2008年07月12日

◆国産泥鰌やーい

                     渡部亮次郎

島根県に伝わる「泥鰌掬い」は水田を動き回る泥鰌をザルで掬い捕る百姓の動作がとてもユーモラスな様に見えたことから生じた民俗舞踊。泥鰌がそれだけ農民に重用されていた事の裏づけでもあろう。

日本でドジョウは以前は各地の水田などから多量に生産,漁獲されたが,第2次大戦後に水銀系農薬の使用が盛んになり,そのため1957(昭和32)年から63(昭和38)年ころまで天然産のドジョウの産額が死滅に近いぐらいに著しく減少した。

そこで各地で農家の副業を兼ねてドジョウの養殖が試みられた。種苗生産の一環としてカエルの脳下垂体ホルモン注射による卵の催熟法が開発されて人工採卵の技術なども進歩した。

一方,稲田などに低毒性の農薬を使用するようになって,天然ドジョウの生産はやや回復した。しかし,現在では生産が消費に追いつかず,韓国から活魚で輸入している。

だが、韓国ドジョウはなぜか国産ドジョウよりも骨が硬く、市場では安く取り引きされている。だから国産泥鰌やーいなのである。しかし、ほぼ死滅したのだから最早無いもの強請(ねだ)りである。

ドジョウは日本では古くから食べられていたはずだが,室町時代になるまで文献に名を見ることができない。上流階級が食べてなかった証拠だろう。

浅井了意の《東海道名所記》を見ると,牛の皮を切って馬糞とかきまぜ,水に浸しておくとドジョウになるという俗説があったようで,こんなことから食用が卑(いや)しまれていたのかもしれない。

ところが江戸時代になると,《雍州府志》(1682)が〈甚味甘美〉,《本朝食鑑》(1697)が〈味最鮮美〉というように,大変美味なものと認められるようになっていた。

食べ方としては,《料理物語》(1643)が〈鰌 汁,すし〉と記しているように,みそ汁やなれ寿司にしていたようである。

ドジョウのなれ寿司は,狂言《末広がり》などを見ても,当時はごく一般的な食べものだったらしいが,間もなく他のなれ寿司ともども姿を消した。

現在,ドジョウ料理で最も好まれているのは「柳川なべ」で,丸のままのドジョウ汁やドジョウ鍋を嗜む人は少なくなっている。

その柳川なべは骨抜きドジョウを使うが,裂いて頭と内臓と骨を除くという調理法に気がついたのは江戸時代も後期に入ってからのことであった。

なお,江戸時代にはドジョウに強精効果があると信じられていたようで,《好色一代男》などの西鶴の作品その他にその例を見ることができる。

ドジョウは高級魚と縁の無い農民にとって動物性食品として重要なものであった。ドジョウを捕るには,夜間灯火を点じて水面を照らし水中に静止しているものをすくい取り,または鋭い針を植えた棒などで突いて捕った。

また,竹を細く割って編んだ筌(うけ)を小流にすえてとる漁法も行われた。私の兄はこの方法で捕る名人だったが私は1匹も捕れなかった。

冬は冬眠状態となって餌(えさ)をほとんど食べないのでやせており、旬(しゅん)は7月ごろとなる。今や地方より東京の下町にある「どぜう屋」の方が便利な事態になった。

また、ドジョウはスズキやヒラメなどの釣り餌(え)としても利用されていたが、最近はすぐれたルアーが出まわるようになったために餌としての利用は減ってしまった。(マイクロソフト「エンカルタ」)

ドジョウは中国、台湾、朝鮮半島にも分布する。

多くのドジョウ料理店などでは「どぜう」と書かれていることもあるが、歴史的仮名遣では「どぢやう」が正しい。(大槻文彦によれば高田与清の松屋日記に「泥鰌、泥津魚の義なるべし」とあるから、「どぢょう」としたという)。

「どぜう」の表記は、江戸時代の商人が、「どぢやう」が四文字で縁起が悪いとして、同音に読める「どぜう」と看板に書くようになったのが始まりといわれている。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

なお,〈柳の下にいつも鰌はおらぬ〉ということわざは,偶然得た幸運を再び同じ方法で得ることができるとは限らないという意味だが,ドジョウの生息する場所が川柳の育っている湿田地域に多かったことから出たものであろう。(平凡社「世界大百科事典」)
 2008・07・07





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