2008年06月20日

◆65歳の想い (続編)

眞邊 峰松

前編の「65歳の想い」の締めくくりを 「残された人生を、できることなら、かく生き貫きたいものである」と綴り、後編に委ねた。 

しかし、実際そう書いてみても、これまでの過ぎ去った人生において、これにほど遠いのが実感ではある。

そこで、これまで読破した文章の中で、この私の「想い」に通じた三篇の文章を、以下紹介したい。 

◆紀野一義氏の文章

「 男というものは、どういう生き方をするものなのか、あなたもよくよく性根をすえて、見据える必要がある。 男なんだから、一生、男でありたい。 いつも第一線の男でありたい。 
くよくよせず、うじうじせず、壮快に、壮大に、せいせいして生きたい。 これぞ男の一生、というような生涯を生きたい。

そうでなくては、成仏できない。 私は死ぬまで男でありたい。 最後の最後まで男であるべきで、もはや男として用をなさなくなってからも生きたいとは、さらさら思わない。 何とも痛快ではないか。 

要するに、自分が、ほんまになることだ。 にせものはいかん。 ペテンもいかん。 てんぷらもいかん。 ほんまもんでなくてはいかん。 男なら、言い訳なんぞせず、手を抜いたりせず、威風堂々と行く。 飯もぱくぱくとやる。 勝ったら勝ったでいい。負けたら負けたらでいい。 

ろくすっぽ殴り合いもせんくせに、相手の悪口ばかり言いまくるけちな日本人にはならんこと。 人間、どうせ生きるのなら、さわやかに、気持よく生きたいものである。 少々だらしないところあれども、大勢の人間が喜んでくれるような存在でありたいものである」。               

◆森本哲郎氏の文章

「 古来、インド人は人生を四期に分けて送ってきた。 第一期は「学習期」。 第二期が「家住期(勤労期)」。 第三期が林住期(ゆったりとした老後を送るために町を離れ、静かな森の中にささやかな住まいを設けて、そこで思索や瞑想の日々を送る)。 最後に「遊行期」(夫婦で聖地を巡礼。なにがしかの貯えがあれば、老後の楽しみの旅行)。
     
自ずから日本人の人生も四期を成しているように思われる。 しかし、私はもっと意識的に、もっと積極的に人生の四期を考えてはどうかと思うのだ。 そうすれば、各期それぞれに生きる目標が与えられるし、人生の設計も容易になろう。 しかも、生活にはっきりとケジメがつく。 現代人の不安は、実は生活にケジメのないところから来ているのだ。 

いつまで働いたら良いのか、老後をどのように暮したらいいのか、何歳ぐらいから老人になるのか、そうしたあいまいな人生行路が人々をいつまでも落ち着かせないのである。 人生にとって何よりも大切なのは、如何に生くべきか、をしっかりと見定めることである。 それに解答を与えるためには、人生に節目を設けなければならない。 

『人の一生は重き荷物を背負いて 遠き道を行くがごとし』と徳川家康は言ったが、そんなふうに人生をだらだらと歩むのは何ともやりきれないではないか。 重い荷を背負って汗水たらしながら生涯を歩み続けねばならないとしたら、ものを静かに考えたり、生活を愉しんだりする暇も無く一生を終えねばならない。 

貧しい時代ならそれは已む得ないことだったのかも知れないが、これからの日本の社会は、一昔前とは比較にならないほど豊かなのである。 私たちはこのへんで、あらためて生き方を学び直すべきではなかろうか。
  
蕪村の句「かぎりある 命のひまや 秋のくれ」 彼はふと絵筆をとめて、秋の夕暮れ、「かぎりある命」に思いを寄せたのである。 私は、人生とは、このように、自分の生き方を噛みしめることだと思う。 どんな人も、そのような命のひまに、自分を見出すのだ。 人生でもっとも大切な時間とは、そうした「命のひま」と言っていいだろう。 だから、私もそんな時間を持とうと努めてきた」。                     
 
◆(再)森本 哲郎氏の文章
「 思えば、年を取るということは、何と難しい行であることか。 すでに老境に入った我が身を省みて、つくづくそう思う。 人生とは、いかに年を取るに懸かっている、と言ってもいいのではなかろうか。
      
老年にとって何より必要なのは、老人としての自覚を持つことだ、と私は思う。 しかし、問題はどのような老年の意識か、ということだ。 誰もが、それを自分で作り上げなければならない。 別言するなら、自分はどのような老人になるかが人生の目的なのである。 何故なら、その向こうには、死があるだけなのだから。
      
では、老年はいつから始まるのか。 それも自分で決めたらいい。 老境とはキケロの言によれば、「精神や肉欲や野心や拮抗や敵意や、その他あらゆる欲望の、例えて言えば、兵役の義務を遂げ果たして、精神独自の境に入り、独自の生活を営む」ことのできるようになった時期である。 

当然、そこには貴重な閑暇があり、静寂があり、平安がある。 これが肉体の衰えを補って余りあるのだ。 老年とは収穫期である。 人生の途上で自分が蒔いてきた種子を自分で刈り取る季節である。 その収穫は「以前に既に贏(か)ち得た幸福を追憶する事と、その幸福を豊かに享有する事」に他ならない。
     
キケロより400余年前に生きた孔子は「五十にして天命を知る」といい、「七十にして、心の欲する所に従えども矩を越えず」と語った。 私は、この二十年こそが人生の真骨頂であり、それ以前は、そのためにあると言ってもいいような気がする。 人生の収穫は、まさにこの段階で、静かに、安らかに、愉しく享受できるはずだからである」。  
  以上





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