石岡 荘十
「頂門の一針1198号」(5月26日)、内田一ノ輔さまの延命治療についてのお考えに関連して、私の経験と私見をお話したい。
「身体髪膚これ父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始めなり」という
教育を受けた私が、これまでにかすり傷や、腕の骨折などをした経験は
あっても、まさか心の臓にメスを入れる事態、(大動脈弁置換手術)に
遭遇するとは思いもかけなかった。
が、ドクターにインフォームドコンセントを受け、心臓手術以外に延命
の可能性はないと納得し、9年前、99年の2月、心臓手術を受けた。
その詳細については、04年末、文芸春秋社から上梓した。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9978925880
土壇場に追い込まれて考えたのは、
・手術がうまくいけばラッキー!
・手術が100パーセント成功する保障がない以上、失敗して一巻の終わりになればそれも仕様がない
問題は、重度の合併症に襲われ瀕死の状態ではあっても、正確に自分の
考えを意思表示出来ない状態に陥ったとき、どうするか、だ。
家族は、内田さんが仰るように<1分1秒でも長く生きていてほしい、息
をしていてほしいと>願うだろうととりあえず自惚れてはみたが、<救
命・回復の見込みがなく、臨終を避けられないが、延命治療によって生
き続けている患者を持つ家族の感情の頃合>の見極めを家族に押し付け
るのは、いかにも可哀相だと思った。
何ヶ月か何年か植物状態にあった患者が、奇跡的に意識を回復した症例
がないわけではないが、ここで、奇跡的な可能性に期待して医師や家族
に治療をやめる「阿吽の呼吸」「暗黙の了解」を求めるのではなく、自
らの人生と命の灯火は自らの意思で吹き消そうと決めた。
「自力呼吸ができなくなった、と医者が判断したら躊躇なく、延命治療、
つまり薬物投与、化学療法、人工透析、人工呼吸器、輸血、栄養水分補
給をやめてくれ」
手術の朝、こう書いた紙を妻に渡して、「いざとなったらこの紙を医者
に見せなさい」と言い遺してストレッチャーで手術室に向かった。
後に聞いてみれば、私のケースは心臓手術の中でも、難易度”中程度
“で、死ぬの生きるのというような大騒ぎをする症例ではなかったよう
だが、「心臓」と「メス」という単語の取り合わせは、間違いなく、死
ぬかもしれないという危惧を患者に突きつけるものだ。
そこで、延命治療の是非を誰が判断するのか。
内田さんが遭遇したご尊父の臨終の様子は、胸に迫るものがあるが、私
は、お別れのタイミングは、医者や家族に押し付けるべきではない。
まして何を考えているのか分からない役人や“名ばかり議員”、“国民
の代表もどき”が患者の尊厳をこね回して指針・基準をつくろうなどと
いうのは100年早い、僭越極まりないと私は思っている。
“後期”というか“末期”高齢者の自覚があろうとなかろうと、日々、
ゴールが迫っているのは間違いない。
内田さんによれば、<厚生労働省が数年前に行った意識調査では、終末
期の医療に悩みや疑問を感じる医師は8割を超える。延命治療はやめた方
が良い、と考える市民も7割強を占めた>そうだ。
ただ、明日家族を集めて、意思表示を紙にしておくというわけにはいか
ないだろうから、どこからがムダな延命治療なのか、法的、医学的な基
準、<延命治療の明確な指針づくりを急ぐべきである>というご主張に
は賛同する。
仰るとおり、<医療の現場で対応するには、具体的な指針が必要だ。患
者の意思をどのように確認し、病状の判断をするのか。家族にも納得の
いく説明が要る。患者や家族が望んでも、医師が殺人罪に問われかねな
いのでは混乱するばかりだ>。
家族も納得し、医師が殺人罪に問われることなく、人を人らしく送る決
め手はひとつ。自分がどう終わりたいのか、まず家族と、あすにでも話
し合うことだろう。 20080528
2008年06月10日
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