぬいた洞窟に寝泊まりさせられるなどの苦難を
味わっている。
姉は文革中に餓死したと伝えられるが、妹も下放され、素手でレンガをつ
くる作業を強制され、食うや食わずの生活を経験している。
重要なのは、これらはすべて、「毛沢東の党」によって行われてきたとい
うことだ。そもそも文化大革命自体、毛沢東が他の共産党のリーダーたち
を潰すために行ったのであり、実際に中国共産党は「毛沢東の党」となっ
た。それが中国全体にとって巨大な災厄をもたらしたことは言うまでもない。
多くの幼児虐待の専門家が認めていることだが、外部の人間が、子どもが
虐待を受けていることに気づいても、その子ども本人が虐待をしている親
の元に留まりたいと思うケースは少なくない。そうした子どもたちは、自
分が間違っているから親に𠮟られているのだ、と考え、今よりももっとい
い子になろう、親の言うことに従い、「正しい行い」をすることで許しを
得よう、と考えてしまうのである。
習近平のケースは、まさにこれに当てはまる。彼にとって毛沢東こそが
「虐待する父」なのだ。習近平も薄熙来も「父なる毛沢東=共産党」に許
され、幹部への道を進んだ。虐待された父から、お前の態度は正しいと認
められたのである。それが彼ら“毛沢東チルドレン”の「毛沢東が行ってい
た以上に、毛沢東的な政治を目指そう」という行動となってあらわれてい
るのだ。
まさに習近平は、毛沢東よりも極端に毛沢東主義的な政策を行おうとして
いるのである。そう考えると、私が「チャイナ4.0」と呼ぶ、極端な対外
強硬路線も理解できるだろう。中国は今、習近平という非常に破壊的な人
格を持つリーダーによって、政策が決定されているのである。
そうした習近平の破壊的な行動は、彼が独裁体制を強化するにつれて、よ
り極端になっている。それは二つの次元で進行している。
ひとつはシンプルに、誰も習近平のやることに反対できない、ということ
だ。こちらのほうはわかりやすい。習近平に異を唱える人物はいなくなる
か、いつ排除されるかわからないという恐怖で沈黙させられているのだ。
もうひとつは、独裁体制というものは実はきわめて不安定なシステムであ
り、独裁者とは不安で危うい存在だということだ。
独裁制は「弱い」権力システムだといえる。権力が集中すればするほど、
独裁者の失敗や、その決断に対する違和感は、大きな「ノイズ」となっ
て、支配の根拠を動揺させる。そうした「ノイズ」を取り除くために、独
裁者はますます自分に権力を集中させ、異分子を徹底的に排除しなければ
ならない。今、習近平がやっていることは、それである。それは彼の支配
を強めると同時に、崩壊の危険性を高めているのである・・・>
支那人は対人関係において上下を重んじる。声を荒げた方が上位になるが
「奴は居丈高だが、それは根拠があるからだろう、ここは下手(した
て)に出た方が良さそうだ」と損得を考えて下位が一歩引くからだ。下手
に出たところで「上に政策あれば下に対策あり」で上手く対処できるか
ら、敢えて角逐するのは避ける、という処世術だろう。
日本もその傾向はあるが、上司の業務命令に異議を唱える時は「お言葉で
すが部長」と枕詞から提案する。「お言葉ですが」の一言には「尊敬する
部長の命令は了解しました、しかし、こういうやり方もありますからご検
討いただけないでしょうか」という謙譲語的な意味が込められている。
「部長、そんなの愚策です、ちょっと考えれば分るでしょう」なんて言っ
たら恨みを買うから下策である。
上司も「お言葉ですが」と言われれば悪い気はしないし、それが良案なら
受け入れて実行する。成功すれば「いやあ、実はあれはA君のアイデア
だったんだよ」と社内でA君を誉め、A君も「部長が後押ししてくれたから
からです」なんて言って、いかにも日本的な関係になったり。部長の娘が
A君に嫁いだり・・・まるで兄弟仁義、血をすすり合った中、こういう
ケースは日本では珍しくないのではないか。“ドライ”ではなく“ウェット”
な人間関係。
日本は儒教、仏教を含めて支那から多くを学んできたが、神道や風土の穏
やかさもあって国民性や国柄は随分違ってきた。世界はそういうもので、
多様性は結構なことだと思うが、習近平・中共の「我こそ正義、世界は俺
に従え」の主張、行動は多様性どころか「狂気」である。それなりに効果
があった「戦後秩序」への挑戦であり、それを支えてきたG7を始めとする
諸国にとってはとても看過できることではない。
上記のルトワックは現在の戦略研究家としてトップクラスであり、彼の上
記論稿も世界の多くの指導者に読まれているはずだ。習近平・中共の異常
なトラウマが危機の元凶であることは共有されたに違いない。
「トラウマとは、その人にとって危機的で対処不能な出来事に対する、身
を守る反応として生理学的に生じる強度の防衛的ストレス反応(トラウマ
体験)がその後の時間の経過によっても解消されず、その身体反応が定
着してしまいその定着した反応(トラウマ反応)が日常生活にもたらす
影響」(プロカウンセラー池内秀行公式サイト)
建国の父、カリスマの毛沢東に比肩したい、できれば毛沢東・中国の「中
興の祖」になりたい、そのためには台湾、そして日本を屈服させたい、さ
らにアジア・西太平洋を制覇したい・・・習近平の夢、中共の夢・・・彼
は核兵器使用に逡巡しないだろう。「大体、我が国は人口が多過ぎる。原
爆で半分死んでも我が国にはまだ7億人もいる」と毛沢東チルドレンであ
りナルシズムの自己愛性障害の習近平なら濁りなく思っているはずだ。
反中諸国による中共包囲網が完成する前の2022年の冬季五輪後、習近平は
戦端を開くだろう。カウントダウンは始まっている。
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◆タリバン政権は機能しておらず
「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和三年(2021)11月20日(土曜日)
通巻第7122号 <前日発行>
何でいまごろ? ロシア、自国民避難のためカブールに
輸送 機 タリバン政権は機能しておらず、ISのテロ
で治安も深刻に悪化
11月18日、プーチン大統領はショイグ国防相に対し、アフガニスタン・
イスラム共和国の領土から、ロシア連邦とCSTO加盟国(ベラルーシ、キル
ギス、アルメニア)の人々の避難を命じた。
ロシアは航空宇宙軍の輸送機3機をアフガニスタンに飛ばした。カブー
ルなどに残留していたロシア人380人を避難させるためである。
カブール陥落から三ヶ月、自信を持ってロシアはアフガニスタンに残留
させていたのではなかったか。
経過を思い起こせば、8月15日にタリバンはカブールを包囲した。米
軍の予測よりタリバンの攻勢は迅速だった。在カブールの米国大使館に陸
続とヘリコプターが着陸、外交官が機密文書を慌ただしく処分した。
アフガン内務省はガニー大統領が国外に脱出したことを確認した。
米国の傀儡だったガニー政権は崩壊したが、アフマド・マスードらはパ
ンジシール渓谷に健在で降伏の意思を示さなかった。
9月11日、撤退完了予定を前倒しして、米軍は8月30日にアフガニス
タンからの撤退作戦を終えた。翌日、バイデン大統領は国民向けの演説で
戦争終結を宣言。即座にタリバンは勝利を宣言した。
けっきょく、アフガニスタンでの死者は17万1,000〜17万4,000人に及
び、加えて疫病、食糧不足、水の欠乏などによる間接的死者の数は不明で
ある。
加えて260万人のアフガニスタン人が難民としてパキスタンやイランに
逃れている。一説には、このほかに400万人のアフガニスタン人が国内難
民となっているという。
ロシアは医療品や食糧などを往路の航空機に詰め込んで、おそらくその
バーターでロシア人避難をタリバン政権に認めさせたのではないか。とい
うのも、タリバンの統治能力に限界があり、ISがテロを繰り返して以前
より治安は悪化しているからだ。おまけにアルカィーダは不気味な沈黙を
続けている。
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●特報 「憂国忌」の記念冊子、50年分をDVDで頒布します
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憂国忌50年分の記念冊子を電子データ化したDVDを希望者に頒布しま
す。貴重な冊子をひとまとめにした稀覯本になります。
ご希望の方は郵便番号、住所、氏名を以下のメールまでお知らせください。
m-asano-1959@outlook.jp
一部1000円、代金は同封の郵便振替用紙(手数料弊会負担)にて品物到
着後にお支払いください。
●特記●「憂国忌賛助会費」をお納めくださった方につきましては、憂国
忌終了後に
本年度冊子と一緒にお送り致します。発送は12月初旬になります
▼▼▼
三島由紀夫氏追悼 第51回追悼の集い『憂国忌』(2021/11/25)
LIVE 生中継番組があります。
11月25日 午後弐時〜四時
https://youtu.be/6lBTjJ71iyA (日本文化チャンネル桜)
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読者の声 どくしゃのこえ READERS‘OPINIONS 読者之声
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(読者の声1)貴誌令和三年(2021)11月19日(金曜日)通巻第
7121号「読者の声」で、佐藤守元空将の御寄稿を拝読しました。
私は、靖国神社横の会館で、佐藤元空将による御講演を何回か拝聴させ
ていただいたことがあります。
今や「軍事評論家」よりも「UFO評論家」の方が有名だそうですが、私
は、御講演における、山本五十六元海軍大将が過大評価されている反面、
東条元首相は過小評価され過ぎであるという御主張には、まったくの同感
でした。御寄稿に接し、あらためて本誌読者層の広さを感じました。
佐藤元空将のさらなる御健勝、御活躍をお祈りいたします。
(椿本祐弘)
♪
(読者の声2)アメリカのWEBサイトに real jewnews があり、ユダヤ批
判の記事が中心で、主宰するのはピッツバーグ生まれのユダヤ人、現在は
自称ロシア正教の活動家。キリスト教徒でもユダヤ人を非難することは
ローマ教皇とイエズス会から非難をそらすものだと批判する者もいる。
日本でも某宗教新聞などかつては読むにたえない罵詈雑言が飛び交ってい
た。宗教問題は面倒くさい。
2007年の古い記事から読んでいたら記事とともにコメント欄が面白い。
日本ではほとんど知られていない本やロシア関係の情報もあり、ロシア革
命関連など革命家と資本家の関係など当時は公然の秘密だったようです。
日本でGHQの検閲が行われたように欧米でも新聞・通信・放送・出版と
ユダヤ系が抑えており、その圧力で一般人の目からはユダヤ革命の残酷さ
や資本家との関係は隠されたのでしょう。
ロシア語のサイト rus-sky.com にはロシアの歴史にかんする記事が多
数掲載されています。ロシア語は全く読めないので機械翻訳で読んでいま
すがじつに面白い。
今回紹介するのは1937年に元ボリシェヴィキのコミッサールが書いたとさ
れるもの。一般的には作家であることを想定していなかった彼の忍耐の杯
が溢れ出し、深く隠された歴史的真実を復元するためにペンを取った、と
いうことらしい。アメリカで出版されたものでロシアでは一度も出版され
ていないという。記事には第四インターが出てくるので1938年以降に書か
れたか、あるいは1937年には第四インターが実質的に成立していたので
しょうか。
以下抄訳。
『トロツキー 「ロシア」革命の主な原動力として』 全9章
http://rus-sky.com/history/library/trotzky.htm序文
トロツキーの名で知られるレフ・ブロンシュタインが、突如として政治
の表舞台に現れてから20年余りが経過した。ユダヤ人の強欲な地主の息子
で、隣人から冷酷に搾取していた人物が、突然、世界で最も重要な過激な
政治指導者の一人になるなんて、まったく信じられないことだ。しかし、
さらに驚くべきことに、彼が世界規模で人権を全く無視していることが広
く知られるようになってから、彼の人物像に対する世界の注目度が高まっ
たのである。
しかし、今日のトロツキーは、ヨーロッパやアメリカ中のあらゆる過激
な犯罪的要素を惹きつけているだけでなく、第3共産主義インターナショ
ナルのライバル組織である第4インターナショナルの唯一の支配者でもあ
る。さらに興味深いのは、彼がたまたま、西側の自由主義的な知識人全体
の共感を得ているという事実である。彼らは、彼を、スターリン政権の犠
牲者、つまり、スターリン自身が確立した血なまぐさい政権の犠牲者とし
て描いている。この政権は、現在、スターリンの妻の親族(兄)であるカガ
ノビッチによって完全に支配されている。
メキシコに逃れていたトロツキー・ブロンシュタインは、間もなく戻る
ことを宣言する。トロツキーが大富豪の友人であるメキシコ人とされる
ディエゴ・リベラの豪華な別荘に住んでいることが、それを物語っている。
メキシコ大統領のラサロ・カルデナス将軍は、このユダヤ人の人類平等の
使徒のために、「エル・イダルゴ」(「高貴な騎士」という意味)という
特別列車を送った。トロツキーは、その生涯において、最も贅沢な資本家
の特権を決して嫌っていないことを、その行動によって示している。
過激派やあらゆる知識人は、人生のごく短い期間に給料を受け取ったこの
男が、いつも自分を溺れさせている贅沢さに何の驚きも感じないようだ。
それにもかかわらず、B.ストルバーグのようなアメリカの有名なリベラル
派の作家は声高に宣言する。「トロツキーの出世の理由は、活動的で疲れ
を知らない革命家としての人格にある」
もちろん、見方にもよるが。多くのユダヤ人は、トロツキーに共感を覚
えるだろう。知識人たちは、誰も知らない世界を救いたいという願望に燃
え、トロツキーを、世界を社会的・経済的な楽園に導くために召集された
ある種の救世主として想像しようとする。しかし、一般の人は、トロツ
キーを判断する前によく考えるべきである。というのも、マスコミが彼に
ついて書いていることと、現実の彼との間には、大きな矛盾があるからで
ある。
トロツキーが権力の頂点に立っていた時代にロシアで赤のコミッサール
(人民委員・政治将校)を務めていた私は、この男について言うべきことが
あると断言する。人類史上最も悪質な犯罪者であるこの男には、羞恥心や
後悔の念は全く存在しない。
第1章
誰もがトロツキーの存在を知ったのは、主に1917年にロシアに突然現
れ、「レーニンの最も親しい友人であり、仲間である」と自己紹介した時
であった。1917年以前にトロツキーを知っていた専門家はほとんどいない。
トロツキーの父親の財産は、ヘルソン近郊のヤニフカにあった。若き日の
ブロンシュタインは、大学への進学を望まず、ニコラエフ市の革命サーク
ルに参加するようになった。
当時のロシアでは、プロテスタントの地下組織が数多く存在し、正教会
はそれと闘っていた。若きブロンシュタインはこれらのサークルに潜入
し、彼らの宗教的不満を利用して反政府感情を煽ったのである。このよう
に、若いユダヤ人がキリスト教を破壊的に利用した典型的な例である。
やがて若き日のブロンシュタインは逮捕され、シベリアに追放された。
しかし、ユダヤ人の若い妻や国家の同志たちの助けを借りて脱出し、西欧
に身を寄せたのである。妻と2人の娘はシベリアに残った。それ以来、ト
ロツキーは『自伝』の中で「妻とは何気なくしか会わなかった」と語って
いる。
トロツキーの父親は大金持ちの地主で、巨大な製粉所を持っていた。ブ
ロンシュタイン翁は、もちろん農民の労働力ではなく、隣人に略奪的な利
子で金を貸して財を成したのだが、息子が収用者全員の収用を伴う10月革
命を実行したとき、このスローガンは実の父親にも当てはまった。
トロツキー自身も、革命で父はたくさんのものを失ったと言っている。
トロツキーは、父の損失を補うために、ロシアの無制限の独裁者となり、
父をモスクワ近郊の国営繊維工場の所長に任命した。
トロツキーが初めてレーニンに会ったのは、ロンドンだった。なお、ロ
ンドンは理由があって、ロシアに対して陰謀を企てるあらゆる種類の悪人
が集まる場所である。ヘルゼン、カール・マルクス、トロツキー、レーニ
ン、そして同郷のケレンスキーなど、イギリス政府が関係していたわけで
はないらしい。
トロツキーが西欧に到着したとき、彼はロシアからの政治的、主にユダ
ヤ人の移民の一人であった。これらのユダヤ人政治亡命者の群れは、ロン
ドン、パリ、
ジュネーブなどのヨーロッパの首都に押し寄せた。彼らは、すべての政党
の全領域を代表していた。ユダヤ人は、君主主義者、共産主義者、シオニ
ストなど、あらゆる政党の政治家であった。世紀初頭のジュネーブでは、
ある建物で共産主義者の会議が開かれ、しばらくして同じ建物でシオニス
トの会議が開かれるという状況があったが、そこには同じ人がいることが
よくあった。そのため、これらの会議が同時に開催されることはなかった。
1900年から1905年まで、レーニンは公式には社会民主党(当時は共産党
と呼ばれていた)のリーダーであった。しかし、この時、党の主な原動力
となったのはトロツキーであった。その結果、トロツキーとレーニンとの
関係は悪化し、トロツキーは徐々に党から撤退していったのである。その
後、レーニンとトロツキーの関係は、クーデターが成功しても、常に冷静
さを欠いていた。
トロツキーは、ユダヤ人特有の性格のため、ロシア国民の人気者になる
可能性はほとんどないと考えていた。レーニンは、半ユダヤ人であること
を慎重に隠していたので、はるかにチャンスがあった。しかし、これはト
ロツキーがリーダーシップを譲ることを意味するものではなかった。彼は
ただ、自分の強さと狡猾さを最大限に生かすことにした。(続く)
(PB生、千葉)